増谷英樹氏とオーストリア史
古田善文

1. 報告者と増谷さんの関係について

 まず増谷さんと私の関係についてお話しします。最初の出会いは、私が東京外国語大学のドイツ語学科3年生の時でした。その後、増谷さんの指導のもと、私は「オーストリアのファシズム」に関する卒論を執筆し、東京外国語大学大学院修士課程に進むことになりました。大学院在学中に私の指導教官はウィーン大学の交換教員として不在(1981〜83)となり、寂しい思いをしたこともありました。もちろん、このウィーン滞在で集められた数々の資料、特に大量のビラのおかげで、名作(1987)『ビラの中の革命』が生まれたことについて、異論はありません。

 修士終了後、私が他大学の大学院博士課程に進学したこともあり、増谷さんとはしばらく疎遠になっていましたが、2004 年以降、今度は獨協大学ドイツ語学科の同僚として10年間の年月を一緒に過ごさせていただきました。増谷さんは、獨協では特任教授として2004年から2010年まで、その後非常勤講師として2014年まで教鞭を取りました。この獨協時代に、増谷さんは通常授業、院生指導の他、2度のオーストリア史に関する「オープンカレッジ特別講座」の講師を努めています。さらに2007年には「ドイツと日本の移民、難民、外国人労働者」と称したインターナショナル・フォーラムの座長として、この催しの人選、企画、実行に多大な貢献をしています。この時の記録は有志舎から(2009)『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–––日本とドイツ/歴史と現状』というタイトルで出版されており、今でもその時の発表や議論の詳細を確認することが可能です。

 前置きが長くなりましたが、今日私が発題者としてお話ししなければならないのは、増谷さんとオーストリア史についてです。ご存知の通り、増谷さんの研究の土台がウィーン・1848年革命であることに疑いの余地はありません。しかしながら、増谷さんの関心は1848年とウィーンに限定されることなく地域的にも、時空的にも非常に多岐にわたります。この点について最もわかりやすいエピソードは、2004 年の東京外国語大学での最終講義でした。そこで語られたのはウィーン・1848年ではなく、何とブラジルのドイツ系移民社会についてでした(増谷さんは最終講義の直前の2003年末から04年初頭にかけて当時の同僚であった鈴木茂氏と、ブラジル南部ブルーメナウと周辺のドイツ系移民社会のフィールドワークに赴いています)。通常、最終講義の場では、積年の研究成果のまとめが語られることが多いのですが、あえてこれからの新しい研究の方向性を示唆する増谷さんの講義には私も度肝を抜かれました。このエピソードは、増谷さんの関心のあり方を理解するのに大いに役立ちます。常にアンテナを高く張り巡らし、もし興味をそそられるテーマや人間を見つけると、躊躇なくそちらに向かう行動力も増谷さんの特徴と言えるでしょう。実際、この最終講義を境にして、増谷さんの関心は、1848年革命を意識しつつも、新たに移民・難民問題にも向かうことになります。

2. ウィーンの1848年革命とユダヤ

 限られた時間で効率的に説明を施すため次の資料(図1)を提示させていただきます。これは増谷さんの主要研究業績の研究領域と私の推測に基づく増谷さんの関心の動きを大まかにまとめてみたものです。

図1

 この資料を見てまず気づくことは、増谷さんは最初からウィーンを研究の対象にはしていなかったという点です。まず増谷さんが関心を持ったのは、ドイツの大都市、特にベルリンの1848年革命分析でした。そこからウィーンの1848年に研究対象が変化した背景には、(1979)『<共同研究>1848年革命』執筆時に出会った良知力先生の存在が大きかったと推測しています。良知さんと増谷さんの信頼関係は、良知さんのご遺作、(1985)『青きドナウの乱痴気』の「あとがき」と、増谷さんの(1987)『ビラの中の革命』の「あとがき」の中にはっきりと見て取れます。増谷さんの言葉を借りれば、ウィーン滞在前に「僕のできなかったことをやってこいよ」という良知さんの言葉と、良知さんが増谷さんに渡した史料・文献類のカードのコピーは、良知さんの先駆的業績と合わせて、その後の増谷さんのウィーン革命史研究の発展を大きく後押しすることになったのでしょう。

 もちろん、良知さんの存在以外にも、1981年以降の最初のウィーン滞在中に出会った人たちが、その後の増谷史学の形成に大きな役割を果たすことになりました。特にウィーン滞在中に、初めて参加したリンツ会議の場で、増谷さんが「事実上の指導教官」西川正雄さんの紹介によって、自ら「革命史研究の指導教官」と呼ぶヘルバート・シュタイナー氏と知己の関係になったことも、その後のウィーン革命史研究の進展を確固たるものにしたと思われます。最初のウィーン滞在以降、ウィーン・1848年革命史研究が最後まで増谷さんの研究のメインストリームだったことは、この資料からも明らかでしょう。

 では増谷さんの1848年革命分析のカギは何かという問題が浮上します。みなさんもご存知の通り、それは革命の中のユダヤという存在になります。増谷さんは、(1984)『社会史研究』に発表した論文、「革命とアンティゼミティスムス」において、ウィーンのユダヤの居住区と職種によってユダヤの人々を「裕福なユダヤ」、「ユダヤ知識人およびユダヤ学生」、「プロレタリアートのユダヤ」という三つのグループに分類し、革命の中でのそれぞれの役割を緻密に分析します。この論文では、ウィーン市内区の「ブルジョア革命」においては解放の対象であったユダヤ教徒が、市外区の「プロレタリア革命」においては、一転して打倒の対象として考えられていたとする興味深い結論が実証的に導きだされます。さらに革命の見方として次のような重要な指摘もなされます。曰く、革命・反革命のヴェクトルで見た場合、革命の中においてその両方向に向きうる可能性を持っていた民衆の両義性の分析が、これまでは、民衆の革命性を強調するがために触れられて来なかった、という指摘です。

 このように1848年革命の分析の主題にユダヤを据え、さらにそこから1848年革命像の新しい見取り図を提供したという点において、増谷さんの研究は、ウィーン革命におけるスラブ系流入民の役割に着目した良知さんの研究を、さらに一歩進めたと言えるのではないか、と考えます。

このようにユダヤ問題への関心が深かった増谷さんですが、通例、ユダヤ人と呼ばれている集団を自分でどう呼ぶかについては色々と葛藤があったように思います。ちなみに、その変遷の跡を辿ってみましょう。

 まず(1984)『社会史研究』掲載論文の中ではユダヤ人と記述しています。(1987)『ビラの中の革命』でも同じくユダヤ人という呼称が使用されています。これに対して、論文集(1992)『感覚変容のディアレクティク』に掲載された論文では、ユダヤ教徒および改宗したユダヤ教徒をカッコ付きで「ユダヤ系」と形容しています。(1993)『歴史のなかのウィーン』に掲載された論文、これは前に紹介した『社会史研究』掲載論文の改訂版なのですが、ここでは以前使用していたユダヤ人を、ユダヤ教徒とカッコ付きの「ユダヤ人」という2つの言葉に使い分けています。その理由について、増谷さんは、「ドイツ語のJudenという言葉が、本来はユダヤ教徒を意味するにもかかわらず、それを使用する人によって意味している内容が違うからであって、その意味内容を汲んでのことである」と説明しています。同じ『歴史のなかのウィーン』の別の書き下ろし論文では初めてユダヤの人びとという呼び方も登場しており、1冊の本の中に複数の呼び方が混在するという状況が見られます。一方、訳本(1999)『ドイツ戦争責任論争』では、主題がユダヤを「民族」とみなすナチの強制労働政策のためか、カッコ付きの「ユダヤ人」が迷うことなく選択されています。

 さて、こうしたユダヤへのこだわりは2000年代に出版された一般の読者向けのオーストリア・ウィーン通史の中にもはっきりと見て取れます。増谷さんは(2011/2023)『図説 オーストリアの歴史』と、(2016)『図説 ウィーンの歴史』を上梓しています。そのうち後者の『図説 ウィーンの歴史』では、中世のユダヤの人々をめぐる生活実態と中世から近現代に至る反ユダヤ主義の変遷を、本文に巧みに織り込みながら整理しています。そうしたユダヤ関連の記述は本文、178ページ中、実に計20ページほどに及びます。

 ちなみに、この著作の5年前に出された『図説オーストリアの歴史』でもユダヤ関連テーマはコラムとして扱われていますが、そこでのユダヤ関連の記述は全部(135ページ)で7ページほどにすぎません。つまり、歳を重ねるにつれ、増谷さんの終生のテーマであるユダヤへのこだわりはますます強くなっていったのでしょう。

 とは言え、この2冊を読んで疑問に思った箇所も存在します。それは、ユダヤへの並々ならぬこだわりを随所に見せているにもかかわらず、何故、シオニズムについての記述が皆無なのかという問題です。『図説 ウィーンの歴史』で、ユダヤ関連記述が増えたことについては既に指摘しましたが、ユダヤの歴史ひいては世界の歴史のなかで重要な意味を持つと思われるウィーンのジャーナリスト、テオドーア・ヘルツルとそのシオニズム運動の起源に関する記述は、この2冊に登場することはありません。この点はどう説明されるべきなのでしょうか。シオニズムに関心がなかった訳ではないが、オーストリアに残るユダヤの人びとの状況分析と、彼らに向けられた反ユダヤ主義研究に主眼をおいた自分の研究スタンスのため、オーストリアからの国外脱出を目的とするシオニズムをとりあえずは研究対象外とせざるを得なかったのでしょうか。今となっては、残念ながら本人に確認することは叶いません。

 増谷さんの研究の主要領域と問題関心をまとめた先ほどの資料をよくみてみると、ユダヤの次に主要なテーマとなったのは、「国民国家」の相対化に通ずる「人の移動」あるいは「越境者」と呼ばれる人々に関する問題です。これとあわせて重要視されるべきウィーンという都市の構造をめぐる問題については、次の高澤さん、吉田さんのご報告と被ってしまう可能性があると思いますので、ここでは割愛させていただきます。

3. 「ヴァルトハイム問題」とオーストリア現代史について

 資料を見てみなさんもお気づきかとは思いますが、増谷さんのオーストリア史におけるユダヤや「越境者」と並んで重要なテーマとなっているのがオーストリア現代史に関するテーマです。具体的には、ナチ支配下のオーストリアにおける「土着的反セム主義運動」の問題と、その延長線上にある1938年3月のアンシュルス(独墺合邦)以降、アドルフ・アイヒマンによって進められたユダヤの財産収奪および追放モデル、いわゆる「ウィーン・モデル」の研究です。この論文(2002)「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)を今回改めて読ませていただきましたが、その中心的主張、つまりオーストリアの粗暴な「土着的反セム主義運動」(あるいは「民衆的反セム主義運動」、「野放しの反ユダヤ運動」)の存在こそが、ユダヤ追放計画の責任者であったアイヒマンに、合理的で秩序ある「解決法」を模索させた、という指摘はとても重要で興味深いものでした。

 オーストリアの戦争犯罪研究の一環として、さらに増谷さんは、第二次世界大戦中のユダヤおよび外国人労働者、ソ連兵捕虜に対する強制労働の問題にも取り組みます。その成果が、(2004)「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)という論文です。そして2007年の獨協大学インターナショナル・フォーラムにおける基調報告の中で、増谷さんはオーストリアの枠を超えてドイツの強制労働の事例にも踏み込んでいくのです。

 この時期、増谷さんが戦争犯罪研究に向かった動機ですが、私の考えではおそらく次の二つが関係していると思います。一つは、ドイツ・シュレーダー政権が立案し、2000年に連邦議会で可決された強制労働補償基金「記憶・責任・未来」設立の動きです。もう一つは、当時、ハーバード大学歴史学准教授であったダニエル・ゴールドハーゲンが、1996年に『普通のドイツ人とホロコースト:ヒトラーの自発的死刑執行人』を発表したことです。この有名な著作は、反響の大きかったドイツで新たな「歴史家論争」を引き起こすことにもなりました。周知のようにこの著作はドイツにおける「土着的反ユダヤ主義」とホロコーストの関係を大胆に論じたものです。現代史家なら誰でもこのゴールドハーゲンの著作をめぐる論争から大きな刺激を受けたと思いますが、増谷さんも同じで、ゴールドハーゲン論争は当時の東京外国語大学大学院増谷ゼミの検討テーマになったのです。そこで読まれたヴォルフガング・ヴィッパーマンの本は、当時の院生のみなさんと増谷さんによって(1999)『ドイツ戦争責任論争』という名前で訳出されています。

 そもそも、増谷さんが現代オーストリアの「土着的反セム主義運動」とは呼べないまでも、その前提となる「土着的反ユダヤ思想」の存在に気づいたのは、ゴールドハーゲン論争から10年ほど遡る1986年頃のことであり、決して90年代の新たな論争の登場を待っていた訳ではありません。具体的に増谷さんの目をこの問題に向けるきっかけとなったのが、1986年に勃発した「ヴァルトハイム問題」でした。これは、元国連事務総長のクルト・ヴァルトハイムが、1986年のオーストリア大統領選挙に保守派の国民党候補として選挙戦に臨んだ際、彼のナチ時代の「戦犯」としての過去が、アメリカの世界ユダヤ会議から暴露されたことに端を発する一連の騒動のことです。選挙戦への世界ユダヤ会議の介入に猛反発したオーストリア国民は、世界中から寄せられた激しいヴァルトハイム批判にもかかわらず、彼を自国の大統領に選出したのでした。これとの関連でオーストリアにおける現代の「土着的反ユダヤ思想」の存在が指摘され、さらにオーストリアの国民が戦争責任をすべてドイツのナチに押し付けることを可能にする戦後の歴史認識、いわゆる「犠牲者神話」のレトリックも改めて注目を集めることになりました。

 「ヴァルトハイム問題」が報道されると、どの局であったかは失念してしまいましたが、増谷さんは某民放テレビ局の緊急特番で専門家としてコメンテータを務めることになりました。あくまで私見ですが、この時の経験が、増谷さんの「ヴァルトハイム問題」およびオーストリア現代政治に対する関心をその後も継続させたのではないか、と密かに考えています。さらに増谷さんは、この問題についての所感を1989年に雑誌『人民の歴史学』にまとめます( (1993)『歴史のなかのウィーン』に再録)が、この頃から、増谷さんは「ヴァルトハイム問題」とならんで、オーストリアの極右自由党の党首に就任したイェルク・ハイダーにも強い関心を持ち始めます。ハイダーについての論説は『図説 オーストリアの歴史』内のコラム「ハイダー現象」で読むことが可能です。若干補足しておけば、この極右政党は元オーストリア・ナチ党員と支持者を中心にして大戦後に結成された「独立者同盟」をルーツの一つにしています。本年(2025年)1月初旬以降、この自由党が第一党として、歴史上初めてオーストリアの首相ポストを握りそうな現状を、増谷さんならどう分析して見せるでしょうか。

 増谷さんの研究業績をまとめた資料を見て、少々異質な存在に思えるのが(2015)『フリーメイソンの歴史と思想』というタイトルの翻訳書です。最初、私もこの本を訳した増谷さんの真意がどこにあるのかよくわからなかったのですが、今回、この報告に備えてもう一度増谷さんの著作を読み直してみたところすべてが腑に落ちました。同書の「あとがき」に公刊理由がはっきりと書かれています。

 「何度となく訪れているウィーンには、フリーメイソンの知人友人もいるが、僕の頭の中では、フリーメイソンは歴史的存在でしかなかった。しかし1990年代に極右排外主義者のハイダーの自由党が政治的に台頭してきたときに、それを批判し抵抗する運動の中心的存在をフリーメイソンが担っていたことを教えられた。」

 つまり、このフリーメイソン翻訳書はその裏で思いがけずハイダーおよび自由党ともつながっていたのです。

 以上みてきたように、増谷さんのオーストリア史への関わり方は実に多様でした。出発点である1848年革命とユダヤの他にも、ウィーンの都市構造、ウィーンのチェコ系流入民、フリーメイソン、両大戦間期の社会民主党市政「赤いウィーン」と労働者住宅、ナチス支配期のアイヒマンによるユダヤ財産の収奪とユダヤ追放計画、大戦中のナチによる外国人強制労働、「ヴァルトハイム問題」および戦後オーストリア国民の歴史認識と残存する「土着的反ユダヤ思想」、極右自由党を中心とする現代オーストリア政治、などがオーストリア関連の主要テーマとして挙げられます。その他にも、ドイツにおけるゴールドハーゲン論争(あるいは戦争責任論争)から、広くドイツ語圏諸国の移民・難民・外国人問題を紹介した(2021)『移民のヨーロッパ史』まで、増谷さんが研究論文や専門書、あるいは翻訳書で残した成果は実に多岐に渡ります。

 増谷さんは、こうした様々なテーマをその都度都度の関心に沿って、あるいは必要に迫られて研究していたのでしょう。しかし、そうした一見無関係に見える個々のテーマは、増谷さんの中では当然のように深いところで繋がっている問題でもありました。私がそう感じているだけなのかもしれませんが、資料で示した矢印の流れを見る限り、増谷さんの関心の動きとテーマ同士の相互連動性が十分に理解できるのではないでしょうか。

4. 再びユダヤへ〜ウィーンからホーエンエムスへ

 最後に再び1848年革命とユダヤの話題に戻りましょう。新しい関心領域と次々に向かい合いながらも、増谷さんがその生涯で、最後の最後まで意識し続けた最大のテーマは、やはり、オーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究でした。晩年の2020年には『メトロポリタン史学』に60ページに及ぶ「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む –新発見の一八四八年革命史料–」を掲載し、1848年革命とユダヤの研究に対する情熱が依然として衰えていないことを、自ら証明しています。

 増谷さんにとって、この生涯をかけたテーマを研究する目的とは何だったのでしょうか。ご自身の言葉を借りれば、ユダヤ研究の最終目的は、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだすことにある、とされます。2013年に出版された『オルタナティブの歴史学』の座談会記録に残っている増谷さんの発言を使って説明すれば、どうやらそれは次のような意味なのでしょう。増谷さんは座談会の席上次のように述べています。

 一つ、自分の大きな研究方向は、ヨーロッパ自身がもっている極めてキリスト教的な社会のあぶりだしということにある。
 一つ、そして、この問題を最も深いところからあぶりだす上で、ユダヤというものが鍵になる。
 一つ、ユダヤを弾圧し続けていく歴史がキリスト教ヨーロッパの歴史であるわけだが、ヨーロッパというものを考えていくには、そうしたユダヤの側から見ていくことが非常に効果的である。

 この言葉の中にこそ、増谷史学の核心が端的に見て取れるのではないでしょうか。

 いずれにしても、編集者をして「なぜそんなにユダヤにこだわるのですか?」と言わしめるほど、増谷さんのユダヤへのこだわりは最後まで強いものでした。今回、この懇談会の直前に増谷さんのPC 内から未発表原稿「ホーエンエムスのユダヤ」が見つかりました。そこにはウィーンではなく、スイスと国境を接するオーストリア西部のフォアアールベルク州のユダヤの人びとと当地の反ユダヤ主義の歴史が、ホーエンエムスのユダヤ博物館が発行したカタログに依拠しつつまとめられていました。さらに、草稿には増谷さん独自の鋭い分析も併記されていました。ご家族のお話しによると、この3万字を超える草稿は、どうやら2015年の半年間におよぶウィーン滞在後に書かれ始めたようです。これまでに報告者が得た情報を整理してみると、この原稿は2011年に公刊された『図説 オーストリアの歴史』の増補改訂版追加コラム用の原稿として想定されたものだったようです。しかし、2023年に実現した増補改訂版には、増谷さんの体調悪化もあり、残念ながらこのコラムが掲載されることはありませんでした。つまり、体調が万全であれば、増谷史学の根幹をなすオーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究は、考察の舞台をオーストリア東部の大都市ウィーンから西部地方の小都市へと移しつつ、さらなる理論的広がりと厚みを増していたのではないでしょうか。

 増谷さんの分析によれば、ウィーンの宮廷ユダヤとは異なり、ホーエンエムスのユダヤ住民は、その活発な経済活動を通じてアジアや新大陸とも通商関係を持っており、支配者から招請された17世紀初頭以来、当地の市民とは比較的良好な関係にあった、とされます。さらに、増谷さんはウィーンとの比較の中で、反ユダヤ思想の現れ方の違いについても以下を重要な差異として指摘します。

 「ユダヤに対する敵対的思想や運動の現れ方も、当然ながらウィーンおよび東方と異なる傾向を持つ。ウィーンという都市が社会歴史的に多民族都市として、特に東方のスラブ系ないしハンガリー、ルーマニアなどの諸『民族』との関係が強く、19世紀には彼らとの様々な問題を抱えていたことにより、ウィーンの住民の自己意識、他者認識は強く民族意識に支えられ、反ユダヤの発想や運動も明らかに民族主義的な色合いを持っていた。シェーネラーなどの運動が、ドイツ民族主義的傾向を持ち、ユダヤを民族主義的に位置づけ、さらには人種主義的に差別しようとする傾向が強くみられるのはある意味で必然とみられる。それに対し『ホーエンエムスのユダヤ』は住民との融合が進んでいた御蔭で、民族的ないし人種的に位置づけられることはすくなかったと考えられる。」

 つまり、この「ホーエンエムスのユダヤ」研究は、先ほど紹介した増谷さんのユダヤ研究の最終目的、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだす上で、これまでの研究ではあまり考察されることがなかった両者の「融合」の可能性を理解するための重要な素材を提供してくれるのではないでしょうか。こうした新たな研究の方向性が示されたにもかかわらず、道半ばでその可能性が閉ざされたことは本当に残念でなりません。

参考文献

増谷英樹「革命とアンティゼミティスムス ウィーン・一八四八年」『社会史研究』日本エディタースクール出版部1984所収
良知力『青きドナウの乱痴気』平凡社1985
増谷英樹「世紀転換期のウィーン 都市社会構造の変化と文化」『感覚変容のディアレクティク』平凡社1992所収
増谷英樹『歴史のなかのウィーン』日本エディタースクール出版部1993
増谷英樹「大都市の成立 –一九世紀のウィーンと流入民」歴史学研究会編『講座世界史4  資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会1995所収
伊藤定良/増谷英樹編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会1998
ヘルバート・シュタイナー(増谷英樹訳・解説)『1848年ウィーンのマルクス』未来社1998
ヴォルフガング・ヴィッパーマン(訳者代表 増谷英樹)『ドイツ戦争責任論争』未来社1999
増谷英樹「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第4号 2002所収
増谷英樹「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第6号 2004所収
増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–日本とドイツ/歴史と現状』有志舎 2009
増谷英樹/古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社2011(2023増補改訂版)
増谷英樹/富永智津子/清水透『21世紀歴史学の創造6 オルタナティブの歴史学』有志舎 2013
ヘルムート・ラインアルター(増谷英樹/上村敏郎訳・解説)『フリーメイソンの歴史と思想 –「陰謀論」批判の本格的研究』三和書籍2015
増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社2016
増谷英樹「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む–新発見の一八四八年革命史料 –」『メトロポリタン史学』第16号2020所収
クラウス・バーデ編(増谷英樹/穐山洋子/東風谷太一監訳)『移民のヨーロッパ史 ドイツ・オーストリア・スイス』東京外国語大学出版会2021
増谷英樹「ホーエンエムスのユダヤ」2015?未発表草稿
Hanno Loewy (Hrsg.), Heimat Diaspora. Das Jüdische Museum Hohenems, Hohenems 2008

(「世界史の眼」No.60)

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