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「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)
南塚信吾

II 多様な「万国史」の中で:明治14年まで(1870年代) 

 整備された文部省と明治5年(1872年)に出された学制のもとで「万国史」が積極的に出版された。明治6、7年から明治14年の政変までの時期は、それまでに支配的だったパーレイ的な見方とは違った「万国史」が出て来た。明治14年以後は「文明史」的な「万国史」で一色になるので、明治6年から14年までの時期は、パーレイ的でもなく「文明史」的でもない「万国史」が登場する非常に面白い時期である。

1. 作楽戸痴鶯訳編『万国通史』文部省 明治6-7年(1873-74年)

 まず最初に取り上げたいのは、作楽戸痴鶯訳編の『万国通史』である(これは国会図書館デジタルコレクションにある)。本書はイギリスのヘンリー・ホワイトの『普遍史概説』(Henry White, Outlines of Universal History, Edinburgh, 1853)の翻訳と思われる。なお、ホワイトは、この前にElements of Universal History, Edinburgh, 1848も出していて、岡崎は『万国通史』はこちらの本の訳だとするが、定かではない。ホワイトは、ケンブリッジのトリニティ・カレジでB.A. ハイデルベルクでM.A. とPhDを取っていた。

 作楽戸痴鶯(さくらど ちおう)は、山内徳三郎の筆名である。山内徳三郎(やまのうちとくさぶろう)(1844年-没年未詳)は旧幕臣で、幕府直属の旗本伊奈氏家臣の山内徳右衛門(1802年-1868年)の四男として京都で生まれた。徳三郎の長兄に山内作左衛門(1836年-1886年)、その下の兄に山内六三郎(のちの堤雲)(1838年-1923年)がいる。徳三郎は、長崎に遊学する前、19歳の時(おそらくは慶応元年(1865年))作左衛門について樺太へ旅している。徳三郎は、長崎遊学で医学者のアントニクス・F・ボードウィンに学んだが、その意図は医学の修行というより語学と化学の習得に主体があったようである。徳三郎はのちに医学ではなく、鉱山の調査開発の技師、地質学者としての道を歩むことになる。徳三郎がどのような経緯で『万国通史』の翻訳をするに至ったのかなどについては不明であるが、他の訳に、『西洋英傑伝』全6冊(明治8年)もある。

最後列中央の長身の人物が徳三郎

出典:森望:「幕末志士たちの解剖学講義」 | 解剖学ひろば (anatomy.or.jp)

 『万国通史』の構成は、上古史を除くと、次のようである。

中古史

第一篇 野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る

第二篇 暗世中欧羅巴形勢の事

第三篇 中古時代有名なる各国の事

    東羅馬;日耳曼國;以太里國;西班牙國;欧洲北方國住民;佛國;不列顛島峡

近代史

第一篇 第一章 宗教改革の事

    第二章 宗旨改革同時代他の改革の事

第二篇 第一章 1688年の革命に至るまで大不列顛國の事を記す

   (第二章「革命後のイギリス」と第三章「第一革命までのフランス」が訳されていない。)

第三篇 第一章 日耳曼國の事を記す

    第二章 以太里國及び西班牙半島の事を記す

    第三章 ニーセルランドの事を記す

    第四章 魯西亜國及び北方諸國の事を記す

第四篇 第一章 東方諸国の事を記す

    第二章 亜墨利加の事を記す

    第三章 輓近欧州動乱の事を記す

 英語の原書と突合せたところ、歴史の初めについては、原書では「聖史」として聖書的に「創世」からローマ帝国までが述べられているが、訳者は専ら宗教に関することで「怪奇」なことも多いので、これを省略するとし、東方の諸国の歴史から述べ始めている。また、1688年革命(名誉革命)後のイギリスの歴史と「第一革命までのフランス」の歴史が訳されていない。しかし、この時期の普遍史としては、この『万国通史』は質の高いものであった。史実の記述の正確さのほか、これまでの万国史とは違って、ネイション単位の縦の歴史の並列ではないことが特筆される。

 ヨーロッパ東部で扱われているのは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであるが、各国羅列的には出てこない。時代ごとに他の地域との関係で東部のヨーロッパが扱われている。

◎中古史

 ヨーロッパの東部が出て来るのは、中古史からである。ここでは、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドが出てくる。

≪ハンガリー≫

 まずは、中古史第一篇「野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る」のところで、野蛮の一つとして「アッティラ」と「ハンガリー」が出て来る。曰く、「フンス(フン族)の王にして威武を轟したるアッチラと云う猛将」がハンガリー、魯西亜の過半、北方の日耳曼におよぶ國を領していたが、これに足りずさらに東ローマの領地までも入手した。その後、西羅馬を得ようとして、ハンガリーのペストに「府」を構えたところで「暴死」したとある(中編上 28-31頁)。つぎに中古史第三篇の第二章「日耳曼(ゲルマン)國」のところでは、シャルルマーニュの死後、ドイツにダニューブ川近隣の人民が乱入してきたが、この人民は「ハンスの子孫」と察せられたため「ハンガリー人」と呼ばれたと出て来る(中編中 33頁)。フン族の王アッティラがハンガリーを作ったという説を採っているわけである。

 1400年代になって、ハンガリーとヲーストリアとは婚姻によって、ハンガリー国王の位がヲーストリア人の手に落ちた。ヲーストリア人はその領土を自国のなかに混合しようとしたが、ハンガリー人は頑固にこれを拒否した(中編中 41-42頁)。ハンガリーの国王がハプスブルク家から継続的に出るようになるのはモハーチの戦のあった1526年からであるが、15世紀にも二代ほどあったので、これは間違いではない。

≪ボヘミア≫ 

 同じく「日耳曼國」のところで、1273年にハップスビュルグハプスブルク)のルドルフが、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)となったあと、ボヘーミアを攻めて、その王ヲットカルと戦闘、彼と和して、その地の領有を認め、それゆえルドルフはオーストリア、スチーリア、カリンシア、カルニヲラを領有したことが出て来る(中編中 37-38頁)。つぎに、ロクッセンビュルグ(ルクセンブルク)家のシギスモンドが1410年から1437年まで帝位にあった時のことが書かれる。この時、プラハのヤンハウス(ヤン・フス)と言う者ウイクリッフの主意を主張し初めて「宗旨改革」(宗教改革)の源を日耳曼國中に発した。シギスムンドはコンスタンツ会議にフスを呼び出し、これを処刑した。だが、これはボヘーミア本国に聞え、フス派は「暴烈の戦闘」を起こした。しかしこれはシオギスムンドに抑えられたとある(中編中 44-45頁)。ボヘミアについて詳細が書かれ、ヤン・フスのことが紹介されるのは、本書が初めてであった。

≪ポーランド≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところでは、中世のポーランドの歴史が述べられる。ロシアの一州となったポーランドというスクラボニック(スラヴ人)の国は、ドイツ帝国の一部になったたが、14世紀初めのラジスロース(ラジスラス)四世のときに独立国となり、1333年から1370年のカッシミルゼグレート(カジミエシュ大王)は、領土を広げ、また 国内の状態を改めた。「此の時国民正に奴隷とも云ふべき卑陋の形態に陥りし時に投じ貴族意を恣にし獨立の權を示し殆んどポーランド國をして滅亡せしめん形成あり」。そこでカジミエシュ王は「貴族を威を取挫き」国民が安心できるようにしたというのであった(中編下 18-19頁)。これまでの万国史ではポーランド分割のことしか書かれていなかったが、本書では、ポーランドの歴史の重要な時期がきちんと押さえられている。

◎近代史

 近代史においては東部のヨーロッパについての記述は充実する。とくにハンガリーとポーランドが注目されている。

≪ハンガリーとトルコ≫

 近代史第一篇第一章「宗教改革」のところで、ドイツ、フランスが宗教改革によって混乱している機を狙って、トルコが日耳曼國を襲撃してきた。その中で、1531年、トルコの首長「第二世ソリマン」(スレイマン2世)がロードス島を奪い、さらにフランス国民に扇動されて「ヲンガリー國」に侵入して之を押領し、さらに大軍をもってウインナを包囲した。これに際し日耳曼國内では宗教による対立をしばし押さえ外的に対抗する約が成立、これを聞いて、シュルタン(スルタン)は兵を引いた(下編上 18-19頁)。

≪三十年戦争の発端としてのボヘミア≫

 第三篇第一章日耳曼國の節において、三十年戦争が論じられる。そこで、ボヘミアの位置が、正確に論じられている。宗教対立の中で、「新教徒がプラグユー(プラハ)に於て帝室の執政等に為したる所業」が「三十年の戦争」の発端となった。対して、旧教徒は維也納(ウイーン)の城門に集まった。1619年にフリードリッヒ2世が帝位に着くと、ボヘミアとモラビヤの二国はハプスブルクを捨てた。1620年にウ井センビルグ(ホワイトヒール 白山)にて両軍が戦い、旧教徒軍が勝って、ボヘミアとモラビヤは再びオーストリアに附属することになったという具合である(下編中 3-5頁)。

≪トルコとハンガリー・オーストリア≫ 

 三十年戦争の後、オスマン帝国の第二次ウィーン包囲の歴史が書かれている。1648年のウエストファリア講和の締結後、匈牙利國に於て新教徒が墺太利の管轄に抵抗して、ルイ14世の仏蘭西からの支援も得て、「噴發」した。このとき、匈牙利とポーランドを「蚕食」していた土耳古國人が「墺太利の威權を壓服」しようとして、1683年、ケラーモスタハ(カラ・ムスタファ)が大兵を率いて匈牙利國を横行し、維也納(ウイーン)を取り囲んだ。ヨーロッパ中がパニックになった時、ポーランドの「勇敢不屈」のヂョン・ソバイスキー(ヤン・ソビエスキ)が日耳曼各国からの兵を集めて、土耳古を撤退させた。これに対して、今度は、日耳曼兵が匈牙利國内の土耳古兵を追い出そうとする。しかし、「不幸なる匈牙利國人一般の救助になるを得ず」。なぜならば、「此國の地方によりては、久しき以前より、土耳古國人之を占領したりしかば、此地方の匈牙利國人は、殆ど土耳古國人の風俗に化せられ、其國體を失なひたり」。「然れども土耳古の管轄外の地方に於ては、数多のプロテスタント宗徒ありて、其中一人も回々教に入る者なかりき」。そういう人たちは、テキリー(テケリ)という一貴族の元に土耳古に抵抗せんと兵を起こした。トルコがウイーンに迫ったので、墺太利はそういうハンガリー人と妥協せざるを得ないと考えたが、ソビエスキの勝利が見えると、墺太利の兵はハンガリーを攻めてこれを平定し、1685年にハンガリーの皇帝選挙権を奪い取り、匈牙利をハプスブルク家「累代の領地」と定めた(下編中 22-24頁)。1685年の話は、1699年のカルロヴィッツ条約の事ではないかと思われるが、ほぼ当時の勢力関係を正確にとらえている。

 次に、マリア=テレジアの皇位継承問題が扱われる。墺太利皇帝第二世フレデリッキが1739年に死亡したとき、其子は只一人の女「マリーゼルサ」(マリア=テレジア)だけであった。彼女が帝位に就くのにほとんどの所領(領邦)が反対し、彼女は匈牙利に「走った」。幸い匈牙利はマリア=テレジアを支持した。

「マリーゼルサは今や詮方盡き、外に依頼すべき手段なければ、乃ち匈牙利國に走り、一旦其身の禍を避けたりし・・・」。かくて、「従来久しくハップスボルク家と通交する地方に住居したるスッラオニック(スラヴ)及び洪牙利人をして、彼を援けんと噴發せしむるに至れり。」(下編中 33頁)。

≪ポーランド分割≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところで、ポーランド分割が書かれる。

「是まで波蘭國の歴史は別に詳明の記載なけれども、元来此國は政體確実ならず、始終外國の關渉を受け、貴族は傲慢なりて、人民は其過酷なるに苦しみければ、漸次に國威衰微し獨立國たるの勢いを失なへることは瞭然たるべし」(下編中 67頁)。

 露土戦争(1768-1774年)に際し、ポーランドが分割された。その露土戦争について、こう書いている。18世紀の末、イエズス会にそそのかされてポーランド人のカトリックが、ロシア領になっているかつてのポーランド領に支配を及ぼそうとしたのを機に騒動が起きて、逃亡したポーランド人を追って、ロシアがオスマン領に侵入したことを機に、露土戦争が起きた。これは不明であるが、原書にもそう書いてある。そして、「此戦争の最中、即1772年に当りて魯墺普の三國一致して、此防禦なき波蘭國を割取せんと約し、各その本國に近き地方を分ちたりしが、獨り魯西亜は此時獅子の割賦を得たり。」という(下編中 68頁)。

 次いで、フランス革命に際してまたポーランド分割が行われた。

「佛朗西動亂(仏蘭西革命)の際に、此國再度の分割ありしが、是1792年なり。是時に嘗てコスキスコ(コシューシコ)なる者の指揮に随て此國の人民獨立戦争を起こしたるが、是亦残忍に壓砕せられし後は、此國の成立全く絶へたり。是即1794年なり。蓋斯く滅亡せしめし事をば、當時欧羅巴の人、誰有て咎めざる者なかりし」 (下編中 68頁)。

 だれもポーランド分割を咎める者はいなかったと批判している。それはウイーン会議でも是正されることはなかった。ウイーン会議でポーランド人は「其本國の特許風習を公然と保有することを許准せられしが、一度此國民謀反を企てけれども、1831年にワルソーを取られ、其鎮定に及びける後は、魯國は掠略地として之を所置せり」(下編中 69頁)。

 ロシア領ポーランドだけを詳しく書いているが、この時期の日本において、ポーランド分割は、強い関心事であった。

≪希臘≫

 近代史の終りの方、第四篇第一章東方諸国において、ギリシアが扱われる。

 ギリシアはオスマン帝国の支配下にあった。それは1500年代に土耳古には優れたスルタンが輩出したからで、領土をアジアとヨーロッパに拡大し、ヨーロッパのほうでは、「希臘全國且匈牙利過半も」領土となった(下編下 2頁)。

 そのギリシアの独立の過程が述べられる。「希臘國の都たるヂヤニナ(ヤニナ)國のパソー(パシャ)アリーテブレン(アリ・テベレン)なる者」、独立を企てたが、1822年に大敗した。然れども、騒動はまだ終わらなかった。「蓋希臘國の人民、多くは西教徒なりしを以て、土耳古の管轄を脱せんと希へるを以てなり」。土耳古政府は「麥西(エジプト)國のパソーの兵隊の援を以て」これを押さえんとし、残忍なる戦争を続けたので、「西方欧羅巴人の心を感動せしめ」「西教を奉ぜる人民にて且其昔文明名ありし希臘人の子孫の今モハンメンダン教を奉ぜる所の國に抵抗して、其獨立を謀るを援けんと奮發せり」。英国の艦隊を主とする艦隊が、ナワリーノにおいて勝利し、「パソー」の兵を撤去させた。そして1833年、希臘独立の商議が成って、「希臘はバワリアの公子オゾなるものを奉じて」独立國となった(下編下 8-9頁)。

 これまでの「万国史」以上に詳細な記述になっている。当時の日本においては、ギリシアの独立は強い関心を持って見られていたのである。

◎輓近欧州動乱

 最後に、フランス革命を含め、輓近欧州動乱を論じているところでは、東部ヨーロッパについては、1848年革命期のハンガリーが扱われている。佛朗西の動乱(フランス革命)、1830年の改革、1848年の動乱が述べられて、そのなかには、ソシアリスト、コンミュニストの登場などが出て来る。1848年については、ハンガリーを中心としてこういう記述が出てくる。

「墺地利亜(オーストリア)の所領に於て、此動亂の結果は尚一層不幸に陥れり。夫れ以太里(イタリー)は復容易に壓服せられ、又墺國政府の為す欺詐に由て、逐次に蠢食せられ、遂に其國の獨立を失なへるなりと、兼て痛心せる匈牙利(ハンガリー)國民の鋭意なる首謀者は、此機に投じて、其舊政體を恢復せんと企て、且帝都維也約(ヴィエナ)も一揆を醸もしければ、帝は奔て之が災を避けたり。是に於てクローチアの人民、其首長に從ひ、其の他墺國所轄の内に列したる、半開の人種等と共に、此一揆鎮壓の為に、其兵隊を編成し、乃維也約都を砲撃し遂に此都を降せり。然るに勇敢なる匈牙利國民は、尚抵抗して、未だ少しも畏縮せる色なきを以て、魯國の助勢を依頼し、遂に彼等をも壓服したり。此時其首謀輩は、數多鄰國の土耳古に脱走しけるを以て、魯西亜帝土耳古に之を交付することを要責せしけれども、英國政府の保護あるを頼み、土耳古政府は決然として、之に從うをなささりき」(下編下 53頁)。  

 この事実関係はほぼ正しい。オーストリア、イタリア、ハンガリー、クロアチア、そしてロシアとトルコ(オスマン帝国)の動きを相互に関係させて論じているのは、出色である。とくにクロアチアの動きが描き出されているのは、日本では初めてであろう。

 なおこの19世紀中頃において、ハンガリー以外のヨーロッパ東部は出てきていない。

  ***

 以上見てきたように、作楽戸痴鶯訳編『万国通史』においては、ヨーロッパの東部はこれまでの万国史よりもずっと多く詳しく正確に、しかも時代の動きに組み込まれた形で出て来る。主なものは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであった。ボヘミアがしっかりと登場し、フス派の動きが書かれていたり、ポーランドの歴史が「分割」以外にも書かれていたり、1848年革命について諸民族の複雑な関係が書かれていたり、これまでのパーレイ的な「万国史」を超える記述が出てきている。

 この『万国通史』の特徴をまとめるならば、

  1. 原書の「聖史」を省略して世俗史として歴史を考えていた。
  2. ヨーロッパ史が中心であるとはいえ、さらに各国史的であるとはいえ、明治期最初のしっかりとした世界史でアジアなどもその範囲に入っていた。
  3. パーレイのような諸国の歴史の並列ではなくて、諸国間の関係を押さえ、また時代性を捕まえようとしていた。
  4. ヨーロッパの東部の歴史も西部の歴史の「付属」としてではなく、それ自体として直視していた。

 このような「万国史」はその後どのように受け継がれ発展させられたのであろうか。

(続く)

(「世界史の眼」No.32)

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書評 サラ・ロレンツィーニ(三須拓也・山本健訳)『グローバル開発史 もう一つの冷戦』(名古屋大学出版会、2022年)
木畑洋一

 第二次世界大戦終結後1990年前後までの世界史は、冷戦の歴史として描かれることが多い。しかし近年では、この時期に同時に進行していた脱植民地化に重点を置く視点も浮上してきている。評者も『二〇世紀の歴史』(岩波書店、2014年)で、帝国主義世界体制の解体過程を軸としてこの時代の世界史を捉えていくという見方を提示した。冷戦史自体についても、脱植民地化との関連を考慮して再検討するという試みが、O・A・ウェスタッド『グローバル冷戦史:第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)、同『冷戦:ワールド・ヒストリー』(岩波書店、2020年、本書については「世界史の眼」No.9, 2020年12月、で紹介した)などによって成されてきている。

 冷戦と脱植民地化の絡み合いには、冷戦下の「熱い戦争」と植民地解放戦争の関連、冷戦イデオロギーと脱植民地化をめぐる諸思想との関連など、さまざまな側面があるが、一つのきわめて重要な要因が、旧植民地諸国を対象とする開発援助の問題である。脱植民地化によって新たに独立した国々が経済的に自立し発展していく(経済的脱植民地化)ためには、外からの支援を必要としたが、そうした支援策としての開発援助に、冷戦の東西両陣営にまたがる「先進国」側はさまざまな思惑を抱きながら取り組んでいった。この問題への関心も近年広がっており、そうした問題意識に発する研究として、日本でも、渡辺昭一編『冷戦変容期の国際開発援助とアジア:1960年代を問う』(ミネルヴァ書房、2017年)や秋田茂『帝国から開発援助へ:戦後アジア国際秩序と工業化』(名古屋大学出版会、2017年)などの成果が生まれている。

 本書評の対象である『グローバル開発史』は、この問題にがっぷりと取り組んだ研究書であり、広い視野で冷戦期の開発援助問題に歴史的分析のメスを入れている。原著の副題「一つの冷戦史 A Cold War History」が訳書の副題では「もう一つの冷戦」と若干のニュアンスを加えたものにされているが、本書が行っているのは、まさに冷戦史の見直しであり、訳書の副題はそれにふさわしいといえよう。

 本書の内容の詳しい説明は、本書巻末の「訳者解説」のなかで要を得た形でなされているので、ここではごく簡単な紹介にとどめておきたい。

 まず第1章では、第二次世界大戦までの植民地支配のもとであらわれてきた植民地開発思想と大戦期における開発への取り組みが概観される。第2章からが冷戦期を扱う本論となり、第2章では1949年に公表されたポイント・フォア・プログラムを軸としてトルーマン政権期の米国における経済開発計画の様相が紹介される。次の第3章で開発援助に対するソ連側の姿勢が論じられた後、第4章の対象は再び西側に戻り、1950年代、米国のアイゼンハウアー政権が開発援助に消極的であったのに対し、60年代に入って登場したケネディ政権が近代化論を掲げつつ、援助に積極姿勢を示したことが強調される。さらに、58年のEEC結成に示されたヨーロッパ統合の動きが、開発援助と密接に関わっていたことが指摘される。このEECの問題は、国際機関に焦点を合わせた第5章でも引き続いて取りあげられるが、ここでは他に、西側の機関として経済協力開発機構(OECD)に作られた開発援助委員会(DAC)が、東側の機関として経済相互援助協議会(コメコン)の技術援助常設委員会が、分析の対象となる。国際機関の検討は第6章にも続き、国連での議論や世界銀行の活動が紹介された後、64年における国連貿易開発会議(UNCTAD)の設立が取りあげられる。次の第7章では70年代の展開が扱われ、社会主義圏の見方が改めて論じられた上で、援助の対象とされていた国々による新国際経済秩序(NIEO)の要求が取りあげられる。70年代には先進国において環境問題が浮上し、経済成長への疑義も出てくるが、その状況下での開発援助をめぐる議論を対象とするのが第8章であり、さらに第9章では世界銀行によるベーシック・ニーズという考え方の提唱や人権思想との関連が扱われる。続く第10章で、開発思想が新自由主義によって攻撃され、経済成長が重視される方向が再び強まった80年代の状況を描いた後、終章で援助をめぐる最近の状況に触れながら、著者は本書を閉じるのである。

 以下、本書について評者が抱いたいくつかの感想を述べてみたい。

 本書の特徴としてまずあげるべき点は、開発援助を行う側の思惑と姿勢について、実に幅広い検討が行われていることである。従来の開発援助研究では西側諸国、とりわけ米国やイギリスについてはかなり周到な分析がなされてきたものの、冷戦におけるもう一方の陣営であるソ連や東欧に関しては、十分な検討が行われてこなかったという感がある。それに対し、本書の著者は、ソ連側を扱うに際しては史料的制約が大きいことを認めつつ、その姿勢を明らかにすることに相当程度成功している。スターリンがこの問題に関心を抱いていなかったこともあって、ソ連の関わりが積極化したのはスターリン死後であったが、その場合も、開発問題は帝国支配の遺産であるという基本的な認識があり、援助の対象となる独立国は基本的に西側陣営に属するという見方が継続したのである。

 帝国支配から開発援助へという流れは、著者がヨーロッパ統合の動きのなかに開発援助問題を位置づける努力を払っていることによって、本書ではっきりと看取することができる。「ヨーロッパ統合は、帝国の共同経営のための事業だった」(79頁)といった大胆な言明も、本書の叙述のなかでは十分に生きている。ヨーロッパ経済共同体(EEC)設立時の議論や、その後のEEC、ECの「第三世界」政策は、近年日本でも本格的な研究の対象となり、黒田友哉『ヨーロッパ統合と脱植民地化、冷戦:第四共和制後期フランスを中心に』(吉田書店、2018年)というすぐれた業績などが出されているが、本書は、その歴史的位置づけが説得的になされているのである。

 著者はまた、中国の対アフリカ援助政策も一定の紙幅をさいて検討している。中国のアフリカへの関わりが最近になって出てきたわけでなく、すでに冷戦期から見られていたことは、タンザン鉄道の事例でこれまでも知られていた点ではあるが、ソ連・東欧の姿勢と並べて論じられることによって、それについてのイメージはきわめて明確になった。

 このように、従来の開発援助研究で周縁部に置かれていた主体についての議論がなされている一方、評者の問題関心から若干の不満を覚えた点がある。それは、イギリスやオーストラリアを軸とするコロンボ・プランの扱い方の軽さである。本書の主題を論じる上でこのプランはきわめて重要な意味をもつにもかかわらず、本書での言及は2箇所のみで、しかもその中身に詳しく立ち入ることはされていない。すでにいろいろ議論がなされている対象であるという理由からかとも考えたものの、この欠落はやはり問題であろう。

 それはさておき、このように開発援助にかかわった多様な国々に眼を配ることによって、本書は冷戦と脱植民地化の間の関係の複雑さに光をあてることに成功している。帝国主義の遺産を否定しながらグローバルな冷戦のイデオロギーとして近代化論を掲げた米国と、帝国支配の時代からの継続的要素を強く残しつつ援助にあたった西欧諸国の様相が大きく異なっていたということや、社会主義国が被援助国側の事情にほとんど関心を払わなかったために東南関係が悪化していったことなど、多くの論点が提起されている。評者としては、60年代中葉に米国の政治家のなかに東欧諸国を巻き込んで南の国々を開発する共同戦略を考える者がいたとか(107、123頁)、70年代に東西南三者間産業協力という構想が社会主義陣営の側に存在し、実際に協力活動や東西両陣営の合弁事業のための国家間協定が増えていったとかいう(155頁)指摘にも、関心を抱いた。

 さらに、開発援助に関わった人々が、開発問題をめぐる国際的な知識共同体とでも呼ぶべきものを作り上げていたという著者の指摘も、刺激的であった。本書では、国際連合や経済協力開発機構(OECD)などの国際機関の役割も重視されるが、そこでは「科学的手法に基づく知識共同体が形成」(239頁)されていたのである。本書には、ラウル・プレビッシュとかW.A.ルイスとかいった、この問題に関わるいわばお馴染みの人々に加えて、ECのクロード・シェイソンやフランスのジャック・フェランディなどといった、少なくとも評者にとっては初耳の人々の活動が紹介されている。重要な人物について訳者が「人物紹介」を作成して巻末に置いているのはきわめて有益であるが、望むらくはシェイソンやフェランディなど名前が全く耳慣れない人々も取りあげていただきたかった。

 最後に、本書全体の問題と感じる点として、開発援助が被援助国側に具体的に何をもたらしたかということの扱いがある。被援助国側について相応の議論は行われていることは事実であるし、途上国側から示された「第三世界主義」は、74年に国連の資源特別総会で採択された「新国際経済秩序」(NIEO)にも関わらせながら確かに強調されている。しかし、援助の実態についての踏み込んだ分析にもう少し接したかったという気持ちが読後感として残ったのである。

(「世界史の眼」No.31)

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(3)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その3)
南塚信吾

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

4. 『巴来(パーレイ)万国史』牧山耕平訳、文部省、1876年(明治9年)

 ようやく明治9年に、寺内章明『五洲紀事』らが依拠したパーレイの本が完訳された。牧山については知られるところは少ないが、他に経済関係の翻訳がある。『巴来(パーレイ)万国史』は、上下各2巻、計4巻からなっていた。それまでは、英語版を文部省内外で読んでいたのであろう。1867年の再渡米のさいに、福沢諭吉が一冊持ち帰っていることが知られている。そのパーレイの全体的な姿が日本語で登場したわけである。原書は「グードリッチ氏ペートルパーレーノ名ヲ假リ著セシ」ものと紹介している。英語版の初版はSamuel Griswold Goodrich (Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography(Boston,1837)である。英語版は何版も出ていて、1885年には日本でも出ていたが、牧山の翻訳にあたっては、1837年版が使われたようである。

 本書は、明治初期の「万国史」のベストセラーであった。これは教科書ではなかったが、自由選択教科書時代の産物であった。すでに述べたように『五洲紀事』の元になった教科書であった。

 緒言では、本書は、「風船ニ駕シテ游行スル事並ビニ目撃スル所ノ奇事ノ説話」であるとし、歴史並びに地理誌の概説、地球上水陸の区分、亜細亜阿弗利加及び其の他の国々の人民、世界の各種の人民のことを述べるとある。ここで、「歴史」は「世界創造以来人世の紀事」(上の一)であり、「既往の事の記録」(上の四)である。

 そして本論では、以下のように五つの洲を次々とめぐっていた。

1)亜細亜:気候・物産・山嶺・人民・動物等、世界の創造及び洪水、ノア及び親族方舟を出ること、アッシリア、ヘブライ、エジプト、ユダ国、救世主、波斯、支那、日本、アラビアとマホメット、アジア総説

2)阿弗利加:地理並びに人民、上古のエジプト、イシオピア、バルバリ・ステーツ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア・トリポリ)の海賊、賣奴(奴隷売買)の史

3)欧羅巴:地理及び事情、希臘、波斯戦争、マケドニア、希臘の今世史、羅馬、阿多曼(オットマン帝国)、土耳古史の結末、西班牙(スペイン)、ムール戦争、「宗門検査」、葡萄牙、仏蘭西、高盧〔ゴール〕人、シャルルマン、十字軍、封建の制度、仏蘭西諸王、仏蘭西革命の乱、ナポレオン、ナポレオン三世、瑞西(スイス)、日耳曼(ゲルマン)、墺太利及び洪牙利、洪牙利・波希米亜(ボヘミア)・チロル、普魯西(プロシア)、魯西亞(ロシア)、瑞典(スウェーデン)、臘巴蘭(フィンランド)・那威(ノルウェー)・丁抹(デンマーク)、大猊列顛(グレートブリテン)・阿爾蘭(アイルランド)

4)亜米利加、アイスランド・グリーンランド、南亜米利加、西印度

5)オーシェアニカ(オセアニア)、ポリネシア

 以上のように、聖書によって創世とノアの子孫から始めている。世界各地を巡って、それぞれの国や地域の地理を押さえたうえで、その歴史を古代から近代まで縦に述べて並列していた。そこには「中心」も「周辺」もなく、どの国どの地域も排除はされないはずであった。ただ、記述の比重は、ヨーロッパが圧倒的で、ほぼ半分を占めていた。

 では、この中でヨーロッパの東部はどのように扱われていたのだろうか。寺内らはこの本に依っていると書いていたが、全文が翻訳されてみてどうであろうか。結論的に言えば、東部では、ギリシア、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドが出て来る。

 先ずは、ギリシアである。ギリシアの「今世史」が古代ギリシアの崩壊の後に来る。そこでは、人民の戦いにより多く注目されている。

「1450年の頃に至り、土耳古より東羅馬を侵伐して希臘国を略奪す。爾後殆ど四百年間土耳古人は希臘人を奴隷の如く接遇せり。」

「其後、千八百二十一年に至りて希臘人其残虐を惡み、遂に土耳古に叛けり。因りて忽ち戦争起り争乱久しく絶えず、互に暴虐を行ふこと甚し。」

「諸国の人民、希臘を援るもの多し。是皆其国史を知り、且古昔の名誉を悲みて親愛せし者なり。彼の高名なる英吉利の詩人ロルト(ロード)・バイロンも亦此国の為に死したり。」

「土耳其の人民は性質勇悍にして、希臘を棄ることを肯ぜず。希臘人は死を決して必ず其苛酷の管制を脱せんことを欲せり。然れども英仏魯三国の援を得るに非ざれば、其志望を達すること能はざるべし。」

 こうして英仏魯三国の軍事力を借りてギリシアはトルコの管制を脱したが、「自立」して国を治めることができず、三国は「其人民の為めに」君主を選んで、オットーを国王とした。(上の二、第六十五章)

 ここでの土耳古はオスマン帝国のことである。まだ「独立」という概念はできていないようで、「自立」が使われている。その「自立」も英仏魯三国に依存していたことが指摘されている。

 つぎにハンガリーである。ハンガリーについては詳しい記述を設けている。 

「匈牙利は、広大の国にして、数州を其の版図中に有す。都会ブダは、大奴皮(ダニューブ)河畔に位して頗る壮麗なり。」「気候は和煦にして美味の葡萄を産す。之を以って精良なる葡萄酒を醸す。山は金銀を産すること頗る多し。其の人民(inhabitants)は貧富の二類に別てり。富者は壮麗なる宮殿に住み、貧者は僅かに富者の奴僕を免かるるのみ。」    

「匈牙利の人民(inhabitants)は猛悪なる数人種(tribe)の混したる者なり。是皆、太古の時、アルタイ山を経過して亜細亜より欧羅巴に移りし者なるべし。其の人種は彼のサラセン帝国を亡ぼして土耳古帝国を創立せるトルクスと呼ばれたる韃靼人種に似たり。」「匈牙利の人種中第一なるものは、ヒュンスと云う。是れ、450年の頃、残忍無道の将師アッチラと云うものに従属して、伊太利を襲撃せり。。。。」

「匈牙利は、。。。1563年に当たりて墺太利帝国の一統する所となる。1848年に至りて其人民(原文になし)コッシュストと云うものに誘導せられ、自由(liberty)を復さんが為に狂妄の謀を為すと雖も、終に其功を遂げず。現今猶墺太利の属国たり。」(下の一 第百二十六章)

という具合である。スレイマンの侵攻などへの言及がなく、ベルギー、おらんだなどとハンガリーをフン人と結びつけていたり、人種的すぎるという点を除いても、貧富の差の指摘など、鋭いものがある。

 注目されるのは、ボヘミアが扱われていることであるが、ボヘミアについては、情報がとぼしく、また混乱している。 

「波希米亜は四囲山を擁して銀鈴及び寶石等の鉱山に富む。人口は幾ど四百万あり、現今の人民多くは猶太なり。又ジプシースと云ふ奇異の流族多し。」

この猶太やジプシーのことは、パーレイの原文自体が、間違っている。くわえて、これに続く一節が不可解である。

「初め此国は紀元前六百年の頃亜細亜より移住せし所のセルツと云ふ人種なりしが紀元後四百五十年の頃、其国は日耳曼人種の其の管制せしによりて遂に駆逐せらる。シャルレマン(シャルルマーニュ)又此国を附庸となすと雖も其後独立して王国となれり。千五百二十六年に当りて又墺太利に属して方今に至るまで其附庸なり。」(下の一 第百二十六章) 

このセルツ(原文ではCelts)が問題で、おそらくケルト人の事であろうが、かれらがアジアに由来するというのも、ボヘミアの人がケルト人であるというのも、パーレイの間違いである。

 最後にポーランドであるが、これは他の本でそうであるようにロシアとの関係では出てこないで、ベルギー、オランダなどヨーロッパの小国らとともに出て来る。 

波蘭は昔欧羅巴中の一国たりと雖も、今は否らず。其土壌東北は魯西亜の轄地に界し、南はドニーストル河に濱し、西は普魯西に接す。千七百七十二年に當りて、魯西亜、普魯西、墺地利の三国の君、其国を囲みて大に其地を分取す。千七百九十五年に三国の君、又其余地を剖割せり。其居民は自主自由の国たらんと欲して奮戦すと雖も、其功を遂ぐるを得ず。其民魯西亜ニコラスの爲めに数千人は徒刑に處せられ、数千人は他国に移されたり。或は其残忍を避けて合衆国に來住するものあり。(下の一、第百三十七章)

 ここでも列強による分割を厳しく批判している。とくに居民の事情を記しているのが特徴である。

***

 東ヨーロッパの記述から見た限りで、パーレイの翻訳本の方法を考えよう。パーレイを基にしていたはずのこれまでの「万国史」、つまり寺内章明訳『五洲紀事』以降、文部省『史略』と師範学校編輯『万国史略』を経て、田中義廉『万国史略』までの「万国史」に比べてどうであろうか。

  1. 五洲を順に回って、その中でも国ごとに縦に歴史を記述する、ヨーロッパは東西の区別なく、国ごとに並列されて構成するという方法は、それぞれ同じく踏襲されていた。
  2. 時代区分はなく、たんに時代順に記述するという方法も同じであった。
  3. 牧山の英語版訳では、「人民」への視線があり、たんなる「権力」の歴史ではないことが分かる。寺内章明訳『五洲紀事』と田中義廉『万国史略』にも「人民」という視線は出て来ていた。その点で、文部省の教科書は「権力」の観点からの歴史で、「人民」「國人」という視線は弱いといえる。
  4. さらには、牧山の訳書では、ハンガリーのところでも分かるように、貧富の差ということも視野に入っていた。これは、寺内章明訳『五洲紀事』以降、『史略』、『万国史略』、田中義廉『万国史略』には出てこない観点であった。
  5. 最後に、英語の訳語について見ると、訳語がまだ流動的であることが分かる。例えば、nationは、「国」ないし「人民」と訳されている。peopleは「人民」で一貫しているがinhabitantsも「人民」と訳されることが多い。したがって、「人民」はpeople, inhabitants, nationの訳語として使われている。そして「人民」の意味は、「住民」であったり、「居民」であったり、「世界の各種の人民」のように使われたりている。「国民」や「民族」という概念はまだ登場していないのである。一方、tribeは「人種」で一貫している。
    政治的な用語では、independentは「自主」で、まだ「独立」という概念は出てきていない。Liberty, freedom はともに「自由」と訳され、重要な概念になっている。
    そして、revolutionは牧山版では「革命」と訳されていて、「仏蘭西革命」と出て来るが、訳語はまだしばらくは定まらず、「動乱」などとも訳される時期は続くことになる。

***

 以上、三回にわたって明治初期における「万国史」において東ヨーロッパがどのように論じられてきたのかを検討してきた。この時期の「万国史」を主導したのは、文部省のグループであった。整備された文部省と学制のもとで「万国史」が積極的に出版されたのである。文部省のグループが依拠したのは、パーレイ(グードリッチ)の「万国史」であった。そのパーレイの本自体は、1876年(明治9年)になってようやく完訳されたのであった。

 しかし、明治6,7年から明治14年の政変までの時期には、パーレイ的な見方とは違った「万国史」も出て来ていた。明治14年以後は「文明史」的な「万国史」で一色になるので、それまでの時期は、非常に面白い時期であった。その時期の「万国史」の検討はいずれ機を改めることにしたい。

(Ⅰ-(1), (2), (3)完)

(「世界史の眼」No.30)

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文献紹介:南塚信吾(編著)、西川正幹(編集協力)『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』(アルファベータブックス、2021年)
山崎信一

 本書が主として取り上げるのは、神川松子という名の人物である。20世紀初頭に活躍した彼女は、平民社に加わった社会主義者、女性の地位向上を主張する評論家、ロシア文学の翻訳者、生産協同組合「測機舎」の設立者といった、多くの面を持っていた。彼女の女性運動家としての側面は比較的知られているが、その人物像は断片的に理解されることが多く、その他の活動、とりわけ生産協同組合の活動との関わりの中で論じられる機会は多くない。本書は、一つには神川松子という人物のさまざまな事績を統一的に論じようという試みであり、夫の西川末三の植民地官吏としての台湾での体験とも相まって、両者の理想が生産協同組合「測機舎」に結実したことを明らかにしている。

 537ページという大部の本書では、「第一部 測機舎の歴史的意義」において、測機舎の歴史的意義が論じられる。神川松子、西川末三両者の簡単な伝記から、松子と平民社との関わり、末三の台湾体験、ロシア語翻訳者としての松子、当時末三が籍を置いた玉屋商店での労働争議を経て測機舎の設立過程、測機舎への「空想的社会主義者」の影響、設立後の測機舎の状況などが述べられている。そして、本書の紙幅の過半が割かれているのが、300ページを超える分量の「第二部 神川(西川)松子資料」である。彼女自身の手による各種雑誌に掲載された論考、赤旗事件裁判の資料、ロシア文学の彼女による翻訳が収められている。各論考は、平民社時代の『世界婦人』などに掲載のもの、赤旗事件の公判に関するもの、一九一四年以降の女性の地位向上を主張するもの、ロシアの作家イワン・ブーニンの作品の翻訳、トルストイ作品の翻訳に分けられている。「第三部 測機舎誕生関係資料」は、測機舎の設立前後の各種規定や関係する新聞記事をまとめている。以上を見てわかるように、本書には各種資料が掲載されており、神川松子と測機舎の歴史に関して、実際の史料に則して理解が可能となるように作られているのが大きな利点となっている。資料にはそれぞれ、専門家による解説が付されている。

 本書は、2021年の晩秋に刊行されて以降、少なくない反響を呼んだ。『週刊読書人』(2022年2月11日)、『進歩と改革』(2022年2月号)には、書評が掲載され、特にその現代につながる意義が好意的に論じられている。

 本書の刊行には、少なからぬ意味があるだろう。まず、測機舎という日本で最初の生産協同組合の発足から展開にかけての経緯は、純粋に興味深いものである。契機としての玉屋商店経営陣との対立から組合設立への動き、労務出資と金銭出資の組み合わせによる協同組合の仕組みの整備、発足当初の困難の克服といった点は、一つの特異な組織の歴史としての面白さに満ちている。さらに、書評に取り上げられているように、測機舎を、利潤拡大を第一の目的としない現代における「ワーカーズ・コレクティヴ」の先駆者として位置付けることも可能だろう。

 そしてそれに加えて著者が強調しており、私もそれに共感するのは、測機舎の試みが「日本の中の世界史」の一つの実践例として意義を持っている点である。本書が、測機舎の経緯を追うだけではなく、その思想的源泉を同時代の欧米の社会主義思想や協同組合運動の中に追っている点もそれ故だろうし、神川松子の思想形成、西川末三の植民地体験が扱われているのもそうだろう。こうして、測機舎は単なる日本の一生産協同組合としてではなく、この時代の「世界史」を体現するものとして描かれることとなる。

 私は、ヨーロッパのバルカン地域にかつて存在したユーゴスラヴィアの歴史の研究を専門としているが、「測機舎」の生産協同組合のあり方から、第一に連想したのが、社会主義政権下のユーゴスラヴィアで試みられた「労働者自主管理」のことであった。いずれにおいても、「労働者が企業を所有し、経営する」という実践が試行錯誤の中で行われていた。ユーゴスラヴィアにおける労働者自主管理の発展の背景には、ソ連との関係断絶後、ソ連型の国家統制型社会主主義ではない社会主義のあり方の模索があり、出発点は無論測機舎と異なるものだが、その理想としての組織のあり方が非常に類似したものとなっている点は興味深かった。労働者自主管理とその体現したユーゴスラヴィアにおける自主管理社会主義のあり方に関しても、世界史的視野での再検討が必要であろうと感じた。

 最後に、本書は読み物としての面白さにも満ちている。資料に現れる軽快な筆致も相まって神川松子の人物像が生き生きと浮かび上がる。「補遺」として収録されている、西川末三の文章もまた人情味溢れ、二人の魅力を浮かび上がらせる。

 本書を手に取って、神川松子の人間としての魅力、測機舎を巡る波乱万丈の物語に接するとともに、その背後にある同時代の世界との繋がりにも思いを馳せて頂ければと思う。

(「世界史の眼」No.30)

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書評 平野千果子『人種主義の歴史』岩波新書(新赤版)1930、2022年5月
木畑洋一

 本書の著者は、フランス植民地主義の研究者であり、これまで『フランス植民地主義の歴史』(人文書院、2002年)や『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店、2014年)など、多くのすぐれた研究を公にしてきた。その著者が植民地主義とは切っても切れない関係にある人種主義に歴史的に取り組んだ成果が、本書である。いうまでもなく、人種主義は近現代世界史を貫通する問題であり、最近ではブラック・ライブズ・マター(BLM)運動を軸として、人類社会の中心的争点の一つとなっている。そうした状況を反映して、人種主義をめぐる研究も盛んである。本書に接する直前、評者はオレリア・ミシェル『黒人と白人の世界史:「人種」はいかにつくられてきたか』(明石書店、2021年、原書は2020年刊)を読んで、その感を強めたばかりであった。

 読みやすい文章で書かれた新書版の本書は、そのような人種主義への関心の新たな広がりによく応じる著作となっている。「人種が、生得的で本質的な性質に基づく、他と区別される人間集団だとすれば、そのようなものはないというのは、今日研究者の間で合意されていることである」(3-4、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という点が、本書の出発点となる。人種という問題に関心をもっている研究者ならば当たり前のことと思っているこの点が、広く社会の常識にはなっていないということが、何よりも問題であり、なぜ人びとが人種といった実体があると思い込み、それと差別意識を結びつけて、人種主義に走るようになってきたのか、本書はそれを長期的な歴史のなかで説得的に検討しているのである。

 議論を始めるに際して、著者は、人種主義と人種を次のように定義する。「人間集団を何らかの基準で分類し、自らと異なる集団の人びとに対して差別的感情をもつ、あるいは差別的言動をとることを人種主義とする。」そして、人種主義のもとで「分類された集団が、「人種」として認識されるものである。」つまり人種主義が伴う「差別的なまなざしが、逆説的に人種を作り出しているといえる」のである(11)。これは、歴史的に人種主義と人種の問題に迫っていく上で、きわめて適切な定義であり、著者は、近現代世界の歴史の動態が生み出したさまざまな差別の様態を追いながら、それぞれの時代における人種主義の姿とそのもとで析出される人種像とを論じていく。

 本書の内容をごく大雑把に追ってみると以下のようになる。第1章は「「他者」との遭遇 アメリカ世界からアフリカへ」と題され、大航海時代の始まりから、アフリカ人の奴隷化が広がり始める時期までを扱い、インディオとアフリカ人奴隷に対する差別が問題となるが、人間の分類はこの時期にはまだ本格化しない。「啓蒙の時代 平等と不平等の揺らぎ」という第2章は、17世紀から18世紀を対象とする。人間の分類がリンネやブルーメンバッハ、ベルニエなどによって試みられ、黒人奴隷制の進展を背景とするモンテスキューなど啓蒙主義者たちの人種主義が問題となる時代である。第3章は、「科学と大衆化の一九世紀 可視化される「優劣」」とあるごとく19世紀を扱う章で、人間の「優劣」を科学的に説明できるとする人種主義の理論化がなされるとともに、大衆の間に人種主義が広がり始めた様相が紹介される。植民地支配や人の移動規模の拡大のもとでの人種主義の広がりを、第3章と時代的に重複する時期も含む形で論じるのが、第4章「ナショナリズムの時代 顕在化する差異と差別」であり、社会ダーウィン主義や優生学、黄禍論、イスラーム蔑視、反ユダヤ主義など人種主義に関わるさまざまな思想潮流が紹介される。つづく第5章「戦争の二〇世紀に」は、アフリカ人の大量虐殺やナチの政策のなかに人種主義の到達点を探るとともに、パンアフリカニズムやネグリチュード運動など、人種主義に抗する動きの浮上に触れる。最後に終章「再生産される人種主義」で、著者は、さまざまに形を変えながら再生産されつづけている最近の人種主義の様相を論じるのである。

 こうした形で人種主義の変遷を追うに際して、著者は、それぞれの時代において人種主義を体現した人びとの差別的な視線を単に批判的にとらえていくのではなく、「そのような思想が生まれた時代を問うという、総合的な知の営み」(82-83)が必要であるということを繰り返し強調しているが、それには十分成功している。

 ただ、ひとつ注意しておきたいのは、本書で議論の対象とされているのが、主としてヨーロッパにおける人種主義の展開だということである。その点はオーソドクスといってよく、また時代区分のやり方でも、特に目新しい構成がとられているわけではない。検討の素材となっている人びとも、人種主義論に関連してお馴染みの顔ぶれが多い。しかし、哲学者カントなど、最近この問題に関連する議論が新たに着目されるようになっている対象にもよく目配りがされている。また、よく取りあげられてきた人びとについても、近年の研究動向に即した見直しが随所で行われており、裨益するところが大きい。たとえば、奴隷制をめぐるモンテスキューの議論をめぐる論争や、ゴビノーの人種論の読み直しなどがそれにあたる。「ヨーロッパの人種主義を論じる際に、ゴビノーの名に言及しておけば事足りるかのような姿勢は、そろそろ改める必要があると思われる」(102)という指摘に接すると、人種問題について自分がやってきた講義をふり返って、評者としては耳が非常に痛くなる。セネガルの民族運動家で独立後の初代大統領となったサンゴールが、芸術の発展には黒人の要素が不可欠であると説いたゴビノーを評価したということにも(234)、はっとさせられた。

 全体の行論のなかで、時折著者が特に力をこめて論じていると感じられる部分があるが、それらが非常に効果的な働きをしていることにも注目しておきたい。たとえば、最も美しい人びととされたコーカサス人種をめぐる話題や、逆に人類の序列の最下位に位置づけられることが多かったホッテントットの扱いを詳しく取りあげた部分である。

 気になった点を一つ、最後に述べておこう。それは、本書における日本の扱い方である。著者はいくつかの箇所で日本の問題について触れており、とりわけ終章では、アイヌや琉球の人びとの遺骨返還問題や部落差別問題をクローズアップしている。「今日では差別を問うグローバルな場で、部落差別はいわゆる人種主義の問題と捉えられている。差別が同じ理屈に立脚しているからである。」(239)という点は、本書が立脚している人種主義の定義がもつ重みを示す論点としても重要である。また、第一次世界大戦後のパリ講和会議での日本代表による人種平等条項の国際連盟規約への取り入れ提案もきちんと取りあげられている。そして、それに関わって、「日本が植民地保有国として同じアジアの他者を下位に位置づけたまま、こうした提案をしたことは、皮肉にも人間の間には序列があると示す結果になったとも思われる。」(223)と含意あるコメントが付せられている。ただ、日本の植民地支配のもとでのアジアの他者に対する日本人の姿勢を、本書の人種主義論のなかでどのように位置づけていくかという点については、より立ち入った検討が欲しかった。幅広く差別的感情や差別的言動を人種主義の基底に据えてみる立場からすれば、ヨーロッパでの議論を中心に据えつつも、他の地域に今少し視野を広げることが可能であろうし、その場合、やはり日本とアジアの人びととの関係の事例が重要になってくるであろうからである。

(「世界史の眼」No.29)

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書評 小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方 シリーズ歴史総合を学ぶ①』岩波新書(新赤版)1917、2022年1月
鹿住大助

1.はじめに:本書のねらいと高校歴史教育の変更

 本書は2022年1月から刊行され始めた岩波新書の「シリーズ歴史総合を学ぶ」の第一巻である。第二巻『歴史像を伝える──「歴史叙述」と「歴史実践」』、第三巻『世界史とは何か──「歴史実践」のために』は、本稿執筆時にはまだ発行されていない。本書の「はじめに」では、「歴史認識とは、①事実の認識(歴史実証)・②事実関係の解釈(歴史解釈)・③解釈の意味の検討(歴史批評)・④探究成果の表現(歴史叙述)という一連の実践行為(歴史実践)である」と主張する。恐らく、第二巻はその副題にある「歴史叙述」について、第三巻は世界史の「歴史実践」全般に関して論じられるのだろう。本稿では第一巻の叙述のみを取り上げて論じるが、シリーズ全体を読めば、また異なる評価になるものと思われる。

 本書が対象とする読者は、高等学校学習指導要領の改訂にともない、今年から始まった「歴史総合」科目を学ぶ高校生や、それを教える高校教師だけではない。「世界史に関心をもつすべてのみなさんを読者に想定し・・・『世界史は何のために探求するのか』という問いについて、私たちと一緒に考えて」欲しいとある(「はじめに」より)。高校生に「歴史総合で理解すべきポイント」を説明したり、教師に「歴史総合授業の作り方」を指南するものではない。授業で世界史を学ぶための「問い」を例示するのではなく、「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という「問い」を考えさせることが主眼であるという。

 ここで、高等学校の学習指導要領改訂と「歴史総合」科目の新設について簡単に紹介しながら、本書の意図と構成を読み解いてみる。今回の改訂により、歴史科目は従来の「世界史(A・B)」必修、「日本史(A・B)」選択のカリキュラムが変わり、必修科目として「歴史総合」を全生徒が学習し、その上に選択科目の「世界史探究」「日本史探究」が置かれることになった。

 「歴史総合」では、「近現代の歴史の変化に関わる諸事象について、世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉え、資料を活用しながら歴史の学び方を習得し、現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察、構想する科目」(「【地理歴史編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説」、123頁より)とあるように、世界や日本の現代的諸課題形成に関わる近現代の歴史を学習することになった。歴史科目だけに限ったことではないが、「世界史探究」「日本史探究」の名称が示すように、「問い」に基づいて生徒自身が歴史的事実を検討したり、解釈を導き出したりする「探究学習」が重視されているのも特徴である。

 また、「歴史総合」の内容は、大きく「A.歴史の扉」「B.近代化と私たち」「C.国際秩序の変化や大衆化と私たち」「D.グローバル化と私たち」の項目に分かれる。「・・・私たち」が項目名についているのは、それぞれの時代が生徒自身の生きる現代の諸課題にどう関わるか、考察できるようになることを意図しているからである。

 本書『世界史の考え方』は、この四つの大項目のうちB、C、Dに対応して、「Ⅰ.近代化の歴史像」「Ⅱ.国際秩序の変化と大衆化の歴史像」「Ⅲ.グローバル化の歴史像」の三部構成をとる。また、第一部は「第一章 近世から近代への移行」「第二章 近代の構造・近代の展開」からなる。そして、第二部の「第三章 帝国主義の展開」「第四章 二〇世紀と二つの世界大戦」、第三部の「第五章 現代世界と私たち」へと続く。各章では、それぞれが対象とする時間軸上において、これまでの歴史学でどのよう「問い」があったのか、それがどのように変化してきたのか、その変化によってどのような歴史像が導き出されてきたのかを考察する。

 そして本書は、これを考察するための叙述方法に特徴がある。各章では、出版された年代や、対象地域、視点や解釈の異なる三冊の著名な歴史書(「課題テキスト」)を主に取り上げて論じる。議論は「対話」の形式をとり、編者の小川幸司と成田龍一に加え、各章で一人ずつ課題テキストの著者や、解説者をゲストに呼び、一冊目・二冊目の歴史書とその「問い」が描き出す歴史像やその問題点を検討し、対象となる時代に対する歴史学の認識がどのように変化してきたのかを論じている。そして各章末には、対話の内容をまとめる「問い」が示され、歴史総合での学習を促そうとする。

 「課題テキスト」以外にも関連する文献を取り上げているが、三冊のテキストは、新書や文庫版の書籍が多く、比較的手に取りやすい。本書で編者やゲストが繰り広げる対話を読むことで、間接的にこれらテキストへの理解が促されることだろう。ただし、その内容が初学者向けにも「分かりやすい」文献ばかりでは決してない。むしろ、「名著」であるがゆえに、著者が置かれていた時代状況や内容についての関連知識を持っていた方が読みやすく、また、意味を深く考察すればするほどよく理解できるようになるような文献が多い。

 以下では、各章の概要を簡単に紹介する。なお、各章で編者とゲストが展開する対話の論点は多岐にわたっており、以下は「要約」というよりは、「端折った紹介」であることをご容赦いただきたい。

2.本書の概要

 第一章では、近世から近代への移行期の歴史像を論じるため、大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書、1966年)と川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996年)、岸本美緒『東アジアの「近世」』(山川出版社《世界史リブレット》、1998年)を取り上げている。大塚は資本主義と市民社会が同時に成立したイギリスをモデルに、各国の歴史を比較・分類して近代世界像を描いた。一方で、川北の文献では資本主義近代の歴史を、世界商品の生産・流通をコントロールし、世界システムの中核となった「支配する側」と、被植民地化されシステムの周縁に位置づけられた「支配される側」の構造化の歴史として描く。川北の議論では、現代に生じている格差の問題は、国ごとの発展段階の問題ではなく、世界規模での構造が問題となるのだ。さらに、岸本の『東アジアの「近世」』を取り上げながら、前近代の各地域の国家・経済的特色が、現在にもつながっていることが、著者である岸本の回想や解説と、編者との対話を通じて論じられる。

 第二章では、フランス革命と産業革命、1848年革命という近代史上の三つの転換点をめぐる歴史像を論じる。「課題テキスト」は遅塚忠躬『フランス革命』(岩波ジュニア新書、1997年)と、長谷川貴彦『産業革命』(山川出版社《世界史リブレット》、2012年)、良知力『向こう岸からの世界史』(未来社、1978年)である。ここでは、まずはフランス革命の捉え方をめぐって、遅塚の著書を中心に、フランス革命が「劇薬」化したことを「相対的後進性」に求めた歴史解釈を紹介する。さらに、遅塚以外の論者を取り上げながら、近代化を推し進めた革命主体や事件の層に注目するか、革命主体が生み出される状況や構造(傾向)に注目するかなどの着眼点の違い、明治維新との比較をめぐる論点を検討する。次に、長谷川の産業革命論を取り上げ、人類史上の分水嶺と評価する視点、グローバルヒストリーにおける産業革命分析の視点、推進主体としての発明家だけでなく民衆層への注目など、歴史家の視点を紹介する。さらに、長谷川も対話に登場し、1848年革命をめぐって良知の『向こう岸からの世界史』が指摘するように、支配と被支配の重層化など、単純化されえない複雑なありようを描くことが重要であると指摘される。

 第三章は、帝国主義や国民国家形成の時代におけるナショナリズムや人種論を論じた歴史が検討対象となる。本章では、江口朴郎『帝国主義と民族』(東京大学出版会、1954年)、橋川文三『黄禍物語』(筑摩書房、1976年)、貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書、2018年)が「課題テキスト」である。江口の世界史は、大塚の歴史発展の比較分析としての世界史ではなく、世界史全体の構造分析である。その歴史像は、帝国主義と民族を軸として、各国特殊な資本主義発展や封建的な要因のあり方と、世界的な資本主義的体制とを統一して把握しようと試みる点に特徴がある。二冊目の橋川は、ヨーロッパにおける「黄禍」観念の根深さや、19世紀の黄禍論に対する中国と日本における対称的な反応の現れ方から、近代日本の特異な人種観の変遷が論じられ、アジアにおける盟主としての日本人観が作られていく過程を独自の視点で描き出している。また、対話の中で「人種」も「民族」も歴史的に形成されてきた概念であり、操作的に用いられてきたことが指摘される。その上で、貴堂との対話を通じては、「大塚久雄が描いたような資本主義と市民社会を実現した『近代』像とは異なり、奴隷制がなおも存続し、それが終了したかに見えてもなお、国民から排除する人々を『人種』という形で作り出し、その抑圧的な政治によって国民国家の統合を実現していく『近代』のありよう」を指摘する。近代の帝国主義時代にあって、国民国家とともに作り出された人種や民族の問題が、現代の人種差別や排外主義、移民への抑圧という、どこでも、誰にでも起こりうる課題につながっていることが明らかになる。

 第四章では、20世紀の世界史像について、丸山真男『日本の思想』(岩波新書、1961年)、荒井信一『空爆の歴史』(岩波新書、2008年)、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(勁草書房、1982年)の三冊を中心に、戦時−戦後の連続性めぐる歴史学の論点を開示する。丸山は、「戦後歴史学」と似て、近代日本における「封建遺制」を指摘し、日本の特殊性=問題を論じる。日本の近代には、前近代と、超近代が雑然と同居しているという認識に立ち、権力の核心たる天皇制が「精神的機軸」としてこの事態に対処しようとする特殊な状況を生み出す一方で、主体としての個人を生み出すことができなかったとする。二冊目の『空爆の歴史』では、20世紀の戦争を空爆の視点から考察し、それが文明/野蛮という非対称の認識を背景になされる「大量虐殺」行為であると把握する。帝国主義の植民地戦争における空襲から、第二次大戦中の日本軍の生物兵器爆弾投下、アメリカが使用した原爆の正当化、ベトナム戦争時のナパーム弾やクラスター爆弾、冷戦体制崩壊後の「空からの一方的な戦争」に至るまで、「非対称性」が背後に連続して見られることを指摘する。本章のゲストとして登場するのは永原陽子であり、内海愛子の著作を論じながら、「戦争責任」ではない、「植民地責任」の考え方を解説し、世界史の構造的問題が連続していることを指摘する。

 最後の第五章では、第二次世界大戦後を「グローバル化」の時代として、どのような歴史像が描かれてきたのかを論じる。「課題テキスト」は、中村正則『戦後史』(岩波新書、2005年)、臼杵陽『イスラエル』(岩波新書、2009年)、峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』(岩波新書、2019年)であり、ゲストとして登場するのは二冊目の著者の臼杵である。まず、中村の『戦後史』にでは、日米関係論を軸にした内発的発展論を構想し、敗戦国が冷戦体制下でどのように歩んできたのかを描く。ただし、中東情勢の変化に対応して「戦後」が終焉に向かうなど、戦後日本の歩みを「グローバル化」の歴史像として把握する必要があると、編者の成田は指摘する。その上で、臼杵の『イスラエル』をとりあげ、「多様な内実をもつイスラエル国民を統合するためにホロコーストという歴史的経験が重視され、またテロをおこなうパレスチナ人という表象された『敵』への対決姿勢を強調することが、政権の支持基盤をつくっている」とする。臼杵自身はイスラエル国家では、その植民地主義的な国家の出発点を歴史としてどう描くかが問題となることや、イスラエル国家=「ユダヤ人の国家」ではなく、五人に一人はイスラエル国籍を取得したアラブ人であり民族と国籍でズレがある複雑な民族構成を認識しないと、イスラエル国家の性格を見誤ることになるという。最後の峯の『2100年の世界地図』は、グローバル・ヒストリーの視点に立って、2100年を予測するものである。世界の人口重心が21世紀中に「アフラシア」に移動し、現在の「私たち」が「他者」と認識する人々によって「成長」が担われるのである。近代化からグローバル化へと展開してきた世界史は、「西洋」の思想がそれを推進したのであり、世界史が提起する現在の課題も「西洋」の産物である。峯は「アフラシア」という「非西洋」における「非近代」に今後の世界史の可能性を見いだす。つまり、「未来」から見て何が「現代的諸課題」なのかを考えることでより多面的な検討が可能となるのだ。

3.おわりに:問題提起

 以上のように、本書は「歴史総合」が扱い、区分する時間軸に沿って、これまでの歴史学がどのような歴史像を提供してきたのか、それが変化してきたのかを検討し、現在地を確認している。また、近代化以降の世界史が作り出してきた現代的諸課題とは何かを、歴史像の検討を通じて示している。今年から必修科目「歴史総合」を学び始めた高校生の多くには、「課題テキスト」の著者や彼らが生きた時代についても理解しなければならず、読みこなすのが難しい書籍であるかもしれない。「歴史総合」という教科の内容を理解する・考えるためというよりは、教科の背景をよりよく理解し、教科の中で何を問うべきかを考えるための書籍であるといえよう。

 ところで、既に2017年には中学校の学習指導要領も改訂され、昨年度から新しい社会科が始まっている。高校の「歴史総合」や「世界史探究」で生徒が探究する世界史は、カリキュラム上でその上に位置するのである。改訂以前からも、中学校社会科の歴史的分野において世界史学習はあった。日本史が中心ではあるが、教科書の大項目では古代・中世・近世・近代・世界大戦・現代の別に、それぞれの時代の世界史(古代文明の始まり〜冷戦体制)が含まれている。中学校の社会においても「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)が目指され、知識の詰め込みではない学習が強調されている。

 本稿のおわりに、本書の趣旨に基づき、筆者の関心から問題提起をしたい(本書に対する批判ではない)。それは「問い」の難しさについてである。本書が一貫して重視するのは歴史の「問い」である。本稿のはじめにみたように、「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という「問い」を考えさせることが主眼であるという。恐らく、本書が目指しているのは、生徒自身が自らこの「問い」の言葉を発し、自ら世界史を探究するようになることであろう。

 ところで、筆者が大学で担当する授業の受講者に「歴史学習とはどのような行為か」を調査したところ、「正しい知識を記憶する」や「教科書やWeb等から妥当な歴史解釈を探す」よりも、「歴史的事実を探究する」「自らの視点・解釈をもって歴史を語る」「他者と歴史を語り合う」という選択肢に強く共感しており、歴史学習は主体的な学習であると認識していた。本調査の対象となった学生は、中学・高校の学習指導要領改訂前の学生である。

 もちろん、この結果をもって全国に一般化できるわけではないが、従来の学校教育の歴史教科を通じても、学習者は歴史学習に「主体的な探究学習」のイメージを持っていたのかもしれない。それが、「受験のため」や「仕方なく」に変わる場面はどこにあるのだろうか。

 本書各章の最後には、対話のまとめとして、「『歴史総合』の授業で考えたい『歴史への問い』が例示される。例えば、第一章であれば、「①『イギリス・フランス・アメリカが歴史発展のモデルである』という歴史の見方は、どのような点をその根拠にしているだろうか。また、そうした見方の問題点は、どこにあるだろうか」などの「歴史総合」の「問い」を提示するのだ。

 この「問い」はどこで、誰に、どのように投げかけられるのだろうか。もちろん、第一には本書の読者であり、対話形式による歴史像の多面的検討という手法をとる本書の各章を読み直し、よりよく理解させるためであろう。

 もし、これが「歴史総合」の授業・クラスという場で、教師が投げかけるのであれば、生徒は一斉に第一章の記述から正解を探そうとするだろう。そして適切な箇所をなるべく早く見つけ、マーカーで線を引こうとするだろう。そのとき、生徒は、自らの行為を「問い」に対する主体的な探究だと思っておこなうのだろうか。

 一方で、もし、生徒たちに本書が教材資料として配付されていなければ、この「問い」は「正解のない問い」として認識され、これをめぐる生徒同士の対話が求められているのだ、あるいは他の教科書や副読本などから検討する材料を探すのだ、と理解し、他者との対話に参加したり、検討材料を探そうとする行動をとるだろう。「問い」に対する「正解の内容」が定まらないのであれば、クラスの中で「正解の行為をすること」が次善の策になるのだ。そのとき、生徒は、自らの行為を「問い」に対する主体的な探究だと思っておこなうのだろうか。

 授業・クラスという空間では、教師と生徒に非対称の関係性が存在する。なぜなら、教師はルールを定め、発問・説明・指示をおこない、生徒を評価するからである。それは教育という営みでは当然のことであり、だからこそ生徒の学びをつくることができる。一方で、生徒は閉じた教室空間の非対称の関係性の中で、与えられた「問い」に取り組む。「何が正解か」には非常に敏感である。教師の「問い」は関係性の中で正解行為を促すのである。

 生徒は「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という問いに対して主体的に探究しようとするイメージを持ちつつも、授業が進むにつれて(あるいはこれも非対称の関係性である受験が近づくにつれて)正解行為を探す学習へと変わっていないだろうか。本書各章末の具体的な「問い」を生徒自らが発して探究するような場を、大学教育を含む学校教育の現場、小−中−高−大をつらぬく歴史教育のカリキュラムにつくることが課題であると考える。

(「世界史の眼」No.28)

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書評 アンソニー・リード『世界史のなかの東南アジア 歴史を変える交差路 上下』(太田淳・長田紀之監訳、青山和佳・今村真央・蓮田隆志訳、名古屋大学出版会、2021年)A History of Southeast Asia, Critical Crossroads, Chichester: Wiley Blackwell, 2015
高田洋子

 アンソニー・リードは1939年にウエリントンで生まれ、当地のヴィクトリア大学で歴史学修士号を、その後ケンブリッジ大学で博士号を取得した。マラヤ大学歴史学講師、オーストラリア国立大学「東南アジア史」教授、カリフォルニア大学ロサンゼルス校東南アジアセンター初代所長兼歴史学教授を経て、2002年からはシンガポール国立大学アジア研究所所長も務めた。彼はSoutheast Asia in the Age of Commerce 1450-1680, 2 volumes (New heaven and London: Yale University Press.1988/1993)で、東南アジアが「長い16世紀」に、世界の動きに連動して当時の世界で最も豊かな交易社会を築いたとする時代像を、人びとの生活史の視点も入れて生き生きと描いた。今回紹介する東南アジア通史は、この「商業の時代」を中心に、前後の時代から20世紀末までを同じ観点で詳述した大著だ。

 東南アジア地域は、ユーラシア大陸のインドシナ半島部(大陸部)とインド洋の東側及び太平洋の西側に浮かぶ大小無数の島々(島嶼部)から成る。現在11か国6億5千万以上の人口を擁し、自然/民族/言語・文化/宗教他、実に多元的、多種多様な世界だ。そのため東南アジア全体史を一人で描くのはとても難しい。「東南アジア」という地域概念が定着し始めたのは戦後で、本格的な歴史研究が始まってまだ60-70 年位しか経っていない。私の院生時代にはMilton Osborne, Southeast Asia, An Introductory History (1979)が注目され、2013年には第11版が出るほど世界中で読まれた。この通史と比較すれば、本書では近世early modern史と現代史の部分が相当のボリュームになっている。

 全体は魅力的なタイトルのついた20章から成り、各章に5~8つずつの小テーマが並ぶ。古代から現代へと記述されてはいるが、各章で論じられる期間は相互に重なったり、ずれたりと変幻自在だ。読者は、はじめは水墨画のようにぼんやりとした東南アジアの姿が、季節風の風下に世界各地の人びとや ”もの” が集まっては去っていく、交流と危機の時代を繰り返すうちに一つのまとまりある姿が立ち現われ、やがて別々の色合いを帯びて変化する歴史過程をイメージできる。従来の研究成果や、外来者の記録・報告・私的手紙等を多用しながら、基層社会の上に受容された仏陀やシヴァ神、古くからの貿易システムとムスリム商人のネットワーク、イスラーム、カトリック、プロテスタンティズム、儒教原理のせめぎ合いが描かれる。16世紀の世界的な「銀」の流通に伴う長距離交易、世界市場向け香辛料他の熱帯産物とプランテーション生産、交易を独占し「商業の時代」を急速に終わらせたオランダや英国、また近代をもたらすヨーロッパ勢力と華人の世紀、メスティーソとクレオール文化、コスモポリタンな港市の発展と銃砲国家gunpowder kingsの抗争、そして権力者の支配から逃れる高地人たち・・。東南アジア特有の「ナガラ」、「ヌグリ」、そしてマレー世界とヌサンタラ。多様性を受け入れるシンクレティズムの世界が、外来の普遍主義や純潔主義、そして近代主義にまみれることから生じる歪みや自律性の喪失が饒舌に語られる。

 19世紀後半以降の植民地社会は、(近代)国家のインフラ造りの一方で人口が増え、貧困と非自立化peasantizationがすすんだ。かつての欧華都市the Euro-Chinese citiesは衰退して中心都市だけが際立ち、エリートは近代教育を熱望した。さらに現代はネーションが創られると同時にマイノリティーも創られる。食料増産の”革命”を経た1970年代には、環境破壊と政治腐敗という”陰鬱な”コストを払って、東南アジアの経済成長は再び「商業の時代」に回帰した。全章を通して人びとの衣食住、旺盛なパフォーマンス、気候変動、災害・疫病、ジェンダーなどグローバル・イッシューへの言及も議論を補強している。V.リーバーマンのStrange Parallels 、J. Scottのゾーミア論、ギアツのインヴォリューション論も意識される。また、東南アジアでは交易で得られた富がなぜ欧州のように資本蓄積されなかったか考察される。1980年代に活発化した中間層の運動や都市ムスリムの信教心の高揚は、ヴィクトリア時代のイギリス・プロテスタント運動に似ているとの指摘がある。民主主義を欠落した近代主義の日本軍によって規律と軍式動員、支配者と被支配者の一体化が強制されたことは、独立後の権威主義体制や国家による女性への管理・馴化につながった。西欧の ”男性的” 近代主義も家父長制の下の女性らしさを求めていたとリードは述べる。元来東南アジアでは、ジェンダーバランスの中の女性の位置づけは高かった(女性は商業の担い手であり、異なる文化の媒介者だった点を根拠に)。国家の役割は小さく、節度と調和を重んじて結束をはかろうとする行動規範は、世界の中の東南アジアの特徴だとしている。刺激的な議論にみちた本書は、東南アジア史研究の基本文献となるだろう。

(「世界史の眼」No.28)

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(2)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その2)
南塚信吾

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

2. 文部省『史略』文部省 明治5年(1872年)と師範学校編輯『万国史略』文部省 明治7年(1874年)

 1872年(明治5年)に学制が発足した時、すでにあった寺内章明『五洲紀事』と西村茂樹『万国史略』が、とりあえず小学校の教科書とされた。しかし、よりコンパクトな教科書が必要であった。それに合わせて文部省が編纂したのが『史略』明治5年(1872年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)である。地理学者内田正雄の筆による。『史略』は、巻の一が日本(皇国)、巻の二が支那、巻の三と四が西洋の歴史であった。日本史の巻は天皇歴代史で、中国史は王朝史であって、ページ数も少なく、天皇・皇帝の事績を並べただけで、歴史というほどの記述にはなっていなかった(「歴史」という用語は使ってはいたが)。「西洋史」のほうは上下二巻になって、これは、ページ数も多く、文章として歴史記述になっていた。本書は、「人の始めは国々の説異同ありていずれとも定め難し」として、「大洪水」と「ノア」から始めていた。「大洪水」以前の聖書的な見方は脱していたわけである。その上で、上古、中古、近世を区分していた。上古は紀元500年ごろまで、中古はそれ以後1500年まで、近世をそれ以後今日(明治)にいたるまでとしていたが、実際には、中古と近世の区別はせずに、中古以下各国の歴史を並列して論じていた。構成は以下のように、パーレイ的に各国史を並記したものであった。

史略

上古

 アッシリア、バビロニア、フェニシア、ユダヤ、ペルシア、ギリシア、ローマ

中古以来

 仏蘭西、英吉利、独逸・墺太利・普魯士、西班牙・葡萄牙、和蘭、比耳時、瑞西、嗹國・瑞典、魯西亞、以太利、土耳其(附希臘)、亜米利加

 2年後、この『史略』のなかの西洋史と東洋史の部分を独立させ、それを詳しくして、師範学校編輯『万国史略』明治7年(1874年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)が出版された。大槻文彦〔宮城師範学校長となった〕の「序文」によれば、「万国史」は「世界中の国々の歴史」という意味であるが、日本の歴史は別に論ずるので、この中には入れない。西洋史については、すでに文部省から出版された「概略の歴史」(『史略』のこと)があるので、それを増減したという。つまり、この「万国史」は「日本史以外の外国史」を網羅しようとするものであった。ここに、便宜的とはいえ、日本史と「万国史」を二本立てで考える方式が登場したのである。

 その構成を見ると、下のようであった。

《巻の一》

亜細亜洲―漢土、印度、波斯、亜細亜土皃其(トルコ)

欧羅巴洲上―希臘、羅馬皃

《巻の二》

欧羅巴洲下―「人民の移転」、仏蘭西、英吉利、独逸、墺地利、普魯士、瑞西、和蘭、比耳時、嗹馬、瑞典、那威、西班牙、葡萄牙、伊太利、土耳古、露西亜

亜米利加州―「発見殖民」と合衆国

 『万国史略』は、『史略』を踏襲していて、それと同じく、万国の歴史を網羅していた。それぞれの国について、歴史をタテに述べるという方式であった。パーレイの影響が見える。だが、アフリカとオセアニアは削除されている。それに、「人民の移転」(諸民族の大移動)と「発見殖民」が独立の項で扱われるようになった点が『史略』と違うところである。

 人類の起源については、『史略』は大洪水から始めていたが、『万国史略』は少し妥協的で、亜細亜土皃其(トルコ)の節において、「西洋ノ説」によれば、ユーフラテス川のそばにアダムとイブが初めて「化生」し、人類の起源となったと言われると記していて、聖書を全面的には取り入れていないが、一応の配慮はしていたようである。

 さて、『史略』と『万国史略』では、ヨーロッパの東部をどのように扱っていたであろうか。『五洲紀事』と同じく、ここでも、ギリシア、ハンガリー、ポーランドのみが扱われていた。

≪ハンガリー≫

 ハンガリーは、『史略』では、『五洲紀事』のように独立の項目にはなっていなかったが、独逸・墺太利・普魯士の節と土耳其の節においていろいろな脈絡で述べられていた。主なものは、①「独逸」が10世紀に「ヘヌリ」(ハインリッヒ一世)の時に「ハンガリー」から邊境を侵す者を打破ったこと、②「オットマン」国が「バジヤシスト」一世のときに「ハンガリヤ」に侵入し、ホンガリー王が仏独の兵と連合してこれを防いだこと、③1520年代の「ソリマン」(スレイマン)二世のときに「ハンガリー」を攻略して属国としたこと、④「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、⑤17世紀末の墺太利の「レヲポルド」帝の時「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じて「ウィーンナ」を包囲したがこれを退け、「ハンガリー」を平定したことなどである。

 オスマン帝国がハンガリーとの関係で位置づけられていることが注目される。このうち②はバヤジットのブルガリア攻撃のことと誤っていると思われるが、その他はいずれもハンガリー史にとって重要な史実であった。その論じ方は「王朝史」であったが、『五洲紀事』より正確な歴史になっている。『五洲紀事』にあるような匈奴の子孫という人種的な観点はなかった。ここで気になるのは。「人民」という言葉であるが、この時期の「万国史」では、「国民」と並んで「人民」が使われていて、その「人民」は広く人間という意味でも、民衆という意味でも使われていた。

 以上は『史略』の記述であるが、ハンガリーの扱いは『万国史略』でもまったく同じであった。

≪ギリシア≫

 『史略』では、土耳其史が系統的に述べられていて、その中で希臘の独立も扱われていた。ギリシアの独立についての記述を見てみよう。

「希臘は東羅馬の衰退後、久しく土耳其の版図に期せしが、其の苛酷の政令に耐えず、千八百二十一年より終に兵を挙げて土耳其に抵抗し、数年間死力を盡して血戦せしと雖も、衆寡敵せず、殆んど土耳其の為に圧服せられんとす。然るに英国仏国魯国等より兵を出し、千八百二十八年大いに「ナバリノ」に於いて土耳其の海軍を討破り、其翌年「モレヤ」の地独立して希臘国と号を初め、「カポジストリヤ」大頭領に任せしなり。」(『日本教科書体系』第18巻 54頁)

 ギリシアの独立は当時の日本では注目されていた出来事であった。この記述は『五洲紀事』のそれとほぼ同じである。記述は今日から見てもほぼ正確である。ただギリシアは1829年に「独立」したのではなく、自治国となったということは、正確には押さえられていない。だが、他は正確である。また「カポジストリヤ」(カポディストリアス )大頭領への言及が新しいところである。すでに「独立」、「大頭領」(大統領)という用語が出ていることに注目しておきたい。『万国史略』もこれと同じ内容であった。 

≪ポーランド≫

 『史略』では、ポーランドについては、独逸・墺太利・普魯士の項で、「1795年、墺普の両国、魯西亜と共に波蘭国を亡ぼし、之を三分して、各領地を増せり」(41頁)とされ、魯西亜の項の中では、「波蘭国を亡ぼし、普魯士、墺地利と之を分ち領す」(50頁)と出てくるだけである。波蘭の側での抵抗のことも指摘はなく、諸王の偉業として扱われている。当時の日本ではポーランド分割への関心は高いはずであるが、意外にあっさりとしている。『五洲紀事』にあった「人民」「国人」の目線がなくなっている。『万国史略』もこれと同じ内容であった。

 以上のように、『史略』と『万国史略』においても『五洲紀事』と同じく、ヨーロッパ東部のうちでは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドが関心の対象であった。それはアメリカのパーレイに倣ったものであろうが、日本としても国家の独立と分割に対する関心が、これらの国への関心となっていた。だが、寺内の『五洲紀事』と比べて、いわば「権力的」な見方をしていた感がある。また、仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」の記述はあるが、それとの関係で、ヨーロッパの東部が論じられることはなかった。なお、『五洲紀事』では「革命」が使われていたが、ここでは「騒乱」や「動乱」である。まだ用語は確定していなかった。

3. 田中義廉『万国史略』甲府書林 明治8年(1875年)   

 師範学校の創建者として知られ、文部省の教科書編集に携わった洋学者田中義廉の書いた『万国史略』明治8年(1875年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)は、小学生用の準教科書である。文部省刊ではないが、文部省において西村茂樹のもとで働いていた田中の編のものであるから、教科書に準じた意味があったものと思われる。そして、日本と「支那」は別にするので、本書にはこれを含めないという方針で書かれている。

 本書も亜當(アダム)と厄襪(エブ)から始め、聖書的要素を残していたが、創世記は半頁で片付けていた。それでも『史略』や『万国史略』よりは聖書的であった。構成は以下のようであった。

巻の一 太古史

 亜西里亜(アッシリア)、馬太(メディ)、新亜西里亜、巴比羅尼亜(バビロニア)、猶太(シュダー)、勿搦齊亜(フェニシア)、亜剌比亜(アラビア)、波斯(ペルシア)、亜細亜土耳其、希臘(ギリシア)、羅馬(ローマ)、羅馬尼(ロマニイ)

巻の二 伊太利、仏蘭西、

巻の三 西班牙、葡萄牙、日爾曼(ゼルマン)、孛魯士、和蘭、比利時、瑞西

巻の四 英吉(イギリス)、嗹馬(デンマーク)・瑞典(スウェーデン)・那爾威(ノルウエイ)

巻の五 魯西亜、土耳其、米利堅聯邦

 見られるように、師範学校編『万国史略』と比べた場合、中国やインドは抜けているが、同じような各国史の並列になっている。これはパーレイから内容を取って編集したとされている。ヨーロッパは各国史的に詳しく論じられていた。その中でヨーロパの東部に関連して論じられているのは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドであったが、ここではルーマニアが出てきている。

 まずギリシアについてみると、『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、古代から始まる希臘の節の終わりにギリシアの独立が論じられている。内容は、独立までは従来と同じであるが、本書では、独立以後のギリシアの動きもが論じられている。1832年にバイエルンよりオットー(オソン)一世を迎えて「独立」したが、この王は「不徳」にして「人望」を失い、1860年(1862年の誤り)、「國人」はこれを廃してデンマークより王(ゲオルギオス一世)を迎えた。その後ギリシアは盛んになったという(『日本教科書体系』第18巻 171頁)。「國人」の目線から歴史が見られているということができる。

 つぎに、ルーマニアが登場する。羅馬の節の次に、羅馬尼(ロマニイ)が論じられていた。『五洲紀事』や『万国史略』にはない記述である。曰く、西と東の羅馬の滅亡のあとその「人民」が多悩(ダニューブ)河の辺に移ったが、土耳其の苛政に苦しんできた。それがようやく1860年ごろから「國人」力を合わせて「独立」を謀り、公国となり「羅馬尼(ロマニイ)」と称した。しかし、土耳其の覊軛を免れず、公位についた歴山の元でも6年間政令が整わず、内乱が起きて、このたびドイツから新たに公を迎えた。それが今の迦爾(カール)一世である(同上 179頁)。ルーマニア人がローマの末裔であるというのは、ストレートすぎる理解ではあるが、早くもこの時期にドナウ川の辺まで関心が届いていたことは特記すべきである。ここでも「國人」の目線から書かれている。

 三つ目にハンガリーを見よう。これも『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、日爾曼(ゼルマン)と土耳其の節で述べられていた。扱われているのは、ほぼ同じ内容で、①919年に王位に就いた「顕理」(ハインリッヒ一世)が英邁果断で「洪牙利」を打破ったこと、②教法改革(宗教改革)で日爾曼の南部が騒擾している時に、所利曼(スレイマン)二世の土耳其が大挙して洪牙利を蚕食し、墺太利に侵入し、1529年、維也納(ウイーン)を囲むに至ったこと、③17世紀末の墺太利の「略波爾」(レオポルト一世)帝の時、1683年に、土耳其が洪牙利人を誘い、墺太利を攻めてまた「維也納」を包囲したが、墺太利はザクセン、バイエルン、ポーランドの兵の助けを得て、これを退けたことなどである。

 しかし、『五洲紀事』や『万国史略』にあった、「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、土耳其の二回目の攻撃の際、「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じたということ、第二次包囲を退けたのち、オーストリアが「ハンガリー」を平定したことなどは、記されていなかった(同上 208,210,244,245頁)。なおハンガリーの記述では「國人」の目線は貫かれていない。

 最後に、ポーランドはどうか。墺太利と孛魯士と魯西亜のところで、三国で「波蘭ヲ滅ボシテ、其地ヲ三分セリ」と出て来る。しかし、ポーランド人の抵抗の事などは触れられることはなかった(同上 211,212,241頁)。ここでも「國人」の目線は貫かれていない。

 仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」について、『史略』や『万国史略』以上に記述は詳しくなり、とくにナポレオンと1848年に関しては、充実した記述となっているが、それとの関係で、ヨーロッパの東部(チェコやハンガリーやルーマニアなど)が論じられることはなかった。

 こうした違いや「國人」目線が散見されるという違いはあるとはいえ、基本的には『五洲紀事』や『万国史略』と同じようにパーレイを底本にした教科書であった。各国併記であり、視線も王朝荒廃や治乱興亡を主としていた。面白いことに、パーレイの本自体はまだ完訳が出ていなかった。それは次の時期になる。

(続く)

(「世界史の眼」No.27)

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文献紹介 向野正弘「酒井三郎の「世界史学」に基づく歴史教育構想―1950年代後半、『世界史の再建に先立つ見解』」『歴史教育史研究』第19号 歴史教育史研究会 2021年 23-37頁
南塚信吾

 本稿は、1950-60年代に世界史について独特の議論を展開した酒井三郎の「世界史学」の研究のための予備論文である。上越教育大学の茨木智志の主催する『歴史教育史研究』は世界史を含めた歴史教育について地道な研究を発表しており、本論文はそのようなものの一つである。

 本稿で扱われる酒井三郎は、1901年(明治34年)に高知県に生まれ、東北帝国大学で西洋史を専攻して卒業後、東京帝国大学の大学院で学んだ。修了後、日本大学、日本女子大学で教えたのち、高知の追手前高校の校長を務め、1951年に熊本大学教授となった。1968年に定年退職したのち、立正大学に76年まで務め、1982年に亡くなっている。この間、『国家の興亡と歴史家』(弘文堂書房、1943年)、『世界史の再建』(吉川弘文館、1958年)、『ジャン・ジャック・ルソーの史学史的研究』(山川出版社、1960年)、『日本西洋史学発達史』(吉川弘文館、1969年)、『啓蒙期の歴史学』(日本出版サービス、1981年)などを出している。

 向野正弘の論文は、

  1. 酒井三郎の「世界史」認識をめぐって
  2. 酒井三郎の歴史教育に対する覚悟
  3. 戦後の社会科「世界史」の回顧と現状認識
  4. 「世界史学」について
  5. 現在ならびに未来の取り扱い
  6. 「世界史学」から見た歴史教育構想
  7. 歴史教育の大綱試案
  8. 酒井三郎の隘路
  9. 現代の「世界史」教育への示唆

という構成を取っている。

 個々の節の内容は紹介する必要はないだろうが、この中で、とくに紹介しておきたいのは、「世界史学」という概念であろう。酒井は、「日本史に対立するところの外国史の同義語である世界史」、つまり「東洋史プラス西洋史すなわち世界史」という規定を排する。ではどうするか。向野によれば、酒井は、網羅主義の世界史にたいして、「世界史学」に基づく「世界史」を提起しているという。酒井の言葉によれば、「世界史学とは世界を対象とした歴史学」であり、「世界に住まう人間の社会生活の発展を対象とするもの」だという。「世界史学」は、「いわゆる日本史・東洋史・西洋史のたんなる綜合ではない。かつて行われた万国史ではない」。日本史・東洋史・西洋史の「それぞれの歴史の発展の共通な面をとりあげて、世界の共通の史的問題をとりあつかう」のである。だから、「日本史のある断面は、西洋史的問題としてじゅうぶんに意味をもつものであり、東洋史・西洋史においてもまた同様である。かくして日本史即世界史であり、東洋史・西洋史それぞれすなわち世界史でありうるといった世界史史学」を考えているという。だから、酒井は、日本世界史・西洋世界史といういい方もできるのだという。

 われわれが考える「日本の中の世界史・世界史の中の日本」という考え方に通じるのかもしれない。また何らかのテーマをもって地球上の諸国を「通地域・通国家的」に考えるという方向を考えていたのかもしれない。

 河野は、酒井の「世界史学」という概念は史学史のなかでなお確認しなければならないと注記しているが、概念は別としても、酒井が具体的にどういう歴史を考えていたのかは、興味のあるところである。酒井の『世界史の再建』においては、教育体制と教科書を材料にもう少し具体化されているようだが、向野がどのような理解をしめすのか、是非とも知りたいところである。

(「世界史の眼」No.27)

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書評 益田肇『人びとのなかの冷戦世界―想像が現実となるとき』岩波書店、2021年。
佐々木一惠

 冷戦とは何だったのか?本書のこの問いは、今、新たな意味合いを持って問い直されている。2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。不安、戸惑い、怒り、さまざまな感情が人びとの間で沸き起こっている。本書は、こうした市井の人びとの感情が、冷戦という大きな歴史的な「現実」の構築に重要な役割を果たしていたことを明るみにする。

 本書の焦点は朝鮮戦争期である。1950年6月25日、北朝鮮が北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。朝鮮戦争勃発のニュースは瞬く間に世界各地を駆け巡り、人びとの間に第三次世界大戦への不安と恐怖を巻き起こした。しかし著者の益田氏によると、第三次世界大戦の危機に対する反応は一様ではなかったという。例えば北朝鮮の軍隊が南進してきていたソウルでは、多くの住民はソウルに留まる選択をした。その背景には「同族だから何もしないだろう」という思いがあったという(67頁)。同じ頃、ニューヨークなどアメリカの大都市では、主婦たちが新たな世界大戦の勃発とそれに伴う物資の欠乏を心配し、生活必需品の買い出しに走っていた(70頁)。また中国では「国民党が広東と大連に上陸したらしい」などのデマが飛び交い(72頁)、日本では再軍備論が突如頭をもたげていた(77頁)。

 このように朝鮮戦争勃発が各地で創り出した「リアリティ」には地域差があった。本書はこの地域差に着目する。益田氏によれば、第三次世界大戦に関する言説が爆発的に広がったのは主に東アジア、ヨーロッパ、そして米国などの地域であったという(79頁)。これらの地域に共通していたのは、第二次世界大戦という強烈な体験、その記憶に基づく恐怖、また戦争経験が作り出した国民的記憶の存在であった。この第二次世界大戦の経験や記憶が、朝鮮戦争を第三次世界大戦の前哨戦と捉える見方を作り出し、さらにそれが個々の地域の文脈の中で冷戦という「現実」に真実味を与えていったと益田氏はいう。そこから本書は、膨大な史料の裏付けのもと、中国、米国、日本、イギリス、台湾、フィリピンを事例に、冷戦という「現実」が実際にはローカルな立場から見た世界情勢の理解であったこと、言い換えるならば、「地域特有のレンズ」(90頁)を通じた世界情勢の「翻訳」であったことを丹念に示していく。

 益田氏によれば、冷戦という「現実」を現実たらしめた装置の一つが「印象をめぐるポリティクス」であったという(第4章)。この「印象をめぐるポリティクス」においては、「安全保障」や「国防」といった概念の中に、人びとが「脅威」に対して抱く印象を管理することも含まれていた(156頁)。例をあげるならば、朝鮮戦争に参戦した中国には、38度線で停止し戦争を早期に終結させる選択肢があった。しかし中国は38度線南進という強行路線を選択した。その背景には、中国国内における革命的情熱の衰退への懸念(157頁)、そして国内外の人びとの心に中国が与える象徴的な意味合い、すなわち共産中国の大勝利と「美帝」(アメリカ帝国主義)の敗退(159頁)、という印象形成の目論みがあったという。

 さらに益田氏はこの「印象をめぐるポリティクス」が、普通の人びとにどう受け止められ、また冷戦の各種のプロパガンダや動員計画に普通の人びとがどう関わったのかを検証していく(第5-6章)。例えば、ソ連が提唱する真実(プロパガンダ)に対する巻き返しとして展開された米国の「真実キャンペーン」の活動には、多くのアメリカ人が参加した。その効果は、カリフォルニア州のある精神科医が、突如として「アメリカが警察国家になってしまった」と嘆くほどであった(191頁)。また中国では、日本の再軍備という新たな現実を受け、「抗美(米)援朝」運動が抗日戦争の記憶と結びつく形で展開されていった。この運動に参加したある中学生は、祖国に対する見方が変わり、「祖国がなければ何もない」という思いに駆られるようになったという(211頁)。このように米国においても中国においても、普通の人々は各種のプロパガンダや動員計画への参加を強要されたのではなく、むしろ国家の利益を守るという名目で自らを動員していた。そこには、社会に存在する隠れた願望、すなわち、一体感への切望や協調心の高揚というべきものが存在していたと益田氏は指摘する(212頁)。さらに益田氏は、これらの動員プログラムの主要な作用は、人びとの間に合意を形成することではなく、社会のどこに「敵」がいるのか、誰が「敵」なのかを明らかにすることにあったとする(191頁)。

 そこから益田氏は、個別具体的なローカルな局面において、誰が「敵」として粛清されていったのかを丹念に炙り出していく(7-10章)。米国のマッカーシズムでは、労働組合員、公共住宅計画や国民健康保険制度の推進者、アフリカ系アメリカ人の公民権運動家、フェミニスト、移民、ゲイやレズビアンらが、「非アメリカ的」分子として糾弾されていった(244頁)。イギリスや日本では労働組合員が粛清の主な標的になった。また中国の「鎮圧反革命」運動では、山賊、泥棒、地元のごろつきたちまでもが「反革命分子」として摘発されていった(287頁)。さらに台湾では「反共抗俄(共産主義に反対し、ロシアに抵抗する)」運動の旗印のもと、国民党政府への異論や不満が抑圧され(303頁)、フィリピンでは土地改革と社会正義の実現を掲げたフクバラハップ団が「非フィリピン」活動を行なったとして粛清された(311頁)。ここから見えてくるのは、朝鮮戦争期に各地で巻き起こった国内粛清は、必ずしも特定のイデオロギー(共産主義・資本主義)や政治体制(民主体制・独裁体制)に特徴づけられたものではなかったということである(315頁)。

 ではなぜ国内粛清現象が世界中でほぼ同時に発生したのか。また、この世界同時多発的な現象は何を意味していたのか。益田氏はそれを次のように説明する。まず同時多発的な国内粛清現象については、先に述べたように、朝鮮戦争の勃発により人々の間に呼び起こされた第二次世界大戦の記憶が、各地で第三次世界大戦の恐怖を引き起こしたことによって生じたという。そしてこの第三次世界大戦の危機は戦時ムードを作り出し、国内粛清を安全保障と治安維持の名のもとで正当化していった。さらに益田氏は、国内粛清が普通の人びとから支持を得た背景に、「政治」の本質の変化があったとする。それは、総力戦経験を経た社会においては、もはや国民の願望や心情を考慮することなしに政治を執り行うことがほぼ不可能な状況になっていたということである(162頁)。こうして国内粛清は社会的承認と支持によって遂行されていった。

 それではなぜ冷戦言説を盾とする「敵」の国内粛清が、各地で社会的承認や支持を得ることができたのだろうか。益田氏によると、そこには混沌とした戦後状況を「安定化」させたい、あるいは「秩序」だった(もっと慣れ親しんだ)「普通」の生活様式に戻りたい、という大衆的な「草の根保守的」な夢や希望が存在していたという(256頁)。この「草の根保守的」な願望こそが、戦後新たに台頭してきた新興勢力(土地改革者、労働組合員、仕事を持つ女性、アフリカ系アメリカ人など)を社会的に抑圧し沈黙させる運動の原動力になっていたという。ここから益田氏は、グローバル冷戦という「現実」は各国の首都中枢部に構える権力者だけでなく、社会における秩序維持と調和形成に意識的また無意識的に関与していた世界各地の無数の普通の人びとも、その参加者の列に含まれていたと結論づける(317頁)。  

 これまで見てきたように、本書は社会史、外交史、政治史を融合させながら、さらにローカル・ヒストリーとグローバル・ヒストリーの双方の見地から、既存の冷戦の歴史像に揺さぶりをかける優れた歴史研究書である。周到かつアクロバティックな著者の論の運びは読む者を圧倒する。本書の評価については、著者自身が巻末の解題において詳細に論じているが、この解題で指摘されていない点に最後に触れておきたい。本書は大衆感情や社会的通念、噂、またそれにまつわる不安や恐怖を、冷戦によって生み出された派生物ではなく、冷戦の「現実」を生み出した要因として捉えている(5頁)。そこから、市井の人びとを、冷戦論理の実践における受身的な存在というよりは、むしろその主体と見立て、彼・彼女らの「囁き、噂、心情」(12頁)を丹念に拾い上げ検証している。こうした点で本書は、昨今歴史学において注目されている感情の歴史学や、個人の主観性に着目するエゴ・ドキュメント(手紙・日記・回想録など一人称で書かれた史料)の歴史学にも大きな貢献をしている。よってこれは多分に無い物ねだりの指摘となるが、もし本書が感情史のパースペクティブ(「感情体制」や「感情の共同体」など)を意識的に取り込み論考を進めていたなら、グラムシのヘゲモニー概念(暴力的な強制ではなく服従する側の同意を取りつけることによる支配)を鋳直し、民衆の主体性の重層性・複層性・両義性をより深く照射したかもしれない。そこでは恐らく、ジュディス・バトラー(フェミニズム理論・セクシュアリティ研究)が言うところの具体化=身体化された複数的な行為遂行性(パフォーマティヴィティ)などの視点が重要な意味を持つことになるだろう。  

 いずれにしても、本書は冷戦に関するこれまでの見識を塗り替える画期的な研究であることは間違いない。そして、現在、ウクライナで進行している事態に際し、冷戦という「現実」が改めて問い直されるなか、本書の最後に書かれていた「私たち自身も(中略)日常レベルにおける、いわば権力者なのだから」(327頁)という言葉は、私たち一人一人に対する重い問いかけとなっている。

(「世界史の眼」No.26)

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