大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―
小谷汪之

はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、本号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 日露戦争(1904-1905年)後、ロシアの租借地だった遼東半島が日本の租借地となると、日本は大連を租借地統治の拠点とした。それに伴い、ロシアから譲渡された東清鉄道の長春―旅順間の南満洲支線が南満洲鉄道として整備された際に、長春―大連間が幹線となった。こうして、大連が都市として発展していくにつれて、大勢の中国人移住労働者が大連港や大連の油房(大豆油製造所)で働くようになった。彼らの多くは山東半島の出身で、家族を中国に残して、単身で大連にやってきた。当時、日本人は中国人労働者を一般に「クーリー」(苦力)と呼んでいた。本稿では、夏目漱石・中島敦・清岡卓行の記述を通して、大連港や大連の油房と「クーリー」の歴史を追ってみたいと思う。

1. 夏目漱石「満韓ところどころ」

 1909年9月、夏目漱石は満洲と韓国への旅に出た。もともとは漱石の高等学校時代以来の友人で、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の第二代総裁となった中村是公ぜこうと一緒に行くはずだったのだが、漱石の胃痛が悪化し出発を遅らせたので、中村是公は先に行ってしまった。そのため漱石は一人旅となり、神戸で鉄嶺丸に乗船し、9月6日早朝、大連に着いた。その後、満洲各地を訪ねた後、9月28日に「小蒸汽で鴨緑江を渡」り韓国に入った。10月13日には、ソウルの南大門駅から汽車で釜山に行き、船で帰国した。帰宅したのは10月16日であった。この旅の旅行記が「満韓ところどころ」で、もともとは朝日新聞に連載されたものであるが、奉天から撫順に行った所(9月21日)で中絶してしまっている(本稿では、藤井淑禎編『漱石紀行文集』岩波文庫、所収のものを利用した。なお、この旅行中の日記は平岡敏夫編『漱石日記』岩波文庫、に収録されていて、韓国旅行の部分まで含まれている)。

 漱石は大連では満鉄直営のヤマトホテルに泊まった。ただし、この時の大連ヤマトホテルは大連埠頭の西側の旧露西亜町にあった。しかも、ヤマトホテルに隣接してヤマトホテル別館(ロシア時代の市庁舎を転用)もあった。漱石が泊まったのはこの別館の方であった(清岡卓行『大連小景集』講談社、1983年、160頁)。ちなみに、大広場に面した大連ヤマトホテルの本格的な新館が完成して、開業したのは1914年のことである。

 9月7日、漱石は中村是公と一緒に馬車でホテルを出発し、大連市内各地を見て回った。最初に行ったのは満鉄中央試験所であった。中央試験所は満鉄開業一年後の1907年に開設された研究所で、初期の段階では大豆から豆油を抽出し、残った豆粕を肥料や家畜の飼料に利用する方法を研究することが主な課題とされていた。中村是公はその成果を漱石に見せたかったのであろう。漱石は中央試験所で豆油担当の技師と会った時の様子を「満韓ところどころ」で次のように書いている。

 これが豆油の精製しない方で、此方が精製した方です。色が違うばかりじゃない。香も少し変わっています。嗅いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いでみた。
 用いる途ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、う云うのが出来たら便利でしょう。是でオリーブ油の何分の一にしか当たらないんだから。そうして効用は両方ともほぼ同じです。その点から見ても甚だ重宝です。それにこの油の特色は他の植物性のものの様に不消化でないです。動物性と同じ位に消化こなれますと云われたので急に豆油が難有ありがくなった。矢張り天麩羅などに出来ますかと聞くと、無論出来ますと答えたので、近き将来に於て一つ豆油の天麩羅を食って見様みようと思ってその部屋を出た。(『漱石紀行文集』29頁)

 今では、大豆油はいわゆるサラダ油の原料などとして広く使用されているが、この時代には日本でも欧米でもまだ一般的なものではなかったのであろう。

 中央試験所を出た漱石と中村是公は「電気公園」(電気遊園)、西公園などを経て、大広場から東に少し離れた満鉄本社に行った。そこで漱石は満鉄のいろいろな事業について詳しい説明を受けた。

 9月9日、漱石は知人に連れられて、ある油房(大豆油製造所)を訪ねた。「満韓ところどころ」には、その油房における豆油の製造過程がかなり詳しく書かれている(『漱石紀行文集』50-53頁。ただし、この油房の名前や立地については何も書かれていない)。漱石の記述には分かり難い箇所がかなりあるが、ここでは漱石の記述をそのまま摘記する。

 「〔油房の〕三階へ上って見ると豆ばかりである」。「此方の端から向うの端迄眺めてみると、随分と長い豆の山脈が出来上っていた。その真中を通して三ケ所程に井桁に似た恰好の穴が掘てある。豆はその中から絶えず下に落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。時々どさっと音がして、三階の一隅に新しい砂山が出来る。是はクーリー〔中国人労働者〕が下から豆の袋を脊負って来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに打ち撒けて行くのである」。「彼等の脊中に担いでいる豆の袋は、米俵の様に軽いものではないそうである。それを遥の下から、のそのそ脊負って来ては三階の上へ空けていく」。「通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階迄を、普請の足場の様に拵えてある。彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つを又下りて行く」。「三階から落ちた豆が下に回るや否や、大きな麻風呂敷が受取って、忽ち釜の中に運び込む。釜の中で豆を蒸すのは実に早いものである。入れるかと思うと、すぐ出している。出すときには、風呂敷の四隅をつかんで、濛々もうもうと湯気の立つやつを床の上に放り出す」。「彼等〔クーリー〕は胴から上の筋肉を逞しく露わして、大きな足に牛の生皮を縫合せた堅い靴を穿いている。蒸した豆をで囲んで、丸い枠を上から穿めて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーは忽ちこの靴の儘枠の中に這入って、ぐんぐん豆を踏み固める。そうして、それ螺旋らせんの締棒の下に押込んで、をぐるぐると廻し始める。油は同時に搾られて床下の溝にどろどろに流れ込む。豆はまったくの糟だけになって仕舞う。凡てが約二、三分の仕事である」。「この油がポンの力で一丈四方もあろうという大きな鉄の桶に吸上げられて、静かに深そうに淀んでいる所を、二階に上がって三つも四つも覗き込んだときには、〔落ちそうで〕恐ろしくなった」。「クーリーは実に美事に働きますね。且非常に静粛だ、とがけに感心すると、案内は、とても日本人には真似も出来ません、あれで一日五、六銭で食っているんですからね。どうしてああ強いのだか全く分りませんと、も呆れた様に云って聞かせた」。(『漱石紀行文集』50-53頁)

 漱石が視察したこの油房は日本人経営の油房のようであるが、ほとんどの工程を「クーリー」の労働力に頼る旧式の油房であった。この時代にはまだこういう油房が多かったのであろう。

2. 大連の油房

 1866年に、満洲における初めての油房が設立され、大豆油と豆粕の製造が始まった。その場所は営口であった。営口は満洲随一の大河遼河の河口近くに位置する港町で、遼河の水運によって満洲各地から大豆が営口に集まってきたからである。その後、営口の油房数は増大を続け、1910年頃の最盛期には35か所に上った。しかし、南満洲鉄道(満鉄)が開業し、大豆が鉄道で輸送されるようになると、満鉄路線から離れている営口の油房数は急速に減少していった(満鉄地方部勧業課『満洲大豆』満蒙文化協会、1920年、26-27頁)。

 営口に代わって満洲の豆油・豆粕製造業の中心となったのは大連であった。大連で最初の油房が設立されたのは1906年であるが、その後油房数は急激に増大し、1919年には60か所となった。その内訳は中国人経営の油房53、日本人経営の油房4、日中合弁の油房3であった(前掲『満洲大豆』、29頁)。

 大連にはこれらの在来形の油房とは全く異なる豆油製造工場があった。前述のように、満鉄中央試験所では大豆から豆油を抽出する方法を研究していた。ドイツでベンジン抽出法という化学変化を利用した全く新しい豆油抽出法が開発されると、いちはやくその特許権を入手し、1914年、「満鉄豆油製造所」を設立して、試験的な操業を始めた。しかし、満鉄が豆油製造所を経営することに対しては反対が強く、翌1915年、「満鉄豆油製造所」は鈴木商店に譲渡された。鈴木商店は「満鉄豆油製造所」の工場と特許権を継承し、鈴木油房と名付けた。したがって、鈴木油房は大連埠頭の東側の満鉄埠頭地区内にあった。

 鈴木油房の豆油と豆粕製造能力は在来型の油房に比べるときわめてすぐれたものであった。大豆はあまり油の含有量が多くない原料で、在来型の油房では原料に対する採油量は9~10パーセントであったが、ベンジン抽出法の場合は14~15パーセントとなった。肥料あるいは飼料として利用される豆粕は残留油分や水分が少ない方がよいのだが、在来型の油房の場合、残留油分が7~9.5パーセント、含有水分が13~19パーセントなのに対して、ベンジン抽出法の場合は、それぞれ2.5~3パーセント、4~13パーセントであった(前掲『満洲大豆』、32頁)。在来型の油房と鈴木油房では、これほどの生産性の差があったのである。

 しかし、鈴木商店は第一次世界大戦終了後の不況の中で債務超過に陥り、その豆油製造部門は1922年に設立された豊年製油株式会社に移され、鈴木油房は豊年製油大連工場として操業を続けることになった。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.52)

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世界史の中の北前船(その1)
南塚信吾

はじめに  

 江戸時代から明治の中頃にかけて、蝦夷から大坂、あるいは薩摩へいたる海路を行き交う船があった。それは主に日本海側を航行し、「バイ船」あるいは「北前船」などと呼ばれていた。航海術が発達していなくて、偏西風のせいで太平洋に流されることを恐れた時代に在っては、日本海側のこの輸送手段は重要な役割を演じていた。これは蒸気船が出現する前には、日本の重要な輸送手段であった。これらの船の中には、漂流して国外で救助され、長期の国外生活を経て帰国するものもあった。

 このような船を、本稿では「北前船」という呼び方で統一するが、これは大坂を始め瀬戸内海地域での呼び方で、北陸などでは「バイ船」「バイバイ船」などと呼ばれていた(呼び方については諸説があるが、さしあたり牧野「北前船の時代」による)。「北前」といういい方は、瀬戸内から見て北の、日本海側(陸も海も)を指す語として使われ、そこを通って瀬戸内に入ってくる船を、瀬戸内の人が「北前船」と呼んだという(牧野、2005、13頁)。

 この北前船をどのように定義するかについてはいくらか議論があるが、本書では、「北国の船で蝦夷地を含めた日本海の諸港と瀬戸内・大坂を結んだ不定期の廻船で、買積みを主体とし」た船(牧野、2005,17頁)としておきたい。「北国」というのは瀬戸内から見て「北」という意味で、「北陸」に限ったものではない。ただし、この船は、長崎、薩摩へも出かけていた。そしてポイントは、たんなる輸送船ではなく、港々で商売をする船(買積み船)であったということである。

研究史

 北前船と漂流船・長者丸についての研究は、戦前は別として、1950-60年代に先駆的研究が現れて以来、現在まで続いている。1980年代には、研究はやや下火になったが、1990年代には、「土地制度史」や「表日本」への反発から、海上交通への学術的な研究が登場し、郷土史の一部として海上交通が組み込まれるようになり、北前船が再び注目された。それを受けて、21世紀に入ると、カルチュラル・スタディーズや「人の移動」などへの関心や商業資本としての北前船への関心から研究が深められた。これは、2017年に北前船が日本遺産に認定されると、一層進展した。研究は、各地においてさまざまな組織、集団によって積み上げられている。

 ところが、以上のような北前船研究は、二つほど問題を抱えている。一つには、松前を越えた蝦夷のアイヌの関与と、薩摩の先の琉球の役割についての研究を取り込むことである。これらの研究は、われわれの視野をもっと先の樺太、千島をへて満洲やシベリアへと広げるものである。今一つは、日本史研究の本流と交わらせることである。日本史研究は、江戸時代の対外政策の見直しが進み、蝦夷、対馬、長崎、琉球の四つの港での交易などによる「四つの口」が注目されるようになり、世界史の中で日本の歴史を考えようという動きが広がっているが、この「四つの口」を活性し相互に繋いでいた北前船は、しかるべく位置付けられていない。この二点を含め、北前船を、より広い観点から見直すならば、それが、世界史の問題として議論すべきであることが、理解されてくるはずである。

1. 日本海の海路

 北前船の起源は難しい。牧野は、北国と大坂を結ぶ輸送路と、北国と蝦夷地を結ぶものとを分けて考え、その両者を近江商人が結び付けて、北前船が登場したと見ている(牧野、2005、19頁以下)。

(1) 北国と大坂―西廻り航路

 日本海における船による海路は、すでに7-8世紀には見られたようで、米など貢納物を越後、越中、能登、加賀から敦賀や小浜に船で運び、そこから陸路―琵琶湖―陸路を経て京に運ぶルートができていた。しかし、北国から下関を経て瀬戸内に至る船のルートは、長らく開かれなかった。開かれたのは、江戸時代になってからであった。1639年(寛永16年)に加賀藩主前田利常が下関経由の船で年貢米を大坂に送ったのがきっかけと言われる。これ以後、下関経由の廻米船が発展した。とくに、すでに幕府の依頼で東北から江戸までの「東回り航路」を開拓していた河村瑞賢が、同じく幕府の意向を受けて、1672年(寛文12年)に酒田から下関を通り大坂へ向かう「西廻り航路」を整備したことによって確立した。しかし、牧野によれば、ここに「北前船」が始まったのではなかった。それは藩の雇船で藩の荷物である年貢米を運んだのであり、民間の商人の廻船ではなかったからである(牧野、2005、23頁)。

(2) 北国と蝦夷地

 一方、北国と蝦夷地を結ぶ航路はどうか。北国と蝦夷地を結ぶ海上交通は、中世から見られた。蝦夷は昆布などの産地として、敦賀や小浜を経て、京に繋がっていた。昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行きかうようになったのは鎌倉時代中期以降であるという。室町時代に入ると、蝦夷地から越前国の敦賀まで船で運ばれ、そこから陸路と琵琶湖を通って京都・大阪まで送られたとされる(北海道漁連)。その室町時代の後半16世紀には、近江商人が東北から蝦夷に入っていた。そして、1604年(慶長9年)に松前氏が徳川氏によって蝦夷地の支配者として認められると、松前氏は現地のアイヌとの通商の仕事を内地から来た近江商人たちに委ねた。彼らがアイヌとの取引で内地へ送る荷を運ぶ船は、松前から敦賀ないし小浜の港を行き来し、船乗りには北陸の船乗りが雇われた(牧野、2005、41頁;淡海文化を育てる会、2001、121-127頁)。

 こうして、北国―下関―大坂という航路と、蝦夷―北国―敦賀という航路ができたが、やがて、この二つが統一されてくる。

2. 北前船―近江商人

 ほぼ宝暦―天明期(1750-1780年代)に、近江商人を介して、蝦夷方面と下関経由の大阪方面が接続され、のちに言う「北前船」が始まったと言われる(牧野、2005、25-30頁)。近江商人の資金的後押しを受けて、加賀など北陸の船乗りから船主になる者が現れ、自立的な船商売をするようになる。もはや藩の雇船でもなく、近江商人の「荷所船」でもなく、自立して商売をする船主ができたのである。かれらは蝦夷の松前―北陸―下関―瀬戸内海―大坂を結ぶルートで活躍することになる。

 これは、まもなく江戸にもつながり、松前―北陸―下関―大坂―江戸という航路となり、これは、それ以前に拓かれていた松前から津軽海峡と三陸沖を経て江戸に至る東回り航路と対比されて、西回り航路と呼ばれた。こうして、北前船は二つの航路を持つことになった。ただし、東回り航路は航行が難しく、危険なルートであった。それは、松前から出て、津軽海峡と房総半島という難所を通らねばならなかった。とくに黒潮と偏西風のゆえに東周りは難しかった(牧野、2005,45頁)。それでも重要ではあった(加藤、2003、54-56頁)。

 北前船は単なる輸送船ではなかった。港港で商品を売買して行ったのである。大体は大坂で「冬囲い」をし、春に大坂を出て、北陸、東北、蝦夷へ「下」った。そして、秋に蝦夷を出て「上」った(読売新聞、1997,84頁)。

 「下り」では、大坂を始め瀬戸内海沿岸の港から、綿布、塩、鉄などを買って、北陸や蝦夷へ運んで高く売り払った。北陸からは、米や筵などを買い込んで、蝦夷で売った。「上り」では、蝦夷からニシンや昆布や木材を買い込んで、北陸などの港や大坂方面で売りさばいた。また途中の北陸の港からは米、衣料、雑貨を買い込んで、大坂方面へ輸送し、そこで換金した。儲けた現金は大坂の商社に預けた。ニシンは〆粕として肥料となった。ニシンは富山などの米を増産し(読売新聞、1997,70-71頁)、大阪の綿花生産はニシンの肥料で増産(読売新聞、1997,85-86頁)した。昆布は富山や大坂で大量消費された。こういう北前船のバイバイ活動が重要であった。

 18世紀中頃には北陸に自立した北前船の船主たちが現れ、かれらの盛期は、江戸後期から明治の前半であった。そうした船主は日本海側を中心に各地の豪商として現れた。

3. 長崎と琉球

 だが、北前船がつなぐ地域はこれにとどまらなかった。松前―北陸―下関―大坂―江戸という航路と並行して、松前―北陸―長崎―薩摩という航路ができ上った。これはとくに昆布と関連して発達した(昆布ロード)。江戸後期に入ると、昆布を長崎や薩摩へ運び、中国の物産を持ち帰るようになるのである。

 先ず、北前船は長崎まで行くようになった。そこで中国との公認の交易をした。長崎経由の昆布ロードが本格化したのは、1698年(元禄11年)という説が強い(北前船新総曲輪夢倶楽部、2006,88頁)長崎の唐人屋敷を経由して、北前船が蝦夷からもたらす海産物が中国へ送られ、中国からは薬種などがもたらされた。

 次いで北前船は、薩摩まで行った。薩摩は琉球と中国の進貢貿易に乗じて中国と貿易を行っていた。それは幕府の黙認の貿易であった。当初は、北前船が蝦夷の昆布など海産物を大坂に運び、そこで薩摩の商人が買い付けていたが、やがて、北前船が直接薩摩に運び、そして琉球において、中国との貿易が行われた。これは幕府の公認の長崎貿易と競合するので、幕府と長崎は絶えず監視の目を光らせていた。

 こうして、蝦夷地―松前―北陸―瀬戸内海―大坂―江戸という航路と、蝦夷地―松前―北陸―長崎―薩摩―琉球(-中国)という航路ができあがったのである。じつは、蝦夷地から先も、樺太から満洲へ行くルートと、千島からカムチャツカへ行くルートがあった。ここに北前船は初期的な意味で「世界史の中の北前船」となった。つまり、北は樺太・千島、南は琉球(-中国)へと繋がることになったのである。その重要な物産が昆布であった。いいかえれば、世界に広がる昆布ロードができたのである。

 この昆布ロードは、日本史で言うところの「四つの口」(松前、対馬、長崎、琉球)を活かしつつ、それらを結ぶルートになっていた。これは追い追い検討していくことにしたい。

参考文献
北海道漁連 https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html
読売新聞北陸支社編『北前船 日本海こんぶロード』能登印刷出版部、1997年
淡海文化を育てる会『近江商人と北前船』サンライズ出版、2001年
加藤貞仁 『海の総合商社 北前船』 無明舍出版、2003年
牧野隆信 『北前船の研究』 法政大学出版局、2005年(初版1989年)
北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓 富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会、2006年

(「世界史の眼」No.52)

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「世界史の眼」No.51(2024年6月)

今号では、千葉大学の米村千代さんに、昨年刊行のメアリー・ジョー・メインズ、アン・ウォルトナー(三時眞貴子訳)『家族の世界史』(ミネルヴァ書房)を書評して頂きました。また、前号に続きパトリック・マニングさんの論考「国連改革の動き」(南塚信吾訳)を掲載しています。

米村千代
『家族の世界史』(メアリー・ジョー・メインズ、アン・ウォルトナー著、三時眞貴子訳、ミネルヴァ書房、2023年)書評

パトリック・マニング(南塚信吾訳)
国連改革の動き

『家族の世界史』の出版社による紹介ページは、こちらです。また、パトリック・マニング氏のウェブサイトContending Voicesは、こちらです。

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『家族の世界史』(メアリー・ジョー・メインズ、アン・ウォルトナー著、三時眞貴子訳、ミネルヴァ書房、2023年)書評
米村千代

 「家族を物語の中心に据えたときに、世界史はどのように見えるのか」(1頁)。著者によれば本書の目的はこの疑問に答えることにある。家族史研究は、時代や地域による個別性や多様性、いわば小さな物語を描き出すことに重点の一つがあったといえるだろう。もちろん家族史といっても研究の幅があり、一言でその特徴を述べることはできないが、少なくない研究は、人々の日常生活に焦点を当てた個別の歴史を描き出すことを重視してきたといえる。比較的大きな物語を描く場合でも、ヨーロッパのある社会層を対象とするなど、世界全体を対象とする研究ではなかった。そうした家族史研究のなかで一時代の日本の家族を研究してきた評者にとって、本書を最初に手にしたときの関心は、どのように一つの流れで「家族の世界史」を描くことができるのかという点にあった。本書は、文字通り家族の世界史を1冊にまとめた稀有な書であり、紀元前一万年以降の家族を、時間的・空間的多様性にも目を配り対象とするものである。家族の世界史がどのように描かれているのかを読み解いていくために、まずは、本書の全体像を目次から概観することから始めたい。章構成は以下のとおりである。

序章 ディープ・ヒストリーとしての家族史
第1章 家族生活と人生の起源-紀元前500年まで
第2章 神の誕生-宗教登場後の家族(西暦1000年まで)
第3章 支配者家族-政治の黎明期における家族のつながり(紀元前約3000年~1450年)
第4章 近世の家族-1400~1750年
第5章 グローバル市場における家族-1600年~1850年
第6章 革命期の家族-1750年~1920年
第7章 生と死の力―国家による人口管理政策時代の家族(1880年~現在)
終章  家族の未来

 次に、序章に記されている本書の視点を確認しよう。序章冒頭において、家族は歴史的に構築されてきた制度であり、自然に生み出されたものではないこと、「家族はそれ自体が歴史を持つと同時に、歴史を作り出してきた」ことを出発点にするとある(1頁)。家族史のすべてを網羅しようとするものではなく、冒頭に紹介したように「家族を物語の中心に据えたときに、世界史はどのように見えるのか」という疑問に答えることが目的であるという。そしてその方法を著者は二つあげる。一つは、「家族それ自体と、家族の時代的、空間的な多様性に焦点を当てる方法」であり、もう一つは、「これらの家族生活が時代とともにどのように変化してきたのか、それぞれの文化が家族生活を営むために独自の方法をどのようにして 見出してきたかについて探求する方法」(1-2頁)である。続いて、家族の定義(「家族は、結婚や類似のパートナーシップ、血統、そして/あるいは養子縁組による文化的に認識された紐帯で結びつけられた人々からなり、多くの場合、一定期間、同じ世帯を構成する小集団」(4頁))を行い、ディープ・ヒストリー/深層史(いわゆる先史の時代から現代までの長期的な展開を、人間の行動や文化の相互作用から読み解くもの)として家族史を位置付ける。

 目次からわかるように、章は時間とテーマに基づいて論じられているため、各章は時間軸として完全に独立しているわけではない。各章において複数の地域が取り上げられ、とりわけ後半においては、それらの地域の歴史は個別に取り上げられるのではなく、相互の影響関係において論じられる。紀元前500年までを対象とした第1章では、人類の起源あるいは初期の文明における女性の重要性に一つのポイントがおかれ、初期の家族生活とジェンダー分業に多様性があったことが指摘されている。第2章が西暦1000年までの家族であり、宗教と家族の関係がテーマとなる。ここから次章へとつながる流れのなかで家父長制が登場する。第3章は、主に古代君主制が取り上げられていて、父系制社会を主な対象としながらも、君主制を持たない地域も考察に含まれる。いずれの地域においても政治と家族関係の結びつき、特に支配者家族との結びつきが時代の特徴として取り上げられていて、この章の主要なテーマとなっている。続く第4章は近世社会がテーマで、アメリカ大陸という「新世界」と「旧世界(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)」との接触から章が始まり、グローバルな家族史の視点がより直接的な題材となっている。この「接触」は、著者の言葉を借りれば「〔無関係な者同士の出会いではなく〕ある種の再会」であり、近世社会の「遭遇」は「人間とは何かについての新しい疑問」(94頁)を提起するものであった。たとえば、征服者は、その手段として被征服者の家族生活へと介入し、結婚を許さない形で被征服者が家族の絆を形成することを阻止しようとした。他方、別の場所では、同盟関係を結ぶための結婚や相続という対照的な戦略もとられた。近世ヨーロッパによる海洋進出と植民地獲得には、在地の宗教との葛藤やキリスト教への改宗という新しい緊張もはらんでおり、宗教もまた本書を貫く重要なモチーフの一つとなっている。第5章は表題の通りグローバル化する市場における家族関係がテーマである。親族による商業ネットワークの形成、混合婚、奴隷制、小農経営が取り上げられている。本書は、一つの国や地域の歴史を個別に論じるのではなく、「接触」や「遭遇」によってもたらされる社会や家族の相互関係と変容を描くことによって全体が構成されている。第5章はこうした本書の筆致が最もよくあらわれている章であるといえよう。第6章は「経済と政治の二重の革命」の家族生活への影響がテーマで、イギリスの産業革命、フランス革命、中国革命が取り上げられている。革命というテーマの下で、階層、ジェンダー、世代の問題が、他の章と同様に、やはり世界史的な観点から論じられる。第7章の主題は人口である。人口政策としての家族政策が、一方で、子育て支援や社会保障などの福祉政策を推進する方向性を持った一方で、植民地支配や優生政策として大量虐殺を引き起こした。著者は本章の末尾を「20世紀末までに、家族は事実上、すべての地域と国家で政治化されたのであった」(210頁)としめくくる。最終章は、歴史を通して未来を語る章となっている。

 空間と時間が交錯する歴史を家族という視点から見たときに、「生と死の力」というテーマは、今もなお、家族研究が重い課題を背負っていることを改めて思い出させてくれる。今日、家族は、多様化、個人化という文脈のもとに論じられる傾向にあるが、「政治化」という視点は依然有効であり、家族にはたらくさまざまな力を長い時間軸や広い空間的視野において絶えず捉えなおすことは、わたしたちに新しい気づきをもたらしてくれるだろう。

 なお、「訳者あとがき」には、11頁にわたる丁寧な解説があり、家族史を今日的な視点に接合するための示唆に富んでいることもあわせて紹介しておきたい。

(「世界史の眼」No.51)

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国連改革の動き
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 先月、P.Manning(パトリック・マニング)が、かれのホームページContending Voicesに出した、USの政策を批判し国連の力の増大に注目する見解Who rules the world today? を紹介した。今月は、それに続いてかれが同じくContending Voicesに発表したThe Campaign for UN Reform(Mar. 3, 2024)を翻訳して紹介したい。もとはアフリカ史を研究していたマニングは、アフリカを中心とする途上国の動きをよく見ているようである。世界的に多数の諸国の動きとして、国連改革の動きは無視できないもののようにも思える。国際的に圧倒的多数の国々の批判を無視してガザのパレスチナ人ジェノサイドを続けるイスラエルと米国、これを許す国際秩序はじょじょに昔のものになりつつあるかもしれない。マニングの大局的な見方を参考にしていただきたい。(南塚)

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 国連の「未来サミット」が2024年9月にニューヨークで開かれるはずである。この会議は、国連の改組に焦点を当てたもので、国連事務総長アントニオ・グテーレスの支援を受けて、数年前から計画されてきたものである。このサミットの声明は、季候の持続可能な発展目標と社会的平等に焦点を当てることになっているが、サミットは長い間求められてきた安保理事会の改革の機会だとますます見られるようになってきている。

1. 国連安保理改革の呼びかけ

 国連の最高執行機関である安全保障理事会は、常任理事国5か国、非常任理事国10か国から成る。5か国はいかなる決議にも拒否権を持つ。この拒否権を使って、米国、英国、仏国は長らく他国の影響力を制限してきた。中国とロシアも常任国ではあるが、安保理にもっと多くの国を加えることを妨げ、グローバルなバランスを阻害してきたのは、米国と英国である。

 1992年にロシアがソ連の崩壊を受けて常任理事国となった時から、安保理の拒否権を見直そうという関心が高まってきている。2015年に、フランスとメキシコが、「大量虐殺」の場合は安保理の常任理事国は拒否権を行使しないことにしようという提案をした。2022年4月には、国連総会は、安保理におけるすべての拒否権を主題にして討議するよう命令を出した。

 もっと近いところでは、2022年10月に、ウクライナでの平和に関する決議にロシアが拒否権を使ったところから、安保理の改革がいっそう緊急の問題となった。(カーネギー国際平和基金の2023年6月のコロキウムでは多くの国から深刻な懸念が示された。)そして、ガザでの戦争が始まった後は、米国が、2023年の10月と12月に3回にわたって戦闘停止の決議に拒否権を使い、そのことが安保理の改革をより強く呼びかけることになった。

安保理に理事国を追加するという事は、強力な候補国の中から選ぶことを必要とする。現在の非常任理事国は選出されているわけであるが、それは世界の5つの地域からそれぞれ2か国ずつ選ばれていて、任期は2年である。そこで、さらに5か国の常任理事国と5か国の非常任理事国を選んで、25か国構成にするということが考えられる。常任理事国5か国には、アジアからインドと日本、西ヨーロッパからドイツ、東ヨーロッパからポーランド、ラテンアメリカおよびカリブ地域からブラジルとメキシコ、アフリカからはエジプト、ナイジェリア、南アフリカが候補として考えられる。

2. 今から9月までのキャンペイン

 2024年3月現在、イスラエルーハマス戦争に関連するいくつかの動きによって、国連の運営をめぐる争いがいっそう激しくなっている。第一の動きは、現在進行中の争いそのもので、2月2日に、米国はガザでの停戦決議にまたもや拒否権を発動した。(この拒否権についての国連総会での討論は3月4日に予定された)。

 第二の動きは、イスラエルに対するジェノサイド告訴に関する1月26日の国連司法裁判所の命令である。司法裁判所はできうる限りで最も強い命令を出して、イスラエルにすべての殺害をやめ、人道援助への干渉をすべてやめるよう要求した。それでも、裁判所は執行機関ではなく、安保理事会のみがこの命令の順守を強制できるのであり、米国はそういう行動には拒否権を使う用意をしている。

 最後に、司法裁判所はイスラエルによるパレスチナ占領は非合法であるか否かについて判断を下すように求める国連総会の要請に答えていた。2月19日の週に50か国以上が裁判所に意見を述べたが、その90%が占領は非合法であると述べていた。

このあと二つのデッドラインがこの先に待っている。一つは、3月10日で、ラマダンの開始の日である。イスラエルは、ハマスが人質をすべて解放しない限り、この日にガザの人口密集したラファ地区への全面攻撃を開始すると約束している米国主導の交渉は成功の見込みはほとんどない。ハマスもイスラエルがガザから撤退しない限り、同意しないという。さらに、ハマスはパレスチナの独立を主張するのに、イスラエルはパレスチナ国家を認めることを拒否している。そして、米国を始め他の8つの富裕国は、UNRWA救済機関への拠出を停止している。米国のバイデン大統領は一方でさらなる武器輸送を計画し、他方で停戦を呼び掛けている。3月には、停戦がなるだろうか、あるいはラファへの壊滅的な攻撃があるだろうか。あるいはその両方だろうか。

 二つ目のデッドラインは9月18日である。これは「未来サミット」の開会の日で、そこでの議論では国連改革が中心となるであろう。きっと大多数の国が、常任国と非常任国を降らして安保理事会を拡大すること、ならびに常任理事国の拒否権を廃止ないしは制限することを求めるであろう。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、島嶼諸国はほとんど一致して安保理改革を支持するであろうーもちろん言うまでもなくガザでの停戦も。一方、ヨーロッパの諸国は、ガザと安保理改革の双方について、意見が分かれるであろう。

 安保理改革のキャンペインは勢いを増している。ガザの停戦および安保理改革の両方を目指して外交活動を最も活発に行っている国々は、南ア、トルコ、ブラジル、アルジェリア、エジプト、スペイン、ベルギー、アイルランドである。アラブ連盟とアフリカ連合は団体として立場を明らかにした。ロシアと中国は、ともに拒否権を失うかも知れないが、このキャンペインを静かに支持し続けている。概して、安保理の構成国の大多数はしっかりと改革支持の立場である。現在の国連総会議長であるトリニダードのデニス・フランシスもかれの2023-24年の任期中ずっと改革を積極的に支持してきた。そして、アフリカから出るであろうかれの後任も、同じ政策を採りそうである。

 改革のキャンペインの原動力になっているのは、安保理の議長自身である。議長は構成国の中で毎月輪番で交代する。2024年の1月と2月の議長はそれぞれフランスとガイアナであった。3月から10月までの議長に選ばれているのは、順番に、日本、マルタ、モザンビーク、韓国、ロシア、シエラ・レオネ、スロヴェニア、スイスである。このすべてが改革支持派である(ロシアとスイスをも含んで)。しかし、9月のサミットが安保理の改革に動いたとしても、最後に2024年中に行われる二つの大統領・首相選挙を乗り越えねば、変化は起らないであろう。それは英国と米国の選挙である。

 安保理改革への支持は国連自身に限られてはいない。中東における旧来の敵対関係が解消しつつある。とくに、トルコとエジプトの関係であるが、サウジアラビアとイランの関係もそうである。ブラジルのルラ・ダシルバ大統領は、アラブ連盟のカイロ会議とアフリカ連合のアジスアベバ会議で、ガザおよび国連改革に言及した。かれは翌日、ブラジルに戻って、リオでのG20の外相会議を主宰し司会を務めた。ここには、米国のアントニー・ブリンケン国務長官も来ていた。この会議で、G20の外相たちは、ガザでの停戦を呼び掛けた。1年前には、この反対に、かれらはウクライナで対ロシア戦争の継続を求める米国起草の呼びかけを発していたのである。

3. キャンペインのありうべき帰結

 国連改革は、実際遅くとも9月の「未来サミット」において山場を迎えるのではないか。安保理の構成の変化の議論が具体的に起こるたびに(実際に起こったときには)、それは激しいものになり、激論さえ起こっている。改革を提案する側は、5大国の拒否権にも拘わらず改革を実現するための道を見出す必要がある。結局は、国連憲章をほんの少し変えるだけで済むはずだが、そのような変更を行い批准するには、国連組織の原則と手続きに基本的な転換が求められるであろう。

 もし、拒否権を縮小ないしは廃止し、安保理に新たな国を加えるといった国連改革が進むならば、安保理と総会と事務総長の間で協力して、パレスチナに国家を打ち立て、ジェノサイドとパレスチナの地位についての国際司法裁判所の命令を実行し、ウクライナ問題に取り組むことができるかもしれない。そのような協力があったとしても、パレスチナやウクライナの問題、さらに中国の領土要求についても、実際の解決は、スムーズには進まないかもしれない。しかし、それらは、根本的に違った世界秩序の中で取り組まれることになるのである。

 一方、若しこの国連改革が失敗するならば、拒否権はそのまま残るだろう。そして米国は軍事力と組織的支配力をもって、グローバルな覇権を維持しようとし続けるだろう。たとえ、他の国からの支持がほとんどなくてもである。最悪の場合には、ガザやウクライナやその他の場所でもっと死者が出るであろう。そしてそのあとには、何年も国連の行き詰まり、国連の政策に一国主義が広がるであろう。これはすべて将来の国連改革のための運動を再開するのに反する事になるだろう。この場合には、米国は多分国連を脱退することを決めるのではないだろうか。それは国連にとっても米国にとっても破滅的なことである。大国の拒否権のない国連は先例のない事ではない。他の大国は、「普通の国」としての地位になることの教訓を学んでおかねばならない。時とともに、これら諸国は皆、世界の共同体の中で協力し合う市民となることを学ぶことになるのである。米国はそれに続くであろうか。

(「世界史の眼」No.51)

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「世界史の眼」No.50(2024年5月)

今号では、稲野強さんに、「くすぐられた大国意識―黄禍論をめぐって―」を寄稿して頂きました。また、パトリック・マニングさんの論考「今日、世界を支配するのはだれか」(南塚信吾訳)を掲載しています。

稲野強
くすぐられた大国意識―黄禍論をめぐって―

パトリック・マニング(南塚信吾訳)
今日、世界を支配するのはだれか

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くすぐられた大国意識―黄禍論をめぐって―
稲野強

 「脅威論」とは、一般に「ある国の覇権主義が他国または世界にとって重大な脅威になる言説」と捉えることができるが、ここでは対象国家・国民・民族は、その言説をどのように受け止めたかを考えてみる。その例として「黄禍論」を挙げてみたい(1)

 黄禍論は、現代でも、欧米の言論界で時折人種差別的に持ち出され、物議を醸すことがあるが、19世紀の終わりから20世紀初めにかけて帝国主義期の欧米で流布した黄色人種差別論・脅威論である。その根底には「アジアの野蛮」に対するヨーロッパ=キリスト教世界の防衛という歴史の記憶がある。そしてここで考察の対象とする黄禍論は、日清戦争(1894)で「眠れる獅子」の中国に勝利した「小国」日本の急速な台頭と、日本が中国と連携ないしは中国を指導してヨーロッパ勢力をアジアから駆逐するのではないか、という欧米の危惧の念もしくは恐怖感から出現したものである(2)

 この黄禍論=脅威論に対して日本政府・ジャーナリズムはどのように反応したのか。

***

一般に黄禍論の火付け役は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とされる。かれは、従兄弟のロシア皇帝ニコライ2世にけしかけ、ロシアの目を東アジアに向けさせる方策に出た。そのために、すでに人口に膾炙しているが、かれは黄禍の「脅威」をわかりやすく視覚に訴えるべく、タイトルに「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な財産を守れ!」と付した「黄禍の図」なるものを描き、その複製画をヨーロッパの王室、元首、米大統領に贈るという愚挙に出たのである(3)。描かれたのは、ヴィルヘルム2世の手紙によれば、「ヨーロッパの姿が仏教と野蛮の侵入に抗して十字架を守護するために天使ミハエルに招かれている聖者」である(4)

 ところで、ヨーロッパで流布した黄禍論に対する日本側の反応の早期の例としては、駐独(兼駐英)日本公使青木周蔵が1895年5月17日に、当時のヨーロッパ世論の動向を山県有朋に紹介している「手紙」が挙げられる(5)

 「…加之〔しかのみならず〕、日清の間に於て、『亜細亜は亜細亜人に属すべしとの主義』に基由する協議相整ひ、攻むるにも守るにも互に応援援護すべしとの攻守条約を締結せんには、黄人の勢力益々旺盛となり、白人社会は危害を受くるや必せり。故に、今や一方に於ては、日本人を牽制して其の勢力を発達牽制し、他の一方に於ては、是に由て清人を開明の区域に進歩せしめざるにあり、云々」と。

 また駐仏日本公使栗野真一郎は、1900年7月に青木周蔵外相への電報で英仏で黄禍論がジャーナリズムを賑わしていることを伝えている(6)

 「大体は日本が早晩支那と一致し、4億の人民に号令し、其固有尚武の精神を吹き込み、以て欧州に反対するに至れは、之れは由々敷大事にして、到底欧州の強敵たるを免れず。されは、日本をして今回の機を利用して支那に優勢を独占せしむる如きは極力排斥せさるへからすと諭し、又た政客中にも続々新聞に投稿し、黄色人種の危険Yellow Perilを喋々して日本圧抑の議論を称へ、平素沈黙を守るものも前記論旨には首肯すと云ふ有様にて、従ひてその反応も亦意外に偉大なりしは本官の遺憾とする処に有之候」〔原文は片仮名混りで、読点・句読点なし〕と。   

 両者とも、日清戦争で世界に力を見せつけた日本がリーダーとなり、中国と連携してアジアをまとめ上げ、一致団結してヨーロッパに刃向かってくる、という当時ヨーロッパで喧伝されていた典型的な黄禍論を紹介しているのである。かれらは、黄禍論を否定せず、その正当性を追認することで、期せずして日本の存在感を示しているように見える。ことに青木の指摘は、日本と中国との「黄人」〔黄色人種〕同士の連携を提唱しており、欧米列強が危険視するアジア・モンロー主義、大アジア主義への傾斜さえ明確に思考している。こうした思考は、日本国民・民族に対外的な危機感を募らせ、ナショナリズムを高揚させる働きをした。さらに、その動きは、勢いを得て、軍事力増強を果たし、大国意識に目覚め、「勢力圏たる」朝鮮半島を確保し、大陸進出への道を準備したのである。

 だが、その一方で、黄禍論を根拠のない妄想として、穏便にかわそうとする人々も主流として存在した。欧米列強に日本の近代化=西欧化の促進をひたすら承認を願う戦略をとる、言わばのちの国際協調派ともいうべきリベラルな政治家・官僚・ジャーナリストの志向である(7)

 かれらは、当時、日本が外交上もっとも苦慮している条約改正問題の完全な解決を果たしていない現状では、日本が近代化に邁進し、成功した国であることを世界に示す必要があると考えた。ただし、そこでは他のアジアの国々との同列化を嫌い、劣等国家・国民視されるのに耐えられずに差別化を図る自画自賛的な言論も見え隠れしている(8)。日本は、文明化された国であって、すでに「アジアの野蛮」を脱し、憲法を有し、議会主義が機能し、自由貿易が行われ、言論・移動の自由、信教の自由など市民的自由が保証される列国に連なる近代国家というわけであった。したがって、のちの日露戦争(1904‐5)においても、その方針は貫かれ、この戦争が、人種戦争、宗教戦争であることを否定し、「野蛮な」ロシアとの違いを明確に示し、自身をヨーロッパ文明に連なるものとするのである(今なお続く「西側諸国の一員」とレッテルを貼られたがる志向)。文明の側に立っているのは、ロシアではなく日本であるという優越意識の表明である。

***

 そうした中で、上述の「〔黄禍論を虚妄として〕穏便にかわそうとする派」にとって危惧する極めて不都合な発言が日本の政治の最高指導者のひとり元老・伊藤博文から出た。その経緯は、こうである。

 伊藤は、1901年12月下旬にイギリス・ロンドンのモーブレイ・ハウスで上述の「黄禍の図」の複製画を見たとされている〔当時、伊藤は、12月上旬にロシアで日露協定交渉を打ち切り、イギリス・ロンドンに移動していた〕(9)

 お雇い外国人でドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツが、この絵を見た伊藤の不快感を、日記に次にように書き記している(10)

 「ドイツ皇帝は、ご自身のお描きになった絵の上でヨーロッパ文明の最も神聖な財宝が蒙古人によって脅かされていると説明されました。この場合だれであろうわれわれ日本人をお指になったことは疑いないところです。なぜなれば、…無気力な清国ではなく、頭をもたげてきた国日本こそ脅威的だったからです。しかもあなた方の皇帝のこの絵の中でわれわれは『放火殺人者』なる立派な役割で表されています」。

 この発言で注目すべきことは、日本の政治指導者の一人である伊藤が、欧米人が脅威と見なしている対象は、弱体化した中国ではなく他ならぬ日本であると断言し、黄禍論の存在を自ら肯定している点である。この伊藤の発言は、彼の身分ゆえに日本の総意ととられかねず、自国の近代文明と国際協調ぶりを世界にアピールし、国際的な承認を得ることを外交方針としていた日本政府にとって憂慮すべき案件となった。つまり、日本政府としては、事もあろうに日本が中国を従え、アジアのリーダーとして、ヨーロッパに脅威を与えるという黄禍論を「妄言」として打ち消しに躍起となっていたまさにその時期に、欧米列国に上げ足を取られる格好の材料を提供すると危ぶまれたのである(11)

***

 対抗相手国や国民を非難し、軽蔑し、貶めるために喧伝された思想(ここでは黄禍論)が、往々にして逆に当の相手に優越感を覚えさせることもある。つまり、そうした思想によって敵視されたはずの国家国民は、当然ながらそれに反駁し、被害者意識をもつ。それと同時に、相手に注目され、脅威と見なされる存在であることで自らの自尊心がくすぐられる。それどころか、場合によっては「被害国家・国民」は強国意識・大国意識を覚醒させ、はては自国のパトリオティズムないしはナショナリズムに一役買う機会を与えられることになるのである。

 こうして被害者意識を植え付けられたはずの脅威論=黄禍論には、逆に対象国・国民(ことに日本の政治指導者、言論人)に大国意識を目覚めさせる側面があることが分かる。したがって日本政府・ジャーナリズムは黄禍論を声高に叫ぶことで、自国民を煽り、自国のナショナリズムを鼓舞するために、それを最大限利用した点も見逃すべきではない。

(注)

(1)平川祐弘『和魂洋才の系譜』河出書房新社、1971年、橋川文三『黄禍物語』、筑摩書房、1976年、ハインツ・ゴルビッツアー(瀬野文教訳)『黄禍論とは何か』草思社、1999年、飯倉章『イエロー・ぺリルの神話―帝国日本と「黄禍」の逆説―』、彩流社、2004年。

(2)拙稿「ハプスブルク帝国の轟く黄禍の叫び」『歴史読本』第56巻1号、新人物往来社、2011年、116‐121頁

(3)この図は、1895年4月、かれが下絵を描き、宮廷画家ヘルマン・クナックフスが仕上げた。同図は、『太陽』第14巻第3号、1908年3月、および橋川、前掲書の口絵にも使われている。

(4)ニコライ2世宛の手紙は、1895年9月26日付。大竹博吉監輯『独帝と露帝の往復書簡』ロシア問題研究所、1929年、19頁、大竹博吉訳纂「第3編 極東に関する露独両帝の往復文書」『外交秘録 満州と日露戦争』1933年、ナウカ社、300頁

(5)青木周蔵『青木周蔵自伝』東洋文庫、平凡社、1970年、286頁。この手紙は、橋川、前掲書、20‐21頁でも紹介されている。

(6)「機密第25号、7月28日付(「英人『ミトフォード』の対日誹謗論文に付報告の件」)」、外務省編纂『日本外交文書』第33巻別冊1、北清事変 上、1956年、428頁、大谷正『近代日本の対外宣伝』研文出版、1994年、324頁。

(7)逆に、政府の列強との協調姿勢は、屈辱的と見なす反西欧主義者の批判を受け、排外的国粋主義やナショナリズムの急速な台頭を促すことになった。ケネス・B・パイル(松本三之介監訳、五十嵐暁郎訳)『欧化と国粋―明治新時代と日本のかたち―』講談社学術文庫、2013年。
(8)日本人が、ヨーロパ人から他のアジア人と同列に扱われるのを屈辱と感じるのも、優越主義の表れである。森鴎外曰く、「白人種は我国人と他の黄色人とを一くるめにして、これに対して一種の嫌悪若しくは猜疑の念をなし居るのでございますから、…」「黄禍論梗概」『鷗外全集』第25巻、359頁、1973年。この個所は、研究上よく引用される一文である。例えば、中村尚美「日本帝国主義と黄禍論」『社會科學討究』(早稻田大学社会科学研究所)第41巻121、1996年、268頁。また平川、前掲書、148頁、飯倉、前掲書、106‐107頁。

(9)伊藤が、ロンドンで絵を見たというエピソードは、飯倉、前掲書、91頁、また同、第4章(注2)、16‐17頁を参照。

(10)トウ・ベルツ(菅沼竜太郎訳)『ベルツの日記』上、岩波文庫、1979年、320頁、中村、前掲論文、265頁。

(11)伊藤の発言以前に物議を醸したのは、近衛篤麿の「同人種同盟 附支那問題研究の必要」である。この論考は、日本が東アジアにおける野心を明確に表明していると受け取られた。「…最後の運命は、黄白人種の競争にして、此競争下には、支那人も、日本人も、共に白人種の仇敵として認めらる丶の位地に立たむ。…」、「支那人民の存亡は、決して他人の休戚に非ずして、又日本人の利害に関するもの」だから、日本人は中国人と協力して「人種保護の策」を講じなければならない。と。『太陽』第4巻第1号、1898年1月1日、1‐3頁。

(「世界史の眼」No.50)

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今日、世界を支配するのはだれか
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 イスラエルによるガザのパレスチナ攻撃は続いている。圧倒的な国際世論にも拘わらず。その背後にはアメリカ合衆国(US)の支持がある。最近、さすがにその支持には留保が付けられてきているようだが、イスラエルの戦闘の意思は固い。

 このようなガザ戦争について、そして何よりもUSのイスラエル支持について、US内部でも批判の声が高まってきている。われわれの良き友人である世界史研究の主導者P.Manning(パトリック・マニング)が、かれのホームページContending Voicesにおいて、USの政策を批判し、国連の力の増大に注目する見解を発表した。Who rules the world today? と題する小論である(Jan. 30, 2024)。彼はその小論を一人でも多くの人に共有してほしいというので、それを翻訳して我々のHPに載せることを歓迎してくれた。以下、マニングの小論の翻訳を掲載する。かれの大局的な見方を参考にしていただきたい。(南塚)

  ***

はじめに

 イスラエルとガザの危機は世界の転換点になりそうである。USの世界支配はグローバルな世論に支えられた国連におけるコンセンサスに取って代わられるかもしれない。つまり、国連総会が国連安保理での5大常任理事国の拒否権というものを素通りして、大量殺戮を断固として終わらせ、戦後の体制づくりの調整をするかもしれない。

 なぜ国連総会が事態をその手中に収めなければならないのか。国連は大国よりも全世界の国々を代表するようになってきたので、USは頻繁に拒否権を行使するようになり、そして、UNの行動を阻止して、みずからの軍事的・政治的行動を拡大しようとしている。ここにはパレスチナ人の権利を制限し、イスラエルを武装化するための拒否権も含まれている。

1. 最近の危機の詳細

《ハマスの攻撃とイスラエルの報復》
 数年間の戦争の後、10月7日に行われたハマスのイスラエル攻撃は、1200人の人を殺した。ハマスは約200人の人質も取った。イスラエルはすぐに反応し、今でも続いている。USはイスラエルの戦争のために武器と政治的支持を与え続けている。4か月近くの爆撃と銃撃によって25,000人以上のパレスチナ人が殺された。とくに女性と子供である。そして、200万人が避難民となった。

《グローバルな世論》
 ガザでの平和を求める最近の世界的なデモは、これまでのそのような呼びかけのどれにも優っている。それは同一の意見ではない。しかしそれは未曽有のものであり、それが続けば、各国政府に影響力を与えるであろう。

《USの政策の偽善性》
 バイデン大統領とブリンケン国務長官は、イスラエルが戦争を縮小していると言う。だが、バイデンは米国議会に諮ることなく、イスラエルに攻撃兵器を送り、イエメン、シリア、イラク、レバノンを爆撃している。偽善性は明らかである。USは平和を支持していると主張するが、戦争を支持し続けているのだ。USの指導者たちは自分たちがイスラエルとパレスチナの戦後体制を決めるのだと期待している。だが、ワシントンはイニシアティヴを失いつつあるように見える。この間、EUのほとんどのアメリカの同盟国は戦闘の中止を求めている。国連総会の12月の緊急総会では、27のEUメンバーのうちの17国が停戦を支持した。その後、EU議会は停戦と人質解放を可決した。

《USの拒否権》
 12月8日の安保理において、停戦決議は全会一致に近い支持を得た。しかし、USが拒否権を発動した。国連における拒否権は、1950年以来少なくとも11回は克服されたが、USの拒否権は一度も克服されることはなかった。国連は新たな手続きを開発しない限り、行動をすることはできないのだ。

《南アのイスラエルに対するジェノサイド告訴》
 2023年12月29日、南アが国際司法裁判所にイスラエルがジェノサイドを犯していると告発した。「国民、民族、人種、ないしは宗教集団を、すべてないしは部分的に抹殺しようという意思をもってなされる罪」を犯しているというのである。南アは、速やかに「暫定措置」を裁定するように求めた。それによって、イスラエルに、ジェノサイドを犯すあらゆる扇動を止め、軍事行動を停止するなどを命ずるようにするためである。1月11-12日に公聴会が開かれた。バイデン大統領その他の幹部は、ぞんざいにもイスラエルに対する南アの主張を「価値のない」ものとして無碍にした。
 国際司法裁判所は、17人の判事をもって、1月26日に判決を出した。裁判所は、1948年のジェノサイド条約にきっちりと基づいて、イスラエルに対して可能な限り強い命令を出した。裁判所は、殺戮と軍事行動などを直ちに止めることを命じた。これは「停戦」命令という言葉こそ使わなかったが、それに等しいものであった。さらに、イスラエルに、人道的支援を行うこと、ジェノサイドの扇動を罰すること、そして一か月以内にその遵守について報告することを求めた。裁判所はまた、人質の解放への関心をも表明した。

2. 危機の起源

《国連管理》
 恐ろしい戦争と二発の原爆の後、1945年につくられた国連とその安保理は、世界の秩序を指導するはずであった。そのとき国連憲章は安保理の5大国に拒否権を与えた。国連が、大国よりもむしろ世界のすべての国を代表するようになると、USとその他の大国は安保理の決議に拒否権を発動することによって国連の活動を制止し始めた。1970年以後の主な拒否権を見ると、イスラエルの軍事行動を擁護するためのUSの拒否権、2022年のロシアのウクライナ戦争を終結させる決議へのロシアの拒否権、シリアでの停戦についてのロシアの拒否権などがある。

《イスラエルとパレスチナ》
 イスラエルは1948年に国家として承認されたが、パレスチナは国家としては認められなかった。いまでは、イスラエルとパレスチナに600万人のパレスチナ人と700万人のイスラエル人が住んでいる。過去70年の間にいくつもの衝突があって(1947-48年、1956年、1967年、1982年、2009年、2023-24年)、その間に約1万3000人のイスラエル人と、約6万人のパレスチナ人が死んでいる。いまのイスラエル政府は征服を狙っている。つまり、パレスチナ人をすべて追出し、パレスチナをイスラエルに併合することを狙っている。

《世界中の世論》
 歴史的に見ると、社会的・人道的危機(例えば、1989年に起きた天安門事件、ベルリンの壁、南アのアパルトヘイト、2003年のUSのイラク侵攻)に対する地球大の大きなデモが社会変化に影響を与えそれを強化したことが分かる。これらの大衆的意思表示は、世界的な脱植民地化(100の新興国が独立)と、多文化主義(世界的な人の移動と文化交流の結果)から生まれたものである。そういう過去と同様、世界的な世論は、イスラエル―ハマス戦争とその最終的軌道にかんする世界的な決定に依然として意味を持ちつづけるであろう。

3. 次は何が起こるか

 現在の虐殺は何らかの形で終わるであろう。しかし、だれが決着をリードするのだろう。

《シナリオ1―国連が主導する》
 1月26日の国際司法裁判所がイスラエルにジェノサイドを回避ないしは終息させるように命じた判決に基づき、国連安保理と国連総会がイスラエルの順守と危機の解決を求める。国連の主導する諸国の連合とともに、パレスチナ人が勝利する。国連は、おそらく1967年以前の国境によるパレスチナ国家と、パレスチナ市民の権利を早急に承認するよう要請するだろう。その場合、国連におけるUSの役割はどうなるだろうか。望ましいのは、USが政策を変えて、解決にいたるための国際的努力に合流し、イスラエルに合意に至るよう後押しすることである。

《シナリオ2-USが覇権に固執する》
 もしUSが大国としての影響力を行使し続ける―国連のコンセンサスを圧倒して―ならば、そのときにはイスラエルが優位に立つだろう。実際、USの高官たちはすでに国連に相談なしに戦後処理を準備しつつある。その際には、パレスチナ人の長続きする国民国家はすぐにはできないであろう。なぜならそういうUS=イスラエル主導の決定にはごく限られた国々しか参加しないだろうからである。おそらく紛争は続くであろう。

《別のシナリオ》
 もし、USがイエメン、シリアその他の国への攻撃を続けたり拡大したりしてイスラエルのガザ攻撃を支援し続けるならば、戦争はさらに中東に広がり、場合に依ってはもっと大きく世界的な紛争にさえなることが考えられる。USはそのような危険を冒しつつあるように見える。そうなれば、世界情勢に破滅的な変化を引き起こすであろう。
 国際司法裁判所の最近の命令はイスラエルに戦争を中止させるかも知れない。しかし、それですぐに終戦にはならないであろう。国連安保理がイスラエルとUSに戦争を中止し裁判所の命令に応ずるよう指令する決議を提案することが予想される。その際、もしUSが拒否権を発動したら、国連総会が同じくらいに強い規制を可決しようとするであろう。
 もし国連とそのメンバーがこの度の危機を解決する事が出来れば、USの国民と政治家たちは国連と、その重要性と、その組織にもっと関心を払うべきであるということを学ぶであろう。パレスチナとイスラエルにおいて、公平な講和は多くの人に歓迎されるであろう。もちろん、平和への道程にはまだ重要なチャレンジが待って居るだろうけれども。しかしながら、世界中の大小の国にとって、国連が強くなることはポジティブな展開である。より強い力は、国連をその本来のヴィジョンにいっそう近づけるであろう。つまり、国際的な平和と安全を守るというヴィジョンである。

(「世界史の眼」No.50)

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「世界史の眼」No.49(2024年4月)

「世界史の眼」も刊行が始まって5年目に入りました。今号では、倉金順子さんに、昨年刊行された『農の世界史』(マーク・B・タウガー著・戸谷浩訳)を書評して頂きました。また、木畑洋一さんに、昨年刊行の『カラー映画に撮られた重慶大爆撃―数奇な運命を辿った記録映画『苦干』の世界―』を紹介して頂いています。

倉金順子
書評:マーク・B・タウガー著・戸谷浩訳『農の世界史』(ミネルヴァ書房、2023年)

木畑洋一
文献紹介:NPO法人 都市無差別爆撃の原型・重慶大爆撃を語り継ぐ会編『カラー映画に撮られた重慶大爆撃―数奇な運命を辿った記録映画『苦干』の世界―』(2023年)

マーク・B・タウガー(戸谷浩訳)『農の世界史』(ミネルヴァ書房、2023年)の出版社による紹介ページは、こちらです。NPO法人 都市無差別爆撃の原型・重慶大爆撃を語り継ぐ会編『カラー映画に撮られた重慶大爆撃―数奇な運命を辿った記録映画『苦干』の世界―』(2023年)に関しては、文献紹介の本文をご覧下さい。

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世界史研究所では、引き続き「「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える」と題して、この問題に関する論考を掲載しております。

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える10(2024年3月21日)

清水学
ガザ攻撃を続けるイスラエル社会が内包する矛盾

久保亨
中国と中東問題、史的概観

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書評:マーク・B・タウガー著・戸谷浩訳『農の世界史』(ミネルヴァ書房、2023年)
倉金順子

 農業は、われわれ人類の生命維持活動に必要不可欠である食料の生産を担い、一国(家)レベルにとどまらず、世界規模での食料の安定的確保に重大な役割を果たしている。われわれの生存は農業によって支えられていると言っても。決して過言ではない。「ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー」より刊行された、ロシア・ソ連史と農業史を専門とするマーク・B・タウガーによる『農の世界史』は、世界各地の農業の歴史、そして農業に従事する農民の歴史を概説し、現代における喫急の諸問題への展望を提供する。

 原書はRoutledge社の「主題で見る世界史」シリーズの一冊であり、序「世界史における農業と農民の位置」で著者は、同シリーズの他の各書が文明を構成するものの根幹であり、文明が生み出した重要な産出物を主題としている中、本書の主題である農業は文明に先行し、その前提となるものであったことを主張する。自然環境と都市文明との接点として奉仕してきた農民たちは、両者との関係において従属的な存在であり続けた。本書はこの「二重の従属」を分析枠組みとし、農民と自然環境と農民に依存してきた文明の間の関係の変化を考察する。続く各章では、農業の起源から21世紀に至るまでを時系列で追い、長いスパンの歴史的展望を提供することが試みられている(pp.1-3)。以下、各章の内容について簡単に紹介していきたい。

 第1章「農業の起源と二重の従属」では、世界各地の農業の起源の解釈から始まる。後半では著者は『銃・病原菌・鉄』や『昨日までの世界』等の邦題著作で知られるジャレド・ダイヤモンドが展開する農業が「人類史上最悪の誤り」とする「悲観的な解釈」に異論を唱えたうえで、「二重の従属」を本書の分析枠組みとした意義を説く。(pp.18-21)。ひとつに農民は自然環境に従属しており、天候や環境の変化、動植物の活動といった農業生産の脅威に対抗してきた。もうひとつに農民は都市文明、ないし都市および都市民による支配下に服しており、一方で農業生産の向上や圧制軽減のために権力側から支援を受けることもあった(pp.21-22)。

 第2章「古代の農業―土地と自由にまつわる最初の大いなる闘争」では、ギリシャ、ローマ、中国のそれぞれの古代農業社会における異なるタイプの「二重の従属」が明らかにされる。この時期は環境的な要因や当局の対応は異なっていたものの、農民が村域外の強力な権力に地方が従属するという状況に直面していたという点、権力側が改革政策をもって農民問題の解決を試みていた点においては共通していた。

 第3章「古典古代以降の農業」では、西暦500年から1450年ごろまでの約1000年における「二重の従属」の複雑な変容を辿る。農民と大土地所有者との対立関係は引き継がれ、両社間で「自律と生存をかけた闘争」が絶え間なく行われた(p.88)。三つの時期に迎えた温暖化により特に北半球で農業が発展する中、ヨーロッパの中世村落では荘園制が確立した。しかしながら、14世紀前半に小氷期の始まりにより大飢饉、さらに疫病の流行に見舞われた。中国でも恒常的な自然災害による飢饉が繰り返された。こうした危機への対応もあり、ヨーロッパにはイスラーム教徒によりアジアの作物がもたらされ、中国では農業の技術革新が推進された。

 第4章「近世の農業とヨーロッパ式農業の優位―1500~1800年」は、農民たちが「二重の従属を最も極端な形で経験」(p.133)した近世期を対象とする。長期の小氷期が続くという同時期の環境的要因は、慢性的な不作や飢饉を引き起こした。農民たちは「隷属的システム」の下に置かれていたという点では世界各地で共通していたが、中国や日本では農奴解放の動きも見られた。一方でヨーロッパでは、東部の「再版農奴制」に代表されるように「隷属的システム」が維持され続けた。さらに、アメリカ大陸へと拡大し、奴隷労働に依存したプランテーション複合体が形成された16世紀の状況もここに含まれる。

 第5章「19世紀の農業―解放、近代化、植民地主義」では、ヨーロッパ資本主義経済の形成、ヨーロッパおよびアメリカによる経済・政治的な支配の台頭に伴う、農奴解放や奴隷解放、オランダやイングランドにおける農業制度の発展といった近代的な変化が焦点とされる。環境的要因としては、小氷期から地球規模の温暖化が進行し、エルニーニョ現象や台風といった自然災害が農業においても深刻な危機をもたらし、「二重の従属」は依然として続いた。本章では植民地での農業制度についても検討される。また、この時期には品種改良など農業科学の発展により、世界市場を舞台とした「アグリビジネス」が台頭し始めた。

 第6章「農業と危機――1900~40年」は、農業が「一連の経済危機と政治危機の主要な課題」であった時期を扱う(p.181)。19世紀に始まった地球温暖化が20世紀に入っても農業危機の発端となる中、世界は第一次世界大戦、大恐慌、飢饉など危機的状況を経験した。これらに対しての各国政府による大胆な取り組みは、農業および農民のあり方に変革をもたらすことにもつながった。本章ではファシスト国家や植民地における農業、東欧やソ連の農業革命も取り上げ、各国政府が主導する技術支援や財政支援が、結果的に農民にとっての「先例のない従属」を生み出したことを指摘する(pp.233-234)。

 そして、著者が本書の中でとりわけ紙面を割いているのが、第7章「農のブームと危機―第二次世界大戦から21世紀」である。ここでは、第二次世界大戦以後アメリカが牽引した世界の食糧制度の変容、共産主義的農業制度、緑の革命と呼ばれる農業技術革命、農業危機および農業債務危機、農業のグローバル化に加え、序でも提示された地球温暖化、石油生産の減少、そして農業人口の減少などの諸問題が論じられている。著者は章の末尾にて、農業にまつわる地球規模での諸改革が「二重の従属」の緩和につながったものの、いまだ国家政策の犠牲者でありつづけるアフリカの実情、農民および都市社会をも脅かす環境問題の二点を挙げ、グローバル化した現代の農業の機会とリスクを提言する(pp.307-308)。

 第8章「結論」では、特に第7章で取り上げられた論点をもとに、21世紀を迎えた現代社会において、農業がその重要性を高める一方で「地球規模の限界に達しつつ」あり、「相当な緊張状態の下で維持されている」ことが強調されている(pp.311-313)。「二重の従属」は形態を変えながらも継続しており、文明と農業との相互依存関係の問題などが課題となっているのである。そして、最後に著者はジャレド・ダイヤモンドの「農業を文明が生み出した害悪である」とする主張への批判をもって締めくくる(pp.314-315)。

 以上概観してきたように、著者は各時代の主要な出来事との関連も取り上げながら、現代にも維持される農民の「二重の従属」の変遷を明らかにする。訳者もあとがきで触れているが、農民は文明と自然に従属する一方で、そのいずれからも恩恵を受けてきたのだった(p.321)。また、逆に文明も農業に依存しているという側面も、著者により浮き彫りにされている。全体的な読後感としては、冒頭と結論でジャレド・ダイヤモンドの「悲観的解釈」に異論を唱え、「穏やかな楽観主義を与える」(p.3)という立場を取りながらも、世界規模での深刻な農業危機や諸問題に警鐘を鳴らす著者の真意が印象に残る。もう一点、「世界史」としながらも、各章は各国史および地域史で構成されるという形式が取られているため、ひとつのシステムとしての世界を俯瞰した歴史が見えづらくなっているという点も指摘しておきたい。

 原書が発表された2011年から10年以上が経過し、昨今は気候変動、蝗害、新型コロナウイルスの流行、ロシアによるウクライナ侵攻をはじめとする不安定な情勢が世界の食料事情をも脅かす。農業が抱える諸問題への対策として、例えばICT(情報通信技術)を活用したスマート農業など次世代型の取り組みも注目されつつあるが、普及にはいまだ課題も多い。これからの「農」の歴史に、楽観的な未来は果たして訪れるのだろうか。

 なお、著者によると原書が属する「主題で見る世界史」シリーズは、世界史を概観する授業を履修する世界各国の大学生を第一の読者と想定していることもあり(p.3)、(訳者の技量が大いに貢献していると思われるが)比較的平明な文章で書き綴られている。各章の末尾には主要参考文献が紹介されており、読者のさらなる理解を手助けしてくれる。もちろん、「農」「食」といったわれわれの日々の生活に直結したテーマに少しでも関心のある読者にとっても、農業が抱える諸問題を再考するにあたっての有益な一冊となることであろう。

(「世界史の眼」No.49)

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