1.エトロフ着
1843年(天保14年)5月21日(新暦6月18日 旧暦を先にして新暦を( )にいれて表示する)の午後2時ごろ、長者丸の一行6人を乗せた船は厚岸沖の大黒島に近づいた。一行は、八左衛門、七左衛門、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛の6人であった。船長はシトカのカーロヴィッチ長官の意を受けて、一行を厚岸に下ろそうとしてくれたのであった。しかし、人影が見えないので上陸は諦め、エトロフに向った。
5月23日(新暦6月20日)、船はエトロフ島のフルベツの沖に着いた。すると一隻のアイヌの小舟が漕ぎよせてきた。異国の衣類を脱いで、ずっと持ち続けていた漂流時の衣服を着ていた一行が、「我々は越中放生津岩瀬の者にて、6年前奥州唐丹湊出帆の所漂流いたし、此度「ロシア」より送り返されたる」ところだと伝えると、小舟の連中が縄梯子を伝って乗り移ってきた。松前藩の足軽小林朝五郎、エトロフ島場所請負人林右衛門の使いの三吉、清蔵、又兵衛、それにアイヌ人3人の、計7人であった。7名は歓待を受け、最後に朝五郎が長者丸6人の受取書をしたためた(池田編 1968 146-147頁;高瀬重雄 1974 152-153頁)。
朝五郎がしたためた覚書は次のようであったという。
覚
一.六人 大日本国之者
右の者共無相違請取申所如件
松前志摩守内
小林朝五郎判
年 号 月 日
ナチヤネヤカ城主
アドロフカロ兵衛様御内
ニカライアルキサンダロ殿
これを見て、ロシア人が日本の文字に大変興味を持ったので、朝五郎は、人麻呂の歌、
ほのぼのと あかしの浦の朝霧に
島かくれ行く 舟をしぞおもふ
と、もう一首を書いてあげたところ、ロシア人は大いに悦んで、お礼の紙をくれたり、酒宴を催してくれて、大いに交歓したのだった。
岸では、「打払令」に基づいて砲撃の用意をしていたが、朝五郎はそれを押さえてきたのだとのことであった。「打払令」は1842年に廃止され、「薪水給与令」が出されていたはずであるが、ロシア船の水の補給要求も拒否された。その後、6人は、船長らに別れを惜しんで、2隻のボートに分乗して、船を離れた。離れる際に、「時規」(時計)を渡してもらった(池田編 1968 143-148,251頁;高岡市立中央図書館 1973 35-36頁;室賀他編 1965 123-129頁)。
フルベツ港に上陸した長者丸一行は、1838年1月23日に漂流し始めてから、実に4年半ぶりに日本へ帰ってきたのであった。まず台場で漂流の年月などを聞かれたのち、漂流時の衣服を脱いで、新しい着物や下帯などをもらった。それからフルベツの会所で重役の小笠原判平らに漂流の次第を聞かれたりして、しばらくここに逗留した。フルベツには、大坂や松前から来ている船が5、6艘もあった。一行は、ここでは、越中伏木の徳三郎という船頭に赤飯や酒でもてなしてもらった。
7月20日ごろ、松前から来た役人とともに、6人はフルベツを出帆した。そのあと、クナジリ島を経て、ネモロ(根室)、アッケシ(厚岸)に至った。このアッケシで一行は、越中東水橋の石黒屋権吉と会った。かれは1200石積という大きな北前船でこの地に来ていたのである。東水橋は、大坂への廻米、蝦夷からのニシンなどの肥料を運ぶ船で栄えていた港である。石黒家はそこの大きな船主であった。権吉は、一行に煙草、手拭、足袋などを差し入れ、平四郎など海外で亡くなった者たちの法事を営んでくれた。このあと、一行は陸路をたどり、クスリ(釧路)、ヒロウ(広尾)、ミツイシ、シラヲイ、モロラン、ヲシャマンベなどを通って、9月6日ごろ松前に至った。
松前では、4年半前に泊まった上田屋忠右衛門という廻船問屋のところに宿が与えられた。松前には、越中東岩瀬の猪嶋久作というものが住んでいて、一行6人に饅頭、煙草、手拭、足袋などを差し入れてくれた。6人は町奉行所に数回呼び出され、取り調べられたが、とくにエトロフの小林朝五郎がロシア船に行った件につき、江戸で公儀から尋ねられない限りは、申し出ることは無用との申し渡しを受けた。
9月21日、松前の役人以下足軽など11人の付き添いで、6人は松前を出帆し、津軽半島の三厩(みんまや)に上陸、その後陸路で青森、一ノ関、福嶋、宇津宮、越ケ谷を経て、閏9月14日(この年は閏年で9月を繰り返した)、武州千住に着いた(池田編 1968 148-150頁;高瀬重雄 1974 95-105、152-155、182-193頁)。
2.江戸での取り調べ
長者丸一行は、翌9月15日に江戸下谷の松前藩邸に出頭し、翌16日に勘定奉行所に呼ばれた。松前藩の役人も同行し、ロシアからの土産の「時規」を含め、異国装束などを台に乗せ、30人余りの行列で向かった。この日は奉行の佐々木近江守に、庭先でそれぞれ名前などを尋ねられただけで、小石川春日町の大黒屋長右衛門という加賀藩領越中水橋出身の者の営む宿屋へ預けられた。これは1836年に越後早川村の五社丸の漂流民らが預けられたのと同じ宿屋であった。その時、シトカでもらった「時規」も大黒屋へ引き取った。その後、一行は大黒屋にて、不自由なく過ごすことになった。ただ、この賄料はだれが出すのかという問題があったが、結局船主の能登屋兵衛門が出すことになった(高瀬保 2006 53頁)。この後、別の勘定奉行の戸田播磨守から3、4度呼び出しがあり、漂流の様子などを聞かれたが、しかし、なかなか越中へ帰る許しは得られなかった。
その間に、七左衛門の病状が悪化し、10月13日に病死してしまった。検視を受けた後、浄土宗浅草誓願寺宗周院に埋葬した。残ったのは八左衛門、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛の5名であった。
しかし、1844年(弘化元年)も1845年(同2年)も、それぞれ一度呼び出しがあっただけで、吟味はなかった。1846年(同3年)に入って、春と秋9月に、小林朝五郎の件で聞き取りがあったが、松前で打ち合わせておいたとおり、朝五郎らはロシア船には来ていなくて、一行は艀にて上陸したと言い通した。これ以外は、公儀からのお調べはなかった(池田編 1968 150頁;室賀他編 1965 19頁)。
ただし、表向きの動きはなかったが、実は、江戸へきて1年ばかり過ぎた1844年9月ころから、一行への私的な聞き取りが始まっていた。中でも次郎吉への聞き取りが多かった。9月、かれは水戸藩の江戸屋敷にて藩主徳川斉昭ほか家来4、5人に異国の様子を聞かれた。当時斉昭は、幕命により強制隠居の身にあったが、改革志向が強く、異国の事情にも関心が強かったと思われる。1845年に老中首座となった阿部正弘に仕える儒者の石川和介、越後長岡藩の藩主で時の老中牧野忠雅の儒者宅にも数度招かれた。次郎吉はまた、肥前守の蘭学者伊東玄朴のところにも出向いて、4、5人の人に異国の事を話した。そのほか儒者やオランダ語のできる医者や画家たちにも呼ばれて話をした。次郎吉に比べて、長者丸の他のメンバーは呼ばれることは少なかった。太三郎は医者の伊東玄朴、六兵衛は古賀謹一郎宅へ一度ずつ呼ばれただけであった。金蔵は一度も呼ばれなかった。
次郎吉は、とくに幕府の書院番古賀謹一郎の屋敷(昌平黌内の役宅に住んでいた)には、1844年(弘化元年)秋から翌年秋にかけて30回も呼ばれた。古賀謹一郎は、昌平黌の儒学者古賀侗庵の息子で、のちに1855年に蕃書調所を作りその頭取になる人物であった。考えるに、当時、異国帰りの者との接触は厳しく警戒されており、このように何度も聞き取りに屋敷に出入りするには、家老筋からの了解があったとしか考えられない。石川和介―安部正弘の線が強く考えられる。間もなく1846年12月に昌平黌の儒者見習となった古賀謹一郎は、次郎吉らから聞いたことを、1849年(嘉永2年)12月に『蕃談』という書籍にしてまとめることになる(池田編 1968 233頁)。
ようやく1846年(弘化3年)10月23日に、長者丸一行がいったん帰村して、来年5月に再度江戸に来るようにとの御沙汰が出た。ただし、その間親戚の外には対面すべからずとの条件が付いていた。11月6日に足軽の同行で、江戸を出て、越中に着き、17日に加賀藩東岩瀬の役所に太三郎、次郎吉がまかり出で、18日に加賀藩小杉の役所に八左衛門、六兵衛、金蔵がまかり出て、そのあと帰宅が許された。
5人は、1838年4月23日に東岩瀬を出てから10年半ぶりに帰郷したのだった。だが、帰ってきた一行には苦しい生活が待っていた。「異国へ漂流いたし候」ゆえ、家族まで調査され、奉行所に届けられた。分かっている限りでは、太三郎は、一家7人の主として戻ったが、暮らしにゆとりはなかった。次郎吉は、独り身であったので、兄の七郎右衛門のところに世話になったが、兄は小舟で能登方面への運賃積をして細々と稼いでいるだけで、弟の面倒は見切れなかった。治郎吉が江戸へまた呼び出された時には、兄は旅費を村の肝煎から借りてやらねばならなかった(高瀬重雄 1974 165-167、170-171頁)。
帰村して半年して一行は江戸へ帰ることになった。1847年5月23日、足軽たちの付き添いで、八左衛門、六兵衛、金蔵が放生津を出発、翌24日に太三郎と次郎吉が東岩瀬から、再び江戸へ向けて出発し、6月7日に江戸に着いた。そして、11月11日に奉行所に呼び出された。だが、1848年正月より八左衛門の病気が悪化し、ついに3月5日に死去した。七左衛門と同じく浅草誓願寺宗周院に火葬した。残るは、4人、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛となった。6,8月に再度小林朝五郎の件につきお尋ねがあったが、この度は詳細な文書を見せられて審議を受け、4人はついに朝五郎がロシアの船に来たことを認めた。そこで「公儀に偽りを申し上げた」というので一時的に手鎖をかけられて大黒屋へ戻された。9月4日、4人は勘定奉行のもとに呼び出され、海防掛を兼ねた勘定奉行の石河土佐守より、各自が漂流したことに相違なく、お咎めはないことに落着したことを告げられ、絵の類は取り上げられたが、「時規」は引き渡された。そして4人は、10月16日、足軽の付き添いのもと、江戸を出発、帰村した(池田編 1968 150-151頁)。
一行が東岩瀬を出帆してから帰国するまでは5年であったが、帰国してから最終的に帰郷ができるまでには、5年半かかったことになる。
ここで気になるのは、なぜ江戸での取り調べがほとんど実質的になかったにも拘わらず5年もかかってしまったのか、なぜエトロフの小林朝五郎の件だけが実質的な取り調べの対象であったのかということである。幕府として、なにか気にすべき大問題がこの時期に起きていたのだろうか。対外的に危機的な問題が起きていたのだろうか。とくにロシアとの関係で問題が起きていたのだろうか。
たしかに、アヘン戦争のもたらした対外的危機は、国内における政治的危機と「天保の改革」の重要なきっかけになった。1841年(天保12年)に水野忠邦のもとで開始された「天保の改革」によって、幕府は国内の改革とともに、1842年に、異国船打払令を撤廃し、薪水給与令を発し、海防を強化した。そういう折、1844年に、オランダ国王の使節が「大日本国君」にあてた「親書」を携えて長崎へやってきて、幕府に開国を勧告した。また1844年には斎藤竹堂の『鴉片始末』が出て、イギリスの接近に注意を喚起していた。しかし、1845年2月から老中首座となった阿部正弘のもとで、幕府はオランダ国書の忠告を拒否し、同年7月、「通信は朝鮮・琉球に限定し、通商は貴国と中国にかぎる」と返答した。幕府にとって幸いにも、このような動きの後「約3年のあいだ、対外関係は小康を保っていた」のである(南塚 2018 31-32頁)。
したがって、もちろん海外事情の聞き取りということは必要ではあったが、切羽詰まった課題ではなかった。現に長者丸一行への聞き取りは数回でしかなかった。とすると、考えられるのは北方でのロシアの動きであろう。木崎が言うように、蝦夷地支配をめぐる幕府と松前藩の微妙な関係が問題であったと思われる(木崎 1991 169頁)。とくに、長者丸一行をエトロフにおいてプロミセル号に乗り込んで受け取った小林朝五郎らの行動が問題視されたようである。上述のように、一行は当初、松前での打ち合わせの通り朝五郎らがロシア船には来なかったと述べていたが、幕府が三吉らをも江戸に呼び寄せて調べた結果、真相が明らかになり、一行は処罰を受けることになったのだった。
3.帰郷と聞き取り
1848年(嘉永元年)10月に長者丸一行4人は最終的に越中に帰郷した。江戸を出たのが10月16日であるから、28日前後には着いていると思われる。先ず、富山藩の取り調べを受けた。一行全員が取り調べられたのかどうかは不明だが、次郎吉の口述は、『漂流人次郎吉物語全』という40頁あまりの小さな書類として残っている。また、六兵衛と金蔵が小杉岩瀬の郡奉行所で述べた口述も、10月29日の日付で残っている。
だが、一行4人はさらに加賀藩の聞き取りを受けねばならなかった。東岩瀬も放生津も加賀藩領だったからである。放生津からは六兵衛と金蔵、東岩瀬からは太三郎と次郎吉であった。4人は1849年(嘉永2年)3月に出府し、家臣遠藤数馬宅へ行った。そして3月17日に藩主前田斉泰(なりやす)が漂民たちを、庭のうすべりに侍らせ、障子を隔てて、「引見」した。これは昼過ぎから夕方まで続いた。この時、六兵衛と金蔵はロシア風の衣装をつけ、ロシア風のあいさつをしてみせた(池田編 1968 225頁)。さらに5月26日にも藩主別邸の金谷御殿へ召し出された。この時には一行は3人であった。この間に太三郎が病気で、3月25日には東岩瀬へ帰って、ついに5月9日に肺患で死亡していた。だから、5月26日には不在であった(高瀬重雄 1974 83,167、170-172頁)。
この間、定番頭御算用場奉行を務める遠藤数馬高環(たかのり)のもとで、熱心な聞き取りが行われた。次郎吉は、1849年3月11日から3度にわたって、計81日も金沢に滞在して、聞き取りに応じた。そして、遠藤高環は、1850年(嘉永3年)6月1日、『時規物語(とけいものがたり)』全10巻、25冊(10巻で1冊)を、藩主斉泰に献上した。編集作業は高環の息子等、遠藤家を中心に行われた(高瀬重雄 1974 174-176頁)。
加賀藩ではこのころ藩政改革が叫ばれ、西洋の砲術などを取り入れるよう動きが高まっていた。だから、海外への関心は強かったと思われる。長者丸の帰還者がもたらした情報に関心がないはずがなかった(木越 2001 168-169頁)。しかし、折から、1849−52年には、すでに述べたように、銭屋五兵衛をめぐって、河北潟埋め立て問題が起きて、藩政が揺れていた。また、藩主の前田家は折からの開国論議にはあまり関心を示さず、どちらかといえば消極的であった。そういうわけで、『時規物語』の価値が評価されるゆとりはなかった。『時規物語』は広く写本が出回ることもなく、藩の書庫にしまわれたままであった。また、人的にも、帰還者への待遇は悪かった。藩主は帰還者に障子越しに対面しただけであるし、彼らを藩の組織内に位置づけることもなかった。
4.帰還者のその後
長者丸一行は1838年(天保9年)4月に東岩瀬を出た時は、船頭の平四郎、親司(おやじ)の八左衛門、表(おもて)の八左衛門、知工(ちく)の太三郎、片表(かたおもて)の善右衛門、追廻(おいまわし)の六兵衛と七左衛門と次郎吉、そして炊(かしき)の五三郎と金蔵の10名であった。松前で表(おもて)が八左衛門に代わって金六になっていたが、10名で漂流したわけである。結局、越中へ帰京したのは、八左衛門、六兵衛、金蔵、太三郎、次郎吉の5名であった。だが、帰郷してから八左衛門は死去したので、残るは、六兵衛、金蔵、太三郎、次郎吉の4名であった。1849年に加賀藩の聞き取りを受けた後の4人のうち、太三郎は、加賀での聞き取りの最中に体調を悪くして、1849年5月には亡くなっていた。したがって、『時規物語』ができ上って藩主に献上されたときに生き残っていたのは、六兵衛、金蔵、次郎吉の3名であった。
このうち、放生津の六兵衛は、1857年(安政4年)の12月に、享年51歳で亡くなった。同じく放生津の金蔵は、1848年の帰郷後「金蔵一代限り御塩小売人」となることを認められていた(高瀬重雄 1957 48―49頁;高瀬重雄 1974 89-91頁)が、1863年(文久3年)に、43歳で亡くなったと言われる。
東岩瀬の次郎吉は、その後のことがよく分からない。1850年には38歳であったはずで、眼の病気にかかっていたようだ(高瀬重雄 1974 85-89,164-167,179-178頁)。ところが、近年、新たな発見があった。1852年(嘉永5年)6月10日に、越後国出雲崎湊の廻船問屋「佐野屋」の「諸国御客帳」に「水橋 米田屋治郎吉」が入津しているとの記載がある。このときは「空船」であったとある。水橋は東岩瀬のすぐ隣の湊である。さらにもう一つ、1857年(安政4年)6月18日に、同じ「佐野屋」の「諸国御客帳」に「東岩瀬 米田屋治郎吉」の名があり、「穴水すみ(炭)500俵」「かたすみ(堅炭)200俵」の取引があったことが記されている。「米田屋治郎吉」は「米田屋次郎吉」と考えてよい。ということは、次郎吉は、小規模ながら、船の仕事に戻っていたことを物語ることになる。この「佐野屋」の「諸国御客帳」には、越中からも多くの船が入っていることが記載されていて、次郎吉の兄の「岩瀬 米田屋七右衛門」の名も数回(嘉永6年5月3日、安政3年5月22日)見えていて、米田家のよく行く問屋であったようである(https://ameblo.jp/kitamaebune2/entry-12469628925.html;小村弌 1992 74,77頁)。しかし、次郎吉がいつ、どのように亡くなったのか、次郎吉の墓がどこにあるのかなどはわからない(高瀬重雄 1974 88-89頁)。いずれにせよ、プラマーは、次郎吉は「歴史上名前の残るべき人物」であると、高く評価している(Plummer 1991a p.119)。 〔完〕
参考文献
室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
高岡市立中央図書館『漂流人次郎吉物語全』高岡市立中央図書館 1973年
笠原潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
木越隆三『銭屋五兵衛と北前船の時代』北國新聞社 2001年
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年
小村弌『近世日本海海運と港町の研究』国書刊行会 1992年
高瀬重雄「漂流記蕃談に関する考察」『史林』1957年
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易 16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』彩流社、2008年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b
(「世界史の眼」No.66)






