はじめに
1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展
(以上、前号掲載)
2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展
(本号掲載)
(以下、次号掲載)
3「ビルトの体系」
おわりに
2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展
(1) ビルトにもとづく社会的分業関係
ビルトという言葉は、ザミーンダーリー・ビルトのような土地レンテ収取権を意味するだけではなかった。より本源的な用法では、世襲的に定められている範囲の「顧客」に世襲的家業に基づくサーヴィスを提供し、その反対給付を受ける世襲的な権益(資産、家産)がすべてビルトと称されたのである。ウイルソンはこのような意味でのビルトの用法を挙げている。
birtあるいはbrit:ヒンディー語。サンスクリット語の vritti 〔から派生〕。〔中略〕世俗的と宗教的とにかかわらず、ある職に従事することから生じる権利、慣行〔的権利〕、特権。さまざまなカーストによって主張される、ある特定の職に従事する権利。〔例えば〕家庭司祭に対する手当。(注8)
先にも触れたが、ヴリッティvṛttiというサンスクリット語の言葉がブリットbritに変化し、さらにビルトbirtへと、より発音しやすい方へ変化したと考えられる。このことは、北インドにおいて、ヴリッティという言葉が、音韻変化を起こしながら、長く使用され続けてきたことを示している。
前出のチョードゥリーのような地域共同体の首長の職とそれに付随する取り分権(チョードゥラーイー)もビルトと称された。地域共同体は50カ村ぐらいの村々を束ねた上位の地縁共同体で、地域社会の再生産に重要な役割を果たしていた。(注9)
さらに、ウェーバーの前引の一文にあるように、「世襲村長」もビルトをもっていた。コートあるいはムカッダムと呼ばれた村長の職と取り分権(コーティー、ムカッダミー)もビルトだったのである。コーティー、ムカッダミーは、遅くとも16世紀までには売買可能な物件となっていた。1530年の一史料はある村のコーティーが700タンカで売却されたことを示している。(注10)村長職の取り分は実入りの良いものであったから、村落外の者がムカッダミーを購入するといったこともしばしばあった。(注11)
村落共同体のさまざまな職務に従事する手工業者たち(鍛冶屋、大工など)や床屋、洗濯人などのような村職人たち―ウェーバーは彼らを「村落エスタブリッシュメント」Dorf-establishmentと総称している(注12)―もそれぞれのビルトをもっていた。
このように、村落共同体―地域共同体を構成するさまざまな人々は、それぞれのビルトを所有していた。ビルトは村落共同体―地域共同体内の社会的分業関係の土台をなしていたのである。
(2) ウェーバーの「ジャジマーニー関係」論
土地レンテ収取権としてのビルトとは区別される、「村落エスタブリッシュメント」を構成する人々のビルトはジャジマーニーjajmānīとも称された。ジャジマーニーという言葉は仏教やヒンドゥー教において、施主あるいは祭主を意味するサンスクリット語のヤジャマーナyajamāna(転訛してジャジマーンjajmān)という言葉から派生した語であるが、「村落エスタブリッシュメント」を構成する村職人などの世襲的顧客関係を指す言葉として広く用いられていた。
ウェーバーは『ヒンドゥー教と仏教』の各所で、バラモン家庭司祭や大工などの職人が世襲的な「ジャジマーニー関係」jajmani-Beziehung(顧客関係Kundschaft)をもち、それを売却することもできたということを指摘している(Hinduismus und Buddhismus, pp. 63, 103-104, 352)。
顧客関係保護の原則Prinzip des Kundschaftsschutzes、すなわちジャジマーニー関係jajmani-Beziehung確保の原則は、これら村落職人の範囲を越えて、今日でも多くの手工業カーストにおいて強力に実施されている。我々はすでにこのジャジマーニーの保護をバラモンに関して知ったのであるが、〔祭主、施主という言葉から派生した〕この語の意味が示すように、この概念はバラモン・カーストの諸関係に起源を持ち、そして個人的管轄区域≫Sprengel≪とでも訳すべきものである。〔中略〕たとえばチャマール〔不可触民の皮革工カースト〕は、世襲的に特定の諸家族から死んだ家畜を受け取り、彼らに対して靴などに必要とされる皮革を納める。同時に彼の妻は同じ顧客の助産婦である。乞食の諸カーストは、西洋の煙突掃除人のように、(世襲である点が異なるが)特定の乞食区域を持ち、ナーイー〔床屋〕は、自分の世襲の顧客に対して、理髪師、マニキュア師、ペディキュア師、外科医および歯科医であり、バンギー〔不可触民の一カースト〕は特定区域の清掃人である。多くのカーストについて―したがって、ドーム(家僕、乞食)やバンギーについても―顧客関係Kundschaftは譲渡できるし、しばしば婚資〔嫁買金〕の一部であると報告されている。かかる制度が存在する場合には、他人の顧客関係に侵入することは、今日でさえカーストからの追放の理由になる。(Hinduismus und Buddhismus, pp.103-104.深沢宏訳、137頁)
ウェーバーはジャジマーニーに関するこのような知識を、‘Blunt im C. R. 1911 für die United Provinces und Oudh (altklassischer Hinduboden!) p. 223’から得たと注記しているが(Hinduismus und Buddhismus, p.104, n. 2)、この出典表記には誤りがある。正しくは、E.A.H. Blunt, Census of India, 1911, Vol. 15, United Provinces of Agra and Oudh, Part 1, p. 332の以下の記述である。(注13)
(C) ジャジマーニーJajmani―バラモン以下多くのカーストは「ジャジマーニー」jajmani(注1)という言葉で表される慣行をもっている。字義どおりには、ジャジマーンjajmanという言葉は「供犠を行う人」、すなわち、司祭を雇って自分のために供犠を行い、もちろん、供犠に必要なものを司祭に提供する人、を意味する。しかし、〔ジャジマーンという言葉は〕今ではあらゆる種類の顧客を意味する。バラモンのプローヒトpurohitすなわち家庭司祭のジャジマーンは彼の教区民たちであり、教区民たちの誕生祝、入門式、結婚式といった儀式を管掌することが彼の職務である。同様に、チャマール〔皮革工〕、ドーム、ダファーリー、バート〔家系図作り〕、ナーイー〔床屋〕、バンギー〔清掃人〕、バダイー〔大工〕、ローハール〔鍛冶屋〕、これらすべてのカーストがそれぞれのジャジマーンを持ち、ジャジマーンに定められたサーヴィスを提供する代わりに、〔ジャジマーンから〕所定の手当を受け取る。顧客関係は世襲的で、父から子へと受け継がれる。チャマールはジャジマーンから死んだ家畜を受けとり、〔ジャジマーンに〕皮革や靴を提供する。チャマールの妻は同様に彼女自身の顧客関係を持ち、〔顧客=ジャジマーンの家で〕産婆の役割を果たし、結婚式や祝祭などの際に下働きとして働く。ドームのジャジマーニーは物乞い区域begging beatで、その範囲内では、彼だけが乞食をしたり、盗みをしたりすることができる。ダファーリーも物乞い区域を持っている。ダファーリーは乞食をする以外に、悪霊を払い、邪視を無力にする役割を果たさなければならない。ナーイーは顧客の髯をそり、〔顧客の家の〕結婚仲介人となり、ちょっとした外科手術(抜歯、骨接ぎ、できものの切開、等々)を行う。一方、ナーイーの妻は顧客の家で、産後の主婦のために子守を世襲的に行う。バダイー〔大工〕とローハール〔鍛冶屋〕は村々において、犂や砕土機やその他の農耕具を作ったり修理したりする顧客圏を持っている。バンギー〔清掃人〕はある一定の数の家々を顧客としている。ジャガ・サブカーストのバート(注2)は彼等の顧客の巡回家系図作りとして、二、三年毎に顧客の家を訪ねて、家系図を最新の状態にする。
これらの顧客圏は収入の貴重な源泉であり、世襲され、売買することもできる(ドームの物乞い区域やバンギーのジャジマーニーは、しばしば、婚資代わりになる)。このようなものとしての顧客圏は厳密に境界が定められ、同じカースト仲間の顧客圏に侵入すると激しい怒りを買う。多くの場合、カースト・パンチャーヤト〔長老会議〕の主要な職務はこの種の違反に対処することである。ドームは、彼の物乞い区域内で盗みを働いた他のドームを警察に引きを渡すことを躊躇しない。(注3)
注
1. ジャジマーニーはブリトbritあるいはビルトbirtの同義語である。(以下略)
2. (略)
3. もし、ある顧客が彼の家の世襲的なドームあるいはバンギーあるいはバダイーに仕事を頼むのを拒否したらどうなるかという問題がある。その場合、多分彼はボイコットされ、誰も彼のために仕事をしないであろう。(以下略)
上引文中の注1に見られるように、バラモン家庭司祭、バート、チャマール、ドーム、ダファーリー、ナーイー、バンギー、バダイー、ローハールなどの場合、ビルトとジャジマーニーが同義であることは1911年国勢調査(Census of India)の段階ですでに知られていたのである。ウェーバーはこの国勢調査報告書を読んで、ジャジマーニーについての知識を得たのであるから、当然、これらの人々のビルトとジャジマーニーが同義であることも知っていたはずである。
これらの人々のビルトとジャジマーニーが同義語となった経緯は次のように考えられる。ジャジマーニーという言葉は、前述のように、サンスクリット語で祭主(仏教的にいえば、施主)を意味するヤジャマーナという言葉から派生したもので、もともとは、バラモン家庭司祭の顧客関係(ビルト)のみを表す言葉であった。しかし、このジャジマーニーという言葉がしだいに一般化して、チャマールやバンギーなどの顧客関係(ビルト)までジャジマーニーと呼ばれるようになり、結局、これらの人々のビルトとジャジマーニーは同義とみなされるようになっていったのである。ただし、ザミーンダーリー・ビルトなど、土地レンテ収取権としてのビルトがジャジマーニーと表現されることはなかった。ビルトとジャジマーニーが同義だったのは、あくまでも、共同体的分業関係の場においてだったのである。
なお、ブラントは自らが委員長を務めた連合州銀行業調査委員会United Provinces Banking Enquiry Committee, 1929-1930の報告書に依拠して、連合州のある三つの県(district)で、バンギーやマハーブラーフマン(葬式を行うバラモン)などのジャジマーニー80件が抵当に入れられていたことを指摘している。その中の1件はプローヒティー、すなわちバラモン・プローヒト(家庭司祭)のジャジマーニーであった。(注14)このことは、1930年頃になっても、ビルト(ジャジマーニー)が現実的な資産としての価値をもっていたことを示している。
(3) ワイザーのジャジマーニー制度論
W・H・ワイザーが『ヒンドゥー・ジャジマーニー制度』(1936年)(注15)と題された著書で、ジャジマーニー制度という概念を提起したことはよく知られている。その副題には、「ヒンドゥー村落共同体の構成員たちをその職務において相互に結び付ける社会経済的制度」とある。ジャジマーニー制度とは、換言すれば、村落共同体内分業の制度だということである(ただし、村が小さい場合などには、1カ村を越える分業関係もあり得た)。
ワイザーの調査村であるカリームプル村(仮名)は、ガンジス川とジャムナー川に挟まれた、いわゆる両河地方に位置し、以下のような24のカーストから成っていた。(注16)
1. バラモンおよびそれに近似した階層(2カースト)
バラモン(家庭司祭)、バート(家系図作り)
2. クシャトリヤおよびそれに近似した階層(2カースト)
カーヤスタ(書記)、ソーナール(金工)
3. シュードラ階層(12カースト)
マーリー(野菜作り)、カーチー(野菜作り)、ローダー(米作り)、バダイー(大工)、ナーイー〈床屋〉、ダルジー(仕立屋)、クムハール(陶工)、テーリー(油屋)、その他。
4. 被差別民階層(8カースト)
ドービー(洗濯人)、チャマール(皮革工)、バンギー(清掃人)、その他。
ワイザーはこれらの諸カーストの間の関係について、次のようにのべている。
村のそれぞれのカーストは一年のどこかの時期にお互いの間で固定されたサーヴィスの授受を行うことが求められる。〔中略〕〔例えば〕村大工は彼の顧客clientele全体を彼のジャジマーニーあるいはビルトと呼ぶ。これらの言葉は同じ意味である。大工がサーヴィスを提供する個々の家、あるいはその家の家長は大工のジャジマーンと呼ばれる。(注17)
同様に、バラモン家庭司祭(パンディト)、金工、鍛冶屋、床屋などの諸カーストの人々もそれぞれ自分の家の世襲的な顧客をもち、それぞれの顧客の全体が彼の「ジャジマーニー」あるいは「ビルト」と称されていたのである。
このジャジマーニーあるいはビルトが単に世襲的な権益(資産、家産)であっただけではなく、譲渡可能な物件であったことについて、ワイザーは大工を例として、以下のようにのべている。
それぞれの大工は自分自身の顧客を持っている。この顧客関係は慣習によって確立され、世代から世代へと引き継がれる。村が大きい場合には、顧客は村の境界内に限られる。もし村が大きくなかったり、大工家族の成員が村の必要を満たす以上に多い場合には、近隣の大工のいない小村にまで、顧客の範囲が広がる。この顧客関係はひとたび確立されると、大工自身によってしか破棄されえない。彼は彼の諸権利を他の大工に売ることもできる。この顧客関係は世襲的であるのみならず、譲渡可能なのである。(注18)
ワイザーが見た1920-30年代北インドの村落社会では、バラモン家庭司祭、大工などの村職人、その他多くの人々が一定の範囲の顧客を自らの世襲的なジャジマーニーすなわちビルトとしてもち、そのジャジマーニー(ビルト)を物件として売却したり、譲渡することができた。この社会関係は、まさにウェーバーがブラントの国勢調査報告書に基づいて記述している「ジャジマーニー関係」jajmani Beziehungそのものである。
(次号に続く)
※注はまとめて(下)に掲載します。
(「世界史の眼」No.37)