「世界史の眼」No.67(2025年10月)

今号では、先号より連載の小谷汪之さんの「敗戦と「南洋」―「土人」という言葉に触発されて」の(下)を掲載しています。今号にて完結です。また、東海大学の菅原未宇さんに、アンドリュー・リース(鹿住大助訳)『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)の書評をご寄稿いただきました。

小谷汪之
敗戦と「南洋」(下)―「土人」という言葉に触発されて 

菅原未宇
書評:アンドリュー・リース著、鹿住大助訳『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)

アンドリュー・リース(鹿住大助訳)『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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敗戦と「南洋」(下)―「土人」という言葉に触発されて
小谷汪之

はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、前号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、本号)

3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順

 敗戦後の日本社会の風潮や日本人の言動に批判的な目を向けた知識人は渡辺以外にもたくさんいる。作家の高見順もその一人で、高見の『敗戦日記』(中公文庫、2005年)からは彼の苛立ちのようなものがよく伝わってくる。

 1945年10月20日、高見は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「人権指令」(10月4日)にもとづいて釈放された「政治犯」・内野壮児の「出獄歓迎会」に出席するために、中央線の高円寺駅で下車、友人たちと待ち合わせて、内野の家に行った。一人早く退席して帰路についた高見は、戦争によって変わってしまった街並みのため道を間違えたが、何とか高円寺の駅にたどり着いた。

 駅は薄暗かった。電球がないのだろう。
 向側の歩廊に人だかりがしている。笑い声が挙がっている。アメリカ兵が酔ってでもいるのか、大声で何か言い、何かおかしい身振りをしている。そのまわりに、日本人が群がっている。そのなかに、若い女の駅員が二人混じっている。アメリカ兵は自分の横を指差して、女の駅員に、ここへ来いと言っている。そして何か身振りをして見せる。周囲の日本人はゲラゲラ笑い、二人の女の駅員は、あら、いやだと言ったあんばいに、二人で抱きついて、嬌態を示す。彼女等は、そうしてからかわれるのがうれしくてたまらない風であった。
 別の女の駅員が近づいてきた。からかわれたいという気持を全身に出した、その様子であった。
 なんともいえない恥ずかしい風景だった。この浅間あさましい女どもが選挙権を持つのかとおもうと慄然とした。面白がって見ている男どもも、―南洋の無智な土着民以下の低さだ。   
 日本は全く、底を割って見れば、その文化的低さは南洋の植民地と同じだったのだ。(『敗戦日記』382~383頁)

 アメリカ兵に「嬌態を示す」日本人の女たちやそれを取り巻いて喜んでいる日本人の男たちを見た高見のやりきれないような気持ちはよく分かるが、日本人の「文化的低さ」をいうために、どうして「南洋の無智な土着民」を引き合いに出したのであろうか。

 高見の『敗戦日記』の中には、もう一カ所「南洋」が出てくる。それは映画「そよかぜ」(1945年10月11日公開)を見た感想を記した箇所である。

 1945年10月24日、高見は一人の友人と「国民酒場」で一杯やろうと思って、銀座に出た。しかし、「切符」が取れなかったので入店することができなかった。それで、「全線座の前へ行って、不意に映画でも見ようかという気になった」。映画は「そよかぜ」という題であった。「そよかぜ」は、敗戦後初めて製作された日本映画で、並木路子が歌った主題歌「リンゴの唄」で有名だが、知識人たちの間では、評判が悪かった。それで、「どのくらいひどいものか、ためしに見てみよう」ということになったのである。見終わった高見はその感想を次のように書いている。

 いや全くひどいものだった。レヴュー劇場の三人の楽手が照明係の娘に音楽的才能のあるのを見て、これをスターに育てあげるという筋。筋も愚劣なら、映画技術も愚劣の極。いつの間に日本映画はこう退化したのだろう。
 私は南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画を見て、南方植民地の文化の低さをまざまざと見せつけられた気がしたことを思い出した。軽蔑感よりも切ない悲哀が胸を締めつけたものだ。同じ黄色人種というところから来た切なさであった。(『敗戦日記』385頁)

 「そよかぜ」を見て、「南方植民地」の「土着民の軽薄な音楽映画」と共通する愚劣さを感じ、そこから日本文化も「南方植民地」の文化と同程度の低さだと思ったというわけである。

 高見は「南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画」を見たと書いているが、それは英領ビルマの首都だったラングーン(現、ミャンマーのヤンゴン)でのことである。

 1941年11月、高見は陸軍報道班員として、「南」に派遣されることになった。12月2日、大阪港からサイゴン(現、ベトナムのホーチミン市)に向けて出発、12月8日には、船上のラジオ放送で日米開戦を知った。「折から香港の沖合いを航行中。一同厳粛な表情」と高見は書いている(「徴用生活」、『高見順日記 第一巻』勁草書房、1965年、所収、260頁)。高見らの一行は、サイゴン、カンボジアのプノンペンを経て、12月29日にはタイのバンコックに入った。バンコックからは英領ビルマ最南端のヴィクトリア・ポイント(現、ミャンマーのコータウン)に行く日本軍の参謀に随行した。その後、高見らはバンコックに戻り、そこから英領ビルマの首都ラングーンに進軍する部隊に同行したが、英領ビルマ軍に包囲され、ゴム園に逃げ込むという経験もした。1942年3月8日、日本軍はラングーンを占領し、軍政を布いた。高見のラングーンでの職務は主に映画の検閲で、高見はほとんど毎日のように多くの映画を見て、日本軍政に都合の悪いと思われる部分をカットするという作業を行っていた。ビルマ映画だけではなく、インド映画や日本映画も検閲の対象であった。

 1942年9月1日の夜、「ヤンナイン・ヤンオウン」というビルマ映画を検閲した高見はその感想を次のように記している。

 実にくだらない映画で、仕事ながら、腹立たしくなる(「徴用生活」384頁)。
 残酷な場面を平気でうつしているのは、なにもこの映画だけのことではないが、ちょっとたまらない。
 ビルマ人というのは、その民衆の大半はまだ未開の民なのだなと、そんなことを考えさせられるのだが、同時にビルマ人を、そういうところにとどめておいた英国の政策にも思いがおよぶ。
 英国領の頃、ビルマは犯罪が多いので有名だった。そして英国当局は、犯罪を助長させるような(道徳的には、その頽廃を助長させるような)映画を平気で許していたのである。ビルマ人の向上というようなことは、統治上かえって有害として一向にかえりみなかったことがわかる。(「徴用生活」385~386頁)

 敗戦後、映画「そよかぜ」を見た高見はラングーンでの体験を思い出し、日本人の文化程度も「南方」のビルマ人並みの低さだと感じたのである。

 高見はもともとは「南」に「あこがれ」のようなものをもっていた。高見のオランダ領東インド(現在のインドネシア)旅行(1941年1~4月)の記録である「渡南遊記」には次のように書かれている。

 南へ行きたいと思い出したのは、いつ頃だったろうか。私がまだ映画会社の東京発声の嘱託をやっていた時分、キャメラマンが南洋に行くという話を聞いて、一緒に行きたいといったのを覚えている。あれは昭和十二年[1937年]だったか、十三年だったか。[中略]
 [連載小説]「如何なる星の下に」で一緒に仕事をはじめた[挿絵の]三雲[祥之助]君に、この私の南へのあこがれを話した。すると三雲君も行ってみようという。私は、外国の旅の経験者である三雲君と行を共にするのは心づよいと喜んだ。
 南といっても、はっきり南のどこときまっているわけではなかった。すると三雲君が、安南[ベトナム]に知り合いがあるという。安南の王様の弟が絵の修業でパリへ行っていた頃、アトリエを貸してやったりして、知り合いだという。そこで二人で安南を訪ねようということになった。[中略]
 するうち、仏印(註=フランス領印度支那、現在のヴェトナム[ベトナム])への進駐がはじまり、人々の眼がそこへ一斉にそそがれはじめ、ジャーナリストが行きだした。作家の仏印行を聞くようになった。そうすると、いやけがさしてきた。[中略]
 いっそ、では蘭印[オランダ領東インド]に行こうということになった。[中略]
 いざ行くとなって、あちこちに手づるを求めて紹介状を貰ったり何かすると、そのさきざきで、
「―あぶないですね」
「もうすこし待ってみたらどうです」
「一触即発の形勢ですからね―」
「とても空気が険悪で、ろくろく見物もできないらしいですよ」
そんなことを一斉にいわれた。
(「渡南遊記」、『高見順日記 第一巻』所収、56~57頁)

 このように、高見は1937、38年頃には「南」に行きたいと思っていた。最初はベトナムに行くことを考えていたのだが、1940年9月、日本軍の「仏印進駐」が始まったので、ベトナム行きを断念して、オランダ領東インド(インドネシア)に行くことにした。

 1941年1月27日、高見は三雲祥之助とともに、貨客船ジョホール丸で神戸港から出発した。2月4日には、パラオ諸島のコロール島に着き、コロール島や西隣のアラカベサン島の各地を見て回った。2月6日、コロール港を出て、セレベス島(スラウェシ島)のメナド(マナド)とマカッサルを経由、2月13日にジャワ島のスラバヤに到着した。スラバヤにはしばらく留まって、イスラム化したインドネシアの社会や文化を実見した。3月5日にはバリ島に行き、ヒンドゥー寺院やバリ舞踊などを見歩きながら、3月いっぱいまで滞在した。その後、ジャワ島に戻り、バタヴィア(ジャカルタ)、バンドン、ジョグジャカルタなどの町々やボロブドゥール寺院などを訪ねた。4月中旬、帰国の途に就き、ボルネオ島北岸のサンダカン(当時英領で、上陸禁止)、中国大陸のアモイ(厦門。当時ポルトガル領、上陸して見物)、台湾の高雄、基隆を経て、5月6日、神戸港に帰着した。

 このオランダ領東インド(インドネシア)旅行の間、高見は知人たちに心配されたようなオランダ側からの妨害や嫌がらせに遭うことはなかったようであるが、情勢は確かに切迫していた。第二次世界大戦下の1940年5月14日、オランダ本国はドイツに降伏し、ロンドンに亡命政府が置かれていた。同年9月には、石油などの輸出をめぐって、日本とオランダ領東インド政庁との間で協議(第二次日蘭会商)が行われた。その結果、日本は1941年1月には、対日石油輸出の増量をオランダ側に認めさせた。高見らが帰国した後のことであるが、1942年3月1日には、日本軍がジャワ島に上陸し、オランダ領東インド政庁は降伏した。こうして、インドネシアは日本軍の軍政下に置かれたのである。

 高見がオランダ領東インドを旅行していた時期はまさにこのような情勢の時であった。しかし、その割には、高見の「渡南遊記」からはそんな切羽詰まったようなものは感じられない。高見の「渡南遊記」は「南」に関する客観的な観察の記録といいうるようなものである。高見はオランダ領東インド滞在中も、「南」に関する英文の専門書などを広く読んでいた。だから、オランダ領東インド旅行時の高見にはステレオタイプ的な「南洋」イメージはなかったのだが、その約1年後のラングーンでの体験が高見の「南洋」観を固定的なものにしてしまったようである。

4 「文明―未開」―不変の構図

 敗戦期の日記などを見ていると、欧米の進んだ文化の前に、程度の低い日本文化が敗北したという論調が目立つ。そこには、「文明―未開」という一本の階梯の上に、欧米と日本を置き、両者の間の開きに敗因を求めるという構図がうかがえる。その時、「未開」の底辺に置かれたのが「南洋」だったのである。『濹東綺譚』(1937年)などで知られる作家・永井荷風にもこういった発想が見られる。

〔1946 年〕四月廿八日日曜日晴、配給の煙草ますます粗惡となり今はほとんど喫するに堪えず、醬油には鹽氣乏しく味噌は惡臭を帶ぶ、これ亡國の兆一歩一歩顯著となりしを知らしむるものならずや、現代の日本人は戰敗を口實となし事に勤るを好まず、改善進歩の何たるかを忘るゝに至れるなり、日本の社會は根柢より堕落腐敗しはじめしなり、今は既に救ふの道なければやがては比島人〔フィリピン人〕よりも猶一層下等なる人種となるなるべし、其原因は何ぞ、日本の文教は古今を通じて皆他國より借來りしものなるが爲なるべし、支那の儒學も西洋の文化も日本人は唯その皮相を學びしに過きず、遂にこれを咀嚼すること能はざりしなり(永井荷風『斷腸亭日乗 六』岩波書店、1981年、136~137頁)。

 煙草や味噌・醤油の味に対する不満から「亡國」に思い到る所などは荷風らしいといえばいえるのかもしれないが、ここに見られる日本文化の「借り物」性やそれに起因する日本社会の「堕落腐敗」の指摘は何も珍しいものではない。ただ、ここで永井が、日本人は「やがて比島人よりも猶一層下等なる人種」になってしまうだろうと、「比島人」(フィリピン人)を引き合いに出しているところにはやはりひっかかる。永井はフィリピンに行ったことはなかったのだが、文化の程度の低さというと、すぐにフィリピンを連想するという思考の回路を持っていたのである。その点では、永井も「戦後民主主義」期の多くの知識人たちと異なるところはなかったといえるであろう。

 戦前、戦後を通して、日本にとって「文明」の先達は欧米であり、「未開」の底辺にあるのが「南洋」であった。敗戦を通しても、この「文明(欧米)―未開(南洋)」という思想的階梯には何の変化もなかった。しかし、敗戦によって、そこにおける日本の位置だけは変った。日本は「文明―未開」の階梯の上の方にいると思いこんでいたのだが、実はその階梯の低い位置、「南洋」に近い位置にいるのではないかという自意識が多くの知識人たちを捉えたのである。

 このように、敗戦を優れた欧米文化の前における低級な日本文化の敗北と受け止めるのが「戦後知」であったとするならば、そこに生まれた「戦後民主主義」期の諸思想において、「南洋」が正当に取り扱われなかったのは不思議なことではない。「戦後民主主義」の諸思想は、「南洋」を「未開」の底辺にとどめ置くことによって、自己の後進性を自覚化し、それをバネとして日本社会の「近代化=民主化」を唱道するという構造をもつものだったからである。そして、「南洋」が「未開」の底辺に位置づけられている限り、ステレオタイプ的な「南洋の土人」像も無意識の底に生き続けることになる。大阪府警機動隊員の「土人」発言はそれが暴発的に表面に噴出したものといえるであろう。

おわりに

 このような戦後日本の思想構造の中で、多くの日本人の敗戦体験や植民地体験は真摯に反芻され、意味づけられることなく、記憶の底に隠蔽されることになった。その過程で、加害の記憶は忘れられ、被害の記憶だけが怨念となって、増殖していった。しかし、西洋中心主義的で、啓蒙主義的な「戦後民主主義」期の諸思想は、その「上から目線」のゆえに、このような大衆的怨念をすくいあげる能力を本質的に欠いていた。1970年代以降一挙に顕著となった「戦後民主主義」的諸思想の凋落、落飾は、この増殖された大衆的怨念の「逆襲」によって引き起こされたということもできるであろう。

 それだけではない。このような敗戦の捉え方は、日本にとっての第二次世界大戦であった「アジア・太平洋戦争」における「太平洋の戦争」(対米・英戦)だけをクローズアップして、朝鮮支配や中国への侵略など「アジアの戦争」を切り捨てることにつながっている。天皇制軍国主義のアジア侵略そのことを丸ごと否定しようとする右翼的論調がはびこっている今日、「アジア・太平洋戦争」をその総体において捉えることが求められているのである。

(「世界史の眼」No.67)

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書評:アンドリュー・リース著、鹿住大助訳『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)
菅原未宇

 本書は「ミネルヴァ世界史<翻訳>ライブラリー」の一書として、オクスフォード大学出版局から出版されたNew Oxford World Historyシリーズのうち2015年に刊行されたThe City: A World Historyを翻訳したものである。著者のアンドリュー・リースはアメリカの近現代ドイツ社会史、思想史、都市史研究者である。

 第1章「初期都市の起源と位置」の冒頭で著者は、歴史上長きにわたり相対的に少数の人口を擁したに過ぎない都市が、社会に深い影響を与え、人類史の決定要因となってきたと述べ、都市の世界史を語る意義を示す。最初期の都市は紀元前4000年紀半ば、都市形成の前提条件である余剰食糧の生産地域から近く、水利に恵まれたメソポタミアに出現した。次いでその影響を受けながら、それぞれ異なる特徴を有した都市がエジプト、インダス渓谷に建設された。独自の都市化が起こった中国では、紀元前3000年頃に都市の出現が見られ、紀元前500年頃までに、人口10万人超の都市が少なくとも四つ存在するという、同時代の他地域では見られない状況を呈した。中央アメリカにおいても都市ネットワークの建設が確認できるが、そのほかのほとんどの地域において都市はまだまれな現象であった。

 第2章「大都市」では、紀元前500年から紀元300年にかけて都市文明の繁栄を見た地中海沿岸都市が主として論じられる。中でも、政治制度や建築、文化の面で独創性を示したアテネ、ヘレニズム世界の文化的中心となったアレクサンドリア、世界史上最初の巨大都市といえるローマについて考察がなされた。ローマ人の手で、帝国内の各地にローマ同様の公共建築を備えた都市が築かれたこと、同時代にはそのほか、パータリプトラや長安、洛陽といった王国の首都が、ギリシア・ローマの影響圏の外に発達したことも記される。

 第3章「衰退と発展」では、西欧が西ローマ帝国の崩壊による都市の衰退とその後の再発展を経験する4世紀から15世紀までの世界各地の都市の展開を跡付ける。当該時期前半、11世紀までのヨーロッパにおいて都市の活力を牽引したのはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルであった。アジアとヨーロッパ、地中海と黒海を結ぶ国際商業網の要に位置したことが、その繁栄の鍵であった。同様に、首都という政治的地位と大陸間貿易の経路という地理的条件によって発達を遂げたのは、8世紀後半にアッバース朝カリフによって築かれたバグダードである。中国では行政中心地を主な核として都市網が形成され、長安、南京、大都といった時の帝国の首都がその頂点に位置した。アメリカ大陸においては、14世紀にアステカ帝国の首都として建設されたテノチティトランが、15世紀末までに西半球最大の都市に発展した。これら大国の首都として整備された都市と異なり、当該時期後半に再発展を遂げた西欧都市は、個人の居住選択の結果出現したという特徴があった。そのほか日本、カンボジア、西アフリカで都市の発生が見られた。

 第4章「首都、文化、植民地化、革命」は、16世紀から18世紀までの都市を検討対象とする。近世ヨーロッパでは、政治的中央集権化の結果、首都の急拡大が見られ、とりわけ北西部において急速に都市化が進展した。アジアでは、進出してきたヨーロッパ人との交易も部分的には寄与したが、多くはそれぞれの地域内の要因により都市化が進展し、例えば大名による城下町の建設によって日本における都市部の人口割合は増大した。中でも行政の中心地たる江戸は文化的消費の中心地としても繁栄を極めた。他方、アメリカ大陸においてはヨーロッパ人による植民都市建設が都市化を主導した。中でも18世紀第四四半期に英語圏で二番目の大都市となったフィラデルフィアは、公共圏の成立を背景にアメリカ独立運動の主たる原動力となった。社会的格差などの問題を孕みつつ巨大都市となったパリとロンドンにおいてはすでに同様の公共圏の発達が生じており、アメリカ独立に力づけられた人々は、パリでは革命を成し遂げ、ロンドンでは急進主義組織の活動を通じて民主主義の拡散を図った。

 第5章「工業化時代における都市の成長とその結果」は、世界大戦勃発までの長い19世紀の都市について考察する。新たな国民国家の樹立による行政の中央集権化と産業革命の結果、都市への人口集中が生じた。工場での高生産性を担保するのは蒸気機関という新たな動力源や機械の導入だけではなく、多数の労働者の工場近くへの居住でもあったからだ。機械化された輸送手段の登場は農村から都市への移住も促すことになった。過密に伴う公衆衛生上および道徳上の懸念から、都市環境の改良を目指した民間団体による事業が活発化した一方、権限強化された地方自治体の主導で、19世紀半ばから20世紀初めにかけてヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で衛生面を中心にインフラ整備が進められた。加えて、百貨店やミュージックホールなどの文化的インフラが大衆消費市場の力で生み出され、これらは都市の魅力、都市生活への愛着を強化することになった。

 第6章「植民都市」は、第5章と同時期の帝国主義支配下に置かれた地域の都市について論じる。ヨーロッパ列強の直接的支配が及んだ南アジア、東アジア、東南アジア、アフリカの都市は、支配権力を象徴する公共建築物の存在といった共通点を持ちつつ、住民のほとんどがヨーロッパ人の場合と、非白人である場合(その多くが植民地化以前に歴史を持つ古い都市)とで、設計や政治制度などの点で異なる特徴を有することになった。後者においては、同時代のヨーロッパでは許容されなくなりつつあった非民主的な統治が行われた。権威主義的体制の下で公衆衛生の改善はあまり進まなかったが、こうした試みの中で西洋人と地元民の居住地を分離する人種隔離政策が提案され、いくつかの都市でそれが実行に移されていく。いずれにせよ宗主国の支配の確立、維持のための拠点として都市が重要な役割を果たし、ヨーロッパの都市、植民地の都市、後背地の間で以前にも増して緊密な関係が形成されることになったが、そのネットワークは帝国主義の打倒を目指す運動にも力を与えることになった。

 第7章「破壊と再建」は、世界大戦勃発から戦後復興期にかけての都市について検討する。総力戦による困難に直面し不満を抱えた人々を懐柔し秩序を維持するため、国家や自治体は以前にも増して社会への介入を強めた。しかしペトログラードでは革命が勃発し、その後の内戦を経て生まれたソヴィエト連邦の領域では、急速な工業化とそれに伴う都市化が進んだ。アメリカの都市などの例外を除き、第二次世界大戦がもたらす暴力と無秩序は、それまでの戦争と比べてもはるかに壊滅的な被害を都市居住者に与えることになった。戦後、西側東側問わず、都市部の再建が政府の最重要課題として推進されていく。

 第8章「一九五〇年以降の都市の衰退と成長」は、20世紀後半から今世紀初頭にかけての都市の変遷を跡付ける。この時期、脱工業化と都市郊外化により衰退する都市が欧米で見られた一方、都市化が急速に進展したアジアやアフリカで、上海やラゴスといった巨大都市が出現した。この要因は公衆衛生の改善による自然増と農村から都市への人口移動であり、後者は教育を通じた若者の啓発やマスメディアを通じた都市生活の喧伝によって促されていた。また、摩天楼の建設も都市居住者の急拡大を可能にした。これら開発途上国の都市を中心に、スラムや大気汚染などの課題が今なお山積しているが、他方、都市はそうした問題の解決が模索され未来が形作られる場でもあると締めくくられる。

 以上概観してきたが、評者の考える本書の意義は、同時代の世界史的状況の中に各地の都市形成や発展を位置付けているという点にある。例えば、紀元前3世紀に35万人ほどの住民を擁したパータリプトラが同時代のローマと同程度の規模だったと述べる(p. 42)一方、その後紀元2世紀までに後者の人口は少なくとも70万人に達し、世界史における最初の巨大都市となったという評価を与える(pp. 33-34)。このように本書は随所で様々な都市の推計人口を示しつつ共時的、通時的な比較を提示しており、評者のように個別都市の実証研究を行っている者の目を開いてくれるように思われる。

 ただ本書が、シリーズの巻頭言で掲げられるヨーロッパ中心的な発展段階の叙述ではない新しい世界史叙述の試みとなっているかどうかと問われると、その点はやや心許なく感じた。例えば章別編成について、第3章からは明らかであるが、西洋史の時代区分を踏襲しているように思われる。その結果、15世紀末までに都市化が進んだ中国の都市人口はヨーロッパのそれよりも多く、1800年当時、北京は恐らく世界最大の都市であった(p. 81)と指摘しながら、第3章、第4章でのそれぞれ分散した言及に留まり、大都から北京への都市発展の筋道立った叙述が提示されないという憾みが残る。ほかにも、植民都市を考察する第6章において(前後の章では日本の事例が考察されているにもかかわらず)、大日本帝国の植民地ないし居留地についての言及は皆無であるが、仮にそうした議論が加わっていれば、この章でもっぱら対象となっているヨーロッパ列強による植民都市のあり方を相対化する叙述になり得たのではなかろうか。

 もっとも、たとえ上述の指摘が妥当だとしても、都市を主題とする世界史叙述を日本語で世に問うた本書の価値は揺らぐものではない。都市史研究者はもちろん、日本史と世界史の共時性に関心を持つ教育者にも一読をお勧めする。

(「世界史の眼」No.67)

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「世界史の眼」No.66(2025年9月)

今号から、小谷汪之さんの「敗戦と「南洋」―「土人」という言葉に触発されて」を連載します。また、南塚信吾さんに、連載中の「北前船・長者丸の漂流  その4」をご寄稿頂きました。今号で完結です。

小谷汪之
敗戦と「南洋」(上)―「土人」という言葉に触発されて

南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その4

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敗戦と「南洋」(上)―「土人」という言葉に触発されて
小谷汪之

はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、本号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 2016年10月、沖縄に派遣されていた大阪府警の1機動隊員が、国頭郡東村高江の米軍用ヘリパッド建設に抗議する沖縄の人々に対して、「ボケ、土人が!」という罵声を浴びせかけた。この「土人」というもはや死語になっていたように思われた言葉を、20歳そこそこの機動隊員が使ったということに、多くの人たちは驚き以上の衝撃を受けた。戦前・戦中、「土人」という言葉は、主として、日本の国際連盟・委任統治領であった「南洋群島」や「南洋」(東南アジア諸地域)の現地民を指す言葉として広く使われていた。当時、「土人」とは、何よりも、「南洋の土人」を意味していた。その「土人」という言葉が、敗戦後70年も経って、亡霊のようによみがえって、沖縄の人々に対して投げつけられたのである。

 この「土人」発言に触発されて、敗戦と「南洋」とがどうかかわっているのかということを、改めて考えてみたいと思う。

1 「酋長の娘」

 敗戦後数年間、まだテレビ放送はなく(NHKがテレビ放送を開始したのは1953年)、ラジオの時代で、「ラジオ歌謡」といった歌謡番組が多かった。そんなラジオ番組などで「酋長の娘」という歌をよく耳にした。

私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
赤道直下 マーシャル群島
椰子の木陰で テクテク踊る
踊れ踊れ どぶろくのんで

 この歌は、旧制高知高校生の間で歌い継がれていた「ダクダク踊り」の歌をもとにして、1930年に、演歌師・石田一松により歌曲化され、レコード発売されたものである。第一次世界大戦において、日本海軍がドイツ領であった赤道以北の西太平洋・ミクロネシアの島々を占領したのが1914年10月であるから、その約15年後ということになる。この15年の間に、歌にうたわれるほど「南洋」は日本人にとって身近なものとなり、その過程でこの歌に表れているようなステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像が形成されていったのである。

 この歌の「私」のモデルになったのは、森小弁こべんだという話がある。森小弁は1869年、高知・土佐藩の小禄の士族の家に生まれ、若くして政治に志して、同郷の政治家、大江卓や後藤象二郎の世話になった。しかし、しだいに「南洋」に関心を持つようになり、1891年、22歳の時に、一屋商会(田口卯吉がつくった南島商会の事業を継承した会社)に入り、天祐丸という小さな帆船で「南洋」に赴いた。森は、一屋商会の支店を開設するために、当時スペイン統治下にあったミクロネシアのトラック諸島(現、ミクロネシア連邦チューク州)に残り、その後、ドイツ統治期(1899-1914年)、日本統治期(1914-45年)を通して、トラック(チューク)諸島を拠点として商業活動などに従事した。その間に、森はトラック諸島・春島(ウェノ島)の首長の娘と結婚し、子ども12人をもうけた。森は1945年8月、日本敗戦の数日後にトラック諸島・金曜島(ポレ島)で死去したが、現在、その5世、6世の子孫は1000人以上にのぼり、モリ・ファミリーとしてチュークでは大きな経済力を持っているという(高知新聞社編『夢は赤道に―南洋に雄飛した土佐の男の物語』1998年、各所)。

 こうして見ると、森小弁は「酋長の娘」の「私」のモデルにいかにも似つかわしく見えるが、その確証はないということのようである(『夢は赤道に』192‐193頁)。しかし、ここで問題としたいのはこの話の真偽ではない。

 問題は、「酋長の娘」という歌が戦後になっても戦前と何ら変わることなく歌い継がれていたということである。一例を挙げれば、山田風太郎は、1946年11月、但馬に帰省した折に出席した親類の結婚式の宴会で、腰に蓑を巻いた男が「私のラバさん」と歌い、踊るのを見た(『戦中派焼け跡日記 昭和二一年』小学館文庫、2011年、393頁)。その後も、いくつかの映画などに、「酋長の娘」を歌い、踊る場面が登場した。こうしたことは、敗戦を通しても、日本人のステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像に本質的な変化がなかったということを示している(ただし、現在ではこの歌の差別的な表現が問題とされ、放送禁止歌となっている)。

2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫

 しかし、これは「酋長の娘」のような大衆歌謡の世界だけに限られたことではない。日本の近代的知性を代表するような人々においても、敗戦は「南洋」を見る目を考え直す契機とはならなかったようである。

 戦争中、戦争に反対であったり、戦争に疑問を持っていたりしながらも、それを表立って表明することができなかった人々がたくさんいた。そのような人たちの多くにとって、敗戦はむしろ一種の解放であったから、敗戦そのものは大きな衝撃ではなかった。彼らにとって衝撃だったのは、敗戦を機に一変した日本社会の風潮や日本人の言動の方であった。

 フランス文学研究者として著名な渡辺一夫は、戦後の1945年8月21日、妻と「善後策」を打ち合わせるために、妻子の疎開先である新潟の燕町に行った。8月26日朝、汽車で帰京した渡辺は、車中で見た「デモラリゼされた(士気喪失した)兵士逹の群。妄動する民衆」の姿に衝撃を受けた(渡辺一夫『敗戦日記』博文館新社、1995年、75頁)。渡辺は同日付の串田孫一宛手紙に、次のように書いている。

これからの僕逹の生活の困難を思ふ時、悄然ともします。汽車の中などで見聞するデモラリゼした人々狂ひ立つた人々愚昧を更に深める人々……これらを向ふにまはして生き且戦ふのです。カタルシスがもつと深刻だつた方がよかつたかもしれぬとすら思ふことがあります。それ程同胞諸氏はいけません。(『敗戦日記』104‐105頁)

 敗戦時、東京帝国大学文学部助教授であった渡辺は、復員して大学に通い出した学生などを見て、彼らがこれからどういう生活を送ることになるのかと考えこむことがあった。そんな時、「ある学校の口頭試問で『天皇は陸海軍を統率す〔統帥す―引用者〕』という文句が、新憲法にあるのか旧憲法にあるのか判らぬ青年が沢山いたという事実」を教えられて、「非常に愕然」とした(渡辺「非力について」〔1947年9月23日付〕、『敗戦日記』200頁)。考える力を持たない青年たちがたくさんいるのではないかということに気づいた渡辺は、学生たちに向かって語るかのように、次のようにのべている。

考えないのが悪いなどとは申しませんが、考えないと大損になると申せましょう。学生諸君に向かって、僕は何も要求できません。しかし、今申したような大損になるにきまっているようなことだけはしないようにとは言いたいのです。その上で、恋愛もよいでしょう。ダンスもよいでしょう。そして、深遠な形而上学や詩歌も結構です。しかし、恋愛もダンスも「文化」の所産として練磨され得ますが、それ自体は決して文化の条件ではないのです。犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします。そして深遠な形而上学や詩歌は、これを護り育てる地盤がなければ、いつでも抹殺され得るものであります。
これも恐らく、私と申す中老書生の泣言であります。その上に僕は、人間というものは自分の思いこんだことをなかなか棄てられぬと申しました。僕もそうなのでしょう。学生諸君もそうかもしれぬと思います。[中略]そう思う時、僕は、自らの非力を悟り、がっくりしますし、自分の思いこんだことをみつめて、ためいきをもらしてしまいます。
(「非力について」、『敗戦日記』201頁)。

 敗戦後の青年たちのものを考えようとしない風潮を憂慮し、自らの「非力」にためいきをもらす渡辺の心意はよく分かるが、恋愛もダンスも文化の条件ではないことを説く文脈で、「犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします」という一文が出てくるのにはどうしてもひっかかる。犬猫の方はどういうことなのかよく分からないが、ダンスというと「ポリネシアの土人」を連想することにひっかかるのである。

 渡辺は第一高等学校の学生時代にピエール・ロティ(Pierre Loti)のLe Roman d’un spahi,1881(直訳すれば、『あるシパーヒーの物語』。シパーヒーはペルシャ語・トルコ語で兵士の意。イギリスやフランスの植民地軍の兵士、特に傭兵もこう呼ばれた)を読んで「強烈な刺激と深刻な影響」を受け、その十数年後の1938年に同書を『アフリカ騎兵』(白水社)という訳書名で翻訳、刊行している。それは、こんな「物語」である。

 ジャン・ペーラルはフランス中央部の高地セヴェンヌ地方の貧しい農夫の息子だった。彼には「許嫁」と言ってもいい娘がいたが、20歳の時、兵役により入営し、アフリカ大陸西海岸のフランス植民地、セネガルに派遣された。フランス軍の駐屯地はセネガル河が大西洋に注ぐ河口の町、サン・ルイにあった。ジャンはフランス軍の騎兵として、セネガルの南に位置するギネア地方などへの遠征に従軍した。しかし、戦闘のない時には、サン・ルイの地で放恣な生活に耽り、「黒人」の娘と同棲するようになった。ジャンの5年間の兵役がもう数カ月で終わろうとする時、サン・ルイのフランス駐屯軍はセネガル河を遡上して、アフリカ大陸内陸部に遠征することになった。その地の「黒人の大首領」・「ブゥバカール・セグゥー」が暴虐を極めているとして、討伐することになったのである。「ブゥバカール・セグゥーの國」に最も近い屯所まで進軍した時、ジャンなど12人の騎兵が斥候に出された。しかし、「ブゥバカール・セグゥー」の別動隊の待ち伏せに遭い、ジャンなどほとんどの斥候兵が戦死した。これより前、ジャンの家郷では、ジャンの「許嫁」が他の男と結婚式を挙げていた。他方、フランス軍を襲撃した「ブゥバカール・セグゥー」の本隊は撃退され、彼自身もフランス軍の銃弾に倒れた。こうして、「ブゥバカール・セグゥーの國」は崩壊した。

 『アフリカ騎兵』の「後記」に、渡辺は次のように書いている。

後年同じ著者の他の作品を讀んでも常に見出された「現世のはかない營みの隙間から折あらば低く高く響いて來る永劫無や死滅の呼聲」が、『アフリカ騎兵』に於いては、アフリカの灼熱された不動の大氣の中にも、物質のやうに壓力のある烈光の中にも、硬い沈默を乘せてゐる砂漠の上にも、著實に又執拗に囁き、或は喚くのを感じ、当時の僕は異常な嚴肅さに擊たれ新しい感傷の波にもまれたやうに記憶してゐる。(『アフリカ騎兵』432頁)

 日中戦争が泥沼化していく時代に、このようなロティの著書を翻訳、刊行したということは時局に対する渡辺の姿勢を示しているのであろう。

 渡辺はロティの「他の作品」も読んだと書いているから、その中には、『ロティの結婚』も含まれていたに違いない。小説『ロティの結婚』の主人公は「イギリス海軍少尉候補生」とされている「ロティ」―作者と同じ名前だが―である。ロティは乗艦がポリネシアのタヒチ島に寄港した時、しばらくタヒチに滞在し、マオリ族の少女「ララフ」の魅力にとらわれて、「結婚」するという「物語」である。

 『ロティの結婚』には、例えば次の一文のように、タヒチの人々が歌とダンス(ウパ・ウパ)に興じる姿がしばしば出てくる。

 一千八百七十二年といへば、パペエテ[タヒチ王国の都、パペーテ]の最もすばらしい時期の一つであつた。こんなに多くの祭や、踊りや、饗宴アムラマの催されたことは未だかつて無かつた。
 來る夕べごとに眼もくるめくばかりであつた。―夜になるとタヒチの女逹は見る眼も彩なとりどりの花で身を飾つた。急調子の太鼓の音は、彼女らをウパ・ウパへと誘うた。―みんな髪を解き亂し、ムスリンの胴著はほとんど胴も露はのままに駈け寄って―氣の狂つたやうな淫逸な踊りが、往々にして明け方までつづくのであつた。(『ロティの結婚』125頁)
 タヒチの女たちは手を打ち鳴らして、急調子の熱狂的な合唱歌の銅鑼の音に合はせた。―順番が來ると、女たちは銘々ひとしきりの舞踏をやつた。足取りも音樂もはじめの中は緩やかであるが、果ては氣も狂はんばかりに次第にその速さを增してゆき、やがて疲れた踊子が、突然銅鑼の音高い一打ちに踊を止めると、前よりは一層猥雜な狂亂の踊子がつづいてそれに踊り出るのであつた。(同、126頁)

 『ロティの結婚』のこのような叙述から、渡辺は「ダンスに明け暮れるポリネシアの土人」というイメージを持ったのであろう。

 しかし、そんなイメージとは裏腹に、『ロティの結婚』からは渡辺の言う「永劫無と死滅の呼聲」が響いてくる。というよりは、『ロティの結婚』は、著者である生き身のロティが2度のタヒチ滞在(1872年1-3月、6-7月)の中で、タヒチ王国の発する「永劫無と死滅の呼聲」を聴き取り、それを文学的に表現したものと言った方がいいであろう。

 それは、フランスなど欧米列強の圧力によって、タヒチ王国が衰亡へと向かい、それとともにタヒチ的文化が荒廃していく響きであり、現実的には、肺結核など欧米由来の病気による多くのタヒチ島民の死の響きである。

 『ロティの結婚』(94頁)にも出てくるように、1842年、タヒチ王国はフランスとの間に保護条約を結び、フランスの保護国となった。フランスによる圧迫に対抗するために、イギリスの介入を求めたが、イギリスが静観するだけだったので、タヒチ王国はフランスの強圧に屈服するほかなかったのである。タヒチの女王ポマレ4世(在位、1827-1877年)の時代のことであった。女王ポマレ4世は「文明に侵蝕されては潰滅してゆく自分の王國―賣淫の場所となつては頽廢してゆく自分のうるわしい王國を眺めなければならぬ憂鬱」にとりつかれていた(『ロティの結婚』148頁)。1877年、ポマレ4世が死去すると、その次子がポマレ5世として即位した。しかし、1880年には、フランスと併合協定を結ぶことを強いられ、タヒチはついにフランスの植民地となった。こうして、約90年続いたタヒチ王国は滅亡したのである。

 欧米人たちの到来は「數年このかたこの不動のポリネシアに、かくも多くの未聞の變化と、豫想だもしなかつた新奇とをもたらした」(『ロティの結婚』73頁)。その一つが肺病という未知の病気の蔓延であった。女王ポマレ4世は何人かの男子を生んだが、「ちやうど或る季節に生ひ出でてその秋には朽ち斃れる熱帶植物のやうに、みな同じ不治の病氣で亡くなられた。/みな胸で亡くなられたのである」(同、31‐32頁)。女王ポマレ4世の孫娘の「姫君―タヒチの玉座の推定相續者」はまだ幼年であったが、「すでに世襲的疾患の徴候」を示していた(同、32頁)。この「姫君」も数年後には死去した。「ララフ」にも、「女王の息女のそれのやうな微かな空咳」が時々起こるようになった(同、128頁)。「ロティ」が「ララフ」をタヒチに置き去りにして、イギリスへ帰航する軍艦でタヒチを去った後、「ララフ」は生き方が崩れていった。タヒチにいる「ロティ」の友人からの通信によれば、彼女は「胸の病氣でだんだん弱つていつたのだが、火酒をあふりはじめたので、病勢は急に進」み、18歳で世を去った(同、280頁)。

 もし、渡辺一夫が『ロティの結婚』から、このようなタヒチの発する「永劫無と死滅の呼聲」を聞きとっていたとするならば、渡辺はどうして「ポリネシアの土人もダンスをします」などと書いたのであろうか。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.66)

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北前船・長者丸の漂流 その4
南塚信吾

1.エトロフ着 

 1843年(天保14年)5月21日(新暦6月18日 旧暦を先にして新暦を( )にいれて表示する)の午後2時ごろ、長者丸の一行6人を乗せた船は厚岸沖の大黒島に近づいた。一行は、八左衛門、七左衛門、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛の6人であった。船長はシトカのカーロヴィッチ長官の意を受けて、一行を厚岸に下ろそうとしてくれたのであった。しかし、人影が見えないので上陸は諦め、エトロフに向った。

 5月23日(新暦6月20日)、船はエトロフ島のフルベツの沖に着いた。すると一隻のアイヌの小舟が漕ぎよせてきた。異国の衣類を脱いで、ずっと持ち続けていた漂流時の衣服を着ていた一行が、「我々は越中放生津岩瀬の者にて、6年前奥州唐丹湊出帆の所漂流いたし、此度「ロシア」より送り返されたる」ところだと伝えると、小舟の連中が縄梯子を伝って乗り移ってきた。松前藩の足軽小林朝五郎、エトロフ島場所請負人林右衛門の使いの三吉、清蔵、又兵衛、それにアイヌ人3人の、計7人であった。7名は歓待を受け、最後に朝五郎が長者丸6人の受取書をしたためた(池田編 1968 146-147頁;高瀬重雄 1974 152-153頁)。

 朝五郎がしたためた覚書は次のようであったという。

    覚
 一.六人  大日本国之者
   右の者共無相違請取申所如件
            松前志摩守内
             小林朝五郎判
  年 号  月  日
   ナチヤネヤカ城主
    アドロフカロ兵衛様御内
      ニカライアルキサンダロ殿

 これを見て、ロシア人が日本の文字に大変興味を持ったので、朝五郎は、人麻呂の歌、

   ほのぼのと あかしの浦の朝霧に
     島かくれ行く 舟をしぞおもふ

と、もう一首を書いてあげたところ、ロシア人は大いに悦んで、お礼の紙をくれたり、酒宴を催してくれて、大いに交歓したのだった。

 岸では、「打払令」に基づいて砲撃の用意をしていたが、朝五郎はそれを押さえてきたのだとのことであった。「打払令」は1842年に廃止され、「薪水給与令」が出されていたはずであるが、ロシア船の水の補給要求も拒否された。その後、6人は、船長らに別れを惜しんで、2隻のボートに分乗して、船を離れた。離れる際に、「時規」(時計)を渡してもらった(池田編 1968 143-148,251頁;高岡市立中央図書館 1973 35-36頁;室賀他編 1965 123-129頁)。

 フルベツ港に上陸した長者丸一行は、1838年1月23日に漂流し始めてから、実に4年半ぶりに日本へ帰ってきたのであった。まず台場で漂流の年月などを聞かれたのち、漂流時の衣服を脱いで、新しい着物や下帯などをもらった。それからフルベツの会所で重役の小笠原判平らに漂流の次第を聞かれたりして、しばらくここに逗留した。フルベツには、大坂や松前から来ている船が5、6艘もあった。一行は、ここでは、越中伏木の徳三郎という船頭に赤飯や酒でもてなしてもらった。

 7月20日ごろ、松前から来た役人とともに、6人はフルベツを出帆した。そのあと、クナジリ島を経て、ネモロ(根室)、アッケシ(厚岸)に至った。このアッケシで一行は、越中東水橋の石黒屋権吉と会った。かれは1200石積という大きな北前船でこの地に来ていたのである。東水橋は、大坂への廻米、蝦夷からのニシンなどの肥料を運ぶ船で栄えていた港である。石黒家はそこの大きな船主であった。権吉は、一行に煙草、手拭、足袋などを差し入れ、平四郎など海外で亡くなった者たちの法事を営んでくれた。このあと、一行は陸路をたどり、クスリ(釧路)、ヒロウ(広尾)、ミツイシ、シラヲイ、モロラン、ヲシャマンベなどを通って、9月6日ごろ松前に至った。

 松前では、4年半前に泊まった上田屋忠右衛門という廻船問屋のところに宿が与えられた。松前には、越中東岩瀬の猪嶋久作というものが住んでいて、一行6人に饅頭、煙草、手拭、足袋などを差し入れてくれた。6人は町奉行所に数回呼び出され、取り調べられたが、とくにエトロフの小林朝五郎がロシア船に行った件につき、江戸で公儀から尋ねられない限りは、申し出ることは無用との申し渡しを受けた。

 9月21日、松前の役人以下足軽など11人の付き添いで、6人は松前を出帆し、津軽半島の三厩(みんまや)に上陸、その後陸路で青森、一ノ関、福嶋、宇津宮、越ケ谷を経て、閏9月14日(この年は閏年で9月を繰り返した)、武州千住に着いた(池田編 1968 148-150頁;高瀬重雄 1974 95-105、152-155、182-193頁)。

2.江戸での取り調べ 

 長者丸一行は、翌9月15日に江戸下谷の松前藩邸に出頭し、翌16日に勘定奉行所に呼ばれた。松前藩の役人も同行し、ロシアからの土産の「時規」を含め、異国装束などを台に乗せ、30人余りの行列で向かった。この日は奉行の佐々木近江守に、庭先でそれぞれ名前などを尋ねられただけで、小石川春日町の大黒屋長右衛門という加賀藩領越中水橋出身の者の営む宿屋へ預けられた。これは1836年に越後早川村の五社丸の漂流民らが預けられたのと同じ宿屋であった。その時、シトカでもらった「時規」も大黒屋へ引き取った。その後、一行は大黒屋にて、不自由なく過ごすことになった。ただ、この賄料はだれが出すのかという問題があったが、結局船主の能登屋兵衛門が出すことになった(高瀬保 2006 53頁)。この後、別の勘定奉行の戸田播磨守から3、4度呼び出しがあり、漂流の様子などを聞かれたが、しかし、なかなか越中へ帰る許しは得られなかった。

 その間に、七左衛門の病状が悪化し、10月13日に病死してしまった。検視を受けた後、浄土宗浅草誓願寺宗周院に埋葬した。残ったのは八左衛門、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛の5名であった。

 しかし、1844年(弘化元年)も1845年(同2年)も、それぞれ一度呼び出しがあっただけで、吟味はなかった。1846年(同3年)に入って、春と秋9月に、小林朝五郎の件で聞き取りがあったが、松前で打ち合わせておいたとおり、朝五郎らはロシア船には来ていなくて、一行は艀にて上陸したと言い通した。これ以外は、公儀からのお調べはなかった(池田編 1968 150頁;室賀他編 1965 19頁)。 

 ただし、表向きの動きはなかったが、実は、江戸へきて1年ばかり過ぎた1844年9月ころから、一行への私的な聞き取りが始まっていた。中でも次郎吉への聞き取りが多かった。9月、かれは水戸藩の江戸屋敷にて藩主徳川斉昭ほか家来4、5人に異国の様子を聞かれた。当時斉昭は、幕命により強制隠居の身にあったが、改革志向が強く、異国の事情にも関心が強かったと思われる。1845年に老中首座となった阿部正弘に仕える儒者の石川和介、越後長岡藩の藩主で時の老中牧野忠雅の儒者宅にも数度招かれた。次郎吉はまた、肥前守の蘭学者伊東玄朴のところにも出向いて、4、5人の人に異国の事を話した。そのほか儒者やオランダ語のできる医者や画家たちにも呼ばれて話をした。次郎吉に比べて、長者丸の他のメンバーは呼ばれることは少なかった。太三郎は医者の伊東玄朴、六兵衛は古賀謹一郎宅へ一度ずつ呼ばれただけであった。金蔵は一度も呼ばれなかった。

 次郎吉は、とくに幕府の書院番古賀謹一郎の屋敷(昌平黌内の役宅に住んでいた)には、1844年(弘化元年)秋から翌年秋にかけて30回も呼ばれた。古賀謹一郎は、昌平黌の儒学者古賀侗庵の息子で、のちに1855年に蕃書調所を作りその頭取になる人物であった。考えるに、当時、異国帰りの者との接触は厳しく警戒されており、このように何度も聞き取りに屋敷に出入りするには、家老筋からの了解があったとしか考えられない。石川和介―安部正弘の線が強く考えられる。間もなく1846年12月に昌平黌の儒者見習となった古賀謹一郎は、次郎吉らから聞いたことを、1849年(嘉永2年)12月に『蕃談』という書籍にしてまとめることになる(池田編 1968 233頁)。

 ようやく1846年(弘化3年)10月23日に、長者丸一行がいったん帰村して、来年5月に再度江戸に来るようにとの御沙汰が出た。ただし、その間親戚の外には対面すべからずとの条件が付いていた。11月6日に足軽の同行で、江戸を出て、越中に着き、17日に加賀藩東岩瀬の役所に太三郎、次郎吉がまかり出で、18日に加賀藩小杉の役所に八左衛門、六兵衛、金蔵がまかり出て、そのあと帰宅が許された。

 5人は、1838年4月23日に東岩瀬を出てから10年半ぶりに帰郷したのだった。だが、帰ってきた一行には苦しい生活が待っていた。「異国へ漂流いたし候」ゆえ、家族まで調査され、奉行所に届けられた。分かっている限りでは、太三郎は、一家7人の主として戻ったが、暮らしにゆとりはなかった。次郎吉は、独り身であったので、兄の七郎右衛門のところに世話になったが、兄は小舟で能登方面への運賃積をして細々と稼いでいるだけで、弟の面倒は見切れなかった。治郎吉が江戸へまた呼び出された時には、兄は旅費を村の肝煎から借りてやらねばならなかった(高瀬重雄 1974 165-167、170-171頁)。

 帰村して半年して一行は江戸へ帰ることになった。1847年5月23日、足軽たちの付き添いで、八左衛門、六兵衛、金蔵が放生津を出発、翌24日に太三郎と次郎吉が東岩瀬から、再び江戸へ向けて出発し、6月7日に江戸に着いた。そして、11月11日に奉行所に呼び出された。だが、1848年正月より八左衛門の病気が悪化し、ついに3月5日に死去した。七左衛門と同じく浅草誓願寺宗周院に火葬した。残るは、4人、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛となった。6,8月に再度小林朝五郎の件につきお尋ねがあったが、この度は詳細な文書を見せられて審議を受け、4人はついに朝五郎がロシアの船に来たことを認めた。そこで「公儀に偽りを申し上げた」というので一時的に手鎖をかけられて大黒屋へ戻された。9月4日、4人は勘定奉行のもとに呼び出され、海防掛を兼ねた勘定奉行の石河土佐守より、各自が漂流したことに相違なく、お咎めはないことに落着したことを告げられ、絵の類は取り上げられたが、「時規」は引き渡された。そして4人は、10月16日、足軽の付き添いのもと、江戸を出発、帰村した(池田編 1968 150-151頁)。

 一行が東岩瀬を出帆してから帰国するまでは5年であったが、帰国してから最終的に帰郷ができるまでには、5年半かかったことになる。

 ここで気になるのは、なぜ江戸での取り調べがほとんど実質的になかったにも拘わらず5年もかかってしまったのか、なぜエトロフの小林朝五郎の件だけが実質的な取り調べの対象であったのかということである。幕府として、なにか気にすべき大問題がこの時期に起きていたのだろうか。対外的に危機的な問題が起きていたのだろうか。とくにロシアとの関係で問題が起きていたのだろうか。

 たしかに、アヘン戦争のもたらした対外的危機は、国内における政治的危機と「天保の改革」の重要なきっかけになった。1841年(天保12年)に水野忠邦のもとで開始された「天保の改革」によって、幕府は国内の改革とともに、1842年に、異国船打払令を撤廃し、薪水給与令を発し、海防を強化した。そういう折、1844年に、オランダ国王の使節が「大日本国君」にあてた「親書」を携えて長崎へやってきて、幕府に開国を勧告した。また1844年には斎藤竹堂の『鴉片始末』が出て、イギリスの接近に注意を喚起していた。しかし、1845年2月から老中首座となった阿部正弘のもとで、幕府はオランダ国書の忠告を拒否し、同年7月、「通信は朝鮮・琉球に限定し、通商は貴国と中国にかぎる」と返答した。幕府にとって幸いにも、このような動きの後「約3年のあいだ、対外関係は小康を保っていた」のである(南塚 2018 31-32頁)。 

 したがって、もちろん海外事情の聞き取りということは必要ではあったが、切羽詰まった課題ではなかった。現に長者丸一行への聞き取りは数回でしかなかった。とすると、考えられるのは北方でのロシアの動きであろう。木崎が言うように、蝦夷地支配をめぐる幕府と松前藩の微妙な関係が問題であったと思われる(木崎 1991 169頁)。とくに、長者丸一行をエトロフにおいてプロミセル号に乗り込んで受け取った小林朝五郎らの行動が問題視されたようである。上述のように、一行は当初、松前での打ち合わせの通り朝五郎らがロシア船には来なかったと述べていたが、幕府が三吉らをも江戸に呼び寄せて調べた結果、真相が明らかになり、一行は処罰を受けることになったのだった。

3.帰郷と聞き取り   

 1848年(嘉永元年)10月に長者丸一行4人は最終的に越中に帰郷した。江戸を出たのが10月16日であるから、28日前後には着いていると思われる。先ず、富山藩の取り調べを受けた。一行全員が取り調べられたのかどうかは不明だが、次郎吉の口述は、『漂流人次郎吉物語全』という40頁あまりの小さな書類として残っている。また、六兵衛と金蔵が小杉岩瀬の郡奉行所で述べた口述も、10月29日の日付で残っている。

 だが、一行4人はさらに加賀藩の聞き取りを受けねばならなかった。東岩瀬も放生津も加賀藩領だったからである。放生津からは六兵衛と金蔵、東岩瀬からは太三郎と次郎吉であった。4人は1849年(嘉永2年)3月に出府し、家臣遠藤数馬宅へ行った。そして3月17日に藩主前田斉泰(なりやす)が漂民たちを、庭のうすべりに侍らせ、障子を隔てて、「引見」した。これは昼過ぎから夕方まで続いた。この時、六兵衛と金蔵はロシア風の衣装をつけ、ロシア風のあいさつをしてみせた(池田編 1968 225頁)。さらに5月26日にも藩主別邸の金谷御殿へ召し出された。この時には一行は3人であった。この間に太三郎が病気で、3月25日には東岩瀬へ帰って、ついに5月9日に肺患で死亡していた。だから、5月26日には不在であった(高瀬重雄 1974 83,167、170-172頁)。

 この間、定番頭御算用場奉行を務める遠藤数馬高環(たかのり)のもとで、熱心な聞き取りが行われた。次郎吉は、1849年3月11日から3度にわたって、計81日も金沢に滞在して、聞き取りに応じた。そして、遠藤高環は、1850年(嘉永3年)6月1日、『時規物語(とけいものがたり)』全10巻、25冊(10巻で1冊)を、藩主斉泰に献上した。編集作業は高環の息子等、遠藤家を中心に行われた(高瀬重雄 1974 174-176頁)。

 加賀藩ではこのころ藩政改革が叫ばれ、西洋の砲術などを取り入れるよう動きが高まっていた。だから、海外への関心は強かったと思われる。長者丸の帰還者がもたらした情報に関心がないはずがなかった(木越 2001 168-169頁)。しかし、折から、1849−52年には、すでに述べたように、銭屋五兵衛をめぐって、河北潟埋め立て問題が起きて、藩政が揺れていた。また、藩主の前田家は折からの開国論議にはあまり関心を示さず、どちらかといえば消極的であった。そういうわけで、『時規物語』の価値が評価されるゆとりはなかった。『時規物語』は広く写本が出回ることもなく、藩の書庫にしまわれたままであった。また、人的にも、帰還者への待遇は悪かった。藩主は帰還者に障子越しに対面しただけであるし、彼らを藩の組織内に位置づけることもなかった。

4.帰還者のその後

 長者丸一行は1838年(天保9年)4月に東岩瀬を出た時は、船頭の平四郎、親司(おやじ)の八左衛門、表(おもて)の八左衛門、知工(ちく)の太三郎、片表(かたおもて)の善右衛門、追廻(おいまわし)の六兵衛と七左衛門と次郎吉、そして炊(かしき)の五三郎と金蔵の10名であった。松前で表(おもて)が八左衛門に代わって金六になっていたが、10名で漂流したわけである。結局、越中へ帰京したのは、八左衛門、六兵衛、金蔵、太三郎、次郎吉の5名であった。だが、帰郷してから八左衛門は死去したので、残るは、六兵衛、金蔵、太三郎、次郎吉の4名であった。1849年に加賀藩の聞き取りを受けた後の4人のうち、太三郎は、加賀での聞き取りの最中に体調を悪くして、1849年5月には亡くなっていた。したがって、『時規物語』ができ上って藩主に献上されたときに生き残っていたのは、六兵衛、金蔵、次郎吉の3名であった。

 このうち、放生津の六兵衛は、1857年(安政4年)の12月に、享年51歳で亡くなった。同じく放生津の金蔵は、1848年の帰郷後「金蔵一代限り御塩小売人」となることを認められていた(高瀬重雄 1957 48―49頁;高瀬重雄 1974 89-91頁)が、1863年(文久3年)に、43歳で亡くなったと言われる。

 東岩瀬の次郎吉は、その後のことがよく分からない。1850年には38歳であったはずで、眼の病気にかかっていたようだ(高瀬重雄 1974 85-89,164-167,179-178頁)。ところが、近年、新たな発見があった。1852年(嘉永5年)6月10日に、越後国出雲崎湊の廻船問屋「佐野屋」の「諸国御客帳」に「水橋 米田屋治郎吉」が入津しているとの記載がある。このときは「空船」であったとある。水橋は東岩瀬のすぐ隣の湊である。さらにもう一つ、1857年(安政4年)6月18日に、同じ「佐野屋」の「諸国御客帳」に「東岩瀬 米田屋治郎吉」の名があり、「穴水すみ(炭)500俵」「かたすみ(堅炭)200俵」の取引があったことが記されている。「米田屋治郎吉」は「米田屋次郎吉」と考えてよい。ということは、次郎吉は、小規模ながら、船の仕事に戻っていたことを物語ることになる。この「佐野屋」の「諸国御客帳」には、越中からも多くの船が入っていることが記載されていて、次郎吉の兄の「岩瀬 米田屋七右衛門」の名も数回(嘉永6年5月3日、安政3年5月22日)見えていて、米田家のよく行く問屋であったようである(https://ameblo.jp/kitamaebune2/entry-12469628925.html;小村弌 1992 74,77頁)。しかし、次郎吉がいつ、どのように亡くなったのか、次郎吉の墓がどこにあるのかなどはわからない(高瀬重雄 1974 88-89頁)。いずれにせよ、プラマーは、次郎吉は「歴史上名前の残るべき人物」であると、高く評価している(Plummer 1991a p.119)。  〔完〕

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
高岡市立中央図書館『漂流人次郎吉物語全』高岡市立中央図書館 1973年
笠原潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
木越隆三『銭屋五兵衛と北前船の時代』北國新聞社 2001年
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年
小村弌『近世日本海海運と港町の研究』国書刊行会 1992年
高瀬重雄「漂流記蕃談に関する考察」『史林』1957年
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易 16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』彩流社、2008年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b

(「世界史の眼」No.66)

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『世界史の中の「ガザ戦争」』が刊行されました

世界史研究所とそのメンバーが企画・編集に関わった、藤田進・世界史研究所編『世界史の中の「ガザ戦争」』が、大月書店から刊行されました。いまだ終わりの見えない「ガザ戦争」の根源を広く世界史の中に探ろうとする意欲作です。

大月書店の紹介ページは、こちらです。また、本書の目次は以下の通りです。

第Ⅰ部 「ガザ戦争」とは何か――歴史から問う
第1章 「ガザ戦争」の真相……………………………………………………藤田進
 1 一〇月七日まで
 2 「ガザ戦争」
 3 高まる世界的批判 二〇二四年
 4 おわりに
第2章 パレスチナ問題の歴史を読み直す…………………………木畑洋一・藤田進・平井文子
 1 パレスチナ問題の起源――イギリスの責任(木畑)
 2 イスラエル国家とパレスチナ難民の解放闘争(藤田)
 3 二〇〇六年 パレスチナ分裂以降――ハマス政権下のガザ(平井)

第Ⅱ部 イスラエルと西側諸国
第3章 イスラエル・パレスチナ問題と米欧………………油井大三郎・木畑洋一・木戸衛一 
 1 米国のイスラエル・パレスチナ政策と反シオニズム(油井)
 2 イスラエル批判と反ユダヤ主義(木畑)
 3 ドイツの〈反・反ユダヤ主義〉のドグマ(木戸)
第4章 イスラエルの岐路……………………………………………………清水学・鶴見太郎
 1 ガザ攻撃を続けるイスラエル国家が示すもの(清水)
 2 イスラエルのユダヤ人問題(鶴見)
第5章 日本と「ガザ戦争」――中東での戦争と日本の戦争国家化…………………山田朗  
 1 中東の戦争と日本の関係性
 2 日本の中東政策の原点――オイルショック
 3 第一の転機としての湾岸戦争
 4 第二の転機としてのイラク戦争
 5 第三の転機としての集団的自衛権の容認
 6 おわりに――中東の戦争を利用した日本の戦争国家化

第Ⅲ部 対抗と平和への模索
第6章 「下から」の抵抗と変革……………………………………松本耿郎・松下冽・堀内隆行
 1 滅ぶことなき抵抗者たち――不死なるものムスタズアフィーン(松本)
 2「ガザ戦争」と「グローバルサウス」――戦争が顕在化する「グローバルサウス」空間の重層性(松下) 
 3 南アフリカのジェノサイド提訴(堀内)
第7章 アメリカとの対抗と「ガザ戦争」…………………………下斗米伸夫・久保亨
 1 「ガザ戦争」とウクライナ戦争、あるいは帝国とユダヤ(下斗米)
 2 中国と中東問題――パレスチナおよびイスラエルとの関係を中心に(久保)
第8章 国連の改革へ……………………………………………清田明宏・パトリック・マニング
 1 「ガザ戦争」と国際社会の失敗――国連の現場で見た「ガザ戦争」の失敗(清田)
 2 「ガザ戦争」と国際世論と国連改革(マニング・南塚訳)

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『被爆者・切明千枝子さんとの対話』が刊行されました

桐谷多恵子『被爆者・切明千枝子さんとの対話—〈私たちの復興〉をめざして』が、彩流社より刊行されました。95歳になってもなお被爆証言を続ける切明千枝子さんとの対話を通して、戦後の広島の<復興>の姿を問う意欲作です。

彩流社の紹介ページは、こちらです。

本書の目次は以下の通りです。

はじめに
Ⅰ 序論にかえて
1 被爆者の孫として生まれて
2 被爆者切明さんとの出会い
3 戦争を通して人間をやめたくなった経験
4 眼差しの先
5 女性の被爆者の証言
Ⅱ 切明千枝子さんの生い立ち
1 切明さんの家系─祖父母の家族史
2 誕生から幼稚園まで
3 小学校から広島県立広島第二高等女学校まで
Ⅲ 軍都廣島の軍国少女
1 軍都廣島
2 軍都廣島の「軍国少女」
3 広島と軍隊と戦争
4 戦前の広島の持つ「加害」性 他
Ⅳ 切明さんの被爆体験
1 切明さん自身の被爆体験
2 後輩の被爆と看護
3 友達を焼いた日
4 「お手洗いに行きたい」という懇願
5 被爆地で生きていく覚悟
6 原爆症の発症と回復
Ⅴ 切明さんの戦後
1  「敗戦」と「棄民」
2  原爆の惨禍を目に医師を志す
3  県立女子専門学校にて
4  「社会」との出会い
5  「平和」との出会い
6  「民主主義」との出会い
7  切明悟さんとの結婚と出産
8  「東方出版」と教育の改革
9  本当の平和とは何か
10 被爆者への差別
11 近現代広島において女性であることの困難 他
Ⅵ  被爆体験を語ること
1  「生き残ってしまった」苦しみ
2  被爆体験を語り始めた契機
3  江口保氏との出会いと被爆証言
4  級友とチームを作って話す
5  証言行為と自身への影響
6  証言講話の頻度
7  病気の発症と被爆証言をめぐる周囲の心配
8  聞かせて欲しいと言う人の存在
9  「広島修学旅行」より後の証言活動
10 切明さんの涙と願い
11 切明さんの被爆体験講話の構成
Ⅶ  アメリカによる占領という経験
1  戦後の占領政策
2  被爆者と「空白の10年」
3  戦後の飢えと占領軍の配給
4  民主主義を広める担い手として
5  子供の人権―児童図書館での驚き
6  アメリカの豊かさと憧れ
7  ABCC(原爆傷害調査委員会)による被爆者調査
8  オバマ大統領の広島訪問
9  「アメリカ憎し」と嘆く祖母の涙
10 アメリカの見事な占領政策
Ⅷ  広島の「復興」と〈私たちの復興〉
1 復興とは何か
2 広島市における都市計画による「復興」
3 重ならない都市計画による復興と生活者としての復興
4 切明さんの語る〈私たちの復興〉
5 被爆者にとっての復興とは何か
6 切明さんにとって〈私たちの復興〉の意味するもの
7 あらためて切明さんと対話し、復興の課題を確認する
Ⅸ  終わりに
1 どうか書き残してください
2 「人間が変わる」ということ
3 平山郁夫「広島生変図」
4 自衛のための戦争
5 人間再生の壮絶な闘いの軌跡
6 被爆三世として
7 個人の尊厳について

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世界史寸評
参政党の歴史観を考える

 参政党は「日本人ファースト」などという借り物のスローガンで選挙民を引き付けたが、われわれはその考え方の基本となく歴史観をしっかりと把握しておく必要がある。参政党の歴史観を知るうえで参考になるのが、2025年7月19日の毎日新聞に出た日本近現代史家の山田朗さんのインタヴュー記事(栗原俊雄氏による)である。それは、《参政党の歴史観を「面白い」に危機感 史実無視した演説、歴史学者は》と題されていて、1930年代からの日本の戦争についての参政党代表の考えを批判的に論じたものである。

●治安維持法

 参政党は戦前の日本の政治体制について、どう考えているのか。神谷代表は、鹿児島市での7月12日の街頭演説で、1925年成立の治安維持法を巡り、こう語っていた。

<日本も共産主義がはびこらないように治安維持法って作ったんでしょ。(中略)悪法だ、悪法だっていうけど、それは共産主義者にとっては悪法でしょうね。共産主義を取り締まるためのものですから。だって彼らは皇室のことを天皇制と呼び、それを打倒してですね、日本の国体を変えようとしていたからです>

 これに対して、山田さんは、治安維持法というのは、「共産主義取り締まりを名目として『国体変革』を目指すとされたさまざまな反政府運動・思想を弾圧した」としたうえで、「朝鮮などでは独立運動家も治安維持法によって厳しく取り締まりを受けている。国内でも次第に自由主義者に弾圧が拡大された」と指摘した。つまり、治安維持法は、共産主義だけでなく広く思想や言論の自由を弾圧する法律であったと指摘した。

このような法律を駆使して、戦前の日本の支配層は日本が戦争へ進む歯止めをはずして行ったのである。

●日中戦争

 神谷代表は6月23日に、那覇市での街頭演説で、1931年の満州事変に始まる日中戦争についてこう語っていた。

<(日本は)中国大陸の土地なんか求めてないわけですよ。日本軍が中国大陸に侵略していったのはうそです。違います。中国側がテロ工作をしてくるから、自衛戦争としてどんどんどんどん行くわけですよ>

 満洲を侵略し支配していた日本の関東軍に対して、中国側が起こした抵抗を「テロ」と断定していたわけである。山田さんは「日中戦争は、近代日本の膨張主義の結果であり、とりわけ満州事変(1931年)を成功事例とみなした結果の侵略行為だった」と指摘した。さらに「日本には中国への勢力拡張を目指す勢力とそれを支持する人たちがいて、その結果が満州事変と満州国建国(32年)だった。そして満州国を足がかりに中国華北にさらに勢力を拡張しようとして『華北分離工作』を行っていた。その最中に起きたのが盧溝橋事件(37年)だった」と述べて、満州事変以後の日本軍の対中侵略戦争を「自衛戦争」とする見方を否定した。

●太平洋戦争

 神谷代表は、同じ演説で1941年からの太平洋戦争についても次のように述べていた。

<大東亜戦争は日本が仕掛けた戦争ではありません。真珠湾攻撃で始まったものではありません。日本が当時、東条英機さんが首相でしたけど、東条英機を中心に外交で何をしようとしてたかというと、アメリカと戦争をしないことです。そして、中国と和平を結ぶ。当時、中国ってないですけどね、支那の軍閥、蔣介石や毛沢東、張学良、ああいった人たちと、いかに戦争を終わらせるか、ということをやるんだけど、とにかく戦争しよう戦争しようとする人たちがいるわけですよ。今も昔も>

 毎日新聞は、日米開戦に至る経緯を次のように振り返っている。「日中戦争は欧米諸国が中国側を支援したこともあり、泥沼化した。さらに、日本は40年、米国の同盟国である英国と戦っていたドイツ、イタリアと三国同盟を結んだことから、英米との関係が悪化した。近衛文麿首相はルーズベルト米大統領との直接会談を模索するなどしたが、かなわなかった。鍵は米国が求めていた、中国からの日本軍撤兵だった。しかし東条英機陸相らが強硬に反対。近衛内閣は総辞職した。代わって誕生したのが東条内閣だ。」と。事実関係は、このとおりである。

 戻って、参政党代表の主張に対して、山田さんは「日米交渉の中で、米国が日本軍の中国からの撤退を要求すると、東条を中心とする陸軍が『日中戦争の成果を無にすることはできない』と主張し、英米との戦争に踏み切った」と反論したのだった。

●開戦

 神谷代表は、鹿児島市での7月12日の街頭演説で、太平洋戦争が始まった経緯についても、次のように述べていた。

<(共産主義者は国体を)自分たちだけでは変えられなかった。彼らは何をしようとしたか。政府の中枢に共産主義者とかを送り込んでいくんですね。スパイを送り込んでいくんですね。そして日本がロシアや中国、アメリカ、そういったところと戦争をするように仕向けていったんです。ロシアとされると困るんです。旧ソ連ですね、ソ連は共産主義だから。じゃあアメリカやイギリス、そのバックアップを受けている中国とぶつけよう。それで日本は戦争に追い込まれていったという事実もありますよね。教科書に書いてないですよ。なぜか。戦後の教科書は、彼らがチェックしてきたからです。こういうことをちゃんと、国民の常識にしないといけない>

 こうした歴史認識について、山田さんは「戦争は『共産主義者』の陰謀という見方は、戦前から存在する典型的な陰謀史観。事実認識としては全く誤っている」と指摘する。

 神谷代表は、こういう歴史観をどこから仕入れてきたのだろう。上の「陰謀史観」を事実でもって証明した議論を聞きたいものである。

●ユダヤ系国際金融資本

 毎日新聞は、神谷代表の演説の背後を探ろうと、彼の編著による「参政党Q&Aブック 基礎編」(2022年)に当たっている。そこでは、「ユダヤ系の国際金融資本を中心とする複数の組織」を「あの勢力」と呼び、太平洋戦争が起きたのは日本が「あの勢力」に逆らったためとする説を主張しているという。

 これに対し山田さんは、「(戦争は)『ユダヤ系金融資本』の陰謀とする見方も、世界に広く流布している典型的な陰謀論『ディープステート』論の一つ。実態はないが、人々にそのようなものが存在しているかもしれないと思わせ、被害者意識を膨らませ扇動する政治的手法だ」と批判した。

 当然ながら、なぜ、こうした「陰謀論」が公然と語られ、また、影響力を持ち続けるのかという疑問がわいてくる。これに対して、山田さんは、「真面目な歴史学者や地道なジャーナリズムの成果が、出版や教育を通じて一般化されておらず、歴史的事実を無視した極端な議論が『面白い』『新しい』と受け取られてしまう状態が広がってしまっている。戦後80年の節目に、こうした状態を転換したい」と話したという。このような山田さんの危機感をわれわれはどう受け止めていくべきであろうか。真剣に考えなくてはならないであろう。

(文責 南塚)

 

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世界史寸評
広島原爆投下直後の米軍メモ―国家安全保障アーカイブの新公表資料から
木畑洋一

 国家安全保障アーカイブ(The National Security Archive:NSA)は、1985年に米国のワシントンにあるジョージ・ワシントン大学で創設された民間組織であり、情報公開制度を用いて米国政府資料の発掘を積極的に行うなど、世界現代史に関わる資料の収集につとめ、それを公開する活動を展開してきている。そのNSAが日本への原爆投下に着目したのが、投下後60年目に当たる2005年であり、それ以降、この問題に関わる資料を公開してきている。投下後80年目の今年(2025年)にも、新たな資料の発掘・公開が行われているが、そのなかに、広島への原爆投下直後で長崎にはまだ投下されていない8月8日に、テニアン島(原爆を投下したエノラ・ゲイの出発地)の米空軍所属の誰か(人物の特定はできていない)がまとめた、原爆投下状況に関するメモが含まれている。きわめて興味深いメモであるため、その概要を紹介してみたい。

 なお、このメモは、Library of Congress Manuscript Division, Henry Arnold Papers, box 5, Chron Correspondence にあるもので、NSAの公開にかかるurlは以下である。

https://nsarchive.gwu.edu/document/33330-doc-71a-headquarters-20th-air-force-telecon-fn-08-21-comgenaaf-20-c0mgenustaff-rear

 以下は5頁強にわたるこのメモの骨子である。

 広島について今いえることは、Hiroshima is no more という4語で足りる。広島は、最大級の地震によるよりもさらに壊滅的な形で、地図から消し去られたのだ。火事の徴はないが、それは燃えるものが何も残らないような形で、核の力がすべてを粉砕したためである。

 爆発によるクレイターも存在しないが、それはそうした穴を残さないようにした爆弾投下計画の結果である。

 広島の人口は334000人である。その内、完全に破壊された地域に住んでいる20万人以上が命を失ったと考えられるが、最も控えめに推定しても、少なくとも10万人が「すでに負けたと知っている戦いを続けることにこだわった軍事指導者の犠牲」になった。彼らが米国などによる条件[ポツダム宣言]を受け入れない限り、近い将来、広島の何倍にも上る犠牲者が出ることになるだろう。

 8月6日に用いられた原爆のエネルギーは理論上TNT火薬100万トンに相当するが、現行知識の限界から、実際に用いることができたエネルギーはTNT火薬8000トンから2万トンに限られた。それでも、人間が作った武器としては最大の爆発力である。

 原爆投下の5時間後に行った偵察飛行によると、広島市の上空は爆発による雲に覆われたままだった。7月にニューメキシコで行われた実験の際には、5時間後に雲は消失したので、広島での爆発力がはるかに大きかったことが分る。これは、空爆の体験豊富な飛行士が誰も経験したことがなかった事態である。

 原爆を投下したエノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ大佐は、支給されていた色眼鏡をかけるのを忘れていて、まぶしさのために眼が見えなくなったと語っている。「眼の前が完全に真っ白になってしまった」のだ。

 同じくエノラ・ゲイに搭乗していた[副機長]ロバート・A・ルイス大尉は、「町のその部分は引き裂かれてしまったように見えた」と言い、「そんなものはこれまで見たことがなかった」という言葉を繰り返した。「[投下の]結果を見ようと機首を戻したところ、眼の前にあらわれたのは見たこともないような爆発だった。市の9割は煙に包まれ、それは3分もしない内に3万フィートの高さに達した。それは予想をはるかに超えていた。恐ろしいことが起こりそうだとは思っていたものの、実際に眼にしてみると、我々は皆、25世紀の未来の戦いを描いた映画バック・ロジャーズ[1939年に公開された映画]の戦士であるかのように感じたのだ。」

 原爆の開発にも関わり、エノラ・ゲイに搭乗していたウィリアム・S・パーソンズ大尉も、「ひどい光景」だったと述べる。「きのこ雲の下の方では直径3マイルにわたって紫がかった灰色のちり状の物体が煮えくりかえっていた。全地域が煮えくりかえっていたのだ。」「きのこ雲の頂上部分から大きな白い雲が離れて上昇していった。2番目の白い雲も空中に昇り最初の雲を追いかけていった。きのこ雲のてっぺんも煮えくりかえっていた。」「もしジャップが、隕石に打たれたと言ったりすれば、我々は、この爆弾の出発点にはこれがもっとあるのだと答えることになろう。」

 この間、この基地では、日本がポツダム宣言を受け入れなければさらなる攻撃にさらされることになると日本の軍部指導者を説得するための努力が払われ、これから36時間以内に「日本の人々」に宛てて投下される予定のビラの文言として次のようなものが考えられている。

我々が新たに開発した原子爆弾は2000機のB29に匹敵する爆発力をもつ。それに疑いをもつなら、広島で何が起こったか調べてみるといい。この爆弾を使って軍の資源を全滅させる前に、戦争を終わらせることをあなた方が天皇に請願するよう求めたい。今軍事的抵抗をやめなければ、戦争を速やかに無理矢理にでも終わらせるため、我々はこの爆弾や他のすぐれた武器を使っていくことになる。

 いうまでもなく、このメモが書かれた翌日の8月9日、同じテニアン島を飛び立った航空隊によって、長崎に二つ目の原爆が投下されたのである。

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