本書は、1871年に成立したドイツ帝国が帝国主義の時代、どのような過程を経て第一次世界大戦へと至ったのか、それについて考察したものである。テーマそれ自体は(本書「はじめに」で概観されているように)ナチズムへと至る歴史的展開を帝政期から連続的に捉えるべきか否か、それが「特殊」なものであったと言えるのかをめぐって、これまで論争が激しく展開されてきたこともあって、決して目新しいものではない。だが、だからこそ、こうした古典的テーマは近年の研究成果を踏まえてその都度問い直されて然るべきものであり、その意義は今日でも色褪せることはあるまい。
では、本書はどのような視点からこの古典的テーマに挑むのか。本書によれば「帝国主義の時代の全般的な動きを押さえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、当時の国際的・国内的諸課題に立ち向かったさまざまな政治勢力のせめぎあいをとおして考察する」(13頁)という。以下、本書の構成に沿ってその内容を見ていこう。
第1章「帝国主義の国際政治と民衆の政治化」では、はじめにコンゴ問題解決のために開かれたベルリン会議(1884~85年)を起点とする西洋列強による世界分割の動きについて論じられる。帝国主義を「民族抑圧的な世界体制」(17頁)と定義する本書は、列強の抑圧的な植民地統治が現地住民の抵抗を引き起こし、それがさらに列強の軍事行動を招く「暴力の連鎖」(21頁)に注目する。特に現地での抵抗の排除・鎮圧に際しては、互いに対立する列強や諸勢力が「抑圧の共同作業」(40頁)で応じていたこと、さらには他の植民地や現地で動員された人員までもがこれに充てられたという構図があったことを本書は指摘する。
次に、本書の視線は帝国主義時代のヨーロッパに向けられる。そこでは、帝国主義による列強間の対立やバルカン問題の緊迫化を受けて、ハーグ平和会議やドイツでの平和主義運動、さらには第二インターナショナルによる反戦平和運動に見られるような国際的な動きが活発に展開される一方、各国内では国民統合を推進する上で重要となる、独善的で排外主義的な帝国意識やナショナリズムの育成・強化がなされ、大衆を基盤としたさまざまな政治運動や革命運動・民族運動が展開された。本書では女性参政権運動や労働運動にも目配りしながら、この時期に大衆が政治化していったこと、しかしながら、これらの運動は大衆を団結させるどころか逆に分裂をもたらし、それがナショナリズムの圧倒的な力と相まって、第一次世界大戦の勃発を阻止できなかったとりわけ大きな原因だとしている(91頁)。
第2章「ドイツ第二帝政の政治」では、1871年の帝国成立から1910年までのドイツの政治状況を辿りながら、①歴代政権による帝国議会での「ブロック政治」の展開、②国民統合のありよう、③急進的ナショナリズム運動の展開について論じられている。いずれもヴィルヘルム期が話の中心になっている。
①では、帝国宰相ビューロを支えた保守系からリベラル左派に至るまでの諸政党による「ビューロ・ブロック」とその後継政権となったベートマン=ホルヴェークを支えた保守党と中央党による「黒青ブロック」が当時の内政課題であった帝国財政改革問題と(ドイツの議会制民主主義の発展を阻害していた)プロイセン三級選挙法(不平等・間接・公開)改正問題にどのように対処したのかが主な焦点になっている。その際、本書は社会民主党の妥協的な姿勢に注目する。②では、国民国家ドイツにおける民族的少数派であったポーランド人に対する統合と排除、そして彼らの抵抗に焦点が当てられ、このテーマについて長年取り組んできた著者ならではの指摘が目立つ。特にポーランドに対する強圧的な「ドイツ化」政策に対する現地の抵抗(学校ストライキ)が、同じ宗派でありながらナショナリズムの影響を受けた中央党には「国民化」の拒絶と受け止められ、両者の連帯を阻むようになっていったこと(130頁)、さらにはルテニア人労働者の雇用も反ポーランド的観点からなされた(133頁)という指摘はとても読み応えがあった。③では主にオストマルク協会とプロテスタント同盟に焦点が当てられている。
第3章「世界大戦への道とドイツの政治・社会」では、1908年に勃発した青年トルコ人革命とオーストリア=ハンガリーによるボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合を機にバルカン半島情勢が緊迫化していく中でのドイツ国内政治について論じられている。ここで本書が特に注目するのが、1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)がドイツ国内に及ぼした影響である。それは一方では大規模な反戦平和集会を引き起こし、1912年1月の帝国議会選挙では進歩人民党と連携した社会民主党の躍進と、ベートマン=ホルヴェーク政権を支える「黒青ブロック」の敗退を招くなど、国民の政治的不満や戦争への危機意識が大きく表れる形となった。だが他方では、全ドイツ連盟によるクーデタ計画の公表、ナショナリスティックな大衆運動の勢力拡大とさらなる急進化を引き起こし、陸軍増強を求めるドイツ国防協会も結成され、「戦争は不可避である」という風潮が社会に広がり、青少年の軍事組織化も図られ、社会の軍国主義化が一層促進されていったのである。また、本章ではそのようなドイツ社会に広がる「後進性」と「専制」を強調したロシア蔑視・反感があったこと、そして社会民主党もそれとは無縁ではなかったことが指摘されている。
第4章「第一次世界大戦」では、はじめにサライェヴォ事件から開戦、さらには「城内平和」に至る流れについて論じられているのだが、ここで本書は、開戦時に見られた国民の一体感と熱狂が必ずしも全国一律のものではなかったという点を強調する。そこには戦争への心配や不安も見て取れ、このときの国民的感情が「けっして単色ではなく、複雑なひだを帯びて重なり合っていた」(252頁)ことが国内外の先行研究を交えて示されている。また、「城内平和」に至るまでの社会民主党の動向についても注視されている。
次に本書は、世界史的な観点に立って第一次世界大戦の歴史的性格について考察し、それが「帝国主義戦争」「総力戦」「世界戦争」=植民地での戦闘・植民地の人員物資を動員した戦争であったと位置づけ、この戦争によって帝国主義諸国による植民地・従属地域支配体制の動揺・弱体化がもたらされたことを指摘する。さらにここでは、ドイツ革命に至る流れが概観されるだけでなく、ウィルソンの14カ条がボリシェヴィキ・ロシアによる「平和に関する布告」と対置する形で紹介されている。また、本書では(近年の新型コロナウイルスの世界的大流行を意識して)第一次世界大戦末期に世界規模で蔓延した「スペイン風邪」が第一次世界大戦の西部戦線やパリ講和会議に与えた影響について、それがはらむ今日的な課題と結びつける形で論じられている。
このように本書では、世界史的視座から帝国主義時代の全般的な動きをおさえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、増加する労働争議と高揚するナショナリズムを背景に当時の諸課題に立ち向かった様々な政治勢力のせめぎ合いを通じて考察されている。帝国内の民族的マイノリティであったポーランド人問題を通じて、国民統合の不調と急進的・排外主義的ナショナリズム運動が連動すると(たとえ同じ宗派であっても)民衆の分裂を招くことが本書ではよく示されていたように見える。
それに加え、本書の特徴として挙げておきたいのが、同様に「帝国の敵」とされた社会民主党を視角に含めたことで、ナショナリズムの影響を受けて戦争への道を歩んでいくドイツの議会政治の展開と、第二インターナショナルによる国際的な反戦平和運動の展開という、この時期に見られた2つの相反する側面を巧く総合的に捉えている点である。このことは20世紀初頭のドイツが外交的苦境=「包囲」から抜け出すには、あるいは好戦的なナショナリズムの高揚や社会の軍国主義化を背景に、もはや戦争への道しか残されていたわけでは決してなかったということを我々に再確認させてくれよう。
だが、その一方で社会民主党の指導部が1914年8月の大戦勃発に伴う「場内平和」、戦時公債への賛成に連なるような、政府あるいはナショナリズムの動きに対する譲歩的な姿勢をそれまでに幾度となく示してきたこと(1907年の帝国議会選挙での惨敗のときや1913年の軍拡に必要な拠出金法案への賛成など)を著者は見逃さない。戦争と平和に対する社会民主党のこうした二面性を浮き彫りにした点も、本書の特徴であろう。
次に、本書を読んで評者が気になった点を幾つか挙げておきたい。
1点目は、世界史的な視座による帝国主義の説明と、帝政期ドイツの政治状況の説明が上手く対応していない点である。本書は南アフリカ戦争、義和団事件、アメリカのフィリピン支配などを事例に「民族の抑圧的な世界体制」としての帝国主義と「暴力の連鎖」を伴う列強の植民地支配を論じているのだが、それに比してドイツの植民地支配の説明が少なく、バランスが取れていない。例えば、独領南西アフリカ(現ナミビア)におけるヘレロ・ナマの蜂起とその鎮圧については、それがジェノサイドの様相を呈していたことや、それに際して設けられた強制収容所が「絶滅収容所」の性格を有していたことはきちんと言及されているのだが(121、314~315頁)、その説明は1907年1月の帝国議会選挙(いわゆる「ホッテントット選挙」)の背景説明の域を出ず摘要に留まっているのが惜しまれる。本書が帝国主義と絡めて帝政期のドイツ政治を論じるのであれば、やはりドイツの植民地統治の事例も第1章と同程度の密度で論じたほうがよかったのではないか。
2点目は、帝国主義時代の戦争と平和を論じるのであれば、本書が注目するような第二インターナショナルやドイツ平和協会といった「下からの」平和運動に留まらず、政府間による「上からの」平和を求める動きにも(たとえそれが失敗に終わったとしても)目を向けてもよいのではなかろうか。例えば、建艦競争による独英関係の緊張を緩和すべく1912年2月にベルリンに派遣された当時の英陸相ホールデン子爵の試みが挙げられよう。また、サライェヴォ事件から第一次世界大戦勃発までの1ヵ月間(7月危機)は、本書が論じるように開戦に向かって「事態が一直線に進んだわけではない」(242頁)。第二インターナショナルによる反戦平和集会の動きがある一方(254~255頁)、政府レベルでも英外相グレイが英仏伊独4か国協議を提案して外交交渉による解決に最後の望みを託していた(243頁)。本書では7月下旬の皇帝ヴィルヘルム2世の発言には戦争と平和の間で揺れ動きがあったことには言及が見られず、こうした大戦勃発直前に見られた平和に向けた「上からの」最後の動きについては、もう少し説明が欲しいところである。
3点目は、ヴィルヘルム2世の位置づけである。彼の統治スタイルはよく「個人統治」と言われるが、その実は先行研究が示すように人事を活用した側近政治であり、それはときとして帝国宰相をはじめとする指導部の方針と対立することがあったことが知られている。それについては対中・対米政策といった外交政策では幾つか事例が思いつくのだが、今回本書が取り上げた内政面での政治的諸課題ではどうであったのだろうか。
以上の点は、評者の専門とする外交史の視角からのものでしかなく、本書の内容や学術的価値を決して損なうものではない。何故ドイツが第一次世界大戦への道を歩んだのかという古典的テーマについては外交史的アプローチも不可欠だが、この時期のドイツ社会と議会政治が抱えていた問題を把握する上で本書は欠かせない一書であると高く評価できよう。
(「世界史の眼」No.48)