世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争
木畑洋一

 1944年3月8日(本稿執筆時の80年前)、日本軍はアジア・太平洋戦争の戦局打開をねらって、当時日本の占領下にあったビルマからインド北東部のインパールへの侵攻作戦を開始した。この作戦は、イギリス軍の反攻によって完全な失敗に終わり、7月初めに中止され、さらにその後の退却過程のなかでも多大な犠牲を生むこととなった。

 アジア・太平洋戦争の初期、東南アジアで勝利を重ねた日本軍はイギリス領であったビルマにも攻め込み、42年5月にそのほぼ全域を占領下に入れた。日本に追い出されたイギリス側は、ビルマ奪回をめざす軍事行動を開始し、その動きは43年から本格化した。インパール作戦が始められた時、ビルマ北部では、オード・ウィンゲートが率いるチンディットと呼ばれる軍隊が、航空機の働きを重視しつつ、日本軍を攪乱したしていた(チンディット作戦)。またビルマ西部のアラカン地方(現在のラカイン州)でも、44年初めからイギリス軍による進撃が始まっていたが、日本軍の側も、それに抗し、さらに予定されたインパール作戦を前に敵の力をこの地方に割かせておくという意図をもって、2月に作戦(第二次アキャブ作戦)を開始した。本稿では、これらの作戦とインパール作戦、およびその後の展開(44年12月から45年3月までのイラワジ会戦などを含む)を、ビルマ戦争と総称することにする。

 ビルマ戦争の中核をなしたインパール作戦は、日本ではアジア・太平洋戦争の各局面のなかでも、強い関心を集めてきた。牟田口廉也将軍の指揮下、十分な補給体制を全く備えないまま過酷な自然条件のなかでの戦いを強いられた日本兵の惨状が、日本による戦争遂行の仕方の非合理性、無謀性をよく示すものとして、批判の対象となってきたのである。インパール作戦については高木俊朗による一連の著作などがよく知られており、最近ではNHKが2度に渡って特別番組を作り(二つ目はインパール作戦後の1年間が対象)、話題となった。その番組内容は書籍化されているが、『戦慄の記録インパール』『ビルマ絶望の戦場』というタイトルがこの戦争についてのイメージを物語っている。[1]

 他方イギリスでの関心は、決して強いとはいえない。第二次世界大戦当時でも、戦後を通しても、ヨーロッパにおける戦争に比べて、アジア・太平洋での戦争全体への関心は薄かった。『忘れられた軍隊』といったタイトルの研究書が出される所以である。[2] そのなかのインパール作戦・ビルマ戦争も重視されてはこなかった。ただその一方で、日本側には欠けている重厚な研究書が世に問われてきていることも、確かである。[3]

 関心の度合いが日本とイギリスでこのように異なるとはいえ、この戦争についてはこれまでさまざまな研究が積み重ねられてきた。しかし、インパール作戦・ビルマ戦争を世界史のなかに位置づけていく上で重要であるものの、従来必ずしも十分に論じられてこなかったと思われる問題がある。筆者が「帝国の総力戦」と呼んできた戦争の性格である。

 第一次世界大戦も第二次世界大戦も、総力戦という性格をもったが、筆者は、この総力戦という概念を比喩的に用いる形で、帝国支配国が戦争に際して帝国領土の人員や物資を大規模に動員することを「帝国の総力戦」と呼んできた。[4]「帝国の総力戦」の姿とそれがもたらしたものを検討することは、帝国主義の時代にできあがった帝国主義世界体制の変容、脱植民地化の過程について考える上できわめて重要な意味をもつ。そうした「帝国の総力戦」の姿を、インパール作戦・ビルマ戦争はよく示しているのである。とくに、イギリス軍にアフリカにおける植民地から動員されたアフリカ兵が加わっていたことに、筆者は注目している。その問題については後に触れることとして、まずは日英両軍における「帝国の総力戦」の形を概観してみたい。その戦争の内実にまで踏み込んで述べることはここではできないため、以下はこうした視点から見た日英両軍の構成の素描である。

 まず日本軍である。日本軍には、日本人の他に、植民地であった朝鮮と台湾から動員された人々が兵士や軍属として参加していた。

 日本軍にはまた、イギリスの植民地であるインドの人々がインド国民軍(Indian National Army: INA)という形で加わっており、これが、この戦争における「帝国の総力戦」の形を複雑なものにしていた。イギリスからの独立を志向するインド民族運動の力を対英戦争のために利用する思惑で42年初めに日本側が組織したインド国民軍は、43年春にチャンドラ・ボースを指導者として戴いてから活気を帯びた。国民会議派議長になったこともあるボースは、ヨーロッパでの開戦後、インド独立への助力をナチス・ドイツに求めようとしたもののうまくいかず、日本側からの誘いに応じたのである。ボースとINAは、インパール作戦を独立達成への有効な手段とみて、日本軍との共同行動をとったのである。しかし、彼らの夢は叶わず、大量の犠牲者を出すに至った。

 日本側は、占領下に置いた末、43年夏に独立を認めていた(実質は全くの傀儡国家であった)ビルマの国軍であるビルマ国民軍(Burma National Army: BNA)も、イラワジ会戦の戦況が悪化するなかで動員した。ただし、その頃には、日本による独立付与が名ばかりのものであったことに不満を抱くBNAの人々は対日蜂起の準備を進めており、45年3月末には蜂起が開始した。

 また、直接の戦地となった地域の現地人の軍への関与の仕方も問題となる。ビルマとインドも多くの民族によって構成されており、さまざまな少数民族が双方の側で戦争に巻き込まれたのである。

 次いで、イギリス軍の場合である。

 そこで何といっても重要な位置を占めるのが、インド兵である。普通、インパール作戦・ビルマ戦争は、日本軍とイギリス軍の間の戦いと表現されることが多いが、イギリス軍(第14軍)の大半はインド人から成っていたのであり、正確には、イギリス・インド軍(英印軍)と表現すべきであろう。

 19世紀以降、インド兵はイギリス帝国の拡大・維持にとって欠かせない存在であった。中国におけるアヘン戦争や、義和団運動鎮圧戦争の場合にとくに顕著であったように、イギリスが植民地戦争を展開していく上で、インド兵は中心的役割を演じたのである。第一次世界大戦においては、150万人近くのインド人が動員され、その内100万人を越える人々がヨーロッパや中東の戦線に送られた。こうしたそれまでの戦争では、インド自体で英印軍が戦闘を行ったことはなかったが(隣国アフガニスタンでの戦争には従事した)、その事態が、この戦争で出現したのである。第二次世界大戦期には、国民会議派のように、即時の独立を求めて、それに応じないイギリスへの戦争協力を拒みつづけた人々も存在したものの、「帝国の総力戦」に協力する者も多く、そうしたインド人が過酷な戦線に投入され、戦争のいずれの局面においても最前線に立って戦った。

 英印軍の有力な構成部分としては、イギリス帝国内の「尚武の民martial race」の代表的存在であったネパール出身のグルカ兵が、この戦争においても重用されたことも忘れてはならない。

 また日本軍についても指摘したように、現地の少数民族も英印軍に使役される形で戦闘に巻き込まれた。とりわけ居住地域が戦闘地域と大きく重なったナガ人の役割は重要である。

 インパール作戦・ビルマ戦争について考える際に、INAを含むインド人や現地少数民族といった要因により注意を払う必要があるということは、最近刊行された笠井亮平の好著のなかで強調されている。[5]

 ただ、その笠井も軽視している「帝国の総力戦」の構成員が存在する。アフリカからはるばるとインド洋を渡る形でビルマ戦線に動員されたアフリカ人兵士たちである。日本では近年、アフリカ研究者の溝辺泰雄がこの問題に着目しているが、[6] 本格的な研究はまだない。イギリスにおいては第二次世界大戦全体の「帝国の総力戦」としての側面についての研究は一定程度行われているものの、[7] インパール作戦・ビルマ戦争でのアフリカ兵に関する検討は進んでいるとは言いがたい。

 アフリカ人は第一次世界大戦においても大量に動員された。ただしイギリスは、アフリカ人兵士をヨーロッパ戦線で用いたフランスと異なり、アフリカ大陸内のドイツ植民地をめぐる戦争で彼らを用い、しかもその役割は主として物資の運搬であった。そこには、白人との戦いにおいて黒人は用いないという人種主義的考慮が働いていた。そのことを考えると、アフリカ兵をインド、ビルマへ送り、直接の戦闘要員として用いたこと(物資運搬要員としても使われたが)は、イギリスの「帝国の総力戦」の新たな面を示していたといってよいであろう。

 アフリカ兵は、インパール作戦自体には参加していない。彼らが用いられたのは、チンディット作戦とアラカンでの戦闘、およびインパール作戦後の日本軍掃蕩作戦においてである。チンディット作戦にはガーナやナイジェリアなど西アフリカからの兵士が参加し、アラカン作戦には西アフリカ兵の他ケニアなどの東アフリカ兵も参加した。そしてインパール作戦後の戦闘には、東アフリカ兵が用いられたのである。

 次に、この動員が戦後におけるアフリカの変化に及ぼした影響の一例に触れておこう。

 1950年代のケニアで、イギリス側が「マウマウ」と呼んだ民族運動家たち(彼ら自身はケニア土地自由軍と称した)に過酷な弾圧を加えたことは、よく知られている。その「マウマウ」の指導者の一人に、「中国将軍General China」と呼ばれた人物がいる。ワルヒウ・イトテ(1922-93)という人物で、42年にイギリス軍に入り、ビルマでの戦争に加わった。カレワでの戦い(44年暮れに展開したはずであるが、彼自身は43年と記している)であり、ギクユ人としてのアイデンティティしかもっていなかった自分自身はケニア人であると、彼はそこで初めて意識したという。彼はそうした意識のもと、ケニアへの復員後「マウマウ」に参加し、勇猛さで知られるようになった。中国将軍というあだ名は、朝鮮戦争もしくはマラヤでの中国人の活動に刺激されたためといい、ビルマ戦争とは関係がないようであるが、彼の自伝によれば、ビルマの軍隊で習得したことをケニアでの民族運動に活かしたのである。[8] 彼は54年に逮捕されて死刑宣告を下されたものの、減刑され、ケニア独立後は公務員としての生活を送ることになる。

 アジアの戦争とアフリカの変動とがこのように連動していく様相などに注目しつつ、インパール作戦・ビルマ戦争の「帝国の総力戦」としての性格をより深く検討していきたいと、筆者は思っている。本稿はその準備作業としてのごく粗いデッサンである。


[1] NHKスペシャル取材班『戦慄の記録インパール』岩波書店、2018(岩波現代文庫版、2023;NHKスペシャル取材班『ビルマ絶望の戦場』岩波書店、2023.

[2] Christopher Bayly and Tim Harper, Forgotten Armies: The Fall of British Asia        1941-1945, London: Allen Lane, 2004.

[3] ルイ・アレン『ビルマ遠い戦場 ビルまで戦った日本と英国1941-45年』上・中・下、原書房、1995;Robert Lyman, A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain 1941-45,       Oxford: Osprey Publishing, 2021.

[4] 木畑洋一「「帝国の総力戦」としての第一次世界大戦」メトロポリタン史学会編『20世紀の戦争―その歴史的位相』有志舎、2012など。

[5] 笠井亮平『インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか』文春新書、2021.

[6] 溝辺泰雄「第二次世界大戦期のビルマ戦線に出征したローデシア・アフリカ人ライフル部隊(現ジンバブウェ)のアフリカ兵士からの手紙:全文訳」(1)(2)『明治大学国際日本学研究』6-1、7-1、2013-2014.

[7] たとえば、Ashley Jackson, The British Empire and the Second World War, London: Hambledon Continuum, 2006;David Killingray, Fighting for Britain: African Soldiers in the Second World War, Woodbridge: James Currey, 2010.

[8] Waruhiu Itote (General China), ‘Mau Mau’ General, Nairobi: East African Publishing House, 1967, Ch.3

(「世界史の眼」No.47)

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