奉天からの世界史(上)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、本号)
2 内藤湖南と奉天
 (次号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次々号)

はじめに

 奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)は清朝の始祖ヌルハチが1625年に首府とした古都である。1644年3月、反乱を起こした李自成軍が北京を占拠して明朝を滅ぼしたが、5月清軍が李自成軍を破って北京に入城した。その後清朝が北京を首府とすると、奉天は陪都となったが、ヌルハチおよび第二代太宗ホンタイジの墓陵の地として重要な位置を占め続けた。なかでも太宗ホンタイジの墓陵である昭陵(通称、北陵)は近代になってもいろいろな人たちが訪れて、記述を残している。本稿では、19世紀末から20世紀前半の昭陵(北陵)にかんするいくつかの記述を追いながら、奉天という小さな窓から見える世界史を描いてみたいと思う。なお、以下では北陵という通称を用いる。(戦前の文献からの引用では、旧字体を新字体に、適宜片仮名を平仮名に改めた。また、読みやすくするために、句読点を補い、ルビを付した。)

1 奉天におけるキリスト教布教

(1)キリスト教布教の開始

 満洲、特に奉天は19世紀から20世紀前半、キリスト教の布教が進展した地域のようである。奉天における最初の宣教団はフランスのカトリック宣教団で、1838年に布教活動を開始した。次いで、1876年にスコットランド長老教会の宣教師が何度も奉天を訪れ、時には長期に滞在して布教活動を行った。1883年、スコットランド長老教会から派遣されたドュガルド・クリスティー牧師が奉天に入り、布教活動を本格化させた。クリスティーは外科・内科の医療活動を通して布教を進める伝道医師であった。彼の奉天在住は1922年までの約40年に及んだが、『奉天三十年』(Thirty Years in Moukden, being the experiences and recollections of Dugald Christie, London, 1914. 矢内原忠雄訳、岩波新書、1938年)という著書に1912年までの体験を書き残している。

 クリスティーらスコットランド長老教会の宣教師たちは、奉天で教会や病院を建てる土地を入手するのに苦労したが、最終的には奉天城東南の外壁に沿った「小河沿」(「小さな河のほとり」。図1参照)と呼ばれる地域に敷地を購入することができた。この地について、クリスティーは次のように書いている。

 市街の東南、繁華な通りから遠くない所に、小河沿といふ、流れの緩い、殆んど湖水のやうな静かな河がある。夏にはその岸辺は散歩遊楽の人々の好んで訪れる処であり、多くの茶店でしゃべったり茶を啜ったりして、水に浮かぶ葉の広い美しい紅蓮の花を眺め、奉天第一の良き空気を吸ふのである。我々は幸運にもこの流れを瞰下みおろす高台に二つの屋敷を手に入れた。我々の立場より見て、病院の敷地としてこれ以上に良好なる場所は奉天中になかった。其処にあった建物は病室に利用することとし、全然新しく且つ設備の整った診療所を正面に建てた。病院は1887年(明治二十年)、我々の友人たる満洲族の大官兵部尚書によりて正式に開院せられ、奉天の主だちたる官吏多数が列席した。同じ日に基督キリスト教徒の熱烈なる集会が、約百五十名を容れる待合室で開かれた。病院は百名の男と五十名の女に対する収容能力を有した。(『奉天三十年』上巻、14-15頁)

 この小河沿という地は奉天の東南を東北から南西に流れる渾河こんがの支流である万泉河に沿った地域で、奉天の外壁を作るときに流れを妨げないためにその流入部と流出部だけ外壁を木組みにしたものである。当時、奉天随一の遊楽地、歓楽地として賑わっていた。その小河沿の高台に病院を建てることができたのであるから、スコットランド長老教会宣教団にとって「幸運」なことであったのは確かである。

 その頃の北陵について、クリスティーは次のように書いている。

 市の北方数マイル、広々とした草原を行けば、奉天附近の田舎の単調無味を償うて余りある一地劃――樹間深く埋もれた努爾哈赤ヌルハチの子の墓(北陵)がある。外周は純然たる野生の森であって、迂曲せる小径は野花、密林、空地を縫うて、どこに出られるとも思われない。六月の午後、かしわや樺の生き生きとした若緑に反映して白い樹の花や地に尾を曳く風車の花は驚くべき美を放ち、緑と白とを透かして靑空は一層靑に輝き、日光は小暗き影の中に参差たる光を落す。〔中略〕樹の間がくれに墓を繞らす鮮やかな丹塗の塀が輝き、中なる黄色の瓦の屋根が一寸見える。この矩形を成せる外囲の南に、浮彫に刻んだ白色の大理石の拱門アーチが一つ立って居り、その背後に正門があるがこれは閉ざして誰も入れない。〔後略〕

 多年の間、側門も亦固く閉鎖されて、此処に住む満洲族の警吏の外は何人も此の聖域の内部を窺ふことを得なかった。現在では〔1912年のことか? 引用者〕東と西の門が開かれて居り、一方の門から他方の門迄アーチ形を成した松並木の通路が通って居る。〔後略〕

 閉鎖されて居る南門から石を舗いた広い道が内苑に通じて居り、その両側には大きい石彫の動物が並んで居る。

 内苑の門は通過證パスの所持者か、もしくは墓の監視人を知っている者にでなければひらかれない。〔中略〕すべての最奥の処に、一つの大きな円形の草した土盛りがある。これが即ち〔太宗ホンタイジの〕墓であって、その頂に一本の樹が生えて居る。(『奉天三十年』上巻、23-25頁)

(2)日清戦争と奉天

 スコットランド長老教会宣教団の活動はすべりだしは順調だったのだが、その後数度にわたって大きな困難に直面することになった。その第一は日清戦争(1894~95年)であり、次は義和団事件(1900年)、そして第三には日露戦争(1904~05年)であった。

 1894年7月、豊島沖の海戦で日清戦争が始まると、奉天からも左宝貴将軍に率いられた奉天部隊が陸路、朝鮮に向かった。左宝貴軍は他の四つの清軍部隊と共に平壌の防衛に当たることになった。9月15日、日本軍は平壌を守る清軍に対して総攻撃をかけた。一方、清軍側は各部隊の連絡が取れず、個々バラバラに戦うという状態であった。その中で、左宝貴が銃弾を受けて戦死すると、左宝貴軍は算を乱して平壌から撤退した。清朝の他の部隊も撤退し、翌日には日本軍が平壌を占拠した。

 左宝貴軍敗退の報が奉天に届くと、人々は日本軍の奉天攻撃を恐れて、奉天北方や東北方面の山岳部に避難しようとした。スコットランド長老教会宣教団は南方、遼河が遼東湾に入る河口に近い開港場である「牛荘」(本当の牛荘ではなく、実際には営口。イギリスは1858年の天津条約との関係で、営口を「牛荘」と呼び続けた)に避難することになり、10月28日、クリスティーも奉天を退去して、「牛荘」に向かった。「牛荘」には他の宣教団がいくつもあったので、12月、協力して赤十字病院を開設し、戦傷者の治療などに当たった。1895年3月7日、日本軍は「牛荘」を攻撃し、小規模の市街戦の後、これを占拠した。しかし、それによって宣教団の活動が妨害されるということはなかった。1895年4月17日、日清講和条約が調印され、日清戦争は終結した。これにより、7月、クリスティーらは奉天に戻った。奉天は戦火に見舞われることもなく、各キリスト教団の教会や病院はすべて無事であった。

(3)義和団と奉天

 しかし、1900年の義和団事件では、奉天のキリスト教宣教団やキリスト教徒は多大な被害を被った。1900年6月、義和団は北京に入り、清国兵と共に各国公使館を攻撃、日本公使館の職員1名とドイツ公使が殺害された。6月19日、西太后は義和団を支持し、列強と戦うことを決定、21日、列強に対して宣戦布告した。その頃、奉天にも義和団の首領が何人か来て、団員の徴募を始めた。6月20日、「外国人を口穢く悪罵した貼紙が到るところに貼りだされ、すべての忠良なる支那人民は蹶起して彼らを国土より掃蕩せよ、と呼びかけられた。二十四日が建物焼打の日と定められ、それに助勢した者には賞金が約束された」(『奉天三十年』上巻、182頁)。

 こういう騒然たる情勢の中、6月23日、スコットランド長老教会宣教団はクリスティーら3人を残して、奉天を退去し、25日にはクリスティーらも「牛荘」に退避した。30日、クリスティーは奉天に残っていた中国人医師からの次のような電報を受け取った。「本日四時頃教会が焼かれた。病院と住宅とが燃えつつある。牧師の生死、並に殺された信者数不明」。その翌朝には、「男子病院、婦人病院、住宅、聖書協会の建物、教会、礼拝堂、すべて拳匪〔義和団〕のため灰燼に帰した」という電信があった(『奉天三十年』上巻、187頁)。

 その後、「牛荘」も危険になったため、スコットランド長老教会宣教団は日本、上海、本国(スコットランド)などに四散した。クリスティーは日本に逃れ、2カ月ほど滞在した。

 この頃、奉天では、クリスティーは奉天市外の北陵の森の中に潜んでいるという噂が立った。病院で治療を受けたことがある中国人馬商人で、普段はぺてん師のならず者でとおった男が、さまざまな食料品を一杯籠に入れて、密かに北陵の森の中を一日中クリスティーを探しまわった。外国人を助けたことが知られると殺されるのであるから、彼は命の危険を冒してそうしたのである(『奉天三十年』上巻、73-74頁)。当時、北陵を取り囲むうっそうとした森は身を隠したい人が隠れる絶好の場所と考えられていたのであろう。

 他方、8月14日、日・露・英・独など8カ国連合軍が北京に入城し、翌15日、光緒帝は西太后と共に西安に蒙塵(逃亡)した。これにより、清国政府の義和団に対する対応が一変し、9月7日、義和団鎮圧令が出された。奉天でも、清国軍が義和団の弾圧に当たり、10月1日にはロシア軍も奉天に入って、治安が回復された。しかし、この間に奉天のキリスト教会のすべてが破壊され、多くの中国人キリスト教徒が殺害された。特に、フランスのカトリック宣教団は数百人の中国人信徒とともに頑丈な壁で囲われた教会の敷地に立てこもり、武装して抵抗したが、最後には大砲で攻撃されて、全滅した(『奉天三十年』上巻、191-193頁)。クリスティーは11月9日、肌を刺す寒気の中奉天に帰ったが、とても布教活動や医療活動をできる状態ではなかったので、2、3週間後には「牛荘」に戻り、その後一時スコットランドに帰国した。

(4)日露戦争と奉天

 1904年2月、日露戦争が始まり、5月には日本軍が遼東半島に上陸、満洲に戦火が拡がっていった。8月末には遼陽が主戦場となったが、9月4日、ロシア軍が遼陽から北方に退却し、日本軍が遼陽に入った。10月には遼陽と奉天の間の沙河で日露両軍が対峙し、戦局は膠着状態になった。翌1905年2月末、ロシア軍は奉天南方の日本軍に攻撃をかけようとした。それに対して日本軍が先手を打ってロシア軍陣地を攻撃したことから、奉天会戦と呼ばれる戦闘が始まった。3月1日、日本軍は奉天に総攻撃をかけ始めた。ロシア軍は北陵の森を占領していたので、8日には、北陵の森でも激しい戦闘があった。9日、ロシア軍は余力を残しながらも、戦闘態勢の整備のために、北方の鉄嶺さらにはハルビンへと退却することになった。10日、日本軍が奉天に入った。

 これらの満洲における日露両軍の戦闘は人々の生活を大混乱に陥れた。奉天には周辺の村々から戦火に追われた人々が大量に流入し、物価や家賃が数倍に高騰した。しかし、日露戦争にかんして局外中立の立場をとる清国の行政機関が曲がりなりにも機能していたこともあり、義和団事件の時のような極端な治安の乱れはなかった。

 クリスティーは日露戦争が始まった時、中国の天津に行っていて、すぐには奉天に戻れなかったのであるが、日本軍が遼陽を占領した後の1904年9月9日、混乱するロシア軍の間を縫うようにして、奉天に戻った。クリスティーはこの間の奉天の状況を次のように書いている。

 一九〇五年(明治三十八年)の始めの三箇月間に、我々は一万人以上、政府は三万八千人以上の人を助けた。始めから終り迄の間に、奉天に来た避難民は約九万人と推定せられ、この外新民屯その他に逃げた者も何千人とあった。

 これらの群衆に住居を与えるのは容易な問題ではなかった。しかし、冬に一晩露天で寝ることは多数の者に取りて死を意味したから、最も間に合わせの設備でも感謝を以て迎へられた。我々は、要求せられたら家賃を払うことにして、所有者の逃げ去った一二の大きい空屋敷を占領した。焼け跡となった我々の病院の屋敷内には約七百人を収容した。(『奉天三十年』下巻、252頁)

 当時に於ける奉天の衛生状態が良くなかったことは、想像するに難くないであろう。流行病が頻りにあった。小児の多数ゐる我々の収容所では、麻疹、水痘、猩紅熱が絶え間なくあり、更に天然痘の流行があって多くの小児の生命を奪った。チフス患者のためには別の屋敷を宛てたが、その他の病気に対しては隔離は不可能であった。腸チフスの流行は、それの起り得べきあらゆる条件があったに拘わらず、幸にも見ないですんだ。(『奉天三十年』下巻、254頁)

 日露戦争は奉天にまで戦火を及ぼしたが、奉天のキリスト教医療宣教団は、義和団事件の時とは異なり、日露戦争中も戦後も医療活動を継続することができたのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.46)

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