論考掲載のお知らせ

世界史研究所所長の南塚信吾さんによる、論考「ウクライナ侵攻と新自由主義」が、『歴史学研究』2022年6月号に連続時評として掲載されています。どうぞご一読下さい。

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ウクライナ侵攻に関する論考掲載のお知らせ

本研究所研究員の木畑洋一さんの論考「歴史の針を巻き戻すプーチンの戦争」が、『法と民主主義』2022年5月号に掲載されました。こちらよりお読み頂けます。

日本民主法律家協会の発行する『法と民主主義』2022年5月号では、「ロシアのウクライナ侵略に反対する-9条徹底の立場から」という特集で、上記木畑論考のほか、松井芳郎(国際法)、君島東彦(平和学)、和田春樹(歴史学)、清水雅彦(憲法学)諸氏などの論考も掲載されています。

また、本研究所所長の南塚信吾さんの「大国のはざま 東欧「小国」の苦難」という記事が、4月24日(日)の朝日新聞文化面に掲載されています。なお、4月26日(火)には朝日新聞電子版(会員限定記事)にも、内容を拡充した記事が掲載されました。

いずれも、現在のウクライナ侵攻を、より長期的な世界史の文脈から分析する論考です。ぜひお読み下さい。

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「世界史の眼」No.26(2022年5月)

本号では、前号に続き、稲野強さんによる「1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(下)」を掲載しています。(前号掲載の「(上)」はこちら)。また、法政大学の佐々木一惠さんに、益田肇『人びとのなかの冷戦世界―想像が現実となるとき』(岩波書店、2021年)の書評をお寄せ頂きました。

稲野強
1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(下)

佐々木一惠
書評 益田肇『人びとのなかの冷戦世界―想像が現実となるとき』岩波書店、2021年。

益田肇『人びとのなかの冷戦世界―想像が現実となるとき』(岩波書店、2021年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

また、すでにお知らせの通り、「世界史の眼」No.23とNo.24に掲載された、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」」に対して、小谷汪之さんに補遺をお寄せ頂きました。本論とあわせてお読み下さい。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」・補遺

戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)はこちら、戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)はこちらです。

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書評 益田肇『人びとのなかの冷戦世界―想像が現実となるとき』岩波書店、2021年。
佐々木一惠

 冷戦とは何だったのか?本書のこの問いは、今、新たな意味合いを持って問い直されている。2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。不安、戸惑い、怒り、さまざまな感情が人びとの間で沸き起こっている。本書は、こうした市井の人びとの感情が、冷戦という大きな歴史的な「現実」の構築に重要な役割を果たしていたことを明るみにする。

 本書の焦点は朝鮮戦争期である。1950年6月25日、北朝鮮が北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。朝鮮戦争勃発のニュースは瞬く間に世界各地を駆け巡り、人びとの間に第三次世界大戦への不安と恐怖を巻き起こした。しかし著者の益田氏によると、第三次世界大戦の危機に対する反応は一様ではなかったという。例えば北朝鮮の軍隊が南進してきていたソウルでは、多くの住民はソウルに留まる選択をした。その背景には「同族だから何もしないだろう」という思いがあったという(67頁)。同じ頃、ニューヨークなどアメリカの大都市では、主婦たちが新たな世界大戦の勃発とそれに伴う物資の欠乏を心配し、生活必需品の買い出しに走っていた(70頁)。また中国では「国民党が広東と大連に上陸したらしい」などのデマが飛び交い(72頁)、日本では再軍備論が突如頭をもたげていた(77頁)。

 このように朝鮮戦争勃発が各地で創り出した「リアリティ」には地域差があった。本書はこの地域差に着目する。益田氏によれば、第三次世界大戦に関する言説が爆発的に広がったのは主に東アジア、ヨーロッパ、そして米国などの地域であったという(79頁)。これらの地域に共通していたのは、第二次世界大戦という強烈な体験、その記憶に基づく恐怖、また戦争経験が作り出した国民的記憶の存在であった。この第二次世界大戦の経験や記憶が、朝鮮戦争を第三次世界大戦の前哨戦と捉える見方を作り出し、さらにそれが個々の地域の文脈の中で冷戦という「現実」に真実味を与えていったと益田氏はいう。そこから本書は、膨大な史料の裏付けのもと、中国、米国、日本、イギリス、台湾、フィリピンを事例に、冷戦という「現実」が実際にはローカルな立場から見た世界情勢の理解であったこと、言い換えるならば、「地域特有のレンズ」(90頁)を通じた世界情勢の「翻訳」であったことを丹念に示していく。

 益田氏によれば、冷戦という「現実」を現実たらしめた装置の一つが「印象をめぐるポリティクス」であったという(第4章)。この「印象をめぐるポリティクス」においては、「安全保障」や「国防」といった概念の中に、人びとが「脅威」に対して抱く印象を管理することも含まれていた(156頁)。例をあげるならば、朝鮮戦争に参戦した中国には、38度線で停止し戦争を早期に終結させる選択肢があった。しかし中国は38度線南進という強行路線を選択した。その背景には、中国国内における革命的情熱の衰退への懸念(157頁)、そして国内外の人びとの心に中国が与える象徴的な意味合い、すなわち共産中国の大勝利と「美帝」(アメリカ帝国主義)の敗退(159頁)、という印象形成の目論みがあったという。

 さらに益田氏はこの「印象をめぐるポリティクス」が、普通の人びとにどう受け止められ、また冷戦の各種のプロパガンダや動員計画に普通の人びとがどう関わったのかを検証していく(第5-6章)。例えば、ソ連が提唱する真実(プロパガンダ)に対する巻き返しとして展開された米国の「真実キャンペーン」の活動には、多くのアメリカ人が参加した。その効果は、カリフォルニア州のある精神科医が、突如として「アメリカが警察国家になってしまった」と嘆くほどであった(191頁)。また中国では、日本の再軍備という新たな現実を受け、「抗美(米)援朝」運動が抗日戦争の記憶と結びつく形で展開されていった。この運動に参加したある中学生は、祖国に対する見方が変わり、「祖国がなければ何もない」という思いに駆られるようになったという(211頁)。このように米国においても中国においても、普通の人々は各種のプロパガンダや動員計画への参加を強要されたのではなく、むしろ国家の利益を守るという名目で自らを動員していた。そこには、社会に存在する隠れた願望、すなわち、一体感への切望や協調心の高揚というべきものが存在していたと益田氏は指摘する(212頁)。さらに益田氏は、これらの動員プログラムの主要な作用は、人びとの間に合意を形成することではなく、社会のどこに「敵」がいるのか、誰が「敵」なのかを明らかにすることにあったとする(191頁)。

 そこから益田氏は、個別具体的なローカルな局面において、誰が「敵」として粛清されていったのかを丹念に炙り出していく(7-10章)。米国のマッカーシズムでは、労働組合員、公共住宅計画や国民健康保険制度の推進者、アフリカ系アメリカ人の公民権運動家、フェミニスト、移民、ゲイやレズビアンらが、「非アメリカ的」分子として糾弾されていった(244頁)。イギリスや日本では労働組合員が粛清の主な標的になった。また中国の「鎮圧反革命」運動では、山賊、泥棒、地元のごろつきたちまでもが「反革命分子」として摘発されていった(287頁)。さらに台湾では「反共抗俄(共産主義に反対し、ロシアに抵抗する)」運動の旗印のもと、国民党政府への異論や不満が抑圧され(303頁)、フィリピンでは土地改革と社会正義の実現を掲げたフクバラハップ団が「非フィリピン」活動を行なったとして粛清された(311頁)。ここから見えてくるのは、朝鮮戦争期に各地で巻き起こった国内粛清は、必ずしも特定のイデオロギー(共産主義・資本主義)や政治体制(民主体制・独裁体制)に特徴づけられたものではなかったということである(315頁)。

 ではなぜ国内粛清現象が世界中でほぼ同時に発生したのか。また、この世界同時多発的な現象は何を意味していたのか。益田氏はそれを次のように説明する。まず同時多発的な国内粛清現象については、先に述べたように、朝鮮戦争の勃発により人々の間に呼び起こされた第二次世界大戦の記憶が、各地で第三次世界大戦の恐怖を引き起こしたことによって生じたという。そしてこの第三次世界大戦の危機は戦時ムードを作り出し、国内粛清を安全保障と治安維持の名のもとで正当化していった。さらに益田氏は、国内粛清が普通の人びとから支持を得た背景に、「政治」の本質の変化があったとする。それは、総力戦経験を経た社会においては、もはや国民の願望や心情を考慮することなしに政治を執り行うことがほぼ不可能な状況になっていたということである(162頁)。こうして国内粛清は社会的承認と支持によって遂行されていった。

 それではなぜ冷戦言説を盾とする「敵」の国内粛清が、各地で社会的承認や支持を得ることができたのだろうか。益田氏によると、そこには混沌とした戦後状況を「安定化」させたい、あるいは「秩序」だった(もっと慣れ親しんだ)「普通」の生活様式に戻りたい、という大衆的な「草の根保守的」な夢や希望が存在していたという(256頁)。この「草の根保守的」な願望こそが、戦後新たに台頭してきた新興勢力(土地改革者、労働組合員、仕事を持つ女性、アフリカ系アメリカ人など)を社会的に抑圧し沈黙させる運動の原動力になっていたという。ここから益田氏は、グローバル冷戦という「現実」は各国の首都中枢部に構える権力者だけでなく、社会における秩序維持と調和形成に意識的また無意識的に関与していた世界各地の無数の普通の人びとも、その参加者の列に含まれていたと結論づける(317頁)。  

 これまで見てきたように、本書は社会史、外交史、政治史を融合させながら、さらにローカル・ヒストリーとグローバル・ヒストリーの双方の見地から、既存の冷戦の歴史像に揺さぶりをかける優れた歴史研究書である。周到かつアクロバティックな著者の論の運びは読む者を圧倒する。本書の評価については、著者自身が巻末の解題において詳細に論じているが、この解題で指摘されていない点に最後に触れておきたい。本書は大衆感情や社会的通念、噂、またそれにまつわる不安や恐怖を、冷戦によって生み出された派生物ではなく、冷戦の「現実」を生み出した要因として捉えている(5頁)。そこから、市井の人びとを、冷戦論理の実践における受身的な存在というよりは、むしろその主体と見立て、彼・彼女らの「囁き、噂、心情」(12頁)を丹念に拾い上げ検証している。こうした点で本書は、昨今歴史学において注目されている感情の歴史学や、個人の主観性に着目するエゴ・ドキュメント(手紙・日記・回想録など一人称で書かれた史料)の歴史学にも大きな貢献をしている。よってこれは多分に無い物ねだりの指摘となるが、もし本書が感情史のパースペクティブ(「感情体制」や「感情の共同体」など)を意識的に取り込み論考を進めていたなら、グラムシのヘゲモニー概念(暴力的な強制ではなく服従する側の同意を取りつけることによる支配)を鋳直し、民衆の主体性の重層性・複層性・両義性をより深く照射したかもしれない。そこでは恐らく、ジュディス・バトラー(フェミニズム理論・セクシュアリティ研究)が言うところの具体化=身体化された複数的な行為遂行性(パフォーマティヴィティ)などの視点が重要な意味を持つことになるだろう。  

 いずれにしても、本書は冷戦に関するこれまでの見識を塗り替える画期的な研究であることは間違いない。そして、現在、ウクライナで進行している事態に際し、冷戦という「現実」が改めて問い直されるなか、本書の最後に書かれていた「私たち自身も(中略)日常レベルにおける、いわば権力者なのだから」(327頁)という言葉は、私たち一人一人に対する重い問いかけとなっている。

(「世界史の眼」No.26)

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1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(下)
稲野強

(6)日本の出品物の評価

 ウィーン万博で評価された日本の出品物のうち、今に至るまで日本で大きな話題となっているひとつは、本稿で扱う官営富岡製糸場で製造された生糸であった。

 万博で展示された製品のうち、生糸の評判について『墺国博覧会見聞録』は、「生糸は諸国の出品にこれあり、ことに伊太利のもの最もよしといふ、当時の相場は、ほぼ百目に付、七円ばかりなり、我国の生糸も其性質は良からぬにもあらねども、製法よろしからぬ故に其売価は大に下れり、伊太利はいづれも蚕を飼ひ、糸を作る学校をたて、その理合より教ゆる故に年月を経るにしたがひ、次第に精巧になりゆくなり、…」と述べ、日本製生糸にかなり厳しい評価を下し、生糸先進国イタリアの製糸業から多くを学ぶべきことを提案している。

 それでは件の富岡製糸場産の生糸についてはどうだろうか。

 そもそも富岡製糸場は、明治政府の肝いりで創設された機械制工場(器械製糸場)であり、ヨーロッパの機械を導入し、指導者に外国人を招いて出発した。その目的は、産業の近代化を前提として、①各地から募集した工女による新技術の習得②外貨獲得を目指し、良質の生糸を大量生産すること③工女を修業後に地元に戻し、指導者として新技術を伝播させること、④さらに各地に富岡製糸場を模した器械製糸場の設立を促すことであった。このように富岡製糸場は、「伝習」を重視したから「模範工場」「伝習工場」「指南工場」と呼ばれた。

 富岡製糸場の生糸は、官営工場で作られた器械製品の代表として、これまで日本製に対して欧米で貼られた粗製乱造等のレッテルを払拭するためにも、万博で評価がとりわけ重要視されたのである。創業間もない当時まだ日本では珍しい官営工場の製品が万博に出品されるということで、製糸場の力の入れようは想像に難くない。すでに熟練の域に達している工女22人から18人が選ばれて、製造の任にあたった。工場の操業開始が明治5年10月4日で、万博に合わせて日本を出るのが翌1873(明治6)年1月30日であるから、機会をフルに稼働させてもその間わずか3か月余りしかなかったことになる。このような短期間で、どれほど高水準の生糸が当時生産されたのか疑問の余地もあるが、いずれにせよ器械力というよりも、工女の熟練度がものを言ったのは確かであろう。

 さて、ウィーン万博開始後1か月半経った6月16日に万博事務局は、出品物の審査を行い、優秀な作品には「賞」を出した。賞の出し方はパリ万博に倣っていたが、一体どのような手続きで審査が行われたのだろうか。

 その経緯を詳細に語っている日本側の資料は、『墺国博覧会報告書』である。

 それによると、審査を受ける意志のある場合、企業・個人を問わず4月30日までに26項目にわたる詳細なアンケートに回答することが求められた。出品物の審査官は、各国の出品者数に応じて選出された。例えば、オーストリア・ハンガリー二重帝国のうち、オーストリアでは出品者が、7058人、ハンガリーでは3384人で、合計1万442人であったから、審査員は12人というわけだった。出品者の総数は、4万8906人、審査官は300(一説には956)人、出品数は訳7万点だったという。日本の場合は、出品者が個人ではなく、政府だったから、この原則は当てはまらず、審査官は4人と決定された。各グループには審査長1人、副審査長2人が選出された。

 審査官は6月16日に第1回目の会合を開き、8月半ばまで2か月間にわたり出品物を審査し、8月18日にウィーン旧市街の王宮脇にあるスペイン乗馬学校でフランツ・ヨーゼフ1世臨席の下で授賞式が行われた。そこで今、賞の種類、性格などについて『墺国博覧会筆記』の記録に従って見てみよう。

(a)褒賞について

 褒賞は7種類あった。まず「第一等」は「名誉賞(Ehrendiplom)」で、「第二等」は、「進歩(Fortschritt)」「功労(Verdienst)」「雅致(Guter Geschmack)」「妙技(Kunst)」「補助(Mitarbeiter)」賞の5種類で、「第二等」には表にそれぞれの文字(独語)とギリシア・ローマの女神をあしらった図柄を刻み、裏にフランツ・ヨーゼフ1世の肖像を刻んだ銅製メダルが与えられた。「第二等」に該当するのは次のような出品物である。すなわち第1から第24グループおよび第26グループまでのうち、①過去に行われた万博以後の製作面で一層の改良が加えられたもの、または製造方法を改革した、あるいは今まで使われていなかった原料を用いたものなどには「進歩」賞(「進歩牌」)が、②作品が勝れている、優れた材料を使用している、製造物が広く流布している、優れた機械を使用している、値段が非常に安いものなどには「功労」賞が、③形・色が優れ、洗練されたものには「雅致」賞が、④第26グループの優秀作には「妙技」賞が与えられた。さらにまた⑤図画・模型の製作に従事したり、出品者を助けた者には「補助」賞がそれぞれ与えられることになった。

 ところで富岡製糸場の生糸に与えられたのが「第二等」の進歩賞であると、当時から今日まで言われてきた。日本におけるウィーン万博の根本史料の『参同紀要』も『報告書』も『筆記』もすべて、「第一等」「第二等」「第三等」と等級を区別している。だが、実は万博では、そうした等級の区別はしていない(独語の『公式報告書』参照)。等級区分は賞に関して翻訳をした当時の日本人が、賞の性格を多分理解しやすくするために付け加えたためである。  

 さて、ここで検証すべきは、「第二等」の進歩賞がどのように決定されたかである。それを判断するには審査官の講評こそ重要と思われるので、富岡製糸場の生糸を含む「第5グループ、繊維・衣料」における日本製品に関する彼らの見解を見てみよう。

(b)講評について

(あ)「博覧会第五区第四類審査官長『ハイメンダーヘ』」氏による

 彼は、個々の出品物に関する講評に先立ち、日本の生糸とヨーロッパ市場との関係について述べる。すなわち、

 日本の生糸は、不況のヨーロッパ市場で評価も高まったこともあったが、生糸の売れ行きに溺れ、製造法や品質改良を怠った上に、蚕種紙の輸出増大に目を奪われて、生糸の粗製乱造を行い、評価を下げた。その間ヨーロッパの生糸の生産力が回復したために日本の生糸の購買力は低下し輸出も急激に落ち込んだ、と、日本の生糸業のありかたに厳しい見解を示し、日本各地の製糸業について講評する。その中には「前橋、奥州、掛田、飯田、甲州、増田、越前」産生糸などがあり、いずれも詳細に吟味され、ことごとく辛い評価を受ける。

 問題を克服する方法として、彼は、

「・・・製方精しく且最も適する糸は其価も亦貴き理なれば今日本にて第一行ふべき大変革は欧州の製糸方を採用するにあり然るときは日本にて其効験の明著するや亜細亜の他国に過る必せり」と、ヨーロッパ式技術の導入による製法の改革の必要性を説いている。そしてそうした技術導入による近代化の成功例として富岡製糸場を挙げるのである。

「其証は富岡製糸所にてブリユナ氏の始めて日本生糸を以て為したる試験を見て知るべし之を見るに既に日本の糸は『セパンス』『西班牙』或は『ブルース』の最上品と位価を争ふのみならず此国にて用ふる製方を採用せば却て之に優るべしと思はる。・・・」

 ここでやや明らかになってきたのは、西欧の器械技術を導入した富岡製糸場に対する強い期待が「ハイメンダーヘ」の側にもあって、それが逆に「前橋」などに対する厳しい評価となって表れたと推測できる点である。

 図式化を恐れずに言えば、前橋製糸所は、速水堅曹が指導して生産力を挙げたが、設立当初は「民間」(元来前橋藩立、1873年1月より「小野組」の委託経営)の日本初の器械製糸場で、「イタリア式」と呼ばれる製法を用いていた。対照的に富岡製糸場は日本で初めての「官立」の大規模な器械製糸所で、フランス人ポール・ブリューナの指導による「フランス式」と呼ばれる製法を用いていた。そこで講評における優劣の評価の違いに、いわゆる企業間対立があったと考えることもできる。

 その背景には当時の日本政府が「官」による「上からの改革」路線を強力に推し進め、殖産興業政策を実効性のあるものにして行くには、海外における官営富岡製糸場の高い評価こそ、国内向けにも必要だった、という事情があった。

 その点を裏付けるように、『報告書』には富岡製糸場の審査に副総裁佐野の強い意志が反映されていると推測できる記述がある。佐野は、帰国後政府に提出した『墺国博覧会報告書』中の「蚕養部」の総論で、日本の生糸がヨーロッパ市場で信用を失った点を指摘し、国内における富岡製糸場の優秀性を力説しているからである。

「…固より人民の無知不学遠識なく眼前の小利を貪るの罪によると雖も亦政府之を制するの処置未だ其宜しきを盡さざる所あるに由らずんばあらず我政府近来大に養蚕製糸の制規を定め又仏人を雇ふて富岡に大製糸場を創し以人を雇ふて勧工寮内にも一所設けたり両所の製糸未だ欧産の良者に下ると雖も既に内国諸糸に比すれば最美にして維府博覧会の際頗る外邦人の賞鋻〔けん〕を受たり…」

さらにまた彼は、万博における各国の製品と比較してみた結果、日本製品に国際競争力をつけるために、当時の日本の産業の水準では「官」の強い指導の必要性を痛感していた。

「…平民の手に在りて製法却退すると宜く早く之を官有に復し今臣か論する所改良の行を行ひ上に記する十県の製糸場をして速に之に倣はし其他各地製糸場の表準たらしむべし・・・」

 したがって、佐野にとって「官」の指導力と実行力、権威を示し、上述の構想を実施するためにも、富岡製糸場と勧工寮の優秀性はぜひとも「産業の世界的権威である」この万博で証明してもらう必要があったわけである。

(い)「バビエール」氏の鑑定書。

 万博の「第五区第四類の審査官『エルネスト・バビュー』」は、元来中国の出品物を鑑定する役であったが、佐野が日本の出品物も審査してほしいと熱心に依頼したために、それに応じた、と述べている(佐野をはじめとする日本人関係者の審査官に対する「根回し」の努力は、「万博をめぐる人物交流史」のテーマになるだろう)。

 その「バビエール」氏の講評は、どのような基準で授賞が決定されたか、を理解する上で興味深い。

「近来日本の生糸品位次第に下りたれば能く弊害を明示し日本人をして此に注目せしめんとするに在り故に品位の下り方少なき生糸に褒賞を付与して以て訓誠とせり」

 こうしたさほど高くない評価にもかかわらず、授賞したのが宮城県の「銘金花山」だった。それは、福島県の「銘掛田」他に比べて品質の低下が酷くない、との理由であり、そこには今後努力して往時の価値を取り戻すようにという奨励の意味も込められていた。それに対して富岡製糸工場と勧工寮の表彰理由は次の通りである。

「此二製作場は日本製糸法を改正する為大緊要にして何れも同一の目的を以て並び立つ者なれば今暫く其出品の優劣を論ぜずして之に同賞を与へんことを決し欧州製糸方を学ぶ道を進むを感するの意を表せんか為進歩の賞牌を与えへたり」

 以上のことから理解される賞の規準は一定していず、ある場合には、過去の価値が評価され、ある場合には、将来性を期待されたことによっていた。それは富岡製糸場の場合にもあてはまる。すなわち賞の対象になったのは、厳密に言えば、生糸の品質ではなく、ヨーロッパ式製法を導入し、日本の製糸業の近代化に果たしている富岡製糸場の努力であったということである。しかも「バビエール」氏の講評からは、生糸の優劣の比較は日本産の間で行われているのであって、国際的な基準に照らして評価されたのではないと判断できる。

 これまで取り上げた万博の審査員の講評から、進歩賞は「過去に行われた万博以後の製作面で一層の改良が加えられたもの、または製造方法を改革した、あるいは今まで使われていなかった原料を用いたものなど」の理由であり、製造された生糸にではなく、富岡製糸場自体に与えられたことが、改めて確認されるだろう。

(c)「進歩」賞の価値について

 ちなみに、進歩賞は授賞全体の中でどれほどの価値があったのだろうか。それを示す数字によって判断してみよう。

 万博全体で名誉証は、442(内、日本は12、以下同じ)件、メダルは全体で1万5116(123)件で、そのうち進歩賞は、3024(35)件、功労賞は、8800(77)件、雅致賞は、326(1)件、妙技賞は、978(0)件、補助賞は、1988(10)件であり、「表状(Anerkennungsdiplom「表彰資格認定証」)」は1万465件と、総計2万6003(217)件、と膨大な数の賞が出品者に配られたことになる。ちなみに日本に授与された賞は、全体の0.83%で、国別の賞の数でいうと、18位で、進歩賞は全体の1.15%であった。日本が受賞した35件の進歩賞のうち、第5グループでは、富岡製糸場、勧工寮、絹織物の伊達弥助(京都)ら9件であった。

 こうした大量の賞の数から、ユッタ・ペムゼルはやや皮肉を込めてこう言う。

「メダルは非常に気前よく与えられたので、出品者の経済的・財政的損失を少なくとも一部分埋め合わせることになった」と。

 このように見てくると、「トミオカ・シルク」が万博で注目され、好評を博したという点をそのまま事実とするのは、やや無理があるように思われる。審査の講評の点からも、日本で当時あるいはその後喧伝されたほど富岡製糸場製の生糸は高水準ではなかったようだ。もちろんだからといって、万博に参加し、賞を獲得したことに意味がなかったというのではない。操業前の富岡製糸場に対して建設妨害や風評が絶えなかった中で、万博での授賞が、政府主導型産業を奨励する関係者や現場で働く工女たちに自信と名誉を与えたことは想像に難くないからである。幸田露伴が『渋沢栄一伝』(1939)でいみじくも語っているように、操業は「官業といふことの行わるゝ殆ど最初であった。然し是の如き新しい事は、首尾よく功を挙ぐるば可し、若し不成功に終れば、徒に民業を擾り、管財を費やして、公の威を損じ世の笑となるに過ぎぬ」といった不安と不信の世相を背景に出発していたからである。

(7)宣伝効果

 万博で得た「トミオ・カシルク」の評判の大きさに関して、それを日本国内に広めるのに一役買ったと思われる興味深い新聞記事があるので、その経緯と共に紹介しておこう。

 まず、『東京日日新聞』(1873年6月23日付)は、こう言う。

「伊太利国在留租税寮七等出仕渋沢君よりの来翰に、上州富岡製糸場にて、出来の生糸御廻し相成、不取敢当所其筋の者へ一見致させ、各所糸品試験の器械にて品位を調査せしに、彼国最上の生糸と同位にて、更に甲乙これ無し。彼国人も大ひに感心せし趣なり、流石に名誉の産物、殊には当節盛に勧業遊ばされければ、製糸人も勉励熟達して、終に世界第一の名品と称せられん事は期して待つべきなり。」

 次に『東京日日新聞』(1873年9月18日付)はこう言う。

「上州富岡製糸場に於て製する生糸の精良なる、能人の知る処成。既に本年墺国博覧会へ御差送り成て、列品中に陳列せられしを、墺国人這は斯未曽有品なりと、屢賞賛なしたりと、同国博覧会掛りより、横浜エクトリ、ヤンタル社へ、報告ありしとなり。依て按ふに、我四百五号に同所の生糸を伊太利国にへ送られしを、伊太利人試験ありて、同国最上の生糸と同位なりと賞せし由を掲載せしが、夫を思ひ是を見るに、富岡の製糸の世に卓越なる、実に按ふべきなり」。

 前者の記事は、生糸の本場イタリアの試験場で、器械によって検査したところイタリア産の最高品質と同等の評価を受けたというもの、後者の記事は、万博でオーストリア人が絶賛したとのことで、いずれも「トミオカ・シルク」がすでに当時ヨーロッパ人から好評を博した旨が記されている。それでは、これまで見てきた審査官の講評や実際の賞の価値と、これらの新聞記事の評価のズレは、一体どこから来ているのだろうか。どうやら、これらの記事は、ヨーロッパの、しかもイタリアという製糸業先進国の検査結果と万博という2つの権威によって「トミオカ・シルク」の名声を日本国内向けにアピールしたものだということが分かる。しかも前者の記事のニュース源が「渋沢君の来翰」であることに注目したい。

 ここで言う「渋沢君」とは、渋沢栄一の2歳年上の従兄で、1872年に「大蔵省七等出仕」に任官した渋沢喜作のことである。彼は万博当時には「日本の養蚕製糸、及び殖産興業を海外のそれと比較する」ためにイタリアに滞在していた。渋沢栄一は、1869年に大蔵省に入り、周知の通り、財務官僚として富岡製糸場の設立の立案から民間払い下げに到るまで最も深く関わっていた人物だ。一方の喜作は、過激な尊王攘夷派で、戊辰戦争では榎本武揚らと行動を共にし、新政府軍と戦い、函館で敗れたのちに獄にあったが、大赦を得て出獄し、栄一に身柄を引き取られた。失意のうちにあった喜作を大蔵省に推薦したのは栄一であり、喜作のイタリア、フランス視察の件でも栄一の尽力によるところが大きかっただろう。栄一は、喜作との関係を「一身分体」と表現しているが、喜作は終生栄一の片腕として行動した。したがって、この記事は、「官」にある喜作が、「一心同体」の栄一が深く関与している富岡製糸場の発展を宿望した事情を反映していると解釈できる。

 結局は、政府が莫大な資金を投入して設立した「官立」の、しかも操業間もなく、必要な工女の確保も思うに任せなかった未知数の多い富岡製糸場にかける政府の期待と不安が共に大きかったからこそ、日本国内向けに大きく宣伝をすることがぜひ必要だったのだろう。

 したがって、ウィーン万博は富岡製糸場の名を日本全国に、もちろんできれば貿易先の欧米にも広めるための格好の機会となったのである。その点から見れば、これは、ヨーロッパで開催された万博という権威と新聞という有用な宣伝媒体を最大限に利用して、万博のコマーシャル的要素を十分活用した戦略の一例と見なせるだろう。

(8)おわりに

 以上見てきたように、ウィーン万博における富岡製糸場の生糸の評価に関する日本の期待は、不安を抱えていた分だけ、いかに大きいものだったかが理解される。

 富岡製糸場設立の背景には、生糸の大量輸出国である中国国内の幾多の争乱による不振やヨーロッパ諸国内の蚕の伝染病の大量発生などにより、日本の蚕糸類が注目されたことがあった。だが、日本の蚕糸業は、当時輸出品の第一位にありながら、それに甘んじて生糸の粗製乱造等を繰り返したことにより欧米における評価を著しく下げ、その間隙に乗じて外国資本が導入される恐れもあったりした。そのために政府主導の改革を促進することが急務となったのである。そこで登場したのが官営富岡製糸場で、それは、政府の掲げる「殖産興業(官営模範事業)」のスローガンを体現したものであった。富岡製糸場は、フランス人技師を所長に迎え、フランス式技術を導入して短期間でウィーン万博に「トミオカ・シルク」を出品したのである。

 日本は、万博で西洋の高度な工業技術を目の当たりにし、それを貪欲に学ぶ姿勢を貫いた。そして同時に太政官布告や佐野が指摘するように、万博では日本製出品物の優秀な点を高く評価してもらい、貿易の実を上げることを重要な使命としたのである。 

 こうして富岡製糸場製生糸は、日本の近代産業の水準を見極める試金石として万博に送り込まれたが、実際は必ずしも期待していた評価を得たわけでもなかった。だが、それでも結果的に「第二等」進歩賞を得たおかげで、その賞は模範工場という「官」による「上からの改革」の輝かしい成果として日本国内では迎えられ、その栄誉は十分称えられたのである。

 富岡製糸場が得た進歩賞の内実は今日までほぼ不問に付せられていたが、ともかく近代産業社会における後進国日本にとって、万博の権威を最大限生かして宣伝効果を上げたことには成功したと言えよう。その意味でウィーン万博は、世論を誘導するために必要な宣伝とそれを支える権威が資本主義的・自由競争社会にとって必須の要素であることを、早くも明治初年のこの時期にあって如実に示したことになる。

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇渋沢栄一講述『青淵修養百話』坤、同文館、1915

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇今井幹夫『富岡製糸場の歴史と文化』みやま文庫、2006

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg. durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.26)

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「世界史の眼」 お知らせ

 「世界史の眼」No.23とNo.24に掲載された、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」」に対して、小谷汪之さんに補遺をお寄せ頂きました。本論とあわせてお読み下さい。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」・補遺

戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)はこちら、戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)はこちらです。

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戦前パラオの真珠産業と「南進熱」・補遺
小谷汪之

 拙稿「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」(上・下)が「世界史の眼」に掲載された後、『真珠の世界史』(中公新書)の著者、山田篤美さんから、南洋庁の「部外秘」文書である『世界主要地に於ける眞珠介漁業』(1937年)のコピーを恵与いただいた。大変な苦労をして「発掘」されたこの「部外秘」文書のコピーを恵与いただいたことに深く感謝する。

 前記の拙稿は乏しい文献に依拠して書かれた部分があり、『世界主要地に於ける眞珠介漁業』に照らしてみると不正確あるいは不十分な点がいくつかある。以下では、真珠貝採取業と真珠養殖業に分けて、修正と補足を行いたい。

1 真珠貝採取業にかんして

 拙稿の「はじめに」の部分に次のような記述がある。

1931年からは、パラオのコロール島を根拠地とする日本の真珠貝採取船が直接にアラフラ海などに進出し、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(同、126頁)。

 この一文を以下のように修正する。

1931〔昭和6〕年末はじめて、日本の一隻の真珠貝採取船がパラオ諸島コロール島からアラフラ海方面に出漁した。その後、日本の真珠貝採取船の数は急増し、1936(昭和11)年には81隻に上った。水揚げされた真珠貝は三井物産株式会社神戸支店に委託販売され、大部分が神戸からニューヨークに輸出された(『世界主要地に於ける眞珠介漁業』2-3頁)。こうして、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(山田篤美『真珠の世界史』126頁)。

2 真珠養殖業に関して

 拙稿の「はじめに」の部分に次のような記述がある。

 他方、真珠養殖業では、1922年、御木本真珠がいち早くパラオのコロール島に真珠養殖場を開設した。1935年には、本稿の主題となる南洋真珠株式会社が同じくコロール島に白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とする真珠養殖場を設立した。

 この一文を以下のように修正する。

 他方、真珠養殖業では、1918年に南洋産業株式会社がパラオで真珠養殖試験を開始した。1926年、御木本真珠がこれを買収し、始めはアコヤ貝と黒蝶貝を使用していたが、1935年より白蝶貝(シロチョウガイ)の試験的養殖を始めた。これがパラオにおける白蝶貝養殖の始まりである。翌1936年、本稿の主題となる南洋真珠株式会社がパラオ諸島ウルクタベール(ウルクターブル)島の北岸(マラカル港岸)に白蝶貝を母貝とする真珠養殖場を設立した。

 拙稿の「1 石川達三のパラオ行」中に次のような記述がある。

南洋真珠は、1935年には、パラオのコロール島に真珠養殖場を開設した(坂野徹、164頁)。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。

 石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のコロール真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。

 この一文を以下のように修正する。

南洋真珠は、1936年には、パラオ諸島のウルクタベール(ウルクターブル)島に真珠養殖場を開設した。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。

 石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のパラオ真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。

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『国際関係史から世界史へ』書評掲載のお知らせ

『現代史研究』67号(現代史研究会、2021年12月)に、南塚信吾編著『国際関係史から世界史へ』(ミネルヴァ書房、2020年)への小澤卓也さんによる書評が掲載されています。ぜひご覧ください。

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世界史寸評
国連地図のなかのチャゴス諸島
木畑洋一

 国際連合の機関である国連地理空間情報セクション(The United Nations Geospatial Information Section、かつては国連地図セクションThe United Nations Cartographic Sectionと呼ばれた)が作っている世界地図がある。現在インターネットで見ることができるものは2020年10月のもので、以下のサイトにある。

https://www.un.org/geospatial/content/map-world

 本稿では、この地図が一般に見られる他の世界地図と違っている一つの点を紹介してみたい。それは、インド洋の真ん中にある島嶼の帰属国名である。今手元にある世界地図帳を開いてみると、チャゴス諸島(イ)、ディエゴガルシア島(イ)と書いてある。ディエゴガルシアはチャゴス諸島のなかの一つの島であるから、ディエゴガルシアを含むチャゴス諸島を領有しているのはイギリスであるということが示されているのである。これは、市販されている他のどの世界地図でも同じことである。ところが、上記のサイトを見れば分るように、国連地理空間情報セクションの作成にかかる地図では、この島嶼について、チャゴス諸島(モーリシャス)Chagos Archipelago (Mauri)と記されており、イギリスではなく、モーリシャスに帰属することになっているのである。一体どうしたのだろうか。

 ディエゴガルシアは知る人ぞ知る島であるが、それは米国の軍事基地の所在地としてきわめて重要な島だからである。そこに置かれた基地は、湾岸戦争やアフガニスタン攻撃、イラク戦争など米国が中東地域で行った戦争できわめて大きな役割を演じた。そのため、島の名前を知る人も、島の帰属国は米国であると思いがちである。しかし、実際に領有している国はイギリスであり、米国はイギリスから島を借り受けた上で、そこに基地を建設しているのである。

 イギリスはチャゴス諸島を英領インド洋地域(British Indian Ocean Territory、略称BIOT)と呼んでいるが、BIOTが作られたのは1965年であり、米国に貸与するための協定が結ばれたのは1966年のことであった。その後、米国が基地建設に着手するまでに、チャゴス諸島に住んでいた人々は、島から放逐されて、モーリシャスやセイシェル、さらにイギリスで苦しい生活を送ることを強いられてきた。

 その問題について筆者は関心をもち、その全体的経緯と、60年代の英米交渉とについてそれぞれ論文にまとめたことがある。[1] それらで扱った時期以降も含めて、チャゴス諸島問題を簡略にまとめてみれば、以下のようになる。

 1960年代初頭、冷戦下でインド洋に軍事基地を作ろうと思っていた米国は、インド洋でのイギリス領に眼をつけた。ディエゴガルシアも早くからその候補と考えられたが、問題はイギリス帝国のなかで、チャゴス諸島はモーリシャスの一部とされていたことである。当時は脱植民地化が加速化しており、モーリシャスも独立への道をたどっていたが、チャゴス諸島の帰属をそのままにしてモーリシャスの独立が実現すれば、イギリスにはその島の利用を米国に許す権限がなくなってしまう。そこで英米両国が考えたのが、モーリシャスが独立する前にチャゴス諸島をモーリシャスから切り離し、新たなイギリス領土としてしまうことであった。こうして作られたのがBIOTである。脱植民地化に全く逆行するこの措置をモーリシャスに呑ませるために、米英両国はモーリシャスにお金を支払うことにした。こうしてBIOTを作った上で、イギリスはそれを米国に貸与したのである。

 これに伴って島から放逐された人々は、20世紀が終わる頃からその不当性を司法の場で訴えてきたが、イギリスの司法プロセスのなかで途中までは勝訴した彼らの訴えは、最終的には却下されてしまった。2012年には欧州人権裁判所も彼らの提訴を受理しないという判断を下し、解決の道は行き詰まったと思われた。しかし、モーリシャス政府が、独立時のチャゴス諸島切り離しはモーリシャスの脱植民地化を不完全なものにしたとして、国連に提訴したことにより、新たな局面が生まれることになった。2017年、国連総会はその問題についての判断を国際司法裁判所に求める決議を採択、2019年2月に国際司法裁判所は、①モーリシャスからチャゴス諸島が切り離された後、1968年にモーリシャスが独立を付与されたことは、合法的な脱植民地化であったとはいえない、②イギリスがチャゴス諸島の統治を継続したことから生じた国際法のもとでの諸結果(島から放逐された人々を島に再定住させる計画をモーリシャス政府が遂行しえないという点を含む)に鑑み、イギリスはできる限り速やかにチャゴス諸島の統治を終了させる義務を負う、という見解を公表した。

 その見解を受けて、2019年5月、国連総会は、チャゴス諸島はモーリシャスに帰属すべきであるとしてイギリスによる統治の終結を求める決議を、賛成116か国、反対6か国の大差で可決した。反対に回ったのは、イギリス、米国という当事国の他にオーストラリア、イスラエル、ハンガリー、モルディヴの諸国であり、日本は棄権した56か国のなかに含まれている。その結果、翌20年に上記の国連世界地図におけるチャゴス諸島の所属表記変更が行われたのである。

 これは、チャゴス諸島をめぐる統治の現実が変化したことは意味しない。イギリスは相変わらずBIOTとしてこの島嶼を統治し、米国は重要な基地としての利用を続けている。しかし、国連が脱植民地化という世界現代史の大きな流れにいかに関わっているかということは、ここにはよく示されている。一見短期的・現実的には効力が小さいと思われる国際司法裁判所や国連総会の判断であるが、そこで改めて確認された国際的な規範の力は長期的には強いものになっていくと考えられる。ロシアのウクライナ侵攻をめぐって国連の役割に注目が集まっている現在、国連のこうした面を紹介することの意味はあるであろう。


[1] 木畑洋一「覇権交代の陰で―ディエゴガルシアと英米関係」木畑・後藤春美編『帝国の長い影―20世紀国際秩序の変容』ミネルヴァ書房、2010;Yoichi Kibata, ”Towards ‘a new Okinawa’ in the Indian Ocean: Diego Garcia and Anglo-American relations in the 1960s”, in: Antony Best, ed., Britain’s Retreat from Empire in East Asia, 1905-1980, Abingdon, Oxon: Routledge, 2017.

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「世界史の眼」No.25(2022年4月)

「世界史の眼」4月号では、前号に続き、小谷汪之さんに、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)」を寄稿して頂きました(「(上)」はこちら)。また今号より、藤田進さんによるシリーズ「アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン」を連載します。今号では、第1回「2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察」を掲載します。さらに稲野強さんに、「1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―」をお寄せ頂きました。今号ではその前半を掲載いたします。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)

藤田進
アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン(1)
2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察

稲野強
1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)

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