はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、前号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、本号)
4 満洲移民村歴訪
湯浅克衛は、その後、日本人移民たちの後を追うように、満洲の移民村を歴訪した。1939年4月末から6月半ばにかけては、大陸開拓文芸懇話会から派遣された使節団の一員として、満洲各地を訪ね歩いた。湯浅はその後ほとんど毎年のように、満洲に行き、日本人移民の村や満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所などを訪ね歩いた。湯浅が満洲旅行について書いた旅行記風の文章の多くは湯浅克衛『民族の緯絲』(育成社弘道閣、1942年)に収められているが、年月日、旅程、同行者などについて不明確な部分がきわめて多い。ここでは、そのうち比較的よく分かる二つの旅行について、いくらか詳しく見ていきたい。
前述のように、湯浅たちは1939年に大陸開拓文芸懇話会から派遣されて満洲各地を旅行した。10人ほどの視察団であったが、常に全員そろって行動したわけではなく、数人ずつに分かれて行動することもあった。
湯浅は南満洲鉄道(満鉄)で奉天、新京、ハルビン(哈爾浜)と北上し、ハルビンからは松花江を船で下って、5月8日にジャムス(佳木斯)に着いた。伊藤整、福田清人との三人旅であった。ジャムスからは、ジャムスと図門を結ぶ図佳線で南下し、弥栄村と千振村を訪ねた。次に、図佳線の勃利駅で下車して、満蒙開拓青少年義勇軍の勃利訓練所に行った。勃利訓練所では島木健作と行き違って、ほとんど話もできないまま別れた。その後、林口駅で林口と虎頭間を結ぶ虎林線に乗り換えて、沿線の哈達河村(1936年、第四次入植。前号付図の⑤)、城子河村(第四次入植)を訪れた。そこから林口駅に引き返して、龍爪村(1937年、第六次入植。前号付図の④)に行った。最後に、牡丹江駅で視察団の他のメンバーと合流し、浜綏線(北満鉄路[旧東清鉄道本線]の東部線)でハルビンに戻った。
湯浅はこれらの開拓村(開拓団)で団長などと話し合ったが、彼がもっとも関心を持ったのは共同経営(集団経営)と個人経営の問題だったようである。島木健作とは異なり、湯浅は共同経営の問題点をいろいろと指摘している。例えば、団全体の組合がかなり高度に発達している弥栄村でも、「Sと云ふ人が班單位で漬物の工場をやつてゐる」。しかし、「組合の機構から離れ勝ちになつて、班又は個人で企業的になつて行くことは、全體の均衡を破るし、危險率も大きいので注意され、摩擦も大きい」。このSのような人たちも「他の團や機構の中でなら大いに生かせるであらう」(『民族の緯絲』68頁)。また、「第六次龍爪[村]のやうに、集團經營を恒久的に續けて、土地の分割をせず、収穫物の管理を團、組合でやると云ふ場合に、現金収入を入れて郷里に送金したいなどと云ふ人が居たらどうだらう」(『民族の緯絲』67頁)。このように、湯浅は開拓団内の「班」や個々人の創意や意向を重視する考え方を取っていたようである。
1941年には、湯浅は南満洲の新台子・「紀州村」を訪ねた。新台子駅は南満州鉄道(満鉄)の奉天と鉄嶺の間にある駅で、「紀州村」は新台子駅から4、5キロメートルのところにあった。「紀州村」というのが正式の名前なのかどうか、湯浅の記述からははっきりしないが、和歌山県最南部・串本町沖合の大島から分村移民してきた村である。1939年9月に先遣隊が入り、翌1940年4月に、本隊53人が入植したということであるから、きわめて新しい移民村であった。自由移民として入ったので、拓務省からの補助はなく、和歌山県庁が移住費用を立て替えた。「紀州村」は奉天や鉄嶺などの都会に近いので、大根、白菜、ネギなどの蔬菜栽培を主としていたが、最初の年は気候の関係もあって失敗だった。しかし、翌年は気候にも恵まれ、大豊作で、人々は蔬菜栽培に自信を持てたようである。その夜には湯浅を囲んで座談会が講堂で開かれ、多くの人たちが集まって、いろいろと語りあった(『民族の緯糸』96‐110頁)。
湯浅は、このように、あまり視察団が行かなかった南満洲の移民村を含めて、満洲各地の移民村を歴訪していた。しかし、その関心はほとんど日本人移民の動向に限られていて、日本人の入植によって生活の基盤を破壊された満洲人や在満朝鮮人あるいは漢族の農民などにはほとんど目が届いていない。
5 『長篇小説 鴨緑江』
1942年5月、湯浅克衛は朝鮮総督府拓務課から派遣されて、東北満洲の亮子嶺新興農村を視察した。亮子嶺新興農村は、中国(当時は「満洲国」)と朝鮮の国境を流れる大河・鴨緑江に建設された巨大な水豊ダムによって土地が水没した朝鮮人農民たちが入植したところである。亮子嶺はハルビンと綏芬河を結ぶ北満鉄路・浜綏線のハルビンと牡丹江駅の間にある駅で、その西隣が亜布洛尼(ロシア語で「リンゴ」の意)駅である。この二つの駅の中間、北側一帯が亮子嶺新興農村であった(前号付図の⑥)。亮子嶺新興農村は新興屯、昌坪屯、昌城屯、双河屯、栄山屯、錦河屯、楚山屯の6集落から成り、それぞれ戸数90戸前後、村民数400人前後であった(佐々木甚八他「濱江省葦河縣亮子嶺新興農村の衞生状態に就て」『昭和醫學會雜誌』2巻4号[1940年]の各所)。
水豊ダムは朝鮮半島西南端の新義州で黄海に注ぐ鴨緑江の河口から80キロメートルほど上流の地点に建設された。「満洲国」や東洋拓殖株式会社(東拓)などの出資により、1937年に着工され、1941年8月に第1号発電機が送電を開始した。その後、他の発電機も順次発電を始めていったが、第二次世界大戦下、完成には至らなかった。
湯浅克衛は水豊ダムや亮子嶺新興農村における見聞などにもとづいて『長篇小説 鴨緑江』(晴南社、1944年)を書いた。『鴨緑江』の主人公は「大山英章」であるが、これは創氏改名した名前で、本名を崔英章という朝鮮人とされている。彼は亮子嶺新興農村・「昌平屯」(昌坪屯を指すのであろう)の「指導者」ということになっている。朝鮮人農民の満洲への移民(移住)を取り扱っている点で、この小説は湯浅の後期の作品の中では珍しいもののように見える。しかし、問題なのはそこに描かれた朝鮮人像である。以下、この点に絞って、『長篇小説 鴨緑江』を検討していくことにしたい。
「大山英章」は自分の村が水豊ダムの建設によって水没することを知ると、いち早く村人たちを説得して満洲・亮子嶺新興農村への移民(移住)に踏み切った。その「英章」が親戚の者を満洲に連れていくことを目的として、鴨緑江の故地に戻ったところからこの小説は始まる。
「大山英章」は新義州の港から定期船に乗って鴨緑江を遡り、水豊ダムに向かった。その込み合った船中で、「工科の學生」らしい一団がしゃべっているのを聞いた(『長篇小説 鴨緑江』6‐14頁)。
「湖底の村の連中はどうしたのかな、立退いたものだけで七萬人と云ふぢやないか」
「さうかね、七萬人もかね」[中略]
「水豊の湖底の村の立退き[先]も満洲ださうだな」
「よく靜かに行つたね。何も新聞に出なかつたぢやないか」
「七萬人と云つたら、大した數だぜ」
「小河内貯水池なんて比べものにも何にもならないのだからな。その六十倍あるんださうだ。[後略]」
「しかし、あと、六つ、貯水池が出來るんだらう」
「もう始まつている筈だ」
「上流は名にし負ふ、白頭山を頂く長白山系、あの蓋馬高臺だらう。鴨緑江はこんな大河で、そのくせ、まるで急流なのも、河がまるで傾斜してゐるんだね。それを階段式に、七ツのダムにしやうと云ふわけだ」[中略]
「すると、その湖底になる面積はどうなんだ」
「知らないね。何だか、流域面積は九州全體よりも大きいとか云ふんだがね」
「學生達の會話が續いてゐる間中、大山英章は緊張して、固くなつてゐた。頬がかあつと熱くなつたり、心臓がどきどきと鳴り出したり、はたと頬をたたかれたやうな思ひにもなつた」。「ああ、俺達は追拂はれる,何代も何代も、父が、祖父が、そのまた祖父が住み、永久だと思つてゐた土地から追拂はれる」、「さう云ふ氣持が何としても抜けなかつた」。「そこを、先程の學生達の會話でどやされたのである」。「英章」はこう思い至った。
自分達が移住して來たことが、そんな途方もない大きな計畫の中の一部分で、それが世界に示し得るやうな仕事になつてゐると云ふことを知つたときには、自分達もその一員であることが誇りたい氣持になつた。
鴨緑江ダム計画について「學生達」の言っていることはほぼ正確であるが、水豊ダム以外の六つのダムは結局完成しなかった。水豊ダム建設のために立ち退かされた朝鮮人の数が約7万人で、ダムの「流域面積」(降った雨や雪がその川に流れ込む地域の総面積)が九州全体より大きいというのもその頃よく言われていたことのようである。
しかし、朝鮮人「大山英章」が、先祖代々の土地を立ち退いたことによって、自分たちもこの「世界に示し得る」巨大なダム建設の「一員である」と思い至り、「誇りたい氣持」になったというのは、あまりにも身勝手な日本人作家の発想であろう。『長篇小説 鴨緑江』は国策文学以外の何物でもないのである。それは次のような個所では、さらに露骨な形で現れている。
「大山英章」は水豊ダムの内部を案内してくれた日本人事務員にこう語った(『長篇小説 鴨緑江』74‐75頁)。
「私達のやうに開拓團としてレツキとしてやつて行くと、倉庫だつて何だつて永久的なものを建てますし、それだけ匪賊達にも、大きくねらはれるわけです。もう匪賊は少なくなりましたが、對抗するだけの用意をして行つて居るのです。開拓團をやつてみると、まつたく計畫性がなければいけないことがわかります。その計畫性と云ふのは、何かに信頼なしには出來ないことなのです。その何かが、お恥ずかしい話ですがわからなかつたのです」
「何か……つて云ひますと」
案内の人は、やゝ不審氣であつた。
「え、その何かとは、國家なのですね」
「あゝ國家」
「 天皇陛下様のことを、私達は實感として知らないで來たのです。あなた達は、それは小さい頃から、衣食住全體を通じて、わかつてゐられるけれども、私達は、今から、生活の全部をあげてわからなければ、ならないところに來ています」
国家を信頼しなければ計画性をもって事に当たることができない、その国家とは「 天皇陛下様」のことだ、と朝鮮人「大山英章」に語らせる日本人作家・湯浅克衛は「カンナニ」の著者・湯浅克衛とはまるで別人のように感じられる。
〈付記〉
亮子嶺新興農村のその後については、資料がないようで、よく分からない。特に、1945年8月9日、ソ連軍が満洲に侵攻してきたとき、亮子嶺新興農村の人々がどうなったのかはまったく分からない。
おわりに
1942年5月、日本文学報国会が設立されると、大陸開拓文芸懇話会はそこに吸収併合され、その事業は日本文学報国会の大陸開拓文学委員会によって継承された。湯浅克衛も日本文学報国会に加わり、大陸開拓文学委員会の一員となった。1943年になると、日本文学報国会内に皇道朝鮮研究委員会が設立され、湯浅はその常任委員に任命された。小説「オリンポスの果実」で知られる田中英光もその一員であった。田中は横浜護謨株式会社の京城支店に長く勤務していたので、皇道朝鮮研究委員会に加わることになったのであろう。皇道朝鮮研究委員会の一つの活動は埼玉県入間郡高麗村(現、埼玉県日高市新堀)の高麗神社に参詣することであった。湯浅自身も1943年10月と1944年1月に、皇道朝鮮研究委員会の他の会員たちとともに高麗神社に参詣している。高麗神社は、湯浅や田中英光も鼓吹していた日鮮同祖論の象徴と見なされていたのであろう。
1943年、朝鮮文人報国会が結成され、1944年6月、決戦態勢即応在鮮文学者総蹶起大会を開催した。湯浅はこれに日本文学報国会の代表として参加し、朝鮮文人報国会の幹事となった。その後、湯浅は朝鮮総督の文化顧問に任命された。この間に、湯浅は妻子を伴って朝鮮・水原に疎開した。1945年8月15日、日本の敗戦を迎えた湯浅は朝鮮に残留することを望んでいたが、結局、同年9月家族ともども日本に帰った。その後の湯浅については、ここでは省略する(湯浅の経歴に関しては、池田浩二編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に収載されている梁禮先「湯淺克衞年譜」を参照した)。
(「世界史の眼」No.65)