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書評 伊藤定良『第一次世界大戦への道とドイツ帝国』(有志舎 2023年)
飯田洋介

 本書は、1871年に成立したドイツ帝国が帝国主義の時代、どのような過程を経て第一次世界大戦へと至ったのか、それについて考察したものである。テーマそれ自体は(本書「はじめに」で概観されているように)ナチズムへと至る歴史的展開を帝政期から連続的に捉えるべきか否か、それが「特殊」なものであったと言えるのかをめぐって、これまで論争が激しく展開されてきたこともあって、決して目新しいものではない。だが、だからこそ、こうした古典的テーマは近年の研究成果を踏まえてその都度問い直されて然るべきものであり、その意義は今日でも色褪せることはあるまい。

 では、本書はどのような視点からこの古典的テーマに挑むのか。本書によれば「帝国主義の時代の全般的な動きを押さえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、当時の国際的・国内的諸課題に立ち向かったさまざまな政治勢力のせめぎあいをとおして考察する」(13頁)という。以下、本書の構成に沿ってその内容を見ていこう。

 第1章「帝国主義の国際政治と民衆の政治化」では、はじめにコンゴ問題解決のために開かれたベルリン会議(1884~85年)を起点とする西洋列強による世界分割の動きについて論じられる。帝国主義を「民族抑圧的な世界体制」(17頁)と定義する本書は、列強の抑圧的な植民地統治が現地住民の抵抗を引き起こし、それがさらに列強の軍事行動を招く「暴力の連鎖」(21頁)に注目する。特に現地での抵抗の排除・鎮圧に際しては、互いに対立する列強や諸勢力が「抑圧の共同作業」(40頁)で応じていたこと、さらには他の植民地や現地で動員された人員までもがこれに充てられたという構図があったことを本書は指摘する。

 次に、本書の視線は帝国主義時代のヨーロッパに向けられる。そこでは、帝国主義による列強間の対立やバルカン問題の緊迫化を受けて、ハーグ平和会議やドイツでの平和主義運動、さらには第二インターナショナルによる反戦平和運動に見られるような国際的な動きが活発に展開される一方、各国内では国民統合を推進する上で重要となる、独善的で排外主義的な帝国意識やナショナリズムの育成・強化がなされ、大衆を基盤としたさまざまな政治運動や革命運動・民族運動が展開された。本書では女性参政権運動や労働運動にも目配りしながら、この時期に大衆が政治化していったこと、しかしながら、これらの運動は大衆を団結させるどころか逆に分裂をもたらし、それがナショナリズムの圧倒的な力と相まって、第一次世界大戦の勃発を阻止できなかったとりわけ大きな原因だとしている(91頁)。

 第2章「ドイツ第二帝政の政治」では、1871年の帝国成立から1910年までのドイツの政治状況を辿りながら、①歴代政権による帝国議会での「ブロック政治」の展開、②国民統合のありよう、③急進的ナショナリズム運動の展開について論じられている。いずれもヴィルヘルム期が話の中心になっている。

 ①では、帝国宰相ビューロを支えた保守系からリベラル左派に至るまでの諸政党による「ビューロ・ブロック」とその後継政権となったベートマン=ホルヴェークを支えた保守党と中央党による「黒青ブロック」が当時の内政課題であった帝国財政改革問題と(ドイツの議会制民主主義の発展を阻害していた)プロイセン三級選挙法(不平等・間接・公開)改正問題にどのように対処したのかが主な焦点になっている。その際、本書は社会民主党の妥協的な姿勢に注目する。②では、国民国家ドイツにおける民族的少数派であったポーランド人に対する統合と排除、そして彼らの抵抗に焦点が当てられ、このテーマについて長年取り組んできた著者ならではの指摘が目立つ。特にポーランドに対する強圧的な「ドイツ化」政策に対する現地の抵抗(学校ストライキ)が、同じ宗派でありながらナショナリズムの影響を受けた中央党には「国民化」の拒絶と受け止められ、両者の連帯を阻むようになっていったこと(130頁)、さらにはルテニア人労働者の雇用も反ポーランド的観点からなされた(133頁)という指摘はとても読み応えがあった。③では主にオストマルク協会とプロテスタント同盟に焦点が当てられている。

 第3章「世界大戦への道とドイツの政治・社会」では、1908年に勃発した青年トルコ人革命とオーストリア=ハンガリーによるボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合を機にバルカン半島情勢が緊迫化していく中でのドイツ国内政治について論じられている。ここで本書が特に注目するのが、1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)がドイツ国内に及ぼした影響である。それは一方では大規模な反戦平和集会を引き起こし、1912年1月の帝国議会選挙では進歩人民党と連携した社会民主党の躍進と、ベートマン=ホルヴェーク政権を支える「黒青ブロック」の敗退を招くなど、国民の政治的不満や戦争への危機意識が大きく表れる形となった。だが他方では、全ドイツ連盟によるクーデタ計画の公表、ナショナリスティックな大衆運動の勢力拡大とさらなる急進化を引き起こし、陸軍増強を求めるドイツ国防協会も結成され、「戦争は不可避である」という風潮が社会に広がり、青少年の軍事組織化も図られ、社会の軍国主義化が一層促進されていったのである。また、本章ではそのようなドイツ社会に広がる「後進性」と「専制」を強調したロシア蔑視・反感があったこと、そして社会民主党もそれとは無縁ではなかったことが指摘されている。

 第4章「第一次世界大戦」では、はじめにサライェヴォ事件から開戦、さらには「城内平和」に至る流れについて論じられているのだが、ここで本書は、開戦時に見られた国民の一体感と熱狂が必ずしも全国一律のものではなかったという点を強調する。そこには戦争への心配や不安も見て取れ、このときの国民的感情が「けっして単色ではなく、複雑なひだを帯びて重なり合っていた」(252頁)ことが国内外の先行研究を交えて示されている。また、「城内平和」に至るまでの社会民主党の動向についても注視されている。

 次に本書は、世界史的な観点に立って第一次世界大戦の歴史的性格について考察し、それが「帝国主義戦争」「総力戦」「世界戦争」=植民地での戦闘・植民地の人員物資を動員した戦争であったと位置づけ、この戦争によって帝国主義諸国による植民地・従属地域支配体制の動揺・弱体化がもたらされたことを指摘する。さらにここでは、ドイツ革命に至る流れが概観されるだけでなく、ウィルソンの14カ条がボリシェヴィキ・ロシアによる「平和に関する布告」と対置する形で紹介されている。また、本書では(近年の新型コロナウイルスの世界的大流行を意識して)第一次世界大戦末期に世界規模で蔓延した「スペイン風邪」が第一次世界大戦の西部戦線やパリ講和会議に与えた影響について、それがはらむ今日的な課題と結びつける形で論じられている。

 このように本書では、世界史的視座から帝国主義時代の全般的な動きをおさえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、増加する労働争議と高揚するナショナリズムを背景に当時の諸課題に立ち向かった様々な政治勢力のせめぎ合いを通じて考察されている。帝国内の民族的マイノリティであったポーランド人問題を通じて、国民統合の不調と急進的・排外主義的ナショナリズム運動が連動すると(たとえ同じ宗派であっても)民衆の分裂を招くことが本書ではよく示されていたように見える。

 それに加え、本書の特徴として挙げておきたいのが、同様に「帝国の敵」とされた社会民主党を視角に含めたことで、ナショナリズムの影響を受けて戦争への道を歩んでいくドイツの議会政治の展開と、第二インターナショナルによる国際的な反戦平和運動の展開という、この時期に見られた2つの相反する側面を巧く総合的に捉えている点である。このことは20世紀初頭のドイツが外交的苦境=「包囲」から抜け出すには、あるいは好戦的なナショナリズムの高揚や社会の軍国主義化を背景に、もはや戦争への道しか残されていたわけでは決してなかったということを我々に再確認させてくれよう。

 だが、その一方で社会民主党の指導部が1914年8月の大戦勃発に伴う「場内平和」、戦時公債への賛成に連なるような、政府あるいはナショナリズムの動きに対する譲歩的な姿勢をそれまでに幾度となく示してきたこと(1907年の帝国議会選挙での惨敗のときや1913年の軍拡に必要な拠出金法案への賛成など)を著者は見逃さない。戦争と平和に対する社会民主党のこうした二面性を浮き彫りにした点も、本書の特徴であろう。

 次に、本書を読んで評者が気になった点を幾つか挙げておきたい。

 1点目は、世界史的な視座による帝国主義の説明と、帝政期ドイツの政治状況の説明が上手く対応していない点である。本書は南アフリカ戦争、義和団事件、アメリカのフィリピン支配などを事例に「民族の抑圧的な世界体制」としての帝国主義と「暴力の連鎖」を伴う列強の植民地支配を論じているのだが、それに比してドイツの植民地支配の説明が少なく、バランスが取れていない。例えば、独領南西アフリカ(現ナミビア)におけるヘレロ・ナマの蜂起とその鎮圧については、それがジェノサイドの様相を呈していたことや、それに際して設けられた強制収容所が「絶滅収容所」の性格を有していたことはきちんと言及されているのだが(121、314~315頁)、その説明は1907年1月の帝国議会選挙(いわゆる「ホッテントット選挙」)の背景説明の域を出ず摘要に留まっているのが惜しまれる。本書が帝国主義と絡めて帝政期のドイツ政治を論じるのであれば、やはりドイツの植民地統治の事例も第1章と同程度の密度で論じたほうがよかったのではないか。

 2点目は、帝国主義時代の戦争と平和を論じるのであれば、本書が注目するような第二インターナショナルやドイツ平和協会といった「下からの」平和運動に留まらず、政府間による「上からの」平和を求める動きにも(たとえそれが失敗に終わったとしても)目を向けてもよいのではなかろうか。例えば、建艦競争による独英関係の緊張を緩和すべく1912年2月にベルリンに派遣された当時の英陸相ホールデン子爵の試みが挙げられよう。また、サライェヴォ事件から第一次世界大戦勃発までの1ヵ月間(7月危機)は、本書が論じるように開戦に向かって「事態が一直線に進んだわけではない」(242頁)。第二インターナショナルによる反戦平和集会の動きがある一方(254~255頁)、政府レベルでも英外相グレイが英仏伊独4か国協議を提案して外交交渉による解決に最後の望みを託していた(243頁)。本書では7月下旬の皇帝ヴィルヘルム2世の発言には戦争と平和の間で揺れ動きがあったことには言及が見られず、こうした大戦勃発直前に見られた平和に向けた「上からの」最後の動きについては、もう少し説明が欲しいところである。

 3点目は、ヴィルヘルム2世の位置づけである。彼の統治スタイルはよく「個人統治」と言われるが、その実は先行研究が示すように人事を活用した側近政治であり、それはときとして帝国宰相をはじめとする指導部の方針と対立することがあったことが知られている。それについては対中・対米政策といった外交政策では幾つか事例が思いつくのだが、今回本書が取り上げた内政面での政治的諸課題ではどうであったのだろうか。

 以上の点は、評者の専門とする外交史の視角からのものでしかなく、本書の内容や学術的価値を決して損なうものではない。何故ドイツが第一次世界大戦への道を歩んだのかという古典的テーマについては外交史的アプローチも不可欠だが、この時期のドイツ社会と議会政治が抱えていた問題を把握する上で本書は欠かせない一書であると高く評価できよう。

(「世界史の眼」No.48)

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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 9(2024年2月4日)

「イスラエル批判と反ユダヤ主義」その後

 2023年12月20日付けの本特集6に寄稿した「イスラエル批判と反ユダヤ主義」において、大学内におけるイスラエル批判の運動への対応をめぐって、米国の連邦下院での公聴会で共和党右派議員による批判の的となった3人の学長の内、ペンシルヴァニア大学の学長が辞任に追い込まれたことに触れたが、その後24年1月2日に、さらにもう一人、ハーヴァード大学のクローディン・ゲイ学長も辞任を発表するに至った。その前日には、保守派のオンラインジャーナルにゲイ学長の論文についての盗用疑惑が報じられたというタイミングであったが、辞任決意はそれ以前になされたと報じられており、イスラエルのガザ侵攻をめぐる大学内の情勢がこの事態をもたらしたことは明らかである。

 ゲイは、ハイチ系の移民家庭に生まれた黒人女性であり、スタンフォード大学を経てハーヴァードで教鞭をとり、昨年9月にハーヴァードで初の黒人女性学長となったばかりであった(女性学長は2007年~18年のファウスト学長が初)。9月末の就任演説で、彼女は「いま私の立っているところから400ヤードも離れていない地点で、約400年前、4人の黒人奴隷がハーヴァード大学学長の所有物として暮らし働いていました」と語りはじめたという(就任式に列席した巽孝之慶應義塾ニューヨーク学院長の報告から)。人種差別、人種主義をめぐる問題がなお渦巻いている米国で、その最有力大学の学長にこうした彼女が就任することの意味は大きいと考えられていた。そのゲイを辞任に追い込んだ反ユダヤ主義をめぐる社会的・政治的文脈について考える上でも、ヨーロッパ、とりわけドイツにおける状況は重要な意味をもつ。今回の特集には、その問題に切り込んだ木戸衛一氏の論考を掲載する。

(木畑洋一)

木戸衛一
ドイツの内なる植民地主義?

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ドイツの内なる植民地主義?
木戸衛一

はじめに

 パレスチナ・ガザ地区を実効支配するハマスがイスラエルを奇襲攻撃した2023年10月7日以降、ドイツはかたくなにイスラエル支持の姿勢を貫いている。苛烈を極める同国の軍事攻撃にも、原因はあくまでハマスにあるとの立場を崩していない。圧倒的に非対称的なイスラエル・パレスチナ関係への歴史的視座を欠いた一面的な言説は、「ホロコーストへの反省」では説明しきれない植民地主義的深層心理を感じさせる[1]

1.「無制限の連帯」と「国是」

 「10・7」以降、ドイツはイスラエルへの「無制限の連帯」の声で覆われた。10月12日の所信表明演説で「イスラエルの安全はドイツの国是だ」と述べたオラーフ・ショルツ首相は、5日後、事件後外国首脳として最初にイスラエルを訪問した。

 10月27日および12月12日、戦闘停止を求める国連総会決議に、ドイツはいずれも棄権した。メディアでは、なぜ決然と反対を貫かなかったのかと政府の弱腰を糾弾する声が響いた。

 だが、ドイツは弱腰どころか、熱心にイスラエルに武器を送っている。2023年の11月2日までに、ドイツは前年全体の10倍に及ぶ3億300万ユーロの武器輸出を承認した。1月16日『シュピーゲル』誌の報道では、戦車の弾薬の供与まで検討されているという。

 そもそもドイツは世界有数の武器輸出国である。2023年3月13日、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の報告によれば、2018~22年にドイツは世界全体の武器輸出の5.2%を占め、米国(40%)、ロシア(16%)、フランス(11%)、中国(5.2%)に次ぐ第5位であった[2]。その供給先は、エジプト18%、韓国17%、イスラエル9.5%の順となっている。

 去る1月25日、アムネスティ・インターナショナル、オックスファム、セーブ・ザ・チルドレンなど16の国際団体が、イスラエルとハマスの紛争終結を目的に、世界各国に双方への武器や弾薬の供与を停止するよう求める共同声明を発表したが、その声は残念ながらドイツの政界・経済界には届かないであろう。

2.「反ユダヤ主義」によるイスラエル批判の封殺

 ベルリンの「反ユダヤ主義調査・情報協会」(RIAS)によれば、「10・7」から11月9日までの間にドイツでは、994件の反ユダヤ主義事件が確認された(内訳は極端な暴力3件、攻撃29件、器物損壊72件、脅迫32件、大量のメール送信4件、侮辱的態度854件)[3]。ユダヤ教施設やユダヤ系市民への暴力・嫌がらせが非難されるのは当然だとしても、ドイツでは、国際人道法上の原則から逸脱したイスラエルの軍事行動に対する批判ですら、「反ユダヤ主義」のレッテルを貼られ封殺される。そして、イスラエルに関連して「植民地主義」や「アパルトヘイト」を語ることすら、「反ユダヤ主義」の疑いをかけられるのである。

 近代ドイツにおける反ユダヤ主義は、1879年、ヴィルヘルム・マルによる反ユダヤ連盟の結成に端を発するが、宗教に加え文化・経済・社会背景を持ったユダヤ嫌悪・迫害は中世にまでさかのぼることができ、「反ユダヤ主義」の定義は一筋縄ではいかない。RIASがまとめた「10・7」以降の反ユダヤ主義事案(antisemitische Vorfälle)の政治的背景には、反イスラエル行動主義(antiisraelischer Aktivismus)が21%含まれているが、「反ユダヤ主義」と「反イスラエル」の概念の違いは全く分からない。

 結局今日「反ユダヤ主義」は、イスラエル国家への批判をあらかじめ封じ込める「道徳的棍棒」として道具化されている。2024年1月19日、ドイツ連邦議会は、新しい国籍法を可決した。それにより、ドイツ国籍を取得可能な滞在期間が従来の8年から5年(特別な場合は3年)に引き下げられ、二重国籍も原則認められるようになったが、他方国籍付与の条件として、自由で民主的な基本秩序への信奉に「反ユダヤ主義、人種差別主義ほか、人間蔑視の動機による行為」が相容れないことが明記された。つまり、イスラエルを批判したことで、10年以内に国籍付与が撤回されることも考えられるわけである。

3.南アフリカの国際司法裁判所提訴への侮蔑的反応

 2023年12月29日、南アフリカは、イスラエルがガザ地区のパレスチナ人に対しジェノサイドを犯していると国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。かのネルソン・マンデラ大統領は1997年12月4日、「我々は、パレスチナ人の自由がなければ自分たちの自由が不完全なことをよく知っている」と演説したが[4]、提訴は彼の遺志を継ぐだけでなく、これまで「先進国」にいいように差配されてきたグローバルサウスを代弁する行為と言えよう。

 翌年1月11日に審理が始まり、南アフリカがICJに対し、イスラエルにガザでの軍事作戦の即時停止を命じるよう要請すると、「ドイツの歴史とショアーの人道に対する罪に照らして、ジェノサイド条約に特別に結びついている」と自負するドイツは、その「政治的利用に断固反対」し、提訴は「いかなる根拠も欠いてい」て「断固かつ明確に拒絶する」と、イスラエルを全面的に擁護する声明を発表した[5]

 それにしても、ドイツはよく臆面もなく、南アフリカによるジェノサイド条約の「政治的利用」を非難できたものである。1990年10月3日の「ドイツ統一」の実態は西独による東独の吸収合併であることから、国家分断時代の歴史は、「勝者」である西独の見方で語られがちである。だが、冷戦時代西独が、反共の防波堤として数々の軍事独裁政権を支持、人権侵害に加担すらした事実は看過できない。

 アパルトヘイト体制の南アも、その一例である[6]。なにしろ、1966~78年首相を務めたバルタザール・フォルスターが第二次大戦中ヒトラー信奉者として逮捕され、1950年人口登録法がナチ・ドイツの人種差別規程を雛型にしたように、戦前も戦後もナチズムは南アフリカに、少なからぬ人的・イデオロギー的影響を及ぼしていたのである。

 ドイツの「新植民地主義的傲慢」(ゼヴィム・ダーデレン連邦議会議員)に刺激されて、奇しくもちょうど120年前、「ドイツ領南西アフリカ」下でナマ人へのジェノサイド開始を経験したナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領は、「ドイツが国連のジェノサイド条約への道義的支持を表明しながら、同時にガザにおけるホロコースト・ジェノサイドと同等のことを支持することはできない」のであり、「その残酷な歴史から教訓を引き出すことができない」ことを強く批判した[7]

 1月26日、ICJは南アフリカの提訴を却下せず、イスラエルに軍事作戦の停止は求めなかったものの、ガザにおける200万人もの故郷からの追放、2万5000人もの殺害という現実を踏まえ、「法廷は、この地域で起きている人道的悲劇の大きさを痛感しており、人命の損失と人的被害が続いていることを深く憂慮している」(ジョーン・E・ドノヒュー議長)とし、判決を言い渡すまでの間、住民の大量虐殺などを防ぐためあらゆる手段を尽くすよう暫定的な措置を命じた。裁判所に強制的な執行力はなく、イスラエルのネタニヤフ首相もこの決定を拒絶する姿勢を明らかにしたが、ドイツ政府のコメントは確認できない。

 1月12日の声明でドイツは、ICJ規定第63条に則り、第三国として審理に参加する意向を示していた。事実2022年9月5日には「自らの歴史に基づき」(”given its own past”)ロシアに対するウクライナでのジェノサイド審理[8]、翌年11月15日、ガンビアが提起したミャンマーに対するジェノサイド審理に参加している[9]

 だが今回ドイツは、むしろICJが提訴を却下するのを期待していたのではないか。1月26日の裁定を踏まえ、ドイツは一体どのように第三国として今後の審理に関わろうというのであろうか。

おわりに

 第一次大戦に敗れ植民地を放棄したことから、ドイツがそれまで英仏に次ぐ植民地大国だったことを知るドイツ人は、必ずしも多くない。近年BLM運動の高揚や、ナミビアとの補償問題、カメルーン(「ドイツ領西アフリカ」)への美術品返還を通じて、ようやくドイツ植民地主義の問題が人々に意識されつつあると言える。

 今日ドイツが成熟した民主主義国家であることは、誰も否定しないであろう。だが、「イスラエルは民主主義国で、非常に人道的な原則に導かれている」(2023年10月26日、ショルツ首相)とその軍事行動を支持する時、そこには文明と野蛮、民主主義とテロリズムという対立図式が明瞭に見て取れる。植民地を手放して100年余り、グローバルサウスが発言力を増す中、この国はどこか「使命感に基づいて支配を正当化する教条[10]」に固執しているのであろうか。


[1] 本稿1.および2.について、詳しくは拙稿「ドイツはどこへ行くのか」(2023年12月24日)参照。https://www.peoples-plan.org/index.php/2023/12/24/post-865/

[2] https://www.sipri.org/sites/default/files/2023-03/2303_at_fact_sheet_2022_v2.pdf

[3] https://report-antisemitism.de/monitoring/

[4] http://www.mandela.gov.za/mandela_speeches/1997/971204_palestinian.htm

[5] https://www.bundesregierung.de/breg-de/suche/erklaerung-der-bundesregierung-zur-verhandlung-am-internationalen-gerichtshof-2252842

[6] https://zeithistorische-forschungen.de/2-2016/5350?language=de

[7] https://www.dw.com/de/namibia-deutschland-lernt-nicht-aus-der-geschichte/a-68034829 なおドイツ外務省は2021年5月28日、当時のドイツの行為をジェノサイドと認め、「再建・開発」プログラムに合計11億ユーロ支払うことでナミビア政府と合意したと発表したが、当事者であるヘレロ人・ナマ人の合意を未だ得られていない。

[8] https://www.lto.de/recht/hintergruende/h/warum-deutsche-intervention-in-ukraine-russland-igh-voelkerrecht-voelkermordkonvention/

[9] https://www.auswaertiges-amt.de/de/newsroom/-/2632016

[10] ユルゲン・オスターハメル『植民地主義とは何か』論創社、2005年、37頁。

(「世界史の眼」2024.2 特集号9)

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「世界史の眼」No.47(2024年2月)

今号の「世界史の眼」には、小谷汪之さんに、連載中の「奉天からの世界史」の(中)をご寄稿頂きました。また、木畑洋一さんに、「世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争」をお寄せ頂いています。

小谷汪之
奉天からの世界史」(中)

木畑洋一
世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争

*  *  *

世界史研究所では、引き続き「「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える」と題して、この問題に関する論考を掲載しております。

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える8(2024年1月31日)

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奉天からの世界史(中)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、前号)
2 内藤湖南と奉天
 (本号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次号)

2 内藤湖南と奉天

(1)内藤湖南の第一回奉天行

 1902年10月1日、後に著名な東洋学者で京都帝国大学教授になる内藤湖南(この時はまだ大阪朝日新聞社に在籍)は神戸から大連丸に乗船して、中国訪問の旅に出た。旅順、大連などを訪れた後、東清鉄道でハルビンに直行し、その後、ハルビンから同線で南下して、10月21日、初めて奉天で下車した。この時、奉天は義和団事件から2年以上が経ち、治安には全く問題がなかったようである。ただ、満洲全体がそうだったのだが、奉天でもロシア軍の勢力が強く、何かと制約されることはあった。また、当時の奉天には日本人経営の旅館やホテルなどはなかったようで、宿泊先を探すのにも苦労した。結局、知り合いを介して紹介された中国人の私宅に泊めてもらったり、「極めて不潔な」「支那旅店」に泊まったりした。

 10月23日、内藤湖南は知人二人と共に北陵を訪ね、その帰路、「御花園長寧寺」で清朝第二代太宗ホンタイジ愛用の弓矢を観た。その後、「黄寺」に行き、「一僧と話し明日満蒙二蔵を観ることを約す。帰途白大喇嘛ラマに逢い又後楼の蒙蔵を観ることを約す」。(内藤湖南「禹域鴻爪後記」『内藤湖南全集 第六巻』筑摩書房、1972年、356頁)

 この時、内藤たちが北陵のどこまで入ることができたのかということについては、内藤が何も書いていないのでよく分からない。その後訪れた「御花園長寧寺」というのは北陵から奉天市街に戻る途中にあるチベット仏教の寺で、もともとは太宗ホンタイジの「御花園」であったが、ホンタイジの死後、それを改修して、長寧寺という寺にしたものである。したがって、ホンタイジゆかりの品が蔵されていたのである。他方、黄寺という寺は皇寺ともいわれるが、正式名は実勝寺という(黄寺の名は寺の屋根瓦が黄色であることによる)。1636年、太宗ホンタイジは内モンゴルを支配下に収めて、国号を大清と改めた。黄寺はそれを記念して建てられたチベット仏教寺院で、北陵へと北上する道の起点にある(図1参照)。黄寺は満洲やモンゴル地方のチベット仏教の中心をなす大寺で、その経蔵などには各種の仏典が収蔵されていた。内藤はそれらの仏典を観ることを大きな目的としていたのである。

 10月24日、内藤は黄寺の後楼で白大喇嘛ラマに会い、「導かれて別処に至り」、「蒙字蔵経」を観た。「別処」とは黄寺の西に隣接する太平寺のことで、この寺にはモンゴル語大蔵経(「蒙古文蔵経」108函)が完全な形で収蔵されていた。その後、昨日約束した黄寺の僧に導かれて、「皇寺〔黄寺〕の経蔵に蒙文蔵及び満字蔵経を観て帰る」(内藤湖南「禹域鴻爪後記」356頁)。

 「蒙字蔵経」、「蒙文蔵」というのはモンゴル語の大蔵経のことで、「満字蔵経」は満洲語の大蔵経である。このように、内藤は黄寺などにモンゴル語や満洲語の大蔵経が収蔵されていることを確認しえたのである。そのうちモンゴル語の大蔵経はサンスクリット語大乗仏典のモンゴル語訳およびウイグル語訳、チベット語訳、中国語訳からの重訳などを含む仏典の集成である。しかし、内藤は翌10月25日に東清鉄道で奉天を去ったので、この時は仏典所在の確認以上のことはできなかった。 

(2)内藤湖南の第二回奉天行

 1905年7月4日、内藤湖南は宇品港から須磨浦丸に乗船して、また中国旅行に出た(この時も内藤は大阪朝日新聞社在籍)。同行者は「法学士大里武八郎」と「従僕」1人であった。この中国旅行の主目的は前回の中国旅行において奉天で所在を確認した仏典や同じく奉天宮殿内の文溯閣ぶんそかくに収蔵されている四庫全書を調査することであった。そのために内藤は周到な準備をした。1905年3月、奉天会戦(3月1~10日)でロシア軍が奉天から退却して日本軍が奉天に入ると、内藤は日露戦争における「陸戦の大勢すでに定る」と判断して、奉天での文献調査の準備に取り掛かった。内藤は『大阪朝日新聞』1905年3月30日号に、「東洋学術の宝庫」という論説を発表して、文溯閣に収蔵されている四庫全書および黄寺などに所蔵されているチベット語、モンゴル語、満洲語の仏典のもつ「東洋学術」上の重要性を強く訴えた(内藤「東洋学術の宝庫」『内藤湖南全集 第四巻』筑摩書房、1971年、177-178頁)。そのうえで、外務省や陸軍と粘り強く交渉して、外務省嘱託員の肩書を入手、陸軍次官、石本新六からは「到達地軍衙に於て宿舎の貸與、糧食の給與、汽車汽船の便乗其他の待遇等……便宜を被與度あたえられたし」という内容の書類を貰った(内藤「游淸第三記」『内藤湖南全集 第六巻』369頁)これだけの準備をしたうえで、1905年7月、内藤は中国へ向かったのである。まだ、日露講和条約(ポーツマス条約)締結(9月5日)以前のことである。

 7月9日、大連で下船した内藤は旅順、営口を経て、7月29日奉天に到着した。内藤は満洲軍総司令部を訪ね、小村寿太郎外相の満洲軍総参謀長、児玉源太郎に宛てた書簡を示して、児玉と会見した。児玉は内藤の調査内容に興味を示し、満洲軍総司令部参謀の福嶋安正少将に引き合わせた。福嶋は陸軍随一の地理学者・言語学者として知られた人物で、内藤の調査計画に「感動」して、まず黄寺から始めるべきだと勧めた。翌日、福嶋は自ら内藤を黄寺に伴い、寺僧らに内藤の調査について詳細な説明を行った。福嶋が内藤の調査にきわめて協力的だったのには、一つの理由があった。それは宮内大臣、田中光顕が満洲軍総司令部に対して、「蒙満蔵経」を日本に持ち帰ることを委嘱したということで、福嶋はそのための仏典調査を東洋学者として最初に奉天入りした内藤に任せようとしたのである。

 8月4日から、内藤は黄寺のそばに設営された満洲軍総司令部衛兵宿舎の一室に滞在して、連日黄寺などに所蔵されていた大蔵経の調査を行った。14日には「奉天蔵経略解題」(「消失せる蒙満文蔵経」『内藤湖南全集 第七巻』筑摩書房、1970年、429-432頁、所収)を作成した。これには黄寺、太平寺、長寧寺、北塔(法輪寺)の「蔵経」の概要が記されている。この「奉天蔵経略解題」の一通は福嶋に提出され、さらに田中宮内大臣にも報告された。

 その間の8月10日には、北塔(法輪寺)を訪ねたが、「満文の蔵経残破の紙屑狼藉地に満つ。之が為に一歎す。其のやや完全なる者は〔すでに、満洲軍総司令部奉天〕軍政署に運び去ると云う」と記している(「游淸第三記」383頁)。北塔は奉天城の外壁のさらに外の東西南北に建てられた四つの守護塔の一つで、各塔には寺院が付設されていた。北塔の寺院は法輪寺といい、そこには満洲人の仏僧養成のために満洲語の大蔵経が収蔵されていたのだが、日露戦争中ロシア軍の軍営とされ、ロシア兵の狼藉により仏典が破損された。内藤が北塔(法輪寺)で観たのはそのうち「やや完全なる者」が奉天軍政署に運ばれた後の「残破の紙屑」だったのである(北塔の位置については図1参照)。この後、内藤は奉天軍政署に保管されていた満洲語の大蔵経の調査を行った。

 11月17日、内藤が清朝の始祖ヌルハチの古都、興京(ヘトアラ)や初期の王たちの墓陵である永陵の史跡探訪旅行から奉天に戻って、黄寺を訪ねると、奉天軍政署の中島通訳が福嶋安正少将の命により黄寺に来てモンゴル語大蔵経(「金字蒙古文蔵経」100余函。もと108函であったが、義和団事件の際数函が破損された)を借り出していったということであった。寺僧たちはこれらが返されることはないだろうと言っていた。この中島通訳というのは本名を中島比多吉ひたきといい、中島敦の父の弟、すなわち中島敦の父方の叔父である。長く中国に滞在し、中国語に堪能だったので、満洲軍通訳に採用、あるいは徴用されたのであろう。中島敦も、1932年8月、旅順の比多吉を頼り、南満洲、北部中国を旅行している。

 その後、この黄寺のモンゴル語大蔵経は東京の宮内省に送られ、東京帝国大学図書館に保管されることとなった。他方、奉天軍政署に運び込まれていた北塔(法輪寺)の満洲語大蔵経は東京の参謀本部に送られ、同じく東京帝国大学図書館に保管されることとなった。しかし、これらのモンゴル語および満洲語の大蔵経は、1923年9月、関東大震災時に発生した火災に東京帝国大学図書館が被災したため、すべて焼失してしまった。

 時日は少しさかのぼるが、8月24日、清国政府から「宮殿拝謁」の許可が出たので、内藤は宮殿内の宝物などの拝観を行った。28日から三日間は文溯閣に収蔵されている四庫全書の調査を行った。

 文溯閣は宮殿内の西側に1782年に建てられた建物である。この1782年という年は四庫全書の書写が完成した年である。四庫全書は七揃いの写本が作られ、北京など各地の書庫に収められたが、そのうちの一揃いが奉天の文溯閣に配布されたのである。文溯閣の四庫全書は何度かの戦乱や騒乱にもかかわらず良好な状態で保存されていた。

 この文溯閣の調査で、内藤の今回の中国旅行の主目的は終わったのであるが、もう一つの目的であった清国行政制度の調査は清国政府の疑惑を招くということで、なかなか進められなかった。その間の9月11日、内藤は東京帝国大学の市村瓉次郎、伊東忠太などと共に「御花園、昭陵、北塔」を訪ねた。『内藤湖南全集 第六巻』(614-618頁)に附載されている北陵の写真(8点)はこの時に内藤の同行者、大里武八郎が撮影したものである。クリスティーのいう南門(正門)から「内苑」への道の両側に置かれた巨大なラクダや馬の石像、さらには隆恩殿(葬祭殿=享殿、太宗ホンタイジの遺灰が安置されている)の前に立つ内藤の写真などがあるので、この時には内藤らはかなり中まで入ることができたのであろう(図2、図3、図4参照)。ただし、北陵最奥部にある太宗ホンタイジの墓廟までは行けなかったようである。

 東京帝国大学は日露戦争中から、さまざまな研究者を中国に派遣することを文部省に求めた。その中には市村瓉次郎のような中国研究者だけではなく、伊東忠太(東京帝国大学工科大学造家学科)のような建築学の専門家もいた。奉天を「東洋学術の宝庫」と考えたのは内藤だけではなかったのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.47)

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世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争
木畑洋一

 1944年3月8日(本稿執筆時の80年前)、日本軍はアジア・太平洋戦争の戦局打開をねらって、当時日本の占領下にあったビルマからインド北東部のインパールへの侵攻作戦を開始した。この作戦は、イギリス軍の反攻によって完全な失敗に終わり、7月初めに中止され、さらにその後の退却過程のなかでも多大な犠牲を生むこととなった。

 アジア・太平洋戦争の初期、東南アジアで勝利を重ねた日本軍はイギリス領であったビルマにも攻め込み、42年5月にそのほぼ全域を占領下に入れた。日本に追い出されたイギリス側は、ビルマ奪回をめざす軍事行動を開始し、その動きは43年から本格化した。インパール作戦が始められた時、ビルマ北部では、オード・ウィンゲートが率いるチンディットと呼ばれる軍隊が、航空機の働きを重視しつつ、日本軍を攪乱したしていた(チンディット作戦)。またビルマ西部のアラカン地方(現在のラカイン州)でも、44年初めからイギリス軍による進撃が始まっていたが、日本軍の側も、それに抗し、さらに予定されたインパール作戦を前に敵の力をこの地方に割かせておくという意図をもって、2月に作戦(第二次アキャブ作戦)を開始した。本稿では、これらの作戦とインパール作戦、およびその後の展開(44年12月から45年3月までのイラワジ会戦などを含む)を、ビルマ戦争と総称することにする。

 ビルマ戦争の中核をなしたインパール作戦は、日本ではアジア・太平洋戦争の各局面のなかでも、強い関心を集めてきた。牟田口廉也将軍の指揮下、十分な補給体制を全く備えないまま過酷な自然条件のなかでの戦いを強いられた日本兵の惨状が、日本による戦争遂行の仕方の非合理性、無謀性をよく示すものとして、批判の対象となってきたのである。インパール作戦については高木俊朗による一連の著作などがよく知られており、最近ではNHKが2度に渡って特別番組を作り(二つ目はインパール作戦後の1年間が対象)、話題となった。その番組内容は書籍化されているが、『戦慄の記録インパール』『ビルマ絶望の戦場』というタイトルがこの戦争についてのイメージを物語っている。[1]

 他方イギリスでの関心は、決して強いとはいえない。第二次世界大戦当時でも、戦後を通しても、ヨーロッパにおける戦争に比べて、アジア・太平洋での戦争全体への関心は薄かった。『忘れられた軍隊』といったタイトルの研究書が出される所以である。[2] そのなかのインパール作戦・ビルマ戦争も重視されてはこなかった。ただその一方で、日本側には欠けている重厚な研究書が世に問われてきていることも、確かである。[3]

 関心の度合いが日本とイギリスでこのように異なるとはいえ、この戦争についてはこれまでさまざまな研究が積み重ねられてきた。しかし、インパール作戦・ビルマ戦争を世界史のなかに位置づけていく上で重要であるものの、従来必ずしも十分に論じられてこなかったと思われる問題がある。筆者が「帝国の総力戦」と呼んできた戦争の性格である。

 第一次世界大戦も第二次世界大戦も、総力戦という性格をもったが、筆者は、この総力戦という概念を比喩的に用いる形で、帝国支配国が戦争に際して帝国領土の人員や物資を大規模に動員することを「帝国の総力戦」と呼んできた。[4]「帝国の総力戦」の姿とそれがもたらしたものを検討することは、帝国主義の時代にできあがった帝国主義世界体制の変容、脱植民地化の過程について考える上できわめて重要な意味をもつ。そうした「帝国の総力戦」の姿を、インパール作戦・ビルマ戦争はよく示しているのである。とくに、イギリス軍にアフリカにおける植民地から動員されたアフリカ兵が加わっていたことに、筆者は注目している。その問題については後に触れることとして、まずは日英両軍における「帝国の総力戦」の形を概観してみたい。その戦争の内実にまで踏み込んで述べることはここではできないため、以下はこうした視点から見た日英両軍の構成の素描である。

 まず日本軍である。日本軍には、日本人の他に、植民地であった朝鮮と台湾から動員された人々が兵士や軍属として参加していた。

 日本軍にはまた、イギリスの植民地であるインドの人々がインド国民軍(Indian National Army: INA)という形で加わっており、これが、この戦争における「帝国の総力戦」の形を複雑なものにしていた。イギリスからの独立を志向するインド民族運動の力を対英戦争のために利用する思惑で42年初めに日本側が組織したインド国民軍は、43年春にチャンドラ・ボースを指導者として戴いてから活気を帯びた。国民会議派議長になったこともあるボースは、ヨーロッパでの開戦後、インド独立への助力をナチス・ドイツに求めようとしたもののうまくいかず、日本側からの誘いに応じたのである。ボースとINAは、インパール作戦を独立達成への有効な手段とみて、日本軍との共同行動をとったのである。しかし、彼らの夢は叶わず、大量の犠牲者を出すに至った。

 日本側は、占領下に置いた末、43年夏に独立を認めていた(実質は全くの傀儡国家であった)ビルマの国軍であるビルマ国民軍(Burma National Army: BNA)も、イラワジ会戦の戦況が悪化するなかで動員した。ただし、その頃には、日本による独立付与が名ばかりのものであったことに不満を抱くBNAの人々は対日蜂起の準備を進めており、45年3月末には蜂起が開始した。

 また、直接の戦地となった地域の現地人の軍への関与の仕方も問題となる。ビルマとインドも多くの民族によって構成されており、さまざまな少数民族が双方の側で戦争に巻き込まれたのである。

 次いで、イギリス軍の場合である。

 そこで何といっても重要な位置を占めるのが、インド兵である。普通、インパール作戦・ビルマ戦争は、日本軍とイギリス軍の間の戦いと表現されることが多いが、イギリス軍(第14軍)の大半はインド人から成っていたのであり、正確には、イギリス・インド軍(英印軍)と表現すべきであろう。

 19世紀以降、インド兵はイギリス帝国の拡大・維持にとって欠かせない存在であった。中国におけるアヘン戦争や、義和団運動鎮圧戦争の場合にとくに顕著であったように、イギリスが植民地戦争を展開していく上で、インド兵は中心的役割を演じたのである。第一次世界大戦においては、150万人近くのインド人が動員され、その内100万人を越える人々がヨーロッパや中東の戦線に送られた。こうしたそれまでの戦争では、インド自体で英印軍が戦闘を行ったことはなかったが(隣国アフガニスタンでの戦争には従事した)、その事態が、この戦争で出現したのである。第二次世界大戦期には、国民会議派のように、即時の独立を求めて、それに応じないイギリスへの戦争協力を拒みつづけた人々も存在したものの、「帝国の総力戦」に協力する者も多く、そうしたインド人が過酷な戦線に投入され、戦争のいずれの局面においても最前線に立って戦った。

 英印軍の有力な構成部分としては、イギリス帝国内の「尚武の民martial race」の代表的存在であったネパール出身のグルカ兵が、この戦争においても重用されたことも忘れてはならない。

 また日本軍についても指摘したように、現地の少数民族も英印軍に使役される形で戦闘に巻き込まれた。とりわけ居住地域が戦闘地域と大きく重なったナガ人の役割は重要である。

 インパール作戦・ビルマ戦争について考える際に、INAを含むインド人や現地少数民族といった要因により注意を払う必要があるということは、最近刊行された笠井亮平の好著のなかで強調されている。[5]

 ただ、その笠井も軽視している「帝国の総力戦」の構成員が存在する。アフリカからはるばるとインド洋を渡る形でビルマ戦線に動員されたアフリカ人兵士たちである。日本では近年、アフリカ研究者の溝辺泰雄がこの問題に着目しているが、[6] 本格的な研究はまだない。イギリスにおいては第二次世界大戦全体の「帝国の総力戦」としての側面についての研究は一定程度行われているものの、[7] インパール作戦・ビルマ戦争でのアフリカ兵に関する検討は進んでいるとは言いがたい。

 アフリカ人は第一次世界大戦においても大量に動員された。ただしイギリスは、アフリカ人兵士をヨーロッパ戦線で用いたフランスと異なり、アフリカ大陸内のドイツ植民地をめぐる戦争で彼らを用い、しかもその役割は主として物資の運搬であった。そこには、白人との戦いにおいて黒人は用いないという人種主義的考慮が働いていた。そのことを考えると、アフリカ兵をインド、ビルマへ送り、直接の戦闘要員として用いたこと(物資運搬要員としても使われたが)は、イギリスの「帝国の総力戦」の新たな面を示していたといってよいであろう。

 アフリカ兵は、インパール作戦自体には参加していない。彼らが用いられたのは、チンディット作戦とアラカンでの戦闘、およびインパール作戦後の日本軍掃蕩作戦においてである。チンディット作戦にはガーナやナイジェリアなど西アフリカからの兵士が参加し、アラカン作戦には西アフリカ兵の他ケニアなどの東アフリカ兵も参加した。そしてインパール作戦後の戦闘には、東アフリカ兵が用いられたのである。

 次に、この動員が戦後におけるアフリカの変化に及ぼした影響の一例に触れておこう。

 1950年代のケニアで、イギリス側が「マウマウ」と呼んだ民族運動家たち(彼ら自身はケニア土地自由軍と称した)に過酷な弾圧を加えたことは、よく知られている。その「マウマウ」の指導者の一人に、「中国将軍General China」と呼ばれた人物がいる。ワルヒウ・イトテ(1922-93)という人物で、42年にイギリス軍に入り、ビルマでの戦争に加わった。カレワでの戦い(44年暮れに展開したはずであるが、彼自身は43年と記している)であり、ギクユ人としてのアイデンティティしかもっていなかった自分自身はケニア人であると、彼はそこで初めて意識したという。彼はそうした意識のもと、ケニアへの復員後「マウマウ」に参加し、勇猛さで知られるようになった。中国将軍というあだ名は、朝鮮戦争もしくはマラヤでの中国人の活動に刺激されたためといい、ビルマ戦争とは関係がないようであるが、彼の自伝によれば、ビルマの軍隊で習得したことをケニアでの民族運動に活かしたのである。[8] 彼は54年に逮捕されて死刑宣告を下されたものの、減刑され、ケニア独立後は公務員としての生活を送ることになる。

 アジアの戦争とアフリカの変動とがこのように連動していく様相などに注目しつつ、インパール作戦・ビルマ戦争の「帝国の総力戦」としての性格をより深く検討していきたいと、筆者は思っている。本稿はその準備作業としてのごく粗いデッサンである。


[1] NHKスペシャル取材班『戦慄の記録インパール』岩波書店、2018(岩波現代文庫版、2023;NHKスペシャル取材班『ビルマ絶望の戦場』岩波書店、2023.

[2] Christopher Bayly and Tim Harper, Forgotten Armies: The Fall of British Asia        1941-1945, London: Allen Lane, 2004.

[3] ルイ・アレン『ビルマ遠い戦場 ビルまで戦った日本と英国1941-45年』上・中・下、原書房、1995;Robert Lyman, A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain 1941-45,       Oxford: Osprey Publishing, 2021.

[4] 木畑洋一「「帝国の総力戦」としての第一次世界大戦」メトロポリタン史学会編『20世紀の戦争―その歴史的位相』有志舎、2012など。

[5] 笠井亮平『インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか』文春新書、2021.

[6] 溝辺泰雄「第二次世界大戦期のビルマ戦線に出征したローデシア・アフリカ人ライフル部隊(現ジンバブウェ)のアフリカ兵士からの手紙:全文訳」(1)(2)『明治大学国際日本学研究』6-1、7-1、2013-2014.

[7] たとえば、Ashley Jackson, The British Empire and the Second World War, London: Hambledon Continuum, 2006;David Killingray, Fighting for Britain: African Soldiers in the Second World War, Woodbridge: James Currey, 2010.

[8] Waruhiu Itote (General China), ‘Mau Mau’ General, Nairobi: East African Publishing House, 1967, Ch.3

(「世界史の眼」No.47)

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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 8(2024年1月31日)

国際司法裁判所暫定措置命令

 2024年1月25日、国際司法裁判所は、昨年12月30日に南アフリカがイスラエルのガザ攻撃を「ジェノサイド」だとして訴えた件につき、暫定措置を命じた。裁判所は、南アがイスラエルに対して訴えた訴訟を、同裁判所が裁判する権利はないとするイスラエルの主張を退けたうえで、南アが裁判所に対しイスラエルに命じてほしいと訴えていた9件の措置につき、6件を認めて、イスラエルに対して命令を下した。日本のマスコミなどでは十分に報道されていないので、ここに諸項目をすべて知らせることにする。

1. まず、南アが求めていた9つの措置とは何かを見ておこう。

  1. ガザの内外における軍事行動を停止すること
  2. 軍事行動を現在以上に拡大しないこと
  3. 十分な食糧、水、燃料、避難所、衛生、公衆衛生の入手を認めること
  4. ガザにおけるパレスチナ人の生活の破壊を、心理的ダメージを含めて、防止すること
  5. ジェノサイドの申し立てを裏付ける証拠を破壊しないこと、また事実調査使節のような国際組織がこのような証拠を保存するためにガザにはいることを拒否しないこと
  6. ジェノサイド条約の規則を遵守すること
  7. ジェノサイドに関与した人々を罰するための措置をとること
  8. 事件を複雑化したり長期化させるような行動をとらないこと
  9. 以上の措置を実行する進捗状況を裁判所に定期的に報告すること

2. 以上の南アの要求にたいして、裁判所がイスラエルに命じた措置は6つであった。 

(a) イスラエルは、ジェノサイド条約第二条に規定された行為を防止するために可能なあらゆる措置をとらなければならない。その第二条というのは、以下のとおりである。

 この条約では、集団殺害とは、国民的、人種的、民族的又は宗教的集団を全部又は一部破壊する意図をもつて行われた次の行為のいずれをも意味する。

  • (a) 集団構成員を殺すこと。
  • (b) 集団構成員に対して重大な肉体的又は精神的な危害を加えること。
  • (c) 全部又は一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すること。
  • (d) 集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること。
  • (e) 集団の児童を他の集団に強制的に移すこと。

(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(b) イスラエルはその軍隊が上のいかなる行為も行わないように保証しなければならない。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(c) イスラエルは、「ガザ地区のパレスチナ人にたいしジェノサイドを行わせる直接的・大衆的な扇動」を防止し罰しなければならない。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(d) イスラエルは、ガザの民間人に基礎的なサービスと基本的な人道的援助を与えなければならない。(これにはウガンダの判事が反対した)

(e) イスラエルは、ガザにおける戦争犯罪の証拠を破壊することを防止し、事実調査使節が入ることを認めなければならない。(これにはウガンダの判事が反対した)

(f) イスラエルは、裁判所が求める処置を遵守するために執った措置を判決の一か月以内に報告しなければならない。南アフリカはその報告に反論する機会を与えられるものとする。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

 結局、この中間的判決では、南アが求めていた9つの措置のうち、1、7、8は採用されなかったわけである。また裁判所はこの判決を履行させる強制力は持っていない。したがって、次は国連安保理事会に付託されることになる。なおウガンダの判事は、イスラエルはジェノサイドを犯そうとは「意図」していないのであるから、この事件は国際司法裁判所の検討事項には当てはまらないと主張して6項のすべてに「反対」した。

https://www.aljazeera.com/news/2024/1/26/what-has-the-icj-ordered-israel-to-do-on-gaza-war-and-whats-next

                             (南塚信吾)

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アメリカの世界史研究の第一人者であるパトリック・マニングが自身のサイトに、現在のガザ危機について見解を載せ、各方面からのコメントを求めている。かれはアメリカ政府と、国連およびその後ろの国際世論とを対置させつつ状況を見ており、今回の南アによる国際司法裁判所へのジェノサイド訴訟と裁判所の判決に注目している。アメリカの良心的な立場を示すものとして、下のサイトでかれの意見をぜひご一読願いたい。そして、コメントも。

Who Rules the World Today? – Patrick Manning (patrickmanningworldhistorian.com)

(南塚信吾)

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「世界史の眼」No.46(2024年1月)

2024年最初の「世界史の眼」には、小谷汪之さんに、「奉天からの世界史」の(上)をご寄稿頂きました。今号を含め3回に渡り連載致します。また、世界史寸評として、南塚信吾さんに、「外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考」をお寄せ頂きました。

小谷汪之
奉天からの世界史」(上)

南塚信吾
世界史寸評 外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考

*  *  *

世界史研究所では、引き続き「「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える」と題して、この問題に関する論考を掲載しております。12月には4度にわたり掲載いたしました。

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える4(2023年12月9日)

藤田進
イスラエル軍ガザ攻撃60日目の今

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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える5(2023年12月13日)

油井大三郎
米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向

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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える6(2023年12月20日)

木畑洋一
イスラエル批判と反ユダヤ主義

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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える7(2023年12月23日)

藤田進
戦争の裏に天然ガスあり

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奉天からの世界史(上)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、本号)
2 内藤湖南と奉天
 (次号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次々号)

はじめに

 奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)は清朝の始祖ヌルハチが1625年に首府とした古都である。1644年3月、反乱を起こした李自成軍が北京を占拠して明朝を滅ぼしたが、5月清軍が李自成軍を破って北京に入城した。その後清朝が北京を首府とすると、奉天は陪都となったが、ヌルハチおよび第二代太宗ホンタイジの墓陵の地として重要な位置を占め続けた。なかでも太宗ホンタイジの墓陵である昭陵(通称、北陵)は近代になってもいろいろな人たちが訪れて、記述を残している。本稿では、19世紀末から20世紀前半の昭陵(北陵)にかんするいくつかの記述を追いながら、奉天という小さな窓から見える世界史を描いてみたいと思う。なお、以下では北陵という通称を用いる。(戦前の文献からの引用では、旧字体を新字体に、適宜片仮名を平仮名に改めた。また、読みやすくするために、句読点を補い、ルビを付した。)

1 奉天におけるキリスト教布教

(1)キリスト教布教の開始

 満洲、特に奉天は19世紀から20世紀前半、キリスト教の布教が進展した地域のようである。奉天における最初の宣教団はフランスのカトリック宣教団で、1838年に布教活動を開始した。次いで、1876年にスコットランド長老教会の宣教師が何度も奉天を訪れ、時には長期に滞在して布教活動を行った。1883年、スコットランド長老教会から派遣されたドュガルド・クリスティー牧師が奉天に入り、布教活動を本格化させた。クリスティーは外科・内科の医療活動を通して布教を進める伝道医師であった。彼の奉天在住は1922年までの約40年に及んだが、『奉天三十年』(Thirty Years in Moukden, being the experiences and recollections of Dugald Christie, London, 1914. 矢内原忠雄訳、岩波新書、1938年)という著書に1912年までの体験を書き残している。

 クリスティーらスコットランド長老教会の宣教師たちは、奉天で教会や病院を建てる土地を入手するのに苦労したが、最終的には奉天城東南の外壁に沿った「小河沿」(「小さな河のほとり」。図1参照)と呼ばれる地域に敷地を購入することができた。この地について、クリスティーは次のように書いている。

 市街の東南、繁華な通りから遠くない所に、小河沿といふ、流れの緩い、殆んど湖水のやうな静かな河がある。夏にはその岸辺は散歩遊楽の人々の好んで訪れる処であり、多くの茶店でしゃべったり茶を啜ったりして、水に浮かぶ葉の広い美しい紅蓮の花を眺め、奉天第一の良き空気を吸ふのである。我々は幸運にもこの流れを瞰下みおろす高台に二つの屋敷を手に入れた。我々の立場より見て、病院の敷地としてこれ以上に良好なる場所は奉天中になかった。其処にあった建物は病室に利用することとし、全然新しく且つ設備の整った診療所を正面に建てた。病院は1887年(明治二十年)、我々の友人たる満洲族の大官兵部尚書によりて正式に開院せられ、奉天の主だちたる官吏多数が列席した。同じ日に基督キリスト教徒の熱烈なる集会が、約百五十名を容れる待合室で開かれた。病院は百名の男と五十名の女に対する収容能力を有した。(『奉天三十年』上巻、14-15頁)

 この小河沿という地は奉天の東南を東北から南西に流れる渾河こんがの支流である万泉河に沿った地域で、奉天の外壁を作るときに流れを妨げないためにその流入部と流出部だけ外壁を木組みにしたものである。当時、奉天随一の遊楽地、歓楽地として賑わっていた。その小河沿の高台に病院を建てることができたのであるから、スコットランド長老教会宣教団にとって「幸運」なことであったのは確かである。

 その頃の北陵について、クリスティーは次のように書いている。

 市の北方数マイル、広々とした草原を行けば、奉天附近の田舎の単調無味を償うて余りある一地劃――樹間深く埋もれた努爾哈赤ヌルハチの子の墓(北陵)がある。外周は純然たる野生の森であって、迂曲せる小径は野花、密林、空地を縫うて、どこに出られるとも思われない。六月の午後、かしわや樺の生き生きとした若緑に反映して白い樹の花や地に尾を曳く風車の花は驚くべき美を放ち、緑と白とを透かして靑空は一層靑に輝き、日光は小暗き影の中に参差たる光を落す。〔中略〕樹の間がくれに墓を繞らす鮮やかな丹塗の塀が輝き、中なる黄色の瓦の屋根が一寸見える。この矩形を成せる外囲の南に、浮彫に刻んだ白色の大理石の拱門アーチが一つ立って居り、その背後に正門があるがこれは閉ざして誰も入れない。〔後略〕

 多年の間、側門も亦固く閉鎖されて、此処に住む満洲族の警吏の外は何人も此の聖域の内部を窺ふことを得なかった。現在では〔1912年のことか? 引用者〕東と西の門が開かれて居り、一方の門から他方の門迄アーチ形を成した松並木の通路が通って居る。〔後略〕

 閉鎖されて居る南門から石を舗いた広い道が内苑に通じて居り、その両側には大きい石彫の動物が並んで居る。

 内苑の門は通過證パスの所持者か、もしくは墓の監視人を知っている者にでなければひらかれない。〔中略〕すべての最奥の処に、一つの大きな円形の草した土盛りがある。これが即ち〔太宗ホンタイジの〕墓であって、その頂に一本の樹が生えて居る。(『奉天三十年』上巻、23-25頁)

(2)日清戦争と奉天

 スコットランド長老教会宣教団の活動はすべりだしは順調だったのだが、その後数度にわたって大きな困難に直面することになった。その第一は日清戦争(1894~95年)であり、次は義和団事件(1900年)、そして第三には日露戦争(1904~05年)であった。

 1894年7月、豊島沖の海戦で日清戦争が始まると、奉天からも左宝貴将軍に率いられた奉天部隊が陸路、朝鮮に向かった。左宝貴軍は他の四つの清軍部隊と共に平壌の防衛に当たることになった。9月15日、日本軍は平壌を守る清軍に対して総攻撃をかけた。一方、清軍側は各部隊の連絡が取れず、個々バラバラに戦うという状態であった。その中で、左宝貴が銃弾を受けて戦死すると、左宝貴軍は算を乱して平壌から撤退した。清朝の他の部隊も撤退し、翌日には日本軍が平壌を占拠した。

 左宝貴軍敗退の報が奉天に届くと、人々は日本軍の奉天攻撃を恐れて、奉天北方や東北方面の山岳部に避難しようとした。スコットランド長老教会宣教団は南方、遼河が遼東湾に入る河口に近い開港場である「牛荘」(本当の牛荘ではなく、実際には営口。イギリスは1858年の天津条約との関係で、営口を「牛荘」と呼び続けた)に避難することになり、10月28日、クリスティーも奉天を退去して、「牛荘」に向かった。「牛荘」には他の宣教団がいくつもあったので、12月、協力して赤十字病院を開設し、戦傷者の治療などに当たった。1895年3月7日、日本軍は「牛荘」を攻撃し、小規模の市街戦の後、これを占拠した。しかし、それによって宣教団の活動が妨害されるということはなかった。1895年4月17日、日清講和条約が調印され、日清戦争は終結した。これにより、7月、クリスティーらは奉天に戻った。奉天は戦火に見舞われることもなく、各キリスト教団の教会や病院はすべて無事であった。

(3)義和団と奉天

 しかし、1900年の義和団事件では、奉天のキリスト教宣教団やキリスト教徒は多大な被害を被った。1900年6月、義和団は北京に入り、清国兵と共に各国公使館を攻撃、日本公使館の職員1名とドイツ公使が殺害された。6月19日、西太后は義和団を支持し、列強と戦うことを決定、21日、列強に対して宣戦布告した。その頃、奉天にも義和団の首領が何人か来て、団員の徴募を始めた。6月20日、「外国人を口穢く悪罵した貼紙が到るところに貼りだされ、すべての忠良なる支那人民は蹶起して彼らを国土より掃蕩せよ、と呼びかけられた。二十四日が建物焼打の日と定められ、それに助勢した者には賞金が約束された」(『奉天三十年』上巻、182頁)。

 こういう騒然たる情勢の中、6月23日、スコットランド長老教会宣教団はクリスティーら3人を残して、奉天を退去し、25日にはクリスティーらも「牛荘」に退避した。30日、クリスティーは奉天に残っていた中国人医師からの次のような電報を受け取った。「本日四時頃教会が焼かれた。病院と住宅とが燃えつつある。牧師の生死、並に殺された信者数不明」。その翌朝には、「男子病院、婦人病院、住宅、聖書協会の建物、教会、礼拝堂、すべて拳匪〔義和団〕のため灰燼に帰した」という電信があった(『奉天三十年』上巻、187頁)。

 その後、「牛荘」も危険になったため、スコットランド長老教会宣教団は日本、上海、本国(スコットランド)などに四散した。クリスティーは日本に逃れ、2カ月ほど滞在した。

 この頃、奉天では、クリスティーは奉天市外の北陵の森の中に潜んでいるという噂が立った。病院で治療を受けたことがある中国人馬商人で、普段はぺてん師のならず者でとおった男が、さまざまな食料品を一杯籠に入れて、密かに北陵の森の中を一日中クリスティーを探しまわった。外国人を助けたことが知られると殺されるのであるから、彼は命の危険を冒してそうしたのである(『奉天三十年』上巻、73-74頁)。当時、北陵を取り囲むうっそうとした森は身を隠したい人が隠れる絶好の場所と考えられていたのであろう。

 他方、8月14日、日・露・英・独など8カ国連合軍が北京に入城し、翌15日、光緒帝は西太后と共に西安に蒙塵(逃亡)した。これにより、清国政府の義和団に対する対応が一変し、9月7日、義和団鎮圧令が出された。奉天でも、清国軍が義和団の弾圧に当たり、10月1日にはロシア軍も奉天に入って、治安が回復された。しかし、この間に奉天のキリスト教会のすべてが破壊され、多くの中国人キリスト教徒が殺害された。特に、フランスのカトリック宣教団は数百人の中国人信徒とともに頑丈な壁で囲われた教会の敷地に立てこもり、武装して抵抗したが、最後には大砲で攻撃されて、全滅した(『奉天三十年』上巻、191-193頁)。クリスティーは11月9日、肌を刺す寒気の中奉天に帰ったが、とても布教活動や医療活動をできる状態ではなかったので、2、3週間後には「牛荘」に戻り、その後一時スコットランドに帰国した。

(4)日露戦争と奉天

 1904年2月、日露戦争が始まり、5月には日本軍が遼東半島に上陸、満洲に戦火が拡がっていった。8月末には遼陽が主戦場となったが、9月4日、ロシア軍が遼陽から北方に退却し、日本軍が遼陽に入った。10月には遼陽と奉天の間の沙河で日露両軍が対峙し、戦局は膠着状態になった。翌1905年2月末、ロシア軍は奉天南方の日本軍に攻撃をかけようとした。それに対して日本軍が先手を打ってロシア軍陣地を攻撃したことから、奉天会戦と呼ばれる戦闘が始まった。3月1日、日本軍は奉天に総攻撃をかけ始めた。ロシア軍は北陵の森を占領していたので、8日には、北陵の森でも激しい戦闘があった。9日、ロシア軍は余力を残しながらも、戦闘態勢の整備のために、北方の鉄嶺さらにはハルビンへと退却することになった。10日、日本軍が奉天に入った。

 これらの満洲における日露両軍の戦闘は人々の生活を大混乱に陥れた。奉天には周辺の村々から戦火に追われた人々が大量に流入し、物価や家賃が数倍に高騰した。しかし、日露戦争にかんして局外中立の立場をとる清国の行政機関が曲がりなりにも機能していたこともあり、義和団事件の時のような極端な治安の乱れはなかった。

 クリスティーは日露戦争が始まった時、中国の天津に行っていて、すぐには奉天に戻れなかったのであるが、日本軍が遼陽を占領した後の1904年9月9日、混乱するロシア軍の間を縫うようにして、奉天に戻った。クリスティーはこの間の奉天の状況を次のように書いている。

 一九〇五年(明治三十八年)の始めの三箇月間に、我々は一万人以上、政府は三万八千人以上の人を助けた。始めから終り迄の間に、奉天に来た避難民は約九万人と推定せられ、この外新民屯その他に逃げた者も何千人とあった。

 これらの群衆に住居を与えるのは容易な問題ではなかった。しかし、冬に一晩露天で寝ることは多数の者に取りて死を意味したから、最も間に合わせの設備でも感謝を以て迎へられた。我々は、要求せられたら家賃を払うことにして、所有者の逃げ去った一二の大きい空屋敷を占領した。焼け跡となった我々の病院の屋敷内には約七百人を収容した。(『奉天三十年』下巻、252頁)

 当時に於ける奉天の衛生状態が良くなかったことは、想像するに難くないであろう。流行病が頻りにあった。小児の多数ゐる我々の収容所では、麻疹、水痘、猩紅熱が絶え間なくあり、更に天然痘の流行があって多くの小児の生命を奪った。チフス患者のためには別の屋敷を宛てたが、その他の病気に対しては隔離は不可能であった。腸チフスの流行は、それの起り得べきあらゆる条件があったに拘わらず、幸にも見ないですんだ。(『奉天三十年』下巻、254頁)

 日露戦争は奉天にまで戦火を及ぼしたが、奉天のキリスト教医療宣教団は、義和団事件の時とは異なり、日露戦争中も戦後も医療活動を継続することができたのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.46)

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世界史寸評
外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考
南塚信吾

 わたしたちの著した『軍事力で平和は守れるのか』(岩波書店、2023年)でも紹介したように、1959年にオスロ平和研究所を創設して「平和学」の祖と言われるヨハン・ガルトゥングは、1958年に、平和を定義して、武力紛争など「直接的暴力」を克服することによって達成される「消極的平和」と、社会構造に生じる貧困や差別などの「構造的暴力」を克服することによって達成される「積極的平和」を分けることができ、とくに後者の平和が重要になってきていると主張した(かれの積極的平和の概念は、安倍元首相の「対米追従」の積極的平和主義と用語は似ているが内容は大いに異なるものであり、ガルトゥング自身、「印象操作」だと批判している)。そのガルトゥングは、2017年に『日本人のための平和論』(ダイヤモンド社)という著書を著している。この書において、ガルトゥングは、日本における平和論が「外から」はどのように見えているのかを示してくれている。同書については、すでに法律家の大久保賢一氏らの紹介がある(ヨハン・ガルトゥング著『日本人のための平和論』を読む (hankaku-j.org))が、歴史学の面からも検討されてよいと考える。

***

 ガルトゥングはまず、日本の安全保障観が「外から」どのように見えているのかを、以下のように指摘している。筆者の観点から少し断定的にまとめてみた。

  1. 日本は外からは完全にアメリカの「従属国」であり、「占領」下にある「植民地のレベル」にあると見られている。日本は「対米追従」をやめて、アメリカから「真に独立」すべきである(『日本人のための平和論』14-16、115-116、122ページ)。 
  2. 米国は日本の憲法第9条も邪魔だと考え始めている。日本国憲法は、もともと米国が統治しやすいように「押し付けた」ものだが、米国は、第9条がなくなれば、いまや変化した米国の世界戦略に日本を有効に使えると考えている(14-15ページ)。一方、「憲法9条があるために、これまで日本では現状を変えるための平和政策が生まれてこなかった。ほとんどの日本人は9条がすべて面倒を見てくれると信じ、代替案が必要などと考えもしなかった」。「いざとなったら憲法9条が守ってくれる。その発想がいまの日本を危うくしているのではないだろうか。」という(223-224ページ)。
  3. 沖縄は「琉球処分」の前に戻って、「自立」すべきである。例えば、日本の中の「特別な地位」を認められるべきである。そして、沖縄の米軍基地は全廃すべきである(40-43ページ)。
  4. すべての米軍基地を日本から撤退させればいい。日本は米軍基地などなくても安全を確保できる。米国は基地と主要兵器を各国の中心から離れた周辺に置いているが、日本ではそうではない。そういう基地がない方が創造的な平和政策が実施しやすくなる(33-35ページ)。
  5. 国を守るためには、外交努力だけでなく武力による防衛も必要である。だが、日本は攻撃的な武器を持たず、徹底して「専守防衛」を維持すべきである。とくに長距離兵器を持たないなどの原則を立てるべきである(44-53、120-121ページ)。これに関連して、原子力発電とも決別すべきである(125-128ページ)。
  6. 尖閣、北方4島などは関係各国の「共同所有・管理」にするのがよい(61-63、116-118ページ)。
  7. 中国の考え方を理解すべきである。向こうから戦争してくることはあり得ない。中国はこれまで一度も日本本土を攻撃したことがない。中国は自分の文明を他より優れていると考えて、傲慢かもしれないが攻撃的ではない。むしろ防御的である。中国はヨーロッパ諸国や米国と違って、軍事力をひっさげて広大な世界に進出したことはない。中国に日本を攻撃する意図があるとは思えない。日本人は、「私たちは彼らを攻撃したことがある。彼らは報復を計画しているに違いない。ゆえに彼らは危険だ」というパラノイアを懐いているのだ(74-80ページ)。 
  8. 北朝鮮とは「和解」のチャンスはある。日本が植民地支配と戦争中に与えた損害にたいして政府が明確な「謝罪」をし「補償」をすれば一歩前進する。「慰安婦問題」については、北朝鮮は韓国ほどヒステリックではない。「拉致問題」は日本が戦争中までに行った強制労働などへの「単純な復讐」なのである。北朝鮮の核保有は「抑止力」のためであり、国力の誇示のためである。経済制裁はまったく「逆効果」である(91-100,245-259ページ)。北朝鮮が望んでいるのは、平和条約締結、国交正常化、核なき朝鮮半島である(119ページ)。
  9. 日本は関係各国と歴史的事実を共同で確定し、「和解」を探るべきである。慰安婦問題、南京事件、真珠湾攻撃、原爆投下問題について、関係国とこれを行うべきである(101-114ページ)。
  10. 「東北アジア共同体」を構想するべきである。そこには中国、北朝鮮もメンバーにはいるべきである。諸国間の緊張・対立はアメリカを利するだけである(118-120ページ)。

 要するに、日本は「対米追従」をやめて、近隣アジア諸国と対話し、独自の外交と防衛の政策を追求すべきであるというのである。

***

ガルトゥングは、以上のような指摘をしたうえで、次に、アメリカの対日政策について、以下のように言う。

  1. 米国が他国に行う軍事介入の目的は、テロとの戦いのためでも、人権や民主主義の擁護のためでもなく、覇権主義の行使であり、経済的利益の確保なのである(28ページ)。
  2. こういう覇権主義を進めるアメリカは頼れる仲間を次第に失いつつある。中南米、ヨーロッパで足場を失いつつある。そして、今や中国の挑戦を受け始めている。そういう時、「この手詰まりを打開するために日本を使おうとしている」のだ(30ページ)。
  3. 米国は日本に対し、ただ米国に守られているだけでなく、米国とともに戦闘に参加させる必要があると考えている。そのためには憲法第9条は邪魔だと考えている(14-16、36.ページ)。
  4. 日本が他国に攻められたとしても、米国が日本を助けに来るとは思えない。そのことは強く疑うべきである(36ページ)。
  5. 「核の傘」などということは信じられない。米国が日本を守るために中国と核戦争に突入するリスクを取るということは信じられないことである(36-37ページ)。
  6. いま多くの日本人は、米国に守ってもらわなければ日本の安全は守れないのではないか、そのためには「集団的自衛権」を行使して米国に協力しなければならないのではないか、日本はテロとの戦いに参加する道義的義務があるのではないか、と思っているように見受けられる。「集団的自衛権」は日本を守るどころか、日本の安全を脅かすものでしかない。それは日本をより危険な状況に陥れる。「集団的自衛権」は、全くのナンセンスであり、プロパガンダである。それは軍事同盟であり、「米国による他国攻撃に参加する権利」なのである(16-18ページ)。
  7. 中国や韓国の人々は、米国と、米国に動かされる日本の「タカ派」を恐れている。日本は、他国からは、それほど「安全な国」だとは見られていない、むしろ「危険な国」と見られていることを自覚しておく必要がある(21-23ページ)。

***

 ガルトゥングが示すこのような「外から」の見方によって、われわれは自分の置かれている場所を見つめなおすことができるのではないだろうか。われわれのかなりの人は、日本は平和憲法を持っている平和な国民なのであり、さらに日米同盟によりアメリカに守られているのだと、思っているかもしれない。ガルトゥングは、「外から」見れば、それは「幻想」だというのだ。

 しかし、われわれはそれを「幻想」と言われると反発する。それは、われわれの思考があまりにもアメリカべったりになっているからではないだろうか。いったい、日本はいつからこのようにアメリカべったりになったのだろうか。

 考えるに、1950年代-70年代においては、日本はアジア諸国や社会主義圏との関係も尊重して、ある程度自分たちの行方を模索していたのではなかろうか。1955年のバンドン会議、56年の対ソ交渉、1972年の日中国交回復などを見ればわかるだろう。十分な検証が必要ではあるが、転機は1979年頃ではなかろうか。「日米同盟」という用語が使われ始めたのは、1979年ごろからである(冨田佳那「「日米同盟」言説の出現」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』2019)。それが既成事実となり、大義になり、日常になる。1980年代の中曽根・レーガン時代はそうであった。そして、今やわれわれの思考はあまりにもアメリカべったりになってしまっている。政治だけでなく、文化もメディアもそうである。歴史学もそうでないといいのだが。ガルトゥングの言う事は、日本はもっと創意工夫をした外交と安全保障の政策を追求すべきだということであろう。なお、「対米従属」がもたらす諸問題については、最近出た内田樹・白井聡『新しい戦前』(朝日新書、2023年)でも論じられている。

(本論での出典は、ヨハン・ガルトゥング著 御立英史訳『日本人のための平和論』ダイヤモンド社、2017年―Johan Galtung (with Miguel Rivas-Micoud), People’s Peace: Positive Peace in East Asia & Japan’s New Role, Tuttle-Mori, 2017)

(「世界史の眼」No.46)

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