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「万国史」における東ヨーロッパ II-(3)
南塚信吾

3. 箕作麟祥『万国新史』 1871年(明治4年)―77年(明治10年)

 これは箕作麟祥(みつくりあきよし)が明治4年から10年までかけて出した大作であった。フランス革命から普仏戦争あたりまでの「現代世界史」を「同時代史」的に描いたものである。各国史の寄せ集めではない。しかもこの本は、これは何らかの本の翻訳ではなくて、いくつもの本を消化して著者がまとめたものであった。明治期に出た「万国史」の中では出色の力作であった。

 箕作が参考にした本は、鱗祥の「凡例」によれば、チャンブル氏の「モデルンヒストリー」、ヒューム氏の「ヒストリーオフイングランド」、ヂュルイ氏の「イストワールドフランス」、ヂュタードレイ氏の「イストワールコンタポレーン」を中心に、「群書」を参照したとある。基本的にはチェンバースの『現代史』(W. & R. Chambers, Modern History, London 1856)の第三部に依拠していた。

***

 『萬國新史』の全体構成を見てみると、それは3編に分かたれている。

 上編は、

第一回―第十回 1789年から1814年まで

「仏蘭西大変革の原由」、「仏蘭西大変革記」、「仏蘭西共和政治の記」、

「仏蘭西帝国記」

第十一回 「ウィーン大議会」

第十二回 1815年のワーテルロー大戦

第十三回 英吉利、

第十四回 日耳曼(ゲルマン)(附 墺太利)

第十五回 魯西亜(ロシア)(附 波蘭)

第十六回 米利加連邦

 中編は、

第一回―第二回 「欧州復旧」

第三回―第四回 「人民と神聖会盟と相抗敵するの記」

第五回「欧州各国人民自由進歩の記」

第六回―九回 1830年仏国大変革とその後の欧州各国形勢

第十回「亜細亜に於て英魯の両国相競ふの記」

第十一回「土耳古、埃及(エジプト)戦闘の記」

第十二回―第十七回 「1848年仏国大変革の原因」、1848年仏国大変革及び共和政治、1848年大変革以後の仏国形勢と、1848年欧州各国騒乱の事情

第十八回「哥里米(クリミア)乱原因の記」

 下編は、

第一回 クリミアの乱

第二回「印度叙跛(セポイ)兵の乱」

第三回 以太利独立の戦

第四回 支那戦争の記(附 太平王の乱)

第五回 米利堅(アメリカ)、魯西亜、英国

第八回 墨是哥(メキシコ)及び南亜米利加各国

第九回―第十回 西班牙、日耳曼と墺孛(普)両国の戦

第十一回―第十三回 仏国輓近の大勢と普仏戦争

***

 こういう構成からも『萬國新史』の特徴は少し見えてくるが、改めてその特徴を探ってみよう。 

 第一に、『萬國新史』は、フランス革命から普仏戦争の時期までを扱った、当時で言えば「現代世界史」である。ほとんど麟祥の生きていた同時代を扱ったにもかかわらず、世界諸地域の歴史に対する深くて正確な知識と洞察は目を見張るものがある。

 第二に、それは「同時代史」である。ここで「同時代史」というのは、生きているわれわれと同じ時代という意味ではなく、輪切りの同時代という意味である。フランス革命の時代、1848年革命の時代、クリミア戦争の時代、「セポイ」と「太平王」の時代などを区別しつつ「同時代史」を述べている。つまり、この時期の歴史を、ナショナル・ヒストリーで割らないで、ヨーロッパ大陸全体、世界全体の動きとしてとらえている。そのような方式の中で、この「万国史」は、視野をヨーロッパに限らず、アジアやその他非ヨーロッパに対して広く伸ばし、それらにヨーロッパに劣らない位置を与えている。ヨーロッパ、アメリカ、ラテンアメリカ、アジア、一部のアフリカなどをボーダーレスに自由に動いて、歴史を描いている。この時期はまだ日本史、東洋史、西洋史という区分がないので、こういう具合に「自由」に世界史を見ることができたのである。その際、かれは諸国、諸地域の歴史をなんらかの「関係」において捉えつつ、同時代史的・関係史的世界史を描いている。

 第三に、それは、ペルシアから中央アジア、アフガニスタン、インド、そして中国までについて、詳細で正確な「事実」を基礎に論じている。とくに、中央アジアについては、英露の対立関係のなかで、現地の諸勢力の錯綜する関係を見事に描いている。日本では、この箕作の書以後、忘れ去られていくことになる中央アジアの歴史が、今日再度関心を集めているわけである。ちなみに、これ以外では、ラテンアメリカについては詳しく述べる一方、アフリカはエジプトあたりまでで終わっているし、箕作がフランス語も解したにもかかわらず、フランス圏の東南アジアは扱われていないのは、不思議である。おそらく依拠した書物のせいであろう。

 最後に、本書は、当然ながら、当時の麟祥の歴史的制約も受けている。民権主義者としての麟祥は、人民の「自由」こそ強調しているが、人民の願いを受け止めて指導する「賢明なる国王」を目指すべき理想であるという立場のようである。人民の「自由」への動きは各所に押さえながら、人民が「衆愚」にいたることを恐れ、むしろ「賢明なる君主」という視点から歴史を見ているわけである。

***

 さて、ヨーロッパの東部については、どういう記述をしているのかとみると、これまでの「万国史」とは全く違う扱いをしていることが分かる。

 1848年革命(騒乱)が詳細に論じられているので、それを素材にしてみよう。それは1846年のポーランド人のガリツィア蜂起を伏線として置くところから始まり、48年革命を同時代的に分析した力作になっている。1846年のクラクフ「共和政治」、その崩壊後も続くポーランド人の「自由」への「恢復の念」、ついでスイスにおける「守旧党」と「改革党」の乱などを前史としたうえで、1848年を論じている。1848年革命の時代の描き方を見てみよう。かれはこれをこういう順番で描いている。フランスについで人民が蜂起したのはオーストリアのウィーンの人民であるとして、1848年3月から10月までのウィーン府民の騒擾とメッテルニヒの追放、オーストリアの管轄下にあったイタリアの人民の動乱(3月―7月)、このイタリア人の動きを聞いて同じくオーストリアの管轄下にあったボヘミアで6月に開かれたスラヴ人種の公会、そして、オーストリアの管轄に不平を懐いていたハンガリー人の3月騒擾から、9月からのオーストリアとの戦争が述べられる。さらにドイツの3月革命から5月開催のフランクフルトの「列国人民代理者」の大議院での議論が述べられた後、6月のワラキア、モルドヴァ(ルーマニア)での騒乱、そしてイタリアの1849年3-8月の対オーストリア戦争、ハンガリーの1848年10 月から1849年8月までの独立戦争をもって終わっている。これは、各地での「人民自由」を求める民衆蜂起や政治変動を相互に「関係」させながら、それらが波及していく(つまり「連動」していく)順に述べられているわけで、この時期の歴史を、国民史で割らないで、大陸全体の動きとしてとらえているのである。当然諸国民の歴史は諸国との「関係」の中で位置付けられている。

 個々の東欧の「人民」の様子を箕作はどのように見ていたのであろうか。 

 チェック人は、かつて不羈自立の国を持っていたが、いまはスラヴ人種として、ガリツィア、イリリア、スチリア、ダルマチアなどと「大連邦」と組むことを謀り、6月2日にプラハで「公会」を開いた。ボヘミアの人民はオーストリアからの独立は望んでおらず、ボヘミアではドイツ人が少ないのにその権力はスラヴ人より大きいという制度を正したいと願っていた。しかし、会の参加者の一部は、オーストリアに叛く事を考えて「人民」を扇動し、6月12日にプラハの「府民」に「乱」を起こさせた。これは、6月14日、ウィーンヂスグラッツの軍に敗れ、これにより「公会」も解散したと述べている。このように、箕作は「オーストロ・スラヴ主義」に注目していたわけである。

 オーストリアに対する反乱として、ハンガリーが出てくる。ハンガリーもボヘミアと同じくかつては独立の国であったが、オーストリアに支配されて人民はその「苛政」に苦しんでいた。フランスの報を聞いて、3月15日にその国民はウィーンに数名を派遣して、「内閣」の設置を求めた。皇帝は人民を抑圧しがたいとみてこれを許し、バチアニを内閣の長とした。多くの国民はこれで満足したが、しかし、コシュットはそうではなかった。ハンガリーはオーストリアからの独立を図る際、トランシルヴァニア、クロアチアのワラツク人種(=ヴラフのこと)とスラヴ人種をその支配下に置こうとしたが、それら「人種」の「意を失ひし」。これを見てオーストリアは、この二つの「人種」を用いてハンガリー人に敵対させ、エルラキク(=イェラチチ)を利用して、攻撃させた。このような記述からは、コシュートらが同じくオーストリアに支配されていて共闘すべきスラヴ人の「意を失った」こと、オーストリアがかれらを利用したことが指摘されていることが分かる。

 ついで、フランスの「大騒乱の余波」は遠くダニューブ河に及び、ルーマニア「人種」も「国を立て」るべく「請願」を起こしたと記述している。そもそも、ルーマニア人はローマのダキア植民の末裔で、スラヴ人の「侵掠」を受けたが、とくにワラキアとモルダヴィアの二州に多数残った。かれらは「土耳古」人に「開明」の道を教えたほどで、二州はトルコ下で独自の政府を認められ、言語・制度も維持された。トルコは、この二州の政権をギリシア人に委任していたが、ロシアは1821年にウラジミレスコというルーマニア人を使って、ギリシアの支配から脱却させた。当時ギリシアがトルコに背いて兵をあげていた(=ギリシア独立戦争という用語はない)ので、トルコは二州の自立を認め、二州では「変革」の機が出てきた。だが、ロシアは二州に「権」をほしいままにしようとして、この変革を「妨阻」し、二州を自己の保護下においた。これに対して、二州においては、若者たちが欧州の自由の説を取り入れ、ビベスコ(大公ビベスク)なるものを先頭に改革を目指したが、そのようなおりに、フランスの48年の報が伝わると、6月、ワラキアの一部に騒乱が起き、それが全国に波及、3月23日にはブカレストでビベスコは憲法の約束をしたと述べられている。「万国史」のなかで初めてルーマニアについて、ほぼ正確な記述が現れたわけであるが、それだけでなく、ハンガリー人やロシアやトルコ(=オスマン)との間で苦労するルーマニア人の位置がよく示されている。フランスに留学していた鱗祥は、当時のフランスの文献の影響も受けて、ルーマニアについても記述しているわけであろう。

 ルーマニアの蜂起ののち同じくラテン系のイタリアの蜂起が述べられ、それについでふたたびハンガリーの乱が述べられる。イタリアの蜂起が押さえられたあと、ハンガリーだけが、人民が独立を求めて皇帝の命に従わず、コシュットに従って、オーストリア軍とたたかった。ハンガリー軍は、ヴィンヂスグラッツとエルラキクに敗れて、1849年1月には政府をデブレツエンに移した。ここでハンガリーの人民は貴賤の別なく兵に応じて、勢いを回復した。そして4月の末にはペシュトを奪回し、ウィーンまでも襲う気配が出てきた。ここにフランツ=ヨーゼフはロシアの援軍を求め、8月12日にウィラゴスの戦いでハンガリー軍を破った。皇帝は敗戦後のハンガリーに徹底した弾圧で臨み、「立憲党」の首魁であったバチャニを、当時最も人民に敬愛されていたにもかかわらず、銃殺した。

 ここに1848年革命は終焉したのである。1848年革命をイタリアとハンガリーの革命の終焉で締めくくるのは、箕作の慧眼である。

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 いろいろと不正確なところはあるが、事実に基づいた東欧の歴史になっていた。そしてすでにヨーロッパの東の部分への歴史的視野は驚くほど広がっていたことが確認できよう。これまでのポーランド、ハンガリー、ギリシアだけでなく、ボヘミアやワラキアなども現れるのである。寺内の『五洲紀事』とは比べ物にならないくらいに、正確な認識になっている。また、歴史をみる基準としては、自由、立憲、独立という価値が柱になっていて、これを賢明なる君主が、「人民」の動向を取り入れつつ、いかに実現できるかというところに置かれていた。だから、かれは「暴徒」「激派」や「ソシアリスト」には批判的である。そして、諸民族の歴史も他の民族の歴史との「関係」で扱われている。国民史の並列ではないのである。しかし、これらの特徴はその後、順調には継承されなかった。

(「世界史の眼」No.38)

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M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―(中)
小谷汪之

はじめに

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(以上、前号掲載)

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

(本号掲載)

(以下、次号掲載)

3「ビルトの体系」

おわりに

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

(1) ビルトにもとづく社会的分業関係

 ビルトという言葉は、ザミーンダーリー・ビルトのような土地レンテ収取権を意味するだけではなかった。より本源的な用法では、世襲的に定められている範囲の「顧客」に世襲的家業に基づくサーヴィスを提供し、その反対給付を受ける世襲的な権益(資産、家産)がすべてビルトと称されたのである。ウイルソンはこのような意味でのビルトの用法を挙げている。

birtあるいはbrit:ヒンディー語。サンスクリット語の vritti 〔から派生〕。〔中略〕世俗的と宗教的とにかかわらず、ある職に従事することから生じる権利、慣行〔的権利〕、特権。さまざまなカーストによって主張される、ある特定の職に従事する権利。〔例えば〕家庭司祭に対する手当。(注8)

 先にも触れたが、ヴリッティvṛttiというサンスクリット語の言葉がブリットbritに変化し、さらにビルトbirtへと、より発音しやすい方へ変化したと考えられる。このことは、北インドにおいて、ヴリッティという言葉が、音韻変化を起こしながら、長く使用され続けてきたことを示している。

 前出のチョードゥリーのような地域共同体の首長の職とそれに付随する取り分権(チョードゥラーイー)もビルトと称された。地域共同体は50カ村ぐらいの村々を束ねた上位の地縁共同体で、地域社会の再生産に重要な役割を果たしていた。(注9)

 さらに、ウェーバーの前引の一文にあるように、「世襲村長」もビルトをもっていた。コートあるいはムカッダムと呼ばれた村長の職と取り分権(コーティー、ムカッダミー)もビルトだったのである。コーティー、ムカッダミーは、遅くとも16世紀までには売買可能な物件となっていた。1530年の一史料はある村のコーティーが700タンカで売却されたことを示している。(注10)村長職の取り分は実入りの良いものであったから、村落外の者がムカッダミーを購入するといったこともしばしばあった。(注11)

 村落共同体のさまざまな職務に従事する手工業者たち(鍛冶屋、大工など)や床屋、洗濯人などのような村職人たち―ウェーバーは彼らを「村落エスタブリッシュメント」Dorf-establishmentと総称している(注12)―もそれぞれのビルトをもっていた。

 このように、村落共同体―地域共同体を構成するさまざまな人々は、それぞれのビルトを所有していた。ビルトは村落共同体―地域共同体内の社会的分業関係の土台をなしていたのである。

(2) ウェーバーの「ジャジマーニー関係」論

 土地レンテ収取権としてのビルトとは区別される、「村落エスタブリッシュメント」を構成する人々のビルトはジャジマーニーjajmānīとも称された。ジャジマーニーという言葉は仏教やヒンドゥー教において、施主あるいは祭主を意味するサンスクリット語のヤジャマーナyajamāna(転訛してジャジマーンjajmān)という言葉から派生した語であるが、「村落エスタブリッシュメント」を構成する村職人などの世襲的顧客関係を指す言葉として広く用いられていた。

 ウェーバーは『ヒンドゥー教と仏教』の各所で、バラモン家庭司祭や大工などの職人が世襲的な「ジャジマーニー関係」jajmani-Beziehung(顧客関係Kundschaft)をもち、それを売却することもできたということを指摘している(Hinduismus und Buddhismus, pp. 63, 103-104, 352)。

顧客関係保護の原則Prinzip des Kundschaftsschutzes、すなわちジャジマーニー関係jajmani-Beziehung確保の原則は、これら村落職人の範囲を越えて、今日でも多くの手工業カーストにおいて強力に実施されている。我々はすでにこのジャジマーニーの保護をバラモンに関して知ったのであるが、〔祭主、施主という言葉から派生した〕この語の意味が示すように、この概念はバラモン・カーストの諸関係に起源を持ち、そして個人的管轄区域≫Sprengel≪とでも訳すべきものである。〔中略〕たとえばチャマール〔不可触民の皮革工カースト〕は、世襲的に特定の諸家族から死んだ家畜を受け取り、彼らに対して靴などに必要とされる皮革を納める。同時に彼の妻は同じ顧客の助産婦である。乞食の諸カーストは、西洋の煙突掃除人のように、(世襲である点が異なるが)特定の乞食区域を持ち、ナーイー〔床屋〕は、自分の世襲の顧客に対して、理髪師、マニキュア師、ペディキュア師、外科医および歯科医であり、バンギー〔不可触民の一カースト〕は特定区域の清掃人である。多くのカーストについて―したがって、ドーム(家僕、乞食)やバンギーについても―顧客関係Kundschaftは譲渡できるし、しばしば婚資〔嫁買金〕の一部であると報告されている。かかる制度が存在する場合には、他人の顧客関係に侵入することは、今日でさえカーストからの追放の理由になる。(Hinduismus und Buddhismus, pp.103-104.深沢宏訳、137頁)

 ウェーバーはジャジマーニーに関するこのような知識を、‘Blunt im C. R. 1911 für die United Provinces und Oudh (altklassischer Hinduboden!) p. 223’から得たと注記しているが(Hinduismus und Buddhismus, p.104, n. 2)、この出典表記には誤りがある。正しくは、E.A.H. Blunt, Census of India, 1911, Vol. 15, United Provinces of Agra and OudhPart 1, p. 332の以下の記述である。(注13)

(C) ジャジマーニーJajmani―バラモン以下多くのカーストは「ジャジマーニー」jajmani(注1)という言葉で表される慣行をもっている。字義どおりには、ジャジマーンjajmanという言葉は「供犠を行う人」、すなわち、司祭を雇って自分のために供犠を行い、もちろん、供犠に必要なものを司祭に提供する人、を意味する。しかし、〔ジャジマーンという言葉は〕今ではあらゆる種類の顧客を意味する。バラモンのプローヒトpurohitすなわち家庭司祭のジャジマーンは彼の教区民パリショナーたちであり、教区民たちの誕生祝、入門式、結婚式といった儀式を管掌することが彼の職務である。同様に、チャマール〔皮革工〕、ドーム、ダファーリー、バート〔家系図作り〕、ナーイー〔床屋〕、バンギー〔清掃人〕、バダイー〔大工〕、ローハール〔鍛冶屋〕、これらすべてのカーストがそれぞれのジャジマーンを持ち、ジャジマーンに定められたサーヴィスを提供する代わりに、〔ジャジマーンから〕所定の手当を受け取る。顧客関係は世襲的で、父から子へと受け継がれる。チャマールはジャジマーンから死んだ家畜を受けとり、〔ジャジマーンに〕皮革や靴を提供する。チャマールの妻は同様に彼女自身の顧客関係を持ち、〔顧客=ジャジマーンの家で〕産婆の役割を果たし、結婚式や祝祭などの際に下働きとして働く。ドームのジャジマーニーは物乞い区域begging beatで、その範囲内では、彼だけが乞食をしたり、盗みをしたりすることができる。ダファーリーも物乞い区域を持っている。ダファーリーは乞食をする以外に、悪霊を払い、邪視を無力にする役割を果たさなければならない。ナーイーは顧客の髯をそり、〔顧客の家の〕結婚仲介人となり、ちょっとした外科手術(抜歯、骨接ぎ、できものの切開、等々)を行う。一方、ナーイーの妻は顧客の家で、産後の主婦のために子守を世襲的に行う。バダイー〔大工〕とローハール〔鍛冶屋〕は村々において、犂や砕土機ハローやその他の農耕具を作ったり修理したりする顧客圏を持っている。バンギー〔清掃人〕はある一定の数の家々を顧客としている。ジャガ・サブカーストのバート(注2)は彼等の顧客の巡回家系図作りとして、二、三年毎に顧客の家を訪ねて、家系図を最新の状態にする。

 これらの顧客圏は収入の貴重な源泉であり、世襲され、売買することもできる(ドームの物乞い区域やバンギーのジャジマーニーは、しばしば、婚資代わりになる)。このようなものとしての顧客圏は厳密に境界が定められ、同じカースト仲間の顧客圏に侵入すると激しい怒りを買う。多くの場合、カースト・パンチャーヤト〔長老会議〕の主要な職務はこの種の違反に対処することである。ドームは、彼の物乞い区域内で盗みを働いた他のドームを警察に引きを渡すことを躊躇しない。(注3)

 注

 1. ジャジマーニーはブリトbritあるいはビルトbirtの同義語である。(以下略)

  2. (略)

 3. もし、ある顧客が彼の家の世襲的なドームあるいはバンギーあるいはバダイーに仕事を頼むのを拒否したらどうなるかという問題がある。その場合、多分彼はボイコットされ、誰も彼のために仕事をしないであろう。(以下略)

 上引文中の注1に見られるように、バラモン家庭司祭、バート、チャマール、ドーム、ダファーリー、ナーイー、バンギー、バダイー、ローハールなどの場合、ビルトとジャジマーニーが同義であることは1911年国勢調査(Census of India)の段階ですでに知られていたのである。ウェーバーはこの国勢調査報告書を読んで、ジャジマーニーについての知識を得たのであるから、当然、これらの人々のビルトとジャジマーニーが同義であることも知っていたはずである。

 これらの人々のビルトとジャジマーニーが同義語となった経緯は次のように考えられる。ジャジマーニーという言葉は、前述のように、サンスクリット語で祭主(仏教的にいえば、施主)を意味するヤジャマーナという言葉から派生したもので、もともとは、バラモン家庭司祭の顧客関係(ビルト)のみを表す言葉であった。しかし、このジャジマーニーという言葉がしだいに一般化して、チャマールやバンギーなどの顧客関係(ビルト)までジャジマーニーと呼ばれるようになり、結局、これらの人々のビルトとジャジマーニーは同義とみなされるようになっていったのである。ただし、ザミーンダーリー・ビルトなど、土地レンテ収取権としてのビルトがジャジマーニーと表現されることはなかった。ビルトとジャジマーニーが同義だったのは、あくまでも、共同体的分業関係の場においてだったのである。

 なお、ブラントは自らが委員長を務めた連合州銀行業調査委員会United Provinces Banking Enquiry Committee, 1929-1930の報告書に依拠して、連合州のある三つの県(district)で、バンギーやマハーブラーフマン(葬式を行うバラモン)などのジャジマーニー80件が抵当に入れられていたことを指摘している。その中の1件はプローヒティー、すなわちバラモン・プローヒト(家庭司祭)のジャジマーニーであった。(注14)このことは、1930年頃になっても、ビルト(ジャジマーニー)が現実的な資産としての価値をもっていたことを示している。

(3) ワイザーのジャジマーニー制度論

 W・H・ワイザーが『ヒンドゥー・ジャジマーニー制度』(1936年)(注15)と題された著書で、ジャジマーニー制度という概念を提起したことはよく知られている。その副題には、「ヒンドゥー村落共同体の構成員たちをその職務において相互に結び付ける社会経済的制度」とある。ジャジマーニー制度とは、換言すれば、村落共同体内分業の制度だということである(ただし、村が小さい場合などには、1カ村を越える分業関係もあり得た)。

 ワイザーの調査村であるカリームプル村(仮名)は、ガンジス川とジャムナー川に挟まれた、いわゆる両河ドアーブ地方に位置し、以下のような24のカーストから成っていた。(注16)

1. バラモンおよびそれに近似した階層(2カースト)

 バラモン(家庭司祭)、バート(家系図作り)

2. クシャトリヤおよびそれに近似した階層(2カースト)

 カーヤスタ(書記)、ソーナール(金工)

3. シュードラ階層(12カースト)

 マーリー(野菜作り)、カーチー(野菜作り)、ローダー(米作り)、バダイー(大工)、ナーイー〈床屋〉、ダルジー(仕立屋)、クムハール(陶工)、テーリー(油屋)、その他。

4. 被差別民階層(8カースト)

 ドービー(洗濯人)、チャマール(皮革工)、バンギー(清掃人)、その他。

 ワイザーはこれらの諸カーストの間の関係について、次のようにのべている。

村のそれぞれのカーストは一年のどこかの時期にお互いの間で固定されたサーヴィスの授受を行うことが求められる。〔中略〕〔例えば〕村大工は彼の顧客clientele全体を彼のジャジマーニーあるいはビルトと呼ぶ。これらの言葉は同じ意味である。大工がサーヴィスを提供する個々の家、あるいはその家の家長は大工のジャジマーンと呼ばれる。(注17)

 同様に、バラモン家庭司祭(パンディト)、金工、鍛冶屋、床屋などの諸カーストの人々もそれぞれ自分の家の世襲的な顧客をもち、それぞれの顧客の全体が彼の「ジャジマーニー」あるいは「ビルト」と称されていたのである。

 このジャジマーニーあるいはビルトが単に世襲的な権益(資産、家産)であっただけではなく、譲渡可能な物件であったことについて、ワイザーは大工を例として、以下のようにのべている。

それぞれの大工は自分自身の顧客を持っている。この顧客関係は慣習によって確立され、世代から世代へと引き継がれる。村が大きい場合には、顧客は村の境界内に限られる。もし村が大きくなかったり、大工家族の成員が村の必要を満たす以上に多い場合には、近隣の大工のいない小村にまで、顧客の範囲が広がる。この顧客関係はひとたび確立されると、大工自身によってしか破棄されえない。彼は彼の諸権利を他の大工に売ることもできる。この顧客関係は世襲的であるのみならず、譲渡可能なのである。(注18)

 ワイザーが見た1920-30年代北インドの村落社会では、バラモン家庭司祭、大工などの村職人、その他多くの人々が一定の範囲の顧客を自らの世襲的なジャジマーニーすなわちビルトとしてもち、そのジャジマーニー(ビルト)を物件として売却したり、譲渡することができた。この社会関係は、まさにウェーバーがブラントの国勢調査報告書に基づいて記述している「ジャジマーニー関係」jajmani Beziehungそのものである。

(次号に続く)

※注はまとめて(下)に掲載します。

(「世界史の眼」No.37)

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書評:マイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)
山田 朗

戦争の歴史をどうとらえるか

 2022年2月に始まったウクライナ戦争。その時以来、私たちは、「戦争」「侵攻」「戦闘」という言葉をテレビ・新聞や様々なネットメディアで聞かない(あるいは読まない)日はない。もっとも、米ソ冷戦終結後も「戦争」は常にどこかで起きていた。湾岸戦争、旧ユーゴスラビア地域における内戦、9.11を発端とするアフガニスタン戦争、イラク戦争、シリアやアフリカにおける内戦、世界に拡散したテロと対テロ戦争……。これらは、多くの場合、地域における内戦・紛争に大国が介入したもので、どちらかと言えば非対称戦争の様相を呈する傾向が強かった。しかし、ウクライナ戦争は、軍事大国ロシアとNATOの支援を受けたウクライナとの間の、古典的な主権国家同士の戦争であり、また、真相は次第に明らかになるであろうが、少なくとも見た目には、絵に描いたような侵略戦争を国連安保理常任理事国が正面切ってやってしまったという点で世界に大きな衝撃を与えた。

 戦争とは殺戮であり、恐怖であり、とてつもない破壊である。大多数の人間が望むものでないことが、「正義」や「正統性」の名の下に、「合法的」に遂行される。人類にとって戦争とは何なのか、戦争は社会をどう変えてきたのか、また社会の変容がどのように次の戦争を生んできたのか、おそらく一国レベルでも戦争の歴史を考察しようとすると、あるいは概観しようとしただけでも、私たちは多くの書物にあたらなければならない。例えば、『戦争の日本史』(吉川弘文館、2006~2009年)は倭国(邪馬台国)大乱からアジア太平洋戦争まで全23巻・約7,000ページもある。ましてや、世界の戦争の歴史を概観しようとすれば、大変な労力を要すると覚悟しなければならない。

 だが私は、つい最近、世界の戦争の歴史を実にコンパクトにまとめた本に出会った。それが、ミネルヴァ世界史(翻訳)ライブラリー第1巻として2022年11月に刊行されたマイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』、原著:Michael Scott Neiberg, Warfare in World History (NewYork, London: Routledge, 2001)である。

代表的戦場・兵士・兵器・戦闘・遺産からなる章内構成

 『戦争の世界史』の章立ては以下のとおりである。

  はじめに/謝辞

  序 章 1944年6月5日

  第1章 古典時代–紀元500年まで

  第2章 ポスト古典時代–紀元500~1450年

  第3章 火器の出現–1450~1776年

  第4章 ナショナリズムと産業主義

  第5章 第1次世界大戦

  第6章 第2次世界大戦

  第7章 冷戦とその後

  第8章 結論

  訳者解説/索引

  四六判、viii+208+10頁

 実にオーソドックスな章立てで、ギリシャ・ローマ時代から冷戦後までを描き、それを邦訳本文わずか208頁でまとめている。だが、本書は、いつ、誰(どの国)が、どこで戦い、その勝敗がどうであったのか、ということをただ単に時系列的に羅列したものでもなければ、英雄・将軍の決断の成功・失敗のエピソード集でもない。もちろん、世界の戦争全体の通史とは言えないが、それでも本書は、古典古代以来、現代までの戦争の特徴と戦争を生み出した社会的背景、戦争では誰がどのような兵器を使って戦い、さらに戦争が社会をどう変化させたのかを考える上での不可欠の知識を私たちに与えてくれる。大づかみであるが、決して抽象的ではなく、その時代に生き、戦った人間(男・女)の存在に目配りが利いた叙述となっている。実に無駄がない。訳文も非常にこなれているし、訳者による補足・補訂も親切に施されている。

 本書は、コンパクトであるにもかかわらず、各時代の戦争の特徴と時代間の関係性がよくわかる。それは、その章内構成がたくみであるからだ。第1章から第7章には、必ず共通の小見出し(節)が設定されている。それは 【代表的戦場】【兵士】【兵器】【戦闘】【遺産】である(なお、著者が序章で明示しているのは【兵士】【兵器】【戦闘】の3つの小見出し(節)であるが、実際の章には3つの前に【代表的戦場】というべき節が、後に【遺産】と題された節が設けられている)。

 【代表的戦場】には、第1章【テルモピュレ—紀元前480年】、第2章【マラーズギルド—1071年】、第3章【ケベック—1759年】、第4章【対馬海峡—1905年】、第5章【ガリポリ—1915年】、第6章【スターリングラード—1942~43年】、第7章【ディエンビエンフー—1953~54年】という具合に、それぞれ具体的地名と年代が入っていて、いきなり読者を各時代の戦場へと連れていく。そして【兵士】の節でどのような人が(第5章以降ではどのような男・女が)戦場で戦い、銃後を支えたのか、【兵器】の節でその時代に使われた兵器体系を示し(火器の普及が戦争を大きく変えた)、【戦闘】の節で人と兵器がどのような形態の戦闘に投げ込まれたのか叙述し、【遺産】の節でその時代の戦争がどのような社会構造を前提にし、さらに戦争がそれをどう変化させたのかをまとめている。簡にして要を得た、無駄のない骨太な叙述は、著者の大きな力量を感じさせる。

 著者マイケル・S・ナイバーグは、戦争が社会や技術を進歩させてきたとか、兵器性能が戦争の勝敗を決するといった単純な結論を出していない。戦争は基本的に人類の愚行であり、火器の発展とその大量配備を可能にした産業主義は、戦場(戦略爆撃は戦場と銃後という境界さえなくした)における無意味な大殺戮を生み出したことを直視している。

戦争の世界史的把握の重要性

 『戦争の世界史』を読むと、戦争を世界史として把握することの重要性に改めて気づかされる。著者も強調しているように、兵器体系はたいていの場合、文明圏・文化圏の境界線を容易に突破して伝播する。また、比較的短期間に射手を養成できる火器の普及は、封建制度を急速に不安定なものにさせ、次第に、中央集権国家による暴力の独占へと進ませる。巨大な組織的暴力を統制・運用するために参謀システムが導入され、戦争はシステマティックな、生産力と輸送力と国民の主体性を喚起する宣伝力に支えられたものになっていく。こうしたことがグローバルなスケールで展開された。

 本書は戦争の世界史的把握という点で、私たちを大いに触発するものであるが、克服すべき問題点がないわけではない。本書は、中国・インド・日本など非ヨーロッパ世界における戦争・軍事思想にも目配りをしているものの、やはりヨーロッパとアメリカにおける戦争史中心の歴史叙述であることは否めない。また、原著が「9.11」の2001年に刊行されていることから止むを得ない部分もあるのだが、第7章では第2次世界大戦後を基本的に植民地支配から脱するための、反帝国主義ゲリラ戦争を軸として描いている。しかし、ゲリラ戦争(非対称戦争)の様相は、冷戦終結前から急速に変貌を遂げていたことを本書は捉え切れていないように思われる。ISなどゲリラ勢力に対する大国の支援・介入が、結果的にさらなる秩序の崩壊を招いていることをどう捉えたら良いのか、これは私たちにも課せられた課題であろう。

小さいけれども大きな問題

 ところで、世界史の大づかみにした著作に対して、「これが欠けている」とか「この事件の叙述が正確ではない」といった批判は、いささか気が引けるが、世界の戦争史で初めて起きた事件に関することなので、野暮を承知で1つだけ指摘しておきたい。日本軍による真珠湾攻撃の2日後、1941年12月10日(日本時間)、マレー半島沖で日本海軍は航空攻撃のみで、イギリス戦艦2隻を撃沈した。本書では、「日本の空母を基地にした艦載機は、イギリスの誇るプリンス・オブ・ウェールズ号〔東洋艦隊の旗艦〕とレパルス号の二隻の戦艦を沈めた〔マレー沖海戦〕」(159頁、〔 〕内は訳者による補足)とある。だが、この時点で日本海軍の6隻の主力空母はハワイからの帰投中で、この戦場には存在しない。イギリス2戦艦を沈めたのは、「空母を基地にした艦載機」ではなく、仏印の地上基地を発進した双発の「陸上攻撃機」(陸上から発進する攻撃機=雷撃・爆撃両用機)であった。この違いは、一見するとどこから発進したのかという些細な違いに見えるが、日本海軍の作戦構想と兵器体系の構築に関わる大きな相違なのである。一般に、地上基地から発進する双発の爆撃機(大きさからいって空母に搭載できない)の類は、空軍が独立していない場合、どの国でも陸軍に所属するものだ。だが、日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約で空母の保有量が制限されたことへの抜け道として空母に搭載できない、地上発進の「陸上攻撃機」という独特の機種を1930年代に開発し、来攻する米艦隊を迎撃する地上部隊(第11航空艦隊)に配備していた。マレー沖海戦に参加した日本海軍の航空機は、96式陸上攻撃機と1式陸上攻撃機のみで、これらが雷撃と爆撃で英2戦艦を沈めた。96式陸攻開発の主導者こそ山本五十六で、航空主兵論者である彼が最もやりたかったタイプの海戦こそが、量的に制約があった空母艦載機に頼らずとも、地上発進の「陸上攻撃機」で、敵戦艦を迎え撃つというものであったのだ。マレー沖海戦は、空母の数的劣勢を補おうとして構築した、独特な航空戦力による戦いであり、また外洋を自由に航行する戦艦が航空攻撃のみによって撃沈された、世界最初の事例であった。だが実は、重要なのは、山本がやりたかった「陸上攻撃機」による敵戦艦撃沈は、これが最初で最後になったということなのである。マレー沖海戦において、英側は戦艦に1機の護衛戦闘機もつけていなかった。それだからこそ、戦闘機に対してはほぼ無力な、双発の「陸上攻撃機」のみの攻撃で、2戦艦は討ち取られてしまった。この海戦以後、戦艦が航空部隊の護衛なく行動するということはなくなり、また対空火力も強化されたので、鈍重な双発機が、戦艦に接近して沈めるなどということは2度と起こらなかったのである。こういう意味で、マレー沖海戦における日本海軍の航空機がどこから発進したかという問題は、日本海軍の戦略と構築した独特な兵器体系を語る上で、それなりに重要な問題なのである。

 変なところにケチをつけた形になってしまったが、本書の価値をいささかも揺るがすものではない。戦争に対する深い考察がなされるべき、現在においてこそ、広く読まれるべき著作だと思う。

(「世界史の眼」No.37)

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M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―(上)
小谷汪之

はじめに

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(以上、本号掲載)

(以下、次号以降掲載予定)

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

3 「ビルトの体系」

おわりに

はじめに

 マックス・ウェーバーのアジア社会論は、マルクスなど19世紀までの西欧思想家たちによるアジア社会論とは異なり、今日なお継承されうるものを含んでいる。(注1)

 たしかに、ウェーバーのアジア論の中心主題は、アジアにおいて資本主義が成立しなかったのはなぜか、ということであった。ウェーバーは、インドについても、資本主義の自生的な発展の欠如を指摘し、ヒンドゥー教や仏教がそのこととどう関係していたのかということを、『ヒンドゥー教と仏教 宗教社会学論集 世界諸宗教の経済倫理 II』(1921年)の主題としている。(注2)

 しかし、だからといって、ウェーバーは「歴史なきアジア」といった19世紀オリエンタリズム的固定観念に縛られていたわけでは決してない。例えば、ウェーバーは、『ヒンドゥー教と仏教』や『一般社会経済史要論』(注3)において、インドにおける社会発展の固有性を追及しようとしていた。インド的な社会発展は、結局、資本主義を自生的に発展させることにはならなかったとしても、インド社会は「停滞」していたのではなく、固有の発展を遂げていたというのがウェーバーの捉え方であった。

  独立(1947年)後のインドの歴史学界では、マルクス主義的、あるいはスターリン主義的な歴史発展段階論が強い影響力を持ち、奴隷制度、封建制度といった西洋起源の概念をそのままインド史に当てはめようとする傾向が強かった。しかし、ウェーバーの場合は、そのような機械的インド史論とは異なり、インド社会に固有の歴史変動ダイナミズムを捉えようとしたのである。

 ウェーバーにとって、インド的社会発展の固有性を捉えるための一つの手掛かりとなったのはLandrentner、すなわち「Landrente収取者」の重層化という現象であった。Landrenteという言葉は、歴史的文脈においては、「地代」と訳される場合が多い。しかし、「地代」というと、地主―小作関係のような、土地所有者―借地人という一対一の社会関係が想定されやすい。しかし、ウェーバーは、インド的文脈においては、Landrenteという言葉を、もっと幅広い社会的諸関係において、多数の人々すなわち複数のLandrentnerに配分される「土地からの収益(剰余)」を表す言葉として使用している。その点を考慮して、本稿ではLandrenteを「土地レンテ」(単にRenteとある場合は「レンテ」)、Landrentnerを「土地レンテ収取者」(単にRentnerとある場合には「レンテ収取者」)と訳する。(注4)ウェーバーはこの「土地レンテ収取者」Landrentnerの重層化という現象にインド的社会発展の固有性を認めていたのである。

 ウェーバーがインド的社会発展の固有性を捉えようとするにあたって、もう一つの手掛かりとなったのは、ビルトbirtというインド社会に固有の言葉であった。ビルトという言葉は、後述のように、ザミーンダーリー・ビルト(ザミーンダーリーとしてのビルト)といった場合には、「土地レンテ収取権」を意味している。しかし、より本源的な用法では、世襲的に定められている範囲の「顧客」に対して世襲的家業に基づくサーヴィスを提供し、その反対給付を受ける世襲的な権益(資産、家産)がすべてビルトと称された。ウェーバーにとって、このビルトという言葉が、インドにおける社会発展の固有性を捉えるもう一つの手掛かりとなったのである。

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(1) 土地レンテと土地レンテ収取者

 ウェーバーは、土地レンテLandrente、すなわち土地からの収益(剰余)がさまざまな取り分権をもつ人々、すなわち多数の土地レンテ収取者Landrentnerによって分有され、土地レンテ収取者の階層が重層化していくというところに、インド的社会発展の固有性を認めた。『ヒンドゥー教と仏教』の中で、ウェーバーは次のようにのべている。

 インド的な発展に固有なのは(Es ist der indischen Entwicklung eigentümlich, daß……)、いろいろな状況において、相互に重なりあう一連のレンテRenteが農民の納税義務を基盤として成立し、土地収益Bodenerträgenから支払われたということであった。本来の農民の上に、つまり土地の実際の耕作者のすぐ上に、一人の、あるいはより一般的には、一団体の土地レンテ収取者たちLandrentnernが存在した。彼らは土地の所有権者Eigentümerとみなされ、上の者に対しては、その土地からの租税支払いの責任を負った。しかし、彼らと国家権力との間には、通例、さらにザミーンダールあるいはタァルクダールと呼ばれる中間介在者がいて、単にレンテの分け前(それは、〔インドの〕北東地方ではしばしば租税額の10パーセントであるが)か、あるいはもっと広範な、本質的に領主的な諸権利を要求した。しかし、時には、この一人の中間介在者ではなく、古来の徴税請負人の他に、ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権Rentenrechtenを与えられた者、あるいは、〔ある村落の〕未納租税の支払いを引き受けることと引き換えに、その村落を購入した≫gekauft≪ことによって、権利を得た領主が存在した。最後に、事情によっては、世襲村長のレンテ要求がありえたが、それは村長に一種の領主的性格を付与した。(Hinduismus und Buddhismus, p. 71. 深沢宏訳、90頁)

 直接生産者たる農民たちの上に、「一団体の土地レンテ収取者たち」が存在し、土地所有権者として、納税義務を負っていた。彼らと国家のあいだには、税の徴収・納付にかかわって、ザミーンダールなどさまざまな階層の者たちが介在し、それぞれの職務とそれに付随する取り分を分有しあっていた。それをウェーバーは土地レンテに対する諸権利の重畳と捉え、このような状態がより複雑に、より高度に展開していくところに、インド的な社会発展の固有性を認めたのである。このような認識を踏まえて、ウェーバーは『一般社会経済史要論』では、次のようにのべている。

かようにして、租税徴収権者と農民との間には、租税が請け負われ、さらにこれが下請けせられるという関係を通じて、多数のレンテ収取者たちRentenempfängernが介在するというのがインド的諸関係の固有性Eigentümlichkeit der indischen Verhältnisseである。かくのごとくして、4人とか5人とかのレンテ収取者たちが鎖のごとくつながっている場合は、決してめずらしくない。(Wirtschaftsgeschichte, pp. 37-38. 黒正巌・青山秀夫訳、上巻、93頁)

 ここでは、Rentenempfängernという言葉が使われているが、これが『ヒンドゥー教と仏教』におけるLandrentnernと同じなのは明らかである。(注5)いずれにしろ、ウェーバーは、「土地レンテ」の一部を収取する者たちが重層化していく現象に着目して、「インド的発展の固有性」を捉えようとしたのである。

 ここでウェーバーは、時代と地域の限定なしに、「インド的発展」あるいは「インド的諸関係」の「固有性」を言っているのであるが、それではあまりに漠然としている。そこで、ウェーバーが、具体的には、どの時代と地域を念頭に置いていたのかということを考えてみたい。ウェーバーは上引の文章で、ザミーンダールやタァルクダールに言及している。彼らが、徴税請負との関係で広範に出現するのはムガル帝国の時代である。さらに、ウェーバーは上引の文章に続く箇所で、マラーター王国に言及している。それらのことから考えて、ウェーバーが念頭に置いていた時代は、主として16-18世紀、すなわちムガル帝国とマラーター王国の創建(それぞれ、1526年と1674年)と、それに引き続くムガルとマラーターの対立・抗争の時代であったということができる。地域としては、両国が領土をめぐって争い合った北インド・中央インドがウェーバーの関心の中心をなしていたと考えられる。

 この時代はイギリスによるインド植民地化に直接に先行する時代、すなわち、前植民地期であった。この時代にかんしては、豊富な英語文献が残されているから、ウェーバーはほとんど英語文献のみを用いて、「インド的発展の固有性」を追及することができたのである。

(2) 土地レンテ収取権としてのビルト

 ウェーバーの前引の一文に出てくるザミーンダールは、北インドにおける典型的な土地レンテ収取者Landrentnerであった。ウェーバーは、ベーデン=ポーエル『英領インドの土地制度』(注6)を通して、ザミーンダールなど、土地レンテLandrenteに対する世襲的取り分権を持つ階層が重層的に存在することを知ったのである。

 この土地レンテに対する世襲的な取り分権は、もともとは、ヴリッティvṛttiという言葉で表されていた。ヴリッティはサンスクリット語で「職業」、「生計(なりわい)」などを意味する言葉(サンスクリット語動詞√vṛt=to be supported by, to live on, etc.から派生)である。それが、16世紀頃までには転訛して、一般にビルトbirtと発音されるようになっていた。そのことを示す史料がI・ハビーブ『ムガル期インドの農業制度』のなかに見られる。この場合ビルトという言葉は土地レンテ収取権を意味している。

17世紀の一文書におけるビルトbirtという言葉の用法は、その言葉が贈与によって形成されたザミーンダーリーzamīndārīを表す言葉であることを示唆している。1669年の譲与文書の発給者は、ある村の「ミルキヤト、ザミーンダーリーおよびチョードゥラーイーmilkiyat, zamīndārī and chaudhurāī」を「ビルトの形」で譲与すると言明している。(注7)

 ここに出てくるビルトbirtという言葉は、明らかにヴリッティvṛttiという言葉が転訛したものである。したがって、この史料は、17世紀までの北インドにおいて、ヴリッティという言葉がビルトという発音しやすい、「庶民的」な言葉に転訛して、広く使用されていたことを示している。それは、土地レンテに対する世襲的な取り分権が広範に存在していたことの反映である。

 ハビーブは、この史料にかんして、ビルトは「贈与によって形成されたザミーンダーリー」を意味すると指摘している。ザミーンダーリーというのは土地レンテに対するザミーンダールの世襲的な取り分権のことである。したがって、ザミーンダーリーは、土地レンテ収取権一般を包括的に表すビルトの下位概念あるいは部分概念ということになる。それゆえに、ザミーンダーリー・ビルトあるいはビルト・ザミーンダーリーという表現も生まれたのである。

 上引の史料中に見られる諸権利すなわち「ミルキヤト、ザミーンダーリーおよびチョードゥラーイー」はビルトの内容を表している。そのうち、ミルキヤトはマレクmalek(所有者)の取り分を意味し、ザミーンダーリーと結合して、ある一定領域(この場合、具体的にはひとつの村)から、一定の土地レンテを収取する権利を意味した。チョードゥラーイーは地域共同体の首長としてのチョードゥリーの取り分である(後述)。これらの諸権利をビルトとして譲与したということは、世襲的な取り分権として譲与したということで、それはこれらの権利がもともと世襲的な権利だったからできたことである。

 このビルトという言葉は、北インドでは、19-20世紀になっても広く使用されていた。ベーデン=ポーエルは『英領インドの土地制度』(第一巻)で次のようにのべている。

 〔北インドの〕アワド地方においては、ラージャーが彼の家系の若い成員や廷臣に対して、賜与を行うことがあった〔後略〕。この賜与はビルトbirt、あるいはサンスクリット語ではヴリッティvrittiと呼ばれた。

 旧来のヒンドゥー王国が活力のある状態にあった限りでは、このような賜与は王の家系の成員あるいは王の家臣に一身の間だけ、その生計のために行われた(ジーワン・ビルトjewan birt)〔後略〕。しかし、ラージャーたちがムスリム勢力と抗争するようになり、権力を剥奪されたり、従属的な地位に落とされたりすると、ラージャーたちがビルトを売却することによって資金を調達するケースが現われる。このことはアワド地方において、明瞭に跡づけることができる〔後略〕。ビルト売却の例を示しているのは〔ゴーンダー地方の〕ウトラウラー国Utraula Stateである。これらの全ての場合に、その村落の経営、ラージャーの穀物取り分の全部あるいは一部分、そして荘園制的諸権利manorial rights(税関、渡船場、地方的諸税)が賜与を受けた者に譲渡された。これらの諸権利の総体はザミーンダーリーと呼ばれ、〔その場合〕ビルトはザミーンダーリー・ビルトと呼ばれた。(Baden=Powell, The Land-Systems of British India, Vol. I, pp. 131-132)

 このようなものとしてのザミーダーリー・ビルトの場合、土地レンテには税関や渡船場などからの料金収入も含まれていた。その土地レンテ収取権が一身かぎりの場合には、ジーワン・ビルト(jīvan birt 生涯ビルト、一代限りビルト)と呼ばれた。  

 このビルトと呼ばれた土地レンテ収取権は、遅くとも17世紀までには、売買可能な物件となっていた。ベーデン=ポーエルは以下のようなビルト売買文書を引用している(ただし、年代は不詳)。

 私は、バラモンであるトゥルシー・ラームに、〔ガネーシュプル村の〕ビルトを与えた。彼は、ガネーシュプル村を、貯水池、林、デー地〔カッコ内略〕、parja anjuri, biswa, bondha〔カッコ内略〕とともに永遠に享受する。彼はザミーンダーリー〔取り分〕を享受する〔カッコ内省略〕。彼は、〔これらの権利を〕安心して所有することができる。〔その代価として、私は〕701ルピーを受け取った。(Baden=Powell, The Land-Systems of British India, Vol. II, p. 240, n. 1)

 この売買文書においても、ビルトの具体的内容はザミーンダーリーで、ここで売買されているのは土地レンテ収取権としてのザミーンダーリー・ビルトである。

 このようなものとしてのビルトが土地レンテに対する世襲的な取り分権であることを、ウェーバーは知っていた。前引の文章の中で、ウェーバーは次のようにのべている。

しかし、時には、この一人の中間介在者ではなく、古来の徴税請負人の他に、ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権を与えられた者、あるいは、〔ある村落の〕未納租税の支払いを引き受けることと引き換えに、その村落を購入した≫gekauft≪ことによって、権利を得た領主が存在した。

 ここでは、「ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権を与えられた者」という一般的な表現がとられていて、具体的な事例は明示されていない。だが、次節で述べるように、ウェーバーがビルトという土地レンテ収取権を表すインド固有の言葉があることを知っていたこと、そのことが「インド的諸関係の固有性」を捉える手掛かりとなったのである。

(続く)

※注はまとめて(下)に掲載します。

(「世界史の眼」No.36)

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書評:ピーター・N・スターンズ『人権の世界史』(上杉忍訳)ミネルヴァ書房、2022年
鶴見太郎

 20世紀に入り、人権として考慮されるリストは大きく増え、それゆえにそのリストは部分的に採用されたり、地域の固有性(とされるもの)と衝突したり、揺り戻しがあったりと、複雑な展開を遂げている。つまるところ、全世界で人権が十全に保障されるには、いまだ多くの障壁が残されている。そのことは本書を読み進めていくほどに痛感されるが、本書の結論において著者が述べているように、「歴史が問題の整理を助けてくれる」(311)。1945年以降、今日までの状況を扱う終盤の第5章と第6章で描かれている人権リストの拡大と摩擦の増大については、それほど真新しさを覚えるものではない。本書の真価は、むしろそこに至るまでの前史が丁寧に書かれているところにある。

 古くは、ハンムラビ法典から歴史が紐解かれる。人権に関して前近代を見る際に、多くの論者は前近代に人権などなかったと一蹴するか、あるいは逆に、何らかの前近代の伝統のなかに過剰に現代的な人権概念を読み込むかの両極端の傾向を示すと筆者は指摘する(86)。本書はそれに対して、人権概念に機能的には近いものを見出すことで、そのいずれにも陥らないバランスを保っていく。そのため、上記で述べたような、人権概念がある程度は市民権を得つつも、十分に浸透していかないというときに立ちはだかる壁のありかに思いをはせることができる。

 例えば、「目には目を」という、人権意識からは程遠く見えるフレーズで有名なハンムラビ法典では、間違った告発から人々を守ることに多大な努力が傾けられていたという。殺人罪で告発した際に、それを実証できなかった場合に、告発者が処刑されることになっていた(52)。その一方で、身分によって処罰は異なっており、どの身分に対する犯罪かによっても重さには違いが設けられていた(56)。これは、当時の社会の実態を反映したものである。法律は社会とともにあり、その組み合わせによって人びとの権利がどの程度守られていたのかを判定する必要がある。つまり、法律だけを見て権利の有無を判断することには限界があるということである。例えば、子どもの権利に関して、極端な事例としてユダヤ法では、両親は不服従の子に対して死の罰を与えることが許されていたという。しかしこれは即座に子どもが保護されていなかったと結論すべきことではないと著者は論じる。というのも、特に農村社会では、共同体が子どもの躾に関して監視するのが常態であり、今日起こっているような子どもに対するむき出しの肉体的虐待は少なかったからである(58)。

 このように、古代において、今日の人権概念・状況を鑑みて「惜しい」と言える概念・状況を少なからず見出すことができると考えると興味深い。もっとも、人権に向けた萌芽と見るべきか、それとも、それにより実質的な問題がある程度防げたことが、それで防げないマイナーケースを放置することにつながってしまい、人権概念が精緻化されていくことを妨げていたと見るべきか、という問いは残るだろう。だからこそ、今日の人権状況の改善を阻むものが何かを考えるうえで、こうした過去の事例は示唆に富むのである。

 このことに関連して印象深かったのは「義務」との関連である。仏教は「権利」という言葉を持たないが、「義務」という言葉で権利が実質的に保障される場合もあったという。例えば、仏教のダーマでは「夫は妻を支えなければならない」とあり、これを妻が夫によって扶養される権利があるという意味に理解することもできる(研究者のあいだでも意見は分かれるそうだが)(70-71)。

 義務と権利は、何かしらの関係を持つことも多かった。キリスト教圏でも、奴隷であれ、子どもあれ、必要な保護を受けられていない場合は自分自身の義務から解放されるはずだと考えられていた(74)。つまり、今日的な意味での人権の制限は、あくまでも使用者や庇護者がその義務を果たす限りにおいて認められていたにすぎないのであり、上に立つ者もフリーハンドではないとされていた点で、人権的なものが事実上保障されていた場合は少なくなかったといえる。

 それでも、義務とセットになった権利は、やはり人権概念とは異なっている。それはあくまでもパターナリズムに基づいており、ある体制への従属の見返りにすぎない。子どもであれ障碍者であれ、仮に義務を一切果たせなくても、すべての人間に等しく保障されるのが人権概念の特徴である。

 もっとも、このような考え方は近代思想の発明品ではなく、その萌芽はかなり過去にさかのぼることができるようだ。例えば、キリスト教徒は、キリスト教徒仲間を平等な価値の魂をもつ個人とみなし、何らかの保護が与えられるべきだと教えられていた(75)。イスラム教も、すべての人間の尊厳を強調し、少なくとも17世紀まではキリスト教よりも非信者に対して寛大だったという(77)。

 こうした緩やかな人権意識が明確に人権として確立したのは、やはり西洋における個人主義拡大の影響が大きい(100)。ここから、国家に対しても、人権が保障できることをその存在理由とする論理が生まれていく(105)。だがそこから今度は、人権を保障できる国家を称揚する逆向きの論理もまた生まれていった。女性の権利が19世紀に入るまでほとんど議論すらされてこなかったことや、他の諸権利についても議論が始まっただけで十全に適用されたとは決していえなかったことを考えると、それは西洋の支配層に都合のよい自己意識にすぎなかった。

 こうした西洋の自己意識が、非西洋圏を植民地化することを正当化する際にしばしば顔をのぞかせたことは本書でもしばしば言及される。では、このような人権概念の海外進出は、人権状況を好転させただろうか。人権概念が表面的に普及したことは確かである。しかし、例えばオスマン帝国においては、国家と対応する第一義的存在がそれまでは共同体であったのに対して、個人が位置づけられることになった。もちろんこれによって、キリスト教徒やユダヤ教徒がビジネスの分野をはじめとしてより自由に活動することができるようになったのも事実だが、その後帝国は他の面では混乱をきたしていくことにもなった(167)。

 このことは、人権を事実上ある程度保障していた、人権概念にあと一歩の「惜しい」状態を、人権概念が意図せずして破壊してしまった事態と見ることもできるのかもしれない。もちろん、それは人権概念自体に責めがあるわけではなく、もとの状態に無頓着な状態で、なかば政治的にそれを適用しようとしたことが仇となったということである。

 ひるがえって、パターナリズムによって人権保護に近い「惜しい」状態が維持されているのは(もちろん、それによって人権が蹂躙されることもある)、今日においてさえ、なにも非西洋圏にだけとどまることではないだろう。本書を読んで感じられたのは、それを人権概念の普及と取り違えないことが重要であるし、このように、「惜しい」状態が中途半端に続く(つまり多数派の人びとが現状でそれなりに満足してしまう)ことが、十全な人権概念がはかばかしく実効化されていかない背景でもあるということである。

 以上のような壮大なスケールをもつ本書に対して、最後に疑問点を一つだけ挙げておきたい。それは本書ではほとんど登場しない社会主義圏の扱いである。上記のように、人権概念は個人主義に立っているが、自由主義的個人主義に基づく社会制度では人権を十全に保障できないことは常識となっている。経済的な従属関係が人権を阻害するという問題意識を最も強く掲げていたのが社会主義であり、労働という義務を果たす者のみが十全な人権を保障されるという、義務と権利を結びつけてしまう極端な論理さえ、ソ連においては当初論じられていた。本書では人権概念に対して、共同性や地域性を盾に干渉しようとする新興国支配層の論理が紹介されており、個人主義の原則を超えることには慎重でなければならない。なにより、社会主義圏における人権侵害の歴史には重いものがある。しかし、どのようにすれば人権を実質化できるかを考えるうえでは、社会主義圏における論争や経験もまた、何らかの示唆を与えるかもしれないのである。

(「世界史の眼」No.36)

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ウェブサイト紹介:パトリック・マニング「Contending Voices: Problems in World History」
山崎信一

 インターネットの利用が一般化し、人々の生活の不可欠な一部となって20年以上が経過した。その中で、ウェブサイトによる情報発信は、ますます大きな比重を占めるようになってきている。歴史学をはじめとする学術的な情報発信もその例外ではないだろう。ウェブによる情報の即時性という点は、マスメディアなどに比べればそこまで大きな意味を持たないだろうが、ウェブによって非常に広い範囲にしかも低コストで情報を発信できるという点は、大きな意味を持っている。当世界史研究所も、2020年4月からウェブサイトを通しての定期的な情報発信を、活動の中心としている。ここで紹介するパトリック・マニング(Patrick Manning)のブログ「抗争する声:世界史の諸問題(Contending Voices: Problems in World History)」(https://patrickmanningworldhistorian.com/contending-voices-problems-in-world-history/)は、世界史に関するウェブでの情報発信という点で、世界史研究所の活動とも通じるものであろうと思う。

 パトリック・マニングは、米国における世界史研究の第一人者であり、これまで非常に精力的な活動を行ってきた。アフリカ史研究から出発し、世界史に関しても多数の著作を著しているが、その関心の中心は、単に世界史や人類史を叙述すること以上に、世界史叙述の構造を明らかにすることや世界史研究の方法論の分析にも及んでいる。マニングの世界史研究の最大の成果の一つである、Navigating World History: Historians Create a Global Past (New York: Palgrave Macmillan, 2003)は邦訳され、南塚信吾・渡邊昭子(監訳)『世界史をナビゲートする―地球大の歴史を求めて』(彩流社、2016年)として出版されてもいる。

 このマニングのブログの最初のエントリーは、2020年4月の「COVID-19を耐え、経済を回復させる」と題する、企業経営者の姿勢を批判的に論じたもの、2番目も感染症を論じた2021年4月の「COVID-19:世界的保健危機における成功と失敗」であり、世界的な感染症拡大がマニングのウェブによる情報発信の一つの動機であろうことを窺わせる。そして、2021年4月以降9月までは、環境問題、ジェンダー、BLMなど社会において論争となっているテーマが並んでいる。またポピュラー文化に関しても論じられており、マニングの関心の広さが感じられる。2022年5月以降は、およそ月に一回の頻度で、マニング自身の専門により近い世界史研究に関わる論考が多く投稿されている。例えば、2022年9月の投稿である「歴史における相互作用」は、ポピュラー文化を題材に、文化の相互作用のパターンを理論化しており興味深い。また、世界史に関するさまざまな論考やインタビューが紹介されており、例えば2023年1月の「海洋の歴史を読む」では、ジェレミー・ブラックの最近の著作を中心に、さまざまな海洋史の論考を紹介している。2023年2月の「地球各地の世界史教育」では、米国テキサス州の世界史教育の事例を扱った文献と、世界史研究所が編集に関わったアジアにおける世界史教育を扱った論集であるMinamizuka Shingo (ed.), World History Teaching in Asia: A Comparative Survey (Berkshire, 2019)を比較して、世界史教育の発展の類似性とその必要性を指摘している。

 投稿されているエントリーのすべてを紹介することはできないが、マニングの洞察の鋭さをいずれも感じさせる。また、いずれも平易な英語で書かれており、数千語程度にまとまっている。読んでいると、大学の講義を受けているかのように感じられる。実際、日本の大学の歴史教育において教材として用いることができそうなものも数多い。中には、「国際連合の紹介」(2022年8月)のように、まさにアクティヴ・ラーニングの素材となりそうなものもある。

 ウェブサイトによる情報発信の特徴として、書籍と異なり、明白な終わりが存在しないことも挙げられるだろうか。1941年生まれということで決して若いわけではないが、今後ともさまざまな論考が投稿されるのを心待ちにしている。インターネットの特徴の一つは、情報の相互参照の容易さにもある。図らずもこうして、世界史研究所が関わった著作がマニングに紹介され、またここでマニングのウェブサイトを世界史研究所で紹介している。そして、マニングのサイトは、似たような関心を持ち続けている世界史研究所の活動にとっても、大きな励みとなっている。そして、ぜひ皆さんにもウェブサイトを通して、マニングの緻密さとスケールの大きさに触れて頂きたいと思う。

※パトリック・マニングのウェブサイトおよび各エントリーは、いずれも2023年2月25日に最終閲覧。

(「世界史の眼」No.36)

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教科「世界史」誕生を歴史する—ルアナ・ボールズの軌跡から
高澤紀恵・郷戸夏子

 全国の高校に新教科「歴史総合」が導入されて二度目の春を迎えようとしている。教科「日本史」と「世界史」を総合したこの必修教科をいかに捉え、いかに教えるか、限られた時間割のなかで教室現場の真剣な模索が続いている。しかし、「世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉えて」と言われても、「日本史」と「世界史」という教科体制によって作られた私たちの二項的な認識枠組は、一朝一夕に変わるものではない。歴史を専門に学ぼうという史学科の学生たちからも、「世界史(あるいは日本史)は苦手だしコンプレクスになっている」という声をよく聞く。日本と世界、日本史と世界史の間に堅固な壁を作るこの思考から、どうすれば私たちは解き放たれるのだろうか。過去を「総合」する見方をどうすれば獲得していけるのだろうか。特効薬があるわけではないが、教科「世界史」が生まれた時期に立ち戻り、その時期に活躍したひとりのアメリカ人女性ルアナ・ボールズ(Luanna Jane Bowles,  1892-1975)の軌跡を追うことで、その手がかりを探ってみたい。

1.戦後教育改革と「世界史」

 高校教科「世界史」は、いわば戦後の子である。新制高校の誕生が1948年なのだから当然といわれそうだが、高校でこの新教科が教えられるようになるのは、翌49年の春からである。わずか1年の差とはいえ、このズレには大きな意味がある。この1年は、戦後教育改革の最大課題の一つ、(当時国史と呼ばれていた)日本史の何を、いかに、どの段階で教えるか、という深刻な問題が生んだズレだからである。

 日本史教育については、戦後すぐに豊田武を中心に文部省内で再検討が始まったが、国家主義的・軍国主義的枠組を守るその姿勢に満足しない連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for Allied Powers,以後GHQ/SCAPと略)は、1945年末に「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」指令を出す。以後、日本史の教科書類は回収され、歴史教育全般の刷新が加速する。翌1946年3月に来日したアメリカ教育使節団は、1ヶ月後に包括的な報告書を公表する。そこには「記録された歴史と神話とが意識的に混同され」た戦前の歴史教育の問題点を指摘した上で、新たな歴史教科書の編纂が提案されている[1]。実際、10月にGHQは覚書「日本歴史の授業再開について」を出し、文部省は11月に通達「国史授業指導要項について」を公にするので、GHQの停止措置が長く続いたわけではない。しかし、この間の交渉の結果、再開された日本史教育は、小中学校に限定され、六.三.三制に基づき新設される高校には、当初、日本史を教える教科は置かれなかった。新制高校での歴史の教科は、新たに導入された社会科の四つの選択教科のなかに「西洋史」と「東洋史」だけが設置されたのである(1947年6月文部省通達)。実際、この方針に沿って、47年には学習指導要領「東洋史編」(試案)、「西洋史編」(試案)が作られている。二分冊の教科書も準備されていた。48年春には、社会科という新しい枠組のもとで、新制高校は選択教科として「西洋史」と「東洋史」の二教科を週五時間、教え始めたのである。しかし、開始早々、高校でも「日本史」を教えて欲しい、あるいは教えるべきである、との声は高く、半年後の10月11日に文部省は、通達「新制高等学校教科課程の改正について」(通達第448号)を発し、高校の社会科のなかに教科「国史」(のちに日本史)を組み込むと共に、「西洋史」と「東洋史」の二教科を廃し、かわって「世界史」という新しい教科を置いたのである。つまり、教科「世界史」は、新制高校で日本史の教育を行う際に、にわかにつくり出された教科であった。実際、49年4月には、学習指導要綱も検定済み教科書もないままに授業が始められた。「一つの怪物が、1949年の日本に突如として現れた。社会科世界史という怪物が。文部官僚も、西洋史家も、東洋史家も、はたまた日本史家もこの怪物の正体がつかめない。ましてこれと取り組む運命におかれている高等学校の教師と生徒にとっては、難解なることゴルギアスの結び目の如くである」[2]と嘆息されるような状況であった。これが、今に繋がる日本史/世界史の二教科体制の始まりである。教科「世界史」は、人類の過去を国史/東洋史/西洋史として三分割して捉える認識を前提に、内発的・学問的議論を経ないまま、東洋史と西洋史を足し合わせて生み出されたのである[3]

 戦後の社会科創設のこうした事情や歴史教育をめぐる複雑な駆け引き・経緯については、片上宗二、梅野正信、土持ゲーリー法一、ハリー・レイ、木村博一、茨木智志ら教育史・教育学の専門家によって、手堅い実証研究が積み上げられてきた。とりわけ1980年代からは、従来の日本側資料に加えてGHQ/SCAPの資料の利用が可能となり[4]、日米関係者への聞き取り調査も精力的に行われた。日本の「戦後歴史教育史」や「社会科教育課程成立史」は、より精緻に、より立体的に描かれることになった。歴史教育改革の只中にある私たちにとって、これらの成果から学ぶところは極めて大きいのだが、ここでは、視点をずらし、前述の教科「世界史」誕生に深く関わったアメリカ人女性ルアナ・ボールズに着目してみたい。彼女の生の軌跡を追うことは、教科「世界史」誕生という出来事を日本という磁場から連れだし、より広い世界史的文脈で考える糸口を与えてくれると思うからである。

2.教育改革・「西洋史」・ボールズ

 戦後教育改革を推進したのは、GHQ/SCAP内の民間情報教育局(Civil Information and Education Section, 以下CIEと略)である。ルアナ・ボールズは、1946年8月10日に来日し、CIE教育課のスタッフに加わった。一足早く着任したモンタ・L・オズボーン(Monta L. Osborne, 1912-1990)とともに、中等教育を担当し、六.三.三制に基づく中等教育改革構想の策定や男女共学の推進[5]、さらに社会科の導入に精力的に活動した女性である。それゆえ、彼らが残したCIEの会議報告は、戦後教育史の超一級の資料であり、その公開が研究水準を一気に高めたことは、前述のとおりである[6]。とりわけ新制高校の教科「西洋史」の教科書や執筆要綱の作成は、オズボーンではなく、ボールズが責任者であった[7]。彼女は、オズボーンの単なるアシスタントであったわけではない。日本側は、東京大学の今井登志喜教授の責任で、実際にはその若き弟子たち(板倉勝正、橡川一朗、金澤誠、矢田俊隆、林健太郎)が教科書執筆にあたった。学習指導要領をとりまとめ、古代の執筆を担当した板倉勝正の回想によれば、「オズボーン少佐もボールズ女史も、いわばリベラリストであり、占領軍の権威を笠に圧迫を加える様なことは全くなく、私達は自由に議論する事が出来て、結局私共の言い分は大部分受け入れられた」[8]という。こうして1947年8月に二分冊の第一巻、『西洋の歴史(一)』が出版される。しかし、この教科書にある聖書の記述(板倉執筆箇所)を日本のカトリック教会が問題視し、アメリカの世論を巻き込む大問題となった。この事態に対し、大統領選に野心を抱く連合軍最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)は、「著者と出版社は厳しく懲戒された」とアメリカのカトリック宛てに認めているが、実際に懲戒が行われた形跡はない。しかしながら、このトラブルのために『西洋の歴史(二)』は、結局は刊行されずに終わるのである。この予期せざる騒動に際して、『西洋の歴史(二)』の出版に最大限の努力をしたのは、ルアナ・ボールズであった[9]。さきほどの板倉は、後年、ルアナに対して「30年たった今、健在なら80歳をこえているだろう。あの穏やかな人柄は今でも懐かしいし、戦争中から持ちこした立腹を彼らにぶつけて彼女に迷惑をかけたことが悔やまれる」[10]と述懐している。彼の記憶には事実誤認もあるが、30年後のこの言葉には板倉の心情が刻まれている。

 以上のように『西洋の歴史』に限ってみても、ボールズは大きな役割を果たしており、教育改革の重要なアクターなのだが、その経歴については必ずしも十分に明らかにされていない。ボールズと共に中等教育を担当したオズボーンについては、1986年に片上宗二による聞き取り調査が行われている。1912年生まれのオズボーンは、ミズーリのカレッジで教育学、歴史学を学んだ後、サウスウェスト・ミズーリ州立大学で自然科学を学んで1940年に卒業した。小学校と高校で教職を経験しており、高校では社会科を教えていたという。陸軍に入って中国にわたり、終戦後も中国に残っていたが、46年5月にCIEに志願して来日したという[11]。当時まだ30代の前半である。益田肇は、「当時、総司令部に勤務していたのは、いまから振り返れば驚くほどの若手ばかりだった。そのほとんどはまだ20代から30代で、その多くが才能と野心に溢れた若者だった。彼らにとっては東京での勤務は、いずれに本国に帰ってキャリアアップするための一ステップにすぎなかった」[12]と述べているが、少なくとも年齢などから見る限り、オズボーン少佐の経歴は益田の指摘にぴたりと当てはまる。

 ところが、ルアナ・ボールズについては、どうであろう。実は、板倉の回想が出る1年前にルアナは亡くなっており、アメリカ側の資料が用いられるようになった時期に聞き取り調査がなされなかったためか、経歴、家族関係なども曖昧なままである。ズボーンと共に働くこの女性は、何故に極東の敗戦国日本の教育改革に携わることになったのだろう。それまでどこで、どのような生活を送っていたのだろう。あるいは日本の占領が終わって以降、彼女はどこで、どのような生を歩むのだろう。

3.ボールズ家の人々

 1955年の国務省人名録によれば、ルアナ・J・ボールズは、1892年9月18日カンザス州生まれとある。CIEに加わるために来日したのが1946年8月なので、当時53歳であった。同僚のオズボーン少佐より20歳年長である。以下、人名録が教える経歴を履歴書風に訳してみよう。

1923年(アイオワ州)ウィリアム・ペン大学卒業、学士号

1934年(テネシー州)ピーボディ大学修士号〈教育〉

 シカゴ大学,コロンビア大学,アメリカン大学大学院で農学を学ぶ

1923-26年 教師

1927-28年 東京の私立学校

1929-41年  フィスク大学学長補佐兼広報部長

1942-46年  連邦安全保障庁教育局編集・執筆担当(アソシエート)

1946-50年,東京のSCAP中等教育担当官

1952年6月10日 ポイント・フォア-4に任命、イランのテヘランへ普通教育アドヴァイザーとして派遣

1954年4月25日 海外勤務職員[13]

 ウィリアム・ペン大学は、クエーカー(フレンド派)によって1873年に建てられた大学であり、この経歴は、ルアナの宗教的バックグラウンドを示唆している。実際ボールズ家は、クエーカーの一族であり、戸田徹子によれば、17世紀末のメリーランドにまで辿ることができるという。クエーカーとは、「「内なる光」の教え、聖霊の導き、専任牧師職の否定、プログラムのない沈黙の礼拝、平等の強調、平和主義、簡素な生活様式など」[14]を特徴とするプロテスタントの一宗派であり、17世紀中葉にイギリスでジョージ・フォックス(George Fox, 1624-1691)を中心としたグループによって始められた。国教会体制のもとで激しい迫害を受けた彼らには、クエーカーのウィリアム・ペン(William Penn, 1644-1718)がたてたペンシルヴァニアを中心にアメリカ植民地に逃れた者も少なくなかった。メリーランドから北西部に移動したボールズ家は、ルアナの祖父エフライム(Ephraim、1829-1914)の代にカンザスに移り住んだ。農民であったエフライムの三番目の子どもが、ルアナの父レヴィ(Levi, 1856-1942)であり、九番目の子どもにはギルバート(Gilbert, 1869-1960)がいる[15]。この叔父ギルバートの存在は、ルアナの軌跡に大きな影響を与えたと思われる。というのも、苦学してウィリアム・ペン大学に学んだギルバートは、1901年に、伝道者として日本に向かい、以後、長く日本で活動した人物だからである。ギルバートの妻となるのは、すでに伝道者として普連土女学校の教師をしていたミニー・ピケット(Minnie Pickett, 1868-1958)であった。東京三田の普連土女学校は、1887年にフィラデルフィアのクエーカーたち、とりわけ婦人伝道会の人々が中心となって創設した学校である。その設立には、アメリカ留学中の新渡戸稲造や内村鑑三の助言に加えて、津田梅子の父、津田仙の協力があった。ギルバートは、第2代の主任伝道者として普連土女学校の運営に携わり、東京と茨城のクエーカーたちを支えた他に、結核予防運動、禁酒禁煙運動などの社会活動、さらには1906年には大日本平和協会の発足に尽力したことで知られる[16]。キリスト教関係者に留まらない彼の交友関係は、渋沢栄一との書簡からも伺うことができよう[17]

 ギルバートとミニーの日本での活動は、太平洋戦争の勃発まで実に40年の長きにわたった。二人の息子として東京三田で生まれたのが、高名な人類学者ゴードン(Gordon Townsend Bowles, 1904-1991)である。彼はルアナの従兄弟にあたる。東京大学や国際基督教大学で教鞭をとったその経歴については、原ひろこがまとめた訃報に詳しいが、本稿にとって重要なことは、ハワイ大学で人類学の准教授であったゴードンが太平洋戦争勃発後、国務省の日本地方専門委員を経て極東顧問となったことである[18]。国務省は、日本の敗戦を見越して1944年には戦後計画委員会を設立し、戦後改革の準備を始めていた。1945年7月末に「日本帝国の降伏後の軍制:軍国主義を廃止し民主化過程を強化するための方策:教育改革」という文書を国務省で起草したのは、日本語に堪能で日本をよく知るゴードンである[19]。彼はここで「国史」、「地理」、「修身」三教科の教科書を精査する間、この三教科を停止すべきことを勧告していた[20]。1946年3月のアメリカ教育使節団を国務省で組織し、事務長格で来日したのも、このゴードンであった[21]。この時の彼の職責は、国務省文化関係局極東課長である。

 アメリカのクエーカー研究の拠点であるハヴァフォード大学のデータベースには、「ボールズ家は、20世紀を通じてクエーカーの伝道活動と救援活動に深く関わった」[22]とあるが、ルアナは戦前から日本で活動したこのボールズ家の紐帯の中にあったのである。

4.東京・ナッシュビル・ワシントン

 国務省のルアナの経歴にある「東京の私立学校」とは、言うまでもなく叔父一家のいる普連土女学校である。『普連土学園一〇〇年史』によれば、ルアナは1927年9月から1928年7月まで普連土の教師をしている[23]。東洋の文化と歴史を学ぶためであった、と当時の新聞記事にはある[24]。日本に来る前の彼女は、カンザスとアイオワの学校を経て、フィラデルフィアのウエストタウン寄宿学校で歴史の教師をしていた[25]。ウエストタウンから二年間の休職を得ての来日であった[26]。ウエストタウンは、クエーカーが子どもたちの教育のために1799年に創設した、アメリカ最古の男女共学校である[27]。戦後CIEのメンバーとして来日する以前に、ルアナはアジアへの関心を持ち、昭和初期の日本と日本人を直接に知っていたのである。

 アメリカに戻ったルアナは、29年から41年まで、南部テネシー州ナッシュビルのフィスク大学で学長、トマス・エルザ・ジョーンズ(Thomas Elsa Jones,1888-1973)の学長補佐として活動している。英語を教えていた[28]、と伝える史料もある。フィスク大学はもともと、解放された黒人の教育を目的として南北戦争後にアメリカ伝道協会がつくった学校である。ルアナが着任する三年前、フィスク大学は大きな動揺を経験した。第一次世界大戦後の財政難からロックフェラーなど実業界の基金に資金援助を頼ったことから、大学の伝統が損なわれ、これに反発した学生、卒業生、黒人知識人、地元の黒人コミュニティによる反対運動がまき起こったのである[29]。彼らの要求は差別的なマッケンジー学長(Fayette Avery McKenzie, 1872-1957)の罷免と黒人学長の選出であった。マッケンジーが辞任を余儀なくされた後、1926年に新たに全米最年少の学長として選ばれたのが、当時、コロンビア大学の社会学の教授であったジョーンズである。タイム誌によると、大学側は「伝統」に基づき、黒人たちが受入れ可能な白人学長を数ヶ月かけて探したという[30]。ここで注目すべきは、ジョーンズがイギリスにおいてもアメリカにおいても奴隷解放運動を先導してきたクエーカーであったことである[31]。彼はまた、1917年から24年まで米国フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee)の一員として日本で活動した経験をもっていた。米国フレンズ奉仕団とは、絶対平和主義に立つクエーカーが、1917年、アメリカの第一次世界大戦への参戦直後に「良心的兵役拒否者に戦闘行為に代わる仕事を提供すること、ヨーロッパの戦後復興に貢献することを目的に」[32]創設した組織である。ジョーンズは、設立直後の米国フレンズ奉仕団のメンバーとして来日し、1923年の関東大震災に際しては「基督友会奉仕団」を立ち上げ、羅災者救援のために尽力した[33]。東京から戻ったルアナは、ナッシュヴィルに住み、12年にわたってこのジョーンズ学長を支えてフィスク大学で働いた。この間、ナッシュヴィルの白人向け地方誌は、ルアナが地域の職業婦人達たちの夜間学習会のプログラム委員会の委員長に選出されたことを伝えており[34]、この町での彼女の活動域の一端を教えてくれる。

 1942年から、ルアナの職場は戦時下のワシントンに移る。彼女は、連邦安全保障庁教育局の職員として全米の教育機関要覧や教育者の名簿などの編集作業に当たっている[35]。また、戦後の47年に刊行された「親、教師、そして若者が共に創る」と題したパンフレットには、編者としてルアナの名前を認めることができる。その序文はナチ・ドイツと日本の教育をデンマークの学校と対比しつつ「このパンフレットは、我々アメリカの学校システムにおいて民主主義的な条件と手続きが強められるよう強く訴えるものである。・・・民主主義的な生活のための教育は、すべての学校の主要目的でなければならない」[36]と記されている。

 1946年8月、敗戦後の日本にやってきたルアナは、教師として、大学行政者として、教育行政官として、豊富な経験と識見を備えた女性だったのである。そしてそのキャリアは、フィラデルフィアを結節点とするクエーカーの稠密なネットワークのなかで形作られていた。果たして彼女が中等教育担当官としてCIEに加わったことは、数ヶ月前、米国教育使節団のメンバーとして日本の教育改革、なかんずく歴史教育の方向を示したゴードン・ボールズと無関係だったといえるであろうか。

5.再び日本、そしてイラン、ネパールへ

 ルアナが到着して2ヶ月後、もうひとりクエーカーの女性がアメリカから日本に到着した。皇太子の家庭教師となるエリザベス・G. ヴァイニング(Elizabeth Gray Vining, 1902-1999)である。ヴァイニング夫人の名前で親しまれた彼女が、横浜から始めて東京の住まいに到着した時、出迎えた人々の中にルアナはいた。アメリカ・フレンド奉仕団の代表としてアジア救援公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia, 通称LARA)で働くエスター・ローズ(Esther B. Rhoads, 1896-1979)と一緒であった。エスターも、普連土女学校で長く教師をし、日米開戦後は日系アメリカ人の救援活動を行ったクエーカーである[37]。ヴァイニングとエスターは同郷であり、エスターとルアナは普連土女学校の教師としての経験を共有する旧知の仲であった。ルアナの仕事ぶりについて、ヴァイニング夫人は次のような言葉を残している。「アメリカ人の多くはマッカーサー元帥のいわゆる「十字軍の戦士」だった。・・・ルアナ・ボールズのような人々は、もっと現実主義的であったが、やはり強い熱意をもって日本の文部省の役人たちと一緒に働き、うまずに説得し説明して、地方分権その他の施策の理由を日本の役人たちに理解させ、従前の「告示」という方法の代わりに討議と投票とによる方法を、これも実践と感化という手段を通じて学びとらせようとつとめていた」[38]

 ではルアナ自身は、日本での日々をどう語っているだろう。1971年、アンカレッジでの天皇―ニクソン会談をテレビでみたルアナは、次のように回想している。「四年以上にわたって私はSCAPの文民教育スタッフをつとめていた。私たちは日々、日本の文部省や全国の教師、行政者と協力しあっていた。・・彼らは、戦後世界で敗戦国たる彼らの国が重要な位置を占めていけるよう日本の若者を育むカリキュラムを創り、学校制度を確立しようと懸命に努めていた」[39]。新制高校の教科書『西洋の歴史』を共に作った板倉の証言とも響き会う回想である。ルアナにとって、民主主義の実現は教育の大切なゴールであり、改革のプロセスもまた民主主義の重要な実践であったのだろう。

 1952年は、サンフランシスコ条約が発効し日米安保条約のもとで日本が独立を回復する年となる。それは高校社会科の選択科目としての「日本史」と「世界史」の指導要領(試案)がようやくまとめられた年でもある。この年、ルアナは、60歳にして新しい任地、イランへと向かった。国務省の記録は、ルアナがポイント・フォア計画の一翼を担っていたことを教えている。ポイント・フォアとは、トルーマン大統領(Harry S. Truman, 1884-1972, 大統領在位1945-1953)が1949年の就任演説で発表した四大行動方針の四つめ(ポイント・フォー)、「低開発地域に対する技術援助」を指し、1950年から具体化していくプロジェクトである[40]。ルアナは、1950年にイランの基礎教育に関するパンフレット[41]を書いているので、すでにこの時期からイランへの関与は始まっていたのかもしれない。1952年、ルアナは正式にイラン政府の教育顧問としてアメリカ政府からイランに派遣される。1956年にルアナが書いたパンフレットによれば、彼女はイランで農村の識字教育のために教材を開発し、基礎教育を行える教師の育成を図ったという。また、憲兵隊の識字教育を行ったことも伝えている[42]。他方、1960年に国務省が出した『ニューフロンティアのアメリカ人』と題したパンフレットでは、憲兵隊や全国の警察組織の識字教育へのルアナの功績が強調されている。二年半のプログラム修了時には、高官の間に座るルアナに11500人の憲兵隊が感謝を捧げる行進がイスファハーンで行われたという。ルアナ自身も、後者のプログラムにシャー(パフレヴィー二世)の強い意向が働いていたことを認めている。ルアナにとっておそらく救援活動の一環であった教育支援は、厳しく対峙するソ連とアメリカの最前線にあって上からの近代化に向かうイランでは、強い政治性を帯びていたと思われる。

 1959年、67歳のルアナは、さらにネパールへと活動の拠点を移し、全国的な教育教材プログラムの構築に関わった。1964年、アメリカに戻った72歳のルアナは、日本、イラン、ネパールで教育レベルを向上させた功績により、アメリカ政府から功労賞を授与されている。同年ウィリアム・ペン大学は、彼女に名誉博士号を与えた。その後のルアナは、クエーカーのワシントン年会の敬虔なメンバーとして晩年を過ごし、1975年6月25日にその生涯を閉じた[43]

 ルアナ・ボールズの82年の軌跡を駆け足で辿ってきた。私たちにできたことは、彼女の内面や思想に深く分け入ることではなく、その足跡をなぞっただけであったが、それでもルアナの多面的な相貌は垣間見えたように思う。アクターたる個人の意識とその行為がもたらす影響や効果が重なるとは限らないが、ルアナも例外ではない。彼女はただ信仰深い伝道者であったわけではなく、また単に国家利益を体現するアメリカの尖兵であったわけでもない。その生の軌跡は、日本/アメリカといった国名を、あるいは文部省/GHQといった機関を主語にした物語を、越えでる広がりと豊かさを持っていた。その広がりのなかに戦後日本の教育改革を置いてみるとき、日本史/東洋史/西洋史を、あるいは日本史/世界史を分かつ壁は、はるかに低くみえてこないであろうか。戦後日本の教育改革は、むしろ純粋な日本史として抽出することが困難なほど、世界の動きと相互に絡み合ってはいなかっただろうか。そもそもルアナからみれば、日本もイランもネパールも、教育を通して民主主義を実現すべきアジアの国々であった。このように複数の視点と複数の尺度を組み合わせてみるとき、私たちが使う教科書自体が–「日本史」の教科書であっても–動かざる経典であることをやめ、「歴史総合」への入り口として立ち現れてくるように思うのである。


[1] 村井実訳『アメリカ教育使節団報告書』講談社、1979年、43-46頁.

[2] 尾鍋輝彦編『世界史の可能性』東大協組出版部、1950年、1頁.

[3] 高澤紀恵「戦後・教科「世界史」・西洋史学」『法政史学』(96)、2021年、1-4頁.

[4] 史料状況と研究史の批判的整理については、以下を参照のこと。片上宗二『日本社会科成立史研究』風間書房、1993年、1-32頁.

[5] 三羽光彦『六・三・三制の成立』法律文化社、1999年、244-245頁.

[6] ボールズが残した会議記録は、国会図書館憲政資料室の「日本占領関係史料」の中にマイクロフィルムで収められている。Conference Reports, Education Division-Bowles, (文書名:GHQ/SCAP Records; Civil Information and Education Section) ボックス番号: 5358; フォルダ番号: 13, 14, およびReport-Conferences, Miss Bowles (文書名:GHQ/SCAP Records; Civil Information and Education Section): ボックス番号: 5752; フォルダ番号: 2, 3, 4, 5, 6.

[7] 片上、前掲書、840頁.

[8] 板倉勝正「「西洋の歴史」を書いた頃」『白門』28巻6号、1976年、47頁.

[9] 『西洋の歴史』をめぐる問題については、以下を参照されたい。茨木智志「上智大学編『西洋史上の諸問題– 「西洋の歴史」への補遺について』–一種検定本教科書『西洋の歴史』(1947年)へのカトリック教会の対応–」『総合教育史研究』8号、2010年、49−66頁。

[10] 板倉、前掲書、49頁.

[11] 片上、前掲書、613-615頁.

[12] 益田肇『人々のなかの冷戦世界 想像が現実となるとき』岩波書店、2022年、37頁.

[13] The Department of State. Biographic Register 1955 (Revised as of May 1, 1955), Department of State, 1955.

[14] 戸田徹子「フィラデルフィア・フレンドと日本年会 1900〜1947」『山梨県立女子短期大学紀要』(36)、2003年、11頁.

[15] ボールズ家については、以下を参照。Earl’s Genealogy Site. “Selected Families and Individuals”, January 20, 2022. http://www.earljones.net/aqwg4795.htm#142455. TriCollege Libraries Archives & Manuscripts. “Gilbert and Minnie Pickett Bowles Family Papers,” January 20, 2022. https://archives.tricolib.brynmawr.edu/resources/hcmc-1161.

[16] ギルバート・ボールズについては、以下に詳しい。平川正壽『基督友会五十年史』基督友会日本年会、1937年.

[17] 公益財団法人渋沢栄一記念財団「Bowles, Gilbert ボールズ, ギルバート」、   https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?authors_individual-31 (最終アクセス日:2023年1月21日)

[18] 原ひろこ「Gordon Townsend Bowles (1904.6.25-1991.11.10)先生を悼む」『民俗学研究』57/1、1992年、101-104頁.

[19] 国務省の政策立案プロセスとギルバートの役割については以下を参照されたい。土屋由香『親米日本の構築 アメリカの対日情報・教育政策と日本占領』明石書店、2009年、200-207頁.

[20] 明星大学戦後教育史研究センター編『戦後教育改革通史』明星大学出版部、1993年、164頁.

[21] 以下の記録は、ゴードンのインタビューに多くを負っている。読売新聞戦後史班編『昭和戦後史 教育の歩み』読売新聞社、1982年.

[22] TriCollege Libraries Archives & Manuscripts. “Bowles Family Correspondence,” January 20, 2022. https://archives.tricolib.brynmawr.edu/resources/hcmc-1212.

[23] 普連土学園百年史編纂委員会編『普連土学園百年史』普連土学園、1987年、343頁. および友愛社「フィラデルフィヤ年会外国伝道委員秋報告よりの抜粋(1927-1928)」『友』24号、1928年5月.

[24] “Social and General,” The Japan Times, July 12, 1928. 

[25] “Society Ripples,” The Whitter News, August 13, 1927.

[26] 母親の病気のために、休職期間を縮めて1年で帰国した。普連土女学校時代には、1ヶ月北京に滞在している。“Social and General,” The Japan Times, March 21, 1928; July 12, 1928.

[27] Westtown School. “History,” January 19, 2023. https://www.westtown.edu/history/.

[28] “A Remarkable Success Story,” Friends Journal, January 2, 1960. p.10.

[29] フィスク大学で起こったこの騒動については以下を参照されたい。竹本友子「アメリカのディレンマと黒人のディレンマ—W.E.B.デュボイスの黒人百科事典プロジェクトをめぐって—」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』2006年、20-22頁.

[30] “Education: President Jones,” Time, March 1, 1926. 

[31] 山形正男「クェカー教徒と奴隷制反対運動」『アメリカ研究』5号、1971年、178-196頁.

[32] 戸田徹子「米国フレンズ奉仕団 日本関係資料(1942-1946)」『城西国際大学紀要』25 (2)、2017年、35頁. 

[33] 平川正壽『基督友会五十年史』基督友会日本年会、1937年、72頁.

[34] “Study Groups is organized,” Nashville Banner, 1 Feb. 1940. ナッシュヴィルとその差別的な社会状況については、ルアナがこの町を離れて15年後にフィスク大学に留学した社会人類学者、青柳清隆が記録を残している。青柳清隆『黒人大学留学記 テネシー州の町にて』中央公論社、1964年.

[35] たとえば、“Educational directory, 1943-44: pt. 4, Educational associations and directories; [prepared by Luanna J. Bowles].,” United States Government Publications Monthly Catalog, U.S. Government Printing Office, 1944, p.653.

[36] Christian O. Arndt & Luanna J. Bowles (eds.), Parents, teachers, and youth build together, Hinds, Hayden & Eldredge, Inc, 1947. 

[37] エスター・ローズについては、以下を参照されたい。郷戸夏子「フレンド派宣教師エスター・B・ローズの救援活動—第二次世界大戦後の日本での活動を中心に」『キリスト教史学』2021年、57-75頁.

[38] E.G.ヴァイニング(小泉一郎訳)『皇太子の窓』、文藝春秋、2015年(初版1953年)、90頁.

[39] Luanna J. Bowles, “To America with Gratitude,” Friends journal, April 1, 1972, p.233.

[40] 李錫敏「トルーマンのポイント・フォア計画 冷戦におけるイデオロギー競争の始まり」『法学政治学論究』2011年、2-4頁.

[41] Luanna Bowles, The story of fundamental education in Iran, 1950.

[42] Luanna J. Bowles, “The New Nationwide Program of Fundamental Education in Iran,” Education for Better Living: The Role of the School in Community Improvement. 1957 Yearbook of Education around the World, Bulletin, 1956, No. 9, Office of Education, US Department of Health, Education, and Welfare, pp. 85-100.

[43] Friends Meeting of Washington DC Religious Society of Friends (Quakers). “Memorial Minutes ( Luanna Jane Bowles),” January 19, 2023. https://quakersdc.org/sites/default/files/LUANNA%20JANE%20BOWLES.pdf.  

(「世界史の眼」No.35)

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書評:工藤晶人『両岸の旅人—イスマイル・ユルバンと地中海の近代』(東京大学出版会、2022年)
大澤広晃

 本書の主人公であるイスマイル・ユルバン(1812〜1884)は、複数世界の境域で生きた人物である。有色自由人として仏領ギアナに生まれ、フランスで教育を受けてサン=シモン主義に傾倒する。その影響でイスラームに入信し、アラビア語通訳や植民地行政官として本国とアルジェリアを往復する生涯を送った。当時の地中海では、ヨーロッパのみならず東地中海世界や北アフリカ各地でも政治的・経済的・文化的変化が共時的に、しかし異なる速度でおこっており、著者がいう地中海革命の時代を迎えていた。西洋世界では東洋人を異質で停滞的な他者として表象するオリエンタリズムの言説が影響を強めつつあったが、同時に、「西洋=文明」と「東洋=野蛮」の二項対立的図式を批判する試みもなされていた。「短い19世紀(およそ1830年代から80年代にかけての時期)」を生きたユルバンの一生をたどりながら、地中海が経験した近代の諸相を探求することが本書の課題である。

 第1章では、ユルバンの生い立ちと彼が幼少期を過ごした仏領ギアナの歴史が語られる。フランス人貿易商の父と解放奴隷の母との間に生まれたユルバンは、黒人の血を8分の1引く有色自由人で、フランスで教育を受けた。一時ギアナに帰郷するがすぐにフランスに戻り、サン=シモン主義に惹かれていく。

 第2章は、19世紀初頭におけるサン=シモン主義の動向とユルバンによるその受容を論じる。サン=シモン主義者を率いたアンファンタンと彼の弟子たちの主張が整理されるが、本書の主題にとくに関連するものとして、地中海を東洋と西洋が交わる「広場」とし、人種や信仰にかかわらないすべての人間の協同を呼びかけたミシェル・シュヴァリエの地中海体制論が紹介される。ユルバンはパリでサン=シモン主義者との共同生活に加わり、「黒人」として振る舞うことで注目を引こうとした。

 1833年、ユルバンはサン=シモン主義者の同志とともにエジプトに赴き、現地でイスラームに入信し、イスマイル・ユルバンを名乗った。第3章では、自らの内でキリスト教とイスラームを架橋することで東洋と西洋の交わりを体現しようとしたユルバンの意図が分析される。

 第4章は、19世紀初頭までの西地中海世界の動向を押さえたうえで、アルジェリアでのユルバンの活動と思想を考察する。現地でアラビア語通訳官となったユルバンは、東西の合一を掲げるサン=シモン主義の実践の一環としてムスリム女性と結婚した。同じ頃、サン=シモン主義者のデシュタルと共著で人種についての本を出版したが、それは白人と黒人の結婚を奨励し、両者から生まれる混血を「新しい人類」(140頁)として積極的に評価するという内容を含むものだった。本章では、ユルバンの同時代人で本書を通じて彼の比較対象とされるレオン・ロシュの経歴と著作も、批判的に検討される。

 アルジェリア征服と植民地化の過程におけるユルバンの動向を論じるのが、続く第5章の主題である。フランスと戦った現地人指導者アブドゥルカーディルとの関係や、ムスリムの先住民を入植者のフランス人と「同じ市民」(182〜3頁)として扱うべきだとする主張が取り上げられる。

 第6章では、「原住民」と入植者が同等の権利をもつべきだと述べた皇帝ナポレオン三世のアラブ王国構想とそれへのユルバンの影響が、後者のアルジェリア統治論とも関連づけながら考察される。アルジェリア総督府の高官となっていたユルバンは、当時の支配的な東洋学の言説を論駁しながら、西洋のみを進歩や文明の模範とみなす考え方を批判するとともに、ムスリム先住民を法的劣等者として扱うべきではないこと、先住民の土地への権利を認めるべきことなどを説いた。ユルバンが目指した路線は頓挫したが、著者は土地制度をめぐるユルバンの活動を「あたかも一個の革命家のごとき形相をみせていた」(223頁)と評する。

 終章ではユルバンの晩年と史料が残存した経緯が語られたうえで、彼の主張と活動が整理される。著者は、ユルバンが植民地支配を否定しなかったものの、複数世界の境域という足場から思考することで、東洋と西洋の差異を相対化するまなざしを獲得し、それを実際に言葉として紡いだ点に彼の独自性があったと評価している。

 ユルバンは複数の地域を移動し、帝国支配では強者の側に属しながらも宗主国社会では周縁に位置し、それにもかかわらず第二帝政期には一定の政治的影響力を発揮した。多彩な顔をもつ魅力的な人物だが、そうであるがゆえに物語の主人公に据えるのは容易ではない。議論が拡散し、研究史における位置がぼやけてしまうからである。しかし著者は、ユルバンの伝記を通じて、「短い19世紀」と「地中海革命」という概念のもとで19世紀の時代区分と西洋中心主義を再考し、あわせて、サイードが提起したオリエンタリズム論に批判的再検討を加えるという明確な課題を掲げ、それを実際に遂行することでこの問題を克服している。物語の構造も巧みだ。時代の文脈を丁寧に描いたうえで、時流に片足を入れつつも、もう片方の足でそこから抜け出ようとする個人に光をあてることにより、彩り豊かで陰影に富む近代の地中海像を見事に浮かび上がらせている。読者はユルバン(とロシュ)の生涯をたどりながら、おのずと19世紀の歴史を多面的に学べる仕組みになっている。著者の力量のなせるわざであろう。

 多様な地域が折り重なる地中海の近代を総体として描写するためには、従来の西洋史や東洋史の枠組みを乗り越えていかねばならない。この点について本書は、ユルバンの生の軌跡にそって南米、ヨーロッパ、北アフリカの歴史を縫い合わせるだけでなく、彼の個性を際立たせるために登場させたロシュを介して日本にも言及している。同時代における諸地域間の相互関係や連動を説得的に示すことで、西洋中心主義を相対化しながら世界史を語るという著者の試みは、概ね成功しているといえよう。流暢で力強い文体とともに、「下からのグローバルヒストリー」の模範となる作品である。

 その一方で、より踏み込んだ議論をすることで読者の理解がいっそう深まるだろうと思われる点もあった。第一は、ユルバンの「黒人性」という問題である。第2章では、サン=シモン主義者たちとの共同生活を送る有色人のユルバンが、「黒人」の役を演じることで注目を集めようとしたことが述べられている。だが彼は、外見はほぼ白人(76頁)の混血である。人が自分自身をどう称するかと他者がその人をどうみるかの間には、往々にして差異がある。デシュタルのように彼の黒人性を強調した者もいたが、他の人々はユルバンを黒人として受け入れたのか。関連して、当時における黒人と混血の関係も興味深い。ギニアでは、ユルバンのような混血の有色自由人はアフリカ系の血が濃い「いわゆる黒人」とは区別されていたそうだが(76頁)、宗主国で黒人と混血はどう識別されていたのか。人間の分類という点で、混血は黒人に包含される部分集合だったのか、あるいは、ギニアのように「いわゆる黒人」とは異なる存在とみられていたのだろうか。19世紀前半のフランス社会でユルバンがどのような位置を占めていたのかに関心をもった。

 第二は、ユルバンとアルジェリアに住む人々との関係についてである。まず、入植者との関係について。他帝国についての先行研究は、19世紀が進むにつれて植民地の支配者や白人住民の間で混血の人々に対するまなざしが硬化していったことを明らかにしている[1]。本書でも、19世紀後半フランスでの人種主義の高揚に伴いユルバンが自らの出自を「傷」と考えるようになったことが指摘されているが(236-7頁)、混血という属性は、入植者の彼に対する評価や姿勢にどう影響したのだろうか。次に、ユルバンとムスリム先住民社会との関係について。第5章と6章では、ユルバンが当時の東洋学で主流をなしていたイスラームやアルジェリアについての言説を批判し、目前にある「事実」をもってそれに対抗しようとしたさまが描かれている。ここで気になるのは、ユルバンがアルジェリア社会についての知見をどう獲得したのかという点である。オリエンタリズムの学知が仮構の言説体系であるのと同様に、先住民社会の様態(とくに土地制度)についての彼の「事実」認識もまたひとつの言説だったはずである。では、そうした認識およびその基礎となる情報を彼はどこから得たのか。最近の研究は植民地にかんする知識の形成で現地人がはたした役割を強調するが[2]、ユルバンの「事実」認識や政策論の形成に先住民はかかわっていたのか。また、現地のムスリムは彼をどうみていたのか。ユルバンと先住民の関係をもう少し知りたいと思った。

 最後に、本書の議論を評者が関心をもつイギリス帝国史とつなげる可能性に言及しておきたい。ユルバンも外国の事例を参照していたように(212〜3頁)、最近では異なる帝国間の相互関係を問う研究が増えている。評者は近年、主として非白人先住民に対する白人入植者や植民地政府の過剰な暴力や搾取を批判する人道主義という思想・運動(代表例は奴隷貿易・奴隷制反対運動)に興味をもっている。人道主義の内部は多様だが、19世紀イギリスでその一翼を占めていたのは実証主義者と呼ばれる人々だった。オーギュスト・コントを崇め、彼にならって人類教を組織した実証主義者たちは、人類全体の進歩と平和を唱え、その見地からイギリスの帝国支配をラディカルに批判した[3]。イギリスが世界で主導的な役割を果たすことを期待しつつも、植民地戦争では自国に非を認め、商業・金融利害による経済搾取を批判し、祖国を世界平和にとっての最大の脅威と呼ぶなど、その思想は同時代に類を見ない帝国主義批判に彩られていた。さらに興味深いのは、実証主義者の異文化に対する姿勢である。彼らは19世紀半ば頃から非西洋世界の文化や慣習にも固有の価値を認め、そうした伝統に即した制度や発展を尊重する方針を掲げていた。宗教についても、主要な実証主義者であるフレデリック・ハリスン(1831〜1923)はムハンマドとコーランを高く評価していたし、ヘンリ・ブリッジズ(1832〜1906)は人類教の集会にムスリムを招こうとしていた。加えて、当時の代表的な人道主義団体で実証主義者の多くも会員であった原住民保護協会(Aborigines Protection Society)は、創設メンバーのひとりであるトマス・ホジキン(1798〜1866。ただし彼は実証主義者ではない)を中心に、先住民の土地に対する権利の保護を強く訴えていた[4]。こうした考え方は、ユルバンのそれと重なるところがあるようにも思える。もちろん、両者の間に違いは多い。実証主義者が崇めるコントは、最終的に師であるサン=シモンやサン=シモン主義者と袂を分かった。ユルバンと実証主義者についても、前者が植民地生まれの有色自由人であるのに対して、後者は主としてオックスブリッジ出身の知的エリートからなり、社会的出自が異なっていた。実証主義者がユルバンのようにイスラームに入信し、宗教における東西の合一を自ら実践してみせたわけでもない。それでも、サン=シモンに発する思想から(異なるかたちではあるものの)影響を受けた英仏の人々の主張を比較し、相互の関係性を探ることは、興味深い研究の主題となるのではないだろうか。

 門外漢ゆえ的外れな指摘や意見も多かったかもしれないが、評者は本書の問題意識や叙述から多くを学び、自らの課題についても新たな気づきを得ることができた。本書が多くの人々の手に取られることを願う。


[1] アン・ローラ・ストーラー(永渕康之・水谷智・吉田信訳)『肉体の知識と帝国の権力—人種と植民地支配における親密なるもの』(以文社、2010年);水谷智「植民地統治下の白人性と「混血」—英領インドの事例から」、川島浩平・竹沢泰子編『人種神話を解体する3—「血」の政治学を越えて』(東京大学出版会、2016年)、163-189頁

[2] カピル・ラジ(水谷智・水井万里子・大澤広晃訳)『近代科学のリロケーション—南アジアとヨーロッパにおける知の循環と構築』(名古屋大学出版会、2016年)

[3] 光永正明「「人類教」とジェントルマン」、川北稔・指昭博編『周縁からのまなざし—もうひとつのイギリス近代』(山川出版社、2000年)、82-107頁;Gregory Claeys, Imperial Sceptics: British Critics of Empire 1850-1920, Cambridge: Cambridge U. P., 2010, ch.1.

[4] Zoë Laidlaw, Protecting the Empire’s Humanity: Thomas Hodgkin and British Colonial Activism 1830-1870, Cambridge: Cambridge U. P., 2021, 41, 53, 193-195.

(「世界史の眼」No.35)

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(2)
南塚信吾

2. 西村茂樹編『校正万国史略』1872年(明治5年)~1876年(明治9年)

 千葉の下野の佐野藩の出であった西村茂樹(1828-1902年)は、親藩であった佐倉藩の堀田正睦との関係で、幕府の貿易取調御用掛に任じられた。安政3年(1856年)、伊豆下田にアメリカの総領事ハリスが来て幕府に開港を迫ったとき、茂樹の主、佐野正睦は、外交事務を取るようになり、茂樹らは、私的秘書として、外交の文書を取り扱うよう命ぜられた。茂樹は幼い時から儒学を習っていたが、嘉永4年(1851年)、24歳の時に、佐久間象山に師事して蘭学を志した(二五歳の時に親友木村軍太郎に学び始めたともいう―古垣光一『西村茂樹全集』第5巻 789頁)。だが、その後10年ほどして、文久元年(1861年)(35歳)から手塚律蔵の門に入って、蘭学のほかに英学を学んだ。廃藩置県ののち、佐倉に閑居して、翻訳業に専心する構えであったが、まもなく居を東京に移し、堀田家の隅に家塾を開いた。

 和蘭語を使った最初の訳書が西村鼎(後に茂樹)譯、袁惄(ウェインネ)著『百代通覧藳』で、原著はWijnne, J. A. Beknopt leerboek voor de algemeene geschiedenis, 3 vol., Gromingen, 1856である(原著は宮内庁図書室に所蔵という)。これは出版にはいたらなかった。次いで、和蘭語を使った訳書が『泰西史鑑』であった。『西村茂樹全集』第七巻のあとがきによれば、これは、ドイツのヴェルタ―の書Welter, T.B., Lehrbuch der Weltgeschichte fur Gymnasien und hoehere Burgerschulen, 3 vols., Munster, 1826-28をオランダのベルクが訳したものHandboek voor de algemeene geschiedenis voor gymnasien en opvoedingsgestichten, 1835(I,II), 1852(III)を翻訳したものという。そしてこのベルク訳は、慶応3年(1867年)ごろに友人の神田孝平より贈られたものであるという(第7巻 875―876)。これは、明治2年(1869年)から14年(1881年)にかけて翻訳、出版された。

 この間、慶応3年には『万国史略』を訳述し、明治2年(1869年)に『万国史略』として出版していた。これは、「万国史」と名のついた最も早い書であった。この『万国史略』はスコットランドのタイトラーのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の翻訳である。だが、これは古代ギリシア史までしか訳されていなかった。また歴史学の方法などを論じていた原書の序論は訳されていなかった。そこで西村は明治5年ごろから、この『万国史略』の校正を始めた。しかし、ウィンネやヴェルターの訳をしているうちに、新しい知見も加わったようで、作業は単なる『万国史略』の校正ではなく、ほとんど別のものと言っていいものになった。それが、明治5年(1872年)から明治9年(1876年)にかけて出た『校正万国史略』であった。

 なお、西村は、明治6年(1873年)に、福沢諭吉、中村正直、加藤弘之、津田真道、西周、箕作麟祥、箕作秋坪、神田孝平らと「明六社」を結成したのち、同年、森有礼に推されて文部省編書課長になり、教科書の編集・刊行に力を尽くした。明治13年(1880年)に、編書課と翻訳課を合わせて編輯局が作られると、その局長となった。やがて、明治18年に新内閣の成立によって官制改革があると、西村は、翌年、文部省を辞めて、宮中顧問官に任ぜられた。この後は、道徳教育のための活動をすることになる。

***

 『校正万国史略』の構成は以下のようである。

上古ノ史上

 人類ノ始 大洪水; 巴比倫(バビロン)、亜述(アッシリア);馬太(メジイ);埃及;以色列(イスラエル);腓尼基(フェニキイ);波斯ノ史

上古ノ史中

 希臘ノ史;馬基頓(マケドニア);亜歴山得大王

上古之史下

 羅馬ノ史

  

中古ノ史上

 東羅馬、比利敦(ブリテン)、仏朗克(フランス)、亜剌伯:摩蛤麦(マホメット)、回教ノ大教師(カリフ)など

中古ノ史中

 日耳曼、法蘭西、英吉利、東羅馬、西班牙、大教師国、土耳古、十字軍(第一次~第四次)ノ史など

中古ノ史下

 十字軍(ラテン帝国)、日耳曼、法蘭西(フランス)、英吉利、西班牙葡萄牙、魯西亜及ビ阿多曼(オットマン)土耳古ノ史など

  

近世ノ史一

 亜米利加ノ検出、意太利、日耳曼法蘭西ノ戦、教法改正、西班牙葡萄牙、日耳曼、呢特蘭(ネーデルラント)、法蘭西、英吉利ノ史

近世ノ史二

 呢特蘭、法蘭西、西班牙葡萄牙、英吉利、北部東部欧羅巴、魯西亜、瑞典ノ史

近世ノ史三

 西班牙国継ノ乱、欧羅巴諸国ノ史、七年ノ戦争、英法二国ノ戦、北亜米利加合衆部ノ独立、東印度、魯西亜波蘭、瑞典丁抹、日耳曼ノ史

近世ノ史四上

 法蘭西革命ノ大乱、欧羅巴ノ諸国法蘭西ヲ伐ツ、法蘭西人墺址利ヲ撃ツ、法蘭西国首領政治、拿破侖帝位二登ル、欧羅巴ノ諸国、拿破侖ノ敗

近世ノ史四下

 法蘭西、日耳曼、西班牙葡萄牙、意太利瑞西、欧羅巴北東、英吉利、希臘国ノ再興、比利時(ベルジューム)ノ自立、波蘭ノ乱、亜墨利加諸国、魯西亜ト土法英トノ戦、撒丁王意太利ヲ統一、普魯西墺地利、英国属地、合衆国南部ノ叛乱、普魯西法蘭西ノ戦

***

 構成に関する限りで、『校正万国史略』の特徴を整理しておこう。

  1. 歴史の起源は聖書に基づいて書かれていた。タイトラーの原書は全く聖書を脱していたので、聖書による創世の部分は別の本(例えばヴェルター)に拠っていたのではないだろうか。ギリシア以後は世俗史になっていた。実は、先の『万国史略』では、「上古」の始めにおいて、「天地草昧の初めにあたり、人類の状、果たして如何なるか、詳かに之を究めんとするは、容易に得べきことに非ず、吾儕今日に当り、太古の事を尋釋(じんしゃく)せんとするに、伝記の証拠と為るに足る者なし」と述べて、「大洪水」から「上古」の歴史を書くことを拒否していた(『西村茂樹全集』第9巻、9)。その意味では、『万国史略』はレベルの高い書であった。パーレイ的な万国史ではなかったので、早くに完訳が出ていれば、明治初期の「万国史」の様子は変わっていたかもしれなかった。
  2. ギリシア以降の世俗的世界の構成は、パーレイの本と違って、単なる各国史の並列ではなかった。時代区分を設定して、「人類の始」から「羅馬」の滅亡までを「上古」とし、「東羅馬」からを「中古」とし、「亜米利加ノ検出」からを「近世」としていた。時代区分はヴェルターにならったのかもしれない(ヴェルター『泰西史鑑』では、「上古」「中古」「近古」「近世」となっていて、「近古」を「教法改革」から、「近世」を「法蘭西革命の大乱」としていた)。
  3. こうした時代区分のなかで、各時代は各国の歴史の並列で構成していた。つまり、各時代を、フランス、ドイツ、イギリス、オスマン史を柱とし、そことの関係で周辺ヨーロッパの歴史も述べるという形をとっていた。さらにそこには各国の歴史とともに、諸国間の関係を間に入れていた。ちなみに「北部東部欧羅巴」という漠然とした概念はあったが、「北ヨーロッパ」「東ヨーロッパ」「西ヨーロッパ」という対比的なくくりはまだ登場していなかった。
  4. パーレイの「万国史」と比べて、ヨーロッパ中心であり、非ヨーロッパの記述が縮小されていた。アメリカ大陸はあるが、アジアは抜け落ちていた。その分、ヨーロッパ史の記述が詳しく、正確になっていた。そして、これまで見た「万国史」に比べ、「中古」以後の史実は豊富で詳しく、確実になっていた。

***

 さて、ヨーロッパの東部についての記述をみると、依然として、ポーランド、ハンガリー、ギリシアが中心で、ボヘミアがいくらか触れられるという具合であった。

(1) 「中古」における東ヨーロッパ

 10世紀において、日耳曼(ジエルマン)史との関係で、ハンガリーが扱われる。891年に斯拉窩尼(スラオニイ)の攻撃に直面した日耳曼王が匈牙利人を招いたが、その後匈牙利人は本国に還らず巴訥尼亜(パンノニア)に拠り、さらに日耳曼の地に侵掠するようになり、加魯胤(カロウイン)家の断絶を促進した。日耳曼が薩索尼(サクソニア)家の時代になっても、匈牙利人との争いに悩まされ、ようやく950年に匈牙利人を破って、安定したとされる(『西村茂樹全集』第5巻-以下略― 488-491頁)。年代がいくらかズレているが、事実関係はこの通りであった。

 同じく、日耳曼史の中で、15世紀のボヘミアの「黒斯(ヒュンス)の乱」が扱われる。ここではフスが巴拉克(プラーグ)大学の講師となり、「独り聖経を尊信」すべきことを教え、教法の会議で糾弾され、焚殺されたこと、それにたいし、波希米(ボヘミア)人が兵を起こしたことが、正確に記されている(544-555頁)。

 つぎに、魯西亜及び阿多曼(オットマン)土耳古史の中で、魯西亜の始まりが書かれるとともに、阿多曼(オットマン)土耳古の自立(1299年)が述べられ、それが14世紀末に東へ拡大した様が書かれる。そして、布爾加利(ブルガリ=ブルガリア)、塞爾維(セルウイー=セルビア)、襪拉幾(ソラキイ=スロヴァキア)の地を攻めて、さらに匈牙利に向うが、洪約(ホンヤツト=フニャディ)の軍に止められたことが記されている(553-554頁)。ブルガリアなどが「万国史」に出て来るのはこれが初めてであろう。

(2) 「近世」における東ヨーロッパ

 15世紀になって、「亜米利加ノ検出」が始まる時代は、ヨーロッパの大きな変動の時代であり、阿多曼土耳古の拡大の時期であった。その中で、索利曼(ソリマン)第二は、ロードス、マルタを落とし、さらに匈牙利に進撃した。そして1526年、沐哈克(モハツク)にて匈牙利軍を破り、さらに維也納(ウインナ)を囲むまでになったことが書かれる(562頁)。

 17世紀に入り、加特力教(=カトリック)と新教の対立が「三十年の大乱」(1619-1648年)を引きおこすが、そのきっかけとなった地として、波希米と摩拉維(モラウイイ)の民心が信教を支持したことが記される(586頁)。 

 この30年戦争が終わった後、北欧において波蘭・魯西亜戦争(1654-55年)、波蘭・瑞典戦争(=「大洪水」)が起きるが、その記述の中で、初めて波蘭の建国とその後の王朝の歴史が紹介される。「波蘭人は斯拉窩尼(スラヴオニイ)の民族なり」という位置づけが出て来る(600頁)。    

 この17世紀の末に、匈牙利が墺太利に継承されるが、その経緯が、詳しく語られている。オーストリアの皇帝がトランシルヴァニアのカトリック化を図るのに反対したハンガリー人は、多結犂(タケリ=テケリ)を大将として反乱を起こした。これを機にオスマン帝国はハンガリー人と共にウイーンを攻めてこれを包囲(=第二次ウイーン包囲)するが、波蘭の支援を得て、1687年これを破り、この後、ハンガリーは蛤不斯堡(ハプスボルグ)の支配するところとなったという具合である(606-607頁)。

 スペイン継承戦争、七年戦争の後の18世紀において、ポーランドの歴史が詳細に描かれてくる。まず、1733年の波蘭の王位をめぐる魯西亜、仏蘭西らの争い(=ポーランド継承戦争)が述べられたあと(622頁)、「魯西亜波蘭の史」という節が置かれ、そこでは、他国との戦争によって治世を正当化する必要のあった魯西亜の加他隣(エカテリーナ)が、波蘭に攻め入り、その寵臣スタニスワフ・ポニャトフスキを波蘭王として波蘭に勢力を扶植していくところから、その動きに反対するポーランド貴族らの抜爾(バール)連盟の抵抗を経て、ついに波蘭が分割されるまでが描かれている。その際に、魯西亜が波蘭に攻め込んだことに怒った土耳古が魯西亜と戦ったが破れたことが述べられ、そうして勢いを増した魯西亜が1773年(=1772年の誤り)に普魯斯(プロイセン)および墺地利とともに波蘭議会を脅かして、波蘭を分割(=第一次分割)したとされている(635-637頁)。オスマン帝国の動きも入れてポーランド分割を論じているのは、これまでにない論じ方であった。

 さらに、ポーランド分割の説明が続く。ロシアの威権支配を怨む波蘭人が、波蘭の「自主」を謀って立ち上がったが、波蘭の中に魯国を崇奉する魯国党もいて、結局1793年に魯普二国により波蘭はさらに分割された(=第二次分割)。これにたいして、哥修士孤(コシューシコ)を将とする「独立」の運動が起きたが、魯普墺の三国が大軍を送ってこれを破り、1795年に波蘭を最終的に分割し、「波蘭国遂に滅ぶ」ことになったという(642-643頁)。

 この間の記述もほぼ正確で、しかも、波蘭人の目線から見ていて、出色である。なお、「自主」や「独立」という用語が使われていることも注目される。

(3) 「近世」後半における東ヨーロッパ

 「近世」の後半は「法蘭西革命の大乱」を持って始まる。「革命」という言葉を最初に用いていることは注目したい。この「革命」は「君権」に対して「民権」を伸ばそうとするもので、「国民」の「自主」を主張するものであったと見ていた(644頁)。 

 そういう「法蘭西革命」の時代に生じた墺地利での1848年の政変に関連して、匈牙利での民乱が論じられる。3月、維也納の民が乱を起こし、首相墨的爾昵(メテルニク)を追放し、皇帝は国民に新制法を約束したが国民は満足せず、維也納は「書生と暴民」の「藪」となった。7月に斯拉窩尼人が巴拉克を奪い政府を立てた。そして墺地利国を助けて、同月には議会が開かれた。しかし、匈牙利人は自国の法律と政体を守ろうとして、墺地利と対立し、ついに墺地利は哥羅亜西(コロアシア)にこれを攻めさせた。この時維也納の民は「此軍行を阻遏せんと」した。そして10月、維也納は匈牙利人に「自主の政府」を立てることを許した。1848年12月にフランツ=ヨーゼフが帝位に就くと、ハンガリーを攻撃し、ついに魯西亜の助けを得てこれを敗北させた。こう記述されている。ここでは、ウイーンの市民がハンガリーを支援したこと、魯西亜の援軍があったこと、民の視線が考慮されていることなど、注目すべき記述である(674-676頁)。

 「自立」を図った国として「希臘国の再興」が扱われる。「希臘は中古の時より土耳其の属国と為り、久しく回教の圧政を受く。」「国民」はたびたびトルコの管轄を離れようと謀ったが、その度にうまくいかなかった。だが、1821年に兵を挙げて、翌年独立を宣布した。しかし、スルタンはエジプトの墨非麦阿里(メヘメトアリ)を動員して、希臘を攻めた。ここにイギリスのカニングは露仏と会議して希臘支援に乗り出し、1827年にナバリノの戦いでトルコエジプト軍を破り、翌年希臘が独立して、加甫侍斯多利(カポディストリアス)が大統領となった。だが、かれは1831年に暗殺され、国内は不安定になった。そこで列強は巴威略(バイエルン)王の子の阿多(オットー)を希臘王に推し、彼のもとで学校が建てられ、律書が作られ、「民の開化」が進んだ(686-687頁)。これまでも「万国史」においてはギリシアの独立は注目されてきたが、今回は、イギリスの動きも加えられて、ギリシア独立の記述が充実してきた。

 続く「波蘭の乱」では、1830年と1862年の反乱が扱われている。「波蘭は既に滅亡すと雖も、其民常に本国を再興するの志を懐けり。」そして1830年11月、「洼消(ワルシャワ)の民、乱を作して、魯国に叛く。」この中で、露西亜との和議を提唱するものがあったが、「国民」の意は、ロシア軍を追い払い「自立」を復すことであった。そこで、波蘭の「長老平民共に」ロマノフを拒絶することを決議し、1831年2月に、公然と兵を挙げて魯国に敵対した。波蘭軍は善戦したが、ついに9月に敗北してしまった(689頁)。  

 だが「波蘭の民は其の愛国の心、年久しくして、益堅く、常に時を俟て、快復の業を興さんと欲す。」1862年2月、露西亜軍がポーランドに於いて、「教育を受けたる少年と、愛国心の深き少年」を徴兵しようとしたのに、少年等が反発して、蜂起が起きた。波蘭人は、今度は山林に隠れ、電線や鉄道を攻撃して魯西亜軍を悩ませたが、11月には敗北した。その後、魯西亜は、波蘭人にカトリックを禁じ、母語の使用を禁じて、「愛国心」を消滅させようとした(690頁)。国民や少年など、国王以外の目線が打ち出されていることが注目される。

***

 このように西村の『校正万国史略』では、時代区分をしたうえで、ロシア史、ドイツ史、オスマン史との関係で、ポーランド、ハンガリー、ボヘミア、ギリシア史などが論じられる。その中で、洪牙利は、初めはドイツ史の「攪乱分子」といった扱いであったが、やがては「自立」と「民権」のための「闘士」という扱いに変化していったと言える。一方、ポーランドは、大国の「犠牲者」として描かれている。ポーランドの滅亡と快復の熱意は、明治の日本の雰囲気に合ったのであろう(レザノフ事件以来、日本の対外認識はロシア方面から進んだので、東ヨーロッパにも「東」から接近しているのである)。

 『校正万国史略』では、飛躍的に事実関係が豊かに確実になってくる。そして歴史を見る観点も政治権力者だけでなく、「国民」「人民」の観点が挿入されていることが注目される。

(続く)

(「世界史の眼」No.34)

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書評:山田篤美『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』(山川出版社、2022年)
小谷汪之

 本書の著者山田篤美は本書に先行して、『真珠の世界史:富と欲望の五千年』(中公新書、2013年)を上梓し、真珠の歴史を広い世界的な視野と長い歴史的射程において描き出している。例えば、日本の場合をとってみれば、縄文遺跡から発掘された真珠から御木本真珠が世界を席巻するまでが扱われ、ペルシャ湾の大真珠産地については、ギルガメシュ叙事詩に描かれた真珠採りから、インドの仏教文献に出て来る真珠やイスラム世界における最高の宝石としての真珠が取り扱われている。そのうえで、16世紀以降の20世紀初めまでのヨーロッパにおける「真珠バブル」を「真珠狂騒曲」と捉えている。

 それに対して、本書は「大航海時代」特に16世紀に焦点を当てて、真珠の「グローバル市場」が形成されていく過程とその構造を明らかにしようとしたものである。

 この真珠の「グローバル市場」形成の契機になったのは、三つの大「真珠生産圏」(真珠の漁場、真珠採取地、真珠集散地の複合体)の形成あるいは発展であった。一つは南米ベネズエラ・コロンビア北岸(カリブ海南岸)で、二つ目はペルシャ湾岸、特にアラビア半島側、三つめはインド亜大陸とスリランカ(セイロン島)の間のマンナール湾岸である。これら三つの地域は、16世紀、スペインとポルトガルの進出に伴って、大「真珠生産圏」として発展し始めた。そして、これらの地域産の真珠がインド西海岸(アラビア海岸)のゴア(ポルトガルのインド総督府所在地)を「ハブ」として結びつき、真珠の「グローバル市場」を形成していったのである。

「南米カリブ海真珠生産圏」

 南米カリブ海のベネズエラ・コロンビア海岸では、16世紀スペイン人が進出する以前から、現地民によって真珠の採取が大規模に行われていた。そこにスペイン人が目をつけたのであるが、そのきっかけとなったのはコロンブスが第3次航海で真珠を持ち帰ったことであった。その後、多くのスペイン人が南米大陸に向かい、真珠の採取業に乗り出した。スペイン王室もそれを後押しし、個人事業者の真珠採取業への自由参加を認めていた。

 真珠採取は数メートルから10数メートルの海に潜り、海底の岩に付着している真珠貝をはぎ取るので、その労働力としての潜水夫の確保が最も重要であった。16世紀前半では、潜水に慣れていたバハマ諸島の現地民が主として使役されていた。彼らはしばしば「奴隷化」されていたので、著者はこれを「先住民奴隷制水産業」と特徴づけている。その後、16世紀後半になると潜水労働力が不足し、アフリカ人奴隷が潜水夫として使役されるようになった。「先住民奴隷制・黒人奴隷制水産業」の形態をとるようになったのである。

 南米大陸産の真珠はスペインのセビリャに送られ、さらにヴェネツィアを中継して、ヨーロッパやアジアの各地に広がっていった。

「ペルシャ湾真珠生産圏」

 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団がインド西海岸(アラビア海岸)のカリカットに到着して、いわゆるインド航路を切り開いた。その後、多くのポルトガル人が喜望峰周りでインドに向かい、インド西海岸に要塞や商館を建設していった。1507年、後にポルトガルのインド総督となるアフォンソ・デ・アルブケルケはペルシャ湾口のホルムズ王国を征服した(その後いったん放棄し、1515年に再征服)。それは「ペルシャ湾真珠生産圏」の支配を目指すものであった。

 ペルシャ湾は世界最大の真珠生産地で、特にアラビア半島側に多くの真珠漁場が存在した。中でも大きな漁場はバハレーン島であった。潜水夫は主としてペルシャ湾地域に居住するアラブ人であった。ペルシャ湾の真珠採取業では、真珠採取船は何カ月間も帰港することなく、真珠をとり続けた。そのために、潜水夫の多くは出漁中の家族の生活費として、船主などから前金の形で金銭を借りることが多く、その債務に縛り付けられていた。著者はこれを「債務隷属制真珠採取業」と呼んでいる。

 16世紀、ポルトガルはホルムズ王国を征服することを通して、この「ペルシャ湾真珠生産圏」を支配することができたのである。ただし、ポルトガル人はスペイン人とは違って、自ら真珠採取業を営むということはしなかった。あくまでも、既存の「真珠生産圏」の上に網をかけるようにして支配したのである。

ペルシャ湾産の真珠はホルムズからイラクのバスラを経由して、西アジア・北アジアやヨーロッパの各地に送られるとともに、インド西海岸のゴアを経由してインド内陸部にまで運ばれた。

「マンナール湾真珠生産圏」

 1520年代、ポルトガルは南インドとスリランカ(セイロン島)との間のマンナール湾に進出した。そのインド側沿岸にはカーヤルという町があり、真珠の大きな集散地となっていた。1530年代には、この地のヒンドゥーの真珠採り潜水夫がいっせいにキリスト教に改宗するということがあった。1542年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが教皇庁から派遣されて、マンナール湾の改宗キリスト教徒の保護や布教の任務に就いた。ザビエルは1944年まで約2年間マンナール地方に滞在した(途中一時帰国。1949年には、日本に赴任)。ザビエル以降、イエズス会の宣教師は教勢を拡大することよりも、キリスト教に改宗した真珠採り潜水夫を囲い込むことに力を注いだ。それによって真珠を獲得することができたからである。

 1560 年、ポルトガルはマンナール湾のスリランカ側に位置するマンナール島を獲得し、ここに要塞を築いてマンナール湾一帯の行政中心地とした。これによって、ポルトガルは「マンナール湾真珠生産圏」を支配下に収めることができた。

 マンナール湾では、春先と秋口の数カ月間、真珠の大規模採取が行われた。これには、キリスト教徒潜水夫、ヒンドゥー潜水夫、ムスリム潜水夫など極めて多数の人々が参加し、大きな一時的居住地が形成された。

 マンナール湾産の真珠はチェッティなどのヒンドゥー商人によって、インド亜大陸各地に運ばれるとともに、ゴアを経由して世界各地にも搬出された。

真珠「グローバル市場」の特質

 本書の眼目は、16世紀、真珠の「グローバル市場」がゴアをハブとして世界各地にスポーク(輻)を伸ばすという形で形成されたということを明らかにする点にある。

 「グローバル市場」というと、オランダとイギリスが壮烈な抗争を続けた香辛料貿易などが念頭に浮かぶが、この場合は香辛料がアジアからヨーロッパへと一方的に搬出されるという形をとった。「グローバル市場」というと、このような非西欧世界から西欧への一方的な物資の流入というイメージが湧きやすい(例えば、新大陸産のジャガイモやトウモロコシ)。しかし、本書における真珠の「グローバル市場」はそれとはまったく異なり、世界中のさまざまな地域的市場が複合的に結びつき、真珠がその間を多方向的に動くという形をとっていた。

 真珠の「グローバル市場」のハブであるゴアには、南米カリブ海産の真珠がリスボンやセビリャを経由して持ち込まれ、ペルシャ湾産の真珠はホルムズを経て、マンナール湾産の真珠はインド亜大陸の陸路・海路によってゴアにもたらされた。その他にも、インドネシア・フィリピン海域の真珠(これはアコヤ貝真珠ではなく、シロチョウ貝真珠)や中国(トンキン湾)産の真珠がマラッカを経由してゴアに運ばれていた。

 ゴアには、ジャイナ教徒のバニアン商人、南インドのチェッティ商人などのインド商人だけではなく、中国やミャンマー、タイ、マラッカ、ジャワ、モルッカなどからも商人が集まっていたので、真珠はこれらの商人たちによってインド各地や中国、東南アジアなどに運ばれていった。また、ゴアにはアラブ商人、ペルシャ商人、アルメニア商人、ユダヤ商人などもいたので、真珠は彼らによってメソポタミア、トルコ、カフカス地方などにも運ばれた。

 真珠を求めたのは主としてアジアやヨーロッパの王侯貴族や富裕層だったが、アジアではヨーロッパよりも真珠が高く売れたという。そのこともゴアを起点とする「ハブ・アンド・スポーク交易」形成の一因と考えられる。

 このように、本書の功績は、真珠を素材として、非西欧世界から西欧へと一方向的に商品が流れるのではない「グローバル市場」の存在を明らかにしたことにあるということができる。

(「世界史の眼」No.34)

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