「世界史の眼」No.11(2021年2月)

今年2本目の「世界史の眼」をお届けします。

世界史研究所では、歴史教育に関しても関心を持ち取り上げて参りました。今号では、日高智彦さんに、長く高校で教鞭を取られた松本通孝さんの『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』を書評して頂きました。また、小谷汪之さんには、「シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―」と題して、2019年に刊行された『中島敦の朝鮮と南洋』に新たな知見を加えて頂きました。今号では、その前半を掲載します。

日高智彦
書評:松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』(Mi&j企画、2020年)

小谷汪之
シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(上)

松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』(Mi&j企画、2020年)のAmazon.co.jpにおける販売ページは、こちらです。小谷汪之『中島敦の朝鮮と南洋』(シリーズ「日本の中の世界史」)の、岩波書店による紹介ページはこちらです。

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書評:松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』(Mi&j企画、2020年)
日高智彦

 本書は、1967年より青山学院高等部の教師として世界史の教育と研究に携わってきた松本通孝が、半世紀以上に及ぶ取り組みの中で「伝えたかったこと」を軸に既発表論文を編集し、解題を付して一書にまとめた「自分史」である。

 構成は、以下のようになっている。

はじめに

第1章 高校生に近現代史を学ばせたい

 1節 1973年―「現代史」「現代社会」構想の立ち上げ

 2節 1980年代の歴史教育を取り巻く情勢と「近現代史教育研究会」の立ち上げ

第2章 自国中心主義に陥らないように―比較史の視点

 1節 「自国史」と「世界史」

 2節 「正答主義」をどう克服するか

第3章 日本における世界史教育の源流

 1節 万国史から世界史へ

 2節 フランス革命はどのように書かれて来たのか

第4章 生徒とのキャッチボール―生徒の歴史意識をどう育むか

 1節 授業内容・方法の工夫、史資料を授業に生かす

 2節 「世界史通信」発行の試み

第5章 「歴史総合」とこれからの歴史教育

 1節 世界史未履修問題が発した諸問題

 2節 これからの歴史教育―「歴史総合」を考える

エピローグ

松本通孝 文献リスト

 各章はおおよそ時系列順に並んでいる。各節は、既発表論文が資料として配置され、冒頭に解題が付されている。分量としては資料が本書の大部分を占めるが、必ずしも時系列順ではなく、一部省略もあり、著者の松本以外の文章もある。本文はあくまで解題の方なのである。よって本書は、著者の世界史教育論の形成・発展史としても読めるが、そのようなプロセスを経てきた著者が現在の到達点から再構成した「自分史」として読むべきであろう。

 第1章では、まだ現代史が(研究対象としても教育内容としても)重視されていなかった1960年代後半に教師となった著者が、「世界史」と「日本史」を統合した「現代史」を勤務校の必修科目として立ち上げ、それをきっかけに知り合った他校の教師たちとともに近現代史教育研究会を設立するプロセスが扱われる。『歴史学研究』370号(1971年)の特集「国家権力と歴史教育」を批判した「歴史学研究月報」136号(1971年)の論考などの資料からは、著者が「現代史」を、(A)「生徒達の歴史意識、現状認識」を出発点とし、これにはたらきかけるものとして、(B)政府の文教政策による上からの統制に対する批判として、(C)官製の研修会ではなく自主的な「他流試合」を重ねながら、構想・実践したことが理解できる。

 50年が経ち、今や学習指導要領によって「「世界史」と「日本史」を統合した「現代史」」である「歴史総合」が設置され、実施されようとしている。これに対し、上記3つの特徴をもって実践してきた「現代史」を、著者は「今から振り返っても正しかった」と、自信を持って対置しているようにみえる。後に第5章に関する評でも触れるように、たしかに著者の試みは、「歴史総合」に取り組もうとする者にとって「役に立」つだろう。ただし、著者がもっとも重視する「生徒達の歴史意識、現状認識」について、具体的にどう把握していたかは不明である。例えば、資料②(1971年)では生徒のレポートを分析しているのだが、そもそものレポート課題が現代史学習・・の受けとめを問うていることもあってか、生徒の現代史認識そのものは実はほとんど俎上に載せられていない。権力が現代史教育を直接に行おうとする状況にあって、学校における現代史教育が欠如することの危険性はそのとおりだろう。ではどう危険なのか、生徒の認識の具体的な把握と分析なしに、前例のない「現代史」で教える内容の構成はできなかったはずなのだが。資料②では、当時の生徒を「確かに何かを求めてはいるが、彼ら自身ではなかなかつかみ得ず、混とんとした状態に留まっている」と評しているが、これは若き日の著者自身のことではなかったか。

 このような著者に、第2章の時期から変化が訪れる。この章では、1982年に設立された比較史・比較歴史教育研究会に参加するなかで、この会のスローガンでもあった「自国史と世界史」という問いを自身の実践的課題に昇華していく様が扱われる。著者にとって、日本の戦争と植民地支配の捉え方が東アジア諸国において異なることを、歴史教育の国際交流の場で、生身の人間の発言として知った衝撃は大きかったようである。重要なことは、この歴史認識のちがいについて、(本章のタイトルは「自国中心主義に陥らないように」ではあるが、)歴史認識が一般的に・・・・帯びがちな自国中心主義の問題として済ませず、世界史的に形成された重層的な支配―従属関係の刻印と捉えた上で、支配者側の・・・・・歴史認識の課題と受けとめたことにあると評者は読んだ(資料⑧「歴史教育と「国民の戦争責任」」、1991年)。

 こうして、歴史認識の西洋中心主義が克服すべき課題となる。かつてフランス革命期の農村における「変革主体」を研究テーマとしていた著者が、ここでいう「変革」の西洋中心主義的な意味を問い直し、東欧史の視点から授業を再構成した。その成果が、資料⑨(「「正答主義」克服の試み」、1986年)である。「ポーランド分割とフランス革命」というテーマの実践において、ある生徒は、西欧=「華やか」で東欧=「暗くてじめじめ」という「偏見」を自ら問い直している。「正答主義」の克服というとき、その射程には、(a)ただ一つの正解を求める歴史学習への姿勢(試験のための暗記、教わることを鵜呑みにすること、教師が学びとってほしいと考える価値観の押しつけ・誘導など)だけでなく、(b)そのように身につける歴史認識が帯びている偏見や歪みと、それらに刻印される歴史的な権力的支配構造を問い直すことが含まれているのである。

 資料⑨は、「[座談会]歴史学と歴史教育のあいだ」(『歴史学研究』553号、1986年)において提起された、歴史教育における「正答主義」という論点への応答として書かれたものである。ここでの「正答主義」は、(a)の問題として論じられていた。しかし、後の1990年代半ばに、(a)の克服を目指すものとして出てきた藤岡信勝らの「歴史ディベート」は、(b)を問い直すどころか肯定するものであったことで、結局(a)の問題も克服できなかったわけである(資料⑩、2009年)。著者の実践は、「正答主義」論に(b)を立てることで、この陥穽を批判的に乗り越える可能性を先取りしていたといえよう。実は著者自身は、解題においても「正答主義」を(a)の問題として論じ続けているが、評者は著者の実践を「二重の正答主義」論として、世界史教育論史における重要な問題提起であったと受けとめている。

 第3章では、1990年代より取り組んだ、明治以降の外国史教科書の研究が扱われる。著者にとっては、自らの仕事をその「源流」にさかのぼりながら相対化する意味を持っただろう。1節の解題では、これらの研究で「伝えたかったこと」を、「その時々の政府の方針と歴史教育との関係」とし、「文教政策の意図を見抜く力を、私達教師の側が持つ必要がある」「政府主導の「正答主義」に対して、どのような距離を置くか」と問いかけている。重要な指摘である。だが、明治・大正期の外国史教科書を丹念に読み解いた諸資料からは、外国史認識がいかに自国史認識に規定されるか、すなわち、世界史を学べば自動的に自国中心主義を克服できるわけではないことなど、より多くの示唆を得ることができる。その上で、フランス革命記述の変遷を扱った2節では、「近代化」の負の側面が明らかになった現在において、革命の理念を「弱者」の側から問い直し、フランス革命の今日的意義を生徒と教師が学び合う授業案として提案している。これまでの研究の成果を実践として具体化した資料⑮・⑯(2012年)は、著者の仕事の集大成に位置するものであり、本書の白眉である。

 資料⑮・⑯に至るまでには、世界史の教育論や内容について研究するだけでなく、授業方法についても試行錯誤を繰り返してきた。第4章は、著者が「生徒達の歴史意識、現状認識」にはたらきかけようと取り組んできた授業日誌や教科通信などの試みを扱う。本章の諸資料を読むと、著者が世界史教育を、教科書などの制度的枠組みに依存することなく、生徒と「キャッチボール」しながら、ものの見方や考え方を現実の世界の動きのなかで見直す方法として構想していたことが分かる。

 その上で、「伝えたかったこと」を「「ゆとり」教育の是非」としている。「ゆとり」の名のもとに導入された各種の文教政策は、入試制度改革を伴わず、「観点別評価に見られるような教師の仕事をいたずらに増やし」、教育現場のゆとりをむしろ奪っていった。この改善なしにアクティブラーニングを謳っても、豊かな学びに結びつくことはなく、授業は画一化するのではないか。どんな授業方法がふさわしいかは、あくまで「担当教師一人ひとりが考えるべきこと」(資料⑰、2011年)であり、そのためには「教師の創意を保障するゆとり」が必要だ、と主張する。政策提言として異論はないが、仮に「ゆとり」が保障されたとして、教師が発揮する「創意」が「正答主義」を克服するとは限らないだろう。本章の諸資料は、むしろ「創意」の具体的な方向性を示唆しているように思うのだが、あくまで「保障」を主張するところが著者らしい。

 最後の第5章では、2018年の第9次学習指導要領改訂によって新設された科目「歴史総合」を中心に、これからの歴史教育の方向性について論じられる。2006年に、必修科目の「世界史」が受験対応等を理由に開設されない高校があることが問題となって以降、地理歴史科教育の改善に向けた議論が巻き起こった。著者は、これまでの研究と実践をふまえた「教師の創意を保障するゆとり」の観点から、「現在の「日本史A」「世界史A」は廃止して、世界と日本の近現代史を扱う「現代史」」の創設を説いた(資料㉑、2008年)。新設された「歴史総合」はまさにそのような科目であったが、しかし著者は、これに危惧を表明する。「近代化」「大衆化」「グローバル化」という概念で近現代史を把握しようとする方法は、政府見解を書かせる教科書検定を通じて、近代化賛美の自国中心・自国礼賛史観を従来以上にもたらしかねない、というのである(資料㉔、2017年)。

 著者の危惧には首肯できる。ただ、現実の政治状況において、「現在の「日本史A」「世界史A」は廃止して、世界と日本の近現代史を扱う「現代史」」が科目として創設されれば、ここで危惧されるようなことは、「現代史」を政府の文教政策による上からの統制に対する批判として実践してきた著者ならば、予想できたのではないか。たしかに、通史学習ではなく、「近代化」等の概念を用いて現代的な諸課題の形成と展望を学ぼうという「歴史総合」の方法は画期的ではあるが、現行科目においても追究されていて然るべきことであるし、著者自身もそのように実践してきたのではないか。例えば、本書所収の諸資料で論じられている「国民の戦争責任」や「フランス革命と「弱者」」といった視点は、「近代化」概念による歴史把握が近代化賛美の自国中心・自国礼賛史観に陥らないための切り口に他ならないだろう。著者は本書を通じて、むしろ「歴史総合」の危惧を克服する可能性を描いたのである。

 それをふまえた上で、「自分史」の結びに、今後の歴史教育への危惧を述べていることの意味を受けとめたい。エピローグの冒頭、2015年に卒業生から届いた「自分たちが高校の頃に歴史の進歩として習ったいろいろなことや価値観が、最近はいとも簡単に次々に否定されてきているように感じます」との旨の年賀状が紹介される。この「(元)生徒達の歴史意識、現状認識」を受けとめるがゆえに、「現代史」で追究してきた、「今から振り返っても正しかった」とする「価値観」が、「歴史総合」において「否定され」る危惧を検討せざるを得なかった、ということではないか。それは、著者が今なお「(元)生徒達(=「市民」)の歴史意識、現状認識」と「キャッチボール」しながら、世界史教育について考えを問い直し続けていることを意味する。「世界史教師」とは職業名ではなくそのような存在のことを指し、「現場」とは制度的枠組みではなく「キャッチボール」にある―これこそ著者が、「一世界史教師として伝えたかったこと」だったように思われる。

 著者は、先の年賀状をきっかけとして、卒業生有志との「世界と日本の歴史を共に学ぶ読書会活動」を続けているという。今後も、末永くお元気で、「現場」からの声を発信していただきたい。

(「世界史の眼」No.11)

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シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(上)
小谷汪之

はじめに

1 玉置半右衛門と玉置商会

2 渋沢栄一の「製藍会社」

3 田口卯吉の南島商会

(以上、本号)

4 南洋貿易株式会社(南貿)

5 第一次世界大戦とヤップ島

6 関根仙太郎の生年月日と生地

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 シリーズ「日本の中の世界史」の一冊として刊行された小著『中島敦の朝鮮と南洋』(岩波書店、2019年。以下、「本書」とする)にかかわって、一つ心残りなことがある。それは、「本書」の本筋からはちょっと外れるが、関根仙太郎という人物の経歴にかんすることである。本書の第二刷を出した時には問題の所在に気づいていたのであるが、第二刷での修正という制約のために直しきることができなかった。

 関根仙太郎は明治時代の中頃に「南洋」に渡り、50年近くを「南洋」に生きてきた。彼は、1935(昭和10)年か36年に、最終的に日本に帰国したものと思われるが、その関根を、雑誌『南洋群島』の記者が東京「向島寺島なる氏の寓居」に訪ねて、インタヴューを行った。その冒頭で、関根は次のように語っている(以下、引用文中の〔 〕は引用者による補足。漢字には、適宜ルビを付した)。

 私は十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島へ渡りました。玉置氏は東京府からこの鳥島を二十箇年間無償で借り受け、信天鳥アホウドリの巣から羽毛を採取し、それを欧州に輸出していたものです。その仕事を手伝って居る中に、翌年小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていましたが、丁度その頃東京に南洋で貿易をする会社が出来、しかもそれには、かねて知っていた依岡省三氏が関係している事を聞いて急いで帰朝、その会社へ入れて貰った様なわけです。この時私は十七の歳でした。(関根仙太郎「南洋群島の五十年を語る」『南洋群島』3巻、3、4号〔1937年〕。『南洋資料 第473号、南洋群島昔話 其の一』〔1944年〕に再録。同書、1頁)

 この関根の話の中には、1890年前後(明治20年前後)の日本における「南進」のさまざまな動きが凝縮された形で詰まっていて、きわめて興味深い。ただ、「本書」刊行後に見ることのできた一資料に照らしてみると、関根のいっている自分の年齢には疑問がある。

1 玉置半右衛門と玉置商会

 関根仙太郎は、「十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島に渡り」、アホウドリの羽毛の採集に従事した、といっている。この「玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人」は小笠原諸島、鳥島(伊豆諸島の鳥島)、沖縄の南大東島など、日本南方の島々の「開発」に主導的な役割を果たした人物としてよく知られている。

 玉置半右衛門は1838年、八丈島に生まれ、大工をしていたが、1861年、徳川幕府が小笠原開拓民を募集した際、それに応募して、小笠原に渡った。しかし、翌年、生麦事件が起こってイギリスとの対立が激化したため、幕府はイギリスが触手を伸ばしていた小笠原諸島の開拓を断念し、玉置も小笠原から退去した。その10数年後の1876(明治9)年、明治政府は小笠原諸島の領有を諸国に通告し、開拓民を小笠原に送った。その時、玉置も小笠原に渡り、内務省小笠原出張所仮庁舎建築などの公共事業を請け負うなどした。しかし、その後、小笠原出張所との関係が悪化したこともあって、玉置はアホウドリの捕殺に着手した。アホウドリの羽毛が欧米で高値で売れることに目をつけたのである。ところが、小笠原にはアホウドリがあまり飛来しなかったので、次に玉置はアホウドリが大量に飛来する鳥島に狙いをつけた(アホウドリの羽毛は横浜の外国商社を通して欧米に輸出されていた)。

 1880年代の日本では、初期的な「南進論」が盛んになっていて、その先駆者の一人に横尾東作(1839-1903年)という人物がいた。横尾は仙台藩士で、はじめ儒学を学び、後に英学を修めた。幕末の政争の中では、語学力を生かして幕府側の外交工作の一端を担い、最後は、榎本武揚の下、函館五稜郭で「官軍」と戦った。

 横尾はその後さまざまな職に就いたが、1887(明治20)年、当時逓信大臣だった榎本武揚の支援を受けて、硫黄島の探検に乗り出した。船は逓信省灯台巡視船の明治丸を使わせてもらった。この硫黄島探検には当時の東京府知事、高崎五六の他、依岡省三、鈴木経勲つねのりなど多くの「南進論者」が同行した。この時、玉置半右衛門とその配下12人は、鳥島で下船することを条件として乗船を認められた。11月1日、横浜港を出港した明治丸は、5日に鳥島に到着し、玉置らはここで下船した。約100日分の食料や資材を携行したということであるから、最初から鳥島に長期に滞在するつもりだったのである。その目的はアホウドリを捕殺して、羽毛を採集することであった。

 他方、明治丸は11月10日に硫黄島に到着したが、とても植民できる所ではないとして、直ちに横浜港に帰ることになった。途中、鳥島で玉置半右衛門らを乗船させるはずであったが、波が高く、接近が困難だったため、彼らを鳥島に「置き去り」にしたまま横浜に帰港した。12月15日、東京府は玉置らの救援のために、船を鳥島に派遣したが、その船で帰京したのは玉置他一名のみで、残りの11人は鳥島に残って、アホウドリの捕殺を続けた。

 翌1888年、玉置は「鳥島拝借御願書」を東京府に提出し、3月、内務省から鳥島の10年間無償「貸渡」を認められた。同年、玉置は56人の人夫を鳥島に送り込み、アホウドリの捕殺を本格化させた(以上、平岡昭利『アホウドリを追った日本人』岩波新書、2015年、10-20頁)。

 以上のような経緯を考えると、関根仙太郎は、1887年に鳥島に残留した11人のうちの一人だったのかもしれないが、おそらくは1888年に鳥島に送り込まれた56人の人夫たちのうちの一人だったのであろう。この時、関根は15歳だったといっているが、これは数えの年齢だと思われるので、満年齢で言えば13歳か14歳ということになる。「本書」(第一刷)刊行時にはあまり気にならなかったが、今思えば、いくら明治中期とはいえ、これはちょっと若すぎるように感じられる。

 関根は、翌年にはもう、鳥島から小笠原に移ったのだが、その理由について、関根自身は何も語っていない。推測するに、アホウドリの捕殺という仕事に嫌気がさしたからではないかと思われる。アホウドリの捕殺は、すぐには飛び立つことのできないアホウドリを棍棒で撲殺するという野蛮な方法で行われていたからである。それに、鳥島におけるアホウドリの捕殺は出稼ぎ労働によっていたから、年に3分の1の人夫が交代するほど島への出入りは激しかったということである(平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大』明石書店、2012年、77頁)。

 玉置半右衛門は、この後、一年間に約40万羽のアホウドリを鳥島で捕殺しつづけ、1902年の鳥島大噴火によって人夫120余名が全滅するまでに、総計約600万羽を捕殺した(鳥島大噴火の時、玉置一家は東京に住んでいて無事であった)。1933年には、アホウドリの捕殺が禁止されたが、それまでに、鳥島では総計約1000万羽のアホウドリが捕殺されたとされている。そのために、鳥島のアホウドリは絶滅寸前にまで至った(平岡『アホウドリを追った日本人』、22頁)。玉置半右衛門による鳥島の「開発」とはこのようなものだったのである。

 1900年、玉置は沖縄県の無人島、南大東島の開拓に乗り出した。沖縄県から30年間の開拓許可を受けた玉置は、八丈島の島民たちを中心に人夫を募集し、23人を南大東島に派遣した。派遣団の団長は当時玉置の大番頭だった依岡省三であった。人夫たちは玉置商会の小作人としてサトウキビ栽培に従事したり、製糖場の労務についたりした。その後、玉置は、島中にサトウキビ運搬用のトロッコ網を張り巡らし、病院や商店や学校を設立するなど、島が独立の経済単位(アウタルキー)をなすようにした。島だけで通用する貨幣(玉置貨幣)の発行も行い、島内のすべての勘定をこれによって行わせた。このように、玉置商会の経営方法は開拓民たちの生活を全的に支配する「封建的」なもので、南大東島は「玉置王国」と称せられるほどであった。

 1910年、玉置半右衛門が死去すると、その3人の息子たちが玉置商会の事業を継承したが、経営不振に陥り、1916年には南大東島における事業を東洋精糖に売却した。

2 渋沢栄一の「製藍会社」

 関根仙太郎は、前出のインタヴューで、鳥島から「小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていました」と言っているが、この「藍の会社」というのは渋沢栄一が設立した「製藍会社」のことである。明治期、日本の藍生産はインド産の藍、いわゆるインディゴに押されて衰退していた(徳島県を中心として栽培されていた藍はいわゆる蓼藍たであいで、タデ科イヌタデ属の一年生草本)。インディゴに対抗するために、小笠原の藍(山藍。トウダイグサ科の多年生草本)に最初に目をつけたのは竹内万二郎という人物で、竹内は実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)に着手したが、中途で挫折した。この竹内の「書記」であった今川粛という人物が小笠原藍作の見込みについて詳細な調査を行い、その復興を渋沢栄一に計った。それに応えた渋沢は、1888(明治21)年3月、「製藍会社」の「創立」を東京府に願い出て、4月に認可された。「同社の目的は日本藍製造の改良を図るが為に小笠原島産藍の蕃殖を其第一着手とし併せて其製藍を販売する」ことにあった。「製藍会社」は資本金10万円の株式会社で、一株100円であったが、株式は一般には公開されず、株主の多くは渋沢の知友であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』龍門社、1900年、199頁;『渋沢栄一伝記資料 第十五巻』渋沢栄一伝記資料刊行会、1957年、316-317頁)。

 「製藍会社」が何時から実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)を始めたのかはよく分からないが、関根仙太郎は1889年には小笠原に移り、「製藍会社」で働くようになったのである。今川粛の調査によれば、当時小笠原の「山藍」の植栽地は父島に5町7反歩、母島に1反歩余りだったという(『靑淵先生六十年史 第二巻』、200頁)。関根が母島に行ったのは、母島における「山藍」の植栽地を拡げる仕事に従事するためだったのであろう。

 しかし、「製藍会社」は「着手後〔旱魃や暴風雨など〕数多の困難に遭遇し」、「到底前途の見込立たざるを以て明治二十五〔1892〕年八月二日の〔株主〕総会に於て解散を決議」した。その間に「製藍会社」が「開墾」した土地は「四十八町歩余」であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』、204-205頁)。

3 田口卯吉の南島商会

 こうして、渋沢栄一の「製藍会社」は5年足らずで解散したのであるが、関根仙太郎はそれ以前に、「東京に南洋で貿易をする会社」ができたことを聞き、「製藍会社」を辞めて、東京に戻り、「その会社へ入れて貰った」。この「南洋で貿易をする会社」というのは、田口卯吉が1890(明治23)年に設立した「南島商会」のことである。

 1889年末、「南進論者」であった田口卯吉は当時の東京府知事、高崎五六から、東京府に交付されていた士族授産金を利用して、小笠原諸島の開発に当たってほしいという依頼を受けた。田口は一度は断ったが、小笠原開発ではなく、「南洋諸島経略」に当たるということで依頼を受諾した。翌1890年、田口は東京府に交付された士族授産金のうちの約45,000円(『本書』38頁で、4,500円としたのは誤りであった)を元手に、南島商会を設立し、90トンほどのスクーナー型帆船天祐丸を購入して、「南島巡航」に出ることになった。5月15日、天祐丸は横浜港を出港、「南洋」に向かった。天祐丸には、田口の他に、船長の宮岡百蔵、書記役の鈴木経勲など15名が乗り込んでいた。関根仙太郎もそのうちの一人で、この時、関根は17歳であったと語っている。これも満年齢にすれば15歳か16歳ということになり、今思えば、はるばると未知の「南洋」まで行くにしては、ちょっと若すぎるように感じられる。

 天祐丸は当時スペイン統治下にあったグアム島、ヤップ島、パラオ諸島を経て、ポナペ島(現、ミクロネシア連邦ポーンペイ州)に到着した。田口らはポナペに一か月ほど留まり、交易に従事した。ポナペ島には南洋交易拡大の可能性があると判断した田口は、ポナペに南島商会の支店を置くこととした。この時、関根仙太郎は他の二人と共にポナペ支店員に任命され、ポナペに残ることになった。これが関根の長い南洋生活の始まりであった。

 このように、関根仙太郎はわずか3年ほどの間に、玉置半右衛門のアホウドリ羽毛採集事業所(後の玉置商会)、渋沢栄一の「製藍会社」、田口卯吉の南島商会と、当時の「南進」の動きを代表する会社を渡り歩いて、「南洋」とのかかわりを深めていったのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.11)

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「世界史の眼」No.10(2021年1月)

コロナウィルスをめぐる先行きの不透明さの中、2021年が明けました。「世界史の眼」も第10号を数えます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

今号では、経済史家の権上康男さんに、「経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―」をご寄稿頂きました。現在の「グローバル経済」を考える上でも大変示唆に富んだ論考です。また、南塚信吾さんには、神川松子と測機舎をめぐる連載の最終回となる第6回をお寄せ頂いています。

権上康男
経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その6・完)

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経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―
権上康男

はじめに

  主要諸国における経済関連の公的歴史文書は今日、大半が20世紀末まで閲覧できる。しかしこれらの文書を利用した歴史研究は未だ部分的にしか進んでいない。そのために欧米先進諸国の現代経済史は、経済理論史を下敷きにして、次のようなイメージで捉えられていると言ってよかろう。まず、両大戦間期にケインズ主義が徐々に影響力を拡大する。第二次世界大戦後にこの理論に適合的な、戦時体制を多かれ少なかれ継承した、組織された経済社会が形成される。ケインズ主義はしかし、1970年代の長期不況を経て市場機能の強化を説くマネタリズムにその地位を譲る。最後に、マネタリズムと変動相場制に媒介されて経済のグローバル化が進み、経済社会は各種規制の緩和によって著しく柔軟なものへと改造される。

 このような、英語圏で生まれた経済理論に則して図式化された20世紀史の理解は、言うまでもなく歴史研究の必要を満たすものではない。本稿では、この図式から漏れた重要と思われる史実を掘り起こすとともに、経済理論と時代とのかかわりを問うことにしたい[1]

 とりあげるのは2人の理論家ジャック・リュエフ(1896-1978)とジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)である。ほぼ同じ時代を生きたリュエフとケインズは、一方はフランス、他方はイギリスという異なる文化圏を背景にもち、しかもアプローチも主張も互いに正反対であった。2人は経済、社会、政治を一体のものとして扱うことのできた、事実上最後の政治経済学者でもあった。ケインズは経済学に革命を起こしたと言われるように、着想の斬新さにおいてきわだっていた。一方のリュエフは、古典派から新古典派へとつづく経済学の古典理論に忠実であった。とはいえ、彼は単なる保守的な経済理論家ではない。彼には革新的な一面もあった。たとえば、1938年に大陸欧州の自由主義者たちとともに新自由主義(ネオ・リベラリズム)を立ち上げている。

 リュエフの名は大陸欧州諸国以外ではあまり知られていないが、20世紀を代表する経済学の巨人、ひいては知の巨人とも言える存在であった。彼はケインズと同じく、エリート財務官僚として職業生活をスタートさせている。しかしケインズとは違い、財務官僚としてのキャリアを全うしている。彼は官僚としての顔の他に、経済学者、哲学者、大学教授、EEC司法裁判所判事という4つの顔をもち、浩瀚な6巻本の著作全集を残している。主著は経済学と社会学にまたがる基礎理論に捧げられた2巻本の大著『社会秩序』(1945)である。

1. 価格メカニズムによる調整は、是とすべきか、非とすべきか 

 リュエフは国際連盟事務局に出向中の1928年秋に、ケインズとともにジュネーヴの国際高等研究院に招かれ、公開講演を行うとともに2人で議論を戦わせている。彼は当時34歳であった。その3年前に、イギリスで失業者が異常に多いのは失業保険制度に原因があるとする衝撃的な論文を発表し、彼の名はヨーロッパ中に知られていた。一方のケインズは、気鋭の革新的な経済学者として名声を博していた。この2人を、高等研究院の院長で産業革命史研究の大家ポール・マントゥーが対決させたのである。

 リュエフはロンドン駐在財務官の時代にもロンドンおよびケンブリッジで講演を行い、会場に来ていたケインズと論争している。1931年には、ケインズの求めに応じて『エコノミック・ジャーナル』誌(以下、JEと略称)に寄稿し、ケインズと激論を交わしている。

 第二次世界大戦が終結し戦後復興が始まると、西側諸国はケインズ主義一色に染まった。ケインズは1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(略称『一般理論』)を出版していた。この著作で展開された理論が、長期のデフレと大戦で経済が縮小均衡に陥っていた西側諸国の政策当局者たちの眼に、経済的繁栄と社会平和をもたらす救世主として映ったのである。1946年に、リュエフは時流に抗い、『一般理論』を全面的に批判した論文「一般理論にあらざる『一般理論』」を発表する。ただしケインズはその前年に没していた。

 リュエフとケインズの論争は価格メカニズムよる調整をめぐるもので、経済理論レヴェルのものであった。経済学の古典理論によれば、価格が自由に変動することによって調整がなされ、経済は均衡する。ケインズはこの古典理論を否定し、市場経済には、財政・金融面からの公権力の介入が必要であると主張する。これにたいしてリュエフは、自らの理論研究にとどまらず、前出の失業についての実証研究、およびフランスを中心とする西欧諸国の国際収支についての同じく実証研究にもとづいて、価格メカニズムはさまざまな障害を乗り越えて厳格に機能していると主張して、一歩も譲らなかった。

 リュエフはケインズによる理論構築にも重大な問題があると言う。たとえば『一般理論』においては、有名な流動性選好仮説以外にも、中央銀行が通貨の流通量を決めている、国内市場が各所でブロックされているなど、いくつかの暗黙の了解事項が存在する、と。もとより仮説や前提を設けることに合理的根拠があるなら問題はない。だが、合理的根拠がなければ理論の信頼性は失われる。リュエフによれば、ケインズが設定した仮説や前提にはそうした根拠がない。それゆえ彼は「『一般理論』は一般理論の名に値しない」と言い切る。ちなみに、ケインズと親しかったロンドン大学LSEのフリードリヒ・フォン・ハイエクも、後年(1966)に『一般理論』に重大な欠陥があることに早くから気づいていたと証言し、ケインズのこの著作を、「時事論説を『一般理論』と称した」と批判している。

 では、なぜケインズは強引と思える仮説や前提を多用したのか。リュエフのケンブリッジ講演を聴いたケインズが1931年5月20日付でリュエフに送った書簡のなかに、この疑問を解く手掛かりがある。ケインズはこの書簡で、リュエフの講演を理論面で高く評価した後にこうつづけている。「私が思うに、あなたは、諸構造はそれ自体で元の構造に調整されるとしていますが、私はこう考えます。あなたが当てにしている柔軟性は空想であり、われわれは柔軟性を当てにせずに機能し得る装置を構築しなければならない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、と」(傍点は引用者)。この言葉を敷衍すれば、ケインズは自らが構築しようとする理論に合わせて仮説や前提を設定した可能性も、あながち否定できない。

 歴史研究の側から見て興味深いのは、2人の主張が新しい時代への強烈な、しかも相互に異なる危機意識と不可分な関係にあったことである。先のJE 誌上の論争において、経済理論の範囲を逸脱した批判の応酬が行われている。リュエフはケインズをこう批判する。市場の管理という発想は「自由主義経済」と「管理経済」のいずれを選択するかという問題にかかわっており、「経済理論の観点よりも政治的観点から見てきわめて重要である」。なぜなら、それは「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」からである。やや唐突と思われるので、別の視点から言い換えてみよう。市場経済においては、無数の経済単位(個人、企業、行政機関など)が価格の変動に日々刻々、反応して自由に行動する。その結果として調整がなされ、均衡が成立する。市場を管理することは、そうした自由な行動を制限するということであり、その行き着く先は権威主義経済=権威主義国家である。

 この批判にケインズはこう反論する。価格メカニズムによる調整は社会のさまざまなカテゴリー、なかでも最大多数を占める労働者に痛みを与える。それゆえ「不可能とは言わないまでも政治的、人道的に困難である」。さらに、リュエフが調整の好事例としてフランスの金本位制復帰にあげたのを捉えて、激しい言葉で応酬する。戦後フランスの混乱ぶりを見れば「調整が円滑に行われた好事例などとはとても言えない。自身がフランス人であるリュエフ氏が豌豆の鞘を剥くように容易なことを証明するのに、フランスの戦後史を引用するとは、何と物忘れの酷いことよ!」。しかしケインズは、「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」という、自らに向けられた批判には沈黙している。

 2人の間で争われていたのは調整の是非である。ケインズは調整が政治と人道の両面から見て困難であるとし、既存の制度や慣行を変更しなくて済むシステム、すなわち公権力によって管理された市場経済の構築を選択する。しかしリュエフによれば、調整がなされず、経済の不均衡が放置された社会は存続できない。仮に調整を財政・金融政策によって先延ばしするなら、経済は危機に見舞われる。それさえ無視して調整をさらに先延ばしすれば、最終的に市場の暴力によって調整が強行される。それゆえ介入を可能な限り控えて経済を日常的なミクロ・レヴェルの調整に委ねるべきだと、彼は言う。

2. 国際通貨制度の政治経済学―至上命令と化したデフレの回避

 19世紀末に金本位制が主要諸国に普及したことにより、国際金本位制と呼ばれる非公式の国際通貨制度が成立した。この制度は第一次世界大戦を契機に消滅し、以後、再建されることがなかった。国際通貨制度は世界経済の基盤となるものであるが、そのあり方をめぐってもリュエフとケインズは真っ向から対立した。

 問題の淵源は第一次世界大戦にある。この大戦を通じて世界の金がアメリカ一国に集中し、他の諸国には通貨発行に必要な金の確保が難しくなった。アメリカがドルを大幅に切り上げれば金本位制のメカニズムにより金がアメリカから流出し、問題は解決する。だがその場合にはアメリカ経済がデフレに陥る。デフレを回避しつつ、国際通貨制度を再建するために考案されたのが金為替本位制である。この通貨制度は金と交換が可能な新旧2つの大国の通貨(ドルとポンド)を準備として各国が自国の通貨を発行する制度である。この制度の普及を主導したのはイギリスである。大戦後のイギリスにはもはや経済大国の面影はなかった。しかし他の諸国がポンドを準備として用い、イングランド銀行が金の国際的移動を「中央銀行間協力」の名のもとに管理できるなら、イギリスは基軸通貨国になることができる。金為替本位制はアメリカだけでなくイギリスにとっても都合のよい制度だったのである。

 このような大戦後の状況にすばやく反応したのがケインズである。彼は1920年代初頭から、金本位制への復帰はデフレを招くとして、通貨発行を金から切り離すべきだとする「修正金本位制」の側に立って論陣を張った。これにたいしてフランス政府は、イギリスが採用した国際通貨戦略(金為替本位制、金移動の国際管理)を「帝国主義」であるとして強く反発した。リュエフはこのフランスの主張―すなわち「通貨正統主義」―を、財務官僚と経済理論家の二重の資格で理論面から根拠づける役割を果たしていた。

 第二次世界大戦後も世界の金はアメリカに集中した。問題の構図は第一次世界大戦後と変わらず、再建された国際通貨制度も超大国アメリカの国民通貨ドルを基軸とする金為替本位制(いわゆる「ブレトンウッズ体制」)となった。この通貨制度は、デフレの回避とアメリカによる通貨覇権の掌握という経済的ならびに政治的要請を満たすものである。

 ところで金為替本位制には2つの重大な問題が伏在していた。第一に、第一次世界大戦後の復興が進み、仏、独、日のような主要諸国がドルやポンドを金と交換するようになれば、基軸通貨国の金準備が減少し金為替本位制は立ち行かなくなる。実際、1928年にフランスが金本位制復帰を宣言すると、イギリスからフランスへ金が流出し、ポンドが危機に陥った。イギリスはフランスに金の放出を迫っただけでなく金融制度の改革をも要求したが、フランスはいずれの要求にも応じなかった。「中央銀行間協力」は画餅に帰したのである。イギリスは結局、1931年に金本位制を離脱し、これを契機にデフレが世界に波及することになる。

 第二次世界大戦後にも同じことが繰り返された。主要な欧州諸国の中央銀行は1960年代に入ると、金の備蓄を始める。例外は安全保障上の理由からアメリカと事を構えるわけにいかない西ドイツ(および日本)だけであった。アメリカからの金の流出は増えつづけ、やがてドルならびに国際通貨制度が危機に瀕することになる。

 金為替本位制に伏在する第二の問題はこの制度がインフレ体質だったことにある。リュエフは1930年代初頭に、金為替本位制に特有のメカニズムが市場経済の自動調整を妨げてインフレを惹起し、国際通貨制度を崩壊に導くことに気づき、論文に発表していた。そのメカニズムとは、ごく簡単に言えばこうである。金為替本位制のもとでは、基軸通貨国の通貨(ポンド、ドル)は信用によって他の諸国に移転し、最終的にその地の中央銀行の準備に繰り入れられる。当該中央銀行は、この外貨を即座に流出元のロンドンないしニューヨークに送り、その地の銀行に預金する。それは預金収入を得るためである。それゆえ、流出した通貨は事実上、流出元にとどまったままである。その間に、流出先の銀行でも、流出元の銀行でも、通貨(預金通貨)が乗数的に発行される。問題の通貨はくり返し何度でも貸し出すことができるから、世界規模で通貨の発行増が生じる。金為替本位制は「本質的にインフレ的」なのであり、大恐慌前夜のブームには金為替本位制も一役かっていた、とリュエフは言う。

 1950年代末に復興を終えた主要諸国が通貨の交換性を回復すると、アメリカからこれら諸国へ大量のドルが流出し、世界にインフレの兆しが現れる。それと併行してアメリカからの金の流出も増える。状況は大恐慌前夜に酷似していた。事態を放置すればアメリカはドルと金との交換を停止せざるを得なくなる。この時、リュエフは金為替本位制に特有のメカニズムを講演や論文で説明し、金為替本位制を廃止して金本位制に戻さなければ世界経済は崩壊すると警鐘を鳴らした。彼の危機論は国際社会に大きな波紋を呼んだ。リュエフは次々と欧米の主要都市に講演に招かれ、彼の講演原稿はすべて世界の有力紙に掲載された。彼は時の人となったのである。

 しかし、アメリカの財務・通貨当局者たちによる危機の診断はリュエフと違い、楽観的であった。彼らによれば、ドル危機の原因はアメリカの国際収支の不均衡にある。アメリカが対外支払いを削減し、国外から資金の流入を図れば、危機は短期間で克服できる。ただし、その場合には在外ドルが減り、国際流動性(国際決済用の金融資産)が減少する。将来、発展途上国が工業化し、成長するようになれば国際流動性の不足が生じる。それゆえ国際協力によって予め新たな国際流動性を創設しておく必要がある。この議論は、経済成長には追加的な貨幣が必要だとするケインズの信用理論を国際領域に拡大適用したものだと言われる。

 リュエフもアメリカ側の立論にケインズの影があるのを見逃さなかった。彼は理論と実証の両面からこう厳しく批判する。アメリカの誤りは国際収支のメカニズムと金為替本位制のメカニズムを正しく理解していないことにある。数量データは、アメリカでも国際収支の自動均衡メカニズムが厳格に働いていることを示している。それなのに国際収支の不均衡が常態化しているのは、金為替本位制のメカニズムに、すなわちドルが信用を介して国外に大量に流出していることに原因がある。金為替本位制を廃止しない限りドル危機は解決しない。

 アメリカ政府と西欧諸国政府の双方の専門家たちは、リュエフによる診断と対処法を無視した。わずかに大統領シャルル・ドゴールがリュエフに同調し、1965年2月、世界に向けて金本位制復帰を呼びかける声明を発表しただけである。だがドゴールも、国際的孤立を怖れて自らの声明に固執しなかった。かくてリュエフは孤立無援であった。とはいえ各種の情報源によれば、リュエフを支持する経済専門家は必ずしも少なくなかった。フランス大統領府だけでなくアメリカ政府の高官たちにも、また国際決済銀行の上級職員たちにも、リュエフの議論に共感する者がいた。リュエフの分析によれば、通貨覇権の維持に執着する超大国アメリカの世論とアメリカ政府に配慮し、彼らは自らの意見を公にできなかったのだという。

 リュエフによる危機の診断の当否は措くとして、その後の歴史に照らすなら、アメリカ政府の主張には分がなかった。同政府は結局ドル危機を自らの手で解決できず、1970年代初頭に金/ドルの交換制停止に追い込まれ、世界経済は長期にわたり深刻な混乱と不況に見舞われる。リュエフの預言は的中したのである。この一事は、歴史が形成される過程で経済理論(リュエフによれば「科学」)と、社会や政治がそれぞれどのような役割を演じるのかを、また両者の間に生じる齟齬が歴史に特有のダイナミズムをもたらすことを物語っている。

3. 自由主義の再定義と新自由主義の理論

 「長期的にみると、われわれはみな死んでしまう」―これはケインズが『貨幣改革論』(1923)のなかで用いたフレーズである。市場が均衡を回復するまで手をこまねいて待つわけにいかない、自由主義も経済学も短期の問題にこそ応えられねばならない、というのが言葉の含意である。まさに20世紀に登場した新しい課題の核心を言い当てた名言である。

 リュエフをはじめとする自由主義者たちがケインズの提起した課題に取り組むのは、第二次世界大戦前夜の1938年のことである。この年の秋にパリで、アメリカのコラムニスト、ウオルター・リップマンを迎えて国際シンポジウムが開かれた。出席者は仏、独、墺の有力な自由主義者たち26人である。5日に及ぶシンポジウムの主要な目的は、自由主義を再定義し、ケインズ的課題に応えられるようにすることにあった。当時の大陸欧州諸国に許された選択肢は事実上、ファシズムと社会主義しかなく、自由主義はまさに風前の灯であった。短期の問題に応えられない限り自由主義に未来はない―これがシンポジウムの出席者たちに共通する認識であった。討議の末に再定義された自由主義は、やがて「新自由主義」の名称で、大陸欧州諸国において市民権を獲得する。この新しいタイプの自由主義の誕生を理論面で支えたのはリュエフである。

 シンポジウムでは、自由主義は国家の介入、なかでも社会領域への介入を排除するものではない、とする点で出席者たちの意見は容易に一致した。それは当時流布していた夜警国家論で知られる19世紀の素朴な自由主義の否定を意味する。しかし問題は単純ではない。国家が介入すれば生活水準の向上に必要な効用の最大化が望めなくなる。では、国家の介入と効用の最大化との折り合いをどうつけるべきか。討議の過程でさまざまな意見が出されたものの、具体的な解決法を提示するまでには至らなかった。翌1939年に(新)自由主義者たちの国際的な結節点としてパリに「自由主義刷新国際研究センター」が創設される。具体的な解決法の検討はこのセンターの第一回セミナーにおけるリュエフの講演に持ち越された。

 リュエフはこの講演で独創的な新自由主義の理論を公にする。それは次の4項目に集約できる。①自由主義の本質は最大効用の実現ではなく、価格メカニズムが機能することにある。②自由主義のもとでも国家の介入は可能であるが、介入は価格メカニズムと両立するものでなければならず、また均衡財政の範囲内に抑えられねばならない。均衡財政の維持が必要なのは、財政赤字によってインフレが発生すれば介入の効果が失われるからである。こうした限定付きの介入は「自由主義的介入」と呼ばれる。③具体的な介入のあり方は経済理論(科学)から導かれた選択肢のなかから、民意を体現する政策当局が選ぶ。④自由主義者と多様な社会カテゴリー、なかでも労働者たちとの対話は可能である。むしろ対話は積極的に行うべきである。ちなみに、セミナーの会場には社会党系労働組合の指導者たちが出席していたが、彼らはリュエフが定式化した新自由主義を受け入れる意向を表明した。

 リュエフの新自由主義理論は第二次世界大戦後にさらに深められる。この深化した理論によれば、(新)自由主義は自然発生的なものではない。それは人間が長期の歴史を通じて漸進的に獲得してきたものであり、法制度によって守られるべきものなのである。リュエフは1958年の論文で、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の冒頭の一節を引用し、新自由主義についてこう記している。「人は自由なものとして生まれた。ところが、いたるところで鎖につながれている」。自由をルソーのように理解すれば、失われた自由を取り戻すには、人から自由を奪った障害物を取り除くだけでよい。だが新自由主義者はそうは考えない。自由は数千年の歴史を経て徐々に獲得されたものであり、自由は常に失われる危険にさらされている。「ルソーとは反対に、人は鎖に繋がれて誕生したのであり、人を鎖から解き放せるのは諸制度の進歩だけである」。新自由主義はまさしく「制度自由主義」なのである。

 大陸欧州では第二次世界大戦後に欧州石炭鉄鋼共同体と欧州経済共同体が創設された。欧州共同体は、すでに1928年に、リュエフ自身が構想していたものである。リュエフはこの共同体こそが制度自由主義としての新自由主義を具現するものであると言う。その理由を彼はこう説明する。2つの共同体の基盤をなすのは「共同市場」である。人、物、資本が国境を越えて自由に移動できるこの市場は、自由主義が目標とする完全な市場である。ただし、共同市場は閣僚理事会(石炭鉄鋼共同体の場合には最高機関)、委員会、裁判所という国家に似た諸制度と、それを運用するための法規類によって支えられている。

 かくて1938年のシンポジウムとリュエフによって定式化された新自由主義は、20世紀末にアメリカを介して普及した新自由主義とは異なる。それには3つの大きな特徴がある。第一に、最大効用の実現を絶対視せず、市場経済と社会との折り合いを重視する。ドイツではこのタイプの新自由主義を「社会的市場経済と呼び、またEUの基本法であるリスボン条約(2007)には「社会的市場経済」がEUの社会理念として規定されているが、その根拠はここにある。第二に、国家の介入を財政均衡の範囲内で容認する(介入自由主義、反インフレ主義)。第三に、自由を法制度の枠組みのなかに位置づけて保証する(制度自由主義)。

展望―グローバル化と21世紀の経済

 以上に紹介した諸事実は、英語圏で出版された文献類からすっぽり抜け落ちている。今日、一般に流布している情報には大きな偏りがあると見なければならない。こうした偏りを正す作業はひとえに歴史研究者の手に委ねられていると言えよう。

 ところで、リュエフ最晩年の1970年代に長期不況が発生する。これ以降、経済面から見た世界は大きく変貌する。国際通貨制度が変動相場制へ移行し、資本の国際移動が活発化する。資本の国際移動はやがて「金融自由化」の名のもとに制度化される。これにともない対外直接投資が急増し、発展途上国の工業化と旧社会主義国の市場経済化が進む。その結果、地球規模に広がる市場経済が存在感を増し、新たに「グローバル市場」、「グローバル経済」という用語が市民権を獲得する。有力な企業の多くが企業戦略の要にグローバル市場におけるシェア拡大を据えるようになるからである。グローバル市場を支配するルールは、市場原理主義とも言えるタイプの自由主義、「ジャングルの自由」に似た制度不在の自由である。

 国民国家の内部では、グローバル化する経済に経済社会を適応させるために国有部門の民営化、雇用・労働規制の緩和、法人税の引下げなどが実施される。この動きと軌を一にして経済のサーヴィス化や情報通信技術の発展と普及が進む。国家が果たしてきた所得の再分配機能は著しく低下し、所得格差や地域間格差が拡大する。かつて肯定的な評価をともなって語られた福祉国家も完全雇用も死語となる。一方、こうした新たな諸条件のもとでエネルギーや天然資源の消費が爆発的に増え、地球環境の破壊が加速する。ケインズやリュエフが活躍した国民国家と職業団体の黄金時代は完全に過去のものとなったかに見える。

 この間に経済学の中心はアメリカに移り、数学を重視する、多分に技術論に偏った経済学が主流となる。このために、21世紀の経済社会が直面している課題に正面から対峙し、独創的な処方箋を提示した政治経済学者は、筆者の知る限り現れていない。

 とはいえ政治経済学の伝統はEU諸国において生きつづけている。その根拠はEUが共同市場と単一通貨圏(ユーロ圏)を基盤にしていることにある。いずれも国家相互間ならびに国民相互間の「共同」や「協力」が基盤になっており、その社会理念は前述したように新自由主義(社会的市場経済)である。つまり、EUは変動相場制と「ジャングルの自由」の支配するグローバル経済への、いわばアンチテーゼなのである。

 このEUでは2007-08年の世界金融危機の後に、域内の金融部門にたいする監督と監視を強化するための機構改革が実施された。この機構改革の基礎になったのはジャック・ドゥ・ラロジエールを長とする作業班が作成した報告書である。ラロジエールは1970年代半ば-90年代初頭に、フランス財務省国庫局長、IMF専務理事、フランス銀行総裁を歴任した人物である。この報告書が作成された翌年に、筆者はラロジエールから聞き取り調査を行った。その折、彼はいかにも残念そうに次のように述懐した。

 フランス政府はブレトンウッズ体制崩壊後の国際通貨制度をめぐり、長期間アメリカ政府と秘密交渉を行った。交渉の場でフランスは、制度を柔軟なものに変えるにしても、一定のルールを設けてそれをIMFに監視させるべきだと主張した。これにたいしてマネタリズムで理論武装したアメリカ政府は、為替相場を自由に変動させれば各国に最適の成長が保証される、よって国際的な監視機関は不要であると主張し、譲らなかった。結局、アメリカに押し切られて変動相場制が公認され、IMFは無力化されてしまった。しかし変動相場制移行後の現実は、アメリカの説明とは裏腹に矛盾と混乱に満ちたものであった。

 ラロジエールは口には出さなかったものの、IMFが無力化されていなければ、世界の通貨・金融秩序は一定の規律のもとに置かれ、危機が発生しても酷いものにはならなかったはずだ、との思いがあったようである。グローバル経済の管理という発想は先年、来日してメディアを賑わせた『21世紀の資本』の著者トマ・ピケティにも見られる。自由は法制度のもとでのみ意味をもつというリュエフの考え方は、EUに、そしてまたフランスの識者たちによって確実に受け継がれているのである。

 最後に一点を確認しておこう。たしかに経済面から見た世界はここ40年間で大きく変化したし、マクロ経済の管理技術も洗練されたものになった。しかし変化は現象面にとどまり本質には及んでいない。経済は市場経済のままであり、市場経済に固有の矛盾は排除できないからである。それだけに、市場経済の何たるかに政治経済学の側から深く切り込んだリュエフとケインズ、この2人が直接・間接に戦わせた古典的論争は今日なお色褪せてはいない。


[1] この小論は拙著『自由主義経済の真実―リュエフとケインズ』(知泉書館、近刊予定)を、歴史研究者向けに圧縮して示したものである。典拠についてはこの単著の関係箇所を参照されたい。

(「世界史の眼」No.10)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その6・完)
南塚信吾

6.「測機舎村」-日本のニュー・ラナーク 

 では、発足後の測機舎の実際の動きを見てみよう。当時は測量機械のほとんどを輸入に頼っていたが、創業の目的は外国製品に負けない測量機械をつくるということであり、それを前代未聞の工場組織によって実現しようという理想を掲げて測機舎は生まれたのであるが、当初は生みの苦しみを味わうことになった。

 港区麻布笄町の48坪ほどの土地にある工場兼住宅で新生の測機舎が動き始めた。階下の14坪の工場に機械室から火造室までが設けられ、二階は時によって事務室、会議室、製図室、あるいは寄宿舎となった。いずれも優れた技術者であった細川、三上、松崎らは狭い工場で創意を発揮して制作に取り掛かった。ただ一人の非技術者であった末三は事務と外交をすべて引き受けた。また、夫人たちは昼の弁当作りに立ち働いた(松子『測機舎を語る』96-99頁)。

 あいにく、1920年に測機舎が発足してすぐにこの春には戦後不況が襲ってきた。理想の高い新しい組織がスタートし、高い技術力をほこる製品ができても、新興の工場の製品を買ってくれる市場もなく、苦しい立ちあがりであった。末三は測量機を担いで、売り込みに歩き回った。それでも初年は製品は売れず、機械の修理代がいくらか入っただけだった。組合員に給料は支払われることになってはいたが、実際にそこから支給を受ける人は少なく、みなが測機舎のために資金を残した。したがって、組合員たちの生活は苦しかった(松子『測機舎を語る』81頁;鹿子木『いのちの軌跡』82-86、88頁)。

 融資を受けるはずの太宰銀行は倒産してしまった(鹿子木『いのちの軌跡』88頁)。松子は金策に走り回った。松子は、「借金苦」であったと、金策の苦しさを吐露している(松子『測機舎を語る』111-122頁)。1920年の測機舎の様子について、鹿子木は、松子の『語る』(96-99)をも基礎にしつつ、こう回想していた。

「松子夫人の金策の苦労は続き、末三氏は一人で外交から事務員、小使いまで兼任し、便所の汲み取り口の修繕までやってのけた。重たい機械や資材を組合員と市電に持ち込んだり、手車で運んだり。私たちも組合員としての誓約を守り、月に5円か10円の生活費でも文句ひとつ言わず夢中で働いた」(鹿子木『いのちの軌跡』109頁)。

 この時期のことと思われるが、松子はこう語っている。「数年来専念してきたロシア文学研究もその他あらゆる私の趣味或いは欲望を抛って、測機舎の擁立――測機舎の目的貫徹のために腐心したのであります。而して常に泰然自若として従容迫らざる西川の後に従いて焦燥しながら、ある時は資金の調達に、ある時は販路の開拓に狂奔したのであります。「あんたのやうに気ばかり焦燥っても事業の大成は出来ぬ」と、西川はいつも落着いて私に忠告するのでありました。しかし騎虎の如き私の心は測機舎の危機に直面して、西川の云うが如く泰然自若としては居られませんでした。私は自分の力の及ぶ限りあらゆるチャンスを捕らえて測機舎の進歩発展に資せんとしました」(松子『測機舎を語る』143頁)。松子は自分の家の中の改革も断行し、節約にこれ務め、幼子たちに泣かれるほどであった。

 1921、22年はおそらく「地獄」の日々であったことであろう。これが耐えられたのは、測機舎が同志的な結合に支えられた組合組織であったからであろう。舎員全員の頑張りにより、しだいにいくつか注文が入り、借金もすることが出来るようになった。そして、14坪の工場ではあまりにも狭いので、1921年には測機舎は渋谷区猿楽町(天狗山)に移転し、いくらか広い工場になった。しかし、1922年の8月には、測機舎の創立に多大な貢献をした細川善治が2年の闘病生活の末、36歳で死去した(鹿子木『いのちの軌跡』110-111頁)。

 そこへ、1923年9月に関東大震災が襲ったのである。猿楽町の工場は無事であった。この大震災は測機舎には幸いし、「飛躍の契機」となった。東京市内では測量機メーカーはほとんど壊滅したが、測機舎は被害を免れた。しかも生産が軌道に乗り始めていたので測量機のストックは豊富にあった。したがって震災後の復興に際して測量機械の需要が激増すると、注文が殺到した。この際、末三は、価格を吊り上げたりせず、被災地の需要家には逆に一割の値下げをして「お見舞いの徴意」とした(松子『測機舎を語る』138-139頁)。「こうした正直さ、誠実さが、西川社長夫妻以下の我々が団結を保つ原動力となった」と鹿子木は回顧している(鹿子木『いのちの軌跡』120-123頁)。

 このあと、こうした誠実な経営・営業と優れた技術によって測機舎は大きく成長していった。猿楽の工場も手狭になったので、1925年には、世田谷区三宿に新工場を建てて移転した。三宿では、670坪の敷地があり、地下一階、地上二階建ての鉄筋コンクリートの工場ができた。二階は娯楽室、集会場となっていた(鹿子木『いのちの軌跡』126頁)。ここで測機舎は業績を拡大し、全国的な測量機メーカーとなっていくのである。

(1935年頃)

 『東洋経済新報』は、こうした測機舎の動きに注目した記事を載せた。1926年8月21日の同紙は、「生産組合『測機舎』の発展と其悩み」という記事を載せ、その成立から始めて現在の成功を紹介し、その独特の組織を特筆した。記事は、舎が資本家によってではなく、工場労務者自身が管理・経営する生産組合であることを詳細に説明し、その成立からの歴史を追って、西川末三の手腕を高く評価し、また舎の技術力の高さを評価して、現在の業績が目覚ましいものがあると称賛した。ただし、記事は、舎はいつまでこの組合組織を維持できるのか、将来的には、株式会社などの組織に変更せざるを得なくなるのではないかと危惧していた。これは優れた記事であった。

 さて、1929年10月に始まる世界恐慌は、日本をも襲い、測機舎も一時は緊縮に努め、末三はいち早く手を打って、組合員の月給を5%削減したりした。しかし、他の経済界に比べれば被害は軽微であったし、すでにかなりの内部留保金も持っていた(鹿子木『いのちの軌跡』146-147頁)。1931年には業績は回復していた。この時期、『大阪朝日新聞』(1931年12月30日号)は測機舎について、次のように報道していた。

≪不景気をよそに栄ゆる我等の「工場」-協力の実は結ぶ、ボーナス三十五割、我国最古の従業員管理工場、東京世田ヶ谷の測機舎≫

「従業員が協力して経営する共同管理の工場で、不景気なこの歳末に平均三十五、六割のボーナスを分配したという耳よりな話—一般工場界が火の消えたような不振に四苦八苦している折柄、この羨ましい好話題を生んだ工場は、全国で最古の管理工場として知られている東京市世田ヶ谷町三宿の測機舎だ。」

「工場の組織は出資組合員二十五名、准組合員十七名が中堅となり、各自一切の責任を分担して、「我々の工場を盛り立てろ」との意気込みで健闘している、工場創立以来功労のある従業員は理事長西川末三氏を始め九人で、一万円以上二万円の出資者が八人、組合員が分配する毎月の給料は平均百十円内外、ほかの工場では見られない素晴らしい待遇に恵まれている、各組合員の共有となっている現在の工場資産は三十万円に達し、この外十一万円の純益積立金があるという状態だ。」

 つまり、組合組織の利点が見事に発揮されているというのである。しかも新聞はこう続けている。

「一昨年以来従業員の工場共同管理が滅切り殖え、全国に三十余を算えるに至ったが、東京では星協力組合、中島鋳工場、五木田の丸一木工、砂町奥村などの各製材所があり、神奈川県鶴見にも吉野製材所があり、何れも昭和四年以来の経営でまだ創業時代にあるため、測機舎の如く好成績を挙げていないが、比較的好調をたどって「我々の工場」を盛り立てている。」

 先駆的な測機舎に続いて、生産協同組合方式の企業が日本で次々と生まれていたことがわかる。中島鋳工場というのは、中島製鋼所(1930年1月創立)のことであろう。

 そして、1932年からの高橋是清の財政政策により、緊急の公共土木事業が開始されると、測機舎はその独特の組織のゆえもあって、急速に回復した(鹿子木『いのちの軌跡』148頁)。1934年ごろには、1500坪の敷地と400坪の建物、分工場を加えて、百数十人の従業員を有する「日本第一等の測量機械工場」になった(松子『測機舎を語る』160頁)。

 測機舎の新しい三宿の工場は、青山、渋谷から通じる大山街道から北へ上ったところで、三宿神社の先の、小高い丘の上にあった。その測機舎を中心に従業員の住宅が次々と新築された。当時としてはスマートな家がたくさん建ったので、地元の人はこれを「測機舎村」と呼び、先の『東洋経済新報』は「新しい村」と呼んだ。いずれも「敷地百坪内外、建坪三十坪前後」といった「至極好適な住宅」であった。「いはば測機舎という労働団体を中心とした一瞬美しい自由平等の村」が営まれていたのだった。松子は十数年前の「資本主義工場」時代の貧弱な生活に比し、従業員たちの生活はくらべものにならなかったと自負していた(松子『測機舎を語る』180-181頁)。これは、当時としては先進的な住宅資金貸出制度を測機舎が持っていたから可能だったのである。1926年に実施されたこの制度によると、「労務出資者にして一家を構え、かつ貸出額10分の5以上の金銭出資を有する者」は、3000円を限度として、年7分の利子で、貸付を受けることができた(松子『測機舎を語る』70-71頁)。これによって、測機舎の周りには、13軒のスマートな住宅ができたのである。

 松子は、こういう平等のほかに、さらに別の平等についても指摘している。をれは、「各組合員の資本の独占の制限」であった。松子は、それは、測機舎への金銭出資を、一人につき2万円以上所有することはできないとする制限であったという。こういう規定はいつできたのか不明である。これは1920年の規約の第8条にある「各組合員の金銭出資額は資金総額の五分の一を超ゆることを得ず」を指しているのではないかとも思われるが、定かではない。現状は、一万円以上の金銭出資をする人が十人以上もいて、出資の平等が実現していた。だから「測機舎で働いて居る誰もが、漸次肥り得る可能性を持って居る」のだと松子は言っている。しかも、「こうした利潤の独占を防ぐために、西川が創案したことが、偶然にして労農ロシアの私有財産制、すなはち「法定及び遺言による相続は・・・死亡者の債務を差引いた相続財産の総額が一万ルーブルを超えない範囲内に於いて許されるのである」と略一致せるところは、共産主義国にあらざる一小労働団体測機舎が、はるかに労農ロシアに冠たるものがありまして、一種の愉快と満足とを感ずるのであります」と自慢していた(松子『測機舎を語る』182頁)。

 1932年4月、測機舎の創業12周年を祝う会が開かれた。この会で、挨拶した末三は、1920年の「宣誓書」を読み上げて確認し、測機舎は、他の企業のように毎年の利益の増大を目指すのではなく、「利益を度外に置き、精神の結び付きである協力一致」を目指してきたのであり、「利益が皆無になっても心が固く結ばれて居れば我測機舎は決して滅びない」と断言した(これは最後に述べるが、今日でいうワーカーズ・コレクティヴの考えそのものであった)。その他多くの人の挨拶の後、最後に松子が挨拶して、こう述べた。測機舎は「偉大な使命を帯びて生まれた」のである。その使命とは何か。

「それは申すまでもなく、産業の独立―工場の自治、それでございます。言い換えまするなれば、横暴非道な資本家の重圧の下から逃れ出た新進気鋭の皆さんが、自ら産業の独立を標榜して、雄々しくも労働戦線に勇猛邁進された、偉大なる事実でございます。しかもこの事実は、行き悩んでいる現今の我労働界のために、大なる教訓となり、まつ有益なる研究資料であるとともに、我労働界に先づ第一に特筆すべき、異彩ある労働の収穫であると、私は信ずるのでございます」(松子『測機舎を語る』185、189頁)。

 こういう松子の社会主義的な発言がなんら抵抗なく受け入れられていたようであるが、そのことは重要なことであった。末三をはじめ舎内外の人々はこういう理解を程度の差はあれ共有していたのであろう。測機舎という特異な組織をうらで思想的に取りまとめていたのが、松子であったことが推測される。そして実際、測機舎の経験は「有益なる研究資料」となっているのである。先の労農ロシアとの比較といい、ここでの労働戦線への言及といい、測機舎が創立後の苦境の時期を乗り越えたあとの松子は、舎の歩みを社会主義という視線から見続けていたように思われる。彼女は社会主義を捨て去ったのではなかった。

 この12周年記念会の後、松子は社員の妻たちに積極的に働きかけた。そして、「測機舎婦人会」を作り、「婦人懇親会」を開き、社内給食を始めた。まず、1933年4月に「測機舎婦人会」を作った。それは、家族のものが集まって、各自の障壁を取り除き、相親しみ相助け合い、固い一団となって測機舎を表玄関からではなく、裏に回って台所の方から擁立しようという趣旨からであった。「組合員の夫人達は食事の世話から、或は資金の調達に、時には販路の開拓に粉骨砕身して働いた」。「測機舎の成功の陰には尊い測機舎夫人の力があった」ことを踏まえてのことであった。この「測機舎婦人会」の主催で「測機舎婦人懇親会」が翌5月に開かれ、会には会員と子供たちが100人も集まり、大いに楽しんだ。末三も挨拶し、各組合の家庭の人たちも測機舎の「心持ち」に共感してくれていることを「少なからず愉快に感ずる」と述べた(松子『測機舎を語る』212-225頁)。

 さらに松子は今日の「社内食堂」の先駆けを作った。すでに測機舎設立時の苦しい時に「昼の弁当は一つの釜の飯を食べよう」と呼びかけ、社員の妻たちによる食事作りが行われていたが、1933年10月から昼の弁当を「婦人会」が組織的に提供することになったのである。毎日当番を決めて50-60人分の昼食を準備したのだった(松子『測機舎を語る』256-275頁)。婦人会にせよ、社内食堂にせよ、松子は、女性の生き方を具体的な測機舎の中で、向上させ変革しようとしていたのである。

 このような特異な労働者の生産協同組合である測機舎は、まず、ロバート・オーエンの理想にどこか通じるものがあった。すでにみたように、オーエンはニュー・ラナークで労働者の賃金や労働環境を整備して、生産を高めただけでなく、さらに、協同組合を作ろうとして、アメリカにおいて、自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニュー・ハーモニー村)の実現を目指したのであった。

 しかしオーエンだけではない。それは、フ-リエのファランステールの考えにもいくらか通じている。これもすでにみたように、共同農場「ファランジュ」では、土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所「ファランステール」に居住するということになっていた。

 測機舎はオーエンのニュー・ハーモニーやフーリエのファランステールほどの共同性を持ってはいなかったが、協同組合であるという点で、オーエンのニュー・ラナークよりは共同性が進んでいた。明確なことは言えないが、松子らは、オーエンやフーリエの思想を学んでいて、無意識のうちにそこから取り入れられるものを取り込んだのではないだろうか。

 さて、1933年12月に末三と松子は趣旨を明記しない招待状を「近親知己及び測機舎関係者」85人に送った。集まってみると、これは末三50歳、末三の社会人生活30年、末三と松子の結婚25年を記念する会であった。ここには、末三の長兄の一男、次兄の順之も参加、ロシア文学の昇直隆らも参加して、それぞれお祝いのあいさつをした。とくに、昇は、松子がロシアの自然詩人として有名なブーニンの作品の翻訳をしていたが、「丁度数日前」ブーニンがノーベル賞を取ったことが新聞で報道されたと紹介し、25年も前にブーニンを理解し紹介した松子を褒め、彼女の名前も新聞で報道すべきだと述べた。末三の結婚や測機舎入りに反対していた長兄、次兄とも和解し、松子は「長い間心掛かりであった重荷を下ろしたような」爽やかな気分になったという(松子『測機舎を語る』226-250頁)。

 測機舎は、1934年8月に合名会社に組織変更した。西川末三以下28人が合名会社の社員となった。変更の理由については、鹿子木は、組合組織では社会的に不便な点があることと、組合員個々の所有権等も法的な保証を得られないからであったという。樋口は、第三者との取引上の障害があったからだという。つまり、組合では法人格が得られないので、融資を受けるにしても組合を代表する個人が代行せざるを得なくなるからであった。いずれにせよ、法人格化されても、労働者生産協同組合の本質は不変であった(鹿子木『いのちの軌跡』151頁;樋口『労働資本』56-57頁)。

 松子は1935年9月に『測機舎を語る』という著書を刊行した。それは検閲を考慮して測機舎が発行所となる私家本の形をとった。しかしこれは今日、日本最初の生産協同体・測機舎の歴史を知るための貴重な資料となっている。だが、松子はこの本の刊行の翌年1936年10月17日に、悪性リンパ腺肉腫のために逝去した。享年51歳であった(鈴木『広島県女性運動史』67頁)。松子は貧しい人や病気の人たちへの思いやりの大変厚い人であったから、その葬儀には会葬の人が絶えず、葬儀は一週間も続いたという(浅野豊和氏からの聞き取り)。

 鈴木は、松子の生涯を次のように評価している。「初期社会主義運動への参加、結婚、ロシア文学の研究。測機舎創立というようにいくつかのふしめがあったが、松子の生涯を貫いたものは、“平民社の女性”として培われた”明治社会主義“の理想であり、思想であった」(鈴木、67頁)。先に見たように、鈴木は、1909年における松子の「転向」を断定してはいなかった。ここに見るような評価が鈴木の本音であるようだ。筆者も同じ見方をしていて、松子の初期の活動と測機舎での活動を切り離して考えるべきではないと考えている。

おわりに―世界史の凝縮としての測機舎

 以上に見てきたように、測機舎は、ロバート・オウエンやシャルル・フーリエの社会主義思想を根本に持ったものであリ、ロシアのナロードニキ以来の社会主義思想や、ロシア革命のあとの「労働者統制」の実践にもなにがしかの影響を受けていたかもしれない。これらは松子の存在なくしては考えられなかったことであった。当時のいろいろな雑誌を見ればわかるように、世界の動きは積極的に紹介されており、社会主義についても様々な情報が入ってきていた。そういう中で、初期社会主義に入りこんできていたヨーロッパやロシアの社会主義思想という19世紀以来の一つの世界史の動きが、測機舎という存在に「土着化」したのであった。また組合運営における末三の忍耐強さと経営センスは、ほかならぬ台湾時代に培われたものであった。こういう意味で、資本の論理を抑え、労働者の価値を最大限に生かそうとした測機舎はまさに世界史の「土着化」に他ならないのである。

 一方、このような測機舎の独特の組織は、その後の世界史の中では、第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアにおける労働者自主管理につながっているともいえ、さらに最近では、ワーカーズ・コレクティブの考えにもつながってきているのである。1950年代のユーゴスラヴィアでは、国有企業ではあるが労働者が評議会を作って経営についての決定をし、自ら自主管理・実行をするシステムが樹立されていた。またワーカーズ・コレクティヴというのは、「働く者が集団を形成して労働と知恵を出し合い、資金を出し合い、集団で運営(経営)する事業体」で、「労働、出資、支配が三位一体となった働く人々による集団所有の事業体」である。その目的は、株式会社などのような「利潤極大化」ではなく、「集団を形成する仲間(ソサエティー)の協同目標」である。多くは、「生産協同組合」や「労働者協同企業」と呼ばれている。諸外国では早くから注目されていたが、日本では、1980年代から関心が高まってきている(樋口『労働資本』5-6頁)。本稿で見たように、1920年代の測機舎の組織、目的などはまさにこのワーカーズ・コレクティヴに他ならなかった。

 忘れてならないのは、松子が測機舎において作った婦人会や社内食堂のことである。1920年まで世界の動きを学びながら女性解放のために戦ってきていた松子は、具体的な女性の生き方を測機舎の中で、向上させ変革しようとしていたのである。女性解放という面でも世界史の「土着化」の試みを見ることができるということである。

 その後の測機舎は、軍の指示により1943年には株式会社になった。しかし、株式会社になっても、生産協同組合の要素を色濃く残した株式会社として存続した。確かに労務出資という概念はなくなり、組合員はたんなる持ち株労働者となった。しかし、株式会社になっても株主は労働に従事し、支配株主も存在しなかった。資本の支配に単純に順応することは潔しとしなかったのである(樋口『労働資本』58-59頁)。平等主義は続いていて、1963年に東京証券取引所市場第二部に上場するまで、会社には部長職、課長職などは存在しなかったという(浅野氏からの聞き取り)。  【完】

参考文献

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

(「世界史の眼」No.10)

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田中一生『追想のユーゴスラヴィア』が刊行されました

わが国におけるユーゴスラヴィア研究の礎を築いた田中一生さん(1935-2007)の著作集『追想のユーゴスラヴィア』が、このたびかりん舎より刊行されました。田中さんが執筆した論考のうち、前著『バルカンの心』(彩流社、2007年)に収められていないものが、31編収録されいています。田中さんは、かつての世界史研究所で顧問を務められており、その縁もあり世界史研究所が編集を担当しました。

内容は、歴史に関する諸論考を収めた「第1部 ドブロヴニクと中世バルカン」、イヴォ・アンドリッチをはじめとする文学に関わる「第2部 アンドリッチとその時代」、美術や映画に関する論考からなる「第3部 ユーゴスラヴィアの芸術世界」、その他のエッセイを収めた「第4部 ユーゴスラヴィアを想う」よりなり、巻末に、「追悼 田中一生」と題して、田中さんと近しい関係にあった方々の追悼文を収めています。

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「世界史の眼」No.9(2020年12月)

「世界史の眼」第9号をお届けします。今号では、木畑洋一さんに、今年刊行されたO.A.ウェスタッドの大著『冷戦 ワールド・ヒストリー』を書評して頂きました。岩波書店の紹介ページはこちら(上巻下巻)です。南塚信吾さんには、神川松子と測機舎をめぐる連載の第5回をお寄せ頂いています。

木畑洋一
書評:O.A.ウェスタッド(益田実監訳)『冷戦 ワールド・ヒストリー』上・下(岩波書店、2020年)

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その5)

年末も迫り、気候も日々、冬を感じさせます。皆さま、どうぞ気をつけてお過ごし下さい。世界史研究所が再スタートした2020年は、激動の中に終わろうとしています。世界史研究所の活動にご関心をお持ちくださった皆さまに改めて感謝申し上げるとともに、今後とも、更に活動を充実させるべく努めてまいります。

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書評:O.A.ウェスタッド(益田実監訳)『冷戦 ワールド・ヒストリー』上・下(岩波書店、2020年)
木畑洋一

 冷戦という現代世界史にとってきわめて重要な対象について包括的に学びたいと思った時、日本語で参照できる本は意外に少ない。しかも、一人の著者が統一した視点のもとに、その著者なりの歴史像にそって冷戦史を描いた本となると、残念ながら日本人研究者の手になるものは思い当たらない。外国の研究者の本で邦訳のあるものとしてすぐ念頭に浮かぶのは、ジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦 力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会、2004年)であるが、冷戦を「長い平和」と形容したことからも分かるように、ギャディスの冷戦像はあくまでもヨーロッパ中心的である。そのような冷戦像に大きな疑問符をつけて、いわゆる「第三世界」と米ソの関係を詳細にたどることによって、新たな冷戦史像を提示してくれた研究が、O.A.ウェスタッド(佐々木雄太監訳)『グローバル冷戦史 第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)であった。その著者がさらに時間的に視野を広げ、空間的にもより包括的な形で冷戦像を提示した結果が本書である。翻訳にあたったのは『グローバル冷戦史』の邦訳にも関わった第一線の国際関係史研究者たちであり、益田実他編『冷戦史を問いなおす 「冷戦」と「非冷戦」の境界』(ミネルヴァ書房、2015年)の寄稿者でもある。

 時間的な視野の拡大は、本書の叙述が1890年代から始まっていることに示されている。冷戦の起源といえば、最大限遡ったとしても1917年のロシア革命、あるいはそれを生み出した第1次世界大戦までということが常識であろう。それを19世紀末、20世紀への世紀転換期に求める理由として、著者は二つの問題に着目する。一つは、「アメリカとロシアが強烈な国際的な使命感をみなぎらせた二つの帝国に変容していった」ことであり、今一つは「資本主義とそれを批判する者との間に存在するイデオロギー的な分断が先鋭化していった」ことである(上26、以下本書の頁をカッコ内に示す)。これは重要な着眼点であるが、評者としては、第1点目について、とりわけロシアに関しては留保したい。一方、第2点目の方は冷戦の起源論として確かに首肯できる問題提起である。そのことは、冷戦の性格についての著者の議論に関わる。

 冷戦について、かつては資本主義と社会主義という社会体制をめぐるイデオロギー的対立を強調する議論が主流であった。しかし、社会主義圏の解体という形で冷戦が終焉を迎えて以降、冷戦下の東西両陣営の対立を権力政治的面からとらえてイデオロギー的側面を軽視する傾向が強まってきたという感がある。それに対して著者は、「冷戦は、そのイデオロギーの中心性とそれを信奉する人々の熱心さゆえに大半のものごとに影響をおよぼした」(下437)と、あくまでもイデオロギー的性格を重視する姿勢を崩していないのである。この点からみて、19世紀末から分析を始めることは的を射ていると考えられる。

 ただ、19世紀末から第2次世界大戦までの時期を扱った部分は、必ずしも多くなく、序章と終章を除く全22章の内、第1章と第2章の2章分のみである。本書を繙く前に評者が予想していたよりはるかに少なく、若干の不満が残った。

 しかし、第3章以降の冷戦史本体の叙述には、予想に違わずすばらしいものがある。ヨーロッパでの冷戦の展開についての記述は比較的オーソドックスであるが、前著につづき、非ヨーロッパ世界での冷戦の展開を、ヨーロッパと同列に目配りしながら、脱植民地化過程と関連させて議論する姿勢は他の追随を許さない。冷戦の最終的な終焉を示したソ連の崩壊について、「まさに脱植民地化の一つの事例であり、イギリスやフランスの帝国に生じたことを想起させるものだった」(下430)と論じていることには、我が意を得た感がした。個々の分析に立ち入る余裕はないが、例として、ソ連のアフガニスタン侵攻の前段階として、アンゴラややエチオピアの情勢を論じている点であるとか、冷戦終結時の東欧の変動にグローバルサウスの社会主義国の変容が先行していたとの指摘とかをあげておきたい。

 著者はもともと中国研究者として出発したが、本書でもその蓄積は大いに生かされている。たとえば第9章(上巻)の「中国の災難」という章は本書全体の中でも対象を最も詳細に描いている章である。一例をあげよう。文化大革命が始まる頃、毛沢東は杭州に滞在中ある講演のなかで、「諸君は徐々に現実と接するべきである。しばらくの間は田舎に住み、少々のことを学ぶべきである。・・・本物の分厚い学術書などを読む必要はない。小さな書物を読んで一般的な知識を少々身につければ十分だ」(上346)と語ったというが、この史料は、「筆者所有の謄写版複写」である(第9章注18)。

 また、インドの役割についてかなり詳しく論じられていることも重要であろう。

 本書の他のメリットとして、特に下巻におけるオンライン史料の活用・引用という点を最後にあげておきたい。本書は長期間を扱った通史であるが、細かな引用について丁寧な出典注がつけられている。たとえば、アメリカのジョージ・ワシントン大学にあるアメリカ国家安全保障アーカイヴでデジタル化されている興味深い史料も引かれており、評者は本書の叙述に導かれて原史料に入り込むということを度々行ない、学ぶこと大であった。

 こうした本書は、冷戦史を語る際にまず参照すべき本の一つであるといえよう。

(「世界史の眼」No.9)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その5)
南塚信吾

5. 日本における「空想的社会主義」の理解

 振り返るに、明治期において、ロバート・オーエンを含め社会主義はどのように紹介されてきたのだろうか。そして松子は社会主義文献とどのような接触をしたのだろうか。

 明治に入って最初に社会主義について紹介しているのは、管見の限りでは、箕作麟祥『万国新史』(1871-77年)であろう。この中で、箕作は、1848年革命期の「ソシアリスム」を論じていて、サン・シモン、シャルル・フーリエ、コンデシラン、ルイ・ブラン、プルードンを紹介しているが、ロバート・オーエンもマルクスもそこには入っていなかった(世界史研究所編『萬國新史』、225-226頁)。

 初期の社会主義を広めるのに貢献したのは、『六合雑誌』であった。『六合雑誌』は、1880年10月に小崎弘道,植村正久らが東京キリスト教青年会を起し,その機関誌として翌年に創刊したものである。『六合雑誌』は、社会主義運動への理解を示し,1898年に社会主義研究会が発足したのち,99年には安部磯雄が主筆となって、この研究会の機関誌的役割を担うようになった。そして1921年に廃刊されるまで、日清戦争後の社会主義運動に大きな影響を及ぼしたといわれる(『ブリタニカ国際大百科』)。広島時代、ミッション・スクールで学んでいた松子は、このキリスト教系の雑誌を読んでいたかもしれず、ミッション系の青山女学院在学時や、平民社に出入りしていた時期には確実に接していたのではないだろうか。

 社会主義者の思想が初めて系統的に紹介されたのは、『六合雑誌』第7号(1881年)に載った小崎弘道 の「近世社会党ノ原因ヲ論ス」においてであった。この中で、小崎は、「社会説(社会主義思想)」には三つの種類があるという。一つは、宗教家もしくは哲学者たちの「同信同説」のものが集まって産業を共同にするもので、インド仏教やユダヤ教やキリスト教などに見られるが、「英国オーウエン氏の共産法」もここに入ると一言言及されている。二つは、現在の社会に不満でその改良を欲するもので、イギリスのトーマス・モアやフランスのフオリエー(フーリエ)、ルイ・ブランク(ルイ・ブラン)などがここに入る。そして三つ目は、当今の説で、「地面資本等各自の所有権を廃し、貧富貴賤の差別を滅し、各自其幸福を共有せんと図る」もので、カール・マルクスが代表であるとして、その説を詳しく論じている(『六合雑誌』第7号、106-107頁)。この小崎の論文は,日本で初めてマルクス主義に言及した論文と言われるが、日本の初期社会主義の社会主義像はこのような全体像を持っていたのである。

 ロバート・オーエンについてやや具体的に紹介したのが、1891年の石谷斎蔵『社会党瑣聞』である。『社会党瑣聞』は、フランスやイギリスの社会主義者、つまりバブーフ、サン・シモン、シャルル・フーリエ、ルイ・ブラン、そしてロバート・オーエンらの経歴と運動を紹介して、とくにロバート・オーエンについては「英国社会党員ロバート・ヲーエン氏並にその主義の政社」という章を設けて、やや詳しく紹介していた。彼については、

「氏は自ら其資財を擲(なげう)ちニウ・ラナークと呼べる所に一の製造所を創立し、是に殖民の事業を初めたり。其主義とする所は、労働人を結合するの目的に出でたり。就中、労働者に向いて報酬の正しきと家計の整頓せざるべからざると、鰥寡(かんか)孤独を救恤(きゅうじゅつ)すべき事等、大に該社(=その会社)に益するところあり。」

と紹介していた(『明治文化全集』第 15巻、152頁)。ニウ・ラナークというのは、ニュー・ラナークの紡績会社のことで、オーエンはこの会社の社長をしていて、種々の改革をここで試みたのである。

 日清戦争後の産業化の進むなか、1899年の『六合雑誌』222号に発表された河上清「英国社会主義の木鐸ロバート・オーエンを論ず」は、オーエンの経歴と社会主義思想をまとめて紹介したものであった。それは、オーエンが、ニュー・ラナーク紡績会社の社長として、労働者の賃金、就業時間、幼児労働禁止、福祉施設の整備、労働者への家屋提供、日用品提供などの改革を行い、会社の業績を上げたこと、それに倣い、政府にも労働時間制限、幼児労働の廃止などの労働者保護の政策を提言し、さらに無償の義務教育や、公衆図書館設置、貧者への住居提供などを求めたことを、述べていた。こうして、オーエンは「実行的社会主義者」であったとされる。その上で、かれの思想が論じられる。その柱は、労働者は使役するのではなくその「品性」を高めていくことによって生産も向上するという考えで、その「品性」を高めるにはそのための「境遇」(環境)が準備されなければならないという「品性養成論」であった。したがって、「国富」はそれ自体が目的ではなくて、「市民の高尚なる品性」を要請するための手段なのだという。このようにオーエンの思想を紹介したうえで、河上は、オーエンはどのような政治経済組織を考えていたのかを「論述」していないので、自分の解釈を述べるとして、オーエンは、自由競争による利潤を廃するために、貨物の費用は需給の均衡によるのではなく、生産費によるべきだとしていたのであり、自由競争を否定して、土地などの私有財産を廃し、「凡ての貨物は社会共同の所有」とすべきとしていたのだと述べた。では具体的にどういう組織によるのか。河上は、オーエンは、利潤をあげてそれを配当することを目的とする「キリスト教的社会主義」の創立した「生産組合」には反対であったという。では、オーエンは、自分の政治経済組織をどう作るかというと、「民権」によるのではなく、「地主資本主等より成れる議会政府」に思想の実現を求めたのだとし、これを批判していた(『六合雑誌』222号、15-25頁)。

 この河上のオーエン理解は必ずしも正確ではなく、オーエンの「協同組合」については理解していなかった。オーエンは、「生産組合」に反対していたのではなく、ニュー・ラナークで労働待遇の改革をして生産を高めたあと、1820年ごろからは協同組合運動に関心を移し、生産と生活の共同化によって、資本主義の害悪に対抗しようとしたのである。永井義雄はこれを「協同社会主義」と呼んでいる(永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』、6-7頁)。そして、アメリカにわたって、1826年には、インディアナ州に自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニューハーモニー村)の実現を目指したのである。しかし、河上はこの協同組合については語っていないのである。

 とはいえ、この河上論文は広く影響を与えたといわれ、松子もこれを読んだはずである。のちの「測機舎」のことを考えると、松子はニュー・ラナークでの改革には共鳴したのではなかろうか。河上は、慶應義塾で福沢のもとで社会主義を知り、青山学院で社会主義とマルクスの勉強会を開いたりして、1897年、23歳のときに『万朝報』に初めて論文を出していた。松子が1904年に青山女学院に入ったときは、青山学院のそういう雰囲気が伝わっていたことと思われる(なお、河上は1901年にはアメリカへ留学していた)。

 しかし、河上でさえ「協同組合」については語っていないということは、大きな問題である。河上らが紹介したロバート・オーエンの「ニュー・ラナーク」事業は、あくまでも労働者の待遇改善という政策であった。しかし、それは測機舎の一面ではあってもすべてではなかった。測機舎の特徴は労使関係を否定した「労働者生産協同組合」という側面である。では、松子らは「協同組合」については、どこで学んだのだろうか。それを探らなければならない。鍵はつぎにある。

 自由民権運動の出身で、1880年には『万国史略』を出していて、その後社会主義に接近し、ジャーナリストとして活動していた久松義典は、著書『近世社会主義評論』(1901年)において、当時の社会主義理解を全体的に示していた。

 その「序論」において、久松はこう述べている。

「そもそも社会主義は、19世紀の新産物なり。その起源に遡れば、フランスのルーソー・・・等先ず自由平等の主義を唱道し、イギリスにてはロバート・オーウイン協同作業の理を説き、ドイツのヘーゲル、フィヒテ、ラッサル等これを顕彰し、もって漸く(ようやく=しだいに)発達せしが、その広く世にあらわれたるは、1817年イギリス議会にオーウインが初めて社会的建議を提出し、1830年フランス、サン・シモンの新言論出で、尋(つい)でフオーリール(フーリエ)の新計画起り、蹶后(けつご=すぐあとに)フランス革命(1848年革命のこと)の破裂あり、新社会党ルイ・ブラン、カール・マルクスの運動あり、終に1872年ハーグに開きし萬國連合大会において、社会党は断然として無政府党と分離し、ここに現今の社会的民政主義の純団体を生ぜり」(久松『近世社会主義評論』、4頁)。

 久松は、社会主義のルーツをルターまで遡ったり、ヘーゲルなどを社会主義の擁護者にしたり、不思議な議論を展開していて、当時の社会主義理解の状況を思わせる。本論で主に論じられているのは、サン・シモン、フーリエ、マルクスらの議論である。ロバート・オーエンについては、本論での議論はないが、この序論で述べられているように彼の位置づけは確かであった。

 しかし、注目されるのは、久松はこの本の中の第22章に「フオーリール新案共同農場共同合宿所、一夫多妻、自由恋愛、人倫の大変動」という章を設けてフーリエの「新計画」を論じていたことである。すでに述べたように、箕作麟祥は『萬國新史』において、フーリエを紹介していたが、その内容は、「財本、労働、才智の三者により、世界万民を糾合し、・・・従来の政府、法律、習慣などをまったく一時に廃絶して、全世界を一の巨大な労働社中(=労働組合)となし、・・・各人たがいに労働を厭わずかえってこれを歓娯となすに至らしむべき説」を唱えたというもので、具体的ではなかった(箕作麟祥『萬國新史』、226頁)。日本でフーリエの思想がまとめて紹介されたのは、久松において最初ではなかろうか。ここで、久松は、「協同作業」とともに男女の関係の平等化についてもフーリエの説を詳しく論じていた。これは松子の注意を引かないはずはなかったと思われる。久松は、フーリエの「新案」は、「日用生活の旧習」を刷掃し、「人の労働と富の配分」においてできるだけ不平等を取り去り、あわせて、「家族の組織男女の関係」までも「根本的に革新」しようとするものであるとまとめている。そしてフーリエは、1600ないし2000人の農業者からなる共同農場(ハランクス=「ファランジュ」)を構想し、そこでは土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所(ハランストーリー=ファランステール)に居住するという。そこでは、私有財産は全廃される。社員は、生産物の中から、各自の生活に必要な最低額を平等に取り、残りから「作業資本」を取り、残りの利潤を労働者に12分の5、資本主に12分の4、抜群功労者(才能)に12分の3を配分する。社員はその特性に応じて農工業の作業のうちの「一科」以上を執る。「何人も余分に労働するを要せず、不愉快なる仕事を執るに及ばず」。「自営自弁」である。またそこでは、役員職工の区別がなく、家事も共同合宿所のなかで行うので、男女の仕事が区別されることはない。そして、この共同体の中では、「男女の自由恋愛」は禁止されない(久松『近世社会主義評論』、100-113頁;久松については、猪原透「「自由民権」と「社会主義」のあいだ―久松義典の社会学研究をめぐって」『立命館大学人文科学研究所紀要』117号、2019年11月、367-397頁が参考になる)。このフーリエ理解はほぼ正確である(『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』、77-78頁参照)。

 ここに労働者生産協同組合と共同体と男女平等をともに組み込んだ思想があったのである。ロバート・オーエンとシャルル・フーリエ、これが松子の中に埋め込まれた思想のルーツではなかったか。

 このような本が出た後、松子は、台湾へ行き、1914年に帰るのである。その間に1910年に大逆事件が起き、社会主義者らは「冬の時代」を迎えるのであるが、1917年のロシア革命後、社会主義と共産主義への関心は強くなった。 とくに1919年はそういう関係の出版が集中して出た年であった。

 リチャード・イリー『近世社会主義論』(1919年)には、その「総論」において、京都帝国大学の経済学者田島錦治が社会主義について一般的に論じていて、社会主義の最初の実例として「ロバード・オウェン」を挙げ、こう述べている。

「西暦1835年、英国の工業家ロバード・オウェン氏は、社会を改良革新するの策を講ずる目的を以て一社を創立し、名けて「各国民各種族の協会」と称したり。而して此の結社たる、政事上の改革を計りたるに非ずして、社会上の改革に重きを措きたるが故に、其論議は世上より社会主義の称を得、その結社は社会党の名を得来たれり。」

(総論は田島の筆による。そのあとにイリーの社会主義論が訳されている。リチャード・イリー『近世社会主義論』)

 イリ―の翻訳である「本論」では、ロバート・オーエンの事業内容は書かれていない。しかし、バブーフ、サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブラン、プルードン、マルクス、ラサールらの活動と思想がそれぞれに章を立てて詳しく述べられていた。とくにフーリエについていえば、かれの「ファランクス」と「ファランステール」の構想が詳しく説明されていた。「ファランステール」においては、人は「己の嗜好に従ひて自由に」職業を選択し、労働は人間を愉快し、婦人も労働を愛し、こうして「貨物の生産」は増加する。また、「ファランクス」においては、共同生活のなかで、無益な職務は廃止され、警察も、弁護士もいらなくなる。そこでは、農業が最も奨励さるべき職業となり、工業と商業は社会の必要を満たすだけに限定される。そして、「人は其の能力に応じて労働し、其の報酬は各人勤勉の度と、財能の多少と、資本の大小とに比例して適当に分配される」というのであった(イリー『近世社会主義論』97-104頁)。この時期までに「空想的社会主義者」がこれほどまで詳細に日本で紹介されていたことは、驚くべきことである。

 しかし、この時期、社会主義への関心はロバート・オーエンやフーリエら「空想的社会主義者」を越えて広がっていた。例えば、松子とともに1908年の赤旗事件で捕まり入獄していた堺利彦は、入獄中に大逆事件が起きたので連座を免れ、事件後の「冬の時代」には雌伏して売文社を起こし、新旧の社会主義者を集め、雑誌『新社会』によってロシア革命の紹介を行った。そして1919年に山川均と『社会主義研究』を発刊し、1920年設立の日本社会主義同盟の発起人となっていた。かれは、この『社会主義研究』に幸徳秋水と共訳した『共産党宣言』を掲載していた。そのほか1919年には、河上肇が個人雑誌『社会問題研究』に、「マルクスの社会主義の理論的体系」を掲載し、その中に『共産党宣言』の部分訳を載せ、櫛田民蔵は『経済学研究』に、「社会主義及び共産主義文書」を掲載し、『共産党宣言』第三章を紹介していた。松子はこうした動きをしっかりフォローしていたはずである。  

 こういう社会主義への関心の広がりの中で、ロバート・オーエンには新たな関心も生じたに違いない。1920年の4月から翌年11月まで、河上肇は『社会問題研究』に9回 にわたって「ロバアト・オーウェン(彼れの人物、思想及び事業)」を連載した。これは、オーエンの自伝の基づいたもので、かれがアメリカに行ってニュー・ハーモニーの事業に取り掛かる前の、ニュー・ラナークを中心とした活動と政府への提言活動を扱ったもので、社会主義という観点からしっかりと分析した論稿であった。これはかなりな影響力を持ったといわれる。ただこの連載は、測機舎の発足と時を同じくしており、「参考」にはならなかったかもしれない。測機舎の規約ができる6月までには、河上はまだニュー・ラナークの改革の話までは書いていなかったからである(『河上肇全集』11、118-230頁)。

 まとめるならば、1920年の測機舎の設立までの時期に、1920年に出た河上肇の論文は別として、松子はそれ以前の社会主義関係の出版物は目にしていたと思われる。とくに『六合雑誌』は、松子の眼に触れていたに違いない。そういう松子の周辺にいた末三とその同志たちは、ロバート・オーエンやフーリエの考えをなんらかのかたちで直接間接に参考にして、測機舎の組織を生み出したのである。

参考文献

『六合雑誌』

箕作麟祥『萬國新史』世界史研究所編、2018年

イリー、リチャード『近世社会主義論』(河上清訳、田島錦治補)法曹閣書院、1897年(明治30年)初版、1919年(大正8年)再販 原書は、Richard Ely, French and German Socialism in Modern Times. New York: Harper & Brothers, 1883.

久松義典『近世社会主義評論』文学同志会、1901年

『河上肇全集』11、岩波書店、1983年

『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』中央公論社、1975年

『明治文化全集』第 15 巻、日本評論新社、?

永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』ミネルヴァ書房、1993年

(「世界史の眼」No.9)

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