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書評:北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー 大人のための現代史入門』(ミネルヴァ書房、2021年)
木畑洋一

 先に『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』(ミネルヴァ書房、2018年)という本を上梓して高い評価を得た著者が、その手法を引き継ぐ形で対象とする時代を20世紀から現在までに限定して著した本が、ここで取り上げる『20世紀のグローバル・ヒストリー』である。その手法とは、高校の歴史教育で用いられている教科書の内容にあくまで即しながら、著者なりの歴史像を提示していくというやり方である。参照された教科書は、前著においては「世界史B」(古代から現代までを詳細に扱う科目)の教科書であったが、本書では、それに加えて「世界史A」(近現代を中心に比較的簡潔に扱う科目)、「日本史B」、「日本史A」(BとAの違いは世界史と同じ)も参照されている。換言すれば、高校での歴史関係の教科書すべてを素材にしているわけであるが、それは、2022年から高校において新科目「歴史総合」が導入されるということに関わっている。従来の世界史と日本史を融合させる形で18世紀以降の歴史を扱うというこの新科目を見据えて、本書は書かれているのである。

 また前著と本書のタイトルがともにグローバル・ヒストリーという語を含んでいることから分かるように、著者が目指しているのは、グローバル・ヒストリーを意識した通史的叙述である。この点に関していえば、前近代についてもネットワークという考え方を適用して斬新な歴史像を提示した前著の方が刺激的であったとも感じられるが、本書でもさまざまな工夫が凝らされている。「はじめに」で著者が示している、グローバル・ヒストリーとして20世紀史を再構築する際のポイントは以下の5点であり、きわめて要を得ている。①人類共通の問題群を主軸にする、②国境をこえる関係性や結びつきを積極的に取りあげる、③地理的に広い範囲での歴史の動きを把握する、④大国よりもその周縁部に焦点を当てる、⑤「下からの」エネルギーに注目する。問題はこうした視点が貫徹した叙述になっているかどうかである。この内、③から⑤については、それなりに著者の努力がみられるものの(ただ③の広域性という視角は、前著においては非常に明示的に打ち出されていたが、本書ではそれほどでもないという印象をもった)、本書の「売り」となるのは、①と②ではないかと思う。それに関して例をあげてみたい。

 本書のプロローグ「20世紀前夜の世界」は、前著で著者が強調していたグローバル・ネットワークの完成についての議論から始まるが、そこで中心に据えられるのが、列強による植民地支配の拡大であり、さらにその支配を支えた人種主義である。人種主義は、上記の①にある人類共通の問題の一つであり、本書を貫く主軸の一つとなっている。著者は、1990年代初めのアパルトヘイト諸法の廃止に触れた個所で、「20世紀は人種主義の世紀だった。…人種主義が国家政策として公然と実施される時代はこれで終わった」と述べるのである。もとより人種主義そのものがそれで完全になくなったわけではないと著者は続けて論じるわけであり、このような形での20世紀論に評者は強い共感を覚える。

 また移民という問題も、「人類共通の問題」として重視されている。これをめぐっては、満洲国の建国後、日本が満洲移民を推進していく背景に、それまで日本人移民が多かったブラジルで強圧的な民族主義政策が開始されて移民が圧迫され始めたという要因も存在していたとの指摘が興味深い。これについての叙述に踵を接する形でナチ・ドイツのもとでのパレスチナへのユダヤ人移民問題を取り上げるといったところに、著者の巧みな工夫をうかがうことができる。

 ②の論点に関わる例としては、たとえば日露戦争とイラン立憲革命の関係をあげることができる。1906年のイラン立憲革命に日露戦争での日本の勝利が大きな影響を及ぼしたことは、これまでも教科書のなかで書かれてきたが、その様相を著者は簡潔ながら具体的に説明している。さらに、教科書ではお目にかかることはない指摘として、インドでのベンガル分割への反対運動に日露戦争が影響を与えた可能性が指摘されている。また、1960年代の世界の若者たちのカウンター・カルチャーと中国の文化大革命の同時性に着目し、前者への後者の影響に触れているところなども、印象に残った。

 こうした内容をもつ本書は、読みやすい文体で書かれており、教科書でおなじみのゴシック体による重要語句の強調も適度になされているなど、歴史教育のために使われるにふさわしい本になっている。ただ、注文したい点も若干存在するが、ここでは一点のみあげておこう。

 先に①から⑤というポイントを挙げたが、著者はそれに加えてあと二つの点を提示している。一つは、20世紀の世界史を10年毎に切り取る形で本書を構成するという点であり、いま一つは世界史と日本史の総合を意識するという点である。後者に関しては、ない物ねだりはいくらでもできるものの、本稿で指摘してきたような叙述など、工夫の努力がよく見られる。 

 一方、前者については、1930年代とか1960年代とか、確かに10年区分で議論をする意味がある場合も20世紀には多かったが、それでよいのかと思われる時期もある。たとえば1940年代である。これを一つの章にまとめてしまうと、1945年における第二次世界大戦終結の意味合いは、どうしても相対的に低められてしまうのではないだろうか。それは戦後変革の評価にも連動する。このことは、本書が念頭に置いている「歴史総合」での時期区分にもあてはまる問題である。「歴史総合」では、「国際秩序の変化や大衆化」という大項目と「グローバル化」という大項目とが、1945年ではなく、1950年代初めで区切られているのである。もちろんその区切り方を正当化する理由もありうるが、こうした点について何らかの説明が欲しかったところである。

 最後に一つ述べておきたいことがある。著者がこのような形で一書を著わすことができるというのは、日本の高校で使われている歴史教科書の中身がかなり標準化されていることの反映であるとも考えられる。叙述の中身にはそれぞれの特色が出されているとしても、頁数にせよ、用語にせよ、教科書がかなり似通ったものになっていることは否めない。固有名詞でも概念でも、従来の教科書で馴染みがないものは避けられがちであるし、頁数の制約のために叙述の密度も限られがちになる。本書は、そうした日本の教科書を素材にしながら、20世紀の世界史像をどこまで描けるか試した成果であるが、本書を読んだ上で、このような日本の歴史教科書のあり方自体を改めて問うてみることもできるのではないだろうか。

(「世界史の眼」No.22)

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『世界婦人』の伝える世界情報
南塚信吾

 『世界婦人』という新聞は、福田英子によって1907(明治40)年1月に創刊され1909(明治42)年7月まで、2年半にわたって、始めは月に2回、のちに1回のペースで発行された日本初の社会主義女性新聞である。わたしは神川松子の仕事を調べていてこの新聞に出会い、その視野の広さに驚いたのだった。それで改めてこの新聞を読み直してみた。幸い、労働運動史研究会編の『明治社会主義史料集』別冊(1)として『世界婦人』が全部収録されている。

 『世界婦人』は『新紀元』のあとを継ぐものと考えられていた。『新紀元』は、1905(明治38)年10月に平民社が解散させられたあと、11月から翌(明治39)年2月まで出ていたキリスト教社会主義の立場の新聞で、木下尚江、石川三四郎。安部磯雄、片山潜らが中心であった。

 『世界婦人』は、「女子をして最も自由なる天地に於て其の眞使命を自覺せしめ」、諸般の革新運動を鼓舞し開拓すること」を目指した(福田英子「發刊の辯」)もので、基調としてはキリスト教社会主義の立場に立っていた。ではなぜ、「世界」婦人なのか。「發刊の辯」にはそれは書かれていない。しかし、『世界婦人』の創刊を予告した『新紀元』最終号の記事は、こう言っている。『世界婦人』は婦人の世界的解放を成就せんことを以てその使命となす。故に『世界婦人』は先ず専ら世界的思想を婦人社会に注入するに勉むべし。『世界婦人』は此の脚地に立ちて、世界の政治問題、社会問題、宗教、教育、文学の諸問題を報導し、論議し、研究する、と(『明治社会主義史料集』別冊にある宮川寅雄の解説)。婦人の自覚は世界的視野でのそれが求められ、「世界的婦人」の出ることが期待されていたのである。それゆえに『世界婦人』は、婦人解放に関連する世界中の情報を提供していた。

 雑誌を主宰したのは福田英子であった。経営上福田を助けたのは、石川三四郎であり、寄稿したのは、二人のほか、安部磯雄、幸徳秋水、堺利彦、木下尚江、神川松子、片山潜らのほか、二葉亭四迷、板垣退助など、思想的に幅広いメンバーであった。福田英子をとおしてこの雑誌は田中正造とも密接な繋りを持っていた。

 では、『世界婦人』は、婦人解放に関連するどのような世界中の情報を提供していたのだろうか(本稿では、当時の用語に従い、「婦人解放」という表現を使うことにする)。『世界婦人』の全号の中から婦人解放に関する世界の情報を拾い出してみたい。ほぼ毎号、本文か「海外時事」という欄に諸外国の女性の動きについての情報が載せられていた。

 もちろん各号に載った福田英子、木下尚江、石川三四郎。安部磯雄、幸徳秋水らの論稿においては、時々海外の主題が含まれていた。たとえば、『世界婦人』16号では、幸徳秋水は「婦人解放と社会主義」と題する巻頭論文において、アメリカの「無政府党の領袖」エンマゴールドマン(エマ・ゴールドマン)を引いて、「婦人解放の第一着手は婦人をして社会主義を知らしむるにあり」と論じていた。

 しかし、『世界婦人』は、「海外事情」などの欄を設けて、そこで種々の海外での婦人解放にかんする情報を豊かに載せていたのである。この視野の広さには驚くほかはない。

 以下、どのような情報を載せていたのか、ジャンルに分けて「タイトル」だけを紹介しておこう。(・)は『世界婦人』の号数を示す。

1. 婦人労働(者)について

 「健脚の女丈夫」(英の郵便居局長)(5)、秘密印刷に従事する一日本婦人(ロシア)(11)、米国の婦人労働(14)、仏国の婦人労働、女子議員の職業―フィンランド(15)、仏国の婦人労働者(23)、アイスランド婦人の覚醒(27)、阿蘭(オランダ)婦人の訴願(29)、伯林(ベルリン)の婦人労働者(29)、婦人労働者同盟(英)(2)、英国の婦人労働協会(28)、英国婦人労働組合大会(30)、女子の裁判官(米国)(17)など。

 とくに婦人売買や女中問題などについて、

 婦人売買禁止列国大会(1)、下婢組合と下婢の権利(豪州)(7)、世界の女中問題(11)、英国女中団体(30)、家内労働者組合(14)など。

2. 婦人の運動 

 英国婦人の示威運動(2)、マンチェスターに於ける婦人問題大会(2)、英国婦人の覚醒(3)、独立労働党と婦人運動(3)、婦人達の擾動(英)(4)、女子教員の運動(16)、独逸の婦人運動(20)、英国女子の政治運動(22)、英国曼市に於る婦人示威運動(マンチェスター)(28)、萬國婦人大会(アムス)(28)、印度婦人団体(29)、滿洲の女馬賊(2)、流罪婦人の悲劇―シベリア(30)など。

3. 婦人参政権問題について

 英国婦人の選挙権運動(1)、豪州における婦人の勢力(選挙権)(2)ナイチンゲール女史と選挙権問題(5)、維納(ウイーン)通信―選挙権問題(5)、墺太利(オーストリア)の光景―普通選挙法可決(6)、英国婦人選挙権運動(7)、那威(なうるうえい=ノルウエー)と女子選挙権(16)、世界に於ける婦人選挙運動(21)、英国婦人選挙成行(25)、婦人参政権運動(英国)(26)など。

 これに関連して、婦人と議会に関するものとして、

 最初の婦人代議士、イギリス、フィンランド、ニュージーランド(12)、仏国婦人と議会(15)、芬蘭(フィンランド)国会(26)、香港議会における婦人問題の勝利(7)など。

4. 婦人と社会主義について 

 万国社会主義婦人会議(ドイツ)(16)、今週のすつっとがると=万国社会主義婦人会議(府人の万国的活動、ツェトキンスの働き振り、大会の花形役者ロザ・ルキセンブルグ、勇ましき武者振り、印度婦人の活躍など)(18)、英国の「教会社会主義者」(22)、欧州の社会主義者(22)、婦人社会主義者ルエーラ・ツッイニング(25)、墺國社会民主主義婦人大会(30)、婦人の社会主義観―シカゴ(31)など。

 これに関連して、婦人と革命という観点から、

 婦人は男子よりも革命を好む(7)、芬蘭の女子革命家(17)、露国革命婦人メリー・スピリドノヴワ(26)など。

5. 世界的に知られた婦人個人について

 マダム・ローラン略伝(3)、スノウデン夫人の演説(3)、ストウ略伝(4)、黄梁の一夢(烈婦ルイ、ミシェルを懐ふ)(5)、ルイ・ミセルの記念像(16)、「ヂァンダーク」略伝(24)、米国のプリマドンナ、ノルヂカ女史(35)、北米のプリマドンナ、イームス女史(36)など。

6. 婦人の教育について

 女子は学術に適せざる乎(15)、義務教育の延長(19)、英国女学生の光栄ある成功(26)、独逸に於る女子高等学校(29)、独逸婦人の勝利(30)、西洋文学と婦人の功績―帆雨棲主人(35)など。

7. 婦人の自由について

 文豪カーラエルと婦人自由問題(9)、土耳古(トルコ)婦人の自由(30)など。

 ここに見るように、婦人の労働、婦人の運動、婦人参政権問題、婦人と社会主義、それに婦人と教育が主なテーマであった。婦人解放は社会主義との関連でのみ実現されるという意識が強かったことを思わせる。また、婦人運動の組織化、婦人同盟の諸問題にも強い関心を寄せていた。すでに婦人売買や女中問題などにも関心を向けていた。そして、当時もっとも婦人解放の進んでいたイギリスを中心としつつ、フランス、ドイツ、オランダ、オーストリア、ノルウェー、フィンランド、ロシア、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国、あるいは、トルコ、インド、香港などに視野を広げ、滿洲やシベリアにおける婦人の状況にも関心を向けていた。『世界婦人』はこのような世界的な視野の元で、婦人の解放を考えてその2年半の生を終えたのであった。たしかに、婦人の自覚は世界的視野でのそれが求められ、「世界的婦人」の出ることが期待されていたことが伺える。そして婦人解放のために世界中で行われていることをすべて吸収して日本での婦人解放に生かそうという意気込みが見てとれる。世界史における重要な「傾向」が日本に「土着化」されようとしていた瞬間を見る事が出来る。この雑誌を中心に、当時の日本を含む世界における「婦人解放」の運動や思想の全体像がもっともっと研究されるといいのではないかと思った次第である。

(「世界史の眼」No.21)

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文献紹介 林忠行『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)
木村英明

 多くの人が、日本史や世界史の教科書ないし参考書で、「チェコスロヴァキア軍団」(以下、「軍団」)の名前は目にしたことがあるだろう。例えば日本のシベリア出兵の大義名分になった存在として、あるいはまたボリシェビキによる拙速なロシア皇帝ニコライ2世一家殺害の誘引の一つとして。しかしこのチェコスロヴァキア建国以前に姿を現した「軍団」が、なんのためにどのような経緯で組織され、第一次世界大戦とロシア革命期の混沌の渦中でいかなる活動を繰り広げ、その結果地域と世界の歴史に何をもたらしたのか、その詳細を叙述し、考察した日本語書籍はほぼ見当たらない。おそらく、これまでにもっとも多くの情報を提供してくれていたのは、同著者による『中欧の分裂と統合−マサリクとチェコスロヴァキア建国』(1993、中公新書)である。この前著では、初代大統領に就くことになるマサリクという個人を軸に、彼が世界をへめぐり、各国の政治状況、国際情勢と切り結びながら建国へと至る道のりが描かれていた。今回の著書は、独立国家創設を図るマサリクの切り札となる、しかし規模的には決して戦争の帰趨を決するような大兵団ではなかった「軍団」の活動を通して、チェコスロヴァキアという国が中欧に現実の姿を持つようになる過程、ならびに当時の入り組んだ世界史の形を巧みに浮き彫りにしていく。

 本書はプロローグとエピローグ、序章と終章に挟まれた全5章から構成される。文芸書を想起させるような、研究書としては独特な構成といえるかもしれない。まずプロローグで、著者はプラハのヴィートコフ丘にある無名戦士の墓を紹介している。そこに15世紀前半、フス派を率いて神聖ローマ皇帝軍と戦ったヤン・ジシュカの巨大な像がたち、その足もとに軍団兵士の遺骨も収められているからだ。ジシュカが19世紀以降のチェコナショナリズムにより神話化されたと書く著者は、両大戦間期において英雄視されていた「軍団」将兵の遺骨が1989年の共産党体制崩壊後になってそこに埋葬された経緯を叙している。社会主義期の歴史観を槍玉に挙げているのではなく、おそらく著書の冒頭部で単線的な語り=神話化に対する注意が喚起されているのだと思われる。著者は本書中で自らの叙述を何度か「物語」と呼ぶ。神々の趨勢を語る神話は批判を許さない非歴史的なものだろうが、人びとの来し方の物語は複線的であり、歴史であるだろう。エピローグは「最後に、軍団にかかわった人々のその後をたどって、この物語を終えることにしよう」と始められている。プロローグとエピローグが共鳴して、「物語」に隙のない枠を形作っていることが感じ取れる構成である。

 各章の内容については著者自らが序章で記しているのだが、以下に簡単に紹介しておく。

 序章では「軍団」の物語を始めるにあたって、ハプスブルク君主国(以下、「君主国」)中のボヘミアと上部ハンガリーの歴史空間、そこに住まう人びとの多言語性やナショナリズムの萌芽が語られる。また、「世界革命」と「世界戦争」の時代を歩んだ「軍団」を主人公に据え、「君主国」史と対ソ干渉戦争史を接合する形で整理するという本書の方向性が明示されている。

 第1章は大戦勃発を受けて、ロシア帝国領内のチェコ系・スロヴァキア系移民が、「軍団」のもととなる「チェコ・ドルジナ」(ドルジナはチェコ語で「従士団」の意)と名付けられた親ロシア義勇軍をキエフで結成したこと、またその軍旗の紋章の配列から、スロヴァキアがボヘミア諸邦の一つのように扱われていたことに触れている。この義勇軍は、近代ナショナリズムに基盤を置くチェコ系の体操運動「ソコル」の影響を受けていた。そして1916年に義勇軍は「チェコスロヴァキア狙撃連隊」と、初めてチェコスロヴァキアを冠する軍へ改称されたという。

 第2章は、大戦初期の「君主国」内に見るチェコ系政党と政治家の国内自治要求、それに対するロシアと結んだスラヴ帝国構想(ネオスラヴ主義)の議論を追跡する。前者の議論はボヘミア諸邦の「歴史的権利」に依拠していたため、スロヴァキアを含んでいなかった。並行して、パリとロンドンを軸足に独立運動を開始したマサリクの思惑が解説される。ロシアの帝政に批判的だったマサリクであるが、独立国家の領域についてはネオスラヴ主義者と同様に、スロヴァキアを含むものであったことが明らかにされる。そして1915年11月、「チェコ人在外委員会」の宣言で公式に「チェコスロヴァキア国家」の表現が使われたという。翌1916年2月頃には「チェコスロヴァキア国民評議会」(以下、「評議会」)が設立され、スロヴァキア人のシュチェファーニクが副代表として加わり、議長のマサリクを支えることになる。「評議会」は海外政府から認知を受けるようになるが、英仏ら協商国はまだ独立国家創設を支持しているわけではなかった。さらに、親ロシアの移民組織が独自に国民評議会設立を図るなど、この「評議会」内部にも路線闘争が起きた。アメリカ在住のチェコ系、スロヴァキア系それぞれの移民組織が結んだ「クリーヴランド協定」(1915)と「ピッツバーグ協定」(1918)にも触れられている(そこにはチェコとスロヴァキアの連邦化が約されていたため、独立後、両者の関係に火種を残すことになってしまった)。

 第3章は、1917年の二つのロシア革命に対応する「評議会」と「軍団」の動きが中心となる。2月革命は、ロシアにおいても「評議会」がマサリクの指導下にまとまることを促す契機となった。いっぽうでまたケレンスキーの臨時政府は、他国の地で祖国の軍と戦い、独立国家創設を掲げるチェコスロヴァキア義勇軍を快く思っていなかったが、「軍団」は独・墺軍に対するロシア臨時政府の7月攻勢下、ズボロフの戦いで名をあげる。その戦功の大小はさておき、両軍ともにチェコ系兵士多数であったことから、著者はこれを異国の地における内戦と呼び、革命戦争を象徴する戦いとしてのちに神話化されたと語る。また、この戦いにおける独・墺軍チェコ兵士の投降も愛国的行為という神話に昇華されたという。マサリクはこの機にロシア政府にたいし、「軍団」が「中央諸国と戦闘状態にある革命軍」であること、同軍が軍事的にロシア最高司令部に従うものの、政治外交面で「評議会」が責任を負うものと認めさせた。その後の10月革命とロシアの戦線離脱は、「軍団」にとって独・墺軍との戦場消滅という結果をもたらした。内戦に突入していくロシア国内で、「軍団」内部では革命軍への参加、あるいは反ボリシェビキ軍への合同と意見が錯綜する。マサリクの決断は、「軍団」の中立維持とフランスへの移送であった。ソヴィエト政権との間に「ペンザ協定」が結ばれ、武器携行の制限を受け、民間人としての移動が認められた。後続の章で、この協定への反発と「軍団」の反乱が語られることになる。

 第4章は「軍団」のシベリア横断とその反乱を取り上げる。ウラジオストクへ向けて東進を開始した「軍団」であったが、赤軍への編入を望むトロツキーの思惑、ドイツ人捕虜の帰還にとってその存在を障害とみなすドイツ政府の介入、さらにチェコ系、スロヴァキア系共産主義者による妨害行為などが絡み合い、遅々とした歩みを余儀なくされる。そうしたなかで、1918年5月には「軍団」とソヴィエト軍の衝突がチェリャビンスクで起き、「軍団」はチェリャビンスクを占拠してしまう。直後に開かれた代表者会議で、「軍団」はペンザ協定に背き、武装解除を拒否することを決め、反ソヴィエト反乱へと突き進んでいく。軍は長大なシベリア鉄道沿いに「チェリャビンスク・グループ」、「ペンザ・グループ」、「ノヴォニコラエフスク・グループ」の3つの部隊に別れて、それぞれを若い士官が指揮することになった(3人の若い士官はたちまちに少将へと昇進する)。各軍とも実戦経験に乏しい急拵えのソヴィエト軍を圧して進軍し、また反ソヴィエト勢力との協力関係も築き上げる。マサリクによる内戦への不介入、中立維持の指示は守られなかったことになる。

 第5章ではロシアの戦線離脱を受けた連合国の東部戦線に対する対応、それに絡んで「評議会」と「軍団」の扱いが移り変わっていく軌跡が綿密にたどられる。まずイギリスは、「軍団」がロシアに留まり東部戦線の再構築に投入されるべきだと考えていた。他方、フランスは西部戦線でドイツの攻勢に備えるために、「軍団」のフランス移送にこだわった。独立国家成立後に外務大臣を務める「評議会」事務局長のベネシュは、「軍団」を手札に各国の利害の狭間で独立国家の可能性をかけた外交を展開することになる。4月には、ウラル以西の「軍団」をアルハンゲリスクないしムルマンスクに移動させるイギリス案にベネシュは同意したとされるが、翌5月に「軍団」の反乱が始まってしまう。西部戦線で苦戦する英仏軍の要請を受け、日本やアメリカは「軍団」救援を目的にロシアへの軍事干渉を決定し、著者の言によれば「軍団」は「連合国の前衛」となった。このような状況の変化を受けて、連合国の「君主国」にたいする政策も転換していく。チェコスロヴァキア独立には明確な支持の声が上がらなかったものの、英仏は相次いで「評議会」を国家の代表として承認する。また国際情勢の変化を映して国内でも、以前の「チェコ国民委員会」が7月に、スロヴァキア人メンバーは不在ながら「チェコスロヴァキア国民委員会」と改組され、チェコスロヴァキアを名乗る国家の現実味が増していく。この時期、チェコスロヴァキア人という言葉も新聞等の見出しにふつうに用いられるようになっていたという。国内組織は「君主国」内への残留にこだわる派もあったようだが、終章で述べられるように、ボヘミア諸邦で19世紀後半から育まれた政党政治は、異なる意見を調整し妥結点を見出すほどに成熟していた。1918年10月28日、チェコスロヴァキアは独立を宣言し、イタリアで戦っていた義勇軍の力を得て、上部ハンガリーのスロヴァキア地域も構想通り新国家の領土に組み込まれた。

 終章では、ロシアの「軍団」が内戦下で物資確保のために行った工場運営などの経済活動が紹介されていて興味ぶかい。国家独立後に「在露チェコスロヴァキア軍」となった「軍団」は、新たな祖国へ帰還するために、赤軍が攻勢を強めるシベリアを逆方向のウラジオストクへ向けて進み続けた。1919年10月に始まった正式撤退は、オムスクの反ボリシェビキ政権の崩壊もあって困難な道のりとなる。1920年4月には、「軍団」と日本軍の間で、当初の発砲がどちらからだったか曖昧なままに銃撃戦となった、いわゆるハイラル事件も起きた。最後の部隊がようやくウラジオストクを出港したのは、同年9月に入ってのことだった。「軍団」を舞台回しに語られた建国の物語の最後に、著者はその後の国家をみまうことになった、ドイツ系住民の追放問題や1992年末日のチェコとスロヴァキアの分離についても触れている。ナショナリズムを規定するのは国内要因以上に、それを取り巻く国際環境であるという指摘は、本書を通読した後で確かな説得力を持って迫る。

 国家成立後、両戦間期から第二次世界大戦を経て、戦後の社会主義期を各自各様に過ごした本書登場人物の生涯が簡潔に示されたエピローグは、胸に染みる。

 拙稿を閉じるにあたり、私事になり恐縮なのだが、一つのエピソードを紹介することを許していただきたい。30年近くもまえ、著者とわたしはスロヴァキア南西部のとあるお宅にお邪魔したことがあった。著者はチェコ語で、当時本国でもよく知られていなかった「軍団」の活動と建国の歴史を熱心に語られた。その家の、日本式に言えば小学校上級生程度だった少年は、この折の経験に忘れ難い印象を受け、大学で国際関係論を学び、現在は国際関係に特化されたNGOで活躍している。著者のグローバルな視野は、現実においてもグローバルに作用したのである。

(「世界史の眼」No.21)

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ラムザイヤー論文の<腹話術>と北米・知の生産のポリティクス[i]
米山リサ

 ハーヴァード大学三菱日本法学教授J・マーク・ラムザイヤーの論文 「太平洋戦争期の性行為契約(”Contracting for Sex in the Pacific War”)」は、2020年12月にオンライン掲載された後、多方面からの広く厳しい批判を招くことになった。[ii] 当論文への批判は国境や言語の壁だけでなく、ディシプリンやアカデミズムの内外を隔てる敷居を超え、多くの人々を巻き込み、その抗議の内容は多様性を極めた。一本の論文を契機にこれほど多くのさまざまな批判が結集した背景には何があるのか。①北米における日本に関する知の生産、②歴史認識と社会のあり方をめぐるトランスナショナルな攻防、③北米の政治学に代表される社会科学に共通する知的態度―以上3点に絞って述べてみたい。

 「太平洋戦争期の性行為契約」が問題視されていることを知ったのは、同僚の朝鮮史研究者が署名運動について知らせてくれたのが最初だった。論文を掲載した『International Review of Law and Economics』誌への抗議文には、2021年2月の時点で経済学者エコノミスト、法学者、歴史学者、ゲーム理論家、アジア研究者、学術誌編集者など3000名を超える賛同署名が寄せられた。日本内外の反コリアン差別者、自己憐憫的ナショナリスト、歴史歪曲者たちが当論文に賛辞を送り、著者を擁護する一方で、その後も多分野、多方面からの抗議がブログやツイッター上で相次いだ。

 批判と糾弾がここまで広範で多元的になった理由のひとつは、 当論文の日本軍慰安所制度についての歴史記述が問題視される過程で、実は同著者が他論文でも誤った記述や差別的な見解を繰り返していた事実が明るみに曝されたことにある。看過できない誤謬を含んだ記述や偏った知識などを引用し、一義的にゲーム理論に応用して論文を発表してきたラムザイヤーの過去の業績の詳細が、幾人もの研究者によって明らかにされた。[iii] 

 抗議の矛先は多岐に及ぶが、共通して問題視されているのは、著者の「マイノリティ」観である。ラムザイヤーの一連の論文は、被差別部落、在日コリアン、沖縄の基地問題、福島の原発誘致行政などを日本の「マイノリティ」あるいは「下層階級」の事例として提示し、当該コミュニティを取り巻く経済的困難、階級間移動の欠如、機会の不均等、危険や環境汚染や健康被害などの負担の不公平配分などについて、その原因を政治的主流派や社会構造に求めるのではなく、被害者や「マイノリティ」の側の経済合理的判断にあるとする。地方交付金や行政による福祉や助成、閉ざされた民族コミュニティ内の階層化を利用した暴力的搾取など、被害者や「マイノリティ」であることで生じる(とラムザイヤーが信じる)利権の獲得・保全のために、不公正を訴える人々が自分の属する集団に対する差別や周縁化を自ら招いているとする被害者自己責任論である。

 北米における日本に関する知の生産という本稿の関心にとってとりわけ興味深いのは、米国には激しい「政治対立(polarization)」があるため、人種や民族のポリティクスについての「率直な議論(candid discussion)」は極めて難しい状況にあるが、日本の社会的差別や「マイノリティ」の事例を用いるなら思い通りの議論が許されるだろう、とラムザイヤーが述べたり示唆したりなどしている点だ。[iv] 

 ラムザイヤーが「政治対立」と呼ぶのは、90年代以降、既存の知と社会の変革を求める動きのさらなる広がりに恐れをなし、これを封じ込めようとする苛烈な反動が巻き起こした「文化戦争(culture wars)」のことである。「文化戦争」とはつまるところ、家父長的で異性愛規範主義的ヘテロノーマティヴなアメリカ白人至上社会の構造―19世紀的文明の規範であり、今日まで継続する植民地的支配と人種化された資本主義近代のあり方―をめぐる攻防に他ならない。[v] ラムザイヤーが人種や民族について自由に議論をさせてもらえないと苛立ちを募らせる背景には、知と社会のあり方への異議申し立てを封じ込められない北米の現状がある。要するにラムザイヤーによる日本の法経済論とは、変容するアメリカに身を置く著者自身のフラストレーションと敵意を日本を語ることを通じて表明する、いわばトランスナショナルな<腹話術>なのである。[vi]

 たとえばラムザイヤーの被害者自己責任論には、カリフォルニア州でとくに激しく交わされた積極的(差別)是正措置(affirmative action)の撤廃を求める議論と多くの共通点がある。積極的是正措置とは、大学やアカデミズムに限らず、北米の公共空間一般の構成員の多様化を推進する立場から、人種やジェンダーなどによって特定の人々が歴史的に排除されたり従属化されてきた構造を是正する行政などによる積極的介入を指す。これに対し、積極的是正措置が「逆差別」であるとか、差別を助長するといった理由で、共和党を主とする保守や極右その他の白人優位の現状や個人主義を肯定する立場からの撤廃要求が起こり、バックラッシュは凄まじさを増していった。2006年のトランプ政権成立を可能にした要因、あるいはその対極にあるブラック・ライヴズ・マター(BLM)やアイドル・ノー・モア(Idle No More)に代表される先住民による北米の脱植民地化の訴えの広がりの背景に、この争いがあることは想像に難くないだろう。

 ラムザイヤーはさらに、政治対立によって封じられた議論の例として有名な「モイニハン報告書」(1965年)を挙げる。[vii] 当時民主党政権下の労働省次官補だったパトリック・ダニエル・モイニハンによって作成されたこの有名な報告書は、アフリカ系アメリカ人の貧困の原因がシングル・マザーを長とする黒人家庭にあるとし、家父長的な家庭の建設が貧困の解消に欠かせないとする政策を提言した。報告書は、奴隷制や反黒人差別や白人至上主義などの歴史的諸要因を無視し、被害者だけに責任を転嫁し非難していると批判された。この報告書はアフリカ系アメリカ人のなかでも一人親家庭やレズビアニズムを標的としたことから、レイシズムとナショナリズムが異性愛規範的な家族主義と切り離せないことを示した好例ともみなされている。そのため、今日多くの研究分野に大きな変化を促しているクウィア・オヴ・カラー批評(queer of color critique)の契機ともなった[viii]。他方、ラムザイヤーのように、モイニハンはタブー視されていた問題を指摘したために政治の犠牲となったとして、同情を寄せる保守およびリベラルな論客は後を絶たない。

 被害者への責任転嫁、「マイノリティ」化された集団に対する執拗な差別と偏見、多様性の拒絶、さらには歴史による構造的な周縁化こそが社会的少数者を生む主要因だと捉える歴史認識を否定し、社会的不公平の是正や歴史的損傷のリドレスのための施策を愚弄するシニカルな態度――ラムザイヤーの日本版被害者責任論はこのように多くの点で、北米における積極的差別是正措置の撤廃要求、ひいては「文化戦争」を挑発したバックラッシュと強力につながっている。

 しかし実のところ、ラムザイヤー流の<腹話術>は、北米とりわけ米国における日本に関する知の生産において珍しいわけではない。文化的他者としての日本を肯定的に描くことを通じてアメリカの社会規範を表明し正当化するというパターンは、今日も映画やその他メディアにひろく表れるだけでなく、北米における日本に関する知の政治的無意識といってもよい近代化論もしくは近代化論の系譜上にある日本研究に見出すことができる。

 ルース・ベネディクトに代表される戦時期の国民文化研究から冷戦期にかけて北米のアジア研究を強力に形作った近代化論は、日本の近代が欧米のそれに比べて遅れているか、あるいは伝統や封建残滓によって歪曲されているという前提に立ち、これを例証するというトートロジカルな地域研究の手法を再生産してきた。[ix] 意識されるかされないかに関わりなく、この知のフレームが今も強固でありつづける理由は、日本を対照物とすることで、アジア太平洋戦争後の北米とりわけ米国の道徳的優位を確認し、正当化することを可能にする地理歴史認識を提供してきたためであるのは言うまでもない。しかし近代化論は同時に、日本をアメリカ型近代化の(未熟な)模範国として賞賛する。すなわち資本主義を支える勤勉、通俗道徳、家族主義、国家への忠誠など、善きアメリカの精神的価値や規範が形は多少違っていても日本にも見いだせる、とする言説であり、それは戦後占領によるリハビリを遂げた日本をアメリカにとって望ましい冷戦の同盟国として位置づける効果ももたらしてきた。そこに成立しているのは、米国的資本主義近代の(相当な)成功例として日本を褒め称えることで米国の規範的価値や優位を肯定する、というトランスパシフィックな相互慰撫の関係である。[x] 日本の保守政党は、この言説が承認する従属的だが確かな位置をありがたく押し頂くことで、今日までこの構造を支え続けてきた。

 歴史認識の観点でいうなら、この日米の相互慰撫の関係は、日米がともに近代植民地帝国の軍事侵略者として犯してきた暴力の歴史や記憶を相互に隠し合い、歴史的損傷のリドレスの可能性をそれぞれ抑圧してしまうという深刻な結果を招いてきた。私はかつてこれを「忘却の共犯関係」と呼んだことがある。[xi] 日本軍「慰安婦」問題をめぐるより最近の例では、日韓の外相が「最終的かつ不可逆的」な解決をめざしたとされる2015年の日韓「合意」に対し、アメリカが早々に歓迎の意を表明したことにこの関係が表れていた。アメリカが「合意」を後押しするのは、中国との新たな冷戦を戦うためには同盟国である韓国と日本との良好な関係が不可欠であるからに他ならない。[xii]

 しかしラムザイヤー論文をめぐって極めて多くの、広く多様な抗議の声が、国境を越え、しかも短期間に集結したという事実は、日米の共犯関係が維持してきた知や社会のあり方が、各所ですでに大きく揺らいでいることを示している。また、日本軍「慰安婦」問題が、日本による国家責任の否認に起因する歴史認識の問題であると同時に、性に関する規範、女性蔑視、ブルジョワ階級文化主義、軍事主義、レイシズム、ナショナリズム、冷戦という(新)植民地主義などの諸関係から成るアジア太平洋地域の現況を輻輳的に問うことなしには済まされない問題であることを明らかにしているともいえるだろう。冷戦が生み出したトランスパシフィックな親密さは、日米の「忘却の共犯関係」を支える一方で、国境を越えてこれに対抗する多様な動きを結びつけるトランスパシフィックな関係も同時に生み出してきた。ラムザイヤーの不満と苛立ちは、差別的で植民地的な歴史認識を維持することが困難になってきていることの兆候だといえるかもしれない。

 さまざまに異なる場や位置から輻輳的に発せられ、しかし奥底深く連携した批判の結集が明らかにするのは、もはや日米の共犯関係によって歴史責任を回避し続けることはできないという新たな局面であり、レイシズムや家父長的異性愛規範主義の歴史が堆積させてきた序列化や、排除の構造に対する多様な異議申し立てを封じ込めることはすでに容易ではなくなっている、という希望である。そこに見出せるのは、資本主義近代とあらゆる植民地的編成からの撤退、すなわち来るべき真の変革かもしれない。

***

 「太平洋戦争期の性行為契約」の学術論文としての杜撰さを現時点でおそらく最も徹底的に洗い出しているのは、多くの日本語の著作でも知られる歴史学者テッサ・モーリス-スズキではないだろうか。日本軍「慰安婦」は性を交換するために民間業者と自由な「契約」を結んだ経済合理的主体であった、という著者の議論を裏付ける資料や「契約」の証拠さえ提示されていないという根本的な欠陥は言うまでもなく、数か所に及ぶ引用文献の乱用や偏り、引用頁の誤記載や割愛など、ラムザイヤー論文が学術論文としての体をなしていないことを根気よく、丁寧に解き明かしている。この杜撰な論文を調査や研究の誠実性(integrity)とは何かを議論し学習する好機ととらえ、研究者が目指すべき正当な学術論文の基準や原則プリンシプルが何であり、ラムザイヤー論文がそれらをいかに満たせていないかをQ&A方式で伝えようとするモーリス-スズキのセンスの良さも際立っている。研究者が教員でもあることの意味を考えたい人たちにぜひ読んでもらいたい。[xiii]

 それにしてもなぜ、学術論文の基準を満たしていないにもかかわらず、あるいは誤った記述や研究倫理に反する論述を繰り返してきたにも関わらず、ラムザイヤーの論文はこれまで問題なく掲載を許可されたのか。最後にこの点について簡単に触れておこう。論文の内容自体にはさほど関心のない人々も含め、当然多くの研究者がこの疑問を抱いており、冒頭で触れたエコノミストによる抗議文など、掲載誌の査読の経緯や編集者の意思決定の責任を問う声は少なくなかった。

 故政治学者チャルマーズ・ジョンソン他によるラムザイヤーの共著書『日本の政治市場』(1993年)の書評は、今ようやく明るみに曝された多くの問題が論文の査読者によって見過ごされてきた背景に、普遍主義的な社会科学の知的態度の怠慢と傲慢があることを示唆している。[xiv] 

 一般に米国の政治学や経済学は、北米以外の地域に関する研究を特殊な事例に限られる分析やデータとみなし、普遍的に応用される(と信じられている)ディシプリンに固有な理論を説く論述に比べ劣位に置く傾向がある。これに対しジョンソンたちは、ゲーム理論の大枠である「合理的選択理論(rational choice theory)」を用いたラムザイヤーの共著書を評し、普遍性を標榜する社会科学の最も劣悪な研究例だと厳しく批判した。書評によれば、合理的選択理論はアメリカの経済的個人を基本とし、その個人主義的合理性が(実は文化的に特殊であるにもかかわらず)通文化的に普遍であるとみなす前提を問わない。その結果、地域の歴史や文化を無視し、困難な言語の習得や綿密なフィールド調査の必要性を認めない、あるいはデータの集積は現地アシスタントに頼れば十分だという研究方法を正当化することになる。この手法では深く掘り下げた知識は生まれないのは当然なのだが、こういった研究ではたとえ解明できない矛盾点が生じたとしても、分析モデルの整合性を優先することが重視されてしまう。ラムザイヤーの共著書にいたっては、「理論を破綻させないためには、日本でまだ一度も耳にしたことのない実践慣行を捏造せざるをえない」例であると結論づけ、もっと酷い場合には「事実の改ざんや偏向した言い換え」が生じることさえある、とジョンソンたちは告発している。

 ラムザイヤーの論文の掲載を許してきた書誌の編集者、査読者、専門的読者たちの間で、歴史や文化に関する深い考察を軽視し、資料や証拠の吟味をないがしろにする態度が共有されており、そのために事実に反する記述や論考の杜撰さに気づくことができなかったとは言えないだろうか。

 私がまだ若かった頃にカリフォルニア大学の同僚として知り合ったジョンソンは、知的好奇心あふれる叡智の人であり、CIA白書の作成など愛国者としての仕事を続ける一方で、「普遍的」モデルを優位に置く社会科学が知的探求の怠慢に陥っていることを憂慮していた。ジョンソンの「文化」や「伝統」の捉え方は非歴史的であり、古典的オリエンタリズムの文化決定論やアジア特殊論にも通じる限界が多々あることは否めない。それでも今回、ラムザイヤー論文について考えるうえであらためてジョンソンの論考に触れ、普遍主義の傲慢ともいうべき知的態度の行き着く先を鋭く見抜いていた彼の慧眼に、あらためて新鮮な感銘を受けたことを記しておく。

2021年8月13日 トロントにて。


[i] 本稿は、Fight for Justice緊急オンラインセミナー「もう聞き飽きた!『慰安婦は性奴隷ではない』説」(2021年3月14日)でのコメントと、岩波書店の渕上晧一朗氏が雑誌『世界』のために企画された板垣竜太氏との対談(2021年6月17日)での発言の一部をもとにしている。

[ii] J. Mark Ramseyer, “Contracting for Sex in the Pacific War.” International Review of Law and Economics 65 (2021) 105971.

[iii] 当論文をはじめ、ラムザイヤー氏が過去に発表した論文、抗議声明、署名活動、論考などは以下のサイトで読むことができる。Resources on “Contracting for Sex in the Pacific War” in the International Review of Law and Economics (chwe.net)

[iv] J. Mark. Ramseyer, “A Monitoring Theory of the Underclass: With Examples from Outcastes, Koreans and Okinawans in Japan” (January 2020). 引用は2頁。

[v] 「文化戦争」については、拙稿「多文化主義論」綾部恒夫編『文化人類学20の理論』(弘文堂、2006年)を参照。小山エミは以下の論考でラムザイヤーなど日本の保守に歓迎されているアメリカ人学者の白人至上主義について明言している。「「ラムザイヤー論文騒動」の背景にある白人至上主義」『週刊金曜日』(2021年4月22日)。http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2021/04/22/news-87/2/

[vi] 「トランスナショナルな腹話術」は以下より。Lisa Yoneyama, Cold War Ruins: Transpacific Critique of American Justices and Japanese War Crimes. (Duke University Press, 2016). 

[vii]  “On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japan,” Review of Law and Economics 16, no. 2 (2019); “Social Capital and the Problem of Opportunistic Leadership: The Example of Koreans in Japan.” European Journal of Law & Economics (2021) など。

[viii] 「モイニハン報告書」とクウィア・オヴ・カラー批評の関係については、Roderick A. Ferguson, Aberrations in Black: Toward a Queer of Color Critique. Minneapolis: University of Minnesota Press, 2004.

[ix]  ルース・ベネディクトおよび近代化論と日本研究については、拙著『暴力・戦争・リドレス―多文化主義のポリティクス』(岩波書店、2003年)など。

[x] 日米の相互慰撫のより最近の表象例は、拙稿「日本を語る位相――アメリカ研究とアジア研究のポストナショナル」『日本学報』29(2010年3月)8頁。

[xi] Lisa Yoneyama, “Complicit Amnesia: The Smithsonian ‘Atom Bomb Exhibit’ Controversy in Japan and the United States. Paper presented at American Anthropological Association Annual Meetings, Washington, D.C. (November 1995). 「越境する戦争の記憶―スミソニアン原爆展論争を読む」『世界』614号(1995年10月)。前掲書『暴力・戦争・リドレス』所収。

[xii] 日韓「合意」を多角的、世界史的に批判した論評は、中野敏男他編『「慰安婦」問題と未来への責任―日韓「合意」に抗して』(大月書店、2017年)。

[xiii] Tessa Morris-Suzuki, “The ‘Comfort Women’ Issue, Freedom of Speech, and Academic Integrity: A Study Aid.” The Asia-Pacific Journal vol.19:5, no.12 (March 2021).

[xiv] Chalmers Johnson and E.B. Keehn, “A Disaster in the Making: Rational Choice and Asian Studies,” The National Interest, Summer 1994, No.36 (Summer 1994): 14-22. ジョンソン他が酷評したラムザイヤーの共著書は、Mark Ramseyer and FrancesMcCall Rosenbluth, Japan’s Political Marketplace (Cambridge: Harvard University Press, 1993).

(「世界史の眼」No.20)

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書評 リチャード・J.エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』木畑洋一監訳、原田真見、渡辺愛子、芝崎祐典、浜井祐三子、古泉達矢訳、岩波書店、二〇二一年七月刊行
平田雅博

 本訳書のあちこちにある形容句でいう「世界中で最も有名で広く読まれる」歴史家の仕事を私ももっぱら翻訳を通じて読んできた。中でも『素朴な反逆者たち』『匪賊の社会史』『創られた伝統』は何といっても読んで楽しかったし、世界史関連の『革命の時代』『資本の時代』『帝国の時代』に『産業と帝国』を加えた「長い一九世紀史」の四部作は、書評したり引用したり授業のネタにもしたりしてきた。前から三冊に加えて「短い二〇世紀」を扱った『極端な時代』を含めて「近現代史の四部作」との見方もある。本書にはこれらの著作の出版に至る過程や出版後に寄せられた書評群も紹介されており、ほぼすべて未知だったために興味をそそられた。

 とりわけ上記の五点への書評でしばしば繰り返された批判は、「ポストコロニアル」のサイードに代表的に見られるような、ホブズボームの「ヨーロッパ中心主義」的な傾向を指摘するものである(下巻、二二七頁)。ただ「ヨーロッパ中心主義」という意味を視野がヨーロッパだけに限られ非ヨーロッパはまったく触れていないとするのであれば、間違いである。博士論文の計画時に実地調査した北アフリカ(ただしアフリカには南アフリカを除くサハラ以南のブラック・アフリカに関心がなかったのが「盲点」だった)をはじめ、とりわけラテンアメリカ全般には圧倒的な関心を注ぎ(お返しかどうかブラジルで彼の本は売れた)、インド、日本などのアジアにも射程に入れていたからである。「ヨーロッパ中心主義」を非ヨーロッパを視野に入れつつ、起点や基盤はあくまでヨーロッパにおいた「地球規模の歴史」を構想し叙述した、とか「焦点はヨーロッパ」で「その文脈は世界規模」(ハリソンの評価)とかとする方(下巻、一四二、二〇〇頁など)が正しいと言えよう。

 ところが、本書がいうように二一世紀の初頭まで、ホブズボームによる「地球規模の歴史」での「ヨーロッパ」の歴史記述を真似する人は出なかったものの(下巻、七四頁)、真似するどころかそれを越えようとする「グローバル・ヒストリー」が出現した。その一つは、ベイリ『近代世界の誕生』(C・A・ベイリ著『近代世界の誕生 グローバルな連関と比較一七八〇-一九一四』、上・下、平田雅博・吉田正広・細川道久訳、名古屋大学出版会、二〇一八年。本訳書に言及はないがホブズボームは本書の仏訳版に序文を寄せている)である。これもホブズボームへの辛辣な批判者の一人として本書に登場するフェミニスト史家のキャサリン・ホールによって、このベイリ著は彼の「一九世紀史の偉大な四部作」を「退場させた」と評価された。

 ベイリの専門はインド史だが、読書の幅はホールすら「妬ましいほど」と表現したほど広く、欧米史はもちろん、中国史、日本史、イラン史、オスマン帝国史に及んだ。これらをもとにヨーロッパ中心主義を克服したどころか世界のどこも中心としない「多中心的」な世界史を試みた。同じくヨーロッパ中心主義と批判されることがあり本書にも登場するウォーラーステインもヨーロッパ以外をすべて「周辺」とか「半周辺」として「概念上のごみ箱に放り込む」論者として斥けている。はたしてベイリがホブズボームを「退場させた」かどうかは綿密な検証が必要だが、たとえば、先に触れたサイードがヨーロッパ中心主義との批判内容である、非ヨーロッパの知識人の軽視ないし無視、および非抑圧者、危機に瀕したコミュニティ、被差別者、宗教に基づいた抵抗運動への視点の欠如といったものは、ポストコロニアルに「寛容」の姿勢を取ったベイリがこれらに非ヨーロッパの「歴史なき人びと」「国家なき社会に住む人びと」も加えて、彼の世界史に参加させたと評価されている(ベイリ関係の書誌データは以下を参照されたい。平田雅博『ブリテン帝国史のいま グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで』、晃洋書房、二〇二一年、一一九~一三〇頁)。

 歴史の叙述と国家形成を結合させて誕生したのが「近代歴史学」で、個別のネーションの枠組みに閉じ込めずにヨーロッパ全体を基準に議論するトランスナショナルなアプローチを取ったのが彼の世界史だとしたら(下巻、七四頁)、非ヨーロッパを取り込む「真のグローバル・ヒストリー」の出現がそれに取って代わったために、彼は近代歴史学とグローバル・ヒストリーの中間点に位置するというのが私の見方である。

 ポストコロニアル絡みのもう一つの今日的な観点としての「ポストモダン」から本書を読むとどうか。本書は「社会民主主義者(上巻、vii頁)」エヴァンズが書いた「終生の共産党員」ホブズボームの評伝である。距離がおかれた分か、むしろ労働党への影響力など「現実的な」政治活動をよく捉えている面があり、仮に同じ共産党員(まず思いつかないが)が書けば別物となっていただろう。ところが、文学理論家の冨山太佳夫によると、エヴァンズはポストモダンに対して「恫喝的な排除の姿勢を取る」歴史家であり、ホブズボームは「ポストモダンの弁護路線に頼るのは有罪の者の味方をする弁護士たち」との「悲しむべき暴言」を吐いた歴史家である。かくして本書はポストモダンを「恫喝」する者による、これに「暴言」を吐いた歴史家の評伝となる(富山太佳夫著『英文学への挑戦』岩波書店、二〇〇八年、三七一頁。ホブズボーム著『歴史論』原剛訳、ミネルヴァ書房、二〇〇一年、序文、エヴァンズ著『歴史学の擁護 ポストモダニズムとの対話』今関恒夫、林以知郎監訳、晃洋書房)。

 著者はホブズボームが詩や小説を多読して「文学を通して歴史に取り組むようになった」としながら、彼の意図を汲むかのようにポストモダンへの否定的な態度を本書でも拾っている(下巻、二六二、二九一、三一五頁など)。一方、冨山によると、従来の実証的な歴史学と文学が「調和的な交差」する場が「ポストモダン的な変貌」を遂げた「評伝」である。エヴァンズの当評伝は冨山のいう「評伝」なのか。膨大な未刊行資料を駆使した実証はおそらく当分は余人の追随を許さぬほど見事である。一方、評伝に書かれる人の行動にはすべて実証的な裏付けがあるとは限らず、冨山のいう「資料によっては論証できない動機や目的」を説明する必要もある。

 たとえば、多くの頁が割かれている女性関係に関して、この「ひどく醜い男」に惚れる女性があれほどいたのはなぜだったかの部分(下巻、六六頁)は、さしもの著者でもエビデンスを提示しないままの、推し量りかねる女性の恋心の「説明」である。その他「女性が大好きな」本人の各地の売春宿ヘの出入りや既婚女性との「情事」が手紙や日記で「実証」されているが、最初の妻の浮気から自殺も考え、自宅で「堕胎」の手伝いをしたことヘの悔恨、これまた「既婚」の成人学生との間に「非嫡出子」をもうけたことへの生涯にわたる苦悩等々はどう見ても「実証」しきれていない。ここはもはや「事実立脚性」と「論理整合性」に基づく歴史学ではなく「芸術」の領域だからである(遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会、二〇一〇年)。だが、その深部の心性の説明はなされているので、皮肉なことに恫喝したはずのポストモダンの説明の手法をあるいは取り入れた形になったのかも知れない。

 いわゆる「偉人伝」でも以前ならばタブーだった同性愛を含むセクシュアリティヘの言及は珍しいものでもなくなった。ただ、あまり私生活に触れなかった自伝『わが二〇世紀・面白い時代』には、ケインズやシュンペーターの伝記に「ベッドの下から」のぞき込むような性生活の描写があることを嫌っている箇所もあるので、自分の評伝に書かれてしまうことなど望まなかったはずである。

 ところが著者はエリックの「著作と生活は継ぎ目なく調和しており」、私的な側面も専門家としての側面も「同じ一枚のコインの裏と表」(下巻、五八頁)としていることから、あるいは著作に表れているかもしれないと私が想起したのは『帝国の時代』の「新しい女性」章の中の「性の解放」などだが、書評群の紹介において、著者はホブズボームがたびたび女性やジェンダーヘの視点の不十分さや欠如を指摘されたこと(下巻、一九四~一九五頁)、本書の末尾において「女性の歴史」は氏の知識の「盲点」の一つだったこと(下巻、三一三頁)を指摘して閉じており、生活と著作がいかにして「同じ一枚のコインの裏と表」だったのかはついに不明であった。

 終章はホブズボームの著作群を卓抜にまとめながら、世界中でなぜこれほど読まれたかの理由を説得的に示すが、女性の歴史の他にブラック・アフリカと大衆文化というあと二つの「盲点」を敢えて指摘しているのは、これからの歴史家に、これら三つの盲点を突いてホブズボームを越えてみよ、と示唆しているようにも見えた。

(「世界史の眼」No.20)

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書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)
大門正克

 歴史研究にジェンダー視点の導入の必要性が指摘されて久しい。だが、グローバル経済史(経済史)では、依然としてジェンダー視点の導入の試みが乏しい。本書は、この点に「問題提起」と「挑戦」を試みた本であり(260頁)、大変に刺激に満ちた研究書である。

 編者のひとりである浅田進史氏が言うように、ジェンダー史とグローバル経済史は「交わることなく並行の関係」にある(6頁)、あるいは本書で姫岡とし子氏が言うように、通史とジェンダー史には「折り合いの悪さ」(251頁)がある。それに対して序章では、論争のなかのグローバル経済史とジェンダーの論点が紹介され、両者を接続することが重要な課題であることが示されている。紹介されている論点は、①ジェンダー史からの「イギリス高賃金経済」論批判、②「ガール・パワー」論をめぐって、③性別分業をめぐってであり、「序章」は本書全体の位置づけ、問題の所在と課題を明快にまとめている。加えて各章では、先行研究と論点の整理に留意したうえでの論証がめざされている。

 その結果、本書は、ジェンダー史を無視するグローバル経済史は居心地が悪いはずだというところまで、グローバル経済史に対して問題提起がかなりできているように思えた。「あとがき」(浅田進史)にある、グローバル経済の現場に接近するほどに、「いかにその支配のあり方がジェンダーと不可分に結びついており、それが全体の支配構造を支えていることがわかるのではないか」(260頁)という言葉が本書の問題関心をよく表現しており、もっとも深く胸に突き刺さった。

 本書の概要を紹介しよう。「序章」(浅田進史)に続き、本書は3つの部で構成されている。第1部「産業革命・グローバル史・ジェンダー」には、第1章「産業革命とジェンダー」(山本千映)、第2章「18―19世紀イギリスの綿製品消費とジェンダー」(竹田泉)、第3章「18世紀フランスにおけるプロト工業化とジェンダー」(仲松優子)、第2部「19世紀グローバル化のなかのジェンダー」には、第4章「ハワイにおける珈琲業の形成」(榎一江)、第5章「市場の表裏とジェンダー」(網中昭世)、第6章「ドイツ植民地に模範的労働者を創造する」(浅田進史)、第3部「グローバル経済の現段階とジェンダーの交差」には、第7章「生産領域のグローバル化のジェンダー分析」(長田華子)、第8章「ポスト新国際分業期におけるフィリピン女性家事労働者」(福島浩治)がそれぞれ配置され、コラムも3本おかれている(「工業化期イギリスの女性投資家」<坂本優一郎>、「家事労働の比較経済史へ向けて」<谷本雅之>、「グローバル経済史とジェンダー史の交差の可能性」<姫岡とし子>)。 

 本書は、2017年6月に開催された、政治経済学・経済史学会春季学術大会春季総合研究会「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」をもとに構成されたものであるが、上記のように研究会の記録にとどまらず、本書全体および各章にわたり、問題提起と課題の所在、論点などがよく整理された触発力の大きな研究書になっている。

 本書は、「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」ことを課題にするとうたっているが、本書を少し読めば、本書の射程はグローバル経済史にとどまらず、経済史一般に対する問題提起であることがすぐにわかる。そのことをもっとも明瞭に示しているのが、プロト工業化論に対してジェンダー視点の欠落を鋭く指摘した第3章の仲松優子論文である。プロト工業化論では、家族が重要な研究対象であったが、「女性労働とこれをめぐる権力関係に対する視野をほとんどもちえておらず」、「議論の基盤に大きな欠陥を抱えていた」(76頁)という指摘は、正鵠を射ているであろう。今後、仲松論文を抜きにしてプロト工業化論を語ることはできないはずである。

 日本経済史研究でもジェンダー視点の接続に対する問題関心は、長い間、希薄であったが、近年いくつかの問題提起が続いている。小島庸平『サラ金の歴史――消費者金融と日本社会』(中公新書、2021年)は、ジェンダーを重要な視点にすえており、「感情労働」などのキーワードを駆使しつつ、サラ金苦と男女の対応の相違や感情労働のあり方を具体的に検討している。消費や労働の研究にジェンダーの視点を導入したものとして、今後の研究の新しい方向性を示している。また私も、高度成長期の企業の社内報に掲載された主婦の文章から「機嫌」と「ぐち」というキーワードに注目し、企業社会における夫の労働と主婦の規範・実践に含まれた非対称のジェンダー関係に注目する必要性を提起した(大門「高度成長期の「労働力の再生産と家族の関係」をいかに分析するか」『歴史と経済』247号、2020年4月)。本書は、これらの研究をより広く位置づける役割もはたしているように思われる。

 本書は、グローバル経済史(経済史)におけるジェンダーへの問題関心を促し、さらにジェンダー視点の必要性を説いたものであり、日本経済史研究を含めて大変に時宜にかなった研究書である。広く共有されることを望みたい。

(「世界史の眼」No.19)

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文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)
山崎信一

 セバスティアン・コンラートの手による本書は、さまざまな形で世に出ているようなもののように「グローバル・ヒストリー」を通史的に叙述したものではなく、歴史研究のアプローチ方法、あるいは歴史を見る視点として「グローバル・ヒストリー」を提唱し、その理論化を試みた著作である。いわば方法論としての「グローバル・ヒストリー」を探究する試みとも言えるだろう。著者のコンラートは、ドイツの歴史家で、日本を含む東アジア研究やドイツ植民地主義の研究を主たるフィールドにして研究を続ける一方、グローバル・ヒストリーの研究にも携わってきた。その成果が、2016年に原書が出版された本書となる。著者自身、外国史研究をフィールドの一つとし、また世界各国での生活経験を持ったことも、こうした関心の背景にあるだろう。

 本章は10章よりなっている。以下、各章の内容に関して概観してみる。第1章から第3章までは、本論に対する導入部分をなしている。「第1章 イントロダクション」では、本書の狙い、すなわちプロセスとしてではなく視点としてグローバル・ヒストリーを取り上げる点が説明され、ただしそれが万能ではないという点への留保もされている。また、国民国家を単位とする歴史叙述やヨーロッパ中心主義といった、従来の歴史学の方法論の限界の中から生まれたグローバル・ヒストリーを、「すべての物事の歴史」、「交換と接続の歴史」、「統合に着目した歴史」の三類型に分け、第三の類型に可能性を見出している。「第2章 「グローバル思考」小史」は、いわば世界史/グローバル・ヒストリーのヒストリオグラフィーであり、古代から現代までの世界史理解がどのように変遷してきたのかを、非ヨーロッパ世界におけるものやサバルタン研究などにも目配りしながらまとめている。ここでの重要な論点は、「世界史」における「世界」が書かれる時と場所に応じて形成されるものであるという指摘だろう。「第3章 競合するアプローチ」においては、5つの方法論、「比較史」、「トランス・ナショナル・ヒストリー」、「世界システム論」、「ポストコロニアル・スタディーズ」、「「複数の近代」論」を取り上げ、利点と限界の両面から分析している。これらはいずれもナショナルな視点を超克し、西洋中心主義を超えるという、グローバル・ヒストリーのアプローチとの共通性を持つものであり、競合的というよりは相補的でありうる。

 第4章以降が本論に相当するが、「第4章 アプローチとしてのグローバル・ヒストリー」では、この後の章において詳述されるこのアプローチの全体的な見取り図を提示している。グローバル・ヒストリーのアプローチは、接続とそれによる移転と相互作用を強調するのに加えて、さらに7つの方法論上の特徴(「ミクロな問題をグローバルな文脈に位置付けること」、「所与の空間を前提としない」、「関係性と相互作用への着目」、「内在的発展より空間的関係性の重視」、「歴史事象の同時性の強調」、「ヨーロッパ中心主義への批判」、「ポジショナリティの認識」)があることが示される。また、考察の対象が単なる接続ではなく、それによる統合や構造化された変容にも及び、グローバルなレベルでの因果関係の探究が重視されている。また、グローバル・ヒストリーのアプローチの実践例として、国民とナショナリズムの問題が簡単に分析されている。「第5章 グローバル・ヒストリーと統合の諸形態」では、構造化された統合に関して分析対象としている。統合を強調することにより、グローバル・ヒストリーがグローバリゼーションの歴史となるわけではない点、さまざまな因果関係の関係性に着目することで、構造の強調が個々の主体の営みを過小評価するのではない点、グローバル・ヒストリーの視点が16世紀以降、特に19世紀以降の分析に有用だとしても、そこにアプリオリに限定されるものではない点が議論されている。「第6章 グローバル・ヒストリーにおける空間」では、ナショナルな枠組みを超える戦略として、「大洋などのトランスナショナルな空間」、「人、もの、観念などの「追跡」」、「ネットワーク」、「ミクロストーリア」の4つの空間設定が提示されている。また、いかなるものであれ空間の構築性を理解する必要があり、グローバルな枠組みが特権的なのではなく、空間的尺度のひとつに過ぎないという点が強調されている。「第7章 グローバル・ヒストリーにおける時間」では、空間の尺度と同様、時間の尺度にも多様性や重層性があること、特権的な時間的尺度も存在しないという点を指摘している。全人類史に一貫した時間的枠組みを設定する「ディープ・ヒストリー」や「ビッグ・ヒストリー」に対しては、決定論的である点、自然科学的法則性を重視する点には陥穽があると指摘している。一方で共時性を重視することは新たな視点を開くものであるが、連続性を軽視することもできないとも述べている。著者によれば、空間的にも時間的にも、複数の尺度のバランスが必要だということになる。「第8章 ポジショナリティと中心化アプローチ」が対象とするのは、ポジショナリティ、すなわち歴史を叙述する立ち位置に関してである。ここでは、ヨーロッパ中心主義の脱却を志向することが、さまざまな○○中心主義の増殖をもたらした点が言及される。著者はポジショナリティに自覚的であるべきこと、それ自身が不平等と排除のメカニズムを持つ点も指摘している。幾分哲学的な「第9章 世界制作とグローバル・ヒストリーの諸概念」では、歴史家の「世界制作」としての歴史研究とそのもたらすものを対象としている。ここでは、近代社会科学の諸概念や術語の限界にも言及しながら、一方で非西洋的概念に開かれていることが、これまでの蓄積を無にはしないとも述べている。最終章である「第10章 誰のためのグローバル・ヒストリーか?-グローバル・ヒストリーの政治学」においては、グローバル・ヒストリーのアプローチの持つ限界にも触れている。歴史学が国民国家との密接な関係の中でそれに資する形で発展した一方、グローバル・ヒストリーはグローバリゼーションを支えるイデオロギーではなく、むしろそれを批判する視点を提供するものであると著者は述べている。さらに知のヒエラルキーの問題、英語のヘゲモニーの問題を指摘した上で、グローバル・ヒストリーの5つ限界(「接続性の特権化による過去の特定の論理の消去」、「移動や接続性への執着」、「権力の問題の無視」、「個人の役割の無力化と責任の問題の外部化」、「「グローバル」という術語による歴史の現実の単純化」)を挙げている。また巻末に、翻訳者による「誰のために歴史を書くのか」と題された解説が付されており、本書の背景、クロスリーやハントの議論との比較、本書の的を射た要約が述べられている。

 本書において一種の方法論としてのグローバル・ヒストリーを特徴づけようとする中、著者の非常に抑制的な態度が目につく。さまざまな限界を同時に提示し、また歴史を語る自らの立ち位置にすら批判的である。しかし、グローバル・ヒストリーを「歴史の見方」として、位置付けることは、疑いなく意味を持つだろう。とりわけ、個人史などのミクロヒストリーが、グローバル・ヒストリーとつながるという指摘は示唆的である。それは例えば、シリーズ「日本の中の世界史」(岩波書店、2018-19年)の各巻とも通底するものだろう。最後に、原書刊行から比較的短期間のうちに平易な翻訳を仕上げた訳者にも敬意を表したい。

(「世界史の眼」No.18)

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世界史のかたわらでのヘンリー・ソローの存在
山口晃

 ソローという人は刑務所に入っていたのはたった一日で、森で暮らしたのもわずか二年だけだったのですか。生涯の半分は森で暮らし、半分は刑務所に入っていたのかと思っていましたよ。これは私の作り話ではない。彼の生まれた国でも漠然とそのように思っている人がいると聞いたことがある。『森の生活』と「市民的不服従」が彼を代表する作品だからである。そして作品を読むことで現代文明と社会を批判する孤高の人という像ができていく。いまのここに満たされない、それを補ってくれる憧れをともないながら。ソローにとって刑務所の一晩はとびきりの一日であったのだろうか。彼にとって森の生活は、そうでなかった日々とくらべ根本的に大切だったのだろうか。ソローの一日を市民的不服従の一日で、また森の生活の日々で代表することは、ソローの生活に即して考えるときふさわしいことでない、と私は思うようになっている。彼の市民的不服従の劇的な時も、森の生活という異空間・異時間も、当然ながら日常的な日々に支えられていた。あるいはそれらと併存なしにはありえなかった。だが、私たちがこの世界にある、という点から考えるとき、併存でよしとするというところでとどまっていられないように思える。もう一歩踏み込む必要があるのではないか。

 その小道を歩く前に、特別な一日であったとふつう考えられている市民的不服従の日を、まず素描してみよう。氷河期にできたウォールデン湖のかたわらにソロー(一八一七~六二年)が行ったのは、一八四五年早春であった。小屋を作るために背丈のあるマツを伐り、棟上げは隣人・友人に手伝ってもらったとしても、小屋は自ら作り、夏至を過ぎた七月四日にそこへ移る。ほぼ一年後の七月下旬のある夕方、修理に出していた靴を受け取るため、ウォールデン湖からコンコードの村へ歩いていた。通りで地方治安官・収税吏・牢の看守を兼ねていた サム・ステープルズに呼び止められ、ここ数年間の人頭税の支払いを求められた。「もし金に困っているなら、ヘンリー、俺が支払っておこう」とステープルズは言った。また人頭税が不当に高いと思っているなら、町の行政委員に引き下げてくれるよう自分が掛け合ってもいい、と提案してくれた。しかしソローは、自分は考えがあって払ってこなかったのだから、いま払うつもりはない、と答えた。ステープルズはそれでは自分はどうしたらよいかと尋ねると、その職務が好きでないなら、辞職することもできる、とソローは言った。ステープルズはその案を受け入れる気になれなかった。「ヘンリー、もし君が払わないのなら、刑務所に入ってもらわなければならないよ。」「いつでもいいよ、サム。」「じゃあ、来てくれ」と言って刑務所に連れて行った。ソローが人頭税を払ってこなかった理由は、「国の人口の六分の一が奴隷である」こと、そして「私たちの国の軍隊が侵略軍になろうとしている」こと、つまり政府が奴隷制を認め、メキシコと戦争を行なっている(メキシコ戦争は一八四六年から四八年)からであった。

 ソローの家族は奴隷制の問題に関心を抱いていた。母親シンシア、姉ヘレン、妹ソフィア、知人のプルーデンス・ウォードといった女性たちは奴隷制反対の活動をしていた。コンコードを訪れる奴隷制反対の活動家は、その晩、ソローの母親の下宿にとまるのが常であった(ソロー家は父親の営む鉛筆製造業のほか家庭的な下宿屋も営んでいた)。当時ニューイングランドの著名な奴隷制廃止論者で、ソローの母の食卓に座ることのなかった者はひとりもいなかったと言われている。

 ソロー逮捕の噂はたちまち村中に広がった(当時、住民たちは人口二千人ほどの自分たちのコンコードを町よりも村と呼んでいた)。母親はそれを聞くと、刑務所に駆けつけ、噂の真相を確かめると家に戻り、家族に知らせた。サム・ステープルズはその晩しばらく外出していたが、帰宅すると、娘のエレンが、留守中に誰かがドアをノックして、「ソローさんの税を支払うお金がここに入っています」と言いながら包みを手渡した、と報告した。娘の話を聞いたときステープルズはちょうど長靴を脱いで、火のかたわらに腰かけていたので(コンコードは北海道の南部ほどの緯度である)、わざわざ靴をもう一度はき直すつもりはないと言った。ソローはその晩は刑務所で過ごし、翌朝、釈放されればよいと思ったのだ。

 誰が税を払ったのかは、はっきりわかっていない。ソロー家に同居していたおばマリア説が有力である(ソロー家はおばたち、時にはおじ、そして下宿人がいて、つねにいわば大家族であった)。ソローは母親には自分のやり方に口出ししないという約束を取り付けていたかもしれないが、おばマリアはそういった約束に拘束されていないので、介入し、税を払った可能性が高いわけである。それ以来定期的に、おそらくソローが死ぬまで、彼女か他の人が前もって彼の税を払ったため、こうした事件は二度と起こらなかった。

 翌朝、ステープルズは釈放しようとしたとき、ソローが刑務所を出たがらないことを知り、びっくりした。一刻も早く出所したいと望んでいない、これまで出会ったただ一人の収監人だった。実際、ソローは釈放されることに怒っていた、とステープルズは言う。逮捕されれば自分が反対してきた奴隷制度に町の人々の注意を向けることができ、それこそが納税を拒否した目的であった。おばマリアが税を払ったとき、彼女は彼の作戦の肝心な点を台無しにしてしまったので、うれしくなかった。しかしステープルズは「ヘンリー、あんたが出ていかないなら、追い出すつもりだよ。もうここにはいられないんだ」と言い、ようやくソローは折れた。

 この出来事は、その後、町の人々の記憶からすぐに消えてしまうというものではなかった。町の多くの人々がソローのこの行為に関心を持っていたのである。牢に入ろうとした本当の理由わけを知りたかった。そこで一年半後、ソローは町の人々のそうした関心にたいして説明するため原稿を作り、一八四八年一月二十六日、コンコード文化協会で講演した(当時は、講演は冬期が多かった。また、講演というけれど、リーディングで原稿を読むものであった)。題は「政府との関係における個人の権利と義務」だった。ソローはその場で、聴衆が耳を澄まして聞いていることを感じる。それで三週間後、町の他の人々が聞けるように、講演の続きを行なった(以降、ソローはこの講演をどこにおいても行なっていない。このときのコンコードだけであった)。

 のちに市民的不服従として知られるようになるこのエッセイには後半、読者(あるいは聴衆)にとって不思議な、忘れられない一節がある。《私が投獄されたのは、修理に出していた靴を受け取りに靴屋に向かう途中でした。朝、牢から出されると、この用事を済ませることにしました。そして修理してもらった靴を履き、私に案内してもらうのを待ちかねていたハックルベリー摘みの一団に加わりました。馬具がすぐに付いたので、三十分後には二マイル離れた最も高い丘のひとつにあるハックルベリーの草原に私はいました。そこにはステートはどこにも見えませんでした。》ソローはコンコードのどこにハックルベリーが育っているかを誰よりもよく知っていた。そして女性や子供たちからなるハックルベイリー摘みの一団の「隊長」だった。ハックルベリーの最盛期は、もう少し時期的に後らしい。しかしこの記述は、ソローをずっと読んできて私は、修辞ではなく事実であったように思う。ソローは政治的行為の一日に、このように距離を置きながら原稿を閉じてゆく。

 それとこの出来事が含む忘れられない側面について触れておかねばならない。ソローを一晩刑務所に入れたサム・ステープルズは、ソローのもっとも大切な隣人のひとりであった。ソローはステープルズの土地を測量したとき(ソローの職業は測量士であった)、エマソンを巻き込んでじつに劇的な哄笑で終わる素晴らしい一場面を作り出す(引用しようとすると長くなってしまうので、ウォルター・ハーディング『ヘンリー・ソローの日々』をぜひご覧いただきたい)。また死の床にあったソローを見舞い、「これ以上満足した一時間を過ごしたことはありません。これほどの喜びと安らぎを湛えて死んでいく人を一度も見たことはありません」とエマソンに告げたのは、ステープルズだった。そのステープルズとの関係の中でソローの政治的行為を象徴する市民的不服従が生まれた。市民的不服従の底にあったのは、憎しみではなく、礼節、共同の空間の存在であった。

 ソローのこの一晩は、世界史における最初の市民的不服従と考えられている。それについての講演がたまたまなされ、のちにエッセイが掲載され残されたことで、この行為の姿が明確に表現されたことが、後押ししているのであろう。十九世紀中ごろの市民的不服従のこの出来事は二十世紀においてはインドのガンディーの南アフリカでの非暴力の行動、さらに合衆国のキング牧師の公民権運動の支えとなる。世界史におけるこの流れの意義は現在においてますます大切なものである。しかしソローやガンディーが何よりも考えた「この世界」は十分に顧みられてきたであろうか。つまり市民的不服従を行なった一日は、ソローの日々を代表する一日というよりも、そうではない一日をこそ、かれは自分の一日と考えていた、と私は思い始めている。本題に入ろう。

 この十数年、私は毎日ソローの日記を読んでいる。彼は二十歳の時からほぼ欠かさず二十年間ほど日記を書き続けた。二百万語。実に魅力的で楽しい日記だ。日記は部屋で書くこともあったが、野外の月光のもとで、あるいは焚火の明かりで書くこともあった。句読点はあったりなかったり、行変えも不ぞろいである。いくつか引用してみよう。ほとんどがこんな調子である。

《一月二日(一八四一年) 今日、一匹のキツネが自由な無頓着さで、湖を横切っているのを見た。彼が丘の尾根に沿って雪の上を足早に駆けるとき、私は日の光を浴びる彼の進みを距離を置いて追いながら、太陽がこれほど誇らしそうに、まっすぐ丘の斜面に差し、風と森が静かに共感していることはなかったように思えた。私は太陽と大地を、その真の所有者として彼に明け渡した。彼が太陽の輝きのなかを行ったのではなく、太陽の輝きのほうが彼について行くように思えた。彼と太陽の輝きのあいだに眼に見える共感があった。》キツネと太陽の共演に、観客のソローが加わっている。

《十月二十二日(一八五三年) 昨日、晩近く、ソフィアと母をボートに乗せる。片目の釣り人ジョン・グッドウィンが最近自分のボートで集めた流木を手押し車に乗せ、家に運んでいた。とても美しい夕べで、澄んだ琥珀色の日没が東の岸辺全体を明るくしていた。あの男の仕事はとても単純で直接的であり(もっとも、彼はほとんどの人から不道徳的な性格の持ち主とされているのだが)、冬用の薪を手に入れようとする気持ちは実によくわかるので、私には何とも魅力的であった。単純な仕事こそ私たちは愛することができる。それはまったく詩的である。》

 ソローはこのようにたびたび妹や母を自分で作ったボートに乗せ漕いでいた。ソローの好きな隣人のひとりグッドウィンは、母や妹から見ると、好ましい人物ではなかった。それをさりげなく並行して記入する日記は微笑ましい。枚数のことを考えると、ここで切り上げるべきなのだが、この日の日記は長く、次のような印象深い終わり方をしている。

《グッドウィンは変わることのない釣り人だ。この時期には小さなカワカマスの味をよく知っている。…何日間続けて釣りをするか、私などが言うのはおこがましい。しばらくのあいだほぼ毎日、たとえ雨でも彼は魚を釣っていた。外を見ると雨のなか、彼が籠と竿をもちオイルクロスのコートを着てゆっくりと歩いているのを見て私は驚いたことがあった。また先日は流れの真ん中で釣りをしていたが、その翌日は岸辺で釣っていた。そのときは一種の不思議な力に導かれ、私は彼のかたわらを漕いでいた。冬の餌用にヒメハヤを捕まえているのだ、と言った。私が二十ロッド離れると、二ポンド半の重さのあるカワカマスを持ち上げた。先ほど私に見せるのを忘れていたのだ。後で私に話したところによると、翌朝は三ポンドのを捕まえたそうだ。魚のいる池とカワカマスに関する委員を任命する必要があるとすれば、彼にその一人になっていただこう。彼の生はしっかりと大地に足をつけていて、評価するのが難しい。》ソローはこのようなとき、不思議な力に導かれそのほうへ漕いでいってしまうような人だった。ふだん使わない「委員」というような言葉を、このようなときに使い、その選定基準が他の人々のと違っている。

《十一月十八日(一八五七年) フラネリーは私が知っている最も大変な労働をする男だ。日の出前そして日没後も長い時間、彼は疲れを知らず、身体を使っている。そして結果は何とも陽気なのだ。彼はいつも元気だ。…たんに門が動かないだけでも、彼の喜びはその偶然にたいして湧き上がってきて、ふと口に出る言葉の中にそれがあふれているのだ。ただ勤勉であるというだけで、なんと多くを経験することだろうか。彼のふとした意見のなかにはしばしばきらめきがある。そして彼の声は本当に鳥に似ている。》門が動かないと、ふつう人は困ったと思う。大工さんを頼んで直してもらわねば。あるいは自分で直すにしても、いまやっている仕事が中断されるので困ったな、と思ってしまう。ところがフラネリーは直すことに無意識に喜びを感じてしまう。意見のひらめきが鳥の声に似ているとは、なんとも快い感受性。

 ソローの日記からの引用は楽しいのでやめられない。しかし結びへ入ろう。一八五八年十一月一日の日記を読みながら、私は不思議な方向へいざなわれていた。一八五八年十一月というと、ソローはあと三年半でこの世界を去る時期であった。彼にとって人生の晩年になる。秋も深まり、午後は短くなり、人々は家路に急ぐ。ソローはウォールデン街道の柵にもたれ、夕方の郵便が仕分けされるのを待っていた。そのとき彼はある根源的な思いに浸され、なじみのある十一月の夕べが再び巡ってきたことに気づく。そこには存在するというただそれだけの心地よさがあった。「私に求められている積極的な義務はきわめてわずかである、そういった状態である。」そして人間がこの世界にあることの深い意味を、日常生活の言葉で続ける。

《西の低湿地を通る長い鉄道の土手道、コオロギの鳴くのがほとんど聞こえない静かな黄昏、日没後だいぶたったころの地平線にできる雲の暗い層、郵便局へ行きそしてそこからローソクのかたわらの夕食へ足早に急ぐ村人たち、こうしたことすべてを私はかつて見なかったろうか。…本当は、私たちが真に深い教えを学ぶべきであることを、それらは示している。自然は古い綴り字教本のように、何度も何度もめくられるものなのである。私は完全に満足して、ずっとベンチに座っていた。想像される貴重なものや天国と引きかえに、私はこのなじみのある光景を代えようと思わなかった。》

 彼にとって根源的な思いとは、なじみある光景にほかならない。煙突から薪の燃える煙がゆるやかに立ちのぼってゆくのを見ると、ソローはかならずその下の炉辺、家庭の日常生活の営まれている姿を想像した。あの本当にゆるやかな柔らかい煙の広がり方に魅了される人であった。だからこそ薪になる木、枝、切り株、流木を拾い、集めることに喜びを感じたのであった。薪を割るときの身体のぬくもりもそれにつながっていた。基本のところに日常生活がある。ここで十一月一日のこの日記が閉じられていても、私は自分の晩年をも思いながら、この日の引用を自分のノートに書き写したであろう。

 しかし日記は、そこで閉じられず、唐突に次の数行が書き込まれている。《あなたが知っている現実のフレデリックは、ただ本で読むだけの人物の百万倍の価値がある。…そして朝、圧倒的な力でドアが叩かれる。これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。》日記なので、脈絡はない。説明も一切ない。「圧倒的な力でドアが叩かれる」はどうやら、ヨハネ黙示録三章二十節からのようである。「見よ、私は戸口に立って、叩いている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。」なぜここでキリストが?

 またフレデリックはメリーランド出身の元奴隷、奴隷制廃止運動家フレデリック・ダグラスの可能性がある。そしてソローは彼に複数回会ってきた。フレデリックは一八四五年自伝『アメリカ奴隷の生活を語る』を刊行したとき二十七歳で、さらに十年後の一八五五年には『我が拘束、我が自由』を刊行した。ソローの文の中の「ただ本で読むだけ」はそれに触れてのものであろう。

 一八五八年十一月一日の日記の中で圧倒的な力でドアをたたくのはキリストであった。このフレデリックがダグラスであるとすると、ドアを叩くのは黒人である。ニューイングランドのふつうのキリスト教徒にとって、これは考えられないこと、決して受け入れられないことであったろう。一方ソローはキリスト教および教会に対して距離を置き続けるが、キリスト本人に対してはかならずしも常にそうではなかった。聖書ほど読まれることの少ない本は珍しい、とさえ言う。

 十一月一日の日記のドアを叩く者は、キリストであったかもしれない。だが、ソローにとっては黒人フレデリックであったかもしれない。あるいはドアを叩くその響きのなかで、キリストと黒人が瞬間、瞬間入れ替わっていたのかもしれない。

 ソローは政治的行為にかかわったとき、ハックルベリー、スイレン、カイツブリなどそのときによって異なるが、かならず自然のものに触れた。触れずにはいられなかった。しかし一八五八年十一月一日は逆である。素晴らしい黄昏であった。ただ素晴らしいだけではなかった。慎ましい日常的な根源的な経験をしていると実感した。そのとき、ドアが叩かれていることを思った。「これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。」受け入れ、共に食事をする。ソローにとっての政治的行為である。ソロー家には何人もの逃亡奴隷が立ち寄り、受け入れてきたのであるから、これは比喩ではなかった。しかし、なぜこのような静かな深い日常的な黄昏に、ソローはドアが叩かれていることに触れるのか。

 政治的行為の日の場合はハックルベリーやスイレンへの言及はわずか一言あるいは一、二行にすぎないのと逆の形で同じように、十一月一日では、行為への歓喜はわずか数行で終わり、先ほどの慎ましい根源的な日常生活について改めて深い記述へ戻ってゆく。いまの私にはこれ以上、わからない。しかしこれからもここにたたずむであろう。

《なんら新しいものを欲しない。私は年月を経た確かなものを十分の一だけ確保できれば、それ以外のすべての富をはねつけるだろう。ここから立ち去ると言った途方もない愚行を考えていただきたい。ここにはこれまでに私が持った、これから持つであろう、そしてこれまでと同じように友好的な、あらゆる友がいる。私は友人といさかいをおこしたことはなかった。一致が可能な心地よいものであった。私は友人たちとの関係において前へあるいは後ろへ一インチたりとも動こうとしないと思う。…最も短い距離をまわって帰り、家にとどまりなさい。…もちろんここには、あなたが愛しているもの、あなたが期待しているもの、あなたがそうであるもの、こうしたものすべてがある。ここにあなたの許嫁いいなずけが手に入れられるほど近くにいる。ここはあなたが想像することのできる最良のものと最悪のものがすべてある。あなたは他に何が欲しいというのか。》

 ふだんのソローに他ならない。悪しきものも良きものも含めて一つである。つまり一八五八年十一月一日は特別な一日であったが、ふつうの一日であった。世界史の流れのかたわらでこのふつうであり特別の日を、毎日生きる人がいた。それはまぎれもなく私たちの日々と地続きであった。

(「世界史の眼」No.17)

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グローバルに連結する哲学へ向けて(『世界哲学史第8巻』)
木村英明

 シリーズ『世界哲学史』の最終巻(別巻を除く)となる本書『現代・グローバル時代の知』では、20世紀初頭から21世紀に至るおよそ100年間の思想・哲学の模索が地球規模の広がりで扱われている。具体的には、「長い19世紀」が第1次世界大戦の惨禍によって終止符を打たれた近代の危機に端を発し、グローバリゼーションが地球の隅々にまで浸透した今現在に及ぶ時期の、西洋および非西洋の「世界」を思惟する多様な見取り図が示されている。

 しかし、周知のように、近代は手強い。本シリーズが古代、中世、近世、近代、そして現代と西洋近代の時間感覚に即して編まれていることからも明らかなように、西洋近代が作り上げた歴史観・認識の枠組みの外側に立とうとすると、いまだ人文科学の諸分野において、思考の不都合に直面させられる。本書では、この乗り越えがたい近代の桎梏を超えて進もうとする思索の数々を、各執筆者もまた、その困難さを誠実に抱え込みつつ紹介している。

 全10章中、前半の各4章は西洋哲学が自身の内部から批判的に、あるいは解体的に西洋思想に対峙していく動向に、後半5章は西洋の外にあって圧倒的なその思考体型の浸透力にさらされながら、独自に思惟することを求めたアジアやアフリカなどの哲学に焦点が当てられる。

 第1章「分析哲学の興亡」は、プラトン以降の西洋哲学の根幹にある二元論と向き合う。理解すること、すなわち「分かる」は「分ける」ことに直結していたとする筆者は、多元論にせよ一元論にせよ、「分ける」こと、すなわち二元論がもとにあると指摘する。哲学の科学化を目指した20世紀前半の「ウィーン学団」による論理実証主義も、ヒュームの法則同様、事実と価値・規範を峻別する二元論であった。しかし世紀後半に至り、このいわば「である」と「べき」の共通項として、認識主体(筆者は固有の態度を有する「パーソン」と名付けているが)を据える新たな探求が現れたことを紹介し、伝統的な分析哲学を脱する新たな地平を開示している。

 第2章「ヨーロッパの自意識と不安」は、世界大戦がもたらした西洋の没落の意識に、新しく登場してきた大衆による19世紀ブルジョア社会の更新(オルテガ)や、複製技術の進歩による19世紀芸術のアウラの剥奪(ベンヤミン)を対置して論じる。ただ、関連して触れられるフッサールの実証主義批判やハイデッガーの技術批判も含め、たとえばネット社会という身体性を欠いた大衆を抱え込む現代に、それらの議論がさらに展開可能性を有するかどうかは未だ不明と言わざるを得ないだろう。本章で扱われた20世紀前半のヨーロッパ思想を引き継ぐように、第3章「ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理」は、20世紀後半のフランス思想−おもにドゥルーズとデリダらの思索―を取り上げている。西洋的理性の基盤であった「Aは〜である」という同一性は、すべてが永続する差異化のなかに置かれて、いわば仮象のものへと転倒される。一方で、その要諦は差異による相対化にあるわけではなく、同一性と差異のダブルバインドを請け負う思考の緊張状態にあることが強調されている。デリダに依拠し、日本のゼロ年代の思想界を席巻した感のある「否定神学批判」、さらにメイヤスーによるダブルバインドの縮小・無化の議論は、ポスト構造主義後への展望を示して興味深い。

 ポストモダンがもたらしたいわゆる「聖典」の終わりは、かつてのさまざまな「本質」を弱体化ないし無効化する思想的、社会的ムーブメントに場を与えた。その最大級の一つが、第4章「フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治」のトピックである「女性」だった。筆者はジェンダーをめぐる政治、特に現在のアンチ・ジェンダー・ムーブメント(日本の性教育をめぐる保守派の反発、ハンガリーのジェンダー研究禁止など)の問題から論を起こし、20世紀後半のフェミニズム思想の展開を辿る。フロイトの生物学的決定論である「解剖学的宿命」を否定するボーヴォワールの社会的決定論(「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」)においては、個々の女性の差異は想定されていなかった。裕福な異性愛の白人女性とは文化的・社会的に異なる場を生きる、70年代のブラック・フェミニズムや近年のポストコロニアル・フェミニズムの視野は、多種多様な「女」を浮かび上がらせてまさに世界哲学的と言えるだろう。

 20世紀の思想のフィールドで、特筆すべきものとしては批評の興隆がある。第5章の「哲学と批評」では、ものごとを語る言葉そのものが思考の対象となるこのジャンルが、聖典の解釈という新たな地平を哲学の未来に切り開いたことを明らかにする。欧米の脱構築批評の担い手が聖書の解釈学を底流に持つことはよく知られているが、筆者が主に焦点を当てるのは『コーラン』原典の訳者であり、言語学者にしてイスラーム神学研究の碩学井筒俊彦である。聖典語彙の意味論的分析から、イスラーム共同体内での「意味」の変容へと迫った井筒の批評哲学は難解だが、筆者の議論の道筋はたどりやすく、井筒読解の一助にもなるだろう。続く第6章「現代イスラーム哲学」は翻って、アラビア語では“ファルサファ・イスラーミア・ムアースィラ”となる“現代イスラーム哲学”が日本語で語られる以上、日本文化の一部でしかないと断じる(アラブ・ムスリムに向けて書かれたテキストですら、伝統的イスラーム学者によるそれと欧化主義者・オリエンタリストのそれの間には理解がほぼ成立しないという)。テキストの意味論的場も、イスラーム教の学習と祈りの実践も共有しない我々が日本語で読み語る限りにおいて、“ファルサファ・イスラーミア・ムアースィラ”は理解できないことを前提とすべきだというのである。グローバリゼーションの「世界標準」が英語思考に基づく欧米標準であるとしたら、そのもとで果たして世界哲学なるものにどのような実りが期待されるというのか、という鋭い問いかけが本章では突きつけられているように思われる。

 第7章の「現代中国哲学」では、中国古来の思想的伝統と西洋哲学の融合への歩みが紹介される。筆者は、両大戦間期に西洋哲学の論理学を知的背景に、中国思想の重要概念である「道」を論じた金岳霖の『知識論』、『論道』をその嚆矢としてあげている。ただ、戦後共産化した中国では哲学の探究は停滞し、西洋哲学の紹介の復活(=新しい啓蒙期)は80年代に入ってからのことになる。90年代以降はポストモダン思想の研究も始まったというが、筆者によれば「今の中国哲学思想界はまだ力を蓄積する段階」である。一方、アジアにおいて近代化の先陣を切ったと自負してきた日本の状況はどのようなものであったのだろう。第8章「日本哲学の連続性」では、西周によるphilosophyの訳語「哲学」の成立を日本哲学の起点に据えている。「理性」、「観念」、「実在」など、西の学術用語の訳出は787語に及ぶという。西が傾注した「理」をめぐる思索(「超理」、「実理」、「理外の理」を回すのは「物理」ではなく「心理」)は、アカデミズム哲学を確立した井上哲次郎に受け継がれる。彼の「現象即実在論」は現象と実在を表裏一体と考えて、「円融相即」と呼ぶような仏教色を帯びる。井上の教え子であった西田幾多郎も仏教の影響を受けつつ、実在を主観客観以前の知・情・意を一にしたもの、すなわち「純粋経験」と考えた。筆者はここに、日本哲学の連続性を見出す。

 さて、西洋近代哲学の大波が寄せるなか、前述のように中国の「道」、日本の仏教など、東アジアの哲学はそれぞれに模索を続けてきたが、東アジアに共有される思考体験があるとして、東アジア的な哲学はありうるのだろうか。第9章「アジアの中の日本」は、その問いに向き合う。近世の東アジア社会に共通する道徳理念には儒教があったが、西洋近代文化の衝撃にさらされた日本や中国が、西洋由来の論理学に対峙するにあたって支えとした思想伝統は、前述の西田や中国の牟宗三のように仏教であったようだ。牟宗三は新儒家の代表的哲学者とされながら、天台宗に密接に寄り添っていた。とはいえ、筆者によれば、実際のところ伝統的な思想文化へ向ける眼差しは、日本において読書人多数の関心を惹くものではなかった(中国では様相を異にするが)と、筆者は述べる。さらに、東アジア各地域では西洋に寄せる関心が突出して、互いに共通する面の多い思想的伝統や近代以降の歴史的経験に目を向けてこなかったと指摘する。共同の探究が今後に期待される所以である。

 最後に取り上げられるのはアフリカ哲学である。第10章「現代のアフリカ哲学」は、近・現代にアフリカ諸国が置かれた政治的状況の複雑な反映を描き出す。地中海文化圏に位置する北アフリカには、古代ギリシャ・ローマ期からその哲学的伝統の内部にあった。しかしサハラ以南においては、哲学の名の下に、植民地化以降の強制的な知育を想定せざるを得ない。筆者は、英語圏、フランス語圏、南アフリカに分けてアフリカ哲学の動向を紹介している。特筆すべきは、多分に政治性も帯びるようではあるが、伝統的な宗教、神話、言語などに伺われるアフリカに根ざした思考「エスノフィロソフィー」の展開だろう。例えば、ケニアで心・魂を意味する「オクラ」は英語の個人的なsoulとは別物で、共同体での責務に結びつくものだという。筆者は、アフリカ哲学が「西洋哲学に過剰に寄り添う時代」は終わったと結んでいる。

 本巻終章「世界哲学史の展望」はシリーズ全体の終章でもある。ここで筆者は、グローバル時代における“グローバルな哲学的知”の模索が目指す方向を提示する。「世界」が共通の生存基盤であると認めて、そこに住まう「魂」が情報を交換し思考を競い合い、思想的曼荼羅を作り上げること。その中には「離接的」なものと同時に「連接的」なものが含み込まれ、個々の人種や歴史、宗教、文化を超えた広い連結の可能性が示されるはずだと筆者は述べる。これは「世界史」や「世界文学史」の叙述を構想する際にも、きわめて示唆的な提言といえるのではないだろうか。

(「世界史の眼」No.17)

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伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留責任編集『世界哲学史別巻―未来をひらく』ちくま新書、2020年
南塚信吾

 この書評シリーズの開始に当たって、わたしは、次のように書いておいた。≪第一巻の序章「世界哲学に向けて」によると、これまで欧米中心に展開されてきた「哲学」という営みを根本から組み替え、より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動が「世界哲学」として呼ばれ、展開しているという。生活世界を対象とする哲学、多様な文化や伝統や言語の基盤に立つ哲学、自然環境や生命や宇宙から人類のあり方を反省する哲学が、「世界哲学」の名のもとに行われようとしているというのだ。≫ そして、編者によれば、「たんに様々な地域や時代や伝統ごとの思索を並べ」ることは退けて、「なんらかの仕方で一つの流れ、あるいはまとまりとして」扱わないと、「世界哲学史」にはならないというのだった。私たちの取り組んでいる世界史といろいろと共通する問題がありそうであった。

 書評シリーズの終わりにあたり、ここでは、世界史を考えるうえで、あらためて世界哲学史と共通する問題がないか、あるいは参考にすべき方法がないかを確認するという趣旨から、「別巻」の第1章「これからの哲学にむけて」という座談会を中心に考えてみたい。

Ⅰ 「哲学」の組み替え

 これまで欧米中心に展開されてきた「哲学」の組み替えの試みがいろいろな時代において行われてきたという。世界史の観点から注目すべき論点をいくつか拾ってみたい。

 古代では、ギリシア哲学が哲学の起源だとされてきていることに対して、それを自明の事として受け止めないで、あるいはそれをたんなる偏見ととらえないで、なぜ後世にギリシア哲学が再評価されたのかを反省し、また古代の同時代の世界のいろいろな思考のワン・オブ・ゼムとしてギリシア哲学を位置づけなおすことが必要だと説かれている。ギリシア哲学を世界史のなかで「相対化」するということであるが、いろいろな時代のいろいろな事象について、こういう態度は必要だと考えられる。

 同じく、古代において、ヨーロッパの中の西と東を意識すること、そしてその東をとおしてさらにイスラーム文化圏を含むアジアを意識することが大事だと指摘されている。ヨーロッパのカトリック対イスラームという対立図式ではいけない。たとえば、「ギリシア文明はイスラームを通じて西洋に入ってきた」という際に、ヨーロッパの東であるビザンツを見ておかなければならないとされる。おそらく逆の事も言えるのであろう。古代に限らずこのような観点は必要であろうと思われる。

 中世についてみると、まずペリフェリーの意義が強調されているのが興味深い。9-12世紀を考える場面で出て来る議論で、ヨーロッパでも、イスラーム圏でも、東アジアでもかなり大きな政治支配ができて、いわば「中心」が出来る。するとそのペリフェリー(周辺)からユニークなものが出て来るというのである。「経済・政治では統一的な動きが見られましたが、文化的に見ると最先端のものはペリフェリーに現れてくる」と言われる。唐文化の周辺の日本で空海が出たり、キリスト教でもアイルランドやスコットランドに伝統が受け継がれて、それが中央に戻ってくるようなことがあったり、 イスラームも周辺に広がって、アンダルシアやブハラなどで先端的なものが出て来るというのである。「中心部で先鋭化しないような問題が周辺部で現れてきて、そこで問題意識が磨かれていく」とか、「中心部においてはいろいろな多様性が現れてくるけれども、周辺部のもっと個別性が強調される場面で、逆に普遍的なものに対する眼差しが現れてきた」という。 「別のものと出会う場所がなければ新しいことが生まれにくい、周辺部では異質なものに出会いやすく、思考が活性化されるという動きがあるのかもしれません。ですが、異質を生むためには中心が不可欠です。すべてが異質だらけだとそれができない。」このような興味深い議論が続くのである。だが、9-12世紀以外の時代でもこれは言えるのではないだろうか。

 中世末期のところで、イエズス会の意義が強調されている。この時期、イエズス会がもたらした情報は、エジプト、インド、中国などに聖書にも書かれていない「古い歴史」がある事をヨーロッパに知らせた。それだけではなく、「イエズス会の人々の世界観はまさに新世界であった」「イエズス会はカトリックの中にありながら近代性を持ち、デカルトへの影響も大きい」「近代の始まりにおいて、イエズス会の貢献度はかなり高かかった」というふうに、イエズス会の再評価が行われている。問題は、これをヨーロッパ中心で処理しないためには、さらに何を考えるべきかということであろう。イエズス会のもたらす情報がヨーロッパ中心の見方に繋がったのだというのでは、あまり意味はないように思われる。

 さて、近代に入ると、啓蒙主義が、ヨーロッパ以外の世界を排除していったという指摘が繰り返されている。「18世紀の前半ぐらいまでは、ヨーロッパでは中国の位置はけっこう高かった・・・。ところが、その後大きな変換が起きて、中国やインドはどんどん下に押しやられます。」「そういう構造が突然出てきて、ヘーゲルなどはそれを典型的に現しています。」「つまり、精神がある仕方で展開していく中で、中国のようなヨーロッパの外部はプリミティヴなものとして位置づけられていきます。聖書よりも古いものを何とか処理したかったのだと思います。」カントもそうだった。「啓蒙の構造の中で宗教が周縁化されていくと同時に、ヨーロッパの外部も貶視されていきました。」「理性の発現、精神の展開といった形で自立する図式・枠組み」ができると「その哲学史から外れる西アジア・中国などは当然、地位を失います。」という具合に。

 そして、歴史学との関係では、「わたしたちは世界哲学史において歴史を問題にしていますので、どのタイプの歴史叙述を念頭に置くかということは非常に大事です。その際に、18世紀に成立する歴史学をどこかで相対化する必要があると思います。18世紀には、中国を含めたヨーロッパの外部がきれいな仕方で位置づけられていきますが、当時の歴史学はそれを許し、それを哲学が取り込んでいきました。その全体が啓蒙という構造をなしています。」と言われる。

 たしかにアジアの「停滞論」は啓蒙主義に始まるが、それまでのキリスト教的「普遍史」に比べ、啓蒙主義がアジアに広い関心を持ち、世界史の中に位置づけようとしたという面は、歴史学ではむしろ強調されているところである。その上での「停滞論」であった。だがこの「停滞論」は単にアジアを「下に押しやり」それを「貶視」したのではないところが難しいところである。このあたりは、これは岡崎の言う「啓蒙主義歴史学」で論じられているところであり、哲学とのきちんとしたやり取りで、「そういう構造が突然出てきて」といった理解は正されていくことが望まれる。

 19世紀については「世界哲学史」は何を問題にしているのだろうか。先ず全体的な見方はこうであろう。19世紀は帝国主義の時代で、アジアがヨーロッパと「再接続」されて、高い緊張関係が生まれた。そしてヨーロッパが世界的に支配を拡大し、それへの反発として、イスラームでの原理主義が出て来る、あるいは、啓蒙と理性によって周縁に追いやられていたものがスピリチュアリズムという形で出て来る。そこにヨーロッパへの疑いが深まった。だが、ヨーロッパ自身では、哲学は「中途半端」なものになる。とくに「資本主義と科学技術が発達して世界を征服し、植民地支配で無謀なことをしたというだけでなく、哲学では連動する理念的な動きもあったのではないか」つまり、帝国主義を批判できない思想状況があったのではないかとされる。多分こういう全体の捕まえ方がされていると思わる。世界史としてもうなずける見方である。

 そういう中で、個別的問題としては、「古代の発見」という問題が指摘されている。「啓蒙・理性を重視したヨーロッパが向かった先はエジプトのヒエログリフやインドのサンスクリットであり」、ここに「古代の発見」があり、逆に「純粋なヨーロッパ性とはなにか」という問いも生まれたという。それが歴史主義の中で原理主義的な動きにもなっていくというのである。一方で、インド哲学や中国哲学は西洋的なフィロロギー、ヒストリーに改装されてしまったとされる。この点では、「再接続」されたアジアでの哲学的な問題がどう位置付けられるのか、聞きたいところである。

 最後に20世紀以降については、「世界哲学史」は何を問題提起しているのだろうか。20世紀以降には、「19世紀にピークを迎えたヨーロッパ的な文明に対する厳しい批判が展開され、人間自体をどう考えたらいいのかが問われてきました。」とされ、イスラミック・ターン、宗教の復権、「ポスト世俗化」、原理主義、ポストモダンといった問題が指摘されている。

 その上で、「20世紀における最大の問題は全体主義」で、「理性の行き着く先はファシズムではないか」と問題提起している。ここでは、イスラミック・ターン、宗教の復権、「ポスト世俗化」、原理主義、ポストモダンといった問題と、「理性の行き着く先はファシズムではないか」という問題とを統合的に論ずる場が欲しいところである。とくに、ポストモダンの議論が少し物足りない感じがした。その世界史的意義は何なのか。第8巻を見たが、議論が孤立している感があった。このシリーズの論者たちがその中で育ったから、あまりにも自明なのだろうか。

 最後に20世紀後の大問題が示唆されている。哲学は政治や科学技術と距離ができてしまったというのである。全体主義や大量破壊・大量虐殺がおきても、哲学は置いて行かれてしまった。「哲学に語る言葉はない」「哲学は関係ない」のだろうかと問われている。哲学ができることは一体何かというのである。翻って歴史学はどうであろうか。

 以上のように、個々の論点を見て行くと、世界史としても共に考えるべき問題が多々提起されていることが分かる。

Ⅱ 大きな方法の示唆

 では個々の論点を超えて、大きな方法的な議論で、世界史として学ぶべきところはないだろうか。『世界哲学史』第一巻では、こう言われていた。「たんに様々な地域や時代や伝統ごとの思索を並べ」ることは退けて、「なんらかの仕方で一つの流れ、あるいはまとまりとして」扱わないと、「世界哲学史」にはならない。やや具体的には、異なる伝統や思想に共通する問題意識や思考の枠組み、応答の提案などを取り出して「比較」することを目指す。その一つは、「比較」を歴史の文脈の中で検討することであり、もう一つは、二者か三者の間の比較ではなく、「世界という全体の文脈において比較し、共通性や独自性を確認」することである。その上で、「それら多様な哲学が「世界哲学」という視野のもとで、どのような意味を担うのかを考察するのだ。

 これを受けて、第8巻で、伊藤邦武は、「世界の哲学史の各時代におけるさまざまな様相に目を配り、単なる多数の文化や地域の哲学的伝統について、それらを並列的に列挙するのではなく、東西世界や南北世界の中に認めざるをえない、無数の断絶を確認するとともに、その断絶を超えて見出される交流や混合の実相にも光を当てて、それぞれの時代にそれぞれの哲学が独自のしかたで「世界哲学」たらんとした姿を、できるだけはっきりと描き出してみたいと努めてきた。」と述べている。

 たしかに本シリーズでは、このような意図はいくらか具体化されているようには見える。そういう努力には敬意を表さねばならない。しかし、「世界哲学史」のポジティヴな姿が示されたわけではない。そうではなくて、本シリーズの最大のメリットは、次のような「全体像の必要性」を認識しあったことにあるのではなかろうか。

 編者の一人である納富信留はこう言っている。≪「世界はグローバル化している」などと言いながら、本当に狭い世界・側面しか見えていません。・・・巨大なものを見る視点をある程度確保しなければ、完全に状況のなすがままになってしまう。・・・大きなものを見る視点、さまざまな角度からの多元的な視野・時間軸を持つことは、哲学でなければできないはずです。≫ あるいは、≪『世界哲学史』といって、なにか統一的な、網羅的なマッピングがあるわけではない。「ひとりが全部を見て上からなにか大きなことを言うことはできない。自分が持っている部分を持ち寄り、「ここはどうですか」「ここは使えますか」というような形でいろいろなものを味わいながら、シェアしていくというやり方でしか世界を語ることはできない。・・・しかし、「各自が部分を語るにあたり世界哲学の全体を意識して、それを語ることを目指す」必要がある。≫ そして、≪今回の企画にさいして、「世界哲学史の中で、あなたは自分の研究対象をどのように位置づけますか」という問いを投げかけた。」「いままでそういう問いを聞いたことがある研究者は一人もいなかったのではないか」。例えば、「近代のデカルトを研究している人は、「世界哲学史の中で、デカルトがやったことは何だったのか」とは考えず、「デカルトの『省察』の何ページ何行目にこういう議論があります」という話に終始していた。≫

 これは現在の世界史の直面する状況とほとんど同じであると言ってよい。

Ⅲ 危機感の共有

 『世界哲学史』からは、哲学の分野においても、歴史の分野と同じような「問題」が生じていることが分かる。最後に、両者に共通している基本的な「問題」を確認しておこう。

 一つは、哲学においても、古代、中世、近代という時代区分は動かないのだろうか。

 本シリーズはきっちりと古代、中世、近代という時代区分を柱にしている。とくに、本シリーズでは、中世が大きく扱われているが、ヨーロッパのキリスト教世界でつくられ始めた中世という概念は、ヨーロッパ以外の世界でも通用するのであろうか。中世の最後の時期を、ルネサンスや宗教改革や新しい世界の「発見」によってではなく、バロックの時代というとらえ方を提唱しているが、その普遍性は大丈夫なのだろうか。 

 二つには、ヨーロッパ中心を克服するという意識は分かるが、やはり、結果的には、ヨーロッパ哲学が柱で、アフリカ哲学などはその影に置かれていたり、ラテンアメリカの哲学はコラムで終わったりしている。イスラーム文化圏での哲学の扱いもやや期待外れの間が否めない。非西欧世界はやはり弱いと言わざるを得ない。これは世界史の場合と似ている。

 最後に、第8巻で伊藤が述べている二つのことは重要であり、そこには、哲学の危機感がにじみ出ている。まず、かれはこういう。我々人間は、一つは、地球環境などから、地球・宇宙について具体的な知を持ちつつある。同時に、人間・生命について、ヒトゲノムを通じて、具体的な知を持ちつつある。これに哲学はどう対応できるのか、というのである。歴史も同じである。

 かれはつぎにこう言っている。西洋はもとより、アジアの哲学やイスラームの哲学、さらにはラテンアメリカやアフリカの哲学を知るようになれば、それは一元論的な形而上学ではなく、多元的形而上学の世界として対応していかねばならない。それはすべての存在を貫通する普遍的な原理としてではなく、多様な隣接的関係、関連を通じて、全体として統一的に認識されなければならない。ここでは、単に多様性を認めるということだけではなくて、また多様なものを単に「比較」するというだけではなくて、「関連・関係」という方法が必要であるというのである。

 より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動が「世界哲学」だというのは、こうしたことまでを指しているのであろう。これを見ると、「世界哲学史」においても方法はまだ模索中であるようだ。「世界史」を考えるものとしては、「比較」に次いで、「関係」や「影響」や「相互作用」や「連動」という面も考えたいところではある。こういう点を座談会では受けてほしかった。

(「世界史の眼」No.17)

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