世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―
南塚信吾

2.富山の売薬と薩摩組

(1)富山売薬の始まり

 富山藩は、1639年(寛永16年)に100万石の加賀藩から分封してできた10万石の小藩である。越中国の中の婦負(ねい)郡を中心にした藩で、その東西は加賀藩領であった。

 富山売薬を代表する反魂丹(はんごんたん)が登場した経緯については、諸説があるが、有力なのが1683年(天和3年)に岡山の医師が富山藩主前田正甫(まさとし)に献上した時であるという。そして貞享年代(1684-88年)には富山藩内で一般に使われるようになった。

 反魂丹が全国に行商されるようになるのはなぜか。諸説があるが、もっとも知られているのが、元禄3年(1690年)に藩主正甫が江戸城に参勤していた折、他の大名の腹痛に反魂丹を勧めて腹痛を恢復させたという話である。この話を聞いて、他の大名も自藩への反魂丹の販売を希望したというのである。こうして、遅くとも享保(1716-1735年)年間には、富山売薬は全国的に展開したと言ってよい。富山売薬は、江戸時代にあって、藩の領域を超えて全国的な広い行商活動をしていたのである。富山売薬の行商圏は、まず中国、九州へ、ついで日本海沿岸地域、近畿、奥羽、関東へ、そして松前・蝦夷へ広がった。

 富山の売薬は、得意先に薬を詰めた箱や袋を預けておいて、年に1、2回訪問して、使用した薬の代金を回収し薬の補充を行うという、配置売薬の方式を取っていた(先用後利という)。売薬行商人が行商に出掛ける時期は、とくに決まってはいなかったが、大体は春と(晩)秋に1回ずつ、年2回巡廻していた。これを春廻り、秋廻りと言った。享保以後進展する商品経済の中で、全国の町や農村の住民の間での薬需要が高まり、富山売薬は全国的に受け容れられたのである(以上は、植村 1959 49-50、59-60、64頁;村田 2015年 252頁;幸田 2015 50-52頁)。

 博物館だより (city.toyama.toyama.jp)

 貧乏な富山藩は売薬商人が藩外に出て行商することを積極的に奨励した。藩からの正貨流出を防ぎ、他領からの正貨流入を促進するために、元禄から享保にかけて(1690-1730年ごろ)の時期には、藩外に出て自由に行商をすることを許可する「他領商売勝手」の触れを出していた(幸田 2015 51頁)。

(2)「組」の結成

 売薬が全国的に広がるにつれ、薬売り仲間が売薬地域ごとに集まって、売薬の相互協力や規律を決めあうようになった。そういう集団が「組」であるが、組の結成の理由については、あまり議論がされていない。わずかに村田が、一定の議論をしている。それによると、組の結成の理由は、①他国で行う行商に必要な鑑札をまとめて申請できること、➁行商人の増加や行商圏の拡大に伴い、管理・運営を個別で行うことが難しくなったこと、③富山藩としても、まとまった組織からの上納金を得て、その組織に保護と独占権を与えるという形で行商人を統制できたことが理由としてあげられている。各「組」は、それぞれに「示談定法書」というものを定め、自律統制を強固にしていた。

 かくて、明和期(1764-1772年)ごろに、薬売りは日本全国を行商先ごとに「組」に分けて、関東組、九州組、美濃組などを作った。最初は18組、文化年間(1804-1818年)には20から21組、安政期(1854-60年)には22組ができた。1853年(嘉永6年)におけるその分布は、下の地図の通りである。分布は、関東・畿内など、領国的な支配が強くなく、経済活動の盛んなところに多く、九州・中国・東北など領国的な支配の強いところには多くはなかった。なお、1人脚(ひとりあし)というのは、一年に二回りとして、2000~2500軒くらいの顧客の規模である(植村 1959 166-167頁;村田 2015 251頁;高瀬 2006 39頁)。

出典 植村 1959 67頁

 この「組」の結成は、富山藩が反魂丹(はんごんたん)役所を設けて、薬売り全体を統括しようとしたのと、時期的には一致していたようである。反魂丹役所の設立時期は、二説あって、明和期(1764-72年)か文化・文政期(1804-30年)ごろと言われているが、組は反魂丹役所に届け出て、認めてもらい、藩から特権を授けられたのである(植村 1959 237;村田 2015 249-251頁;幸田 2015 57頁)。一方、「組」は、行商をする当該の藩にたいして冥加・運上を納入して、藩内での売薬行商を求められたのであり、「組」においては組の規約「仲間示談書」があり、行商人の行動を厳しく取り締まっていた(高瀬 1993 39頁;幸田 2015 56―57頁)。

 売薬が広がるにつれ、1760年代には安価な薬種が求められるようになった。薬種の仕入は、仲間組合ならびに富山藩において厳しく制限されていた。富山平野ならびに近隣地域には、売薬の薬種や原料はほとんどなかったため、領外から仕入・調達するしかなかった。外国産の原料薬の仕入は、すべて富山の薬種屋を経由して買入れなければならなかった。宝暦期(1754―61 年)頃になると、藩は薬原料を富山の薬種問屋(茶木屋、中屋、油屋、能登屋など)が指定した仲買人を通して売薬商人に配給した。この薬種問屋が薬原料の運送・調達 ・保管の機能まで持つようなっていた(幸田 2015 52頁)。

 反魂丹の主原料である木香(もっこう)、黄苓(おうごん)、胡黄連(こおうれん)、縮砂(しゅくしゃ)、乳香(にゅうこう)、爵香(じゃこう)、相実(きじっ)、青目白(りゅうのう)、牛黄(ごおう)などは、中国やその南方方面からの輸入品であった(幸田 2015 52頁)。例えば、乳香は中国産、爵香は中央アジア、ヒマラヤ地方や中国に産する爵香鹿から取れ、牛黄は中国のほか、インド、ペルシアなどにいる山羊や牛から取れるものであった(植村 1960 118頁)。つまり、反魂丹は、中国からの薬種から作られると言っても、さらに探ると、広くアジア世界からの薬種をその中に詰め込んでいることになる。

 このような唐薬種は、長崎会所を通じて輸入され、入札商人の手を経て大坂船場の道修町周辺の薬種問屋(に納められた後、富山の薬種屋に運び込まれた。これが正規のルートであった(幸田 2015 52頁)。しかし、このルートで仕入れられる薬種は高価で、富山売薬や薬種商には経営上障害であった。「享保年間以降に進展する商品経済」は町人や農民の薬需要を増加させていたので、より安価な薬種が求められた。したがって薬種の入手にはそういう正規のルート以外のいろいろな道が使われていた(深井2009 189-190頁)。

(3)薩摩組

 上のような「組」の一つに薩摩組もできていた。薩摩組は、1783年(天明3年)には13人脚、1801年(享和1年)に22人脚、1816年(文化13年)に26人脚であった(高瀬 1993 39頁;上原1990 274頁;徳永 2005 148-149頁―植村 1959 166頁は少し違った数字を示している)。秋田組に次いで小さな組であった。九州についてみると、薩摩組のほかに「九州組」もあった。これは薩摩を除いた九州全域を対象とする大きな組であった。薩摩組は小さくても独自の組でなければならなかったわけである。

 薩摩組の売薬を取り仕切ったのは、能登屋(密田)、宮島屋(金森)、鳥羽屋(高桑)などの帳主であった(高瀬 1993 39、42頁)。中心は、宮島屋(金森)と能登屋(密田家)である。このうち密田家は、1662年(寛文2年)に能登から富山へ移住してきて、能登屋と号した。密田家は、売薬を主な業として発展し、得意先は薩摩のほか、紀伊、讃岐、阿波、京都、大坂に広がっていた。同時に密田家は、富山町人としても地位を高め、1690年(元禄3年)には、富山町年寄の仲間入りをしていた。薩摩組に入って、天明年間(1781-89年)には、薩摩組の仲間の内で、三人脚を持って、組の筆頭であった。薩摩藩側との交渉に当たらなければならなかったが、藩権力と直接に交渉するのではなく、町年寄など仲介者を介して交渉した。とくに薩摩藩のたびたびの「差留」に際しては、その解除に動かなければならなかった。1830年代(天保期)には、400石積の中型船「栄久丸」と650石積の大型船「長者丸」を持つことになる(徳田 1992 3頁;富山市教育委員会 2001 61―62頁)。

 薩摩組は大きくなれなかったが、それは薩摩藩が頻繁に「差留」(=藩内での行商活動を禁止すること。差留については、幸田 2015 55―56頁)を行なったことにも関係している。藩では大きな顧客市場は見込まれなかったのであろう。関東や畿内では富山売薬に対する規制が相対的に弱かったが、九州|や奥中園、東北では藩の規制が相対的に強く、運上金や冥加金などによって、独占的に御免場所を許可されることが多かった。反面、そうした地域では「差留」による営業停止を受けることもしばしばであったのである(幸田 2015 54-55頁)。

 だが、薩摩組は他の組よりも富山藩にとって重要な組であった。上述の通り、薬種の入手は南からが中心であったが、正規の長崎―大坂ルートからの入手は高価で数量も限定されていた。だから、薩摩藩が鍵であって、薩摩組が注目されたのである。

3.薩摩藩の政策

(1)薩摩藩と薩摩組

 富山売薬は北九州と中九州へは17世紀中には入っていたようであるが、南の薩摩へはいつごろから入ったかは正確には分からない(高瀬 1993 38頁;上原 1990 273頁)。しかし、18世紀前半の享保年間(1716-36年)には入国していたようである(塩澤 2004 28頁)。徳永は富山売薬の活動が1781年(天明1年)には確認できるという。前述のとおり、1783年(天明3年)には「薩摩組」ができていたのである。薩摩組の「示談定法書」は1818年(文政元年)のものが知られている(徳永 2005 144頁)。薩摩藩は浄土真宗を禁じていたが、越中は浄土真宗の広がった国であった。それゆえ、薩摩組は、「越中の売薬」と自称する事を避け、「越中八尾の売薬」と称して薩摩藩内で商売をした(徳永 2005 146 頁)。

 のちに薩摩藩は琉球を通した進貢貿易からの利益を得るために、薩摩組に蝦夷からの昆布を運ばせることになるが、最初からそうだったのではない。

 薩摩組は、薩摩との輸送は西回り航路を使う北前船で薬を運んで、薩摩に届けた。ただ、当初北前船は、直接鹿児島まで薬を運んだのではなく、富山からの薬は、大坂行の北前船に積まれて、大坂まで運ばれるか、下関で降ろされた。その両地から別の船などで薩摩へ運ばれたのであった(高瀬 1993 42頁;徳永 2005 153-154、162-163頁)。やがてこの方式は変わってくるが、こうしたルートで薩摩藩内に運ばれてくる薬を、売薬商人が引き受けて藩内の町民や農民に家に配置して歩いたのである。薩摩組は薩摩藩の領域内をいくつもの区画(掛場)に分けて売薬をした。鹿児島城下などは宮島家が持ち、國分、都城などは能登屋が持った。

 薩摩藩は出入りが厳しかった。薩摩組はたびたび藩内での商いを「差留」された。薩摩は天明元年―3年(1781-83年)、天明7年―寛政元年(1787―89年),寛政11年―享和元年(1799-1801年)に薩摩組の入国を「差留」している。理由はあまり明確ではないが、正貨を藩外に持ち出させないように、藩財政を悪化させるから、などであった。これに対して、薩摩組は、「差留」を解除させるために金品を差し出した(こういう差留は薩摩に限ったことではなかった)(塩澤 2004 28-31頁)。

 こういう薩摩藩の厳しい政策の下でも薩摩組関係は、薩摩で唐薬種を入手した。富山藩にとって薩摩組の意味は、単に薩摩藩で薬を売るだけではなく、薩摩においてから唐薬種を入手する事でもあった。唐薬種の抜荷ではない入手ルートは、琉球から薩摩へきたものを、定められた量だけ長崎へ持ち込んで検査を受け、それを大坂に運んで、そこから陸路で富山へ持ち込むというものである。だが、量的にも、長崎を経ないという点でも、抜荷で運ばれる唐薬種は多かったようである。琉球から来た唐薬種を薩摩から富山へ運ぶ抜荷ルートはいくつかあった。一つは、薩摩から直接富山ないし新潟へ運ぶルートである。いま一つは、薩摩から長崎を通らないで大坂へ運び、大坂から川船で京都へ移し、京都から陸路の飛脚で富山へ運ぶルートである(深井 2009 220,222頁)。前者の場合はもちろん後者の場合も大阪までは、北前船が運んだのである。

 薩摩方面からの薬種の不法入手は、薬価の引き下げには期待されていたわけであるが、事の性格上、史料は残っていない。抜荷についての史料は極めて少ない。わずかに間接的に知る事が出来るにとどまる。たとえば、1818年(文政元年)の『薩摩組示談定法書』には、仲間が厳守すべき規定として、「彼地において出口不正の薬種は申すに及ばず、ご法度の品々何によらず、小分たりとも仲間一統に買取候儀は、決してあいなり申さず候事」というものがある。これは逆に、「出口不正の薬種」などが買い取られていたことを物語っていると考えられている。また、1821年(文政4年)には、長崎会所より唐物販売に関する嫌疑を受け、薩摩組一統が科料銀の支払いをよぎなくされていた(上原 1990 276-277頁;高瀬 1993 40頁)。

 最もはっきりしているのは、神速丸の事件である。1827年(文政11年)に越中放生津の七兵衛の船である神速丸が昆布を薩摩へ運び、帰りに抜荷の唐薬種を積んで難破するという事件があった。350石の神速丸は箱館で昆布や鰊などを買い付け、西回り航路で下り、下関から長崎沖を廻り、山川で取引をした。帰り荷に唐薬種などを買い、備中玉島で冬囲いをし、翌春に積み荷を越中東岩瀬に運ぶ途中、石州那賀郡(島根県浜田)で難破した。これは抜荷を薩摩・富山まですべて海上で輸送していた北前船の例である。神速丸は、船主や船頭の意思で昆布輸送などを行っていたのではなく、ある富山売薬商から依頼されて輸送を請け負ったものであった。これは薩摩組の依頼ではなかった(深井 2009 72-79,194頁)。

 だが、注意しておきたいのは、この時期、抜荷の唐薬種を購入することを、富山藩の意向もあって、薩摩組は禁じていたことである。だから、組として、組仲間として抜荷の薬種に関わることは自制していた(深井 2009 71頁)。やがてその姿勢は崩れるのだが、それは追って考えることにする。

(2)1832年「差留」解除と昆布

 薩摩藩では薩摩組に対して1826年(文政10年)に、四たび「差留」があった。この「差留」が1832年(天保3年)に解除されたとき、薩摩組は、鹿児島下町年寄の木村喜兵衛の仲介で、年々昆布1万斤と金200両を献納することで解除を得た(高瀬 1993 43―45頁;塩澤 2004 30頁)。この1832年前後という時期は重要で、この時から、薩摩組は新たな役割を演じることになった。

 すなわち、薩摩組は、薩摩藩内での売薬を求められるだけでなく、薩摩藩が琉球の進貢貿易から得た唐薬種を手に入れるために、北前船を駆使して、蝦夷松前からの俵物や昆布を直接薩摩へ運び込む役割を引き受けた。言い換えれば、薩摩組は、北前船を使って、辺境の松前と辺境の薩摩を結び付け、琉球口貿易と松前口貿易とを結びつけ、そうすることによって、東アジアの国際的な貿易ネットワークを成立させたのである(徳永 2005 160-161頁)。

コラム:植松 2023によると、この間1831年に、薩摩藩では、調所笑左衛門が蝦夷の昆布と中国の薬種との取引から一層の利益を得ようと、富山の薩摩組に近づいた。そして、彼らが一層多くの昆布を蝦夷から持ち込むよう説得し、薩摩組の中心である能登屋を動かした。そしてそのための融資をするところまで踏み込んだ。薩摩の船が蝦夷を行き来しては怪しまれるからである。この融資を使って、能登屋は長者丸という専用の船も建造した。こういう薩摩側の動きの中で、1832年の解除がなされたのであろうか。ただし、植松の描くこの間のことは、典拠は不明である。

 かくて、薩摩組にとって、1832年の「差留」解除に際しての約束以後、昆布の確保、輸送が大切な問題となった。組は支度金を渡してまで、昆布輸送の船を確保しようとした(高瀬 1993 54頁;深井 2009 195-196頁)。すでに文化年間(1804-17)に、北前船によって昆布を直接薩摩へ輸送し、帰りに抜荷の唐薬種を仕入れる越中の売薬業者がいたと考えられていて、文政期(1818-29)以降、薩摩の抜荷推進に伴い、彼らの活動が活発になっていたと言われる(深井 2009 86頁)。いまや、この動きが制度化されたのである。

 薩摩組にとって年々昆布1万斤と金200両を献納することは、かなりの負担であったはずであるが、利益もあった。薩摩組は、一万斤を超える昆布を持ち込んで、一万斤は献納したが、それ以外の数万斤は藩に買い取ってもらうことになったからである。それだけではない。実は、これらの船は、薩摩で薬種などを仕入れて、それを大坂でも販売していたと思われる(高瀬 1993 45頁)。北方口の蝦夷地から昆布を琉球口の窓口となる薩摩へ届け、帰りには琉球口から入る唐薬種を薩摩から大阪、あるいは新潟、輪島などにおろし、販売したのである。もちろんそこから越中へ運ばれたのである(深井 2009 221-222頁)。加えて、薩摩組の廻船は、途中の港で買積も行って、北前船の機能も保持していた。そして、天保期(1830年代)には、西回りだけでなく、東回り(太平洋廻り)も駆使するようになった。

 松浦静山が1832年(天保3年)に著した『保辰琉聘録』は、唐薬種が薩摩から新潟へ運ばれていたようすを記録している。「中華産は多く薩船にて越後の新潟其外へも回し、夫より専ら奥地へ送り、或は江都(江戸)へも内々は売出すか、然るゆゑ、都下にても中産存外に下価なる有り」(上原 1990 214-215頁;徳永 2005 192頁は『甲子夜話』としている)。新潟から江戸へも運ばれていたわけである。

 薩摩藩にとって、昆布積載の北前船は薩摩が積極的に招いた領外船であり、昆布購入の需要な手段の一つとなった。だが、北前船は昆布以外にも薩摩にとって役に立った。一つは、情報の入手であり、いま一つは、流通手段であった。日本海を自在に航行する北前船によって、北の松前や、天下の台所である大坂の情報を得、貿易品を流通させることができたのである(徳永 1992 2頁;徳永 2005 162頁)。こうして、北前船は世にいう「薩摩の密貿易」の担い手の一つとなりつつあった(徳永 2005 161頁)。

 薩摩藩と薩摩組の微妙な関係は、1835年以後、薩摩藩における調所の藩政改革と、新潟における薩摩の抜荷摘発を受けて、大きく変わることになる。

参考文献

上原兼善『鎖国と藩貿易ー薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植松三十里『富山売薬薩摩組』H&I 2023年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
植村元覚「近世富山売薬業の仕入れ」『富大経済論集』第6号 1960年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
塩澤明子「近世後期における富山売薬商人と旅先藩―薩摩藩との関係を中心に」『史文』天理大学史学会 2004年3月
高瀬保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年(高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
深井甚三ほか『富山県の歴史』山川出版社 2012年(初版1997年)
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年

(「世界史の眼」No.57)

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南塚信吾
への1件のフィードバック

  1. aisyah のコメント:

    富山藩の薬売りが「組」を形成し、全国で広がっていった過程は、地方経済と自治組織の発展がどのように結びついたかを示す興味深い事例ですね。Telkom University Jakarta

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