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ハマースのアル・カッサーム部隊のイスラエル軍事侵攻を検証する
藤田進

 イスラエル国防軍専門家筋は、占領地ガザでの軍事攻撃を「芝刈り」と呼んできた(Yolande Knell、Israel’s pain still raw a month after Hamas attacks、https://www.bbc.com/news/world-middle-east-67339008)。パレスチナ人は、1948年イスラエル建国以来76年間にわたる追放と迫害、16年にわたる「天井のない牢獄」と言われるガザ封鎖、イスラエルによる入植地拡大・占領で住む場所を奪われ、抗議すれば殺されるという凄まじい支配と抑圧の状況に置かれてきた。イスラム政治組織ハマース政治局のサーレフ・アル・アラーウィは「パレスチナ人が世界の諸民族と同じように、自らの国家をもち土地に根ざした生活をする権利を世界に認めてもらうには戦わねばない」と述べた。イスラエル軍がガザ一斉攻撃を開始するとの情報を得たハマース軍事組織のアル・カッサーム部隊は10月7日、イスラエル攻撃に踏み切った。ところで、なぜイスラエルは米国と手を結んでここまでパレスチナ人に抑圧的なのか?今日の三者間の関係を知るには、イスラエル建国時の以下のような事情を踏まえねばならない。

 第二次世界大戦後の1947年3月11日、米巨大石油資本のアラムコが戦後ヨーロッパ経済復興に向けて中東石油生産を急増し莫大な利益を上げることに取り組むことを発表し、その翌日トルーマン米大統領が、米国は中東の石油生産・輸送体制を共産主義から防衛すると発表した(トルーマン・ドクトリン)。この時以来石油を軸とするアメリカの中東支配がはじまり、今日に至っている。当時ベングリオン(初代のイスラエル首相)を中心とするシオニストグループが、アウシュヴィッツ強制収容所から救出されたユダヤ難民の安住の地として、アラブ人が住んでいるパレスチナに「ユダヤ人国家」を実現せよと英委任統治政府に強く迫っていた。イギリスは第一次世界大戦時の「三枚舌外交」によってユダヤ人にその「ナショナル・ホーム」をアラブ人の地に建てることを認めていたのである。一方、米大統領選でユダヤ票を重視してシオニストを支援していたトルーマンは、前大統領ルーズヴェルトと違って、アメリカの援助で「ユダヤ人国家」を建設し、ヨーロッパへの石油輸送路である東地中海の防衛の砦としてパレスチナを確保することにした。1948年に建国して以来、イスラエルはアメリカの政治的・経済的援助に支えられながら、あらゆる手段を講じてアラブ住民追放によるパレスチナでの自国領土拡大をはかってきた。現在ガザ沖合に天然ガスが発見され、イスラエルはガザ全域を手に入れる取り組みに乗り出していたのである。

 このことを踏まえたうえで、10月7日以後の事態について、ハマース側から見てみるとどのように見えるであろうか。

① 10月7日のハマース攻撃について、欧米の報道は「ハマースはテロリスト」の位置づけで一致しているが、しかしハマース側はどのように言っているのだろうか。ハマース政治局員のサーレフ・アル・アラーウィとムーサー・アブー・マルズークが、カタール衛星テレビのアル・ジャジーラとのインタビューにおいて、アル・カッサーム部隊の「アル・アクサー洪水」軍事作戦、イスラエルにおける戦闘、戦闘に巻き込まれた市民の犠牲などについて、イスラエル・欧米側情報とは異なった発言をしている。以下に発言要旨を、補足説明(下線部分)を加えて、紹介しておきたい(資料は、発言を活字表記した。出典はJazeera Net, 2023 October12とNovember3<アラビア語版>)。

  1. 「イスラムの聖地アル・アクサーモスク(エルサレムにあるユダヤ教の聖地で、2021年5月にイスラエルはこれを襲撃していた)を、ユダヤ教のスコット祭(秋祭りの一つ)期間中、ユダヤ人入植者が占拠していた。祝祭終了後にイスラエル軍のガザ一斉攻撃が始まるとの情報を得たアル・カッサーム部隊は、イスラエルの「ガザ分隊」の壊滅を主目的とする軍事作戦計画を立てた。これは「アル・アクサー洪水」と名づけられた。「ガザ分隊」はガザ封鎖とパレスチナ人の暗殺・殺害を任務とする最新鋭兵器と戦闘員の精鋭を備えた最強のイスラエル軍治安部隊として知られ、ガザ住民の恐怖と怒りの対象だった。イスラエル突入作戦によって、パレスチナ人を武力弾圧し続けるイスラエルに対する大々的な武力闘争が開始された。
  2. スコット祭終了翌日の10月7日早朝、アル・カッサーム部隊のコマンド122人がガザ北部の封鎖隔離壁を爆破してイスラエルに突入し、ガザ境界線近くのイスラエル軍Zukim基地の「ガザ分隊」を急襲した。コマンドたちは最初「ガザ分隊」との長時間の戦闘を覚悟していたが、不意を突かれたイスラエル兵士の多くが殺され捕虜として拘束されて短時間で約5000人規模の「ガザ分隊」は壊滅した。その後コマンドたちは、基地内のガザ分隊司令部と空軍基地を一時的に占拠した。
  3. アル・カッサーム部隊は軍事基地襲撃後、ガザ境界線近くのZukim, Karmiaの二つのキブツ(ユダヤ人協同農場)をはじめイスラエル人住宅街へ移動した。キブツの場所はかつてアラブのヒルビー村の土地だった。建国直後にイスラエル政府は追放したアラブ農民を「不在者」と規定してヒルビー村の土地を接収し、1949年ルーマニアからのユダヤ人青年入植者たちを収容するためにZukimとKarmiaが建てられた。
  4. アル・カッサーム部隊が隔離壁を爆破したときガザ北部の住民たちが駆けより、その一部はコマンドと一緒にイスラエル国内になだれ込み、住宅街の多くのユダヤ人を拘束した。コマンドとイスラエル治安部隊・武装住民の激しい銃撃戦となり、近くで開催されていたZukimミュージック・フェスティバルの参加者たちも銃撃に巻き込まれた結果、多数が死傷し人質としてガザに連れ去られた。

 以上がハマース側の説明である。イスラエル・欧米諸国も世界のメディアも「ハマースのテロ攻撃」と断じているが、アル・カッサーム部隊は、10月7日のイスラエルにおける軍事行動は76年前ユダヤ人権力に奪われた故郷を取り戻す「パレスチナ民族解放戦争」であると宣言した。連れ去った多くの人質は戦争捕虜であり、「ヨルダン川西岸・ガザに対するイスラエル占領の停止とイスラエル刑務所の全パレスチナ人の釈放」要求と引き換えに捕虜を釈放するとした。

 ところで、欧米報道は「ハマースは市民を襲って人質に取った」と言うが、イスラエルの「市民」は銃を手にした兵士である。イスラエル国家の18歳以上のユダヤ人市民は、3年間(女性は2年間)の兵役と退役後40歳になるまで毎年平均36日の予備役を義務付けられており、常に「イスラエルの敵」を意識しながら暮らしている。パレスチナ人に暴力的に襲いかかるユダヤ人入植者も、抵抗のそぶりを見せたパレスチナ人を日常的に殴打し逮捕する予備役を交えた兵士も警察官もすべてイスラエル市民である。女性・子供を含む大勢のパレスチナ人が不当な罪状でイスラエルの刑務所に投獄されている現実は、武装したイスラエル市民の恐ろしさをあらわしている。イスラエルに突入したパレスチナ人は、そのようなイスラエル市民に襲いかかっていた。

② アル・カッサーム部隊奇襲攻撃で国民の多くが殺され世界中のメディアが「ハマースのテロ」を攻撃しているのを、かねてよりガザ取得を目論んでいたネタニヤフ・イスラエル首相は絶好の機会ととらえ、「ハマース殲滅」を宣言してガザ空爆を開始した。ガンツ国防相は大規模な「ガザ侵攻作戦」の準備に取りかかった。

 一方でイスラエルのメディアは、ハマース憎悪を刺激する「ハマース兵士が乳幼児を斬首した」との報道をした。10月10日夜、イスラエルのケーブル・テレビニュース番組の「i24News」が、ニコン・ツェデク記者が取材した「キブツのクファル・アザで乳児や幼児が『頭部を切断された』状態で見つかった」との報告を伝えた。ハマースは「子供を斬首したと根拠もなしにうそを広めている」とこの報道を全面的に否定し、記者自身も間もなくして、報道された内容は遺体収容作業中の兵士から聞いた話を物証も裏付け取材も欠いたまま事実として伝えたことを認めた。だがすでに「ハマース戦闘員による残虐行為」情報は全世界に配信されており、それを見たバイデン米大統領は10月11日、ハマースへの怒りをあらわしてイスラエルのハマース報復攻撃を米国は全面的に支持すると表明した。「捏造」報道によってアメリカの全面的支持を獲得したネタニヤフ首相は同日、30万のイスラエル兵と大量の戦車・装甲車を動員したガザへの地上侵攻に踏み切った。

③ イスラエル軍は人口230万が密集する狭いガザに昼夜を問わない空爆を続けて徹底的に破壊し膨大な数のパレスチナ人死傷者の山を築くとともに、水・電気・食料・燃料・医療品などライフラインを全面遮断するという残酷な仕打ちを加えている中で、ガザ北部の地下にあるアル・カッサーム部隊のトンネル網を破壊して同部隊の殲滅をめざす「ガザ侵攻作戦」の第一段階を迎えた。イスラエル軍は10月13日、ガザの北半分の地域の110万人のパレスチナ住民に南部へ退去して同地域を明け渡すよう勧告した。

 10月13日のカタール衛星テレビ局アル・ジャジーラのインタビューで、アヤロン元駐米イスラエル大使が「砂漠には無限のスペースがあり、われわれと国際社会がテントなどインフラを用意する」と主張し、ガザ住民を東部シナイ半島の砂漠に移動すべきだと発言したことが伝えられた(「しんぶん赤旗」2023年10月18日)。この元イスラエル高官の発言は、総攻撃体制を構えてガザ北半分の住民の集団立ち退きを要求する「ガザ侵攻作戦」の狙いが、ガザ住民を破壊と死の危険にさらしてガザから追い出し、空っぽになったガザを最後に手に入れるというイスラエルの狙いを浮き彫りにした。イスラエル軍によるパレスチナ住民の砂漠への強制移送が以前にもあったことを年配のガザ住民なら覚えているに違いない。

 1971年、ガザのイスラエル占領軍当局(アリエル・シャロン南部軍司令官)は、パレスチナ人の反占領武装闘争の拠点となっているジャバーリヤ、シャティなどの国連難民キャンプ内の「指名手配ゲリラ」地区を取り壊して住民をシナイ半島へ強制移送した。「イスラエル軍による三難民キャンプの住宅破壊は約2000戸、強制退去させられた難民は1万5855人にのぼった」(Sara Roy, The GAZA STRIP:The Political Economy of De-development, The Institute for Palestine Studies, Washington, 1995; p.105)「イスラエル占領中のシナイ半島のアル・アリーシュの町は、難民キャンプから移送されてくる約400家族の再定住地として利用され、半島の砂漠地帯には「指名手配ゲリラ」の親族ゆえに拘束され移送されてくる1万2000人の収容所がつくられた。」(ibid., p.105)「『指名手配ゲリラ』親族追放拘束命令により、最低男1人を含む家族は一緒に追放されてシナイ半島の収容所に拘束されており、親族の男たち(兄弟、甥、従兄弟)はシナイ半島のアブー・ルデイス地区の別の収容所に拘禁されている」(Israel League for Human and Civi Rights, ”The Horrors of Gaza Must Cease”, January 23 1971)という状態であった。

 1971年のガザ住民の砂漠への集団移送は難民キャンプにおけるゲリラ闘争鎮圧対策に留まった。だが今回の「ハマース殲滅」を口実とした集団的住民移送計画は、ガザ全域を封鎖し、空爆による破壊と殺戮を加え、ライフラインを寸断し、やむを得ず移動勧告に従い北から南へ移動中の人々をも空爆し、ガザを取得するためには民族浄化もいとわない。国連パレスチナ救済事業機関(UNRWA)のフィリップ・ラザリーニ事務局長は10月15日の会見で、戦闘などにより過去一週間で少なくとも100万人が家を追われ、ガザには「一滴の水も、一粒の小麦も、一リットルの燃料も入ってきていない。今すぐに支援物資を搬入しなければならない」と訴えた。イスラエル側はガザへの空爆を強めており、犠牲者は急増し、パレスチナ保健省は16日、死者数が2750人、負傷者が9700人に達したと発表した(「朝日新聞」2023年10月17日)。

 ガザでイスラエル占領軍と激しいゲリラ戦を展開しているアル・カッサーム部隊の司令部は、ガザ北部住民集団退去勧告に際して、その場に踏みとどまってガザが奪われるのを阻止しようとガザ住民に訴えた。

④ ガザ市にあるキリスト教系のアハリー・アラブ病院は、誰であれ傷つき病に倒れた人は受け入れて治療する原則を貫いてきた。2007年ハマース政権誕生後16年間にわたるガザ封鎖が続く中で、イスラエルの経済的・社会的弾圧に抵抗して傷ついた人々を治療し、外出禁止令で失業し、また働き手を投獄されて貧困に陥った家族の無料診療を手がけてきた。2009,2014年のガザ空爆による大規模な殺戮と住宅破壊にさらされた人々を病院は治療し、元気づけてガザ住民が苦難を凌ぐのに協力してきた。

 アハリー・アラブ病院はイスラエル軍当局に南に退去するよう勧告され、多くの患者と負傷者の治療があると勧告を拒否すると、10月14日病院の癌治療センターがミサイルで破壊された。10月17日にも退去勧告があり、安全な場所を失って避難してきた多くの人びとで建物の周りを埋め尽くされた病院が再度勧告を断ると、その日の夜アハリー・アラブ病院はミサイルで破壊され、500人もの人々が一度に惨殺された。

 病院が爆撃されて国際機関・各国のイスラエル非難が高まる中10月30日の国連安保理で、イスラエルのギラド・ダヤン国連大使は「パレスチナ自治区ガザでのハマースのテロ攻撃を非難していない」ことに抗議して、ナチス占領下の欧州でユダヤ教徒が強制的に着用させられた黄色い星を着用して登場し、そしてX(旧ツイッター)への投稿で「黄色い星は、ユダヤ人の無力さとユダヤ人が他者のなすがままになっていることの象徴だ。今日、我々は独立した国家と強力な軍隊を持っており、我々は自分たちの運命の主人だ。今日、我々は黄色い星ではなく、青と白の旗を着用しよう」と述べた。

 アウシュヴィッツにおけるユダヤ人虐殺期間よりはるかに長きにわたってイスラエルがガザ住民を閉じ込めて空爆と弾圧を加え続けてきたことを棚に上げて、ガザの惨状の責任をいつものように「ハマースのテロ」に押し付けるイスラエル権力者の姿とは対照的に、ユダヤ系ポーランド人で強制収容所生還者の両親をもつガザ経済史研究の第一人者であるサラ・ロイ女史が、2009年空爆直後のガザの惨状を前にして「ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが、なぜこんなことをできるのか」と述べたことが思い起こされる(「朝日新聞」2009年3月5日付「ひと」欄より)。

(「世界史の眼」2023.11 特集号)

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パレスチナ問題の起源:第一次世界大戦期のイギリス三枚舌外交
木畑洋一

 現在深刻化しているパレスチナのガザ地区の状況の起源が、第一次世界大戦期におけるイギリスのいわゆる「三枚舌外交」に求められるということはよく語られている。ドイツなどの同盟国側に立って1914年秋に参戦したオスマン帝国支配下の中東の将来をめぐって、イギリスはフサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言という三つの相互に全く矛盾する外交的コミットメントを行ったのである。

 しかし、それらが出された経緯自体はあまり知られていないと思われるので、それを紹介しておく意味はあるだろう。ドイツ側と対立していたイギリス、フランス、ロシア三国は、それぞれに中東をめぐる領土的野心を抱いていたが、他方、この地域に住むアラブ人たちはオスマン帝国支配下から独立して自らの国をもつことを望んでおり、さらにユダヤ人シオニストはパレスチナを自分たちの帰還する地としてそこに「民族的郷土(ナショナル・ホーム)」(これはユダヤ人国家に他ならない)を建設しようと考えていた。そうした各勢力の思惑が交錯するなかで、イギリスの三枚舌外交は以下のような形で展開されたのである。

 これらの内、最初に交わされたのが、メッカのシャリフ(ムハンマドの血統につながる人々についての尊称)であったフサインと、エジプトのカイロ駐在のイギリス高等弁務官(駐在外交官のトップで独立国同士であれば大使にあたる)ヘンリー・マクマホンとの間の書簡である。イギリスは大戦が始まった時からフサインに対し、戦争での自国への協力と引き換えにその地位を保障するとの約束をしていたが、フサインは15年夏、イギリスがカリフ制(ムハンマドの後継者とみなされるカリフを首長とする統治制度)を認めつつオスマン帝国のアラブ人居住地全体の独立獲得に助力をしてくれれば、イギリスを経済的に優遇し防衛的同盟関係に入る用意があるとの申し出を行った。イギリス側は当初この条件が過大であると考えて煮え切らぬ対応をしていたが、ドイツがこうしたアラブの条件を呑もうとしているとの情報(実際にはその根拠はなかった)が流れたことによって態度を変え、グレイ外相はマクマホンに対して、フサインが求める独立したアラブ国家を認めること、ただし、シリアの地中海側地域(フランスの関心地域であった)などは除くこと、という指示を出し、それはフサイン側に伝えられた。パレスチナは、ここでは除外範囲に入っておらず、アラブの独立国家領域に入る地域であるとイギリス側も考えていたのである。

 フサインとマクマホンの間の往復書簡は、15年7月から16年3月まで10回にわたったが、その間に英仏間で進んでいた交渉の結果、16年5月16日にイギリスの中東問題特使マーク・サイクスとフランスの外交官ジョルジュ・ピコとの間で結ばれたのが、サイクス・ピコ協定である。一週間後にロシアも加わることになるこの協定の前段階は、15年春に起っていた。ロシアはダーダネルス・ボスフォラス海峡、ヨーロッパ・トルコ地域を欲しており、15年春にはその要求を英仏に提示した。イギリスは、ダーダネルス海峡における対オスマン帝国作戦(ガリポリ作戦)へのロシアの支持を必要として、ロシアによる両海峡とイスタンブル(コンスタンティノープル)併合に同意したのである。ただし、それには戦争が勝利に終わり、イギリスとフランスがオスマン帝国その他での目的を達する、という条件がつけられていた。フランスは、最初それに乗り気でなかったが、ロシア側がオスマン帝国などでの英仏の要求を受け入れるとの姿勢を示したことで、結局はそれに賛成した。 

 この動きを踏まえ、フサインとのやりとりの方向が見えた15年10月に、イギリス外相グレイは、オスマン帝国の東アラブ部分についての領土分割をめぐるフランスとの交渉に入ることにした。その交渉の結果、16年1月3日にロンドンのフランス大使館で、サイクスとピコの間で暫定合意が成立し、両国政府による承認を経て、5月16日に正式の協定となったのである。この協定によって、オスマン帝国の東アラブ地域は、フランスの勢力範囲(現在のシリアの大部分とイラク北部のモースル地域)、フランスの統治領(現在のシリアの地中海沿岸部分、レバノン、トルコの中部から南東部)、イギリスの勢力範囲(現在のイラク北部、ヨルダンの大部分)、イギリスの統治領(現在のイラクの中部・南部、ペルシア湾岸地域)、国際管理地域(ほぼ後にパレスチナ委任統治領となる地域)に分割されることになった。これに、ダーダネルス・ボスフォラス海峡、イスタンブルおよびロシアの隣接地域をロシアの勢力範囲にするという計画が加わり、フサイン・マクマホン書簡ですでにアラブ側に示されていた約束と背馳する取り決めが成立したのである。

 最後がバルフォア宣言である。パレスチナに対するユダヤ人の望みに積極的な姿勢を示そうという考えは、すでに16年にイギリス外務省で抱かれていたが、それはまだ参戦していないアメリカのユダヤ人勢力を強く意識したものであった。この計画は、それを知ったフランス政府が好まず、棚上げにされた。それが17年になると、革命勃発によって戦争離脱(ドイツとの講和)の可能性も強くなってきたロシアの指導層の中のユダヤ人を意識する形で、再浮上したのである。イギリス首相ロイド=ジョージは大戦回顧録のなかで、「もしもイギリスがパレスチナでシオニストの目的を満たすとの宣言を行えば、…その結果はロシアのユダヤ人を協商国の大義へと引きつけることになると考えられていた」と述べている。

 ただし、イギリスの考えはそれに限定されていたわけではない。この頃には、オスマン帝国軍との間の戦いでイギリス軍の優勢が明らかになっていたため、イギリスはサイクス・ピコ協定では国際管理地域とされることになっていたパレスチナを自国の勢力下に組み込むことを目論見はじめ、フランスの勢力を排除するためにも、シオニズムの希望をいわば「イチジクの葉」として利用しようとした。そしてバルフォア宣言の作成過程には、他ならぬサイクス自身も深く関わった。こうした思惑を含みつつ、17年10月のイギリス閣議決定を経て11月2日にバルフォア外相の名で出されたのがバルフォア宣言である。宣言は、「国王陛下の政府はパレスチナにおいてユダヤ人のための民族的郷土(ナショナル・ホーム)を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです」と述べていた。サイクス・ピコ協定なるものが存在していることを知らず、ましてやその協定での約束を修正しようとする思惑をイギリスが抱いていることなど知らないシオニスト側は、当然この宣言を大歓迎した。ただし、この宣言が発出された直後には、ロシアで11月革命(ロシア暦で10月革命)が起こり、ロシアでのユダヤ人勢力への考慮は意味をもたなくなった。一方、イギリスのパレスチナ統治に向けての動きと、ユダヤ人によるパレスチナでの国家建設に向けての動きの方は、着々と進んでいった。これが、1948年におけるイスラエルの誕生に、その後のパレスチナ・アラブ人の苦難に、そして現在のガザをめぐる悲惨な状況へとつながってきたのである。

(「世界史の眼」2023.11 特集号)

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