はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、本号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、次号)
はじめに
日露戦争(1904-1905年)後、ロシアの租借地だった遼東半島が日本の租借地となると、日本は大連を租借地統治の拠点とした。それに伴い、ロシアから譲渡された東清鉄道の長春―旅順間の南満洲支線が南満洲鉄道として整備された際に、長春―大連間が幹線となった。こうして、大連が都市として発展していくにつれて、大勢の中国人移住労働者が大連港や大連の油房(大豆油製造所)で働くようになった。彼らの多くは山東半島の出身で、家族を中国に残して、単身で大連にやってきた。当時、日本人は中国人労働者を一般に「クーリー」(苦力)と呼んでいた。本稿では、夏目漱石・中島敦・清岡卓行の記述を通して、大連港や大連の油房と「クーリー」の歴史を追ってみたいと思う。
1. 夏目漱石「満韓ところどころ」
1909年9月、夏目漱石は満洲と韓国への旅に出た。もともとは漱石の高等学校時代以来の友人で、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の第二代総裁となった中村是公と一緒に行くはずだったのだが、漱石の胃痛が悪化し出発を遅らせたので、中村是公は先に行ってしまった。そのため漱石は一人旅となり、神戸で鉄嶺丸に乗船し、9月6日早朝、大連に着いた。その後、満洲各地を訪ねた後、9月28日に「小蒸汽で鴨緑江を渡」り韓国に入った。10月13日には、ソウルの南大門駅から汽車で釜山に行き、船で帰国した。帰宅したのは10月16日であった。この旅の旅行記が「満韓ところどころ」で、もともとは朝日新聞に連載されたものであるが、奉天から撫順に行った所(9月21日)で中絶してしまっている(本稿では、藤井淑禎編『漱石紀行文集』岩波文庫、所収のものを利用した。なお、この旅行中の日記は平岡敏夫編『漱石日記』岩波文庫、に収録されていて、韓国旅行の部分まで含まれている)。
漱石は大連では満鉄直営のヤマトホテルに泊まった。ただし、この時の大連ヤマトホテルは大連埠頭の西側の旧露西亜町にあった。しかも、ヤマトホテルに隣接してヤマトホテル別館(ロシア時代の市庁舎を転用)もあった。漱石が泊まったのはこの別館の方であった(清岡卓行『大連小景集』講談社、1983年、160頁)。ちなみに、大広場に面した大連ヤマトホテルの本格的な新館が完成して、開業したのは1914年のことである。
9月7日、漱石は中村是公と一緒に馬車でホテルを出発し、大連市内各地を見て回った。最初に行ったのは満鉄中央試験所であった。中央試験所は満鉄開業一年後の1907年に開設された研究所で、初期の段階では大豆から豆油を抽出し、残った豆粕を肥料や家畜の飼料に利用する方法を研究することが主な課題とされていた。中村是公はその成果を漱石に見せたかったのであろう。漱石は中央試験所で豆油担当の技師と会った時の様子を「満韓ところどころ」で次のように書いている。
これが豆油の精製しない方で、此方が精製した方です。色が違う許りじゃない。香も少し変わっています。嗅いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いでみた。
用いる途ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、斯う云うのが出来たら便利でしょう。是でオリーブ油の何分の一にしか当たらないんだから。そうして効用は両方とも略同じです。その点から見ても甚だ重宝です。それにこの油の特色は他の植物性のものの様に不消化でないです。動物性と同じ位に消化れますと云われたので急に豆油が難有くなった。矢張り天麩羅抔に出来ますかと聞くと、無論出来ますと答えたので、近き将来に於て一つ豆油の天麩羅を食って見様と思ってその部屋を出た。(『漱石紀行文集』29頁)
今では、大豆油はいわゆるサラダ油の原料などとして広く使用されているが、この時代には日本でも欧米でもまだ一般的なものではなかったのであろう。
中央試験所を出た漱石と中村是公は「電気公園」(電気遊園)、西公園などを経て、大広場から東に少し離れた満鉄本社に行った。そこで漱石は満鉄のいろいろな事業について詳しい説明を受けた。
9月9日、漱石は知人に連れられて、ある油房(大豆油製造所)を訪ねた。「満韓ところどころ」には、その油房における豆油の製造過程がかなり詳しく書かれている(『漱石紀行文集』50-53頁。ただし、この油房の名前や立地については何も書かれていない)。漱石の記述には分かり難い箇所がかなりあるが、ここでは漱石の記述をそのまま摘記する。
「〔油房の〕三階へ上って見ると豆許りである」。「此方の端から向うの端迄眺めてみると、随分と長い豆の山脈が出来上っていた。その真中を通して三ケ所程に井桁に似た恰好の穴が掘てある。豆はその中から絶えず下に落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。時々どさっと音がして、三階の一隅に新しい砂山が出来る。是はクーリー〔中国人労働者〕が下から豆の袋を脊負って来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに打ち撒けて行くのである」。「彼等の脊中に担いでいる豆の袋は、米俵の様に軽いものではないそうである。夫を遥の下から、のそのそ脊負って来ては三階の上へ空けていく」。「通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階迄を、普請の足場の様に拵えてある。彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つを又下りて行く」。「三階から落ちた豆が下に回るや否や、大きな麻風呂敷が受取って、忽ち釜の中に運び込む。釜の中で豆を蒸すのは実に早いものである。入れるかと思うと、すぐ出している。出すときには、風呂敷の四隅を攫んで、濛々と湯気の立つやつを床の上に放り出す」。「彼等〔クーリー〕は胴から上の筋肉を逞しく露わして、大きな足に牛の生皮を縫合せた堅い靴を穿いている。蒸した豆を藺で囲んで、丸い枠を上から穿めて、二尺許の高さになった時、クーリーは忽ちこの靴の儘枠の中に這入って、ぐんぐん豆を踏み固める。そうして、夫を螺旋の締棒の下に押込んで、把をぐるぐると廻し始める。油は同時に搾られて床下の溝にどろどろに流れ込む。豆は全の糟丈になって仕舞う。凡てが約二、三分の仕事である」。「この油が喞筒の力で一丈四方もあろうという大きな鉄の桶に吸上げられて、静かに深そうに淀んでいる所を、二階に上がって三つも四つも覗き込んだときには、〔落ちそうで〕恐ろしくなった」。「クーリーは実に美事に働きますね。且非常に静粛だ、と出掛に感心すると、案内は、とても日本人には真似も出来ません、あれで一日五、六銭で食っているんですからね。どうしてああ強いのだか全く分りませんと、左も呆れた様に云って聞かせた」。(『漱石紀行文集』50-53頁)
漱石が視察したこの油房は日本人経営の油房のようであるが、ほとんどの工程を「クーリー」の労働力に頼る旧式の油房であった。この時代にはまだこういう油房が多かったのであろう。
2. 大連の油房
1866年に、満洲における初めての油房が設立され、大豆油と豆粕の製造が始まった。その場所は営口であった。営口は満洲随一の大河遼河の河口近くに位置する港町で、遼河の水運によって満洲各地から大豆が営口に集まってきたからである。その後、営口の油房数は増大を続け、1910年頃の最盛期には35か所に上った。しかし、南満洲鉄道(満鉄)が開業し、大豆が鉄道で輸送されるようになると、満鉄路線から離れている営口の油房数は急速に減少していった(満鉄地方部勧業課『満洲大豆』満蒙文化協会、1920年、26-27頁)。
営口に代わって満洲の豆油・豆粕製造業の中心となったのは大連であった。大連で最初の油房が設立されたのは1906年であるが、その後油房数は急激に増大し、1919年には60か所となった。その内訳は中国人経営の油房53、日本人経営の油房4、日中合弁の油房3であった(前掲『満洲大豆』、29頁)。
大連にはこれらの在来形の油房とは全く異なる豆油製造工場があった。前述のように、満鉄中央試験所では大豆から豆油を抽出する方法を研究していた。ドイツでベンジン抽出法という化学変化を利用した全く新しい豆油抽出法が開発されると、いちはやくその特許権を入手し、1914年、「満鉄豆油製造所」を設立して、試験的な操業を始めた。しかし、満鉄が豆油製造所を経営することに対しては反対が強く、翌1915年、「満鉄豆油製造所」は鈴木商店に譲渡された。鈴木商店は「満鉄豆油製造所」の工場と特許権を継承し、鈴木油房と名付けた。したがって、鈴木油房は大連埠頭の東側の満鉄埠頭地区内にあった。
鈴木油房の豆油と豆粕製造能力は在来型の油房に比べるときわめてすぐれたものであった。大豆はあまり油の含有量が多くない原料で、在来型の油房では原料に対する採油量は9~10パーセントであったが、ベンジン抽出法の場合は14~15パーセントとなった。肥料あるいは飼料として利用される豆粕は残留油分や水分が少ない方がよいのだが、在来型の油房の場合、残留油分が7~9.5パーセント、含有水分が13~19パーセントなのに対して、ベンジン抽出法の場合は、それぞれ2.5~3パーセント、4~13パーセントであった(前掲『満洲大豆』、32頁)。在来型の油房と鈴木油房では、これほどの生産性の差があったのである。
しかし、鈴木商店は第一次世界大戦終了後の不況の中で債務超過に陥り、その豆油製造部門は1922年に設立された豊年製油株式会社に移され、鈴木油房は豊年製油大連工場として操業を続けることになった。
(次号に続く)
(「世界史の眼」No.52)