世界史寸評
高市首相の台湾有事発言の時代錯誤性を批判する
油井大三郎

1.発端・・・2025年11月7日、高市首相は衆議院予算委員会の質疑で台湾に対する中国の軍事攻撃を日本の「存立危機事態」とする答弁を行った。それに対して中国側は「内政干渉」として激しく反発し、日中関係は一挙に険悪な状況に陥っている。この高市発言は、2015年に成立した安全保障法制に照らして法的に妥当するものなのか、また、米中関係の現状からして果たしてリアリティのある発言なのか、検証してみたい。

 高市首相の問題発言とは次のようなものである。「軍艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態にはなりうるケースであると私は考える」(『朝日』2025年11月19日)。

 ここでいう「存立危機事態」は、「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」の第二条4項でこう規定されている。「我が国と密接に関係のある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」とされている。

2.法的問題点・・・この規定による「我が国と密接に関係のある他国」とは台湾危機の場合でいえば、米国であると考えられる。つまり、台湾が独立を宣言し、これに反対する中国が武力で介入したことに対して、米軍が台湾を擁護するために軍事介入した事態を日本の「存立危機事態」と解釈しているのである。

 この主張の第一の問題は、1972年に日中が国交回復した際の共同声明で、中国側が「台湾は中国の不可分の領土である」と表明したことに対して、日本側は「十分理解し、尊重する」と表明していたこととの関連である。つまり、日本政府は、中国本土との国交回復にあたり、台湾が中国に帰属するという「一つの中国」論を受け入れていたのであり、今さら台湾の独立支持論に転換するのは自らの公約に反することになる。

 関連して、日本では、ロシアのウクライナ侵略と中国の台湾への軍事攻撃を同類のものとして論じる向きがあるが、ウクライナは明確に独立国であるのに対し、台湾は「中国の一部」として日本は認めてきたので、この類推はそもそも成り立たない。むしろ、ウクライナ侵略によってロシアも多大な犠牲を被っている事態が中国に台湾に対する軍事侵攻を自制させる効果をもつと考える方が自然ではないだろうか。

 第二の問題点は、近年の台湾で実施された世論調査によると、当事者である台湾の人々の約6割は「現状維持」を希望しており、独立支持は3割にとどまる点である(南塚信吾ほか『軍事力で平和は守れるか』岩波書店。2023年、p.238)。台湾が独立を宣言すれば、中国の軍事介入を招き、最も大きな犠牲を被るのは台湾の人々であることを台湾の人々は十二分に予想しているがゆえにこのような結果が出ているのである。このような台湾の世論状況を無視して、台湾独立を前提にして軍事的危機を煽る議論を行うのは台湾危機を利用して日本の軍拡を推進する者のためにする議論と言わなければならない。

 第三の問題点は、台湾で軍事紛争が発生した場合に、米軍が軍事介入する可能性がどれだけあるのか、という点である。米国には台湾関係法(1979年制定)があり、台湾への「防御的武器供給」の規定はあるが、米軍の参戦規定はない。それ故、米軍が参戦する場合には、改めて米国議会に承認を得ることが必要になるが、この間のアフガニスタンやイラクでの「対テロ戦争」に嫌気がさしてきた議員たちが簡単に派兵を承認するか、疑問である。とくに、「アメリカ・ファースト」を主張するトランプ政権は、最近、経済的利害を重視して、対中接近を優先する外交を見せているだけに、台湾問題で対中戦争に踏み切る覚悟があるのか、はなはだ疑問である。この点は現在の東アジア情勢の検討から後により詳しく検討したい。

 第四に、「存立危機事態」は、日米安全保障条約で同盟関係にある米国が台湾危機に軍事介入した場合に発生するもので、米軍なしで日本だけ単独介入する根拠にはならない。高市発言はその点を曖昧にして、台湾危機があたかも日本「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される事態」であるかのように主張するのは著しい飛躍といわなければならない。台湾の情勢がなぜ日本国民の生命や自由」などに危機を及ぼすのか、きちんと説明すべきである。

3.昨今の東アジア情勢から見た問題点・・・高市発言の前提には、台湾に中国が軍事介入した場合、米軍が台湾防衛のために軍事介入するということが自明のこととして考えられているが、その前提は昨今のトランプ政権の対中国政策の動向から妥当なものといえるのだろうか。

 この点に関する第一の問題は、2025年11月にホワイト・ハウスが発表した『国家安全保障戦略』文書との関連である。この文書では、「モンロー・ドクトリンのトランプ系論(Corollary)」として西半球を米国の安全保障に密接にかかわる地域として重視する姿勢を明確にして、勢力圏分割的な姿勢を明示している。また、インド太平洋地域に関しては、そこが世界の名目GDPの半分くらいを占める成長地域であることを指摘した上で「長期的に、米国の経済的・技術的優越性を維持する確実な道は大規模な軍事衝突を抑止し、防止すること」と明記している。その上で、台湾については、「軍事的な優位を維持することにより、台湾をめぐる紛争を抑止することが第一である。・・・米国は、台湾海峡の現状の一方的な変更支持しない」と述べている。

 また、他の所で、トランプ政権は、中国の市場開放をめざした、従来の対中政策が失敗だったと指摘し、「米国の経済的独立を回復するために、相互性や公平性を優先することにより、中国との経済関係をリバランスする」と主張し、そのためにも、「インド太平洋における戦争の抑止に、明確で絶えることのない焦点を当てる」ことを強調している。

 つまり、第二次トランプ政権は、何よりも中国との経済的な「リバランス」を追求し、インド太平洋における戦争の抑止を重視しているのであり、その前のバイデン政権と比較すると、中国とのイデオロギーや安全保障戦略上の対抗より、経済的な利害調整を重視する姿勢を強めている。

 その結果、10月9日には、中国が米国からの農産物輸入の代わりに、レアアースの供給停止を1年間停止する合意が成立した。また、10月末のアジア太平洋経済協力会議の折に行われた米中首脳会議では、半導体輸出関税を18ケ月間保留することで合意し、目下、米中間は関税戦争を停止して、歩み寄りの姿勢を見せているのである。そのような折に、台湾の軍事紛争に米軍が介入することを前提する「台湾有事論」を提起するというのは、全く東アジア情勢の展開を知らない情報オンチの発言か、または、意図的に東アジアの緊張激化を醸成しようとするためにする発言としか思えないのである。

 第二に、以上のような米中接近の現状との関連で、高市首相の「台湾有事」発言はトランプ政権にとっては不都合なものであり、11月25日には、トランプ大統領と高市首相の電話会談が米国からの要請で行われた。その場で、トランプは、前日に行われた習近平との電話会談で「米国側は中国にとっての台湾問題の重要性を理解する」と発言したことを高市に伝えたという。来年4月に習近平の訪米を予定している米中間では、米中対立を激化させる争点の浮上は避けたい意向が浮上しているのであり、それに逆らう高市発言はむしろトランプ政権からさえ警戒されるものであった。それが11月25日に日米の電話会談が急遽行われた理由であろう。

 トランプ大統領の発言には、一貫性がないので、この対中宥和姿勢が何時迄続くのか不確定な面があるが、少なくとも東アジア情勢の緊張緩和を促進する効果を持つのは確かだろう。この機会を利用して日中も緊張緩和を促進するのが日本にとっても利益になるのではないだろうか。しかも、10月30日にはやはりアジア太平洋経済協力会議の機会を利用して日中首脳会談が実現したのであるから、その機会を日中間の緊張緩和促進に持ってゆくべきだったのに、その1週間後に官僚の用意した答弁書にはなかった「台湾有事論」を個人プレイとして発言するとはどういうことであろうか。政治家としての情勢認識力を疑わざるを得ない。または、米中の緊張緩和に抵抗する対中強硬論者の「確信犯」的発言だったのか、心配になる発言であった。

 日本の世論調査では、高市発言を今のところ支持する世論が多いと聞くが、一時的な嫌中感情に流されず、法的や情勢論的な問題点を冷静に検討する姿勢が広まることを期待したい。

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世界史寸評
アジア世界史学会(AAWH)第六回ドーハ大会 参加記
吉嶺茂樹

 アジア世界史学会(AAWH)第6回大会は、2025年10月25-26日に、カタール国ドーハのドーハ大学院大学Doha Institute for Graduate Studiesにおいて、“ Gulf and the Globe”をテーマに開催されました。大会の概要と各パネルの詳細については、AAWHの下記URLから閲覧することができます。
https://www.theaawh.com

 今回の大会約一か月前の9月9日、ドーハ在住のハマス幹部に対するイスラエルのミサイル攻撃が行われたことは日本国内でも広くニュースになりました。この影響もあったのか、今回、対面での参加者はおよそ70名くらいでしたが、内容的には活発な討論が行われたと思っています。日本からの直行便も問題なく運行されていました。2009年5月に大阪大学で第一回の大会が開かれて以来、第六回のドーハ大会までのふり返りが最終セッションClosing Remarksで報告されました。2008年の Nankai Conference以来の研究会の歴史が写真入りで紹介されていたのが印象的でした。初代会長である、世界史研究所長南塚先生の写真も全体に紹介されました。

 今回の学会のテーマは、要項では、事前に次のような点が示されていました。

• Maritime Trade, Oil and a Diversified Economy
• Archaeology, Anthropology and Disease
• Political Ecology of Development in the 20th & 21st Century
• Politics of Nation in the Age of Globalisation
• Writing and Teaching of World History

 これまでのAAWH大会の中では、テーマの柱の一つとして、アジア各国の歴史教育の比較がテーマに取り上げられてきました。しかし、個人的な感想を述べれば、日本側が組織し私も参加した「歴史総合に関する歴史教育パネル」への参加は少数でした。日本の歴史教育が歴史総合必修化以降大きく変更されていることは私たち日本で歴史教育に当たっているものには大きな問題ですが、やはり日本の歴史教育に関する関心は、会場ではそれほど高いものではありませんでした。これは、会場が私たちのパネルだけ別会場であったということも理由にはなると思われますが、イスラム圏における歴史教育のあり方が様々な困難を抱えていることにも原因があると思われます。このことを、筆者はすでに以前の南塚先生主催の、”World History Teaching in Asia”Berkshire,2019にまとめられた研究会の中で、インドのSatyanarayana ADAPA先生から教示されていました。今回実際に会場の実務スタッフとして動いていた大学院生たちと議論するなかで、「歴史総合という新しい科目が日本では高等学校で必修科目として全員が学ぶ科目に創設された、私たちはそのことを議論に来ました」ということを述べましたが、スタッフの大学院生の中では、そもそも「教科書の中の歴史像を刷新する」ということの必要性をあまり感じていないということを知らされました。おそらくイスラム的な価値観と、歴史教科書の保守性という問題もあるのかと思われます。やはり日本は、彼らのようにイスラム圏で社会科学を研究する人たちにとって「少し遠い国」なのかもしれません。日本からは他にもジェンダー史パネルや高校大学双方での教育的なプログラムに関するパネルなど、日本側の参加者が大活躍でした。

 秋田茂前会長は、”GEOPOLITICS IN THE ASIA-PACIFIC REGION”と称する地政学のパネルなど、複数のパネル組織に始まり、司会進行など中心的なご活躍をされていました。この地政学のパネルは、1970年代前後の石油産業を中心とする国際的な貿易構造がどのように構成され、どのような構造を持ち、どのように解体していったのかを中心に分析する非常に刺激的な議論が行われたパネルでした。個人的にも、私の父が九州の石油販売会社に勤務しており、第一次オイルショックが中学生の時でしたので、眼の前で起きていたことの歴史的な意味を分析していただきました。他にも桃木至朗先生(日越大学教授)が1日目午後のKey Note Speechを行いました。逆に中華人民共和国、韓国からの参加者があまり見られなかったように思われます。さらにCovid19以降、オンラインでの会議が普通に行われるようになり、今回も多くのオンライン参加が見られました。筆者も前回のニューデリー大会ではオンラインでのパネル組織を行いました。オンラインでの接続や資料提示の問題は別にして、学会運営がこのようになってくると、対面で国際学会を行うことの意味が問われていくことになるかもしれません。筆者自身は2日間、ランチを共にしながらの会話から得られることも非常に多かったので、コーディネートは大変だと思われますが、今後もこのような対面での開催を検討していってほしいと思いました。

 私たちが組織したパネルは次のようなものでした。

Thema:Session 12 UNPACKING THE CHALLENGES OF JAPAN’S NEW HISTORY  EDUCATION  REFORM
パネルのオーガナイザーは徳原拓也さん(神奈川県立横浜国際高校)。

 報告者は荒井雅子さん(拓殖大学)の「学校史を用いることで生徒に歴史教育を身近なものとする」という前任の高校(立教大学新座中高等学校)での実践を通じた検討、徳原さんは教室の中でセンシティヴな課題を検討する際に、生徒に与える倫理的な葛藤の問題をどう考えるべきなのか、そして、矢景裕子さん(神戸大学付属中高等学校)が「歴史総合において使われる『私たち』とは誰なのか?」という課題を授業の中で検討し実践した結果が報告されました。私(吉嶺)は、現在国際バカロレアコースで担当している’IB History’と、日本の歴史総合教科書の間にある相違について、ナショナリズムと言う言葉と考え方がそれぞれの科目の教科書の中にどのような記述として現れているかを検討し、そのケーススタディとして北海道と沖縄の近代史を考えるという内容でした。この4本に対して、向正樹さん(同志社大学)と大西信行さん(中央大学)からの的確なコメントが行われました。向さんのコメントは、4人の報告者が描く世界史像というものが、それぞれどのように生徒の歴史認識像を変容させる可能性があるのかについてのものでした。大西さんのコメントは、日本の中世史研究を背景に、Covid19がよみがえらせた「日本史の中の中世的な伝統」を示すことで、社会の変容が歴史の記憶を呼び戻すことについての大変刺激的なコメントでした。

 1日目の最終セッションは、”From that Small Island“というドキュメンタリー番組の ディレクターズカット版上映会が1時間半にわたって行われました。このフィルムは、アイルランドという小さな島の古代から現代までの歴史を1時間半で振り返るというものでした。この監修をされ、番組にも進行役として登場するトリニティ・カレッジのJane Ohlmeyer先生によるコメントが行われました。大変興味深い内容でしたが、私の報告のテーマであるナショナリズムに引き付けていえば、「この小さな島から」というタイトルが示すように、アイルランドという小さい島から世界中に広がっていったケルト=アイルランド人が世界の各地でいかに活躍し偉大な成果をなしとげたのか、それは現代にどのようにつながっているのか、というストーリーを描いたものでした。そこではやはりアメリカの最初のアイルランド系カトリック大統領としてのケネディが賞賛されることとなります。会場で一緒に見た桃木先生の言葉と、「アジア世界史学会」という名称に引き付けていえば、ケネディとそのスタッフがのちにベトナムで何をしたのかが描かれていません。私は、北海道や沖縄で、明治政府が「内国植民地」化や「日本化」の過程で行ったこととの対比をしながら拝見しました。(でも、内容は大変面白く、映像としてもよくできていました。なお2025年11月19日水曜日の報道によれば、このフィルムはカリフォルニア・フィルムフェスティバルのドキュメンタリー賞を受賞したとのことです)。
From that Small Island wins documentary award at Californian film festival | Anglo Celt

 二日目の最後には、新しい会長として、南洋工科大学(シンガポール)のLiu Hong先生が紹介され、3年後の再会を約束して閉会しました。次の大会は順調にいけば3年後の2028年。アジア民族主義が台頭するきっかけとなった第一次大戦の集結から110年で、不戦条約と張作霖爆殺事件から100年となります。これから20年ほど、7回続く予定の大会で、AAWHは、アジアという場でのWWⅡとその記憶と向き合うことになります。その際にどのような議論が行われるべきなのか、さらに各国の中等教育での歴史学はこの課題とどのように向き合うべきなのか、アジア諸国との歴史の共有と共生はそもそも可能なのか…こういうことを考えながら、帰国の途につきました。

 

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「世界史の眼」No.69(2025年12月)

今号では、南塚信吾さんの「幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)」を掲載しました。全2回の連載予定です。また、千葉大学の栗田禎子さんに、藤田進・世界史研究所編『世界史の中の「ガザ戦争」』を書評して頂きました。

南塚信吾
幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)

栗田禎子
『世界史の中の「ガザ戦争」』(藤田進・世界史研究所編、大月書店)に寄せて

藤田進・世界史研究所編『世界史の中の「ガザ戦争」』の出版社による紹介ページはこちらです。

世界史研究所は、これまでも現代世界の理解を助けるさまざまな出版に関わってきました。是非お手に取って頂けますと幸いです。

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幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)
南塚信吾

 久米邦武『米欧回覧実記』(1878年)は、久しく日本の世界観がロシア中心に形成されてきたとしている。 

「文化元年(1804年)の9月、露国の使節レサノット氏の軍艦、長崎神の島に入港し、・・・全国太平の夢を驚かし、是より攘夷鎖国論は、沸然として沸起せり。此文化より嘉永安政の間に至るまで、鎖国の論家、外国の事情を研究するにあたり、先ず露国を畏憚する心を脳中におき・・」 (久米 1980 107-108頁)

 このため、「米欧」の事情を見ていない「井蛙の妄想」「妄想虚影の論」が日本に広がったというのだった。このレサノットとはニコライ・レザノフ(1764~1807年)のことである。レサノットの事件は、江戸期の日本が、それまでの中国中心の世界に現れた第一の「外国」としてロシアを強く意識し、ロシアを中心とした対外認識をする契機となったのである。

***

 フランス革命でヨーロッパが混乱している間に、東・北アジアでは、ロシアとアメリカが活動を繰り広げた。18世紀に入りじょじょに極東に出てきていたロシアでは、1799年に、レザノフがロシア皇帝の勅許を受けて国策会社ロシア・アメリカ会社(露米会社)を創立し、アリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を認められて、イルクーツク、オホーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動を始めていた。

 そして、1804年には、ロシアは通商を求めてレザノフを対日使節として長崎へ派遣した。レザノフは仙台の漂流船若宮丸の津太夫らを送還するために、バルト海のクロンシュタット港からナジェジダ号で出発して、南アメリカの南端を経由してカムチャツカのペトロパヴロフスクに入り、そこから長崎へ行って日本と交渉したのであった(木崎 1991 85-96、110-115頁;森永 2008 30-39,135頁)。

 奥州の若宮丸(800石、16名乗り組み)は、1793年(寛政5年)12月(旧暦11月)、石巻から江戸に向う途中、仙台沖で漂流し、1794年6月にアリューシャン列島に漂着した。漂着したのは津太夫ら14人であった。14人は、オホーツク、イルクーツク、モスクワを経て、ペテルブルクへ送られて、そこで8年間を過ごした。やがて、津太夫ら4名は、1803年にロシアの軍艦ナジェジダ号で,対日使節レザノフと、クルーゼンシュテルン艦長の率いる世界一周周航に乗ってロシアを出発、イギリス、ブラジル、ホーン岬を経て太平洋に出て、ハワイ諸島(オアフ島か)に寄港、そのあとカムチャツカに寄って、1804年(文化元年)10月(旧暦9月)に長崎に到着した。日本人として初めての世界一周であった。津太夫らの記録は大槻玄沢による『環海異聞』(1807年)として残っている(大槻他 1986 276頁;宮永2013 10―13頁)。

 しかし、長崎でのレザノフの交渉は幕府に拒否され、1805年、レザノフは長崎を後にしカムチャツカに帰った。彼はその後アラスカのシトカなどに向い、1807年に首都に向かうが途中で病死した。その間、幕府は1806年(文化3年)に「文化の薪水給与令」を出していた。だが、直後のレザノフの部下による樺太襲撃を受けて、1807年(文化4年)には「ロシア船打払令」を出すことになった。幕府との交渉に失敗したレザノフの部下フヴォストフは、1807年に樺太の大泊や利尻島や択捉島の紗那などを襲撃した。これにはロシア政府は関与していなかったが、日本の側に強い対露緊張感を惹き起こしたのだった(木崎 1991 85-96,110-115頁;森永1991 28-39,135頁)。

***

 このレザノフ事件は日本でどのように受け止められ、どのような対外認識を生み出したのだろうか。

 出羽国の出で蝦夷地にも渡ったことのある経世学者の佐藤信淵(1769-1850年)は、阿波国にいる時1808年に『西洋列国史畧』を著した。信淵は、やがて江戸に出て、宇田川玄随や大槻玄沢に学んだりして、農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範囲な分野で活躍していくが、その初期の作である。その中でいわく、

「文化2年(1808年)乙丑秋、魯西亜国より「ニコライレサノット」を使として・・・方物を貢す。我国の漂民佐平津太夫等を送て長崎に来舶し再び和親交易を通ぜんことを請ふ。朝廷又固く拒て許さず、且その使に告て曰く。自今已後必復来ること勿れ、若再来る者あらば大銃火砲以て事に従んと。使者「レサノット」拂然(=憤激)せりと云ふ。其翌丙虎の春「レサノット」帰帆す。其年の秋海賊我西蝦夷の内「カラフト」「リイシリ」諸島の鎮府を焼き、我邦の戌卒を擒(とりこ)にして而て去る。同4年丁卯夏海賊我東蝦夷「エトロフ」等の諸鎮を焼き、戌卒を擒にし、「シヤナ」の陣営を焼き、大に乱妨狼藉をなして、遂に奥州南部の海上、松前の箱館辺海に至り、然して去る。在曰是魯西亜国の「カクサツカ」在番の賊徒也と。」

 これはかなり事実を正確に述べたものである。この「海賊」というのは、上述のレザノフの部下のフヴォストフの部隊の事である。

 さらに『西洋列国史畧』はこう続けている。

「同5戌辰年(1811年)八月賊船肥前長崎の港に入り地形を度り津路を捜り狼藉して去る。或曰此海賊は是諳厄利亜(アングリア)人也と。彼諳厄利亜は従来魯西亜と同盟兄弟の国也。右の数事に依りて是を看れば、則今の世界の大躰且彼の二賊の情を亦然して識るべき也。」

 この諳厄利亜人の件は、ナポレオン戦争中の1808年(文化5年)に、イギリスのフェートン号がフランスの同盟国オランダの船を追撃して長崎に来て、その際通商を求めるが拒否された事件のことではないかと思われる。ただし1811年という年が違うが。  

 『西洋列国史畧』には、この後ろに「防海策」という一文がつけられている。徳島藩に仕えていた佐藤信淵は、海防も論じていたのである。これは1809年に藩の小老に信淵が語ったところを藤原邦貞が記録したものである。明和年中にロシアの船(ベニョフスキのこと)が阿州に来たので、海防の危機感を抱いていた徳島藩が、海防を聞いたものである。

 信淵は、「国家の利を興す者は通商交易より大なるはなし」という。そして、「自国をのみ保有して他国に出でて交易せざる国」は、「国内次第に衰耗」してしまう。「四方へ交易をなさざる国は武備も衰弱になり、国内も次第に窮乏し政教も小思になり風俗も軽薄になり人心も険悪になりて、且防御の備えも危難に」なると、鎖国政策を批判する。西洋の人は、日本をイギリスと対比するが、イギリスは大洋に航海し万国に通商し、「兵強く且富盛にして海外に属国極めて多く」、日本とは比べようがないと、冷静に見ている。

 そのうえで、まず、日本は、蝦夷を開拓し、その先の「カムサツカ」を「領知」とすべきであるという。そこは、ロシアと北アメリカの間にあり、交易の拠点になりうるし、東北の防海の要である。次いで、南では、「大清国」をめぐって、「狡猾」な国々がやってきて交易をしている。イスパニア、ポルトガルからオランダ、そしてイギリスとやってきている。この方面の防禦のためには、伊豆七島より出て南海の「無人諸島」を開発し、そこからさらにフィリピン諸島を開拓し、それらで物産を集めて清朝や安南と交易し、さらに琉球国と繋がるのがいいというのだった。蝦夷方面でのロシアの進出、清朝を目指すイギリスなどの進出による危機意識がわかる。ここには、蝦夷と清朝をめぐる世界認識が述べられていた(https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf)。

***

 ヨーロッパにおいてフランス革命とナポレオン戦争による混乱が一段落すると、ロシアに代わって、イギリスが日本に接近してきた。ウィーン会議後には、イギリスが積極的な東南・東アジア進出を行なったのである。1822年(文政5年)には、イギリスの捕鯨船が浦賀に来航、この際は食料・水・薪ほかを給与されていた。1824年には、イギリスの捕鯨船員が常陸国大津浜(茨城県北茨城市)に不法上陸するという事件が起きていた。これに対して幕府は、1825年(文政8年)に諸藩に「異国船打払令」を発して厳しく対応した。

 幕府が対外的危機感を強めている中で、1828-29年にシーボルト事件が起きた。1823年にオランダ商館付医官として来日していたフィリップ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、1824年に鳴滝塾を開設し、鳴滝塾の生徒としての高野長英、小関三英、伊藤圭介らのほか、天文方の高橋景保らとも交友を広めていた。この間に海外についての情報は蘭学者のネットワークを通じて拡散した。シーボルトは、1828年に帰国する際、禁制の日本の地図などを持ち出そうとしたかどで、帰国直前に捕まり、1829年に国外追放となったが、天文方高橋景保らは厳しい処罰を受けた。このシーボルト事件は、長崎の鳴滝塾を拠点に広がった蘭学者のネットワークを震え上がらせたが、幕府の政策を良しとしない人々も刺激した(石山他 2011 155-228頁)。

 このような蘭学の拡大のなかで、幕府の海外認識の甘さを指摘する者が現れるのは当然であった。それは、1837年のモリソン事件を契機に一層高まった。たとえば、渡辺崋山と高野長英は「異国船打払令」を時代にそぐわないものとして批判したのだった(佐藤編 1972 40-41、61-62頁;Plummer 1991 pp.110-112)。

 1837年、中国広東にあったアメリカ貿易商社が、イギリスと共同で、同社のモリソン号を日本へ派遣し、日本人漂流民7人を送還するほか、対日貿易の交渉を行おうとした。しかし、モリソン号を、イギリス船と見た幕府は、「異国船打払令」によって薩摩と浦賀において砲撃して追い返した。漂流民も寄港できなかったし、翌年には船はアメリカのものであることや漂流民を乗せていたことが判明し、幕府の対応が問われることになった。渡辺崋山も高野長英もモリソン号をイギリス船とみて、その背後にイギリスの勢力の進出を推測していた。

 1838年に出た高野長英の『戊戌夢物語』は、モリソン号事件を取り上げて、もっぱらイギリスの脅威を強調した。それは、イギリスの地誌や歴史を語り、近年のアジアへのイギリスの進出を語っていた。長英も、アメリカの商船モリソン号をイギリス人のモリソンが「頭」となった船であると誤解していて、その関係で、イギリスという国、その植民地、「支那」との関係を論じ、その後で、漂流民の引き渡しと、それへの幕府の対応を論じて、これを批判したのである。「船国地へ近寄」ると、「有無の御沙汰も之なく、鉄砲にて打払」うが、「凡そ世界の中、かくの如き御取扱は之無き事」である。そして、徳川の「鎖国の御政道」について、「仁義」をもって漂流民を送ってきたイギリスの船を「打払」うなら、「日本は民を憐まざる不仁の国」だと考えられるだろうと批判した。そして、長英は、イギリス船をどこかの港へ入港を許して、漂流民を受け取り、ついでに、「清朝、朝鮮、魯西亜、その他近国の事情」を尋ねるのがいいと提案した。

 そして、モリソンの事件が深刻であることを知らせるために、レザノフ事件を教訓とすべきだと述べた。文化年中、ロシア使節レサノット(レザノフ)が日本に渡来し、交易を願ったものの許されず、本国に帰ったのち、責任を取って自殺した。そのため部下のホーシトウ(フォストフ)がこれを恨み憤り、ただ一艘の船で蝦夷地付近の海上を荒らしまわって騒動を起こさせ、国家に非常な損害を与えた。このたびのモリソンは、日本から近い広東に滞在し、多数の軍艦を支配しているうえに、日本近海にイギリスの属島が多数あるので、モリソンの後ろの勢力はレサノット(レザノフ)の「類いにはこれなく」(=比ではない)候と述べた。長英は、モリソンに「非法の御取扱」をすれば、「後来如何なる患害出来候哉」、「実に恐るべきこと」であると警告していた(佐藤他校注 1971 162-169頁;佐藤編  1972 313―321頁)

 レザノフ事件については史実の間違いもあり、佐藤信淵のほうが正確であった。また、後に見る崋山のような歴史的視野はなかったが、レザノフ号事件とモリソン号事件を踏まえて、時の政策を真っ向から批判したのであった。

 崋山も、モリソン事件にレザノフの時と同じ対応をした幕府を批判した。崋山が、モリソン号の噂を聞いて1838年(天保9年)に書いた『慎機論』や、1839(天保10年)に書いた『外国事情書』、『西洋事情書』など「事情書三部作」は、広い国際的な展望のもとに、日本の鎖国的な政策を批判したものであった。

 崋山は、公開されなかった『慎機論』において、「莫利宋(モリソン)なる者」の来日を機に、世界情勢を語った。今や世界の五大州のうち、亜墨利加(アメリカ)、阿弗利加(アフリカ)、亜斯太羅利(アウスタラリー)の三州はすでに欧羅巴諸国の「有」となっている、亜細亜州の中でもわずかに我国、唐山(中国)、百爾西亜(ヘルシア)の三国のみが独立を保っている。その中でも、西人と通信せざるは、わが国のみである。そのわが国には、ロシアとイギリスが綿密に計画を練って、機会をうかがっている。そういう時に「徒に太平を唱ふるは、固より論なし」と述べて、幕府の鎖国政策を批判した。

 翌年、崋山は伊豆の韮山代官江川英竜(海防論者として幕閣に入っていた)の依頼により、世界情勢を論じた無題の論稿を書いた。これはのちに「事情書三部作」と言われることになる。最初の稿は、のちに佐藤昌介が『初稿西洋事情書』と名付けたもので、過激なものであった。これを書き直したのが、のちに同じく佐藤によって『再稿西洋事情書』と名付けられたものであるが、これも激しすぎるというので受け取られなかった。そこで書かれた第三稿が江川に上申され、これを江川が『外国事情書』と名付けた。最後に書かれたものが『外国事情書』であるならば、『初稿西洋事情書』は『初稿外国事情書』であり、『再稿西洋事情書』は『再稿外国事情書』とされてもおかしくはなかった。それはさておき、次に「事情書三部作」の内容を比べてみよう。

参考文献

Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991
石山禎一・宮崎克則「シーボルトの生涯とその業績関係年表1(1796‐1832年)」
『西南学院大学国際文化論集』第26巻 第 1号 2011年9月 155-228頁
大槻玄沢・志村弘強編 杉本つとむ他解説『環海異聞 本文と解説』八阪書房 1986年
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年 
久米邦武『特命全権大使・米欧回覧実記』岩波文庫 1980年
佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年
佐藤信淵『西洋列国史畧』 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf
宮永 孝「北米・ハワイ漂流奇談」(その1) 『社会志林』(法政大学社会学)60巻 2号 2013年9月
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易』彩流社 2008年

(「世界史の眼」No.69)

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『世界史の中の「ガザ戦争」』(藤田進・世界史研究所編、大月書店)に寄せて
栗田禎子

 本書は現在も進行中のガザの事態に関し、これを世界史の中に位置づけてその性格・背景を明らかにすると共に、克服の展望―それはとりもなおさず今後の世界のゆくえを考えることに直結する―をも歴史学的観点から考察しようとする労作である。「はじめに」でも触れられているように、2023年10月にガザをめぐる状況が新たな(そして破局的な)段階に突入して以来、現状分析的あるいは地域研究的な視点からは既に多くの著作が発表されてきたが、問題を世界史の中に位置づけ、人類社会全体の今後のゆくえに関わるものとして捉えようとする姿勢を明確に打ち出している点で本書は際立っている。編者の藤田進、そして世界史研究所メンバーをはじめとする十数名の執筆者らの、「歴史家集団」としての面目躍如と言えよう。

 本書の構成は以下の通りである。

はじめに
第Ⅰ部 「ガザ戦争」とは何か―歴史から問う
第1章「ガザ戦争」の実像
1 二〇二三年一〇月七日まで
2 「ガザ戦争」
3 高まる世界的批判
おわりに
第2章 パレスチナ問題の歴史を読み直す
1 パレスチナ問題の起源―イギリスの責任
2 イスラエル国家とパレスチナ難民の解放闘争
3 二〇〇六年 パレスチナ分裂以降―ハマース政権下のガザ
第Ⅱ部 イスラエルと西側諸国
第3章 イスラエル・パレスチナ問題と米欧
1 米国のイスラエル・パレスチナ政策と反シオニズム
2 イスラエル批判と反ユダヤ主義
3 ドイツの〈反・反ユダヤ主義〉のドグマ
第4章 イスラエルの岐路
1 ガザ攻撃を続けるイスラエル国家が示すもの
2 イスラエルのユダヤ人問題
第5章 日本とガザ戦争―中東での戦争と日本の戦争国家化
1 中東の戦争と日本の関係性
2 日本の中東政策の原点―オイルショック
3 第一の転機としての湾岸戦争
4 第二の転機としてのイラク戦争
5 第三の転機としての集団的自衛権容認
おわりに――中東の戦争を利用した日本の戦争国家化
第Ⅲ部 対抗と平和への模索
第6章 「下から」の抵抗と変革
1 亡びることなき抵抗者たち―不死なるものムスタズアフィーン
2 「ガザ戦争」と「グローバルサウス」―戦争が顕在化する「グローバルサウス」空間の重層性
3 南アフリカのジェノサイド提訴
第7章 ロシア・中国と「ガザ戦争」
1 ロシアのユダヤ人問題と「ガザ戦争」
2 中国と中東問題―パレスチナおよびイスラエルとの関係を中心に
第8章 国連の改革へ
1 「ガザ戦争」と国際社会の失敗―国連の現場で見た「ガザ戦争」の現実
2 「ガザ戦争」と国際世論と国連改革
あとがき

 評者(栗田)は既に本書に関し、新聞の書評欄で概評を行ない、本書がガザ戦争は「植民地戦争」の現代版であり、ガザで起きていることは入植者国家イスラエルによる現地住民の集団殺戮(ジェノサイド)にほかならないとの視点を明確に示していること、ガザの惨劇を放置・黙認する先進諸国の姿を浮き彫りにしながらも、各国支配層と市民社会との間に「亀裂」が生じつつあることも明らかにしていること、そしていわゆる「グローバルサウス」の動向や国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界に向けての国際的な「変化の兆し」に注目していること、等の特徴を指摘した(『しんぶん赤旗』2025年11月23日読書欄)。本書を貫くこのような骨太の姿勢と、その叙述に説得力と厚みを与えている多角的な視点とは、上記の章別構成からも明らかであろう。以上を基本的な認識、評価とした上で、以下では(上述の概評では紙幅の関係で触れられなかった点も含めて)追加的な感想やコメントを記すこととしたい。

 「はじめに」および第Ⅰ部について。2023年10月の事件がガザのパレスチナ人にとっては占領と封鎖を突破し、かつて自分たちが住んでいた土地に「帰還」するための闘いであったことを明確に示すと共に(「はじめに」)、続く第Ⅰ部で「ガザ戦争」そのもの(第1章)、およびその背後にあるパレスチナ問題全体(第2章)の性格と展開を歴史的に解き明かして行く。あくまで平易な語り口を心がけつつ、実は最新の研究の成果やアラビア語資料も用いた綿密な叙述がされている点が印象的である。ただ、注文をつけるとすれば、パレスチナの民衆の闘いを彼ら自身の視点から捉えようとする試みの前例として、本書の編者である藤田自身の著作である『蘇るパレスチナ―語りはじめた難民たちの証言』(東京大学出版会、1989年)を(「はじめに」あるいは第1章で)紹介し、同書が明らかにしたパレスチナ民衆運動史をめぐる貴重な知見を、本書の読者とも共有しておくべきではなかったか?『蘇るパレスチナ』はパレスチナの歴史を民衆の視点から捉える上での必読書であり、特に英委任統治期の1936~39年に展開されたパレスチナ民衆蜂起(いわゆる「アラブ大反乱」)をめぐる叙述・分析の深さは世界的にも例を見ない水準に達している。1936年蜂起の性格を知ることは現在のハマースによる運動を理解する上でも不可欠(1936年蜂起の「記憶」やイメージのハマースによる援用、という側面に限っても)と考えられるので、本書中に『蘇るパレスチナ』への言及がないのは惜しい気がした。(本書の刊行を機に『蘇るパレスチナ』が再び注目を集めることを期待する。)

 また、これとも関連するが、パレスチナ問題が(1948年のイスラエル建国でスタートするわけではなく)英帝国の中東支配の過程で生み出されたものであること、まさしく「植民地主義」にルーツを持つ問題であることを読者により鮮明に印象づけるためには、たとえば第2章の歴史叙述も(第一次大戦よりさらに遡って)19世紀末の列強による中東・アフリカへの侵略、植民地化過程を巨視的に振り返ることから説き起こす、という手法もあり得たのではないか、という印象も持った。(具体的にはエジプト占領や「アフリカ分割」、ボーア戦争等の歴史的意味の再確認。この時期に遡るチェンバレン、バルフォアといった「帝国主義人脈」の系譜の検討など。)それにより、ガザ戦争を19世紀末のアフリカでドイツが行なったのと同様の「植民地戦争」として捉える、という(「あとがき」での)問題提起が生きてくるし、また、たとえば「南アフリカの経験とパレスチナの経験は本当に共通しているのか」という第6章での問いとの対話の回路も準備できたのではないか、とも感じた。

 第Ⅱ部について。ここでは前述のように、イスラエルによるガザ攻撃を黙認あるいは支援する先進諸国(米国やドイツ、さらには日本)諸政府の姿が描き出され、イスラエル支持を正当化する思想的・イデオロギー的な装置(いわゆる「反ユダヤ主義」概念等)が分析されると共に、各国の支配層と市民の間の「亀裂」、中東での戦争に対し抗議の声を上げ始めた市民の動きにも目配りがされている。イスラエルという国家自体の性格や内部矛盾に関する分析も興味深い。注文をつけるとすれば、これらすべて(イスラエルを支える先進諸国の姿勢やイスラエル自体の行動)を「世界資本主義の現状」という視点から捉え、位置づけるとしたら、どのような分析が可能か訊いてみたい、ということだろうか。第Ⅰ部、そして第Ⅱ部第3章の叙述からも明らかなようにイスラエルという国家は当初は英帝国の中東支配の都合上建設が開始された入植者国家であり、第二次大戦後は米国の強力な後押しのもとに建国を実現、以後、冷戦期の米国の中東戦略の要とも言うべき役割を果たしてきた存在であるわけだが、冷戦終結後の今、先進資本主義諸国による中東支配の構造はどのような変容を遂げ、現在進行中の「ガザ戦争」は世界資本主義のどのような局面・段階を反映していると言えるのだろうか?ハイテク化・軍事化するイスラエル経済がグローバル資本主義の中で果たしつつある役割や、イスラエルの「新自由主義」路線への転換等をめぐる示唆的分析が見られるが、これをあらためて米国やヨーロッパ諸国、日本も含む大きな構図の中に位置づける議論も期待したい。現在の欧米における政治・思想状況やイスラエル国内のイデオロギーの変化、日本の戦争国家化等をめぐり、各章で展開されている鋭く深い分析を、冷戦後の世界の変容や、「新自由主義」の現段階という観点から統一的に捉え、説明することはできないだろうか?

 第Ⅲ部について。前述のように、いわゆる「グローバルサウス」の動向、またロシア、中国等の動きをも分析すると共に、国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界をめざす「変化の兆し」にも注目を促す内容であり、興味深い。特に第8章にはUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)保健局長や米国の歴史家も寄稿するなど、執筆者の多様性、広がりを感じさせる部ともなっている。第Ⅲ部を読んで印象に残るのは、ガザ戦争をめぐり、先進諸国とは一線を画した態度をとっている「グローバルサウス」の動向を検討しながらも、むしろその内部の重層性や矛盾に着目する視点が示されていることである。評者(栗田)はイランの現体制が「ムスタズアフィーン(虐げられた弱者)」との連帯を掲げるイラン・イスラーム革命の理念のもとにパレスチナの民衆の抵抗を支援する姿勢をとっていることを基本的には評価する立場であるが、こうした姿勢の根底に「善悪二元論」があり、また一種の「戦士文化」が存在する(それは男性中心主義にもつながる)ことをイスラーム研究の立場から批判的に指摘した分析(第6章)は興味深いと感じた。また、「グローバルサウス」諸国の政府も実は「新自由主義」路線をとっており、先進資本主義諸国やイスラエルと利害の共通性を有していることを鋭く指摘する論考もあり、ここには(先に第Ⅱ部への「注文」として記した)世界資本主義の現状の中にガザ戦争を位置づける、という発想が観察されると言えるかもしれない。

 それと同時に感じたのは、(現実には「新自由主義」にからめとられ、腐敗し、独裁化しつつあるかもしれない)「グローバルサウス」の諸政府が、にもかかわらず公的には先進諸国とは一線を画し、国際政治の場でガザ戦争に批判的なスタンスを示しているという事実の背後には、やはりこれら諸国の民衆の存在―植民地支配や占領に苦しんだアジア・アフリカ・ラテンアメリカの民衆の経験と、それゆえに彼らがガザの状況に寄せる共感―があり、それが各国の政府の立場を否応なく規定しているという面もあるのではないか、ということであった。本文中にも(「国家」主体のBRICSではなく)「民衆が主体のグローバル空間の構築」が重要だとの指摘があるように、グローバルサウスの「政府」だけでなく、その背後にある「民衆」のエネルギーにも注目する必要があるのではないか。

 「冷戦」終結以降、「新自由主義」時代のグローバル資本主義の下で、世界の民衆はともすれば支配エリートの価値観・言説を植え付けられ、分断され、搾取や差別に対し抗議の声を上げる力を奪われてきたが、現在ガザで進行中の事態は、そのあまりに破局的な様相――まさに民衆を標的とするジェノサイド、絶滅戦争という性格―ゆえに、全世界の民衆を覚醒させ、その怒りとエネルギーを解き放ちつつあると言えるかもしれない。―「ガザ戦争」はまさしく人類史の転換点なのではないかと感じながら、本書を読了した。

(「世界史の眼」No.69)

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「世界史の眼」No.68(2025年11月)

今号では、明治大学の山田朗さんに、林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)を書評していただいています。

また、南塚信吾さんによる「江戸後期の対外認識―「ハンベンゴロー事件」の衝撃」を掲載しました。(※11月5日)

南塚信吾
江戸後期の対外認識―「ハンベンゴロー事件」の衝撃

山田朗
書評:林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)

林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。



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江戸後期の対外認識―「ハンベンゴロー事件」の衝撃
南塚信吾

(1)ハンベンゴロー事件

 江戸後期の日本における対外認識において、「ハンベンゴロー事件」は一つの大きな画期であろう。 

 ピョートル一世(1672-1725年)のロシアは、1707年にカムチャツカを占領し、その後千島列島に進出していた。そして、1756年(宝暦6年)には厚岸において松前藩士が初めてロシア船を目撃した。これが日露の最初の接触である。1760年代にはロシアの千島進出は毛皮を求めて強化され、1768年(明和5年)にロシア人がエトロフ島を占拠してからは、ロシア船が蝦夷本島にやってきて、かれらのもたらす品々が大坂市場で公然と販売されていたと言われる。当然、北前船がこれを運んだわけである(佐藤編 1972 28-29頁;木崎 1991 2-41頁)。

 このようなロシア人の北方での動きは、「ハンベンゴロー」事件によって明らかとなり、それは、江戸時代の外国の事情についての関心を著しく高めたのであった。

 1771年(明和8年)、「ハンベンゴロー」つまりベニョフスキー・モーリッツ(1741-1786年)という人物が、土佐へ漂着し、出島のオランダ人への手紙で、ロシアの南下の脅威を指摘した。ベニョフスキーは、当時のハプスブルク帝国のなかのハンガリー王国の北部(現在のスロヴァキア)に生まれた貴族で、ポーランド系であった。1768-69年の露ポ戦争に参加し、捕虜となった。その後、シベリア、カムチャツカに流されるが、1771年、仲間60人ほどを募ってロシアの船を奪い、カムチャツカから逃亡し、日本を経由して本国へ帰国しようとした(メキシコのアカプルコへ行きたかったのだとも言われる)。かれらは日本列島を南下して、土佐の佐喜浜、阿波の日和佐、そして奄美大島の出須浜に寄港し、薪水の提供を受けた。ベニョフスキーは、この際に長崎出島のオランダ人経由で、ロシアの南下情報を幕府に差し出したのであった(水口他編訳1960 2-14頁;木崎 1991 42-43頁)。

ベニョフスキー・モーリツBenyovszky Móric; Móric Beňovský(1741-1786年)は、その後、奄美大島にも立ち寄って、マカオへ着いて、ここで仲間と別れて、フランス船を捜して乗船、1772年にフランスへ帰った。そして国王に請願して1776年にマダガスカルへ行き「王」を称し、79年にはアメリカ独立戦争に参加し、85年には再びマダガスカルへ行って現地人と共にフランス軍と戦い、戦闘中に死亡した。

 この「ハンベンゴロー事件」のあと、わが国では対外危機が意識され、北方事情への関心が高まった。仙台藩の藩医で経世論家であった工藤平助(1734-1801年)の『赤蝦夷風説考』1783年(天明3年)は、こう論じていた。

 「赤蝦夷」つまり「カムサスカ」の人々(ヲロシア人)は千島と言われる島々を通って蝦夷に来て交易をしていたが、1771年に「赤蝦夷」から来た船が漂流して、奥州、上総、阿波に来て、「マウリツ・アラダル・ハン・ベンゴロ」という「商人」(=これは間違い)が長崎にいるオランダ人あてに書簡を送った。「ハン・ベンゴロ」はオランダの同類の「ドイチ(ドイツ)」国の人で、わが国の地勢を調査しようとしてきた者のようである。書簡は、阿波にて殿様のお恵みで命を救われたので、そのお礼をしたためたものであった。こう述べた工藤は、赤蝦夷の本国はヲロシアで、ヲロシアは日本に金銀が多く産するので、日本と交易をしたがっているのだと考えていた(佐藤編 1972 29-33、392-395頁)。こうして工藤は、幕府に対して貿易の許可と蝦夷地の開発を訴えていたのである。

 やや遅れて、時の経世家、林子平(1738-1793年)も、『海国兵談』(1787-91年)において、ベニョフスキーの到来を挙げて、幕府の北方政策に警告を発っしていた。

「近頃、欧羅巴のムスカウビア其勢ひ無変にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、・・・東の限りカムシカツトカ(カムチャツカ)迄押領したり。然るにカムシカツトカより東には此上、取べき国土なし。此故に又西に顧みて蝦夷国の東なる、千嶌を手に入るべき機ありと聞及べり。既に明和辛卯の年(1771年)、ムスカウビアよりカムシカツトカに遣し置る豪傑、バロンマオリツツ・アラダルハン・ベンゴロウといふ者、カムシカツトカより船を廃して、日本に押渡り港々に下縄(さげなわ)して、其深さを計りながら、日本を過半、乗廻したることあり。就中土佐の国に於ては、日本国に在合、阿蘭陀人にと認し書を遣置きたる事もある也」(林 1944 9頁)。

林子平もベニョフスキーは日本を「取る」ために地勢の調査のために来たのだと考えていた。そして、工藤と同じく蝦夷地の開発を主張したのだった(佐藤編 1972 34頁)。

(2)本多利明の蝦夷開発論  

 新井白石などに薫陶を受けた本多利明は、東北や蝦夷の視察をしたりしていたが、しばらくのちの1798年(寛政10年)に出した『経世秘策』にこう書いていた。

「ハロンモリツアラタールハンベンゴローという者あり。此の者欧羅巴洲の者なるが、其嚮(そのさき)モスコビヤと挑合(=交戦)せしが、敗北して将卒五十余人擒(とりこ)となりて、後助命を蒙りて日本之東蝦夷カムサスカヘ流罪となり、・・・時節を待居てモスコビアの官船を盗取りて、本国欧羅巴へ遁到らんとて、日本之東洋を渉途(しょうと)之節、阿州(=阿波)に碇宿(=寄港)して薪水を乞求めたり。又国主の慈悲を願ひたるに因(より)て、玄米数百俵の賑恤(しんじゅつ)を給りたり。それより阿州を開帆(かいはん)して後、再び日本に船を寄せ、薩州の大島に碇宿せり。再び日本の地に船をよせたるは、阿州に於て恩恵を蒙りたるに感じ、日本へ寸忠を立てん意にて、今既にモスコビアの帝陰謀ある旨を認(したため)、横文字の注進状を呈したり」(塚谷他校注 1970 46頁)。

 モーリッツ・アラダール・ベニョフスキーが、ロシアと戦って敗れ、カムチャツカに流刑になったが、ロシアの軍艦を盗んで、ヨーロッパに帰る途中、日本の薩州に寄港して、ロシアが日本を狙って「陰謀」を図っていることを、長崎の和蘭カピタンを通して注進したというのである。ここで話は、ベニョフスキーの来た目的がたんなる地勢調査ではなくなった。 

 『経世秘策』はさらに、モスコビアから、これまで10年ばかりの間に、いろいろな人がエトロフ、クナシリに徘徊したり、漂着したりしていると述べ、ハンベゴローの注進はでたらめではなく、モスコビアは蝦夷の島々を「開業」しようとしているのであり、わが国もこれらの島々を開業しなければ、これらはモスコビアに服することになると警告した(塚谷他校注 1970 49-50頁)。

 同じく1798年(寛政10年)に出た本多利明の『西域物語』もベニョフスキーの到来をあげ、ベニョフスキーがロシアの南下を警告していると述べていた。しかし、『西域物語』は、もっと広い世界を見ていた。それは「西域」つまり「西洋」の歴史と現状を日本と対比しつつ述べたもので、ある意味で「世界史」なのであった。

 「我邦の人、西域のさる事も弁え」ていないと始まる。つまり、日本は中国の書籍を鵜呑みにしているから、西洋のことを知らないという。そしてこう論じていく。欧羅巴州にはトルコ、ロシア、イタリア、ホロシア(ポーランド)、ゼルマニア、フランス、イスパニア、アンゲリア、フランスなどがあり、みな国外に属国を多く持ち、「大豊饒にして剛国」である。そして、エゲプテ(エジプト)から人道が発起して、各地に広がった。支那、日本へは大いに遅く届いたのだ。欧羅巴諸国の治道は、武を用いて治めるのではなく、「只徳を用いて治るのみ」である。だが、「欧羅巴隆(さかん)の国々は、本国は小国なるもあれど、属国多くある国を指て大国という」。例えばエゲレス国はそうだ。モスコビアもそういう属国を求めて日本の北へきている。

 そういう中で、1771年(明和8年)にハロンモリツアラタールハン-ベンゴローというものがやってきた。そして、注進状を呈した。その趣意は、「今モスコビヤより日本の東蝦夷の諸島を侵(おか)し掠めん萌しあり。今の内用心ありて、彼の島々へ船を出し、守護あらば無難なるべき」というものであった。そこで本多が言うには、「今按ずるに、ハンベンゴロトが注進・教示の如くあらば、カムサスカより南洋20余島も無難にあり。」これらの島々は、「日本に自然と属し従ふべき」島々なのであった。

 本多はこのような世界認識に立って、「大日本国の国号をカムサスカの土地に移し」、カムサスカの地を大良国(素晴らしく豊かな国)とするべきであると説いた。カムサスカはオランダのアムステルダムと同じ緯度にあり、オランダのように属国を集めて繁栄できるのだというのであった(塚谷他校注 1970 88-162頁)。

 これはそれまでのように蝦夷地の開発や貿易を提言する以上のものであった。世界の趨勢に乗り遅れるなというわけである。18世紀の末には、日本の知識人の間にこういう認識ができつつあったのである。

参考文献

木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年
木村英明「スロヴァキア出身の冒険児モーリツ・ベニョフスキー:鎖国日本の平安をざわめかせた異国船」長與進・神原ゆうこ編著『スロヴァキアを知るために64章』明石書店 2023年
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年
佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年
塚谷晃弘・蔵並省自校注『本多利明・海保青陵 日本思想体系44』岩波書店 1970年
林子平述 村岡典嗣校訂『海国兵談』岩波文庫 1944年(初版1939年)
水口志計夫・沼田次郎編訳『ベニョフスキー航海史』平凡社 1960年

*ベニョフスキーの航海や冒険については、世界中で多数の研究や論評が出ている。本稿は、日本での受け止められ方についてのみ考えたものである。

(「世界史の眼」No.68)

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書評:林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)
山田朗

戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげか?

 2025年10月10日、石破茂首相(当時)は、「戦後 80 年に寄せて」と題する「内閣総理大臣所感」を発表した。この日は、81年前(1944年)、米空母機動部隊の艦載機によって沖縄本島をはじめとする南西諸島が大規模な空襲を受けたいわゆる「十・十空襲」の日である。この空襲は、無差別爆撃となって那覇市は旧首里城を含む約90%が焼失、沖縄本島だけで軍人・軍属218名、陸軍人夫120名、民間人330名が犠牲になり、その他に船舶の被害で民間人約600人が死亡したとされている。当時の日本政府(小磯國昭内閣)は、この無差別攻撃に、中立国スペインを介してアメリカ合衆国政府に対して、国際法に違反するものだとの抗議を行なっている(合衆国政府は無回答)。もっとも、「石破所感」は、「十・十空襲」やこの無差別攻撃という歴史を意識して、この日を選んで発表されたものとは思われない。

 それどころか、この「所感」は、戦前日本の植民地支配や侵略戦争については一言も言及せず、「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。」といった、いわゆる「おかげ論」(戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげだとするもの)を展開している。だが、現実には、日本人犠牲者の前に、アジアにおける2000万人を超えるとされる膨大な犠牲者が存在し、日本軍将兵の犠牲も半分以上は餓死・病死であり、日本人犠牲者310万人の約90%は、戦争の勝敗が決した後の最後の1年間に生じたもの(吉田裕『続・日本軍兵士』中公新書、2025年)であることを考えると、犠牲者の「おかげ」で戦後の平和と繁栄があるとする議論は、大きな欺瞞を含んでいる。戦争の犠牲者を日本人(植民地支配下にあった人々を含む)に限定してみても、軍人・民間人の膨大な犠牲は降伏を許さない、捕虜になることを許さない日本軍というシステム、それを支えた政府や日本社会のあり方によって死ぬことを強いられた、いわばそのような制度的な束縛によって殺されたものである。

 降伏を許さない、捕虜になることを許さないというシステムは軍人だけでなく、民間人にも強制され、本来であれば助かる命がむざむざと失われた。そのことをはっきりと示すのが沖縄戦である。沖縄戦に関する本は、数多くあるが、林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)ほど沖縄戦の実態を深く、かつ広がりをもって叙述している本は他に例を見ない(なお、前述した「十・十空襲」に際しての日本側の抗議、米側無回答の件も、本書156〜157頁に記述されている)。

沖縄戦の全体像と細部に至るまでをも示す周到な構成

 『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』の章立ては以下のとおりである。長いスペースを取るにもかかわらず、章・節だけでなく、項まですべて示したのは、本書の構成から本書の叙述の時間的・空間的広がり(隙のなさ)を見ていただきたいからである。

序 なぜ今、沖縄戦か
第一章 沖縄戦への道
 1 沖縄の近代—同化・差別と反発
     琉球王国から沖縄県へ  
     同化と差別・貧困への反発
 2 中国やアジア太平洋への侵略戦争と沖縄
     中国での沖縄出身兵士たちの体験
     沖縄の外に送られた労働力と「南進論」
 3 なぜ沖縄が戦場になったのか
     沖縄への日本軍の配備と飛行場建設  地上戦闘部隊の増強
     本土防衛の捨て石としての沖縄
     米軍はなぜ沖縄をねらったのか
第二章 戦争・戦場に動員されていく人々
 1 沖縄の戦時体制
     社会運動や思想の弾圧
     行政・教育による戦時体制づくり
     天皇・国家に命を捧げる国民づくり—皇民化政策
     人々を動員していく地域社会
      戦争を煽るマスメディア
      徴兵を忌避する人たち 
 2 戦場動員態勢へ
     軍のために動員される人々
     徴用
     食糧など物資の供出
     日本軍将兵の横暴・非行
     軍と県の対立
 3 疎開—根こそぎ動員と表裏一体の政策
     役に立たない者を疎開させる
     県外疎開—一般疎開と学童疎開
     県内疎開
     宮古・八重山の疎開
 4 軍と県による戦場動員
     軍県一体で進められた「県民総武装」
     軍人として召集された中学生—鉄血勤皇隊
     一般住民を戦闘員に—義勇隊                               
第三章 沖縄戦の展開と地域・島々の特徴
 1 米軍最初の上陸—慶良間諸島
 2 米軍の沖縄本島上陸 一九四五年四月
     沖縄本島上陸
     大本営と天皇の戦争指導
 3 沖縄本島中部の激戦 一九四五年四月~五月
     運命を分けた地域
     斬り込みに駆り出される兵士たち
     天皇・政府から見放された沖縄
     時間稼ぎの南部撤退
     住民スパイ視を煽った日本軍
 4 沖縄本島北部の戦闘
     広大な北部に配備されたわずかな国頭支隊
     ゲリラ戦部隊の遊撃戦
     軍官民一体のスパイ組織・住民監視
     日本軍による住民虐殺
     ハンセン病者の犠牲
     米軍による住民虐殺                                         
 5 沖縄戦の終焉—本島南部 一九四五年六月
     多くの民間人を道連れにした海軍部隊
     組織戦闘の終焉
 6 飢えとマラリアの宮古・八重山
     宮古諸島
     八重山諸島
     戦犯裁判
 7 離島の沖縄戦
     沖縄本島周辺の島々
     久米島・粟国島・渡名喜島
     伊平屋島・伊是名島
     大東諸島
     奄美群島・トカラ列島
 8 米軍の戦闘方法、心理戦、軍政と収容所
     十・十空襲と米軍の攻撃方法
     心理戦
     軍政と収容所
     「戦後」の出発
     捕虜収容所
 9 沖縄からの九州奄美への爆撃                                     
第四章 戦場のなかの人々
 1 日本兵たち
     変化する日本軍
     捕虜になることを許さない日本軍
     人々の良心良識を抑圧する軍組織
 2 日本軍による住民に対する残虐行為
     日本軍による住民虐殺
     日本軍によって死に追いやられた人々
     スパイ視された障がい者たち
 3 戦場に駆り出された人々
      戦場動員された義勇隊員
     本土決戦の先取りとしての沖縄戦
     海の墓場に駆り出された漁船と漁民たち
 4 「集団自決」
      慶良間列島
     沖縄本島中部
     伊江島
     沖縄以外
     起きなかった地域・島々
        なぜ「集団自決」が起きたのか
 5 学徒隊
     男子学徒隊
     女子学徒隊
 6 死を拒否した人々
     生きることを選んだ民間人
     投降を促した人たち
     助かった人たち
 7 防衛隊員
     主力温存のための捨て石部隊
     生きようとした防衛隊員
     なぜ防衛隊員たちは「玉砕」を拒否したのか
     沖縄出身兵たち
 8 朝鮮人
     軍夫
     朝鮮人兵士たち
     船舶の乗組員など
 9 日本軍「慰安婦」と性暴力
     日本軍「慰安婦」
     日本軍「慰安婦」にされた朝鮮人女性
     米軍の性暴力
 10 沖縄の外での戦争に参加した沖縄の人々
     無謀な作戦の犠牲になった兵士たち—中国・大陸打通作戦
     戦後も帰らなかった兵士たち
     戦犯になった沖縄の人たち
 11 移民した人たちの戦争
     中国・「満州」
     東南アジア
     南洋諸島
     南米                                                       
 12 米軍兵士にとっての沖縄戦
     戦争神経症の多く出た米軍兵士たち
      沖縄にやってきた米軍部隊の戦歴
第五章 沖縄戦の帰結とその後も続く軍事支配
 1 どれほどの人たちが亡くなったのか
     戦没者数の推計
     南部撤退・戦闘の長期化と北部疎開が増大させた犠牲
     沖縄の外での戦没者
  2 どうすれば犠牲をなくせたのか、減らせたのか
     民間人を守る方法はなかったのか
     沖縄戦は避けられなかったのか
 3 加害と侵略の出撃基地—米軍基地
     加害の出撃基地
     沖縄/日本に集中する米軍基地
 4 沖縄戦の戦後処理
     遺骨収集と追悼
     援護法の適用と歪められた沖縄戦像
     不発弾
 5 沖縄戦の認識・体験談・研究
     沖縄戦叙述・研究の歩み
     自衛隊の沖縄戦認識
おわりに
あとがき
参考文献

〔県市町村史・字史74点、一般文献146点、英語文献4点、林博史文献単著9点、林博史文献論文・史料紹介10点 合計243点〕

新書判、348頁 〔 〕内は山田による補足

 書物の構成(目次)というものは、その著作の見取り図であり、どのようなパーツをどのように配置し、組み立てているのかを、端的に示すものである。もちろん、叙述そのものが大切であることは勿論だが、読者はこの見取り図を見ることで、その著作の意図や力点の置き方、著者の用意周到さを読み取ることができる。

 本書の構成(目次)を見ると、沖縄戦という対象を歴史として、あるいは現代につながるものとして考える上で、必要な素材が過不足なく周到に盛り込まれていることがわかる。なぜ、このような周到な構成を作成できたのか。それは、著者がこれまでに沖縄戦に関して実に多角的に研究を蓄積してきたからである。参考文献欄と本書本文でわかるように著者は、『沖縄県史』(新県史)の編纂に深くかかわってきただけでなく、『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001年)、『沖縄戦:強制された「集団自決」』(吉川弘文館、2009年)、『沖縄戦が問うもの』(大月書店、2010年)、『暴力と差別としての米軍基地:基地形成史の共通性』(かもがわ出版、2014年)、『沖縄からの本土爆撃:米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館、2018年)などの沖縄・沖縄戦・沖縄の基地問題に深く切り込んだ仕事をしてきた。それに多くの人が知るように、著者は、日本軍の戦争犯罪・BC級戦犯裁判、日本軍「慰安婦」の問題においても特筆すべき成果をあげて来ており、大日本帝国・日本軍・戦争の矛盾の凝縮点とも言える沖縄戦について分析・執筆し、問題の所在を明らかにするのに、これほどうってつけの執筆者はいないだろう。

本書の叙述の特徴(1):沖縄戦を時間・空間・社会的広がりの中で描く

 本書は、沖縄戦をテーマにした新書ではあるが、通常の新書のスペースには収まりきらない叙述を特徴としている。本書では、第1に時間的広がり、第2に地理的広がり、第3に社会的広がり、第4に戦争の加害と被害の関係性に十分配慮した叙述がなされている。

 第1の時間的な広がりを十分に考慮した叙述という点では、第一章において時間的に琉球王国から説きおこし、近代日本に併合され、強権的な同化システムのもとでの差別と貧困、そして「南進」の拠点とされていくプロセス、日本の世界戦争への参戦によって沖縄が否応なく戦場にされていく流れが示される。そして、第三章1~5で沖縄戦の始まりから終焉までの経過が丁寧に追われ、さらに同章8・9で沖縄が本土空襲の基地として使用されたこと、第五章3・4で戦後も続く米軍による軍事支配と戦後処理問題が解説されている。つまり、沖縄戦を中心に据えながら、前近代から現在に至るまでの沖縄と沖縄の人々が置かれた立場を細大もらさず叙述している。いろいろな本を読まなくても、まずは本書1冊を読めば、歴史の大きな流れの中の近代沖縄史・沖縄戦・戦後沖縄史がわかるようになっている。

 第2の地理的広がりという点では、大日本帝国が行った戦争がアジア・太平洋・インド洋に及ぶ広大な地域を舞台にしていることを前提として、沖縄戦を連合軍と日本軍の戦略の中で、東南アジア・中国戦線との関わりで捉え、日本本土と沖縄の関係性、そして沖縄本島だけでなく(「本島」中心主義に陥らず)、第二章3や第三章6・7など可能な限り先島諸島や周辺島嶼・離島にも目配りした叙述になっている。また、本書のサブタイトルにもある「なぜ20万人が犠牲になったのか」という点では、戦闘による様々な形態の直接的犠牲だけでなく、疎開・食糧不足・マラリアなどによる犠牲にも地域ごとに丹念にふれ、戦争の犠牲・被害というものが、直接に戦闘に巻き込まれなくても広範囲で起こることを示している。

 第3の社会的広がりという点では、とりわけ第四章において沖縄戦にかかわった様々な階層の人々を丁寧に叙述し、非常に内容が充実している。沖縄戦における日本兵の戦い、沖縄の人々への差別意識と残虐行為、とりわけ投降しようとする兵士・一般住民を射殺したり、さまざまな場面で住民をスパイ視して虐待、殺害したりする日本兵の事例を数多く紹介している。また、「捨て石」部隊として戦場に投げ込まれた一般住民である防衛隊員・義勇隊員の実態、米軍に捕まったらどうせ殺されるのだからと説いて一般住民の女性まで手榴弾を持たせて「斬り込み」に参加させた日本軍、沖縄の一般住民にとって、米軍の「鉄の暴風」と日本軍の威圧・強要の板挟みの中で「集団自決」を強いられた状況が具体的に描かれる。一般住民の「集団自決」の多くは、軍人の命令や日本兵や官吏が語る中国戦線での体験談(捕虜は殺され、女性は性暴力の対象となる)に後押しされて生じている。

 そして、本書の大きな特徴の一つだが、「集団自決」しなかった人々、「玉砕」を拒否した人々、兵士や住民に投降することを促した人々の存在を、それらの人々がそうした選択をした理由を含めて(移民体験者が多く、「鬼畜米英」の宣伝に疑問を持っていたことなど)丁寧に叙述している。これは、回想録などの文献調査だけでなく、沖縄で広範に実施されてきた聞き取り調査の成果が生かされているものだ。また、沖縄戦に多数が投入された朝鮮出身の軍人・軍属・労働者の存在、日本軍「慰安婦」のこともきちんと描かれている。

本書の叙述の特徴(2):沖縄戦における加害・被害の関係性

 本書は、沖縄戦における加害と被害の関係性を、米軍による加害、日本兵・沖縄住民の被害という単純化された枠組みで捉えることを拒否している。むしろ、沖縄戦の特徴として日本軍・官吏による加害(軍と政府・県当局による軍民一体体制の構築、戦争批判者の排除)、沖縄住民の被害、さらには沖縄住民の中における加害と被害(沖縄出身日本兵も時には住民にとっては加害者であった)、日本人による加害と朝鮮人の被害、「慰安婦」の被害など、加害と被害の重層性・複層性を描き出している。また、単に一部の「悪い」日本兵が一般住民を酷使・虐待したという捉え方ではなく、国際的な規範から逸脱し、捕虜になれない日本軍という自縄自縛のシステムと、日中戦争における日本軍による残虐行為(捕虜や一般住民の殺害、略奪・性暴力)の裏返しとしての敵観念(米軍も同じことをやるに違いないという誤認知)が、日本軍兵士たちを住民抑圧の加害者にしていったという加害と被害の構造を明らかにしている。

 本書は、著者による長年の沖縄戦研究、戦争の加害と被害についての研究の「まとめ」という役割を担っているものであろう。沖縄戦について考えたい、学びたい、あるいは戦争とはどのようなものであるか考えたい、学びたいと思う人には、ぜひ本書を手に取ることをお勧めしたい。前述したように、本書は、これまでの著者自身の沖縄戦研究だけでなく、多岐にわたる沖縄研究・戦争研究に支えられたものであるので、戦争について、沖縄戦について、沖縄についてさらに深く学ぼうと思っている人にも、本書は格好の道案内、問題別のインデックスとなるであろう。

 おそらく著者が、本書をこの時期に執筆、刊行したのは、2025年が「戦後80年」という節目にあたり、過去の戦争に関する振り返りが行われることを予期したからであろう。そして、長年にわたって沖縄そのものをウオッチしてきた著者は、沖縄の現在の姿に大きな危惧を抱いているからだと思う。かつて、「本土決戦」準備の「捨て石」とされて、20万人もの犠牲者を出した沖縄が、現在、日米安保体制のもとで軍備拡張と国際的な緊張の最前線となっている。「台湾有事」なるものが喧伝され、沖縄の島々にスタンド・オフ・ミサイルをはじめとする「抑止力」を担う部隊が配備されつつある。軍拡には軍拡で、軍事力の展開には軍事力の展開で対抗しようというパワーポリティクスそのものの動きが強まる中で、沖縄戦の歴史から世界と日本の政治が、世界と日本の市民が深く学んで教訓を汲み取って欲しい、そうしなければ、「20万人の犠牲」の存在を私たちは生かせないのではないか、そうした著者の思いが強く伝わってくる、実に読み応えのある一冊である。

(「世界史の眼」No.68)

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世界史寸評
参政党の歴史観を考える(その2)―「南京事件は捏造」なのか

 2025年10月3日の『毎日新聞』デジタル版は、“「南京事件は捏造」と主張する参院議員 研究者が鳴らす警鐘とは”と題する記事を載せた。矢野大輝記者によるこの記事は、「今夏の参院選で、旧日本軍が1937年に中国・南京を占領後、捕虜や民間人を殺りくした南京事件(南京大虐殺)を「捏造(ねつぞう)」「フィクション」と主張する候補が当選した」ことを問題として取り上げたものである。

 南京事件は、日中戦争で上海を攻略した旧日本軍が、中国国民党政府の首都・南京を陥落させた1937年12月~38年3月に、南京の都市部や農村部で中国兵捕虜や住民らを殺害し、強姦などを重ねた事件を指すが、これを「捏造」とする者が当選したというのである。

***

 記事によれば、8月8日に「ユーチューブ」にアップされた教育研究者の藤岡信勝氏との対談で、参院選で初当選した参政党の初鹿野(はじかの)裕樹氏=神奈川選挙区=が「南京事件は捏造」だと主張し、隣に座った参政党の神谷宗幣代表も、南京事件は「もうすっかり日本軍の罪にされて」と付け加えたという。初鹿野氏は、南京事件で殺されたという人たちの「(遺)骨もどこにあるか分からないし、証拠だという写真も全部捏造。何も証拠もないような状況で、あったと断定するにはおかしいのではないか」と言ったという。実は、初鹿野氏はX(ツイッター)でもすでに6月18日に「南京大虐殺が本当にあったと信じている人がまだいるのかと思うと残念でならない」と投稿しているという。

 初鹿野氏が南京事件を否定している根拠の一つが、南京市の人口である。上の「ユーチューブ」では、旧日本軍が侵攻した37年12月にそれは「20万人」で、2カ月後には「25万人に増えている」とし、「30万人も40万人も人が亡くなっていることはない」と主張している。さらに『毎日新聞』が初鹿野氏に送った質問状への回答では、この人口について、事件当時南京在住の外国人で組織した南京安全区国際委員会が作成した文書群「DOCUMENTS OF THE NANKING SAFETY ZONE」(39年出版)を根拠として示したという。加えて、南京事件を否定している別の根拠として、写真も「南京事件の揺るぎない証拠として認定されたものはない」し、南京事件の目撃者や1次資料について「中立性のある第三者による有効なものがない」と回答したという。その上で、「歴史教科書のほぼすべてが南京事件があったという前提で書かれていることが問題と捉えている」と指摘したという。

 記事は、日本保守党から比例代表で出馬し初当選した作家の百田尚樹氏も、南京事件について組織的、計画的な住民虐殺はなかったとしていることを、想起している。かれの著書『日本国紀』(2021年、文庫版)では「占領後に捕虜の殺害があったのは事実」で、「一部で日本兵による殺人事件や強姦(ごうかん)事件はあった」と認める一方、「民間人を大量虐殺した証拠はない」と主張している。その根拠の一つとして、同じく人口問題を取り上げて、「南京安全区国際委員会の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は約20万人」とし、「『30万人の大虐殺』が起きたという話がありますが、これはフィクションです」と記しているというのである。

***

 『毎日新聞』の記事は、このような主張に対する歴史家たちの批判をあげている。

 まず、南京事件の研究者で現代史家の秦郁彦氏は、虐殺があったと裏付ける証拠写真の特定は難しいとしつつ「(証拠)写真がないからといって南京事件がなかったとはならない」と言う。その理由として、当時の旧日本軍の戦闘詳報や外務省東亜局長が日本軍の不法行為を日記に書きとめていたことを挙げ、初鹿野氏の主張について「根拠が乏しい。ある程度の規模の民間人の虐殺があったことは否定できない」と批判したという。

 次に、同じく南京事件について研究する都留文科大学の笠原十九司(とくし)氏は、初鹿野氏と百田氏が持ち出す「人口」の根拠を、もっと実証的に「間違っている」と指摘しているという。

 笠原氏によると、南京市内に「占領前に20万人」いたという資料はなく、南京市政府の調査では占領直前の人口は50万人だったと記載されている。笠原氏は、初鹿野氏と百田氏が持ち出す「20万人」という数字は、南京安全区国際委員会で委員長を務めたドイツ人がヒトラーに宛てた手紙の中に出てくるものだが、これは市内の安全区に避難すると見込まれた人数の推計で「南京市の人口ではない」という。笠原氏は、占領2カ月後に「25万人に増えている」という主張についても否定する。旧日本軍がその頃に中国軍の敗残兵を見つけ出す目的で実施した住民登録で南京城内の住民は、安全区に20万人、その他の地域に5万人いたことを示す資料はあるが、南京市の占領直前の人口が50万人だったことを考えると「増えた」とする根拠にはならないという。

 なお、笠原氏は、その著書『南京事件』(岩波新書 1997年)において、南京事件を史実をもって跡付けており、外国人ジャーナリストや外国大使館員らが事件を報じていることも示している。さらに氏の『南京事件 新版』(岩波新書 2025年)は、関係者の証言をさらに加え、写真も載せ、そして南京事件の犠牲者の総数についてデータをもって証明している。

***

 最後に『毎日新聞』の記事は、被害者数については日中の研究者で開きがあるものの、事件そのものは日本政府も認めていると指摘する。外務省はホームページに「日本政府としては、日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との見解を掲載している。

 また、日中両国政府による「日中歴史共同研究」の日本側の報告書(10年)には「日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した」と記載されていて、死者数は、中国側の見解が「30万人以上」、日本側の研究では「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」としている。

***

 記事の中で、笠原氏は、世界各地で戦争が今も絶えず日本でも防衛費が増額していることに触れ、「南京大虐殺の基礎知識や日本の侵略戦争がいかに残酷で無謀だったかということを知らない世代も増えてきている。デマに流されず、事実を見つめてきちんと反省しないと、日本は戦争という同じ過ちを繰り返すことになる」と述べている。記事は、戦後80年を迎え戦争の記憶が薄らぐ中、歴史研究者は「史実を見つめないと、また同じ過ちを繰り返すことになる」と「良識の府」(参議院)の担い手に警鐘を鳴らしていると、指摘している。これは「良識の府」だけの問題ではないであろう。

(南塚信吾)

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世界史寸評
「ガザ」とアメリカ歴史学会―P.マニングからのメールに思う

 わたしたちが出した『世界史の中の「ガザ戦争」』(大月書店)を、先日、アメリカのピッツバーグ大学のパトリック・マニングに届けた。マニングは、この本に国際連合の改革についての論稿を載せてくれた歴史家で、アメリカの内外で「世界史」を先導していることで知られている。

 この本をかれに送るについてはひと騒ぎがあった。9月に始め、日本からアメリカの彼に本を送ろうと郵便局へ行ったところ、この本は金額的にも本の目的としても問題ないはずであるが、いまトランプ関税の影響で通関業務が混乱していて、本がいつ着くか分からないし、無事に着くかも分からない、その場合には本は戻ってくるが、郵送料は帰ってこないと言われた。だから、1か月ぐらいは様子を見た方がいいというのであった。途方に暮れていたところ、たまたまわたしの息子が9月に末にワシントンへ仕事で行くというので、かれに本2冊を預けて、ワシントンで郵送してもらうことにした。それで無事にマニングに本が届いたのであった。

 さて、本を受け取ったマニングから早速メールで本2冊の安着を知らせてきた。そして、こう書いてきた。

  1. 本の1冊をピッツバーグ大学の世界史センターのセンター長であるラージャ・アダルRaja Adalに渡そう。かれは日本史の専門家で日本語もできる。かれに言って、日本語をできて、ガザ危機に関心を持っている人たちに、この本の事を広めてもらうつもりだ。
    ―マニングは2008年にピッツバーグ大学の世界史センターを創設した人物で、わたしもその最初の研究員として招聘され、4か月を過ごしたことがある。
  2. アメリカ歴史学会American Historical Association (AHA)の中に、ガザに関心を持って非常にアクティヴに活動している「平和と民主主義を求める歴史家集団」Historians for Peace and Democracy (HPAD)というのがあるので、そこに書簡を送って、今回の本のことを知らせ、日本語ができる歴史家たちに接触してこの本を探して読むように勧めるつもりだ。ついでに言うと、アメリカ歴史学会(AHA)は、2025年の総会においてガザでの「学校潰し」”scholasticide”についての決議を拒否していたが、最近HPADのリーダーたちに接近し、ガザに関する委員会をAHAに設けることで一致した。最近、われわれは、この重要な問題について、少しずつではあるけど、前進しているのだ。
    ―この「学校潰し」についての決議をめぐる問題というのは以下のようである。2025年1月5日にAHAの実務者会議business meetingが、「ガザでの学校潰しに反対する決議」を出していた。イスラエルがガザであらゆる教育機関を攻撃してそれを潰していたことに反対する決議である。決議はイスラエルのジェノサイドとアメリカのそれへの支援を非難するものであった。しかし、1月17日のAHA評議会はその決議を否決した。それは教育と研究というAHAの学術的な目的を規定したAHA規約の枠外にあるものだからというのであった。ところが、そのようなAHA指導部の姿勢が最近変化したというのである。マニングは2016-2017年にAHAの会長をしていたから、このようなAHAの変化にホッとしたことであろう。(詳しくは、The American Historical Association Council Betrayed its Members and the People of Gaza – Left Voice

 このように、マニングのメールからは、ガザへの関心を広めようという動きが細々と進められていること、そしてアメリカにおけるガザ問題が歴史家のあいだに竜巻を引き起こしていることを垣間見ることができるのである。

(南塚信吾)

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