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「世界史の眼」No.9(2020年12月)

「世界史の眼」第9号をお届けします。今号では、木畑洋一さんに、今年刊行されたO.A.ウェスタッドの大著『冷戦 ワールド・ヒストリー』を書評して頂きました。岩波書店の紹介ページはこちら(上巻、下巻)です。南塚信吾さんには、神川松子と測機舎をめぐる連載の第5回をお寄せ頂いています。

木畑洋一
書評:O.A.ウェスタッド(益田実監訳)『冷戦 ワールド・ヒストリー』上・下(岩波書店、2020年)

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その5)

年末も迫り、気候も日々、冬を感じさせます。皆さま、どうぞ気をつけてお過ごし下さい。世界史研究所が再スタートした2020年は、激動の中に終わろうとしています。世界史研究所の活動にご関心をお持ちくださった皆さまに改めて感謝申し上げるとともに、今後とも、更に活動を充実させるべく努めてまいります。

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書評:O.A.ウェスタッド(益田実監訳)『冷戦 ワールド・ヒストリー』上・下(岩波書店、2020年)
木畑洋一

 冷戦という現代世界史にとってきわめて重要な対象について包括的に学びたいと思った時、日本語で参照できる本は意外に少ない。しかも、一人の著者が統一した視点のもとに、その著者なりの歴史像にそって冷戦史を描いた本となると、残念ながら日本人研究者の手になるものは思い当たらない。外国の研究者の本で邦訳のあるものとしてすぐ念頭に浮かぶのは、ジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦 力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会、2004年)であるが、冷戦を「長い平和」と形容したことからも分かるように、ギャディスの冷戦像はあくまでもヨーロッパ中心的である。そのような冷戦像に大きな疑問符をつけて、いわゆる「第三世界」と米ソの関係を詳細にたどることによって、新たな冷戦史像を提示してくれた研究が、O.A.ウェスタッド(佐々木雄太監訳)『グローバル冷戦史 第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)であった。その著者がさらに時間的に視野を広げ、空間的にもより包括的な形で冷戦像を提示した結果が本書である。翻訳にあたったのは『グローバル冷戦史』の邦訳にも関わった第一線の国際関係史研究者たちであり、益田実他編『冷戦史を問いなおす 「冷戦」と「非冷戦」の境界』(ミネルヴァ書房、2015年)の寄稿者でもある。

 時間的な視野の拡大は、本書の叙述が1890年代から始まっていることに示されている。冷戦の起源といえば、最大限遡ったとしても1917年のロシア革命、あるいはそれを生み出した第1次世界大戦までということが常識であろう。それを19世紀末、20世紀への世紀転換期に求める理由として、著者は二つの問題に着目する。一つは、「アメリカとロシアが強烈な国際的な使命感をみなぎらせた二つの帝国に変容していった」ことであり、今一つは「資本主義とそれを批判する者との間に存在するイデオロギー的な分断が先鋭化していった」ことである(上26、以下本書の頁をカッコ内に示す)。これは重要な着眼点であるが、評者としては、第1点目について、とりわけロシアに関しては留保したい。一方、第2点目の方は冷戦の起源論として確かに首肯できる問題提起である。そのことは、冷戦の性格についての著者の議論に関わる。

 冷戦について、かつては資本主義と社会主義という社会体制をめぐるイデオロギー的対立を強調する議論が主流であった。しかし、社会主義圏の解体という形で冷戦が終焉を迎えて以降、冷戦下の東西両陣営の対立を権力政治的面からとらえてイデオロギー的側面を軽視する傾向が強まってきたという感がある。それに対して著者は、「冷戦は、そのイデオロギーの中心性とそれを信奉する人々の熱心さゆえに大半のものごとに影響をおよぼした」(下437)と、あくまでもイデオロギー的性格を重視する姿勢を崩していないのである。この点からみて、19世紀末から分析を始めることは的を射ていると考えられる。

 ただ、19世紀末から第2次世界大戦までの時期を扱った部分は、必ずしも多くなく、序章と終章を除く全22章の内、第1章と第2章の2章分のみである。本書を繙く前に評者が予想していたよりはるかに少なく、若干の不満が残った。

 しかし、第3章以降の冷戦史本体の叙述には、予想に違わずすばらしいものがある。ヨーロッパでの冷戦の展開についての記述は比較的オーソドックスであるが、前著につづき、非ヨーロッパ世界での冷戦の展開を、ヨーロッパと同列に目配りしながら、脱植民地化過程と関連させて議論する姿勢は他の追随を許さない。冷戦の最終的な終焉を示したソ連の崩壊について、「まさに脱植民地化の一つの事例であり、イギリスやフランスの帝国に生じたことを想起させるものだった」(下430)と論じていることには、我が意を得た感がした。個々の分析に立ち入る余裕はないが、例として、ソ連のアフガニスタン侵攻の前段階として、アンゴラややエチオピアの情勢を論じている点であるとか、冷戦終結時の東欧の変動にグローバルサウスの社会主義国の変容が先行していたとの指摘とかをあげておきたい。

 著者はもともと中国研究者として出発したが、本書でもその蓄積は大いに生かされている。たとえば第9章(上巻)の「中国の災難」という章は本書全体の中でも対象を最も詳細に描いている章である。一例をあげよう。文化大革命が始まる頃、毛沢東は杭州に滞在中ある講演のなかで、「諸君は徐々に現実と接するべきである。しばらくの間は田舎に住み、少々のことを学ぶべきである。・・・本物の分厚い学術書などを読む必要はない。小さな書物を読んで一般的な知識を少々身につければ十分だ」(上346)と語ったというが、この史料は、「筆者所有の謄写版複写」である(第9章注18)。

 また、インドの役割についてかなり詳しく論じられていることも重要であろう。

 本書の他のメリットとして、特に下巻におけるオンライン史料の活用・引用という点を最後にあげておきたい。本書は長期間を扱った通史であるが、細かな引用について丁寧な出典注がつけられている。たとえば、アメリカのジョージ・ワシントン大学にあるアメリカ国家安全保障アーカイヴでデジタル化されている興味深い史料も引かれており、評者は本書の叙述に導かれて原史料に入り込むということを度々行ない、学ぶこと大であった。

 こうした本書は、冷戦史を語る際にまず参照すべき本の一つであるといえよう。

(「世界史の眼」No.9)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その5)
南塚信吾

5. 日本における「空想的社会主義」の理解

 振り返るに、明治期において、ロバート・オーエンを含め社会主義はどのように紹介されてきたのだろうか。そして松子は社会主義文献とどのような接触をしたのだろうか。

 明治に入って最初に社会主義について紹介しているのは、管見の限りでは、箕作麟祥『万国新史』(1871-77年)であろう。この中で、箕作は、1848年革命期の「ソシアリスム」を論じていて、サン・シモン、シャルル・フーリエ、コンデシラン、ルイ・ブラン、プルードンを紹介しているが、ロバート・オーエンもマルクスもそこには入っていなかった(世界史研究所編『萬國新史』、225-226頁)。

 初期の社会主義を広めるのに貢献したのは、『六合雑誌』であった。『六合雑誌』は、1880年10月に小崎弘道,植村正久らが東京キリスト教青年会を起し,その機関誌として翌年に創刊したものである。『六合雑誌』は、社会主義運動への理解を示し,1898年に社会主義研究会が発足したのち,99年には安部磯雄が主筆となって、この研究会の機関誌的役割を担うようになった。そして1921年に廃刊されるまで、日清戦争後の社会主義運動に大きな影響を及ぼしたといわれる(『ブリタニカ国際大百科』)。広島時代、ミッション・スクールで学んでいた松子は、このキリスト教系の雑誌を読んでいたかもしれず、ミッション系の青山女学院在学時や、平民社に出入りしていた時期には確実に接していたのではないだろうか。

 社会主義者の思想が初めて系統的に紹介されたのは、『六合雑誌』第7号(1881年)に載った小崎弘道 の「近世社会党ノ原因ヲ論ス」においてであった。この中で、小崎は、「社会説(社会主義思想)」には三つの種類があるという。一つは、宗教家もしくは哲学者たちの「同信同説」のものが集まって産業を共同にするもので、インド仏教やユダヤ教やキリスト教などに見られるが、「英国オーウエン氏の共産法」もここに入ると一言言及されている。二つは、現在の社会に不満でその改良を欲するもので、イギリスのトーマス・モアやフランスのフオリエー(フーリエ)、ルイ・ブランク(ルイ・ブラン)などがここに入る。そして三つ目は、当今の説で、「地面資本等各自の所有権を廃し、貧富貴賤の差別を滅し、各自其幸福を共有せんと図る」もので、カール・マルクスが代表であるとして、その説を詳しく論じている(『六合雑誌』第7号、106-107頁)。この小崎の論文は,日本で初めてマルクス主義に言及した論文と言われるが、日本の初期社会主義の社会主義像はこのような全体像を持っていたのである。

 ロバート・オーエンについてやや具体的に紹介したのが、1891年の石谷斎蔵『社会党瑣聞』である。『社会党瑣聞』は、フランスやイギリスの社会主義者、つまりバブーフ、サン・シモン、シャルル・フーリエ、ルイ・ブラン、そしてロバート・オーエンらの経歴と運動を紹介して、とくにロバート・オーエンについては「英国社会党員ロバート・ヲーエン氏並にその主義の政社」という章を設けて、やや詳しく紹介していた。彼については、

「氏は自ら其資財を擲(なげう)ちニウ・ラナークと呼べる所に一の製造所を創立し、是に殖民の事業を初めたり。其主義とする所は、労働人を結合するの目的に出でたり。就中、労働者に向いて報酬の正しきと家計の整頓せざるべからざると、鰥寡(かんか)孤独を救恤(きゅうじゅつ)すべき事等、大に該社(=その会社)に益するところあり。」

と紹介していた(『明治文化全集』第 15巻、152頁)。ニウ・ラナークというのは、ニュー・ラナークの紡績会社のことで、オーエンはこの会社の社長をしていて、種々の改革をここで試みたのである。

 日清戦争後の産業化の進むなか、1899年の『六合雑誌』222号に発表された河上清「英国社会主義の木鐸ロバート・オーエンを論ず」は、オーエンの経歴と社会主義思想をまとめて紹介したものであった。それは、オーエンが、ニュー・ラナーク紡績会社の社長として、労働者の賃金、就業時間、幼児労働禁止、福祉施設の整備、労働者への家屋提供、日用品提供などの改革を行い、会社の業績を上げたこと、それに倣い、政府にも労働時間制限、幼児労働の廃止などの労働者保護の政策を提言し、さらに無償の義務教育や、公衆図書館設置、貧者への住居提供などを求めたことを、述べていた。こうして、オーエンは「実行的社会主義者」であったとされる。その上で、かれの思想が論じられる。その柱は、労働者は使役するのではなくその「品性」を高めていくことによって生産も向上するという考えで、その「品性」を高めるにはそのための「境遇」(環境)が準備されなければならないという「品性養成論」であった。したがって、「国富」はそれ自体が目的ではなくて、「市民の高尚なる品性」を要請するための手段なのだという。このようにオーエンの思想を紹介したうえで、河上は、オーエンはどのような政治経済組織を考えていたのかを「論述」していないので、自分の解釈を述べるとして、オーエンは、自由競争による利潤を廃するために、貨物の費用は需給の均衡によるのではなく、生産費によるべきだとしていたのであり、自由競争を否定して、土地などの私有財産を廃し、「凡ての貨物は社会共同の所有」とすべきとしていたのだと述べた。では具体的にどういう組織によるのか。河上は、オーエンは、利潤をあげてそれを配当することを目的とする「キリスト教的社会主義」の創立した「生産組合」には反対であったという。では、オーエンは、自分の政治経済組織をどう作るかというと、「民権」によるのではなく、「地主資本主等より成れる議会政府」に思想の実現を求めたのだとし、これを批判していた(『六合雑誌』222号、15-25頁)。

 この河上のオーエン理解は必ずしも正確ではなく、オーエンの「協同組合」については理解していなかった。オーエンは、「生産組合」に反対していたのではなく、ニュー・ラナークで労働待遇の改革をして生産を高めたあと、1820年ごろからは協同組合運動に関心を移し、生産と生活の共同化によって、資本主義の害悪に対抗しようとしたのである。永井義雄はこれを「協同社会主義」と呼んでいる(永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』、6-7頁)。そして、アメリカにわたって、1826年には、インディアナ州に自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニューハーモニー村)の実現を目指したのである。しかし、河上はこの協同組合については語っていないのである。

 とはいえ、この河上論文は広く影響を与えたといわれ、松子もこれを読んだはずである。のちの「測機舎」のことを考えると、松子はニュー・ラナークでの改革には共鳴したのではなかろうか。河上は、慶應義塾で福沢のもとで社会主義を知り、青山学院で社会主義とマルクスの勉強会を開いたりして、1897年、23歳のときに『万朝報』に初めて論文を出していた。松子が1904年に青山女学院に入ったときは、青山学院のそういう雰囲気が伝わっていたことと思われる(なお、河上は1901年にはアメリカへ留学していた)。

 しかし、河上でさえ「協同組合」については語っていないということは、大きな問題である。河上らが紹介したロバート・オーエンの「ニュー・ラナーク」事業は、あくまでも労働者の待遇改善という政策であった。しかし、それは測機舎の一面ではあってもすべてではなかった。測機舎の特徴は労使関係を否定した「労働者生産協同組合」という側面である。では、松子らは「協同組合」については、どこで学んだのだろうか。それを探らなければならない。鍵はつぎにある。

 自由民権運動の出身で、1880年には『万国史略』を出していて、その後社会主義に接近し、ジャーナリストとして活動していた久松義典は、著書『近世社会主義評論』(1901年)において、当時の社会主義理解を全体的に示していた。

 その「序論」において、久松はこう述べている。

「そもそも社会主義は、19世紀の新産物なり。その起源に遡れば、フランスのルーソー・・・等先ず自由平等の主義を唱道し、イギリスにてはロバート・オーウイン協同作業の理を説き、ドイツのヘーゲル、フィヒテ、ラッサル等これを顕彰し、もって漸く(ようやく=しだいに)発達せしが、その広く世にあらわれたるは、1817年イギリス議会にオーウインが初めて社会的建議を提出し、1830年フランス、サン・シモンの新言論出で、尋(つい)でフオーリール(フーリエ)の新計画起り、蹶后(けつご=すぐあとに)フランス革命(1848年革命のこと)の破裂あり、新社会党ルイ・ブラン、カール・マルクスの運動あり、終に1872年ハーグに開きし萬國連合大会において、社会党は断然として無政府党と分離し、ここに現今の社会的民政主義の純団体を生ぜり」(久松『近世社会主義評論』、4頁)。

 久松は、社会主義のルーツをルターまで遡ったり、ヘーゲルなどを社会主義の擁護者にしたり、不思議な議論を展開していて、当時の社会主義理解の状況を思わせる。本論で主に論じられているのは、サン・シモン、フーリエ、マルクスらの議論である。ロバート・オーエンについては、本論での議論はないが、この序論で述べられているように彼の位置づけは確かであった。

 しかし、注目されるのは、久松はこの本の中の第22章に「フオーリール新案共同農場共同合宿所、一夫多妻、自由恋愛、人倫の大変動」という章を設けてフーリエの「新計画」を論じていたことである。すでに述べたように、箕作麟祥は『萬國新史』において、フーリエを紹介していたが、その内容は、「財本、労働、才智の三者により、世界万民を糾合し、・・・従来の政府、法律、習慣などをまったく一時に廃絶して、全世界を一の巨大な労働社中(=労働組合)となし、・・・各人たがいに労働を厭わずかえってこれを歓娯となすに至らしむべき説」を唱えたというもので、具体的ではなかった(箕作麟祥『萬國新史』、226頁)。日本でフーリエの思想がまとめて紹介されたのは、久松において最初ではなかろうか。ここで、久松は、「協同作業」とともに男女の関係の平等化についてもフーリエの説を詳しく論じていた。これは松子の注意を引かないはずはなかったと思われる。久松は、フーリエの「新案」は、「日用生活の旧習」を刷掃し、「人の労働と富の配分」においてできるだけ不平等を取り去り、あわせて、「家族の組織男女の関係」までも「根本的に革新」しようとするものであるとまとめている。そしてフーリエは、1600ないし2000人の農業者からなる共同農場(ハランクス=「ファランジュ」)を構想し、そこでは土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所(ハランストーリー=ファランステール)に居住するという。そこでは、私有財産は全廃される。社員は、生産物の中から、各自の生活に必要な最低額を平等に取り、残りから「作業資本」を取り、残りの利潤を労働者に12分の5、資本主に12分の4、抜群功労者(才能)に12分の3を配分する。社員はその特性に応じて農工業の作業のうちの「一科」以上を執る。「何人も余分に労働するを要せず、不愉快なる仕事を執るに及ばず」。「自営自弁」である。またそこでは、役員職工の区別がなく、家事も共同合宿所のなかで行うので、男女の仕事が区別されることはない。そして、この共同体の中では、「男女の自由恋愛」は禁止されない(久松『近世社会主義評論』、100-113頁;久松については、猪原透「「自由民権」と「社会主義」のあいだ―久松義典の社会学研究をめぐって」『立命館大学人文科学研究所紀要』117号、2019年11月、367-397頁が参考になる)。このフーリエ理解はほぼ正確である(『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』、77-78頁参照)。

 ここに労働者生産協同組合と共同体と男女平等をともに組み込んだ思想があったのである。ロバート・オーエンとシャルル・フーリエ、これが松子の中に埋め込まれた思想のルーツではなかったか。

 このような本が出た後、松子は、台湾へ行き、1914年に帰るのである。その間に1910年に大逆事件が起き、社会主義者らは「冬の時代」を迎えるのであるが、1917年のロシア革命後、社会主義と共産主義への関心は強くなった。 とくに1919年はそういう関係の出版が集中して出た年であった。

 リチャード・イリー『近世社会主義論』(1919年)には、その「総論」において、京都帝国大学の経済学者田島錦治が社会主義について一般的に論じていて、社会主義の最初の実例として「ロバード・オウェン」を挙げ、こう述べている。

「西暦1835年、英国の工業家ロバード・オウェン氏は、社会を改良革新するの策を講ずる目的を以て一社を創立し、名けて「各国民各種族の協会」と称したり。而して此の結社たる、政事上の改革を計りたるに非ずして、社会上の改革に重きを措きたるが故に、其論議は世上より社会主義の称を得、その結社は社会党の名を得来たれり。」

(総論は田島の筆による。そのあとにイリーの社会主義論が訳されている。リチャード・イリー『近世社会主義論』)

 イリ―の翻訳である「本論」では、ロバート・オーエンの事業内容は書かれていない。しかし、バブーフ、サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブラン、プルードン、マルクス、ラサールらの活動と思想がそれぞれに章を立てて詳しく述べられていた。とくにフーリエについていえば、かれの「ファランクス」と「ファランステール」の構想が詳しく説明されていた。「ファランステール」においては、人は「己の嗜好に従ひて自由に」職業を選択し、労働は人間を愉快し、婦人も労働を愛し、こうして「貨物の生産」は増加する。また、「ファランクス」においては、共同生活のなかで、無益な職務は廃止され、警察も、弁護士もいらなくなる。そこでは、農業が最も奨励さるべき職業となり、工業と商業は社会の必要を満たすだけに限定される。そして、「人は其の能力に応じて労働し、其の報酬は各人勤勉の度と、財能の多少と、資本の大小とに比例して適当に分配される」というのであった(イリー『近世社会主義論』97-104頁)。この時期までに「空想的社会主義者」がこれほどまで詳細に日本で紹介されていたことは、驚くべきことである。

 しかし、この時期、社会主義への関心はロバート・オーエンやフーリエら「空想的社会主義者」を越えて広がっていた。例えば、松子とともに1908年の赤旗事件で捕まり入獄していた堺利彦は、入獄中に大逆事件が起きたので連座を免れ、事件後の「冬の時代」には雌伏して売文社を起こし、新旧の社会主義者を集め、雑誌『新社会』によってロシア革命の紹介を行った。そして1919年に山川均と『社会主義研究』を発刊し、1920年設立の日本社会主義同盟の発起人となっていた。かれは、この『社会主義研究』に幸徳秋水と共訳した『共産党宣言』を掲載していた。そのほか1919年には、河上肇が個人雑誌『社会問題研究』に、「マルクスの社会主義の理論的体系」を掲載し、その中に『共産党宣言』の部分訳を載せ、櫛田民蔵は『経済学研究』に、「社会主義及び共産主義文書」を掲載し、『共産党宣言』第三章を紹介していた。松子はこうした動きをしっかりフォローしていたはずである。  

 こういう社会主義への関心の広がりの中で、ロバート・オーエンには新たな関心も生じたに違いない。1920年の4月から翌年11月まで、河上肇は『社会問題研究』に9回 にわたって「ロバアト・オーウェン(彼れの人物、思想及び事業)」を連載した。これは、オーエンの自伝の基づいたもので、かれがアメリカに行ってニュー・ハーモニーの事業に取り掛かる前の、ニュー・ラナークを中心とした活動と政府への提言活動を扱ったもので、社会主義という観点からしっかりと分析した論稿であった。これはかなりな影響力を持ったといわれる。ただこの連載は、測機舎の発足と時を同じくしており、「参考」にはならなかったかもしれない。測機舎の規約ができる6月までには、河上はまだニュー・ラナークの改革の話までは書いていなかったからである(『河上肇全集』11、118-230頁)。

 まとめるならば、1920年の測機舎の設立までの時期に、1920年に出た河上肇の論文は別として、松子はそれ以前の社会主義関係の出版物は目にしていたと思われる。とくに『六合雑誌』は、松子の眼に触れていたに違いない。そういう松子の周辺にいた末三とその同志たちは、ロバート・オーエンやフーリエの考えをなんらかのかたちで直接間接に参考にして、測機舎の組織を生み出したのである。

参考文献

『六合雑誌』

箕作麟祥『萬國新史』世界史研究所編、2018年

イリー、リチャード『近世社会主義論』(河上清訳、田島錦治補)法曹閣書院、1897年(明治30年)初版、1919年(大正8年)再販 原書は、Richard Ely, French and German Socialism in Modern Times. New York: Harper & Brothers, 1883.

久松義典『近世社会主義評論』文学同志会、1901年

『河上肇全集』11、岩波書店、1983年

『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』中央公論社、1975年

『明治文化全集』第 15 巻、日本評論新社、?

永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』ミネルヴァ書房、1993年

(「世界史の眼」No.9)

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「世界史の眼」No.8(2020年11月)

今年4月にスタートした「世界史の眼」も第8号を数えます。この間、ご承知のように、私たちはCOVID-19による世界の大きな変化を目撃してきました。今号では、北海道有朋高校通信制課程並びに小樽商科大学で教鞭を取られている吉嶺茂樹さんに、こうした中で大学生が感じた生の声をご紹介いただきました。また、南塚信吾さんには、神川松子と測機舎をめぐる連載の第4回をお寄せ頂いています。

吉嶺茂樹
教職を目指す大学生は、今般のCOVID-19問題をどうとらえたか

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その4)

世界史研究所でも、今号の吉嶺さんの論考を始め、COVID-19問題の世界史的意味を探るべく、さまざまに準備を進めております。

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教職を目指す大学生は、今般のCOVID-19問題をどうとらえたか
吉嶺茂樹

1. はじめに

 今般のCOVID-19問題は、図らずもグローバル経済の問題点や、日本社会に内在していた様々なレベルの問題を顕在化させた。教育現場でも、唐突な一斉休校指示と、しかし、にもかかわらず「新しいセンター試験」を日程通り実施すること(このことが現役生と既卒者との学習機会の著しい不均衡をもたらすことに対する配慮は一切無い:試験自体を少し遅らせる二回目程度では問題解決には全くならない)等々である。社会全体でも、5~6月などの時期には、医療従事者への一方的な差別的発言(海外では賞賛はされども蔑視されることなど考えられない)、いわゆる「自粛警察」や帰省者の実家への張り紙など枚挙にいとまが無い。筆者も教育現場で毎日机やドアノブを消毒しながら、いわゆる「エッセンシャルワーク」の名の下、レジ打ちで毎日毎日、罵詈雑言を浴びせられて心が折れそうだ、と電話してくる勤労生徒たちの顔を思い起こしているところであった。

 さて、そんな筆者が、今年度春学期、ZOOMによる遠隔講義を使って、大学生に外国史を教えることになった。元々はビジネスマンを育てる大学で、教職を目指そうという学生に外国史や日本史を教え始めて10年近くになっていた。なお筆者自身は、通信制高校に勤務していて、遠隔教育については、7年前から国の研究指定を受け、全国唯一の遠隔教育による単位認定までを行う実験をしていた。i但し筆者自身、研究当時はこういう形で全国的に遠隔教育が広範に行われるような事態を想定したことも無かった。4年間行った研究指定の報告書も、はっきり言って「誰も読まなかった」。ところが「図らずも」遠隔教育に対するスキルを持っていたため、講義の実施自体はほぼスムーズに大きなトラブルも無く終えたのであるが、その限界や問題点が改めて理解できたというのが正直なところである。

 本稿では、しかしそうした、筆者が感じた技術的・制度的な問題では無く、これまた「図らずも」「遠隔教育を強制的に受けさせられる羽目になってしまった」学生たちの声に耳を傾けてみようと思う。例年受講生も数名で、家庭的にやっていたのだが、今年は今回の状況もあったのか、公務員志望が多く、受講者数も25名となっていて、昨年度から継続履修している学生自体が目を丸くするというような状態であったことを付記しておく。

2. レポート内容その他について

 教室に学生を集めてのテストが実施できないため、レポートなどによる成績評価が奨励された。筆者の外国史でのレポート課題は次の通りでであった。

 次の資料を二つ読んだ上で、次の2点について書いてください。(1600字以上)

A 藤原辰史「パンデミックを生きる指針」

https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic

B メルケル首相の国民にあてたメッセージ(ドイツ大使館メッセージ)

https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/politik/-/2318804

(1)(本講義が教職課程の外国史であることを踏まえ、外国史<近現代史の通史>を学んだ上で)

 4月以来の、自分の身に起こっている事態を、皆さんは教育現場で言語化して話す必要にたぶん置かれます。そこで、20年後の中学生や高校生に、どのように語りますか。口語体でも文章形式でも良いので書いてください。

(2) 4月以来の皆さんにおこった事態に対する思いの丈とか感想とかを聞かせてください。

の二つである。遠隔の講義だったので、学生の表情や講義中の雰囲気などが画面越しではわかりにくい。どのくらい書いてくれるかなと心配であったが、それは杞憂であった。彼らは彼らなりに自分の身に降りかかっていることを言語化し、冷静に判断し、時に「正しく怒っていた」。以下は、学生たちの言葉からである(適宜内容を変えない範囲で表現を改めた。文責はすべて筆者にある)。

2-1 「20年後の中学生や高校生に、どのように語りますか。」

 多くの学生は、現在のニュースや新聞報道、ネットの情報などから自分の周りで起きていたことを伝えようとしていた。その中で、いくつかのレポートが印象に残った。

2-1-1 「似ていること、違うこと」

 「…当時私は、北海道の大学に通っていて、有数の観光地である小樽でアルバイトをしていましたが、客の8割以上が中国人観光客だったため、バイト先も閉鎖になりました…入国制限によって、今まで賑わいをみせていた街から人が居なくなりました。…部活動が制限され、授業の開始が一ヶ月延期され、そして人生初のオンライン授業が始まりました」「…私は宮城県の出身で、当時宮城で暮らしていましたが、もう震災前の生活には戻れないことを知っています。一見復興したように見える街にも、たくさんの傷が残っています…おそらく、小樽の観光業に関わる人にも、そしてこの国に生きている人たちにも、たぶん同じです…」。

 (吉嶺コメント)東北の震災を経験した学生が、「似ていること、違うこと」と称して、「普通の生活ができなくなること」の意味を考えたレポートである。実際、小樽の状況は深刻であった。筆者は、オンライン講義だったが、高校の職場の都合上、札幌から小樽まで通って大学の教室から遠隔授業を行っていた。その帰り道、人通りの全くなくなった、土産物店がすべてシャッターを下ろした小樽運河沿いは、片側三車線の道路に全く車が無く、「ゴーストタウン」の様相を示していた。

2-1-2 歴史教員を志望している学生が、実際に教科書や資料でどのような図版を用いたら今の状況が伝わるか、という観点から考えたレポートである。

 「…教科書には、『様々なモノ(街の彫刻や、庭に置かれている置物やその他いろいろなもの)』がマスクをつけている写真、…ウイルスの顕微鏡写真、マスク・アルコール等々の在庫切れの写真、ソーシャルディスタンスをみんなが守っている写真(郵便局の外まで受け取りの列にみんなちゃんと並んでいる!)…を使ったら良いんじゃ無いでしょうか。」「なるべく、生徒に『考えてもらう』事によって想像してもらうのが良いんじゃ無いかと思います」

 (吉嶺コメント)このレポートには他にも、「…こうやって、歴史の教科書には、ある史実を伝えようとする写真が考えて使われるという事を改めて自分で考えてみて、ちゃんと教えようと思うようになりました。時間の使い方が重要ですね…」という記述がある。この学生の指摘によれば、「探求すること」が「歴史の勉強を面白くすることは間違いない」。問題はそういう学校現場の活動を後押しするような「入試問題」が出題されていくことであろう。大学入試センターも含めて、である。

2-1-3 自分の身の回りから外へ向けて現状を考えたレポートである。

 「皆さんは、家で過ごすことは好きですか?一人で過ごすことが好きだという方も少なくないと思います。でもそれが1ヶ月、3ヶ月、半年…と続いたらどうでしょうか。それも自主的では無く、国に指示されるのです。Stay Homeと称して…」「…コロナウイルスは、生活様式をがらっと変えました。…通勤通学の方法も変わり、大学は通学の必要がなくなり、オンラインになりました。…通学しなくて良いのは楽ですよね(そう思いますよね)。でも、違うんです。皆さん、体育をケガなどで見学するときにレポート書かされた経験はありませんか?それをほとんど全部の教科でやらされるんです。当時の大学生は命とか経済的な面もですけど、落単の危機にもさらされたと私は思っています(笑)。」「…ジャニオタはコンサートに行けず、世の中のカップルは、デートはおろか会うことも許されず(隠れて観光地にいった芸能人は糾弾され)、コロナ別れという言葉がはやりだし、髪の毛が伸び放題、プリン状態の髪色の人が増え、セルフカット・セルフカラーで自分の技術に落胆する人が増えました(あっ、私のことか<笑>)でも私がこれを皆さんに話していると言うことは、私は生き抜いたと言うことです…」。

 (吉嶺コメント)彼女は毎回の講義感想に実にユニークなコメントをしてきた学生である。他の学生とは少々違う観点から、切れ味鋭い「20年後の高校生への『拝啓…』で始まる手紙のようなもの」という実に面白いレポートを提出してきた。

2-2 「現状に対するあなたなりの思いの丈や感想を書いてください」

 この課題には、外国史(近現代史が中心である)の通史学習を踏まえた、実に様々な、それも長文のコメントが寄せられた。中には5000字を超えるものもあり、総じて「自分の身に起きていることを今、このときに言語化(コトバ化)して残しておきたいという意欲が感じられた。

2-2-1 中国からの留学生のレポートである。少し長くなるが引用したい。

 「先生は3月から7月に起きていることを書きなさいと言いましたが、私は1月の時からもうコロナとの闘いを始めたので、1月から書きたいと思います。…誰も世界で何千万人の感染者が出ることが想像できませんでした。私は武漢が封鎖される初日も、友達からなにを食べに行こうと誘われました。行ったのは家の近くのデパ地下でした。…」「…SARSも大丈夫から今回も大丈夫だと思っていたのでしょうか。そしてその日の夜で、地元に第一例の感染者が報告されました。それにも関わらず、街でマスクをする人がまだ少なかったです。周りで親にマスクをさせるのに苦戦していた若者がたくさんいました。なぜSARSも経験していない若者はマスクを重視しているのに、経験がある大人は重視しないのかを考えるのがなかなか面白いです。そのあと、私は受験のため日本に来ました。…」「…その後SNSを見たら、最初の時とのすごい差が感じました。最初の時、政府を批判する人が大勢いました。しかし時間が経つに連れて、みんなが納得したように見えました。…」「…二週間前、私の地元に新たな感染者が出ました。地元の通知を受けて、他の省が接触者である友達を検査して感染が判明された日、地元のニュースではまだ新増感染者0人と書いていました。…その結果、次の日に町を緊急封鎖したが、二週間で感染者が400人以上になりました。当然、政府のせいばかりじゃなく、マスクが普通に安く売っているがマスクもしなくて集まっていた人々もこういう結果になった原因の一つです。…私たちは一体コロナから何を学んだのが、私は未だに分かりません。しかしこれは中国だけでもないです。」「人は銅を以て鏡と為し、以て衣冠を正すべし。古きを以て鏡と為し、以て興替を見るべし。人を以て鏡と為し、以て得失を知るべし。こういう言葉を話す人こそ貞観の治ができるのか、私たちができるのは本当に衣冠を正すだけのレベルでしょうか。」

 (吉嶺コメント)彼女の戦いは1月から始まり、日本で大学に入学したらオンラインだった、という現実であり、その戦いに対するなんとも言いようのない感情を何度か講義コメントに書いてくれた。貞観政要の「三鏡の教え」を書くことのできる大学一年生が日本にどれくらいいるのか良くわからないが(彼女はしかも地方の出身である)、以て範とすべきであろう。中国嫌い、とか韓国大嫌いとか書いている人々がどのくらい隣国との関係史を知っているか、ということである。ちなみに貞観政要は明治天皇も元田永孚に進講させている。元田永孚は元熊本藩士、教育勅語の選定に深く関わった人物として知られている。

2-2-2「私の本音はこうです」

 「私がコロナによる影響を身に染みて感じたのは、高校の卒業式でした。例年は、保護者はもちろん在校生も参加して、オーケストラ部による演奏で入場するのですが、今年は卒業生だけで、入場曲もCDの音楽という寂しい卒業式になりました。それから、樽商で授業が始まるまでの間、これでもかというほど日々怠け、遊んでいたので、3から5月はそれほど深刻に受け止めていなかったのが本当のところでした。しかし、大学の授業が始まってからは、とにかく忙しかったです。家にいるのに忙しく、授業前の自分の生活ぶりを妬ましく思っていました(笑) SNSなどでも全国の大学生が課題の多さに疲れている情報をよく目にします。疲れているのは大学生だけではなく、小中学生の子供を持つ全国のお母さん方もだと、小4の弟、そして私の母を見ていて感じました。午前授業のために昼食を用意しなければならず、給食の恩恵を改めて感じているようでした。こうして、この状況のなかで、強く感じたことが一つあります。他者に配慮する、全員で協力するなんてことは無理ということです。メルケル首相も安倍総理もおっしゃっていますが、実際、全員が全員、今を生きるのに必死だと思います。他人の命を守るよりも、自分の家庭のトイレットペーパー、マスクの充足の方が大事に決まっています。そう思えるようになるのは、このコロナによる状況が歴史として認識される頃なのではないかなと。これは、あまり世間的には理解してもらえないと思うのですが、国民は今の状況を気にしすぎな気がします。絶滅危惧種に人間が入ってもおかしくないのではと。あと100年後にはコロナでなくとも必ずみんな死んでしまうのだから、とりあえず、旅行させてくれ、コンサート開催してくれというのが私の本音です…。」

 (吉嶺コメント)筆者は、彼女が卒業した高校に以前勤務しており、そうした気安さもあって、毎回のコメントも大学の教員では無いからか、かなり正直な感情を提出してきてくれた。今回のレポートも、「私の本音はこうです」というタイトルであった。

3. おわりに

 過去に行っていた遠隔授業の研究を通じて、その長所と短所を筆者なりに理解した上で、今回大学の講義を行うこととなった。やはりできることとできないことがあるというのが、当たり前ではあるがレポートで確認できた。ただ、前述したように、彼ら学生は、自分の身に降りかかった(彼らのせいではない)状況にどうやって対応するか、試行錯誤をしていて、それは教員も一緒なのだなということが分かり、安心した、という感想もあった。さらにWHOや中国政府の対応を攻撃的に批判するものがもっと多いかと思っていたが、問題はそういう矮小化できるものでは無いという記載が多くて少しほっとしている(ゼロでは無いですが)。政治に対して正しく怒ることが必要だし、投票というのはそういう意思表示なのだということを改めて考えた、というコメントも多かった。彼らがこの経験をどのようにこれから生かしてくれるのか、楽しみに見たいと思う。遠隔講義を15回行った経験から言うと、ほとんどの学生はきわめて真面目に前向きにこの事態を乗り切ろうとしていた。毎回欠席はほとんど無く、時間5分前には続々と「ピンポン」とZOOM待合室のドアが開いた。年度途中から出席を止めた、レポートを提出しなかった学生が5名いたが、それぞれ理由のあることであり、内向きの理由では無い。学生とのこうした関係性を遠隔形式で作ることができると確信できたことが、今回のCOVID-19対応の最大の収穫かもしれない。

註 i https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kenkyu/htm/02_resch/0203_tbl/1296100.htm

(「世界史の眼」No.8)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その4)
南塚信吾

4. 「測機舎」 

 玉屋商店に「23か条」の要求を拒否されたのち、3月18日、細川善治、三上綱男、松崎茂雄らと志を同じくする者13人は「宣誓書」を作成した。それは、今なお因習の久しき資本家が「労務者を蔑視し人格を認めない」のは頗る遺憾であるとし、自分たちは永く資本家に酷使されてきたが、ここに「独立自営を画策」し、「資本主義を排し純然たる労務者主義を樹て、最後の勝利を収めんことを期し、鞏固なる団体を作る」ことにしたと述べていた。こういう団体は、「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」であるので、自分たちは決死の覚悟であると断言していた。「宣誓書」に署名したのは、細川善治、三上綱男、松崎茂雄ら優れた技術者たち11人で、その他に鹿子木直ら見習い2人が加わっていた(松子『測機舎を語る』42-44頁;鹿子木『いのちの軌跡』76-77頁)。これはいわば血判書であった。松子はのちにこれを「互いの血を以て結び、肉を以て綴った誓約書」であるとしたうえで、「資本主義工場の圧迫と搾取とに目覚めたる新進気鋭の労働者の一団が、真と義を求めて進み出た生々しい労働者階級解放の第一声」なのだと言っている(松子『測機舎を語る』44頁、51-52頁)。「宣誓書」作成時には、細川らは西川の家に出入りしていたようであるから、ひょっとして、松子を通して、社会主義の「吐息」が吹き込まれていたのかもしれない。「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」という認識は他からは入ってきそうもないからである。

 そのうえで、13人は、新工場の「統帥者」として末三に参加を要請した。3月21日に「推戴書」を作成して、末三に渡し、「貴殿を新設工場の統帥者として推戴」すると表明した(松子『測機舎を語る』45-46頁)。末三は迷った。だが、兄弟や友人からの強い反対があったにもかかわらず、結局末三はこれを受けいれた。末三は、「森林の経営も向上の経営も根本においては一つである」との信念の上に、台湾での「地方人との折り合いの良かった実績」と「7年半の窮乏生活」があるから、何とかやっていけると考えたようである(松子『測機舎を語る』12-13頁;45-47頁;鹿子木『いのちの軌跡』75頁によれば、松子の強い後押しがあったようである)。

 早速、末三を含めて同志14人が、出資しあって資金を作った。西川(1480円)、細川(276円80銭)、三上(250円)、松崎茂雄(300円)、以下、150円や100円や60円や20円で、合計3086円80銭であった。組合員たちは玉屋時代には労働者であったから、貯えもなく、皆は財布の底をはたいて出資したのであった。もちろんこれでは、測機舎の建物や機械設備の購入には不足したから、西川の親戚の太宰銀行から1万円の融資を受けた(鹿子木『いのちの軌跡』78-79頁;松子『測機舎を語る』47-48頁は出資金合計1700円というが、間違いか)。この資金によって、港区麻布笄町(こうがいちょう)に48坪ほどの工場兼住宅を買い求めた。2月以降、4月に至るまで、すべての準備は、13人が玉屋に籍を置きながら進めた秘密の工作であった。末三が関与していることも、秘密のことであった(松子『測機舎を語る』12-13頁;49-51頁)。

 こういうひそかな準備が進められて、4月16日、ついに測量機械の製造販売をする組合組織「測機舎」が生まれた。5月には、末三が入舎することが発表された(松子『測機舎を語る』75-78頁)。この測機舎は一般の会社とは異なり、資本主義と労使関係を否定して、労働者生産者協同組合という形をとった。1920年6月に定められた「規約」の要点を整理するならば、以下のようになる。

  1. 「本組合は、労務出資者をもって組織する」が、「必要ある場合には金銭出資者を加うる」ことができる。
  2. 金銭出資は一口の金額を10円とし、主体となる労務出資は「一事業期の出勤日数を160日」として一人平均800口とする。労務出資口数と金銭出資口数を合わせて総出資口数とする。
  3. 労務出資者は一定の技術を持った成年とされる。労務出資者は五口以上の金銭出資を持つこととされる。
  4. 金銭出資には、年7%の利息が払われる。労務出資者には毎月給料が払われるほか、労務出資口数に応じて、剰余金の配当が払われる。
  5. 金銭出資者の資格は審査され、金銭出資口数は総口数の5分の1に制限される。
  6. 各事業期の収入から支出を引いた利益金からさらに固定資本の償却や繰越金などを引いた純利益金は、出資の口数に応じて、配当として配分する。
  7. 組合の経営の責任者は総会で選ばれる理事5人で、うち1人が互選で理事長となる。
  8. 総会の議決には労務出資者および金銭出資者のうち、500口以上を持つものに等しく一票が与えられる。

(規約の全文は松子『測機舎を語る』55-64頁)

 この規約は、民法の「組合」の規定(第667条~第688条)にそって作られていた(樋口『労働資本』47-48頁)。だが、民法は、労働出資と金銭出資の相互関係については規定していなかった。測機舎の規約のポイントは、労働の出資を柱としながらも、労働と資本の出資を等しく認めていることである。そうすると、金銭出資と労務出資の口数の計算の仕方が決められていなければならない。金銭出資に対しては、年率7%の利息が払われるほか、年間の純利益から12%の配当が払われることになっていた。労務出資については、毎月の給料のほか、年間の純利益から給料4か月分の配当が支払われることになっていた。こういう条件の下で、労務出資の口数をどう決めるか。労務出資の場合、年間の給料額を平均1200円としているから4か月分の給料は400円で、総額1600円。これが金銭出資の場合の7%プラス12%、計19%に相当すると考えると、1600円を0.19で資本還元して、8400円余り。これにいくらかの調整をかけて労務出資額を8000円とする。一口が10口だから、労務出資口数は800口ということになる。これが2に出てくる数字である。数字はさておいても、この「規約」は資本の機能を抑え、労働する者の価値を活かす論理をしっかりと持っていたのである。

 最初の理事5人は、西川末三のほかに誰であったか、明確には分からないが、おそらく細川善治、三上綱男、松崎茂雄の3人は入っていたと考えられる。理事長は西川が選任された。こうして測機舎は船出をした。

 松子によれば、これは、工場労働者自ら工場を管理経営する労務出資の生産協同組合であった。搾取者も被搾取者もない組織であった。このような組織を松子はさらに次のように特徴づけている。

「工場建築物やその他工作機械、製品あるいは諸般の設備に至るまですべて、何人の独占でなく、測機舎の事業に従事せる組合員全体の共有物であります。それゆえ組合全員はおのれの工場建築物の中において、おのれの仕事に従事するのであります。従業中監督せらるべき要もなければ、また監督すべき人もおりません。ただ従業員各自が各責任を負うて自らを治め、おのが工場を守って行くのであります」(松子『測機舎を語る』53-54頁)。

 これは玉屋との労使関係の教訓を生かしたもので、「労働者統制」的な理念をさらに超えた「生産組合」の理念を体現していたわけである。これは日本最初の生産組合といわれている。こういう労働者生産協同組合方式は、20世紀初めのヨーロッパではかなり広がっていたようである(樋口『労働資本』45頁)が、日本ではこの測機舎が最初で、その後1930年ごろにいくつもできることになる(松子『測機舎を語る』55頁)。それにしても、労働者生産協同組合という理念はどこで学んだものだろうか。

 この測機舎の組織理念は、「ロバート・オーエン」に学んだものであると、のちに松子は述べている。

「その往時ロバート・オーエンが労働階級の向上と幸福のために労働問題の理想を掲げて世界の労働界に一大警鐘を与えましたが、百年後の今日祖国フランス(=イギリスの誤り)を遠く離れた極東の日本においてわが測機舎が労務出資の生産組合として生まれ、・・・欧米諸国にもその比を見ざる好業績を挙げているとは、地下に眠れる氏の霊はいかばかりか満足するでしょう」(松子『測機舎を語る』 73-74頁)。

 測機舎の経営理念には、松子の思想が大きく反映していたといわれる。のちに鹿子木はこう述べている。「彼女(松子)は社会主義や女性解放運動の実践から遠ざかったが、労働者階級への親近感と同情まで捨てたわけではなかった。測機舎が組合組織で労務出資者をもって組織するという旗を掲げたとき、夢の一端が実現するという喜びがあったのではないか」(鹿子木『いのちの軌跡』103頁)。

 では、松子にせよ末三にせよ、いつどのようにして「ロバート・オーエン」の思想と実践を学んだのだろうか。ここで「 」を付けたが、上の引用で松子はロバート・オーエンの「祖国フランス」と言っていることに関係がある。これは単なる間違いなのか。それとも、フランスの社会主義者の影響もあったから「祖国フランス」が出たのではなかろうか。そういう疑問がある。ともかく、松子の思想の源泉を探らなければならない。

(続く)

参考文献

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

(「世界史の眼」No.8)

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「世界史の眼」No.7(2020年10月)

「世界史の眼」第7号をお届けします。南塚信吾さんの、神川松子と測機舎に関する連載論考(全6回)のその3、並びに山崎による『情報がつなぐ世界史』の文献紹介を掲載します。

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その3)

山崎信一
文献紹介:南塚信吾(責任編集)『情報がつなぐ世界史』(ミネルヴァ書房、2018年)

秋となり暑かった夏が嘘のような涼しさが続きます。コロナ禍がおさまらぬ中、みなさまそれぞれに「新しい日常」を模索していらっしゃることと存じます。どうぞ健やかにお過ごし下さい。

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その3)
南塚信吾

3. 翻訳家松子と末三の「転機」 1914-1920年 

 松子は、帰国後は、新たな水を得た魚のようであった。まずは、詩人であり小説家でもあったロシアのイワン・ブーニン(1870-1953年)の作品を次々と翻訳した。1914年6月ごろから、『早稲田文学』、『第三帝国』、『創造』、『新潮』などに発表していった。後に1933年にノーベル文学賞を受賞するブーニンの作品を、受賞はもとより彼が1920年に亡命する前に、日本で初めて紹介したのである。松子がこのロシアの自然派詩人にどうして関心を持ったかは不明であるが、今日の日本でのブーニン研究では松子の存在が忘れ去られている。

 同時に、松子はロシア文学以外についても発言していた。大木は、松子が結婚後、「家庭の中での男女平等の実現に満足し、対社会的にはロシア文学を通じての発言に限定されていたとは思わない」と述べている(大木「神川松子論」16頁)。松子は、1916年1月に創刊された『婦人公論』の10月号に「自由離婚論」という論説を発表して以降、自由恋愛、ロシアの「婦人解放運動」、「奴隷的婦人道徳の撲滅」など、女性の生き方についての発言を続けた。折から女性問題が社会問題の一つとしてクローズアップされてきた時であった。自由恋愛論では、放縦な恋愛は否定するが、自由恋愛による結婚を勧め、自由離婚論では、旧来の結婚制度による結婚については自由離婚を認める反面、自由恋愛による場合には自由離婚を認めないという立場に立っていた(鈴木『広島県女性運動史』58-64頁;大木「神川松子論」18-19頁)。また、1917年1月には「露西亜に於ける婦人開放運動」という論稿を『第三帝国』に載せ、ゲルツェンとチェルヌイシェフスキーから始めて、アナスタシア・ベルビーツカヤに至るまでの婦人解放の運動取り上げた。そして、狭く女性のみの解放を考えた初期から、広く虐げられた人間の解放の一環として女性解放を考える時期へ、さらにベルビーツカヤのような性の極端な解放を唱える虚無的個人主義の時代への変化をあとづけた。

(1916年1月 創刊号)

 そういう時におきた1917年のロシア革命は、松子の強い関心を引いて、革命後のロシア研究と親善を目的とする露西亜研究会に寄付をしている。当然ロシア文学への関心は高まり、ブーニンの翻訳はもちろん、トルストイの翻訳も手掛け、『トルストイ全集』6巻(春秋社、1919年)に「児童の為めに説かれたる基督の教」「十二使徒に依りて伝へられたる主の教」「福音書は如何に読むべき乎併に其の本質如何」「簡易聖書」を訳している(早稲田大学文化構想学部の南平かおり先生のご教示)。

 同時に、相変わらず女性解放に向けての評論を多数発表し、まず、革命直後の1918年1月には「革命史上に現はれたる露西亜婦人」という論稿を『第三帝国』に載せ、ナロードニキのブレシコフスカヤ、ナロードニキ出身マルクス主義者のヴェラ・ザスーリッチなどの革命的婦人の紹介をした。続いてその後『婦人公論』を中心に注目すべき記事を次々と発表した。その1、2を挙げるならば、まず、1919年1月には、『婦人公論』において、「富山で起こったカミサン達の米一揆」は「地位も智識もない低級な彼女等に依って演出せられた」たんなる「茶番事」ではなく、「我が賢明な為政者の蒙昧を啓発するに至った」ではないかと述べていた(鈴木『広島県女性運動史』59-60頁)。また、女性の政治参加を強く求め、『婦人公論』の1918年9月号では、「婦人を侮辱せる法律」と題して、女性を隷属的に取扱っている法律は変更されねばならないとして、婦人参政権を要求した。婦人参政権は、外的には、男女の同権を実現するものであり、内面的には、女性が自分自身人間として自覚し、精神的に自立し、そして自立的に生きる「自由」を与えるものであると主張した(大木「神川松子論」22頁)。また、同じく『婦人公論』の1920年2月号では、「私が若し政治に参与することが出来たなら、私は男女同権の見地から従来の日本の法律の如く、徒に婦人を弱者とし或は無能力者として制定せる婦人に関する各法律規則に対して、全部これが修正なり或は削除なりを請願したいと思ふ」と述べていた(鈴木『広島県女性運動史』61頁)。

 この時期の松子の言論活動について、大木は興味深いことを二点、指摘している。一つは、松子は、運動に携わる者にとって、その運動への世人の支持を得るために「人格の修養」が必要だと説いていたという。そして、大木は、この「人格の修養」を説くのは、女性解放運動に携わる者だけでなく、「平民社を中心とする明治社会主義運動」に対しても向けられていたのだという(大木「神川松子論」19-20頁)。これは平民社を中心とする人的集団の内外での放縦な男女関係を念頭に置いているのであろう。二つには、この時期、松子は平民社のことや社会主義のことに全く触れていなかった。たしかに「結婚を機にして社会主義運動から身を引くと同時に社会主義そのものも捨てたということも考えられないわけではないけれども、むしろこの点について沈黙を守ることによって、内心ぎりぎりのところで守ろうとしていたとも思われる」と、大木は言う(大木「神川松子論」19、23頁)。折から、社会主義にとっての「冬の時代」が過ぎたとはいえ、まだ全面的に社会主義を語ることが解禁されたわけでもなかったのである。しかし、むしろ大木が簡単にふれているように、「社会変革以前に為すべきこと及び為しうることが山積しているという判断」を松子がしていただろうことが重要であったように思われる。

 松子の最後の社会的活動として知られているのは、1920年3月28日に平塚らいてうらの始めた女性の政治的自由を求める新婦人協会の発会式に参加し、石田友治らとともに会則検討委員となったことである(折井『新婦人協会』16、148頁)。だが、翌月の測機舎の設立以後、松子は再び積極的な女性運動家へ戻ることはなかった。わずかに、1921年3月号『女性同盟』の「貴女は選挙権を如何に行使なさいますか」というアンケート、1921年11月号『婦人公論』の「小売商人の不正事実」をどう考えるかというアンケートに回答しているのみである。台湾行きの時と同じく、これ以後の松子の進路も社会主義や女性解放運動を放棄した「転向」ととることはできるが、見方によってはこれからが、松子がその本領を発揮した時期なのだとも言える。

(『女性同盟』創刊号)

 一方、末三は、帰国後は、大学に戻ったが、「平凡な生活」であったと、回顧している(末三『測機舎と共に』9頁)。第一次世界大戦の時期をどう過ごしたのであろうか。ただ、この時期であろう、世田谷の三宿に敷地230坪の自宅を手にしていた(松子『測機舎を語る』166頁)。戦争が終わって1919年、末三は、大学の職を辞し、「先輩の切なる懇請」によって合名会社玉屋商店に入社した。銀座の玉屋商店は、測量機器、教育学術機器、製図機器などの販売を行っていたが、日露戦争後原宿に日本最初の測量機製造の工場を作り、当時輸入に頼っていた測量機を日本人の手で製作していた。

 末三はそこに工場長の次長として入ったのだった。ところが、半年後には大事件が待っていた。玉屋商会の原宿の工場は第一次世界大戦中に大量の発注を受けて従業員に過度の労働を強いていたにも関わらず、約束の報奨を払わず、従業員の給料も引き上げなかったため、労働者からの強い不満を招いていた(松子『測機舎を語る』31-32頁)。1919年11月7日、優れた技術者であった細川善治、三上綱男、松崎茂雄をリーダーとして従業員たちがまとまって、「23か条」の要求を作成した。これをまとめるならば、

1)「人格」を認めた扱い。秘密主義の廃止。

2)「組長制」の採用。「事務長」の設置。

3)合理的な工場拡張

4)決算の明確化、決算への労務員代表の参加、「工場全員に対し利益分配する」こと。

5)「経営上の方策に対しては、一々会議を開き、工場長、事務長、工作主任及び評議員に諮り決定すること」。

6)「評議員は従業員中勤続十ケ年以上なる者総てその資格を有するものとすること」

などであった(全文は松子『測機舎を語る』33-35頁)。これは当時としては、驚くほど革新的な内容であった。

 松子は、この要求を次のように高く評価している。「氏等の改革方針の重点は所謂世間にありがちな労働賃金の値上げとか或いは労働時間の短縮等のごとき皮相浅見なものに非ずして、寧ろお互いに一歩進んで資本主も労働者も協力一致して工場の繁栄と能率の前進を計り、それに依って得たる利益を従業員も分配に預かって、而して各自の生活の安定を計りたいといふ」ものであった(松子『測機舎を語る』32頁)。

 「23か条」は労働者の経営参加を求めた画期的な要求であった。ロシア革命後、私的企業を認めたうえで、それへの労働者の積極的関与を導入した「労働者統制」を想起させるものである。細川善治、三上綱男、松崎茂雄らはこのような発想をどこから得たのであろうか。これは残念ながら、まだ辿れない。ともかく、このような要求を労働者たちは、工場長が不在だったため、次長の末三に依頼して玉屋本店へ提出させた。ちなみに松子はこれに関与してはいないようであるが、上のように高く評価していた。

 これに対して、会社は11月24日に回答し、1)2)3)は受け入れたが、4)の「決算への労務員代表の参加」は認めず、「工場全員に対し利益分配する」のは賞与で十分だとし、5)6)についてはすべてこれを認めなかった。加えて、このような労働者の行動は末三が扇動したものであろうとして、1920年1月28日、かれに退社を勧告し、2月1日から出社せぬよう命じた。末三は迷ったが、2月2日、ついにこの「不名誉」な退社を受け入れた(2月5日に退社)。末三は従業員たちの「23か条」要求の作成にはまったく関与していなかったわけであり、従業員たちはこれに憤慨した。しかも末三の馘首とともに、「23か条」の要求も葬り去られた。このような玉屋の対応に、従業員たちの有志は会社を辞めて新しい組織を作る工作をひそかに開始した(松子『測機舎を語る』36-40頁;樋口『労働資本』29-39頁は『測機舎を語る』に依っている;この騒動期間1919年10月から20年2月までの経過を記した末三の手記が松子『測機舎を語る』1-21頁に収録されている)。当時見習工だったが、のちの末三を支えた鹿子木は、末三の「管理者としての傑出した能力」、従業員からの「信望」、「視野の広さ、民主的な寛容さ」を指摘している(鹿子木『いのちの軌跡』61-71頁)。これゆえに、労働者たちは末三を離さなかった。

(続く)

参考文献

著書

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

論文

鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号 (1980年3月)

鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号 (1983年3月)

大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)

吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)

(「世界史の眼」No.7)

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文献紹介:南塚信吾(責任編集)『情報がつなぐ世界史』(ミネルヴァ書房、2018年)
山崎信一

 本書は、全16巻よりなるシリーズ、MNINERVA世界史叢書の第6巻として刊行されたものである。叢書の中では、『人々がつなぐ世界史』、『ものがつなぐ世界史』と並んで、「第II期 つながる世界史」を構成するものと位置付けられている。序論によれば本書の狙いは、文字、画像、音声などの「メッセージ形態」と印刷物、テレビなどの「メディア=情報伝達手段」の二つの側面から、情報がどう世界をつなぎ、どのように世界を変化させたのかなどを論じることにある。全体は、「第I部 文字と図像による伝達」、「第II部 印刷物による伝達」、「第III部 信号・音声・映像による伝達」の3部から構成されており、第I部には「第1章 写本が伝える世界認識」、「第2章 世界図はめぐる」、第II部には「第3章 書籍がつなぐ世界」、「第4章 近代的新聞の可能性と拘束性」、「第5章 イギリスのイラスト紙・誌が見せた19世紀の世界」、「第6章 反奴隷制運動の情報ネットワークとメディア戦略」、第III部には「第7章 海底ケーブルと情報覇権」、「第8章 アメリカの政府広報映画が描いた冷戦世界」、「第9章 サイゴンの最も長い日」、「第10章 衛星テレビのつくる世界史」が置かれ、これに加えて、全体に6のコラムが配されている。古代から現代まで広く扱われているが、その多くを占めるのは近代以降に関する論考となっており、情報に関わる技術やメディアの進化や拡大がこの時代に集中していることを、間接的にも示すものとなっている。

 「情報」を切り口として世界史を論じる書籍があまり見当たらないことを考えても、また、私たちの暮らす現在において、「情報」というものの持つ意味が、暮らしそのものにも深く関わるような大きなものとなっていることを考えても、本書には多くの意義があるだろう。以下に筆者なりにその意義をまとめてみる。

 まず気付かされるのは、情報の形態の多様性である。歴史学において、図像史料など、非文字史料の重要性が言われて久しいが、やはり一義的には文字による情報に重きを置いてきたことは否めないであろう。本書では、1章(図表)、2章(地図)、5章(イラスト)、10章(衛星テレビ)などにおいて、文字によらない情報情報を扱っており、非文字情報や史料の重要性を改めて認識させられる。

 また、本書で扱われる、歴史上のさまざまな情報の姿が、現在の情報をめぐるさまざまな課題とも通底するものであるという点を強く意識させられた。1990年代以降、インターネット技術が一般化する中、インターネットとそれに関連する技術は、現代に暮らす私たちにとって、不可欠なインフラとなっている。インターネット時代の訪れを同時代に経験した筆者の立場から見ても、それがもたらした変化の大きさは改めて驚きであるし、すでにデジタル・ネイティヴと呼ばれる世代にとっては、それが存在しない世界はもはや想像しえないものかもしれない。本書では、インターネットの普及以後を扱う部分は多くはないが、しかし本書の取り上げるさまざまな問題が、実は現在ともつながっているという点は、重要であろう。

 3章では、『千一夜物語』を題材に、印刷技術の確立後の情報の広範な伝播と、「翻訳」による情報の変質について論じている。現在も大きく取り上げられる伝播の過程における情報の変質や意図的な歪曲の問題もまた、より長い時間軸の中で分析しうることを示唆している。

 近代以降のマスメディアにおける報道、とりわけ戦争報道の問題が、4章(日露戦争)と9章(ヴェトナム戦争)で取り上げられている。1990年代の湾岸戦争や旧ユーゴスラヴィア紛争に際してのセンセーショナルな報道姿勢や、事実関係への理解を失わせるような相互に矛盾する報道の存在は筆者も身近に経験した。その後においても、イラク戦争からウクライナ紛争に至るまで、こうした点はますます広く見られている。こうした問題の一端もまた、より深い歴史的な根を持つことが確認できる。

 また、現在においては、「フェイク・ニュース」に代表されるように、意図的な情報操作、あるいは人々の情報受容のあり方に対する操作が日常的に見られる。6章(メディア戦略)と8章(広報映画)に扱われるのは、広い意味での情報戦略に関してであり、「フェイク・ニュース」もまた、突然の現象ではなく情報戦略を追求した帰結として産まれた側面のあることを示唆しているとは言えないだろうか。

 7章では、海底ケーブルを題材に、情報伝達手段の所有・統制が、情報覇権の確立につながり、支配の道具として機能したことを明らかにしている。情報技術の進歩が、必ずしも人々に幸福をもたらすばかりのものでないという点は、コラム6に扱われる情報の資源化とGAFAに代表される多国籍巨大IT企業による情報と富の独占の問題、10章に付記される国家による個人情報利用の問題ともつながっている。

 インターネット時代以降の情報をめぐる技術の進展は、市井の人々を情報の受け手であるばかりではなく、発信者ともなることを知らしめた。スマートフォンとSNSの普及を背景に、既存のメディアを介さずに人々が相互にやり取りをし、ネットワークを形成するようになった。SNSを基盤とする人々のネットワークは、フェイク・ニュースの温床ともなりうるが、一方で、「アラブの春」や旧ソ連における「カラー革命」に見られるように、政治的な力を持ちうるものでもある。そうした現象を分析してゆく上でも、「情報の世界史」を切り開く本書の意義は大きい。

(「世界史の眼」No.7)

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『国際関係史から世界史へ』が刊行されました

ミネルヴァ世界史叢書3『国際関係史から世界史へ』(責任編集 南塚信吾)が刊行されました。構成は以下の通りです。

序章 国際関係史から世界史へ
第Ⅰ部 帝国主義の時代
第1章 アヘン戦争・明治維新期の世界史
第2章 二つのベルリン会議の時代
第3章 「1900年」の国際関係と民衆
コラム1 朝鮮から見る-1900年
第Ⅱ部 二つの体制の時代
第4章 「第一次世界大戦」期の世界史
コラム2 東アジアから見る-1917年
第5章 「1930年」の国際関係と民衆
コラム3 越境する地下活動のネットワークと植民地警察
第6章 「1945年」の世界-東欧・中東・沖縄・シベリアの視点から
コラム4 朝鮮・台湾から見る-1945年
第7章  世界史における「1956年」-ベトナムとハンガリー
コラム5 スエズから見る-脱植民地化と冷戦の交錯
第Ⅲ部 脱植民地化の時代
第8章  「変化の嵐」のもとで-「1960年」の国際関係と民衆-
コラム6 シャーリー・グレアム・デュボイスの軌跡
第9章  世界史の中の「1968年」
コラム7 東欧から見る-1968年
第10章  「長い1980年代」の世界-社会主義の衰退とネオ・リベラル
おわりに-冷戦後の時代

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