岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か 書評「座談会」

2021年11月20日 14時〜16時 於:世界史研究所(渋谷)

参加者:渡邊(進行)、南塚、小谷、藤田、木畑(「講座」編集委員、オブザーバー)、山崎(記録・構成)

はじめに

 2021年10月から『岩波講座 世界歴史』(岩波書店)全24巻が刊行開始になりました。世界史研究所では、2021年10月に出版された『岩波講座 世界歴史』第一巻が、この講座全体の性格を表すものになっているのではないかと考え、11月20日に座談会形式で、その合評会を開きました。ここにその成果を公表し、皆さんが世界史を考えるうえでのご参考に供したいと考えます。

1. 講座全体の編集方針と構成

渡邊:「座談会」を始めたいと思います。最初に、この講座の「本講座の編集方針と構成について」を南塚さんに確認し評価していただき、それに基づいて討論を行います。次に、本講座の出発点に立つ重要な論文である小川幸司さんの「展望」論文「〈私たち〉の世界史へ」に関して、小谷さんと南塚さんに報告をいただき、議論します。その後、「問題群」論文から、「世界史のなかで変動する地域と生活世界(西山暁義)」(報告者:山崎)と「現代歴史学と世界史認識(長谷川貴彦)」(報告者:南塚)を取り上げ、討論します。「焦点」論文からは、「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解(吉岡潤)」(報告者:山崎)、「東アジアの歴史認識対立と対話への道(笠原十九司)」(報告者:小谷)、「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る(勝山元照)」(報告者:藤田)の3論文を取り上げ、「焦点」論文としての価値と評価をまとめて行います。

 まず南塚さんに、新しい「岩波講座 世界歴史」の位置付けに関して、まとめて頂きたいと思います。

南塚:いよいよ2021年から岩波の世界史講座としては第三シリーズが始まります。そこで、過去の講座を踏まえて本講座はどのように位置づけられているのだろうかが気になります。「本講座の編集方針と構成について」によると、こうです。高度経済成長と冷戦のさなか、1969年から出た第一シリーズは、古代・中世・近代・現代に時代区分し、ヨーロッパがモデルとされていました。冷戦終結後、地域紛争、先進国の経済的行き詰まりのなかで1997年から出た第二シリーズは、古代・中世・・・という時代区分を放棄し、地域の通時的記述と時代の特徴を共時的・地域横断的にとらえる記述を併存させたほか、アジア、中東の歴史を充実させていた、ということです。

 では、第三シリーズはどう位置付けられているのでしょうか。1997年からの四半世紀に何が変わったと見ているのでしょうか。「編集方針と構成」によると、それは三つあって、①史料の多様性と歴史像の解釈の問題、新しい史料読解、②グローバル・ヒストリーつまり世界の各地域の構造的なつながりを描く歴史、世界の構造的な把握、③歴史諸概念の構築性であるといいます。

 こういう位置づけの元に、第三シリーズの[編集方針]として、以下の諸点が挙げられています。それは、

a) グローバル・ヒストリーなど世界の構造的把握を重視すること。だから地域から見た歴史も「世界史」としての展望を持つこと。

b) アフリカ、オセアニアへの目配りを厚くすること。

c) ジェンダー、文化、マイノリティへの配慮を重視すること。

d) 日本列島で紡がれてきた歴史を「世界史」とのつながりから捉えなおすこと。

以上です。前の二シリーズとの大きな違いは、「世界史」ということが前面に出ていることだと思います。

 このような[編集方針]は極めて妥当なものと考えます。その上で、先ほど見た③の構築性の指摘などを考えつつ、いくつかの懸念をあげるならばこのようなものがあげられます。

1)ポストモダン、ポストコロニアルなどにどう対応して、世界史にするのだろうか。グローバル・ヒストリーはそれとどうつながるのだろうか。

2)「世界史」を「日本史」と区別して考えているのではないだろうか。

3)相互の連携をあまり考えない独立の論稿の集まりにならないだろうか。

4)高校の生徒、社会人に分かるように表現できるだろうか。

などです。本シリーズはこういう懸念にどうこたえるのでしょうか、興味深いものがあります。

渡邊:南塚さんの当てた焦点を踏まえ、皆さん、いかがでしょうか。

藤田:これらの点は、個々の論文を見ても感じる点です。この第三シリーズをこの方針で進めるという、最初のメッセージになっているのだと思います。これからどのように展開してゆくのでしょうか。紙幅が限られていることもありますが、内容が抽象的で難しさも感じます。これを歴史教育でどう展開し、活かしてゆくのかには、期待と不安、可能性と課題を感じます。

渡邊:この講座の編集委員を務めている木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:誰をターゲットにするか、誰に読んで欲しいかという点に関してですが、歴史教育を意識していることは確かですが、「高校生が読めるように」とまでは考えていません。もちろん高校の教員はターゲットです。「歴史総合」が開始されることもあって、編集委員にも高校の先生に中心的に加わってもらっています。

小谷:「すべての人に大学の授業のような研究の最前線を届けるという「岩波講座」の原点を大切にし」(vi頁)とある中には、高校生までは入らないわけですか。

木畑:次のところに「高等学校をはじめとする歴史教育や市民の皆さんの歴史探究にも参考となるような編集を意識しました」(vi頁)とあるように、高校の歴史教育の受け手である高校生を対象とするわけではありません。それが明示されているわけではないですが。もちろん、これを読める高校生もいると思いますが、全体として対象にしているわけではありません。

渡邊:この点は、読んでいて気になる点です。高校生に読ませるものではなく、高校で歴史教育を担う先生方に読んで欲しいというものだと思うのですが、この点をもう少し強調してあればと思います。学者や大学生だけのためのものではなく、高校の歴史教育に役立つものであるということです。これは重要な点だと思います。

南塚:私たちはこれまで、『歴史的に考えるとはどういうことか』(ミネルヴァ書房)やシリーズ『日本の中の世界史』(岩波書店)などを、高校生にも読んでほしいと考えながら作ってきました。それで、私も「高校生も対象に」と考えたのです。この点、案外難しいですね。

小谷:新講座の位置付けに関する文章ですが、第一巻のような理論的な巻と、各時代・地域別の巻とをすべてまとめて議論しようとしているのですから、無理があるのだろうと思います。グローバル・ヒストリーを重視すると言っても、紀元前5000年にグローバル・ヒストリーを論じることは難しいでしょう。全体をカバーするのは難しいことです。「ポストモダン」と言っても、古代や中世の実証的歴史研究者はほとんど意識していないと思います。史料批判に関しては、史料の構築性がある以上、あり得る点だと思いますが、紀元前の時代の巻で「ポストコロニアル」は論じられないでしょう。この文章自体は、新講座全巻をカバーする総論ではなく、第一巻に適合するものだろうと思います。

2. 「展望」論文

渡邊:それを踏まえての「展望」論文ですが、まず小谷さんお願いします。

小谷:小川論考には、「一、一人ひとりの世界史」と、その後の「二、世界史実践の軌跡をたどる」、「三、日本の世界史実践とその課題」との間に大きな理論的断絶があると思います。まず1で前半部を取り上げ、後半部については2で検討します。

1「一、一人ひとりの世界史」に関して

 小川論考前半部の意図は、歴史学習運動が、歴史研究者の書いたもの(典型的例として、遠山茂樹他『昭和史』。比較的近年の例としては色川大吉らの「五日市憲法草案」)を学ぶというスタイルになりがちなのを否定し、歴史研究者も一般の人々も本質的には同じ「世界史実践」を行っているのだということを主張するということでしょう。歴史研究者の「特権性」の否定とも言えます。ただ、ちょっと無理があるように思います。

(1)「世界に向き合う世界史」とは?

 小川さんは、2011年3月に起こった東日本大震災・福島原発事故の際の消防士たちの「ことば」の中に、「世界に向き合う世界史」実践の例を見ています。

(a)「(原子炉が)爆発しました。世紀末みたいになっていますよ」(4頁)。

(b)(爆発した原子炉への出動について)「これでは特攻隊と同じではないか」(4頁)。

 そして小川さんは次のように言っています。「歴史実践とは、時間軸を意識して他者と自分との関係を考えることであるとすれば、(中略)歴史実践とは『世界史実践』と言い換えることもできよう」(6頁)、「フクシマの原発事故の中で必死に活動を続けた消防士たちがそうであったように、人は自分の置かれている状況や自分の進むべき道を考える際、この世界に生きた『過去』の人々や時代のありようを参照する。(中略)消防士たちも(中略)『世界と向き合う世界史』を実践しているのである」(6頁)。しかし、「世紀末」ということばを「この世の終わり」といった意味で使う非歴史的用法や、ステレオタイプ化した「特攻隊」イメージといったものをとおして、「世界に向き合う世界史」実践ができるのでしょうか?

(2)歴史学(「世界史実践」)の「六層構造」(13-14頁)

 ①【歴史実証】(「問題設定に関わる『事実の探求』」)

 ②【歴史解釈】(「問題設定に関わる仮説を構築」)

 ③【歴史批評】(その歴史解釈の「意味の探求」)

 ④【歴史叙述】(歴史解釈や歴史批評を表現する「叙述の探求」)

 ⑤【歴史対話】(他者の歴史解釈や歴史批評との間の対話)

 ⑥【歴史創造】(「自らが歴史主体として生きることにより、『行為の探求』を行う」)

 小川さんは「世界史実践の六層構造とは、歴史家だけでなく人々の営みにも多かれ少なかれ共通する」と言っています(14頁)。これについては、以下の二つの疑問をもちました。

(a)この「世界史実践の六層構造」と「世界に向き合う世界史」とはどう関係するのでしょうか?例えば、爆発した原子炉への出動を「特攻隊のようなものだ」と捉えた消防士は「世界史実践の六層構造」を実践しているのでしょうか?

(b)このような作業(手続き)を高校歴史教育の場にも求めるのでしょうか?

 小川さんは次のように言っています。「高校の歴史教師である私(小川)自身は、史料を読み解きながら歴史実証・歴史批評の作業を自覚的に授業で示すとともに、生徒の歴史批評を互いに交流するようにし、その授業の内容を一般市民に公開してきた」(64頁)。とすると、小川さんは生徒には「歴史批評」だけを求めているのでしょうか?しかし、「六層構造」のうち、「歴史批評」のみを行うということは可能なのでしょうか?

2「二、世界史実践の軌跡をたどる」、「三、日本の世界史実践とその課題」について

 小川さんはここでも「世界史実践」ということばを使っていますが、端的に言えば学説史ということでしょう。「二、世界史実践の軌跡をたどる」では、歴史記述の淵源をメソポタミヤの「王名表」に求め、古典期ギリシャのヘロドトスやトゥキュディデスなどから、中世のアウグスティヌスなどまで辿っています。その後、キリスト教会的な「普遍史」を批判する歴史記述の登場に言及し、19世紀ヨーロッパのランケやマルクスを取り上げています。20世紀に関しては、主として、フランスのアナール派の歴史家たちを取りあげています。 

 他方、「三、日本の世界史実践とその課題」においては、幕末・維新期の国家的・民族的危機に遭遇して、魏源の『海国図誌』が日本で翻刻されて広く読まれたり、福沢諭吉の『西洋事情』などが歓迎されたことに注意を向けています。それから、リースが(東京)帝国大学の史学科に招聘されたことから、ランケ流の実証史学が広がっていったことが指摘されています。ただ、その次に直ちに鈴木成高や羽仁五郎の名前が出てくるのには、若干の違和感があります。戦後については、大塚久雄に「戦後歴史学」を代表させ、1970年代、80年代以降の歴史学を「現代歴史学」として、「戦後歴史学」から区別しています。その「現代歴史学」の重要な潮流として、具体的には網野善彦、二宮宏之、良知力などのいわゆる「社会史」の業績が取りあげられています。その他の「現代歴史学」の特徴としては、グローバル・ヒストリー、「生命環境」の歴史、歴史の構築性、世界史教育の改革、記憶と歴史をめぐる問題、が挙げられています。

 この「三、日本の世界史実践とその課題」で注目されることは上原専禄他『日本国民の世界史』(岩波書店、1960年)が詳しく論評されていることです。小川さんも書いているように、この本はもともとは高校世界史教科書用に書かれたものなのですが、教科書検定で不合格となったために、一般書として刊行されたのです。したがって、内容的には高校生でも理解できるはずの本です。この本の冒頭に置かれた「世界史を学ぶために」という序論的文章(上原専禄執筆と思われる)には、次のようなきわめて重要な指摘があります。

 今までみてきたように、創造的意味において世界史を学ぶためには、実際上の仕方として、どうすればよいのであろうか。それには、現代の日本国民たるわれわれ自身の現実の問題意識と生活意識に基づいて、世界史像を実際に描きあげる努力を試みるほかない。世界史像を描きあげるというのは、もとより本書のような世界史を書くことだけではない。脳裏に人類生活の歩みとあり方をいきいきと構想することもまた、世界史像の創造的構成と呼ばれてよい。この「世界史」の編者たちは、本書を編述するという仕方で、世界史を学ぼうとした。本書を手がかりとして、初めて世界史を学ぼうとする者は、本書の構成を一つの見本として、自分自身の世界史像を描きあげるように努力すべきである。(『日本国民の世界史』5頁)

 ここに書かれていることは、今日の歴史教育が追い求めている方向と全く同じといってもよいのではないでしょうか。それだけに、『日本国民の世界史』を詳しく検討した小川さんがこの部分に触れていないのはちょっと不思議な感じがします。

渡邊:続いて南塚さんお願いします。

南塚:この論文は、歴史の方法論から論じ、歴史とはなにかという根底から考えて、世界史とは何かを考えようとしているようです。それはよくわかります。しかし、いくつか重要な疑問があります。

 まず、大きな問題を考えてみます。

 一つには、ここで言われる歴史実践がそのまま世界史実践になるのかが、よくわかりません。歴史実践はたとえば郷土史や一国史の実践にとどまってしまうのではないか、世界史実践になる保証はないのではないかという疑問があります。また、小谷さんの言うように、歴史実践の六つの局面は、行論では、その後の議論に無関係ではないかと思われます。どのように生かされているのでしょうか。

 二つには、「世界と向き合う世界史」と「世界のつながりを考える世界史」の区別を強調していますが、後者は分かるとして、前者はどういうことなのか、よくわかりません。これは小谷さんと同じだと思います。また、「過去からの世界史」と「未来への世界史」を区別していますが、このような区別はどういう意味があるのでしょうか。われわれはE.H.カーに倣って、過去と現在と未来を相互に関連するものと考えてきているので、こういう分け方は理解できないところです。

 結局、この論文は「〈私たち〉の世界史へ」というけれど、この著者の「世界」や「世界史」とは何だろうと思わされます。要するに自分の外の生と社会を「世界」と言っているのではないかと思われます。それでいいのでしょうか。

 つぎに、個別的な問題を取り上げてみます。いろいろある中で、主なものをあげてみると、こういう点があります。

 ①ヨーロッパでの世界史実践を考える時、ヴィーコやヘルダー、あるいは啓蒙主義やヴォルテールを抜きでいいのでしょうか。最近はこのあたりの見直しが進んでいるのはないかと思うのです。

 ②ヨーロッパの世界史実践を考える時アナールで終わっているわけですが、アナールは歴史の方法としては重要な問題を提起しているとしても、実際に世界史を書いてはいないわけですし、アナールとは別に実際に世界史を論じたE.H.カーやE.ホブズボウムやマクニールやC.A.ベイリをどう見るのでしょうか。

 ③日本での世界史実践を考える時、上原専禄の見方はもっときちんと考えるべきではないでしょうか。つまり、『世界史像の新形成』(1955年)などにおいて「ヨーロッパ中心」を批判するための基本的な問題をかれは提起しているので、それを無視はできないのではないでしょうか。

 ④この論文での江口朴郎の見方が疑問です。江口が世界史の「構造」を重視していたと見ているけど、それは江口が一番嫌った概念ではないでしょうか。むしろ、「運動」という見方が必要なのではないかと思います。江口の見方をローザ・ルクセンブルクの帝国主義の考えに近いと言っていますが、江口が最も重視していたのは、レーニンであり、彼の『社会民主主義の二つの戦術』のような考え方なのではないでしょうか。

 最後にまとめ的に言うならば、結局この論文は、前半では、世界史実践の教育的方法を説き、後半では、これまでの日本内外での世界史実践の方法を整理しているのですが、前半と後半の有機的な関係がよくわからないし、後半についても、欧米の世界史論の理論的推移をある程度フォローしていても、世界史実践の成果は扱っていないのです。それらが、「私の」世界史ではなかったというのなら、そういう議論をしてほしかった。また、この論文は、高校生は別としても、社会人は理解できるのだろうかという疑問も残りました。

渡邊:シリーズ巻頭の論文として、編集委員内部ではどのような議論があったのでしょうか。木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:「本講座の編集方針と構成について」とは異なり、この「展望」論文を編集委員全体で議論することはありませんでした。第一巻の巻頭にあることを考慮すれば、そうした機会があっても良かったかもしれません。小川さん自身は、経験の豊富な高校の教師であり、彼の今までの教育実践が詰まっていることは確かだと思います。

小谷:小川さんは、遅塚忠躬さん、西川正雄さんの影響を受けているのですね。やはり西洋中心主義的な感じが強くします。

木畑:「六層構造」の議論も、遅塚さんの議論を踏まえてのものです。小川さんは以前からこの議論をしています。ではそれをどう実践するのかですが、勝山さんの論文を見ると、それをどう実践しているのかが見えてきます。教育現場でどう具体的に生かすのかにはそれぞれの違いがあるでしょうが。

3.「問題群」論文

渡邊:勝山論文に関しては、別途検討しましょう。では、次に「問題群」論文に入ります。まず、山崎さんに、西山暁義さんの「世界史のなかで変動する地域と生活世界」を取り上げてもらいます。

山崎:この論文は、主に歴史を論じるにあたっての「地域」を取り上げています。出発点となっているのは、今まで、空間的区分とその歴史性が十分に認識されて来たとは言い難いという点、またナショナル・ヒストリーが依然力を持ち、また根強い「方法論的ナショナリズム」が存在しているという点、その一方で、トランスナショナル・ヒストリー、グローバル・ヒストリーからの「地域」の問い直し、「n地域論」、空間の変容とその相互関係への関心といった新たな動きが見えてきている点だと思われます。そして、「境界」、内部構造の重層性、地域相互の連関の三つの課題を設定し、それぞれに対して具体的な個別研究を挙げながら提示しています。

 議論が多岐にわたっているため、すべてをフォローするのは難しいのですが、地域自体の歴史性、「地域認識」のダイナミズムに目を向けることの重要性は、十分理解できます。ただ、やはり取り上げられる議論の事例は、ヨーロッパのもの(及び一部東アジアのもの)です。例えば「国民への無関心」論が、ヨーロッパ世界の外にどれだけ敷衍できるのか、という点には疑問も持ちました。また、タイトルにある「生活世界」の具体的な形やその変容などは、あまり見えない気がしました。また、近代以降、そして21世紀の生活空間の広域性、多義性(例えば領域を持たないコミュニティの存在)はどのように理解すべきでしょうか。

渡邊:いかがでしょうか。

藤田:地域に非常に多様な形があり、それが可視化できている現在における議論としての面白さが一つあります。しかし同時に、なぜ今、これだけ多様な地域が可視化されているのかということが気になりました。「国民への無関心」のような議論を過去に遡って確認することはできるわけですが、それが今どうなっているのかということです。ユーゴスラヴィアの民族分断や東欧の反動や民族の衝突を前にすると、国民国家に収まらない豊かな地域が、どうして今大きく取り上げられるのだろうと感じます。ここでのさまざまな地域の豊かな提示というのは、すべて、国民国家という枠の中に収まる地域であるような気がします。すると、国民国家という枠を突破する、国民国家とぶつかり合うという局面での地域の展開はどうなのかということに関心が向くのです。現在の地域形成が国民国家や権力との対抗の中でどう進むのかということ、地域が形成されるプロセスがどういうものかということに、私は関心があります。著者は板垣さんの「n地域論」を大きく取り上げています。「本来、帝国主義における支配・抑圧を重層的に把握するための「操作概念」であり」(116頁)としていますが、私は、これは誤解ではないかと思います。板垣さんの「n地域」という理論は、運動論の中での議論として提示されたものだと思います。つまり、「n地域」がどうできるかを捉えるためのものではなく、一つのアイデンティティを持つひとりの人間が、危機的事態の中、新たなアイデンティティをどう作るのかという、状況が流動的な中でのアイデンティティ形成を論じるための概念だと思います。つまり、「n地域論」は、運動を捉えるためのものだと思います。山室信一の「国民帝国」論について、「敗戦と植民地喪失によって崩壊するものとしてだけではなく、その形態ゆえに被支配地域が独立するにあたって国民国家という形態を採らざるを得なかった」(134頁)と言い、それに「n地域論」が当てはまるとしていますが、これも少し違うのではないかと思います。旧帝国の崩壊と、中国、朝鮮、台湾などの国民国家の形成は、旧帝国と繋がっていたような地元の権力者や支配層が国民国家を求めているということであり、それは民衆の意向とは必ずしも重ならないということだと思います。民衆の中には、こうした「n地域」的な民族形成がもっと豊かにあったのではないでしょうか。

 豊かな地域像を提供する論文ですが、一方で権力との対抗における地域の持つ意味に関しては議論から抜け落ちていると思いました。そして、「生活空間」としてどう広がっているのかが見えないという指摘がありましたが、この点がもっとも重要だと思います。寄せ場や路上生活者の存在は、従来の形でアイデンティティを描けない人々が存在することを示しています。そうした人々、国民国家に重ならない人々の生活圏を、改めて「地域」の議論の中でどう捉えるのか、これは重要な問題だと思います。

南塚:国民国家の枠だけでは世界の歴史は語れないのだというそれぞれの論点は理解できますが、世界史として見た場合、どうなのでしょうか。著者は、世界史に一定の動きがあるから、それが地域という実体を変容させてゆくのだと言いたいのでしょうね。でもそれは明示されていないのではないかな。さらに逆に、変容する地域から見た「世界史」はどのようなものなのだろうという疑問も湧きます。こういう点が、「講座 世界歴史」の論文として求められているのではないでしょうか。

渡邊:続いて、南塚さんに、長谷川貴彦さんの「現代歴史学と世界史認識」を取り上げてもらいます。

南塚:この論文は、おもに20世紀に入ってから「現代歴史学」の展開した欧米における歴史学・世界史の「作法」=方法を時代別に整理し紹介しています。

 まず「現代歴史学」に至る前に、19世紀には、①政治史の方法による世界史がランケなどによって構成され、②経済史や社会史による世界史がマルクス主義や近代化論によって構想されたとまとめ、ついで「現代歴史学」においては、世界史をめぐる「作法」は以下のように展開してきたと整理しています。

 ③ポストモダンの言語論的・文化論的転回は、「個別の断片化したミクロでローカルな事象に関心を集中させた」。

 ④ポストコロニアルは文化論的転回を受けて、ヨーロッパ中心主義批判(ヨーロッパの地方化)などの貢献はあったが、基本的にミクロ化を受け継いでいて、「大きな物語」を回避する傾向があった。

 ⑤グローバル・ヒストリーがこのミクロ化を批判して出てきた。これには「トップダウン型」と「ボトムアップ型」があるが、後者のグローバル・ヒストリーでは、ミクロな文化史が統合されてきている。

 ⑥それでも、このグローバル・ヒストリーも進歩主義やヨーロッパ中心主義を乗り越えることはできず、ビッグ・ヒストリーやディープ・ヒストリーにそれを乗り越えることが期待されている。

 このように欧米での世界史の最新の「作法」の変遷をきれいに整理して紹介しているわけです。そして、「終わりに」において、日本については、以上の欧米の歴史の「作法」がタイムラグを持って「受容」されてきているとしています。

 非常に明快な議論なのですが、いくつか疑問を感じます。

 何よりも初めに疑問に思うのは、ポストモダンとポストコロニアルが世界史認識とどういう関係にあるのかという点です。ここが明確になっていないのです。とくに「文化論的転回のなかでの世界史認識を提供してくれている」のがポストコロニアルだとの事ですが、結局はポストコロニアルは「大きな物語」を回避しているとされているのですね。

 次の疑問は、ここで言われている「現代歴史学」には属さないけれど、実際に世界史を書いた人たちは問題にならないのかということです。カー、ホブズボウム、マクニールなどは、「現代歴史学」には属さないけれど、重要な成果をあげている。最近のベイリは、ポストモダンやポストコロニアルを取り込みつつ、グロ-バル・ヒストリーを掲げているけど、ホブズボウムなどを基礎にしているわけです。上の①から⑥まで最新の「作法」が次々と推移してきているように論じられていますが、実際に世界史を構想する際には、①から⑥までの「作法」は重層的に重なっていて、①を捨てて②へ、②を卒業して③へ、などという具合にはいかないのではないかと思います。①や②は乗りこえられて無くなったのではありません。乗り越えられたとするために、かえって①や②が不十分に理解されているのではないでしょうか。ちなみにランケやマルクスらの理解には違和感があって、ランケはたんなる「民族の興亡史」ではありませんし、マルクス自身は「一国的な継起的な諸段階」を構想したのではないのではないでしょうか。

 もう一つの疑問は、日本での「受容」という問題です。過去にもヨーロッパの世界史の「作法」を日本で「受容」してきましたが、近年については、まだであるとされているようです。ここに示された欧米での「現代歴史学」の世界史認識の最新の「作法」を「受容」して、日本でも世界史を構想しなさいと聞えます。しかし、19世紀は別として、戦後は、一方的な「受容」ではなく、日本ないしは東アジア独自の観点からの世界史の構想も試みられてきたのではないでしょうか。上原専禄や江口朴郎等によって提起され、それの継続発展も試みられていると思います。読者としては、日本での世界史実践はどういう世界史認識のもとにどう展開してきて、それは欧米の世界史認識とどのように関係するのかという逆の議論もしてほしかったところです。

 全体として、欧米の先端的議論の礼賛のようにも見えてしまいます。1950-60年代の欧米礼賛が、2000年代に復活しているのではないでしょうか。全体的にポストモダンの風潮の元でのグローバル化のなかで、旧来の世界史の見方が「古臭く」なったように見えて、新奇な理論というか新奇な議論が注目されている。そういう議論が欧米で次々と打ち出されて、それらが「輸入」されて来ているのだと思います。そういう時代なのだろうけど、それをまた「受容」するというのもどうでしょうか。これまで何をやってきたのかというふうにもみえます。

 さて、この論文を『世界史とは何か』を考える本巻の中でどう読むべきなのでしょうか。率直な感想は、これは、小川論文と同じように、自分で世界史を構想し記述した(しようとする)人の話ではないなということです。

小谷:私は、執筆陣にある偏りがあるように思います。小川論文の後半、長谷川論文、粟屋論文、三成論文など、取り上げている文献がかなり重なります。つまり学説史に関しては、ある考えを共有しているような印象があります。方法論的にはそうでないかもしれませんが。

南塚:第一巻として「世界史とは何か」を我々に投げかけているのですが、この後講座が続く中で、どのような指導性を発揮するものなのだろう、という疑問を持ちました。

渡邊:こうしたシリーズにおいては、第一巻の意味は非常に大きいと思います。

小谷:第二シリーズでは、第三シリーズの第一巻のような内容は、別巻に出ています。そうした形の方が良かったのかもしれません。

渡邊:今回、第一巻としたのは、執筆陣の共通理解とする意図があったということでしょうか。それはともかくとして、「問題群」論文をまとめていかがでしょうか。

小谷:長谷川論文は、「問題群」論文に入るべきものではないように感じます。小川論文の後半部の延長上にあるように思われるからです。また、大塚久雄の「横倒しの世界史」という亡霊のようなものが出て来るのには、驚かされました。

南塚:私もこの部分の理解には疑問を持ちました。

4. 「焦点」論文

渡邊:次に「焦点」論文に移ります。まず、吉岡潤さんの「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解」を、山崎さんにお願いします。

山崎:この論文は、体制転換後ポーランドにおける、数々の「歴史論争」の展開を題材に、ヨーロッパにおける歴史認識の分断の様を明らかにしたものです。社会主義体制の解体後に、新たなナショナル・ヒストリーの構築と、「ヨーロッパ・スタンダード」からのそれへの批判が同時並行で進む中、社会主義時代におけるものを含めた三つの「規格」を設定して、それぞれの主張、力学の遷移を分析の対象にしています。三つの「規格」とは、すなわち、「ソ連規格」(社会主義期の公式の歴史叙述)、「民族の規格」(抑圧されていたナショナル・ヒストリーが再構築されたもの)、「EU規格」(普遍的価値、善隣関係の強調)の三つになります。80年の戒厳令をめぐる第一次「過去をめぐる戦争」(90年代)により、「ソ連規格」が排除され、円卓会議をめぐる第二次「過去をめぐる戦争」(00年代初頭)により、「EU規格」と「民族の規格」が対立、後者が大きな力を持つに至ります。そしてその後「法と公正」政権下に、「民族の規格」が力を持ち続けているということになります。そして、こうした過去の政治資源化は、ヨーロッパで広く見られるものであると指摘されています。

 歴史認識をめぐるこうした変化は、社会主義体制下に置かれていた東欧諸国ではある程度普遍的に見られるものだと思います。ただ、ここでいう「規格」間の力関係は、過去のあり方(特に第二次大戦中)や体制転換後の政治過程を反映して、多様でもあると思われます。また、歴史認識をめぐる問題は、多くの地域で、歴史教育の問題と絡めて取り上げられることが多いと思いますが、本稿では歴史教育に関しては、記述の対象となっていません。故になおのこと、歴史教育との関係には関心を惹かれました。また、近隣諸国との「歴史家対話」なども契機たりうるものだと思いますが、ポーランドの場合、そうした試みが歴史認識に何らかの変化をもたらしたのかも知りたい点です。そもそも人々の歴史意識は、どのように形成されるものでしょうか?公教育、家庭教育、各種メディア・・・。インターネット・コミュニケーションの発達した現在、歴史意識が共有される回路も多様化していますが、このことは問題に影響を与えうるものでしょうか。論文の最後に、「道義上の動機」に留まらず、「現実政治上の動機」から、「和解」への道を開くべきであると述べられているのですが、では、具体的にどのような戦略が成り立つのか、考えてゆかなければならない点だと思います。

小谷:ポーランドに即してみれば、いささか図式的には感じられますが、分かり易いものだと思います。

南塚:ドイツ・ポーランド間の歴史教科書問題なども出てくるのかと思いました。

渡邊:次に進みましょう。「焦点」論文から取り上げる二本目は、笠原十九司さんの「東アジアの歴史認識対立と対話への道」です。小谷さん、お願いします。

小谷:笠原論考に書かれていることに、私はまったく異論はありません。以下の二点は笠原論考にかかわる個人的感想です。一つは、サンフランシスコ平和条約に関わる朝鮮人(・韓国人)・台湾人に対する「戦後補償」あるいは「救済政策」の欠如の問題です。これがすべての問題の根底にあると思います。すなわち、朝鮮人・台湾人BC級戦犯、従軍慰安婦・徴用工、朝鮮人・台湾人被爆者などの問題です。これらの点には触れるべきではないかと思います。

 もう一つは、東アジアにおける現実政治と歴史研究の間の乖離の問題です。日本における歴史研究において、グローバル・ヒストリーやトランスナショナル・ヒストリーといったことが喧伝される中で、東アジアの現実政治の場ではナショナル・ヒストリーが圧倒的な力を持っています。この両者の乖離について少しでも理論的に考察する努力が求められているのではないかと思います。「国境の越え方」を考える前に、国境が厳然と存在するという状況の中で何ができるのかを考えることが求められているのではないでしょうか。例えば、「国境論」(「固有の領土」批判を含めて)は有効性を持つのではないかと思います。

藤田:シベリアに取り残された朝鮮出身者や、サハリンに残された日本人として扱われていた朝鮮の人々、北朝鮮への帰国者と同行した日本女性で朝鮮籍を取りながら日本国籍の回復が認められずに無国籍状態となった人々の問題があります。そうした点を盛り込むことができれば、まさに世界史となるのだと思います。

小谷:中国残留孤児と異なり、北朝鮮残留孤児の問題は完全に盲点になっていますね。

南塚:東ヨーロッパも東アジアも、国にとどまらずもっと広く議論を進めても良かったかもしれません。

渡邊:次に、勝山元照さんの「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る」について、藤田さんお願いします。

藤田: 2006年、世界史未履修問題の発覚、「高校生にとり世界史は暗記地獄」の現実が問題化したのをきっかけにはじまった世界史教育改革の取り組みは、2018年新高等学校学習指導要綱(新指導要領)によって、現行の高校地理歴史科は2022年度から日本史と世界史を一体化した「歴史総合」と「地理総合」(各二単位)必修、「世界史探求」・「日本史探求」・「地理探求」(各三単位)から選択履修の新制度への変更に決着しました。新しい高校歴史教育の方向性には、小川幸司さんら世界史現場教師の[知識詰め込み型]学習の克服・モノトーンな学習形態の是正という反省とあらたな授業構想が反映しており、勝山元照さんは新制度を「生徒の市民としての自己形成に資する『自分の頭で考え、自分の言葉で表現する』歴史学習の実現にある」(307頁)として評価し、神戸大学付属高校における「歴史総合」授業の取り組みや自らの授業プランを紹介しています。

 神戸大付属高校の「歴史総合」授業は「主題的単元学習」とよばれ、「二つの世界大戦」など6つの単元を設定して単元ごとに、課題の設定→歴史的展開→主題学習(生徒自身による考察と同一意見の生徒の班ごとにさらに検討を重ねて班の意見を発表し他の班と質疑討論する)の形で進行し、段階ごとに学習テーマが提示されています。グローバル(世界)・リージョナル(東アジア)・ナショナル(日本)・ローカル(神戸)の四層の視点からなる「歴史総合」の工夫もされており、諸事項を学習した生徒たち自身の歴史解釈を試みさせようとする「歴史総合」の授業は、受講生から「共に学びあえる」「面白い」「深い」との評価を得た点では成功でありました。しかし「二つの世界大戦」の単元における諸事項や主題学習における「戦争を回避できた時点」のテーマ設定を見る限り、この授業は戦争と民衆の関連を問う歴史より国際政治学的考察が勝っている感が否めません。ここには「これまでの歴史教育が戦争の原因・経過・結果ばかり教えてきたことを反省し、回避する選択肢はあったのか、暴力に抵抗する方法はあったのかなどといったことについても考えてみたほうがよい」(65頁)との小川さんの反省が反映しています。しかし小川さんの反省には戦争関連の様々な民衆資料が乏しかった頃の困難さが影響しており、民衆資料が多様で豊富になっている上に、世界中の人びとが境界を超えて移動し、働き、交流しているなかで戦争が民衆を様々な形で苦しめると同時に民衆の抵抗も国家・民族を超えて多様な形で発展している今日においては、戦争と民衆の関係を真正面から問うことなしには現代史は不可能でしょう。

 勝山さんが自己の「歴史総合」プランにおいて、「現代のグローバル化の下で、孤独や不安を抱える生徒が増加しているが、生徒の内面世界と歴史学習との間には、ある種の隔たりが存在しており、この隔たりを克服し「自分ごと」の歴史に転換することは、歴史アマチュアとしての市民的形成にとって極めて重要である。生徒の知的好奇心のみに依拠せず、生活意識・社会意識と結びついた「歴史との対話」をどう実現するか」(317頁)と述べているのが注目されます。「歴史総合」科目の充実は現場教師の「世界の中の日本」についての認識の深化に掛かっているのです。

渡邊:第一巻全体を見ても、今までの議論を振り返っても、歴史教育の比重が非常に大きいのがわかります。個々の論点を深める「焦点」論文には、7つの論文がありますが、具体的に取り上げたのは3論文です。ジェンダー史や感染症の歴史学などを取り上げているその他の論文に関してはいかがでしょうか。

南塚:ジェンダー史に関しては、ポストモダンの中でどのように研究が進んで来たのかを明らかにしています。ジェンダーの視点が世界史の展開をどう理解するのか、ジェンダーの視点から世界史をどう構成するのか、といった点がきちんと整理されていると思います。ただ、ジェンダー論を基礎にすると、どういった世界史を描けるのか、世界史をどう変更させていくのかという点も、投げかけてもらえていればいいのだがと感じました。サバルタンに関しても勉強になりました。これはポストモダンの中で考えようという方向のものですね。これも、サバルタンの視点から世界の歴史を見るとどうなるのかが欲しいなと思います。

小谷:それならいいのですが、今のサバルタン研究はそういったものにはなっていないと思います。本来のサバルタン研究は、インドのマルクス主義歴史研究者たちの始めた民衆史です。途中から、アメリカのポストモダニスト、特にスピヴァクが関与してから性格が変化し、民衆への関心を失ってしまったと思います。

藤田:現在のコロナ禍の中で、非正規のシングルマザーたちが、失業、貧困から路頭に迷う。これは、ジェンダーの問題とサバルタンの問題を両方内包しています。タリバンの女性差別にも問題がありますが、タリバン自体がサバルタンの立場に置かれているのでもあります。加害者の中にも、ジェンダーの問題、サバルタンの問題がつながっているのです。そのように読み取ることが重要になっているのだと思います。

南塚:ジェンダーの問題、サバルタンの問題、まさに世界史の構造の問題だと思います。環境の問題に関しては、おそらくもう少しスケールの大きな議論が求められていたのではないかと思います。専門に埋没している感が否めません。飯島さんの感染症の論文に関しては、世界史という趣旨に合っていると思います。

渡邊:コラムに関してはどうでしょう。

木畑:コラムも吉嶺さん、川島さんなど高校の教員に数多く執筆してもらっています。

5. まとめ

渡邊:それでは、第一巻の総まとめを南塚さんにお願いします。

南塚:本巻の多くの論文がポストモダンを強く意識しています。このラインで、全体史としてどのような「世界史」が書けるのか、それを示してほしかったと思います。ポストモダンで世界史の部分的なものは書けます。しかし全体像にはなりにくい。それを克服しようというのがグローバル・ヒストリーなのでしょうか。この辺りの議論は長谷川論文で試みられているようですが、いま一つピント来ません。そのところは、本巻としてはどうなのでしょうか。

 例えば、ジェンダーについての章は、ポストモダンのもとでいかに研究が進んだかを示しています。ジェンダー視線の世界史的展開、ジェンダー視線から世界史を構成する場合の鍵となる論点が示されていて教えられました。しかし、全体史には行き着きません。ジェンダー視線からの世界史の見方をもう少し具体的に示せたら大いに参考になったはずです。同じことが、サバルタンの章にも言えるように思います。それに比べると、パンデミックの章は、大変示唆の多いものであったと思います。

 思うに、グローバリゼションと冷戦崩壊の後、世界的に見て、旧来の価値基準が壊れ、よるべき知的柱が消えてしまいました。混迷の時代です。そこへ、ポストモダン以下の思考様式が広がりました。そして、欧米を中心に、新しい歴史論、新奇な議論がつぎつぎと現れました。本書の論稿の多くはそれらを取り入れようということですが、欧米礼賛の復活でなければいいのですが。

 本巻は、1990年代以降、「世界史」の盛り上がりがあるとみているようです。というのなら、日本での「世界史」の取り組み(研究も教育も)はどう進んでいるのか、それは諸外国の動きとどうつながっているとみるべきなのかを、一方的に欧米の目から日本を見るというのではなくて、教えてほしかった。シリーズ『日本の中の世界史』(岩波書店)などのわれわれの動きは、どこに位置づけられるのでしょうか。われわれは、大塚久雄、上原専禄、江口朴郎、カー、ホブズボウム、ベイリなどのラインで世界史を考えてきているはずなので、「現代歴史学」から外れていることはたしかですね。

 最後に、本巻も、これまでの「岩波講座」と同じように、相互の連携のない独立論文の集積なのかと考えてしまいました。本巻のタイトルは、「世界史とは何か」なのだけれど、この巻は読者になにを訴えたかったのでしょうか。

小谷:確かにこの第一巻全体として、何を言いたかったのかは、わからないところがあります。

渡邊:袖の文章に、「専門家だけではない一般市民の歴史実践という観点から分析する」とあります。そうした分析ができているでしょうか。

小谷:その点が小川さんのもっとも言いたいことなのだと思います。歴史家だけが歴史を認識しているのではなく、一般市民も歴史実践をしているのだということです。この巻では、個別の問題を扱っていないのですから、具体的に分析しているわけではないですが。

南塚:一般市民の歴史実践が、世界史実践になるというのは、少し飛躍があるように感じます。ローカルな歴史実践、日本を単位にする歴史実践、世界単位の歴史実践には、どこか違うところがあるように感じるのですがね。

藤田:新宿で炊き出しをしている人々が、アフガニスタンの中村哲さんの姿と重なります。

南塚:それが世界史認識に繋がるのかもしれません。なお、世界史実践というとどうも歴史教育を念頭に置いて言われているようですね。今後の巻にも歴史教育の論文がありますね。

木畑:歴史教育を前面に押し出しているわけではありませんが、意識はしています。第一巻と第十一巻がペアになっています。この2冊が、「仕掛け」に関して扱っているものになります。第十一巻にも歴史教育の話がありますし、感染症に関しても第十一巻でも扱っています。

小谷:感染症に関しては、学習指導要領に取り上げられているのですね。

木畑:「歴史総合」の指導要領で感染症が扱われています。それが出されたのはこのコロナ禍が始まるより前の話です。

渡邊:最後に木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:第一巻の位置付けに関してですが、全体として、小川さんの言う歴史実践を意識しています。笠原さんの論文もそうですが、歴史対話や歴史教育に一つの柱があります。さらに最近のさまざまな議論をもとに幾つかの柱を打ち出しています。それがシリーズ全体の趣旨に適っているか、またそこから世界史が読み取れるか、この点はなかなか難しさもあるかもしれません。ただ、狙いとしては、こうしたものであったと理解しています。

小谷:歴史学研究の最新潮流を追う人たちと歴史教育に取り組んでいる人たちとの間には、かなりの乖離があると思います。

木畑:実際に、教科書には新しい動向はなかなか盛り込めません。ただ最後、勝山さんの提起している「戦争を回避する選択肢はあったのか」などは、ここから油井大三郎さんの『避けられた戦争』が生まれてもいるわけです。

渡邊:この先の巻にも興味深い点があります。世界史研究所として、各巻の内容にも注目して行きたいと思います。

 以上で「座談会」を終えたいと思います。皆さん、ありがとうございました。

(「世界史の眼」No.23)

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