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教職を目指す大学生は、今般のCOVID-19問題をどうとらえたか
吉嶺茂樹

1. はじめに

 今般のCOVID-19問題は、図らずもグローバル経済の問題点や、日本社会に内在していた様々なレベルの問題を顕在化させた。教育現場でも、唐突な一斉休校指示と、しかし、にもかかわらず「新しいセンター試験」を日程通り実施すること(このことが現役生と既卒者との学習機会の著しい不均衡をもたらすことに対する配慮は一切無い:試験自体を少し遅らせる二回目程度では問題解決には全くならない)等々である。社会全体でも、5~6月などの時期には、医療従事者への一方的な差別的発言(海外では賞賛はされども蔑視されることなど考えられない)、いわゆる「自粛警察」や帰省者の実家への張り紙など枚挙にいとまが無い。筆者も教育現場で毎日机やドアノブを消毒しながら、いわゆる「エッセンシャルワーク」の名の下、レジ打ちで毎日毎日、罵詈雑言を浴びせられて心が折れそうだ、と電話してくる勤労生徒たちの顔を思い起こしているところであった。

 さて、そんな筆者が、今年度春学期、ZOOMによる遠隔講義を使って、大学生に外国史を教えることになった。元々はビジネスマンを育てる大学で、教職を目指そうという学生に外国史や日本史を教え始めて10年近くになっていた。なお筆者自身は、通信制高校に勤務していて、遠隔教育については、7年前から国の研究指定を受け、全国唯一の遠隔教育による単位認定までを行う実験をしていた。i但し筆者自身、研究当時はこういう形で全国的に遠隔教育が広範に行われるような事態を想定したことも無かった。4年間行った研究指定の報告書も、はっきり言って「誰も読まなかった」。ところが「図らずも」遠隔教育に対するスキルを持っていたため、講義の実施自体はほぼスムーズに大きなトラブルも無く終えたのであるが、その限界や問題点が改めて理解できたというのが正直なところである。

 本稿では、しかしそうした、筆者が感じた技術的・制度的な問題では無く、これまた「図らずも」「遠隔教育を強制的に受けさせられる羽目になってしまった」学生たちの声に耳を傾けてみようと思う。例年受講生も数名で、家庭的にやっていたのだが、今年は今回の状況もあったのか、公務員志望が多く、受講者数も25名となっていて、昨年度から継続履修している学生自体が目を丸くするというような状態であったことを付記しておく。

2. レポート内容その他について

 教室に学生を集めてのテストが実施できないため、レポートなどによる成績評価が奨励された。筆者の外国史でのレポート課題は次の通りでであった。

 次の資料を二つ読んだ上で、次の2点について書いてください。(1600字以上)

A 藤原辰史「パンデミックを生きる指針」

https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic

B メルケル首相の国民にあてたメッセージ(ドイツ大使館メッセージ)

https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/politik/-/2318804

(1)(本講義が教職課程の外国史であることを踏まえ、外国史<近現代史の通史>を学んだ上で)

 4月以来の、自分の身に起こっている事態を、皆さんは教育現場で言語化して話す必要にたぶん置かれます。そこで、20年後の中学生や高校生に、どのように語りますか。口語体でも文章形式でも良いので書いてください。

(2) 4月以来の皆さんにおこった事態に対する思いの丈とか感想とかを聞かせてください。

の二つである。遠隔の講義だったので、学生の表情や講義中の雰囲気などが画面越しではわかりにくい。どのくらい書いてくれるかなと心配であったが、それは杞憂であった。彼らは彼らなりに自分の身に降りかかっていることを言語化し、冷静に判断し、時に「正しく怒っていた」。以下は、学生たちの言葉からである(適宜内容を変えない範囲で表現を改めた。文責はすべて筆者にある)。

2-1 「20年後の中学生や高校生に、どのように語りますか。」

 多くの学生は、現在のニュースや新聞報道、ネットの情報などから自分の周りで起きていたことを伝えようとしていた。その中で、いくつかのレポートが印象に残った。

2-1-1 「似ていること、違うこと」

 「…当時私は、北海道の大学に通っていて、有数の観光地である小樽でアルバイトをしていましたが、客の8割以上が中国人観光客だったため、バイト先も閉鎖になりました…入国制限によって、今まで賑わいをみせていた街から人が居なくなりました。…部活動が制限され、授業の開始が一ヶ月延期され、そして人生初のオンライン授業が始まりました」「…私は宮城県の出身で、当時宮城で暮らしていましたが、もう震災前の生活には戻れないことを知っています。一見復興したように見える街にも、たくさんの傷が残っています…おそらく、小樽の観光業に関わる人にも、そしてこの国に生きている人たちにも、たぶん同じです…」。

 (吉嶺コメント)東北の震災を経験した学生が、「似ていること、違うこと」と称して、「普通の生活ができなくなること」の意味を考えたレポートである。実際、小樽の状況は深刻であった。筆者は、オンライン講義だったが、高校の職場の都合上、札幌から小樽まで通って大学の教室から遠隔授業を行っていた。その帰り道、人通りの全くなくなった、土産物店がすべてシャッターを下ろした小樽運河沿いは、片側三車線の道路に全く車が無く、「ゴーストタウン」の様相を示していた。

2-1-2 歴史教員を志望している学生が、実際に教科書や資料でどのような図版を用いたら今の状況が伝わるか、という観点から考えたレポートである。

 「…教科書には、『様々なモノ(街の彫刻や、庭に置かれている置物やその他いろいろなもの)』がマスクをつけている写真、…ウイルスの顕微鏡写真、マスク・アルコール等々の在庫切れの写真、ソーシャルディスタンスをみんなが守っている写真(郵便局の外まで受け取りの列にみんなちゃんと並んでいる!)…を使ったら良いんじゃ無いでしょうか。」「なるべく、生徒に『考えてもらう』事によって想像してもらうのが良いんじゃ無いかと思います」

 (吉嶺コメント)このレポートには他にも、「…こうやって、歴史の教科書には、ある史実を伝えようとする写真が考えて使われるという事を改めて自分で考えてみて、ちゃんと教えようと思うようになりました。時間の使い方が重要ですね…」という記述がある。この学生の指摘によれば、「探求すること」が「歴史の勉強を面白くすることは間違いない」。問題はそういう学校現場の活動を後押しするような「入試問題」が出題されていくことであろう。大学入試センターも含めて、である。

2-1-3 自分の身の回りから外へ向けて現状を考えたレポートである。

 「皆さんは、家で過ごすことは好きですか?一人で過ごすことが好きだという方も少なくないと思います。でもそれが1ヶ月、3ヶ月、半年…と続いたらどうでしょうか。それも自主的では無く、国に指示されるのです。Stay Homeと称して…」「…コロナウイルスは、生活様式をがらっと変えました。…通勤通学の方法も変わり、大学は通学の必要がなくなり、オンラインになりました。…通学しなくて良いのは楽ですよね(そう思いますよね)。でも、違うんです。皆さん、体育をケガなどで見学するときにレポート書かされた経験はありませんか?それをほとんど全部の教科でやらされるんです。当時の大学生は命とか経済的な面もですけど、落単の危機にもさらされたと私は思っています(笑)。」「…ジャニオタはコンサートに行けず、世の中のカップルは、デートはおろか会うことも許されず(隠れて観光地にいった芸能人は糾弾され)、コロナ別れという言葉がはやりだし、髪の毛が伸び放題、プリン状態の髪色の人が増え、セルフカット・セルフカラーで自分の技術に落胆する人が増えました(あっ、私のことか<笑>)でも私がこれを皆さんに話していると言うことは、私は生き抜いたと言うことです…」。

 (吉嶺コメント)彼女は毎回の講義感想に実にユニークなコメントをしてきた学生である。他の学生とは少々違う観点から、切れ味鋭い「20年後の高校生への『拝啓…』で始まる手紙のようなもの」という実に面白いレポートを提出してきた。

2-2 「現状に対するあなたなりの思いの丈や感想を書いてください」

 この課題には、外国史(近現代史が中心である)の通史学習を踏まえた、実に様々な、それも長文のコメントが寄せられた。中には5000字を超えるものもあり、総じて「自分の身に起きていることを今、このときに言語化(コトバ化)して残しておきたいという意欲が感じられた。

2-2-1 中国からの留学生のレポートである。少し長くなるが引用したい。

 「先生は3月から7月に起きていることを書きなさいと言いましたが、私は1月の時からもうコロナとの闘いを始めたので、1月から書きたいと思います。…誰も世界で何千万人の感染者が出ることが想像できませんでした。私は武漢が封鎖される初日も、友達からなにを食べに行こうと誘われました。行ったのは家の近くのデパ地下でした。…」「…SARSも大丈夫から今回も大丈夫だと思っていたのでしょうか。そしてその日の夜で、地元に第一例の感染者が報告されました。それにも関わらず、街でマスクをする人がまだ少なかったです。周りで親にマスクをさせるのに苦戦していた若者がたくさんいました。なぜSARSも経験していない若者はマスクを重視しているのに、経験がある大人は重視しないのかを考えるのがなかなか面白いです。そのあと、私は受験のため日本に来ました。…」「…その後SNSを見たら、最初の時とのすごい差が感じました。最初の時、政府を批判する人が大勢いました。しかし時間が経つに連れて、みんなが納得したように見えました。…」「…二週間前、私の地元に新たな感染者が出ました。地元の通知を受けて、他の省が接触者である友達を検査して感染が判明された日、地元のニュースではまだ新増感染者0人と書いていました。…その結果、次の日に町を緊急封鎖したが、二週間で感染者が400人以上になりました。当然、政府のせいばかりじゃなく、マスクが普通に安く売っているがマスクもしなくて集まっていた人々もこういう結果になった原因の一つです。…私たちは一体コロナから何を学んだのが、私は未だに分かりません。しかしこれは中国だけでもないです。」「人は銅を以て鏡と為し、以て衣冠を正すべし。古きを以て鏡と為し、以て興替を見るべし。人を以て鏡と為し、以て得失を知るべし。こういう言葉を話す人こそ貞観の治ができるのか、私たちができるのは本当に衣冠を正すだけのレベルでしょうか。」

 (吉嶺コメント)彼女の戦いは1月から始まり、日本で大学に入学したらオンラインだった、という現実であり、その戦いに対するなんとも言いようのない感情を何度か講義コメントに書いてくれた。貞観政要の「三鏡の教え」を書くことのできる大学一年生が日本にどれくらいいるのか良くわからないが(彼女はしかも地方の出身である)、以て範とすべきであろう。中国嫌い、とか韓国大嫌いとか書いている人々がどのくらい隣国との関係史を知っているか、ということである。ちなみに貞観政要は明治天皇も元田永孚に進講させている。元田永孚は元熊本藩士、教育勅語の選定に深く関わった人物として知られている。

2-2-2「私の本音はこうです」

 「私がコロナによる影響を身に染みて感じたのは、高校の卒業式でした。例年は、保護者はもちろん在校生も参加して、オーケストラ部による演奏で入場するのですが、今年は卒業生だけで、入場曲もCDの音楽という寂しい卒業式になりました。それから、樽商で授業が始まるまでの間、これでもかというほど日々怠け、遊んでいたので、3から5月はそれほど深刻に受け止めていなかったのが本当のところでした。しかし、大学の授業が始まってからは、とにかく忙しかったです。家にいるのに忙しく、授業前の自分の生活ぶりを妬ましく思っていました(笑) SNSなどでも全国の大学生が課題の多さに疲れている情報をよく目にします。疲れているのは大学生だけではなく、小中学生の子供を持つ全国のお母さん方もだと、小4の弟、そして私の母を見ていて感じました。午前授業のために昼食を用意しなければならず、給食の恩恵を改めて感じているようでした。こうして、この状況のなかで、強く感じたことが一つあります。他者に配慮する、全員で協力するなんてことは無理ということです。メルケル首相も安倍総理もおっしゃっていますが、実際、全員が全員、今を生きるのに必死だと思います。他人の命を守るよりも、自分の家庭のトイレットペーパー、マスクの充足の方が大事に決まっています。そう思えるようになるのは、このコロナによる状況が歴史として認識される頃なのではないかなと。これは、あまり世間的には理解してもらえないと思うのですが、国民は今の状況を気にしすぎな気がします。絶滅危惧種に人間が入ってもおかしくないのではと。あと100年後にはコロナでなくとも必ずみんな死んでしまうのだから、とりあえず、旅行させてくれ、コンサート開催してくれというのが私の本音です…。」

 (吉嶺コメント)筆者は、彼女が卒業した高校に以前勤務しており、そうした気安さもあって、毎回のコメントも大学の教員では無いからか、かなり正直な感情を提出してきてくれた。今回のレポートも、「私の本音はこうです」というタイトルであった。

3. おわりに

 過去に行っていた遠隔授業の研究を通じて、その長所と短所を筆者なりに理解した上で、今回大学の講義を行うこととなった。やはりできることとできないことがあるというのが、当たり前ではあるがレポートで確認できた。ただ、前述したように、彼ら学生は、自分の身に降りかかった(彼らのせいではない)状況にどうやって対応するか、試行錯誤をしていて、それは教員も一緒なのだなということが分かり、安心した、という感想もあった。さらにWHOや中国政府の対応を攻撃的に批判するものがもっと多いかと思っていたが、問題はそういう矮小化できるものでは無いという記載が多くて少しほっとしている(ゼロでは無いですが)。政治に対して正しく怒ることが必要だし、投票というのはそういう意思表示なのだということを改めて考えた、というコメントも多かった。彼らがこの経験をどのようにこれから生かしてくれるのか、楽しみに見たいと思う。遠隔講義を15回行った経験から言うと、ほとんどの学生はきわめて真面目に前向きにこの事態を乗り切ろうとしていた。毎回欠席はほとんど無く、時間5分前には続々と「ピンポン」とZOOM待合室のドアが開いた。年度途中から出席を止めた、レポートを提出しなかった学生が5名いたが、それぞれ理由のあることであり、内向きの理由では無い。学生とのこうした関係性を遠隔形式で作ることができると確信できたことが、今回のCOVID-19対応の最大の収穫かもしれない。

註 i https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kenkyu/htm/02_resch/0203_tbl/1296100.htm

(「世界史の眼」No.8)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その4)
南塚信吾

4. 「測機舎」 

 玉屋商店に「23か条」の要求を拒否されたのち、3月18日、細川善治、三上綱男、松崎茂雄らと志を同じくする者13人は「宣誓書」を作成した。それは、今なお因習の久しき資本家が「労務者を蔑視し人格を認めない」のは頗る遺憾であるとし、自分たちは永く資本家に酷使されてきたが、ここに「独立自営を画策」し、「資本主義を排し純然たる労務者主義を樹て、最後の勝利を収めんことを期し、鞏固なる団体を作る」ことにしたと述べていた。こういう団体は、「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」であるので、自分たちは決死の覚悟であると断言していた。「宣誓書」に署名したのは、細川善治、三上綱男、松崎茂雄ら優れた技術者たち11人で、その他に鹿子木直ら見習い2人が加わっていた(松子『測機舎を語る』42-44頁;鹿子木『いのちの軌跡』76-77頁)。これはいわば血判書であった。松子はのちにこれを「互いの血を以て結び、肉を以て綴った誓約書」であるとしたうえで、「資本主義工場の圧迫と搾取とに目覚めたる新進気鋭の労働者の一団が、真と義を求めて進み出た生々しい労働者階級解放の第一声」なのだと言っている(松子『測機舎を語る』44頁、51-52頁)。「宣誓書」作成時には、細川らは西川の家に出入りしていたようであるから、ひょっとして、松子を通して、社会主義の「吐息」が吹き込まれていたのかもしれない。「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」という認識は他からは入ってきそうもないからである。

 そのうえで、13人は、新工場の「統帥者」として末三に参加を要請した。3月21日に「推戴書」を作成して、末三に渡し、「貴殿を新設工場の統帥者として推戴」すると表明した(松子『測機舎を語る』45-46頁)。末三は迷った。だが、兄弟や友人からの強い反対があったにもかかわらず、結局末三はこれを受けいれた。末三は、「森林の経営も向上の経営も根本においては一つである」との信念の上に、台湾での「地方人との折り合いの良かった実績」と「7年半の窮乏生活」があるから、何とかやっていけると考えたようである(松子『測機舎を語る』12-13頁;45-47頁;鹿子木『いのちの軌跡』75頁によれば、松子の強い後押しがあったようである)。

 早速、末三を含めて同志14人が、出資しあって資金を作った。西川(1480円)、細川(276円80銭)、三上(250円)、松崎茂雄(300円)、以下、150円や100円や60円や20円で、合計3086円80銭であった。組合員たちは玉屋時代には労働者であったから、貯えもなく、皆は財布の底をはたいて出資したのであった。もちろんこれでは、測機舎の建物や機械設備の購入には不足したから、西川の親戚の太宰銀行から1万円の融資を受けた(鹿子木『いのちの軌跡』78-79頁;松子『測機舎を語る』47-48頁は出資金合計1700円というが、間違いか)。この資金によって、港区麻布笄町(こうがいちょう)に48坪ほどの工場兼住宅を買い求めた。2月以降、4月に至るまで、すべての準備は、13人が玉屋に籍を置きながら進めた秘密の工作であった。末三が関与していることも、秘密のことであった(松子『測機舎を語る』12-13頁;49-51頁)。

 こういうひそかな準備が進められて、4月16日、ついに測量機械の製造販売をする組合組織「測機舎」が生まれた。5月には、末三が入舎することが発表された(松子『測機舎を語る』75-78頁)。この測機舎は一般の会社とは異なり、資本主義と労使関係を否定して、労働者生産者協同組合という形をとった。1920年6月に定められた「規約」の要点を整理するならば、以下のようになる。

  1. 「本組合は、労務出資者をもって組織する」が、「必要ある場合には金銭出資者を加うる」ことができる。
  2. 金銭出資は一口の金額を10円とし、主体となる労務出資は「一事業期の出勤日数を160日」として一人平均800口とする。労務出資口数と金銭出資口数を合わせて総出資口数とする。
  3. 労務出資者は一定の技術を持った成年とされる。労務出資者は五口以上の金銭出資を持つこととされる。
  4. 金銭出資には、年7%の利息が払われる。労務出資者には毎月給料が払われるほか、労務出資口数に応じて、剰余金の配当が払われる。
  5. 金銭出資者の資格は審査され、金銭出資口数は総口数の5分の1に制限される。
  6. 各事業期の収入から支出を引いた利益金からさらに固定資本の償却や繰越金などを引いた純利益金は、出資の口数に応じて、配当として配分する。
  7. 組合の経営の責任者は総会で選ばれる理事5人で、うち1人が互選で理事長となる。
  8. 総会の議決には労務出資者および金銭出資者のうち、500口以上を持つものに等しく一票が与えられる。

(規約の全文は松子『測機舎を語る』55-64頁)

 この規約は、民法の「組合」の規定(第667条~第688条)にそって作られていた(樋口『労働資本』47-48頁)。だが、民法は、労働出資と金銭出資の相互関係については規定していなかった。測機舎の規約のポイントは、労働の出資を柱としながらも、労働と資本の出資を等しく認めていることである。そうすると、金銭出資と労務出資の口数の計算の仕方が決められていなければならない。金銭出資に対しては、年率7%の利息が払われるほか、年間の純利益から12%の配当が払われることになっていた。労務出資については、毎月の給料のほか、年間の純利益から給料4か月分の配当が支払われることになっていた。こういう条件の下で、労務出資の口数をどう決めるか。労務出資の場合、年間の給料額を平均1200円としているから4か月分の給料は400円で、総額1600円。これが金銭出資の場合の7%プラス12%、計19%に相当すると考えると、1600円を0.19で資本還元して、8400円余り。これにいくらかの調整をかけて労務出資額を8000円とする。一口が10口だから、労務出資口数は800口ということになる。これが2に出てくる数字である。数字はさておいても、この「規約」は資本の機能を抑え、労働する者の価値を活かす論理をしっかりと持っていたのである。

 最初の理事5人は、西川末三のほかに誰であったか、明確には分からないが、おそらく細川善治、三上綱男、松崎茂雄の3人は入っていたと考えられる。理事長は西川が選任された。こうして測機舎は船出をした。

 松子によれば、これは、工場労働者自ら工場を管理経営する労務出資の生産協同組合であった。搾取者も被搾取者もない組織であった。このような組織を松子はさらに次のように特徴づけている。

「工場建築物やその他工作機械、製品あるいは諸般の設備に至るまですべて、何人の独占でなく、測機舎の事業に従事せる組合員全体の共有物であります。それゆえ組合全員はおのれの工場建築物の中において、おのれの仕事に従事するのであります。従業中監督せらるべき要もなければ、また監督すべき人もおりません。ただ従業員各自が各責任を負うて自らを治め、おのが工場を守って行くのであります」(松子『測機舎を語る』53-54頁)。

 これは玉屋との労使関係の教訓を生かしたもので、「労働者統制」的な理念をさらに超えた「生産組合」の理念を体現していたわけである。これは日本最初の生産組合といわれている。こういう労働者生産協同組合方式は、20世紀初めのヨーロッパではかなり広がっていたようである(樋口『労働資本』45頁)が、日本ではこの測機舎が最初で、その後1930年ごろにいくつもできることになる(松子『測機舎を語る』55頁)。それにしても、労働者生産協同組合という理念はどこで学んだものだろうか。

 この測機舎の組織理念は、「ロバート・オーエン」に学んだものであると、のちに松子は述べている。

「その往時ロバート・オーエンが労働階級の向上と幸福のために労働問題の理想を掲げて世界の労働界に一大警鐘を与えましたが、百年後の今日祖国フランス(=イギリスの誤り)を遠く離れた極東の日本においてわが測機舎が労務出資の生産組合として生まれ、・・・欧米諸国にもその比を見ざる好業績を挙げているとは、地下に眠れる氏の霊はいかばかりか満足するでしょう」(松子『測機舎を語る』 73-74頁)。

 測機舎の経営理念には、松子の思想が大きく反映していたといわれる。のちに鹿子木はこう述べている。「彼女(松子)は社会主義や女性解放運動の実践から遠ざかったが、労働者階級への親近感と同情まで捨てたわけではなかった。測機舎が組合組織で労務出資者をもって組織するという旗を掲げたとき、夢の一端が実現するという喜びがあったのではないか」(鹿子木『いのちの軌跡』103頁)。

 では、松子にせよ末三にせよ、いつどのようにして「ロバート・オーエン」の思想と実践を学んだのだろうか。ここで「 」を付けたが、上の引用で松子はロバート・オーエンの「祖国フランス」と言っていることに関係がある。これは単なる間違いなのか。それとも、フランスの社会主義者の影響もあったから「祖国フランス」が出たのではなかろうか。そういう疑問がある。ともかく、松子の思想の源泉を探らなければならない。

(続く)

参考文献

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

(「世界史の眼」No.8)

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「世界史の眼」No.7(2020年10月)

「世界史の眼」第7号をお届けします。南塚信吾さんの、神川松子と測機舎に関する連載論考(全6回)のその3、並びに山崎による『情報がつなぐ世界史』の文献紹介を掲載します。

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その3)

山崎信一
文献紹介:南塚信吾(責任編集)『情報がつなぐ世界史』(ミネルヴァ書房、2018年)

秋となり暑かった夏が嘘のような涼しさが続きます。コロナ禍がおさまらぬ中、みなさまそれぞれに「新しい日常」を模索していらっしゃることと存じます。どうぞ健やかにお過ごし下さい。

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その3)
南塚信吾

3. 翻訳家松子と末三の「転機」 1914-1920年 

 松子は、帰国後は、新たな水を得た魚のようであった。まずは、詩人であり小説家でもあったロシアのイワン・ブーニン(1870-1953年)の作品を次々と翻訳した。1914年6月ごろから、『早稲田文学』、『第三帝国』、『創造』、『新潮』などに発表していった。後に1933年にノーベル文学賞を受賞するブーニンの作品を、受賞はもとより彼が1920年に亡命する前に、日本で初めて紹介したのである。松子がこのロシアの自然派詩人にどうして関心を持ったかは不明であるが、今日の日本でのブーニン研究では松子の存在が忘れ去られている。

 同時に、松子はロシア文学以外についても発言していた。大木は、松子が結婚後、「家庭の中での男女平等の実現に満足し、対社会的にはロシア文学を通じての発言に限定されていたとは思わない」と述べている(大木「神川松子論」16頁)。松子は、1916年1月に創刊された『婦人公論』の10月号に「自由離婚論」という論説を発表して以降、自由恋愛、ロシアの「婦人解放運動」、「奴隷的婦人道徳の撲滅」など、女性の生き方についての発言を続けた。折から女性問題が社会問題の一つとしてクローズアップされてきた時であった。自由恋愛論では、放縦な恋愛は否定するが、自由恋愛による結婚を勧め、自由離婚論では、旧来の結婚制度による結婚については自由離婚を認める反面、自由恋愛による場合には自由離婚を認めないという立場に立っていた(鈴木『広島県女性運動史』58-64頁;大木「神川松子論」18-19頁)。また、1917年1月には「露西亜に於ける婦人開放運動」という論稿を『第三帝国』に載せ、ゲルツェンとチェルヌイシェフスキーから始めて、アナスタシア・ベルビーツカヤに至るまでの婦人解放の運動取り上げた。そして、狭く女性のみの解放を考えた初期から、広く虐げられた人間の解放の一環として女性解放を考える時期へ、さらにベルビーツカヤのような性の極端な解放を唱える虚無的個人主義の時代への変化をあとづけた。

(1916年1月 創刊号)

 そういう時におきた1917年のロシア革命は、松子の強い関心を引いて、革命後のロシア研究と親善を目的とする露西亜研究会に寄付をしている。当然ロシア文学への関心は高まり、ブーニンの翻訳はもちろん、トルストイの翻訳も手掛け、『トルストイ全集』6巻(春秋社、1919年)に「児童の為めに説かれたる基督の教」「十二使徒に依りて伝へられたる主の教」「福音書は如何に読むべき乎併に其の本質如何」「簡易聖書」を訳している(早稲田大学文化構想学部の南平かおり先生のご教示)。

 同時に、相変わらず女性解放に向けての評論を多数発表し、まず、革命直後の1918年1月には「革命史上に現はれたる露西亜婦人」という論稿を『第三帝国』に載せ、ナロードニキのブレシコフスカヤ、ナロードニキ出身マルクス主義者のヴェラ・ザスーリッチなどの革命的婦人の紹介をした。続いてその後『婦人公論』を中心に注目すべき記事を次々と発表した。その1、2を挙げるならば、まず、1919年1月には、『婦人公論』において、「富山で起こったカミサン達の米一揆」は「地位も智識もない低級な彼女等に依って演出せられた」たんなる「茶番事」ではなく、「我が賢明な為政者の蒙昧を啓発するに至った」ではないかと述べていた(鈴木『広島県女性運動史』59-60頁)。また、女性の政治参加を強く求め、『婦人公論』の1918年9月号では、「婦人を侮辱せる法律」と題して、女性を隷属的に取扱っている法律は変更されねばならないとして、婦人参政権を要求した。婦人参政権は、外的には、男女の同権を実現するものであり、内面的には、女性が自分自身人間として自覚し、精神的に自立し、そして自立的に生きる「自由」を与えるものであると主張した(大木「神川松子論」22頁)。また、同じく『婦人公論』の1920年2月号では、「私が若し政治に参与することが出来たなら、私は男女同権の見地から従来の日本の法律の如く、徒に婦人を弱者とし或は無能力者として制定せる婦人に関する各法律規則に対して、全部これが修正なり或は削除なりを請願したいと思ふ」と述べていた(鈴木『広島県女性運動史』61頁)。

 この時期の松子の言論活動について、大木は興味深いことを二点、指摘している。一つは、松子は、運動に携わる者にとって、その運動への世人の支持を得るために「人格の修養」が必要だと説いていたという。そして、大木は、この「人格の修養」を説くのは、女性解放運動に携わる者だけでなく、「平民社を中心とする明治社会主義運動」に対しても向けられていたのだという(大木「神川松子論」19-20頁)。これは平民社を中心とする人的集団の内外での放縦な男女関係を念頭に置いているのであろう。二つには、この時期、松子は平民社のことや社会主義のことに全く触れていなかった。たしかに「結婚を機にして社会主義運動から身を引くと同時に社会主義そのものも捨てたということも考えられないわけではないけれども、むしろこの点について沈黙を守ることによって、内心ぎりぎりのところで守ろうとしていたとも思われる」と、大木は言う(大木「神川松子論」19、23頁)。折から、社会主義にとっての「冬の時代」が過ぎたとはいえ、まだ全面的に社会主義を語ることが解禁されたわけでもなかったのである。しかし、むしろ大木が簡単にふれているように、「社会変革以前に為すべきこと及び為しうることが山積しているという判断」を松子がしていただろうことが重要であったように思われる。

 松子の最後の社会的活動として知られているのは、1920年3月28日に平塚らいてうらの始めた女性の政治的自由を求める新婦人協会の発会式に参加し、石田友治らとともに会則検討委員となったことである(折井『新婦人協会』16、148頁)。だが、翌月の測機舎の設立以後、松子は再び積極的な女性運動家へ戻ることはなかった。わずかに、1921年3月号『女性同盟』の「貴女は選挙権を如何に行使なさいますか」というアンケート、1921年11月号『婦人公論』の「小売商人の不正事実」をどう考えるかというアンケートに回答しているのみである。台湾行きの時と同じく、これ以後の松子の進路も社会主義や女性解放運動を放棄した「転向」ととることはできるが、見方によってはこれからが、松子がその本領を発揮した時期なのだとも言える。

(『女性同盟』創刊号)

 一方、末三は、帰国後は、大学に戻ったが、「平凡な生活」であったと、回顧している(末三『測機舎と共に』9頁)。第一次世界大戦の時期をどう過ごしたのであろうか。ただ、この時期であろう、世田谷の三宿に敷地230坪の自宅を手にしていた(松子『測機舎を語る』166頁)。戦争が終わって1919年、末三は、大学の職を辞し、「先輩の切なる懇請」によって合名会社玉屋商店に入社した。銀座の玉屋商店は、測量機器、教育学術機器、製図機器などの販売を行っていたが、日露戦争後原宿に日本最初の測量機製造の工場を作り、当時輸入に頼っていた測量機を日本人の手で製作していた。

 末三はそこに工場長の次長として入ったのだった。ところが、半年後には大事件が待っていた。玉屋商会の原宿の工場は第一次世界大戦中に大量の発注を受けて従業員に過度の労働を強いていたにも関わらず、約束の報奨を払わず、従業員の給料も引き上げなかったため、労働者からの強い不満を招いていた(松子『測機舎を語る』31-32頁)。1919年11月7日、優れた技術者であった細川善治、三上綱男、松崎茂雄をリーダーとして従業員たちがまとまって、「23か条」の要求を作成した。これをまとめるならば、

1)「人格」を認めた扱い。秘密主義の廃止。

2)「組長制」の採用。「事務長」の設置。

3)合理的な工場拡張

4)決算の明確化、決算への労務員代表の参加、「工場全員に対し利益分配する」こと。

5)「経営上の方策に対しては、一々会議を開き、工場長、事務長、工作主任及び評議員に諮り決定すること」。

6)「評議員は従業員中勤続十ケ年以上なる者総てその資格を有するものとすること」

などであった(全文は松子『測機舎を語る』33-35頁)。これは当時としては、驚くほど革新的な内容であった。

 松子は、この要求を次のように高く評価している。「氏等の改革方針の重点は所謂世間にありがちな労働賃金の値上げとか或いは労働時間の短縮等のごとき皮相浅見なものに非ずして、寧ろお互いに一歩進んで資本主も労働者も協力一致して工場の繁栄と能率の前進を計り、それに依って得たる利益を従業員も分配に預かって、而して各自の生活の安定を計りたいといふ」ものであった(松子『測機舎を語る』32頁)。

 「23か条」は労働者の経営参加を求めた画期的な要求であった。ロシア革命後、私的企業を認めたうえで、それへの労働者の積極的関与を導入した「労働者統制」を想起させるものである。細川善治、三上綱男、松崎茂雄らはこのような発想をどこから得たのであろうか。これは残念ながら、まだ辿れない。ともかく、このような要求を労働者たちは、工場長が不在だったため、次長の末三に依頼して玉屋本店へ提出させた。ちなみに松子はこれに関与してはいないようであるが、上のように高く評価していた。

 これに対して、会社は11月24日に回答し、1)2)3)は受け入れたが、4)の「決算への労務員代表の参加」は認めず、「工場全員に対し利益分配する」のは賞与で十分だとし、5)6)についてはすべてこれを認めなかった。加えて、このような労働者の行動は末三が扇動したものであろうとして、1920年1月28日、かれに退社を勧告し、2月1日から出社せぬよう命じた。末三は迷ったが、2月2日、ついにこの「不名誉」な退社を受け入れた(2月5日に退社)。末三は従業員たちの「23か条」要求の作成にはまったく関与していなかったわけであり、従業員たちはこれに憤慨した。しかも末三の馘首とともに、「23か条」の要求も葬り去られた。このような玉屋の対応に、従業員たちの有志は会社を辞めて新しい組織を作る工作をひそかに開始した(松子『測機舎を語る』36-40頁;樋口『労働資本』29-39頁は『測機舎を語る』に依っている;この騒動期間1919年10月から20年2月までの経過を記した末三の手記が松子『測機舎を語る』1-21頁に収録されている)。当時見習工だったが、のちの末三を支えた鹿子木は、末三の「管理者としての傑出した能力」、従業員からの「信望」、「視野の広さ、民主的な寛容さ」を指摘している(鹿子木『いのちの軌跡』61-71頁)。これゆえに、労働者たちは末三を離さなかった。

(続く)

参考文献

著書

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

論文

鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号 (1980年3月)

鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号 (1983年3月)

大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)

吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)

(「世界史の眼」No.7)

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文献紹介:南塚信吾(責任編集)『情報がつなぐ世界史』(ミネルヴァ書房、2018年)
山崎信一

 本書は、全16巻よりなるシリーズ、MNINERVA世界史叢書の第6巻として刊行されたものである。叢書の中では、『人々がつなぐ世界史』、『ものがつなぐ世界史』と並んで、「第II期 つながる世界史」を構成するものと位置付けられている。序論によれば本書の狙いは、文字、画像、音声などの「メッセージ形態」と印刷物、テレビなどの「メディア=情報伝達手段」の二つの側面から、情報がどう世界をつなぎ、どのように世界を変化させたのかなどを論じることにある。全体は、「第I部 文字と図像による伝達」、「第II部 印刷物による伝達」、「第III部 信号・音声・映像による伝達」の3部から構成されており、第I部には「第1章 写本が伝える世界認識」、「第2章 世界図はめぐる」、第II部には「第3章 書籍がつなぐ世界」、「第4章 近代的新聞の可能性と拘束性」、「第5章 イギリスのイラスト紙・誌が見せた19世紀の世界」、「第6章 反奴隷制運動の情報ネットワークとメディア戦略」、第III部には「第7章 海底ケーブルと情報覇権」、「第8章 アメリカの政府広報映画が描いた冷戦世界」、「第9章 サイゴンの最も長い日」、「第10章 衛星テレビのつくる世界史」が置かれ、これに加えて、全体に6のコラムが配されている。古代から現代まで広く扱われているが、その多くを占めるのは近代以降に関する論考となっており、情報に関わる技術やメディアの進化や拡大がこの時代に集中していることを、間接的にも示すものとなっている。

 「情報」を切り口として世界史を論じる書籍があまり見当たらないことを考えても、また、私たちの暮らす現在において、「情報」というものの持つ意味が、暮らしそのものにも深く関わるような大きなものとなっていることを考えても、本書には多くの意義があるだろう。以下に筆者なりにその意義をまとめてみる。

 まず気付かされるのは、情報の形態の多様性である。歴史学において、図像史料など、非文字史料の重要性が言われて久しいが、やはり一義的には文字による情報に重きを置いてきたことは否めないであろう。本書では、1章(図表)、2章(地図)、5章(イラスト)、10章(衛星テレビ)などにおいて、文字によらない情報情報を扱っており、非文字情報や史料の重要性を改めて認識させられる。

 また、本書で扱われる、歴史上のさまざまな情報の姿が、現在の情報をめぐるさまざまな課題とも通底するものであるという点を強く意識させられた。1990年代以降、インターネット技術が一般化する中、インターネットとそれに関連する技術は、現代に暮らす私たちにとって、不可欠なインフラとなっている。インターネット時代の訪れを同時代に経験した筆者の立場から見ても、それがもたらした変化の大きさは改めて驚きであるし、すでにデジタル・ネイティヴと呼ばれる世代にとっては、それが存在しない世界はもはや想像しえないものかもしれない。本書では、インターネットの普及以後を扱う部分は多くはないが、しかし本書の取り上げるさまざまな問題が、実は現在ともつながっているという点は、重要であろう。

 3章では、『千一夜物語』を題材に、印刷技術の確立後の情報の広範な伝播と、「翻訳」による情報の変質について論じている。現在も大きく取り上げられる伝播の過程における情報の変質や意図的な歪曲の問題もまた、より長い時間軸の中で分析しうることを示唆している。

 近代以降のマスメディアにおける報道、とりわけ戦争報道の問題が、4章(日露戦争)と9章(ヴェトナム戦争)で取り上げられている。1990年代の湾岸戦争や旧ユーゴスラヴィア紛争に際してのセンセーショナルな報道姿勢や、事実関係への理解を失わせるような相互に矛盾する報道の存在は筆者も身近に経験した。その後においても、イラク戦争からウクライナ紛争に至るまで、こうした点はますます広く見られている。こうした問題の一端もまた、より深い歴史的な根を持つことが確認できる。

 また、現在においては、「フェイク・ニュース」に代表されるように、意図的な情報操作、あるいは人々の情報受容のあり方に対する操作が日常的に見られる。6章(メディア戦略)と8章(広報映画)に扱われるのは、広い意味での情報戦略に関してであり、「フェイク・ニュース」もまた、突然の現象ではなく情報戦略を追求した帰結として産まれた側面のあることを示唆しているとは言えないだろうか。

 7章では、海底ケーブルを題材に、情報伝達手段の所有・統制が、情報覇権の確立につながり、支配の道具として機能したことを明らかにしている。情報技術の進歩が、必ずしも人々に幸福をもたらすばかりのものでないという点は、コラム6に扱われる情報の資源化とGAFAに代表される多国籍巨大IT企業による情報と富の独占の問題、10章に付記される国家による個人情報利用の問題ともつながっている。

 インターネット時代以降の情報をめぐる技術の進展は、市井の人々を情報の受け手であるばかりではなく、発信者ともなることを知らしめた。スマートフォンとSNSの普及を背景に、既存のメディアを介さずに人々が相互にやり取りをし、ネットワークを形成するようになった。SNSを基盤とする人々のネットワークは、フェイク・ニュースの温床ともなりうるが、一方で、「アラブの春」や旧ソ連における「カラー革命」に見られるように、政治的な力を持ちうるものでもある。そうした現象を分析してゆく上でも、「情報の世界史」を切り開く本書の意義は大きい。

(「世界史の眼」No.7)

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『国際関係史から世界史へ』が刊行されました

ミネルヴァ世界史叢書3『国際関係史から世界史へ』(責任編集 南塚信吾)が刊行されました。構成は以下の通りです。

序章 国際関係史から世界史へ
第Ⅰ部 帝国主義の時代
第1章 アヘン戦争・明治維新期の世界史
第2章 二つのベルリン会議の時代
第3章 「1900年」の国際関係と民衆
コラム1 朝鮮から見る-1900年
第Ⅱ部 二つの体制の時代
第4章 「第一次世界大戦」期の世界史
コラム2 東アジアから見る-1917年
第5章 「1930年」の国際関係と民衆
コラム3 越境する地下活動のネットワークと植民地警察
第6章 「1945年」の世界-東欧・中東・沖縄・シベリアの視点から
コラム4 朝鮮・台湾から見る-1945年
第7章  世界史における「1956年」-ベトナムとハンガリー
コラム5 スエズから見る-脱植民地化と冷戦の交錯
第Ⅲ部 脱植民地化の時代
第8章  「変化の嵐」のもとで-「1960年」の国際関係と民衆-
コラム6 シャーリー・グレアム・デュボイスの軌跡
第9章  世界史の中の「1968年」
コラム7 東欧から見る-1968年
第10章  「長い1980年代」の世界-社会主義の衰退とネオ・リベラル
おわりに-冷戦後の時代

ミネルヴァ書房の紹介ページは、こちらです。

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「世界史の眼」No.6(2020年9月)

「世界史の眼」No.6をお届けします。今号では、以下を掲載します。

小谷汪之
書評:油井大三郎『避けられた戦争―1920年代・日本の選択』(ちくま新書、2020年)

藤田進
書評:イアン・ヴォルナー/山田文訳『壁の世界史 万里の長城からトランプの壁まで』(中央公論新社、2020年)

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その2)

コロナウィルスに加え、連日、厳しい残暑が続いています。みなさま、どうぞ体調にはお気をつけてお過ごし下さい。

※世界史研究所のURLが、「https://riwh.jp」に変更されました。なお、旧URLからもアクセス可能です。

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書評:油井大三郎『避けられた戦争―1920年代・日本の選択』(ちくま新書、2020年)
小谷汪之

 本書は、1920年代、具体的にはヴェルサイユ(パリ)講和会議(1919年)から満州事変(1931年)までの時代に、日本にはその後の破滅的な戦争を避ける機会あるいは可能性はなかったのかという問題を追求しようとしたものである(本書評では、本書からの引用文中の漢数字をすべて算用数字に変えた。引用文中の〔 〕は引用者による補足)。

 この問題意識から、著者は、①ヴェルサイユ講和条約(1919年)、②ワシントン条約(1921年)、③1924年の米国移民法、④中国の国権回復運動、⑤張作霖爆殺事件(1928年)、⑥ロンドン海軍軍縮条約(1930年)、⑦満州事変(1931年)、に焦点を当てる(これらのうち、①~⑤がそれぞれ本書の第1章から第5章をなし、⑥と⑦が第6章をなしている)。これらの節目となる時期に、現実に行われたのとは異なる選択(「オルターナティヴ」の選択)が行われていたならば、破滅的な戦争は避けられていたのではないかというのが著者の歴史への問いかけである。

 この現実の歴史とは異なる「選択肢=オルターナティヴ」がどのようなものであったのかについて具体的に書かれているのは、主として、中国との関係の部分である。第4章「中国の国権回復と米英ソ日の対応」では、イギリスが1925年の5・30事件を契機に中国全土に広がった英貨ボイコット運動に直面して、中国の国権回復運動に理解を示すようになったのに対して、日本があくまでも中国における既得権益に固執したことについて次のように述べられている。

 国民軍革命〔国民革命軍?〕が北京に入城して、中国統一を実現するのは1928年6月のことで、吉野〔作造〕がこの論文を発表した時点〔1927年1月20日〕では、まだ北伐は途上であり、武漢に政府を移動させたくらいの状況であった。それでも、吉野は国民党政府が早晩中国を統一すると予測して、日本政府に対して〔国民党政府の〕承認を提唱したのであり、先見の明があったと評価できるだろう。
 もし、実際に、日本政府が、早い段階で、国民党政府を承認し、国権回復運動に前向きに対応した場合には、日貨ボイコット運動も沈静化し、満蒙権益の一部を残す交渉も可能だったのではないだろうか。(187-188頁)

 しかし、実際には、日本は、国民革命軍に追われて北京を退去、本拠地である奉天(現、瀋陽)に向かった張作霖を奉天直前で爆殺してしまった(1928年6月4日)。これが河本大作など関東軍の一部将校による謀略的行為であったとしても、その結果、張作霖の息子、張学良を国民政府に合流させることになり、日中全面戦争の伏線となった。第5章「山東出兵と張作霖爆殺事件」では次のように述べられている。

 関東軍の暴走の背景として、日本の満蒙利権の死守の考えが、当時の田中〔義一〕内閣や河本〔大作〕などの関東軍幹部に共有されていた点も重大であった。それは裏返すと、国民党政権による中国統一を否定的に、ないしは日本にとって不都合なものと考えることに繋がっていた。(234頁)
 〔他方〕、吉野〔作造〕は、国民党による中国統一が実現した暁には、満蒙の支配は早晩中国本土(ママ)に返還されるのが筋と主張していたのであった。このように、中国の国民党政権を中国の正統政府として承認し、不平等条約の改正や一部利権の返還などが当時の日本政府によって、行われていれば、満蒙利権の一部を継続させて、関東軍などの暴走を抑止する可能性はあったのではないだろうか。(235-236頁)

 以上のような分析を通して、著者は日本が破滅的な戦争を避ける可能性があったのは、次の二つの時期だとする。

 「第一のチャンスは、1925(大正14)10月の北京関税特別会議から第一次若槻〔礼次郎〕内閣が崩壊する1927年4月までの第一次幣原〔喜重郎〕外交の対中政策にあった」(289頁)。この時期は、アメリカやイギリスが対中不平等条約の改定や一部利権の返還に応じる方向に政策転換した時期であり、日本も、「中国の国権回復運動に一定の譲歩を行うことによって、中国の排日運動を緩和させ、満州利権の一部を中国との交渉で確保する可能性はあったのではないか。英国が、漢口や九江の〔イギリス租界の〕返還に応じて、香港を確保したように。そうすれば、関東軍による暴走は事前に抑止できたと考える」(291頁)。

 「第二のチャンスは、1930(昭和5)年5月に、日本が中国の関税自主権を承認した新関税協定を締結した時期である。この協定の締結に続いて、満州利権の一部留保の交渉をする可能性である。この場合は、田中内閣のもとで発生した済南事件や張作霖爆殺事件の後であり、排日運動は満州にも及んでいたので、合意の可能性は、第一のチャンスに比べると、もっと低かったかもしれないが、ゼロではなかったであろう」(291-292頁)。

 以上が本書の概要であるが、本書の特徴をなすのは歴史(過去)の様々な時点において、現実に行われた選択の他に、別のどのような「選択肢=オルターナティヴ」がありえたかを追求するという方法である。「歴史にもし・・はない」というのは巷間に流布した俗説であるが、歴史に「もし」を追求するのは、歴史認識が現在を通して未来を見据えるものだからであろう。未来に向けて、現在ありうる様々な「選択肢=オルターナティヴ」を、歴史(過去)(に照らして秤量しようとするのが歴史認識の一つの方法であるとするならば、歴史(過去)に「もし」を追求することが重要な意味を持ってくるのである。

 本書をこのような歴史的思考実験と評価したうえで、ちょっと引っかかった点を指摘しておきたい。それは、本書評中の何か所かの引用文に出てくる「満蒙権益の一部を残す交渉」、「満州利権の一部留保の交渉」といった文言である。確かに、満蒙利権(満州利権)をすべて放棄すると言ったら、軍部や財界だけではなく、一般国民からも激しい反発が起きていたであろう。したがって、一つの「オルターナティヴ」として、「満蒙権益(満州利権)の一部留保」の線で中国側と交渉するということがありうるということになるのであろうが、そこには何か引っかかるものがある。旨く説明できないが、植民地主義的利権の一部を確保するための交渉、という点にどうしても引っかかるのである。

 最後に一点だけ。本書29頁と41頁に、「賞金」という言葉が出てくるが、これはやはり「償金」(indemnity)とするべきだと思う。

(「世界史の眼」No.6)

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書評:イアン・ヴォルナー/山田文訳『壁の世界史 万里の長城からトランプの壁まで』(中央公論新社、2020年)
藤田進

 「不法入国者は殺人者と強姦魔だ」。この中傷発言とともに2016年米大統領選に出馬したドナルド・トランプは、「メキシコとの国境に堅固で均質な壁を建設して不法入国を阻止し、われわれの仕事を中国とメキシコから取り戻す」との公約を掲げて没落する白人中産階級や失業に苦しむ白人貧困層、白人差別主義者らの支持をつかみ大統領選を制した。公約の「堅固な国境の壁」の建設は議会の反対や様々な混乱に直面して遅々として進まぬなか、2019年2月トランプは非常事態宣言を発して大統領権限で国防総省予算から費用を捻出して壁の建設を強行しようと企てた。

 「全長3200㎞、数十億㌦規模の米墨国境の壁建設を米大統領が繰り返し命じることが鬱屈した有権者のある種の心の支えになっている。それは、われわれの文明の行く末が論じられる際には、どこかにこの壁の問題がつねに潜んでいるということだ」。そう憂慮する建築家でデザイン批評家のイアン・ブルナーは、そもそも「壁」とは何かという根源的な問いを発した。彼は「新石器時代前期の終わりからの1万年間に人類が定住したほとんどの土地には境界を示す何らかの建造物があった」ことに注目し、古今東西の様々な壁についての発掘調査報告や多岐にわたる参考文献にあたって知見を深めるとともにみずから現場を訪れて「壁」を観察し考察するという作業に取り組んだ。本書はその作業の成果であり、人類史において壁がどのような意味と役割を発揮してきたかを論じている。第1章「差異の発明」は本書の核心部分であり、以下ではこの章を中心に見ていくことにする。

 パレスチナのヨルダン川西岸地区にあるイェリコの城壁は世界最古の城壁である。考古学・人類学の発掘調査によれば、その出現は紀元前8300年にさかのぼり、城壁があったイェリコは、ユダヤ丘陵地帯のふもとにあった泉のそばにつくられた集落を備えた世界最古の町でもあった。人類はイェリコの町がつくられたずっとあとの時代まで狩猟採取生活段階にあり、町の住民と城壁の外側の遊牧民との違いは壁の有無だけでほとんど区別はつかなかったはずなのになぜ両者を分ける壁が築かれたのかは謎であった。だがこの謎は1980年代の発掘調査によって解けた。イエリコ城壁の内側に高い尖塔があったことが発見され、この尖塔の影が一年で最も日の長い日に太陽が沈むと城壁内の集落全体に重なったであろうことが天文学的・地形学的計測によって割り出された。その結果、イェリコの城壁は防御のためではなく、人を感動させ招き寄せる儀式に使うための建物だったとの説が有力となったのである。紀元前8000年代の地層には激しい戦争の形跡が見られず、最初の壁がつくられた時代に埋葬された人物が当時としては長寿だったことからも、イェリコの城壁が比較的平和な時代に建造され、人を遠ざける要塞ではなかったとの説が一層有力となった。著者はそれらの発掘調査の成果を踏まえて、イェリコの壁は「“われわれ”と“彼ら”を分ける差異の概念」とともに「“われわれ”と“彼ら”がともにいるという考え」をも生みだしたというように理解した。

 著者は次に、長らく史実とされてきた旧約聖書におけるイェリコの町占領と城壁崩壊の記述について検討している。『ヨシュア記』第6章における「イェリコの占領」の記述はこうである。

 ヨルダン渓谷に到着したモーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエル人の軍勢は、神の命令に従って契約の箱をかつぎ、カナン人が閉じこもる防壁で囲まれたイェリコの町を包囲し、7日目に城壁が奇跡的に崩壊してイスラエル軍は町を侵略し、ユダヤの神の怒りを恐れて従った内通者のラハブの一族を除く城内のすべての者たちを殺してカナンを征服し、約束の地におけるユダヤ王国を実現した。

 しかし発掘調査によって、紀元前8300年にできたイェリコの城壁は紀元前3000年にはすでに崩れて消えており、イスラエル十二支族がカナンの地を奪った紀元前1500年頃のイェリコには町も何も残っておらず、また地層には戦乱の形跡も見当たらないことが判明している。したがってイェリコ陥落の記述は史実ではなく、『ヨシュア記』の第2-7章はあとから創作されたと考えられている。

 『ヨシュア記』の成立はカナン征服のはるか後のバビロン捕囚期(紀元前597-578年)においてである。ユダヤ王国滅亡後バビロンに連れ去られたエルサレムの祭司たちが、ペルシャ国王の命令でユダヤ王国没落にいたる以前のモーセ五書の歴史全体の要約・再解釈作業に取り組む(紀元前538-458年)なかで『ヨシュア記』は編纂された。同書において、モーセの法(神の教えと戒め=律法)が不信仰者を罰する<法>として据えられ、異民族との結婚や異教信仰を受け入れたイスラエル人は「混血階層」として「ユダヤ人」から排除され、そしてカナン人やヱビス人、ヒビ人などセム系民族はカナン征服時に絶滅させられる等々が記述され、また同じ時期に編まれた『エゼキル書』には、神に選ばれたユダヤの民が囚われの身でエルサレムへ戻るのを待つ間に憎しみを向ける対象として「ゴグとマゴグ」という神に敵対する邪悪な存在が記述された。「ユダヤ人の伝統と言語がかつてなく脅かされている時期」(著者のことば)に編纂された両書は、モーセの法を破ったユダヤの民に試練を与えつつ他の諸民族と切り離して「ユダヤ民族」を確立して滅ぼされたユダヤ王国を復活させる意図を示していた。

 『ヨシュア記』において律法が人を裁く<法律>とされ、「イスラエル人」以外の民族は絶滅させられる描写には“われわれ”を脅かすものは壁を設けて排除するとの意志が表れている。

 イスラエル占領下の現在のイェリコを訪れた著者は、1万年にわたりパレスチナで実際に暮らし続けたカナン人、モアブ人、エブス人、古代ヘブライ人、アラブ人などの子孫にあたるパレスチナ住民たちが、「ユダヤ民族」思想を体現したイスラエル国家がユダヤ人入植地を守るために設けた隔離壁・防衛フェンスによって土地を奪われ日々の生活を暴力的に弾圧されている現実を目にした。彼はその光景に、古代イェリコ城壁に見出した「われわれと彼らが区分をまたいでともにいる」という平和状態が、「不公正に対する正義の勝利を示す寓話」(著者のことば)が築いた「イェリコの町を囲む堅固な壁」という空想の産物によって打ち破られているのを感じている。

 次いで著者は、南北アメリカ大陸の先住民には壁がなかったことを取り上げている。人類学者によれば、北アメリカ先住民の生活習慣において壁が意味をなさなかったのは、多くの先住民間の戦争は決まった季節に短期間の小競り合いをする程度の儀式的なものであり、従って集落を壁で囲むことも攻撃者を撃退する仕組みも必要なかったのだという。

 だがその状態は、西欧国家が対外進出を拡大する17世紀にマサチューセッツ湾にプリマス植民地が出現したことで一変した。1621年11月、力が弱く数でも劣る入植者たちが土地を浸蝕されて敵意を抱くマサ―チュセッツ族の首長から威嚇メッセージを受け取ると、指導者のスタンディシュは先を尖らせた板壁の巨大な正方形の防御柵を築いて武装部隊を配備した。その後に交渉のため首長を夕食に招き閉じ込め刺し殺した後に、周囲の森に待機するマサチューセッツ族の兵士たちを殺して首をはねた。集落を包囲する壁とそれにともなう戦争はこのような形で出現し、多くの先住民族はこの事件に恐れをなして周辺地域から逃げ出し、マサチューセッツ族とナラガンセット族は完全に消え去ってニューイングランド全体がヨーロッパ人入植地として利用できるようになった。

 ユダヤの聖書における「ゴグ・マゴグ」の脅威は新約聖書の『ヨハネ黙示録』に受け継がれており、ハルマゲドン(終末の決戦場)にキリストの町を包囲する軍勢としてそれがあらわれるとの予言は多くのキリスト教徒の信じるところとなった。ハルマゲドンの後に到来するとされた「新しいエルサレム」の建設を新大陸において試みたピューリタンのキリスト教徒植民者たちは指導者の指示に従って、抵抗する異文化世界の住民を「ゴグ・マゴグ」に見立ててこれを殲滅した。著者はここに、「ゴグ・マゴグ」に端を発する「“われわれ”を脅かす“彼ら”の脅威から守らなければならない」というロジックを駆使して民衆をみずからの利益に向けて組織・動員する国家の時代の指導者の戦略を見出しており、彼らが築く「壁は権力の付属物であり政治の道具である」ことを認識している。アメリカや世界の他の多くの場所で排他的な感情が高まって有形無形の壁がつくられている理由を見出している。

 しかし一方で著者は、壁が軍事的役割を余り果たさなかった点に注目している。紀元1世紀ローマ皇帝ハドリアヌが「野蛮人のカレドニア人」の襲撃を遮断するため巨大な「ハドリアヌスの長城」を築いて多数の守備隊を配置したものの外敵の襲撃を軍事的に食い止めることはできず、むしろ壁をはさんでローマ軍兵士とカレドニア人が接触して交流を深め、また非ローマ人に一定の条件のもとでローマ市民権を認めるローマ帝国の寛容政策がローマ文化にあこがれる被征服民のローマ軍外人部隊やカレドニア人を引きつけたことがむしろ国境の安全につながったこと、また中国の万里の長城は北方・南方民族の侵略を防ぐ軍事的防衛ラインとしてよりも、城壁の多くに交易所を設けて遊牧民と農耕民族の相互交易をつかさどる役割を果たしたことが中国王朝の安全をより良く保つたことを指摘している。さらに19世紀末以降米墨国境における中国系メキシコ人やメキシコ革命勢力の越境阻止固めに出動したパーシング指揮下のアメリカ国境騎兵隊は不法越境者との銃撃戦で危険にさらされた多くの中国系メキシコ人を保護してアメリカに連れ帰り、彼らを砂漠地帯での軍事施設建設作業につかせた後「パーシングの中国人」としてアメリカに定着させるというようなことも起きている。

 だがそのような分断のゆるい壁の時代は終わり、いま世界は多数の壁で遮断され、「冷戦の時代」が戻ってきたみたいだと著者は言う。そこには、1980年代以降新自由主義経済体制の全開で、中東、東欧・バルカン、アフリカ、中南米で資源、金融・サービス、兵器輸出で莫大な利益を収めてきたグローバル資本とそれを擁護する国家権力が、それらの地域での「民主化」運動の高まりでみずからの利益が損われるのを危惧する状態がからんでいる。彼らは「イスラム・テロリズム」、「文明の衝突」、「反民主主義の高まり」等々の説明によって「われわれの安全が脅かされている」というロジックをつくりあげ、歴史的・文化的・宗教的つながりを維持して暮らしてきた地元住民同士の民族的・宗教的衝突を煽動したうえで多数の軍事的境界線や隔離壁を築いて軍事介入し自己の利益を守ろうとすることにより住民の生活破壊や難民化を引き起こしているというのが真相である。

 「現在は壁の時代であり、人びとがその背後にある物語を信じるのをやめないかぎりは、壁の増殖がつづくのを食いとめるものは何もないように思われる」。これが著者の結論である。そして壁によって翻弄されているわれわれの現状を変えるには、「壁なしで栄えたあらゆる場所のこともまた研究しなければならない。壁の不在をたどること、それには壁の存在をたどることよりもさらに大きな価値があるのかもしれない」との希望的ことばを残して本書を終えている。

(「世界史の眼」No.6)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その2)
南塚信吾

2. 西川末三と台湾

 西川末三は、1883年1月27日、栃木県下都賀郡壬生町の下級藩士(足軽)であった父正順と母タキの三男として生まれた。1902年9月、東京帝国大学農科大学林学実科に入学、1905年7月に卒業した。ちょうど日露戦争が終結し、8月にはポーツマスで講和会議が始まるという時期であった。卒業後、末三は9月に、農科大学助手となり、06年12月、農科大学の台湾演習林の主任として台湾へ行った。なお、長兄一男は宮城控訴院長、大審院判事、次兄順之は松本高等学校長で、末三の弟は、東京帝国大学を出て医者になっていた(鈴木『広島県女性運動史』51頁。付記するならば、一男の息子はアメリカ文学研究の西川正身、その息子が歴史学の西川正雄、ともに東京大学教授だった)。

 すでに日清戦争の結果、1895年の下関条約によって、日本は台湾を中国に「割与」させていて、1897年に東京帝国大学がその台湾に実習林をつくる計画をたてていた。大学は、1902年に台湾総督府から現在の南投県鹿谷郷鳳凰山から玉山一帯の区域を実習林として獲得し、04年に接収作業を終えていた。そして、同年10月から現在の竹山鎮に実験林臨時事務所を設置し、06年12月に23歳の西川末三を初代の主任として赴任させたのであった(この点については、以下を参照 https://www.facebook.com/414514448656884/posts/672151709559822/)。

 1907年8月、東京帝国大学は、西川末三が台湾において造林の仕事と樟脳の生産を手掛けたので、徴兵を免除してほしいと、文部大臣に申し立て、10月に徴兵免除の通知を受け取っていた(これについては以下を参照https://uta.u-tokyo.ac.jp/uta/s/da/document/a9bf35c8faec566d6e709c672b162881)。

 さて、末三は、大学(駒場)時代に神川松子の兄登と同級生で、松子が日本女子大学に入って上京して登と住んでいる市ヶ谷の家に遊びに行き、そこで松子と知り合ったという。松子が青山女学院に移ると、兄妹は渋谷の道玄坂に一室を借りて住んだ。そこへも末三は行って、松子としだいに意気投合するようになった。この登という松子の兄は、東京帝国大学を卒業すると、広島に戻り、一時役人となったが、すぐに退職し、父の遺産を受けて、書画骨董や茶を楽しんで悠々自適の生活を送ったという(末三『測機舎と共に』5頁;鈴木『広島県女性運動史』51―52頁)。

 台湾から一時帰国した(おそらく補充兵教育のため3か月ほど帰国したのであろう)末三は、1908年11月に広島から東京へ戻ってきた松子に長年のプロポーズを受け入れてもらい、09年の4月か5月に結婚した。この結婚には末三の長兄も次兄も猛反対したという。しかし、二人はまさに机ひとつの家財道具で結婚した。広島で結婚式を挙げて、披露宴もせずすぐに5月8日に台湾へ向かった(鈴木『広島県女性運動史』52―53頁。この間の経緯は、末三の記憶とは少し違いがある。末三は、06年2月に台湾に赴任したあと、1か月ほどして補充兵教育のために赤羽にあった近衛工兵大隊に入営せよとの令状を受け取り、3月末に帰京、6月末まで入営したという。そして、除隊後、登、松子とともに広島へ行き、松子の母や妹たちと会って、台湾へ帰った。その後、赤旗事件ののち、出獄した松子は、末三に渡台したいと申し越してきて、09年に台湾へやってきたのだという。末三『測機舎と共に』5、6、8頁。しかし、次の新聞記事によれば、松子は6月8日以前に台湾に行かねばならず、その他の日付も含めて末三の回顧はやや怪しい)。

 さて、松子の渡台を受けて、1909年6月8日の『東京朝日新聞』は「無罪出獄せし元女子大生神川松子は断然社会主義を捨てて台湾に渡り人の妻となれ居れり」と報じた。だが、果たして、松子は「断然社会主義を捨て」たのだろうか。ここで問題なのは、鈴木が、この新聞報道を松子の「転向」を報じたものとして書いていることではなかろうか(鈴木『広島県女性運動史』44頁)。鈴木自身は、松子が「転向」したとは断定していないようだが、鈴木の研究をふまえた吉田は、「転向」説を採用しているのである(吉田「新しい女」80頁)。この問題はのちに検討することにしよう。

(上は、末三の最初の住処、下は、「生蕃と松子其他」とある。共に末三『測機舎と共に』より)

 一方の末三は、「海国男児! よろしく海外に雄飛すべし。台湾は我領土である。第一歩をこの地に印してさらに南海に活躍すべきものである」と勇み立って台湾に向った。しかし、行ってみると、大学の実習林は「縦貫鉄道から十里も奥で、蛮地七分の未開地」であった。領有僅か十年では、総督府も森林経営の方針を確立していなかったという(末三『測機舎と共に』13-14頁)。

 台湾における末三の最初の住処は、ジャングルの中の掘立小屋に近いものであったようだ。末三は、「土人部落」から一里ほど上った山の中腹にやや平坦の土地を見つけて、そこに「竹の柱に竹の屋根、竹の床」という台湾山中独特の小屋を作った。隣近所もない一軒家であった。結婚してこの住居が改善されたのかどうかは分からない。また、マラリアも蔓延していた。「二か月に三度程」悩まされたという。医者も薬もなく、風邪熱さましのキナエンで耐えた。三度三度の食事に窮したこともあった。言葉も通じない現地人(台湾人)の間で、現地人を使って作業し生活することは、容易ではなかったはずである。加えて、末三が「土人」「生蕃」と言っている台湾の先住民族も活かさねばならなかった。山中を歩き回るときには「生蕃」に案内してもらうが、末三は「生蕃」を恐れたが、かれらに助けられたとも回顧している。末三はこの台湾時代を「7年半の窮乏生活」、「大切なる試験時代」「鍛錬時代」「修行期間」と言っている(末三『測機舎と共に』11、14、20)。そのうちの4年間は松子と一緒だったわけである。それでも二人は台湾の生活を充実させたようである。1909年5月に始まる台湾での二人の生活について知れるところは少ないが、松子は、台湾で、末三との間に1男2女をもうけた。長男は誠幹であった。

 女性運動家として活動してきていた松子は、あまり家事は得意ではなかったらしい。それでも家事も少しはできるようになったが、食事も10分足らずで終わり、さっさと書斎に入って本を読んでいたという。「男女同権」が口癖であったようだ。1910年6月に大逆事件が起き、翌年1月に親しかった菅野スガや幸徳秋水が処刑されたとき、松子は、自分も東京にいたら処刑されていたかもしれないと言っていたという(鈴木『広島県女性運動史』53―55頁)。松子は、結婚後は社会主義から離れ、ロシア文学研究に没頭したと言われる。事実、親しかった菅野スガも、処刑される直前に堺利彦夫妻に送った手紙では、「松ちゃんは今何処に居るでせう、便りはございませんか」と書いているほどで、松子はかつての仲間との連絡を途絶えさせていた。それでも、松子には常に尾行がついていたという。松子は、のちに「どうした風の吹き回しか、今から丁度25年前、私の心機は一転しまして家庭の人となりましてからは、おそまきながらやや女らしい気持ちになりまして、ご飯を炊くことも覚えましたし、あるいはまた子守唄を歌うことも覚えまして」と語っている(松子『測機舎を語る』238;大木「神川松子論ノート」24頁)。しかし、これは松子が家庭人に成り切ったということを意味するものではない。

 末三は、造林の仕事には優れた腕を発揮したようである。1909年に、海外での移植は難しいと言われていた吉野杉をはじめて台湾に植林、それを成功させた(今日中国・台湾では日本からの杉を柳杉【りゅうすぎ】と称している)。そういう具合にして、5万7千町歩の山林を整備したのだった。いまでも「西川末三古道」と言われる道が残っている。「大学演習林の苦力は台湾全島中模範的なり」と言われたという(松子『測機舎を語る』12-13頁)。

演習林事務所

(西川柳杉歩道・西川末三古道と呼ばれている)

 しかし、たびたび風土病に悩まされていた末三が、ついに肝炎を引き起こしたので、1914年6月、やむなく一家は帰国した(このあと、末三は1940年と1965年に台湾を訪れ、かつての実習林を視察、かつての同僚の台湾人たちに歓迎されている(https://www.lib.ntu.edu.tw/gallery/promotions/20141105_TreeRings/1902.html)。

(続く)

参考文献
著書
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年

論文
鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号(1980年3月)
鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号(1983年3月)
大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)
吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)

(「世界史の眼」No.6)

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