3. 新潟抜荷事件と薩摩組
(1) 1836年新潟抜荷事件
薩摩藩の藩政改革を進める調所笑左衛門は、藩の中国貿易に期待をかけた。まずは、長崎での唐物売り捌きである。藩は長崎における唐物売り捌き(長崎商法)の許可を幕府から得ていたが、10年間の認可の期限が切れるのを機に、1834年(天保5年)に幕府にたいして期限の延長を願い出て、1835年には、その許可を1836年から20年間延長してもらった(上原 1990 209-211頁:徳永 2005 120-122頁;上原 2016 229頁)。だが、この審議に当たっては、薩摩藩の抜荷疑惑が幕閣にちらついていて、幕府は、抜荷の探索を進めた。とくに長岡藩の新潟での抜荷が怪しまれた。
そして、1835年(天保6年)3月、幕閣(老中)から関係奉行に示された『風説書』は、①鹿児島はもちろん、薩摩藩内の島々において、唐船が寄港して抜荷が行われている。➁抜荷品は、越後あたりに送り込まれ、売り捌かれている。③抜荷品はまた、琉球国物産に取り混ぜて長崎で売り捌かれている。③薩摩藩は、琉球国の島々において、唐だけでなく、異国船との貿易を沙汰している。④薩摩藩は、時々朝鮮に宛てて貿易船を派遣しているとの疑惑を指摘した。これには真偽両方が含まれていた。とくに④は事実とは認めがたいと言われる。だが、幕府の疑念は強まった。同年4月には勘定奉行土方出雲守の「言上書」は、薩摩の密貿易について、松前からの俵物や昆布が「新潟海老江」近辺において密売されて「直に」薩摩に廻っている場合と、薩摩が自藩の船を「外国之商船」に仕立てて松前江差に差し回して俵物などを買っている場合とがあると報告していた(徳永 2005 166頁)。また、同年7月には、長崎奉行久世広正らも「言上書」を幕府に差出し、長崎会所を悩ましている唐物抜荷が広がるのは、俵物抜荷が背後にあるからであり、俵物出産地を領する松前氏と、唐物抜荷の地を抱える島津氏に、その管理の徹底を求めた(上原 1990 211-212頁;上原 2016 267-280頁)。
のちに老中水野忠邦が御庭番から江戸城内の切手番になっていた川村修就(ながたか)に命じて新潟をめぐる抜荷の実態調査をさせ、1840年(天保11年)に出させた報告書『北越秘説』によると、新潟では、薩摩の船は毎年6隻ほど来ていて、春は薩摩芋、夏は白砂糖、氷砂糖を運んできているが、その下積みとして、薬種や朱などを積み込んできて、公然と交易していた。藩当局もそれを了承し、薩摩船から運上を取り立てていた。この不正の唐物は奥羽や北国に出回っていた。そして最近また怪しげな薩摩船が新潟湊の近くに出没しているというのであった(徳永 2005 205-206頁;中野 2008 10-11頁;上原 2016 271‐272頁)。新潟は、薩摩への俵物・昆布の輸送の蝦夷地との中間点、薩摩からの唐物の輸送の受け入れ地点になるだけでなく、その抜け荷を隣国の越中、加賀、能登、信州、上州のみならず、江戸へも運ぶ供給拠点にもなっていたようなのである(深井 2009 248-252頁)。
新潟湊では、廻船問屋が多数あって、大問屋と小問屋とが分かれ、大問屋も48軒に限定されていた。天保期には48のうち、25軒ほどしか活動していなかったが、その中でも、間瀬屋、小川屋、若狭屋、北国屋、田中屋などが知られている。船主には、喜兵衛や弥五左衛門や十兵衛など多くがいた。また豪商としては、小澤家や斎藤家が大きかった。新潟湊は北前船で栄えていたが、ピークは二つあって、一つは、元禄期で、これは米を大坂へ運ぶ北前船で栄えた時期である。二つ目は、江戸後期で、蝦夷と薩摩を結ぶ北前船の中継地として栄えた。この時期は、「蝦夷地交易と買い積みの時代」とも言われている。(https://actros.sakura.ne.jp/file12.html) 抜荷が関係するのは、この二つ目の時期である。
さて、上の『風説書』や「言上書」が出た1835年の10月、薩摩の船が長岡藩村松浜に遭難する事件が起きた。上述の『北越秘説』によりつつ、事件を見てみよう。船は、薩摩湊浦の八太郎の持ち船で、八太郎が直乗船頭(船主が自ら船頭として乗船)で、雇われの沖船頭源太郎と水主4人が操船していた。だが、他に唐物抜荷仲買人が二人も乗船していた。これは北前船とは言えない薩摩の船であった。遭難船は、幕府の検分を受けることになっていたが、この船は、唐薬種、手織物などのご禁制品を多数積み込んでいたため、積荷を秘匿し、八太郎と仲買人二人も隠れ、通常の遭難と見せかけた。代官の検分も無事に終わり、積荷は、新潟へ運ばれ、そこから、越中、信州などへ売り捌かれた(徳永 2005 200-201頁)。幕府も、1836年末までは、抜荷の事実を知らなかった。
そういう中で、1836年(天保7年)3月、幕府は松前、薩摩藩に俵物、唐物の抜荷取締令を出した。取締令は、松前・蝦夷地から煎海鼠・干鮑・昆布が薩摩・越後に抜け散っていて、長崎に入っていないことを指摘し、抜荷を厳しく取り締まるよう命じたものであった(上原 2016 278-279頁)。
この直後4月には、「どういうきっかけか判然としないが」、幕府は新潟の事件が抜荷に関連していることを把握した。一説では、新潟で売り捌かれた唐物抜荷を仕入れた江戸の商人らから露見したという(中野 2008 7頁)。以後、江戸の評定所で取り調べが行われた。新潟側の抜荷の中心は、廻船問屋の若狭屋、北国屋、田中屋で、品物を購入した商人は、新潟の商人に加え、信州、富山、上州の商人や売薬商がいた。総勢50人余りが審問された。その結果、直接の関係者3名は病死していたが、首謀者は遠島や家財没収、江戸払いなどの刑を受けた。調べは4年後の1839年(天保10年)にようやく終結した(上原 2016 270‐271頁)。「村松浜難船幷唐物一件御裁許書」が関係者の裁きの全体を記録している(徳永 2005 196-200頁)。この時、新潟において抜荷の唐薬種を越中の売薬商も買い付けていたことが発覚し、処罰を受けた(深井 2009 196頁)。そのほか、関係者は信州松本・善光寺、越後高田、五泉、中条町などに広がっていた。しかし、薩摩側の船頭や唐物商人がどのように処分されたのかは不明である(中野 2008 7頁)。
この事件の発覚を踏まえて、1836年6月、幕府は、薩摩藩に対して、1839年年(天保10年)以降長崎商法を停止する旨通告した。これにより薩摩藩は、長崎会所において琉球の進貢貿易を通して得られる唐物を売却する事が出来なくなった。1835年の土方の「言上書」以来幕府内部で議論されてきた件が、ここに決着したのであった(上原 2016 291‐296頁)。
1836年以後の抜荷取り締まりは新潟港を取り締まる長岡藩、蝦夷の松前藩、そして薩摩藩に大きな衝撃を与えただけでなく、越中、信州、上州など関連した藩にも重大な影響を与えた。薩摩藩について言えば、1839年に薩摩の長崎商法で「琉球物産」の売り捌きが禁止されたことは、大きな痛手であった(上原 1990 247-248頁)。越中については、次に見てみよう。
(2) 新潟抜荷事件後の富山
新潟で取引された唐薬種は、越中の売薬商も購入したのであるが、1836年以降幕府の取り締まりが厳しくなると、状況は変わった。新潟での抜荷摘発は、富山の船主や売薬商人たちに衝撃を与え、廻船を取りやめる例も見られた(深井 2009 196頁)。だが、新潟摘発後も薩摩船は、能登の輪島などへ寄港し、輪島の薬種は、富山の茶木屋清兵衛やもろ屋久兵衛が買い付けたという(深井 2009 249-251頁)。
そういうこともあってか、新潟に代わって、抜荷は「越中富山」から出るようになったと言わる。上述の『北越秘説』は、抜荷摘発以後、新潟に代わって富山が拠点となって、北国筋、信州筋、関東筋へ中国からの薬種類、朱などが出回るようになったというのであった(徳永 2005 205-206頁)。だが、深井は、それでも薩摩組が「組として」抜荷をやったとは考えられないと言う。もちろん、個別に抜けに購入の道に走ったものは増えたかもしれない。「北国での越中抜荷船のもたらす抜荷品の重要性が一層高まり、越中抜荷廻船のある程度の増加を招いたのではないかとかんがえられる。」それでも、抜荷をした船は、越中の廻船全体の中ではごく一部にすぎないというのである(深井 2009 86-87頁)。
しかし一部でも、そうした廻船は相当な利益を上げることが出來、じょじょに薩摩組の関与は深まっていった。薩摩組が廻船購入資金を貸与して昆布輸送船を確保しようとしたり、売薬商人自身が廻船を所有したりするようになったのである(深井 2009 196頁)。
その例が、能登屋である。能登屋(密田家)は薩摩組の中心的存在であった。能登屋は1837年(天保8年)には、650石の長者丸、400石の栄久丸という二隻の北前船を所有していた。調所の支援を受けて、能登屋は長者丸という専用船を1833年(天保4年)に完成させていたのである。1838年(天保9年)にはもう一隻栄久丸級の船を購入していたが、この翌年には栄久丸を売却し、加えて長者丸が難破してしまうのである(徳永 1992 3頁;高瀬 2006 56頁;深井 2009 196-208頁)。能登屋は薩摩藩への昆布廻船を行う、中心的な売薬商人ではあったが、船の手配は容易ではなかったようである。能登屋は新潟での抜荷事件には強い関心を持っていたようで、裁きの全容の報告を受けていた(密田家文書)。
長者丸と栄久丸両船の動きは、例えば次のようであった。1837年(天保8年)、栄久丸は船頭宇三郎の下で、越中―松前―薩摩と航海した。4月に越中を出て氷見で筵などを買い付け、8月に松前に着き、松前で昆布、干し鰯、笹目(干し鰊)などを仕入れ、その後薩摩へ4万斤あまりの昆布を運んだ。そして薩摩からの戻りに輪島に寄って、越中に戻った(高瀬 2006 47-49頁;深井 2009 205-206頁)。船頭平四郎の長者丸は、1839年(天保10年)には、以下のような廻船をした。4月に西岩瀬で米を積み、5月に大阪へ着いて富山御蔵役人に米を渡し、大坂で綿、砂糖その他を積んで6月に出発、7月に新潟に着いて、新潟行の荷物を問屋に届け、同じ7月に新潟を出て、8月に松前に到着、大坂からの荷物を降ろした。そして、ここで昆布を「5、6百石」程を積み込み、10月に、「東回り」(太平洋廻り)で薩摩へ向かった(高瀬 2006 49頁;深井 2009 206-207頁)。ただ、長者丸は、蝦夷から昆布を満載して東回りで薩摩へ向かう途中、遭難してしまうのである。これは後述する。
(3) 1840年第二回新潟抜荷事件
長岡藩の新潟では、『北越秘説』が出た直後の1840年(天保11年)11月に、ふたたび抜荷が発覚した。
石見の北前船によって長崎を介さないで新潟港へ運ばれた唐薬種を、新潟の廻船問屋の小川屋などが買い取って販売していたことが露見したのである。ほかに、新潟の商人越中屋、出雲屋も関係していた。そして販路は、会津若松、酒田、鶴岡など東北に広がっていた。1841年(天保12年)になり、まず新潟町奉行所で取り調べが行われ、ついで江戸へ移された。これには、長岡藩の御用商人でもある廻船問屋の津軽屋と当銀屋に嫌疑がかけられたが、結局この二家は無関係であった。判決は1843年(天保14年)に言い渡され、関係者は、財産の部分的没収、江戸追放などの刑を受けた。今回の関係者には、高田や越中や信州のものは含まれず、逆に羽州鶴岡や酒田、奥州若松のものが入っていた。また、今回は、抜荷を運んできた薩摩船のいた長崎のものも処分されていた(中野 2008 12―13頁)。
以上の二件の抜荷事件から分かるように、新潟湊は、薩摩・長崎などから、新潟湊を経て、内陸部の広い範囲にわたる抜荷流通ルートの拠点であった。また事件に関わった町人は、廻船問屋などの大商人から、中小商人、召使にまで及んでいることが分かった。こういう抜荷ルートと抜荷商人を支えていたのは、そのルートで出回る安価で良質な唐物を熱望する人々の存在であった(中野 2008 16頁)。
新潟では、この他にも抜荷の事件があり、幕府は長岡藩が新潟湊の取り締まりをできていないとみなし、ついに1843年(天保14年)に、新潟湊の上知(あげち)令を出した。当初は酒田と新潟の二つの湊が上知されるはずであったが、将軍家慶の裁可に際しては、酒田が外され、新潟だけになった。これにより、新潟湊は幕府直轄となり、薩摩との交易・抜荷はできなくなった(上原 1990 249頁;徳永 2005 203-204頁;中野 2008 16―17頁)。
この新潟抜荷事件では、薩摩藩からは処罰者は出なかった。しかし、薩摩は大きな打撃を受けた。おりから、1840年代前半、アヘン戦争後の時期、琉球、薩摩をめぐる国際関係は急変していた。薩摩藩としては、英仏船の寄港が増えたのでそれに対抗するためにも、また琉球を確保するためにも、藩財政を強化する必要をますます感じていた。そのためには「琉球物産」の販売が必要であった。
その道の一つが長崎商法の復活であった。1839年に長崎商法を停止されてからも、藩は幕府に琉球保護などの名目で説得を重ね、ついに1846年(弘化3年)、長崎における「琉球物産」の販売の禁止が解除された。同年から5年間生糸と絹織物などの販売が許されたのである(上原 1990 250-264頁)。しかし、薩摩藩としては、もっと利益の上がる抜荷のための道を、新潟に代えて見出さねばならなかった。
(4) 1849年―薩摩組の転機
調所の改革が進む薩摩藩は、1844年(弘化1年)(上原は1842年としている)に琉球物産方に御製薬方を設け、その合薬を藩内で安価に病人に配ることとした。御製薬方の製薬掛は薩摩組が親しい鹿児島町年寄の木村与兵衛であった(1846年からは市来四郎)。調所や木村は、多くの薬種を必要とし、それを中国・琉球から得るために一層多くの昆布を必要とするようになった。すでに1846年(弘化3年)に、薩摩組仲間の能登屋の船頭又八が松前から北前船で昆布を鹿児島の能登屋などあてに無料で廻送したという記録がある(徳永 2005 164―165頁)。こういう実績の上に、1847年(弘化4年)、木村与兵衛からの働きかけで、薩摩組仲間の能登屋平蔵、船頭又八が昆布の廻送を引き受けた。又八は1847年、1848年に木村から資金の貸与を受け、蝦夷松前において昆布を仕入れて廻送し、鹿児島藩に昆布一万斤を献上し、残りも同藩で販売した。これは薩摩組としてではなく、能登屋(密田家)個人としての「私的な取引」であった(徳永 1992 8頁;高瀬 2006 56頁;深井 2009 208頁;上原 2016 319-320頁)。
御製薬方は1848年(嘉永1年)から領内に配薬し始めた。このため、藩内で配薬をしていた京都、伊勢などの薬業者は、藩内での活動を「差留」された。しかし、木村に繋がっていた薩摩組仲間は従来通りの活動を認められた。そのお礼として、薩摩組仲間は、あらためて薬や布や昆布などを献上した(上原 1990 277-278頁;徳永 2005 170-171頁;高瀬 2006 45、55頁)。
ただし、薩摩組仲間や組そのものが中国からの薬種の抜荷をしていたのかどうかは記録の上ではわからない。深井は、1849年(嘉永2年)以前に薩摩組が「組として」抜荷の唐薬種購入を行ったとは考えられないという。富山藩前田家が幕府からの処分を恐れていたからだと。ただ、中には、上述の神速丸のように、抜荷を購入・輸送したものはいたかもしれないというのである(深井 2009 86-87頁)。
ところが、「ある時期を契機に薩摩の昆布回漕事業の事業主体に変化が見られ」、「昆布回漕の経営主体として売薬薩摩組が本格的にのりだした」(徳永 1992 7頁;上原 1990 277-278頁も)。つまり、1849年(嘉永2年)、昆布船廻送は能登屋平蔵、船頭又八から、「薩摩組」に引き継がれたのである。薩摩組から木村与兵衛にあてた書簡では、昆布の回漕は「当年より相改仲間共に而引請」ると述べていた。しかしこれは木村与兵衛の主導のもとに進められたものであり、木村から融資も行われるものであった(徳永 2005 169-174頁)。これは富山藩が容認するようになったこともあって、以後1854年まで6年間、薩摩組が「組として」責任をもって松前の昆布を薩摩藩に秘密裏に回漕することになった。又八が薩摩藩から借りていた金は、薩摩組が引き受けた。嘉永段階では、栄福丸と万徳丸、安政期には順風丸と神通丸が昆布を運ぶ北前船であった(高瀬 2006 55-56頁;深井 2009 88、208-209頁)。
1849年までは昆布回漕は薩摩藩が主導していたが、この時点から薩摩組が主導するようになったと言ってよい。薩摩藩が御製薬方を設け、さらに藩内の売薬をも展開するような事態に対し、薩摩組は藩内での営業権を維持するために、薩摩藩が求める昆布回漕事業を強化したのである。1849年以降、船頭又八に代わり船頭松蔵の下で、栄福丸が昆布の回漕を担い、日本海(西回り)航路も太平洋(東回り)航路も使いつつ、薩摩組は松前と薩摩との間を行き来した(徳永 1992 8、10―13頁;徳永 2005 174-179頁)。1849年に調所が死去(自死)したあとも、これは続いた。1849年に、栄福丸は、献上分1万斤の昆布のほか、4万8000斤余りの昆布などを薩摩に運んでいた(深井 2009 261頁)。
1852年(嘉永5年)の書状が、栄福丸船頭松蔵の動きの一例を証言している。これは、富山の鳥羽屋五左衛門らが、木村喜兵衛、木村与兵衛に宛てたものである。それによると、この年4月、松蔵には、蝦夷の松前で昨年通りに昆布を注文し、受取時期の土用までは時間があるので、越後の新潟へ往復し、土用に昆布を受け取って、御地鹿児島へ向かうように申し付けた。9月ごろにはそちらへ着くだろうから、例年のとおり藩に昆布を上納し、残りはこれまで通り「宜しく御執成し」下さるようにというものであった(上原 1990 275-276頁)。
このように富山売薬商人やそれと連携した船頭たちによって海産物が薩摩にもたらされたとすれば、また彼らの手によって唐物薬種が北国へ移出されていたのでもあった(上原 1990 276-277頁)。では、唐物の運搬はどうなっていたか。これはあまりよく分からない。
1849年(嘉永2年)以後は、富山藩の政策の変化もあって、薩摩組は「組として」抜荷を行うようになったわけであるが、1852年(嘉永5年)ごろとされる栄福丸松蔵の記録では、薩摩組は、蝦夷で購入した昆布を直接薩摩へ運んだ後、昆布を献納・売却して、帰荷として唐薬種を購入していた。薩摩組は唐薬種、繊維品、陶磁器などを購入していて、それらを新潟で売却していたという(深井 2009 261-268、279-288頁)。
今のところ、薬種の抜荷につては、これ以上は分からない。
以上のような抜荷は、薩摩組に大きな利益をもたらしていたが、1854年(安政元年)に薩摩藩は昆布船の中止を通告して、薩摩組による薩摩への昆布回漕は終わった。越中は、薬種の入手ルートの一つを断たれたことになった。そして、琉球の中国からの輸入は薩摩の長崎商法の枠内に制限された。
この間、琉球は、薩摩藩の政策に翻弄されてきた。あらためて、琉球の視線から日中貿易を見ておかねばならない。
参考文献
上原兼善『鎖国と藩貿易―薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
高瀬 保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年 (高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
深井甚三ほか『富山県の歴史』山川出版社 2012年(初版1997年)
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年
(「世界史の眼」No.58)