投稿者「riwh」のアーカイブ

新刊紹介:人類システムの鳥観図―Patrick Manning, A History of Humanity: The Evolution of the Human System, Cambridge: Cambridge University Press, 2020
木畑洋一

 パトリック・マニング氏の名前は、世界史研究所にとっては馴染み深い。近年世界史研究を牽引してきたマニング氏は、アジア世界史学会を強力に支える力となってきたし、氏の著作『世界史をナビゲートする――地球大の歴史を求めて』は世界史研究所の南塚信吾所長と渡邊昭子さんによって邦訳され、2016年に刊行された。同書の紹介は、旧世界史研究所ニューズレターの第27号で木村英明氏によって行われている。

 そのマニング氏による壮大な世界史の鳥瞰図が、ここに紹介する『人類の歴史』である。『世界史をナビゲートする』において、世界史に迫る上でのさまざまな切り口や方法を論じた氏が、その豊かな素養(大学では自然科学を学び、研究者としてはアフリカ史、経済史を専門とし、さらに人類学、人口学、言語学なども修めたという)を生かしながら、自らの世界史像を提示した成果が本書である。以下、本書の議論をごくかいつまんだ形で紹介してみたい。

 本書執筆に当たっての著者の動機はきわめて鮮明である。現在人類は、環境の劣化、社会的・経済的不平等という、自然との関係、社会関係での危機に直面しているばかりでなく、それに対応していくための知の不足という文化的な危機をも抱えている。こうした三つのレベル(生物学的、社会的、文化的)での危機を乗り越えていくためには、人類がシステムとして過去にどのような変化を経験してきたかを問う必要がある、というところから人類史への著者の問いかけが始まるのである。ここでいう人類システムとは、環境との間での物質のやりとりを行う開かれたシステムであり、外的・内的影響力によって変化する歴史的・適応的システムである。『世界史をナビゲートする』においてマニング氏はルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィの開放システム論を紹介しながらも、歴史家によるその適用はこれまで大きな成功を収めていないと述べていたが、本書では自らその枠組みを分析の基本に据えているのである。

 本書での議論の対象となる時代は、7万年前からである。第1章で問題意識や方法を述べた後、第2章では400万年前から7万年前までを取り上げているが、それは第3章以降の前提となっている。7万年前頃に急な変化が生じ、人類システムが始まるのである。その変化とは、言語(speech)の獲得である。他人とのコミュニケーションを可能にするシンタックスをもった言語は、人類にとっての最初の社会制度(social institution)であったと著者は言う。言語を共にする共同体の形成、さらにそうした人々の移動によって、それ以降の人類史は進んでいくことになる。その際、著者が重視するのは、特定の目的のために人々が形成する制度(institution)であり、またそうした制度を伴う人の移動(migration)である。

 変化の時代(7万年前~6万5千年前)を扱う第3章に続いて、第4章以降は次のように時期区分されている。

第4章(6万5千年前~2万5千年前:アフリカから現在のジャワ島方面やオーストラリア方面への人類の移動、言語をもつ共同体の拡大)
第5章(2万5千年前~1万2千年前:寒冷化の時代を経た後に移動範囲の拡大、アメリカ大陸へも人類の移動、生産活動の拡大とそのための共同作業の場workshopの形成)
第6章(1万2千年前~1千年前)これはさらに次の3期に分けられる。
  ① 1万2千年前~6千年前:農業、牧畜の展開、居住制度(town)の発達
  ② 6千年前~3千年前:宗教をも含むさまざまな共同作業の場の発展、大規模な移動
  ③ 3千年前~1千年前:諸制度(通貨、教育、軍隊、水利、宗教、帝国)の発達
第7章(1000CE~1600CE:移動に伴う病原菌の拡大、戦争などで人類システムは衝突・収縮、宗教でも亀裂など)
第8章(1600CE~1800CE:人類システムは成長軌道に復帰、商業の発達、植民地拡大、資本主義とそれに基づく帝国の拡大)
第9章(1800CE~現在:環境、社会・経済の現在の危機への道、脱植民地化)

 こうして現在までの人類システムの変化が論じられた後、第10章においては、同じく1800年以降の時期に即して、三つの世界的なネットワークが広がってきたことの意味が強調される。いずれも世界にひろがる、民衆文化、知、民主主義的言説という三つのネットワークである。その際著者が第9章に続いて脱植民地化の意味を改めて強調し、人類システムの主体としてかつて植民地支配の下にあった人々の役割を重視していることに注目したい。

 人類の歴史をこのようにたどってきた上で、著者は最後のところで、①成長は人類システムに必要か?②社会的不平等は人類システムに必要な側面か?③社会制度の作動はどのような形で統制されるべきか?という問いを読者に投げかけて本書を終える。著者は人類の将来についての予想を明言しているわけではないが、そうした問いに答え、本書執筆の前提となった現在の危機を克服していくための戦略を考えていく上で、本書のような形で人類システムの「進化」の様相を検討するといった知的営為が積極的な意味をもっていることが、本書からの強いメッセージとなっているのである。

(「世界史の眼」No.5)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その1)
南塚信吾

神川松子というと、日本の女性運動史の中では、いくらか知られた女性であろう。平民社と関係して、社会主義的な女性運動を担ったことで知られる。彼女は西川末三という人物と結婚して、台湾に渡り、帰国してからはロシア文学の翻訳などをしていたが、1920年に、二人はロバート・オーエンらの思想を取り入れた労働者の自主管理生産協同組合「測機舎」を樹立、ユニークな組合を成功させた。

これまでの女性運動史の中での神川松子研究についていえば、鈴木裕子の先駆的な研究をはじめとして、松子の社会主義への傾倒とその発言、社会主義者との交友が論じられてはいるが、彼女がどのようにして、どのような社会主義的思想を吸収したのかは問題にされていない。また、松子の結婚以後の測機舎時期は、「転向」として位置付けられ、ほとんど語られることはない。だが、ここには社会主義を実世界において具体的に生かそうという試みを見ることができるのではないだろうか。

一方、測機舎については、これまでは関係者の回想録が中心であったが、近年、樋口兼次が「ワーカーズ・コレクティヴ」の先駆けとして測機舎を扱う研究を出して注目される。しかし、これは逆に、測機舎以前の西川末三の経歴や、末三と結婚する以前の松子の経歴を見ていないのであり、突然あのような独特の組織が生まれたことになっている。台湾で「修行時代」を経験した西川末三は、松子の生き方に共感し、社会主義の面でも、女性の地位向上の面でも、松子を懐深く応援し、その中で松子と共にユニークな組合組織「測機舎」を作ったのである。

本稿は、松子の社会主義思想と末三の台湾体験の総合として「測機舎」を位置付けようというものである。そして結論を先走りして言うならば、測機舎は、いわば当時の「世界史」のある「傾向」が凝縮されている一つの姿と考えることができるのである。

1.神川松子と平民社

神川松子は1885年(明治18年)4月28日に、広島市に広島藩士神川渉・サトの六女として生まれ、ミッション・スクールである広島女学校(現、広島女学院)で学んだ。負けん気で自由奔放な女学生であったらしい。1903年に日本女子大学に入学し、平塚らいてうと同学年であったが、すでに社会主義に関心をもっていた松子は、女子大の良妻賢母型の教育に合わず、1年で退学、青山女学院に入学しなおした(鈴木『広島県女性運動史』24頁)。どういうきっかけで社会主義に関心を持ったのか、興味のあるところである。このころのことを、松子は「私は生まれながらに女らしくない云はば大のお転婆娘で・・・短い袴を穿いて手織木綿の筒袖を着て肩をいからかして大道狭しと闊歩し」ていたと自ら回顧している(松子『測機舎を語る』237-238頁)が、社会主義との接点についてはなにも示唆していない。

この間1903年11月に平民社ができていた。松子は、在学中に大塚の平民社に出入りするようになり、幸徳秋水、堺利彦らと交流し、1904年1月に平民社によって「社会主義婦人講演会」が開かれるようになると、木下尚江らとともにそれに積極的に参加し、同年11月には、そこで初めて講演を行い、「真に一身を献じて社会の為に尽くすツモリ」であると語っていた。05年4月にも石川三四郎、堺利彦、木下尚江らに交じって、松子も「独身に対する我見解」と題して講演し、この腐敗した社会を救うために身を挺し、スイートホームの楽しさを捨てる覚悟であると述べていた。この講演会のことは、1905年4月23日号の『直言』に紹介され、「松子氏は青山学院の生徒にして年未だ二十歳に過ぎざれども」その告白は人々を感動させたという。これは「神川松子」の名前が文献上で最初に現れた機会であった(鈴木『広島県女性運動史』31-32頁;吉田「新しい女」79頁;『明治社会主義史料集』第1集『直言』、1960年、87頁)。

figure1

figure2

日露戦争が終わった05年10月、弾圧によって平民社が解散したあと、松子は、07年1月に福田英子、石川三四郎らによって創刊された社会主義婦人機関紙『世界婦人』を拠点に活動を続けた。女性の解放は社会主義によらねばならないとするこの機関紙は、世界各国における女性解放運動や社会主義運動についての情報を載せて、女性の解放を世界的な視野で論じていた。この雑誌には、安部磯雄、堺利彦、幸徳秋水をはじめ多くの男子社会主義者が協力していた。二葉亭四迷も「二葉亭主人」という名で寄稿していた。松子はここに木下尚江らと並んで、大小15本の文章を載せている。当初は詩が多く、詩に託して女性の解放を求めていたが、女性の自立をどう確保すべきかをめぐって、遠藤友四郎との論争を繰り広げる中で、いくつもの記事を書き、松子なりの女性解放の理念を整理していった。それが、「おこがましくも玉郎兄に」第九号(1907年5月)や「婦人解放管見」第十二号(6月)や「世界婦人の見地」第十九号(11月)や「口吻余滴」第二十一号(1908年1月)などであった。この論争の詳細は先達の研究に委ねることにして、この論争において、松子は、女性は「奴隷的境遇」、旧来の道徳、旧習慣を脱して、人としてまた女子として「自由の権利」を獲得するには、先ず「経済上の独立」を得なければならないと主張した。松子は、社会の変革が実現すれば女性も解放されるのだという考えに対して、社会変革の前に女性の自由の獲得が大事なのだと主張したのであった。そして、社会の革命は「我ら婦人の自覚より生ずる新生命の力」によってこそなされるのだと言うのだった。1908年1月の「口吻余滴」には、「我々が此世に生まれて来たのは、決して男子の玩弄物ならむがためではない。何処までも自己の個性を発展せしめて、人として将た女性として自己の価値を認めむと欲するにあるのだ」と書いていた。これが『世界婦人』上の松子の最後の論説であった。この間、松子は、『世界婦人』から世界の女性解放や社会主義についての多様な情報を得た一方、日本にある社会主義文献を読み、とくにフランス革命に強い関心を示していたという。世界的な視野をもつ女性活動家に成長していったのである。後年、松子は『青鞜』に集った平塚らいてうらの近代的女性=「新しい女」に先立つ「新しい女」であったと評価されることになる(このあたりの詳細は、鈴木『広島県女性運動史』38-43頁;吉田「新しい女」80-82頁;『明治社会主義史料集』別冊『世界婦人』)。

では、この時期に「日本にある社会主義文献」とはどういうものがあったのか、これは後に見ることにして、この時期に松子が関心を持った日本での社会主義の様子はどうであったのだろうか。今日からはこう見られている。

「一九〇〇年前後から一九二〇年代前半までが日本における「初期社会主義」 の時期であるが、初期社会主義には、多様な人物がおりなす人間関係のおもしろさと可能性を秘めた未分化の思想状況があった。 そして、幸徳秋水、石川三四郎、安部磯雄、片山潜、大杉栄、神川松子、伊藤野枝、管野スガ、堺利彦、荒畑寒村等々、 思想との葛藤に生きる人間の魅力が人をひきつけて離さないものがある。 しかし一九二〇年代後半以降、星雲状態であった思想がそれぞれに分化し、分立した組織が確立し、ときとしては コミンテルン等の国際的権威により思想の独自的発展の契機が失われ、人間が組織に埋没しがちな状況となった」(石川捷治「社主義者における『性』と政治―日本の一九二〇〜三〇年代を中心として―」『年報政治学』2003年54号 163頁)。

 こういう魅力的な「初期社会主義」の真っただ中に松子は飛び込んだのである。

松子はいつからか確定できないが、東京朝日新聞に勤めていた二葉亭四迷に師事していて、かれにロシア語やロシア文学を学んだ(鈴木『広島県女性運動史』56-56頁は、1907年の『世界婦人』創刊前後かという。また『大阪平民新聞』の1907年10月20日号には、「神川松子氏、深く思ふ所ありて、此の頃某露国婦人につき専ら露西亜語の研究中」と記されているという。西川末三『測機舎と共に』(6頁)にある末三の記憶によると、松子は青山女学院での勉学中に、英語のほかにロシア語も学び、長谷川二葉亭に師事したのだという)。1908年6月に二葉亭四迷はロシアへ派遣される(1909年5月にベンガル湾で客死)が、出発の前に二葉亭四迷は昇曙夢に松子を紹介している(松子『測機舎を語る』240頁)。

しかし、松子は、まもなく、その6月22日の「赤旗事件」で、荒畑寒村、堺利彦、山川均、大杉栄、菅野すが、大須賀さと子などとともに検挙された。この「赤旗事件」というのは、神田の錦輝館で社会主義者たちが開いた山口孤剣(義三)の出獄祝いの際、荒畑らが赤旗を掲げて街頭に出て警察に捕まったという事件である。松子はのちに神野すがと共に神田署へ面会に行って捕まったのであった。裁判は8月18、22日に行われ、29日に判決が言い渡された。幸い、松子は菅野すがとともに無罪とされた。この時、松子は公判で堂々と論陣を張って、逮捕の不当を主張し、一躍有名になったという(<赤旗事件公判筆記> 『熊本評論』29号、1908年8月20日)。松子は拘留を解かれた後9月に広島に帰るが、11月には上京、柏木辺に落ち着いた。広島にいた間、および上京後の松子の行動はよくわかっていない(鈴木『広島県女性運動史』47頁は「不可解」という)。しかし、「29日間の独房生活」は、「彼女の心境に大きな変化を与えたに違いない」と、のちに末三は回顧している(末三『測機舎と共に』7頁。29日間の独房生活というのは不明)。

その後、09年に西川末三と結婚して、台湾に渡るのである(以上、より詳しくは鈴木『広島県女性運動史』11-47頁)。

【続く】

figure3
(9月に広島に帰った際、姉妹と撮った写真)

参考文献
著書
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年
樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年
折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年
測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

論文
鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号(1980年3月)
鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号(1983年3月)
大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)
吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)
『明治社会主義史料集』第1集『直言』、労働運動史研究会、1960年
『明治社会主義史料集』別冊『世界婦人』、労働運動史研究会、1960年

(「世界史の眼」No.5)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

シリーズ「日本の中の世界史」の書評が、『歴史学研究』に掲載されました

これまで発行のたびに逐次お知らせしてきましたシリーズ「日本の中の世界史」(全7巻、岩波書店)について、『歴史学研究』No.999(2020年8月号)に、全7巻それぞれの書評が一挙に掲載されました。一覧しますと、

南塚信吾『「連動」する世界史』―評者 石居人也
木畑洋一『帝国航路を往く』―評者 松岡昌知
小谷汪之『中島敦の朝鮮と南洋』―評者 原佑介
久保亨『日本で生まれた中国国歌』―評者 黒川伊織
油井大三郎『平和を我らに』―評者 大野光明
池田忍『手仕事の帝国日本』―評者 大沢啓徳
吉見義明『買春する帝国』―評者 嶽本新奈

です。いずれも力のこもった書評です。

なお、シリーズ完成後の執筆者たちの座談会が岩波書店のポータルサイトにて見ることが出来ます。
https://tanemaki.iwanami.co.jp/categories/838

カテゴリー: お知らせ | コメントする

北海道高等学校世界史研究大会のお知らせ

2020年8月22日(土)に、第 51 回北海道高等学校世界史研究大会がオンラインで開催されます。大会の詳細は、
https://hokkaido-sekaishiken.org/blogs/blog_entries/view/14/7a7c51cf4326623f474bb64cf9888533?frame_id=20
ならびに
https://hokkaido-sekaishiken.org/wysiwyg/file/download/11/43
をご覧下さい。

参加ご希望の方は、下記のURLよりお申し込み下さい。

申し込みページ
https://forms.gle/2p78FSSVBghgjJYTA

カテゴリー: お知らせ | コメントする

高大連携歴史教育研究会大会のお知らせ

2020年7月25・26日に、高大連携歴史教育研究会・第6回大会がオンラインで開催されます。大会の詳細は、
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/new/new_106gm.html
をご覧下さい

参加ご希望の方は、下記のURLより、参加する企画(全体会・パネル)それぞれにつき、個別にお申し込み下さい。

申し込みページ
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/new/new_106af.html

事前に申し込みをされた方に限り、ミーティングのIDおよびパスワード、ならびに配付資料を24日(深夜まで)にお知らせ致します。複数の企画にご参加いただけますが、ご面倒ではありますが、上記の通り、その場合は参加予定の企画全てに申し込みを行ってください。申し込み締切は、7月23日(木)正午です。

カテゴリー: お知らせ | コメントする

「世界史の眼」No.4(2020年7月)

本年4月にスタートして以来、4番目の「世界史の眼」をお届けします。小谷汪之さんには、坂本多加雄の「国家の来歴」論を批判的に検討していただきました。南塚信吾さんには、ウオルター・ローレイの『世界の歴史』が、どのようにして芥川龍之介の短編にたどり着いたのかを探っていただいています。

小谷汪之
歴史と「来歴」―坂本多加雄の構築主義的「国家論」

南塚信吾
芥川龍之介とウオルター・ローレイ

暑い日が続き、いよいよ本格的な夏の到来です。今まで経験したことのない夏となるでしょうが、皆さま、どうぞお健やかにお過ごしください。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

歴史と「来歴」―坂本多加雄の構築主義的「国家論」
小谷汪之

はじめに

 坂本多加雄は『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』(以下、『天皇論』とする)で、「国家の来歴」という言葉を用いて、明治維新以降の日本近代国家の歴史を意味づけようとした。端的にいえば、いわゆる「東京裁判史観」批判の文脈で、日本近代国家のあり方を意味づけようとしたのである。アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)における日本の敗北(1945年)の後、日本のA級戦犯たちが裁かれた「極東国際軍事裁判」(いわゆる「東京裁判」)は日本近代史の見方を歪め、「東京裁判史観」ともいうべき偏向した歴史観を生み出した、と批判する風潮が1990年代からとみに強まってきた。西尾幹二と藤岡信勝を中心として1997年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」はその一つの現れである。坂本の主張も、基本的には、このような風潮に沿うものということができるであろうが、その中では最もまともなものであろう。

1 「人の来歴」

 坂本は、「国家の来歴」について語る前提として、「人の来歴」について語っている。「国家の来歴」を「人の来歴」とのアナロジーで説明するためである。
 この「人の来歴」と歴史研究(伝記的研究)との相違について、坂本は次のようにいっている。

 ここでは、物語すなわち来歴を、当人が自己自身について語るものを指し、歴史については、対象となる人物やその周辺に生じた様々な出来事の相互の関係について、当人が認知していなかった要素をも考慮に入れた、厳密な因果関係の解明を目指すものを指すことにしよう。(『天皇論』28頁)

 そのうえで、「人の来歴」、すなわち「当人が自己自身について語るもの」にかんしては、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はないであろう。〔中略〕何よりも、本人が納得して語り、それを聞いた周りの者も、一人の人間の中で起こり得たこととして受け容れるような『筋』があればよいのである」(『天皇論』19頁)、とする。
 ある人の「来歴」とは、その人が自分の過去を振り返って、自分が今ある所にどのようにしてたどり着いたかを、ある「筋」をもって語った「物語」というわけである。そして、その「筋」はその人の将来の生き方の方向をも指し示すものとされる。
 坂本は、このようなものとしての「人の来歴」にとって、歴史研究は「極めて重要な貢献をする」として、次のようにいう。

ひとつには、まず、歴史研究は〔その人の〕来歴が言及する個々の事実の実在性を確証することで、その「真実性」を高める。次に、それは、来歴の「筋」の理解に奥行きを与える。〔中略〕すなわち、われわれの来歴の理解は、その来歴自身は触れていない様々な背景を歴史研究によって補われることで、より充実したものになるのである。また、来歴は、このように外からの歴史的な説明の補足を受けるまでもなく、自らの筋のなかに、適切な歴史的説明を様々に織り込むことで、その「信頼性」を高めることが出来るのである。(『天皇論』33‐34頁)

 「人の来歴」は、自分にとって都合のいい歴史研究の成果を取り込むことによって、「真実性」と「信頼性」を高め、補強されるというわけである。しかし、歴史研究から作用を受けて「来歴」に変化が生まれるということはない。「人の来歴」は、自分にとって都合の悪い歴史研究の成果を取り込むことはしないからである。したがって、ある人の「来歴」が変わるとしたならば、それはその当人が違う「来歴」(物語)を自分にとってより好ましいものとして受け容れた時だけであろう。
 

2 「国家の来歴」

 坂本は、このようなものとしての「人の来歴」と「国家の来歴」とを同じ文脈に置こうとする。坂本のもう一つの著書に、『日本は自らの来歴を語りうるか』というのがある。この「日本」を「国家」に置き換えれば、「国家は自らの来歴を語りうるか」ということになるわけだが、国家(日本)が自分自身について自ら語りうるわけはもちろんない。したがって、「国家の来歴」というのは、坂本なり誰かが国家の名において語ったものということでしかない。その点で、個としての人間が自らについて語る「人の来歴」と「国家の来歴」とは本質的に異なるのだが、坂本は両者の共通性の方を強調して、次のようにいっている。

来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有するのである。(『天皇論』242-243頁)

 こうして、「人の来歴」と「国家の来歴」を共通項でくくれば、「国家の来歴」にも、「人の来歴」と同様に、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はない」ということになる。
 坂本は、「来歴」という概念を、先の戦争中に「大東亜共栄圏」のイデオローグとして「活躍」した京都学派、特に高山岩男の「系譜」という概念からヒントを得て構想したようで、この「系譜」について、次のようにいっている。京都学派の企図した「世界史の哲学」にとって、「現在と過去の双方に対して、単なる歴史研究とは異なった特有の考察の方法」が必要であった。こうした考察の方法の根底にあるのは「創造的構想力」であり、それに導かれて歴史を再構成したのが「系譜」である(『日本は自らの来歴を語りうるか』228頁)、と。そのうえで、坂本は次のようにいう。

そもそも不確実な未来に向けてわれわれの来歴を確認しようとする場合には、実証主義的な考察と並んで、「京都学派」が掲げたような「創造的構想力」に立脚する考察もまた必要とされるのではないだろうか。(『日本は自らの来歴を語りうるか』237頁)

坂本のいう「われわれの来歴」、すなわち近代日本の「国家の来歴」とは、それを語る人間が自らの「実証主義的な考察」から導き出した(帰納した)ものではなく、それとはまったく別に、「創造的構想力」によって構想したものだということである。過去から現在に続く歴史の流れの先に、未来を展望しようとするのが実証主義的歴史学の立場であるが、それだけでは「不確実な未来」を見通すことはできない。それとは、次元の異なる「創造的構想力」によって、未来を透視することが必要だというわけである。したがって、この「創造的構想力」とは何かということが問題になるが、この点について、坂本は十分な説明をしていない。

3 歴史と「来歴」はどこが、どう違うのか?

 前にも引用したが、坂本は次のようにいっている。「来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有する」。しかし、このことは、「来歴」だけではなく、実証的歴史研究に依拠して書かれた歴史にもあてはまる。書かれた歴史というものは、「過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づける」ことによって成り立つものだからである。その意味で、クローチェが言うように、すべての歴史は「現代史」なのである(カー『歴史とは何か』24‐25頁)。それでは、このようなものとしての歴史と、坂本のいう「来歴」とはどこが、どう違うのであろうか。
 書かれたものとしての歴史は、実証的歴史研究が進展して、新しい歴史的事実が発見されたり、時代の流れと共に、新しい「歴史の見方」が生まれたりすれば、それにともなって、変化し、多様化していく。逆に、歴史の書き方が変化し、多様化していけば、そのことが実証的歴史研究の方向を多様化したり、新たな「歴史の見方」を生み出したりすることにもなる。このように、実証的歴史研究と「歴史の見方」と書かれたものとしての歴史は、それらの間の相互作用を通して、つねに変化し、新しくなっていくものなのである。
 しかし、「来歴」の場合はそうではない。前にも指摘したように、「来歴」は歴史研究の成果を取り入れて、自己を補強することはあっても、歴史研究から作用を受けて変化するということはない。「来歴」は歴史研究からは独立した、まったく別個の「創造的構想力」によって構想されたものだからである。この「創造的構想力」は、もっとも広い意味では、一つの「歴史の見方」といえるであろうが、それが実証的歴史研究との間に相互作用をもたないという点で、あるべき「歴史の見方」とは異なる。「歴史の見方」は、実証的歴史研究によって、つねに再検証され、変化していくべきものだからである。
 以上の点において、「実証的歴史研究―「歴史の見方」―書かれた歴史」という関係と、「実証的歴史研究―創造的構想力―来歴」という関係は、相互にまったく異質のものということができる。

おわりに

 「東京裁判史観」批判を旗印とする人たちの多くが、関東大震災時の朝鮮人虐殺はなかったとか、南京大虐殺は虚構であるとか、実証的歴史研究の成果を頭から全面的に否定するのとは異なり、坂本多加雄は実証的歴史研究と「共存」し、その成果を利用しようとする。坂本によれば、「国家」(具体的には日本近代国家)はそれに固有の「来歴」(自分自身の物語)を持つのであり、「来歴」は歴史とは異質なものであるが、実証的歴史研究の成果に依拠することによって「真実性」や「信頼性」を高めることができるというわけである。
 坂本のいう「国家の来歴」というのは、一種の構築主義的「国家論」ということができるであろう。その点では、今日の思想状況に即応しているのであり、頭から無視したり、「非科学的」などと言って排斥したりするわけにはいかないものだと思う。

参考文献
カー、E. H.(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。 
坂本多加雄『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房、1994年。
坂本多加雄『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』文春学芸ライブラリー、2014年(『象徴天皇制度と日本の来歴』都市出版、1995年、を改題して、再刊)。

(「世界史の眼」No.4)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

芥川龍之介とウオルター・ローレイ
南塚信吾

 芥川龍之介は1917年(大正6年)に発表した短編『西郷隆盛』において、「ウオルタ・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というものに触れている。そこでは、「およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。・・・ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。」と出てくる。(『芥川龍之介全集』2、ちくま文庫、1986年、107ページ)

 この短編『西郷隆盛』は、西南戦争を卒論で扱おうとする大学生と、一老人が、西郷隆盛が城山で戦死したことの真偽をめぐって対話をし、老人が、西郷がそこで死んだという決定的な証拠(史料)はないのだから、それは確定できないことであるとし、歴史はそのように史料で客観的に確定できないことが多いから、自分は歴史よりも文学を選ぶのだという話になっている。「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というのは、「ウオルタア・ラレエ」が「客観的な事実」というものが何かが分からなくなって、その世界史の原稿を途中で破棄してしまったという話である。

 この話を歴史の面から考えてみると、二つのポイントがある。

 ひとつには、「正確な史料」などないのだ、「事実の記録」には人は「ディテエルの取捨選択」をするのだという記述から、この1917年の時点で、すでに歴史における史料の重要さ、その確定の難しさ、史料に入り込むバイアスということが、考慮すべきことになっていたということが知りうる。欧米の歴史学では、ランケの史料批判の方法が広がっていて、こういう考慮は当然のことになりつつあった。ただ、それを超えて「懐疑主義」的になるまでは行っていなかった。欧米の歴史学の分野では、管見の限りでは、フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』(1885年)などに、そういう「懐疑主義」にまで行く必要はないという方法論が述べられている。だが、文学や哲学の分野では、そういう「懐疑主義」はひろがっていたのかもしれない。アナトール・フランス『エピクロスの園』(1895年)のなかの「歴史」というエッセイに見られるような「歴史」への「懐疑主義」が広がり始めていたのかもしれない。『エピクロスの園』のなかの「歴史」において、アナトール・フランスは、「公平な歴史というものがあるだろうか」と問い、結局、「歴史は科学ではない。芸術である。歴史においては想像力によってしか成功できない。」と言っている(『エピクロスの園』岩波文庫、96-97)。芥川は、アナトール・フランスの影響を強く受けていたから、この『エピクロスの園』などを読んでいたとすれば、そこから懐疑主義を取り入れていたとも考えられる。芥川も、『西郷隆盛』の最後において老人に、「僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。」といわせている(『芥川龍之介全集』2、111ページ)。

 もうひとつは、「あれは君も知っているでしょう。」といっている点である。「あれ」というのは、「正確な史料」などはないから「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」ということであろう。そうすると、当時たんにウオルタア・ラレエの名前だけでなく、またかれの『世界の歴史』だけでなく、かなり重要な内容が知られていたということになる。しかし、ウオルタア・ラレエの『世界の歴史』もそれが中途で終わったという話も、すでに日本に知られていたのかというと、管見の限りでは、見当たらない。ちなみに、ウオルタア・ラレエ自身について、当時どの程度知られていたのかを調べてみると、かれについては、夏目漱石の『倫敦塔』(1905年)という短編に出てくる。そこには、「階下の一室は昔しオルター・ロリーが幽囚の際万国史の草を記した所だと云い伝えられている。」と出てくる。だが、ここで「オルター・ロリー」がなんの説明もなく出てくるということは、すでに「オルター・ロリー」については、日本で知られていたということであろうか。ただし、漱石は、「オルター・ロリー」が万国史を途中で放棄したということは書いていない。

    * 

 さて、サー・ウオルター・ローレイは1614年に『世界の歴史』を書いている(いや途中まで書いた)1。17世紀には、神の摂理によって歴史を見るキリスト教的な「普遍史」に対し、合理主義的批判が始まってはいたが、まだその批判が対案を示せていない時代であった。そのような時代に、キリスト教の立場から書かれた世界史のひとつがこれであった。

 周知のように、ローレイは、エリザベス女王(在位1558~1603年)の廷臣で女王の寵愛を受け、イギリスの植民地政策の先頭を切っていた。しかし、かれは「スペインのスパイ」であるというので、1603年に告発され死刑の判決を受けたが、国王ジェイムズ(在位1603~25年)は最後に恩赦を与え、かれをロンドン塔に幽閉させた。かれはここに1603年から1616年までの13年間を過ごすことになる。まさにこのロンドン塔に幽閉されているときにかれは『世界の歴史』を書いたのである。1616年に釈放されてすぐにかれはギアナへ遠征に出かけたが、これもスペインとの関係を疑われて、1618年にふたたび逮捕され、裁判なしに処刑が決定され、執行された。

 かれの『世界の歴史』は全部で4巻からなり、第一巻は、世界の創造、アダムとエバ、「ノアの洪水」、ノアの子孫による地球の植民と最初のネイション、政府のはじまりなどからなり、第二巻は、出エジプト、モーゼの律法、イスラエルの初代王(ダビデ、ソロモンなど)、第三巻は、ペルシア帝国、ペロポネソス戦争、ギリシアからなり、第四巻は、マケドニア王国、ポエニ戦争、マケドニアとローマの戦争で終わっていた。さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定であったが、第二次マケドニア戦争のところで急に終えてしまっていた。

 それは、古い歴史から新しい歴史への「移行期」の産物であった。かれは文書に依拠しようとする一方、神の摂理をも明らかにしようとしたのである。ローレイの『世界の歴史』は、イギリスのみならずヨーロッパにおいても、時間と空間の双方において世界史というべきものが目指されるなかで、本格的な世界史としては、最も早い著作であるとしばしば言われる。ローレイの『世界の歴史』は完全に聖書に忠実な「普遍史」ではなく、キリスト教の世界からすると、ある意味では「問題作」であった。ローレイは、聖書に基づいて世界史を論じているが、すべての論点について、諸説を突き合わせており、事実上、聖書にそのまま基づく「普遍史」に深刻な疑問を呈しているのである。かれは史料を重視したから、史料をコピーさせたり、借り出したりして、書いたという。これはルネサンスを経た時代の合理的な思考の表れであり、「普遍史」の「危機」の現れでもあった。その意味で、この本は重要な意味を持っている。
 
 かれが『世界の歴史』を途中で放棄した理由はいろいろと考えられている。通説によれば、かれの後援者でかれを救い出そうと努力していた若きヘンリー皇子が1612年に没したので、ローレイは落胆し、さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定を放棄してしまったといわれる。たしかにそれは、皇子に捧げられていた。しかし、他にも説があり、定説はない。

    *

 さて、このローレイの『世界の歴史』はいつどのように日本に入り、芥川らの読むところとなったのだろうか。明治期には欧米の世界史がつぎつぎと翻訳され、「万国史」などとして出版されていたが、筆者がこれまでに見た限りでは、ローレイの『世界の歴史』が紹介されたのは、アメリカのジョージ・フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』2(1885年)を通してではなかったかと考えられる。かれは1852-54年にドイツへ行って、神学を学ぶとともに、歴史研究の方法を徹底的に学んでいた。かの本は、ランケ以後のドイツ史学の方法を学びつつ書かれた世界史で、19世紀の欧米での「世界史」の形成の一つの頂点をしめしている。これは日本にも紹介され、大きな影響を与えることになる。長沢市蔵『新編万国歴史』1893年(明治26年)はその要訳であった。ランケやブルックハルトの世界史が未だ紹介されていない日本において、このフィッシャーの世界史は、19世紀末のヨーロッパでの「世界史」をその方法と構成において最も忠実に日本へ伝えたものであった。フィッシャーは、ランケにならって史料の重要さを説くが、この史料の重要性を考えるあまり、歴史に「懐疑的」になることも批判していた。

 興味深いことにここで、ウオルター・ローレイの『世界の歴史』の話が出てくるのである。ローレイがロンドン塔に幽閉されて、『世界の歴史』を執筆していたとき、牢獄の中庭で大騒ぎが起こった。かれが、その騒ぎに関係した人たちから聞いたところによると、その説明にはあまりに多くの矛盾があって、本当のところを確認することができなかった。そこで、かれは、このような狭い場所に起きている出来事さえ確定できないのだから、この広大な世界という舞台に起きていることを描くということは無駄なことではないかと考えた、というのである。それは懐疑的すぎるとフィッシャーは言うのである。

 これはひょっとしたら、芥川龍之介が『西郷隆盛』(大正6年)において述べていた話のネタなのかもしれないと思ってしまう。しめたと思って調べてみると、フィッシャーの本の抄訳である長沢市蔵『新編万国歴史』ではこの史料論のところが翻訳されていないのである。とすると、芥川は夏目漱石から学んだのだろうか。あるいは東京帝国大学文学部で学んでいるときに英語で読んだのだろうか。そこでの大塚保治の美学講義で語られていたのだろうか(小谷瑛輔氏のご教示)。さらには、かれのよく通った漱石主催の「木曜会」での話題だったのだろうか(木村英明氏のご教示)。今のところ、これは疑問のままにしておくしかない。ともかく、芥川龍之介『西郷隆盛』の中には、世界史がうごめいているのである。

1 Sir Walter Rawleigh, History of the World, London, 1614.
2 George P. Fisher, Outlines of Universal History, New York, 1885.

(「世界史の眼」No.4)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「世界史の眼」No.3(2020年6月)

おかげさまをもちまして「世界史の眼」もNo.3を迎えました。

藤田進
新刊紹介:イスラム国暴力支配をはね返したロジャヴァ革命の記録―ミヒャエル・クナップ、アーニャ・フラッハ、エルジャン・アイボーア/山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命』(青土社、2020年刊)

山崎信一
論文紹介:茨木智志「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」

藤田進さんには、今年2月に翻訳が刊行された大著、ミヒャエル・クナップ他、山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命-民主的自治とジェンダーの平等-』(青土社、2020年)を評していただきました。青土社の本書紹介ページはこちらです。山崎は、日本における世界史教育の展開を精緻に追った茨木智志さんの論考「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」(『歴史教育史研究』17号)を紹介しています。

予断を許さないながらも、コロナウィルス感染症をめぐる状況も少しずつ落ち着いて参りました。世界史研究所は、読者の皆さまを励みに、この問題も含め、今後も多様な論考をお届けして参ります。みなさま、引き続き気をつけてお過ごし下さい。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

新刊紹介:イスラム国暴力支配をはね返したロジャヴァ革命の記録―ミヒャエル・クナップ、アーニャ・フラッハ、エルジャン・アイボーア/山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命』(青土社、2020年刊)
藤田進

 2011年春「シリアのアラブの春」として始まったシリアの民主化要求運動が、大国の軍事介入と「イスラム国」の凄惨な暴力がもたらした野蛮な戦争と国内外の何百万人のシリア難民の群れに覆われた「21世紀最悪の人道危機」に帰結した事態を前にして、苛酷な状況下において民主主義的なシリア社会の構築に向けた革命的な取り組みが繰り広げられていたのを伝える本が登場した。

 本書は、文化人類学者、歴史家、市民運動家のドイツ人女性たちがシリア北部のクルド人地域に出現した「ロジャヴァ革命」について現地での詳細な聞き取り調査を踏まえて共同執筆したものである。ロジャヴァ革命というクルド人による現在進行形の取り組みを、革命における女性の重要性に焦点を当てて描き出した本書は、クルド人についての内在的理解を深めさせるだけでなく、クルド人を抱えている中東諸国にとってクルド問題がいかに大きな影響を及ぼしているかを知らせしめる第一級のクルド文献である。

 ロジャヴァは、トルコ―シリア国境沿い地域のクルド人住民の多い一帯をさす地名であり、そこには多様なエスニック・グループの住民も住んでいる。シリア政府は1965年にトルコ国境沿い地域を「アラブ人ベルト」とする決定を下し、73年アサド政権は同地域のクルド人村落に隣接した41のアラブ新村をクルド人の土地を強制収容して創設し、ユーフラテス川のダム・貯水池建設で家を失ったアラブ人家族らを入植させ、土地と仕事を与える優遇政策をとった。一方土地を奪われたクルド人農民は「外国人」宣告をされ、自分の財産を持つことも、家を建てることも古い家を修理することも禁じられた。ロジャヴァはシリアの最貧困地帯とされ、「無国籍」のクルド人には身分証明書がなく、市民権を奪われて子供の出生や結婚の登録も出来ず、土地を奪われたクルド人農民の多くはシリアの大都市への出稼ぎ労働を強いられ、子供たちも学校を終えるとシリアの都市で低賃金労働者になった。バース党政権下でロジャヴァはシリアの最貧困地帯とされ、クルド人には差別政策が加えられた。

 ロジャヴァのクルド人女性の多くは市民権を拒絶されたうえ公的な生活からも排除され、伝統的社会の家父長的支配の虜とされて夫や父親に経済的に依存し、家庭内暴力も流布していた。女性の救いの道となったのは、「社会の解放は女性の解放なくしては不可能である」と説くクルド解放運動指導者でクルディスタン労働党党首アブドゥラ・オジャランが1980、90年代にシリアで主宰した草の根運動だった。それに参加した数千人のクルド人女性たちは「自らの人生に責任を持ち、自ら決定できるように努力する」という考え方を育まれ、自らの解放とすべての女性の解放のための闘いを実践しようと決意していった。女性たちは一軒ずつ訪問して家にいる女性に解放のための運動に加わるように説得して回り、草の根で女性たちの組織化をはかっていった。

 2011年「シリアのアラブの春」を迎えたクルド人はクルド差別政策の改善を期した。しかし、アサド独裁政権打倒のため結成された「自由シリア軍」もバース党政権に代わる新シリア政府を標榜する「シリア国民評議会」も指導部はイスラム主義者に占められており、アサド政府と同じように「シリアはアラブ人・イスラムの国家」、「クルド人は外国人」との見解に立っていた。2012年7月、クルド人運動はロジャヴァ地域をバース党政府支配と切り離して「ロジャヴァ三州」宣言に踏み切り、独自の「民主主義的自治」作り=ロジャヴァ革命をスタートさせた。

 「民主主義的自治によるコミューン体制の樹立」構想に沿って、「女性の自由」「エスニック的・宗教的多様性」「労働者階級重視」を根本とする「社会的契約」に基づいた社会作りを目ざし、シリア国家から離脱しない「非中央集権と民主主義」に基づく独自の自治が志向された。

 「民主主義的自治」は、自己防衛手段たるクルド人民防衛隊と3-4割を占める女性防衛隊を備えていた。ただしその軍事力は「社会を防衛するための治安部隊」とされており、「自己防衛」の目的は敵に攻撃の意図を諦めさせることにあるとされた。ロジャヴァは徹底した民主主義をめざし、利潤のための資本主義経済を拒否し、女性防衛部隊の多くは家父長制的な支配をきっぱりと否定した。ロジャヴァはそれ故に「イスラム国」と同盟者に攻撃された。

 2015年1月、コバニを占領したイスラム国との4カ月に及ぶ激しい戦闘で500人の人民防衛隊と女性防衛隊の戦闘員が殺され、ほとんどの家庭も殉教者を出し、都市の建物のおよそ80パーセントが破壊された後に、コバニ市も365村落のほとんども解放された。それ以後もイスラム国占領からのロジャバ諸地域の解放が続き、人民防衛隊と女性防衛隊がエスニシティの混在するロジャヴァ諸都市を防衛し差別のない自治を運営したことによって他の住民たちの支持が拡大し、アラブ人、アラム人、トルクメン人、クルド人は協力し続けることになった。2015年10月、対イスラム国共同戦線と自己統治による民主主義的シリアの樹立をめざすクルド人・アラブ人・アラム人合同の「シリア民主軍」が創設され、翌16年3月「ロジャヴァ・北部シリアの連邦制」宣言で、「非中央集権と民主主義」に基づく解放地域がロジャヴァ3州の外部にまで拡大した。

 本書が描き出した「ロジャヴァ革命」における「民主主義的自治」は、2019年以降トルコをはじめ大国の軍事的干渉によって再び潰されていく方向にあることが危惧される。

(「世界史の眼」No.3)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする