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アメリカ軍によるBC級戦犯裁判(上)―旧日本領「南洋群島」の事例―
小谷汪之

はじめに
1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要
2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判
(以上、本号掲載)
3 「南洋群島」における戦犯事件の事例
4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為
おわりに
(以上、次号掲載)

はじめに

 1945年8月、アジア・太平洋戦争における日本の敗北が決定し、アメリカ軍を中心とする連合国軍が日本を占領すると、ただちに戦争犯罪人の追及が始まった。その際、戦争犯罪は次の3種類に分けられた。A「平和に対する罪」、B「通例の戦争犯罪」、C「人道に対する罪」。このうち、Aの罪に問われた者たち(A級戦犯)は極東国際軍事裁判(通称、東京裁判)で裁かれ、最終的には東条英機など7人に死刑、16人に終身刑、2人に有期刑の判決が下された(死刑囚7人に対してはスガモ・プリズンで刑が執行されたが、その他の人びとは、1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効した後、釈放されていった)。

 他方、BあるいはCの戦争犯罪に問われた者たち(BC級戦犯)に対しては、東南アジア、南太平洋、中国など日本軍が侵略した各地で、戦勝諸国による軍事裁判が行われた。アメリカ軍裁判(横浜、マニラなど5カ所)、イギリス軍裁判(シンガポール、クアラルンプールなど11カ所)、オーストラリア軍裁判(シンガポール、ラバウルなど9カ所)、オランダ軍裁判(バタビア〔ジャカルタ〕、マカッサルなど12カ所)、中国(国民政府)軍裁判(北京、上海など10カ所)、その他2カ所、合計49カ所の軍事法廷でBC級戦犯裁判が行われた(BC級戦犯裁判地の地理的分布については、図1参照)。それらの裁判における最終的な判決をまとめたのが表1である(ただし、これには中国共産党軍やソ連軍の軍事裁判における戦犯は含まれていない)。A級戦犯の刑死者が7人だけなのに対して、BC級戦犯の刑死者の数が突出しているのが分かる。(以上の記述は田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』〔緑陰書房、2011年〕の各所による。本書は厚生省引揚援護局法務調査室『戦争裁判と諸対策並びに海外における戦犯受刑者の引揚』〔1954年。謄写版刷り〕の編者解説付き複写である。)

表1 裁判国別BC級戦犯数

裁判国死刑終身刑有期刑無罪
アメリカ140人149人872人183人
オーストラリア140人35人392人212人
オランダ226人30人697人42人
イギリス223人50人494人98人
中国(国民政府)149人84人256人249人
フランス26人1人124人30人
フィリピン17人88人27人19人
921人437人2862人833人

出典:田中宏巳編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』293-298頁。

 本稿では、これらのBC級戦犯裁判のうち、アメリカ軍による戦犯裁判、特にアメリカ海軍が南太平洋マーシャル諸島のケゼリン(クェゼリン)島とマリアナ諸島のグアム島で行ったBC級戦犯裁判に焦点を当てる。戦前、日本の国際連盟委任統治領だった「南洋群島」における日本軍の戦争犯罪はほぼすべてこの2カ所の法廷で裁かれたからである(ただし、パラオ諸島で俘虜となったイギリス・インド軍(Indian Army)兵士に対する戦犯事件はシンガポールのイギリス軍法廷で裁かれた)。

1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要

 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判は横浜、グアム島、ケゼリン(クェゼリン)島、マニラ、上海の5カ所で行われた。これらのうち、グアム裁判とケゼリン(クェゼリン)裁判はアメリカ海軍の管轄で、他はアメリカ陸軍の管轄であった。表2はこれらの裁判における最終的な判決をまとめたものである。

表2 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判(1945~49年)

死刑終身刑有期刑無罪
横浜裁判51人86人693人(50年~3カ月)143人
グアム裁判13人19人69人(20年以上~5年以下)9人
ケゼリン(クェゼリン)裁判1人8人6人(25年~10年)1人
マニラ裁判69人(うち2名はスガモ・プリズンで刑執行)28人78人(20年以上~5年以下)25人
上海裁判6人8人26人(20年以上~5年以下)5人
140人149人872人183人

出典:田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』293頁。

 横浜裁判は日本国内および「南朝鮮」における連合国軍俘虜の取り扱いに関わる戦争犯罪を裁いたもので、裁判件数は337件に達した(ただし、フィリピンなどから日本へ送還された戦犯容疑者を裁いたケースも含まれる)。具体的には、(1)「俘虜収容所内及労務のため派遣先で行はれた事件」、(2)「飛行機搭乗員処刑事件」、(3)「其の他の事件」。(1)では、主として日本国内および「南朝鮮」の俘虜収容所の所長や職員が戦犯容疑者とされ、労務派遣先としての三菱鉱業、住友鉱山、常磐炭鉱、宇部鉱山などの労務担当者も戦犯容疑をかけられた。これらの俘虜収容所や派遣先における俘虜の虐待や酷使が問題とされたのである。(2)は日本軍によって撃墜された米軍機の搭乗員を処刑した事件で、全国に亘るが、沖縄の石垣島海軍警備隊によって撃墜された米軍艦上攻撃機の搭乗員3人の処刑事件では、41人が死刑判決を受けるという異常な事態となった(ただし、実際に死刑を執行されたのは7人で、他は後に終身刑などに減刑)。また、「西部軍(九大)生体解剖事件」(九州帝国大学医学部における撃墜された米軍戦闘機搭乗員8人の生体解剖事件)もここに含まれている。この事件では、九州帝国大学の医師(教授、助教授、講師、研究生)を含む27人が起訴され、5人に死刑判決が下された(ただし、5人とも後に終身刑などに減刑)。

 グアム裁判とケゼリン(クェゼリン)裁判は本稿の主題なので、次節以降で詳しく取り扱う。

 マニラ裁判はフィリピン方面軍司令官であった山下奉文大将の裁判から始まり、裁判件数は85件であった。具体的には、(1)「日本軍の現地人並びに米軍俘虜殺害の責任 山下大将、本間〔雅晴〕中将裁判」、(2)「ゲリラ討伐時における現地人殺害」、(3)「匪団比島人の処刑」、(4)「米軍俘虜の拷問殺害」、(5)「終戦後武装農民との衝突によって生じた殺害事件」、(6)「ポート・サンチャゴ留置人窒息事件」、(7)「俘虜収容中における死亡及び虐待の責任 〔フィリピン俘虜収容所長〕洪恩翔陸軍中将」。これらの裁判の結果、山下奉文、本間雅晴、洪恩翔など69人が死刑判決を受け、67人がマニラ近郊で刑を執行された(他2名は日本送還後スガモ・プリズンで処刑)。

 上海裁判の裁判件数は10件で、具体的には、(1)上海、奉天の俘虜収容所などにおける米兵俘虜虐待事件、(2)漢口における米軍飛行士殺害事件、(3)「軍律会議事件」(日本軍が軍法会議で俘虜に死刑の判決を下し、処刑した事件)。(以上の記述は、田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』25-37頁、および巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』〔1952年〕の翻刻版〔槇書房、1981年〕の各所による。巣鴨法務委員会はスガモ・プリズン〔サンフランシスコ平和条約発効後は、巣鴨刑務所〕に収容されていた既決囚が設立した組織で、極めて多数の人々の拘留中の体験記などを収集し、謄写版刷りの大冊『戦犯裁判の実相』にまとめた。活版刷りの翻刻版でもB5版〔セミB5版〕、縦2段組みで700頁という大冊である。)

2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判

 旧日本領「南洋群島」におけるBC級戦犯事件はケゼリン(クェゼリン)島とグアム島のアメリカ海軍軍事法廷で裁かれた。これらBC級戦犯事件とされたものはいずれもアメリカ海軍太平洋艦隊による激しい爆撃下に起こったことがらである。

 1943年11月、アメリカ太平洋艦隊はギルバート諸島(現、キリバス共和国)の日本軍守備隊に攻撃をかけ始めた。ギルバート諸島は当時イギリス領であったが、太平洋戦争の早い段階で日本軍が占領して、守備隊をタラワ環礁(1943年当時、日本軍約4000人)とマキン環礁(1943年当時、日本軍約700人)に配置していた。1943年11月20日から23日にかけて、アメリカ太平洋艦隊はこれらの日本軍守備隊に空・海から爆撃をかけたうえで上陸、大きな犠牲を出しながらも、日本軍守備隊をほぼ全滅させた。

 アメリカ軍はギルバート諸島からさらに北上して、日本の「海の生命線」と称された「南洋群島」のマーシャル諸島(現、マーシャル諸島共和国)へと攻撃の手を伸ばした。日本軍の側では、マーシャル諸島のクェゼリン島に第6根拠地隊の司令部を置き、マーシャル諸島東縁のミレ環礁、マロエラップ環礁、ウォッジェ環礁および南洋庁ヤルート支庁のあったヤルート環礁に守備隊を配置した。それぞれの兵力は2000人から5000人ほどであった(マーシャル諸島の各環礁については、図2を参照)。

 1944年1月25日、アメリカ軍のB25機約15機がミレ環礁のミレ島を爆撃した。しかし、そのうち1機が日本軍によって撃墜され、環礁内に墜落した。その5人の搭乗員は日本軍によって救出され、俘虜として日本軍基地内に留め置かれた。しかし、アメリカ軍による攻撃がさらに激しくなることを予測した日本軍がこれらの米軍俘虜を処刑した。このことが後にクェゼリン法廷で裁かれることになった。

 1944年2月1日には、アメリカ軍がクェゼリン島に上陸、2月6日までにクェゼリン環礁全体を制圧した。このクェゼリンの戦闘における日本軍の死者は9000人近くにのぼり、ほぼ全滅であった。アメリカ軍は、同時に、クェゼリン環礁東南のマジュロ島を占拠して、そこに海軍航空隊基地を設営した。

 アメリカ軍はその後も、ヤルート環礁、ミレ環礁、マロエラップ環礁、ウォッジェ環礁の日本軍守備隊に攻撃をかけ続けた。その間、ヤルート環礁では、海上に不時着して流れ着いた米軍戦闘機の搭乗員3人を捕え、その後処刑するということがあり、戦後クェゼリン法廷で裁かれることになった。

 1945年8月15日、日本が連合国軍に降伏すると、マーシャル諸島各島の日本軍守備隊もアメリカ軍によって武装解除された。その後直ちに戦犯の追及が始まり、クェゼリン島に戦犯法廷が開設された。クェゼリン法廷で裁かれたのは(1)ミレ島における米軍俘虜処刑事件、(2)ヤルート環礁の主島ジャボール島における米軍俘虜処刑事件、(3)ウェーキ島(ウェーク島)における俘虜処刑事件(ウェーク島は「南洋群島」には属さないが、ここでの戦犯事件もクェゼリン法廷・グアム法廷で裁かれた)の3件のみで、クェゼリン裁判は1945年末には終了した。この3件では7人に死刑判決が下されたが、実際に死刑を執行されたのはウェーク島の酒井原繁松司令のみで、他の6人は後に終身刑に減刑されている。ウェーク島では、アメリカ軍による激しい爆撃下の1943年10月7日、98人もの俘虜(ほとんどは将兵ではなく、軍需工場などの労働者)が処刑されたので、酒井原司令はその責任を取らされたということであろう(酒井原司令は1947年6月19日、グアム島で死刑を執行された)。

 その後、「南洋群島」における戦犯事件はグアムの法廷で裁かれることになり、クェゼリン裁判の既決囚および未決の容疑者はすべてグアム島に移送された。グアム裁判は1945年8月下旬から1949年4月末まで続き、30件の戦犯事件が審理された。その主なものは次のような事件である。

(1)米軍俘虜などの処刑。
クェゼリン島米軍潜水艦俘虜処刑事件(クェゼリン事件)、小笠原諸島父島米軍俘虜処刑事件(父島事件。父島の戦犯事件もグアム法廷で裁かれた。父島では飢餓状態の下、俘虜を処刑し、その肉を食べるということがあった)、トラック海軍病院における米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック海軍病院事件)、トラック諸島海軍警備隊による米軍俘虜殺害事件(トラック警備隊事件)、トラック諸島海軍警備隊による米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック警備隊第2事件)、パラオ諸島における米軍俘虜処刑事件(2件)。

(2)民間人(現地民あるいは連合国以外の外国人)をスパイなどとして処刑あるいは殺害。
ヤルート環礁における現地民処刑事件、パラオ諸島におけるスペイン人「スパイ」処分事件、マリアナ諸島ロタ島におけるスペイン人宣教師と現地民処分事件。

 これらアメリカ海軍グアム法廷における30件の戦犯事件で死刑判決が確定した13人は、1947年6月19日に5人、同年9月24日に5人、1949年1月18日に1人、同年3月31日に2人がグアム島で死刑を執行された。

 次節では、これらの戦犯事件のうち特に目立つものについていくらか詳しく見ていくことにする。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.42)

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小川幸司(2023、岩波書店)『世界史とはなにか ー「歴史実践」のために」』書評
渡邉大輔

 新科目『歴史総合』は2年目の夏を迎えている。

 同業者や出版関係者と話していると、決まってでてくるのが「ほぼ誰も最後まで終わっていないみたいです」「第二次世界大戦と冷戦まででやっと、という反応が多いです」「渡邉先生はどうやって最後まで終えることができたんですか」「史資料を集めるのが大変でコンテンツの説明に終止してるみたいです」「問いを立てさせるといってもどうすればよいのか…」「歴史の扉、あるいは大項目D(4)の探究活動をカットしました」といった、歴史総合の悲しい現状についての話題である。これでは科目の目標は達成されないし、未履修問題に揺れた『世界史A』と同じ轍を踏む危険性も否定できない。原因は明らかである。歴史総合の趣旨にそう書かれていないにもかかわらず、コンテンツを網羅しようとするからだ[1]。では、どうすればコンテンツ網羅主義を脱却して教科書を最後まで終えながら、よりよい授業実践にバージョンアップできるのだろうか。

 その大きなヒントとなるのが『シリーズ 歴史総合を学ぶ』であり、6月に上梓された最終巻である本書であろう。小川幸司氏は、今春に希望降任制度により校長から教諭へと戻られた、全国的にも有名な授業実践者である。本書で語られる「歴史実践」を、我々はどのように日々の授業に接合していけばよいのだろうか。本稿の目的は、執筆者が13クラスで行ってきた授業実践及び研究・発表してきたことを踏まえ、本論である第1,2講を中心に本書の内容を紹介しながら、上記の課題に幾許かでも答えることにある。紙幅の関係から、大項目BCDの歴史実践事例である第3,4,5講は必要に応じて触れるに留めたい。

 第1講では本書のタイトルにもなっている「世界史とは何か」「歴史実践とは何か」がテーマとなる。第一に1994年の松本サリン事件において、事実ではないことを事実として報道するメディアを通じて、人々が歴史を歪曲しながら解釈していった事例が語られる。そこから氏は「歴史について考える」ために、アプリオリに事実とされがちな教科書の歴史叙述が、史資料を通じて多面的に見直すことでどのように異なって見えてくるのかという授業実践と、教師と生徒が対等な立場で参加する自主ゼミを開始し、「事実」がとても見出しにくく、解釈や用いる言葉により見え方も異なる相対主義的なものであることを指摘する。そして「多様な意見があっていいね、考えさせられるね」という安易な相対主義に陥らないためには事実立脚性と論理整合性が大切となるが、解釈の対立が水掛け論や感情的な攻撃になることを回避するために、相対化への意志を持ち相手をリスペクトしながら対話、協働して「私たち」となることの重要性が示される。第二に、「歴史について考え(第一で指摘したいわゆる歴史的思考力に基づく思考)」行動すること、すなわち「歴史実践」について、その先駆者である保苅実の遺書『ラディカル・オーラル・ヒストリー』に依拠しながら、「真摯な経験」に基づく「歴史叙述」や「歴史実践」同士で、グランドキャニオンにバラの花弁を落とし爆発を待つような形で「接続可能性」を探究することの重要性を説く。そして、生徒と教師の間にグランドキャニオンの高さほどの隔絶が存在する現場において、生徒が「より良い」思考をしながら行動できるようになるためには、花弁がどのように落ちていくか(生徒と教師の対話がどのように展開するか、どのように展開させるかについての方法)よりもどのような花弁を落とすか(何を一緒に考えたいのか)がより大切であるという。つまり史資料を中心としたコンテンツの吟味が、コンピテンシー育成の必要不可欠な基礎なのである。次に、そのようにして「考え、吟味され叙述された」「歴史実践」としての世界史には、保苅のように特定の問題関心を持ってテーマを設定し過去に問いかけ、「今、ここで」どう生きるかを考える「世界と向き合う世界史」と、ナチス・ドイツの独裁体制が生まれた原因のように過去へ問いかけた歴史像を結びつけていく「世界のつながりを考える世界史」があり、後者は①つながりや発展にパターンを見出す「歴史類型論」、②つながりの根底に世界経済の動向を置きながら描く「歴史構造論」、③「世界と向き合う世界史」の空間軸と時間軸を拡大し、つながりを網羅的に明らかにしてテーマの分析を深める「歴史連関分析」に分類される。そして氏が目指す歴史総合は、生徒たちが「世界と向き合う世界史」の探求を重ねるなかで、教科書の「世界のつながりを考える世界史」を書き直す歴史実践の主体となっていくことであるという。

 第2講は、第1講の内容を歴史総合の授業を充実させる方法として再定義する。まず歴史実践について、遅塚忠躬が『史学概論』で提示した①問題関心と問題設定、②史料選出、③史料を通じた歴史実証、④歴史的意義の解釈、⑤問題設定への仮説提示と歴史像の構築や修正からなる「作業工程表」を、①歴史実証、②歴史解釈、③歴史批評、④歴史叙述、⑤歴史対話、⑥歴史創造の六層構造に再定義する。そしてそれは研究者だけのものではなく高校生を含む全ての人々がそれぞれの関心や次元で営むものであるとし、歴史総合においても「様々な歴史叙述を検討しながら不断に私の叙述する歴史を相対化し練り上げつつ、歴史についての考え方を身につけて」=「歴史の学び方を学んで」いけば、「歴史主体の成長」という「歴史創造」になるという。そこで重要となるのが検討・相対化・考え方の素材となる問い(立問力は育成すべきコンピテンシーでもある)であるが、昨今の歴史教育に関する実践が大きな問い(MQ)と小さな問い(SQ)を精緻化することに注力された結果形式主義に陥り、多くの問いが教科書に書かれてある答えを読み取るだけになってしまう危険性を指摘する[2]。この「問いの形式化」を乗り越えるために、氏は①「変だなあ」「どうしてなんだろう」「なんでこんなふうに書いているんだろう」から始まる課題発見作用の対話、②現代における類似した事例を考えさせることで歴史を自分ごと化していく主体化作用の対話、③比較することで歴史的特徴をより鮮明に浮かび上がらせると同時に相対化を可能にしていく時空間拡大作用の対話、④歴史解釈のフレームや概念を見つめ直すような根拠の問い直し作用の対話、⑤教科書の叙述に対して史資料をもとに女性や奴隷など別の立場から書き換えていくような仮説の構築・検証作用の対話を産むような問いを教師がすること、そして生徒自身がそのような問いを立てられるようになるような「歴史実践」を提起し、対話の際の留意点として、「ボイテルスバッハ・コンセンサス」をひきながら、①対象にタブーを作らないこと、②対話者は対等であり相互にいのちをリスペクトしあうこと、③自己を相対化する意志を大切にすることを挙げている。

 では、どのようにすれば60時間前後の歴史総合で、網羅主義を乗り越え教科書を終えながら、本書で示された歴史実践に近づくことが可能になるのか。そのためには、第一に教科書を事前に読ませ(生徒の実態に応じて準拠ノートに取り組ませ)、授業におけるコンテンツの網羅的説明をやめることである。教材の精選原理については、各大項目を通じて獲得させたい概念や育成したいコンピテンシーに必要なコンテンツが原則であり、そこから関連する史資料を吟味すると良いだろう。例えば近代化と私たちであれば、冊封体制、主権国家体制、市民革命、国民国家、産業革命、資本主義、社会主義、帝国主義、ウエスタンインパクト、オリエンタリズム、グレートゲームといった概念を設定し、近代化についてこれらの概念を用いて多面的に説明できるようになるために必要な史資料を吟味する、といった具合である。第二にスライドなどのICTを効果的に活用し、板書や考査返却にかける時間を短縮することである。そうすれば問いに基づいて史資料を読み解き、対話する活動を充実しながら、概念を獲得をさせつつ、概念を通じて見る力や事実立脚性と論理整合性に基づく思考といったコンピテンシーの育成を目指すことが容易になる。第三に、問いを立てられるようになるためには、教師が模範として良質の問いを発することは勿論(前提として歴史の扉で、閉じた問いと開かれた問いなど問いの種類や階層性について予め説明すると良い)だが、同時に生徒自身が普段から不断に問いを立てるような仕掛けをすることが求められる。そのために私は単元ポートフォリオを活用し、各授業の問いに対する回答だけでなく、疑問に感じたことや更に考えたいことについての欄を設け、表現させている。そしてフィードバックとしてポートフォリオ返却時に問いの質について再度コメントしたり、疑問や考えたいことについて自分で史資料を調べ探究する(ちょこっと探究と名付けている)ことを促すことで、立問力や探究力の育成と、自ら学びを改善するという意味での主体的に学習に取り組む態度の育成につなげている。こうすれば、D(4)の頃には多くの生徒が無理なく問いを立て探求できるようになっている、というわけである。勿論生徒によって到達度は多様なため課題を抱える生徒に対して個別にファシリテートする必要はあるが、今日の高校生は想像以上にICTを活用した調べ学習慣れしているので、総合的な探究の時間や他科目とのカリキュラム・マネジメントを進めながら実践していけば、それほどハードルは高くないだろう[3]

 以上のように多くの歴史総合担当者にとって福音となるであろう本書であるが、最後にいくつかの論点を提示して結びとしたい。第一に問いについてである。教師が問いをブラッシュアップし続けることは間違いなく重要であるが、生徒自身が複数な次元の問いがあることを理解しながらより良い問いを立てられるようになっていくようにするという歴史総合の科目の性質を考慮すると、一問一答から教科書を読めば答えられるもの、史資料の読解が必要なもの、複数の史資料や概念を関連付けながら答えるもの、様々な事例があって答えが一つに定まらないもの、学説史上もまだ答えが一つに定まっていないものなど意図的に多様な問いがあってもよいだろうし、生徒の実態に応じて段階的にカスタマイズすることが求められるのではないだろうか。第二に六層構造についてである。六層構造に問題がある、ということではないし、原則的には教師が生徒の実態に応じて六層の扱いに軽重をつけることにはなるだろう。ただ、立問力の育成や、D(4)で生徒自身が歴史総合の学びを元に現代の諸課題と関連付けながら問いを立て史資料を集めて探究活動を行うことを考慮に入れるならば、事実立脚性と論理整合性に基づく歴史実証力の育成により重点を置くべきではないだろうか。すなわち、歴史実証の過程を三段階に分けている遅塚の作業工程法のほうが歴史総合にはよりマッチするのではないだろうか。第三に、第3章で史資料として取り上げられる蠣崎波響の『夷酋列像』についてである。氏は加藤公明の実践にもとづき、「アイヌは礼節を知らない野蛮人であるとするまなざしが、蠣崎の絵にはありました」という(154頁)。確かに幕府や明治政府の側にそのようなまなざしは存在したであろう。しかし、『夷酋列像』においても、そのようなまなざしが主であったと果たして言えるのだろうか。「礼節をしらない野蛮人」をあれだけ微細にまでこだわって、屈強な出で立ちで、蝦夷錦まで着せて描くのだろうか。むしろ、松前藩は、異形ではあるが威風堂々としており、蝦夷錦などの豊かな産物をもたらす存在であったアイヌを、クナシリ・メナシの戦いをでもわかるように従えおり、蝦夷地の支配に問題はないというアピールであったというのが通説だろう。そのようなアイヌへのまなざしが明治維新後の国民国家形成の文脈の中で北海道においても変容していったという文脈で、「近代化と私たち」の私たちと関連付けながら扱ったほうが良いのではないだろうか[4]。また『夷酋列像』がなぜフランスのブザンソンで発見されたのか、ということも歴史総合にとっては格好の探究テーマとなるだろう。このことについてはまた稿を改めて論じたい。以上いくつかの論点を指摘してきたが、そのことは本書の価値を否定するものでは一切ない。高校教員だけでなく、歴史総合を教える高校教員養成に関わる大学教員にとっても、地歴科教諭を目指す大学生にとっても必読の一冊である。


[1] 高大連携歴史教育会編(2021)『歴史総合Q&A』5-6頁。ただし、後述するようにこのことはコンテンツや講義式授業の否定ではない。知ることによって考えることができることは多いし、教師による適切な説明はニュースや雑誌記事と同様に史資料であるともいえるからだ。例えばニジェールの問題を高校生に考えさせる際に、基本的知識や背景の説明は史資料と同様に必要だろう。

[2] 現在刊行されている歴史総合の教科書の多くにも、章ごとの大きな問い、節ごとの小さな問い、授業内で教師が発するようなさらに小さな問いが立てられているが、その大半は教科書や史資料を読み解くことで答えられるもので、歴史叙述の理解や史資料の読解力の育成には適しているものの、いわゆるオープンエンドな問いは少ないのが現状であり、改訂に向けて議論すべきところであろう。

[3] 以上のような私の歴史総合の実践の詳細については、2022年度の高大連携歴史教育研究会での発表を参照されたい。『高大連携歴史教育研究会会報』第11号、2023年3月、の報告資料、レジュメ編のパネル2ー②からハイパーリンクで参照できるようになっている。https://drive.google.com/drive/folders/1hf3nGL4UIgNF_4CBKEcf60LjWwan7bs7

[4] このことについては北海道立近代美術館学芸部長の五十嵐聡美および江戸東京博物館学芸員の春木晶子の研究より大きな示唆を得ている。五十嵐聡美(2020−2021)「アイヌ絵を読み解く」『朝日新聞「北の文化」』、春木晶子(2019)「《夷酋列像》と日月屏風ー多重化する肖像とその意義ー」『美術史』186など。

(「世界史の眼」No.42)

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アンドリュー・J・ロッター(川口悠子・繁沢敦子・藤田怜史訳)『原爆の世界史:開発前夜から核兵器の拡散まで』(ミネルヴァ書房、2022年)
高橋博子

 広島平和記念資料館や長崎原爆資料館は、近年の展示更新や更新計画として、8月6日、8月9日の展示に力を入れる一方で、その世界史的文脈の展示を縮小、ないし縮小する方向のようである。2019年9月、哲学者であり科学史家でもあるパリ大学(パンテオンソルボンヌ大学)のべルナデッド・べンソード=ヴァンサン名誉教授と、更新後の広島平和記念資料館を訪れた。彼女は熱心に展示を観た上で、「この資料館には“なぜ”という視点が感じられない」と筆者に語った。広島平和記念資料館では、更新前から原爆投下に至るまでの歴史的文脈については展示しており、また第二次世界大戦についての展示は不十分ながらも「軍都広島」についての展示は充実していた。しかし展示更新後、「軍都広島」の展示を大幅に縮小した。

 長崎原爆資料館もアジア・太平洋戦争についての展示をさらに縮小する可能性がある。アジアからの訪問者を意識した展示を提案していた、更新計画市民公募委員への平野伸人さんの応募論文を、長崎市の原爆被爆対策部被爆継承課長は「原爆、平和に関する意見・考えの妥当性」として「劣っている」と評価した。その理由として、「原爆による被害を中心にしてそれをありのままに展示する」のが課の方針なのだと言う(『毎日新聞』2023年7月7日、長崎県内総合欄)。広島市も長崎市も、歴史を軽視した展示に大幅に転換している。人類史にとっての原爆、世界の人々と歴史を踏まえて共に考える原爆、という視点はないのであろうか。

 核問題の議論の際や、広島・長崎の原爆資料館で歴史的な考察が軽視されていることに危機感を感じていただけに、『原爆の世界史:開発前夜から核兵器の拡散まで』が翻訳出版されたことは大変意義深いと思う。本書の原題は、Hiroshima: The World’s Bomb で、広島への原爆使用を焦点にしているが、その世界史的意味を論じている。

 本書は原爆の前史ともいうべき無差別大量虐殺、すなわち空襲による無差別爆撃と毒ガスなどの兵器開発および使用について、第1章「科学の共和国と国家」にて詳述している。

 本書で大事なところは、原爆・核兵器・ヒロシマを決して抽象化し過ぎないところである。誰がいつどのように原爆開発に関わったのか、誰がいつどのように原爆攻撃を命令したのか、誰がいつどのように原爆攻撃を実施したのか。そして、誰がいつどのように原爆による被害を受けたのか。ヴァンサン教授がヒロシマ原爆資料館に投げかけた「なぜ」。本書ではそのことを考察するための重要な研究の集大成が詳述されているのである。

 原爆投下をめぐる歴史的論争については、「原爆使用の是非」については戦略論に傾きがちであるが、本書では倫理的視点をきちんと提供している。

 さらに「第6章 日本―二発の原爆と戦争の終結」では、日本軍による南京での虐殺行為、重慶での爆撃、生物兵器の投入、毒ガス使用、「風船爆弾」、さらに特攻作戦に米側が恐れていたことに触れている。その上で、ポール・W・ティベッツ中佐などの原爆投下部隊の行動を、準備・運搬・実行を含めて、まるで目撃したかのように詳述している。しかしそれだけでは、きのこ雲を上から見た光景に過ぎない。

 ところが第6章にある「爆撃後の都市」では、ヒロシマでの惨状を、まるで目撃したかのように詳述しているのである。放射線障害についても「一見健康そうに見えた生存者たちが、何かの呪いにかかったかのように急激に体調を崩し、命を落としていったのである」と述べている。また、こうした中でも「朝鮮人」だからと広島市役所に差別的な対応をされた人物の証言なども記載されている。本章ではきのこ雲の下のさまざまな人々の体験が詳述されているのである。

 本書は2007年に出版されているので、アイリーン・ウェルサムのマンハッタン計画下での人体実験についての報道や、クリントン政権下で開催された人体実験諮問委員会の成果なども、把握できたはずである。そうした報道・研究・実態が扱われていないのは残念である。また世界の核開発に焦点を当てているため、世界の核被災者への記述もあまりない。グローバルヒストリーの中での「原爆」を扱うのであれば、グローバルヒバクシャへの視点、核の植民地主義、さらにスリーマイル原発事故やチェルノブイリ原発事故による核被災、とりわけ、残留放射線・放射性降下物・内部被曝の影響について、踏み込んだ研究・資料・証言を紹介してほしかった。

 著者はアメリカ外交史学会(SHAFR)の会長を務めたように、政治外交史の分野では信頼が厚く、本書はその研究成果が網羅されていると言って良いと思うが、社会史、や医学史の視点からは限界がある。そうであるだけに分野を超えた共同研究が急務だと思う。

 とはいえ、本書にはきのこ雲の上からの行動をきのこ雲の下から問う視点、科学者と倫理、軍事行動の非人道性への視点が重厚に描かれている。核と人間の関係を問い、改めて人類史の中での原爆、そして戦争について考察するために、本書が広く読まれることを願っている。

(「世界史の眼」No.42)

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日本では「世界史学」が必要と考えたわけ
岡崎勝世

※ 南塚信吾著『「世界史」の誕生-ヨーロッパ中心史観の淵源』(ミネルヴァ書房)は、2023年6月30日に発売されました。詳しくは、こちらをご覧ください。(編集部注)

 今般、『「世界史」の誕生』をいただいた。そのお礼のなかで「世界史学」が必要とかねてから考えていたが、本書を読んで、やっとその第一歩が記されたと感じた旨の感想を書いたところ、南塚さんから「世界史学」についての考えを書くようにとの依頼をいただく羽目になった。全く予測していなかったことなので驚きもしたが、しかし、自分の仕事を振り返る意味もあって、「一老人の繰り言」を述べさせていただくことにした。

 「世界史学」の必要性を考える契機になったのは、大学院時代に世界史非常勤講師をした体験と、埼玉大学時代にミュンヘンで行った長期研修(1990−91)での研究であった。そこから、日本の「世界史」を巡る問題の多くはその位置の特殊性から来ており、従って、「世界史」に関わって日本で生じている問題の解決には、関係分野全体を視野のうちに含む一つの研究領域を設定し、総合的に研究することが必要だろうと考えたのである。
 私が世界史の非常勤教師となった頃はちょうど学習指導要領の改訂(1970)で世界史像の転換(文化圏学習ヘの転換)があった時期で、自分が高等学校時代(1959−62)に学んだものと内容や構成が異なる世界史を教えなければならなかった。このことが、世界史とは何か、なぜ世界史像が変化するのかといった問題を考える契機となった。また教育という面からは、世界史の最初の学習指導要領(1951)から既に登場している、「歴史的思考力」の涵養という歴史教育の目標について、これは高等学校のみではなく大学に於いても重要な問題と考え、大学に移ってもいろいろ試していたことも契機となった。
 一方、こうしたこともあって世界史記述史に興味を持ち、長期研修では、ゲッティンゲン学派を開いたガッテラー、シュレーツァーらが身をもって示したキリスト教的世界史から啓蒙主義的世界史への転換について研究したのだが、ここから、西欧と日本における自国史と世界史の関係の大きな違いについても考えざるをえなくなった。古代ローマの時代に、聖書を直接的基盤とし、天地創造から「世界帝国」の時代に移り、第四の世界帝国滅亡とともに終末と最後の審判が訪れるとする、私が「普遍史(Universal History)」と呼ぶキリスト教的世界史がうまれ、以後、曲折を経て一九世紀まで書き継がれた。そこでは、「第四の帝国」をローマ帝国(中世以後は神聖ローマ帝国)とするが、「世界帝国」はその下に多数の国々を従えた覇権国家ゆえ、ローマ史の記述は、必然的にローマ支配に組み込まれた西欧の諸民族や諸国の歴史を内包するものとなっていた。この普遍史を「世俗化」して「世界史(World History」が啓蒙期に成立したが、そこではその「進歩史観」に基づき、世界史における進歩の頂点に西欧を置く形で世界史のうちに自国の位置が与えられ、さらに、同様の見解がランケの「科学的歴史学」に基づく世界史等にも引き継がれた。こうして、西欧では研究に於いても教育に於いても、自国史と世界史がいわば不可分の形で考察され展開されてきていたのである。
 日本における世界史教育について真剣に調べ始めたのはドイツからの帰国後だが、日本では西欧とは違いまず教育の場で「国史」から分離させて「万国史」が設置され、西欧の歴史教科書に依拠した、いわゆる「翻訳教科書」に依って教えられた。その後東京大学が設立されてドイツ近代歴史学が導入され、近代的な研究体制や科学としての歴史学の手法等の導入が行われた。だが世界史教育との連係は進んだとは言えず、例外的とも言えるほんのわずかな世界史の取り組みはみられたものの「三教科分立制」の時代に移ってしまい、「万国史」自体が消滅した。そして、大戦期に至ると「教授要目」が偏狭なナショナリズムを唱え、国史が東洋史も西洋史も支配する状況に陥るまでになった。私には、こうした動きは、国史と万国史の分立が孕んでいた問題と無関係ではあるまいと思われた。戦後の教育改革のなかでは東洋史と西洋史を統合して新教科「世界史」が生まれたが、その内容や構成は、戦前同様に「学習指導要領」で定めた。世界史教育はこの体制のもとで今日まで続いていることから、この間、世界史を巡る真摯な問題提起や提案、諸考察が行われてきたものの、三分科制を採用した歴史学研究体制の問題もあり、私自身が体験したようなさまざまな問題がなお未解決のままに続いていると考えざるを得なかった。
 以上のような経緯から、かかる特殊日本的な状況の由来やその問題の解決に取り組む研究にとりあえず「世界史学」の名称を与えて自分なりに考えてきたということなのだが、ただし「世界史学」については、内容を緻密に検討してきたわけではない。それは、多分、社会科歴史の教育実践の諸成果の研究と世界史記述というテーマを中心とする史学史的研究という二つの焦点を有し、それらを統合した世界史を追究していくものとなろうとぼんやりと考えた程度であり、もっぱら取り組んできたのは、ドイツ啓蒙主義歴史学や「普遍史」など西欧における世界史記述の歴史であった。しかしこれ自体もまだまだ欠陥が多く、ほんの一部を囓ったところまでしかできなかったというのが実情である。
 一方、高等学校における「世界史」に関しては、二〇一八年の「高等学校学習指導要領」が日本史と世界史を統合して「歴史総合」を設けるという大きな変革に踏み切った。そこで興味深いのは、かつて社会科歴史の一教科として「世界史」が出発した頃に立ち戻ったと錯覚しそうな取り組みが提起されていることである(今回重視されている生徒自身の「問い」と「討論」と同様、上記の世界史学習指導要領(1951)が生徒自身の問いと学びを中心とする「単元学習」を提起していたこと、さらにそこでは「古代日本国家」から現代に至る日本史も組み込んだ世界史像を提示していたこと等)。またこれとも関係しながら、岩波書店の「歴史総合を学ぶ」シリーズのように、歴史総合と世界史との連携を巡る議論も行われるようになった。上の「焦点」の一方に関しては既に現実の歩みが始まっているとも言えよう。他の「焦点」については、私は、アンソロジーのものや文化の一要素についての世界史的記述などは種々出版されるようになってきているが、しかし、上記のテーマに関する専門的研究に基づく体系的な専著はまだ現れていないと考えていた。
 そうしたなかで『「世界史」の誕生』に接して先ずわいてきたのは、私が待っていた著作がやっと現れたという思いであった。ただ、それとともに浮かんだ「世界史学」がいよいよ歩み始めたという思いは、私の夢想に基づくいささか独りよがりのものだと考えてはいる。私が世界史記述の歴史を研究の中心に置くようになったのは平成時代が始まったころのことだが、そのころはまだ雲をつかむような感じもあったことから、自分を励ます意味もあって「世界史学」を掲げるなどという発想が生まれたのかもしれない。しかし現在はこのように「励ます」必要もなく、既に現実のほうが進んで諸成果が生まれてきているということであろう。そして今後もこの動きは一層発展するであろうから、その結果、「世界史」に豊かな実りがもたらされることが大いに期待できると考えている。

(「世界史の眼」No.41)

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書評:久保亨『戦争と社会主義を考える』(かもがわ出版、2023年)
木畑洋一

 2022年から高等学校の新たな必修科目として設置された「歴史総合」をめぐっては、その実施を助けるためにさまざまな試みがなされている。「講座:わたしたちの歴史総合」というシリーズ名のもとで、著者を含む6人の歴史家たちがめざしているのも、「歴史総合」を含む高校の歴史教育の推進である。ただ、シリーズ6冊の内、第1巻(渡辺信一郎『さまざまな歴史世界』)と第2巻(井上浩一『さまざまな国家』)は、「歴史総合」では対象とされない17世紀までの世界を扱っており、「世界史探究」という新科目に対応する本となっている。また第6巻(小路田泰直『日本史の政治哲学』)は、「日本史探究」の助けとなる本としての意味をもつ。「歴史総合」での課題に正面から取り組む性格をもっているのは、残る3冊、すなわち、第3巻(桃木至朗『「近世」としての「東アジア近代」』)、第4巻(井野瀬久美恵『「近代」とは何か』)、および第5巻にあたる本書である。

 著者の久保亨氏は、「歴史総合」誕生の背景の一つとなった、日本学術会議による「歴史基礎」という新科目の提案に深く関わった歴史家である(参照、久保亨「高校歴史教育の見直しと「歴史基礎」案」『歴史評論』781号、2015年など)。いわばこの新科目の生みの親の一人であるといってよい著者が、「歴史総合」の教育のなかで強調すべき主題として、戦争と社会主義というテーマを選んで、このシリーズの1冊にしたものと考えられる。ちなみに、「歴史総合」では、「近代化」、「大衆化」、「グローバル化」という三つの柱が設定されているが、第3巻と第4巻が「近代化」に対応するのに対し、本書は「大衆化」の部分に主として対応している。

 本書は3章から成る。第1章が第一次世界大戦を、第2章が第二次世界大戦を扱い、第3章で社会主義の問題が集中的に論じられる。

 第1章では、日本とアジアの状況に即して、第一次世界大戦とその後の世界の姿が描かれる。これ自体、「歴史総合」に関わって、きわめて重要なことと言わなければならない。第一次世界大戦は、アジアでの戦闘(ドイツ支配下の青島への日本軍の攻撃)があったとはいえ、主な戦場はヨーロッパと中東地域であった。そのため、第一次世界大戦史研究においても、また世界史教科書においても、ヨーロッパでの戦争についての叙述が軸になり、大戦期におけるアジア、日本の問題は脇に追いやられていたという感があるし、日本史の教科書でも、第一次世界大戦そのものについての議論は濃密であったとはいいがたい。第一次世界大戦史へのそのような接近姿勢は、近年、大戦開始100周年(2014年)などをきっかけにする新たな関心の高まりのなかで修正され、山室信一氏の研究(『複合戦争と総力戦の断層:日本にとっての第一次世界大戦』人文書院、2011年)などに示されるように、大戦と日本の関わりについての議論が深められてきた。本書はそうした第一次世界大戦史の一つのよい例を示しているのである。

 中国経済史を専門とする著者は、その持ち味を十分に生かしながら、大戦期の日本や中国の姿を描いた上で、大戦がもたらした民族意識の高まりが戦後どのような形をとっていったかを活写する。評者も「歴史総合」での教科書叙述の一つの鍵が第一次世界大戦の扱い方にあると思っていたので、この試みは高く評価したい。

 ただ、逆にヨーロッパでの大戦描写が薄まりすぎているという感がするのは、少々残念である。第1章の最後に置かれた戦争責任と戦後賠償を扱った部分では、ヨーロッパの問題が軸となっているだけに、大戦自体についても今少しヨーロッパの状況にスペースが割かれてもよかったと思われる。

 つづく第2章は第二次世界大戦を対象とするが、ここでもアジア・太平洋局面をめぐる議論が中心となる。第一次世界大戦の場合と異なり、第二次世界大戦は、ヨーロッパとアジア・太平洋とがともに主戦場となり、日本にとっての戦争の意味はいうまでもなくきわめて大きかったため、これまでの世界史教科書においても、戦争開始までの過程から戦後処理に至るまで、両方の局面はかなり均等に扱われてきた。従って、大戦をめぐってアジア・太平洋に焦点を合わせること自体の独自性は薄いが、具体的な叙述を見ると、満洲事変時の状況や南京事件の様相についての詳しい議論が目立つ他、1930年代の平和運動をめぐる分析がヨーロッパでの展開を視野に入れつつアジアでのそれを論じる形になっていて、裨益するところが大きい。またこの章でも、戦争責任と戦後賠償の問題が重視されているが、その部分では日本とヨーロッパとの比較が効果的になされている。日本の問題に常に留意しつつアジア・太平洋を視座の中心にすえた上で世界に眼を配るという、こうした姿勢こそ「歴史総合」が求めているものといえるであろう。

 このようにアジア・太平洋を軸としながら戦争を扱った二つの章から転じて、第3章で社会主義の問題が論じられるにあたっては、ロバート・オーエンから始まってヨーロッパでの思想と運動の展開が重視される。ロシア革命後に作られたソ連型社会主義とならんで、戦間期におけるイギリス(労働党政府)やフランス(人民戦線政府)の経験が取りあげられ、さらに第二次世界大戦後のこれらの国における福祉国家建設も社会主義の文脈に位置づけられているのが、印象的である。日本やアジアにおける社会主義の問題は、戦後期に入ってから本格的に扱われるが、そこでは著者の自家薬籠中の題材である中国社会主義の比重が、当然のことながら大きくなっている。その際、「プラハの春と北京の春」とか「天安門事件、東欧革命とソ連解体」といった小見出しが示すように、ヨーロッパとアジアを同時に視野におさめる試みがなされていることに注意したい。「東欧やソ連の民衆を勇気づけ、体制崩壊を引き起こした要因の一つは、中国における89年春の民主化運動であった」(192頁)といった見方は、きわめて重要である。

 次に本書全体についての感想を一つだけ述べてみたい。

 本書では、戦争と社会主義とにそれぞれ著者なりの鋭いメスが入れられているものの、戦争と社会主義の関わり方という問題については、あまり論じられていない。第1章を読んだ際、ヨーロッパの影が薄いという印象をもたらした要因の一つが、社会主義を取りあげる本であるにもかかわらず、第一次世界大戦とロシア革命、さらにはソ連型社会主義との関連がほとんど述べられていないという点であった。もちろん、その問題はすでに論じ尽くされてきていると言えるかもしれないが、評者としては、若干肩すかしをくったという感じもした。この点にも関わって、戦争と社会主義の関連について、著者は、「第一次世界大戦がロシア革命を引き起こしソ連型社会主義を生んだ過程になぞらえるならば、第二次世界大戦が東欧諸国の人民民主主義政権と中国の1949年革命をもたらし、冷戦が始まる中で東欧と北朝鮮はソ連型社会主義の国となり、朝鮮戦争が中国へもソ連型社会主義をもたらしたことになる」(164頁)と述べている。この例の内、最後の朝鮮戦争と中国の社会主義化の関係についての議論は、本書のなかでも非常に興味深かった箇所であるが、本書全体として、まさに「戦争と社会主義」という論点をもっと突き詰めていく可能性もあったのではないかと思われる。

 そのような課題は残るとしても、本書が「歴史総合」という新科目で模索する教育現場に大きな手がかりを提供する本であることは確かである。歴史学研究会編集の『世界史史料』(著者はその中心的編集委員の一人でもあった)の参照項目が随所で示されていることがきわめて有益であることも、付け加えておきたい。

(「世界史の眼」No.41)

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文献紹介:長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』(2023、教育評論社)
木村英明

 筆者(木村)は、一昨年の2021年に本ホームページ上で、林忠行氏のモノグラフ『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)を紹介させてもらった。同書では、1917年10月革命に続くロシアの内戦期に、反ボリシェビキ武装蜂起へと突き進んだチェコスロヴァキア軍団(以下、適宜「軍団」と略)を舞台回しに据え、入り組んだ国際情勢のなかで、1918年10月28日のチェコスロヴァキア国家樹立に至る過程が世界史的視野から辿られていた。いっぽうで、本年刊行された長與進氏による著作『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』は、この時期の日本とチェコスロヴァキアの関係が「歴史上でいちばん近かった、という「仮説」」のもとに、両者の友誼と対峙の2年間を浩瀚な資料を読み解きつつ検証している。

 著者が提示する豊富な資料のなかで、とりわけ注目に値するのは『チェコスロヴァキア日刊新聞』(以下、『日刊新聞』)である。同紙は軍団の機関紙であり、軍の移動とともに編集部もまた各地を転々としながら、全部で717号が刊行されたという。軍団の救援こそが日本によるシベリア出兵の大義名分であったにもかかわらず、軍団内部のチェコ人・スロヴァキア人の声は、これまで日本でまったくと言っていいほど紹介さていない。本国のチェコやスロヴァキアにおいてすら、軍団そのものが社会主義期に否定的評価を受けていたこともあり、この貴重な新聞の本格的研究は進んでいないという。その意味で、チェコ語、スロヴァキア語、ロシア語に堪能な著者による同紙の記事や論説の翻訳紹介と、それに基づく日本・チェコスロヴァキア両国(シベリア出兵の初動時、チェコスロヴァキア国家は未成立だが)の互いに対する眼差しの検証は、国際的に見ても高いオリジナリティーを有していると言えるだろう。

 序章と終章に挟まれた全7章からなる同書は、序章で述べられているように、「資料に語らせる」ことが基本姿勢として堅持されている。出来事をめぐる両国間の情報や評価の齟齬について、安易な憶断を排すべく叙述が抑制され、これ見よがしの謎解きが繰り広げられることはない。むしろ出来事に注がれる複数の視点が、新たに謎を深めていくケースも見られる。しかし、各章ごとに論点整理が明快になされているため、読者が混乱することはなく、結果として、平板な唯一の物語に回収されることのない、多面的、立体的な歴史の姿が浮かび上がってくる。

 取り上げられているほとんどの出来事が日本語文献に乏しく、一般には知られていないので、以下に各章の内容をサマリーしておく。

 第1章は、チェコスロヴァキア初代大統領で、当時は独立運動組織の議長を務めていたT.G.マサリクの日本滞在に焦点を当てている。1918年4月のおよそ2週間のことである。日本側の新聞報道、マサリク自身の訪日回想とその日本観、『日刊新聞』に掲載された外事警察官竹山安太郎の談話、さらにチェコ語を話す山ノ井愛太郎(この人物について、著者は第4章で集中的に取り上げている)の回想、などが比較対照されている。竹山談話からは、外国要人にたいする然るべき丁重な対応が日本側に欠けていたことが、またマサリクの言葉からは、日本そのものへの関心や敬意というより、軍団救済のために連合国一員である日本からの支持を得ておく必要があったという程度の、プラグマティックな姿勢が伺われるようだ。山ノ井が語る、シベリア出兵に関して、マサリクと田中義一参謀本部次長との密かな接触があったのかどうかについては、資料の信憑性と他の資料不足を理由に、判断が保留されている。

 また、先行研究として本章の注には、1980年代初頭に南塚信吾氏や柴宜弘氏らが立ち上げた「日本東欧関係研究会」編『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』所収の林忠行氏の論文が挙がっている。筆者は、著者の長與氏から、今回の著作が、同研究会が行った問題提起への、40年遅れの回答であると聞き及んでいることを付記しておく。

 第2章では、いよいよ日本軍のシベリア出兵が始まり、日本人兵士と軍団兵士が直接対面した様子が、『日刊新聞』のルポルタージュ等を通して、すなわちチェコスロヴァキア側からの印象として紹介されている。本章タイトルにもなっているオロヴャンナヤ駅での邂逅については、戸惑いを覚えるほどに日本人兵士への賞賛に溢れている(「勇敢で、忍耐強く、敏捷で、創意に満ちた日本人兵士」、「小柄だががっしりとして、真新しい制服をまとった威風堂々たる黄色い若者たち」等々)。日露戦争時の旅順港閉塞作戦の「軍国美談」までが、チェコ語で詳述されている記事には驚きを禁じ得ない。著者によれば、そこには批判や皮肉の調子は感じられないという。まずは、連合軍の一翼を担う日本軍が彼らの傍に現れたことにたいする安堵感、そして歓喜が前面化した記事内容と言っていいのかもしれない。いっぽうで、第2章の最後には、この1年半後、1920年3月の状況を分析した『日刊新聞』論説記事の内容がまとめられている。そこでは、日本によるシベリア遠征の目的がチェコスロヴァキア軍救援などではなく、極東における日本の利害関係擁護であったこと、具体的には日本の過剰人口の入植先確保、天然資源獲得、さらには対米戦争時に起こり得る海上封鎖の怖れから、日本を大陸と島を含む国家とするための拠点作りの等の思惑があったと、突き放した客観的分析がなされている。

 第3章は舞台を東京とウラジヴォストークに移し、軍団傷病兵と日本人医療団(おもに看護婦たち)の交流が、やはり新資料をもとに描かれる。東京では、築地聖路加病院に収容された傷病兵の様子を日本の新聞数紙が掲載しており、これまで累積する時の地層に埋もれていた、軍団にたいする当時の社会的関心の高さに改めて光が当てられている。プラハやブラチスラヴァの文書館に残されていた写真(傷病兵と看護婦たちの集合写真、病院で催された「チェコスロヴァキア・バザール」の様子など)が数葉挿入されていて、そこからは両者の友好関係が時を超えて伝わってくる。また『日刊新聞』は、ウラジヴォストークから東京までの旅路のルポルタージュを掲載し、日本各地の風景、人々の暮らしの姿、東京の印象などを興味深く活写していた。ウラジヴォストークの病院で働いた赤十字の日本人看護婦については、『日刊新聞』が任務を終えて帰国する看護婦たちとの別れの宴を報告する記事に加え、後にチェコで刊行された資料集から「ミツバチのように働き者で、良心的で優しかった」彼女たちについての記述が翻訳紹介されている。

 続く第4章は、上記のような日本とチェコスロヴァキアの蜜月期に、「初めてチェコ語を学んだ日本人」として随所に姿を垣間見せる山ノ井愛太郎をめぐる謎を扱っている。『日刊新聞』から2編の山ノ井に関するルポルタージュが紹介されていて、そこでは彼を「東京の親チェコ派」と称している。さらに、軍団兵であった作家オルドジフ・ゼメクの回想録も引かれている。ゼメクが京橋区にあった山ノ井の家を訪ねる具体的なくだりはとても印象的で、チェコ好きな日本人好青年とチェコ人の、この時代には稀有であった個人的交流が描写されていた。

 しかしながら、著者がチェコ外務省文書館で発見した、初代駐日チェコ公使カレル・ペルグレルの報告書は、まったく別の山ノ井像について語っている。それによれば、山ノ井はまったく信頼できない人物であり、日本外務省に雇われた情報提供者(諜報員?)である旨が記載されているという。その後の昭和期における山ノ井の経歴もはっきりしない。第1章で触れられた、『田中義一傳記』中にある、田中とマサリクの密会、両者を通訳した山ノ井の逸話の真偽についても、著者は判断を保留している。章末尾には、都立松沢病院に入院していた山ノ井の晩年の姿が、1955年の朝日新聞の記事を引用しつつ触れられている。

 第5章は、「交流美談」のクライマックスを飾る、ヘフロン号事件の概要を叙述する。1919年8月にウラジヴォストークを出航した軍団の帰国輸送団第8便へフロン号が、福岡県白鳥灯台付近で座礁し、船の修理期間中に、盛んな民間交流が行われたという。これについては、日本側にもチェコ側にも文献が少なく、双方にほとんど知られていない出来事だったそうだ。乗員870人は、初め門司に運ばれた。プラハの文書館所蔵の写真が4枚掲載されており、門司の女性たちや子供たちを含む日本人と軍団兵士が、互いに入り混じって楽しげにレンズに収まる姿は、まさに本章タイトル通り、「交流美談の頂点」を思わせる。その後、兵船の修理のために、兵士たちは門司から神戸に居を移した。『日刊新聞』のルポルタージュ記事は、坐礁から門司上陸、神戸への移動について記している。それによれば、門司港からの出航に際しては、数百人の住民、何千人の学童が別れの挨拶に、チェコ語で「ナズダル」と叫び、兵士たちは日本語で「バンザイ」を唱えた。神戸においても、神戸市民が市内見物や自宅へと兵士を招いて、草の根的な交流が続いた。奈良への招待旅行も企画された。軍団兵士はこのような好意あふれるもてなしにたいして、音楽やソコル体操などを市民に披露して応えたという。サッカーの試合も日本人学生との間で行われ、6試合中4回、軍団兵士側が勝利したと『日刊新聞』は伝えている。10月末の出航まで、この熱い友好関係は続いたようである。また、この章の補論として、全部で36便に及んだという軍団の帰国輸送船団について、船名、乗員数、出航日と到着日(到着地も含む)が整理されていて、研究者にとって非常に有益な情報提供となっている。

 第6章と第7章では、両国の友好関係が描かれたこれまでの章とは、180度様相を異にする出来事が取り上げられている。1920年4月に、満州西部のハイラル駅で日本軍とチェコスロヴァキア軍団が衝突したとされる、いわゆるハイラル事件である。前年末以降、コルチャーク体制の崩壊、ボリシェヴィキ勢力の拡大、日本軍が後押しするセミョーノフ反革命政権と軍団の軋轢というように、急展開を遂げたシベリアの状況は、両軍の関係をネガティヴな方向へと導いていった。事件のきっかけは、ハイラル駅で日本軍が逮捕したロシア人鉄道員の押送に反対するロシア人群集、そしてロシア人に味方した中国軍と日本軍の間で起こった短時間の戦闘だった。その際に、軍団所有の装甲列車オルリークから、日本軍に向けて銃撃があったとする日本側とそれを否定する軍団側の間で、緊迫した対峙が生じた。著者は、まず日本側の新聞各紙の報道と陸軍参謀本部による公式記録を示す。新聞報道には、感情的な言葉で軍団を誹謗する調子が目につく(「文明を衒うチェック軍にして、過激派、支那兵、馬賊以下の残虐を敢えてせり」等)。報道も参謀本部記録も、軍団側から日本軍への銃撃を事実と認定している。いっぽうで、『日刊新聞』の記事(著者はこの事件に関する記事を16編確認している)とプラハの軍事歴史文書館に残る文書は、軍団からの銃撃を否認している(「チェコスロヴァキア軍は、中立を守るようにという命令に従って、軍用列車内に留まり、戦闘に参加しなかった」(『日刊新聞』)、「オルリーク、小銃、機関銃、砲からも、あるいは手榴弾による一つの攻撃もなされなかった」(文書館所蔵、オルリーク司令官の調書)等)。

 示された資料からは、双方で2名ずつの死者を出したこの事件の全体の流れについて、双方で大きな食い違いがなく、相違点は軍団側からの銃撃の有無に絞られることが分かる。

 ハイラル事件の結果、軍団の戦闘単位として重要かつシンボル的な存在でもあった装甲列車オルリークを、一時的に日本軍が接収した。第7章は、このオルリークをめぐる両軍の対立に焦点が当てられている。当初は日本軍の要求に従った現場の軍団側であったが、軍団司令官シロヴィー将軍の言にあるように「「オルリーク」の名前は、すべてのチェコスロヴァキア軍兵士を励まして、力付けるものの一つ」(『日刊新聞』)であったため、この接収に憤ったウラジヴォストークの軍団司令部は直ちに奪還に動いた。同じくウラジヴォストークの日本軍司令部の司令官大井大将に対して、軍団司令部は強硬に返還を要求した。日本側に談判に赴いたチェコ人少佐の回想録によれば、チェコスロヴァキア軍は実力による装甲列車奪還を試みるかもしれないこと、事件についての報告を連合国に提出すること、と日本側が予期しなかった「脅し」を突きつけたという。大井大将はオルリークの返還を了承するが、その決定に対して国内の日本軍内部で強い反発が起こった事実にも言及されている。

 第7章後半では、ハイラル事件をめぐって行われた、日本・中国・チェコスロヴァキアによる三者調査委員会の議論が、日本側とチェコ側の資料に基づいて並置されている。それらによれば、チェコスロヴァキア軍が軍事衝突に関与したのか否かは水掛け論に終始した。著者は、「現段階までの調査と研究によれば、ハイラルでの4月11日の銃撃戦は、偶発的な遭遇線であった可能性が高い。この事件は間違いなく軍団と日本軍の関係を悪化させたが、両軍の間でこれ以上の軍事紛争は起こらなかった」と総括している。

 終章には、現在、カトリック府中墓地に埋葬されている軍団兵士5名について、葬儀の様子を伝える当時の日本の報道と、チェコスロヴァキアの資料から突き止めた兵士たち個々の来歴があげられている。また著者自身が、チェコスロヴァキア独立記念日に合わせて、日本人研究者や在京チェコ大使館関係者と墓参に訪れた秋の一日が回想されている。チェコスロヴァキア軍団と日本のシベリア出兵を通じて触れ合いを深めたこの時期こそ、日本とチェコスロヴァキア両国の関係が「歴史上でいちばん近かった」、とする著者の仮説にとって、日本の地に埋もれることになった軍団兵士の存在は、何よりも雄弁な証左の一つであるだろう。

 著者は、『チェコスロヴァキア日刊新聞』の翻訳を長年に渡り続けていると聞く。同紙は、革命に続くロシア内戦の諸問題、第一次世界大戦後の新秩序形成への動き、さらに日本軍部の大陸進出の野望など、歴史の大変動期に関わる情報が、独立運動を展開していた中欧の小ネイションの目線から記録された、世界史研究者にとってたいへん意義のある資料である。翻訳の完成、出版が待たれる。

(「世界史の眼」No.40)

                                    

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論考紹介:小川幸司「書評:南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』」(『西洋史学』274号)
山崎信一

 2022年に刊行された『西洋史学』274号に、小川幸司氏による『国際関係史から世界史へ』に対する書評が掲載された。小川氏は長年にわたり、歴史教育、とりわけ高等学校における世界史教育に携わってきており、それに関する著作も多い。また2021年より刊行されている『岩波講座 世界歴史』(第三期)の編集委員を務めているほか、2023年6月には、岩波新書から、「シリーズ 歴史総合を学ぶ」の一冊として『世界史とは何か−「歴史実践」のために』を刊行している。

 歴史教育と歴史研究が別のものとして存在するのではない点が指摘されて既に久しく、さまざまな形で議論が展開されるようになっている。とりわけ、「世界史」という枠組みを設定することは、日本においては歴史教育において先行したこともあり、むしろ世界史教育が世界史研究を牽引してきた側面もあるのかもしれない。また、小川氏の述べるように、高等学校のカリキュラム変更(「歴史総合」、「世界史探究」の導入)が、世界史を各国史の総和として描くのではなく、その構成原理を検討する必要を強いているという側面もあるだろう。この書評は、歴史研究と歴史教育のそれぞれの関心が同じ方向性を持つことを確認させるものでもあり、ここに簡単に紹介を試みたい。

 小川氏は『国際関係史から世界史へ』の方法論に関して、非常に明解にまとめている。各国史の「並列」ではない、「脱ナショナル・ヒストリーの世界史」のため、連動と関係を重視する中で立ち現れる二つの観点を挙げている。一つは、世界史の垂直軸とも言える、世界史の「傾向」に対する諸地域の反発や受容による「土着化」の動き(小川氏は「傾向」の観点と呼んでいる)であり、もう一つが、世界史の水平軸にあたる、ある地域の緊張の高まりが別の地域の緊張の緩みをもたらすといった、諸地域の有機的なつながり(小川氏による「力学」の観点)である。このうち、「傾向」の観点に関して、小川氏は、ヨーロッパ中心史観に陥らないことの重要性を確認した上で、「土着化」だけにとどまらない「連鎖」のあり方にも視野を向けることを論じている。「傾向」の観点に関しては、その多様なあり方の分析が本論考の主要な部分ともなっている。具体的に挙げられているのは三つの点である。第一は、主権国家体制の東アジアにおける受容(対象書第1章)に関してであり、第二は、支配と被支配の権力関係の動向(対象書第4章、第6章)であり、第三は、「カラーライン」やジェンダー対抗軸といったさまざまな対抗軸の世界的な出現(対象書第3章、第9章)である。さらに、対象書に扱われていない「傾向」を補うものとして、同じ「MINERVA世界史叢書」シリーズの他の巻の存在が挙げられている。

 小川氏は全体として『国際関係史から世界史へ』に高い評価を与えている。それは、氏の歴史教育者としての課題や関心に応える点が多いが故でもあるだろう。特に、小川氏の指摘する、世界史教育において抜け落ちがちのアフリカ史、ラテンアメリカ史、東南アジア史、オセアニア史などの重要性や、世界史に「民衆の歴史」を組み込むべきことなどは、世界史教育全体の課題でもあるものだろう。小川氏の書評により、世界史研究の進むべき方向も、より明確になったと思われる。

(「世界史の眼」No.40)

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書評:百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)
木畑洋一

 本書は、1988年に岩波書店から出版され、2011年に岩波人文書セレクションの一冊として再刊されたことがある本の現代文庫版である。岩波現代文庫[学術]は、さまざまな学問分野で大きな意味をもった本を復刊して、新たな読者に提供していくという役割を担ってきた。本書が関わる国際関係・国際政治分野においても、たとえば、細谷千博『シベリア出兵の史的研究』(2005年、原著:有斐閣、1955年)や斉藤孝『戦間期国際政治史』(2015年、原著:岩波書店、1978年)などがすぐ頭に浮かぶ。斉藤氏の本については、著者没後の刊行であったため、筆者が解説を書かせていただいたが、原著に初めて接した頃のことをいろいろと思い出して、楽しい仕事になったことを覚えている。本書の場合、著者百瀬氏は九〇歳をこえてなおお元気であり、現代文庫版でも「あとがき」を執筆されている。この「世界史の眼」を出している世界史研究所の前身組織を支える存在であった百瀬氏の代表作の一つが、こうした読みやすい形で幅広い読者に改めて示されたことを、まず何よりも喜びたい。

 百瀬氏は、いうまでもなくフィンランド史を中心として、わが国における北欧、東欧の近現代史研究を牽引してきた研究者で、その著作はすこぶる多い。筆者が初めて氏の研究に接したのは、第二次世界大戦初期のソ連-フィンランド戦争(冬戦争)を扱った『東・北欧外交史序説 ソ連=フィンランド関係の研究』(福村出版、1970年)であり、その後も、『ソビエト連邦と現代の世界』(岩波書店、1979年)や『北欧現代史』(世界現代史28、山川出版社、1980年)などで、いろいろと学ばせていただいた。さらに、印象に残ったものとして、『国際関係学原論』(岩波書店、2003年)がある。氏に大きな影響を与えた江口朴郎氏の議論を基礎とする「人間解放の主体的諸契機」と題する章を中心的位置に据えるなど大胆な議論を展開したこの本が、氏の著作としてあまり言及されることがないのは、残念である。

 そのような百瀬氏の北欧・東欧研究と国際関係全体にまたがる研究との結節点ともいうべき位置を占めるのが、本書『小国』であるといってよいであろう。本書の詳しい内容紹介は割愛するが、古代世界における「小国」論の系譜から説き起こす序論部分に始まって、19世紀のウィーン体制下、クリミア戦争期、帝国主義の時代、1920年代、1930年代、冷戦期、緊張緩和期という各時期に、「小国」の位置が国際関係のなかでどのような変化をとげ、さらに「小国」についていかなる議論がなされてきたかが、丁寧に述べられている。

 強い力をもっている「大国」の思惑と行動を軸として描かれがちな国際政治の舞台において、「小国」(その定義自体論争をはらむが、ここでは立ち入らない)が、たとえば中立政策などを通じてどういった振る舞いをしてきたかが、本書では豊富な例に基づいて論じられる。その際挙げられている事例は、ヨーロッパのものが軸になっている。百瀬氏の専門上当然のことながら、北欧諸国の例が圧倒的に多く、東欧、バルカン半島も重視されている。一方ベネルクスに重点が置かれるのは第二次世界大戦後についての部分である。

 このように、本書は、基本的には「ヨーロッパの小国」論といってよく、アジア・アフリカの「小国」については、1950年代からの非同盟外交の意味が強調されているものの、比重は小さく、また中南米の事例などは簡単に触れられるのみであり、それに不満を抱く読者がいることは十分想像できる。ただし、ヨーロッパ以外でも、日本については、「小国」論との関わりがかなりの密度をもって論じられおり、特に第9章「「戦後」日本の「小国」像」は、きわめてユニークな議論となっている。

 こういった内容の『小国』が、2022年の日本において文庫本として再刊される理由は、何であろうか。

 本書には、2011年に岩波人文書セレクションとして刊行された際に書かれた「「冷戦終焉」以来の「小国」をめぐる理念と現実」という文章も収録されており、EUのなかでの「小国」の問題や、太平洋の島嶼国家の変化などが触れられ、「小国」による地域協力の重要性や、「内なる小国」、すなわち大国を含む国家の内部の「小国家」とも言える地方自治体や地域の新たな意味に、注意が促されている。しかし、2011年時点での再刊の意味は、必ずしもはっきりしない。

 それに比べ、2022年での文庫本としての再刊行の意味は、すこぶる明確であるといってよい。本書末尾の「岩波現代文庫本あとがき」で著者は、「本書が扱う事柄の応用問題ともいえる諸状況が、日本を含む世界各地で発生している」と述べつつ、「具体的な話題の中でも早速思い浮かぶのは、ウクライナ、そしてロシアの事態である」と記している。そして、ロシアのウクライナ侵攻の結果、フィンランドとスウェーデンがNATOへの加盟申請を行ったことに触れ、両国の動きはロシアの脅威への「敗北」と見られるかもしれないものの、「事態はそう単純ではないだろう」として、両国の今後の動きへの注視を促している。確かに、本書でも最も多く言及されているといってよいこれらの国々の最近の動きの意味を考える上で、本書の記述に戻ってみる意味は大きい。

 さらに、著者が直接述べているわけではないが、ロシアによるウクライナ侵攻という行為自体が、隣接する「小国」への「大国」の軍事侵攻という事態の一例として、「小国」をめぐる問題に連なるものである。そして、1939年のソ連によるフィンランド侵攻が歴史上の先例として思い起こされるが、本書で同戦争を扱った部分が国際連盟によるソ連の追放問題に絞られているのは、若干残念である。とはいえ、ウクライナ戦争の帰趨に注目しつつ、本書の「小国」論に接してみることは(筆者のように再読する読者も含めて)、きわめて有益であろう。

 ただ、35年前に刊行された本書の内容について、現在の時点からみて読者が不満を覚える点は、当然のことながら多々あるであろう。たとえば、本書には「小国」のなかの分化に着目した「極小国」と「弱国」についての議論が見られるが、そうした分化はさらに進んでいる。地球環境の変動によって、国の物理的存続自体が危ぶまれるような島嶼「極小国」の問題などが、すぐ頭に浮かぶ。さらに本書では、最後の方になって、それまでの議論と必ずしも明確にはつながらない形で(と筆者には感じられる)、「内なる小国」という問題が提示されている。それがもつ意味については、前述したように2011年版の追記で著者自身が触れているが、歴史を遡ってその視角を入れてみることも、「小国」の前提となる「国家」の姿そのものへの問いかけが強まっている現在、必要であろう。

 とはいえ、こうした感想はあくまでないものねだりである。日本における「小国」論の古典とも呼べる本書が、現在もきわめて刺激的な内容に満ちているということを改めて指摘して、本稿を結ぶことにしたい。

(「世界史の眼」No.39)

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書評:ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー『宗教の世界史』(渡邊昭子訳)ミネルヴァ書房、2022年
鶴見太郎

 宗教はなぜかくも持続するのか―。最終章である第11章で著者たちが明かしている問題関心を一言で表せばそのようなものになるだろう。2004年、ジョージ・W・ブッシュは、「取るに足らない証拠を基にイラクでの長引く流血の争いへと国民を導いた」にもかかわらず、なぜ再選されたのか。出口調査は、「具体的な宗教的信念に基づいた保守的な道徳観が、投票行動で重視されていた」ことを明かしたという(247)。このことは、別の章でも、リベラリズムに対する勝利として言及されている(179)。フランス革命、メキシコ革命、ボリシェヴィキ革命のいずれも宗教を根絶することはできず、フロイトが「負けが決まっている」と記したことは誤っていたようだ(248-9)。「原始的」と見られてきた宗教さえ、極端な環境の変化にも順応してきたのである(249-50)。

 ラテンアメリカの食と宗教などを専門とするジョン・スーパーと、欧米諸国のキリスト教を中心とした思想や文化、歴史を専門とするブライアン・ターリーによる本書の原タイトルは「世界史のなかの宗教」である。したがって、宗教がどのように世界史を形成していったかというより、世界史の様々な場面に現れる諸宗教の諸相をテーマごとにまとめた形になっている。事実、以下で一部紹介するように、多岐にわたるテーマそれぞれのなかで諸宗教の特質が論じられ、全体として何らかの歴史が積み上げられてく様子が描かれるわけではない。

 本書の中心を占めるのはキリスト教で、イスラム教やユダヤ教に関する記述がそれに連なる。そのほか、仏教などインド発祥の諸宗教への言及が比較的多い。ある程度キリスト教などのセム系一神教の宗教観に沿っているものの、その観点から別系統の宗教と比較することができるという意味では、これは必ずしも欠点ではない。逆にアジア系諸宗教の視点からセム系宗教を捉えることも興味深いが、それは宗教学・宗教史の今後の課題だろう。

 冒頭に示した、おそらく著者たちの問題意識と見られるものに照らして改めて本書を紐解き、世界史を見渡してみると、宗教には様々な入り口があることに思い至る。それは第1章「宗教の言語」で宗教に対する様々なアプローチや捉え方が紹介されていることからも明らかであるが、続く各章はその具体的諸相に迫っている。

 入り口の1つ目は、宗教の最もシンプルなイメージでもあるだろうが、第2章のテーマである「頂上へ至る」道を示すという側面である。人びとが生きる世界に意味を与える役割だ。それを具体的に人びとに示すのが第2章で示される「聖典と口伝」であり、例えば、ユダヤ教の『聖書』は、「ユダヤ教徒が自分たちの神の期待をどのように裏切って生きてきたのかを一貫して詳しく記す」(62)ことで、現在のユダヤ教徒が行うべき行動を説くのである。

 宗教は「聖なる場所」(第4章)を持つ。それは日常と宗教が交わる場であり、人びとは生きるなかで宗教に出会い続ける。あるいは、宗教は国家と一体化していくなかで帝国主義的な拡大の主体にもなる(第5章「帝国的拡大への道」)。それは人びとの政治的野望を入り口としている。もちろん、むしろ宗教こそが政治的野望の入り口となっている場合も、植民地における伝道の歴史に見出すことができる。その一方で、第6章のテーマでもあるように、宗教は「抑圧と反乱」に向け、人びとを結集させる媒介になることもあった。

 第7章の「宗教・戦争・平和」についても、宗教の両義性はよく伝わってくる。よく知られるように、キリスト教は敵に攻撃されても「もう一方の頬をさし出す」よう説くが、5世紀にヒッポ(現在のアルジェリアのアンナバ)の司教だったアウグスティヌスは、正戦論を打ち立てた。そこには、戦争のやり方を一定程度規制する意図や作用があった一方で、戦争が正当化される契機がはらまれていたことも確かだ。聖職者同士が対立を煽ることもあった。

 それでも、北アイルランドではカトリックとプロテスタントの指導者が宗派横断的な対話により暴力を停止する共通の基盤を作ることもあった。また、ある研究所は、すでに行われた行為を赦すことが霊的な次元によって促されることを指摘した。「どの宗教も、全体として理解するならば、和平に力を注ぐ者に主要な道具を与えうる現実的な伝統を提供する」と著者は指摘する(153)。

 第8章が扱う「社会問題」についても、世界史における宗教の裾野の広さをよく示している。宗教は奴隷制を肯定することがあった一方で、慈善の基礎にもなってきた。また、いわゆるイスラム過激派の思想家と目されるサイイド・クトゥブが強調したのは、イスラム教は、それを十全に適用することで自ずと社会正義を実現するということだった。

 それは、第9章「聖者と罪人」の最後で著者が指摘するように、宗教は「正誤を判断する定義を信者の間で設定してきた」し、「これからも設定するだろう」ということに関連するのだろう。つまり、やはり宗教は独自の世界史を形成してきたともいえ、日本語タイトルはあながち間違っていないのである。第10章「芸術表現」は、宗教が絵画や音楽の原動力になってきたこと、また宗教内部でそれに対して様々な議論があったことを整理している。「シク教では、音楽と宗教そのものを区別することがほぼ不可能である」(238)というから、音楽という入り口から人びとは自動的に宗教にも到達することになる。

 本書では言及されていないが、経済の領域とも、宗教は分かちがたく結びついてきた。マックス・ヴェーバーのプロテスタンティズムと資本主義との関連を論じた議論がどの程度有効であるのか、最新の知見に評者は暗いが、ユダヤ教が、ユダヤ人同士の信頼関係の基礎となり、それが結果として彼らの商業や金融を支えたことなどはすぐに思い至る。これは、反ユダヤ的な偏見がいうような、ユダヤ教の教義そのものが金儲けを促すということでは決してないが、ユダヤ教の存在抜きに彼らの経済活動を説明することもまた難しいのである。

 歴史学は一般に世俗的、ないし世俗主義的な観点からなされることが多かった。しかし、宗教を幅広く捉えるならば、歴史上でそれが関係しない領域を探すほうが難しいかもしれない。「世界史のなかの宗教」を捉えることで、「宗教の世界史」(宗教が形作る世界史)にまで目を向けることは、今後の歴史学における共通の課題になるのだろう。そのような予感をさせる著作である。

(「世界史の眼」No.39)

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M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―(下)
小谷汪之

はじめに

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(以上、前々号掲載)

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

(以上、前号掲載)

(以下、本号掲載)

3 「ビルトの体系」

おわりに

3 「ビルトの体系」

 マックス・ウェーバーはインド的社会発展の固有性を、(1)土地レンテ収取者層の重層化、(2)「ジャジマーニー関係」とウェーバーが呼んだ共同体的分業関係の発展、これら二点に求めた。このことは、その後の実証的インド史研究の成果に照らしても、肯定的に受け止めることのできることである。

 しかし、ウェーバー自身はこれら二つの歴史過程を結びあわせて、インド的社会発展を全体として理論化するということはしなかった。おそらく、それはウェーバーの関心外のことだったのであろう。

 そこで、本稿では最後に、このようなウェーバーの「インド的社会発展の固有性」論をどのような方向で継承していけば良いのかという問題を検討しておきたい。ウェーバーのインド社会論を踏まえるならば、どのようなインド史像が見えてくるのであろうか。

 前述のように、ザミーンダールはザミーンダーリー・ビルトと呼ばれるビルトを持ち、それによって土地レンテの一部分を収取することができた。ウェーバーは、このザミーンダールのような存在をより一般的に、「ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権を与えられた者」と表現した。このような土地レンテ収取者たちが鎖のごとくつながって、剰余収取体制を形成していたのであるが、それに対応して、土地レンテ収取権としてのビルトもまた上から下へと連鎖をなしていたのである。

 他方、「ジャジマーニー関係」においては、ジャジマーニーと同義であるビルトが共同体的分業の土台をなしていた。さまざまなビルトを持つ者たちが相互にサーヴィスの授受関係を取り結び、その総体が共同体的分業体制をなしていたのである。ここでは、ビルトの網の目が形成されていたということができる。

 このように、ビルトは土地レンテ収取権としてのビルトと、「ジャジマーニー関係」を構成するビルトの二種類に大きく分けることができるのであるが、共にビルトと呼ばれる以上、両者に共通する本質があるに違いない。それは、それぞれの世襲的な職とそれに付随する取り分権がワンセットになって、世襲的な権益(資産、家産)を構成し、それがすべてビルトと呼ばれたという本質である。例えば、ザミーンダールなどの場合、土地レンテ収取者としての性格が前面に出やすいが、徴税・納税において、一定の職を果たし、その反対給付として、土地レンテの一部を収取する世襲的権利を持っていたのである。チョードゥリーのような地域共同体の首長、村長などの村役人、村職人などの場合は、それぞれの世襲的な共同体的役職に従事し、共同体によって定められた所定の手当を受け取る世襲的権利をもっていた。このように、職と取り分権がワンセットになって世襲的な権益(資産、家産)を構成するという点において、二種類のビルトは共通の本質を持っていたのである。

 この共通の本質にもとづいて、これら二種類のビルトを連結させるならば、上はザミーンダールのビルトから、下は村職人などのビルトまで、社会全体がビルトによって編成され、体系化されていたことが分かる。それは「ビルトの体系」と呼ぶべき社会編成であり、この「ビルトの体系」が剰余の収取関係と社会的分業関係の双方を包摂していたところにインド的社会の固有性を見ることができる。

 インドにおける社会発展とは、この「ビルトの体系」がより複雑化、高度化していく過程に他ならなかった。土地レンテの総量が増大するのに伴って、一方では、土地レンテ収取権としてのビルトの数が増大し、剰余収取体制がより複雑な形へと発展していった。他方では、ジャジマーニーと同義のビルトの数が増大していったが、それは生産力の発展に伴い共同体的な社会的分業関係がより高度に発展し、複雑化していったことを意味している。この二つの歴史過程が同時進行することによって、「ビルトの体系」はより複雑化、高度化していった。そこに「インド的発展の固有性」を認めることができる。

おわりに

 本稿では、ウェーバーがインド的社会発展の固有性をどのように捉えようとしていたのかという問題を検討したうえで、その延長上に、前植民地期の北・中央インド社会の構造を「ビルトの体系」という概念で捉える視点を提起した。そうすることによって、ウェーバーのインド社会論を発展的に継承することができると思うからである。

 しかし、「ビルトの体系」論には一つ問題が残されている。「ビルトの体系」ははたしてインド亜大陸全体に認められるものなのであろうか。例えば、拙著『インドの中世社会』(岩波書店、1989年)では、前植民地期デカン(マハーラーシュトラ地方)の社会を「ワタン体制社会」という概念で捉えている。この「ワタン体制」と「ビルトの体系」との違いは、「ワタン体制」がザミーンダール的な土地レンテ収取者を含まず、在地の共同体―地域共同体と村落共同体―構成員のみからなる社会体制であるという点に存する。それは、ワタンが、基本的には、在地の共同体的「職」に関わるもので、土地レンテ収取権を含まないからである。その点で、「ワタン体制」は「ビルトの体系」の一部分ということになる。こういったことをインド亜大陸の他の地域についても検討することが必要である。ただし、南インドのタミル地方に関する水島司の研究や、ベンガル湾に面したオリッサ地方に関する田辺明生の研究など、「ビルトの体系」に類似した社会関係を析出した歴史研究がすでに出されているので、他の諸地域に関しても同様の成果が期待される。(注19)

1 カール・マルクス(1818-83年)やヘンリー・メイン(1822-88年)など、19世紀西欧思想家たちのアジア論とウェーバーのアジア論との間の本質的な違いについては、拙稿「ウェーバーの比較社会学と歴史研究」『現代思想』35巻15号(2007年11月臨時増刊)、46-49頁、参照。

2 Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Die Wirtschaftsethik der Weltreligionen II, Hinduismus und Buddhismus, Tübingen: J.C.B. Mohr, 1921, p. 4. 深沢宏訳『ヒンドゥー教と仏教 世界諸宗教の経済倫理Ⅱ』東洋経済新報社、2002年、4頁。

3 Wirtschaftsgeschichte, Abriß der universalen Sozial- und Wirtschaftsgeschichte, 3. Aufl., Berlin: Duncker & Humblot, 1958 (1. Aufl., München: Duncker & Humblot, 1923).

4 深沢宏訳『ヒンドゥー教と仏教』では、Landrente (Rente)が「地代」、Landrentnerが「地代徴収者」と訳されているが、「土地レンテ(レンテ)」、「土地レンテ収取者」と改訳した。その他にも改訳した部分がある。

5 黒正巌・青山秀夫訳『一般社会経済史要論』では、Rentenempfängernが「年貢収納者」と訳されているが、「レンテ収取者」と改訳した。それに関連して、その他にも改訳した部分がある。

6 Baden H. Baden-Powell, The Land-Systems of British India, 3 vols., Oxford: Clarendon Press, 1892. 

7 Irfan Habib, The Agrarian System of Mughal India, 1556-1707, 2nd revised ed., New Delhi: Oxford University Press, 1999 (original ed., Bombay: Asia Publishing House, 1963), p. 183, n. 65. 

8 H.H. Wilson, A Glossary of Judicial and Revenue Terms and of useful Words occurring in official Documents relating to the Administration of the Government of British India, London: W.M.H. Allen & Co., 1855, pp. 88-89.

9 地域共同体には、首長(北インドではチョードゥリー、デカン地方ではデーシュムク、カルナータカ地方やグジャラート地方ではデサイー、などと呼ばれた)と書記(デーシュパーンデーなどと呼ばれた)が存在し、それぞれの地域共同体内部の紛争の解決や権利関係の確認のために、地域共同体集会を開くなどの職務を果たしていた。また、各カースト集団は地域共同体ごとに第一次的集団を形成し、各地域共同体には各カーストの頭(メータルなどと称された)が存在した。村落共同体はこのようなものとしての地域共同体に支えられて存続することができたのである。地域共同体、村落共同体について詳しくは、拙著『インドの中世社会――村・カースト・領主』(岩波書店、1989年)を参照。

10 Irfan Habib, The Agrarian System of Mughal India, 1556-1707, p. 187.

11 ibid., pp. 161, 164.

12 Wirtschaftsgeschichte, p. 37. 黒正巌・青山秀夫訳『一般社会経済史要論(上巻)』、92頁。

13 原文は以下の通り。

(C) Jajmani.――Many castes from the Brahman downwards have the practice expressed in the word jajmani(1). Literally the word jajman means ‘he who gives sacrifice’ i.e. the person who employs a priest to carry out a sacrifice for him and of course provides him with the means for doing so; but it is now extended to include a client of any kind. The jajmans of a Brahman purohit, or house priest, are his parishioners, whose domestic rites at birth, initiation, and marriage it is his duty to superintend. In the same way, Chamars, Doms, Dafalis, Bhats, Nais, Bhangis, Barhais, Lohars all have their jajmani or circle of clients, from whom they receive fixed dues in return from regular service. The clientele is hereditary, passing from father to son. The Chamar’s jajmans are those from whom he receives dead cattle and to whom he supplies leather and shoes: whilst his wife has likewise a clientele of her own for whom she acts as midwife and performs various menial services at marriages and festivals. The Dom’s jajmani consists of a begging beat, in which he alone is allowed to beg or steal; the Dafali also possesses a begging beat; and besides begging he has to exorcise evil spirits and drive away the effects of evil eye. The Nai has a clientele whom he shaves and for whom he acts as matchmaker and performer of minor surgical operations (drawing teeth, setting bones, lancing boils, and so on): whilst his wife is the hereditary monthly nurse. Barhais and Lohars in villages have their circles of constituents whose ploughs, harrows and other agricultural implements they make or mend; Bhangis serve a certain number of houses, and Bhats(2) of the Jaga sub-caste act as perambulating genealogists for their clients, visiting them every two or three years and bringing the family tree up to date. These circles of constituents are valuable sources of income, heritable and transferable (the Dom’s begging beat and the Bhangi’s jajmani are often given as a dowry): and as such they are strictly demarcated and to poach on a fellow casteman’s preserve is an action which is bitterly resented. In many castes one of the panchayat’s chief duties is to deal with offences of this kind. Dom would not hesitate to hand over to the police a strange Dom who stole within his ‘jurisdiction’.(3)

(1) A synonym is brit or birt. Brit Nai, brit Bhangi, &c., &c., are common entries in the occupation column and may be best translated by ‘caste dues’. Jajmani is also so used, but generally it is reserved for the Brahmanical dues and probably includes not only the dues connected with purohiti, but those vaguer sources of income, such as presents and food received by all sorts of Brahmans at feasts of every kind.

(2) ……

(3)  It may be asked what happens if a client refuses to utilize the services of the particular Dom or Bhangi or Barhai to whom he is assigned. In all probability he would be boycotted and nobody would work for him. ……

14 E.A.H. Blunt, The Caste System of Northern India, reprint ed., Delhi: Isha Books, 2010 (original ed., London: Humphrey Milford, 1931), p. 260.

15 W.H. Wiser, The Hindu Jajmani System, A Socio-Economic System interrelating Members of a Hindu Village Community in Services, 3rd ed., New Delhi: Munshiram Manoharlal, 1988 (original ed., Lucknow: Lucknow Publishing House, 1936).

16 ibid., pp. xx-xxi.

17 ibid., pp. xix-xx.

18 ibid., p. xix.

19 水島司『前近代南インドの社会構造と社会空間』東京大学出版会、2008年。田辺明生『カーストと平等性―インド社会の歴史人類学』東京大学出版会、2010年。

(「世界史の眼」No.38)

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