増谷英樹氏の「都市史の方法」をめぐって
吉田伸之

1 増谷さんとの出会い

 吉田といいます。日本近世史を学んでおります。歴史学の分野では全くの畑違いである 増谷さんとの出会いは、歴研ぬきに考えられません。私は、1978~79 年度に始めて歴研委 員となり、この内 79 年度に科学運動部の部長を勤めましたが、この委員会で始めて増谷さ んと出会いました。また、1986~88 年度の三年間、歴研の初代事務局長となり(それまで は会務委員長)、その内 87~88 年度は増谷編集長と一緒でした。この時は中村平治さんが 委員長で、86 年度には、小谷汪之さんが勤める編集長の主導の下、歴研本誌の表紙が長年 の無味乾燥な黄色から、歴研カラーの赤紫(ピンク)へと変貌し、内容も大きく刷新され ました。また新たに研究部長を設け、研究活動を強化するなど、歴研委員会にとって大き な節目の時期にご一緒しました。かくして私は、研究者としてのスタートから「歴研風土」 で育てられ、その中で中村平治さんを始め、小谷さん・南塚信吾さんともども、増谷さん は敬愛する兄上的存在であり続け、ずっと弟のような心性でおりました。因みに、妻ゆり 子(日本近世史)は、1991 年度から 2005 年度まで、東京外語大で同僚として増谷さんの お世話になり、こうしたこともあって、いつも身近に感じてきた次第です。

2 増谷さんのウィーン研究に改めて学ぶ

 さて、19 世紀ヨーロッパ史などには全くの門外漢である私ですが、今から 10 年近く前、 2015 年 7 月 11 日に都市史学会の主催で「増谷英樹氏のウィーン研究に学ぶ」というテー マのワークショップを企画しました。この時私は、「1848 年革命と都市ウィーン」という タイトルで書評報告をしました(『都市史研究』1 号、2015 年、所掲の報告記事を参照)。 そこでは、増谷さんの代表作三点『ビラの中の革命 ウィーン1848年』(東京大学出版会、 1987)、『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』(日本エディタースクール出 版部、1993)、「1848年革命とユダヤの人びと」(『21世紀歴史学の創造6 オルタナテ ィブの歴史学』有志舎、2013)を素材とし、日本近世の都市社会史研究の立場から、雑駁なコメントを試みました。

 今回、10 年前の報告レジュメを見ながら、増谷さんの 1848 年革命期ウィーン都市研究 について述べたことの一部を、以下に文章化してみました。

 増谷さんのウィーン研究の特徴として、第一に、一貫してビラや『オーストリア・ユダ ヤ中央機関紙』など一次史料を重視し、史料によって直接語らせる手法をとり、関連史料 の博捜と、多大な労力を要する解読・分析を精緻に積み重ねることに、研究のオリジナリ ティの源泉があることが注目されます。

 第二に、都市ウィーンを、その社会の構造だけでなく、その基盤としてある空間構造と 深く連関させて把握することが挙げられます。これは、『ビラの中の革命』においてすで に顕著に見られる方法です。そこでは 1 章の出だしから「市壁の内と外」を対蹠的に捉え、市内区、市外区(市壁とリーニエの間)、リーニエ(の外部)からなる三重構造として、 ウィーンの社会=空間構造を把握されています。

 第三は、「女のいる」ウィーン革命史の叙述という、ジェンダー視点とその実践に見ら れる先駆性です。この点は特に、[増谷 1987]3 章「女たちの革命」や[増谷 1993]IV章 で顕著に見いだせます。

 第四は、増谷さんのウィーン革命研究における問題意識の核にあり、通奏低音としてあ るユダヤ(人)問題です。ここでは、民衆レベルの革命運動に内包される反セム主義にま で視点が注がれます。こうして示唆されている視点と方法の射程は長く、ホロコーストを も照射しており、その意味は深く重いといわざるを得ません。

 以上を確認した上で、日本近世における都市史研究を念頭に置きながら、氏の一連の ウィーン研究から浮かび上がる論点を二三指摘します。

 一つは、個別都市史・都市論がもつ限界、という点です。増谷さんの研究に接して痛感 させられたことは、江戸のような個別都市を限定して取り上げる研究の隘路、という点で す。研究対象とする当該の都市自体の構造を分析し、その歴史過程を追うことに終始する ことには限界があると自覚させられました。都市の社会=空間構造を限定的、かつ表層的 に観察するだけでは見えない論点が、厖大に存在することへの気づきでもあります。とり わけ江戸のような巨大都市の場合、こうした都市の背景に見え隠れする広大な裾野の全貌 を把握・認識することは容易でありません。かつてハプスブルク王国の首都であったウィ ーンが、1848 年当時、その都市社会内部や周縁部にどのような要素を内包していたか、増 谷さんの研究はこれを精緻に炙り出しています。その多様性の背景には、ハプスブルク家 支配の変動と解体が首都ウィーンの地位を激変させ、さまざまの諸集団、民族、宗教など を内部や周縁に抱え込んだことがあるのでしょう。つまり都市ウィーンの「都市史」にと って、その歴史的背景や問題群の総体を理解することが不可欠なものだということです。 こうした点は、実は江戸でも同様かと思われます。巨大都市江戸を成り立たせる裾野の広 がりを包括的に把握することのないままの「都市史」は無意味であることを、再認識した ということです。

 二つめは、いわゆる比較史の意味について考えさせられたことです。異なる歴史的背景 をもつ都市を比較する場合、表層的で素朴な比較史にとどまらずに、相互の都市社会のど の局面を取り上げ、いかなる方法で比較するかという問題です。

 そのポイントを端的に述べると、ふつうの市民や民衆レベルの生活・労働・文化の地平 に降り立ってその視座を共有し、異質な対象としての都市を相互に比較しあい、そうする ことで自身が取り組む対象=都市の「自画像」を、他者を鑑として細部にわたり捉え返す ことに意味がある、ということかと思います。都市社会の民衆的深部における相互の比較 であり、こうした手法を比較類型把握などと呼んでおります。

 例えば、『ビラの中の革命』から、1848 年革命期のウィーンと、同時期の嘉永初年頃の 江戸とを比較する軸を挙げてみると、以下のようになろうかと思います。(頁は[増谷 1987])

*借家経営。市外区・リーニエの外部における借家所有者(家主)と、ハウスマイスター の存在が注目されます。この家主(家持)は、ウィーン市の行政の末端機構を担い(p51)、 またその下で借家の管理を担うハウスマイスターは「秘密警察の手先」でもあり「ウィーンの隠れた支配構造」(p65cap.)でもあった、と指摘されています。この点は、江戸町方 の町屋敷における家持層の実態、また家持の代理人としての家守に委ねられる町屋敷経営、 あるいは町共同体の自治と末端の支配機制など、それぞれの相互対比が可能となります。

*職人層の結合組織。手工業者の「強制的同職共同組合」ツンフト、あるいは構成員への 強制力をもたないインヌンク、また職人頭層や雇用を媒介・斡旋する職人宿(p77 以降) などの存在は、当該期江戸の職人仲間や手間宿(職人宿)のありようと相互に参照するこ とができそうです。

*権力体への、都市民の賄機能。「概してウィーン市民は皇帝に忠実であった。もともと 彼らの商売は宮廷に依存している面が強かった」(p109)という指摘から、江戸において、 将軍権力が町方における多様な都市機能―燃料としての薪炭、食糧としての魚・野菜、城 郭や殿舎の普請・修復のための、材木を初めとする物資供給や諸職人の動員―に、多くを 依存したこと(せざるを得なかったこと)との類似性が気になるところです。

*遊所。ウィーンにおける売春問題に触れるビラを取り上る中で、「売春行為を公認し、 空間的に制限を加えた方がよいという議論」が紹介されています(p150)。日本近世に固 有のように言われる遊廓の「理念」とも同質のこの醜悪な議論が、1848 年革命期ウィーン に現出していることに驚かされます。

 こうして、相互に直接交流することはほとんどなかった異なる都市―ヨーロッパと極東 日本の都市―を相互に比較することは、上にみたような都市社会の細部や基底における構 造、人々のありようの特質を把握する中で、はじめてその意味が生ずるように思われます。 こうした試みは、日本とフランスの近世期都市を素材に長期にわたり取り組まれ、いくつ かの成果をもたらしてきました(高澤紀恵・アラン=ティレ・吉田伸之編『パリと江戸 伝 統都市の比較史へ』山川出版社、2009 年ほか)。しかし、ウィーンと江戸の比較は、日仏 間の相互比較では視界に入らなかった点、すなわちヨーロッパとアジアのハブとして位置 するハプスブルク帝国の首都として、非ヨーロッパ系を含む多様な諸民族の複合・坩堝で もあるウィーンと、特に幕末維新期における江戸・東京との比較からは、また異なる論点 を見出す可能性を予感させます。

3 若干の補足

 今回、増谷さんによる一連のウィーン研究を久しぶりに再読し、都市史の方法にとって 学ぶべき点として気づいたことを若干追記します。

 第一は、史料の中に「民衆の声」を聴く、という問題です。『ビラの中の革命』でウィ ーン 1848 年革命史研究の素材として用いられた大量のビラ。また、論考「1848 年革命と ユダヤの人びと」で、基礎史料として用いられた『オーストリア・ユダヤ中央機関紙』。 これらの精緻な読解から、増谷さんは、1848 年革命における多様な当時者の肉声や息吹ま でも甦らせています。これら書き手たちは、大半は当時の知識人層なのでしょうが、その 背後に、厖大な都市民衆の存在があることが浮かび上がってきます。日々の生活に追われ、 貧苦にうちひしがれ、自らの状況や思いを文書・記録に記述する術も余裕も無かった人々 の「声」が、これらビラや新聞の記述に数多く記録、反映されているのではないか。そう した思いで再読しました。歴史の闇からこうした民衆の声を断片でもいいから一つでも多く見出すことは、現代を生きる歴史研究者に課された大切な役割なのだ、ということを改 めて確認した次第です。(吉田「「史料のなかの民衆の声」に耳を澄ます」『ALC REPORT』 復刊 3 号、2022 年、参照)

 第二は、都市における社会=空間構造の分節的把握、という方法についてです。2で述 べたように、『ビラの中の革命』はその冒頭で、舞台となる 19 世紀ウィーンの都市空間の 構造から叙述します。こうして、都市の社会と空間構造が、相互に密接なものとして描か れて行きますが、重要なのは、都市の社会=空間をのっぺらぼうなものとしてではなく、 これを構成する多元的な要素、多核的な特質を、分節的な構造の連鎖として把握しようと する方法です。一見茫漠とした対象である巨大都市を、分節的な諸要素へと腑分けし、そ れぞれの特質を把握した上で、全体像へと再構築する。増谷さんの研究にはそうした方向 性が感じ取れ、これに深く共感する次第です。

 第三は、都市と身分的周縁という視点です。ウィーンの都市社会を構成する、なかでも 市外区やリーニエにおける民衆世界を構成する多様な要素へ注意を払う点が重要かと思い ます。都市プロレタリアート、ユダヤにおける「空気人間」、スラブ、女性たち、これら 周縁的存在への増谷さんの眼差しには、日本近世史における「身分的周縁論」を推進する 担い手の研究者たちと同質のものを感じます。こうした巨大都市と身分的周縁という視点 と方法は、解体期身分社会(初期近代)における都市の構造把握、あるいは特質解明にと ってとりわけ重要かと考えます。

おわりに:

 2の冒頭に記した、2015 年 7 月の都市史学会ワークショップの時であったかと思います が、これに参加された増谷さんは、私の拙い書評報告に丁寧にリプライされたあと、「そ のうち、ウィーンを案内してあげる」と話されました。これまでずっと、そうした機会が 訪れることを念じてまいりましたが、果たせませんでした。無念です。増谷さんの、温か く穏やかなお人柄と、他方に窺える、ウィーンの清濁綯い交ぜの民衆世界に対する強いシ ンパシー、さらには正義ならざるものへの怒り。こうしたものに支えられた増谷さんの歴 史学は、とかく日本列島史に閉じこもりがちなこの私に、世界史への扉を優しく開いてく ださった、という思いでおります。都市ウィーン研究については、もちろん全くの門外漢 である私にも、こうして多くの学びのきっかけを与えていただいたことへの心からの敬意 と深い感謝の念とともに、哀惜の思いで一杯です。増谷さん、ありがとうございました。 合掌。

(「世界史の眼」No.60)

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