増谷さんのお仕事を都市史の視点から語る、というのが、今回、私と吉田伸之さんに託された役目です。吉田さんは、2015年に都市史学会で「増谷英樹氏のウィーン研究に学ぶ」という会を企画され、報告をしておられます。都市史については吉田さんがこの後、詳しくお話しになると思います。私からは、増谷さんの二冊のご本、『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』と『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』を再読し、あらためて学んだことを短く話させていただきます。
まず個人的なことです。私は、最初に大学院の優しい先輩であった増谷直子さんと知り合っておりました。直子さんのパートナーとして英樹さんの存在を知った私が、増谷さんのお仕事といつどのような形で出会ったのか、考えてみました。評判の高かった87年の『ビラのなかの革命』を読んだあたりか、となんとなく思っておりましたが、今回、時系列を整理してみると、おそらくその前、84年に、『社会史研究』第5号に発表された「革命とアンティゼミテスムス ウィーン・1848年」を読んだと思います。説明するまでもありませんが、阿部謹也、川田順造、二宮宏之、良知力が編集同人として1982年に創刊された『社会史研究』は、歴史学の新しい動きを代表する雑誌で当時の大学院生、とりわけ西洋史の院生にとっては毎号、目の離せない雑誌だったからです。先日、川田順造さんが亡くなられ、同人であった方たちは全員、鬼籍に入ってしまわれました。個性的な同人たちは毎号の末尾にあった「不協和音」という欄に文章を書いておられました。「不協和音」というのは言い得て妙で、私たちはこの欄から社会史の捉えがたさや型にはまらぬ広がり、それが故の可能性を感じ取っていたものです。ともあれ、増谷さんの論文が『社会史研究』という媒体に発表された、ということで、私は、都市史という枠組ではなく、むしろ社会史的なアプローチによる48年革命研究として増谷さんのお仕事にまず出会ったように思います。ちなみに『社会史研究』の創刊号には、良知さんは「女が銃をとるまで 1848年女性史断章」を書いておられます。
今回、この論文が収められた『歴史のなかのウィーン』(日本エディタースクール出版部、1993年)と『ビラのなかの革命』(東京大学出版会、1987年)を読みなおし、都市ウィーンをフィールドとすることは、増谷さんの歴史学にどのような特徴を刻んでいるのかを考えてみました。
第一に強く感じたことは、増谷さんの都市史は、都市の微細な具体相を凝視しつつ、同時に都市を舞台とした48年革命を通して「近代」そのものを世界史的に思考する、いわば思考の拠点としてのウィーン史である、ということです。この二冊の本で増谷さんは、ウィーンのヨーロッパのなかでの位置とその役割を押さえた上で、19世紀に至るまで市門と城壁に堅固に囲まれた都市の空間構造を詳らかにし、その二重、ないしは三重の空間構造が階層、民族、言語などを異にする社会構造と対応している19世紀ウィーンの姿が明らかにされます。さらに、こうした空間/社会構造の析出が、出来事としての48年革命の分析に接続され、市内区の「ブルジョワ革命」と市外区の「プロレタリア革命」という形で48年革命の複合性が解き明かされていきます。そして、こうした分析に立って、「 ・・・「出来合の近代」の思想は、民衆の近代と対決することによって、その内実を与えられ、そして民衆の近代を抑圧していくことによって、それを実現していくものである」(同、p.248)と「出来合の近代」と「民衆の近代」の対抗という大きな見取図が示されるに至ります。「その否定された諸々の「近代」の中にこそ、現代にまでつながりうる様々な課題を見出す事ができる。」(『ビラのなかの革命』p.253.)という文章は、増谷さんの問題意識を鮮やかに示しているわけですが、一つの都市社会への沈潜と世界史を往還するこのダイナミズムが増谷さんのウィーン研究の大きな特徴であり、魅力であると、あらためて感じた次第です。言説分析からいきなり大きな構図を論じたり、あるいは緻密な実証に終始したりしがちな私達は、今一度、先達の仕事に立ち返る必要があると痛感いたしました。
第二は、ビラという史料とこれを読む増谷さんの視点についてです。1981年秋から2年間の在外研究に出た増谷さんは、ビラという史料群に出会った時のことを次のように語っておられます。
「・・こうして当時実際に街中で配られ読まれたビラを読み、その現場に立って考えてみることによって、革命のイメージは一変し、これまで匿名の群れとして動いていた民衆が、一人一人名前と表情とを持った者として現れ、1848年のウィーン革命は彼らのもの以外ではありえなくなってしまった。そうしたビラの中から民衆の革命を掘り起こし、そこから革命の意味をもう一度考え直してみることが本書の課題となった。」(同、p.257)
この一節は、社会的属性に還元されない固有名詞を持った一人一人の存在へ肉薄した増谷さんのウィーン研究が、ビラという史料との出会いによって生まれたことを余すところなく語っています。増谷さんがビラの中に見出した人びとは、頭で考えるだけでなく、肉体を持った存在、つまり高い家賃に苦しみ、お腹を空かせ、歌い行進する人間たちです。同時に雇い主たちに「おまえ」ではなく「あなた」と呼ぶようにと自らの矜恃にかけて迫る人間たちです。働き、闘う多様な女たちの姿もそこには刻まれています。増谷さんは、民衆の日常生活を描くこうしたビラが民衆自身によって書かれたテクストではないことをしっかりと押さえたうえで、ビラを読み上げ、共有する実践過程が革命期に人びとの共同意識を作り出す側面があることを指摘しておられます。ビラを単に現実の痕跡を留めたテクストとして読むだけでなく、ビラの能動的機能といいますか、受け手たちに働きかけアイデンティテイを創造する機能に着目しておられるわけで、現在読んでも極めて刺激的な史料論がここでは展開されています。
さらに史料としてのビラから増谷さんが掴み出したのは、経済的な搾取の仕組みとそれに抵抗する人びとの姿だけではありません。ウィーン社会に複雑に張り巡らされた蔑視の構造、つまり市外区の民衆の反セム主義をも見事に炙り出しています。現在まで根深く残り、さまざまに形を変えて再生産される差別や憎悪に照準を当てて両義的な民衆像を浮き上がらせ、そこから48年革命に迫ろうとした増谷さんの視点と方法は、現在も輝きを失ってはいません。むしろ、ガザとウクライナの戦火の行方が定まらず、憎悪を煽ることで様々な価値が無価値化しかねない危うい現在こそ、私達は、増谷さんの残してくれた書物を繰り返し読み、学ばなければならないように思うのです。
増谷さん、本当にありがとうございました。
(「世界史の眼」No.60)