蓼科の近代史 Ⅲ(下)
―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』
小谷汪之

はじめに
1 「鳥の城」の事件
2 池の平をめぐる「山論」
3 白樺湖の築造
(1)温水溜池としての白樺湖
(2)白樺湖築造における曲折
(以上、前号)
4 白樺湖の築造と「鳥の城」
5 「鳥の城」と「死の概念」
おわりに
(以上、本号)

4 白樺湖の築造と「鳥の城」

 白樺湖築造についての『陰摩羅鬼の瑕』の記述はかなり長く、詳しい。それは、白樺湖築造の経緯がこの小説の主題と密接にかかわっているからであろう。白樺湖築造と「鳥の城」の関係について、『陰摩羅鬼の瑕』では、「伊庭」元刑事の独白の形をとって、 次のように書かれている。

 鳥の城の住人は、多分貯水池造りには全く関与していない筈だ。目の前に湖が出来上がっていく様子を、窓越しに眺めていただけなのだろう。
 彼かの家は入村式をしていないと聞いた。 
 池の平に入植してきたのが何時いつ頃のことなのかは能く知らないが、その際も引受人を立てていないと云うし、然しかるべき手続き―勿論もちろん法的なそれではなく慣例としてのそれなのであるが―も、してはいないようだった。当然、鳥の城の住人は村役となることもないし、村の組にも入っていない。村の行事や寄り合いに顔を出すでもない。オテンマと呼ばれる村の公的な課役も免れていた[長野地方では、道や用水路の整備などのような村の共同作業をテンマ、オテンマといった。伝馬から派生]。
 そこは―鳥の城と呼ばれる建物とそこに暮らす住人達は―共同体から完全に孤立していたのだ。
(『陰摩羅鬼の瑕』248~249頁)

 このように、『陰摩羅鬼の瑕』において、「鳥の城」は白樺湖を最終的に自力で完成させた地域住民たちの「共同体」からは完全に孤立した存在であり、逆から言えば、「鳥の城」は、地域住民たちにとっては、単に異様で不可解な他所者にしか過ぎないものとされているのである。

 そこ[鳥の城]は村ではなかったのだ。
 行政区画上の所番地―住所のことを云っているのではない。共同生活体としてのムラの一員ではなかった、と云う意味である。
 ムラは一緒に生きる。一緒に死ぬ。
 単に結束しているのではない。運命を共有しているのだ。だから国が見放しても湖なんかを造ることが出来る。木場は先程、湖は地元民の努力の賜物たまものだと云うようなことを云っていたが、その物云いは土地の者の耳には別の聞こえ方をする。
 それは多分、ムラが決め、ムラの意思でムラとして行動したからこそ出来たことなのだ。村の共有林を伐採ばっさい売却して財源を確保し、村の若衆や男衆を労働力として成した事業―と云うことなのだろう。
 そうでなければ―個人や家単位に判断が委ねられていたのでは、幾ら利害関係が一致していたとしても意志統一は難しいし、財源も労働力も確保は出来ない。
(『陰摩羅鬼の瑕』247~248頁)

 白樺湖築造についての『陰摩羅鬼の瑕』の記述が長く詳しいのは、白樺湖を自力で完成させた地域住民の「共同体」(ムラ)の強固な団結力を強調するためであろう。それとの対比において、「共同体」(ムラ)から完全に孤立した「鳥の城」の異様さ、不可解さが際立って見えるようになるからである。

5「鳥の城」と「死の概念」

 『陰摩羅鬼の瑕』の主題は「死の概念」(1,121頁)なのであろうが、この小説の最後の方で明らかにされる「由良伯爵」家三代目の「死の概念」は極めて異様で不可解である。この異様で不可解な「死の概念」は「鳥の城」の異様さ、不可解さと深くかかわっているとされているようである。

 伯爵にとっては、
 生きることとは存在することなのだ。
 そして存在しなくなることが死ぬことなのだ。
 伯爵にとっての殺人とはつまり、人間をこの世界から消滅させてしまうことであり、そうでなければ人間の形を失わせてしまうことなのである。人間の形をして此の世に存在して居る以上、伯爵にとってその人は生きて居るのだ。
 生命いのちのあるなしは―。
 関係ないのである。存在するモノは総すべて生きて居るのだ。草も木も花も机も椅子も布巾ふきんも階段も、何もかも、生きて居る。
 机は、机として、生きて居る。
 布巾は布巾として生きて居る。
 机が壊れてしまえば、それは机としては死んだことになるが、木材としてはまだ生きて居る。燃えてなくなってしまった時―それは完全に死んだことになる。人間も―同様だ。
(『陰摩羅鬼の瑕』1,122~1,123頁)

 このような異様で不可解な「死の概念」が生まれる場は「鳥の城」のような異様で不可解な空間でなければならないというのがこの小説の構想なのであろう。「伊庭」元刑事は初めて「鳥の城」に入ったときの印象をこう語っている。

 ―そこは。
 化物屋敷だ。人なんか住んじゃいない。
 あの館は。[中略]
 そう、あの光景は。
 或る意味狂気の沙汰だ。[中略]
 鳥が。
 鮮明に思い出した。
 鳥が、到るところに鳥が。
「こう、屋敷中に、馬鹿みたいに鳥の剥製が並んでてな。鬼魅きみが悪いったらないのよ」
「屋敷中に?」
「ああ、それも百や二百じゃない。もう数え切れない程だった。俺も、一緒に行った同僚も、……すっかり吞まれちまった」
「呑まれた」
「場の雰囲気によ。だって、考えてみろ。剥製と云やァ死骸だろうが。それが何百と並んでいるんだぞ。鬼魅きみが悪いや。城みてェに立派だが中には鳥しかいないのよ。だから―鳥の城だったんだな」 
(『陰摩羅鬼の瑕』253~254頁)

 「鳥の城」に並べられている無数の鳥の剥製は、博物学者として少しは知られていたとされる「由良伯爵」家の二代目が金にあかせて世界中から掻き集めた珍しい鳥を、邸内に住まわせていた剥製師に剥製にさせたものということである(前述のように、「由良伯爵家」二代目は陰摩羅鬼を思わせる偽物の鶴の剥製を作らせたことが発覚して、博物学者としての経歴を絶たれ、三代目の成人を待って自殺したとされている)。

 「鳥の城」で生まれた「由良伯爵」家の三代目は、病弱だったこともあり、20年間「鳥の城」からほとんど一歩も出なかった。三代目は無数の鳥の剥製に囲まれて育ち、外の世界のことをほとんど何も知らなかったのである。それで、三代目はこれら無数の鳥たちを「生きて居る」ものと思うようになったということなのであろう。鳥(モノ)の形をとって此の世に存在して居る以上、それらの鳥(モノ)は「生きて居る」のだという三代目の「死の概念」は、「鳥の城」と呼ばれた「由良伯爵」邸のこのような異様で不可解な空間において形成されたとされているようである。

おわりに

 白樺湖の「建設当時には観光に利用する意図は全くなく、誰も今日のように観光で発展するとは思ってもみなかったようである」(『茅野市史 下巻』763頁)。それにもかかわらず、1950年代後半から、白樺湖一帯は観光地化し始めた。「八子ヶ峰から見る湖底に沈んだ音無川の川筋や、大門街道の道筋がはっきり確認できるほど湖水は澄んでいて、水没した白樺林の先が湖面に突き出て神秘的な美しさをたたえていた」(『茅野市史 下巻』763頁)という魅力的な景観が観光客を呼び寄せたのであろう。

 その頃から、貸ボート業が盛んになり、湖面には多くのボートが浮かぶようになった。ニジマス、ワカサギ、鯉の養殖も始まって、観光客を引き寄せた。湖岸では、農耕用の馬を農閑期に有効活用する観光馬車業が広まった。白樺湖周辺の山の斜面には多くのスキー場が開設され、1960年代のスキーブームに乗って、大勢のスキー客が訪れるようになった。

 観光客の増大に伴って、白樺湖周辺には大きな旅館やホテルなどがたくさん建設されていった。こうして白樺湖周辺はすっかり様変わりしてしまったので、もしそこに「鳥の城」が本当にあったとしても、もう「異様に目立つ」ということはなかったであろう。

 しかし、2000年代になると、白樺湖の観光業は衰退しはじめ、廃墟化する旅館やホテルが出始めた。白樺湖の観光開発は、主として、この周辺一帯の土地を所有している柏原財産区(北山村柏原区の単独財産区。財産区については、拙稿「蓼科の近代史Ⅰ―満洲開拓と戦後開拓」参照)によって行われてきた。その観光開発の方式が時代状況の変化に適応できなかったことも白樺湖観光業衰退の一因とされている。それに、国内観光業の不振やスキーブームの衰退が追い打ちをかけたのであろう。

 ところが、2020年代に入ると、白樺湖の観光業は復活し始めたようである。同じく茅野市大字北山にある蓼科湖周辺でも、一時、観光業の衰退が見られ、人影もまばらになったが、近年、同じような観光業復活の動きが見られるようである。コロナ禍や円安の急激な進行によって外国旅行に行く日本人が減少し、その結果、日本人観光客の国内回帰が起こったということなのであろうか。

(完)

(「世界史の眼」No.79)

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