書評:クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)
木畑洋一

 帝国というものへの関心は、第二次世界大戦後における脱植民地化進展の結果薄れたと思われたが、冷戦の終結による東欧社会主義圏とソ連の解体以降高まりを見せ、21世紀に入ると、「アメリカ帝国」論の浮上によってさらに強まっていった。そして最近では、ウクライナ戦争やガザ戦争の勃発によって、帝国に関する議論は新たな盛行を見せている。

 この間、世界史のなかでの帝国の歴史を鳥瞰し、それがもってきた意味を論じようとする著作も、いろいろとあらわれてきた。すぐ頭に浮かぶすぐれた作品をあげてみただけでも、ロシア帝国史の研究者ドミニク・リーベン(『帝国の興亡』日本経済新聞社、2002)やイギリス帝国史の専門家ジョン・ダーウィンの著書(『ティムール以後 世界帝国の興亡1400-2000年』国書刊行会、2020)、ロシア帝国史のジェイン・バーバンクとアフリカ史のフレデリック・クーパーの共著(Jane Burbank and Frederick Cooper, Empires in World History: Power and the Politics of Difference, Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2010)などがある。歴史社会学者としての仕事を積み上げてきた著者クリシャン・クマーによる本書も、そうした系列に連なる本である。

 本書は、時間的にみても空間的にみても多様な存在である帝国という政体の性格に、広い視野のもとで迫ろうとする試みである。限られたスペースでそれを行うことは至難の技であるが、本書はその課題に果敢に取り組んで刺激的な議論を展開している。

 本書は時間的には、二つの「裂け目」もしくは「分水嶺」(第一は紀元前1000年頃で世界宗教が登場してくる時期、第二は15~16世紀のヨーロッパにおける「発見の旅」とともに始まる征服と植民地化の時期)を設定しつつ、古代から現在までを対象としている(vii、以下カッコ内の数字は本書の頁数を指す)。一方空間的には、ヨーロッパに重点を置きつつも、それ以外の帝国にもかなりの関心を払っている。とりわけ中華帝国が詳しく扱われているのが特徴的である。

 時間的な議論に関して言えば、19世紀におけるいわゆる「帝国主義の時代」の画期性が等閑視されていることに、評者として不満をもつが、その点については後で触れたい。また空間的には、著者自身断っているように(viii)、コロンブス到達以前の南米の帝国やアフリカの帝国がほとんど扱われていないし、さらに評者としては、日本帝国にも今少しスペースが割かれて然るべきであったとも思うが、これらについての議論を求めるのは、ないものねだりの類であろう。

 ここで本書各章の内容を簡単に紹介しておこう。

 まず序文では、世界的な体験として帝国の歴史を扱う本書の意図が示され、二つの分水嶺と、「帝国移動」という概念とが紹介される。

 第1章「時間と空間のなかの帝国」では、二つの分水嶺の意味が論じられる。第一の分水嶺については、それ以前の旧帝国(エジプトなど)と異なり、この時代に生まれた「古典文明」時代の帝国(ローマなど)が、普遍主義的なイデオロギーを伴っていたことで大きな影響力をもった点が強調される。第二の分水嶺に関しては、その後に展開しはじめた「海外帝国」の性格に注意が促され、スペイン帝国に比べて軽視されがちなポルトガル帝国の重要性が再評価される。

 第2章「東洋と西洋の帝国の伝統」は、「帝国移動」概念を用いてローマ帝国の伝統を軸とするヨーロッパにおける帝国の系譜を論じた後、中華帝国の歴史をかなり詳細に論じる。その上で、西洋におけるローマ帝国とその後継者と同じような意味で中国は帝国だったのかと問い、それに肯定的な答えを与えている。さらにイスラームの帝国についても述べているが、中国に比べてその扱い方は軽い。

 「支配者と被支配者」と題される第3章では、帝国では国民国家においてよりも支配者と被支配者の関係が対立的であるとする通念への疑問が出され、両者間に対立も当然見られたものの、協力や共謀、実際的な妥協といった多様な関係が存在したことが説明される。

 評者の見る所では、本書の中心部分と言えるのは、次の第4章「帝国、ネーション、国民国家」である。本書の帯にある「多くの国民国家は帝国のミニチュアである」という印象的な一文も、この章から採られている(127)。この章で著者は、普遍主義的でマルチナショナルな帝国と均一性・均質性の達成をめざす国民国家との間の原理的な差異を前提としつつも、実際の歴史的様相においては帝国と国民国家の間に類似性が存在し、「帝国から国民国家へ」という変化の過程もはっきりしたものではないと主張する。その際著者が着目するのは、国民国家の内部の多様性(「国内植民地化」という考え方の援用など)であり、帝国の時代と呼ばれる時代が終わった後にも、アメリカやソ連が帝国的権力として存続していることである。現在の中国についても、それが中華帝国の姿を回復していることが指摘されている。

 それに次ぐ第5章「衰退と滅亡」では、帝国の衰退・崩壊をもたらした要因が分析される。ここでもまず中国の例が詳しく取りあげられ、清帝国を崩壊させた中心的要因が、ナショナリズムではなく清帝国を巻き込んだ戦争であったと主張される。その考え方は、第一次世界大戦を通じての各陸上帝国の解体、第二次世界大戦後の各海外帝国の解体(脱植民地化)にも適用され、ナショナリズムの意味が相対化されて「帝国のおもな解体要因は戦争だった」(177)という断言がなされるのである。

 本書の最後の部分である第6章「帝国後の帝国」では、それぞれの帝国が解体した後も、その影響がさまざまな形で世界に残ることが説明された後(ここで最も詳しく扱われるのはハプスブルク帝国である)、脱植民地化後の「逆植民地化」と著者が呼ぶ旧帝国支配地域への移民の問題が論じられる。さらに現在の世界において、ロシアやアメリカ、中国に加えて、EUについても帝国性の存続が指摘され、「混乱の度を深めていく世界において、帝国が何らかのかたちで、秩序にとって必要だと考える人も出てくるだろう」(241)という観測が述べられるのである。

 このような内容の本書は、かなりの包括性をもって世界史のなかの帝国を論じた研究として、重要な意味をもっている。なかでも、本書の中心的主張であると思われる帝国と国民国家の間の類似性や継続性という点は、それを著者ほど強調しすぎることには問題があるとしても、重要な議論であり、さまざまな研究の展望を開くものである。

 ただし、本書で提示されている帝国像、とりわけ第二の分水嶺以降の帝国像について、評者は大きな疑問を抱いており、その点を以下で述べてみたい。この疑問は、本書に関するものであるばかりでなく、本書が一つの代表例となっている近年の帝国史研究の全体的趨勢にも関わるものである。

 第一の疑問点は、帝国支配のもとで見られ、帝国支配の根幹をなした暴力性というものを、著者が過小評価している点である。帝国における暴力的契機についての著者の考えは、「帝国には暴力が入り込む余地があったが、帝国は暴力を引き起こすのと同じくらい、それを抑制する機能も有していた」(226-227)という一文に集約される。もちろん帝国支配のあらゆる局面が暴力でいろどられていたわけではないし、帝国支配の成立・存続に際しては同意・協力といった契機も必要であり、そうした行為による秩序の維持は重要であった。しかし、著者の帝国論においては、また近年の帝国論の多くのなかでは、この後者の側面が過度に前面に押し出されて、暴力的契機が後景に退けられるきらいがある。著者が重視するのが帝国における秩序であることから、内容紹介の最後で触れた一文につながる帝国支配評価の姿勢が生まれてくるのである。

 本書の第3章で支配者と被支配者の間の対立面が軽視されているのも、著者のこの基本姿勢のあらわれであり、植民地の成立や維持過程の節目節目で生じた対立やそれに伴う暴力が軽視される形で、帝国が論じられている。

 先に「帝国主義の時代」の画期性への着目が必要だったのではないかと記したが、暴力軽視の問題はその点にも関わる。この時代は帝国主義列強によって世界が分割され尽くした時代であったが、そこではヨーロッパで「平和」が続いていったのと対照的に、植民地世界では数多くの戦争(植民地戦争)が生じていた。本稿執筆時に続いている「ガザ戦争」でも見られる犠牲者数の極端な非対称性などを特色とするこうした戦争が頻発するなかで、世界史のなかの帝国は新たな段階に入っていったと評者は考えている。こうした植民地戦争は帝国を論じる上で重要な要素であるが、著者の議論のなかでは軽視されており、それと連動する形で「帝国主義の時代」における世界の変容も看過されていると思われる。

 第二の疑問点は、第5章における、帝国の衰退・滅亡要因の検討に際しての、ナショナリズムの位置づけ方である。前述したごとく、著者はナショナリズムが果たした役割を相対化しつつ、戦争(両世界大戦)による帝国支配国側の変化という要因を重視している。もとより、脱植民地化が実際に展開していた時期の議論に見られたように被支配側のナショナリズム、民族運動の力をもっぱら強調することは、バランスを失しており、帝国支配国側の要因を十分に考慮することは必要であるが、著者はそちらの要因を過大評価しているのである。しかも、本書ではそうした戦争要因の内実に踏み込んだ分析はなされておらず、「すべてのヨーロッパの大国が、戦争によって経済的、軍事的、心理的に疲弊した」(179)といった一般論が述べられるのみである。その一方で、戦争といっても、植民地支配の暴力性に対する形で被支配側が引き起こした独立戦争の意味(これは当然ナショナリズム評価に関わる)は軽視されている。

 このような問題をはらむ本書は、著者が何度か好んで引用しているニーアル・ファーガソン(イギリス帝国の歴史を称揚し、アメリカもそれをモデルとすべきであるとの主張を展開したことで知られる)に似て、支配する側からの視線で帝国の歴史をポジティブに描き、そうした帝国性をもつ国際秩序をこれからの世界でも追求していこうとする試みに堕しかねない危うさをもっている。豊富な内容をもつだけに、その点によく注意しつつ接するべき書であろう。

(「世界史の眼」No.54)

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