世界史寸描
太平洋戦争とパラオ現地民―中島敦にかかわる一つのエピソード―
小谷汪之

 「李陵」、「山月記」などで知られる作家、中島敦は専業作家となる以前の1941年7月から1942年3月まで、南洋庁の教科書「編修書記」として、「南洋群島」(日本の国際連盟委任統治領)に赴任していた。その間、中島は「南洋群島」の島々を巡り、その地の公学校(現地民子弟のための初等教育機関)や小学校(国民学校)を訪ねて、教員などと教科の内容について議論を重ねた。それ以外にも、中島は自らの文学的関心にしたがって、「南洋群島」の島々を訪ねた。本稿はその中で中島が現地民とかかわった一つのエピソードを取りあげる。そこには、自分とは全く関係のない列強同士の戦争(太平洋戦争)によって翻弄されるパラオ現地民の姿が浮かび上がってくる。

 1941年9月15日、中島は南洋庁のあったパラオ諸島コロール島からパラオ丸で東向し、トラック諸島(ミクロネシア連邦チューク州)、ポナペ島(ポーンペイ島)、クサイ島(コスラエ島)を経て、9月27日マーシャル諸島のヤルート環礁ジャボール島に到着した。帰路はこのコースを逆にたどり、10月6日トラック諸島夏島(トノアス島)に着いた。しかし、ここで船便や航空便に混乱が起こり、結局11月5日早朝、水上飛行機、朝潮号で夏島を出発、「〔午後〕2時、すでにパラオ本島を見る。2時20分着水。そのまま機毎、陸上に引上げらる」(中島「南洋日記」、『中島敦全集 2』ちくま文庫、291頁)。

 中島は朝潮号が引き上げられた飛行場(水上飛行機発着場)について何も書いていないが、これはコロール島の西に隣接するアラカベサン島の東北部に設営されたミュンス(ミューンズ)飛行場である。この飛行場の遺構は今日でも残されていて、幅40メートル長さ200メートルほどのコンクリートのスロープを見ることができる。中島の乗った水上飛行機、朝潮号はここに引き上げられたのである。

 本稿で取り上げるエピソードはこのミュンス飛行場にかかわるものである。中島は翌1942年1月、異色の民俗学者、土方久功に案内されて、パラオ諸島バベルダオブ島(パラオ本島)をめぐる旅に出たのであるが、その途次アイミリーキ地区のある新開村を訪れている。ただ、その時中島はその新開村とミュンス飛行場との密接な関連については知らなかったようである。

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 1942年1月17日、中島敦と土方久功はコロール島を出発、東回り(反時計回り)でバベルダオブ島を一周する旅に出た(この旅について詳しくは拙著『中島敦の朝鮮と南洋』岩波書店、2019年、178-188頁)。1月25日にはバベルダオブ島南部のアイミリーキ地区に着き、熱帯産業研究所(熱研)の「倶楽部」に泊まった。その翌日、26日にはアラカベサン島のミュンス村の移住先である新開村を訪ねることにした。中島は次のように書いている。

アラカベサン、アミアンス〔ミュンス〕部落の移住先を尋ねんと、9時頃土方氏と出発、昨日の道を逆行。如何にするも浜市に至る径を見出し得ず。新カミリアングル部落の入り口の島民の家に憩い、……爺さん(聾)に筏を出して貰いマングローブ林中の川を下る。〔中略〕30分足らずにして、浜市の小倉庫前に達し上陸。児童の案内にてアミアンス〔ミュンス〕部落に入る。頗る解りにくき路なり。移住村は今建設の途にあり。林中を伐採し到る所に枯木生木、根等を燃やしつつあり。暑きこと甚だし。切株の間を耕して、既に〔サツマ〕芋が植付けられたり。アバイ〔集会場〕及び、2、3軒の家の他、全く家屋なく、多くの家族がアバイ中に同居せり、大工4、5人、目下1軒の家を造りつつあり。朝より一同働きに出て今帰り来りて朝昼兼帯の食事中なりと。又、1時となれば皆揃って伐採に出掛くる由。(中島「南洋日記」311頁)

 中島はここでアラカベサン島、ミュンス村の人々がどうしてバベルダオブ島、アイミリーキ地区に移住して新ミュンス村を建設しているのか、その理由については何も書いていない。おそらく知らなかったのであろう。この点について、土方の方は次のように書いている。

ガラカベサン〔アラカベサン〕のミュンスの部落が、今度旧部落をそっくり日本の海軍に取りあげられてしまって、村をあげてここに引移って来ているので、そこを訪ねてみようということにして、9時頃敦ちゃんと二人で出かける。(土方「トンちゃんとの旅」、『土方久功著作集 6』三一書房、1991年、375-376頁)

 アラカベサン島のミュンス村は、もともと、中島が朝潮号で上陸したミュンス飛行場の場所にあったのである。その旧ミュンス村の土地をそっくり日本海軍に取りあげられてしまったので、やむなくバベルダオブ島のアイミリーキ地区に新ミュンス村を建設することになったということである。ただし、ミュンス飛行場はもともとは軍民共用の飛行場として1937年頃に建設されたとされているから、その建設時にミュンス村の土地がとりあげられたわけではない。1941年12月8日、太平洋戦争(日米開戦)が勃発すると日本海軍はミュンス飛行場を拡大強化して、大型水上軍用機が発着できるようにした(倉田洋二他編『パラオ歴史探訪』星和書店、2022年、114頁)。この時に旧ミュンス村の土地がそっくり日本海軍によって取りあげられたのであろう。したがって、中島と土方が訪れた1942年1月には新ミュンス村はまだ建設途上だったのである。

 1944年になると、「南洋群島」はアメリカ海軍太平洋艦隊による激しい攻撃を受けるようになった。最初に狙われたのは「南洋群島」最東端のマーシャル諸島で、1944年2月1日アメリカ軍はクェゼリン島に上陸した。クェゼリン島には日本海軍の第6根拠地隊の司令部が置かれていたのであるが、クェゼリン島を含むクェゼリン環礁は2月6日までにアメリカ軍によって完全に制圧された。マーシャル諸島を押さえたアメリカ軍は、次にマーシャル諸島の西に位置するトラック諸島(トラック環礁)を攻撃目標とした。トラック環礁は日本海軍第4艦隊の泊地であっただけではなく、当時は連合艦隊もここを泊地としていた。1944年2月17日から18日、アメリカ軍はトラック諸島、特に「夏島」に猛爆撃をかけ、日本軍に大打撃を与えた。そのため、連合艦隊はトラック諸島から撤退し、さらに西のパラオ諸島を泊地とすることになった。そのパラオ諸島も1944年3月30日から31日、アメリカ軍による大空襲を受け、アラカベサン島の海軍水上基地やミュンス飛行場など重要な軍事施設、さらにはコロール島の住宅街などほとんどすべてが破壊された。

 このような状況下、コロール島やアラカベサン島に駐屯していた日本軍将兵や在住日本人の多くがバベルダオブ島(パラオ本島)に退避した。しかし、それを追うようにアメリカ軍はバベルダオブ島にも激しい空爆や艦砲射撃を加えたので、バベルダオブ島には食料などの補給物資が一切入らなくなった。人口が一挙に数万人増えたうえ、食料補給を絶たれたバベルダオブ島は飢餓状態となり、軍・民多くの人々が餓死した。

 中島と土方が訪ねたアイミリーキ地区の新ミュンス村も同じような飢餓状態に陥っていたであろう。新開村だけに状況はもっと悪かったかもしれない。ただ、アラカベサン島の現在の地図を見ると、かつてのミュンス飛行場の遺構の西側道路沿いにミュンス村という表示が見える。アイミリーキ地区に移住した人々のうち少なくともその一部は、日本敗戦後アラカベサン島の旧村に戻り、村を再建したのではないかと思われる。

 ミュンス村の人びとは、日本軍によってアラカベサン島の旧ミュンス村を奪い取られ、やむなくバベルダオブ島、アイミリーキ地区に新村を建設した。しかし、その新ミュンス村もアメリカ軍の空・海からの猛爆撃やそのもとにおける飢餓状況で多くの犠牲者を出したと思われる。しかし、生き残った一部の人びとは日本の敗戦後アラカベサン島の旧村の地に戻り、村を再建したようである。このミュンス村のミニ・ヒストリーは太平洋戦争が「南洋群島」の現地民に強いた苦難の一コマということができるであろう。

「ミュンス飛行場跡」(2017年4月10日、南塚信吾氏撮影)

(「世界史の眼」No.39)

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文献紹介:平和憲法をつくった男 鈴木義男

 福島県出身の法学者・弁護士・政治家である鈴木義男は、東北帝国大学教授を務めるも、軍事教練に反対して教壇を追われ弁護士に転身。河上肇ら治安維持法違反者の弁護などで活躍後、戦後は衆議院議員として帝国憲法改正案の審議に携わる。鈴木の提案から第九条に平和の文言が加わり、GHQ草案にはなかった第二五条の生存権が追加された。「ギダンさん」と呼ばれ親しまれた鈴木義男の、平和憲法成立への知られざる努力を含む多方面の活躍と、その波乱の生涯を描く初めての本格評伝。

略目次  はじめに/第一章 キリスト教的環境の中で/第二章 大正デモクラシーとの出会い/第三章 欧米留学とその「成果」/第四章 弁護士として/第五章 新憲法制定・司法制度整備/第六章 左右対立の社会党の中で/第七章 晩年―新たな目標へ/結びにかえて/あとがき  各章ごとにエピソード №1~7

       

判型: 四六判 並製 350頁

本体価格:1800円

著者紹介

仁昌寺 正一(にしょうじ・しょういち)

1950年、岩手県に生まれる。

1979年、東北学院大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。同年より、東北学院大学経済学部助手。その後、講師、助教授、教授を経て、2020年より東北学院大学名誉教授。専門は東北経済論、地域経済史。

著作一覧 『社会科学概論』(共著、日本評論社、1981年)、『地域再構成の展望』(共著、中央法規出版、1991年)、『大正デモクラシーと東北学院―杉山元治郎と鈴木義男―』(「鈴木義男」の項を執筆、学校法人東北学院)など。

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世界史研究所のウェブサイトにようこそ

世界史研究所は、2004年7月10日の設立以来16年間に渡って、世界史研究とそれにかかわる情報交換の拠点として活動して参りました。2020年4月1日からは、母体となっていた「歴史文化交流フォーラム」の解散に伴い、ウェブサイトでの活動を主とする研究所として新たにスタートしています。毎月1日に「世界史の眼」と題する論考・コラムを掲載している他、世界史に関する情報の発信・集積や出版活動に努めています。具体的な活動方針に関しては、こちらをご覧ください。また、世界史研究所が関与した書籍に関しては、こちらをご覧ください。

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「世界史の眼」No.38(2023年5月)

今号では、前号に続き小谷汪之さんに、「M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」の(下)を寄稿して頂きました。この論文は今号で完結します。また、南塚信吾さんに、「万国史」における東ヨーロッパ II-(3)をお寄せ頂いています。

小谷汪之
M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」(下)

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ II-(3)

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M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―(下)
小谷汪之

はじめに

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(以上、前々号掲載)

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

(以上、前号掲載)

(以下、本号掲載)

3 「ビルトの体系」

おわりに

3 「ビルトの体系」

 マックス・ウェーバーはインド的社会発展の固有性を、(1)土地レンテ収取者層の重層化、(2)「ジャジマーニー関係」とウェーバーが呼んだ共同体的分業関係の発展、これら二点に求めた。このことは、その後の実証的インド史研究の成果に照らしても、肯定的に受け止めることのできることである。

 しかし、ウェーバー自身はこれら二つの歴史過程を結びあわせて、インド的社会発展を全体として理論化するということはしなかった。おそらく、それはウェーバーの関心外のことだったのであろう。

 そこで、本稿では最後に、このようなウェーバーの「インド的社会発展の固有性」論をどのような方向で継承していけば良いのかという問題を検討しておきたい。ウェーバーのインド社会論を踏まえるならば、どのようなインド史像が見えてくるのであろうか。

 前述のように、ザミーンダールはザミーンダーリー・ビルトと呼ばれるビルトを持ち、それによって土地レンテの一部分を収取することができた。ウェーバーは、このザミーンダールのような存在をより一般的に、「ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権を与えられた者」と表現した。このような土地レンテ収取者たちが鎖のごとくつながって、剰余収取体制を形成していたのであるが、それに対応して、土地レンテ収取権としてのビルトもまた上から下へと連鎖をなしていたのである。

 他方、「ジャジマーニー関係」においては、ジャジマーニーと同義であるビルトが共同体的分業の土台をなしていた。さまざまなビルトを持つ者たちが相互にサーヴィスの授受関係を取り結び、その総体が共同体的分業体制をなしていたのである。ここでは、ビルトの網の目が形成されていたということができる。

 このように、ビルトは土地レンテ収取権としてのビルトと、「ジャジマーニー関係」を構成するビルトの二種類に大きく分けることができるのであるが、共にビルトと呼ばれる以上、両者に共通する本質があるに違いない。それは、それぞれの世襲的な職とそれに付随する取り分権がワンセットになって、世襲的な権益(資産、家産)を構成し、それがすべてビルトと呼ばれたという本質である。例えば、ザミーンダールなどの場合、土地レンテ収取者としての性格が前面に出やすいが、徴税・納税において、一定の職を果たし、その反対給付として、土地レンテの一部を収取する世襲的権利を持っていたのである。チョードゥリーのような地域共同体の首長、村長などの村役人、村職人などの場合は、それぞれの世襲的な共同体的役職に従事し、共同体によって定められた所定の手当を受け取る世襲的権利をもっていた。このように、職と取り分権がワンセットになって世襲的な権益(資産、家産)を構成するという点において、二種類のビルトは共通の本質を持っていたのである。

 この共通の本質にもとづいて、これら二種類のビルトを連結させるならば、上はザミーンダールのビルトから、下は村職人などのビルトまで、社会全体がビルトによって編成され、体系化されていたことが分かる。それは「ビルトの体系」と呼ぶべき社会編成であり、この「ビルトの体系」が剰余の収取関係と社会的分業関係の双方を包摂していたところにインド的社会の固有性を見ることができる。

 インドにおける社会発展とは、この「ビルトの体系」がより複雑化、高度化していく過程に他ならなかった。土地レンテの総量が増大するのに伴って、一方では、土地レンテ収取権としてのビルトの数が増大し、剰余収取体制がより複雑な形へと発展していった。他方では、ジャジマーニーと同義のビルトの数が増大していったが、それは生産力の発展に伴い共同体的な社会的分業関係がより高度に発展し、複雑化していったことを意味している。この二つの歴史過程が同時進行することによって、「ビルトの体系」はより複雑化、高度化していった。そこに「インド的発展の固有性」を認めることができる。

おわりに

 本稿では、ウェーバーがインド的社会発展の固有性をどのように捉えようとしていたのかという問題を検討したうえで、その延長上に、前植民地期の北・中央インド社会の構造を「ビルトの体系」という概念で捉える視点を提起した。そうすることによって、ウェーバーのインド社会論を発展的に継承することができると思うからである。

 しかし、「ビルトの体系」論には一つ問題が残されている。「ビルトの体系」ははたしてインド亜大陸全体に認められるものなのであろうか。例えば、拙著『インドの中世社会』(岩波書店、1989年)では、前植民地期デカン(マハーラーシュトラ地方)の社会を「ワタン体制社会」という概念で捉えている。この「ワタン体制」と「ビルトの体系」との違いは、「ワタン体制」がザミーンダール的な土地レンテ収取者を含まず、在地の共同体―地域共同体と村落共同体―構成員のみからなる社会体制であるという点に存する。それは、ワタンが、基本的には、在地の共同体的「職」に関わるもので、土地レンテ収取権を含まないからである。その点で、「ワタン体制」は「ビルトの体系」の一部分ということになる。こういったことをインド亜大陸の他の地域についても検討することが必要である。ただし、南インドのタミル地方に関する水島司の研究や、ベンガル湾に面したオリッサ地方に関する田辺明生の研究など、「ビルトの体系」に類似した社会関係を析出した歴史研究がすでに出されているので、他の諸地域に関しても同様の成果が期待される。(注19)

1 カール・マルクス(1818-83年)やヘンリー・メイン(1822-88年)など、19世紀西欧思想家たちのアジア論とウェーバーのアジア論との間の本質的な違いについては、拙稿「ウェーバーの比較社会学と歴史研究」『現代思想』35巻15号(2007年11月臨時増刊)、46-49頁、参照。

2 Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Die Wirtschaftsethik der Weltreligionen II, Hinduismus und Buddhismus, Tübingen: J.C.B. Mohr, 1921, p. 4. 深沢宏訳『ヒンドゥー教と仏教 世界諸宗教の経済倫理Ⅱ』東洋経済新報社、2002年、4頁。

3 Wirtschaftsgeschichte, Abriß der universalen Sozial- und Wirtschaftsgeschichte, 3. Aufl., Berlin: Duncker & Humblot, 1958 (1. Aufl., München: Duncker & Humblot, 1923).

4 深沢宏訳『ヒンドゥー教と仏教』では、Landrente (Rente)が「地代」、Landrentnerが「地代徴収者」と訳されているが、「土地レンテ(レンテ)」、「土地レンテ収取者」と改訳した。その他にも改訳した部分がある。

5 黒正巌・青山秀夫訳『一般社会経済史要論』では、Rentenempfängernが「年貢収納者」と訳されているが、「レンテ収取者」と改訳した。それに関連して、その他にも改訳した部分がある。

6 Baden H. Baden-Powell, The Land-Systems of British India, 3 vols., Oxford: Clarendon Press, 1892. 

7 Irfan Habib, The Agrarian System of Mughal India, 1556-1707, 2nd revised ed., New Delhi: Oxford University Press, 1999 (original ed., Bombay: Asia Publishing House, 1963), p. 183, n. 65. 

8 H.H. Wilson, A Glossary of Judicial and Revenue Terms and of useful Words occurring in official Documents relating to the Administration of the Government of British India, London: W.M.H. Allen & Co., 1855, pp. 88-89.

9 地域共同体には、首長(北インドではチョードゥリー、デカン地方ではデーシュムク、カルナータカ地方やグジャラート地方ではデサイー、などと呼ばれた)と書記(デーシュパーンデーなどと呼ばれた)が存在し、それぞれの地域共同体内部の紛争の解決や権利関係の確認のために、地域共同体集会を開くなどの職務を果たしていた。また、各カースト集団は地域共同体ごとに第一次的集団を形成し、各地域共同体には各カーストの頭(メータルなどと称された)が存在した。村落共同体はこのようなものとしての地域共同体に支えられて存続することができたのである。地域共同体、村落共同体について詳しくは、拙著『インドの中世社会――村・カースト・領主』(岩波書店、1989年)を参照。

10 Irfan Habib, The Agrarian System of Mughal India, 1556-1707, p. 187.

11 ibid., pp. 161, 164.

12 Wirtschaftsgeschichte, p. 37. 黒正巌・青山秀夫訳『一般社会経済史要論(上巻)』、92頁。

13 原文は以下の通り。

(C) Jajmani.――Many castes from the Brahman downwards have the practice expressed in the word jajmani(1). Literally the word jajman means ‘he who gives sacrifice’ i.e. the person who employs a priest to carry out a sacrifice for him and of course provides him with the means for doing so; but it is now extended to include a client of any kind. The jajmans of a Brahman purohit, or house priest, are his parishioners, whose domestic rites at birth, initiation, and marriage it is his duty to superintend. In the same way, Chamars, Doms, Dafalis, Bhats, Nais, Bhangis, Barhais, Lohars all have their jajmani or circle of clients, from whom they receive fixed dues in return from regular service. The clientele is hereditary, passing from father to son. The Chamar’s jajmans are those from whom he receives dead cattle and to whom he supplies leather and shoes: whilst his wife has likewise a clientele of her own for whom she acts as midwife and performs various menial services at marriages and festivals. The Dom’s jajmani consists of a begging beat, in which he alone is allowed to beg or steal; the Dafali also possesses a begging beat; and besides begging he has to exorcise evil spirits and drive away the effects of evil eye. The Nai has a clientele whom he shaves and for whom he acts as matchmaker and performer of minor surgical operations (drawing teeth, setting bones, lancing boils, and so on): whilst his wife is the hereditary monthly nurse. Barhais and Lohars in villages have their circles of constituents whose ploughs, harrows and other agricultural implements they make or mend; Bhangis serve a certain number of houses, and Bhats(2) of the Jaga sub-caste act as perambulating genealogists for their clients, visiting them every two or three years and bringing the family tree up to date. These circles of constituents are valuable sources of income, heritable and transferable (the Dom’s begging beat and the Bhangi’s jajmani are often given as a dowry): and as such they are strictly demarcated and to poach on a fellow casteman’s preserve is an action which is bitterly resented. In many castes one of the panchayat’s chief duties is to deal with offences of this kind. Dom would not hesitate to hand over to the police a strange Dom who stole within his ‘jurisdiction’.(3)

(1) A synonym is brit or birt. Brit Nai, brit Bhangi, &c., &c., are common entries in the occupation column and may be best translated by ‘caste dues’. Jajmani is also so used, but generally it is reserved for the Brahmanical dues and probably includes not only the dues connected with purohiti, but those vaguer sources of income, such as presents and food received by all sorts of Brahmans at feasts of every kind.

(2) ……

(3)  It may be asked what happens if a client refuses to utilize the services of the particular Dom or Bhangi or Barhai to whom he is assigned. In all probability he would be boycotted and nobody would work for him. ……

14 E.A.H. Blunt, The Caste System of Northern India, reprint ed., Delhi: Isha Books, 2010 (original ed., London: Humphrey Milford, 1931), p. 260.

15 W.H. Wiser, The Hindu Jajmani System, A Socio-Economic System interrelating Members of a Hindu Village Community in Services, 3rd ed., New Delhi: Munshiram Manoharlal, 1988 (original ed., Lucknow: Lucknow Publishing House, 1936).

16 ibid., pp. xx-xxi.

17 ibid., pp. xix-xx.

18 ibid., p. xix.

19 水島司『前近代南インドの社会構造と社会空間』東京大学出版会、2008年。田辺明生『カーストと平等性―インド社会の歴史人類学』東京大学出版会、2010年。

(「世界史の眼」No.38)

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(3)
南塚信吾

3. 箕作麟祥『万国新史』 1871年(明治4年)―77年(明治10年)

 これは箕作麟祥(みつくりあきよし)が明治4年から10年までかけて出した大作であった。フランス革命から普仏戦争あたりまでの「現代世界史」を「同時代史」的に描いたものである。各国史の寄せ集めではない。しかもこの本は、これは何らかの本の翻訳ではなくて、いくつもの本を消化して著者がまとめたものであった。明治期に出た「万国史」の中では出色の力作であった。

 箕作が参考にした本は、鱗祥の「凡例」によれば、チャンブル氏の「モデルンヒストリー」、ヒューム氏の「ヒストリーオフイングランド」、ヂュルイ氏の「イストワールドフランス」、ヂュタードレイ氏の「イストワールコンタポレーン」を中心に、「群書」を参照したとある。基本的にはチェンバースの『現代史』(W. & R. Chambers, Modern History, London 1856)の第三部に依拠していた。

***

 『萬國新史』の全体構成を見てみると、それは3編に分かたれている。

 上編は、

第一回―第十回 1789年から1814年まで

「仏蘭西大変革の原由」、「仏蘭西大変革記」、「仏蘭西共和政治の記」、

「仏蘭西帝国記」

第十一回 「ウィーン大議会」

第十二回 1815年のワーテルロー大戦

第十三回 英吉利、

第十四回 日耳曼(ゲルマン)(附 墺太利)

第十五回 魯西亜(ロシア)(附 波蘭)

第十六回 米利加連邦

 中編は、

第一回―第二回 「欧州復旧」

第三回―第四回 「人民と神聖会盟と相抗敵するの記」

第五回「欧州各国人民自由進歩の記」

第六回―九回 1830年仏国大変革とその後の欧州各国形勢

第十回「亜細亜に於て英魯の両国相競ふの記」

第十一回「土耳古、埃及(エジプト)戦闘の記」

第十二回―第十七回 「1848年仏国大変革の原因」、1848年仏国大変革及び共和政治、1848年大変革以後の仏国形勢と、1848年欧州各国騒乱の事情

第十八回「哥里米(クリミア)乱原因の記」

 下編は、

第一回 クリミアの乱

第二回「印度叙跛(セポイ)兵の乱」

第三回 以太利独立の戦

第四回 支那戦争の記(附 太平王の乱)

第五回 米利堅(アメリカ)、魯西亜、英国

第八回 墨是哥(メキシコ)及び南亜米利加各国

第九回―第十回 西班牙、日耳曼と墺孛(普)両国の戦

第十一回―第十三回 仏国輓近の大勢と普仏戦争

***

 こういう構成からも『萬國新史』の特徴は少し見えてくるが、改めてその特徴を探ってみよう。 

 第一に、『萬國新史』は、フランス革命から普仏戦争の時期までを扱った、当時で言えば「現代世界史」である。ほとんど麟祥の生きていた同時代を扱ったにもかかわらず、世界諸地域の歴史に対する深くて正確な知識と洞察は目を見張るものがある。

 第二に、それは「同時代史」である。ここで「同時代史」というのは、生きているわれわれと同じ時代という意味ではなく、輪切りの同時代という意味である。フランス革命の時代、1848年革命の時代、クリミア戦争の時代、「セポイ」と「太平王」の時代などを区別しつつ「同時代史」を述べている。つまり、この時期の歴史を、ナショナル・ヒストリーで割らないで、ヨーロッパ大陸全体、世界全体の動きとしてとらえている。そのような方式の中で、この「万国史」は、視野をヨーロッパに限らず、アジアやその他非ヨーロッパに対して広く伸ばし、それらにヨーロッパに劣らない位置を与えている。ヨーロッパ、アメリカ、ラテンアメリカ、アジア、一部のアフリカなどをボーダーレスに自由に動いて、歴史を描いている。この時期はまだ日本史、東洋史、西洋史という区分がないので、こういう具合に「自由」に世界史を見ることができたのである。その際、かれは諸国、諸地域の歴史をなんらかの「関係」において捉えつつ、同時代史的・関係史的世界史を描いている。

 第三に、それは、ペルシアから中央アジア、アフガニスタン、インド、そして中国までについて、詳細で正確な「事実」を基礎に論じている。とくに、中央アジアについては、英露の対立関係のなかで、現地の諸勢力の錯綜する関係を見事に描いている。日本では、この箕作の書以後、忘れ去られていくことになる中央アジアの歴史が、今日再度関心を集めているわけである。ちなみに、これ以外では、ラテンアメリカについては詳しく述べる一方、アフリカはエジプトあたりまでで終わっているし、箕作がフランス語も解したにもかかわらず、フランス圏の東南アジアは扱われていないのは、不思議である。おそらく依拠した書物のせいであろう。

 最後に、本書は、当然ながら、当時の麟祥の歴史的制約も受けている。民権主義者としての麟祥は、人民の「自由」こそ強調しているが、人民の願いを受け止めて指導する「賢明なる国王」を目指すべき理想であるという立場のようである。人民の「自由」への動きは各所に押さえながら、人民が「衆愚」にいたることを恐れ、むしろ「賢明なる君主」という視点から歴史を見ているわけである。

***

 さて、ヨーロッパの東部については、どういう記述をしているのかとみると、これまでの「万国史」とは全く違う扱いをしていることが分かる。

 1848年革命(騒乱)が詳細に論じられているので、それを素材にしてみよう。それは1846年のポーランド人のガリツィア蜂起を伏線として置くところから始まり、48年革命を同時代的に分析した力作になっている。1846年のクラクフ「共和政治」、その崩壊後も続くポーランド人の「自由」への「恢復の念」、ついでスイスにおける「守旧党」と「改革党」の乱などを前史としたうえで、1848年を論じている。1848年革命の時代の描き方を見てみよう。かれはこれをこういう順番で描いている。フランスについで人民が蜂起したのはオーストリアのウィーンの人民であるとして、1848年3月から10月までのウィーン府民の騒擾とメッテルニヒの追放、オーストリアの管轄下にあったイタリアの人民の動乱(3月―7月)、このイタリア人の動きを聞いて同じくオーストリアの管轄下にあったボヘミアで6月に開かれたスラヴ人種の公会、そして、オーストリアの管轄に不平を懐いていたハンガリー人の3月騒擾から、9月からのオーストリアとの戦争が述べられる。さらにドイツの3月革命から5月開催のフランクフルトの「列国人民代理者」の大議院での議論が述べられた後、6月のワラキア、モルドヴァ(ルーマニア)での騒乱、そしてイタリアの1849年3-8月の対オーストリア戦争、ハンガリーの1848年10 月から1849年8月までの独立戦争をもって終わっている。これは、各地での「人民自由」を求める民衆蜂起や政治変動を相互に「関係」させながら、それらが波及していく(つまり「連動」していく)順に述べられているわけで、この時期の歴史を、国民史で割らないで、大陸全体の動きとしてとらえているのである。当然諸国民の歴史は諸国との「関係」の中で位置付けられている。

 個々の東欧の「人民」の様子を箕作はどのように見ていたのであろうか。 

 チェック人は、かつて不羈自立の国を持っていたが、いまはスラヴ人種として、ガリツィア、イリリア、スチリア、ダルマチアなどと「大連邦」と組むことを謀り、6月2日にプラハで「公会」を開いた。ボヘミアの人民はオーストリアからの独立は望んでおらず、ボヘミアではドイツ人が少ないのにその権力はスラヴ人より大きいという制度を正したいと願っていた。しかし、会の参加者の一部は、オーストリアに叛く事を考えて「人民」を扇動し、6月12日にプラハの「府民」に「乱」を起こさせた。これは、6月14日、ウィーンヂスグラッツの軍に敗れ、これにより「公会」も解散したと述べている。このように、箕作は「オーストロ・スラヴ主義」に注目していたわけである。

 オーストリアに対する反乱として、ハンガリーが出てくる。ハンガリーもボヘミアと同じくかつては独立の国であったが、オーストリアに支配されて人民はその「苛政」に苦しんでいた。フランスの報を聞いて、3月15日にその国民はウィーンに数名を派遣して、「内閣」の設置を求めた。皇帝は人民を抑圧しがたいとみてこれを許し、バチアニを内閣の長とした。多くの国民はこれで満足したが、しかし、コシュットはそうではなかった。ハンガリーはオーストリアからの独立を図る際、トランシルヴァニア、クロアチアのワラツク人種(=ヴラフのこと)とスラヴ人種をその支配下に置こうとしたが、それら「人種」の「意を失ひし」。これを見てオーストリアは、この二つの「人種」を用いてハンガリー人に敵対させ、エルラキク(=イェラチチ)を利用して、攻撃させた。このような記述からは、コシュートらが同じくオーストリアに支配されていて共闘すべきスラヴ人の「意を失った」こと、オーストリアがかれらを利用したことが指摘されていることが分かる。

 ついで、フランスの「大騒乱の余波」は遠くダニューブ河に及び、ルーマニア「人種」も「国を立て」るべく「請願」を起こしたと記述している。そもそも、ルーマニア人はローマのダキア植民の末裔で、スラヴ人の「侵掠」を受けたが、とくにワラキアとモルダヴィアの二州に多数残った。かれらは「土耳古」人に「開明」の道を教えたほどで、二州はトルコ下で独自の政府を認められ、言語・制度も維持された。トルコは、この二州の政権をギリシア人に委任していたが、ロシアは1821年にウラジミレスコというルーマニア人を使って、ギリシアの支配から脱却させた。当時ギリシアがトルコに背いて兵をあげていた(=ギリシア独立戦争という用語はない)ので、トルコは二州の自立を認め、二州では「変革」の機が出てきた。だが、ロシアは二州に「権」をほしいままにしようとして、この変革を「妨阻」し、二州を自己の保護下においた。これに対して、二州においては、若者たちが欧州の自由の説を取り入れ、ビベスコ(大公ビベスク)なるものを先頭に改革を目指したが、そのようなおりに、フランスの48年の報が伝わると、6月、ワラキアの一部に騒乱が起き、それが全国に波及、3月23日にはブカレストでビベスコは憲法の約束をしたと述べられている。「万国史」のなかで初めてルーマニアについて、ほぼ正確な記述が現れたわけであるが、それだけでなく、ハンガリー人やロシアやトルコ(=オスマン)との間で苦労するルーマニア人の位置がよく示されている。フランスに留学していた鱗祥は、当時のフランスの文献の影響も受けて、ルーマニアについても記述しているわけであろう。

 ルーマニアの蜂起ののち同じくラテン系のイタリアの蜂起が述べられ、それについでふたたびハンガリーの乱が述べられる。イタリアの蜂起が押さえられたあと、ハンガリーだけが、人民が独立を求めて皇帝の命に従わず、コシュットに従って、オーストリア軍とたたかった。ハンガリー軍は、ヴィンヂスグラッツとエルラキクに敗れて、1849年1月には政府をデブレツエンに移した。ここでハンガリーの人民は貴賤の別なく兵に応じて、勢いを回復した。そして4月の末にはペシュトを奪回し、ウィーンまでも襲う気配が出てきた。ここにフランツ=ヨーゼフはロシアの援軍を求め、8月12日にウィラゴスの戦いでハンガリー軍を破った。皇帝は敗戦後のハンガリーに徹底した弾圧で臨み、「立憲党」の首魁であったバチャニを、当時最も人民に敬愛されていたにもかかわらず、銃殺した。

 ここに1848年革命は終焉したのである。1848年革命をイタリアとハンガリーの革命の終焉で締めくくるのは、箕作の慧眼である。

***

 いろいろと不正確なところはあるが、事実に基づいた東欧の歴史になっていた。そしてすでにヨーロッパの東の部分への歴史的視野は驚くほど広がっていたことが確認できよう。これまでのポーランド、ハンガリー、ギリシアだけでなく、ボヘミアやワラキアなども現れるのである。寺内の『五洲紀事』とは比べ物にならないくらいに、正確な認識になっている。また、歴史をみる基準としては、自由、立憲、独立という価値が柱になっていて、これを賢明なる君主が、「人民」の動向を取り入れつつ、いかに実現できるかというところに置かれていた。だから、かれは「暴徒」「激派」や「ソシアリスト」には批判的である。そして、諸民族の歴史も他の民族の歴史との「関係」で扱われている。国民史の並列ではないのである。しかし、これらの特徴はその後、順調には継承されなかった。

(「世界史の眼」No.38)

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「国際関係史から世界史へ』書評掲載のお知らせ

世界史研究所が関わった書籍、南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』(ミネルヴァ書房、2020年)の書評が、『西洋史学』274号(日本西洋史学会)の63〜65頁に掲載されました。評者は、蘇南高等学校校長の小川幸司さんです。

どうぞご一読ください。

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「世界史の眼」No.37(2023年4月)

「世界史の眼」は、この4月から4年目に入りました。今号では、前号に続き小谷汪之さんに、「M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」の(中)を寄稿して頂きました。次号の(下)で完結の予定です。また、明治大学の山田朗さんに、昨年刊行のマイケル・S・ナイバーグ『戦争の世界史』を書評して頂きました。

小谷汪之
M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」(中)

山田 朗
書評:マイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)

マイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―(中)
小谷汪之

はじめに

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(以上、前号掲載)

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

(本号掲載)

(以下、次号掲載)

3「ビルトの体系」

おわりに

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

(1) ビルトにもとづく社会的分業関係

 ビルトという言葉は、ザミーンダーリー・ビルトのような土地レンテ収取権を意味するだけではなかった。より本源的な用法では、世襲的に定められている範囲の「顧客」に世襲的家業に基づくサーヴィスを提供し、その反対給付を受ける世襲的な権益(資産、家産)がすべてビルトと称されたのである。ウイルソンはこのような意味でのビルトの用法を挙げている。

birtあるいはbrit:ヒンディー語。サンスクリット語の vritti 〔から派生〕。〔中略〕世俗的と宗教的とにかかわらず、ある職に従事することから生じる権利、慣行〔的権利〕、特権。さまざまなカーストによって主張される、ある特定の職に従事する権利。〔例えば〕家庭司祭に対する手当。(注8)

 先にも触れたが、ヴリッティvṛttiというサンスクリット語の言葉がブリットbritに変化し、さらにビルトbirtへと、より発音しやすい方へ変化したと考えられる。このことは、北インドにおいて、ヴリッティという言葉が、音韻変化を起こしながら、長く使用され続けてきたことを示している。

 前出のチョードゥリーのような地域共同体の首長の職とそれに付随する取り分権(チョードゥラーイー)もビルトと称された。地域共同体は50カ村ぐらいの村々を束ねた上位の地縁共同体で、地域社会の再生産に重要な役割を果たしていた。(注9)

 さらに、ウェーバーの前引の一文にあるように、「世襲村長」もビルトをもっていた。コートあるいはムカッダムと呼ばれた村長の職と取り分権(コーティー、ムカッダミー)もビルトだったのである。コーティー、ムカッダミーは、遅くとも16世紀までには売買可能な物件となっていた。1530年の一史料はある村のコーティーが700タンカで売却されたことを示している。(注10)村長職の取り分は実入りの良いものであったから、村落外の者がムカッダミーを購入するといったこともしばしばあった。(注11)

 村落共同体のさまざまな職務に従事する手工業者たち(鍛冶屋、大工など)や床屋、洗濯人などのような村職人たち―ウェーバーは彼らを「村落エスタブリッシュメント」Dorf-establishmentと総称している(注12)―もそれぞれのビルトをもっていた。

 このように、村落共同体―地域共同体を構成するさまざまな人々は、それぞれのビルトを所有していた。ビルトは村落共同体―地域共同体内の社会的分業関係の土台をなしていたのである。

(2) ウェーバーの「ジャジマーニー関係」論

 土地レンテ収取権としてのビルトとは区別される、「村落エスタブリッシュメント」を構成する人々のビルトはジャジマーニーjajmānīとも称された。ジャジマーニーという言葉は仏教やヒンドゥー教において、施主あるいは祭主を意味するサンスクリット語のヤジャマーナyajamāna(転訛してジャジマーンjajmān)という言葉から派生した語であるが、「村落エスタブリッシュメント」を構成する村職人などの世襲的顧客関係を指す言葉として広く用いられていた。

 ウェーバーは『ヒンドゥー教と仏教』の各所で、バラモン家庭司祭や大工などの職人が世襲的な「ジャジマーニー関係」jajmani-Beziehung(顧客関係Kundschaft)をもち、それを売却することもできたということを指摘している(Hinduismus und Buddhismus, pp. 63, 103-104, 352)。

顧客関係保護の原則Prinzip des Kundschaftsschutzes、すなわちジャジマーニー関係jajmani-Beziehung確保の原則は、これら村落職人の範囲を越えて、今日でも多くの手工業カーストにおいて強力に実施されている。我々はすでにこのジャジマーニーの保護をバラモンに関して知ったのであるが、〔祭主、施主という言葉から派生した〕この語の意味が示すように、この概念はバラモン・カーストの諸関係に起源を持ち、そして個人的管轄区域≫Sprengel≪とでも訳すべきものである。〔中略〕たとえばチャマール〔不可触民の皮革工カースト〕は、世襲的に特定の諸家族から死んだ家畜を受け取り、彼らに対して靴などに必要とされる皮革を納める。同時に彼の妻は同じ顧客の助産婦である。乞食の諸カーストは、西洋の煙突掃除人のように、(世襲である点が異なるが)特定の乞食区域を持ち、ナーイー〔床屋〕は、自分の世襲の顧客に対して、理髪師、マニキュア師、ペディキュア師、外科医および歯科医であり、バンギー〔不可触民の一カースト〕は特定区域の清掃人である。多くのカーストについて―したがって、ドーム(家僕、乞食)やバンギーについても―顧客関係Kundschaftは譲渡できるし、しばしば婚資〔嫁買金〕の一部であると報告されている。かかる制度が存在する場合には、他人の顧客関係に侵入することは、今日でさえカーストからの追放の理由になる。(Hinduismus und Buddhismus, pp.103-104.深沢宏訳、137頁)

 ウェーバーはジャジマーニーに関するこのような知識を、‘Blunt im C. R. 1911 für die United Provinces und Oudh (altklassischer Hinduboden!) p. 223’から得たと注記しているが(Hinduismus und Buddhismus, p.104, n. 2)、この出典表記には誤りがある。正しくは、E.A.H. Blunt, Census of India, 1911, Vol. 15, United Provinces of Agra and OudhPart 1, p. 332の以下の記述である。(注13)

(C) ジャジマーニーJajmani―バラモン以下多くのカーストは「ジャジマーニー」jajmani(注1)という言葉で表される慣行をもっている。字義どおりには、ジャジマーンjajmanという言葉は「供犠を行う人」、すなわち、司祭を雇って自分のために供犠を行い、もちろん、供犠に必要なものを司祭に提供する人、を意味する。しかし、〔ジャジマーンという言葉は〕今ではあらゆる種類の顧客を意味する。バラモンのプローヒトpurohitすなわち家庭司祭のジャジマーンは彼の教区民パリショナーたちであり、教区民たちの誕生祝、入門式、結婚式といった儀式を管掌することが彼の職務である。同様に、チャマール〔皮革工〕、ドーム、ダファーリー、バート〔家系図作り〕、ナーイー〔床屋〕、バンギー〔清掃人〕、バダイー〔大工〕、ローハール〔鍛冶屋〕、これらすべてのカーストがそれぞれのジャジマーンを持ち、ジャジマーンに定められたサーヴィスを提供する代わりに、〔ジャジマーンから〕所定の手当を受け取る。顧客関係は世襲的で、父から子へと受け継がれる。チャマールはジャジマーンから死んだ家畜を受けとり、〔ジャジマーンに〕皮革や靴を提供する。チャマールの妻は同様に彼女自身の顧客関係を持ち、〔顧客=ジャジマーンの家で〕産婆の役割を果たし、結婚式や祝祭などの際に下働きとして働く。ドームのジャジマーニーは物乞い区域begging beatで、その範囲内では、彼だけが乞食をしたり、盗みをしたりすることができる。ダファーリーも物乞い区域を持っている。ダファーリーは乞食をする以外に、悪霊を払い、邪視を無力にする役割を果たさなければならない。ナーイーは顧客の髯をそり、〔顧客の家の〕結婚仲介人となり、ちょっとした外科手術(抜歯、骨接ぎ、できものの切開、等々)を行う。一方、ナーイーの妻は顧客の家で、産後の主婦のために子守を世襲的に行う。バダイー〔大工〕とローハール〔鍛冶屋〕は村々において、犂や砕土機ハローやその他の農耕具を作ったり修理したりする顧客圏を持っている。バンギー〔清掃人〕はある一定の数の家々を顧客としている。ジャガ・サブカーストのバート(注2)は彼等の顧客の巡回家系図作りとして、二、三年毎に顧客の家を訪ねて、家系図を最新の状態にする。

 これらの顧客圏は収入の貴重な源泉であり、世襲され、売買することもできる(ドームの物乞い区域やバンギーのジャジマーニーは、しばしば、婚資代わりになる)。このようなものとしての顧客圏は厳密に境界が定められ、同じカースト仲間の顧客圏に侵入すると激しい怒りを買う。多くの場合、カースト・パンチャーヤト〔長老会議〕の主要な職務はこの種の違反に対処することである。ドームは、彼の物乞い区域内で盗みを働いた他のドームを警察に引きを渡すことを躊躇しない。(注3)

 注

 1. ジャジマーニーはブリトbritあるいはビルトbirtの同義語である。(以下略)

  2. (略)

 3. もし、ある顧客が彼の家の世襲的なドームあるいはバンギーあるいはバダイーに仕事を頼むのを拒否したらどうなるかという問題がある。その場合、多分彼はボイコットされ、誰も彼のために仕事をしないであろう。(以下略)

 上引文中の注1に見られるように、バラモン家庭司祭、バート、チャマール、ドーム、ダファーリー、ナーイー、バンギー、バダイー、ローハールなどの場合、ビルトとジャジマーニーが同義であることは1911年国勢調査(Census of India)の段階ですでに知られていたのである。ウェーバーはこの国勢調査報告書を読んで、ジャジマーニーについての知識を得たのであるから、当然、これらの人々のビルトとジャジマーニーが同義であることも知っていたはずである。

 これらの人々のビルトとジャジマーニーが同義語となった経緯は次のように考えられる。ジャジマーニーという言葉は、前述のように、サンスクリット語で祭主(仏教的にいえば、施主)を意味するヤジャマーナという言葉から派生したもので、もともとは、バラモン家庭司祭の顧客関係(ビルト)のみを表す言葉であった。しかし、このジャジマーニーという言葉がしだいに一般化して、チャマールやバンギーなどの顧客関係(ビルト)までジャジマーニーと呼ばれるようになり、結局、これらの人々のビルトとジャジマーニーは同義とみなされるようになっていったのである。ただし、ザミーンダーリー・ビルトなど、土地レンテ収取権としてのビルトがジャジマーニーと表現されることはなかった。ビルトとジャジマーニーが同義だったのは、あくまでも、共同体的分業関係の場においてだったのである。

 なお、ブラントは自らが委員長を務めた連合州銀行業調査委員会United Provinces Banking Enquiry Committee, 1929-1930の報告書に依拠して、連合州のある三つの県(district)で、バンギーやマハーブラーフマン(葬式を行うバラモン)などのジャジマーニー80件が抵当に入れられていたことを指摘している。その中の1件はプローヒティー、すなわちバラモン・プローヒト(家庭司祭)のジャジマーニーであった。(注14)このことは、1930年頃になっても、ビルト(ジャジマーニー)が現実的な資産としての価値をもっていたことを示している。

(3) ワイザーのジャジマーニー制度論

 W・H・ワイザーが『ヒンドゥー・ジャジマーニー制度』(1936年)(注15)と題された著書で、ジャジマーニー制度という概念を提起したことはよく知られている。その副題には、「ヒンドゥー村落共同体の構成員たちをその職務において相互に結び付ける社会経済的制度」とある。ジャジマーニー制度とは、換言すれば、村落共同体内分業の制度だということである(ただし、村が小さい場合などには、1カ村を越える分業関係もあり得た)。

 ワイザーの調査村であるカリームプル村(仮名)は、ガンジス川とジャムナー川に挟まれた、いわゆる両河ドアーブ地方に位置し、以下のような24のカーストから成っていた。(注16)

1. バラモンおよびそれに近似した階層(2カースト)

 バラモン(家庭司祭)、バート(家系図作り)

2. クシャトリヤおよびそれに近似した階層(2カースト)

 カーヤスタ(書記)、ソーナール(金工)

3. シュードラ階層(12カースト)

 マーリー(野菜作り)、カーチー(野菜作り)、ローダー(米作り)、バダイー(大工)、ナーイー〈床屋〉、ダルジー(仕立屋)、クムハール(陶工)、テーリー(油屋)、その他。

4. 被差別民階層(8カースト)

 ドービー(洗濯人)、チャマール(皮革工)、バンギー(清掃人)、その他。

 ワイザーはこれらの諸カーストの間の関係について、次のようにのべている。

村のそれぞれのカーストは一年のどこかの時期にお互いの間で固定されたサーヴィスの授受を行うことが求められる。〔中略〕〔例えば〕村大工は彼の顧客clientele全体を彼のジャジマーニーあるいはビルトと呼ぶ。これらの言葉は同じ意味である。大工がサーヴィスを提供する個々の家、あるいはその家の家長は大工のジャジマーンと呼ばれる。(注17)

 同様に、バラモン家庭司祭(パンディト)、金工、鍛冶屋、床屋などの諸カーストの人々もそれぞれ自分の家の世襲的な顧客をもち、それぞれの顧客の全体が彼の「ジャジマーニー」あるいは「ビルト」と称されていたのである。

 このジャジマーニーあるいはビルトが単に世襲的な権益(資産、家産)であっただけではなく、譲渡可能な物件であったことについて、ワイザーは大工を例として、以下のようにのべている。

それぞれの大工は自分自身の顧客を持っている。この顧客関係は慣習によって確立され、世代から世代へと引き継がれる。村が大きい場合には、顧客は村の境界内に限られる。もし村が大きくなかったり、大工家族の成員が村の必要を満たす以上に多い場合には、近隣の大工のいない小村にまで、顧客の範囲が広がる。この顧客関係はひとたび確立されると、大工自身によってしか破棄されえない。彼は彼の諸権利を他の大工に売ることもできる。この顧客関係は世襲的であるのみならず、譲渡可能なのである。(注18)

 ワイザーが見た1920-30年代北インドの村落社会では、バラモン家庭司祭、大工などの村職人、その他多くの人々が一定の範囲の顧客を自らの世襲的なジャジマーニーすなわちビルトとしてもち、そのジャジマーニー(ビルト)を物件として売却したり、譲渡することができた。この社会関係は、まさにウェーバーがブラントの国勢調査報告書に基づいて記述している「ジャジマーニー関係」jajmani Beziehungそのものである。

(次号に続く)

※注はまとめて(下)に掲載します。

(「世界史の眼」No.37)

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書評:マイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)
山田 朗

戦争の歴史をどうとらえるか

 2022年2月に始まったウクライナ戦争。その時以来、私たちは、「戦争」「侵攻」「戦闘」という言葉をテレビ・新聞や様々なネットメディアで聞かない(あるいは読まない)日はない。もっとも、米ソ冷戦終結後も「戦争」は常にどこかで起きていた。湾岸戦争、旧ユーゴスラビア地域における内戦、9.11を発端とするアフガニスタン戦争、イラク戦争、シリアやアフリカにおける内戦、世界に拡散したテロと対テロ戦争……。これらは、多くの場合、地域における内戦・紛争に大国が介入したもので、どちらかと言えば非対称戦争の様相を呈する傾向が強かった。しかし、ウクライナ戦争は、軍事大国ロシアとNATOの支援を受けたウクライナとの間の、古典的な主権国家同士の戦争であり、また、真相は次第に明らかになるであろうが、少なくとも見た目には、絵に描いたような侵略戦争を国連安保理常任理事国が正面切ってやってしまったという点で世界に大きな衝撃を与えた。

 戦争とは殺戮であり、恐怖であり、とてつもない破壊である。大多数の人間が望むものでないことが、「正義」や「正統性」の名の下に、「合法的」に遂行される。人類にとって戦争とは何なのか、戦争は社会をどう変えてきたのか、また社会の変容がどのように次の戦争を生んできたのか、おそらく一国レベルでも戦争の歴史を考察しようとすると、あるいは概観しようとしただけでも、私たちは多くの書物にあたらなければならない。例えば、『戦争の日本史』(吉川弘文館、2006~2009年)は倭国(邪馬台国)大乱からアジア太平洋戦争まで全23巻・約7,000ページもある。ましてや、世界の戦争の歴史を概観しようとすれば、大変な労力を要すると覚悟しなければならない。

 だが私は、つい最近、世界の戦争の歴史を実にコンパクトにまとめた本に出会った。それが、ミネルヴァ世界史(翻訳)ライブラリー第1巻として2022年11月に刊行されたマイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』、原著:Michael Scott Neiberg, Warfare in World History (NewYork, London: Routledge, 2001)である。

代表的戦場・兵士・兵器・戦闘・遺産からなる章内構成

 『戦争の世界史』の章立ては以下のとおりである。

  はじめに/謝辞

  序 章 1944年6月5日

  第1章 古典時代–紀元500年まで

  第2章 ポスト古典時代–紀元500~1450年

  第3章 火器の出現–1450~1776年

  第4章 ナショナリズムと産業主義

  第5章 第1次世界大戦

  第6章 第2次世界大戦

  第7章 冷戦とその後

  第8章 結論

  訳者解説/索引

  四六判、viii+208+10頁

 実にオーソドックスな章立てで、ギリシャ・ローマ時代から冷戦後までを描き、それを邦訳本文わずか208頁でまとめている。だが、本書は、いつ、誰(どの国)が、どこで戦い、その勝敗がどうであったのか、ということをただ単に時系列的に羅列したものでもなければ、英雄・将軍の決断の成功・失敗のエピソード集でもない。もちろん、世界の戦争全体の通史とは言えないが、それでも本書は、古典古代以来、現代までの戦争の特徴と戦争を生み出した社会的背景、戦争では誰がどのような兵器を使って戦い、さらに戦争が社会をどう変化させたのかを考える上での不可欠の知識を私たちに与えてくれる。大づかみであるが、決して抽象的ではなく、その時代に生き、戦った人間(男・女)の存在に目配りが利いた叙述となっている。実に無駄がない。訳文も非常にこなれているし、訳者による補足・補訂も親切に施されている。

 本書は、コンパクトであるにもかかわらず、各時代の戦争の特徴と時代間の関係性がよくわかる。それは、その章内構成がたくみであるからだ。第1章から第7章には、必ず共通の小見出し(節)が設定されている。それは 【代表的戦場】【兵士】【兵器】【戦闘】【遺産】である(なお、著者が序章で明示しているのは【兵士】【兵器】【戦闘】の3つの小見出し(節)であるが、実際の章には3つの前に【代表的戦場】というべき節が、後に【遺産】と題された節が設けられている)。

 【代表的戦場】には、第1章【テルモピュレ—紀元前480年】、第2章【マラーズギルド—1071年】、第3章【ケベック—1759年】、第4章【対馬海峡—1905年】、第5章【ガリポリ—1915年】、第6章【スターリングラード—1942~43年】、第7章【ディエンビエンフー—1953~54年】という具合に、それぞれ具体的地名と年代が入っていて、いきなり読者を各時代の戦場へと連れていく。そして【兵士】の節でどのような人が(第5章以降ではどのような男・女が)戦場で戦い、銃後を支えたのか、【兵器】の節でその時代に使われた兵器体系を示し(火器の普及が戦争を大きく変えた)、【戦闘】の節で人と兵器がどのような形態の戦闘に投げ込まれたのか叙述し、【遺産】の節でその時代の戦争がどのような社会構造を前提にし、さらに戦争がそれをどう変化させたのかをまとめている。簡にして要を得た、無駄のない骨太な叙述は、著者の大きな力量を感じさせる。

 著者マイケル・S・ナイバーグは、戦争が社会や技術を進歩させてきたとか、兵器性能が戦争の勝敗を決するといった単純な結論を出していない。戦争は基本的に人類の愚行であり、火器の発展とその大量配備を可能にした産業主義は、戦場(戦略爆撃は戦場と銃後という境界さえなくした)における無意味な大殺戮を生み出したことを直視している。

戦争の世界史的把握の重要性

 『戦争の世界史』を読むと、戦争を世界史として把握することの重要性に改めて気づかされる。著者も強調しているように、兵器体系はたいていの場合、文明圏・文化圏の境界線を容易に突破して伝播する。また、比較的短期間に射手を養成できる火器の普及は、封建制度を急速に不安定なものにさせ、次第に、中央集権国家による暴力の独占へと進ませる。巨大な組織的暴力を統制・運用するために参謀システムが導入され、戦争はシステマティックな、生産力と輸送力と国民の主体性を喚起する宣伝力に支えられたものになっていく。こうしたことがグローバルなスケールで展開された。

 本書は戦争の世界史的把握という点で、私たちを大いに触発するものであるが、克服すべき問題点がないわけではない。本書は、中国・インド・日本など非ヨーロッパ世界における戦争・軍事思想にも目配りをしているものの、やはりヨーロッパとアメリカにおける戦争史中心の歴史叙述であることは否めない。また、原著が「9.11」の2001年に刊行されていることから止むを得ない部分もあるのだが、第7章では第2次世界大戦後を基本的に植民地支配から脱するための、反帝国主義ゲリラ戦争を軸として描いている。しかし、ゲリラ戦争(非対称戦争)の様相は、冷戦終結前から急速に変貌を遂げていたことを本書は捉え切れていないように思われる。ISなどゲリラ勢力に対する大国の支援・介入が、結果的にさらなる秩序の崩壊を招いていることをどう捉えたら良いのか、これは私たちにも課せられた課題であろう。

小さいけれども大きな問題

 ところで、世界史の大づかみにした著作に対して、「これが欠けている」とか「この事件の叙述が正確ではない」といった批判は、いささか気が引けるが、世界の戦争史で初めて起きた事件に関することなので、野暮を承知で1つだけ指摘しておきたい。日本軍による真珠湾攻撃の2日後、1941年12月10日(日本時間)、マレー半島沖で日本海軍は航空攻撃のみで、イギリス戦艦2隻を撃沈した。本書では、「日本の空母を基地にした艦載機は、イギリスの誇るプリンス・オブ・ウェールズ号〔東洋艦隊の旗艦〕とレパルス号の二隻の戦艦を沈めた〔マレー沖海戦〕」(159頁、〔 〕内は訳者による補足)とある。だが、この時点で日本海軍の6隻の主力空母はハワイからの帰投中で、この戦場には存在しない。イギリス2戦艦を沈めたのは、「空母を基地にした艦載機」ではなく、仏印の地上基地を発進した双発の「陸上攻撃機」(陸上から発進する攻撃機=雷撃・爆撃両用機)であった。この違いは、一見するとどこから発進したのかという些細な違いに見えるが、日本海軍の作戦構想と兵器体系の構築に関わる大きな相違なのである。一般に、地上基地から発進する双発の爆撃機(大きさからいって空母に搭載できない)の類は、空軍が独立していない場合、どの国でも陸軍に所属するものだ。だが、日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約で空母の保有量が制限されたことへの抜け道として空母に搭載できない、地上発進の「陸上攻撃機」という独特の機種を1930年代に開発し、来攻する米艦隊を迎撃する地上部隊(第11航空艦隊)に配備していた。マレー沖海戦に参加した日本海軍の航空機は、96式陸上攻撃機と1式陸上攻撃機のみで、これらが雷撃と爆撃で英2戦艦を沈めた。96式陸攻開発の主導者こそ山本五十六で、航空主兵論者である彼が最もやりたかったタイプの海戦こそが、量的に制約があった空母艦載機に頼らずとも、地上発進の「陸上攻撃機」で、敵戦艦を迎え撃つというものであったのだ。マレー沖海戦は、空母の数的劣勢を補おうとして構築した、独特な航空戦力による戦いであり、また外洋を自由に航行する戦艦が航空攻撃のみによって撃沈された、世界最初の事例であった。だが実は、重要なのは、山本がやりたかった「陸上攻撃機」による敵戦艦撃沈は、これが最初で最後になったということなのである。マレー沖海戦において、英側は戦艦に1機の護衛戦闘機もつけていなかった。それだからこそ、戦闘機に対してはほぼ無力な、双発の「陸上攻撃機」のみの攻撃で、2戦艦は討ち取られてしまった。この海戦以後、戦艦が航空部隊の護衛なく行動するということはなくなり、また対空火力も強化されたので、鈍重な双発機が、戦艦に接近して沈めるなどということは2度と起こらなかったのである。こういう意味で、マレー沖海戦における日本海軍の航空機がどこから発進したかという問題は、日本海軍の戦略と構築した独特な兵器体系を語る上で、それなりに重要な問題なのである。

 変なところにケチをつけた形になってしまったが、本書の価値をいささかも揺るがすものではない。戦争に対する深い考察がなされるべき、現在においてこそ、広く読まれるべき著作だと思う。

(「世界史の眼」No.37)

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