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書評 アンソニー・リード『世界史のなかの東南アジア 歴史を変える交差路 上下』(太田淳・長田紀之監訳、青山和佳・今村真央・蓮田隆志訳、名古屋大学出版会、2021年)A History of Southeast Asia, Critical Crossroads, Chichester: Wiley Blackwell, 2015
高田洋子

 アンソニー・リードは1939年にウエリントンで生まれ、当地のヴィクトリア大学で歴史学修士号を、その後ケンブリッジ大学で博士号を取得した。マラヤ大学歴史学講師、オーストラリア国立大学「東南アジア史」教授、カリフォルニア大学ロサンゼルス校東南アジアセンター初代所長兼歴史学教授を経て、2002年からはシンガポール国立大学アジア研究所所長も務めた。彼はSoutheast Asia in the Age of Commerce 1450-1680, 2 volumes (New heaven and London: Yale University Press.1988/1993)で、東南アジアが「長い16世紀」に、世界の動きに連動して当時の世界で最も豊かな交易社会を築いたとする時代像を、人びとの生活史の視点も入れて生き生きと描いた。今回紹介する東南アジア通史は、この「商業の時代」を中心に、前後の時代から20世紀末までを同じ観点で詳述した大著だ。

 東南アジア地域は、ユーラシア大陸のインドシナ半島部(大陸部)とインド洋の東側及び太平洋の西側に浮かぶ大小無数の島々(島嶼部)から成る。現在11か国6億5千万以上の人口を擁し、自然/民族/言語・文化/宗教他、実に多元的、多種多様な世界だ。そのため東南アジア全体史を一人で描くのはとても難しい。「東南アジア」という地域概念が定着し始めたのは戦後で、本格的な歴史研究が始まってまだ60-70 年位しか経っていない。私の院生時代にはMilton Osborne, Southeast Asia, An Introductory History (1979)が注目され、2013年には第11版が出るほど世界中で読まれた。この通史と比較すれば、本書では近世early modern史と現代史の部分が相当のボリュームになっている。

 全体は魅力的なタイトルのついた20章から成り、各章に5~8つずつの小テーマが並ぶ。古代から現代へと記述されてはいるが、各章で論じられる期間は相互に重なったり、ずれたりと変幻自在だ。読者は、はじめは水墨画のようにぼんやりとした東南アジアの姿が、季節風の風下に世界各地の人びとや ”もの” が集まっては去っていく、交流と危機の時代を繰り返すうちに一つのまとまりある姿が立ち現われ、やがて別々の色合いを帯びて変化する歴史過程をイメージできる。従来の研究成果や、外来者の記録・報告・私的手紙等を多用しながら、基層社会の上に受容された仏陀やシヴァ神、古くからの貿易システムとムスリム商人のネットワーク、イスラーム、カトリック、プロテスタンティズム、儒教原理のせめぎ合いが描かれる。16世紀の世界的な「銀」の流通に伴う長距離交易、世界市場向け香辛料他の熱帯産物とプランテーション生産、交易を独占し「商業の時代」を急速に終わらせたオランダや英国、また近代をもたらすヨーロッパ勢力と華人の世紀、メスティーソとクレオール文化、コスモポリタンな港市の発展と銃砲国家gunpowder kingsの抗争、そして権力者の支配から逃れる高地人たち・・。東南アジア特有の「ナガラ」、「ヌグリ」、そしてマレー世界とヌサンタラ。多様性を受け入れるシンクレティズムの世界が、外来の普遍主義や純潔主義、そして近代主義にまみれることから生じる歪みや自律性の喪失が饒舌に語られる。

 19世紀後半以降の植民地社会は、(近代)国家のインフラ造りの一方で人口が増え、貧困と非自立化peasantizationがすすんだ。かつての欧華都市the Euro-Chinese citiesは衰退して中心都市だけが際立ち、エリートは近代教育を熱望した。さらに現代はネーションが創られると同時にマイノリティーも創られる。食料増産の”革命”を経た1970年代には、環境破壊と政治腐敗という”陰鬱な”コストを払って、東南アジアの経済成長は再び「商業の時代」に回帰した。全章を通して人びとの衣食住、旺盛なパフォーマンス、気候変動、災害・疫病、ジェンダーなどグローバル・イッシューへの言及も議論を補強している。V.リーバーマンのStrange Parallels 、J. Scottのゾーミア論、ギアツのインヴォリューション論も意識される。また、東南アジアでは交易で得られた富がなぜ欧州のように資本蓄積されなかったか考察される。1980年代に活発化した中間層の運動や都市ムスリムの信教心の高揚は、ヴィクトリア時代のイギリス・プロテスタント運動に似ているとの指摘がある。民主主義を欠落した近代主義の日本軍によって規律と軍式動員、支配者と被支配者の一体化が強制されたことは、独立後の権威主義体制や国家による女性への管理・馴化につながった。西欧の ”男性的” 近代主義も家父長制の下の女性らしさを求めていたとリードは述べる。元来東南アジアでは、ジェンダーバランスの中の女性の位置づけは高かった(女性は商業の担い手であり、異なる文化の媒介者だった点を根拠に)。国家の役割は小さく、節度と調和を重んじて結束をはかろうとする行動規範は、世界の中の東南アジアの特徴だとしている。刺激的な議論にみちた本書は、東南アジア史研究の基本文献となるだろう。

(「世界史の眼」No.28)

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(2)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その2)
南塚信吾

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

2. 文部省『史略』文部省 明治5年(1872年)と師範学校編輯『万国史略』文部省 明治7年(1874年)

 1872年(明治5年)に学制が発足した時、すでにあった寺内章明『五洲紀事』と西村茂樹『万国史略』が、とりあえず小学校の教科書とされた。しかし、よりコンパクトな教科書が必要であった。それに合わせて文部省が編纂したのが『史略』明治5年(1872年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)である。地理学者内田正雄の筆による。『史略』は、巻の一が日本(皇国)、巻の二が支那、巻の三と四が西洋の歴史であった。日本史の巻は天皇歴代史で、中国史は王朝史であって、ページ数も少なく、天皇・皇帝の事績を並べただけで、歴史というほどの記述にはなっていなかった(「歴史」という用語は使ってはいたが)。「西洋史」のほうは上下二巻になって、これは、ページ数も多く、文章として歴史記述になっていた。本書は、「人の始めは国々の説異同ありていずれとも定め難し」として、「大洪水」と「ノア」から始めていた。「大洪水」以前の聖書的な見方は脱していたわけである。その上で、上古、中古、近世を区分していた。上古は紀元500年ごろまで、中古はそれ以後1500年まで、近世をそれ以後今日(明治)にいたるまでとしていたが、実際には、中古と近世の区別はせずに、中古以下各国の歴史を並列して論じていた。構成は以下のように、パーレイ的に各国史を並記したものであった。

史略

上古

 アッシリア、バビロニア、フェニシア、ユダヤ、ペルシア、ギリシア、ローマ

中古以来

 仏蘭西、英吉利、独逸・墺太利・普魯士、西班牙・葡萄牙、和蘭、比耳時、瑞西、嗹國・瑞典、魯西亞、以太利、土耳其(附希臘)、亜米利加

 2年後、この『史略』のなかの西洋史と東洋史の部分を独立させ、それを詳しくして、師範学校編輯『万国史略』明治7年(1874年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)が出版された。大槻文彦〔宮城師範学校長となった〕の「序文」によれば、「万国史」は「世界中の国々の歴史」という意味であるが、日本の歴史は別に論ずるので、この中には入れない。西洋史については、すでに文部省から出版された「概略の歴史」(『史略』のこと)があるので、それを増減したという。つまり、この「万国史」は「日本史以外の外国史」を網羅しようとするものであった。ここに、便宜的とはいえ、日本史と「万国史」を二本立てで考える方式が登場したのである。

 その構成を見ると、下のようであった。

《巻の一》

亜細亜洲―漢土、印度、波斯、亜細亜土皃其(トルコ)

欧羅巴洲上―希臘、羅馬皃

《巻の二》

欧羅巴洲下―「人民の移転」、仏蘭西、英吉利、独逸、墺地利、普魯士、瑞西、和蘭、比耳時、嗹馬、瑞典、那威、西班牙、葡萄牙、伊太利、土耳古、露西亜

亜米利加州―「発見殖民」と合衆国

 『万国史略』は、『史略』を踏襲していて、それと同じく、万国の歴史を網羅していた。それぞれの国について、歴史をタテに述べるという方式であった。パーレイの影響が見える。だが、アフリカとオセアニアは削除されている。それに、「人民の移転」(諸民族の大移動)と「発見殖民」が独立の項で扱われるようになった点が『史略』と違うところである。

 人類の起源については、『史略』は大洪水から始めていたが、『万国史略』は少し妥協的で、亜細亜土皃其(トルコ)の節において、「西洋ノ説」によれば、ユーフラテス川のそばにアダムとイブが初めて「化生」し、人類の起源となったと言われると記していて、聖書を全面的には取り入れていないが、一応の配慮はしていたようである。

 さて、『史略』と『万国史略』では、ヨーロッパの東部をどのように扱っていたであろうか。『五洲紀事』と同じく、ここでも、ギリシア、ハンガリー、ポーランドのみが扱われていた。

≪ハンガリー≫

 ハンガリーは、『史略』では、『五洲紀事』のように独立の項目にはなっていなかったが、独逸・墺太利・普魯士の節と土耳其の節においていろいろな脈絡で述べられていた。主なものは、①「独逸」が10世紀に「ヘヌリ」(ハインリッヒ一世)の時に「ハンガリー」から邊境を侵す者を打破ったこと、②「オットマン」国が「バジヤシスト」一世のときに「ハンガリヤ」に侵入し、ホンガリー王が仏独の兵と連合してこれを防いだこと、③1520年代の「ソリマン」(スレイマン)二世のときに「ハンガリー」を攻略して属国としたこと、④「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、⑤17世紀末の墺太利の「レヲポルド」帝の時「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じて「ウィーンナ」を包囲したがこれを退け、「ハンガリー」を平定したことなどである。

 オスマン帝国がハンガリーとの関係で位置づけられていることが注目される。このうち②はバヤジットのブルガリア攻撃のことと誤っていると思われるが、その他はいずれもハンガリー史にとって重要な史実であった。その論じ方は「王朝史」であったが、『五洲紀事』より正確な歴史になっている。『五洲紀事』にあるような匈奴の子孫という人種的な観点はなかった。ここで気になるのは。「人民」という言葉であるが、この時期の「万国史」では、「国民」と並んで「人民」が使われていて、その「人民」は広く人間という意味でも、民衆という意味でも使われていた。

 以上は『史略』の記述であるが、ハンガリーの扱いは『万国史略』でもまったく同じであった。

≪ギリシア≫

 『史略』では、土耳其史が系統的に述べられていて、その中で希臘の独立も扱われていた。ギリシアの独立についての記述を見てみよう。

「希臘は東羅馬の衰退後、久しく土耳其の版図に期せしが、其の苛酷の政令に耐えず、千八百二十一年より終に兵を挙げて土耳其に抵抗し、数年間死力を盡して血戦せしと雖も、衆寡敵せず、殆んど土耳其の為に圧服せられんとす。然るに英国仏国魯国等より兵を出し、千八百二十八年大いに「ナバリノ」に於いて土耳其の海軍を討破り、其翌年「モレヤ」の地独立して希臘国と号を初め、「カポジストリヤ」大頭領に任せしなり。」(『日本教科書体系』第18巻 54頁)

 ギリシアの独立は当時の日本では注目されていた出来事であった。この記述は『五洲紀事』のそれとほぼ同じである。記述は今日から見てもほぼ正確である。ただギリシアは1829年に「独立」したのではなく、自治国となったということは、正確には押さえられていない。だが、他は正確である。また「カポジストリヤ」(カポディストリアス )大頭領への言及が新しいところである。すでに「独立」、「大頭領」(大統領)という用語が出ていることに注目しておきたい。『万国史略』もこれと同じ内容であった。 

≪ポーランド≫

 『史略』では、ポーランドについては、独逸・墺太利・普魯士の項で、「1795年、墺普の両国、魯西亜と共に波蘭国を亡ぼし、之を三分して、各領地を増せり」(41頁)とされ、魯西亜の項の中では、「波蘭国を亡ぼし、普魯士、墺地利と之を分ち領す」(50頁)と出てくるだけである。波蘭の側での抵抗のことも指摘はなく、諸王の偉業として扱われている。当時の日本ではポーランド分割への関心は高いはずであるが、意外にあっさりとしている。『五洲紀事』にあった「人民」「国人」の目線がなくなっている。『万国史略』もこれと同じ内容であった。

 以上のように、『史略』と『万国史略』においても『五洲紀事』と同じく、ヨーロッパ東部のうちでは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドが関心の対象であった。それはアメリカのパーレイに倣ったものであろうが、日本としても国家の独立と分割に対する関心が、これらの国への関心となっていた。だが、寺内の『五洲紀事』と比べて、いわば「権力的」な見方をしていた感がある。また、仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」の記述はあるが、それとの関係で、ヨーロッパの東部が論じられることはなかった。なお、『五洲紀事』では「革命」が使われていたが、ここでは「騒乱」や「動乱」である。まだ用語は確定していなかった。

3. 田中義廉『万国史略』甲府書林 明治8年(1875年)   

 師範学校の創建者として知られ、文部省の教科書編集に携わった洋学者田中義廉の書いた『万国史略』明治8年(1875年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)は、小学生用の準教科書である。文部省刊ではないが、文部省において西村茂樹のもとで働いていた田中の編のものであるから、教科書に準じた意味があったものと思われる。そして、日本と「支那」は別にするので、本書にはこれを含めないという方針で書かれている。

 本書も亜當(アダム)と厄襪(エブ)から始め、聖書的要素を残していたが、創世記は半頁で片付けていた。それでも『史略』や『万国史略』よりは聖書的であった。構成は以下のようであった。

巻の一 太古史

 亜西里亜(アッシリア)、馬太(メディ)、新亜西里亜、巴比羅尼亜(バビロニア)、猶太(シュダー)、勿搦齊亜(フェニシア)、亜剌比亜(アラビア)、波斯(ペルシア)、亜細亜土耳其、希臘(ギリシア)、羅馬(ローマ)、羅馬尼(ロマニイ)

巻の二 伊太利、仏蘭西、

巻の三 西班牙、葡萄牙、日爾曼(ゼルマン)、孛魯士、和蘭、比利時、瑞西

巻の四 英吉(イギリス)、嗹馬(デンマーク)・瑞典(スウェーデン)・那爾威(ノルウエイ)

巻の五 魯西亜、土耳其、米利堅聯邦

 見られるように、師範学校編『万国史略』と比べた場合、中国やインドは抜けているが、同じような各国史の並列になっている。これはパーレイから内容を取って編集したとされている。ヨーロッパは各国史的に詳しく論じられていた。その中でヨーロパの東部に関連して論じられているのは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドであったが、ここではルーマニアが出てきている。

 まずギリシアについてみると、『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、古代から始まる希臘の節の終わりにギリシアの独立が論じられている。内容は、独立までは従来と同じであるが、本書では、独立以後のギリシアの動きもが論じられている。1832年にバイエルンよりオットー(オソン)一世を迎えて「独立」したが、この王は「不徳」にして「人望」を失い、1860年(1862年の誤り)、「國人」はこれを廃してデンマークより王(ゲオルギオス一世)を迎えた。その後ギリシアは盛んになったという(『日本教科書体系』第18巻 171頁)。「國人」の目線から歴史が見られているということができる。

 つぎに、ルーマニアが登場する。羅馬の節の次に、羅馬尼(ロマニイ)が論じられていた。『五洲紀事』や『万国史略』にはない記述である。曰く、西と東の羅馬の滅亡のあとその「人民」が多悩(ダニューブ)河の辺に移ったが、土耳其の苛政に苦しんできた。それがようやく1860年ごろから「國人」力を合わせて「独立」を謀り、公国となり「羅馬尼(ロマニイ)」と称した。しかし、土耳其の覊軛を免れず、公位についた歴山の元でも6年間政令が整わず、内乱が起きて、このたびドイツから新たに公を迎えた。それが今の迦爾(カール)一世である(同上 179頁)。ルーマニア人がローマの末裔であるというのは、ストレートすぎる理解ではあるが、早くもこの時期にドナウ川の辺まで関心が届いていたことは特記すべきである。ここでも「國人」の目線から書かれている。

 三つ目にハンガリーを見よう。これも『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、日爾曼(ゼルマン)と土耳其の節で述べられていた。扱われているのは、ほぼ同じ内容で、①919年に王位に就いた「顕理」(ハインリッヒ一世)が英邁果断で「洪牙利」を打破ったこと、②教法改革(宗教改革)で日爾曼の南部が騒擾している時に、所利曼(スレイマン)二世の土耳其が大挙して洪牙利を蚕食し、墺太利に侵入し、1529年、維也納(ウイーン)を囲むに至ったこと、③17世紀末の墺太利の「略波爾」(レオポルト一世)帝の時、1683年に、土耳其が洪牙利人を誘い、墺太利を攻めてまた「維也納」を包囲したが、墺太利はザクセン、バイエルン、ポーランドの兵の助けを得て、これを退けたことなどである。

 しかし、『五洲紀事』や『万国史略』にあった、「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、土耳其の二回目の攻撃の際、「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じたということ、第二次包囲を退けたのち、オーストリアが「ハンガリー」を平定したことなどは、記されていなかった(同上 208,210,244,245頁)。なおハンガリーの記述では「國人」の目線は貫かれていない。

 最後に、ポーランドはどうか。墺太利と孛魯士と魯西亜のところで、三国で「波蘭ヲ滅ボシテ、其地ヲ三分セリ」と出て来る。しかし、ポーランド人の抵抗の事などは触れられることはなかった(同上 211,212,241頁)。ここでも「國人」の目線は貫かれていない。

 仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」について、『史略』や『万国史略』以上に記述は詳しくなり、とくにナポレオンと1848年に関しては、充実した記述となっているが、それとの関係で、ヨーロッパの東部(チェコやハンガリーやルーマニアなど)が論じられることはなかった。

 こうした違いや「國人」目線が散見されるという違いはあるとはいえ、基本的には『五洲紀事』や『万国史略』と同じようにパーレイを底本にした教科書であった。各国併記であり、視線も王朝荒廃や治乱興亡を主としていた。面白いことに、パーレイの本自体はまだ完訳が出ていなかった。それは次の時期になる。

(続く)

(「世界史の眼」No.27)

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文献紹介 向野正弘「酒井三郎の「世界史学」に基づく歴史教育構想―1950年代後半、『世界史の再建に先立つ見解』」『歴史教育史研究』第19号 歴史教育史研究会 2021年 23-37頁
南塚信吾

 本稿は、1950-60年代に世界史について独特の議論を展開した酒井三郎の「世界史学」の研究のための予備論文である。上越教育大学の茨木智志の主催する『歴史教育史研究』は世界史を含めた歴史教育について地道な研究を発表しており、本論文はそのようなものの一つである。

 本稿で扱われる酒井三郎は、1901年(明治34年)に高知県に生まれ、東北帝国大学で西洋史を専攻して卒業後、東京帝国大学の大学院で学んだ。修了後、日本大学、日本女子大学で教えたのち、高知の追手前高校の校長を務め、1951年に熊本大学教授となった。1968年に定年退職したのち、立正大学に76年まで務め、1982年に亡くなっている。この間、『国家の興亡と歴史家』(弘文堂書房、1943年)、『世界史の再建』(吉川弘文館、1958年)、『ジャン・ジャック・ルソーの史学史的研究』(山川出版社、1960年)、『日本西洋史学発達史』(吉川弘文館、1969年)、『啓蒙期の歴史学』(日本出版サービス、1981年)などを出している。

 向野正弘の論文は、

  1. 酒井三郎の「世界史」認識をめぐって
  2. 酒井三郎の歴史教育に対する覚悟
  3. 戦後の社会科「世界史」の回顧と現状認識
  4. 「世界史学」について
  5. 現在ならびに未来の取り扱い
  6. 「世界史学」から見た歴史教育構想
  7. 歴史教育の大綱試案
  8. 酒井三郎の隘路
  9. 現代の「世界史」教育への示唆

という構成を取っている。

 個々の節の内容は紹介する必要はないだろうが、この中で、とくに紹介しておきたいのは、「世界史学」という概念であろう。酒井は、「日本史に対立するところの外国史の同義語である世界史」、つまり「東洋史プラス西洋史すなわち世界史」という規定を排する。ではどうするか。向野によれば、酒井は、網羅主義の世界史にたいして、「世界史学」に基づく「世界史」を提起しているという。酒井の言葉によれば、「世界史学とは世界を対象とした歴史学」であり、「世界に住まう人間の社会生活の発展を対象とするもの」だという。「世界史学」は、「いわゆる日本史・東洋史・西洋史のたんなる綜合ではない。かつて行われた万国史ではない」。日本史・東洋史・西洋史の「それぞれの歴史の発展の共通な面をとりあげて、世界の共通の史的問題をとりあつかう」のである。だから、「日本史のある断面は、西洋史的問題としてじゅうぶんに意味をもつものであり、東洋史・西洋史においてもまた同様である。かくして日本史即世界史であり、東洋史・西洋史それぞれすなわち世界史でありうるといった世界史史学」を考えているという。だから、酒井は、日本世界史・西洋世界史といういい方もできるのだという。

 われわれが考える「日本の中の世界史・世界史の中の日本」という考え方に通じるのかもしれない。また何らかのテーマをもって地球上の諸国を「通地域・通国家的」に考えるという方向を考えていたのかもしれない。

 河野は、酒井の「世界史学」という概念は史学史のなかでなお確認しなければならないと注記しているが、概念は別としても、酒井が具体的にどういう歴史を考えていたのかは、興味のあるところである。酒井の『世界史の再建』においては、教育体制と教科書を材料にもう少し具体化されているようだが、向野がどのような理解をしめすのか、是非とも知りたいところである。

(「世界史の眼」No.27)

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書評 益田肇『人びとのなかの冷戦世界―想像が現実となるとき』岩波書店、2021年。
佐々木一惠

 冷戦とは何だったのか?本書のこの問いは、今、新たな意味合いを持って問い直されている。2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。不安、戸惑い、怒り、さまざまな感情が人びとの間で沸き起こっている。本書は、こうした市井の人びとの感情が、冷戦という大きな歴史的な「現実」の構築に重要な役割を果たしていたことを明るみにする。

 本書の焦点は朝鮮戦争期である。1950年6月25日、北朝鮮が北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。朝鮮戦争勃発のニュースは瞬く間に世界各地を駆け巡り、人びとの間に第三次世界大戦への不安と恐怖を巻き起こした。しかし著者の益田氏によると、第三次世界大戦の危機に対する反応は一様ではなかったという。例えば北朝鮮の軍隊が南進してきていたソウルでは、多くの住民はソウルに留まる選択をした。その背景には「同族だから何もしないだろう」という思いがあったという(67頁)。同じ頃、ニューヨークなどアメリカの大都市では、主婦たちが新たな世界大戦の勃発とそれに伴う物資の欠乏を心配し、生活必需品の買い出しに走っていた(70頁)。また中国では「国民党が広東と大連に上陸したらしい」などのデマが飛び交い(72頁)、日本では再軍備論が突如頭をもたげていた(77頁)。

 このように朝鮮戦争勃発が各地で創り出した「リアリティ」には地域差があった。本書はこの地域差に着目する。益田氏によれば、第三次世界大戦に関する言説が爆発的に広がったのは主に東アジア、ヨーロッパ、そして米国などの地域であったという(79頁)。これらの地域に共通していたのは、第二次世界大戦という強烈な体験、その記憶に基づく恐怖、また戦争経験が作り出した国民的記憶の存在であった。この第二次世界大戦の経験や記憶が、朝鮮戦争を第三次世界大戦の前哨戦と捉える見方を作り出し、さらにそれが個々の地域の文脈の中で冷戦という「現実」に真実味を与えていったと益田氏はいう。そこから本書は、膨大な史料の裏付けのもと、中国、米国、日本、イギリス、台湾、フィリピンを事例に、冷戦という「現実」が実際にはローカルな立場から見た世界情勢の理解であったこと、言い換えるならば、「地域特有のレンズ」(90頁)を通じた世界情勢の「翻訳」であったことを丹念に示していく。

 益田氏によれば、冷戦という「現実」を現実たらしめた装置の一つが「印象をめぐるポリティクス」であったという(第4章)。この「印象をめぐるポリティクス」においては、「安全保障」や「国防」といった概念の中に、人びとが「脅威」に対して抱く印象を管理することも含まれていた(156頁)。例をあげるならば、朝鮮戦争に参戦した中国には、38度線で停止し戦争を早期に終結させる選択肢があった。しかし中国は38度線南進という強行路線を選択した。その背景には、中国国内における革命的情熱の衰退への懸念(157頁)、そして国内外の人びとの心に中国が与える象徴的な意味合い、すなわち共産中国の大勝利と「美帝」(アメリカ帝国主義)の敗退(159頁)、という印象形成の目論みがあったという。

 さらに益田氏はこの「印象をめぐるポリティクス」が、普通の人びとにどう受け止められ、また冷戦の各種のプロパガンダや動員計画に普通の人びとがどう関わったのかを検証していく(第5-6章)。例えば、ソ連が提唱する真実(プロパガンダ)に対する巻き返しとして展開された米国の「真実キャンペーン」の活動には、多くのアメリカ人が参加した。その効果は、カリフォルニア州のある精神科医が、突如として「アメリカが警察国家になってしまった」と嘆くほどであった(191頁)。また中国では、日本の再軍備という新たな現実を受け、「抗美(米)援朝」運動が抗日戦争の記憶と結びつく形で展開されていった。この運動に参加したある中学生は、祖国に対する見方が変わり、「祖国がなければ何もない」という思いに駆られるようになったという(211頁)。このように米国においても中国においても、普通の人々は各種のプロパガンダや動員計画への参加を強要されたのではなく、むしろ国家の利益を守るという名目で自らを動員していた。そこには、社会に存在する隠れた願望、すなわち、一体感への切望や協調心の高揚というべきものが存在していたと益田氏は指摘する(212頁)。さらに益田氏は、これらの動員プログラムの主要な作用は、人びとの間に合意を形成することではなく、社会のどこに「敵」がいるのか、誰が「敵」なのかを明らかにすることにあったとする(191頁)。

 そこから益田氏は、個別具体的なローカルな局面において、誰が「敵」として粛清されていったのかを丹念に炙り出していく(7-10章)。米国のマッカーシズムでは、労働組合員、公共住宅計画や国民健康保険制度の推進者、アフリカ系アメリカ人の公民権運動家、フェミニスト、移民、ゲイやレズビアンらが、「非アメリカ的」分子として糾弾されていった(244頁)。イギリスや日本では労働組合員が粛清の主な標的になった。また中国の「鎮圧反革命」運動では、山賊、泥棒、地元のごろつきたちまでもが「反革命分子」として摘発されていった(287頁)。さらに台湾では「反共抗俄(共産主義に反対し、ロシアに抵抗する)」運動の旗印のもと、国民党政府への異論や不満が抑圧され(303頁)、フィリピンでは土地改革と社会正義の実現を掲げたフクバラハップ団が「非フィリピン」活動を行なったとして粛清された(311頁)。ここから見えてくるのは、朝鮮戦争期に各地で巻き起こった国内粛清は、必ずしも特定のイデオロギー(共産主義・資本主義)や政治体制(民主体制・独裁体制)に特徴づけられたものではなかったということである(315頁)。

 ではなぜ国内粛清現象が世界中でほぼ同時に発生したのか。また、この世界同時多発的な現象は何を意味していたのか。益田氏はそれを次のように説明する。まず同時多発的な国内粛清現象については、先に述べたように、朝鮮戦争の勃発により人々の間に呼び起こされた第二次世界大戦の記憶が、各地で第三次世界大戦の恐怖を引き起こしたことによって生じたという。そしてこの第三次世界大戦の危機は戦時ムードを作り出し、国内粛清を安全保障と治安維持の名のもとで正当化していった。さらに益田氏は、国内粛清が普通の人びとから支持を得た背景に、「政治」の本質の変化があったとする。それは、総力戦経験を経た社会においては、もはや国民の願望や心情を考慮することなしに政治を執り行うことがほぼ不可能な状況になっていたということである(162頁)。こうして国内粛清は社会的承認と支持によって遂行されていった。

 それではなぜ冷戦言説を盾とする「敵」の国内粛清が、各地で社会的承認や支持を得ることができたのだろうか。益田氏によると、そこには混沌とした戦後状況を「安定化」させたい、あるいは「秩序」だった(もっと慣れ親しんだ)「普通」の生活様式に戻りたい、という大衆的な「草の根保守的」な夢や希望が存在していたという(256頁)。この「草の根保守的」な願望こそが、戦後新たに台頭してきた新興勢力(土地改革者、労働組合員、仕事を持つ女性、アフリカ系アメリカ人など)を社会的に抑圧し沈黙させる運動の原動力になっていたという。ここから益田氏は、グローバル冷戦という「現実」は各国の首都中枢部に構える権力者だけでなく、社会における秩序維持と調和形成に意識的また無意識的に関与していた世界各地の無数の普通の人びとも、その参加者の列に含まれていたと結論づける(317頁)。  

 これまで見てきたように、本書は社会史、外交史、政治史を融合させながら、さらにローカル・ヒストリーとグローバル・ヒストリーの双方の見地から、既存の冷戦の歴史像に揺さぶりをかける優れた歴史研究書である。周到かつアクロバティックな著者の論の運びは読む者を圧倒する。本書の評価については、著者自身が巻末の解題において詳細に論じているが、この解題で指摘されていない点に最後に触れておきたい。本書は大衆感情や社会的通念、噂、またそれにまつわる不安や恐怖を、冷戦によって生み出された派生物ではなく、冷戦の「現実」を生み出した要因として捉えている(5頁)。そこから、市井の人びとを、冷戦論理の実践における受身的な存在というよりは、むしろその主体と見立て、彼・彼女らの「囁き、噂、心情」(12頁)を丹念に拾い上げ検証している。こうした点で本書は、昨今歴史学において注目されている感情の歴史学や、個人の主観性に着目するエゴ・ドキュメント(手紙・日記・回想録など一人称で書かれた史料)の歴史学にも大きな貢献をしている。よってこれは多分に無い物ねだりの指摘となるが、もし本書が感情史のパースペクティブ(「感情体制」や「感情の共同体」など)を意識的に取り込み論考を進めていたなら、グラムシのヘゲモニー概念(暴力的な強制ではなく服従する側の同意を取りつけることによる支配)を鋳直し、民衆の主体性の重層性・複層性・両義性をより深く照射したかもしれない。そこでは恐らく、ジュディス・バトラー(フェミニズム理論・セクシュアリティ研究)が言うところの具体化=身体化された複数的な行為遂行性(パフォーマティヴィティ)などの視点が重要な意味を持つことになるだろう。  

 いずれにしても、本書は冷戦に関するこれまでの見識を塗り替える画期的な研究であることは間違いない。そして、現在、ウクライナで進行している事態に際し、冷戦という「現実」が改めて問い直されるなか、本書の最後に書かれていた「私たち自身も(中略)日常レベルにおける、いわば権力者なのだから」(327頁)という言葉は、私たち一人一人に対する重い問いかけとなっている。

(「世界史の眼」No.26)

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1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(下)
稲野強

(6)日本の出品物の評価

 ウィーン万博で評価された日本の出品物のうち、今に至るまで日本で大きな話題となっているひとつは、本稿で扱う官営富岡製糸場で製造された生糸であった。

 万博で展示された製品のうち、生糸の評判について『墺国博覧会見聞録』は、「生糸は諸国の出品にこれあり、ことに伊太利のもの最もよしといふ、当時の相場は、ほぼ百目に付、七円ばかりなり、我国の生糸も其性質は良からぬにもあらねども、製法よろしからぬ故に其売価は大に下れり、伊太利はいづれも蚕を飼ひ、糸を作る学校をたて、その理合より教ゆる故に年月を経るにしたがひ、次第に精巧になりゆくなり、…」と述べ、日本製生糸にかなり厳しい評価を下し、生糸先進国イタリアの製糸業から多くを学ぶべきことを提案している。

 それでは件の富岡製糸場産の生糸についてはどうだろうか。

 そもそも富岡製糸場は、明治政府の肝いりで創設された機械制工場(器械製糸場)であり、ヨーロッパの機械を導入し、指導者に外国人を招いて出発した。その目的は、産業の近代化を前提として、①各地から募集した工女による新技術の習得②外貨獲得を目指し、良質の生糸を大量生産すること③工女を修業後に地元に戻し、指導者として新技術を伝播させること、④さらに各地に富岡製糸場を模した器械製糸場の設立を促すことであった。このように富岡製糸場は、「伝習」を重視したから「模範工場」「伝習工場」「指南工場」と呼ばれた。

 富岡製糸場の生糸は、官営工場で作られた器械製品の代表として、これまで日本製に対して欧米で貼られた粗製乱造等のレッテルを払拭するためにも、万博で評価がとりわけ重要視されたのである。創業間もない当時まだ日本では珍しい官営工場の製品が万博に出品されるということで、製糸場の力の入れようは想像に難くない。すでに熟練の域に達している工女22人から18人が選ばれて、製造の任にあたった。工場の操業開始が明治5年10月4日で、万博に合わせて日本を出るのが翌1873(明治6)年1月30日であるから、機会をフルに稼働させてもその間わずか3か月余りしかなかったことになる。このような短期間で、どれほど高水準の生糸が当時生産されたのか疑問の余地もあるが、いずれにせよ器械力というよりも、工女の熟練度がものを言ったのは確かであろう。

 さて、ウィーン万博開始後1か月半経った6月16日に万博事務局は、出品物の審査を行い、優秀な作品には「賞」を出した。賞の出し方はパリ万博に倣っていたが、一体どのような手続きで審査が行われたのだろうか。

 その経緯を詳細に語っている日本側の資料は、『墺国博覧会報告書』である。

 それによると、審査を受ける意志のある場合、企業・個人を問わず4月30日までに26項目にわたる詳細なアンケートに回答することが求められた。出品物の審査官は、各国の出品者数に応じて選出された。例えば、オーストリア・ハンガリー二重帝国のうち、オーストリアでは出品者が、7058人、ハンガリーでは3384人で、合計1万442人であったから、審査員は12人というわけだった。出品者の総数は、4万8906人、審査官は300(一説には956)人、出品数は訳7万点だったという。日本の場合は、出品者が個人ではなく、政府だったから、この原則は当てはまらず、審査官は4人と決定された。各グループには審査長1人、副審査長2人が選出された。

 審査官は6月16日に第1回目の会合を開き、8月半ばまで2か月間にわたり出品物を審査し、8月18日にウィーン旧市街の王宮脇にあるスペイン乗馬学校でフランツ・ヨーゼフ1世臨席の下で授賞式が行われた。そこで今、賞の種類、性格などについて『墺国博覧会筆記』の記録に従って見てみよう。

(a)褒賞について

 褒賞は7種類あった。まず「第一等」は「名誉賞(Ehrendiplom)」で、「第二等」は、「進歩(Fortschritt)」「功労(Verdienst)」「雅致(Guter Geschmack)」「妙技(Kunst)」「補助(Mitarbeiter)」賞の5種類で、「第二等」には表にそれぞれの文字(独語)とギリシア・ローマの女神をあしらった図柄を刻み、裏にフランツ・ヨーゼフ1世の肖像を刻んだ銅製メダルが与えられた。「第二等」に該当するのは次のような出品物である。すなわち第1から第24グループおよび第26グループまでのうち、①過去に行われた万博以後の製作面で一層の改良が加えられたもの、または製造方法を改革した、あるいは今まで使われていなかった原料を用いたものなどには「進歩」賞(「進歩牌」)が、②作品が勝れている、優れた材料を使用している、製造物が広く流布している、優れた機械を使用している、値段が非常に安いものなどには「功労」賞が、③形・色が優れ、洗練されたものには「雅致」賞が、④第26グループの優秀作には「妙技」賞が与えられた。さらにまた⑤図画・模型の製作に従事したり、出品者を助けた者には「補助」賞がそれぞれ与えられることになった。

 ところで富岡製糸場の生糸に与えられたのが「第二等」の進歩賞であると、当時から今日まで言われてきた。日本におけるウィーン万博の根本史料の『参同紀要』も『報告書』も『筆記』もすべて、「第一等」「第二等」「第三等」と等級を区別している。だが、実は万博では、そうした等級の区別はしていない(独語の『公式報告書』参照)。等級区分は賞に関して翻訳をした当時の日本人が、賞の性格を多分理解しやすくするために付け加えたためである。  

 さて、ここで検証すべきは、「第二等」の進歩賞がどのように決定されたかである。それを判断するには審査官の講評こそ重要と思われるので、富岡製糸場の生糸を含む「第5グループ、繊維・衣料」における日本製品に関する彼らの見解を見てみよう。

(b)講評について

(あ)「博覧会第五区第四類審査官長『ハイメンダーヘ』」氏による

 彼は、個々の出品物に関する講評に先立ち、日本の生糸とヨーロッパ市場との関係について述べる。すなわち、

 日本の生糸は、不況のヨーロッパ市場で評価も高まったこともあったが、生糸の売れ行きに溺れ、製造法や品質改良を怠った上に、蚕種紙の輸出増大に目を奪われて、生糸の粗製乱造を行い、評価を下げた。その間ヨーロッパの生糸の生産力が回復したために日本の生糸の購買力は低下し輸出も急激に落ち込んだ、と、日本の生糸業のありかたに厳しい見解を示し、日本各地の製糸業について講評する。その中には「前橋、奥州、掛田、飯田、甲州、増田、越前」産生糸などがあり、いずれも詳細に吟味され、ことごとく辛い評価を受ける。

 問題を克服する方法として、彼は、

「・・・製方精しく且最も適する糸は其価も亦貴き理なれば今日本にて第一行ふべき大変革は欧州の製糸方を採用するにあり然るときは日本にて其効験の明著するや亜細亜の他国に過る必せり」と、ヨーロッパ式技術の導入による製法の改革の必要性を説いている。そしてそうした技術導入による近代化の成功例として富岡製糸場を挙げるのである。

「其証は富岡製糸所にてブリユナ氏の始めて日本生糸を以て為したる試験を見て知るべし之を見るに既に日本の糸は『セパンス』『西班牙』或は『ブルース』の最上品と位価を争ふのみならず此国にて用ふる製方を採用せば却て之に優るべしと思はる。・・・」

 ここでやや明らかになってきたのは、西欧の器械技術を導入した富岡製糸場に対する強い期待が「ハイメンダーヘ」の側にもあって、それが逆に「前橋」などに対する厳しい評価となって表れたと推測できる点である。

 図式化を恐れずに言えば、前橋製糸所は、速水堅曹が指導して生産力を挙げたが、設立当初は「民間」(元来前橋藩立、1873年1月より「小野組」の委託経営)の日本初の器械製糸場で、「イタリア式」と呼ばれる製法を用いていた。対照的に富岡製糸場は日本で初めての「官立」の大規模な器械製糸所で、フランス人ポール・ブリューナの指導による「フランス式」と呼ばれる製法を用いていた。そこで講評における優劣の評価の違いに、いわゆる企業間対立があったと考えることもできる。

 その背景には当時の日本政府が「官」による「上からの改革」路線を強力に推し進め、殖産興業政策を実効性のあるものにして行くには、海外における官営富岡製糸場の高い評価こそ、国内向けにも必要だった、という事情があった。

 その点を裏付けるように、『報告書』には富岡製糸場の審査に副総裁佐野の強い意志が反映されていると推測できる記述がある。佐野は、帰国後政府に提出した『墺国博覧会報告書』中の「蚕養部」の総論で、日本の生糸がヨーロッパ市場で信用を失った点を指摘し、国内における富岡製糸場の優秀性を力説しているからである。

「…固より人民の無知不学遠識なく眼前の小利を貪るの罪によると雖も亦政府之を制するの処置未だ其宜しきを盡さざる所あるに由らずんばあらず我政府近来大に養蚕製糸の制規を定め又仏人を雇ふて富岡に大製糸場を創し以人を雇ふて勧工寮内にも一所設けたり両所の製糸未だ欧産の良者に下ると雖も既に内国諸糸に比すれば最美にして維府博覧会の際頗る外邦人の賞鋻〔けん〕を受たり…」

さらにまた彼は、万博における各国の製品と比較してみた結果、日本製品に国際競争力をつけるために、当時の日本の産業の水準では「官」の強い指導の必要性を痛感していた。

「…平民の手に在りて製法却退すると宜く早く之を官有に復し今臣か論する所改良の行を行ひ上に記する十県の製糸場をして速に之に倣はし其他各地製糸場の表準たらしむべし・・・」

 したがって、佐野にとって「官」の指導力と実行力、権威を示し、上述の構想を実施するためにも、富岡製糸場と勧工寮の優秀性はぜひとも「産業の世界的権威である」この万博で証明してもらう必要があったわけである。

(い)「バビエール」氏の鑑定書。

 万博の「第五区第四類の審査官『エルネスト・バビュー』」は、元来中国の出品物を鑑定する役であったが、佐野が日本の出品物も審査してほしいと熱心に依頼したために、それに応じた、と述べている(佐野をはじめとする日本人関係者の審査官に対する「根回し」の努力は、「万博をめぐる人物交流史」のテーマになるだろう)。

 その「バビエール」氏の講評は、どのような基準で授賞が決定されたか、を理解する上で興味深い。

「近来日本の生糸品位次第に下りたれば能く弊害を明示し日本人をして此に注目せしめんとするに在り故に品位の下り方少なき生糸に褒賞を付与して以て訓誠とせり」

 こうしたさほど高くない評価にもかかわらず、授賞したのが宮城県の「銘金花山」だった。それは、福島県の「銘掛田」他に比べて品質の低下が酷くない、との理由であり、そこには今後努力して往時の価値を取り戻すようにという奨励の意味も込められていた。それに対して富岡製糸工場と勧工寮の表彰理由は次の通りである。

「此二製作場は日本製糸法を改正する為大緊要にして何れも同一の目的を以て並び立つ者なれば今暫く其出品の優劣を論ぜずして之に同賞を与へんことを決し欧州製糸方を学ぶ道を進むを感するの意を表せんか為進歩の賞牌を与えへたり」

 以上のことから理解される賞の規準は一定していず、ある場合には、過去の価値が評価され、ある場合には、将来性を期待されたことによっていた。それは富岡製糸場の場合にもあてはまる。すなわち賞の対象になったのは、厳密に言えば、生糸の品質ではなく、ヨーロッパ式製法を導入し、日本の製糸業の近代化に果たしている富岡製糸場の努力であったということである。しかも「バビエール」氏の講評からは、生糸の優劣の比較は日本産の間で行われているのであって、国際的な基準に照らして評価されたのではないと判断できる。

 これまで取り上げた万博の審査員の講評から、進歩賞は「過去に行われた万博以後の製作面で一層の改良が加えられたもの、または製造方法を改革した、あるいは今まで使われていなかった原料を用いたものなど」の理由であり、製造された生糸にではなく、富岡製糸場自体に与えられたことが、改めて確認されるだろう。

(c)「進歩」賞の価値について

 ちなみに、進歩賞は授賞全体の中でどれほどの価値があったのだろうか。それを示す数字によって判断してみよう。

 万博全体で名誉証は、442(内、日本は12、以下同じ)件、メダルは全体で1万5116(123)件で、そのうち進歩賞は、3024(35)件、功労賞は、8800(77)件、雅致賞は、326(1)件、妙技賞は、978(0)件、補助賞は、1988(10)件であり、「表状(Anerkennungsdiplom「表彰資格認定証」)」は1万465件と、総計2万6003(217)件、と膨大な数の賞が出品者に配られたことになる。ちなみに日本に授与された賞は、全体の0.83%で、国別の賞の数でいうと、18位で、進歩賞は全体の1.15%であった。日本が受賞した35件の進歩賞のうち、第5グループでは、富岡製糸場、勧工寮、絹織物の伊達弥助(京都)ら9件であった。

 こうした大量の賞の数から、ユッタ・ペムゼルはやや皮肉を込めてこう言う。

「メダルは非常に気前よく与えられたので、出品者の経済的・財政的損失を少なくとも一部分埋め合わせることになった」と。

 このように見てくると、「トミオカ・シルク」が万博で注目され、好評を博したという点をそのまま事実とするのは、やや無理があるように思われる。審査の講評の点からも、日本で当時あるいはその後喧伝されたほど富岡製糸場製の生糸は高水準ではなかったようだ。もちろんだからといって、万博に参加し、賞を獲得したことに意味がなかったというのではない。操業前の富岡製糸場に対して建設妨害や風評が絶えなかった中で、万博での授賞が、政府主導型産業を奨励する関係者や現場で働く工女たちに自信と名誉を与えたことは想像に難くないからである。幸田露伴が『渋沢栄一伝』(1939)でいみじくも語っているように、操業は「官業といふことの行わるゝ殆ど最初であった。然し是の如き新しい事は、首尾よく功を挙ぐるば可し、若し不成功に終れば、徒に民業を擾り、管財を費やして、公の威を損じ世の笑となるに過ぎぬ」といった不安と不信の世相を背景に出発していたからである。

(7)宣伝効果

 万博で得た「トミオ・カシルク」の評判の大きさに関して、それを日本国内に広めるのに一役買ったと思われる興味深い新聞記事があるので、その経緯と共に紹介しておこう。

 まず、『東京日日新聞』(1873年6月23日付)は、こう言う。

「伊太利国在留租税寮七等出仕渋沢君よりの来翰に、上州富岡製糸場にて、出来の生糸御廻し相成、不取敢当所其筋の者へ一見致させ、各所糸品試験の器械にて品位を調査せしに、彼国最上の生糸と同位にて、更に甲乙これ無し。彼国人も大ひに感心せし趣なり、流石に名誉の産物、殊には当節盛に勧業遊ばされければ、製糸人も勉励熟達して、終に世界第一の名品と称せられん事は期して待つべきなり。」

 次に『東京日日新聞』(1873年9月18日付)はこう言う。

「上州富岡製糸場に於て製する生糸の精良なる、能人の知る処成。既に本年墺国博覧会へ御差送り成て、列品中に陳列せられしを、墺国人這は斯未曽有品なりと、屢賞賛なしたりと、同国博覧会掛りより、横浜エクトリ、ヤンタル社へ、報告ありしとなり。依て按ふに、我四百五号に同所の生糸を伊太利国にへ送られしを、伊太利人試験ありて、同国最上の生糸と同位なりと賞せし由を掲載せしが、夫を思ひ是を見るに、富岡の製糸の世に卓越なる、実に按ふべきなり」。

 前者の記事は、生糸の本場イタリアの試験場で、器械によって検査したところイタリア産の最高品質と同等の評価を受けたというもの、後者の記事は、万博でオーストリア人が絶賛したとのことで、いずれも「トミオカ・シルク」がすでに当時ヨーロッパ人から好評を博した旨が記されている。それでは、これまで見てきた審査官の講評や実際の賞の価値と、これらの新聞記事の評価のズレは、一体どこから来ているのだろうか。どうやら、これらの記事は、ヨーロッパの、しかもイタリアという製糸業先進国の検査結果と万博という2つの権威によって「トミオカ・シルク」の名声を日本国内向けにアピールしたものだということが分かる。しかも前者の記事のニュース源が「渋沢君の来翰」であることに注目したい。

 ここで言う「渋沢君」とは、渋沢栄一の2歳年上の従兄で、1872年に「大蔵省七等出仕」に任官した渋沢喜作のことである。彼は万博当時には「日本の養蚕製糸、及び殖産興業を海外のそれと比較する」ためにイタリアに滞在していた。渋沢栄一は、1869年に大蔵省に入り、周知の通り、財務官僚として富岡製糸場の設立の立案から民間払い下げに到るまで最も深く関わっていた人物だ。一方の喜作は、過激な尊王攘夷派で、戊辰戦争では榎本武揚らと行動を共にし、新政府軍と戦い、函館で敗れたのちに獄にあったが、大赦を得て出獄し、栄一に身柄を引き取られた。失意のうちにあった喜作を大蔵省に推薦したのは栄一であり、喜作のイタリア、フランス視察の件でも栄一の尽力によるところが大きかっただろう。栄一は、喜作との関係を「一身分体」と表現しているが、喜作は終生栄一の片腕として行動した。したがって、この記事は、「官」にある喜作が、「一心同体」の栄一が深く関与している富岡製糸場の発展を宿望した事情を反映していると解釈できる。

 結局は、政府が莫大な資金を投入して設立した「官立」の、しかも操業間もなく、必要な工女の確保も思うに任せなかった未知数の多い富岡製糸場にかける政府の期待と不安が共に大きかったからこそ、日本国内向けに大きく宣伝をすることがぜひ必要だったのだろう。

 したがって、ウィーン万博は富岡製糸場の名を日本全国に、もちろんできれば貿易先の欧米にも広めるための格好の機会となったのである。その点から見れば、これは、ヨーロッパで開催された万博という権威と新聞という有用な宣伝媒体を最大限に利用して、万博のコマーシャル的要素を十分活用した戦略の一例と見なせるだろう。

(8)おわりに

 以上見てきたように、ウィーン万博における富岡製糸場の生糸の評価に関する日本の期待は、不安を抱えていた分だけ、いかに大きいものだったかが理解される。

 富岡製糸場設立の背景には、生糸の大量輸出国である中国国内の幾多の争乱による不振やヨーロッパ諸国内の蚕の伝染病の大量発生などにより、日本の蚕糸類が注目されたことがあった。だが、日本の蚕糸業は、当時輸出品の第一位にありながら、それに甘んじて生糸の粗製乱造等を繰り返したことにより欧米における評価を著しく下げ、その間隙に乗じて外国資本が導入される恐れもあったりした。そのために政府主導の改革を促進することが急務となったのである。そこで登場したのが官営富岡製糸場で、それは、政府の掲げる「殖産興業(官営模範事業)」のスローガンを体現したものであった。富岡製糸場は、フランス人技師を所長に迎え、フランス式技術を導入して短期間でウィーン万博に「トミオカ・シルク」を出品したのである。

 日本は、万博で西洋の高度な工業技術を目の当たりにし、それを貪欲に学ぶ姿勢を貫いた。そして同時に太政官布告や佐野が指摘するように、万博では日本製出品物の優秀な点を高く評価してもらい、貿易の実を上げることを重要な使命としたのである。 

 こうして富岡製糸場製生糸は、日本の近代産業の水準を見極める試金石として万博に送り込まれたが、実際は必ずしも期待していた評価を得たわけでもなかった。だが、それでも結果的に「第二等」進歩賞を得たおかげで、その賞は模範工場という「官」による「上からの改革」の輝かしい成果として日本国内では迎えられ、その栄誉は十分称えられたのである。

 富岡製糸場が得た進歩賞の内実は今日までほぼ不問に付せられていたが、ともかく近代産業社会における後進国日本にとって、万博の権威を最大限生かして宣伝効果を上げたことには成功したと言えよう。その意味でウィーン万博は、世論を誘導するために必要な宣伝とそれを支える権威が資本主義的・自由競争社会にとって必須の要素であることを、早くも明治初年のこの時期にあって如実に示したことになる。

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇渋沢栄一講述『青淵修養百話』坤、同文館、1915

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇今井幹夫『富岡製糸場の歴史と文化』みやま文庫、2006

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg. durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.26)

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アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン(1)
2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察
藤田進

 2021年7月、バイデン米大統領は「我々は国家を建設するためにアフガニスタンに行ったのではない。自分たちの未来と国の運営方法を決めるのは、アフガン人だけの権利であり責任だ」[1]として、米軍を秋までにアフガニスタンから完全撤退させることを表明した。

 2001年タリバーン政権崩壊後米軍が「タリバーン掃討戦争」を開始した中で02年12月、アメリカが信任するカルダイ・アフガニスタン政府はトルクメニスタン・パキスタン両国と、中央アジアのトルクメニスタン天然ガスを輸送するためのアフガニスタン・パキスタンを経由しインドに至るパイプライン(TAPI Pipeline)を建設することで合意し、TAPI建設計画は05年アメリカが参加を表明したことで具体的に動き出した。米軍は06年頃から「くすぶる反米感情を土台に攻勢を強めはじめたタリバーン」[2]に苦戦を強いられ、タリバーンが支配するアフガニスタン南部がパイプライン通過予定地域のため、このときパイプライン建設計画も行き詰った。09年米兵3万人が増派されたがタリバーン反攻阻止につながらず、巨額の戦費拡大と米国厭戦世論の高まりのなかで11年6月オバマ米大統領は米軍撤退戦略発表を余儀なくされた。タリバーンの反攻が高まっていく中で10年6月、カルザイ・アフガニスタン政府はタリバ―ンとの和解路線を模索し始める一方、同年12月のTAPI国際建設計画協定調印を受けてアフガニスタン政府議会も12年5月同協定を承認し、15年からトルクメニスタンで開始されたTAPIパイプライン建設工事は18年2月からアフガニスタンでもスタートした。タリバーン侵攻とパイプライン建設計画が進展する中で、アメリカは2020年11月から翌21年5月にかけてドイツの仲介でタリバーンとの3度にわたる和平交渉に臨み[3]、その結果冒頭のバイデン表明に至った。

 タリバーンに対する事実上の“敗北宣言”である米軍完全撤退表明によって、20年間にわたりアメリカ主導の「アフガニスタン民主化」のもとで築かれてきたアフガニスタン政府と政府軍はにわかに崩壊の危機に直面した。8月15日、米軍が首都カブールから撤退するなかでタリバーン武装勢力が登場するや、「アフガニスタン民主化」の恩恵を受けてきたカブール住民に「タリバーンの恐怖政治」の悪夢がよみがえり、「タリバーンの支配するアフガニスタン」では人権が守られない、女性は解放されない、世界的な「テロ活動」の温床になる等々の言説が渦巻くなかで多くの人々が国外脱出へと駆り立てられ、アフガニスタンは大混乱となった。

 タリバーンがアフガニスタン政権の座につく直前に、スポークスマンのスヘイル・シャヒーンが「アフガニスタン国家権力掌握後のタリバーンにとってTAPIパイプライン建設計画を支援することは重要取り組み事項の一環である」と発言し、この発言はタリバーン政権再登場によるパイプライン建設計画の挫折を危惧してきた計画関係者を安堵させた。タリバーン新政権は諸外国経済使節団と頻繁に交渉していることが報道されており、「女性と民主主義の仇敵」と非難されてきたかつてのタリバーンとの違いが注目された。

 バイデン米大統領は米軍撤退が完了すると、タリバーン政権に対して「民主化」を要求しそれが実現するまでアフガニスタンを経済封鎖すると決定し、アメリカの経済封鎖宣言によって諸外国の支援金やNGOの寄付金・食料・医薬品支援などすべてのアフガニスタン流入が停止した。「民主化」の内容はアメリカが決めることであり、外国占領体制を打破すべくイスラム統治方式を打ち出すタリバーンにとり「民主化」実現は容易なことではない。経済封鎖が長引くにつれてアフガニスタン国民の生活のひっ迫、食料欠乏状態は悪化の一途をたどり、さらに悪いことに、人々には長期にわたる米軍攻撃や大旱魃による打撃が重くのしかかっている。経済封鎖開始から5か月の2022年初頭の極寒のアフガニスタンでは、国民全体が餓死・凍死の危険にさらされた。

 イスラム諸国政府、国連、全世界の市民からの経済封鎖非難と封鎖解除要求の圧力が強まるなかで2022年2月11日、バイデン米大統領はアメリカ国内で凍結されているアフガニスタン中央銀行の準備金70億ドルの半分の35億ドルだけをアフガニスタンにおける人道支援に使うことを許可したが、その一方で残りの35億ドルの取り扱いについて、アメリカ政府が理不尽な理屈を持ち出したことが次のように伝えられている。「2001年の米同時多発テロの遺族らがタリバーンに対する訴えを米連邦裁判所に起こし、凍結資産からの補償金支払いを求めている。この訴訟での判断に備え、残りの35億ドルの扱いは保留されるという。米政府高官は『(凍結されている)準備金は、基本的には過去20年間で米国やほかの援助国が与えた収益のようなものだ』として、人道支援に充てるのは正当性があると説明した。」[4]

 アメリカが20年をかけてもアフガニスタンで実現できなかった「民主化」要求をタリバーンに、実現できない限り経済封鎖を続けるという条件で突きつけ、さらに経済封鎖で戦争の犠牲になった住民を痛めつけた。また米軍アフガニスタン侵攻によってアフガニスタン住民の生命・生活圏を犠牲にした責任は一切問わないばかりか、アメリカの多発テロの遺族にあてるために凍結しているアフガニスタンの資産を流用した。バイデン米政権のそれらの対応は、アメリカが軍事介入失敗後に非軍事的な方法であらたにアフガニスタン介入へ踏み出していることを示唆している。

[1] 「朝日新聞」2021年8月11日

[2] 「朝日新聞」2021年7月14日

[3] 同上

[4] 2022年2月13日「朝日新聞」ワシントン=高野遼

(「世界史の眼」No.25)

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1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)
稲野強

(1)はじめに

 NHK総合テレビで放映された昨年(2021年)の大河ドラマは、渋沢栄一の生涯を扱った「青天を衝け」だった。物語の後半で、吉沢亮演ずる渋沢が、上州(現、群馬県)富岡製糸場の生糸がウィーン万国博覧会で第2等の進歩賞を獲得したことを報じる新聞記事を居合わせた人々に大声で披露する場面があった。渋沢自身が設立に深く関与していた官営富岡製糸場の生糸が国際的な評価を受けたということだから、彼の喜びは、ひとしおだったろう。それどころか、この授賞の快挙は、それからほぼ140年後の2014年6月に富岡製糸場が「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録される際に、その選考で一役買ったと類推できるほど、現代の人々の記憶に深く刻まれている。

 ところで、この賞の価値をめぐっては、日本の研究者には、第2等賞では世界に通用しない、という否定的なものもあるが、大半は、富岡製糸場の生糸が初めて世界に認識され重要視される端緒になった、あるいは「トミオカ・シルク」の名をヨーロッパ市場に轟かせた、という肯定的なものだ。ただし、賛否両論いずれの場合でも、なぜか当時の世界的水準に照らしての賞の位置づけや賞の出し方、その性格付などに関してはこれまで不問に付されていた。つまり賞の価値が、どれほど実態に即したものかは、問われないまま「トミオカ・シルク」の優秀さが動かしがたい事実として独り歩きしたとも言える。

 では、そもそも賞を価値あるものとしたのは何かと言えば、それは何よりも万博のもつ権威である。現代でも数あるコンテストの価値が、主催者の権威に負うているのと同じである。そしてさらに万博での高い評価は宣伝行為によって、国内外で広められた。富岡製糸場の場合も例外ではない。ことに明治維新後間もない時期に莫大な費用をかけて政府が設立した官営富岡製糸場の成功譚は、やはり莫大な費用を使って参加したウィーン万博の権威によって支えられたからだった。

 そこで本稿は、ウィーン万博での賞の価値や出し方を、権威と宣伝をキーワードに解き明かすことを試みるが、それと同時に万博が19世紀に誕生した意味・背景、ウィーン万博の特徴について概略述べてみたい。日本の万博参加を世界史の中に位置づけるためである。

(2)万博とは何か

 万博は、19世紀半ばにおけるロンドン開催(1851年)に端を発した巨大で先進的な産業見本市であると同時に、物と人の国際交流の場であり、「ナショナリズムの世紀」における国威発揚の場だった。またそれは帝国主義的野心の発露であり、16世紀の大航海時代以来の絶え間ない海洋進出によってヨーロッパ資本主義が世界の隅々まで支配をしているという自負心を公に開陳し、文明と歴史の進歩を誇示する格好の場でもあった。

 一方、近代産業促進の側面から見れば、万博に各国各地域から出品された製品の数々は、いずれも当時の先端技術の粋を集めて競い合うものだから、参加者は、そこから産業水準を学び、発明発見のヒントを得、貿易の実を上げると同時に、否応なく世界の序列化を目の当たりにした。まさに万博は、物質文明によるヨーロッパの優位を執拗に可視化したもので、見る者を圧倒する一大イベントだったわけである。

 片や、建築家や芸術家にとって格好の表現の場だった。例えば建築家はここでは伝統に縛られずに、創造性を駆使して自由な設計に取り組むことができた。封建的・貴族的枠組みを脱却し、経済的裏付けによる自信たっぷりな新興ブルジョワジーの開放的で自立的な進取の気性に富んだ精神がこうした建築家や芸術家の波長に合致していたと言えよう。

 また、万博は一般大衆も観客として様々に参加できる娯楽性を備えた自由で開放された空間だった。そこで人々は、しばしば日常を忘れ、お祭り気分を味わい、幻想・夢の世界に遊ぶことができた。とりわけ創意工夫を凝らした各地域の文化・伝統を重んじた多種多様の「出し物」は、娯楽性に富み、未知の異国に対する興味を増大させ、人々のグローバルな世界観を養うのに大いに貢献したのである。

 このような物質文明を誇示した万博というイベントは、富と権力を備えた「王権神授的な」王室・帝室特有の権威によって、さらにそれを利用した宗主国・植民地を問わずあらゆる階層に存在する中小権力によって支えられていた。こうして万博はヨーロッパ中心主義を体現し、その価値観は、非ヨーロッパ世界にまで浸透することになった。万博で賞を得ることは、とてつもない栄誉であったが、同時にそのようにして構築された権威のシステムに進んで組み込まれ、西洋主義の「先兵」になることを意味した。

(3)ウィーン万博とは

 オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都ウィーンで万国博覧会が開催されたのは、1873年5月のことである。この万博は、ドイツ語圏で最初のものであり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位25年を記念して開催された。それはまた「ヨーロッパきっての名門」ハプスブルク家の威信をかけて、これまでのロンドン・パリでの交互開催にくさびを打ち込む意志の表れでもあった。

 まずウィーン万博の開催の歴史的背景を見てみると、19世紀後半のオーストリアの政治状況が深く絡んでいることが分かる。帝国内部では1848年革命を起点として、諸地域・諸民族による帝国からの分離運動が活発化し、それに対する反動として皇帝権威の復活を基礎とした、いわゆる新絶対主義体制(「バッハ体制」)の下で、中央集権化が図られた。だが、帝国は、外交・軍事的にはクリミア戦争での失態、イタリア、続いてプロイセンとの戦争での手痛い敗北を経て、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立で中東欧に新たな体制の枠組みを構築したものの、凋落傾向に歯止めをかけることができなかった。

 その意味で、万博は帝国内外の混乱状態を鎮静化させ、かつてこの多民族帝国を数百年にわたり保持してきた帝国の威信を取り戻す絶好の機会であった。既にこの時代、ハプスブルク帝国の威信の復活は、もはや幻想だったが、万博は、これまで維持してきた独特の皇帝崇拝ないしは王朝への尊崇の念を人々に喚起させる格好の機会でもあった。もちろん莫大な費用がかかる万博を主宰する政府=権力者の方も、国民大衆の政策に対する不満を祝祭の挙行で反らそうと考えていたし、あるいは万博をこの帝国固有の諸民族の一体化の証とすることを目論んでいただろう。

 また、都市改造の波も万博開催に一役買った。当時、帝国内外の不安定な政治状況下にあったとは言え、商工業の急速な発達にともない19世紀後半にヨーロッパ全体で起こった都市化は、この帝国をも巻き込み、大都市を中心に空前の建築ブームを引き起こした。それは史上「会社設立期(グリュンダーツァイト)」と呼ばれる時期に対応していた。ウィーンにおいてもすでに19世紀前半以来、人口の増加と企業活動の活発化によって市域は市壁に囲まれた従来の中世都市の枠を破って拡大していたから、市壁を取り壊し、そこに様々な建築物を新たに建てる試みがなされ、また都市交通網の整備が図られた。取り壊された跡に王宮を含む旧市街地(内市)を取り囲むリンクシュトラーセと呼ばれる環状道路ができ、その道路に沿って短期間のうちに大学、教会、オペラ座、宮廷劇場、国会議事堂、美術史美術館、新市庁舎や証券取引所が次々に建設された。それらの建築物の数々は、さながら建築様式の見本市の観を呈していたが、こうした都市改造ブームの延長線上に万博があったのである。

(4)万博会場

 万博の会場に選ばれたのは、ウィーン市の郊外、北西から南東に流れるドナウ川本流とドナウ運河に挟まれたプラータ―と呼ばれるかつての広大な宮廷の狩猟場で、当時は市民に開放されていた公園だった。その鬱蒼とした森を切り開いて充てられた約233万631平方メートルの敷地に大規模な会場を作り、市街地と結ぶ鉄道を敷設し、ドナウ川と共に人的・物的輸送手段を確保した。この万博に参加した宗主国は35、植民地や属領を含めると70か国ほどだった。

 万博の主要建築物としては、先端にハプスブルク家の王冠を戴いた高さ90メートル、直径100メートルの「ロートゥンデ」と呼ばれる巨大な鉄製ドームが建てられた。そしてそれを中心にして東西に延びる回廊の両側に16ずつの展示場を持つ産業宮が配置された。その構造は、あたかも世界地図を象徴しているとは言え、「ロートゥンデ」内では主催国オーストリアと隣接するドイツが展示場を占め、ドイツ系オーストリアこそが東西文明の接点であり、ここで東西文明が融合するというオーストリアの自負心が可視された。 

 そのため、オーストリアの西にある諸国は、「ロートゥンデ」の西側に、東にある諸国はその東側にあったから、回廊の最西端には南北アメリカとブラジルの展示場が配され、日本の展示場は中国、シャム(タイ)、トルコのそれと共に最東端に配されることになった。さらにこの会場ではパリの万博の例に倣って、産業宮の周囲に185棟のパビリオンが点在していた。参加各国・地域はパビリオンにおいて自国の伝統文化のイメージを強調できた。万博のショー化、娯楽的要素の拡大・多様化の様は創意工夫を凝らしたパビリオンによって可視化された。中でも中東、アジア、アフリカのパビリオンは、訪れた人々のエキゾチシズムを刺激し、人々は居ながらにして「世界旅行」を楽しむことができた。池に太鼓橋を架けた日本庭園に茶屋、鳥居と神社からなる日本のパビリオンも人気を博したひとつだった。

 展示場は、テーマによって大きく26グループに分かれ、さらに1グループが5から10のセクションに細かく分類されていた。セクションは全体で174あり、産業の情報交換、技術革新の様子がただちに理解されるようになっていた。

 万博の会期は5月から10月末までの半年間で、その間ウィーンでのコレラの発生や株の暴落、いわゆる「証券取引所の危機」で一時的には、万博どころではないという空気が社会全体を覆っていたようだが、それでも前回のパリ万博の1千万人には及ばなかったものの、722万人、当時のウィーンの人口の9倍弱の入場者を受け入れたのである。

 なお、万博開催中の6月3日に奇しくも岩倉使節団一行がウィーンに到着した。一行はすでに1年半にわたって米欧周遊中で、2週間の当地滞在中にしばしば万博会場を訪れている。佐賀藩出身の書記官久米邦武は『米欧回覧実記』の中で、会場があまりにも広く、見るべきものが多過ぎて、「華然タル光輝ニ心ヲ奪ハレ、精緻ナル妙工ニ神ヲ耗ス」と精魂尽きた様子を吐露しながらも、万博の意義についてこう述べる。「之ヲ要スルニ衆邦ノ億兆、其精神ヲ鐘メタル、英華ヲ擢テ、此内ニ陳列シタレハ、物トシテ珍ナラサルハナリ、奇ナラサルハナシ」と。そして周遊中に万博に巡り合った喜びを「幸ニ墺国ニ万国博覧会ヲ開クニ逢ヒ、其場ニ観テ、昨日ノ目撃ヲ再検シ、未見ノ諸工産ヲ実閲シタルハ、此紀行ヲ結フニ、大ヒニ力ヲ得タリ」と表現している。さらに彼は、万博を「太平ノ戦争ニテ、開明ノ世ニ最モ要務ノ事ナレハ、深ク注意スヘキモノナリ」と高く評価する。この「太平ノ戦争」の思いは、帰国後に開催される内国勧業博覧会で結実することになる。使節団一行は6月18日にウィーンを発ち、次の目的地スイスのチューリッヒに向かった。

(5)日本の万博参加

 さて、日本政府に初めてオーストリア・ハンガリー二重帝国政府からウィーン万博(当時の呼び方では、「維納万国博覧会」)への参加の要請があったのは、明治4年2月5日(明治5年まで太陰暦)だった。その後10か月以上熟慮した上で日本政府は12月14日には参加を決定し、大隈重信参議が、「博覧会事務総裁」に任命されたが、実際の万博準備に関する事務の総責任者は「博覧会事務副総裁」の佐野常民だった(後に日本赤十字社総裁)。彼は、大隈と同じ佐賀藩出身であり、1867年のパリ万博に単独で参加した佐賀藩の代表としてすでに万博を経験していた。だが政府としての万博参加は初めての経験だったために、万博の規模、出品物の輸送方法、展示方法を把握し、有効な出品物の選定、決定をどのように行うべきか非常に苦慮したようである。(その様子は、『大日本外交文書』の中の「外国博覧会参加ニ関スル件」や「維納博覧会ニ関スル件」に詳述されている)。

 万博への出品物を各地から収集するために、明治5年1月、太政官は全国に布告を発した。万博に日本が誇る伝統的な物産・工芸品を出品し、日本の産業の水準を世界の人々に認識してもらい、それを交易すれば国益が図られるといった点を強調することで国民に各地の物産を出品するように促したのである。

 また佐野は明治5月25日に博覧会理事官に任命された機会に、太政官布告に沿って万博に参加する目的を5点にまとめ、それを関係者に徹底させることにした。ここでは万博への参加が、諸外国の優れた産業技術・文化を吸収することによって、日本の経済的・文化的発展に役立て、また貿易促進のための研究・調査を行う好機と捉えられている(これは「伝習生」=技術者による技術習得で実を結ぶことになる)。だがそれと同時にそこには国際社会の仲間入りを果たそうとする積極的な姿勢が見られる。それに加えて日本の優れた点を積極的にアピールすること、日本の製品が勝れていることを評価してもらい、それによって貿易の実を挙げることが訴えられている。

 ただし、政府が発した意欲的な布告にもかかわらず、万博の主旨が一般国民に理解できなかったために各地の物産の収集は思うに任せなかった。結局出品物は政府がすべて買い上げることで収集が進められ、11月20日までには予定の収集はすべて終わった。出品物には、伝統的に優れた工芸品を中心に手工業製品や天然資源が選ばれ、幼稚な機械製品は極力排されることになった。興味深いことに、万博顧問格のアレキサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男)の発案で「西洋の」見物人の目を引くために東洋趣味的を強調した巨大な展示物が出品されることになった。そのために用意されたのが名古屋城の天守閣の屋根に輝いていた金の鯱、東京・谷中の五重塔の雛形、直径8尺の大太鼓、2間の提灯、張りぼての実物大の鎌倉の大仏だった。これらの出品物は集積された東京湯島聖堂大成殿で一般公開されたが、これは将来の博物館設立の原型となる記念碑的イベントだった。出品物は、1873(明治6)年1月30日〔明治6年から太陽暦〕に万博関係者が乗るフランスの郵船「ファーズ」号によって横浜港から運び出され、3月21日にアドリア海に面したオーストリアのトリエステ港に着いたのである。

(以下次号)

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg.durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.25)

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(1)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その1)
南塚信吾

はじめに

 明治期には、欧米で書かれた世界史を翻訳・紹介した「万国史」がつぎつぎと出版され、それが日本にとって国外の情勢を知る重要な情報源となっていた。「万国史」というべき歴史書は、明治初期から日露戦争前までほとんど毎年と言っていいほどに出版され、合計30篇ほどが出されている[1]。その中で、ヨーロッパの東の部分についても、われわれが驚くほど多くの情報が入っている。

 明治期の「万国史」を見ると、今日「東ヨーロッパ」と考えられている地域の歴史は、西欧と線引きされ区別されることなく扱われている。しかもその扱われかたは、明治期の中でも少しずつ違ってきているようである。時々の日本の実践的問題に即して東ヨーロッパの違った地域に強い関心が向けられてきている。そして、一定の時期から「東ヨーロッパ」というまとまりで考えられるようになるのである。

 では、「万国史」において、ヨーロッパの東部の歴史はどのように扱われ、その扱われ方はどのように変化し、いつから「東ヨーロッパ」としてまとめて考えられるようになったのか。当時の日本の人々の世界史像の中で、「東ヨーロッパ史」はどういう位置を占めていたのだろうか[2]

 考えてみれば、「東ヨーロッパ」の扱われ方だけを限定して検討することにどういう意味があるのだろうかという疑問も出るはずである。それぞれの「万国史」の全体的特徴を論ずべきではないか。もちろんそうである。しかし、今回は、それぞれの「万国史」の全体的特徴を明らかにするためにも、あえて筆者が多少とも専門にしてきた「東ヨーロッパ」に限定して、そこから全体を見直す視点を探りたい。

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

 江戸期に比べ明治期に入って世界への日本の関心は急速に拡大した。「開国」した日本は世界の中のどこへ行くべきか、必死の模索が続いたのである。明治の初期には、世界への関心はどこかに集中して向けられていたというよりも、まさにグローバルに世界各地に向けられていた。そこに「万国史」の必要性があった。

 知られるかぎりで、「万国史」と名のついた最も早い書は、西村茂樹『万国史略』1869年(明治2年)であろう。西村の『万国史略』はスコットランドのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の1866年版の翻訳であるが、序論と古代ギリシア史までしか訳されていない。序論は歴史学の方法などを論じていて、レベルの高い書であったが、本論としてはローマ帝国までしか訳されなかった。したがってここでは本書は取上げない。

 明治政府のもとで文部省が設置されたのは、1871年(明治4年)であった。そして、1872年(明治5年)に学制が発布され、新しい学校制度が発足した。これに合わせるように、明治4年から8年にかけて、文部省を中心にした人々によって「万国史」と言うべき書が出されていた。それは、寺内章明訳編『五洲紀事』、文部省篇『史略』、師範学校編『万国史略』、田中義廉『万国史略』、牧山耕平訳『巴来(パーレイ)万国史』であった。それらは、寺内が抄訳し牧山が完訳したアメリカのグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本を何らかの形で参考にしたものであった。原書はSamuel Griswold Goodrich(Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)である。パーレイの本は、幕末には日本に入っていたようで、1867(慶応3)年に、福澤諭吉が軍艦受け取りの使節として再びアメリカへ出かけた時、パーレイの「万国史」も購入してきているという。明治の初期にはパーレイの本を中心に日本の世界史認識が始まったものと言うことができる。

 では、それらにおいてヨーロッパの東部はどのように紹介されていたのだろうか。

1. 寺内章明訳編『五洲紀事』紀伊国屋源兵衛 明治4年(1871年)

 この本は「万国史」とは称していないが、内容は「万国史」そのものであった。「五洲」というのは、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアの五つの「洲」という意味である。これはグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本[3]などに拠りつつ、「他書」をも参照しながらまとめられたものである。パーレイの本は、なお聖書的な要素を残すとはいえ、気球で地球を回るような世界史で、ヨーロッパに偏ってはいなかった。アジアからオセアニアまでを回りながら、各地、各国の歴史(寺内はまだ「歴史」という言葉を使っていなくて、単に「史」と言っている)を縦に述べて、それを並べたものであった。

 寺内章明の訳した『五洲紀事』は、亜細亜洲や阿非理加(アフリカ)洲については十分なページを割いていたので、その点は注目すべきであるが、パーレイの原著のように徹底して世界地理をなぞるように全洲をめぐっているわけではなく、アメリカとオセアニアは扱っていなかった。その分、欧羅巴は詳しかった。では、そこではヨーロッパの東部はどのように描かれていたのだろうか。

 ヨーロッパ洲は、
  巻三 希臘紀
  巻四 羅馬(法王国、以太利諸国)(附 拿破里(ナプルス)、威内薩(ウエニス)、熱那(ビノア)、撒丁(サルデニア)、多加納(トスカニー)
  巻五 土耳其トルコ紀、西班牙・葡萄牙紀、仏蘭西紀
  巻六 日耳曼・墺太利・普魯士・瑞西紀(附 匈牙利ハンガリー)、魯西亜紀(附 波蘭ポーランド)、嗹馬デンマーク瑞典スウェーデン諾威紀ノルウェー、和蘭・比利時紀、英吉利紀
という構成であった。それぞれが、古い時代(上古)から近年まで国ごとに縦に歴史が述べられる形式をとっていた。ヨーロッパは東西の区別なく、国ごとの構成であった。

 ヨーロッパ東部では、希臘と匈牙利と波蘭がくわしく扱われていた。

 ギリシアについては、古代希臘の歴史にはじまって近代まで書かれていて、その最後に希臘の独立が扱われている。そこでは、土耳古に400年間「奴隷」の如く制馭されていた希臘の「人民」が、1821年から「大義を唱へ兵を挙げ」、英仏露の応援を受けて、1829年に「独立」国となったことが書かれている。ギリシアの独立は注目すべき出来事であったようである(巻三―50)。このギリシア独立の経緯は今日においても通用する記述である。  

 用語に注目すると、すでに「独立」という言葉が使われていたが、この時、ギリシアは独立ではなく、自治国となったのである。『五洲紀事』では「人民」は国民の意味でも、民衆の意味でも使われている。ちなみに、『五洲紀事』は佛国「革命」や「民権」という概念も使っている。

 ハンガリーの歴史は日耳曼・墺太利・普魯士の歴史の「附」として扱われている。そしてまとまった項が設けられていて、そこにはこのように出てくる(巻六の三と六)。

 「人種は許多の野民に成りて元より一ならずと雖も、其の祖先実は匈奴種に出で、上古亜細亜の北辺より漸次(しだい)にアルタイ山を超えて移り住せしものなり。蓋し紀元450年代匈奴の酋長阿的拉(アットラ)汗・・・欧州の内地に縦横し、嘗て東羅馬を脅して其歳貢を要し、更に以太利に入て殆ど西羅馬を陥るに及び、偶々(たまたま)病で路に死し、是より其の種人永く此の地に止まり、匈牙利と号して、常に抄掠を事とし、風俗強悍にして、久しく王国に昇らざりしが、紀元一千年代に至り、士提反(ステフェン)始て王位に即き、爾後数百年間頗る強威の一国と称せられしに、紀元一千五百六十年代、終に墺太利に併せらる。」(巻六の一三)

 ハンガリー人を匈奴の末裔とし、アッティラの子孫が匈牙利国を建てたとしているのは困りものだが、明治期の「万国史」にはしばらくはこういう理解が続くことになる。匈牙利が1560年代に墺太利に併合というのは誤りである。それにオスマン帝国が出てこないことが問題であろう。ちなみに江戸時代には、「翁加里亜(おんかりあ)」と言われていたが、この寺内から「匈奴」に由来するとして「匈牙利」が使われ、明治期をとおして、これが使われることになる。

 用語としては、『五洲紀事』では、すでにraceの訳語として「人種」という概念が使われていることに注目しておきたい。この時期に日本では「人種」はどのような意味で使われていたのか、調べる必要がある。ヨーロッパではThomas Keightley, D. Lardner’s Cabinet Cyclopedia: Outline of History, London, 1830.などは人種から論じ始めていたが、これは邦訳されていない。しかし、いわゆる人種論が出るのは、ダーウィン以降、1870年代である。

 ポーランドは、魯西亜紀の「附」として扱われている。そこではこう書かれている。

 「昔は甚だ富強の一国なりしが、千七百七十二年魯普墺の三国と戦て利あらず。土壌一旦之れが為めに削られ、同く九十五年再兵を其の兵を被り、当時人民皆死力を殫(つく)して、此と相争ひしと雖も、衆寡勢を殊にするを以て、遂に其の自主を立ること能はず。全く其の兼併する所となれり。此より国人皆魯西亜の暴政に軋せられ」た。(巻六の二十)

 ハンガリーに比べて、やや迫力がないが、いわゆるポーランド分割は明治期の日本人の強い関心を引いていたテーマであった。なお、魯西亜との関係で、セルビア人やブルガリア人やルーマニア人などが出て来ることはなかった。ギリシアの時と同じく「人民」の目線を持っていたことに注目しておきたい。「国人」はこの「人民」と同義で使われているようである。

 こういう具合に、ヨーロッパの東部では、ギリシアとハンガリーとポーランドが主に出て来るテーマであった。このような記述がしばらく受け継がれていく。アメリカのパーレイにとっても、日本にとっても、ギリシアは「独立」を獲得した例として、ポーランドは「独立」を失った例として、ハンガリーはヨーロッパを「攪乱」したアジア人として関心があったのであろう。ただ、パーレイの原書ではオーストリアの記述の中で、ボヘミアにも軽く触れられていて、そこは鉱山に富んで豊かな国だとしつつも、その住民の多くは「ユダヤ」で、「ジプシー」もたくさんいると記してあるが、この部分は訳されていなかった。

(続く)


[1] 「万国史」に関する主な研究は、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成―「万国史」教科書の分析を通して」増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年、p.185-203;南塚「近代日本の「万国史」」秋田茂他編『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房、2016年;岡崎勝世「日本における世界史教育の歴史(I-1)―「普遍史型万国史」の時代―」『埼玉大学紀要 教養学部』第51巻(第2号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-2)―「文明史型万国史」の時代 1―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第1号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-3)―「文明史型万国史」の時代 2―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第2号)2017年。

[2] このテーマについては、筆者は2012年1月に千葉実年大学にて講義をしたことがあるが、文章にしていなかった。その後の知見もあり、改めて文章化しておきたい。

[3] Samuel Griswold Goodrich (Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)の1871年版によったと寺内は書いている。

(「世界史の眼」No.24)

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岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か 書評「座談会」

2021年11月20日 14時〜16時 於:世界史研究所(渋谷)

参加者:渡邊(進行)、南塚、小谷、藤田、木畑(「講座」編集委員、オブザーバー)、山崎(記録・構成)

はじめに

 2021年10月から『岩波講座 世界歴史』(岩波書店)全24巻が刊行開始になりました。世界史研究所では、2021年10月に出版された『岩波講座 世界歴史』第一巻が、この講座全体の性格を表すものになっているのではないかと考え、11月20日に座談会形式で、その合評会を開きました。ここにその成果を公表し、皆さんが世界史を考えるうえでのご参考に供したいと考えます。

1. 講座全体の編集方針と構成

渡邊:「座談会」を始めたいと思います。最初に、この講座の「本講座の編集方針と構成について」を南塚さんに確認し評価していただき、それに基づいて討論を行います。次に、本講座の出発点に立つ重要な論文である小川幸司さんの「展望」論文「〈私たち〉の世界史へ」に関して、小谷さんと南塚さんに報告をいただき、議論します。その後、「問題群」論文から、「世界史のなかで変動する地域と生活世界(西山暁義)」(報告者:山崎)と「現代歴史学と世界史認識(長谷川貴彦)」(報告者:南塚)を取り上げ、討論します。「焦点」論文からは、「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解(吉岡潤)」(報告者:山崎)、「東アジアの歴史認識対立と対話への道(笠原十九司)」(報告者:小谷)、「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る(勝山元照)」(報告者:藤田)の3論文を取り上げ、「焦点」論文としての価値と評価をまとめて行います。

 まず南塚さんに、新しい「岩波講座 世界歴史」の位置付けに関して、まとめて頂きたいと思います。

南塚:いよいよ2021年から岩波の世界史講座としては第三シリーズが始まります。そこで、過去の講座を踏まえて本講座はどのように位置づけられているのだろうかが気になります。「本講座の編集方針と構成について」によると、こうです。高度経済成長と冷戦のさなか、1969年から出た第一シリーズは、古代・中世・近代・現代に時代区分し、ヨーロッパがモデルとされていました。冷戦終結後、地域紛争、先進国の経済的行き詰まりのなかで1997年から出た第二シリーズは、古代・中世・・・という時代区分を放棄し、地域の通時的記述と時代の特徴を共時的・地域横断的にとらえる記述を併存させたほか、アジア、中東の歴史を充実させていた、ということです。

 では、第三シリーズはどう位置付けられているのでしょうか。1997年からの四半世紀に何が変わったと見ているのでしょうか。「編集方針と構成」によると、それは三つあって、①史料の多様性と歴史像の解釈の問題、新しい史料読解、②グローバル・ヒストリーつまり世界の各地域の構造的なつながりを描く歴史、世界の構造的な把握、③歴史諸概念の構築性であるといいます。

 こういう位置づけの元に、第三シリーズの[編集方針]として、以下の諸点が挙げられています。それは、

a) グローバル・ヒストリーなど世界の構造的把握を重視すること。だから地域から見た歴史も「世界史」としての展望を持つこと。

b) アフリカ、オセアニアへの目配りを厚くすること。

c) ジェンダー、文化、マイノリティへの配慮を重視すること。

d) 日本列島で紡がれてきた歴史を「世界史」とのつながりから捉えなおすこと。

以上です。前の二シリーズとの大きな違いは、「世界史」ということが前面に出ていることだと思います。

 このような[編集方針]は極めて妥当なものと考えます。その上で、先ほど見た③の構築性の指摘などを考えつつ、いくつかの懸念をあげるならばこのようなものがあげられます。

1)ポストモダン、ポストコロニアルなどにどう対応して、世界史にするのだろうか。グローバル・ヒストリーはそれとどうつながるのだろうか。

2)「世界史」を「日本史」と区別して考えているのではないだろうか。

3)相互の連携をあまり考えない独立の論稿の集まりにならないだろうか。

4)高校の生徒、社会人に分かるように表現できるだろうか。

などです。本シリーズはこういう懸念にどうこたえるのでしょうか、興味深いものがあります。

渡邊:南塚さんの当てた焦点を踏まえ、皆さん、いかがでしょうか。

藤田:これらの点は、個々の論文を見ても感じる点です。この第三シリーズをこの方針で進めるという、最初のメッセージになっているのだと思います。これからどのように展開してゆくのでしょうか。紙幅が限られていることもありますが、内容が抽象的で難しさも感じます。これを歴史教育でどう展開し、活かしてゆくのかには、期待と不安、可能性と課題を感じます。

渡邊:この講座の編集委員を務めている木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:誰をターゲットにするか、誰に読んで欲しいかという点に関してですが、歴史教育を意識していることは確かですが、「高校生が読めるように」とまでは考えていません。もちろん高校の教員はターゲットです。「歴史総合」が開始されることもあって、編集委員にも高校の先生に中心的に加わってもらっています。

小谷:「すべての人に大学の授業のような研究の最前線を届けるという「岩波講座」の原点を大切にし」(vi頁)とある中には、高校生までは入らないわけですか。

木畑:次のところに「高等学校をはじめとする歴史教育や市民の皆さんの歴史探究にも参考となるような編集を意識しました」(vi頁)とあるように、高校の歴史教育の受け手である高校生を対象とするわけではありません。それが明示されているわけではないですが。もちろん、これを読める高校生もいると思いますが、全体として対象にしているわけではありません。

渡邊:この点は、読んでいて気になる点です。高校生に読ませるものではなく、高校で歴史教育を担う先生方に読んで欲しいというものだと思うのですが、この点をもう少し強調してあればと思います。学者や大学生だけのためのものではなく、高校の歴史教育に役立つものであるということです。これは重要な点だと思います。

南塚:私たちはこれまで、『歴史的に考えるとはどういうことか』(ミネルヴァ書房)やシリーズ『日本の中の世界史』(岩波書店)などを、高校生にも読んでほしいと考えながら作ってきました。それで、私も「高校生も対象に」と考えたのです。この点、案外難しいですね。

小谷:新講座の位置付けに関する文章ですが、第一巻のような理論的な巻と、各時代・地域別の巻とをすべてまとめて議論しようとしているのですから、無理があるのだろうと思います。グローバル・ヒストリーを重視すると言っても、紀元前5000年にグローバル・ヒストリーを論じることは難しいでしょう。全体をカバーするのは難しいことです。「ポストモダン」と言っても、古代や中世の実証的歴史研究者はほとんど意識していないと思います。史料批判に関しては、史料の構築性がある以上、あり得る点だと思いますが、紀元前の時代の巻で「ポストコロニアル」は論じられないでしょう。この文章自体は、新講座全巻をカバーする総論ではなく、第一巻に適合するものだろうと思います。

2. 「展望」論文

渡邊:それを踏まえての「展望」論文ですが、まず小谷さんお願いします。

小谷:小川論考には、「一、一人ひとりの世界史」と、その後の「二、世界史実践の軌跡をたどる」、「三、日本の世界史実践とその課題」との間に大きな理論的断絶があると思います。まず1で前半部を取り上げ、後半部については2で検討します。

1「一、一人ひとりの世界史」に関して

 小川論考前半部の意図は、歴史学習運動が、歴史研究者の書いたもの(典型的例として、遠山茂樹他『昭和史』。比較的近年の例としては色川大吉らの「五日市憲法草案」)を学ぶというスタイルになりがちなのを否定し、歴史研究者も一般の人々も本質的には同じ「世界史実践」を行っているのだということを主張するということでしょう。歴史研究者の「特権性」の否定とも言えます。ただ、ちょっと無理があるように思います。

(1)「世界に向き合う世界史」とは?

 小川さんは、2011年3月に起こった東日本大震災・福島原発事故の際の消防士たちの「ことば」の中に、「世界に向き合う世界史」実践の例を見ています。

(a)「(原子炉が)爆発しました。世紀末みたいになっていますよ」(4頁)。

(b)(爆発した原子炉への出動について)「これでは特攻隊と同じではないか」(4頁)。

 そして小川さんは次のように言っています。「歴史実践とは、時間軸を意識して他者と自分との関係を考えることであるとすれば、(中略)歴史実践とは『世界史実践』と言い換えることもできよう」(6頁)、「フクシマの原発事故の中で必死に活動を続けた消防士たちがそうであったように、人は自分の置かれている状況や自分の進むべき道を考える際、この世界に生きた『過去』の人々や時代のありようを参照する。(中略)消防士たちも(中略)『世界と向き合う世界史』を実践しているのである」(6頁)。しかし、「世紀末」ということばを「この世の終わり」といった意味で使う非歴史的用法や、ステレオタイプ化した「特攻隊」イメージといったものをとおして、「世界に向き合う世界史」実践ができるのでしょうか?

(2)歴史学(「世界史実践」)の「六層構造」(13-14頁)

 ①【歴史実証】(「問題設定に関わる『事実の探求』」)

 ②【歴史解釈】(「問題設定に関わる仮説を構築」)

 ③【歴史批評】(その歴史解釈の「意味の探求」)

 ④【歴史叙述】(歴史解釈や歴史批評を表現する「叙述の探求」)

 ⑤【歴史対話】(他者の歴史解釈や歴史批評との間の対話)

 ⑥【歴史創造】(「自らが歴史主体として生きることにより、『行為の探求』を行う」)

 小川さんは「世界史実践の六層構造とは、歴史家だけでなく人々の営みにも多かれ少なかれ共通する」と言っています(14頁)。これについては、以下の二つの疑問をもちました。

(a)この「世界史実践の六層構造」と「世界に向き合う世界史」とはどう関係するのでしょうか?例えば、爆発した原子炉への出動を「特攻隊のようなものだ」と捉えた消防士は「世界史実践の六層構造」を実践しているのでしょうか?

(b)このような作業(手続き)を高校歴史教育の場にも求めるのでしょうか?

 小川さんは次のように言っています。「高校の歴史教師である私(小川)自身は、史料を読み解きながら歴史実証・歴史批評の作業を自覚的に授業で示すとともに、生徒の歴史批評を互いに交流するようにし、その授業の内容を一般市民に公開してきた」(64頁)。とすると、小川さんは生徒には「歴史批評」だけを求めているのでしょうか?しかし、「六層構造」のうち、「歴史批評」のみを行うということは可能なのでしょうか?

2「二、世界史実践の軌跡をたどる」、「三、日本の世界史実践とその課題」について

 小川さんはここでも「世界史実践」ということばを使っていますが、端的に言えば学説史ということでしょう。「二、世界史実践の軌跡をたどる」では、歴史記述の淵源をメソポタミヤの「王名表」に求め、古典期ギリシャのヘロドトスやトゥキュディデスなどから、中世のアウグスティヌスなどまで辿っています。その後、キリスト教会的な「普遍史」を批判する歴史記述の登場に言及し、19世紀ヨーロッパのランケやマルクスを取り上げています。20世紀に関しては、主として、フランスのアナール派の歴史家たちを取りあげています。 

 他方、「三、日本の世界史実践とその課題」においては、幕末・維新期の国家的・民族的危機に遭遇して、魏源の『海国図誌』が日本で翻刻されて広く読まれたり、福沢諭吉の『西洋事情』などが歓迎されたことに注意を向けています。それから、リースが(東京)帝国大学の史学科に招聘されたことから、ランケ流の実証史学が広がっていったことが指摘されています。ただ、その次に直ちに鈴木成高や羽仁五郎の名前が出てくるのには、若干の違和感があります。戦後については、大塚久雄に「戦後歴史学」を代表させ、1970年代、80年代以降の歴史学を「現代歴史学」として、「戦後歴史学」から区別しています。その「現代歴史学」の重要な潮流として、具体的には網野善彦、二宮宏之、良知力などのいわゆる「社会史」の業績が取りあげられています。その他の「現代歴史学」の特徴としては、グローバル・ヒストリー、「生命環境」の歴史、歴史の構築性、世界史教育の改革、記憶と歴史をめぐる問題、が挙げられています。

 この「三、日本の世界史実践とその課題」で注目されることは上原専禄他『日本国民の世界史』(岩波書店、1960年)が詳しく論評されていることです。小川さんも書いているように、この本はもともとは高校世界史教科書用に書かれたものなのですが、教科書検定で不合格となったために、一般書として刊行されたのです。したがって、内容的には高校生でも理解できるはずの本です。この本の冒頭に置かれた「世界史を学ぶために」という序論的文章(上原専禄執筆と思われる)には、次のようなきわめて重要な指摘があります。

 今までみてきたように、創造的意味において世界史を学ぶためには、実際上の仕方として、どうすればよいのであろうか。それには、現代の日本国民たるわれわれ自身の現実の問題意識と生活意識に基づいて、世界史像を実際に描きあげる努力を試みるほかない。世界史像を描きあげるというのは、もとより本書のような世界史を書くことだけではない。脳裏に人類生活の歩みとあり方をいきいきと構想することもまた、世界史像の創造的構成と呼ばれてよい。この「世界史」の編者たちは、本書を編述するという仕方で、世界史を学ぼうとした。本書を手がかりとして、初めて世界史を学ぼうとする者は、本書の構成を一つの見本として、自分自身の世界史像を描きあげるように努力すべきである。(『日本国民の世界史』5頁)

 ここに書かれていることは、今日の歴史教育が追い求めている方向と全く同じといってもよいのではないでしょうか。それだけに、『日本国民の世界史』を詳しく検討した小川さんがこの部分に触れていないのはちょっと不思議な感じがします。

渡邊:続いて南塚さんお願いします。

南塚:この論文は、歴史の方法論から論じ、歴史とはなにかという根底から考えて、世界史とは何かを考えようとしているようです。それはよくわかります。しかし、いくつか重要な疑問があります。

 まず、大きな問題を考えてみます。

 一つには、ここで言われる歴史実践がそのまま世界史実践になるのかが、よくわかりません。歴史実践はたとえば郷土史や一国史の実践にとどまってしまうのではないか、世界史実践になる保証はないのではないかという疑問があります。また、小谷さんの言うように、歴史実践の六つの局面は、行論では、その後の議論に無関係ではないかと思われます。どのように生かされているのでしょうか。

 二つには、「世界と向き合う世界史」と「世界のつながりを考える世界史」の区別を強調していますが、後者は分かるとして、前者はどういうことなのか、よくわかりません。これは小谷さんと同じだと思います。また、「過去からの世界史」と「未来への世界史」を区別していますが、このような区別はどういう意味があるのでしょうか。われわれはE.H.カーに倣って、過去と現在と未来を相互に関連するものと考えてきているので、こういう分け方は理解できないところです。

 結局、この論文は「〈私たち〉の世界史へ」というけれど、この著者の「世界」や「世界史」とは何だろうと思わされます。要するに自分の外の生と社会を「世界」と言っているのではないかと思われます。それでいいのでしょうか。

 つぎに、個別的な問題を取り上げてみます。いろいろある中で、主なものをあげてみると、こういう点があります。

 ①ヨーロッパでの世界史実践を考える時、ヴィーコやヘルダー、あるいは啓蒙主義やヴォルテールを抜きでいいのでしょうか。最近はこのあたりの見直しが進んでいるのはないかと思うのです。

 ②ヨーロッパの世界史実践を考える時アナールで終わっているわけですが、アナールは歴史の方法としては重要な問題を提起しているとしても、実際に世界史を書いてはいないわけですし、アナールとは別に実際に世界史を論じたE.H.カーやE.ホブズボウムやマクニールやC.A.ベイリをどう見るのでしょうか。

 ③日本での世界史実践を考える時、上原専禄の見方はもっときちんと考えるべきではないでしょうか。つまり、『世界史像の新形成』(1955年)などにおいて「ヨーロッパ中心」を批判するための基本的な問題をかれは提起しているので、それを無視はできないのではないでしょうか。

 ④この論文での江口朴郎の見方が疑問です。江口が世界史の「構造」を重視していたと見ているけど、それは江口が一番嫌った概念ではないでしょうか。むしろ、「運動」という見方が必要なのではないかと思います。江口の見方をローザ・ルクセンブルクの帝国主義の考えに近いと言っていますが、江口が最も重視していたのは、レーニンであり、彼の『社会民主主義の二つの戦術』のような考え方なのではないでしょうか。

 最後にまとめ的に言うならば、結局この論文は、前半では、世界史実践の教育的方法を説き、後半では、これまでの日本内外での世界史実践の方法を整理しているのですが、前半と後半の有機的な関係がよくわからないし、後半についても、欧米の世界史論の理論的推移をある程度フォローしていても、世界史実践の成果は扱っていないのです。それらが、「私の」世界史ではなかったというのなら、そういう議論をしてほしかった。また、この論文は、高校生は別としても、社会人は理解できるのだろうかという疑問も残りました。

渡邊:シリーズ巻頭の論文として、編集委員内部ではどのような議論があったのでしょうか。木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:「本講座の編集方針と構成について」とは異なり、この「展望」論文を編集委員全体で議論することはありませんでした。第一巻の巻頭にあることを考慮すれば、そうした機会があっても良かったかもしれません。小川さん自身は、経験の豊富な高校の教師であり、彼の今までの教育実践が詰まっていることは確かだと思います。

小谷:小川さんは、遅塚忠躬さん、西川正雄さんの影響を受けているのですね。やはり西洋中心主義的な感じが強くします。

木畑:「六層構造」の議論も、遅塚さんの議論を踏まえてのものです。小川さんは以前からこの議論をしています。ではそれをどう実践するのかですが、勝山さんの論文を見ると、それをどう実践しているのかが見えてきます。教育現場でどう具体的に生かすのかにはそれぞれの違いがあるでしょうが。

3.「問題群」論文

渡邊:勝山論文に関しては、別途検討しましょう。では、次に「問題群」論文に入ります。まず、山崎さんに、西山暁義さんの「世界史のなかで変動する地域と生活世界」を取り上げてもらいます。

山崎:この論文は、主に歴史を論じるにあたっての「地域」を取り上げています。出発点となっているのは、今まで、空間的区分とその歴史性が十分に認識されて来たとは言い難いという点、またナショナル・ヒストリーが依然力を持ち、また根強い「方法論的ナショナリズム」が存在しているという点、その一方で、トランスナショナル・ヒストリー、グローバル・ヒストリーからの「地域」の問い直し、「n地域論」、空間の変容とその相互関係への関心といった新たな動きが見えてきている点だと思われます。そして、「境界」、内部構造の重層性、地域相互の連関の三つの課題を設定し、それぞれに対して具体的な個別研究を挙げながら提示しています。

 議論が多岐にわたっているため、すべてをフォローするのは難しいのですが、地域自体の歴史性、「地域認識」のダイナミズムに目を向けることの重要性は、十分理解できます。ただ、やはり取り上げられる議論の事例は、ヨーロッパのもの(及び一部東アジアのもの)です。例えば「国民への無関心」論が、ヨーロッパ世界の外にどれだけ敷衍できるのか、という点には疑問も持ちました。また、タイトルにある「生活世界」の具体的な形やその変容などは、あまり見えない気がしました。また、近代以降、そして21世紀の生活空間の広域性、多義性(例えば領域を持たないコミュニティの存在)はどのように理解すべきでしょうか。

渡邊:いかがでしょうか。

藤田:地域に非常に多様な形があり、それが可視化できている現在における議論としての面白さが一つあります。しかし同時に、なぜ今、これだけ多様な地域が可視化されているのかということが気になりました。「国民への無関心」のような議論を過去に遡って確認することはできるわけですが、それが今どうなっているのかということです。ユーゴスラヴィアの民族分断や東欧の反動や民族の衝突を前にすると、国民国家に収まらない豊かな地域が、どうして今大きく取り上げられるのだろうと感じます。ここでのさまざまな地域の豊かな提示というのは、すべて、国民国家という枠の中に収まる地域であるような気がします。すると、国民国家という枠を突破する、国民国家とぶつかり合うという局面での地域の展開はどうなのかということに関心が向くのです。現在の地域形成が国民国家や権力との対抗の中でどう進むのかということ、地域が形成されるプロセスがどういうものかということに、私は関心があります。著者は板垣さんの「n地域論」を大きく取り上げています。「本来、帝国主義における支配・抑圧を重層的に把握するための「操作概念」であり」(116頁)としていますが、私は、これは誤解ではないかと思います。板垣さんの「n地域」という理論は、運動論の中での議論として提示されたものだと思います。つまり、「n地域」がどうできるかを捉えるためのものではなく、一つのアイデンティティを持つひとりの人間が、危機的事態の中、新たなアイデンティティをどう作るのかという、状況が流動的な中でのアイデンティティ形成を論じるための概念だと思います。つまり、「n地域論」は、運動を捉えるためのものだと思います。山室信一の「国民帝国」論について、「敗戦と植民地喪失によって崩壊するものとしてだけではなく、その形態ゆえに被支配地域が独立するにあたって国民国家という形態を採らざるを得なかった」(134頁)と言い、それに「n地域論」が当てはまるとしていますが、これも少し違うのではないかと思います。旧帝国の崩壊と、中国、朝鮮、台湾などの国民国家の形成は、旧帝国と繋がっていたような地元の権力者や支配層が国民国家を求めているということであり、それは民衆の意向とは必ずしも重ならないということだと思います。民衆の中には、こうした「n地域」的な民族形成がもっと豊かにあったのではないでしょうか。

 豊かな地域像を提供する論文ですが、一方で権力との対抗における地域の持つ意味に関しては議論から抜け落ちていると思いました。そして、「生活空間」としてどう広がっているのかが見えないという指摘がありましたが、この点がもっとも重要だと思います。寄せ場や路上生活者の存在は、従来の形でアイデンティティを描けない人々が存在することを示しています。そうした人々、国民国家に重ならない人々の生活圏を、改めて「地域」の議論の中でどう捉えるのか、これは重要な問題だと思います。

南塚:国民国家の枠だけでは世界の歴史は語れないのだというそれぞれの論点は理解できますが、世界史として見た場合、どうなのでしょうか。著者は、世界史に一定の動きがあるから、それが地域という実体を変容させてゆくのだと言いたいのでしょうね。でもそれは明示されていないのではないかな。さらに逆に、変容する地域から見た「世界史」はどのようなものなのだろうという疑問も湧きます。こういう点が、「講座 世界歴史」の論文として求められているのではないでしょうか。

渡邊:続いて、南塚さんに、長谷川貴彦さんの「現代歴史学と世界史認識」を取り上げてもらいます。

南塚:この論文は、おもに20世紀に入ってから「現代歴史学」の展開した欧米における歴史学・世界史の「作法」=方法を時代別に整理し紹介しています。

 まず「現代歴史学」に至る前に、19世紀には、①政治史の方法による世界史がランケなどによって構成され、②経済史や社会史による世界史がマルクス主義や近代化論によって構想されたとまとめ、ついで「現代歴史学」においては、世界史をめぐる「作法」は以下のように展開してきたと整理しています。

 ③ポストモダンの言語論的・文化論的転回は、「個別の断片化したミクロでローカルな事象に関心を集中させた」。

 ④ポストコロニアルは文化論的転回を受けて、ヨーロッパ中心主義批判(ヨーロッパの地方化)などの貢献はあったが、基本的にミクロ化を受け継いでいて、「大きな物語」を回避する傾向があった。

 ⑤グローバル・ヒストリーがこのミクロ化を批判して出てきた。これには「トップダウン型」と「ボトムアップ型」があるが、後者のグローバル・ヒストリーでは、ミクロな文化史が統合されてきている。

 ⑥それでも、このグローバル・ヒストリーも進歩主義やヨーロッパ中心主義を乗り越えることはできず、ビッグ・ヒストリーやディープ・ヒストリーにそれを乗り越えることが期待されている。

 このように欧米での世界史の最新の「作法」の変遷をきれいに整理して紹介しているわけです。そして、「終わりに」において、日本については、以上の欧米の歴史の「作法」がタイムラグを持って「受容」されてきているとしています。

 非常に明快な議論なのですが、いくつか疑問を感じます。

 何よりも初めに疑問に思うのは、ポストモダンとポストコロニアルが世界史認識とどういう関係にあるのかという点です。ここが明確になっていないのです。とくに「文化論的転回のなかでの世界史認識を提供してくれている」のがポストコロニアルだとの事ですが、結局はポストコロニアルは「大きな物語」を回避しているとされているのですね。

 次の疑問は、ここで言われている「現代歴史学」には属さないけれど、実際に世界史を書いた人たちは問題にならないのかということです。カー、ホブズボウム、マクニールなどは、「現代歴史学」には属さないけれど、重要な成果をあげている。最近のベイリは、ポストモダンやポストコロニアルを取り込みつつ、グロ-バル・ヒストリーを掲げているけど、ホブズボウムなどを基礎にしているわけです。上の①から⑥まで最新の「作法」が次々と推移してきているように論じられていますが、実際に世界史を構想する際には、①から⑥までの「作法」は重層的に重なっていて、①を捨てて②へ、②を卒業して③へ、などという具合にはいかないのではないかと思います。①や②は乗りこえられて無くなったのではありません。乗り越えられたとするために、かえって①や②が不十分に理解されているのではないでしょうか。ちなみにランケやマルクスらの理解には違和感があって、ランケはたんなる「民族の興亡史」ではありませんし、マルクス自身は「一国的な継起的な諸段階」を構想したのではないのではないでしょうか。

 もう一つの疑問は、日本での「受容」という問題です。過去にもヨーロッパの世界史の「作法」を日本で「受容」してきましたが、近年については、まだであるとされているようです。ここに示された欧米での「現代歴史学」の世界史認識の最新の「作法」を「受容」して、日本でも世界史を構想しなさいと聞えます。しかし、19世紀は別として、戦後は、一方的な「受容」ではなく、日本ないしは東アジア独自の観点からの世界史の構想も試みられてきたのではないでしょうか。上原専禄や江口朴郎等によって提起され、それの継続発展も試みられていると思います。読者としては、日本での世界史実践はどういう世界史認識のもとにどう展開してきて、それは欧米の世界史認識とどのように関係するのかという逆の議論もしてほしかったところです。

 全体として、欧米の先端的議論の礼賛のようにも見えてしまいます。1950-60年代の欧米礼賛が、2000年代に復活しているのではないでしょうか。全体的にポストモダンの風潮の元でのグローバル化のなかで、旧来の世界史の見方が「古臭く」なったように見えて、新奇な理論というか新奇な議論が注目されている。そういう議論が欧米で次々と打ち出されて、それらが「輸入」されて来ているのだと思います。そういう時代なのだろうけど、それをまた「受容」するというのもどうでしょうか。これまで何をやってきたのかというふうにもみえます。

 さて、この論文を『世界史とは何か』を考える本巻の中でどう読むべきなのでしょうか。率直な感想は、これは、小川論文と同じように、自分で世界史を構想し記述した(しようとする)人の話ではないなということです。

小谷:私は、執筆陣にある偏りがあるように思います。小川論文の後半、長谷川論文、粟屋論文、三成論文など、取り上げている文献がかなり重なります。つまり学説史に関しては、ある考えを共有しているような印象があります。方法論的にはそうでないかもしれませんが。

南塚:第一巻として「世界史とは何か」を我々に投げかけているのですが、この後講座が続く中で、どのような指導性を発揮するものなのだろう、という疑問を持ちました。

渡邊:こうしたシリーズにおいては、第一巻の意味は非常に大きいと思います。

小谷:第二シリーズでは、第三シリーズの第一巻のような内容は、別巻に出ています。そうした形の方が良かったのかもしれません。

渡邊:今回、第一巻としたのは、執筆陣の共通理解とする意図があったということでしょうか。それはともかくとして、「問題群」論文をまとめていかがでしょうか。

小谷:長谷川論文は、「問題群」論文に入るべきものではないように感じます。小川論文の後半部の延長上にあるように思われるからです。また、大塚久雄の「横倒しの世界史」という亡霊のようなものが出て来るのには、驚かされました。

南塚:私もこの部分の理解には疑問を持ちました。

4. 「焦点」論文

渡邊:次に「焦点」論文に移ります。まず、吉岡潤さんの「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解」を、山崎さんにお願いします。

山崎:この論文は、体制転換後ポーランドにおける、数々の「歴史論争」の展開を題材に、ヨーロッパにおける歴史認識の分断の様を明らかにしたものです。社会主義体制の解体後に、新たなナショナル・ヒストリーの構築と、「ヨーロッパ・スタンダード」からのそれへの批判が同時並行で進む中、社会主義時代におけるものを含めた三つの「規格」を設定して、それぞれの主張、力学の遷移を分析の対象にしています。三つの「規格」とは、すなわち、「ソ連規格」(社会主義期の公式の歴史叙述)、「民族の規格」(抑圧されていたナショナル・ヒストリーが再構築されたもの)、「EU規格」(普遍的価値、善隣関係の強調)の三つになります。80年の戒厳令をめぐる第一次「過去をめぐる戦争」(90年代)により、「ソ連規格」が排除され、円卓会議をめぐる第二次「過去をめぐる戦争」(00年代初頭)により、「EU規格」と「民族の規格」が対立、後者が大きな力を持つに至ります。そしてその後「法と公正」政権下に、「民族の規格」が力を持ち続けているということになります。そして、こうした過去の政治資源化は、ヨーロッパで広く見られるものであると指摘されています。

 歴史認識をめぐるこうした変化は、社会主義体制下に置かれていた東欧諸国ではある程度普遍的に見られるものだと思います。ただ、ここでいう「規格」間の力関係は、過去のあり方(特に第二次大戦中)や体制転換後の政治過程を反映して、多様でもあると思われます。また、歴史認識をめぐる問題は、多くの地域で、歴史教育の問題と絡めて取り上げられることが多いと思いますが、本稿では歴史教育に関しては、記述の対象となっていません。故になおのこと、歴史教育との関係には関心を惹かれました。また、近隣諸国との「歴史家対話」なども契機たりうるものだと思いますが、ポーランドの場合、そうした試みが歴史認識に何らかの変化をもたらしたのかも知りたい点です。そもそも人々の歴史意識は、どのように形成されるものでしょうか?公教育、家庭教育、各種メディア・・・。インターネット・コミュニケーションの発達した現在、歴史意識が共有される回路も多様化していますが、このことは問題に影響を与えうるものでしょうか。論文の最後に、「道義上の動機」に留まらず、「現実政治上の動機」から、「和解」への道を開くべきであると述べられているのですが、では、具体的にどのような戦略が成り立つのか、考えてゆかなければならない点だと思います。

小谷:ポーランドに即してみれば、いささか図式的には感じられますが、分かり易いものだと思います。

南塚:ドイツ・ポーランド間の歴史教科書問題なども出てくるのかと思いました。

渡邊:次に進みましょう。「焦点」論文から取り上げる二本目は、笠原十九司さんの「東アジアの歴史認識対立と対話への道」です。小谷さん、お願いします。

小谷:笠原論考に書かれていることに、私はまったく異論はありません。以下の二点は笠原論考にかかわる個人的感想です。一つは、サンフランシスコ平和条約に関わる朝鮮人(・韓国人)・台湾人に対する「戦後補償」あるいは「救済政策」の欠如の問題です。これがすべての問題の根底にあると思います。すなわち、朝鮮人・台湾人BC級戦犯、従軍慰安婦・徴用工、朝鮮人・台湾人被爆者などの問題です。これらの点には触れるべきではないかと思います。

 もう一つは、東アジアにおける現実政治と歴史研究の間の乖離の問題です。日本における歴史研究において、グローバル・ヒストリーやトランスナショナル・ヒストリーといったことが喧伝される中で、東アジアの現実政治の場ではナショナル・ヒストリーが圧倒的な力を持っています。この両者の乖離について少しでも理論的に考察する努力が求められているのではないかと思います。「国境の越え方」を考える前に、国境が厳然と存在するという状況の中で何ができるのかを考えることが求められているのではないでしょうか。例えば、「国境論」(「固有の領土」批判を含めて)は有効性を持つのではないかと思います。

藤田:シベリアに取り残された朝鮮出身者や、サハリンに残された日本人として扱われていた朝鮮の人々、北朝鮮への帰国者と同行した日本女性で朝鮮籍を取りながら日本国籍の回復が認められずに無国籍状態となった人々の問題があります。そうした点を盛り込むことができれば、まさに世界史となるのだと思います。

小谷:中国残留孤児と異なり、北朝鮮残留孤児の問題は完全に盲点になっていますね。

南塚:東ヨーロッパも東アジアも、国にとどまらずもっと広く議論を進めても良かったかもしれません。

渡邊:次に、勝山元照さんの「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る」について、藤田さんお願いします。

藤田: 2006年、世界史未履修問題の発覚、「高校生にとり世界史は暗記地獄」の現実が問題化したのをきっかけにはじまった世界史教育改革の取り組みは、2018年新高等学校学習指導要綱(新指導要領)によって、現行の高校地理歴史科は2022年度から日本史と世界史を一体化した「歴史総合」と「地理総合」(各二単位)必修、「世界史探求」・「日本史探求」・「地理探求」(各三単位)から選択履修の新制度への変更に決着しました。新しい高校歴史教育の方向性には、小川幸司さんら世界史現場教師の[知識詰め込み型]学習の克服・モノトーンな学習形態の是正という反省とあらたな授業構想が反映しており、勝山元照さんは新制度を「生徒の市民としての自己形成に資する『自分の頭で考え、自分の言葉で表現する』歴史学習の実現にある」(307頁)として評価し、神戸大学付属高校における「歴史総合」授業の取り組みや自らの授業プランを紹介しています。

 神戸大付属高校の「歴史総合」授業は「主題的単元学習」とよばれ、「二つの世界大戦」など6つの単元を設定して単元ごとに、課題の設定→歴史的展開→主題学習(生徒自身による考察と同一意見の生徒の班ごとにさらに検討を重ねて班の意見を発表し他の班と質疑討論する)の形で進行し、段階ごとに学習テーマが提示されています。グローバル(世界)・リージョナル(東アジア)・ナショナル(日本)・ローカル(神戸)の四層の視点からなる「歴史総合」の工夫もされており、諸事項を学習した生徒たち自身の歴史解釈を試みさせようとする「歴史総合」の授業は、受講生から「共に学びあえる」「面白い」「深い」との評価を得た点では成功でありました。しかし「二つの世界大戦」の単元における諸事項や主題学習における「戦争を回避できた時点」のテーマ設定を見る限り、この授業は戦争と民衆の関連を問う歴史より国際政治学的考察が勝っている感が否めません。ここには「これまでの歴史教育が戦争の原因・経過・結果ばかり教えてきたことを反省し、回避する選択肢はあったのか、暴力に抵抗する方法はあったのかなどといったことについても考えてみたほうがよい」(65頁)との小川さんの反省が反映しています。しかし小川さんの反省には戦争関連の様々な民衆資料が乏しかった頃の困難さが影響しており、民衆資料が多様で豊富になっている上に、世界中の人びとが境界を超えて移動し、働き、交流しているなかで戦争が民衆を様々な形で苦しめると同時に民衆の抵抗も国家・民族を超えて多様な形で発展している今日においては、戦争と民衆の関係を真正面から問うことなしには現代史は不可能でしょう。

 勝山さんが自己の「歴史総合」プランにおいて、「現代のグローバル化の下で、孤独や不安を抱える生徒が増加しているが、生徒の内面世界と歴史学習との間には、ある種の隔たりが存在しており、この隔たりを克服し「自分ごと」の歴史に転換することは、歴史アマチュアとしての市民的形成にとって極めて重要である。生徒の知的好奇心のみに依拠せず、生活意識・社会意識と結びついた「歴史との対話」をどう実現するか」(317頁)と述べているのが注目されます。「歴史総合」科目の充実は現場教師の「世界の中の日本」についての認識の深化に掛かっているのです。

渡邊:第一巻全体を見ても、今までの議論を振り返っても、歴史教育の比重が非常に大きいのがわかります。個々の論点を深める「焦点」論文には、7つの論文がありますが、具体的に取り上げたのは3論文です。ジェンダー史や感染症の歴史学などを取り上げているその他の論文に関してはいかがでしょうか。

南塚:ジェンダー史に関しては、ポストモダンの中でどのように研究が進んで来たのかを明らかにしています。ジェンダーの視点が世界史の展開をどう理解するのか、ジェンダーの視点から世界史をどう構成するのか、といった点がきちんと整理されていると思います。ただ、ジェンダー論を基礎にすると、どういった世界史を描けるのか、世界史をどう変更させていくのかという点も、投げかけてもらえていればいいのだがと感じました。サバルタンに関しても勉強になりました。これはポストモダンの中で考えようという方向のものですね。これも、サバルタンの視点から世界の歴史を見るとどうなるのかが欲しいなと思います。

小谷:それならいいのですが、今のサバルタン研究はそういったものにはなっていないと思います。本来のサバルタン研究は、インドのマルクス主義歴史研究者たちの始めた民衆史です。途中から、アメリカのポストモダニスト、特にスピヴァクが関与してから性格が変化し、民衆への関心を失ってしまったと思います。

藤田:現在のコロナ禍の中で、非正規のシングルマザーたちが、失業、貧困から路頭に迷う。これは、ジェンダーの問題とサバルタンの問題を両方内包しています。タリバンの女性差別にも問題がありますが、タリバン自体がサバルタンの立場に置かれているのでもあります。加害者の中にも、ジェンダーの問題、サバルタンの問題がつながっているのです。そのように読み取ることが重要になっているのだと思います。

南塚:ジェンダーの問題、サバルタンの問題、まさに世界史の構造の問題だと思います。環境の問題に関しては、おそらくもう少しスケールの大きな議論が求められていたのではないかと思います。専門に埋没している感が否めません。飯島さんの感染症の論文に関しては、世界史という趣旨に合っていると思います。

渡邊:コラムに関してはどうでしょう。

木畑:コラムも吉嶺さん、川島さんなど高校の教員に数多く執筆してもらっています。

5. まとめ

渡邊:それでは、第一巻の総まとめを南塚さんにお願いします。

南塚:本巻の多くの論文がポストモダンを強く意識しています。このラインで、全体史としてどのような「世界史」が書けるのか、それを示してほしかったと思います。ポストモダンで世界史の部分的なものは書けます。しかし全体像にはなりにくい。それを克服しようというのがグローバル・ヒストリーなのでしょうか。この辺りの議論は長谷川論文で試みられているようですが、いま一つピント来ません。そのところは、本巻としてはどうなのでしょうか。

 例えば、ジェンダーについての章は、ポストモダンのもとでいかに研究が進んだかを示しています。ジェンダー視線の世界史的展開、ジェンダー視線から世界史を構成する場合の鍵となる論点が示されていて教えられました。しかし、全体史には行き着きません。ジェンダー視線からの世界史の見方をもう少し具体的に示せたら大いに参考になったはずです。同じことが、サバルタンの章にも言えるように思います。それに比べると、パンデミックの章は、大変示唆の多いものであったと思います。

 思うに、グローバリゼションと冷戦崩壊の後、世界的に見て、旧来の価値基準が壊れ、よるべき知的柱が消えてしまいました。混迷の時代です。そこへ、ポストモダン以下の思考様式が広がりました。そして、欧米を中心に、新しい歴史論、新奇な議論がつぎつぎと現れました。本書の論稿の多くはそれらを取り入れようということですが、欧米礼賛の復活でなければいいのですが。

 本巻は、1990年代以降、「世界史」の盛り上がりがあるとみているようです。というのなら、日本での「世界史」の取り組み(研究も教育も)はどう進んでいるのか、それは諸外国の動きとどうつながっているとみるべきなのかを、一方的に欧米の目から日本を見るというのではなくて、教えてほしかった。シリーズ『日本の中の世界史』(岩波書店)などのわれわれの動きは、どこに位置づけられるのでしょうか。われわれは、大塚久雄、上原専禄、江口朴郎、カー、ホブズボウム、ベイリなどのラインで世界史を考えてきているはずなので、「現代歴史学」から外れていることはたしかですね。

 最後に、本巻も、これまでの「岩波講座」と同じように、相互の連携のない独立論文の集積なのかと考えてしまいました。本巻のタイトルは、「世界史とは何か」なのだけれど、この巻は読者になにを訴えたかったのでしょうか。

小谷:確かにこの第一巻全体として、何を言いたかったのかは、わからないところがあります。

渡邊:袖の文章に、「専門家だけではない一般市民の歴史実践という観点から分析する」とあります。そうした分析ができているでしょうか。

小谷:その点が小川さんのもっとも言いたいことなのだと思います。歴史家だけが歴史を認識しているのではなく、一般市民も歴史実践をしているのだということです。この巻では、個別の問題を扱っていないのですから、具体的に分析しているわけではないですが。

南塚:一般市民の歴史実践が、世界史実践になるというのは、少し飛躍があるように感じます。ローカルな歴史実践、日本を単位にする歴史実践、世界単位の歴史実践には、どこか違うところがあるように感じるのですがね。

藤田:新宿で炊き出しをしている人々が、アフガニスタンの中村哲さんの姿と重なります。

南塚:それが世界史認識に繋がるのかもしれません。なお、世界史実践というとどうも歴史教育を念頭に置いて言われているようですね。今後の巻にも歴史教育の論文がありますね。

木畑:歴史教育を前面に押し出しているわけではありませんが、意識はしています。第一巻と第十一巻がペアになっています。この2冊が、「仕掛け」に関して扱っているものになります。第十一巻にも歴史教育の話がありますし、感染症に関しても第十一巻でも扱っています。

小谷:感染症に関しては、学習指導要領に取り上げられているのですね。

木畑:「歴史総合」の指導要領で感染症が扱われています。それが出されたのはこのコロナ禍が始まるより前の話です。

渡邊:最後に木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:第一巻の位置付けに関してですが、全体として、小川さんの言う歴史実践を意識しています。笠原さんの論文もそうですが、歴史対話や歴史教育に一つの柱があります。さらに最近のさまざまな議論をもとに幾つかの柱を打ち出しています。それがシリーズ全体の趣旨に適っているか、またそこから世界史が読み取れるか、この点はなかなか難しさもあるかもしれません。ただ、狙いとしては、こうしたものであったと理解しています。

小谷:歴史学研究の最新潮流を追う人たちと歴史教育に取り組んでいる人たちとの間には、かなりの乖離があると思います。

木畑:実際に、教科書には新しい動向はなかなか盛り込めません。ただ最後、勝山さんの提起している「戦争を回避する選択肢はあったのか」などは、ここから油井大三郎さんの『避けられた戦争』が生まれてもいるわけです。

渡邊:この先の巻にも興味深い点があります。世界史研究所として、各巻の内容にも注目して行きたいと思います。

 以上で「座談会」を終えたいと思います。皆さん、ありがとうございました。

(「世界史の眼」No.23)

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書評:小倉充夫著『自由のための暴力—植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)
舩田クラーセンさやか

本書の特徴

 本書は、日本で国際社会学をうちたて、アフリカ地域研究に軸足を置き続けてきた小倉充夫氏のもっとも野心的な著作である。それは、タイトルに如実に表れている。英語では『自由と暴力』と訳されているこの本が、日本語ではあえて『自由のための暴力』とされている点に、小倉氏のさまざまな想いが込められていることを想像するのは難しいことではない。

 他方で、このタイトルに戸惑いを覚える人は少なくないだろう。

 まさに、それこそが小倉氏の狙いと考えられる。本書における文章の潔さも含め、小倉氏の過去の著作を知っていれば、氏によるディシプリンと地域研究を超えた長年にわたる探求が、読者を導くある種の到達点に、感嘆の声を漏らさざるを得ないだろう。後述するように、小倉氏は本書も途中経過と考えている。しかし、本書の「はじめに」で述べられているとおり、本書は過去に出された二冊の本と密接な関係にあり(『現代アフリカ社会と国際関係ー国際社会学の地平』有信堂、2012年、『解放と暴力ー植民地支配とアフリカの現在』東京大学出版会、2018年)。これら二冊とそのほかの過去の著作を眺めるとき、本書が小倉氏のこれまでの研究の集大成の大きな部分に位置づけられることに気づくだろう。

本書のねらい

 本書のねらいを一言で述べることは難しい。あまりに豊かな広がりの奥行き、深みのある議論を「一言」で表するなどということは、無謀かつ失礼極まりない。それでも、この書評を経由して本書に感心を持ってくれる人がいるかもしれないとの希望的観測から、あえて評者自身の言葉で本書のねらいを纏めてみる。

 本書は、抑圧からの解放と自由を実現する手法として民主主義を求め続けた人びとの葛藤を、世界における現実—とりわけ近現代史的展開の中—に位置づけ、そこから生まれてきた理論(たとえ、批判に満ちたものであろうとも)を丹念に検討しつつ、現在と未来を検討するための議論の土台を提供しようとした画期的な本である。そして、その議論の土台の提供先が、現在と未来の日本の人びとに向けられていることは、本書の「はじめに」と「おわりに」で明らかである。

 小倉氏を「アフリカ地域研究者」として認識してきた人は、「はじめに」が「日本における報道の自由世界ランキングの低下」から始まっていることには驚くかもしれない。小倉氏の懸念は、続く文章で具体的に示される。

「(日本の)戦後民主主義が成熟するどころか、残念ながら形骸化していることを示す一例なのではないか。特に今世紀になって、市民社会の未熟さを痛感させられることが多くなってきた。(中略)かつては権威主義体制のもとで苦しんできたアジアの諸国が、民主化するにつれ、今や市民社会の成熟度において、日本をあっという間に抜き去った感がある…(i頁)」。

 そして、「本書を構想した動機の一つ」として紹介される以下の文章をここで示しておくことは、本書を読み解くうえで重要であろう。

(日本の/で)「民主主義を鍛えることが難しいのは、それを勝ち取ったという経験にかけているからではないのか。天皇制ファシズムと闘った人々は決して少なくないが、その体制の崩壊と民主化は、基本的には敗戦と占領の結果であった。(中略)重要なことは、やはり変革と民衆との関わりにあるのではなかろうか。日本は他のアジア・アフリカ諸国のようには、外国による支配や独裁体制からの解放を民衆が自力で勝ち取ったという経験を持たない。このことは日本の問題を考える際に、いかなる意味を持つであろうか…(i-ii頁)」

 これらの記述は、本書における小倉氏の問題意識の根底に、日本の戦後民主主義への懸念があり、課題の抽出において、アジア・アフリカ諸国、とりわけ被植民地支配や革命を経験した民衆による闘いから学ぶべきとの認識があることを示している。小倉氏は続けて、「闘う手段の選択を絶えず迫られてきた」民衆が手段としての暴力・非暴力を選択した要因、その実践の様相と結果に注目することの重要性を指摘し、「これらについて影響をおよぼしたと考えられる思想的背景、構造的要因、国際的条件など」を明らかにすることが本書のねらいであるという。

本書に先だっ

 この問題意識は、評者との共著『解放と暴力』(前述)でもすでに示されている。本書(『自由のための暴力』)は、先だって三年前に出版された同書の第1章「解放と暴力」で展開された議論を、格段に深め、広げたものである。同書出版後の本書に連なる小倉氏の取り組みについては、東京大学出版会が毎月発刊するUPの論稿において(「解放をめぐる暴力の諸相」2019年2月号、14頁)、以下のように紹介されている。

「退場しつつあると思われた偏狭な国家主義や人種主義が再び頭をもたげてきた。国際的な協調や多様な属性を持つ人々の共存の試みを否定するかのような言動や政策が、世界のあちこちで見られるようになた。(中略)しかし問題はもう少し根深いところにあると思われる。筆者は南部アフリカの植民地支配と解放、独立後の動向に注目し、それによって現代世界の問題を捉え、併せて専門諸科学を問い直すことを自らの課題としてきた。このような問題意識のもと(執筆されたのが)、…『解放と暴力』である。そこでは、帝国主義時代に強化された植民地主義と人種主義が過去のものではなく、近年危惧される傾向はそれらが継続・再編されたものであるという視点から論じた」。

 そのうえで、「鍵概念のひとつである暴力についての議論がやや不十分であった」ことから、同論考が準備されたという。同論稿では、本書の第1章で展開される議論が、「『自由を守る義務を負う名誉』とテロリズム」、「解放にとっての非暴力主義」、「革命批判と犠牲のピラミッド」、「合意なき国家の紛争」という小見出しにあわせて進められる。本書は同論考で示されたこれらの議論の骨子を、具体的な事例と豊富な理論的考察をもとに、さらに発展させたものである。

本書の構成

 本書は、以下のように構成される。

第1章 自由のための暴力

第2章 非暴力の理念と現実 

第3章 革命と暴力(1)― 理想と現実

第4章 革命と暴力(2)― 後進国革命と国家暴力

第5章 植民地支配と現代の暴力

第6章 民主主義と暴力

 以下、各章の特徴を、網羅的にではなく、評者の視点から重要と考える点を中心に取り上げていく。

(第1章 自由のための暴力)

 第1章では、本書の鍵概念である「自由」と「暴力」がさまざまな角度から論じられるが、とりわけ次の問いに根ざして議論が進められる。つまり、自由のための暴力行為は許されるのか?許されるとしたら、あるいは許されないとすれば、なぜか? 暴力の結果、生じた犠牲はどこまで許容されるのか、されないのか? つまり、本書のタイトルを見て感じるであろう読者の疑問に真正面から理論的に答えているのが本章である。いかなる批判もまずはこの章を読むところからしか始まらない。

 何より、本書においてもっとも重要であろう本章が、「抵抗と暴力」から始まっている点にこそ着目したい。小倉氏は次のように説明する。「政治的な暴力には様々な担い手があり、その特徴も異なる。そのことは国家権力による暴力とそれへの対抗暴力において典型的に示される」として、「抵抗」が「国家権力による暴力」を前提にしていることが示唆される。これは、本書が一貫として、①それが絶対王政のものであれ、全体主義や独裁国家のものであれ、共和国や議会制民主主義国家のものであれ、植民地支配下のものであれ、「国家権力による暴力」を問題としていること、②これに「抵抗」し、これを乗り越え、抑圧からの解放という「自由」を獲得するための「闘い」のあり方を考察の対象としていること—を明らかにする。つまり、小倉氏は、本章を通じて、被抑圧者による社会変革、ひいては世界変革に向けた闘いのあり方、現実の面での可能性と限界、その要因のおおまかな見取り図を示そうとしているのである。

 闘争の時間軸は、抵抗から解放に至ることで終わるわけではない。ここに、ザンビアの村からアフリカ大陸、第三世界までの「地域」に立脚して社会と国際関係の変容を研究してきた小倉氏の洞察がある。理論家が解放運動として成果を上げた組織や理論をどれほど賞賛しようとも、その先(解放後)の社会を誰がどのように導き、その結果として何が起こったのか、それはどこの誰の現実から、どのように分析されるべきなのか—これらの問いこそ、過去の著作ならびに本書における小倉氏の問題意識の根幹を成す。人によっては、これを、人びとの生きる現実により肉薄しようとする社会学的アプローチによるものと考えるかもしれない。しかし、本書を丹念に読み進め、読み通すことができた読者は、小倉氏がなぜ「解放後」にこだわったのか、ディシプリンを超えたところで理解できると思う。

 その一端を評者なりに捉えるならば、研究者がどれほど現実に肉薄しようとしても、最終的にはそれは不可能な試みである。それでも、研究者はさまざまな手法で現実に近づこうとする。そこで過去の人類の具体的な営みに基づいて生まれ出た思想や理論が与えてくれる示唆は重要な意味を持つ。他方で、だからといって研究がそこにとどまるとすれば、現実に害悪すらもたらしうる。研究が国際政治・経済に直接的な影響を及ぼすようになった20世紀においては、これは重要な点である。とりわけ二十世紀後半以降の冷戦期において、知的サークルにおける認識枠組みのあり方は、国際政治の場に強く深い影響を及ぼし、同時代を生きる「地域」の人びとの現在と未来に希望の一方で深い亀裂を作り出してきたからである。この点は、最終章にあたる第6章でより具体的に検討されるが、読者が第1章に示される理論上の射程を理解する助けになるだろう。

(第2章 非暴力の理念と現実)

 自由のための手段としての暴力を論じる点で避けて通れないのが、非暴力思想である。とりわけ、日本ではマハトマ・ガンディーの非暴力思想とインド独立への寄与が広く知られているため、暴力的手段による闘争は無意味なもの、あるいは「血に飢えた者の蛮行」として認識されやすい。しかし、小倉氏が指摘するように、ガンディーは暴力の一切を否定したわけではなかった。これは、同じく非暴力主義者として日本で認識されるネルソン・マンデラ(後に南アフリカ大統領)とて、同じであった。本書のタイトルに疑問を感じた読書こそ、この章を丹念に読んでほしい。

 小倉氏が、本章の第1節(「非暴力の主張と暴力批判」)の第1項(「非暴力思想の特徴」)で指摘するように、ガンディーが非暴力が内含する道徳的優位性が、暴力を振るう者への訴えにおいて一定の有効性を有していることは重要であるが、他方でこの非暴力は何もしないという消極的な非暴力ではなく、積極的な非暴力であった点は忘れてはならないだろう。ただし、小倉氏は、続く第2項(「非暴力の主張における問題」)で、非暴力思想への批判の紹介を怠らない。つまり、圧倒的な国家権力による暴力の実力行使の前では、非暴力による解決の主張が、現実から遊離し無力なばかりか、現状維持を長引かせることにつながるとの批判である。そのうえで、第2節(「手段としての非暴力」)では、解放運動の担い手たちにとって、「暴力を容認するか、それとも非暴力に徹するべきか」という原則主義的な議論ではなく、解放実現のための手段や戦略として非暴力が有用か否かこそが重要であったことが、「暴力も非暴力も」と名づけられた第一項で紹介される。

 本章では、小倉氏の著作に特徴的な議論の進め方の特徴がもっとも如実に示されている。以上のように、相反する認識や理論を真正面から突き合わせつつ、あまり知られてこなかった現実の具体的動きとその結果を紹介し、最後に筆者としての考えを示唆するスタイルである。本章においては、59頁に小倉氏の考えの一端が表されているが、明確には、次章以降に詳しく記される各革命の展開の中でさらに議論が深められていくので、読者はそれを待たなければならない。

(第3章 革命と暴力(1)理想と現実 /第4章 革命と暴力(2)後進国革命と国家暴力)

 本来、核となる第3章と第4章は、分けて丁寧に論じられるべきであるが、これらの章は相互に密接に関連しあっており、単体では扱うことが難しいため、あわせて紹介する。

 本書の最大の特徴は、理論を踏まえつつも各地における「後進国革命」の具体的事例に注目し論じている点にある。現在の日本で、かつ日本語で本書が出版されることの積極的なねらいと意義について、これら二章を読めば明らかと考えるが、評者の受け止めを少しだけ紹介したい。

 日本は自らを「先進国」と呼びながら、民衆の覚醒という意味でも、闘いという意味でも、到底「先進国」の名を掲げることはできない。経済的に「後進国」とされ、かつての被植民地主義国にあった人びとの変革への欲求と圧倒的な力の差における不断の努力がもたらした体制転換—それは植民地にとどまらず、「地域」全体、あるいは/そして宗主国側社会、さらには国際関係や世界史に影響を及ぼしたこと—から、日本の人びとと社会はたくさんの学びを得られるだろうし、得るべきである。本書全体の中にこの二章を位置づけることで、そんな想いが伝わってくる。

 またこれら二章においては、革命とその後に対するアプローチにおける国際関係の重要性が、豊富な具体的な事例をもとに示される。つまり、理想と現実が、革命が生じた社会内部の構成体や原初蓄積の状況にとどまらず、国際的な経済政治関係の推移の中で互いに影響を与え合いながら進んでいく様相である。

 国際的条件やその相互影響を考慮に入れない革命理論は多い。特に、「比較」という一見学術的に真っ当な手法によって、覆い隠されてしまう運動ならびに「地域」の現実、革命を取り巻くさまざまなレベルの主体との関係、ならびに歴史的に醸成された関係性の網を明らかにすることは、小倉氏による研究手法の基本にあり続けた。これは、共著『現代アフリカ社会と国際関係』において、小倉氏が担当した第1章により詳しい。

 これまでの小倉氏の注目してきた地域や現象を考えれば、キューバ革命に相当の紙幅が割かれていることは新鮮であった。なぜキューバ革命でなくてはならなかったのか? キューバ革命が、冷戦期の米ソの対立と世界戦略という冷戦状況下で起こり進展していくこと、また1960年代を通じて、とりわけラテンアメリカとアフリカにおける「後進国革命」に具体的に及ぼしていく世界史的かつ地理的拡大を影響を考えれば、これは納得がいくものである。とはいえ、キューバ革命の課題(エリトリア独立へのネガティブな影響を含む)の紹介を怠らない点に、先に紹介した小倉氏らしさが表される。

 なお、これらアジア・ラテンアメリカ・アフリカにおける革命を「後進国革命」とする整理は独特のものである。これには、本書の「あとがき」に出てくる学術的背景—津田塾大学国際関係学研究科での勤務—の影響を考えずにはいられない。これについては、最後に検討する。

 なお、第4章はエチオピア革命が中心に扱われている。小倉氏は、アフリカ解放後の社会主義革命を分析した際にタンザニアと並んでエチオピアを扱った後も、エチオピア革命とその後の国家暴力、国家分裂に関心を持ち続けた。この具体的事例の展開に基づく理解こそ、続く第5章の総括につながっていく。

(第5章 植民地支配と現代の暴力)

 本章は、ここまでの理論と現実、特に第4章のエチオピアの事例に関するの検討を踏まえつつ、先に紹介した共著本『解放と暴力』をより普遍化したものといえる。本章では、 「1. 支配の正当化と暴力」、「 2. 独立と解放の乖離」、「 3. 国家暴力の正当化 」、「4. 『合意なき国家』の形成と暴力」との見出しで筆が運ばれていく。ここでは、解放を実現し、国家権力を手に入れた運動体が、植民地支配などでもたらされた社会内の分裂傾向と厳しい国際環境に直面する中で、暴力に加担していくプロセスが、多様な事例に基づきつつも、驚くようなシャープさで纏められている。植民地支配からの脱却という目標を超えて、新しい社会の創造を前提とした社会変革を目指す解放運動ならではの課題が、過去の革命の盛衰や課題、第4章におけるエチオピア革命史を土台にしつつ、繰り広げられており、本書の中でもっともダイナミックな章といえる。ある意味で、「自由のための暴力」(そして「革命を取り巻く暴力」)をテーマとした本書の終章に位置づけられる本章における手堅い整理は、本書全体だけでなく、過去の小倉氏の著作における取り組みを振り返る際に役に立つ。

 本章最後の節となる「『合意なき国家』の形成と暴力」は、そのタイトルに示されるように、見かけ上の民主化を遂げてなお、アフリカの民衆が苦しむ国家権力による暴力とそれへの対抗暴力、そしてそれらが織り混ざって生じる暴力の蓄積と連鎖の苦しみが記される。同時代に生きる私たちが、現代世界の各地で生じ続ける暴力を理解するために不可欠な視点が披露されるとともに、その解決の難しさを実感させる中身となっている。

 革命後に薔薇色の社会が待ち受けるわけでも、革命崩壊後に自由が訪れるわけでもないという19世紀から現在までの教訓の先に、何があるのか? 誰の何からの解放・自由こそを、問題にすべきか? そんな問いが胸に重くのしかかってきたところで、本書の本来の最終章(第6章)の出番となる。

(第6章 民主主義と暴力)

 最後に、小倉氏は以上の議論を、「民主主義と暴力」という題目の下、西欧社会や日本に広げる。本章には、小倉氏が古今東西、「後進国革命」を通じて日本の読者と議論したかったであろう論点が、そこかしこに提示されている。また、なぜ本書が、暴力を真正面から取り上げ、「後進国革命」を問題にしたのか、そしてこのようなアプローチをとったのか、本章を読んでいくうちに明らかになるだろう。この章こそ、まさに小倉氏の本書の根底にある問題意識の在処が如実に示された章といえる。もう一点重要なことは、本章に、小倉氏の次の研究の方向性が示されている点である。

 本章の第1節「民主主義の暴力」で、冒頭に「構造的暴力と暴力批判」が取り上げられている点に注目したい。『解放と暴力』の第1章でも検討された点であるが、本章では、とりわけ暴力が民主主義体制下(見かけのものであれ)の社会で発現し続けていることに注目する重視性が指摘され、そこに引きつけた議論が展開される。革命達成を終着点とせず、その後の社会変革—故に人びとの解放と民主主義の可能性—に重きをおく小倉氏ならではの議論の展開である。本章では、一見民主主義的な制度をいくつか紹介しつつ、このような制度上の工夫すら、暴力と抑圧を生み出し続ける近代国家や集団主義の現実が炙り出される。

 小倉氏は、問題の本質が暴力行為を許容すべきか否かではなく、構造的暴力をどう捉え、これをどのように乗り越えるべきかにあるという。結局のところ、「民主主義の制度に集団主義的な原理を加えるだけでは不十分であること」、また「この原理はかえって対立を強め、暴力を増長することがあること」が指摘される。これに新たに移民の問題が加わる。

 小倉氏は、このような現代的課題を乗り越えんとする努力がすでに脱植民地化のプロセスと新国家形成期のアフリカであったことを、ザンビアのカウンダ初代大統領とタンザニアのニエレレ初代大統領の試み通じて明らかにしようとする。パン・アフリカズムのリーダーでもあった二人が、植民地支配によってつくり出された分裂を避け国民的な統合を実現・維持するという課題と、さまざまな地域や民族の共存を図るという二つの課題を抱えていたばかりか、冷戦とアパルトヘイト下という厳しい国際・地域的(南部アフリカ)条件に直面していた点も指摘されている。なお、これらの点に関しては、『解放と暴力』により詳しい。

 冷戦後、とりわけ西側諸国が、このような苦悩と試みを矮小化したまま、形ばかりの民主化を押しつけた結果として生じた社会的亀裂、それに続く大規模な虐殺や戦争に、小倉氏は警鐘を鳴らす。いつの間にか忘れられてしまったこの論点は、本書が一貫して注目する国家暴力と抵抗暴力の綱引きにおいて、民衆の熱望を誰がどう刈り取る(ってしまう)のか、民衆の覚醒と主体化はどのように/どこまで可能なのかに関する疑問に読者を誘う。この問いの根底に、日本の国家、市民社会、民衆の過去・現在・未来が、小倉氏の念頭にあることについては、「あとがき」に明らかである。

(あとがき)

 以上との関係で、そもそも小倉氏がなぜこのテーマに取り組んできたのかについて、次のように述べていることは重要であろう。

「日本が他の社会の革命、解放闘争、民主化にネガティブな意味で関わってきたからである。例えば、日本はイギリス・フランス・アメリカと共にロシア革命に対する軍事介入に加わったばかりか徴兵した最後の国だった。東アジア・東南アジアにとって日本は、いうまでもなく帝国主義的侵略国であった。戦後の冷戦期には、民主勢力を弾圧する独裁政権を援助で支え続けた。日本の関わりを一面的に性格づけることはできないが、解放の主体からすれば、長らく日本はたぶんに解放を妨げる存在であり、闘う相手であった。このように解放とのネガティブな関係の認識を踏まえることが、本書のようなテーマに取り組むための第一歩であろあう」

 そして、本書の最後の最後に読者は、小倉氏の眼差しの向こうに、「ある村の人びと」がいたことを知る。

「サラエヴォも沖縄もそこに住む人にとっては世界の中心である。(中略)自分もペタウケにいると世界の中心にいるとの感覚を持つようになった。常識的には、政治でも経済の面でも、世界の辺境とされる地で生活している人びとのそばにいると、様々な不条理に嫌でも気づかざるを得ない。ペタウケから、物理的な空間としてはザンビアが、南部アフリカが、そしてアフリカと世界が、そして歴史的には、帝国による侵略以来の支配・服従と解放、その痕跡と現状が見えてくる」

 この文章に込められた想いについては、新たに付け加えるべきことはないだろう。

 なお、評者があえて「地域」と「」付きで紹介してきた理由は、小倉氏にとって「地域」が、地域社会からアフリカ地域までを含む多元的なものであることを示すためであった。

 もう一点、本書を可能にした「場の存在」について。小倉氏にとっての勤務校・津田塾大学の国際関係学研究科ならびに研究所の重要性である。小倉氏は、そこに集う同僚や研究員たちから受けた刺激を繰り返し語ってきた。共著『現代アフリカと国際関係』は、そんな小倉氏が退任を迎えるにあたって、感謝の気持ちを込めて準備した本であった。多くが知るところであろうが、同研究科・研究所は、江口朴郎氏が開設したものである。同時代の国際関係という横軸と、世界史的展開という縦軸が交差しながら網の目のように関係しながら育まれていく民衆の意識と構造の変容、革命と反革命の綱引き—江口氏に特徴的な分析視点は、これまで小倉氏をはじめとする多くの研究者に大きな影響を及ぼしてきた。また、本書が「問題意識に沿って必要であれば学問領域の垣根を乗り越える、そのことの危うさを自覚しつつ、同時にそれが不可避であることを意識したことの賜である」との説明は、社会学を学問的出発点にしながらも、その垣根を越え続けた小倉氏ならではの総括といえる。

最後に

 以上から、第三者的な書評を認めるには、評論者の属性(博士後期課程以降、小倉氏に学び、過去に出された二冊の共著者)は、あまりに不適切なため、本稿は本の紹介にとどまるものとなってしまったことをお詫びしたい。各章で取り上げられている理論や現象、そしてその解釈について、何百もの付箋を付けたものの、それらを事細かに紹介するよりは、これまで小倉氏の研究姿勢と著作に大きな影響を受けてきた者として、なぜ氏が本書を書くに至り、このような構成を用い、またこれらの事例をこのような形で取り上げたのかを分析・紹介することで、研究者以外の一般の人を含む多くの人に興味を持って本書を手にとってもらえたらと考えた。

 本書で包括的かつ弁証法的な議論が展開されている以上、詳細は各自で読んでもらい、紙面上での対話を試みてもらうべきだろう。

 最後に、第6章では、小倉氏が今後このテーマで議論をさらに深め、進めようとしている論点がいくつか示唆されている。そして、本書は過去のいずれの著作よりも、また第6章はいずれの章よりも、躍動感を持って描かれており、長年にわたり小倉氏の文章に慣れ親しんできた者としては、ある種の清々しさを感じずにはいられない。恩師の瑞々しい文章に触れ、背筋を伸ばしたのは評者だけではなかったろう。

【参考図書】

・小倉充夫・眞城百華・舩田クラーセンさやか・網中明世・セハスモニカ『現代アフリカ社会と国際関係—国際社会学の地平』(有信堂、2012年)

・小倉充夫・舩田クラーセンさやか『解放と暴力—植民地支配とアフリカの現在』(東京大学出版会、2018年)

(「世界史の眼」No.22)

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