本書の著者山田篤美は本書に先行して、『真珠の世界史:富と欲望の五千年』(中公新書、2013年)を上梓し、真珠の歴史を広い世界的な視野と長い歴史的射程において描き出している。例えば、日本の場合をとってみれば、縄文遺跡から発掘された真珠から御木本真珠が世界を席巻するまでが扱われ、ペルシャ湾の大真珠産地については、ギルガメシュ叙事詩に描かれた真珠採りから、インドの仏教文献に出て来る真珠やイスラム世界における最高の宝石としての真珠が取り扱われている。そのうえで、16世紀以降の20世紀初めまでのヨーロッパにおける「真珠バブル」を「真珠狂騒曲」と捉えている。
それに対して、本書は「大航海時代」特に16世紀に焦点を当てて、真珠の「グローバル市場」が形成されていく過程とその構造を明らかにしようとしたものである。
この真珠の「グローバル市場」形成の契機になったのは、三つの大「真珠生産圏」(真珠の漁場、真珠採取地、真珠集散地の複合体)の形成あるいは発展であった。一つは南米ベネズエラ・コロンビア北岸(カリブ海南岸)で、二つ目はペルシャ湾岸、特にアラビア半島側、三つめはインド亜大陸とスリランカ(セイロン島)の間のマンナール湾岸である。これら三つの地域は、16世紀、スペインとポルトガルの進出に伴って、大「真珠生産圏」として発展し始めた。そして、これらの地域産の真珠がインド西海岸(アラビア海岸)のゴア(ポルトガルのインド総督府所在地)を「ハブ」として結びつき、真珠の「グローバル市場」を形成していったのである。
「南米カリブ海真珠生産圏」
南米カリブ海のベネズエラ・コロンビア海岸では、16世紀スペイン人が進出する以前から、現地民によって真珠の採取が大規模に行われていた。そこにスペイン人が目をつけたのであるが、そのきっかけとなったのはコロンブスが第3次航海で真珠を持ち帰ったことであった。その後、多くのスペイン人が南米大陸に向かい、真珠の採取業に乗り出した。スペイン王室もそれを後押しし、個人事業者の真珠採取業への自由参加を認めていた。
真珠採取は数メートルから10数メートルの海に潜り、海底の岩に付着している真珠貝をはぎ取るので、その労働力としての潜水夫の確保が最も重要であった。16世紀前半では、潜水に慣れていたバハマ諸島の現地民が主として使役されていた。彼らはしばしば「奴隷化」されていたので、著者はこれを「先住民奴隷制水産業」と特徴づけている。その後、16世紀後半になると潜水労働力が不足し、アフリカ人奴隷が潜水夫として使役されるようになった。「先住民奴隷制・黒人奴隷制水産業」の形態をとるようになったのである。
南米大陸産の真珠はスペインのセビリャに送られ、さらにヴェネツィアを中継して、ヨーロッパやアジアの各地に広がっていった。
「ペルシャ湾真珠生産圏」
1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団がインド西海岸(アラビア海岸)のカリカットに到着して、いわゆるインド航路を切り開いた。その後、多くのポルトガル人が喜望峰周りでインドに向かい、インド西海岸に要塞や商館を建設していった。1507年、後にポルトガルのインド総督となるアフォンソ・デ・アルブケルケはペルシャ湾口のホルムズ王国を征服した(その後いったん放棄し、1515年に再征服)。それは「ペルシャ湾真珠生産圏」の支配を目指すものであった。
ペルシャ湾は世界最大の真珠生産地で、特にアラビア半島側に多くの真珠漁場が存在した。中でも大きな漁場はバハレーン島であった。潜水夫は主としてペルシャ湾地域に居住するアラブ人であった。ペルシャ湾の真珠採取業では、真珠採取船は何カ月間も帰港することなく、真珠をとり続けた。そのために、潜水夫の多くは出漁中の家族の生活費として、船主などから前金の形で金銭を借りることが多く、その債務に縛り付けられていた。著者はこれを「債務隷属制真珠採取業」と呼んでいる。
16世紀、ポルトガルはホルムズ王国を征服することを通して、この「ペルシャ湾真珠生産圏」を支配することができたのである。ただし、ポルトガル人はスペイン人とは違って、自ら真珠採取業を営むということはしなかった。あくまでも、既存の「真珠生産圏」の上に網をかけるようにして支配したのである。
ペルシャ湾産の真珠はホルムズからイラクのバスラを経由して、西アジア・北アジアやヨーロッパの各地に送られるとともに、インド西海岸のゴアを経由してインド内陸部にまで運ばれた。
「マンナール湾真珠生産圏」
1520年代、ポルトガルは南インドとスリランカ(セイロン島)との間のマンナール湾に進出した。そのインド側沿岸にはカーヤルという町があり、真珠の大きな集散地となっていた。1530年代には、この地のヒンドゥーの真珠採り潜水夫がいっせいにキリスト教に改宗するということがあった。1542年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが教皇庁から派遣されて、マンナール湾の改宗キリスト教徒の保護や布教の任務に就いた。ザビエルは1944年まで約2年間マンナール地方に滞在した(途中一時帰国。1949年には、日本に赴任)。ザビエル以降、イエズス会の宣教師は教勢を拡大することよりも、キリスト教に改宗した真珠採り潜水夫を囲い込むことに力を注いだ。それによって真珠を獲得することができたからである。
1560 年、ポルトガルはマンナール湾のスリランカ側に位置するマンナール島を獲得し、ここに要塞を築いてマンナール湾一帯の行政中心地とした。これによって、ポルトガルは「マンナール湾真珠生産圏」を支配下に収めることができた。
マンナール湾では、春先と秋口の数カ月間、真珠の大規模採取が行われた。これには、キリスト教徒潜水夫、ヒンドゥー潜水夫、ムスリム潜水夫など極めて多数の人々が参加し、大きな一時的居住地が形成された。
マンナール湾産の真珠はチェッティなどのヒンドゥー商人によって、インド亜大陸各地に運ばれるとともに、ゴアを経由して世界各地にも搬出された。
真珠「グローバル市場」の特質
本書の眼目は、16世紀、真珠の「グローバル市場」がゴアをハブとして世界各地にスポーク(輻)を伸ばすという形で形成されたということを明らかにする点にある。
「グローバル市場」というと、オランダとイギリスが壮烈な抗争を続けた香辛料貿易などが念頭に浮かぶが、この場合は香辛料がアジアからヨーロッパへと一方的に搬出されるという形をとった。「グローバル市場」というと、このような非西欧世界から西欧への一方的な物資の流入というイメージが湧きやすい(例えば、新大陸産のジャガイモやトウモロコシ)。しかし、本書における真珠の「グローバル市場」はそれとはまったく異なり、世界中のさまざまな地域的市場が複合的に結びつき、真珠がその間を多方向的に動くという形をとっていた。
真珠の「グローバル市場」のハブであるゴアには、南米カリブ海産の真珠がリスボンやセビリャを経由して持ち込まれ、ペルシャ湾産の真珠はホルムズを経て、マンナール湾産の真珠はインド亜大陸の陸路・海路によってゴアにもたらされた。その他にも、インドネシア・フィリピン海域の真珠(これはアコヤ貝真珠ではなく、シロチョウ貝真珠)や中国(トンキン湾)産の真珠がマラッカを経由してゴアに運ばれていた。
ゴアには、ジャイナ教徒のバニアン商人、南インドのチェッティ商人などのインド商人だけではなく、中国やミャンマー、タイ、マラッカ、ジャワ、モルッカなどからも商人が集まっていたので、真珠はこれらの商人たちによってインド各地や中国、東南アジアなどに運ばれていった。また、ゴアにはアラブ商人、ペルシャ商人、アルメニア商人、ユダヤ商人などもいたので、真珠は彼らによってメソポタミア、トルコ、カフカス地方などにも運ばれた。
真珠を求めたのは主としてアジアやヨーロッパの王侯貴族や富裕層だったが、アジアではヨーロッパよりも真珠が高く売れたという。そのこともゴアを起点とする「ハブ・アンド・スポーク交易」形成の一因と考えられる。
このように、本書の功績は、真珠を素材として、非西欧世界から西欧へと一方向的に商品が流れるのではない「グローバル市場」の存在を明らかにしたことにあるということができる。
(「世界史の眼」No.34)