「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―
稲野強

 戦前に活躍した漫画家の岡本一平が、その風采から「鼠の殿様」と綽名した弁護士出身の国会議員がいた。立憲民政党の斎藤隆夫(1870~1949〔明治3~昭和24〕年)である。かれは、鼠どころか、歯に衣着せぬ言論によって軍部の政治介入を舌鋒鋭く批判した「虎」や「狼」であった。その「正論」は、当時、軍拡に燃える軍部や軍部にすり寄る政治家をたじろがせた。

 今日でも、斎藤は「憲政擁護の闘将」(作家・大橋昭夫)として、国会議員の不祥事、体たらく、遵法意識の低さ、世界観の乏しさ、人権意識の低さ、を嘆き、あるいは批判する際にしばしば思い起こされる貴重な存在である。いや、「闘将」どころか、大橋は斎藤を「『立憲主義』の理想を堅持した大正デモクラシーの権化」とまで賛美する。また『北一輝』などの著作で知られる評論家の松本健一は、斉藤隆夫の評伝の副題に「孤高のパトリオット」とつけた。松本は、斎藤を、あるべき政党政治の道を模索することによって軍国主義時代のポピュリズムに抵抗したパトリオットであった、と捉えたのである。一方、丸山眞男も、斎藤を戦前の「親英米派=現状維持派」〔リベラル〕で「有名な聖戦批判演説をした」人物と評価している。

 斉藤は、苦学して弁護士になり、アメリカ・イェール大学留学を経て、兵庫県選出の衆議院議員となった(1912)。かれの経歴を見ると、第一次世界大戦後の1919年1月12日の議会では、当時所属の憲政会を代表して、国民思想に関する質問演説を行ない、民本主義の重要性を説いている。また軍縮の推進者で国際協調派の濱口雄幸首相のもとで内務政務次官に任命され(1929)、次の第二次若槻礼次郎内閣のもとでも法制局長官に就任している(1931)。こうした活動から、斎藤が自由主義者、国際協調主義者、民主主義者とみなされてきたことも当然である。のちに斎藤が、大政翼賛運動(1940)に対して鋭い批判を投げかけたのも、そうした一貫した政治思想の延長線上にあったと言えよう。

 さて、日本は、国際協調路線を歩み始めた1920年代初頭からわずか10年足らずで、中国大陸への野心をむき出しにする軍部の独走を許す状況を生み出し、満州事変(1931)、満州国建国(1932)、国連脱退(1933)へと国際的孤立への道を突き進んだ。

 そうした外交上にも危機的な状況の中で、斎藤は、満州事変以降急速に台頭する軍部の政治介入に真っ向から反対する数々の大演説を帝国議会で行った。それによってかれは日本憲政史上不朽の名を留めることになったのである。かれは多くの名演説を残しているが、その中で特に人口に膾炙しているのは、2・26事件(1936年2月)後における陸軍を中心とする「改革派」を批判した「粛軍に関する質問演説」(いわゆる「粛軍演説」)(1936年5月7日、第69議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」(1938年2月24日、第73議会)〔同法案がナチスの授権案と類似していることを指摘〕、それに「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)(1940年2月3日、第75議会)である。これらの演説は、軍部にひれ伏し、及び腰になっている議員の中にあって、斎藤の存在感を際立たせるものであった。

***

 斎藤は、先に掲げた1940〔昭和15〕年2月3日の「反軍演説」が直接の原因で、同年3月7日に民政党を除名され、本会議でも懲罰動議にかけられ衆議院議員の議席を剥奪された。かれはすでに70歳になっていた。だが、かれは議会での演説の機会を奪われたものの、持ち前の反抗精神を失わなかった。例えば、かれは近衛文麿首相を中心に推進された「新体制運動」〔ファシズム体制の樹立を図る〕批判の書簡を3度も近衛自身に送りつけたのである(同年6月26日、8月9日、9月19日付)。また斎藤の『回顧七十年』によれば、かれは「来年の総選挙〔1942年4月30日〕までには1年2か月ある。次の選挙には、捲土重来必ず最高点をもって当選し、軍部および除名派に一大痛棒を加えねばならぬ。」と、言い放ち、相変わらず意気軒高なところを示していた。

 以下で紹介するのは、斎藤が、そうした折に書き溜めた数十の論考のうちの断片である。その断片を見るだけでも、日本の中国大陸進出に対する斎藤の批判が、余すところなく開陳されていることが分かる。斎藤は、翼賛体制の下で沈黙を強いられ、戦争に引き摺られていく国民の多くが抱く内心忸怩たる思いを代弁する役割を堅守し、自身の生命の危険を顧みることなく、軍部と親軍政治家批判をし続けたのである。 

 さて、件の論考のタイトルは、「天上より見たる世界戦争」(1942年11月)である。これが書かれた時期、すでに日本は中国大陸で軍事的劣勢に立たされており、また太平洋戦争は勃発からほぼ1年経っていた。

 斉藤は、ここで、今日から見ても小気味いいほどの日本の侵略主義・聖戦批判を展開する(以下のカッコ内の頁は、『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』からの引用頁である。また旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた)。

 斉藤は、まず戦争の大義である「聖戦」思想の欺瞞性を暴く。

「天上より今日の世界を見渡して居ると色々の感想が起こる」(169頁)で始まる文章で、斎藤は、

① 戦争の勃発は、「結局は直接に国家を背負って戦争の衝に当る軍部の認識不足と云うことに帰着するのではなかろうか」とし(172頁)、日本の軍部が、敵対国との軍事力の決定的な差を認識していず、いかに世界情勢を見誤ったまま戦争に突き進んだか、を痛烈に批判している。

② 支那事変〔日中戦争〕に関しては、日本が「此の国力を揮って支那〔中国〕を侵略し日本の勢力を植え付けて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱えられて居るものは悉く虚偽仮装の口実に過ぎない」(173頁)、と日本の真の目的がアジア大陸侵略であることを看破する。

③ この戦争を日本は「聖戦と称している」(173頁)が、「聖と言う以上は少なくとも自己を犠牲として他人を救済することを意味するのであるが、凡そ昔から左様な戦争のあるべき訳はない。如何なる場合に於ても戦争は他国を侵略するか其の侵略を防禦するか。是が戦争の本質であって、是れ以外に戦争の本質は絶対にあるべき訳はない」(173頁)。「況んや支那人民は日本に向かって救済などを求めて居ないのみならず、日本の進撃に対して極力抵抗を続けて居る。此の事実を目前に見ながら聖戦などと云うことが口にせらるゝ義理ではない」(174頁)と、斎藤はここで戦争の本質を侵略と見なし、その最大の大義名分である「聖戦思想」を完全に否定し、却って日本に対する中国の「抵抗」の正当化すら容認している。

④ 中国の「抗日政策」に関しては、日本は、「蒋介石の政権を抗日政権と称して彼の抗日政策を非難し、之を戦争の理由として居るが、日本より見れば彼の抗日政策は実に怪しからぬと思われるかしれないが、蒋介石及び支那側から見れば抗日政策は当然のことである。なぜなれば支那は過去数十年の間に於て日本から侵略に侵略を重ねられて領土を取られ償金を取られたことは枚挙すべからざるものがある」(176頁)からだ、と述べる。ここで斎藤は、日清・日露戦争を念頭に置いたうえで被害者である中国が抵抗するのは当然だ、と歴史的経緯に照らしてその正当性を認め、日本の侵略主義を断罪するのである。

⑤ 「〔日本は〕現に日清戦争後の三国干渉にすら憤慨して十年間の臥薪嘗胆、以て復讐戦を決行したではないか。此の意気と勇気があってこそ初めて国家の独立と威信を保つことが出来るのである」(176‐177頁)と述べ、列強の領土的野心を論難する。一見すると彼の主張は、独立自尊の戦いを否定せず、むしろ愛国主義的ですらある。だが、かれは、列強の領土的野心と日本のそれを重ね合わせるのである。「之を思わずして独り蒋介石の抗日政策を否認するのは我が儘勝手の見方であって、世間には通用しない議論である」(177頁)、と。かれは侵略された側の抵抗権を認めることによって、ナショナリズムに捕らわれることなく、客観的な視野に立って世界情勢を見ているのである。

⑥ 「国家競争は正しく斯くの如きものであるから、蒋介石が支那国民に向って排日抗日の精神を打ち込むのは当然のことであって、〔日本が〕これを非難するのは間違って居る」(177頁)。「唯此の戦争を目して聖戦などと称して世上を欺き、何か日本が自国の利益を犠牲に供して仁義の戦争でも始めて居るが如く吹聴する其の偽善が〔自分は〕気に喰わないのである」(177頁)。

 そして、斎藤は日中戦争をこう総括する。

⑦ 「之を要するに大東亜戦争の目的は東亜民族を解放して彼等に独立と自由を与えるにはあらずして、東亜に於ける英米の勢力を駆逐し、之に依って日本が東亜の覇権を握り、東亜民族を隷属せしめて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱道せらるゝものは何れも偽善者の譫言に過ぎない」(185頁)と。

 日本は、日露戦争以来、帝国主義列強からのアジア解放をスローガンにして武力による対外進出を正当化してきた。斎藤は、日本の帝国主義的野心は、列強と何ら変わることなく、日本はアジアの国土を蹂躙し、ただアジアの人々を隷属させるだけだ、と断言するのである。

***

 最近の『朝日新聞』の記事で、論説委員の有田哲文は、「斎藤のような代議士がいたのは戦前日本のデモクラシーが誇っていいことだ。しかし斉藤しかいなかったことは、この国の汚点であろう。」と嘆いている。確かに当時多くの国会議員は軍部と自ら進んで結託し、あるいは軍部になびき、その圧力に屈し、「大政翼賛体制」を支持していた。また国民の大半も、国家の有形無形の暴力に脅え、沈黙を強いられ、体制に順応して行かざるを得なかった。だが、その一方で、表面化されなかったとは言え、国民大衆の民主主義的な運動が、戦時下であっても脈々と続いており、陰から斎藤を励まし、支えていたことは、改めて確認しておく必要がある。

 そのことは、斎藤が、太平洋戦争真っ只中の1942年4月30日に実施された第21回衆議院総選挙〔翼賛選挙〕に非推薦で立候補し、執拗で徹底的な選挙妨害にあいながらも、トップ当選を果たし、議席を回復したことによっても裏付けられていると言えよう。

 戦時体制下において、厳しい思想的・政治的弾圧・監視が日常化している中で、斎藤を支援する民衆がいたことも、また十分「誇っていいこと」である。

〔参考文献〕

草柳大蔵『斎藤隆夫―かく戦えり』文藝春秋、1981
斎藤隆夫『回顧七十年』中公文庫、1987
『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』(復刻版)新人物往来社、1994
松本健一『評伝 斉藤隆夫―孤高のパトリオット』東洋経済新報社、2002
大橋昭夫『斎藤隆夫―立憲政治家の誕生と軌跡』明石書店、2004
松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男回顧談』下、岩波書店、2006
保坂正康『昭和史の教訓』朝日新書、2007
伊藤隆編『斎藤隆夫日記』上・下、中央公論新社、2009
森まゆみ『暗い時代の人々』朝日文庫、2023
有田哲文「日曜に想う」『朝日新聞』朝刊(2024年8月11日付)

(「世界史の眼」No.57)

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