書評:藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社、2025年
油井大三郎

 陸井三郎という名前を知っている人は、今や少なくなっているのではないか。彼は、哲学者のバートランド・ラッセルの提唱で始まった、ベトナム戦争における戦争犯罪を調査する民間法廷の日本側委員の一人として、米軍の爆撃下のベトナム民主共和国(北ベトナム)を3度訪問し、西欧で開催されたラッセル法廷でその調査結果を発表した人物の一人である。

 1975年にサイゴン政権が陥落し、ベトナム戦争が終結して50年が経過した。また、2000年に陸井三郎が亡くなって、25年が経過した。そのような節目の年で、しかも、ウクライナやガザで戦争犯罪が繰り返されている状況だけに、改めて陸井三郎の足跡を振り返る本が出たことの意義は大きい。

 本書の構成は以下のようになっている。

第一部ベトナム戦争犯罪調査、ベトナム国際反戦運動と陸井三郎
 第1章 ラッセル法廷、ベトナム戦争犯罪調査委員会と陸井三郎の役割  藤本博
 第2章 同時代のベトナム戦争論  陸井三郎
第二部 陸井三郎とはどのような人物だったのか 
 第1章 陸井三郎の生き方と人物像  河内信幸
 第2章 『陸井三郎先生に聞く』(1992年3月)東京大学アメリカ研究資料センター
 第3章 陸井三郎 略年譜(河内信幸 作成)

 つまり、第一部ではベトナム戦争の戦争犯罪調査と陸井の関係を、藤本博と陸井自身の論稿で検討し、第二部では陸井の人となりを、河内の論稿と東大のアメリカ資料センターが行ったオーラル・ヒストリーで再現している。

 ラッセル法廷やベトナム戦争における戦争犯罪自体は既に多くの研究で明らかになってきた。それ故、本書の意義は、ラッセル法廷と陸井三郎との関係に集中して、陸井とラッセルとの書簡や北ベトナムで戦争犯罪調査にあたったハ・ヴァン・ラウとの書簡、戦争犯罪調査に関わる豊富な写真などを紹介している点にオリジナリティが存在する。

 本書の第一の意義は、ラッセル法廷の指導部が当初、ニュルンベルグ裁判における「人道に対する罪」で米国の戦争犯罪を裁こうとしたのに対して、北ベトナムの意向を代弁する形で、日本代表がベトナム戦争はベトナム人の民族基本権に対する侵害であると主張し、サルトルなどのフランス代表が自らのレジスタンス体験などを想起して、それに同調した結果、会議全体として民族基本権に対する侵害という判定にいたったと指摘した点にある。

 第二に、ラッセル法廷に参加した米国の反戦知識人でさえ、当初、ベトナム戦争を南北の「内戦」と把握していたが、論争を通じて、米国のベトナム民族に対する侵略という判定に同調するようになった点の指摘である。その際、同じ米国代表のガブリエル・コルコが主導的な役割を果たしたという。

 第三に、民間目標への意図的な攻撃である点は第一回のストックホルム法廷時から明らかになっていたが、それが「全民族の抹殺」を意図したジェノサイドであるとの認定は、ニクソン政権期になって、1969年11月にソンミ虐殺事件が判明してからであった点の指摘である。

 このようなベトナム戦争の基本的な性格評価に関わる論争の中で、日本代表団が積極的な役割を果たせた原因は、日本自身がアジア太平洋戦争中に激しい戦略爆撃を体験していたこと(陸井自身は東京で3回焼け出されている)や日本軍が「アジア解放」を言いながらも、実際にはアジア諸民族の独立運動を圧迫していたことへの反省があった点の指摘も重要である。

 その上、戦後の日本は、原水爆禁止運動の国際会議を通じて、1959年以来、北ベトナムと交流を続けており、北爆被害の現地調査をやりやすいコネクションがあった。つまり、日本の平和運動が西欧に北ベトナムの人脈や情報を橋渡しする役目を負う立場にあった点の指摘も興味深い。関連して、本書では、ラッセル法廷の日本側委員会にベ平連系の知識人が不参加であった点を指摘しているが、それは、日本で原水禁運動を主導した社会党・共産党系の人々がラッセル法廷の日本委員会の中心となったことに関連してもいるのであろう。

 さらに、第二回のコペンハーゲン大会では、日本政府のベトナム戦争協力が問題となり、日本側は1967年8月に独自に東京法廷を開催し、北爆に向かう米軍機が沖縄や在日米軍基地から飛び立っていたこと、日本の企業が「ベトナム特需」で潤っていた点などを指摘して、日本の「加害者性」を指摘している点も重要である。但し、この指摘は、陸井個人の北ベトナム訪問中に北側から指摘された、日本軍のベトナム進駐中に大量の餓死者がでたという「過去の加害者性」の受け止めとしても語られているが、日本委員会全体の認識としては弱く、むしろベ平連の小田実などの主張としてマスメディアに注目された事実も指摘されている。

 以上のベトナム戦争の戦争犯罪調査における陸井三郎の役割については藤本博論文が主に解明したものであるが、同時に、陸井自身がベトナム戦争の同時期に朝日や読売に書いた論稿が収録されていて、臨場感を増す効果を出している。次に第二部では陸井の人生全体におけるベトナム戦争犯罪調査の意義が検討されている。ここでは陸井のアジア太平洋戦争体験の意味や戦後の原水禁運動参加の意味など、次のような意義があると思う。

 その第一は、1918年生まれの陸井が、富裕でリベラルな家庭の中で、大正デモクラシー時代の教養主義の影響を受けて青少年期を過ごしたこと、しかし、父親の会社の倒産で大学には進学できず、青山学院の高商部卒となったため、就職面で不利であり、戦後に大学でのフルタイムの職には就けず、フリーランスの立場を貫くことになったこと、が指摘されている。

第二に、アジア太平洋戦争の開戦時には23歳であったが、徴兵検査では丙種合格であったため、実際の兵役は免れ、太平洋協会という鶴見祐輔が設立した民間の研究所で、研究員のような仕事をして戦中を過ごしたこと、この研究所には平野義太郎のような講座派の知識人の他、日米開戦のため米国からの交換船で帰国した都留重人、鶴見和子などがいたが、比較的自由な雰囲気が残り、米国の資料なども入手できたので、陸井の米国への関心はここで育まれたという。

 第三に、1955年に原水禁運動が始まると、陸井はその米国に関する知識や原子力への関心から原水協の専門委員に選ばれ、その国際交流に深く関わることとなった。その経験がベトナム戦争犯罪調査の国際的なネットワーク形成に大きな影響を与えたと指摘されている。

 第四に、陸井が主として講座派の系譜を引く知識人グループに属しながら、米国のニューレフトなどに対して柔軟な見方でその良さを評価していたが、その原因は、アジア太平洋戦争中に陸井が太平洋協会で様々な知識人、特に清水幾太郎から米国思想、とくにプラグマティズム思想の面白さを学んだ点があげられている。この点は、本書では十分彫り上げられていない点であり、戦中の知識人史を考える上で興味深い論点だと思われる。

 以上のように、本書は、ベトナム戦争における戦争犯罪を国際連帯の中で厳しく批判した陸井三郎という稀有な人物に焦点を当てることにより、戦争犯罪に関する認識の深化の過程をリアルに描き出している。これ故、現在のウクライナ侵攻やガザ侵略における戦争犯罪を検討する際にも、数多くの示唆を与えてくれるだろう。

(「世界史の眼」No.62)

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