私たちが現時点で目にする惨事はテロを絶対的な悪とする論調により伝えられていることを目にする。しかしこの惨事はただテロという視点だけで語られる事態ではない。イスラエル建国から現在に至るまで圧倒的な抑圧と暴挙の歴史があり、ガザに住まう全ての人々にはそのような悲惨な時が積み重ねられてきたことを見ていく必要がある。
イスラエルは1949年に国連に加盟して以来、遵守しなければならない国際法と人権規約に違反して占領と抑圧を続けてきた。法に基づいた秩序と平和を維持する責務を負っている国際社会が黙認し、イスラエルはアメリカをはじめ英・仏・独など西側主要国の支持を得て圧倒的な軍事力を背景に暴政の限りを尽くしてきた。
建国直後から領土拡大をめざしたイスラエルは、1948年第一次中東戦争、1955年第二次中東戦争、1967年第三次中東戦争ごとにアラブ領土を占領し、停戦後は占領地撤退を定めている国際法に違反して76年間にわたり占領地を自国領土に取り込み続けてきた。
イスラエルは2007年以来占領地ガザを16年間封鎖して「天井のない牢獄」の状態に追いやり、住民200万人(2023年230万人)を閉じ込め、医薬品、食料、その他多くの必需品の搬入を禁止した。ガザ完全封鎖とイスラエル空爆は、2008年暮れ-9年初頭の22日間に1400人、2012年11月の8日間に140人余り、2014年7-8月の51日間に2200人余り、2021年5月の15日間に256人のパレスチナ人を虐殺した。
筆者はパレスチナの地図に沿った「ユダヤ人国家」イスラエルの実現過程を、今回は①②について検討する。
1 英パレスチナ委任統治とユダヤ人入植(地図①参照)
第一次世界大戦中のイギリスは、大英帝国航路が通過するスエズ運河と東地中海の防衛の要であるパレスチナを何としても掌中に収めたかった。そこで注目したのが、19世紀末からユダヤ人財閥のロスチャイルド家に支えられてパレスチナでユダヤ移民の入植と入植地建設に取り組んでいるシオニズム運動である。パレスチナ軍事占領を目前にした1917年、英外相バルフォアはシオニストとの間に「パレスチナにおいてユダヤ人の民族的郷土の建設を認める」と約束した「バルフォア宣言」に調印し、シオニズムを利用してパレスチナをイギリス植民地として開発することに着手した。
1920年、英パレスチナ委任統治がスタートした。英パレスチナ委任統治は、国際連盟が「パレスチナを文明化する」役割をイギリスに任せるという形をとった植民地統治であり、「英パレスチナ委任統治協定」第六条によって、「非ユダヤ住民(ムスリムやキリスト教徒のアラブ住民―藤田)の平和・繁栄を実現し彼らの権利・利益を尊重する」ことをイギリスに義務づけていた。しかし委任統治政府初代高等弁務官のハーバード・サミュエルは熱烈なシオニストであり、バルフォア宣言に基づいてユダヤ移民の入植と土地取得を積極的に支援する反面アラブ住民側には厳しく接し、その圧政ぶりは次のように記録されている。
「高等弁務官は『第一次世界大戦で村々は破壊され、国内は貧しさと閉塞の空気に満ちている』と指摘しながら何の打開策も講じなかった。疲弊したアラブ農民の負担能力を超えた苛酷な税を課し、その一方で安い価格の穀物を大量に輸入して国内作物の価格暴落を招いた上に作物の海外輸出を禁止した。行き詰まった農民は納税のため土地を売るしかなく、ユダヤ人は土地を安値で手に入れた。また政府は旧オスマン帝国銀行の債務取り立てを引き継いで農民に厳しく返済を迫り、その結果多くの土地が没収された……。アラブ住民は、委任統治政府の不当な政策により生活の糧を奪われる危険に陥ったことを痛感している」(Al-Huseinī,Jamāl, Radd al-Lajnati al-Tanfīdhīyah alā Mulāhazāti al-Mandūbi. 1924、140)。
ところでユダヤ人入植者は、何故アラブ住民に対し敵対心を剥き出しにしていったのだろうか。ここで一つ言っておきたいのは、ユダヤ人入植者が入ってくる前に、このアラブの地に住まうユダヤ人は既におり、異教徒の隣人として共存していたのである。しかしロスチャイルドの支援を受けたユダヤ人入植者たちはその圧倒的財力を持ってアラブの地に、突如として近代的で立派なヨーロッパ調の街を築いていったのである。その流れのなかでユダヤ人入植者はアラブを自分たちより劣る野蛮な人々とし、それらは取り除くべき存在として敵視していく。それが表面化したのが、いわゆる「嘆きの壁事件」である。1929年8月23日金曜日、聖地エルサレム聖域ハラム・シェリーフでユダヤ人入植者に占拠されそうだとの危機感から、集団礼拝を終えたアラブ・ムスリム群衆によるユダヤ人襲撃が発生した。これを契機にユダヤ人は「旧約聖書に記された約束の地、自分たちの土地を守る」ためとし武装した入植地自警団(ハガナ、後に独立後のイスラエル正規軍)を組織し、より一層アラブ住民の排斥を強行していくとこととなるのである。
1930年代初頭土地を奪われ追いつめられていくアラブ住民がユダヤ人入植と土地購入の禁止を求める抗議運動を起こすと、イギリスは武力弾圧で臨み、さらに抗議運動がアラブ大反乱(一九三六―三九年)となってパレスチナ全土におよんだ。
パレスチナのアラブ紙「フィラスティーン」1936年6月17日付に載った漫画は、英委任統治下のパレスチナに暮らすアラブ住民が困窮しアラブ大反乱につながっていった過程を描き出している。
漫画は数字に沿って次の様に説明している。①英外相バルフォアが、ユダヤ人に与えたバルフォア宣言(1917年)は、②ユダヤ人入植者をパレスチナにもたらした。英委任統治政府(1920年以降)は、ユダヤ人側にパレスチナ開発特許状を与えて➂パレスチナ公共事業、⑤ヨルダン渓谷湿地帯の土地開発、⑥死海の天然資源開発、⑦ヨルダン川電源開発をまかせ、⑧貿易港とイラク石油からパイプラインで送られてくる石油精製基地を兼ねるハイファ港の完成にユダヤ移民の工業投資を奨励した。ユダヤ人によるパレスチナ近代化が進む一方、⓸アラブ農民は土地から追放されていった。⑨アラブの指導者たちはパレスチナがユダヤ人に奪われていくとなす術もなく口角泡を飛ばしているが、⑩軍人の高等弁務官ワークホープはずらりと軍隊を並べて威圧している。政府にユダヤ人の移民・土地獲得を制限する意思はなく、アラブ民衆の窮状は深まるばかりで打開の道はなく、その間にも国土は刻々とユダヤ人国家の様相を帯び、絶望感ばかりが息苦しい。漫画はそのようにアラブの現状を描いていた。
その結果一九三〇年代初頭、土地を奪われ追いつめられていくアラブ住民がユダヤ人入植と土地購入の禁止を求める抗議運動を起こすと英高等弁務官はこれを武力弾圧した。さらに抗議運動はアラブ大反乱(一九三六―三九年)となってパレスチナ全土におよび、反乱鎮圧は困難となった。
2 「ユダヤ人国家建設予定地」とイギリスの中東石油開発(地図②参照)
アラブの抗議運動がパレスチナ全土に広がってアラブ大反乱となり、これを軍事力で鎮圧できなくなったイギリスは1937年、「パレスチナ委任統治は困難になった」との「ピール報告」(The Peel Commission Report)を国際連盟に提出した。同報告なかに、パレスチナをアラブ・ユダヤ両地区に分断し、ユダヤ人入植者と入植地が集中している諸都市(聖地エルサレムとヤーファは除く)が集まった沿岸部からパレスチナ北部にかけての最も肥沃な地域を「ユダヤ人国家建設予定地」に指定して図示した地図(②地図参照)を挿し込んだ(この地図が47年国連「パレスチナ問題に関する特別委員会」(UNSCOP)の分割案作成の土台となった)。「ピール報告」に挿入された「ユダヤ人国家建設予定地」を書き込んだ「パレスチナ分割」図に激怒したアラブ大反乱は、武装ゲリラ闘争に姿を変え、「ユダヤ人国家建設予定地」のパレスチナ北部を通る石油パイプラインがしばしば爆破された。
ところで、第一次世界大戦後石油が戦闘機・軍艦の燃料として重視され、イラン・ペルシャ湾岸が膨大な石油埋蔵地として一躍脚光を浴びることになった中東はヨーロッパ帝国主義列強の熾烈な領土争いにさらされてきた。第一次世界大戦後の中東は英仏二大帝国の支配地域となり、石油開発先頭に立ったのはイギリスであった。イギリスはイランにおける石油事業の一切をイギリス国営企業の「アングロ・イラン石油会社」(AIOC)に任せ、石油製品を英本国へ送り出した。またイラクなどイギリス支配下の石油開発事業は、イギリスをはじめ国際石油メジャーの共同出資による「イラク石油会社」(IPC)に一任した。IPCのキルクーク油田が生産を開始すると、原油は二本のパイプラインで英・仏支配下の地中海沿岸の精油所に送られ、石油製品となってヨーロッパへ積み出された。
油田、精油所、積出港がパイプラインで有機的に結ばれた石油生産・輸送一体化のシステムの中に英・仏委任統治領を組み込む一方、中東全域をカバーする英軍事体制を築いたイギリスは、東アラブ全域におよぶ石油システムの支配者として君臨し、莫大な利益を手にした。イギリスは、ペルシャ湾岸産油地帯をヨーロッパへの最重要石油供給地として開発し、油田と東地中海の石油積出港を石油パイプラインで結んだことによって、パレスチナが位置する東地中海はヨーロッパへ向かう石油タンカーの重要航路となった。
しかしアラブ大反乱が激化した1937年以降、パレスチナのハイファ港と結ぶ石油パイプラインがしばしば爆破されてIPC石油のヨーロッパへの供給が滞る由々しき事態がもちあがった。英パレスチナ委任統治政府のアラブ弾圧はIPC石油供給システムを脅かしたばかりか、パレスチナにおけるイギリスとシオニストに対する反発を全中東に行きわたらせる結果をもたらした。独・伊との第二次世界大戦戦争が間近に迫る中でアラブ大反乱に動揺したマクドナルド英政府は39年5月、急遽シオニズム支援策を中止してユダヤ新移民の入国とユダヤ人の土地購を禁止する決定(「1939年マクドナルド白書」)を下し、アラブ大反乱の終息と大戦中の反英運動の激化を回避する策を講じた。「ユダヤ人民族国家」建設運動へのイギリスの支援を突如失ったシオニズムの側は、大戦中ナチのユダヤ人絶滅政策を逃れたユダヤ難民の受け入れを拒否するイギリスに対して暴力テロ活動を強めていった。
(続く)
(「世界史の眼」2023.11 特集号3)