北前船のなかには、いくつか広大な太平洋に漂流して、ハワイやアメリカやロシアで世界を体験し、世界についての情報を日本にもたらしたものがいた。その代表の一つが、長者丸である。
以下の漂流の次第は、のちに長者丸の乗組員の一部が日本に帰還した時の聞き取りの記録である『蕃談』と『時規物語』と『漂流人次郎吉物語全』に拠っている。『時規物語』は池田晧編『日本庶民生活史料集成』(第5巻)に収録されている。『蕃談』は池田晧編『日本庶民生活史料集成』(第5巻)に原語の記録が収録されているほか、室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』にも現代語訳で収録されている。
1.越中から蝦夷へ
1838年(天保9年)4月23日(西洋歴で6月15日)、富山古寺町の能登屋兵右衛門(密田家)の所有する北前船・長者丸650石が、越中の加賀藩領にある東岩瀬より出帆した。長者丸は全長14間(25メートル余り)、21反帆で、10人の乗り組みであった。21反帆というのは、細長い帆が21枚繋がれている帆という意味である。
乗組員は、雇われの沖船頭である船頭に、富山木町の吉野家平四郎(50歳くらい)、船のかじ取り役の親司(おやじ)に、加賀藩領射水(いみず)郡の京屋八左衛門(47歳)、同じくかじ取りの表(おもて)に、射水郡放生津(ほうじょうず)の片口屋八左衛門(50歳ぐらい)、荷扱いをする知工(ちく;岡使ともいう)に、新川郡東岩瀬の鍛冶屋太三郎、錨の操作をする片表(かたおもて)に、富山藩領婦負(ねい)郡四方(よかた)の善右衛門、雑用をする追廻(おいまわし)に、射水郡放生津の六兵衛と同放生津の七左衛門と東岩瀬の次郎吉、そして飯炊き担当の炊(かしき)に、四方の五三郎と放生津の金蔵の計10名であった。
長者丸は、富山藩領の港である西岩瀬に廻り、そこで大坂へ運ぶ廻米を500石積んで、4月24日(6月16日)に出帆した。伏木、氷見、七尾、能登の珠洲を通って外海に出、能登半島、加賀、越前の沖を通って、山陰を過ぎ、関門海峡を抜けて、瀬戸内海に入った。そして、5月下旬には大坂に着き、富山御蔵の役人に米を渡し、越後新潟へ運ぶ綿や砂糖を積んで、6月半ばに大坂を出帆した。新潟には7月6日に着き、荷物を問屋唐銀屋に届け、空船にて、7月16日(9月4日)に新潟から出帆した。8月中旬には松前に到着、廻船問屋の上田忠右衛門方に止宿した。一行はここに9月まで逗留した(池田編 1968 14頁;『漂流人次郎吉物語全』7頁)。
2.蝦夷から三陸へ「東回り」
船頭の平四郎は、長者丸が太平洋側を行く「東回り」の航路で「江戸」へ下るはずであることを、松前にいる時に乗組員たちに告げたようである。船主の能登屋(密田家)とはかねて打ち合わせてあったのであろう。ある専門家は、「長者丸の船頭平四郎は船主である能登屋兵右衛門から岩瀬出航前に松前でコンブを積んだら東廻りで薩摩の油津か志布志に行くよう指示されていたようです」と言っている(石森 2012)。これは史料的に確認できないが、大いにあり得えることではある。実は「江戸」にとどまらず「薩摩」まで行く「抜荷」であることは、明言されなかったにせよ、多くの乗組員にはなんとなく分かったのではなかろうか。1832年(天保3年)に薩摩藩による「差留」を解除してもらう代わりに、薩摩藩へ昆布などを献ずることになっており、薩摩組の中心人物である密田家は、少しでも多くの昆布を早く薩摩へ運びたい思いがあった。そのために今回は「東回り」を選択したと考えられる。
しかし、表(おもて)の放生津八左衛門が、「東廻り」は嫌だと言い出して帰村し、下越後岩船郡早田村(現新潟県岩船郡朝日村)の金六に乗り替わった。金六は「東回り」に通じているというので、「道先」を務めることになったのである。船頭の平四郎は売薬あがりで船に詳しくなかったので、この後の航路は金六にかかることになった。
長者丸は、9月下旬ないし10月上旬に箱館に移り、ここでアイヌ労働などによって各地で取られ箱館の商人のもとに集められていた昆布から五六百石を買って船に積み込んで、10月10日(11月26日)ごろ、南部領の田の濱(岩手県船越湾内)へ向けて箱館を出帆した。「東回り」つまり太平洋航路の始まりであった。
ただし、箱館を出る際、港がそう広くもなく風もよくなくて、船同士がぶつかり合い、長者丸に載せていた艀船(はしけ)が壊されてしまった。ようやく10月13、14日ごろに田の濱に到着、ここに14、15日逗留して、現地の大工にはしけの修理を依頼した。また、ここで、4斗俵で30俵の米のうち、20俵を売って、塩鮪(しび=塩漬けマグロ)100本余りを買い付けた。これは他の港で高く売るためである。こうして11月上旬に、仙台領の唐丹(とうに=釜石市唐仁町)湊に向けて出帆し、二日ほどかけて到着した。ここに11月22日まで逗留したが、その間に、近くの弁天島で火事が起きたり、いつもは聞えない鐘の音が聞こえたりして、まわりから気を付けるように言われたが、一行は深く気にも留めなかった。
11月23日(1838年1月8日)は晴れていて、順風が吹いていた。30隻ほどいた船は次々と出帆した。長者丸は、船頭の平四郎が元は売薬商人であったせいで、「船方に疎く」、支払い作業が遅れ、朝8時ごろにようやく出帆した。この唐丹湊は奥行きが深く出口まで4里もあって、外海へ出るのに時間がかかった。外海へ出たところ、10時ごろから突然「大西風」になった。これはこの地方特有の北西季節風であった。これは南部地方では「あかんぼ風」と言われ、海水が赤く見えるといい、これによって沖へ2里も流されると陸地には帰って来れないと言われている西からの強風であった(池田編 1968 15‐16頁;室賀他編 1965 50―51頁;高瀬 1977 49-50頁)。
3.漂流する長者丸
(1)嵐との戦い
11月23日の朝、突然の「あかんぼ風」に当たった長者丸は、激しい嵐のなか次第に東の沖へ流された。みなが必死に帆を動かし、舵を操作したが、ダメだった。平四郎の決断で、23日に塩鮪と昆布100石、24日に昆布100石を海に捨てた(「荷打ち」という)。船の喫水を上げるためである。強い西風は収まらず、25日に遠くに金花山(金華山)が見えたのを最後に陸地は全く見えなくなった。ここで、みなはもはや陸地へは戻れないと、諦めた気持ちになった。金華山沖では、黒潮も東へと流れ、陸地から急に離れていくのである。ついに船の帆柱を切り倒し、船の舳(へさき)に錨を二本おろして、風に押し流されないようにした。みぞれが降って、寒くなった。27日には船に蔽いかぶさるほどの高波を受け、荷物がみな水浸しになった。27日に高波に襲われた後、金六は「辰巳(南東)の方に唐の国がある」はずだが、と言ったが、帆柱のない状態ではどうしようもなかった(室賀他編 1965 53頁では「南東の方にある異国」へ行きたいものだと言ったことになっている)。5日目の28日には少し晴れて東の風になったので、錨を上げ、帆桁(ほげた)を立てて、西の方を目指した。米を炊いて食べ、少し眠る事が出来た。しかし、29日には再び西風に変わりみぞれが降ってきた。12月1日には一時東の風になったが、また西風に戻った。この間に食べるものはとても乏しくなった。積んできた米もおかゆですするだけになった。
その後しばらく静かだった海も、12月17日には大しけとなった。船は水浸しとなり、舵は壊れて、伝馬船も流されてしまった。船底の水をかきださねばならなくなった。皆が阿弥陀如来や金毘羅様に願をかけてお祈りをした。こうして、乗組員のあいだに絶望が拡がっていった。平四郎が持っていた梅干を一人2個ずつもらって元気を出し、昆布40-50把と塩鮪少しを残して、他は海に捨てた。食料はさらに乏しくなった。食べ物を巡って争いも起きたので、米は、各自に3合を分けて、自分の責任で食べるようにした。
年が変わって1839年(天保10年)になると、少しずつ暖かくなった。1月は、故郷の3月ごろの暖かさになった。しかし、真水が尽きて、雨待ちの毎日だった。1月26日に久しぶりの雨が降り、雨水を必死に溜めた。2月になると、さらに暖かくなり、故郷の4月ごろになった。その分だけ水が欲しかった。船底の水かきはいよいよ欠かせなかった。幸い、船に着いた貝や藻、寄ってくるはまちなどを食べることができた(池田編 1968 16-18頁)。
(2)救助
1839年1月24日(3月9日)ごろ、五三郎が塩水を飲んだために死亡し、4月12日(5月24日)ごろに善右衛門が死んだ。共に遺体は海に流した。そして4月15日(5月27日)ごろには、水先案内をする金六が、みなに難儀させたのは自分のせいだとして、最後に真水を飲んで、海に身を投げたのだった。残ったのは7人であった(池田編 1968 18-21頁;室賀他編 1965 51-62頁)。
4月24日(6月5日)の朝、六兵衛が用足しに外に出ると、北の方に「山か嶋のやう成る物」が見えた。もはや足腰も立たぬようになっていた一同七名は、這って外へ出た。それは三本帆柱の異国船であった。船は止まってくれた。三千石程の大船であった。一同は、「黒んぼう」に助けてもらって、艀に乗り、異国船に移った。乗り移る時、船頭の平四郎は、弱った体に羽織袴をつけ、脇差を持って移った。七名はワインで歓迎され、柔らかいおかゆでもてなしを受けた。船はアメリカの捕鯨船「ゼンロッパ号」、キャップン(船長)は「ケツカル」であった。長者丸は燃やして処分された。
こうして一同は、5か月ぶりに救助されたのである(池田編 1968 21—26頁;室賀他編 1965 62-66頁;『漂流人次郎吉物語全』11頁)。
(3)長者丸の行程(概略)
アメリカの捕鯨船に救助された長者丸の一行は、このあと大きな世界史のうねりの中に巻き込まれていくことになる。それは順次見て行くことにして、あらかじめ、一行の行程を図示しておこう。
①1838年11月 漂流
②1839年4月 アメリカの捕鯨船ゼンロッパ号に救助される。
③1839年9月 サンドウィッチ諸島に到着。そこで帰国の機会を伺う。
④1840年9月 ロシア領カムチャツカに到着。
⑤1841年6月 ロシア領オホーツクへ移動
⑥1842年9月 ロシア領アラスカのシトカへ移動⑦1843年5月 エトロフ島に到着

参考文献
室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田晧編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
石森繁樹「富山湾―海に生きる人と暮らし」NPO法人富山湾を愛する会海洋講座「富山と日本海」13 2012年8月18日
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991
(「世界史の眼」No.61)