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なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか
山田篤美

はじめに

 古代ローマのプリニウスは、『博物誌』第9巻において「貴重品の中でも第一の地位、最高の位が真珠によって保持されている」(中野定雄他訳)と記し、最後の巻にあたる37巻では「純粋で単純な産物に戻ることにして、もっとも高価な海の産物は真珠であり、地表にあるものでは水晶であり、地中にあるものではアダマス(ダイヤモンド)、スマラグドゥス(エメラルド)、各種の宝石、そして蛍石の器である」(同)と述べている。この後、プリニウスはシナモン、琥珀、乳香、象牙、べっ甲など様々な高価な物に言及し、「あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜わらんことを」(同)と締めくくっている[1]

 一方、10世紀前半のスィーラーフ出身のアブー・ザイド・アルハサンは『中国とインドの諸情報―第二の書』の中で次のように述べている。

 インドと中国の海は、「海中に真珠と竜涎香あり。その岩礁に宝石と黄金の鉱山あり。その海獣の口に歯牙あり。そこに生育する植物に黒檀、蘇芳木、ラタン、沈香木、竜脳香、ニクズク、丁香、白檀、その他のすべての良質の美味な香料類あり……かくの如くに、その海の神の恩恵は余りにも多すぎて、その一つひとつを数えあげることは誰にも不可なり」と譬えられている(家島彦一訳、()の文言を優先して掲載)[2]

 興味深いのは、プリニウスもアブー・ザイド・アルハサンもさまざまな貴重な交易品を列挙する中、真珠を冒頭に置いていることだろう。このように古今東西の一次文献をひもとくと、真珠が重要視されていることを示す文言に出会うことは少なくない。

 それにもかかわらず、真珠は歴史研究の多くの分野で見過ごされてきた。特に次の二つの点で看過されてきた。第一に、ヨーロッパ人やアジア人などほとんどの民族が追い求めた高価で希少な交易品としての真珠の意義である。第二に、真珠のとれる海域の経済的重要性である。天然真珠時代、真珠はどこの海でも採れるわけではなく、むしろ真珠が採れる海域は限られていた[3]。別の海域への真珠貝の移植は早くから試みられたが、真珠貝は生育条件が難しいため、それほど成功しなかった[4]。つまり真珠の採れる一部の海域が真珠の海として存在し続けてきたのである。真珠が希少で高価な品ならば、その真珠を育む海域は富の生まれる場所といえるだろう。それゆえ沿岸部や遠方の政治勢力などがその真珠の海に進出し、海域支配を試みてきたことは想像に難くない。しかし、そうした視点から真珠の海の経済的重要性や地政学的重要性が論じられることはほとんどなかった。こうしたことをふまえ、本稿では真珠看過の理由について考えてみたい。

従来の歴史研究の傾向

 真珠は時代をリードした著名な研究でなぜか見過ごされていることが多い。一例を挙げると、アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』では真珠は交易品として論じられていない[5]。東南アジアの海域は、アコヤ真珠貝やクロチョウガイ、シロチョウガイなど今日の真珠養殖の主要な真珠貝であるピンクターダ属の発祥の海域と見なされている[6]。真珠貝の豊かな海域の交易研究でも真珠や真珠貝は看過されてきたのである。

 古代日本に目を向けると、『魏志倭人伝』には卑弥呼の後を継いだ壱与が中国に白珠五千孔などを献上したことが記されている。「白珠五千孔」はおそらく通糸連となった白い真珠と考えられる。天然真珠時代、真珠5000個はたいそうな量であった。それだけの量を集めるには多くの海人と真珠貝が豊富な海域が必要であるが、真珠が日本のどの海域で採取されたのかという観点から邪馬台国が論じられることはあまりないように思われる[7]

 こうした事例に見られるように、真珠や真珠の海域の重要性は十分認識されてこなかった。インド洋海域史や古代日本史だけでなく、西洋史や東洋史の多くの分野、グローバルヒストリーや近代世界システム論、海人研究などの民俗学の分野でも真珠は取り上げられていない場合が少なくない。

 その一方で、真珠の重要性を認識していた研究者も早くから存在する。日本で家島彦一が、真珠採集とそれをめぐる人間の動きがインド洋海域世界の歴史展開に大きな影響を及ぼした可能性を指摘し[8]、佐々木達夫はペルシア湾岸のジュルファル遺跡の交易港としての繁栄と真珠採取との関連性を議論している[9]。保坂修司は天然真珠時代のペルシア湾の真珠採取の実態を明らかにし[10]、筆者自身も『真珠の世界史』(中公新書)で真珠の重要性を論じてきた。最近では小谷汪之が「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」を発表し、南洋諸島における真珠産業を石川達三の著作などを通して論じている[11]。海外ではエンリケ・オッテのLas perlas del Caribe やR. A. ドンキンのBeyond Price; Pearls and Pearl-Fishingなどをはじめ、重要な研究は少なからず存在する[12]。2019年には近現代のインド洋世界の各海域の真珠史を扱った論文集Pearls, People, and Powerが上梓された[13]。近年、真珠史研究の隆盛の兆しもあるが、大勢として真珠が歴史研究で看過されてきたことは否定できないだろう。

真珠看過の理由

 なぜ真珠は重視されてこなかったのだろうか。それにはさまざまな理由があり、それらが複合的にからんでいるが、筆者自身は以下に述べる理由があると考えている。

 第一に、真珠という物品の特殊性だろう。真珠は高価で小さなモノであり、アジア社会では伝統的に金銀と交換されてきた換金商品であった。隠匿、密輸、過少申告が流通形態の主流を成し、真珠の売買では相対取引となる場合も少なくない。オリエント世界における真珠や宝石の相対取引では、取引税や関税を避けるため、売り手も買い手も一言も発せずに、特定の指を押すことで値段の交渉を行う「サイレント・バーゲニング」という手法もよく使われた[14]。こうした秘密裏の取引決済は、金銀などによる即決の現金決済が一般的で、領収書を残さない。つまり真珠の取引は、売り手も買い手も黙したまま、多くの金銀が密かに動くインフォーマルな取引であった。実証が難しい真珠や宝石の流通は、アーカイヴ・リサーチを重視する歴史研究から概して抜け落ちることになったと考えられる。

 第二の理由は、1970年代から80年代以降、歴史学の大きな潮流となった世界システム論などにおける農業や生活必需品重視の傾向だろう。ウォーラーステインの近代世界システム論などでは、主に農業に基づくヨーロッパ資本主義の発展というテーゼに基づいて、陸地に根差した農業生産や鉱山開発に関心が置かれる一方で、宝石やスパイスなどの「奢侈品」全般は重視されていない。ウォーラーステインは「奢侈品の交易は……大西洋世界の発展といった壮大な事業の背景としては弱すぎるし、そこから『ヨーロッパ世界経済』の生成を説明するのは無理だと思われる」(川北稔訳)と述べ、「長期的にみれば、奢侈品よりは基礎商品ステイプルの方が、経済活動をより強力に推進する」(同)と説明している[15]。このように経済発展の観点から奢侈品は過小評価されるようになった。農業重視は水産業の軽視の裏返しでもあるが、それは漁業が沿岸部の漁民が魚を釣って自分で食べる自営的で局所的な産業と見なされたからではないかと筆者自身は考えている。

 真珠看過の第三の理由は、従来の歴史研究が一国史研究であったことにも関係するだろう。一国史研究だと国民国家の中の陸地における歴史の様相をとらえた叙述となりやすい。そのため国と国の間の海域やその歴史は必然的に捨象されてきた。しかし、水産資源を生み出す海域があれば、国境とはかかわりなく、湾岸部の住民が海の富を享受する共通の漁撈文化を発達させたことは容易に理解できる。真珠史研究は沿岸部のどこか一地点だけというよりも沿岸部における漁撈文化の共通性や海域支配の在り方といった広域俯瞰で考える必要があるが、一国史研究ではその広域俯瞰がなされてこなかった。

 他方、近年の歴史研究では、海域を人間の活動領域の主舞台と見なす海域史研究が盛んになっている[16]。ただ、そうした海域史の領域では海域を移動の場とする海上交易や交易圏に主眼が置かれており、海から富を引き上げる真珠採取などの水産業についてはあまり関心が示されていないように思われる。

日本の真珠養殖業の発展が真珠の特徴を大きく変える

 こうした理由に加え、筆者自身が真珠看過のもうひとつの重要な要因と考えているのが、20世紀初めに日本人が世界で初めて成功させた真珠養殖業の発展が、真珠の価値、大きさ、色、形、生産方法、産地などを大きく変えたという事実が十分認識されていないことである[17]。言い換えると、今日、天然真珠を採取している国はバハレーンを除くとほとんど存在しないため、天然真珠時代の真珠貝の生態、真珠採取の在り方、生体物としての真珠の特徴を多くの歴史研究者が理解できなくなっていることにも要因があると思われる。

 まず養殖真珠の大量生産は、天然真珠の希少性を失わせ、価格を暴落させたため、それによって真珠は20世紀初めまで宝石として扱われてきた高価で希少な品であり、権威や富を示す威信財であったことが一般に忘れられてしまった。真珠史研究をしていると、真珠は宝石ですかという質問を受けることは少なくない。

 次に真珠養殖業は、真珠のサイズを大きくしたため、天然真珠時代の標準の真珠は二級品の小さな真珠と見なされるようになり、重要視されなくなったことが挙げられる。天然のアコヤ真珠は直径3ミリ程度から5ミリ台、6ミリ台が標準であり、直径1~2ミリのアコヤ真珠も「ケシ真珠」として商品価値をもっていた。遺跡の発掘調査などで真珠が出ても、小さな真珠は十分な考察の対象にならず、その後、行方不明になっている場合などもある[18]

 今日では真珠は直径であらわされるが、天然真珠時代、真珠はグレーン(0.05グラム)やカラット(0.2 グラム)などの重量で、しばしば合算されて示された。真珠をグレーンやカラットなどの重量で聞き、その真珠の大きさや価値を理解できる歴史研究者はどれくらいいるだろうか。ちなみに1グレーンの真珠は直径3.32ミリであり、1カラットの真珠は直径5.23ミリである[19]

 さらに、先述したように、かつては一部の海だけが真珠を生み出すことができたが、真珠養殖業における垂下式筏の発明によって、今日ではかつて真珠が採れなかった海域でも真珠が養殖できるようになった。そのため天然真珠時代には真珠の採れる海域は限られていたという事実が十分認識されておらず、真珠の採れる海域の希少性や経済的重要性、ひいては真珠の海が誘発した海域への進出やその支配の実態が見過ごされてしまったといえるだろう。日本人が発明した真珠養殖業があまりに成功したため、それが逆に天然真珠の重要性を曇らせてしまったといえるかもしれない。

 日本人特有の理由としては、日本人は伝統的に真珠や宝石よりも古い茶碗や陶磁器を好んできた歴史がある。こうした点はすでに16世紀のオランダ人リンスホーテンなどが指摘しているところである[20]

おわりに

 以上述べてきた種々な理由によって真珠は歴史研究では忘れられたテーマとなってきた。したがって、真珠を加えて歴史を見るとまた別の様相が見えてくる可能性がある。

 筆者自身は、貴金属とスパイスの観点ばかりから大航海時代が語られることに疑問があり、この時代に真珠を加えたいという思いをもっていた。それが研究動機となり、アコヤ真珠の採れるペルシア湾、マンナール湾(インドとスリランカの間)、南米カリブ海の三つの海域における16世紀史を長年研究してきた。大航海時代に真珠を加えた時、そこから見えてきたのはヨーロッパ人による水産業の重要性であった。南米ではスペイン人が先住民やアフリカ人を潜水労働に使役する奴隷制水産業を発展させており、真珠を介した大西洋奴隷貿易が16世紀前半にすでに形成されていた。マンナール湾岸ではフランシスコ・ザビエルらイエズス会がインドの真珠採り潜水夫を囲い込み、ポルトガル海軍も出動して彼らに真珠採取を行わせた。真珠採取の水産業は自営的で局所的ではなく、世界の諸地域を関連させるグローバルなものであった。宣伝めいた記述となり恐縮であるが、こうした研究成果をまとめた拙著『真珠と大航海時代』(山川出版社)がこの11月に発刊されたので、興味がある方はご覧いただければ嬉しく思う。

 真珠は歴史研究では人々が思う以上に見過ごされてきたテーマだった。したがって、真珠から歴史を見ると、あまり知られていない歴史的事象が浮かび上がることが少なくない。真珠史研究はまだまだテラ・インコグニータといえるだろう。真珠の歴史やその研究に関心を持つ人が増えてくれればと考えている。


[1] プリニウス(中野定雄他訳)『プリニウスの博物誌』(雄山閣出版、1986年)、第1巻415頁、第3巻1542頁。

[2] アブー・ザイド・アルハサン(家島彦一訳)『中国とインドの諸情報―第二の書』(平凡社、2007年)、85頁。

[3] 山田篤美『真珠の世界史』(中央公論新社、2013年)、8∼17頁。

[4] アレクサンダー・フォン・フンボルト(大野英次郎他訳)『新大陸赤道地方紀行』(岩波書店、2001年)、上巻164頁。

[5] アンソニー・リード(平野秀秋他訳)『大航海時代の東南アジア』(法政大学出版局、1997年・2002年)。

[6] 正岡哲治他「アコヤガイ属の系統および適応放散過程の推定」猿渡敏郎編『泳ぐDNA』(東海大学出版会、2007年)、24∼25頁。

[7] 山田『真珠の世界史』、27∼33頁。

[8] 家島彦一『海が創る文明』(朝日新聞社、1993年)、155頁。

[9] 佐々木達夫「ペルシア湾と砂漠を結ぶ港町」歴史学研究会編『港町と海域世界』(青木書店、2005年)、269~296頁。

[10] 保坂修司「真珠の海(1・2)――石油以前のペルシア湾」『イスラム科学研究』第4号(2008年)、1~40頁、第6号(2010年)、1~31頁。

[11] 小谷汪之「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』(上・下)」及び「補遺」『世界史の眼』( 3月 | 2022 | 世界史研究所Reserch Institute for World History (riwh.jp)4月 | 2022 | 世界史研究所 Reserch Institute for World History (riwh.jp) )

[12] Enrique Otte, Las perlas del Caribe (Caracas: Fundación John Boulton, 1977); R. A. Donkin, Beyond Price: Pearls and Pearl-Fishing (Philadelphia: American Philosophical Society, 1998).

[13] Pedro Machado et al. eds., Pearls, People, and Power (Athens: Ohio University Press, 2019).

[14] François Pyrard, The Voyage of Francois Pyrard of Laval, trans. Albert Gray (New York: Cambridge University Press, 2010), vol. 2, pp. 178-179, note 1.

[15] I. ウォーラーステイン(川北稔訳)『近代世界システム(1)』(名古屋大学出版会、2013年)、32頁。

[16] 家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会、2006年)、1~7頁

[17] 日本の真珠養殖業がいかに真珠の特徴を変えたかについては、山田『真珠の世界史』、172∼191頁を参照。

[18] 筆者がある埋蔵文化財センターで体験したエピソードである。

[19] 真珠の重量と大きさについては、G. F. Kunz and Charles Hugh Stevenson, The Book of the Pearl (New York: Dover Publications, 1993), p. 328を参照。

[20] リンスホーテン(岩生成一他訳)『東方案内記』(岩波書店、1968年)、255∼256頁。

(「世界史の眼」No.33)

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日本における「食べ物の世界史」、の歴史
倉金順子

はじめに

 「食」、それは人間の生活においてさまざまな意味を持ちうる。何よりも生命維持活動に必要不可欠である。また、料理の美味しさは味覚を通じて精神的な満足をもたらす。食事の機会は家族の団欒や社交の場ともなり、非日常と日常、すなわち「ハレ」と「ケ」とを区別する。食品は商品となり、売買されることで経済を支え、物質的な豊かさを生むこともできる。そして、2010年11月ユネスコ無形文化遺産に「フランスの美食術」などが登録されたのを契機に、「食」にナショナルシンボルとしてだけでなく、国際的に認可されたナショナルな文化価値としての意味付けもされる傾向も見られるようになった。2013年12月には日本の「和食」が、2022年7月にはロシアによる侵略を受けているウクライナの「ボルシチ料理の文化」が登録されたのも記憶に新しい。

 したがって、「食」に関する学問分野も、食生活、食文化、特定の食品、料理、外食産業、などといった研究対象も多岐に渡っている。人類学の分野においては、1980年代に人類学者のシドニー・ミンツが『甘さと権力』において、砂糖が外国由来の贅沢品からありふれた必需品へどのように変化したのか、また、特に英国での食文化や食生活にどのように影響したのかを紹介した[1]。ただし、歴史学の分野において研究されるのは、比較的最近のことであったようである。西洋史学者の南直人によると、アナール学派が20世紀になってから一般の人々の生活を研究対象とするようになったものの、当初は「食」に関しては研究するに値するテーマとみなされていなかった。1996年にアナール学派のジーン=ルイス・フランドランとマッシーモ・モンタナーリにより、ヨーロッパを中心とした古代から現代に至るまでの『食の歴史[2]』という論文集が刊行されてから、ようやく研究テーマとして注目されるようになったという[3]

 本稿では以下、「序説」的に、20世紀以降日本で出版されてきた書籍を対象として、「食」、その中でもとりわけ特定の食材および食品に関する歴史について、その変遷と傾向を追ってみたい。

はじまりは嗜好品、そして調味料の歴史

 あくまでインターネット上で関連したものを検索して確認できた中ではあるが、最も古い関連書籍は1975年に出版された古賀守の『ワインの世界史[4]』である。古賀は、他にも『文化史のなかのドイツワイン[5]』(1987年)など、ドイツやヨーロッパのワインについての著作があり、ワインの世界史・地域研究において日本では先駆者的存在である。

 ワインの次に登場したのは、1980年に出版された経済史学者角山栄の『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会[6]』である。角山は同書のあとがきにて、次のように語っている。

 民衆の日常生活のもっとも身近なものをつうじて歴史を見直す、いわゆる「社会史」「生活史」が最近西洋でも日本でも歴史家の関心を集めている。

(中略)こうした作業をつうじてはっきりわかったことは、近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開に、茶が想像した以上に大きな役割を演じたということである[7]

 角山は「日常生活のもっとも身近なもの」である茶について、文化としての側面のみならず、世界市場における商品としての側面にも目を向けた。1980年頃の時点ですでに、「食」とグローバルな経済史との関わりが描かれていたのである。それから5年後には、松崎芳郎による『年表茶の世界史[8]』(1985年)も出版されている。

 このように、1970年代頃以降、ワイン、茶といった世界中で親しまれている嗜好品の歴史に注目が集まりはじめたことが見受けられる。そして1980年代後半になると、リュシアン・ギュイヨの『香辛料の歴史[9]』の翻訳書(1987年)、砂糖に焦点を当てた前述のミンツ『甘さと権力』の翻訳書(1988年)、そしてR. P. マルソーフの『塩の世界史[10]』の翻訳書(1989年)と調味料の歴史が相次ぐ。なお、ミンツ『甘さと権力』や、イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム[11]』の翻訳者である川北稔は、『砂糖の歴史[12]』(1996年)も手掛けている。ミンツ、川北ともに、カリブ海におけるプランテーションの展開、奴隷制度、三角貿易、そしてイギリス産業革命と、砂糖を通じた近代以降のグローバルヒストリーを描こうとしており、そこにはウォーラーステインが提唱した「近代世界システム論」にもどこか通底するものが見えてくる。

 嗜好品の歴史に話を戻すと、ドイツ文学者の臼井隆一郎の『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液[13]』(1992年)、マーク・ペンダーグラストの翻訳書『コーヒーの歴史[14]』(2002年)と、コーヒーもテーマとして取り上げられるようになった。

さまざまな食材・食品の歴史へ

 少し時代が進んで2010年代に近づくと、伊藤章治『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」[15]』 (2008年)を皮切りに、対象となる食材および食品の幅はますます広がる。これまでと同様にワイン、コーヒー、茶の歴史も扱われている[16]が、社会学者武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石[17]』(2010年)や人類学者山本紀夫編著『トウガラシ讃歌[18]』(2010年)と、嗜好品や調味料についてますます取り上げられてきた一方、ダン・コッペルの翻訳書『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命[19]』(2012年)と、ジャガイモに引き続きバナナという特定の食品についても着目されている点が、注目に値する。

 なお、2012年には、原書房から「お菓子の図書館」シリーズ、2013年には「『食』の図書館シリーズ」が開始され、『アイスクリームの歴史物語[20]』や『パンの歴史[21]』をはじめとして、2022年10月現在合計84冊ものバリエーション豊かな「食」の歴史の翻訳本が出版されている。その中には食品だけでなく、『カレーの歴史[22]』(2012年)や『サンドイッチの歴史[23]』(2015年)、『ピザの歴史[24]』(2015年)など、料理の歴史も取り上げられている。また、今年2022年には『昆虫食の歴史[25]』も出版され、ロシアによるウクライナ侵略に象徴されるような今後も起こりうる世界規模の食糧危機に際し、近年注目されはじめている食材にも焦点を当てているのは、時代を反映しているようで大変興味深い。

おわりに

 以上、食材および食品について、過去約50年間の主に和文の関連書籍の出版の歴史をたどってみたが、嗜好品からはじまり、香辛料、特定の食材および食品、そして料理と、その対象の重点化や拡大といった相応の傾向を示すことができたと思う。特に2010年以降出版数の増加が顕著になっていることを最後に強調しておきたい。筆者の考察に基づくならば、これは、ユネスコ無形文化遺産に「食」に関連する項目が次々と登録されるようになった時期と重なっており、多少なりとも影響があったはずである。

 食材・食品の数だけ歴史があり、その多くが一つのナショナル・ヒストリーにとどまらないグローバルなヒストリーを展開していることは明白である。しかしながら、一方で、それぞれの著者の興味・関心を含む現在地を起点として、色眼鏡を通して映った「世界」においての歴史として語られがちではないだろうか。さらに言うならば、それぞれの著者の仮説に到達するまでの歴史を書き上げていく試みとなっているのではないだろうか。ともすると、例えば角山が『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会』を書き上げた上で言及したような、「近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開」を出発点に考えるという前提ありきとなっていないだろうか。食べ物の世界史と向き合う際は、常にそのような点を意識する必要がある。


[1] シドニー・W. ミンツ著、川北稔・和田光弘訳『甘さと権力―砂糖が語る近代史』平凡社、1988年。(Mintz, Sidney W, Sweetness and Power: the Place of Sugar in Modern History, New York: Penguin Books, 1985.)

[2] J―L.フランドラン、M.モンタナーリ編、宮原信、北代美和子監訳『食の歴史 I-III』藤原書店、2006年。(Montanari, Massimo; Flandrin, Jean-Louis, eds. Histoire de l’Alimentation, Fayard, 1996.

[3] 南直人著『食の世界史:ヨーロッパとアジアの視点から』昭和堂、2021年、i-ii頁。

[4] 古賀守著『ワインの世界史』中央公論社、1975年。

[5] 古賀守著『文化史のなかのドイツワイン』鎌倉書房、1987年。

[6] 角山栄著『茶の世界史』中央公論社、1980年。

[7] 角山、前掲書、222-223頁。

[8] 松崎芳郎著『年表茶の世界史』八坂書房、1985年。

[9] リュシアン・ギュイヨ著、池崎一郎・平山弓月・八木尚子訳『香辛料の歴史』白水社、1987年。

[10] R. P. マルソーフ著、市場泰男訳『塩の世界史』平凡社、1989年。

[11] I. ウォーラーステイン著、川北稔訳『近代世界システム――農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立(I-II)』岩波書店、1981年。

[12] 川北稔著『砂糖の歴史』岩波書店、1996年。

[13] 臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』中央公論社、1992年。

[14] マーク・ペンダーグラスト著、樋口幸子訳『コーヒーの歴史』河出書房新社、2002年。

[15] 伊藤章治著『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」』中央公論新社、2008年。

[16] 例えば、以下のような書籍が挙げられる。

山本博著『ワインの世界史』河出書房新社、2010年(その後改題、加筆修正され、『ワインの世界史:自然の恵みと人間の知恵の歩み』日本経済新聞出版社、2018年)。

ジャン=ロベール・ピット著、幸田礼雅訳『ワインの世界史:海を渡ったワインの秘密』原書房、2012年。(Pitte, Jean-Robert, Le désir du vin à la conquête du monde, Fayard, 2009.)

山下範久著『教養としてのワインの世界史』筑摩書房、2018年。

ビアトリクス・ホーネガー著、平田紀之訳『茶の世界史:中国の霊薬から世界の飲み物へ』白水者、2010年。

小澤卓也著『コーヒーのグローバル・ヒストリー:赤いダイヤか、黒い悪魔か』ミネルヴァ書房、2010年。

旦部幸博著『珈琲の世界史』講談社、2017年。

[17] 武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』中央公論新社、2010年。

[18] 山本紀夫編著『トウガラシ参加』八坂書房、2010年。

[19] ダン・コッペル著、黒川由美訳『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命』太田出版、2012年。

[20] ローラ・ワイス著、竹田円訳『アイスクリームの歴史物語』原書房、2012年。

[21] ウィリアム・ルーベル著、堤理華訳『パンの歴史』原書房、2013年。

[22] コリーン・テイラー・セン著、竹田円訳『カレーの歴史』原書房、2013年。

[23] ビー・ウィルソン著、月谷真紀訳『サンドイッチの歴史』原書房、2015年。

[24] キャロル・ヘルストスキー著、田口未和訳『ピザの歴史』原書房、2015年。

[25] ジーナ・ルイーズ・ハンター著、龍和子訳『昆虫食の歴史』原書房、2022年。

(「世界史の眼」No.32)

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)
南塚信吾

II 多様な「万国史」の中で:明治14年まで(1870年代) 

 整備された文部省と明治5年(1872年)に出された学制のもとで「万国史」が積極的に出版された。明治6、7年から明治14年の政変までの時期は、それまでに支配的だったパーレイ的な見方とは違った「万国史」が出て来た。明治14年以後は「文明史」的な「万国史」で一色になるので、明治6年から14年までの時期は、パーレイ的でもなく「文明史」的でもない「万国史」が登場する非常に面白い時期である。

1. 作楽戸痴鶯訳編『万国通史』文部省 明治6-7年(1873-74年)

 まず最初に取り上げたいのは、作楽戸痴鶯訳編の『万国通史』である(これは国会図書館デジタルコレクションにある)。本書はイギリスのヘンリー・ホワイトの『普遍史概説』(Henry White, Outlines of Universal History, Edinburgh, 1853)の翻訳と思われる。なお、ホワイトは、この前にElements of Universal History, Edinburgh, 1848も出していて、岡崎は『万国通史』はこちらの本の訳だとするが、定かではない。ホワイトは、ケンブリッジのトリニティ・カレジでB.A. ハイデルベルクでM.A. とPhDを取っていた。

 作楽戸痴鶯(さくらど ちおう)は、山内徳三郎の筆名である。山内徳三郎(やまのうちとくさぶろう)(1844年-没年未詳)は旧幕臣で、幕府直属の旗本伊奈氏家臣の山内徳右衛門(1802年-1868年)の四男として京都で生まれた。徳三郎の長兄に山内作左衛門(1836年-1886年)、その下の兄に山内六三郎(のちの堤雲)(1838年-1923年)がいる。徳三郎は、長崎に遊学する前、19歳の時(おそらくは慶応元年(1865年))作左衛門について樺太へ旅している。徳三郎は、長崎遊学で医学者のアントニクス・F・ボードウィンに学んだが、その意図は医学の修行というより語学と化学の習得に主体があったようである。徳三郎はのちに医学ではなく、鉱山の調査開発の技師、地質学者としての道を歩むことになる。徳三郎がどのような経緯で『万国通史』の翻訳をするに至ったのかなどについては不明であるが、他の訳に、『西洋英傑伝』全6冊(明治8年)もある。

最後列中央の長身の人物が徳三郎

出典:森望:「幕末志士たちの解剖学講義」 | 解剖学ひろば (anatomy.or.jp)

 『万国通史』の構成は、上古史を除くと、次のようである。

中古史

第一篇 野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る

第二篇 暗世中欧羅巴形勢の事

第三篇 中古時代有名なる各国の事

    東羅馬;日耳曼國;以太里國;西班牙國;欧洲北方國住民;佛國;不列顛島峡

近代史

第一篇 第一章 宗教改革の事

    第二章 宗旨改革同時代他の改革の事

第二篇 第一章 1688年の革命に至るまで大不列顛國の事を記す

   (第二章「革命後のイギリス」と第三章「第一革命までのフランス」が訳されていない。)

第三篇 第一章 日耳曼國の事を記す

    第二章 以太里國及び西班牙半島の事を記す

    第三章 ニーセルランドの事を記す

    第四章 魯西亜國及び北方諸國の事を記す

第四篇 第一章 東方諸国の事を記す

    第二章 亜墨利加の事を記す

    第三章 輓近欧州動乱の事を記す

 英語の原書と突合せたところ、歴史の初めについては、原書では「聖史」として聖書的に「創世」からローマ帝国までが述べられているが、訳者は専ら宗教に関することで「怪奇」なことも多いので、これを省略するとし、東方の諸国の歴史から述べ始めている。また、1688年革命(名誉革命)後のイギリスの歴史と「第一革命までのフランス」の歴史が訳されていない。しかし、この時期の普遍史としては、この『万国通史』は質の高いものであった。史実の記述の正確さのほか、これまでの万国史とは違って、ネイション単位の縦の歴史の並列ではないことが特筆される。

 ヨーロッパ東部で扱われているのは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであるが、各国羅列的には出てこない。時代ごとに他の地域との関係で東部のヨーロッパが扱われている。

◎中古史

 ヨーロッパの東部が出て来るのは、中古史からである。ここでは、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドが出てくる。

≪ハンガリー≫

 まずは、中古史第一篇「野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る」のところで、野蛮の一つとして「アッティラ」と「ハンガリー」が出て来る。曰く、「フンス(フン族)の王にして威武を轟したるアッチラと云う猛将」がハンガリー、魯西亜の過半、北方の日耳曼におよぶ國を領していたが、これに足りずさらに東ローマの領地までも入手した。その後、西羅馬を得ようとして、ハンガリーのペストに「府」を構えたところで「暴死」したとある(中編上 28-31頁)。つぎに中古史第三篇の第二章「日耳曼(ゲルマン)國」のところでは、シャルルマーニュの死後、ドイツにダニューブ川近隣の人民が乱入してきたが、この人民は「ハンスの子孫」と察せられたため「ハンガリー人」と呼ばれたと出て来る(中編中 33頁)。フン族の王アッティラがハンガリーを作ったという説を採っているわけである。

 1400年代になって、ハンガリーとヲーストリアとは婚姻によって、ハンガリー国王の位がヲーストリア人の手に落ちた。ヲーストリア人はその領土を自国のなかに混合しようとしたが、ハンガリー人は頑固にこれを拒否した(中編中 41-42頁)。ハンガリーの国王がハプスブルク家から継続的に出るようになるのはモハーチの戦のあった1526年からであるが、15世紀にも二代ほどあったので、これは間違いではない。

≪ボヘミア≫ 

 同じく「日耳曼國」のところで、1273年にハップスビュルグハプスブルク)のルドルフが、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)となったあと、ボヘーミアを攻めて、その王ヲットカルと戦闘、彼と和して、その地の領有を認め、それゆえルドルフはオーストリア、スチーリア、カリンシア、カルニヲラを領有したことが出て来る(中編中 37-38頁)。つぎに、ロクッセンビュルグ(ルクセンブルク)家のシギスモンドが1410年から1437年まで帝位にあった時のことが書かれる。この時、プラハのヤンハウス(ヤン・フス)と言う者ウイクリッフの主意を主張し初めて「宗旨改革」(宗教改革)の源を日耳曼國中に発した。シギスムンドはコンスタンツ会議にフスを呼び出し、これを処刑した。だが、これはボヘーミア本国に聞え、フス派は「暴烈の戦闘」を起こした。しかしこれはシオギスムンドに抑えられたとある(中編中 44-45頁)。ボヘミアについて詳細が書かれ、ヤン・フスのことが紹介されるのは、本書が初めてであった。

≪ポーランド≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところでは、中世のポーランドの歴史が述べられる。ロシアの一州となったポーランドというスクラボニック(スラヴ人)の国は、ドイツ帝国の一部になったたが、14世紀初めのラジスロース(ラジスラス)四世のときに独立国となり、1333年から1370年のカッシミルゼグレート(カジミエシュ大王)は、領土を広げ、また 国内の状態を改めた。「此の時国民正に奴隷とも云ふべき卑陋の形態に陥りし時に投じ貴族意を恣にし獨立の權を示し殆んどポーランド國をして滅亡せしめん形成あり」。そこでカジミエシュ王は「貴族を威を取挫き」国民が安心できるようにしたというのであった(中編下 18-19頁)。これまでの万国史ではポーランド分割のことしか書かれていなかったが、本書では、ポーランドの歴史の重要な時期がきちんと押さえられている。

◎近代史

 近代史においては東部のヨーロッパについての記述は充実する。とくにハンガリーとポーランドが注目されている。

≪ハンガリーとトルコ≫

 近代史第一篇第一章「宗教改革」のところで、ドイツ、フランスが宗教改革によって混乱している機を狙って、トルコが日耳曼國を襲撃してきた。その中で、1531年、トルコの首長「第二世ソリマン」(スレイマン2世)がロードス島を奪い、さらにフランス国民に扇動されて「ヲンガリー國」に侵入して之を押領し、さらに大軍をもってウインナを包囲した。これに際し日耳曼國内では宗教による対立をしばし押さえ外的に対抗する約が成立、これを聞いて、シュルタン(スルタン)は兵を引いた(下編上 18-19頁)。

≪三十年戦争の発端としてのボヘミア≫

 第三篇第一章日耳曼國の節において、三十年戦争が論じられる。そこで、ボヘミアの位置が、正確に論じられている。宗教対立の中で、「新教徒がプラグユー(プラハ)に於て帝室の執政等に為したる所業」が「三十年の戦争」の発端となった。対して、旧教徒は維也納(ウイーン)の城門に集まった。1619年にフリードリッヒ2世が帝位に着くと、ボヘミアとモラビヤの二国はハプスブルクを捨てた。1620年にウ井センビルグ(ホワイトヒール 白山)にて両軍が戦い、旧教徒軍が勝って、ボヘミアとモラビヤは再びオーストリアに附属することになったという具合である(下編中 3-5頁)。

≪トルコとハンガリー・オーストリア≫ 

 三十年戦争の後、オスマン帝国の第二次ウィーン包囲の歴史が書かれている。1648年のウエストファリア講和の締結後、匈牙利國に於て新教徒が墺太利の管轄に抵抗して、ルイ14世の仏蘭西からの支援も得て、「噴發」した。このとき、匈牙利とポーランドを「蚕食」していた土耳古國人が「墺太利の威權を壓服」しようとして、1683年、ケラーモスタハ(カラ・ムスタファ)が大兵を率いて匈牙利國を横行し、維也納(ウイーン)を取り囲んだ。ヨーロッパ中がパニックになった時、ポーランドの「勇敢不屈」のヂョン・ソバイスキー(ヤン・ソビエスキ)が日耳曼各国からの兵を集めて、土耳古を撤退させた。これに対して、今度は、日耳曼兵が匈牙利國内の土耳古兵を追い出そうとする。しかし、「不幸なる匈牙利國人一般の救助になるを得ず」。なぜならば、「此國の地方によりては、久しき以前より、土耳古國人之を占領したりしかば、此地方の匈牙利國人は、殆ど土耳古國人の風俗に化せられ、其國體を失なひたり」。「然れども土耳古の管轄外の地方に於ては、数多のプロテスタント宗徒ありて、其中一人も回々教に入る者なかりき」。そういう人たちは、テキリー(テケリ)という一貴族の元に土耳古に抵抗せんと兵を起こした。トルコがウイーンに迫ったので、墺太利はそういうハンガリー人と妥協せざるを得ないと考えたが、ソビエスキの勝利が見えると、墺太利の兵はハンガリーを攻めてこれを平定し、1685年にハンガリーの皇帝選挙権を奪い取り、匈牙利をハプスブルク家「累代の領地」と定めた(下編中 22-24頁)。1685年の話は、1699年のカルロヴィッツ条約の事ではないかと思われるが、ほぼ当時の勢力関係を正確にとらえている。

 次に、マリア=テレジアの皇位継承問題が扱われる。墺太利皇帝第二世フレデリッキが1739年に死亡したとき、其子は只一人の女「マリーゼルサ」(マリア=テレジア)だけであった。彼女が帝位に就くのにほとんどの所領(領邦)が反対し、彼女は匈牙利に「走った」。幸い匈牙利はマリア=テレジアを支持した。

「マリーゼルサは今や詮方盡き、外に依頼すべき手段なければ、乃ち匈牙利國に走り、一旦其身の禍を避けたりし・・・」。かくて、「従来久しくハップスボルク家と通交する地方に住居したるスッラオニック(スラヴ)及び洪牙利人をして、彼を援けんと噴發せしむるに至れり。」(下編中 33頁)。

≪ポーランド分割≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところで、ポーランド分割が書かれる。

「是まで波蘭國の歴史は別に詳明の記載なけれども、元来此國は政體確実ならず、始終外國の關渉を受け、貴族は傲慢なりて、人民は其過酷なるに苦しみければ、漸次に國威衰微し獨立國たるの勢いを失なへることは瞭然たるべし」(下編中 67頁)。

 露土戦争(1768-1774年)に際し、ポーランドが分割された。その露土戦争について、こう書いている。18世紀の末、イエズス会にそそのかされてポーランド人のカトリックが、ロシア領になっているかつてのポーランド領に支配を及ぼそうとしたのを機に騒動が起きて、逃亡したポーランド人を追って、ロシアがオスマン領に侵入したことを機に、露土戦争が起きた。これは不明であるが、原書にもそう書いてある。そして、「此戦争の最中、即1772年に当りて魯墺普の三國一致して、此防禦なき波蘭國を割取せんと約し、各その本國に近き地方を分ちたりしが、獨り魯西亜は此時獅子の割賦を得たり。」という(下編中 68頁)。

 次いで、フランス革命に際してまたポーランド分割が行われた。

「佛朗西動亂(仏蘭西革命)の際に、此國再度の分割ありしが、是1792年なり。是時に嘗てコスキスコ(コシューシコ)なる者の指揮に随て此國の人民獨立戦争を起こしたるが、是亦残忍に壓砕せられし後は、此國の成立全く絶へたり。是即1794年なり。蓋斯く滅亡せしめし事をば、當時欧羅巴の人、誰有て咎めざる者なかりし」 (下編中 68頁)。

 だれもポーランド分割を咎める者はいなかったと批判している。それはウイーン会議でも是正されることはなかった。ウイーン会議でポーランド人は「其本國の特許風習を公然と保有することを許准せられしが、一度此國民謀反を企てけれども、1831年にワルソーを取られ、其鎮定に及びける後は、魯國は掠略地として之を所置せり」(下編中 69頁)。

 ロシア領ポーランドだけを詳しく書いているが、この時期の日本において、ポーランド分割は、強い関心事であった。

≪希臘≫

 近代史の終りの方、第四篇第一章東方諸国において、ギリシアが扱われる。

 ギリシアはオスマン帝国の支配下にあった。それは1500年代に土耳古には優れたスルタンが輩出したからで、領土をアジアとヨーロッパに拡大し、ヨーロッパのほうでは、「希臘全國且匈牙利過半も」領土となった(下編下 2頁)。

 そのギリシアの独立の過程が述べられる。「希臘國の都たるヂヤニナ(ヤニナ)國のパソー(パシャ)アリーテブレン(アリ・テベレン)なる者」、独立を企てたが、1822年に大敗した。然れども、騒動はまだ終わらなかった。「蓋希臘國の人民、多くは西教徒なりしを以て、土耳古の管轄を脱せんと希へるを以てなり」。土耳古政府は「麥西(エジプト)國のパソーの兵隊の援を以て」これを押さえんとし、残忍なる戦争を続けたので、「西方欧羅巴人の心を感動せしめ」「西教を奉ぜる人民にて且其昔文明名ありし希臘人の子孫の今モハンメンダン教を奉ぜる所の國に抵抗して、其獨立を謀るを援けんと奮發せり」。英国の艦隊を主とする艦隊が、ナワリーノにおいて勝利し、「パソー」の兵を撤去させた。そして1833年、希臘独立の商議が成って、「希臘はバワリアの公子オゾなるものを奉じて」独立國となった(下編下 8-9頁)。

 これまでの「万国史」以上に詳細な記述になっている。当時の日本においては、ギリシアの独立は強い関心を持って見られていたのである。

◎輓近欧州動乱

 最後に、フランス革命を含め、輓近欧州動乱を論じているところでは、東部ヨーロッパについては、1848年革命期のハンガリーが扱われている。佛朗西の動乱(フランス革命)、1830年の改革、1848年の動乱が述べられて、そのなかには、ソシアリスト、コンミュニストの登場などが出て来る。1848年については、ハンガリーを中心としてこういう記述が出てくる。

「墺地利亜(オーストリア)の所領に於て、此動亂の結果は尚一層不幸に陥れり。夫れ以太里(イタリー)は復容易に壓服せられ、又墺國政府の為す欺詐に由て、逐次に蠢食せられ、遂に其國の獨立を失なへるなりと、兼て痛心せる匈牙利(ハンガリー)國民の鋭意なる首謀者は、此機に投じて、其舊政體を恢復せんと企て、且帝都維也約(ヴィエナ)も一揆を醸もしければ、帝は奔て之が災を避けたり。是に於てクローチアの人民、其首長に從ひ、其の他墺國所轄の内に列したる、半開の人種等と共に、此一揆鎮壓の為に、其兵隊を編成し、乃維也約都を砲撃し遂に此都を降せり。然るに勇敢なる匈牙利國民は、尚抵抗して、未だ少しも畏縮せる色なきを以て、魯國の助勢を依頼し、遂に彼等をも壓服したり。此時其首謀輩は、數多鄰國の土耳古に脱走しけるを以て、魯西亜帝土耳古に之を交付することを要責せしけれども、英國政府の保護あるを頼み、土耳古政府は決然として、之に從うをなささりき」(下編下 53頁)。  

 この事実関係はほぼ正しい。オーストリア、イタリア、ハンガリー、クロアチア、そしてロシアとトルコ(オスマン帝国)の動きを相互に関係させて論じているのは、出色である。とくにクロアチアの動きが描き出されているのは、日本では初めてであろう。

 なおこの19世紀中頃において、ハンガリー以外のヨーロッパ東部は出てきていない。

  ***

 以上見てきたように、作楽戸痴鶯訳編『万国通史』においては、ヨーロッパの東部はこれまでの万国史よりもずっと多く詳しく正確に、しかも時代の動きに組み込まれた形で出て来る。主なものは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであった。ボヘミアがしっかりと登場し、フス派の動きが書かれていたり、ポーランドの歴史が「分割」以外にも書かれていたり、1848年革命について諸民族の複雑な関係が書かれていたり、これまでのパーレイ的な「万国史」を超える記述が出てきている。

 この『万国通史』の特徴をまとめるならば、

  1. 原書の「聖史」を省略して世俗史として歴史を考えていた。
  2. ヨーロッパ史が中心であるとはいえ、さらに各国史的であるとはいえ、明治期最初のしっかりとした世界史でアジアなどもその範囲に入っていた。
  3. パーレイのような諸国の歴史の並列ではなくて、諸国間の関係を押さえ、また時代性を捕まえようとしていた。
  4. ヨーロッパの東部の歴史も西部の歴史の「付属」としてではなく、それ自体として直視していた。

 このような「万国史」はその後どのように受け継がれ発展させられたのであろうか。

(続く)

(「世界史の眼」No.32)

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土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

以上、既掲載

以下本号

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

 こうして土方久功と鳥見迅彦の生の軌跡を辿ってきて、二人の交点はどうやら「耳の会」にあったのではないかという見通しに導かれた。それで、「耳の会」について、もう少し詳しく見ておきたいと思う。

 1948年のある日、草野心平と松方三郎が銀座の民芸品店「たくみ」で偶然出会い、「たくみ」の中二階の喫茶室「門」で雑談しているうち、「毎月一回、日を決めて〔何人かで〕ここで会おう」ということになった(草野「後記」『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、1973年12月、51頁)。松方三郎(1899-1973年)は明治の元勲、伯爵・松方正義の第15男(末子)であるが、松方家第二代当主、松方幸次郎(松方正義の三男)の養子となった。若いころ、ヨーロッパに遊学し、アルプスの山々を踏破して、アルピニストとして知られた。1926年9月3日には、槇有恒、松本重治と共に、アルプスを縦走していた秩父宮に随行してスイスのチナール・ロートホルン(4221メートル)に登頂している(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、25頁にその時の写真がある。図版5)。帰国後は実業界に身を置きながら、日本山岳会会長を務め、その間に松方家第三代当主となった。

 この草野心平と松方三郎が始めた集まりには最初名前がなかったのだが、少し後に「耳の会」と名付けられた。この会名を言い出したのは島崎藤村の三男で画家の島崎蓊助であった。

 草野が「耳の会」に最初に誘ったのは串田孫一と藤島宇内だったということである(草野「後記」)。宇佐美英治の場合は草野の宇佐美に会いたいという意向を串田から聞かされ、参加するようになった(宇佐美『辻まことの思い出』みすず書房、2001年、99-101頁)。坂本徳松によれば、坂本や鳥見迅彦も最初のころから「耳の会」に参加していたという(坂本「松方さんと『耳の会』」『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、28頁)。坂本は別として、草野は主として『歴程』の同人たちを「耳の会」に誘っていたようである(坂本徳松は帝都日日新聞社で草野の同僚であったが、この新聞の大政翼賛的言論に荷担したとして、戦後、野依秀市とともに公職追放となった。その後、坂本はアジア・アフリカ連帯運動に携わり、ベトナム、カンボジヤなどとの友好にかかわった)。『歴程』は戦前の1935年、草野心平、中原中也、土方定一など8人の同人によって創刊された同人誌で、大きな影響を及ぼしたが、戦時下の1944年に終刊した。戦後の1947年、草野が中心となって復刊され、その同人には、串田孫一、藤島宇内、宇佐美英治、矢内原伊作、宗左近、辻まこと、山本太郎などがいた。前述のように、鳥見迅彦も『歴程』同人であった。
 翌年、「耳の会」はメンバーが増え、より広い場所が必要になったのであろう、「日比谷の日産館の地階の畳の部屋」で開かれるようになった(草野「後記」)。日産館におけるある夜の「耳の会」の記念写真には、草野心平、松方三郎、串田孫一、宇佐美英治、藤島宇内、辻まこと、坂本徳松、鳥見迅彦などが写っている(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、31頁)。

 その後、「耳の会」は何度か会場を変えたようで、世田谷、上野毛の尾崎喜八の家で開かれたこともあった。その時、鳥見迅彦は尾崎の詩集を何冊も持参して、尾崎に署名を請うたということである(尾崎実子「鳥見さんの懐かしい面影」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、29頁)。

 他方、土方久功は、前述のように、1951年、学習院中等科で一学年上だった松方三郎に誘われて、「耳の会」に出席するようになった。宇佐美英治によれば、ある「耳の会」の帰り道、土方から「僕は南洋に長くいましてね」と声をかけられたのがきっかけとなって、宇佐美と土方は親しくなったという(宇佐美英治「土方久功の彫刻」『同時代』34号〈特集土方久功〉、137頁)。

 1953年に開かれた土方久功の第二回個展の際、宇佐美英治が会場の設営に協力したことについてはすでに述べたが、この第二回個展の後、宇佐美は『同時代』同人の岡本謙次郎と共に、土方宅を訪問した。これをきっかけに、土方は『同時代』の他の同人たちとも親交を結ぶようになった(土方敬子「思い出」『同時代』34号〈特集土方久功〉、171頁)。『同時代』は1948年、矢内原伊作と宇佐美英治により創刊された同人誌であるが、7号で終刊となった。1955年、矢内原、宇佐美の二人に宗左近、安川定男らが加わり、第二次『同時代』が刊行され始めた。その他の同人には、串田孫一、辻まこと、伊藤海彦、池崇一らがいた。これらの同人たちとも親しくなった土方の家では、『同時代』の忘年会がよく開かれた。土方の妻、敬子は「暮れにはアトリエで一晩楽しく賑やかに忘年会を催しました。その時分が一番最良の時であったと思います」と書いている(土方敬子「思い出」)。常連は宇佐美英治、矢内原伊作、安川定男、宗左近、池崇一、伊藤海彦などであった(岡谷公二『南海漂泊』、202-203頁)。

 「耳の会」で土方久功と鳥見迅彦が実際に同席したり、会話を交わしたりしたということを直接的に示す記録は見つけられなかったが、こうした経緯からして、その可能性は高いと思われる。そうでなくとも、宇佐美英治、串田孫一、辻まことなどのように『同時代』と『歴程』の同人を兼ねている人たちが多かったから、土方久功は鳥見迅彦についていろいろと聞き知っていたであろう。前述のように、その鳥見が『けものみち』で1956年度のH氏賞を受賞したので、土方はその同じ年に刊行した詩文集『靑蜥蜴の夢』を鳥見に寄贈することにしたのであろう。しかし、それを通して、土方と鳥見の間に交遊関係が生まれるということはなかったようである。どちらかというとノンポリ的で、政治にあまり関心がなかった土方と、友人たちから「社会主義者」とみられていた鳥見の間には思想の面でも、気質の面でも違いが大きかったからであろう。

 「耳の会」はその後、一年に一回、赤坂、嶺南坂の松方三郎宅で開かれることになった(松方が多摩川左岸の瀬田に転居してからは、瀬田の松方宅で開かれるようになった)。松方生前最後の「耳の会」(おそらく1970年)には、草野心平、串田孫一、土方久功、宗左近、坂本徳松、棟方志功などが参加しているが、鳥見迅彦の姿は見られない(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、44頁)。この頃には、鳥見は「耳の会」から遠ざかっていたのであろうか。

 土方久功は『靑蜥蜴の夢』刊行後も、南洋の人々や風景をモチーフとした多くの木彫や絵画を制作しつづけた。1965年に書いた「あの頃は」という詩では、「あの頃は楽しかりにき/南海に釣りし 泳ぎし/裸のくらし」(詩集『旅・庭・昔』大塔書店、1965年、所収)と南洋の生活を懐かしんでいる。しかし、土方は二度と南洋を訪れることはなかった。アメリカ信託統治下に入った南洋の島々の変わり果てたであろう姿を見るに忍びなかったからだと思われる。

 他方、鳥見迅彦はその後次第に『歴程』よりも、雑誌『アルプ』との関係が深くなっていったようである。『アルプ』は1958年に創文社から発行され始めた山の文芸誌で、その中心となったのは串田孫一と尾崎喜八であった。創文社の編集者で、『アルプ』の編集を担当した大洞正典は、執筆者には「草野心平さんを始め、鳥見迅彦、辻まこと、山本太郎、矢内原伊作といった『歴程』と関わりの深い方々」が多かったが、「尾崎喜八さんと共に、鳥見さんは『アルプ』にとって、かけがえない詩人であった」と書いている(大洞正典「山の詩人として」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、27頁)。鳥見の第二詩集『なだれみち』(1969年)は大洞の協力で創文社から刊行された。

おわりに

 パラオから帰国するや否や、北ボルネオに占領地司政官として派遣され、現地で病を悪化させた土方久功。日本の傀儡、汪兆銘政権の宣伝活動のために5年間にわたって中国に滞在し、その後の半年以上、国民政府の捕虜収容所に入れられていた草野心平。天皇制ファシズムの狂暴な拷問によって、終生消えることのない精神的「傷痕」を負い、それを詩に昇華させようとした鳥見迅彦。そして、戦時下、戦意高揚のための詩を大量に発表し、戦後はそのみそぎのように、岩手の山中に粗末な山小屋を建てて、7年間も独居した高村光太郎。これらの人々の存在はまさに「日本の中の世界史」の現れということができるであろう。世界史は近代という時代を生きた人々の生の中に深く浸透していたのである。

(「世界史の眼」No.31)

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書評 サラ・ロレンツィーニ(三須拓也・山本健訳)『グローバル開発史 もう一つの冷戦』(名古屋大学出版会、2022年)
木畑洋一

 第二次世界大戦終結後1990年前後までの世界史は、冷戦の歴史として描かれることが多い。しかし近年では、この時期に同時に進行していた脱植民地化に重点を置く視点も浮上してきている。評者も『二〇世紀の歴史』(岩波書店、2014年)で、帝国主義世界体制の解体過程を軸としてこの時代の世界史を捉えていくという見方を提示した。冷戦史自体についても、脱植民地化との関連を考慮して再検討するという試みが、O・A・ウェスタッド『グローバル冷戦史:第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)、同『冷戦:ワールド・ヒストリー』(岩波書店、2020年、本書については「世界史の眼」No.9, 2020年12月、で紹介した)などによって成されてきている。

 冷戦と脱植民地化の絡み合いには、冷戦下の「熱い戦争」と植民地解放戦争の関連、冷戦イデオロギーと脱植民地化をめぐる諸思想との関連など、さまざまな側面があるが、一つのきわめて重要な要因が、旧植民地諸国を対象とする開発援助の問題である。脱植民地化によって新たに独立した国々が経済的に自立し発展していく(経済的脱植民地化)ためには、外からの支援を必要としたが、そうした支援策としての開発援助に、冷戦の東西両陣営にまたがる「先進国」側はさまざまな思惑を抱きながら取り組んでいった。この問題への関心も近年広がっており、そうした問題意識に発する研究として、日本でも、渡辺昭一編『冷戦変容期の国際開発援助とアジア:1960年代を問う』(ミネルヴァ書房、2017年)や秋田茂『帝国から開発援助へ:戦後アジア国際秩序と工業化』(名古屋大学出版会、2017年)などの成果が生まれている。

 本書評の対象である『グローバル開発史』は、この問題にがっぷりと取り組んだ研究書であり、広い視野で冷戦期の開発援助問題に歴史的分析のメスを入れている。原著の副題「一つの冷戦史 A Cold War History」が訳書の副題では「もう一つの冷戦」と若干のニュアンスを加えたものにされているが、本書が行っているのは、まさに冷戦史の見直しであり、訳書の副題はそれにふさわしいといえよう。

 本書の内容の詳しい説明は、本書巻末の「訳者解説」のなかで要を得た形でなされているので、ここではごく簡単な紹介にとどめておきたい。

 まず第1章では、第二次世界大戦までの植民地支配のもとであらわれてきた植民地開発思想と大戦期における開発への取り組みが概観される。第2章からが冷戦期を扱う本論となり、第2章では1949年に公表されたポイント・フォア・プログラムを軸としてトルーマン政権期の米国における経済開発計画の様相が紹介される。次の第3章で開発援助に対するソ連側の姿勢が論じられた後、第4章の対象は再び西側に戻り、1950年代、米国のアイゼンハウアー政権が開発援助に消極的であったのに対し、60年代に入って登場したケネディ政権が近代化論を掲げつつ、援助に積極姿勢を示したことが強調される。さらに、58年のEEC結成に示されたヨーロッパ統合の動きが、開発援助と密接に関わっていたことが指摘される。このEECの問題は、国際機関に焦点を合わせた第5章でも引き続いて取りあげられるが、ここでは他に、西側の機関として経済協力開発機構(OECD)に作られた開発援助委員会(DAC)が、東側の機関として経済相互援助協議会(コメコン)の技術援助常設委員会が、分析の対象となる。国際機関の検討は第6章にも続き、国連での議論や世界銀行の活動が紹介された後、64年における国連貿易開発会議(UNCTAD)の設立が取りあげられる。次の第7章では70年代の展開が扱われ、社会主義圏の見方が改めて論じられた上で、援助の対象とされていた国々による新国際経済秩序(NIEO)の要求が取りあげられる。70年代には先進国において環境問題が浮上し、経済成長への疑義も出てくるが、その状況下での開発援助をめぐる議論を対象とするのが第8章であり、さらに第9章では世界銀行によるベーシック・ニーズという考え方の提唱や人権思想との関連が扱われる。続く第10章で、開発思想が新自由主義によって攻撃され、経済成長が重視される方向が再び強まった80年代の状況を描いた後、終章で援助をめぐる最近の状況に触れながら、著者は本書を閉じるのである。

 以下、本書について評者が抱いたいくつかの感想を述べてみたい。

 本書の特徴としてまずあげるべき点は、開発援助を行う側の思惑と姿勢について、実に幅広い検討が行われていることである。従来の開発援助研究では西側諸国、とりわけ米国やイギリスについてはかなり周到な分析がなされてきたものの、冷戦におけるもう一方の陣営であるソ連や東欧に関しては、十分な検討が行われてこなかったという感がある。それに対し、本書の著者は、ソ連側を扱うに際しては史料的制約が大きいことを認めつつ、その姿勢を明らかにすることに相当程度成功している。スターリンがこの問題に関心を抱いていなかったこともあって、ソ連の関わりが積極化したのはスターリン死後であったが、その場合も、開発問題は帝国支配の遺産であるという基本的な認識があり、援助の対象となる独立国は基本的に西側陣営に属するという見方が継続したのである。

 帝国支配から開発援助へという流れは、著者がヨーロッパ統合の動きのなかに開発援助問題を位置づける努力を払っていることによって、本書ではっきりと看取することができる。「ヨーロッパ統合は、帝国の共同経営のための事業だった」(79頁)といった大胆な言明も、本書の叙述のなかでは十分に生きている。ヨーロッパ経済共同体(EEC)設立時の議論や、その後のEEC、ECの「第三世界」政策は、近年日本でも本格的な研究の対象となり、黒田友哉『ヨーロッパ統合と脱植民地化、冷戦:第四共和制後期フランスを中心に』(吉田書店、2018年)というすぐれた業績などが出されているが、本書は、その歴史的位置づけが説得的になされているのである。

 著者はまた、中国の対アフリカ援助政策も一定の紙幅をさいて検討している。中国のアフリカへの関わりが最近になって出てきたわけでなく、すでに冷戦期から見られていたことは、タンザン鉄道の事例でこれまでも知られていた点ではあるが、ソ連・東欧の姿勢と並べて論じられることによって、それについてのイメージはきわめて明確になった。

 このように、従来の開発援助研究で周縁部に置かれていた主体についての議論がなされている一方、評者の問題関心から若干の不満を覚えた点がある。それは、イギリスやオーストラリアを軸とするコロンボ・プランの扱い方の軽さである。本書の主題を論じる上でこのプランはきわめて重要な意味をもつにもかかわらず、本書での言及は2箇所のみで、しかもその中身に詳しく立ち入ることはされていない。すでにいろいろ議論がなされている対象であるという理由からかとも考えたものの、この欠落はやはり問題であろう。

 それはさておき、このように開発援助にかかわった多様な国々に眼を配ることによって、本書は冷戦と脱植民地化の間の関係の複雑さに光をあてることに成功している。帝国主義の遺産を否定しながらグローバルな冷戦のイデオロギーとして近代化論を掲げた米国と、帝国支配の時代からの継続的要素を強く残しつつ援助にあたった西欧諸国の様相が大きく異なっていたということや、社会主義国が被援助国側の事情にほとんど関心を払わなかったために東南関係が悪化していったことなど、多くの論点が提起されている。評者としては、60年代中葉に米国の政治家のなかに東欧諸国を巻き込んで南の国々を開発する共同戦略を考える者がいたとか(107、123頁)、70年代に東西南三者間産業協力という構想が社会主義陣営の側に存在し、実際に協力活動や東西両陣営の合弁事業のための国家間協定が増えていったとかいう(155頁)指摘にも、関心を抱いた。

 さらに、開発援助に関わった人々が、開発問題をめぐる国際的な知識共同体とでも呼ぶべきものを作り上げていたという著者の指摘も、刺激的であった。本書では、国際連合や経済協力開発機構(OECD)などの国際機関の役割も重視されるが、そこでは「科学的手法に基づく知識共同体が形成」(239頁)されていたのである。本書には、ラウル・プレビッシュとかW.A.ルイスとかいった、この問題に関わるいわばお馴染みの人々に加えて、ECのクロード・シェイソンやフランスのジャック・フェランディなどといった、少なくとも評者にとっては初耳の人々の活動が紹介されている。重要な人物について訳者が「人物紹介」を作成して巻末に置いているのはきわめて有益であるが、望むらくはシェイソンやフェランディなど名前が全く耳慣れない人々も取りあげていただきたかった。

 最後に、本書全体の問題と感じる点として、開発援助が被援助国側に具体的に何をもたらしたかということの扱いがある。被援助国側について相応の議論は行われていることは事実であるし、途上国側から示された「第三世界主義」は、74年に国連の資源特別総会で採択された「新国際経済秩序」(NIEO)にも関わらせながら確かに強調されている。しかし、援助の実態についての踏み込んだ分析にもう少し接したかったという気持ちが読後感として残ったのである。

(「世界史の眼」No.31)

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(3)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その3)
南塚信吾

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

4. 『巴来(パーレイ)万国史』牧山耕平訳、文部省、1876年(明治9年)

 ようやく明治9年に、寺内章明『五洲紀事』らが依拠したパーレイの本が完訳された。牧山については知られるところは少ないが、他に経済関係の翻訳がある。『巴来(パーレイ)万国史』は、上下各2巻、計4巻からなっていた。それまでは、英語版を文部省内外で読んでいたのであろう。1867年の再渡米のさいに、福沢諭吉が一冊持ち帰っていることが知られている。そのパーレイの全体的な姿が日本語で登場したわけである。原書は「グードリッチ氏ペートルパーレーノ名ヲ假リ著セシ」ものと紹介している。英語版の初版はSamuel Griswold Goodrich (Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography(Boston,1837)である。英語版は何版も出ていて、1885年には日本でも出ていたが、牧山の翻訳にあたっては、1837年版が使われたようである。

 本書は、明治初期の「万国史」のベストセラーであった。これは教科書ではなかったが、自由選択教科書時代の産物であった。すでに述べたように『五洲紀事』の元になった教科書であった。

 緒言では、本書は、「風船ニ駕シテ游行スル事並ビニ目撃スル所ノ奇事ノ説話」であるとし、歴史並びに地理誌の概説、地球上水陸の区分、亜細亜阿弗利加及び其の他の国々の人民、世界の各種の人民のことを述べるとある。ここで、「歴史」は「世界創造以来人世の紀事」(上の一)であり、「既往の事の記録」(上の四)である。

 そして本論では、以下のように五つの洲を次々とめぐっていた。

1)亜細亜:気候・物産・山嶺・人民・動物等、世界の創造及び洪水、ノア及び親族方舟を出ること、アッシリア、ヘブライ、エジプト、ユダ国、救世主、波斯、支那、日本、アラビアとマホメット、アジア総説

2)阿弗利加:地理並びに人民、上古のエジプト、イシオピア、バルバリ・ステーツ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア・トリポリ)の海賊、賣奴(奴隷売買)の史

3)欧羅巴:地理及び事情、希臘、波斯戦争、マケドニア、希臘の今世史、羅馬、阿多曼(オットマン帝国)、土耳古史の結末、西班牙(スペイン)、ムール戦争、「宗門検査」、葡萄牙、仏蘭西、高盧〔ゴール〕人、シャルルマン、十字軍、封建の制度、仏蘭西諸王、仏蘭西革命の乱、ナポレオン、ナポレオン三世、瑞西(スイス)、日耳曼(ゲルマン)、墺太利及び洪牙利、洪牙利・波希米亜(ボヘミア)・チロル、普魯西(プロシア)、魯西亞(ロシア)、瑞典(スウェーデン)、臘巴蘭(フィンランド)・那威(ノルウェー)・丁抹(デンマーク)、大猊列顛(グレートブリテン)・阿爾蘭(アイルランド)

4)亜米利加、アイスランド・グリーンランド、南亜米利加、西印度

5)オーシェアニカ(オセアニア)、ポリネシア

 以上のように、聖書によって創世とノアの子孫から始めている。世界各地を巡って、それぞれの国や地域の地理を押さえたうえで、その歴史を古代から近代まで縦に述べて並列していた。そこには「中心」も「周辺」もなく、どの国どの地域も排除はされないはずであった。ただ、記述の比重は、ヨーロッパが圧倒的で、ほぼ半分を占めていた。

 では、この中でヨーロッパの東部はどのように扱われていたのだろうか。寺内らはこの本に依っていると書いていたが、全文が翻訳されてみてどうであろうか。結論的に言えば、東部では、ギリシア、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドが出て来る。

 先ずは、ギリシアである。ギリシアの「今世史」が古代ギリシアの崩壊の後に来る。そこでは、人民の戦いにより多く注目されている。

「1450年の頃に至り、土耳古より東羅馬を侵伐して希臘国を略奪す。爾後殆ど四百年間土耳古人は希臘人を奴隷の如く接遇せり。」

「其後、千八百二十一年に至りて希臘人其残虐を惡み、遂に土耳古に叛けり。因りて忽ち戦争起り争乱久しく絶えず、互に暴虐を行ふこと甚し。」

「諸国の人民、希臘を援るもの多し。是皆其国史を知り、且古昔の名誉を悲みて親愛せし者なり。彼の高名なる英吉利の詩人ロルト(ロード)・バイロンも亦此国の為に死したり。」

「土耳其の人民は性質勇悍にして、希臘を棄ることを肯ぜず。希臘人は死を決して必ず其苛酷の管制を脱せんことを欲せり。然れども英仏魯三国の援を得るに非ざれば、其志望を達すること能はざるべし。」

 こうして英仏魯三国の軍事力を借りてギリシアはトルコの管制を脱したが、「自立」して国を治めることができず、三国は「其人民の為めに」君主を選んで、オットーを国王とした。(上の二、第六十五章)

 ここでの土耳古はオスマン帝国のことである。まだ「独立」という概念はできていないようで、「自立」が使われている。その「自立」も英仏魯三国に依存していたことが指摘されている。

 つぎにハンガリーである。ハンガリーについては詳しい記述を設けている。 

「匈牙利は、広大の国にして、数州を其の版図中に有す。都会ブダは、大奴皮(ダニューブ)河畔に位して頗る壮麗なり。」「気候は和煦にして美味の葡萄を産す。之を以って精良なる葡萄酒を醸す。山は金銀を産すること頗る多し。其の人民(inhabitants)は貧富の二類に別てり。富者は壮麗なる宮殿に住み、貧者は僅かに富者の奴僕を免かるるのみ。」    

「匈牙利の人民(inhabitants)は猛悪なる数人種(tribe)の混したる者なり。是皆、太古の時、アルタイ山を経過して亜細亜より欧羅巴に移りし者なるべし。其の人種は彼のサラセン帝国を亡ぼして土耳古帝国を創立せるトルクスと呼ばれたる韃靼人種に似たり。」「匈牙利の人種中第一なるものは、ヒュンスと云う。是れ、450年の頃、残忍無道の将師アッチラと云うものに従属して、伊太利を襲撃せり。。。。」

「匈牙利は、。。。1563年に当たりて墺太利帝国の一統する所となる。1848年に至りて其人民(原文になし)コッシュストと云うものに誘導せられ、自由(liberty)を復さんが為に狂妄の謀を為すと雖も、終に其功を遂げず。現今猶墺太利の属国たり。」(下の一 第百二十六章)

という具合である。スレイマンの侵攻などへの言及がなく、ベルギー、おらんだなどとハンガリーをフン人と結びつけていたり、人種的すぎるという点を除いても、貧富の差の指摘など、鋭いものがある。

 注目されるのは、ボヘミアが扱われていることであるが、ボヘミアについては、情報がとぼしく、また混乱している。 

「波希米亜は四囲山を擁して銀鈴及び寶石等の鉱山に富む。人口は幾ど四百万あり、現今の人民多くは猶太なり。又ジプシースと云ふ奇異の流族多し。」

この猶太やジプシーのことは、パーレイの原文自体が、間違っている。くわえて、これに続く一節が不可解である。

「初め此国は紀元前六百年の頃亜細亜より移住せし所のセルツと云ふ人種なりしが紀元後四百五十年の頃、其国は日耳曼人種の其の管制せしによりて遂に駆逐せらる。シャルレマン(シャルルマーニュ)又此国を附庸となすと雖も其後独立して王国となれり。千五百二十六年に当りて又墺太利に属して方今に至るまで其附庸なり。」(下の一 第百二十六章) 

このセルツ(原文ではCelts)が問題で、おそらくケルト人の事であろうが、かれらがアジアに由来するというのも、ボヘミアの人がケルト人であるというのも、パーレイの間違いである。

 最後にポーランドであるが、これは他の本でそうであるようにロシアとの関係では出てこないで、ベルギー、オランダなどヨーロッパの小国らとともに出て来る。 

波蘭は昔欧羅巴中の一国たりと雖も、今は否らず。其土壌東北は魯西亜の轄地に界し、南はドニーストル河に濱し、西は普魯西に接す。千七百七十二年に當りて、魯西亜、普魯西、墺地利の三国の君、其国を囲みて大に其地を分取す。千七百九十五年に三国の君、又其余地を剖割せり。其居民は自主自由の国たらんと欲して奮戦すと雖も、其功を遂ぐるを得ず。其民魯西亜ニコラスの爲めに数千人は徒刑に處せられ、数千人は他国に移されたり。或は其残忍を避けて合衆国に來住するものあり。(下の一、第百三十七章)

 ここでも列強による分割を厳しく批判している。とくに居民の事情を記しているのが特徴である。

***

 東ヨーロッパの記述から見た限りで、パーレイの翻訳本の方法を考えよう。パーレイを基にしていたはずのこれまでの「万国史」、つまり寺内章明訳『五洲紀事』以降、文部省『史略』と師範学校編輯『万国史略』を経て、田中義廉『万国史略』までの「万国史」に比べてどうであろうか。

  1. 五洲を順に回って、その中でも国ごとに縦に歴史を記述する、ヨーロッパは東西の区別なく、国ごとに並列されて構成するという方法は、それぞれ同じく踏襲されていた。
  2. 時代区分はなく、たんに時代順に記述するという方法も同じであった。
  3. 牧山の英語版訳では、「人民」への視線があり、たんなる「権力」の歴史ではないことが分かる。寺内章明訳『五洲紀事』と田中義廉『万国史略』にも「人民」という視線は出て来ていた。その点で、文部省の教科書は「権力」の観点からの歴史で、「人民」「國人」という視線は弱いといえる。
  4. さらには、牧山の訳書では、ハンガリーのところでも分かるように、貧富の差ということも視野に入っていた。これは、寺内章明訳『五洲紀事』以降、『史略』、『万国史略』、田中義廉『万国史略』には出てこない観点であった。
  5. 最後に、英語の訳語について見ると、訳語がまだ流動的であることが分かる。例えば、nationは、「国」ないし「人民」と訳されている。peopleは「人民」で一貫しているがinhabitantsも「人民」と訳されることが多い。したがって、「人民」はpeople, inhabitants, nationの訳語として使われている。そして「人民」の意味は、「住民」であったり、「居民」であったり、「世界の各種の人民」のように使われたりている。「国民」や「民族」という概念はまだ登場していないのである。一方、tribeは「人種」で一貫している。
    政治的な用語では、independentは「自主」で、まだ「独立」という概念は出てきていない。Liberty, freedom はともに「自由」と訳され、重要な概念になっている。
    そして、revolutionは牧山版では「革命」と訳されていて、「仏蘭西革命」と出て来るが、訳語はまだしばらくは定まらず、「動乱」などとも訳される時期は続くことになる。

***

 以上、三回にわたって明治初期における「万国史」において東ヨーロッパがどのように論じられてきたのかを検討してきた。この時期の「万国史」を主導したのは、文部省のグループであった。整備された文部省と学制のもとで「万国史」が積極的に出版されたのである。文部省のグループが依拠したのは、パーレイ(グードリッチ)の「万国史」であった。そのパーレイの本自体は、1876年(明治9年)になってようやく完訳されたのであった。

 しかし、明治6,7年から明治14年の政変までの時期には、パーレイ的な見方とは違った「万国史」も出て来ていた。明治14年以後は「文明史」的な「万国史」で一色になるので、それまでの時期は、非常に面白い時期であった。その時期の「万国史」の検討はいずれ機を改めることにしたい。

(Ⅰ-(1), (2), (3)完)

(「世界史の眼」No.30)

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文献紹介:南塚信吾(編著)、西川正幹(編集協力)『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』(アルファベータブックス、2021年)
山崎信一

 本書が主として取り上げるのは、神川松子という名の人物である。20世紀初頭に活躍した彼女は、平民社に加わった社会主義者、女性の地位向上を主張する評論家、ロシア文学の翻訳者、生産協同組合「測機舎」の設立者といった、多くの面を持っていた。彼女の女性運動家としての側面は比較的知られているが、その人物像は断片的に理解されることが多く、その他の活動、とりわけ生産協同組合の活動との関わりの中で論じられる機会は多くない。本書は、一つには神川松子という人物のさまざまな事績を統一的に論じようという試みであり、夫の西川末三の植民地官吏としての台湾での体験とも相まって、両者の理想が生産協同組合「測機舎」に結実したことを明らかにしている。

 537ページという大部の本書では、「第一部 測機舎の歴史的意義」において、測機舎の歴史的意義が論じられる。神川松子、西川末三両者の簡単な伝記から、松子と平民社との関わり、末三の台湾体験、ロシア語翻訳者としての松子、当時末三が籍を置いた玉屋商店での労働争議を経て測機舎の設立過程、測機舎への「空想的社会主義者」の影響、設立後の測機舎の状況などが述べられている。そして、本書の紙幅の過半が割かれているのが、300ページを超える分量の「第二部 神川(西川)松子資料」である。彼女自身の手による各種雑誌に掲載された論考、赤旗事件裁判の資料、ロシア文学の彼女による翻訳が収められている。各論考は、平民社時代の『世界婦人』などに掲載のもの、赤旗事件の公判に関するもの、一九一四年以降の女性の地位向上を主張するもの、ロシアの作家イワン・ブーニンの作品の翻訳、トルストイ作品の翻訳に分けられている。「第三部 測機舎誕生関係資料」は、測機舎の設立前後の各種規定や関係する新聞記事をまとめている。以上を見てわかるように、本書には各種資料が掲載されており、神川松子と測機舎の歴史に関して、実際の史料に則して理解が可能となるように作られているのが大きな利点となっている。資料にはそれぞれ、専門家による解説が付されている。

 本書は、2021年の晩秋に刊行されて以降、少なくない反響を呼んだ。『週刊読書人』(2022年2月11日)、『進歩と改革』(2022年2月号)には、書評が掲載され、特にその現代につながる意義が好意的に論じられている。

 本書の刊行には、少なからぬ意味があるだろう。まず、測機舎という日本で最初の生産協同組合の発足から展開にかけての経緯は、純粋に興味深いものである。契機としての玉屋商店経営陣との対立から組合設立への動き、労務出資と金銭出資の組み合わせによる協同組合の仕組みの整備、発足当初の困難の克服といった点は、一つの特異な組織の歴史としての面白さに満ちている。さらに、書評に取り上げられているように、測機舎を、利潤拡大を第一の目的としない現代における「ワーカーズ・コレクティヴ」の先駆者として位置付けることも可能だろう。

 そしてそれに加えて著者が強調しており、私もそれに共感するのは、測機舎の試みが「日本の中の世界史」の一つの実践例として意義を持っている点である。本書が、測機舎の経緯を追うだけではなく、その思想的源泉を同時代の欧米の社会主義思想や協同組合運動の中に追っている点もそれ故だろうし、神川松子の思想形成、西川末三の植民地体験が扱われているのもそうだろう。こうして、測機舎は単なる日本の一生産協同組合としてではなく、この時代の「世界史」を体現するものとして描かれることとなる。

 私は、ヨーロッパのバルカン地域にかつて存在したユーゴスラヴィアの歴史の研究を専門としているが、「測機舎」の生産協同組合のあり方から、第一に連想したのが、社会主義政権下のユーゴスラヴィアで試みられた「労働者自主管理」のことであった。いずれにおいても、「労働者が企業を所有し、経営する」という実践が試行錯誤の中で行われていた。ユーゴスラヴィアにおける労働者自主管理の発展の背景には、ソ連との関係断絶後、ソ連型の国家統制型社会主主義ではない社会主義のあり方の模索があり、出発点は無論測機舎と異なるものだが、その理想としての組織のあり方が非常に類似したものとなっている点は興味深かった。労働者自主管理とその体現したユーゴスラヴィアにおける自主管理社会主義のあり方に関しても、世界史的視野での再検討が必要であろうと感じた。

 最後に、本書は読み物としての面白さにも満ちている。資料に現れる軽快な筆致も相まって神川松子の人物像が生き生きと浮かび上がる。「補遺」として収録されている、西川末三の文章もまた人情味溢れ、二人の魅力を浮かび上がらせる。

 本書を手に取って、神川松子の人間としての魅力、測機舎を巡る波乱万丈の物語に接するとともに、その背後にある同時代の世界との繋がりにも思いを馳せて頂ければと思う。

(「世界史の眼」No.30)

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土方久功と鳥見迅彦(中)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

 (以上、前々号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

 (以上、本号)

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

 (以上、次号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

(1) 戦中の鳥見迅彦

 鳥見迅彦とみ はやひこ(本名、橋本金太郎)は1910年、横浜に生まれた。父母の名前や生家の職業などについては、分からないことが多い。鳥見は「第三回アルプ教室」(山の文芸誌『アルプ』主催の講演会。『アルプ』については後述)において、「わたくしの山の詩」という講演を行っている(『アルプ』170号、1972年4月、所載)。その中で、鳥見は自らの戦前の経歴について語っているが、中学校卒業までについてはほとんど言及していない。ただ、鳥見の学歴などから見ると、鳥見の家は決して貧家ではなく、ある程度以上の経済力を持っていたと思われる。

 鳥見迅彦は1928年に神奈川県立横浜第二中学校を卒業した。同級には、後に写真家として知られるようになる土門拳がいた。鳥見は東京美術学校(東京芸術大学の前身)図案科と東京高等工芸学校図案科を受験したが、いずれも失敗した。翌1929年、鳥見は横浜市立横浜商業専門学校(横浜市立大学商学部の前身)に入学した。しかし、「会計学とか簿記といった、ゼニ勘定に直接関係ある課目が気に食わない。わたくしは学校をまちがえたのです」と鳥見は語っている。そんなこともあってか、鳥見は左翼雑誌『戦旗』、『ナップ』などを購読するようになり、学校内に「研究会」をつくって、マルクス『賃労働と資本』やエンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』といった社会主義文献の学習を行うようになった。他の学校の同様の組織とも連絡がつくようになり、オルグに紹介されたりした。そのうち、「実践」にもかり出され、工場や電車・バスの車庫にアジビラをまきに行ったり、戦争反対のビラを電信柱に貼りに行ったりした(「わたくしの山の詩」105-106頁)。

 1932年2月、最後の卒業試験(倫理学)を受けていた鳥見は、校内に踏み込んできた神奈川県警察部特高課の二人の刑事によって逮捕された。日本共産党員あるいは共産青年同盟のメンバーではないかという嫌疑をかけられたのである。「取り調べは厳重で、かなりひどい拷問を受けました」と鳥見は語っている。一カ月ばかりの間に三つの警察署をたらい回しにされた後、検事局に送られた。そこで鳥見は「今後は実践運動はいたしません」という「手記」を書き、「起訴保留」ということで釈放された。鳥見は「『転向』です。わたくしは挫折に打ちひしがれました」といっている(「わたくしの山の詩」106-107頁)。こんなことで、鳥見は横浜商業専門学校を正式には卒業できず、「修了」という形で学校を出た。

 時はまさに世界恐慌の時代であり、ただでさえ就職難であったうえ、逮捕歴のある鳥見にはまともな就職はほとんど不可能であった。鳥見は、卒業後一年間ほどぶらぶらしていたのだが、その間に文学へと傾斜していった。

 1933年、鳥見迅彦は毎夕新聞社に入社した。毎夕新聞社は明治期に設立され、いろいろと名前を変えた新聞社で、一流新聞社どころか、地方有力紙ともいえない新聞社である。しかし、鳥見のような経歴の者にとっては、就職できただけでよかったのであろう。皮肉のようなことだが、最初は横浜支社に配属されて、警察周りの取材をしていたが、その後、東京本社に移った。毎夕新聞にいたころ、鳥見がいつも暗い顔つきをしているのを心配した同僚に誘われて、正丸峠(埼玉県秩父地方にある峠。標高636メートル)に行き、野山を歩く魅力に気づいた。これを契機として、鳥見は本格的な登山にのめりこんでいった。

 1936年、鳥見は『実業之世界』の野依秀市が創始した『帝都日日新聞』に移った。野依は右翼的・国粋的でありながら、堺利彦などの社会主義者とも付き合うという奇人風の人物で、鳥見の経歴など気にしなかったのであろう。この『帝都日日新聞』で、鳥見は草野心平と出会った。この出会いは鳥見のその後の人生に大きな影響を及ぼした。

 蛙の詩人として知られる草野心平(1903-1988年)は福島県岩城郡上小川村(現、いわき市)に生まれた。生家は土地持ちの旧家であった。しかし、父、馨が「奇矯」な性格の人物で、東京に出て、さまざまな「事業」に関わり、家運を衰退させた。草野心平も磐城中学校を中退して上京し、慶應義塾普通部三年に編入学した。しかし、なじむことができず、英語と中国語の学習に励んで、海外に出ることを考えていた。1921年、17歳の草野心平は慶応義塾普通部を中退して、上海航路の船に乗り込んだ。父の知り合いが中国の広東省広州市で事業を営んでいるので、それを頼りに広州市に向かうためであった。広州市では、アメリカ・キリスト教長老派系のミッションスクール、嶺南大学(中山大学の前身)に入学した。嶺南大学では、安い学寮に住み、いくつものアルバイトをしながら苦学した。

 1925年5月30日、上海で5・30事件が起こった。中国人労働者や学生などのデモ隊に上海共同租界の警察官が発砲し、多数の死傷者が出たことをきっかけとして、激しい民族運動(5・30運動)が起こり、中国全土に広がっていった。広州市でも、1925年6月23日、5・30事件に抗議するデモ隊に英・仏租界の兵士が発砲し、多数の死傷者が出た(沙基事件)。こうして、広州でも民族運動が激化したため、草野心平は卒業を断念し、帰国せざるを得なくなった。しかし、4年半ほどの嶺南大学在学中、多くの中国人の友人を得た

 帰国後、窮乏した草野は前橋に転居し、1929年、上毛新聞の校正係となったが、翌年辞職した。再び東京に戻った草野は壊れかかった古屋台を手に入れて、焼き鳥屋「いわき」を始めた。しかし、草野の家族だけではなく、弟などまで養わなければならず、生活は困窮を極めた。

 1932年、草野心平は野依秀市の『実業之世界』社に、校正係兼編集助手として入社し、1934年には『帝都日日新聞』に移った。そこに鳥見迅彦が入社してきたのである。鳥見の担当は「整理」ということであるが、どういう職種なのかよく分からない。草野によれば、社長の野依の口述する「社説」を草野が筆記し、それを「整理」の鳥見に渡すという分担だったという。それが夜中の11時近くになることもあったということである(草野心平『わが青春の記』日本図書センター、2004年、212、214頁)。とすると、「整理」というのは「割付」を主とする仕事だったのであろうか。

 鳥見迅彦は、草野と一緒に『帝都日日新聞』社を辞職するまで、3年半ほど草野と職場を共にしたのだが、その間に「心平さんから教えられたのは安酒のガブ飲みだけでした」と語っている(「わたくしの山の詩」、109頁)。草野に連れられて「安酒のガブ飲み」をしたのは事実だろうが、それだけではなかったようである。鳥見によれば、たぶん新橋の安飲み屋「三河屋」で一緒に飲んでいたとき、土方定一の詩「トコトコが来たといふ」を草野から教えられたということである(鳥見迅彦「トコトコが来たといふ」『土方定一追憶』土方定一追悼刊行会、1981年、69-71頁)。この詩は後に美術評論家として知られるようになる土方定一がまだ旧制水戸高校の学生だった時に書いたもので、土方が同級の舟橋聖一ともう一人の友人とで出していた同人誌『彼等自身』(1925年11号)に掲載された。草野はこの詩が強く印象に残り、そらんじていたのである。それはこんな詩である。

トコトコが来たといふ

トコトコが朝と一しょに来たといふ

まんぼのやうにねむったら

トコトコで眼がさめたといふ

なんだかうれしいといふ

 トコトコというのは那珂川を上下する川蒸気船のことで、「まんぼ」はいつも眠っているという魚マンボウである。那珂川の川口付近には古い遊郭があり、そのうちの一軒で土方が朝目を覚ました時に交わした会話をそのまま詩にしたものである(草野心平『わが青春の記』127-128頁)。鳥見もこの詩に感じるものがあり、その後、土方定一と親しく交わるようになった。

  1939年11月、鳥見迅彦は草野心平と共に『帝都日日新聞』を辞した。草野が社長の野依と衝突して辞めることになったので、鳥見も一緒に辞めることにしたのである。鳥見は、それから、「満鉄〔南満洲鉄道株式会社〕の東亜経済調査局という機関にはいりまして、そこでアジア諸国の文化を紹介する雑誌の編集にたずさわることになりました。この機関は東京にありました」と語っている(「わたくしの山の詩」、109頁)。「この機関」は正確には「南満洲鉄道東京支社調査室」であろうが、「満鉄東京支社調査室」が、1943年に、機構上は満鉄東亜経済調査局に付属することになったので、こういう言い方をしたのであろう。満鉄職員は半額の乗車賃で国鉄に乗ることができたので、鳥見は満鉄在職中中央線や信越線を利用してひんぱんに登山に出かけていた。冬山登山や岩登りを含む本格的な登山であった。ただし、多くが単独行で、パーティーを組むことは少なかったようである。

 しかし、1944年、鳥見の境遇は一変した。東横線沿線の軍需工場に徴用されたのである。ここで、鳥見は徴用工たちに対して反戦活動をしているという嫌疑をかけられ、神奈川県警察部特高課によってふたたび検挙された。「こんどの拷問は学生時代のそれとは段違いの厳しさでした。〔中略〕毎日やられました」(「わたくしの山の詩」、111頁)。鳥見は次のように書いている。

 手錠や拷問は、反人間的であるという点で、むしろ強烈な人間ドラマである。「けものみち」というモチーフが、ふいに、戦慄をともなってぼくの中心部をつらぬいたのは、その人間ドラマが半地下の暗い密室でむごたらしく演じられた直後、全身むらさきいろに変色して床にほうりだされているぼくを、ぼく自身が薄目をあけて眺めたときだった。

 もしも、あの凶暴な戦争とファシズムとがぼくのうえにのしかかることがなかったならば、ぼくは詩などという不幸な事に手を出しはしなかったろう。(鳥見迅彦「詩集けものみち(小伝)」『現代日本名詩集大成10』東京創元社、1960年、所収)

 「けものみち」は鳥見が戦後になって出す第一詩集の題名となったのであるが、これについては後に見ることとしたい。

 鳥見はこの時も拷問によって殺されることはなかった。今回も「転向書」のようなものを書いたのか、それとも単に嫌疑不十分ということだったのか、鳥見が何も語っていないので分からない。何か言いにくいことがあったのであろうか。ただ、「拷問というものは肉体の苦痛はいわずもがな、その暴行と凌辱から受ける精神の傷痕は一生涯消えはしません」とだけ鳥見は語っている(「わたくしの山の詩」、111頁)。

 他方、草野心平は、1939年12月、東亜解放社に入社したが、翌1940年7月には中国に渡った。同年3月に汪兆銘(汪精衛)が南京に樹立した「中華民国国民政府」に宣伝部専門委員として招聘されたのである。その仲立ちとなったのは草野の嶺南大学時代の友人、林柏生であった。林柏生は汪兆銘のもとで1938年から親日政権(傀儡政権)の樹立にたずさわり、汪兆銘政権成立後、行政院宣伝部部長に就任していた。その林柏生が日中親善のための宣伝活動に草野の助力を求めたのである。

 1944年、草野心平は中国在住日本人による詩誌『亜細亜』の創刊に努力した。その第二号(1944年11月刊)には鳥見迅彦の詩「銀山平」が掲載されている(ただし、作者名は橋本欽)。草野が東京在住の鳥見に寄稿を依頼したのであろう。この詩は越後の銀山平の叙景詩といった趣のものであるが、背後に特高による拷問の「傷痕」を窺うことができる(後に、この詩は鳥見の第一詩集『けものみち』に収載された)。

 1945年8月、日本の敗戦により南京の親日政権(傀儡政権)は崩壊し、草野心平一家はすべての財産を没収されて、収容所に入れられた。ただし、監視の目は緩く、暴行を受けるといったことはなかった。その点では、満洲でソ連軍の捕虜となった兵士や一般人のあまりにも苛烈な状況に比べれば、極めて幸運であったということができるであろう。翌1946年3月、草野は家族と共に帰国した。他方、林柏生の方は、1946年10月、「漢奸」として国民政府により処刑された。

(2) 戦後の鳥見迅彦

 鳥見迅彦がどのように敗戦を受け止めたのか、鳥見が何も語ってないので分からない。戦後、鳥見は何らかの職に就いたのであろうが、それについても語っていない。戦後の鳥見について知られていることはほぼ詩との関係に限られているのである。

 1947年、草野心平が中心となって同人誌『歴程』が復刊された(『歴程』については後述)。鳥見も『歴程』同人となった。1950年、鳥見は『歴程』の「編集長」になり、復刊第7号(1950年11月)、通巻第34号(1951年1月。この号から通巻の号数を表示することになった)、通巻第35号(1951年2月)、通巻第36号(1951年3月)の編集に当たった。この頃、『歴程』の編集会議は草野一家が居候していた練馬区下石神井の御嶽神社の社務所で開かれていた。会議と言っても酒を飲みながらの談論風発といった状態だったようである。1950年から1959年まで、『歴程』の印刷に当たった斎藤庸一によれば、草野をはじめとして皆貧乏だったので、印刷費をなかなか払ってもらえず、とくに終わりの5、6冊の印刷費は「取り立て不能」だったという(斎藤庸一「鳥見さんとの出会い」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、1991年6月、25頁)。この時期、『歴程』の印刷をやめたがる斎藤を慰留するのが鳥見の役割だったようである。

 1948年、草野心平と松方三郎が語らいあって、「耳の会」という集まりを始めた。鳥見迅彦も、おそらく草野に誘われて、「耳の会」に参加するようになった。それによって、鳥見の交遊の範囲は広がっていった。この「耳の会」については、次項で詳しく見ることとしたい。

 1949年、鳥見迅彦は処女詩集『けものみち』の刊行を計画し始めた。題字「けものみち」は高村光太郎に書いてもらいたいと考えた。「左翼」の鳥見が戦時中戦意高揚のための詩をたくさん書いた高村に題字を書いてもらいたいと思ったというのはちょっと不思議な感じがするが、鳥見はそのことを抜きにして、高村の詩業に敬意を抱いていたのであろう。しかし、鳥見は高村を個人的には知らなかったとみえて、草野心平に仲介してもらったようである。高村の「通信事項」(1950年6月1日)には、「草野心平氏にテガミ(けものみち揮毫)」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、501頁)。この時、高村は岩手の山中の粗末な山小屋に独居中であったが、草野の依頼に応えて、「けものみち」という題字を書いて送ったのである。鳥見は『けものみち』劈頭に置く「序詩」の執筆は草野に依頼した。草野は1950年1月14日付で「序詩」を書いた。挿絵は辻まことに描いてもらった。辻まことはアナーキストで戦争末期に餓死したとされる辻潤と伊藤野枝の間に生まれた。しかし、伊藤野枝は辻父子を捨てて大杉栄のもとに走り、1923年9月、関東大震災後の混乱状況の中で憲兵大尉甘粕正彦らによって虐殺された。その後、辻まことは精神に変調をきたした父との関係で苦しむことが多かったが、戦後は才能に任せて、自由な生活を送っていた。彼は鳥見の山仲間でもあった。鳥見は『けものみち』のための「跋文」の執筆を土方定一に依頼した。著者近影というべき写真は土門拳に撮ってもらった。しかし、この時の出版計画は印刷屋の「夜逃げ」や出版者の「挫折」のために流産に終わってしまった。

 1955年7月、鳥見迅彦の処女詩集『けものみち』が昭森社から刊行された。題字、高村光太郎(図版4)、「序詩」、草野心平、写真(撮り直し写真)、土門拳までは最初の計画通りであるが、辻まことの挿絵4点は鳥見が編集した『歴程』4冊の扉絵に流用してしまったので、改めて原精一に描いてもらった。土方定一の「跋文」は印刷屋の「夜逃げ」の際に失われてしまった。なお、鳥見は刊行元昭森社の社長、森谷均とは前述の「耳の会」で知り合ったものと思われる。

 前出のように、「けものみち」という言葉は鳥見迅彦が拷問で全身紫色に変色して、床に転がされている自分自身を薄目を開けて眺めたときに浮かんだモチーフであった。鳥見は『けものみち』の「あとがき」で次のように書いている。

 「けものみち」とは深い山の中をゆききするけものたちのひそかな踏跡のことであるが、ここでは人間の行路を暗示する一つの隠喩として藉りた。奇怪な偏光にてらされながら人生というけものみちをさまよう人々のすがたを思いうかべ、この詩集の題とした。

『けものみち』に収録されている「野うさぎ」という詩はまさにそんな詩である。

そんなにむごい殺されかたで

野うさぎよ!おまえは

殺された

山中の豆畑のけちくさい縄張りを自由なおまえが越えたからか?

アメリカ製のあの残忍な跳ね罠ジャンプ・トラップがおまえにとびついたとき

おまえは自分がわるかったと思ったか?

片足を罠にくいつかれたままどんなにそのいやしい仕掛とたたかったか?

罠ははなれはしなかった

長い耳を降伏の旗のように垂れて

おまえはけれどもその朝まで生きていた

鉈を持ったにんげんがやってきて

おまえを助け出すかわりにおまえの顔や胸をいきなりひどく

それからあとのことはおまえの知らないことだ

おまえは血だらけで木につるされて毛皮をはがれ

肉はこまかくきざまれて鍋に入った

  (わたしがいまもくるしむのは

  (野うさぎよ!)

おまえの殺されかたをだまって見ていたことだ

あのアメリカ製の罠やあの鉈に抗議もせずにいたことだ

おまえのその肉をわたしもじつは食ったことだ

しかもうまいうまいなどとおまえの敵たちに追従わらいをしながら

おまえを食ってしまったそのことだ。

 鳥見の詩は、『けものみち』という書名そのものが隠喩であったように、その多くが隠喩によって構成されている。この「野うさぎ」もその一例である。「野うさぎ」が何の隠喩かは読む者の側に委ねられているのであるが、それが拷問や「転向」と関わっていることは確かであろう。鳥見には自分自身も「奇怪な偏光にてらされながら人生というけものみちをさまよう人々」の一人だという自覚があったと思われる。鳥見の詩には、そのことから発する「罰」の意識が付きまとっている(田中清光「鳥見さんと山の詩」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、24頁)。鳥見は色紙に「山頂への道は/罰のように/つづいている」とよく揮毫していたようである(同前、3頁)。

 前述のように、1956年、鳥見迅彦は『けものみち』でH氏賞を受賞した。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.29)

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書評 平野千果子『人種主義の歴史』岩波新書(新赤版)1930、2022年5月
木畑洋一

 本書の著者は、フランス植民地主義の研究者であり、これまで『フランス植民地主義の歴史』(人文書院、2002年)や『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店、2014年)など、多くのすぐれた研究を公にしてきた。その著者が植民地主義とは切っても切れない関係にある人種主義に歴史的に取り組んだ成果が、本書である。いうまでもなく、人種主義は近現代世界史を貫通する問題であり、最近ではブラック・ライブズ・マター(BLM)運動を軸として、人類社会の中心的争点の一つとなっている。そうした状況を反映して、人種主義をめぐる研究も盛んである。本書に接する直前、評者はオレリア・ミシェル『黒人と白人の世界史:「人種」はいかにつくられてきたか』(明石書店、2021年、原書は2020年刊)を読んで、その感を強めたばかりであった。

 読みやすい文章で書かれた新書版の本書は、そのような人種主義への関心の新たな広がりによく応じる著作となっている。「人種が、生得的で本質的な性質に基づく、他と区別される人間集団だとすれば、そのようなものはないというのは、今日研究者の間で合意されていることである」(3-4、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という点が、本書の出発点となる。人種という問題に関心をもっている研究者ならば当たり前のことと思っているこの点が、広く社会の常識にはなっていないということが、何よりも問題であり、なぜ人びとが人種といった実体があると思い込み、それと差別意識を結びつけて、人種主義に走るようになってきたのか、本書はそれを長期的な歴史のなかで説得的に検討しているのである。

 議論を始めるに際して、著者は、人種主義と人種を次のように定義する。「人間集団を何らかの基準で分類し、自らと異なる集団の人びとに対して差別的感情をもつ、あるいは差別的言動をとることを人種主義とする。」そして、人種主義のもとで「分類された集団が、「人種」として認識されるものである。」つまり人種主義が伴う「差別的なまなざしが、逆説的に人種を作り出しているといえる」のである(11)。これは、歴史的に人種主義と人種の問題に迫っていく上で、きわめて適切な定義であり、著者は、近現代世界の歴史の動態が生み出したさまざまな差別の様態を追いながら、それぞれの時代における人種主義の姿とそのもとで析出される人種像とを論じていく。

 本書の内容をごく大雑把に追ってみると以下のようになる。第1章は「「他者」との遭遇 アメリカ世界からアフリカへ」と題され、大航海時代の始まりから、アフリカ人の奴隷化が広がり始める時期までを扱い、インディオとアフリカ人奴隷に対する差別が問題となるが、人間の分類はこの時期にはまだ本格化しない。「啓蒙の時代 平等と不平等の揺らぎ」という第2章は、17世紀から18世紀を対象とする。人間の分類がリンネやブルーメンバッハ、ベルニエなどによって試みられ、黒人奴隷制の進展を背景とするモンテスキューなど啓蒙主義者たちの人種主義が問題となる時代である。第3章は、「科学と大衆化の一九世紀 可視化される「優劣」」とあるごとく19世紀を扱う章で、人間の「優劣」を科学的に説明できるとする人種主義の理論化がなされるとともに、大衆の間に人種主義が広がり始めた様相が紹介される。植民地支配や人の移動規模の拡大のもとでの人種主義の広がりを、第3章と時代的に重複する時期も含む形で論じるのが、第4章「ナショナリズムの時代 顕在化する差異と差別」であり、社会ダーウィン主義や優生学、黄禍論、イスラーム蔑視、反ユダヤ主義など人種主義に関わるさまざまな思想潮流が紹介される。つづく第5章「戦争の二〇世紀に」は、アフリカ人の大量虐殺やナチの政策のなかに人種主義の到達点を探るとともに、パンアフリカニズムやネグリチュード運動など、人種主義に抗する動きの浮上に触れる。最後に終章「再生産される人種主義」で、著者は、さまざまに形を変えながら再生産されつづけている最近の人種主義の様相を論じるのである。

 こうした形で人種主義の変遷を追うに際して、著者は、それぞれの時代において人種主義を体現した人びとの差別的な視線を単に批判的にとらえていくのではなく、「そのような思想が生まれた時代を問うという、総合的な知の営み」(82-83)が必要であるということを繰り返し強調しているが、それには十分成功している。

 ただ、ひとつ注意しておきたいのは、本書で議論の対象とされているのが、主としてヨーロッパにおける人種主義の展開だということである。その点はオーソドクスといってよく、また時代区分のやり方でも、特に目新しい構成がとられているわけではない。検討の素材となっている人びとも、人種主義論に関連してお馴染みの顔ぶれが多い。しかし、哲学者カントなど、最近この問題に関連する議論が新たに着目されるようになっている対象にもよく目配りがされている。また、よく取りあげられてきた人びとについても、近年の研究動向に即した見直しが随所で行われており、裨益するところが大きい。たとえば、奴隷制をめぐるモンテスキューの議論をめぐる論争や、ゴビノーの人種論の読み直しなどがそれにあたる。「ヨーロッパの人種主義を論じる際に、ゴビノーの名に言及しておけば事足りるかのような姿勢は、そろそろ改める必要があると思われる」(102)という指摘に接すると、人種問題について自分がやってきた講義をふり返って、評者としては耳が非常に痛くなる。セネガルの民族運動家で独立後の初代大統領となったサンゴールが、芸術の発展には黒人の要素が不可欠であると説いたゴビノーを評価したということにも(234)、はっとさせられた。

 全体の行論のなかで、時折著者が特に力をこめて論じていると感じられる部分があるが、それらが非常に効果的な働きをしていることにも注目しておきたい。たとえば、最も美しい人びととされたコーカサス人種をめぐる話題や、逆に人類の序列の最下位に位置づけられることが多かったホッテントットの扱いを詳しく取りあげた部分である。

 気になった点を一つ、最後に述べておこう。それは、本書における日本の扱い方である。著者はいくつかの箇所で日本の問題について触れており、とりわけ終章では、アイヌや琉球の人びとの遺骨返還問題や部落差別問題をクローズアップしている。「今日では差別を問うグローバルな場で、部落差別はいわゆる人種主義の問題と捉えられている。差別が同じ理屈に立脚しているからである。」(239)という点は、本書が立脚している人種主義の定義がもつ重みを示す論点としても重要である。また、第一次世界大戦後のパリ講和会議での日本代表による人種平等条項の国際連盟規約への取り入れ提案もきちんと取りあげられている。そして、それに関わって、「日本が植民地保有国として同じアジアの他者を下位に位置づけたまま、こうした提案をしたことは、皮肉にも人間の間には序列があると示す結果になったとも思われる。」(223)と含意あるコメントが付せられている。ただ、日本の植民地支配のもとでのアジアの他者に対する日本人の姿勢を、本書の人種主義論のなかでどのように位置づけていくかという点については、より立ち入った検討が欲しかった。幅広く差別的感情や差別的言動を人種主義の基底に据えてみる立場からすれば、ヨーロッパでの議論を中心に据えつつも、他の地域に今少し視野を広げることが可能であろうし、その場合、やはり日本とアジアの人びととの関係の事例が重要になってくるであろうからである。

(「世界史の眼」No.29)

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書評 小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方 シリーズ歴史総合を学ぶ①』岩波新書(新赤版)1917、2022年1月
鹿住大助

1.はじめに:本書のねらいと高校歴史教育の変更

 本書は2022年1月から刊行され始めた岩波新書の「シリーズ歴史総合を学ぶ」の第一巻である。第二巻『歴史像を伝える──「歴史叙述」と「歴史実践」』、第三巻『世界史とは何か──「歴史実践」のために』は、本稿執筆時にはまだ発行されていない。本書の「はじめに」では、「歴史認識とは、①事実の認識(歴史実証)・②事実関係の解釈(歴史解釈)・③解釈の意味の検討(歴史批評)・④探究成果の表現(歴史叙述)という一連の実践行為(歴史実践)である」と主張する。恐らく、第二巻はその副題にある「歴史叙述」について、第三巻は世界史の「歴史実践」全般に関して論じられるのだろう。本稿では第一巻の叙述のみを取り上げて論じるが、シリーズ全体を読めば、また異なる評価になるものと思われる。

 本書が対象とする読者は、高等学校学習指導要領の改訂にともない、今年から始まった「歴史総合」科目を学ぶ高校生や、それを教える高校教師だけではない。「世界史に関心をもつすべてのみなさんを読者に想定し・・・『世界史は何のために探求するのか』という問いについて、私たちと一緒に考えて」欲しいとある(「はじめに」より)。高校生に「歴史総合で理解すべきポイント」を説明したり、教師に「歴史総合授業の作り方」を指南するものではない。授業で世界史を学ぶための「問い」を例示するのではなく、「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という「問い」を考えさせることが主眼であるという。

 ここで、高等学校の学習指導要領改訂と「歴史総合」科目の新設について簡単に紹介しながら、本書の意図と構成を読み解いてみる。今回の改訂により、歴史科目は従来の「世界史(A・B)」必修、「日本史(A・B)」選択のカリキュラムが変わり、必修科目として「歴史総合」を全生徒が学習し、その上に選択科目の「世界史探究」「日本史探究」が置かれることになった。

 「歴史総合」では、「近現代の歴史の変化に関わる諸事象について、世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉え、資料を活用しながら歴史の学び方を習得し、現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察、構想する科目」(「【地理歴史編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説」、123頁より)とあるように、世界や日本の現代的諸課題形成に関わる近現代の歴史を学習することになった。歴史科目だけに限ったことではないが、「世界史探究」「日本史探究」の名称が示すように、「問い」に基づいて生徒自身が歴史的事実を検討したり、解釈を導き出したりする「探究学習」が重視されているのも特徴である。

 また、「歴史総合」の内容は、大きく「A.歴史の扉」「B.近代化と私たち」「C.国際秩序の変化や大衆化と私たち」「D.グローバル化と私たち」の項目に分かれる。「・・・私たち」が項目名についているのは、それぞれの時代が生徒自身の生きる現代の諸課題にどう関わるか、考察できるようになることを意図しているからである。

 本書『世界史の考え方』は、この四つの大項目のうちB、C、Dに対応して、「Ⅰ.近代化の歴史像」「Ⅱ.国際秩序の変化と大衆化の歴史像」「Ⅲ.グローバル化の歴史像」の三部構成をとる。また、第一部は「第一章 近世から近代への移行」「第二章 近代の構造・近代の展開」からなる。そして、第二部の「第三章 帝国主義の展開」「第四章 二〇世紀と二つの世界大戦」、第三部の「第五章 現代世界と私たち」へと続く。各章では、それぞれが対象とする時間軸上において、これまでの歴史学でどのよう「問い」があったのか、それがどのように変化してきたのか、その変化によってどのような歴史像が導き出されてきたのかを考察する。

 そして本書は、これを考察するための叙述方法に特徴がある。各章では、出版された年代や、対象地域、視点や解釈の異なる三冊の著名な歴史書(「課題テキスト」)を主に取り上げて論じる。議論は「対話」の形式をとり、編者の小川幸司と成田龍一に加え、各章で一人ずつ課題テキストの著者や、解説者をゲストに呼び、一冊目・二冊目の歴史書とその「問い」が描き出す歴史像やその問題点を検討し、対象となる時代に対する歴史学の認識がどのように変化してきたのかを論じている。そして各章末には、対話の内容をまとめる「問い」が示され、歴史総合での学習を促そうとする。

 「課題テキスト」以外にも関連する文献を取り上げているが、三冊のテキストは、新書や文庫版の書籍が多く、比較的手に取りやすい。本書で編者やゲストが繰り広げる対話を読むことで、間接的にこれらテキストへの理解が促されることだろう。ただし、その内容が初学者向けにも「分かりやすい」文献ばかりでは決してない。むしろ、「名著」であるがゆえに、著者が置かれていた時代状況や内容についての関連知識を持っていた方が読みやすく、また、意味を深く考察すればするほどよく理解できるようになるような文献が多い。

 以下では、各章の概要を簡単に紹介する。なお、各章で編者とゲストが展開する対話の論点は多岐にわたっており、以下は「要約」というよりは、「端折った紹介」であることをご容赦いただきたい。

2.本書の概要

 第一章では、近世から近代への移行期の歴史像を論じるため、大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書、1966年)と川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996年)、岸本美緒『東アジアの「近世」』(山川出版社《世界史リブレット》、1998年)を取り上げている。大塚は資本主義と市民社会が同時に成立したイギリスをモデルに、各国の歴史を比較・分類して近代世界像を描いた。一方で、川北の文献では資本主義近代の歴史を、世界商品の生産・流通をコントロールし、世界システムの中核となった「支配する側」と、被植民地化されシステムの周縁に位置づけられた「支配される側」の構造化の歴史として描く。川北の議論では、現代に生じている格差の問題は、国ごとの発展段階の問題ではなく、世界規模での構造が問題となるのだ。さらに、岸本の『東アジアの「近世」』を取り上げながら、前近代の各地域の国家・経済的特色が、現在にもつながっていることが、著者である岸本の回想や解説と、編者との対話を通じて論じられる。

 第二章では、フランス革命と産業革命、1848年革命という近代史上の三つの転換点をめぐる歴史像を論じる。「課題テキスト」は遅塚忠躬『フランス革命』(岩波ジュニア新書、1997年)と、長谷川貴彦『産業革命』(山川出版社《世界史リブレット》、2012年)、良知力『向こう岸からの世界史』(未来社、1978年)である。ここでは、まずはフランス革命の捉え方をめぐって、遅塚の著書を中心に、フランス革命が「劇薬」化したことを「相対的後進性」に求めた歴史解釈を紹介する。さらに、遅塚以外の論者を取り上げながら、近代化を推し進めた革命主体や事件の層に注目するか、革命主体が生み出される状況や構造(傾向)に注目するかなどの着眼点の違い、明治維新との比較をめぐる論点を検討する。次に、長谷川の産業革命論を取り上げ、人類史上の分水嶺と評価する視点、グローバルヒストリーにおける産業革命分析の視点、推進主体としての発明家だけでなく民衆層への注目など、歴史家の視点を紹介する。さらに、長谷川も対話に登場し、1848年革命をめぐって良知の『向こう岸からの世界史』が指摘するように、支配と被支配の重層化など、単純化されえない複雑なありようを描くことが重要であると指摘される。

 第三章は、帝国主義や国民国家形成の時代におけるナショナリズムや人種論を論じた歴史が検討対象となる。本章では、江口朴郎『帝国主義と民族』(東京大学出版会、1954年)、橋川文三『黄禍物語』(筑摩書房、1976年)、貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書、2018年)が「課題テキスト」である。江口の世界史は、大塚の歴史発展の比較分析としての世界史ではなく、世界史全体の構造分析である。その歴史像は、帝国主義と民族を軸として、各国特殊な資本主義発展や封建的な要因のあり方と、世界的な資本主義的体制とを統一して把握しようと試みる点に特徴がある。二冊目の橋川は、ヨーロッパにおける「黄禍」観念の根深さや、19世紀の黄禍論に対する中国と日本における対称的な反応の現れ方から、近代日本の特異な人種観の変遷が論じられ、アジアにおける盟主としての日本人観が作られていく過程を独自の視点で描き出している。また、対話の中で「人種」も「民族」も歴史的に形成されてきた概念であり、操作的に用いられてきたことが指摘される。その上で、貴堂との対話を通じては、「大塚久雄が描いたような資本主義と市民社会を実現した『近代』像とは異なり、奴隷制がなおも存続し、それが終了したかに見えてもなお、国民から排除する人々を『人種』という形で作り出し、その抑圧的な政治によって国民国家の統合を実現していく『近代』のありよう」を指摘する。近代の帝国主義時代にあって、国民国家とともに作り出された人種や民族の問題が、現代の人種差別や排外主義、移民への抑圧という、どこでも、誰にでも起こりうる課題につながっていることが明らかになる。

 第四章では、20世紀の世界史像について、丸山真男『日本の思想』(岩波新書、1961年)、荒井信一『空爆の歴史』(岩波新書、2008年)、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(勁草書房、1982年)の三冊を中心に、戦時−戦後の連続性めぐる歴史学の論点を開示する。丸山は、「戦後歴史学」と似て、近代日本における「封建遺制」を指摘し、日本の特殊性=問題を論じる。日本の近代には、前近代と、超近代が雑然と同居しているという認識に立ち、権力の核心たる天皇制が「精神的機軸」としてこの事態に対処しようとする特殊な状況を生み出す一方で、主体としての個人を生み出すことができなかったとする。二冊目の『空爆の歴史』では、20世紀の戦争を空爆の視点から考察し、それが文明/野蛮という非対称の認識を背景になされる「大量虐殺」行為であると把握する。帝国主義の植民地戦争における空襲から、第二次大戦中の日本軍の生物兵器爆弾投下、アメリカが使用した原爆の正当化、ベトナム戦争時のナパーム弾やクラスター爆弾、冷戦体制崩壊後の「空からの一方的な戦争」に至るまで、「非対称性」が背後に連続して見られることを指摘する。本章のゲストとして登場するのは永原陽子であり、内海愛子の著作を論じながら、「戦争責任」ではない、「植民地責任」の考え方を解説し、世界史の構造的問題が連続していることを指摘する。

 最後の第五章では、第二次世界大戦後を「グローバル化」の時代として、どのような歴史像が描かれてきたのかを論じる。「課題テキスト」は、中村正則『戦後史』(岩波新書、2005年)、臼杵陽『イスラエル』(岩波新書、2009年)、峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』(岩波新書、2019年)であり、ゲストとして登場するのは二冊目の著者の臼杵である。まず、中村の『戦後史』にでは、日米関係論を軸にした内発的発展論を構想し、敗戦国が冷戦体制下でどのように歩んできたのかを描く。ただし、中東情勢の変化に対応して「戦後」が終焉に向かうなど、戦後日本の歩みを「グローバル化」の歴史像として把握する必要があると、編者の成田は指摘する。その上で、臼杵の『イスラエル』をとりあげ、「多様な内実をもつイスラエル国民を統合するためにホロコーストという歴史的経験が重視され、またテロをおこなうパレスチナ人という表象された『敵』への対決姿勢を強調することが、政権の支持基盤をつくっている」とする。臼杵自身はイスラエル国家では、その植民地主義的な国家の出発点を歴史としてどう描くかが問題となることや、イスラエル国家=「ユダヤ人の国家」ではなく、五人に一人はイスラエル国籍を取得したアラブ人であり民族と国籍でズレがある複雑な民族構成を認識しないと、イスラエル国家の性格を見誤ることになるという。最後の峯の『2100年の世界地図』は、グローバル・ヒストリーの視点に立って、2100年を予測するものである。世界の人口重心が21世紀中に「アフラシア」に移動し、現在の「私たち」が「他者」と認識する人々によって「成長」が担われるのである。近代化からグローバル化へと展開してきた世界史は、「西洋」の思想がそれを推進したのであり、世界史が提起する現在の課題も「西洋」の産物である。峯は「アフラシア」という「非西洋」における「非近代」に今後の世界史の可能性を見いだす。つまり、「未来」から見て何が「現代的諸課題」なのかを考えることでより多面的な検討が可能となるのだ。

3.おわりに:問題提起

 以上のように、本書は「歴史総合」が扱い、区分する時間軸に沿って、これまでの歴史学がどのような歴史像を提供してきたのか、それが変化してきたのかを検討し、現在地を確認している。また、近代化以降の世界史が作り出してきた現代的諸課題とは何かを、歴史像の検討を通じて示している。今年から必修科目「歴史総合」を学び始めた高校生の多くには、「課題テキスト」の著者や彼らが生きた時代についても理解しなければならず、読みこなすのが難しい書籍であるかもしれない。「歴史総合」という教科の内容を理解する・考えるためというよりは、教科の背景をよりよく理解し、教科の中で何を問うべきかを考えるための書籍であるといえよう。

 ところで、既に2017年には中学校の学習指導要領も改訂され、昨年度から新しい社会科が始まっている。高校の「歴史総合」や「世界史探究」で生徒が探究する世界史は、カリキュラム上でその上に位置するのである。改訂以前からも、中学校社会科の歴史的分野において世界史学習はあった。日本史が中心ではあるが、教科書の大項目では古代・中世・近世・近代・世界大戦・現代の別に、それぞれの時代の世界史(古代文明の始まり〜冷戦体制)が含まれている。中学校の社会においても「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)が目指され、知識の詰め込みではない学習が強調されている。

 本稿のおわりに、本書の趣旨に基づき、筆者の関心から問題提起をしたい(本書に対する批判ではない)。それは「問い」の難しさについてである。本書が一貫して重視するのは歴史の「問い」である。本稿のはじめにみたように、「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という「問い」を考えさせることが主眼であるという。恐らく、本書が目指しているのは、生徒自身が自らこの「問い」の言葉を発し、自ら世界史を探究するようになることであろう。

 ところで、筆者が大学で担当する授業の受講者に「歴史学習とはどのような行為か」を調査したところ、「正しい知識を記憶する」や「教科書やWeb等から妥当な歴史解釈を探す」よりも、「歴史的事実を探究する」「自らの視点・解釈をもって歴史を語る」「他者と歴史を語り合う」という選択肢に強く共感しており、歴史学習は主体的な学習であると認識していた。本調査の対象となった学生は、中学・高校の学習指導要領改訂前の学生である。

 もちろん、この結果をもって全国に一般化できるわけではないが、従来の学校教育の歴史教科を通じても、学習者は歴史学習に「主体的な探究学習」のイメージを持っていたのかもしれない。それが、「受験のため」や「仕方なく」に変わる場面はどこにあるのだろうか。

 本書各章の最後には、対話のまとめとして、「『歴史総合』の授業で考えたい『歴史への問い』が例示される。例えば、第一章であれば、「①『イギリス・フランス・アメリカが歴史発展のモデルである』という歴史の見方は、どのような点をその根拠にしているだろうか。また、そうした見方の問題点は、どこにあるだろうか」などの「歴史総合」の「問い」を提示するのだ。

 この「問い」はどこで、誰に、どのように投げかけられるのだろうか。もちろん、第一には本書の読者であり、対話形式による歴史像の多面的検討という手法をとる本書の各章を読み直し、よりよく理解させるためであろう。

 もし、これが「歴史総合」の授業・クラスという場で、教師が投げかけるのであれば、生徒は一斉に第一章の記述から正解を探そうとするだろう。そして適切な箇所をなるべく早く見つけ、マーカーで線を引こうとするだろう。そのとき、生徒は、自らの行為を「問い」に対する主体的な探究だと思っておこなうのだろうか。

 一方で、もし、生徒たちに本書が教材資料として配付されていなければ、この「問い」は「正解のない問い」として認識され、これをめぐる生徒同士の対話が求められているのだ、あるいは他の教科書や副読本などから検討する材料を探すのだ、と理解し、他者との対話に参加したり、検討材料を探そうとする行動をとるだろう。「問い」に対する「正解の内容」が定まらないのであれば、クラスの中で「正解の行為をすること」が次善の策になるのだ。そのとき、生徒は、自らの行為を「問い」に対する主体的な探究だと思っておこなうのだろうか。

 授業・クラスという空間では、教師と生徒に非対称の関係性が存在する。なぜなら、教師はルールを定め、発問・説明・指示をおこない、生徒を評価するからである。それは教育という営みでは当然のことであり、だからこそ生徒の学びをつくることができる。一方で、生徒は閉じた教室空間の非対称の関係性の中で、与えられた「問い」に取り組む。「何が正解か」には非常に敏感である。教師の「問い」は関係性の中で正解行為を促すのである。

 生徒は「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という問いに対して主体的に探究しようとするイメージを持ちつつも、授業が進むにつれて(あるいはこれも非対称の関係性である受験が近づくにつれて)正解行為を探す学習へと変わっていないだろうか。本書各章末の具体的な「問い」を生徒自らが発して探究するような場を、大学教育を含む学校教育の現場、小−中−高−大をつらぬく歴史教育のカリキュラムにつくることが課題であると考える。

(「世界史の眼」No.28)

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