「万国史」における東ヨーロッパII-(4)
南塚信吾

4. 岡本監輔著・中村正直閲『万国史記』内外兵事新聞局、1879年 

版権免許は1878年(明治11年)

 著者の岡本監輔(天保10(1839)年~明治37(1904)年)は、徳島出身で、「小農に生まれる。苦学力行・気宇遠大、その生涯を開拓精神でつらぬいた異色人物である」という。号は韋庵。明治元年(1868年)、樺太奥地探検をおこない、樺太開拓に情熱を傾け、明治初年に函館裁判所判事(樺太開拓使)になって樺太経営に携わった。しかし、明治3年(1870年)、樺太放棄論をひろめた黒田清隆と意見が合わず辞任、東京府第一中学校(現日比谷高校)にて教壇に立った。 この第一中学時代に著したのが、この『万国史記』1879年(明治12年)であった。岡本は、のちに福沢の「脱亜論」とは反対に日清の協力を説き、アジア主義者と呼ばれるようになった。岡本は、この本を漢文で書いていた。それは中国でも読んでもらいたかったからであるという(宮地)。校閲をした中村正直はスマイルの「自助論」の翻訳者であった。

 2005年7月に二松学舎における挟間直樹(京都産業大学)の講演によると、岡本は数回清国へ訪れていて、『万国史記』は清国において30万部以上が坊間に流布したという。また、韓国の玄采『万国史記』は岡本韋庵の書を基に編集したものであるという。1884年には、岡本監輔著、三宅憲章校『万国通典』(集義館)というものも出版されている。

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 『万国史記』の構成は以下のようであった。

巻一 万国全記、亜細亜総説、大日本記
巻二 支那
巻三 印度、波斯、韃靼
巻四 亜西里亜(アッシリア)、巴靭斯坦(パキスタン)、朓尼基(フェニキア)、西里亜(シリア)、亜剌伯(アラビア)、その他アジア
巻五 亜非理駕(アフリカ)総説、厄日多(エジプト)、巴巴黎(ベルベル)、桑給巴(ザンジバル)、達疴美(ダホミー)、そして黒奴、馬達加斯架(マダカスカル)など
巻六 欧羅巴総説、希臘、馬基頓(マケドニア)
巻七 羅馬
巻八 東羅馬、羅馬教宗国(ローマ教皇国)、伊太利、土耳古
巻九、十、十一 仏蘭西
巻十二 西班牙、葡萄牙、荷蘭、比利時(ベルギー)
巻十三、十四 日耳曼
巻十五 瑞西、墺太利、普魯西
巻十六 俄羅斯(ヲロシア)、波蘭、瑞典(スウェーデン)、丁抹(デンマーク)
巻十七、十八 英吉利
巻十九 亜美理駕総説、米利堅(アメリカ)、墨西哥(メキシコ)、秘魯(ぺルー)、巴西(ブラジル)、その他アメリカ
巻二十 阿塞亞尼亞(オセアニア)

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 この『万国史記』も指定教科書ではなかった。漢文で書かれた岡本の『万国史記』は、単なる「翻訳」ではない「万国史」であった。その特徴を整理すると、このようになる。

1) 基本はパーレイ的で、アジアから始めて、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカと回って、オセアニアに戻ってくる方式をとっていた。諸地域の歴史の並列としての「万国史」である。だが、記述はパーレイ自身のものより正確になっている。それらの地域の歴史を地域に即して見ていると言える。

2) パーレイとは違って、「天地開闢」の説はさまざまにあると言って、キリスト的天地創造説は採っていない。脱聖書の「万国史」であった。

3) パーレイと同じく、徹底して古いところから新しいところまでの歴史を縦に述べ、そういう各国史を並べるという方式をとっていた。ただ古代・中世・近世といった時代区分をしていない。

4) アジアは、日本から始めていて、「万国史」の中に日本を組みこもうとしている。日本の歴史は「大日本記」が始まりで、天照大神から天皇の事績を連ねた皇国史が略述され、ついで「附録」として、15-17世紀と1850年代以後の日本と諸外国との交渉史が述べられている。1853年の米利堅人伯爾理(ペルリ)来日から各国との修好条約の締結までが正確に書かれ、そのうえで、世界には様々な政体があり、各国が主権を持って、上下の違いはない。日本は1868年以後天皇のもとで世界に乗り出したのだとしていた(巻1)。

5) 支那(中国)の歴史も王朝史で、最後に「附録」として1790年代以後の欧州勢力との交渉史が置かれている。特に鴉片をめぐっておきた1840年の戦争から、1850-1860年の太平王の戦争までの対外関係が詳しく論じられ、最後に中国は「中華」といって奢っていたが、今は固陋に甘んじ「西人」に遅れている。気力を取りもどさないといけないとしていた(巻2)。
 インドについては、1857-58年の対英「乱」(大反乱)に至るまでの歴史が述べられ、「乱」の鎮圧ののち、インドが英政府の「所轄」となった次第が論じられる。こののち、「印度事務宰相」のもとでインドは鉄道が引かれ、棉花等の産物の産地になっていくという。インド支配が肯定的に評価されている。インドの風俗も述べられ、「以子女為犠牲人死即」(寡婦殉死)という風習も出てくる。この後、ペルシア、アッシリア(バビロン)、パレスチナ(耶蘇)、フェニキア、シリアが出てくる(巻3)。
 その後東アジアに戻って、朝鮮、安南、暹羅(シャム)、緬甸(ビルマ)、阿富汗(アフガニスタン)、西伯利(シベリア)が畧記される。「万国史」でこれらの国(アフガニスタンを除き)の歴史が出てくるのは、これが初めてではないだろうか。とくに朝鮮については、紀元100年頃の高麗から始めて、1860-70年代の仏米の接近、1875年の日本との戦いと講和条規(江華島条約のこと)までを略記している。朝鮮の各「王室」が滅亡するまで史料を公にしないので、その沿革を描くのが難しく、日本や支那の書に依らざるを得ないとしていた。総じて、これら朝鮮以下のアジアの国々は、「皆甘んじて人に屈下する者に非ず」といえども、「古より今に至るまで未だ其の能く自主する者を見ず」。その理由は、地勢のほかに「人」の性格などにあり(巻4)というのであった。

6) 亜非理駕(アフリカ)についても、明治期に出た「万国史」の中では初めて詳しい歴史を論じている。岡本は、アフリカのまとめとして、次のように述べている。アフリカは港湾が少なく、気候も高湿で疫病が多く、土人は無知であると言われが、これは人の「性」に依るのではない。欧州の学者は黒人の才質は白人と同じではないと言う。だがそうではなくて、これは知識と教学によって乗り越えられるものである。欧州人は売奴は禁止したが、黒人子弟を教育したということはまだ聞いていない。このように述べて、欧州人を批判していた(巻5)。

7) 全体として、アジア主義からのユニークな「万国史」であった。アジア諸国についてはそれぞれの弱さを指摘し、西人に対抗するためには、各国がその弱さを克服していかねばならないと主張していた。一方、ヨーロッパ列強については、その文明が至上であるとはとらえず、時には批判的な見方をしていることが注目される。そして、世界全体の動きを、主権を持った国々の冷徹な利害の交錯する場であるとみていたようである。

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 では、ヨーロッパ東部の歴史はどのように書かれていたのだろうか。欧羅巴は巻六から十八までで論じられている。総説以下、希臘、馬基頓(マケドニア)、羅馬、東羅馬、羅馬教宗国(ローマ教皇国)、伊太利、土耳古、仏蘭西、西班牙、葡萄牙、荷蘭、比利時(ベルギー)、日耳曼、瑞西、墺太利、普魯西、俄羅斯(ロシア)、波蘭、瑞典(スウェーデン)、丁抹(デンマーク)、英吉利と続くのである。その中で東ヨーロッパについての記述を見てみよう。

≪希臘≫
 欧羅巴総説に次いで、希臘の歴史が、古代から希臘帝国(ビザンツ帝国)をへて1820年代における独立までタテに論じられる。ギリシアの独立に関しては、そのきっかけとなったのが、「希的里亜(ヘチリア)」(フィリキ・エタリアのこと)という「一社」であったことを指摘し、独立戦争においても「国人(国民)」の力を評価している。しかし、結局は英仏ロの列強の支援、つまり各国の冷徹な利害を重視していた(巻6)。

≪土耳古≫
 土耳古の歴史が、一貫した通史として描かれている。紀元600年頃に始まり、961年におけるカズナ朝の成立、1032年?にセルジュク家が支配したこと、1300年代にモンゴルに従属したこと、1293年?にオスマン家が国を建て、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、1520年代のハンガリーとオーストリア攻撃のこと、1687年のウイーン攻撃の失敗のこと、1770年代から1850年代の露土戦争のことなど、支配の構造も含めて、「トルコ」の一貫した歴史を描いている。多少とも年代のずれはあるが、パーレイよりもしっかりとしたトルコ史になっていた。この「トルコ史」との関係で、ハンガリーやポーランドの歴史が触れられることになった。たとえば、1520年代と80年代のハンガリーからウイーンへのオスマン軍の侵攻が述べられている(巻8)。

≪波蘭≫
 興味深いのは、ポーランド史について、独自に詳しい記述をしていることである。「俄羅斯(ヲロシャ)記」の後に置かれた「波蘭記」では、とくに1772年、1793年、1795年のポーランド分割の過程、ポーランド国家の消滅後の1830年にフランス革命を機に起こったポーランド人の蜂起、1863年のポーランド蜂起が、詳細に記述されている。特に蜂起に際しては、「自由」のための社会改革の動きに注目している。最後に、ポーランドが分割されて国がなくなったについては、「公法」がまだ行き渡っていないこと、「隣邦公伯」が手をこまねいて助けに行かなかったことを憤っている。「万国史」においては一般にポーランド史への関心は高いのであるが、ここでは他の「万国史」以上に列強への批判がなされている(巻16)。

≪匈牙利≫
 墺地利の歴史は、ほとんどが1848年の「乱」から1867年に「並立帝国」ができるまでの過程に充てられている。それは匈牙利との関係で書かれている。匈牙利自体の歴史は、ポーランドに比べて、極めて限られた記述であるが、土耳古の部と墺太利の部で述べられているわけである。ここでは、48年革命を、王侯君主間の政権争いとしてのみではなく、「府民」、「国人」、「書生」などの動きを交えて論じている。それは「暴民」、「不逞の徒」、「乱民」といった観念をも引き出していたが、権力と民衆の関係を意識したダイナミックな記述であった。明治10年に完成した箕作『万国新史』における48年革命論に習っていると思われるが、それよりは深まっている部分と、事実関係を誤っている部分とがあった。
 例えば、1848年の革命はこう書かれている。「1848年3月、仏蘭西革命の報維也納に達す。府民之に倣わんと欲し、広く起こり、乱を作す。」オーストリアの支配を受けていたイタリアでも、民が乱を起こした。オーストリアの「帝」は、「国人」に約して新法をたてたが、「国人」服せず。そこで皇帝はインスブルックに脱出、ウイーンは「書生及び暴民」の「淵藪」となる。さらに、ボヘミアでは7月に、スラーヴ人がプラーグを砲撃してこれを奪い、新に政府をたてて、ウイーンの「乱民」を助けようとした。同月に「国人」がウイーンに大勢集まった。このため8月に皇帝はついにシェーンブルンに都を移した。今日でいえば、明確に権力と民衆の関係で論じられている。
 岡本は、1867年のオーストリアとハンガリーの「妥協(アウスグライヒ)」の結果として成立した二重君主制に早くも注目し、これを「並立帝国」として記述している。オーストリアの帝をハンガリーの王にし、共通の執政局、共通の議院をおいて、二国を「聯合」したもので、これによって両国積年の怨みは「氷解」したという。これに注目しているのは、明治期において岡本が最初であろう。間もなく久米邦武『米欧回覧実記』明治11年(1878年)が注目することになる(巻15)。
 よく見ると、1848年におけるチェコやハンガリーの位置づけはおかしい。「7月にスラーヴ人がプラーグを砲撃し・・・」は間違いである。ハンガリー人は「帝を推して首領となし」たとか、皇帝はハンガリー人に「自主政府」を立てることを許したなどというのも間違いである。箕作『万国新史』に習ったと思われるが、箕作はこういう誤りは犯していない。しかし、そういうことが問題になるほど、詳しい歴史であった。

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 岡本の東ヨーロッパ論においては、「人民」以外に、今日ならば「市民」を意味する「府民」、「国民」を意味する「国人」が使われている。「府民」は箕作『万国新史』にすでに出てきていたが、ともかくここでは、国王や貴族や軍人など権力者だけではない人々からの視線が求められていたわけである。ただし、一方で、人民、府民、国人への視線に対し、「暴民」、「不逞の徒」、「乱民」への不信もある。賢君に導かれる上下貴賤の別のない国というのが岡本の基準であったのではなかろうか。

 また、フランスの1789年や1848年を「革命」として論じているが、ウィーンでは「乱」になっていて、まだ一貫した用語にはなっていなかった。これに関連して、「府民」らが構成する「社会」という概念はまだできておらず、社会改革という考え方は生まれていなかったようである。

 その他、東ヨーロッパ論では、今から見れば欠かせないはずの「民族」や「階級」という概念は出て来ていない。他では、「民族」という概念と「階級」という概念も新たに登場させているだけに、やや気になる所ではある。ただこの「民族」や「階級」という概念はその後明治期の「万国史」に継続して使われることはなかった。

 諸概念の問題が出て来るほどに、岡本の「万国史」は、東ヨーロッパやアジアに内在しようとしたユニークなものであり、このような世界史認識を岡本はどのようにして獲得したのか、大いに研究の余地があるところである。

(「世界史の眼」No.43)

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