1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)
稲野強

(1)はじめに

 NHK総合テレビで放映された昨年(2021年)の大河ドラマは、渋沢栄一の生涯を扱った「青天を衝け」だった。物語の後半で、吉沢亮演ずる渋沢が、上州(現、群馬県)富岡製糸場の生糸がウィーン万国博覧会で第2等の進歩賞を獲得したことを報じる新聞記事を居合わせた人々に大声で披露する場面があった。渋沢自身が設立に深く関与していた官営富岡製糸場の生糸が国際的な評価を受けたということだから、彼の喜びは、ひとしおだったろう。それどころか、この授賞の快挙は、それからほぼ140年後の2014年6月に富岡製糸場が「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録される際に、その選考で一役買ったと類推できるほど、現代の人々の記憶に深く刻まれている。

 ところで、この賞の価値をめぐっては、日本の研究者には、第2等賞では世界に通用しない、という否定的なものもあるが、大半は、富岡製糸場の生糸が初めて世界に認識され重要視される端緒になった、あるいは「トミオカ・シルク」の名をヨーロッパ市場に轟かせた、という肯定的なものだ。ただし、賛否両論いずれの場合でも、なぜか当時の世界的水準に照らしての賞の位置づけや賞の出し方、その性格付などに関してはこれまで不問に付されていた。つまり賞の価値が、どれほど実態に即したものかは、問われないまま「トミオカ・シルク」の優秀さが動かしがたい事実として独り歩きしたとも言える。

 では、そもそも賞を価値あるものとしたのは何かと言えば、それは何よりも万博のもつ権威である。現代でも数あるコンテストの価値が、主催者の権威に負うているのと同じである。そしてさらに万博での高い評価は宣伝行為によって、国内外で広められた。富岡製糸場の場合も例外ではない。ことに明治維新後間もない時期に莫大な費用をかけて政府が設立した官営富岡製糸場の成功譚は、やはり莫大な費用を使って参加したウィーン万博の権威によって支えられたからだった。

 そこで本稿は、ウィーン万博での賞の価値や出し方を、権威と宣伝をキーワードに解き明かすことを試みるが、それと同時に万博が19世紀に誕生した意味・背景、ウィーン万博の特徴について概略述べてみたい。日本の万博参加を世界史の中に位置づけるためである。

(2)万博とは何か

 万博は、19世紀半ばにおけるロンドン開催(1851年)に端を発した巨大で先進的な産業見本市であると同時に、物と人の国際交流の場であり、「ナショナリズムの世紀」における国威発揚の場だった。またそれは帝国主義的野心の発露であり、16世紀の大航海時代以来の絶え間ない海洋進出によってヨーロッパ資本主義が世界の隅々まで支配をしているという自負心を公に開陳し、文明と歴史の進歩を誇示する格好の場でもあった。

 一方、近代産業促進の側面から見れば、万博に各国各地域から出品された製品の数々は、いずれも当時の先端技術の粋を集めて競い合うものだから、参加者は、そこから産業水準を学び、発明発見のヒントを得、貿易の実を上げると同時に、否応なく世界の序列化を目の当たりにした。まさに万博は、物質文明によるヨーロッパの優位を執拗に可視化したもので、見る者を圧倒する一大イベントだったわけである。

 片や、建築家や芸術家にとって格好の表現の場だった。例えば建築家はここでは伝統に縛られずに、創造性を駆使して自由な設計に取り組むことができた。封建的・貴族的枠組みを脱却し、経済的裏付けによる自信たっぷりな新興ブルジョワジーの開放的で自立的な進取の気性に富んだ精神がこうした建築家や芸術家の波長に合致していたと言えよう。

 また、万博は一般大衆も観客として様々に参加できる娯楽性を備えた自由で開放された空間だった。そこで人々は、しばしば日常を忘れ、お祭り気分を味わい、幻想・夢の世界に遊ぶことができた。とりわけ創意工夫を凝らした各地域の文化・伝統を重んじた多種多様の「出し物」は、娯楽性に富み、未知の異国に対する興味を増大させ、人々のグローバルな世界観を養うのに大いに貢献したのである。

 このような物質文明を誇示した万博というイベントは、富と権力を備えた「王権神授的な」王室・帝室特有の権威によって、さらにそれを利用した宗主国・植民地を問わずあらゆる階層に存在する中小権力によって支えられていた。こうして万博はヨーロッパ中心主義を体現し、その価値観は、非ヨーロッパ世界にまで浸透することになった。万博で賞を得ることは、とてつもない栄誉であったが、同時にそのようにして構築された権威のシステムに進んで組み込まれ、西洋主義の「先兵」になることを意味した。

(3)ウィーン万博とは

 オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都ウィーンで万国博覧会が開催されたのは、1873年5月のことである。この万博は、ドイツ語圏で最初のものであり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位25年を記念して開催された。それはまた「ヨーロッパきっての名門」ハプスブルク家の威信をかけて、これまでのロンドン・パリでの交互開催にくさびを打ち込む意志の表れでもあった。

 まずウィーン万博の開催の歴史的背景を見てみると、19世紀後半のオーストリアの政治状況が深く絡んでいることが分かる。帝国内部では1848年革命を起点として、諸地域・諸民族による帝国からの分離運動が活発化し、それに対する反動として皇帝権威の復活を基礎とした、いわゆる新絶対主義体制(「バッハ体制」)の下で、中央集権化が図られた。だが、帝国は、外交・軍事的にはクリミア戦争での失態、イタリア、続いてプロイセンとの戦争での手痛い敗北を経て、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立で中東欧に新たな体制の枠組みを構築したものの、凋落傾向に歯止めをかけることができなかった。

 その意味で、万博は帝国内外の混乱状態を鎮静化させ、かつてこの多民族帝国を数百年にわたり保持してきた帝国の威信を取り戻す絶好の機会であった。既にこの時代、ハプスブルク帝国の威信の復活は、もはや幻想だったが、万博は、これまで維持してきた独特の皇帝崇拝ないしは王朝への尊崇の念を人々に喚起させる格好の機会でもあった。もちろん莫大な費用がかかる万博を主宰する政府=権力者の方も、国民大衆の政策に対する不満を祝祭の挙行で反らそうと考えていたし、あるいは万博をこの帝国固有の諸民族の一体化の証とすることを目論んでいただろう。

 また、都市改造の波も万博開催に一役買った。当時、帝国内外の不安定な政治状況下にあったとは言え、商工業の急速な発達にともない19世紀後半にヨーロッパ全体で起こった都市化は、この帝国をも巻き込み、大都市を中心に空前の建築ブームを引き起こした。それは史上「会社設立期(グリュンダーツァイト)」と呼ばれる時期に対応していた。ウィーンにおいてもすでに19世紀前半以来、人口の増加と企業活動の活発化によって市域は市壁に囲まれた従来の中世都市の枠を破って拡大していたから、市壁を取り壊し、そこに様々な建築物を新たに建てる試みがなされ、また都市交通網の整備が図られた。取り壊された跡に王宮を含む旧市街地(内市)を取り囲むリンクシュトラーセと呼ばれる環状道路ができ、その道路に沿って短期間のうちに大学、教会、オペラ座、宮廷劇場、国会議事堂、美術史美術館、新市庁舎や証券取引所が次々に建設された。それらの建築物の数々は、さながら建築様式の見本市の観を呈していたが、こうした都市改造ブームの延長線上に万博があったのである。

(4)万博会場

 万博の会場に選ばれたのは、ウィーン市の郊外、北西から南東に流れるドナウ川本流とドナウ運河に挟まれたプラータ―と呼ばれるかつての広大な宮廷の狩猟場で、当時は市民に開放されていた公園だった。その鬱蒼とした森を切り開いて充てられた約233万631平方メートルの敷地に大規模な会場を作り、市街地と結ぶ鉄道を敷設し、ドナウ川と共に人的・物的輸送手段を確保した。この万博に参加した宗主国は35、植民地や属領を含めると70か国ほどだった。

 万博の主要建築物としては、先端にハプスブルク家の王冠を戴いた高さ90メートル、直径100メートルの「ロートゥンデ」と呼ばれる巨大な鉄製ドームが建てられた。そしてそれを中心にして東西に延びる回廊の両側に16ずつの展示場を持つ産業宮が配置された。その構造は、あたかも世界地図を象徴しているとは言え、「ロートゥンデ」内では主催国オーストリアと隣接するドイツが展示場を占め、ドイツ系オーストリアこそが東西文明の接点であり、ここで東西文明が融合するというオーストリアの自負心が可視された。 

 そのため、オーストリアの西にある諸国は、「ロートゥンデ」の西側に、東にある諸国はその東側にあったから、回廊の最西端には南北アメリカとブラジルの展示場が配され、日本の展示場は中国、シャム(タイ)、トルコのそれと共に最東端に配されることになった。さらにこの会場ではパリの万博の例に倣って、産業宮の周囲に185棟のパビリオンが点在していた。参加各国・地域はパビリオンにおいて自国の伝統文化のイメージを強調できた。万博のショー化、娯楽的要素の拡大・多様化の様は創意工夫を凝らしたパビリオンによって可視化された。中でも中東、アジア、アフリカのパビリオンは、訪れた人々のエキゾチシズムを刺激し、人々は居ながらにして「世界旅行」を楽しむことができた。池に太鼓橋を架けた日本庭園に茶屋、鳥居と神社からなる日本のパビリオンも人気を博したひとつだった。

 展示場は、テーマによって大きく26グループに分かれ、さらに1グループが5から10のセクションに細かく分類されていた。セクションは全体で174あり、産業の情報交換、技術革新の様子がただちに理解されるようになっていた。

 万博の会期は5月から10月末までの半年間で、その間ウィーンでのコレラの発生や株の暴落、いわゆる「証券取引所の危機」で一時的には、万博どころではないという空気が社会全体を覆っていたようだが、それでも前回のパリ万博の1千万人には及ばなかったものの、722万人、当時のウィーンの人口の9倍弱の入場者を受け入れたのである。

 なお、万博開催中の6月3日に奇しくも岩倉使節団一行がウィーンに到着した。一行はすでに1年半にわたって米欧周遊中で、2週間の当地滞在中にしばしば万博会場を訪れている。佐賀藩出身の書記官久米邦武は『米欧回覧実記』の中で、会場があまりにも広く、見るべきものが多過ぎて、「華然タル光輝ニ心ヲ奪ハレ、精緻ナル妙工ニ神ヲ耗ス」と精魂尽きた様子を吐露しながらも、万博の意義についてこう述べる。「之ヲ要スルニ衆邦ノ億兆、其精神ヲ鐘メタル、英華ヲ擢テ、此内ニ陳列シタレハ、物トシテ珍ナラサルハナリ、奇ナラサルハナシ」と。そして周遊中に万博に巡り合った喜びを「幸ニ墺国ニ万国博覧会ヲ開クニ逢ヒ、其場ニ観テ、昨日ノ目撃ヲ再検シ、未見ノ諸工産ヲ実閲シタルハ、此紀行ヲ結フニ、大ヒニ力ヲ得タリ」と表現している。さらに彼は、万博を「太平ノ戦争ニテ、開明ノ世ニ最モ要務ノ事ナレハ、深ク注意スヘキモノナリ」と高く評価する。この「太平ノ戦争」の思いは、帰国後に開催される内国勧業博覧会で結実することになる。使節団一行は6月18日にウィーンを発ち、次の目的地スイスのチューリッヒに向かった。

(5)日本の万博参加

 さて、日本政府に初めてオーストリア・ハンガリー二重帝国政府からウィーン万博(当時の呼び方では、「維納万国博覧会」)への参加の要請があったのは、明治4年2月5日(明治5年まで太陰暦)だった。その後10か月以上熟慮した上で日本政府は12月14日には参加を決定し、大隈重信参議が、「博覧会事務総裁」に任命されたが、実際の万博準備に関する事務の総責任者は「博覧会事務副総裁」の佐野常民だった(後に日本赤十字社総裁)。彼は、大隈と同じ佐賀藩出身であり、1867年のパリ万博に単独で参加した佐賀藩の代表としてすでに万博を経験していた。だが政府としての万博参加は初めての経験だったために、万博の規模、出品物の輸送方法、展示方法を把握し、有効な出品物の選定、決定をどのように行うべきか非常に苦慮したようである。(その様子は、『大日本外交文書』の中の「外国博覧会参加ニ関スル件」や「維納博覧会ニ関スル件」に詳述されている)。

 万博への出品物を各地から収集するために、明治5年1月、太政官は全国に布告を発した。万博に日本が誇る伝統的な物産・工芸品を出品し、日本の産業の水準を世界の人々に認識してもらい、それを交易すれば国益が図られるといった点を強調することで国民に各地の物産を出品するように促したのである。

 また佐野は明治5月25日に博覧会理事官に任命された機会に、太政官布告に沿って万博に参加する目的を5点にまとめ、それを関係者に徹底させることにした。ここでは万博への参加が、諸外国の優れた産業技術・文化を吸収することによって、日本の経済的・文化的発展に役立て、また貿易促進のための研究・調査を行う好機と捉えられている(これは「伝習生」=技術者による技術習得で実を結ぶことになる)。だがそれと同時にそこには国際社会の仲間入りを果たそうとする積極的な姿勢が見られる。それに加えて日本の優れた点を積極的にアピールすること、日本の製品が勝れていることを評価してもらい、それによって貿易の実を挙げることが訴えられている。

 ただし、政府が発した意欲的な布告にもかかわらず、万博の主旨が一般国民に理解できなかったために各地の物産の収集は思うに任せなかった。結局出品物は政府がすべて買い上げることで収集が進められ、11月20日までには予定の収集はすべて終わった。出品物には、伝統的に優れた工芸品を中心に手工業製品や天然資源が選ばれ、幼稚な機械製品は極力排されることになった。興味深いことに、万博顧問格のアレキサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男)の発案で「西洋の」見物人の目を引くために東洋趣味的を強調した巨大な展示物が出品されることになった。そのために用意されたのが名古屋城の天守閣の屋根に輝いていた金の鯱、東京・谷中の五重塔の雛形、直径8尺の大太鼓、2間の提灯、張りぼての実物大の鎌倉の大仏だった。これらの出品物は集積された東京湯島聖堂大成殿で一般公開されたが、これは将来の博物館設立の原型となる記念碑的イベントだった。出品物は、1873(明治6)年1月30日〔明治6年から太陽暦〕に万博関係者が乗るフランスの郵船「ファーズ」号によって横浜港から運び出され、3月21日にアドリア海に面したオーストリアのトリエステ港に着いたのである。

(以下次号)

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg.durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.25)

カテゴリー: コラム・論文 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です