投稿者「riwh」のアーカイブ

高大連携歴史教育研究会大会のお知らせ

2020年7月25・26日に、高大連携歴史教育研究会・第6回大会がオンラインで開催されます。大会の詳細は、
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/new/new_106gm.html
をご覧下さい

参加ご希望の方は、下記のURLより、参加する企画(全体会・パネル)それぞれにつき、個別にお申し込み下さい。

申し込みページ
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/new/new_106af.html

事前に申し込みをされた方に限り、ミーティングのIDおよびパスワード、ならびに配付資料を24日(深夜まで)にお知らせ致します。複数の企画にご参加いただけますが、ご面倒ではありますが、上記の通り、その場合は参加予定の企画全てに申し込みを行ってください。申し込み締切は、7月23日(木)正午です。

カテゴリー: お知らせ | コメントする

「世界史の眼」No.4(2020年7月)

本年4月にスタートして以来、4番目の「世界史の眼」をお届けします。小谷汪之さんには、坂本多加雄の「国家の来歴」論を批判的に検討していただきました。南塚信吾さんには、ウオルター・ローレイの『世界の歴史』が、どのようにして芥川龍之介の短編にたどり着いたのかを探っていただいています。

小谷汪之
歴史と「来歴」―坂本多加雄の構築主義的「国家論」

南塚信吾
芥川龍之介とウオルター・ローレイ

暑い日が続き、いよいよ本格的な夏の到来です。今まで経験したことのない夏となるでしょうが、皆さま、どうぞお健やかにお過ごしください。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

歴史と「来歴」―坂本多加雄の構築主義的「国家論」
小谷汪之

はじめに

 坂本多加雄は『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』(以下、『天皇論』とする)で、「国家の来歴」という言葉を用いて、明治維新以降の日本近代国家の歴史を意味づけようとした。端的にいえば、いわゆる「東京裁判史観」批判の文脈で、日本近代国家のあり方を意味づけようとしたのである。アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)における日本の敗北(1945年)の後、日本のA級戦犯たちが裁かれた「極東国際軍事裁判」(いわゆる「東京裁判」)は日本近代史の見方を歪め、「東京裁判史観」ともいうべき偏向した歴史観を生み出した、と批判する風潮が1990年代からとみに強まってきた。西尾幹二と藤岡信勝を中心として1997年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」はその一つの現れである。坂本の主張も、基本的には、このような風潮に沿うものということができるであろうが、その中では最もまともなものであろう。

1 「人の来歴」

 坂本は、「国家の来歴」について語る前提として、「人の来歴」について語っている。「国家の来歴」を「人の来歴」とのアナロジーで説明するためである。
 この「人の来歴」と歴史研究(伝記的研究)との相違について、坂本は次のようにいっている。

 ここでは、物語すなわち来歴を、当人が自己自身について語るものを指し、歴史については、対象となる人物やその周辺に生じた様々な出来事の相互の関係について、当人が認知していなかった要素をも考慮に入れた、厳密な因果関係の解明を目指すものを指すことにしよう。(『天皇論』28頁)

 そのうえで、「人の来歴」、すなわち「当人が自己自身について語るもの」にかんしては、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はないであろう。〔中略〕何よりも、本人が納得して語り、それを聞いた周りの者も、一人の人間の中で起こり得たこととして受け容れるような『筋』があればよいのである」(『天皇論』19頁)、とする。
 ある人の「来歴」とは、その人が自分の過去を振り返って、自分が今ある所にどのようにしてたどり着いたかを、ある「筋」をもって語った「物語」というわけである。そして、その「筋」はその人の将来の生き方の方向をも指し示すものとされる。
 坂本は、このようなものとしての「人の来歴」にとって、歴史研究は「極めて重要な貢献をする」として、次のようにいう。

ひとつには、まず、歴史研究は〔その人の〕来歴が言及する個々の事実の実在性を確証することで、その「真実性」を高める。次に、それは、来歴の「筋」の理解に奥行きを与える。〔中略〕すなわち、われわれの来歴の理解は、その来歴自身は触れていない様々な背景を歴史研究によって補われることで、より充実したものになるのである。また、来歴は、このように外からの歴史的な説明の補足を受けるまでもなく、自らの筋のなかに、適切な歴史的説明を様々に織り込むことで、その「信頼性」を高めることが出来るのである。(『天皇論』33‐34頁)

 「人の来歴」は、自分にとって都合のいい歴史研究の成果を取り込むことによって、「真実性」と「信頼性」を高め、補強されるというわけである。しかし、歴史研究から作用を受けて「来歴」に変化が生まれるということはない。「人の来歴」は、自分にとって都合の悪い歴史研究の成果を取り込むことはしないからである。したがって、ある人の「来歴」が変わるとしたならば、それはその当人が違う「来歴」(物語)を自分にとってより好ましいものとして受け容れた時だけであろう。
 

2 「国家の来歴」

 坂本は、このようなものとしての「人の来歴」と「国家の来歴」とを同じ文脈に置こうとする。坂本のもう一つの著書に、『日本は自らの来歴を語りうるか』というのがある。この「日本」を「国家」に置き換えれば、「国家は自らの来歴を語りうるか」ということになるわけだが、国家(日本)が自分自身について自ら語りうるわけはもちろんない。したがって、「国家の来歴」というのは、坂本なり誰かが国家の名において語ったものということでしかない。その点で、個としての人間が自らについて語る「人の来歴」と「国家の来歴」とは本質的に異なるのだが、坂本は両者の共通性の方を強調して、次のようにいっている。

来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有するのである。(『天皇論』242-243頁)

 こうして、「人の来歴」と「国家の来歴」を共通項でくくれば、「国家の来歴」にも、「人の来歴」と同様に、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はない」ということになる。
 坂本は、「来歴」という概念を、先の戦争中に「大東亜共栄圏」のイデオローグとして「活躍」した京都学派、特に高山岩男の「系譜」という概念からヒントを得て構想したようで、この「系譜」について、次のようにいっている。京都学派の企図した「世界史の哲学」にとって、「現在と過去の双方に対して、単なる歴史研究とは異なった特有の考察の方法」が必要であった。こうした考察の方法の根底にあるのは「創造的構想力」であり、それに導かれて歴史を再構成したのが「系譜」である(『日本は自らの来歴を語りうるか』228頁)、と。そのうえで、坂本は次のようにいう。

そもそも不確実な未来に向けてわれわれの来歴を確認しようとする場合には、実証主義的な考察と並んで、「京都学派」が掲げたような「創造的構想力」に立脚する考察もまた必要とされるのではないだろうか。(『日本は自らの来歴を語りうるか』237頁)

坂本のいう「われわれの来歴」、すなわち近代日本の「国家の来歴」とは、それを語る人間が自らの「実証主義的な考察」から導き出した(帰納した)ものではなく、それとはまったく別に、「創造的構想力」によって構想したものだということである。過去から現在に続く歴史の流れの先に、未来を展望しようとするのが実証主義的歴史学の立場であるが、それだけでは「不確実な未来」を見通すことはできない。それとは、次元の異なる「創造的構想力」によって、未来を透視することが必要だというわけである。したがって、この「創造的構想力」とは何かということが問題になるが、この点について、坂本は十分な説明をしていない。

3 歴史と「来歴」はどこが、どう違うのか?

 前にも引用したが、坂本は次のようにいっている。「来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有する」。しかし、このことは、「来歴」だけではなく、実証的歴史研究に依拠して書かれた歴史にもあてはまる。書かれた歴史というものは、「過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づける」ことによって成り立つものだからである。その意味で、クローチェが言うように、すべての歴史は「現代史」なのである(カー『歴史とは何か』24‐25頁)。それでは、このようなものとしての歴史と、坂本のいう「来歴」とはどこが、どう違うのであろうか。
 書かれたものとしての歴史は、実証的歴史研究が進展して、新しい歴史的事実が発見されたり、時代の流れと共に、新しい「歴史の見方」が生まれたりすれば、それにともなって、変化し、多様化していく。逆に、歴史の書き方が変化し、多様化していけば、そのことが実証的歴史研究の方向を多様化したり、新たな「歴史の見方」を生み出したりすることにもなる。このように、実証的歴史研究と「歴史の見方」と書かれたものとしての歴史は、それらの間の相互作用を通して、つねに変化し、新しくなっていくものなのである。
 しかし、「来歴」の場合はそうではない。前にも指摘したように、「来歴」は歴史研究の成果を取り入れて、自己を補強することはあっても、歴史研究から作用を受けて変化するということはない。「来歴」は歴史研究からは独立した、まったく別個の「創造的構想力」によって構想されたものだからである。この「創造的構想力」は、もっとも広い意味では、一つの「歴史の見方」といえるであろうが、それが実証的歴史研究との間に相互作用をもたないという点で、あるべき「歴史の見方」とは異なる。「歴史の見方」は、実証的歴史研究によって、つねに再検証され、変化していくべきものだからである。
 以上の点において、「実証的歴史研究―「歴史の見方」―書かれた歴史」という関係と、「実証的歴史研究―創造的構想力―来歴」という関係は、相互にまったく異質のものということができる。

おわりに

 「東京裁判史観」批判を旗印とする人たちの多くが、関東大震災時の朝鮮人虐殺はなかったとか、南京大虐殺は虚構であるとか、実証的歴史研究の成果を頭から全面的に否定するのとは異なり、坂本多加雄は実証的歴史研究と「共存」し、その成果を利用しようとする。坂本によれば、「国家」(具体的には日本近代国家)はそれに固有の「来歴」(自分自身の物語)を持つのであり、「来歴」は歴史とは異質なものであるが、実証的歴史研究の成果に依拠することによって「真実性」や「信頼性」を高めることができるというわけである。
 坂本のいう「国家の来歴」というのは、一種の構築主義的「国家論」ということができるであろう。その点では、今日の思想状況に即応しているのであり、頭から無視したり、「非科学的」などと言って排斥したりするわけにはいかないものだと思う。

参考文献
カー、E. H.(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。 
坂本多加雄『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房、1994年。
坂本多加雄『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』文春学芸ライブラリー、2014年(『象徴天皇制度と日本の来歴』都市出版、1995年、を改題して、再刊)。

(「世界史の眼」No.4)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

芥川龍之介とウオルター・ローレイ
南塚信吾

 芥川龍之介は1917年(大正6年)に発表した短編『西郷隆盛』において、「ウオルタ・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というものに触れている。そこでは、「およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。・・・ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。」と出てくる。(『芥川龍之介全集』2、ちくま文庫、1986年、107ページ)

 この短編『西郷隆盛』は、西南戦争を卒論で扱おうとする大学生と、一老人が、西郷隆盛が城山で戦死したことの真偽をめぐって対話をし、老人が、西郷がそこで死んだという決定的な証拠(史料)はないのだから、それは確定できないことであるとし、歴史はそのように史料で客観的に確定できないことが多いから、自分は歴史よりも文学を選ぶのだという話になっている。「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というのは、「ウオルタア・ラレエ」が「客観的な事実」というものが何かが分からなくなって、その世界史の原稿を途中で破棄してしまったという話である。

 この話を歴史の面から考えてみると、二つのポイントがある。

 ひとつには、「正確な史料」などないのだ、「事実の記録」には人は「ディテエルの取捨選択」をするのだという記述から、この1917年の時点で、すでに歴史における史料の重要さ、その確定の難しさ、史料に入り込むバイアスということが、考慮すべきことになっていたということが知りうる。欧米の歴史学では、ランケの史料批判の方法が広がっていて、こういう考慮は当然のことになりつつあった。ただ、それを超えて「懐疑主義」的になるまでは行っていなかった。欧米の歴史学の分野では、管見の限りでは、フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』(1885年)などに、そういう「懐疑主義」にまで行く必要はないという方法論が述べられている。だが、文学や哲学の分野では、そういう「懐疑主義」はひろがっていたのかもしれない。アナトール・フランス『エピクロスの園』(1895年)のなかの「歴史」というエッセイに見られるような「歴史」への「懐疑主義」が広がり始めていたのかもしれない。『エピクロスの園』のなかの「歴史」において、アナトール・フランスは、「公平な歴史というものがあるだろうか」と問い、結局、「歴史は科学ではない。芸術である。歴史においては想像力によってしか成功できない。」と言っている(『エピクロスの園』岩波文庫、96-97)。芥川は、アナトール・フランスの影響を強く受けていたから、この『エピクロスの園』などを読んでいたとすれば、そこから懐疑主義を取り入れていたとも考えられる。芥川も、『西郷隆盛』の最後において老人に、「僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。」といわせている(『芥川龍之介全集』2、111ページ)。

 もうひとつは、「あれは君も知っているでしょう。」といっている点である。「あれ」というのは、「正確な史料」などはないから「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」ということであろう。そうすると、当時たんにウオルタア・ラレエの名前だけでなく、またかれの『世界の歴史』だけでなく、かなり重要な内容が知られていたということになる。しかし、ウオルタア・ラレエの『世界の歴史』もそれが中途で終わったという話も、すでに日本に知られていたのかというと、管見の限りでは、見当たらない。ちなみに、ウオルタア・ラレエ自身について、当時どの程度知られていたのかを調べてみると、かれについては、夏目漱石の『倫敦塔』(1905年)という短編に出てくる。そこには、「階下の一室は昔しオルター・ロリーが幽囚の際万国史の草を記した所だと云い伝えられている。」と出てくる。だが、ここで「オルター・ロリー」がなんの説明もなく出てくるということは、すでに「オルター・ロリー」については、日本で知られていたということであろうか。ただし、漱石は、「オルター・ロリー」が万国史を途中で放棄したということは書いていない。

    * 

 さて、サー・ウオルター・ローレイは1614年に『世界の歴史』を書いている(いや途中まで書いた)1。17世紀には、神の摂理によって歴史を見るキリスト教的な「普遍史」に対し、合理主義的批判が始まってはいたが、まだその批判が対案を示せていない時代であった。そのような時代に、キリスト教の立場から書かれた世界史のひとつがこれであった。

 周知のように、ローレイは、エリザベス女王(在位1558~1603年)の廷臣で女王の寵愛を受け、イギリスの植民地政策の先頭を切っていた。しかし、かれは「スペインのスパイ」であるというので、1603年に告発され死刑の判決を受けたが、国王ジェイムズ(在位1603~25年)は最後に恩赦を与え、かれをロンドン塔に幽閉させた。かれはここに1603年から1616年までの13年間を過ごすことになる。まさにこのロンドン塔に幽閉されているときにかれは『世界の歴史』を書いたのである。1616年に釈放されてすぐにかれはギアナへ遠征に出かけたが、これもスペインとの関係を疑われて、1618年にふたたび逮捕され、裁判なしに処刑が決定され、執行された。

 かれの『世界の歴史』は全部で4巻からなり、第一巻は、世界の創造、アダムとエバ、「ノアの洪水」、ノアの子孫による地球の植民と最初のネイション、政府のはじまりなどからなり、第二巻は、出エジプト、モーゼの律法、イスラエルの初代王(ダビデ、ソロモンなど)、第三巻は、ペルシア帝国、ペロポネソス戦争、ギリシアからなり、第四巻は、マケドニア王国、ポエニ戦争、マケドニアとローマの戦争で終わっていた。さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定であったが、第二次マケドニア戦争のところで急に終えてしまっていた。

 それは、古い歴史から新しい歴史への「移行期」の産物であった。かれは文書に依拠しようとする一方、神の摂理をも明らかにしようとしたのである。ローレイの『世界の歴史』は、イギリスのみならずヨーロッパにおいても、時間と空間の双方において世界史というべきものが目指されるなかで、本格的な世界史としては、最も早い著作であるとしばしば言われる。ローレイの『世界の歴史』は完全に聖書に忠実な「普遍史」ではなく、キリスト教の世界からすると、ある意味では「問題作」であった。ローレイは、聖書に基づいて世界史を論じているが、すべての論点について、諸説を突き合わせており、事実上、聖書にそのまま基づく「普遍史」に深刻な疑問を呈しているのである。かれは史料を重視したから、史料をコピーさせたり、借り出したりして、書いたという。これはルネサンスを経た時代の合理的な思考の表れであり、「普遍史」の「危機」の現れでもあった。その意味で、この本は重要な意味を持っている。
 
 かれが『世界の歴史』を途中で放棄した理由はいろいろと考えられている。通説によれば、かれの後援者でかれを救い出そうと努力していた若きヘンリー皇子が1612年に没したので、ローレイは落胆し、さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定を放棄してしまったといわれる。たしかにそれは、皇子に捧げられていた。しかし、他にも説があり、定説はない。

    *

 さて、このローレイの『世界の歴史』はいつどのように日本に入り、芥川らの読むところとなったのだろうか。明治期には欧米の世界史がつぎつぎと翻訳され、「万国史」などとして出版されていたが、筆者がこれまでに見た限りでは、ローレイの『世界の歴史』が紹介されたのは、アメリカのジョージ・フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』2(1885年)を通してではなかったかと考えられる。かれは1852-54年にドイツへ行って、神学を学ぶとともに、歴史研究の方法を徹底的に学んでいた。かの本は、ランケ以後のドイツ史学の方法を学びつつ書かれた世界史で、19世紀の欧米での「世界史」の形成の一つの頂点をしめしている。これは日本にも紹介され、大きな影響を与えることになる。長沢市蔵『新編万国歴史』1893年(明治26年)はその要訳であった。ランケやブルックハルトの世界史が未だ紹介されていない日本において、このフィッシャーの世界史は、19世紀末のヨーロッパでの「世界史」をその方法と構成において最も忠実に日本へ伝えたものであった。フィッシャーは、ランケにならって史料の重要さを説くが、この史料の重要性を考えるあまり、歴史に「懐疑的」になることも批判していた。

 興味深いことにここで、ウオルター・ローレイの『世界の歴史』の話が出てくるのである。ローレイがロンドン塔に幽閉されて、『世界の歴史』を執筆していたとき、牢獄の中庭で大騒ぎが起こった。かれが、その騒ぎに関係した人たちから聞いたところによると、その説明にはあまりに多くの矛盾があって、本当のところを確認することができなかった。そこで、かれは、このような狭い場所に起きている出来事さえ確定できないのだから、この広大な世界という舞台に起きていることを描くということは無駄なことではないかと考えた、というのである。それは懐疑的すぎるとフィッシャーは言うのである。

 これはひょっとしたら、芥川龍之介が『西郷隆盛』(大正6年)において述べていた話のネタなのかもしれないと思ってしまう。しめたと思って調べてみると、フィッシャーの本の抄訳である長沢市蔵『新編万国歴史』ではこの史料論のところが翻訳されていないのである。とすると、芥川は夏目漱石から学んだのだろうか。あるいは東京帝国大学文学部で学んでいるときに英語で読んだのだろうか。そこでの大塚保治の美学講義で語られていたのだろうか(小谷瑛輔氏のご教示)。さらには、かれのよく通った漱石主催の「木曜会」での話題だったのだろうか(木村英明氏のご教示)。今のところ、これは疑問のままにしておくしかない。ともかく、芥川龍之介『西郷隆盛』の中には、世界史がうごめいているのである。

注

1 Sir Walter Rawleigh, History of the World, London, 1614.
2 George P. Fisher, Outlines of Universal History, New York, 1885.

(「世界史の眼」No.4)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「世界史の眼」No.3(2020年6月)

おかげさまをもちまして「世界史の眼」もNo.3を迎えました。

藤田進
新刊紹介:イスラム国暴力支配をはね返したロジャヴァ革命の記録―ミヒャエル・クナップ、アーニャ・フラッハ、エルジャン・アイボーア/山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命』(青土社、2020年刊)

山崎信一
論文紹介:茨木智志「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」

藤田進さんには、今年2月に翻訳が刊行された大著、ミヒャエル・クナップ他、山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命-民主的自治とジェンダーの平等-』(青土社、2020年)を評していただきました。青土社の本書紹介ページはこちらです。山崎は、日本における世界史教育の展開を精緻に追った茨木智志さんの論考「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」(『歴史教育史研究』17号)を紹介しています。

予断を許さないながらも、コロナウィルス感染症をめぐる状況も少しずつ落ち着いて参りました。世界史研究所は、読者の皆さまを励みに、この問題も含め、今後も多様な論考をお届けして参ります。みなさま、引き続き気をつけてお過ごし下さい。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

新刊紹介:イスラム国暴力支配をはね返したロジャヴァ革命の記録―ミヒャエル・クナップ、アーニャ・フラッハ、エルジャン・アイボーア/山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命』(青土社、2020年刊)
藤田進

 2011年春「シリアのアラブの春」として始まったシリアの民主化要求運動が、大国の軍事介入と「イスラム国」の凄惨な暴力がもたらした野蛮な戦争と国内外の何百万人のシリア難民の群れに覆われた「21世紀最悪の人道危機」に帰結した事態を前にして、苛酷な状況下において民主主義的なシリア社会の構築に向けた革命的な取り組みが繰り広げられていたのを伝える本が登場した。

 本書は、文化人類学者、歴史家、市民運動家のドイツ人女性たちがシリア北部のクルド人地域に出現した「ロジャヴァ革命」について現地での詳細な聞き取り調査を踏まえて共同執筆したものである。ロジャヴァ革命というクルド人による現在進行形の取り組みを、革命における女性の重要性に焦点を当てて描き出した本書は、クルド人についての内在的理解を深めさせるだけでなく、クルド人を抱えている中東諸国にとってクルド問題がいかに大きな影響を及ぼしているかを知らせしめる第一級のクルド文献である。

 ロジャヴァは、トルコ―シリア国境沿い地域のクルド人住民の多い一帯をさす地名であり、そこには多様なエスニック・グループの住民も住んでいる。シリア政府は1965年にトルコ国境沿い地域を「アラブ人ベルト」とする決定を下し、73年アサド政権は同地域のクルド人村落に隣接した41のアラブ新村をクルド人の土地を強制収容して創設し、ユーフラテス川のダム・貯水池建設で家を失ったアラブ人家族らを入植させ、土地と仕事を与える優遇政策をとった。一方土地を奪われたクルド人農民は「外国人」宣告をされ、自分の財産を持つことも、家を建てることも古い家を修理することも禁じられた。ロジャヴァはシリアの最貧困地帯とされ、「無国籍」のクルド人には身分証明書がなく、市民権を奪われて子供の出生や結婚の登録も出来ず、土地を奪われたクルド人農民の多くはシリアの大都市への出稼ぎ労働を強いられ、子供たちも学校を終えるとシリアの都市で低賃金労働者になった。バース党政権下でロジャヴァはシリアの最貧困地帯とされ、クルド人には差別政策が加えられた。

 ロジャヴァのクルド人女性の多くは市民権を拒絶されたうえ公的な生活からも排除され、伝統的社会の家父長的支配の虜とされて夫や父親に経済的に依存し、家庭内暴力も流布していた。女性の救いの道となったのは、「社会の解放は女性の解放なくしては不可能である」と説くクルド解放運動指導者でクルディスタン労働党党首アブドゥラ・オジャランが1980、90年代にシリアで主宰した草の根運動だった。それに参加した数千人のクルド人女性たちは「自らの人生に責任を持ち、自ら決定できるように努力する」という考え方を育まれ、自らの解放とすべての女性の解放のための闘いを実践しようと決意していった。女性たちは一軒ずつ訪問して家にいる女性に解放のための運動に加わるように説得して回り、草の根で女性たちの組織化をはかっていった。

 2011年「シリアのアラブの春」を迎えたクルド人はクルド差別政策の改善を期した。しかし、アサド独裁政権打倒のため結成された「自由シリア軍」もバース党政権に代わる新シリア政府を標榜する「シリア国民評議会」も指導部はイスラム主義者に占められており、アサド政府と同じように「シリアはアラブ人・イスラムの国家」、「クルド人は外国人」との見解に立っていた。2012年7月、クルド人運動はロジャヴァ地域をバース党政府支配と切り離して「ロジャヴァ三州」宣言に踏み切り、独自の「民主主義的自治」作り=ロジャヴァ革命をスタートさせた。

 「民主主義的自治によるコミューン体制の樹立」構想に沿って、「女性の自由」「エスニック的・宗教的多様性」「労働者階級重視」を根本とする「社会的契約」に基づいた社会作りを目ざし、シリア国家から離脱しない「非中央集権と民主主義」に基づく独自の自治が志向された。

 「民主主義的自治」は、自己防衛手段たるクルド人民防衛隊と3-4割を占める女性防衛隊を備えていた。ただしその軍事力は「社会を防衛するための治安部隊」とされており、「自己防衛」の目的は敵に攻撃の意図を諦めさせることにあるとされた。ロジャヴァは徹底した民主主義をめざし、利潤のための資本主義経済を拒否し、女性防衛部隊の多くは家父長制的な支配をきっぱりと否定した。ロジャヴァはそれ故に「イスラム国」と同盟者に攻撃された。

 2015年1月、コバニを占領したイスラム国との4カ月に及ぶ激しい戦闘で500人の人民防衛隊と女性防衛隊の戦闘員が殺され、ほとんどの家庭も殉教者を出し、都市の建物のおよそ80パーセントが破壊された後に、コバニ市も365村落のほとんども解放された。それ以後もイスラム国占領からのロジャバ諸地域の解放が続き、人民防衛隊と女性防衛隊がエスニシティの混在するロジャヴァ諸都市を防衛し差別のない自治を運営したことによって他の住民たちの支持が拡大し、アラブ人、アラム人、トルクメン人、クルド人は協力し続けることになった。2015年10月、対イスラム国共同戦線と自己統治による民主主義的シリアの樹立をめざすクルド人・アラブ人・アラム人合同の「シリア民主軍」が創設され、翌16年3月「ロジャヴァ・北部シリアの連邦制」宣言で、「非中央集権と民主主義」に基づく解放地域がロジャヴァ3州の外部にまで拡大した。

 本書が描き出した「ロジャヴァ革命」における「民主主義的自治」は、2019年以降トルコをはじめ大国の軍事的干渉によって再び潰されていく方向にあることが危惧される。

(「世界史の眼」No.3)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

論文紹介:茨木智志「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」
山崎信一

 茨木智志氏による論文「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」(『歴史教育研究』17号(2019年)、1-17頁)は、近現代、すなわち明治以降の近代的学校制度の確立期から現在までの、日本における世界史教育の歴史を扱っている。この論文は、英語に訳され、Minamizuka Shingo (ed.), World History Teaching in Asia: A Comparative Survey (Birkshire, 2019)という論集に所収されている。1 この論集は、アジア諸国の世界史教育を比較・検討したものであり、この論文は、世界史教育の国際比較を考える上でも大きな意義を持っている。

 この論文では、日本近現代の世界史教育を大きく二つの時期、すなわち第二次世界大戦前の「教育勅語」を指針とする教育の行われた時期と戦後の「教育基本法」に基づく教育の行われた時期に分け、さらにそのそれぞれに三つずつの時期区分を行い、合わせて6つの時期に分けて分析を行なっている。以下にその要点をまとめてみる。

 最初の時期は、近代学校教育の開始(1872年の「学制」発布)から、1898年頃までの時期とされている。この時期における外国史教育は、主に欧米言語から翻訳された教科書やそれをもとに日本人の手によって作られた教科書がもとになっており多様であったが、しだいに古代オリエントから19世紀欧米の発展にいたる「西洋史」教科書に収斂されてゆく。第二の時期は、1898年頃から1930年代まで、「東洋史」が提唱された結果、日本史・東洋史・西洋史に三分された歴史教育が展開した時期である。この時期には、制度として取り入れられるには至らなかったが、東洋史と西洋史を融合した世界史が提唱された。第三の時期は、1930年代から1945年の敗戦までの時期で、教育の戦時体制化の中、外国史は「国史」や「大東亜建設」に従属し資するためのものと位置づけられた。

 第二次世界大戦後、日本の教育制度は根底から変化した。その最初の時期は、1945年の敗戦から1955年頃にかけての時期で、教科としての社会科の成立と、科目として東洋史と西洋史に代わって世界史(1949年より実施)が導入された時期であり、世界史教育が開始されるという転機となった時期である。世界史の導入は突然のものであり、また東洋史や西洋史のような学問的背景があるわけでもなかったことから、社会科教育の一環として、単元学習や生徒の自主的な学習を重視した世界史教育のあり方がさまざまに模索された時期でもあった。戦後の第二の時期は、1955年頃から1989年頃までであり、世界史は生徒の学習を促すものから、暗記すべき事項の羅列の色彩を強めた。また、学習指導要領が文部省告示として規定力を強めた。途中1978年の学習指導要領では、ヨーロッパ中心史観の克服も意図されたが限界もあった。またこの時期に、世界史教育者の中から、定型化する世界史にあらがい、世界史とは何かを問う実践が模索された点も重要である。戦後の第三の時期は、1990年代以後の時期となる。1989年の学習指導要領改訂により、高等学校の社会科が解体され、地理歴史科の必修科目として世界史が位置づけられた。

 この論文には、多くの興味深い点がある。まず、外国史教育と世界史教育は同じものではないという点、そして「世界史」という枠組みが、第二次世界大戦後の歴史教育の中である種唐突に始まった点、そしてそれ故に、多くの教育者がそのあり方を試行錯誤しながら模索してきた点である。学問分野としては、戦後においても戦前以来の日本史・東洋史・西洋史の三分が一般的であり、世界史をまず形作ろうとしたのは歴史教育に携わる人々であり、その成果の上に現在着実に広がりつつある世界史研究も位置するのだろう。また、外国史教育・世界史教育が、戦前から現在まで、多くの政治的介入にさらされてきたという点にも気づかされる。それは、自由民権運動抑圧のための小学校からの外国史学習の削除から始まり、1930年代に頂点に達した。そして戦後においても、教科書検定強化や高校社会科の解体などの形で継続してみられている。

 著者は、論文中で「自国史教育と世界史教育は一種の緊張関係にある」と述べている。戦前の外国史教育が自国史教育に従属したものとなっていったことへの反省が、戦後の世界史教育のひとつの出発点であり、いずれの社会においても、自国史教育を行わないという選択肢がない以上、世界史が自国史を相対化する視点を提供し続けることは、今後においても重要であろうと思われる。図らずも、最新の学習指導要領改訂においては、高等学校の世界史が必修でなくなり、代わって日本史と世界史をいわば融合した新科目「歴史総合」が必修科目として位置付けられた。また、学習指導要領において歴史総合の目標として「我が国の歴史に対する愛情」を深めるとあげられたことは議論と批判を呼んだ。日本の近現代には、言うまでもなく大きな「負の歴史」が存在している。そして、それを「負の歴史」として理解する上でも、自国史に従属しない世界史の提供する視点が重要なはずである。

注

1 World History Teaching in Asiaは、2010年に始まった共同作業の成果である。当時アジア世界史学会の会長をしていた南塚が、アジア各国の研究者に呼び掛けて、賛同してくれた人たちで、開始した。参加してくれたのは、日本から茨城智志(上越教育大学)、吉峰茂樹(北海道有朋高校)、韓国からはSunjoo Kang (Gyeongin National University of Education)、中国はZhang Weiwei(Nankai University)とYang Biao(East China Normal University)、ベトナムはTa Thi Thuy(Institute of History)、シンガポールはSim Yong Huei とChelva Rajah (National Institute of Education)、フィリピンのFrancis Alvarez Gealogo(Ateneo de Manila University)、インドネシアのAgus Suwignyo(Gadjah Mada University)、Satyanarayana Adapa(Osmania University)の皆さんであった。途中で、東京において一回、フィリピンのセブで一回の研究会をおこない、アジア世界史学会のシンガポール大会で中間報告を行ったりして、2017年に原稿を集め、その後、Patrick Manning(ピッツバーグ大学)教授のもとでネイテイヴ・チェックをしてもらって、原稿を完成した。2018年に入稿し、校正段階で、Manning教授らの助言をもらった。また、この間、世界史研究所は、原稿の収集、整理、校閲などで粘り強い作業を続けた。本書は以上のみなさんの協力・助力の産物である。(南塚信吾)

(「世界史の眼」No.3)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「世界史の眼」No.2(2020年5月)

ここに、「世界史の眼」No.2をお届けします。

木畑洋一さんには、昨年刊行された『人々がつなぐ世界史』に関して論じていただきました。本書のミネルヴァ書房の紹介ページは、こちらです。また、本書を含むシリーズ「MINERVA世界史叢書」は、こちらをご覧下さい。小谷汪之さんには、ダーウィンとマルクス・エンゲルスの関係を鍵に、生物界における進化と人間社会の発展について論じていただきました。

木畑洋一
人の移動から世界史を考える―永原陽子(責任編集)『人々がつなぐ世界史』(MINERVA世界史叢書4)(ミネルヴァ書房、2019年)

小谷汪之
生物界の進化と人間社会の歴史―「ビッグ・ヒストリー」によせて―

新型コロナウィルス感染症により、私たちの暮らしも日々大きく影響を受け、これから先の世界のあり方もなかなか見通せません。しかしこうした時だからこそ、より長期的な、世界史的な視野を持つことが重要であろうと思われます。世界史研究所は、今後も充実した論考をお届けしてまいります。みなさま、どうぞお気をつけてお過ごし下さい。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

人の移動から世界史を考える―永原陽子(責任編集)『人々がつなぐ世界史』(MINERVA世界史叢書4)(ミネルヴァ書房、2019年)
木畑洋一

 今、新型コロナウィルスが世界中に広がっている。パンデミックである。しかし、世界の各地に動いていっているのはウィルス自身ではない。いうまでもなく、ウィルスに感染した人間が移動するなかで、ウィルスも拡散し、肺炎にかかる人々が世界の各地で生じてきているのである。人間の移動というものがどのような意味をもつのか、改めて考えさせられる事態に私たちは直面している。そうした状況のもと、昨年(2019年)出版された『人々がつなぐ世界史』を読んでみる意味は大きい。

 本書は、編者永原陽子氏による序章につづいて各2章からなる第Ⅰ部から第V部まで(計10章)と14のコラムから成る。第Ⅰ部は交易、「商業のための移動」を対象とし、具体的に扱われているのは、シルクロードにおける商人の活動(紀元後~8世紀頃)と東アジアの海域における倭寇などの動き(14世紀~16世紀)である。第Ⅱ部は「信仰のための移動」を論じており、メッカ巡礼にまつわる思想(18世紀後半~19世紀前半)およびキリスト教宣教師の活動(19世紀中心)が取り上げられる。第Ⅲ部は「学びのための移動」と題され、中世日本僧の中国留学(12世紀~13世紀)と近代化過程におけるオスマン帝国からヨーロッパへの留学(18世紀末~19世紀)とアジア諸地域から日本への留学(19世紀末~20世紀初め)が検討される。第Ⅳ部は「移民」を扱い、中国人(華人)の移動(19世紀~20世紀)とレバノン・シリアからの移民(19世紀末~21世紀初め)についての章が並ぶ。そして最後の第Ⅴ部は「強いられた移動」を論じており、日本が送り出したからゆきさんから慰安婦に至る「性奴隷」にされた女性たちの問題(19世紀末~20世紀前半)とポグロムの結果アメリカへの移住を余儀なくされたロシアなどのユダヤ人の問題(19世紀末~20世紀初め)が論じられる。コラムもきわめて多様なテーマを扱っており興味深いが、残念ながら紹介する紙幅がない。

 本書の帯のキャッチフレーズは、「人類の歴史は「移動」の歴史である」となっている。まさにその通りであるが、それだけに人々の移動の歴史に迫ろうとすれば、その対象は無限に広がってくるともいえる。そのなかで何を取り上げて「人々がつなぐ世界史」という一書を編むかはきわめて難しい課題である。上記の内容紹介に各章が主として扱う年代を記しておいたが、時代に着目してみれば、本書では19世紀から20世紀初めにかけての時期に重点が置かれている。前近代における人の移動についてのイメージは、シルクロードや倭寇、中世日本僧についての章(いずれもきわめてすぐれた出来栄えである)からうかがうことができるが、断片的であるという感は否めない。それに対し、いわゆる帝国主義の時代を中心とする時代における人の移動については、扱っている章が多い上に華人やレバノン・シリア移民を対象にした章の包括的な視座にも助けられて、幅広い像が提示されている。

 本書は、MINERVA世界史叢書(全15巻刊行予定)の第Ⅱ期「つながる世界史」3巻の内の1巻という位置を占める。他の2巻は「もの」と「情報」を対象としており、「情報」の方もすでに刊行されている。この世界史叢書は野心的なプロジェクトであるが、そのなかでもこの第Ⅱ期は、叢書の性格をよく示している。人、もの、情報の移動ということは(いまひとつ「かね」の移動もあるが)、現在私たちの眼前で進行しているグローバル化の様相を示す要因であり、グローバル化という視座から歴史を振り返ってみる際に鍵となる問題である。その問題を扱って、「新たな世界史の構築」という叢書全体の目的に取り組もうとしているのが、この第Ⅱ期の3巻であると考えられる。

 となれば、「新たな世界史の構築」という課題に本書がどこまで迫ることができているかが問題となる。ある土地への定住者を、さらにはそうした定住者が作り上げた国家を中心にすえてきたこれまでの歴史像をどのように揺るがし、それに対するオールタナティブを提示していけるかが問題であるが、本書はそのような方向への手掛かりを確かに提示している。すべての筆者によってそうした課題が意識されていると感じられないのは少々残念ではあるが、大半の章では世界史叙述に新たな位相を切り開いていこうとする意欲が感じられる。まとまった新たな世界史像が明確な形で示されているわけではないものの、これからの世界史(グローバル・ヒストリー)研究に向けての刺激を多く含む論集となっているのであり、一読をお勧めしたい。

(「世界史の眼」No.2)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

生物界の進化と人間社会の歴史 ―「ビッグ・ヒストリー」によせて―
小谷汪之

はじめに

 40億年前の地球上における生命の誕生から今日までの歴史といったような、気が遠くなるような歴史を取り扱う「ビッグ・ヒストリー」が話題になっている。しかし、そうなると、生物界の進化と人間社会の歴史とを共に視野に入れた極めて長い射程と広い視野を持つ歴史観が求められることになるであろう。
生物界の進化と人間社会の歴史をひとつながりのものとしようとする考え方は、19世紀半ば頃から、さまざまな形で現れた。それはダーウィン以前の進化の思想、例えばチェンバース『創造の自然史の痕跡』(Robert Chambers, Vestiges of the Natural History of Creation, 1844)などに既に見られるものであり、ダーウィン『種の起源』(1859年)の刊行がそれに拍車をかけた。
 しかし、このような考え方には、危険な落とし穴が潜んでいる。ダーウィンの「自然選択」natural selectionという生物学的概念に対応するものとして、「最適者生存」survival of the fittestという社会学的概念を提唱したスペンサー(Herbert Spencer)の「社会進化論」は、その後、人種差別を合理化する機能を果たすことになった。19世紀末葉以降に現れた種々の優生思想は、進化に名を借りて、人種差別のみならず障碍者差別などさまざまな差別を正当化するものとなった。
 このような落とし穴に陥ることなく、生物界の進化と人間社会の歴史をひとつの包括的な展望において捉える方法はないのであろうか。ここでは、それをダーウィンとマルクス・エンゲルスとの関係の中に探っていきたいと思う。といっても、マルクスとエンゲルス、特にエンゲルスがダーウィンの進化論を自己の学説に何とか取り込もうとしたという一方通行的な関係で、ダーウィンの方はマルクスやエンゲルスの学説に何の関心も持たなかったのであるが。富裕なジェントルマンであるダーウィンの世界には、「亡命革命家」マルクスやエンゲルス商会の「商人」エンゲルスの入る余地はなかったのである。

1 ダーウィン『種の起源』の衝撃

 1850年代から60年代にかけて、マルクスのロンドンの家にしょっちゅう出入りしていたドイツ人亡命者ヴィルヘルム・リープクネヒト(1826-1900)はダーウィンに関わる思い出を次のように書いている(引用文中の〔 〕は引用者による補足。以下同様)。

 マルクスはダーウィンの研究の重要性を最初に認めた人々のうちの一人であった。『種の起源』が出版された1859年―この年は偶然にもマルクスの『経済学批判』が出版された年でもあった―以前に既に、マルクスはダーウィンの画期的な重要性を認識していた〔後略〕。
 マルクスは、特に、物理と化学を含む自然科学と歴史学の分野において、新たに出現してくるすべてのものを注意深くフォローしており、〔それらの分野における〕あらゆる進歩を確認していた。〔中略〕ダーウィンが彼の研究の結論を出し、それを〔『種の起源』として〕世に問うたとき、私たちは何か月ものあいだ、ダーウィンと彼の科学的な成果の革命的な重要性以外には何も話さなかった。1

 このリープクネヒトの思い出に見られるように、マルクスは一時期いわばダーウィンに夢中になっていたし、エンゲルスの方はダーウィンに生涯多大な関心を持ちつづけていた。そこで、後論のために、これら三者に関する略年譜を以下に掲げておく。

1809年 ダーウィン生。父は富裕な医師で投資家。母はウエッジウッド家の出。
1818年 マルクス生。父はキリスト教に改宗したユダヤ人弁護士。
1820年 エンゲルス生。父はドイツの紡績工場主で、エンゲルス商会を設立。
1831年12月 ダーウィン、ビーグル号に私費で乗船し、調査航海に出発。
1836年10月 ビーグル号、帰還。
1839年 ダーウィン、『ビーグル号航海記』刊行。
1859年
6月11日 マルクス、『経済学批判』刊行(Berlin: Franz Duncker. 1000部)。
11月22日 ダーウィン、『種の起源』刊行。Charles Darwin, On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, London: John Murray, 1859.(初版1250部、1860年第2版3000部、1861年第3版2000部、1866年第4版1500部、1869年第5版2000部、1872年第6版3000部、その後増刷、1876年最終版)
1867年 マルクス、『資本論』第1巻刊行(Hamburg: Otto Meissner.初版1000部)。
1873年 マルクス、『資本論』第1巻第2版をダーウィンに献本(「心からの崇拝者カール・マルクス」という署名付)。ダーウィン、礼状を10月1日付で送る(これが両者の間の唯一の直接的交渉である)。
1882年 ダーウィン死去。
1883年 マルクス死去。
1895年 エンゲルス死去。

2 「目的論的自然観」の打破

 『ビーグル号航海記』で、ダーウィンの名前は既によく知られていたからであろう、『種の起源』が出版されると、エンゲルスは早速読んで、次のような感想をマルクスに書き送った(エンゲルスからマルクスへの手紙。1859年12月11日か12日)。

 ところで、いまちょうどダーウィンを読んでいるが、これはなかなかたいしたものだ。「目的論」はこれまである一面にたいしてまだうちこわされていなかったが、これがいまなしとげられた。そのために、自然における史的発展を立証するという、これまでにないほど壮大な試みが行われたのだが、またそのような試みがこれほど成功している例もまたとない。2

 マルクスの方は、このエンゲルスの手紙の約一年後になって『種の起源』を読み、エンゲルス宛に次のように書き送っている(マルクスからエンゲルスへの手紙。1860年12月19日付)。

僕の試練期間――最近の四週間――に僕はいろいろのものを読んだ。なかでもダーウィンの「自然選択」にかんする本。これは、大ざっぱに英語で述べられたものだとはいえ、我々の見解のための博物学的な基礎を含んでいる本だ。3

 マルクスはこのすぐ後にも、ラサール(Ferdinand Lassalle, 1825-64)宛の手紙(1861年1月16日付)に同じような感想を書いている。

ダーウィンの著作はすばらしいものだ。これは歴史的な階級闘争の、自然科学的基礎として僕の気にいっている。〔中略〕ここではじめて、自然科学のなかの「目的論」が、致命的な打撃を受けただけではなく、その合理的な意義を経験的に分析されたのだ。4

 これらの手紙から、マルクスとエンゲルスがダーウィンの学問的貢献としてもっとも高く評価したのが「目的論〔teleology〕的自然観」に最終的な打撃を与えたという点であったことが分かる。「目的論的自然観」とは、自然界のすべての現象にはあらかじめ目的が与えられているとみなす自然観であるが、これを逆転させると、すべての自然現象に目的を与えることのできるのは神しかいないから、神は存在するということになる。こうして、神の「デザイン」による「天地創造」が弁証され、あらゆる生物は「創造」されたときの姿のままに、今日なお存在するというキリスト教学的生物観が生まれる。
 このような「目的論的自然観」に対する批判として、18世紀後半になると、ラマルク(Jean-Baptiste de Monet Lamarck, 1744-1829)らによりさまざまな進化の学説が出されるようになったが、ダーウィンの進化論はそのいわば総仕上げのような位置にあった。それで、マルクスとエンゲルスはダーウィンの『種の起源』によって「目的論」は「致命的な打撃を受けた」と評価したのである。自然界にしろ、人間の社会にしろ、絶えず変化し、弁証法的な展開を遂げてきたとする立場に立つマルクスとエンゲルスは、ダーウィンが「自然における史的発展」を証明したことによって、自分たちの学説(史的唯物論)に自然科学的根拠が与えられたとして歓迎したのである。

3 「自然における史的発展」と人間社会の歴史

 エンゲルスは『反デューリング論』(1876-1878年に雑誌に分載後、1878年に刊行)を書いた後、その一部を抜粋した一般向け「入門書」として『空想から科学への社会主義の発展』を書いた(『反デューリング論』の序説・総論、第3篇第1 章、第2章を抜き出し若干の手入れをして、独立の小冊子としたもので、1880年に作成)。さらに、それらと同時進行的に、未刊に終わった草稿「自然の弁証法」の執筆を断続的に続けていた(1873-1882年)。これら三つの作品において、エンゲルスはしばしばダーウィンに言及している。
 『反デューリング論』では、エンゲルスは次のようにのべている。

 個々の資本家のあいだでも、また全体としての産業と産業、国と国のあいだでも、自然的または人為的な生産諸条件が有利であるかないかが、生死を決定する。敗れたものは容赦なく駆逐される。これは、ダーウィンのいう個体間の生存闘争が、幾層倍にも狂暴なものとなって自然から社会に移されたものである。動物の自然のままの立場が人間の発展の頂点に現われる。5

 ここでは、エンゲルスは資本主義世界を、国籍を持たないインターナショナルな階級としての資本家と労働者が直接的に戦いあう世界としてではなく、資本家同士や諸産業間において激しい「生存闘争」が行われるだけではなく、さらには国家に統合された資本家階級・労働者階級が一体となって、他国の資本家階級・労働者階級と生死をかけて戦いあう世界として捉えている。資本主義世界は「ダーウィンのいう個体間の生存闘争が、幾層倍にも狂暴なものとなって自然から社会に移された」世界であり、そこでは「自然的または人為的な生産諸条件が有利であるかないかが、生死を決定する」というわけである。
 このような観点から、エンゲルスは、「自然における史的発展」と人間社会の歴史を同じ「弁証法的運動法則」によって捉えることができるのではないかという課題意識を発展させた。エンゲルスは『空想から科学への社会主義の発展』の中で、次のようにのべている。

 自然は弁証法の試金石である。そして、近代の自然科学は〔中略〕、自然ではけっきょくすべてが形而上学的ではなく、弁証法的におこなわれているということ、自然は永遠に一様な、たえず繰りかえされる循環運動をしているのではなく、ほんとうの歴史を経過しているのだということを証明した、とわれわれは言わなければならない。この点ではだれよりもさきにダーウィンの名をあげなければならない。彼は、今日の生物界の全体が、植物も動物も、従ってまた人間も、幾百万年にわたっておこなわれた発展過程の産物であるということを証明することによって、形而上学的な自然観に最も強力な打撃を与えたのである。6

 エンゲルスが長期にわたって「自然の弁証法」を書き続けていたのは、このような観点からであった。「自然の弁証法」中の「弁証法」という項目(1879年9月執筆)で、エンゲルスは次のように書いている。

 要するに、自然および人間社会の歴史から、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これは、まさに、歴史的発展のこの二つの局面の、ならびに、思考そのものの、最も一般的な諸法則にほかならないのである。詳しく言うと、実質的には次の三つの法則に帰着する:
量の質への急転またその逆の急転という法則、
対立物の相互浸透という法則、
否定の否定という法則。7

 しかし、「弁証法」の後の方では、エンゲルスは次のように一定の留保をつけている。

 生物学においても人間社会の歴史においてもこの同じ法則〔量の質への急転またその逆の急転という法則〕は一歩ごとに確証されているが、我々は、ここでは精密(自然)諸科学からとってきた例証にとどまろう。ここでは諸量が厳密に測定でき追跡できるからである。8
 ここでは、さしあたりただ生命のない物体についてだけ述べることにする。生命のある物体についても同じ法則〔量の質への急転またその逆の急転という法則〕が当てはまるのであるが、この場合その法則は非常に複雑な諸条件のもとに置かれていて、定量的測定がこんにちでもなおわれわれにできない場合が多い〔からである〕。9

 エンゲルスは、自然界においても人間社会の歴史においても同じ弁証法的運動法則が働いていると考えていたのだが、「弁証法」を書いた時点では、その例証を「生命のない物体」に限らざるをえなかったのである。
 『反デューリング論』第2 版(1885 年)「序」では、エンゲルスは次のように書いている。

 私にとって肝心なことは、いうまでもなく、歴史において諸事件の外見上の偶然をつうじて支配している弁証法的運動法則と同じものが、自然のうちでも、無数のもつれあった変化をつうじて自己を貫徹しているということを〔中略〕個々の点についても確かめることであった。10

 この時点(1885年)になっても、エンゲルスは、自然界においても人間社会の歴史においても同じ弁証法的運動法則が貫徹しているということを「個々の点についても確かめること」ができていなかったのである。
 1895年、エンゲルスは、結局、その壮図を実現することなくこの世を去った。

おわりに

 日本におけるダーウィン研究の第一人者、松永俊男は次のようにいっている。

 進化論から特定の立場の社会思想が必然的に導かれるということはない。生物学に基づく人間論や社会論は、しばしば大きな過ちを犯す。生物進化論と社会思想は厳しく区別すべきである。11

 スペンサー以後の「社会ダーウィニズム」が果たした否定的役割を想起するとき、この指摘は正鵠を射ている。しかし、それでは、エンゲルスが「自然の弁証法」などで試みたこともまた同じように否定されるべきものなのであろうか。「ビッグ・ヒストリー」が喧伝される今日、生物界の進化と人間社会の歴史との関係については、改めて検討する必要があるのではないかと思う。

注

1 Wilhelm Liebknecht, Karl Marx: Bibliographical Memoirs, English tr. by E. Untermann, Chicago: Charles H. Kerr & Company, 1901 (original German ed., 1896), pp. 91-92.
2 大月書店版『マルクス・エンゲルス全集』、29巻409ページ。
3 同、30巻105ページ。
4 同、30巻467ページ。
5 同、20巻282ページ。これとほとんど同文が『空想から科学への社会主義の発展』にも見られる(同、19巻213ページ)。
6 同、19巻201-202ページ。この文章は『反デューイング論』には見られない。
7 『〔新メガ版〕自然の弁証法』(秋間実・渋谷一夫訳)、新日本出版社、1999年、210ページ。
8 同、216ページ。
9 同、212ページ。
10 大月書店版『マルクス・エンゲルス全集』、20巻11ページ。
11 松永俊男『チャールズ・ダーウィンの生涯』朝日選書、2009年、276ページ。

(「世界史の眼」No.2)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする