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経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―
権上康男

はじめに

  主要諸国における経済関連の公的歴史文書は今日、大半が20世紀末まで閲覧できる。しかしこれらの文書を利用した歴史研究は未だ部分的にしか進んでいない。そのために欧米先進諸国の現代経済史は、経済理論史を下敷きにして、次のようなイメージで捉えられていると言ってよかろう。まず、両大戦間期にケインズ主義が徐々に影響力を拡大する。第二次世界大戦後にこの理論に適合的な、戦時体制を多かれ少なかれ継承した、組織された経済社会が形成される。ケインズ主義はしかし、1970年代の長期不況を経て市場機能の強化を説くマネタリズムにその地位を譲る。最後に、マネタリズムと変動相場制に媒介されて経済のグローバル化が進み、経済社会は各種規制の緩和によって著しく柔軟なものへと改造される。

 このような、英語圏で生まれた経済理論に則して図式化された20世紀史の理解は、言うまでもなく歴史研究の必要を満たすものではない。本稿では、この図式から漏れた重要と思われる史実を掘り起こすとともに、経済理論と時代とのかかわりを問うことにしたい[1]

 とりあげるのは2人の理論家ジャック・リュエフ(1896-1978)とジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)である。ほぼ同じ時代を生きたリュエフとケインズは、一方はフランス、他方はイギリスという異なる文化圏を背景にもち、しかもアプローチも主張も互いに正反対であった。2人は経済、社会、政治を一体のものとして扱うことのできた、事実上最後の政治経済学者でもあった。ケインズは経済学に革命を起こしたと言われるように、着想の斬新さにおいてきわだっていた。一方のリュエフは、古典派から新古典派へとつづく経済学の古典理論に忠実であった。とはいえ、彼は単なる保守的な経済理論家ではない。彼には革新的な一面もあった。たとえば、1938年に大陸欧州の自由主義者たちとともに新自由主義(ネオ・リベラリズム)を立ち上げている。

 リュエフの名は大陸欧州諸国以外ではあまり知られていないが、20世紀を代表する経済学の巨人、ひいては知の巨人とも言える存在であった。彼はケインズと同じく、エリート財務官僚として職業生活をスタートさせている。しかしケインズとは違い、財務官僚としてのキャリアを全うしている。彼は官僚としての顔の他に、経済学者、哲学者、大学教授、EEC司法裁判所判事という4つの顔をもち、浩瀚な6巻本の著作全集を残している。主著は経済学と社会学にまたがる基礎理論に捧げられた2巻本の大著『社会秩序』(1945)である。

1. 価格メカニズムによる調整は、是とすべきか、非とすべきか 

 リュエフは国際連盟事務局に出向中の1928年秋に、ケインズとともにジュネーヴの国際高等研究院に招かれ、公開講演を行うとともに2人で議論を戦わせている。彼は当時34歳であった。その3年前に、イギリスで失業者が異常に多いのは失業保険制度に原因があるとする衝撃的な論文を発表し、彼の名はヨーロッパ中に知られていた。一方のケインズは、気鋭の革新的な経済学者として名声を博していた。この2人を、高等研究院の院長で産業革命史研究の大家ポール・マントゥーが対決させたのである。

 リュエフはロンドン駐在財務官の時代にもロンドンおよびケンブリッジで講演を行い、会場に来ていたケインズと論争している。1931年には、ケインズの求めに応じて『エコノミック・ジャーナル』誌(以下、JEと略称)に寄稿し、ケインズと激論を交わしている。

 第二次世界大戦が終結し戦後復興が始まると、西側諸国はケインズ主義一色に染まった。ケインズは1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(略称『一般理論』)を出版していた。この著作で展開された理論が、長期のデフレと大戦で経済が縮小均衡に陥っていた西側諸国の政策当局者たちの眼に、経済的繁栄と社会平和をもたらす救世主として映ったのである。1946年に、リュエフは時流に抗い、『一般理論』を全面的に批判した論文「一般理論にあらざる『一般理論』」を発表する。ただしケインズはその前年に没していた。

 リュエフとケインズの論争は価格メカニズムよる調整をめぐるもので、経済理論レヴェルのものであった。経済学の古典理論によれば、価格が自由に変動することによって調整がなされ、経済は均衡する。ケインズはこの古典理論を否定し、市場経済には、財政・金融面からの公権力の介入が必要であると主張する。これにたいしてリュエフは、自らの理論研究にとどまらず、前出の失業についての実証研究、およびフランスを中心とする西欧諸国の国際収支についての同じく実証研究にもとづいて、価格メカニズムはさまざまな障害を乗り越えて厳格に機能していると主張して、一歩も譲らなかった。

 リュエフはケインズによる理論構築にも重大な問題があると言う。たとえば『一般理論』においては、有名な流動性選好仮説以外にも、中央銀行が通貨の流通量を決めている、国内市場が各所でブロックされているなど、いくつかの暗黙の了解事項が存在する、と。もとより仮説や前提を設けることに合理的根拠があるなら問題はない。だが、合理的根拠がなければ理論の信頼性は失われる。リュエフによれば、ケインズが設定した仮説や前提にはそうした根拠がない。それゆえ彼は「『一般理論』は一般理論の名に値しない」と言い切る。ちなみに、ケインズと親しかったロンドン大学LSEのフリードリヒ・フォン・ハイエクも、後年(1966)に『一般理論』に重大な欠陥があることに早くから気づいていたと証言し、ケインズのこの著作を、「時事論説を『一般理論』と称した」と批判している。

 では、なぜケインズは強引と思える仮説や前提を多用したのか。リュエフのケンブリッジ講演を聴いたケインズが1931年5月20日付でリュエフに送った書簡のなかに、この疑問を解く手掛かりがある。ケインズはこの書簡で、リュエフの講演を理論面で高く評価した後にこうつづけている。「私が思うに、あなたは、諸構造はそれ自体で元の構造に調整されるとしていますが、私はこう考えます。あなたが当てにしている柔軟性は空想であり、われわれは柔軟性を当てにせずに機能し得る装置を構築しなければならない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、と」(傍点は引用者)。この言葉を敷衍すれば、ケインズは自らが構築しようとする理論に合わせて仮説や前提を設定した可能性も、あながち否定できない。

 歴史研究の側から見て興味深いのは、2人の主張が新しい時代への強烈な、しかも相互に異なる危機意識と不可分な関係にあったことである。先のJE 誌上の論争において、経済理論の範囲を逸脱した批判の応酬が行われている。リュエフはケインズをこう批判する。市場の管理という発想は「自由主義経済」と「管理経済」のいずれを選択するかという問題にかかわっており、「経済理論の観点よりも政治的観点から見てきわめて重要である」。なぜなら、それは「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」からである。やや唐突と思われるので、別の視点から言い換えてみよう。市場経済においては、無数の経済単位(個人、企業、行政機関など)が価格の変動に日々刻々、反応して自由に行動する。その結果として調整がなされ、均衡が成立する。市場を管理することは、そうした自由な行動を制限するということであり、その行き着く先は権威主義経済=権威主義国家である。

 この批判にケインズはこう反論する。価格メカニズムによる調整は社会のさまざまなカテゴリー、なかでも最大多数を占める労働者に痛みを与える。それゆえ「不可能とは言わないまでも政治的、人道的に困難である」。さらに、リュエフが調整の好事例としてフランスの金本位制復帰にあげたのを捉えて、激しい言葉で応酬する。戦後フランスの混乱ぶりを見れば「調整が円滑に行われた好事例などとはとても言えない。自身がフランス人であるリュエフ氏が豌豆の鞘を剥くように容易なことを証明するのに、フランスの戦後史を引用するとは、何と物忘れの酷いことよ!」。しかしケインズは、「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」という、自らに向けられた批判には沈黙している。

 2人の間で争われていたのは調整の是非である。ケインズは調整が政治と人道の両面から見て困難であるとし、既存の制度や慣行を変更しなくて済むシステム、すなわち公権力によって管理された市場経済の構築を選択する。しかしリュエフによれば、調整がなされず、経済の不均衡が放置された社会は存続できない。仮に調整を財政・金融政策によって先延ばしするなら、経済は危機に見舞われる。それさえ無視して調整をさらに先延ばしすれば、最終的に市場の暴力によって調整が強行される。それゆえ介入を可能な限り控えて経済を日常的なミクロ・レヴェルの調整に委ねるべきだと、彼は言う。

2. 国際通貨制度の政治経済学―至上命令と化したデフレの回避

 19世紀末に金本位制が主要諸国に普及したことにより、国際金本位制と呼ばれる非公式の国際通貨制度が成立した。この制度は第一次世界大戦を契機に消滅し、以後、再建されることがなかった。国際通貨制度は世界経済の基盤となるものであるが、そのあり方をめぐってもリュエフとケインズは真っ向から対立した。

 問題の淵源は第一次世界大戦にある。この大戦を通じて世界の金がアメリカ一国に集中し、他の諸国には通貨発行に必要な金の確保が難しくなった。アメリカがドルを大幅に切り上げれば金本位制のメカニズムにより金がアメリカから流出し、問題は解決する。だがその場合にはアメリカ経済がデフレに陥る。デフレを回避しつつ、国際通貨制度を再建するために考案されたのが金為替本位制である。この通貨制度は金と交換が可能な新旧2つの大国の通貨(ドルとポンド)を準備として各国が自国の通貨を発行する制度である。この制度の普及を主導したのはイギリスである。大戦後のイギリスにはもはや経済大国の面影はなかった。しかし他の諸国がポンドを準備として用い、イングランド銀行が金の国際的移動を「中央銀行間協力」の名のもとに管理できるなら、イギリスは基軸通貨国になることができる。金為替本位制はアメリカだけでなくイギリスにとっても都合のよい制度だったのである。

 このような大戦後の状況にすばやく反応したのがケインズである。彼は1920年代初頭から、金本位制への復帰はデフレを招くとして、通貨発行を金から切り離すべきだとする「修正金本位制」の側に立って論陣を張った。これにたいしてフランス政府は、イギリスが採用した国際通貨戦略(金為替本位制、金移動の国際管理)を「帝国主義」であるとして強く反発した。リュエフはこのフランスの主張―すなわち「通貨正統主義」―を、財務官僚と経済理論家の二重の資格で理論面から根拠づける役割を果たしていた。

 第二次世界大戦後も世界の金はアメリカに集中した。問題の構図は第一次世界大戦後と変わらず、再建された国際通貨制度も超大国アメリカの国民通貨ドルを基軸とする金為替本位制(いわゆる「ブレトンウッズ体制」)となった。この通貨制度は、デフレの回避とアメリカによる通貨覇権の掌握という経済的ならびに政治的要請を満たすものである。

 ところで金為替本位制には2つの重大な問題が伏在していた。第一に、第一次世界大戦後の復興が進み、仏、独、日のような主要諸国がドルやポンドを金と交換するようになれば、基軸通貨国の金準備が減少し金為替本位制は立ち行かなくなる。実際、1928年にフランスが金本位制復帰を宣言すると、イギリスからフランスへ金が流出し、ポンドが危機に陥った。イギリスはフランスに金の放出を迫っただけでなく金融制度の改革をも要求したが、フランスはいずれの要求にも応じなかった。「中央銀行間協力」は画餅に帰したのである。イギリスは結局、1931年に金本位制を離脱し、これを契機にデフレが世界に波及することになる。

 第二次世界大戦後にも同じことが繰り返された。主要な欧州諸国の中央銀行は1960年代に入ると、金の備蓄を始める。例外は安全保障上の理由からアメリカと事を構えるわけにいかない西ドイツ(および日本)だけであった。アメリカからの金の流出は増えつづけ、やがてドルならびに国際通貨制度が危機に瀕することになる。

 金為替本位制に伏在する第二の問題はこの制度がインフレ体質だったことにある。リュエフは1930年代初頭に、金為替本位制に特有のメカニズムが市場経済の自動調整を妨げてインフレを惹起し、国際通貨制度を崩壊に導くことに気づき、論文に発表していた。そのメカニズムとは、ごく簡単に言えばこうである。金為替本位制のもとでは、基軸通貨国の通貨(ポンド、ドル)は信用によって他の諸国に移転し、最終的にその地の中央銀行の準備に繰り入れられる。当該中央銀行は、この外貨を即座に流出元のロンドンないしニューヨークに送り、その地の銀行に預金する。それは預金収入を得るためである。それゆえ、流出した通貨は事実上、流出元にとどまったままである。その間に、流出先の銀行でも、流出元の銀行でも、通貨(預金通貨)が乗数的に発行される。問題の通貨はくり返し何度でも貸し出すことができるから、世界規模で通貨の発行増が生じる。金為替本位制は「本質的にインフレ的」なのであり、大恐慌前夜のブームには金為替本位制も一役かっていた、とリュエフは言う。

 1950年代末に復興を終えた主要諸国が通貨の交換性を回復すると、アメリカからこれら諸国へ大量のドルが流出し、世界にインフレの兆しが現れる。それと併行してアメリカからの金の流出も増える。状況は大恐慌前夜に酷似していた。事態を放置すればアメリカはドルと金との交換を停止せざるを得なくなる。この時、リュエフは金為替本位制に特有のメカニズムを講演や論文で説明し、金為替本位制を廃止して金本位制に戻さなければ世界経済は崩壊すると警鐘を鳴らした。彼の危機論は国際社会に大きな波紋を呼んだ。リュエフは次々と欧米の主要都市に講演に招かれ、彼の講演原稿はすべて世界の有力紙に掲載された。彼は時の人となったのである。

 しかし、アメリカの財務・通貨当局者たちによる危機の診断はリュエフと違い、楽観的であった。彼らによれば、ドル危機の原因はアメリカの国際収支の不均衡にある。アメリカが対外支払いを削減し、国外から資金の流入を図れば、危機は短期間で克服できる。ただし、その場合には在外ドルが減り、国際流動性(国際決済用の金融資産)が減少する。将来、発展途上国が工業化し、成長するようになれば国際流動性の不足が生じる。それゆえ国際協力によって予め新たな国際流動性を創設しておく必要がある。この議論は、経済成長には追加的な貨幣が必要だとするケインズの信用理論を国際領域に拡大適用したものだと言われる。

 リュエフもアメリカ側の立論にケインズの影があるのを見逃さなかった。彼は理論と実証の両面からこう厳しく批判する。アメリカの誤りは国際収支のメカニズムと金為替本位制のメカニズムを正しく理解していないことにある。数量データは、アメリカでも国際収支の自動均衡メカニズムが厳格に働いていることを示している。それなのに国際収支の不均衡が常態化しているのは、金為替本位制のメカニズムに、すなわちドルが信用を介して国外に大量に流出していることに原因がある。金為替本位制を廃止しない限りドル危機は解決しない。

 アメリカ政府と西欧諸国政府の双方の専門家たちは、リュエフによる診断と対処法を無視した。わずかに大統領シャルル・ドゴールがリュエフに同調し、1965年2月、世界に向けて金本位制復帰を呼びかける声明を発表しただけである。だがドゴールも、国際的孤立を怖れて自らの声明に固執しなかった。かくてリュエフは孤立無援であった。とはいえ各種の情報源によれば、リュエフを支持する経済専門家は必ずしも少なくなかった。フランス大統領府だけでなくアメリカ政府の高官たちにも、また国際決済銀行の上級職員たちにも、リュエフの議論に共感する者がいた。リュエフの分析によれば、通貨覇権の維持に執着する超大国アメリカの世論とアメリカ政府に配慮し、彼らは自らの意見を公にできなかったのだという。

 リュエフによる危機の診断の当否は措くとして、その後の歴史に照らすなら、アメリカ政府の主張には分がなかった。同政府は結局ドル危機を自らの手で解決できず、1970年代初頭に金/ドルの交換制停止に追い込まれ、世界経済は長期にわたり深刻な混乱と不況に見舞われる。リュエフの預言は的中したのである。この一事は、歴史が形成される過程で経済理論(リュエフによれば「科学」)と、社会や政治がそれぞれどのような役割を演じるのかを、また両者の間に生じる齟齬が歴史に特有のダイナミズムをもたらすことを物語っている。

3. 自由主義の再定義と新自由主義の理論

 「長期的にみると、われわれはみな死んでしまう」―これはケインズが『貨幣改革論』(1923)のなかで用いたフレーズである。市場が均衡を回復するまで手をこまねいて待つわけにいかない、自由主義も経済学も短期の問題にこそ応えられねばならない、というのが言葉の含意である。まさに20世紀に登場した新しい課題の核心を言い当てた名言である。

 リュエフをはじめとする自由主義者たちがケインズの提起した課題に取り組むのは、第二次世界大戦前夜の1938年のことである。この年の秋にパリで、アメリカのコラムニスト、ウオルター・リップマンを迎えて国際シンポジウムが開かれた。出席者は仏、独、墺の有力な自由主義者たち26人である。5日に及ぶシンポジウムの主要な目的は、自由主義を再定義し、ケインズ的課題に応えられるようにすることにあった。当時の大陸欧州諸国に許された選択肢は事実上、ファシズムと社会主義しかなく、自由主義はまさに風前の灯であった。短期の問題に応えられない限り自由主義に未来はない―これがシンポジウムの出席者たちに共通する認識であった。討議の末に再定義された自由主義は、やがて「新自由主義」の名称で、大陸欧州諸国において市民権を獲得する。この新しいタイプの自由主義の誕生を理論面で支えたのはリュエフである。

 シンポジウムでは、自由主義は国家の介入、なかでも社会領域への介入を排除するものではない、とする点で出席者たちの意見は容易に一致した。それは当時流布していた夜警国家論で知られる19世紀の素朴な自由主義の否定を意味する。しかし問題は単純ではない。国家が介入すれば生活水準の向上に必要な効用の最大化が望めなくなる。では、国家の介入と効用の最大化との折り合いをどうつけるべきか。討議の過程でさまざまな意見が出されたものの、具体的な解決法を提示するまでには至らなかった。翌1939年に(新)自由主義者たちの国際的な結節点としてパリに「自由主義刷新国際研究センター」が創設される。具体的な解決法の検討はこのセンターの第一回セミナーにおけるリュエフの講演に持ち越された。

 リュエフはこの講演で独創的な新自由主義の理論を公にする。それは次の4項目に集約できる。①自由主義の本質は最大効用の実現ではなく、価格メカニズムが機能することにある。②自由主義のもとでも国家の介入は可能であるが、介入は価格メカニズムと両立するものでなければならず、また均衡財政の範囲内に抑えられねばならない。均衡財政の維持が必要なのは、財政赤字によってインフレが発生すれば介入の効果が失われるからである。こうした限定付きの介入は「自由主義的介入」と呼ばれる。③具体的な介入のあり方は経済理論(科学)から導かれた選択肢のなかから、民意を体現する政策当局が選ぶ。④自由主義者と多様な社会カテゴリー、なかでも労働者たちとの対話は可能である。むしろ対話は積極的に行うべきである。ちなみに、セミナーの会場には社会党系労働組合の指導者たちが出席していたが、彼らはリュエフが定式化した新自由主義を受け入れる意向を表明した。

 リュエフの新自由主義理論は第二次世界大戦後にさらに深められる。この深化した理論によれば、(新)自由主義は自然発生的なものではない。それは人間が長期の歴史を通じて漸進的に獲得してきたものであり、法制度によって守られるべきものなのである。リュエフは1958年の論文で、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の冒頭の一節を引用し、新自由主義についてこう記している。「人は自由なものとして生まれた。ところが、いたるところで鎖につながれている」。自由をルソーのように理解すれば、失われた自由を取り戻すには、人から自由を奪った障害物を取り除くだけでよい。だが新自由主義者はそうは考えない。自由は数千年の歴史を経て徐々に獲得されたものであり、自由は常に失われる危険にさらされている。「ルソーとは反対に、人は鎖に繋がれて誕生したのであり、人を鎖から解き放せるのは諸制度の進歩だけである」。新自由主義はまさしく「制度自由主義」なのである。

 大陸欧州では第二次世界大戦後に欧州石炭鉄鋼共同体と欧州経済共同体が創設された。欧州共同体は、すでに1928年に、リュエフ自身が構想していたものである。リュエフはこの共同体こそが制度自由主義としての新自由主義を具現するものであると言う。その理由を彼はこう説明する。2つの共同体の基盤をなすのは「共同市場」である。人、物、資本が国境を越えて自由に移動できるこの市場は、自由主義が目標とする完全な市場である。ただし、共同市場は閣僚理事会(石炭鉄鋼共同体の場合には最高機関)、委員会、裁判所という国家に似た諸制度と、それを運用するための法規類によって支えられている。

 かくて1938年のシンポジウムとリュエフによって定式化された新自由主義は、20世紀末にアメリカを介して普及した新自由主義とは異なる。それには3つの大きな特徴がある。第一に、最大効用の実現を絶対視せず、市場経済と社会との折り合いを重視する。ドイツではこのタイプの新自由主義を「社会的市場経済と呼び、またEUの基本法であるリスボン条約(2007)には「社会的市場経済」がEUの社会理念として規定されているが、その根拠はここにある。第二に、国家の介入を財政均衡の範囲内で容認する(介入自由主義、反インフレ主義)。第三に、自由を法制度の枠組みのなかに位置づけて保証する(制度自由主義)。

展望―グローバル化と21世紀の経済

 以上に紹介した諸事実は、英語圏で出版された文献類からすっぽり抜け落ちている。今日、一般に流布している情報には大きな偏りがあると見なければならない。こうした偏りを正す作業はひとえに歴史研究者の手に委ねられていると言えよう。

 ところで、リュエフ最晩年の1970年代に長期不況が発生する。これ以降、経済面から見た世界は大きく変貌する。国際通貨制度が変動相場制へ移行し、資本の国際移動が活発化する。資本の国際移動はやがて「金融自由化」の名のもとに制度化される。これにともない対外直接投資が急増し、発展途上国の工業化と旧社会主義国の市場経済化が進む。その結果、地球規模に広がる市場経済が存在感を増し、新たに「グローバル市場」、「グローバル経済」という用語が市民権を獲得する。有力な企業の多くが企業戦略の要にグローバル市場におけるシェア拡大を据えるようになるからである。グローバル市場を支配するルールは、市場原理主義とも言えるタイプの自由主義、「ジャングルの自由」に似た制度不在の自由である。

 国民国家の内部では、グローバル化する経済に経済社会を適応させるために国有部門の民営化、雇用・労働規制の緩和、法人税の引下げなどが実施される。この動きと軌を一にして経済のサーヴィス化や情報通信技術の発展と普及が進む。国家が果たしてきた所得の再分配機能は著しく低下し、所得格差や地域間格差が拡大する。かつて肯定的な評価をともなって語られた福祉国家も完全雇用も死語となる。一方、こうした新たな諸条件のもとでエネルギーや天然資源の消費が爆発的に増え、地球環境の破壊が加速する。ケインズやリュエフが活躍した国民国家と職業団体の黄金時代は完全に過去のものとなったかに見える。

 この間に経済学の中心はアメリカに移り、数学を重視する、多分に技術論に偏った経済学が主流となる。このために、21世紀の経済社会が直面している課題に正面から対峙し、独創的な処方箋を提示した政治経済学者は、筆者の知る限り現れていない。

 とはいえ政治経済学の伝統はEU諸国において生きつづけている。その根拠はEUが共同市場と単一通貨圏(ユーロ圏)を基盤にしていることにある。いずれも国家相互間ならびに国民相互間の「共同」や「協力」が基盤になっており、その社会理念は前述したように新自由主義(社会的市場経済)である。つまり、EUは変動相場制と「ジャングルの自由」の支配するグローバル経済への、いわばアンチテーゼなのである。

 このEUでは2007-08年の世界金融危機の後に、域内の金融部門にたいする監督と監視を強化するための機構改革が実施された。この機構改革の基礎になったのはジャック・ドゥ・ラロジエールを長とする作業班が作成した報告書である。ラロジエールは1970年代半ば-90年代初頭に、フランス財務省国庫局長、IMF専務理事、フランス銀行総裁を歴任した人物である。この報告書が作成された翌年に、筆者はラロジエールから聞き取り調査を行った。その折、彼はいかにも残念そうに次のように述懐した。

 フランス政府はブレトンウッズ体制崩壊後の国際通貨制度をめぐり、長期間アメリカ政府と秘密交渉を行った。交渉の場でフランスは、制度を柔軟なものに変えるにしても、一定のルールを設けてそれをIMFに監視させるべきだと主張した。これにたいしてマネタリズムで理論武装したアメリカ政府は、為替相場を自由に変動させれば各国に最適の成長が保証される、よって国際的な監視機関は不要であると主張し、譲らなかった。結局、アメリカに押し切られて変動相場制が公認され、IMFは無力化されてしまった。しかし変動相場制移行後の現実は、アメリカの説明とは裏腹に矛盾と混乱に満ちたものであった。

 ラロジエールは口には出さなかったものの、IMFが無力化されていなければ、世界の通貨・金融秩序は一定の規律のもとに置かれ、危機が発生しても酷いものにはならなかったはずだ、との思いがあったようである。グローバル経済の管理という発想は先年、来日してメディアを賑わせた『21世紀の資本』の著者トマ・ピケティにも見られる。自由は法制度のもとでのみ意味をもつというリュエフの考え方は、EUに、そしてまたフランスの識者たちによって確実に受け継がれているのである。

 最後に一点を確認しておこう。たしかに経済面から見た世界はここ40年間で大きく変化したし、マクロ経済の管理技術も洗練されたものになった。しかし変化は現象面にとどまり本質には及んでいない。経済は市場経済のままであり、市場経済に固有の矛盾は排除できないからである。それだけに、市場経済の何たるかに政治経済学の側から深く切り込んだリュエフとケインズ、この2人が直接・間接に戦わせた古典的論争は今日なお色褪せてはいない。


[1] この小論は拙著『自由主義経済の真実―リュエフとケインズ』(知泉書館、近刊予定)を、歴史研究者向けに圧縮して示したものである。典拠についてはこの単著の関係箇所を参照されたい。

(「世界史の眼」No.10)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その6・完)
南塚信吾

6.「測機舎村」-日本のニュー・ラナーク 

 では、発足後の測機舎の実際の動きを見てみよう。当時は測量機械のほとんどを輸入に頼っていたが、創業の目的は外国製品に負けない測量機械をつくるということであり、それを前代未聞の工場組織によって実現しようという理想を掲げて測機舎は生まれたのであるが、当初は生みの苦しみを味わうことになった。

 港区麻布笄町の48坪ほどの土地にある工場兼住宅で新生の測機舎が動き始めた。階下の14坪の工場に機械室から火造室までが設けられ、二階は時によって事務室、会議室、製図室、あるいは寄宿舎となった。いずれも優れた技術者であった細川、三上、松崎らは狭い工場で創意を発揮して制作に取り掛かった。ただ一人の非技術者であった末三は事務と外交をすべて引き受けた。また、夫人たちは昼の弁当作りに立ち働いた(松子『測機舎を語る』96-99頁)。

 あいにく、1920年に測機舎が発足してすぐにこの春には戦後不況が襲ってきた。理想の高い新しい組織がスタートし、高い技術力をほこる製品ができても、新興の工場の製品を買ってくれる市場もなく、苦しい立ちあがりであった。末三は測量機を担いで、売り込みに歩き回った。それでも初年は製品は売れず、機械の修理代がいくらか入っただけだった。組合員に給料は支払われることになってはいたが、実際にそこから支給を受ける人は少なく、みなが測機舎のために資金を残した。したがって、組合員たちの生活は苦しかった(松子『測機舎を語る』81頁;鹿子木『いのちの軌跡』82-86、88頁)。

 融資を受けるはずの太宰銀行は倒産してしまった(鹿子木『いのちの軌跡』88頁)。松子は金策に走り回った。松子は、「借金苦」であったと、金策の苦しさを吐露している(松子『測機舎を語る』111-122頁)。1920年の測機舎の様子について、鹿子木は、松子の『語る』(96-99)をも基礎にしつつ、こう回想していた。

「松子夫人の金策の苦労は続き、末三氏は一人で外交から事務員、小使いまで兼任し、便所の汲み取り口の修繕までやってのけた。重たい機械や資材を組合員と市電に持ち込んだり、手車で運んだり。私たちも組合員としての誓約を守り、月に5円か10円の生活費でも文句ひとつ言わず夢中で働いた」(鹿子木『いのちの軌跡』109頁)。

 この時期のことと思われるが、松子はこう語っている。「数年来専念してきたロシア文学研究もその他あらゆる私の趣味或いは欲望を抛って、測機舎の擁立――測機舎の目的貫徹のために腐心したのであります。而して常に泰然自若として従容迫らざる西川の後に従いて焦燥しながら、ある時は資金の調達に、ある時は販路の開拓に狂奔したのであります。「あんたのやうに気ばかり焦燥っても事業の大成は出来ぬ」と、西川はいつも落着いて私に忠告するのでありました。しかし騎虎の如き私の心は測機舎の危機に直面して、西川の云うが如く泰然自若としては居られませんでした。私は自分の力の及ぶ限りあらゆるチャンスを捕らえて測機舎の進歩発展に資せんとしました」(松子『測機舎を語る』143頁)。松子は自分の家の中の改革も断行し、節約にこれ務め、幼子たちに泣かれるほどであった。

 1921、22年はおそらく「地獄」の日々であったことであろう。これが耐えられたのは、測機舎が同志的な結合に支えられた組合組織であったからであろう。舎員全員の頑張りにより、しだいにいくつか注文が入り、借金もすることが出来るようになった。そして、14坪の工場ではあまりにも狭いので、1921年には測機舎は渋谷区猿楽町(天狗山)に移転し、いくらか広い工場になった。しかし、1922年の8月には、測機舎の創立に多大な貢献をした細川善治が2年の闘病生活の末、36歳で死去した(鹿子木『いのちの軌跡』110-111頁)。

 そこへ、1923年9月に関東大震災が襲ったのである。猿楽町の工場は無事であった。この大震災は測機舎には幸いし、「飛躍の契機」となった。東京市内では測量機メーカーはほとんど壊滅したが、測機舎は被害を免れた。しかも生産が軌道に乗り始めていたので測量機のストックは豊富にあった。したがって震災後の復興に際して測量機械の需要が激増すると、注文が殺到した。この際、末三は、価格を吊り上げたりせず、被災地の需要家には逆に一割の値下げをして「お見舞いの徴意」とした(松子『測機舎を語る』138-139頁)。「こうした正直さ、誠実さが、西川社長夫妻以下の我々が団結を保つ原動力となった」と鹿子木は回顧している(鹿子木『いのちの軌跡』120-123頁)。

 このあと、こうした誠実な経営・営業と優れた技術によって測機舎は大きく成長していった。猿楽の工場も手狭になったので、1925年には、世田谷区三宿に新工場を建てて移転した。三宿では、670坪の敷地があり、地下一階、地上二階建ての鉄筋コンクリートの工場ができた。二階は娯楽室、集会場となっていた(鹿子木『いのちの軌跡』126頁)。ここで測機舎は業績を拡大し、全国的な測量機メーカーとなっていくのである。

(1935年頃)

 『東洋経済新報』は、こうした測機舎の動きに注目した記事を載せた。1926年8月21日の同紙は、「生産組合『測機舎』の発展と其悩み」という記事を載せ、その成立から始めて現在の成功を紹介し、その独特の組織を特筆した。記事は、舎が資本家によってではなく、工場労務者自身が管理・経営する生産組合であることを詳細に説明し、その成立からの歴史を追って、西川末三の手腕を高く評価し、また舎の技術力の高さを評価して、現在の業績が目覚ましいものがあると称賛した。ただし、記事は、舎はいつまでこの組合組織を維持できるのか、将来的には、株式会社などの組織に変更せざるを得なくなるのではないかと危惧していた。これは優れた記事であった。

 さて、1929年10月に始まる世界恐慌は、日本をも襲い、測機舎も一時は緊縮に努め、末三はいち早く手を打って、組合員の月給を5%削減したりした。しかし、他の経済界に比べれば被害は軽微であったし、すでにかなりの内部留保金も持っていた(鹿子木『いのちの軌跡』146-147頁)。1931年には業績は回復していた。この時期、『大阪朝日新聞』(1931年12月30日号)は測機舎について、次のように報道していた。

≪不景気をよそに栄ゆる我等の「工場」-協力の実は結ぶ、ボーナス三十五割、我国最古の従業員管理工場、東京世田ヶ谷の測機舎≫

「従業員が協力して経営する共同管理の工場で、不景気なこの歳末に平均三十五、六割のボーナスを分配したという耳よりな話—一般工場界が火の消えたような不振に四苦八苦している折柄、この羨ましい好話題を生んだ工場は、全国で最古の管理工場として知られている東京市世田ヶ谷町三宿の測機舎だ。」

「工場の組織は出資組合員二十五名、准組合員十七名が中堅となり、各自一切の責任を分担して、「我々の工場を盛り立てろ」との意気込みで健闘している、工場創立以来功労のある従業員は理事長西川末三氏を始め九人で、一万円以上二万円の出資者が八人、組合員が分配する毎月の給料は平均百十円内外、ほかの工場では見られない素晴らしい待遇に恵まれている、各組合員の共有となっている現在の工場資産は三十万円に達し、この外十一万円の純益積立金があるという状態だ。」

 つまり、組合組織の利点が見事に発揮されているというのである。しかも新聞はこう続けている。

「一昨年以来従業員の工場共同管理が滅切り殖え、全国に三十余を算えるに至ったが、東京では星協力組合、中島鋳工場、五木田の丸一木工、砂町奥村などの各製材所があり、神奈川県鶴見にも吉野製材所があり、何れも昭和四年以来の経営でまだ創業時代にあるため、測機舎の如く好成績を挙げていないが、比較的好調をたどって「我々の工場」を盛り立てている。」

 先駆的な測機舎に続いて、生産協同組合方式の企業が日本で次々と生まれていたことがわかる。中島鋳工場というのは、中島製鋼所(1930年1月創立)のことであろう。

 そして、1932年からの高橋是清の財政政策により、緊急の公共土木事業が開始されると、測機舎はその独特の組織のゆえもあって、急速に回復した(鹿子木『いのちの軌跡』148頁)。1934年ごろには、1500坪の敷地と400坪の建物、分工場を加えて、百数十人の従業員を有する「日本第一等の測量機械工場」になった(松子『測機舎を語る』160頁)。

 測機舎の新しい三宿の工場は、青山、渋谷から通じる大山街道から北へ上ったところで、三宿神社の先の、小高い丘の上にあった。その測機舎を中心に従業員の住宅が次々と新築された。当時としてはスマートな家がたくさん建ったので、地元の人はこれを「測機舎村」と呼び、先の『東洋経済新報』は「新しい村」と呼んだ。いずれも「敷地百坪内外、建坪三十坪前後」といった「至極好適な住宅」であった。「いはば測機舎という労働団体を中心とした一瞬美しい自由平等の村」が営まれていたのだった。松子は十数年前の「資本主義工場」時代の貧弱な生活に比し、従業員たちの生活はくらべものにならなかったと自負していた(松子『測機舎を語る』180-181頁)。これは、当時としては先進的な住宅資金貸出制度を測機舎が持っていたから可能だったのである。1926年に実施されたこの制度によると、「労務出資者にして一家を構え、かつ貸出額10分の5以上の金銭出資を有する者」は、3000円を限度として、年7分の利子で、貸付を受けることができた(松子『測機舎を語る』70-71頁)。これによって、測機舎の周りには、13軒のスマートな住宅ができたのである。

 松子は、こういう平等のほかに、さらに別の平等についても指摘している。をれは、「各組合員の資本の独占の制限」であった。松子は、それは、測機舎への金銭出資を、一人につき2万円以上所有することはできないとする制限であったという。こういう規定はいつできたのか不明である。これは1920年の規約の第8条にある「各組合員の金銭出資額は資金総額の五分の一を超ゆることを得ず」を指しているのではないかとも思われるが、定かではない。現状は、一万円以上の金銭出資をする人が十人以上もいて、出資の平等が実現していた。だから「測機舎で働いて居る誰もが、漸次肥り得る可能性を持って居る」のだと松子は言っている。しかも、「こうした利潤の独占を防ぐために、西川が創案したことが、偶然にして労農ロシアの私有財産制、すなはち「法定及び遺言による相続は・・・死亡者の債務を差引いた相続財産の総額が一万ルーブルを超えない範囲内に於いて許されるのである」と略一致せるところは、共産主義国にあらざる一小労働団体測機舎が、はるかに労農ロシアに冠たるものがありまして、一種の愉快と満足とを感ずるのであります」と自慢していた(松子『測機舎を語る』182頁)。

 1932年4月、測機舎の創業12周年を祝う会が開かれた。この会で、挨拶した末三は、1920年の「宣誓書」を読み上げて確認し、測機舎は、他の企業のように毎年の利益の増大を目指すのではなく、「利益を度外に置き、精神の結び付きである協力一致」を目指してきたのであり、「利益が皆無になっても心が固く結ばれて居れば我測機舎は決して滅びない」と断言した(これは最後に述べるが、今日でいうワーカーズ・コレクティヴの考えそのものであった)。その他多くの人の挨拶の後、最後に松子が挨拶して、こう述べた。測機舎は「偉大な使命を帯びて生まれた」のである。その使命とは何か。

「それは申すまでもなく、産業の独立―工場の自治、それでございます。言い換えまするなれば、横暴非道な資本家の重圧の下から逃れ出た新進気鋭の皆さんが、自ら産業の独立を標榜して、雄々しくも労働戦線に勇猛邁進された、偉大なる事実でございます。しかもこの事実は、行き悩んでいる現今の我労働界のために、大なる教訓となり、まつ有益なる研究資料であるとともに、我労働界に先づ第一に特筆すべき、異彩ある労働の収穫であると、私は信ずるのでございます」(松子『測機舎を語る』185、189頁)。

 こういう松子の社会主義的な発言がなんら抵抗なく受け入れられていたようであるが、そのことは重要なことであった。末三をはじめ舎内外の人々はこういう理解を程度の差はあれ共有していたのであろう。測機舎という特異な組織をうらで思想的に取りまとめていたのが、松子であったことが推測される。そして実際、測機舎の経験は「有益なる研究資料」となっているのである。先の労農ロシアとの比較といい、ここでの労働戦線への言及といい、測機舎が創立後の苦境の時期を乗り越えたあとの松子は、舎の歩みを社会主義という視線から見続けていたように思われる。彼女は社会主義を捨て去ったのではなかった。

 この12周年記念会の後、松子は社員の妻たちに積極的に働きかけた。そして、「測機舎婦人会」を作り、「婦人懇親会」を開き、社内給食を始めた。まず、1933年4月に「測機舎婦人会」を作った。それは、家族のものが集まって、各自の障壁を取り除き、相親しみ相助け合い、固い一団となって測機舎を表玄関からではなく、裏に回って台所の方から擁立しようという趣旨からであった。「組合員の夫人達は食事の世話から、或は資金の調達に、時には販路の開拓に粉骨砕身して働いた」。「測機舎の成功の陰には尊い測機舎夫人の力があった」ことを踏まえてのことであった。この「測機舎婦人会」の主催で「測機舎婦人懇親会」が翌5月に開かれ、会には会員と子供たちが100人も集まり、大いに楽しんだ。末三も挨拶し、各組合の家庭の人たちも測機舎の「心持ち」に共感してくれていることを「少なからず愉快に感ずる」と述べた(松子『測機舎を語る』212-225頁)。

 さらに松子は今日の「社内食堂」の先駆けを作った。すでに測機舎設立時の苦しい時に「昼の弁当は一つの釜の飯を食べよう」と呼びかけ、社員の妻たちによる食事作りが行われていたが、1933年10月から昼の弁当を「婦人会」が組織的に提供することになったのである。毎日当番を決めて50-60人分の昼食を準備したのだった(松子『測機舎を語る』256-275頁)。婦人会にせよ、社内食堂にせよ、松子は、女性の生き方を具体的な測機舎の中で、向上させ変革しようとしていたのである。

 このような特異な労働者の生産協同組合である測機舎は、まず、ロバート・オーエンの理想にどこか通じるものがあった。すでにみたように、オーエンはニュー・ラナークで労働者の賃金や労働環境を整備して、生産を高めただけでなく、さらに、協同組合を作ろうとして、アメリカにおいて、自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニュー・ハーモニー村)の実現を目指したのであった。

 しかしオーエンだけではない。それは、フ-リエのファランステールの考えにもいくらか通じている。これもすでにみたように、共同農場「ファランジュ」では、土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所「ファランステール」に居住するということになっていた。

 測機舎はオーエンのニュー・ハーモニーやフーリエのファランステールほどの共同性を持ってはいなかったが、協同組合であるという点で、オーエンのニュー・ラナークよりは共同性が進んでいた。明確なことは言えないが、松子らは、オーエンやフーリエの思想を学んでいて、無意識のうちにそこから取り入れられるものを取り込んだのではないだろうか。

 さて、1933年12月に末三と松子は趣旨を明記しない招待状を「近親知己及び測機舎関係者」85人に送った。集まってみると、これは末三50歳、末三の社会人生活30年、末三と松子の結婚25年を記念する会であった。ここには、末三の長兄の一男、次兄の順之も参加、ロシア文学の昇直隆らも参加して、それぞれお祝いのあいさつをした。とくに、昇は、松子がロシアの自然詩人として有名なブーニンの作品の翻訳をしていたが、「丁度数日前」ブーニンがノーベル賞を取ったことが新聞で報道されたと紹介し、25年も前にブーニンを理解し紹介した松子を褒め、彼女の名前も新聞で報道すべきだと述べた。末三の結婚や測機舎入りに反対していた長兄、次兄とも和解し、松子は「長い間心掛かりであった重荷を下ろしたような」爽やかな気分になったという(松子『測機舎を語る』226-250頁)。

 測機舎は、1934年8月に合名会社に組織変更した。西川末三以下28人が合名会社の社員となった。変更の理由については、鹿子木は、組合組織では社会的に不便な点があることと、組合員個々の所有権等も法的な保証を得られないからであったという。樋口は、第三者との取引上の障害があったからだという。つまり、組合では法人格が得られないので、融資を受けるにしても組合を代表する個人が代行せざるを得なくなるからであった。いずれにせよ、法人格化されても、労働者生産協同組合の本質は不変であった(鹿子木『いのちの軌跡』151頁;樋口『労働資本』56-57頁)。

 松子は1935年9月に『測機舎を語る』という著書を刊行した。それは検閲を考慮して測機舎が発行所となる私家本の形をとった。しかしこれは今日、日本最初の生産協同体・測機舎の歴史を知るための貴重な資料となっている。だが、松子はこの本の刊行の翌年1936年10月17日に、悪性リンパ腺肉腫のために逝去した。享年51歳であった(鈴木『広島県女性運動史』67頁)。松子は貧しい人や病気の人たちへの思いやりの大変厚い人であったから、その葬儀には会葬の人が絶えず、葬儀は一週間も続いたという(浅野豊和氏からの聞き取り)。

 鈴木は、松子の生涯を次のように評価している。「初期社会主義運動への参加、結婚、ロシア文学の研究。測機舎創立というようにいくつかのふしめがあったが、松子の生涯を貫いたものは、“平民社の女性”として培われた”明治社会主義“の理想であり、思想であった」(鈴木、67頁)。先に見たように、鈴木は、1909年における松子の「転向」を断定してはいなかった。ここに見るような評価が鈴木の本音であるようだ。筆者も同じ見方をしていて、松子の初期の活動と測機舎での活動を切り離して考えるべきではないと考えている。

おわりに―世界史の凝縮としての測機舎

 以上に見てきたように、測機舎は、ロバート・オウエンやシャルル・フーリエの社会主義思想を根本に持ったものであリ、ロシアのナロードニキ以来の社会主義思想や、ロシア革命のあとの「労働者統制」の実践にもなにがしかの影響を受けていたかもしれない。これらは松子の存在なくしては考えられなかったことであった。当時のいろいろな雑誌を見ればわかるように、世界の動きは積極的に紹介されており、社会主義についても様々な情報が入ってきていた。そういう中で、初期社会主義に入りこんできていたヨーロッパやロシアの社会主義思想という19世紀以来の一つの世界史の動きが、測機舎という存在に「土着化」したのであった。また組合運営における末三の忍耐強さと経営センスは、ほかならぬ台湾時代に培われたものであった。こういう意味で、資本の論理を抑え、労働者の価値を最大限に生かそうとした測機舎はまさに世界史の「土着化」に他ならないのである。

 一方、このような測機舎の独特の組織は、その後の世界史の中では、第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアにおける労働者自主管理につながっているともいえ、さらに最近では、ワーカーズ・コレクティブの考えにもつながってきているのである。1950年代のユーゴスラヴィアでは、国有企業ではあるが労働者が評議会を作って経営についての決定をし、自ら自主管理・実行をするシステムが樹立されていた。またワーカーズ・コレクティヴというのは、「働く者が集団を形成して労働と知恵を出し合い、資金を出し合い、集団で運営(経営)する事業体」で、「労働、出資、支配が三位一体となった働く人々による集団所有の事業体」である。その目的は、株式会社などのような「利潤極大化」ではなく、「集団を形成する仲間(ソサエティー)の協同目標」である。多くは、「生産協同組合」や「労働者協同企業」と呼ばれている。諸外国では早くから注目されていたが、日本では、1980年代から関心が高まってきている(樋口『労働資本』5-6頁)。本稿で見たように、1920年代の測機舎の組織、目的などはまさにこのワーカーズ・コレクティヴに他ならなかった。

 忘れてならないのは、松子が測機舎において作った婦人会や社内食堂のことである。1920年まで世界の動きを学びながら女性解放のために戦ってきていた松子は、具体的な女性の生き方を測機舎の中で、向上させ変革しようとしていたのである。女性解放という面でも世界史の「土着化」の試みを見ることができるということである。

 その後の測機舎は、軍の指示により1943年には株式会社になった。しかし、株式会社になっても、生産協同組合の要素を色濃く残した株式会社として存続した。確かに労務出資という概念はなくなり、組合員はたんなる持ち株労働者となった。しかし、株式会社になっても株主は労働に従事し、支配株主も存在しなかった。資本の支配に単純に順応することは潔しとしなかったのである(樋口『労働資本』58-59頁)。平等主義は続いていて、1963年に東京証券取引所市場第二部に上場するまで、会社には部長職、課長職などは存在しなかったという(浅野氏からの聞き取り)。  【完】

参考文献

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

(「世界史の眼」No.10)

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書評:O.A.ウェスタッド(益田実監訳)『冷戦 ワールド・ヒストリー』上・下(岩波書店、2020年)
木畑洋一

 冷戦という現代世界史にとってきわめて重要な対象について包括的に学びたいと思った時、日本語で参照できる本は意外に少ない。しかも、一人の著者が統一した視点のもとに、その著者なりの歴史像にそって冷戦史を描いた本となると、残念ながら日本人研究者の手になるものは思い当たらない。外国の研究者の本で邦訳のあるものとしてすぐ念頭に浮かぶのは、ジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦 力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会、2004年)であるが、冷戦を「長い平和」と形容したことからも分かるように、ギャディスの冷戦像はあくまでもヨーロッパ中心的である。そのような冷戦像に大きな疑問符をつけて、いわゆる「第三世界」と米ソの関係を詳細にたどることによって、新たな冷戦史像を提示してくれた研究が、O.A.ウェスタッド(佐々木雄太監訳)『グローバル冷戦史 第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)であった。その著者がさらに時間的に視野を広げ、空間的にもより包括的な形で冷戦像を提示した結果が本書である。翻訳にあたったのは『グローバル冷戦史』の邦訳にも関わった第一線の国際関係史研究者たちであり、益田実他編『冷戦史を問いなおす 「冷戦」と「非冷戦」の境界』(ミネルヴァ書房、2015年)の寄稿者でもある。

 時間的な視野の拡大は、本書の叙述が1890年代から始まっていることに示されている。冷戦の起源といえば、最大限遡ったとしても1917年のロシア革命、あるいはそれを生み出した第1次世界大戦までということが常識であろう。それを19世紀末、20世紀への世紀転換期に求める理由として、著者は二つの問題に着目する。一つは、「アメリカとロシアが強烈な国際的な使命感をみなぎらせた二つの帝国に変容していった」ことであり、今一つは「資本主義とそれを批判する者との間に存在するイデオロギー的な分断が先鋭化していった」ことである(上26、以下本書の頁をカッコ内に示す)。これは重要な着眼点であるが、評者としては、第1点目について、とりわけロシアに関しては留保したい。一方、第2点目の方は冷戦の起源論として確かに首肯できる問題提起である。そのことは、冷戦の性格についての著者の議論に関わる。

 冷戦について、かつては資本主義と社会主義という社会体制をめぐるイデオロギー的対立を強調する議論が主流であった。しかし、社会主義圏の解体という形で冷戦が終焉を迎えて以降、冷戦下の東西両陣営の対立を権力政治的面からとらえてイデオロギー的側面を軽視する傾向が強まってきたという感がある。それに対して著者は、「冷戦は、そのイデオロギーの中心性とそれを信奉する人々の熱心さゆえに大半のものごとに影響をおよぼした」(下437)と、あくまでもイデオロギー的性格を重視する姿勢を崩していないのである。この点からみて、19世紀末から分析を始めることは的を射ていると考えられる。

 ただ、19世紀末から第2次世界大戦までの時期を扱った部分は、必ずしも多くなく、序章と終章を除く全22章の内、第1章と第2章の2章分のみである。本書を繙く前に評者が予想していたよりはるかに少なく、若干の不満が残った。

 しかし、第3章以降の冷戦史本体の叙述には、予想に違わずすばらしいものがある。ヨーロッパでの冷戦の展開についての記述は比較的オーソドックスであるが、前著につづき、非ヨーロッパ世界での冷戦の展開を、ヨーロッパと同列に目配りしながら、脱植民地化過程と関連させて議論する姿勢は他の追随を許さない。冷戦の最終的な終焉を示したソ連の崩壊について、「まさに脱植民地化の一つの事例であり、イギリスやフランスの帝国に生じたことを想起させるものだった」(下430)と論じていることには、我が意を得た感がした。個々の分析に立ち入る余裕はないが、例として、ソ連のアフガニスタン侵攻の前段階として、アンゴラややエチオピアの情勢を論じている点であるとか、冷戦終結時の東欧の変動にグローバルサウスの社会主義国の変容が先行していたとの指摘とかをあげておきたい。

 著者はもともと中国研究者として出発したが、本書でもその蓄積は大いに生かされている。たとえば第9章(上巻)の「中国の災難」という章は本書全体の中でも対象を最も詳細に描いている章である。一例をあげよう。文化大革命が始まる頃、毛沢東は杭州に滞在中ある講演のなかで、「諸君は徐々に現実と接するべきである。しばらくの間は田舎に住み、少々のことを学ぶべきである。・・・本物の分厚い学術書などを読む必要はない。小さな書物を読んで一般的な知識を少々身につければ十分だ」(上346)と語ったというが、この史料は、「筆者所有の謄写版複写」である(第9章注18)。

 また、インドの役割についてかなり詳しく論じられていることも重要であろう。

 本書の他のメリットとして、特に下巻におけるオンライン史料の活用・引用という点を最後にあげておきたい。本書は長期間を扱った通史であるが、細かな引用について丁寧な出典注がつけられている。たとえば、アメリカのジョージ・ワシントン大学にあるアメリカ国家安全保障アーカイヴでデジタル化されている興味深い史料も引かれており、評者は本書の叙述に導かれて原史料に入り込むということを度々行ない、学ぶこと大であった。

 こうした本書は、冷戦史を語る際にまず参照すべき本の一つであるといえよう。

(「世界史の眼」No.9)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その5)
南塚信吾

5. 日本における「空想的社会主義」の理解

 振り返るに、明治期において、ロバート・オーエンを含め社会主義はどのように紹介されてきたのだろうか。そして松子は社会主義文献とどのような接触をしたのだろうか。

 明治に入って最初に社会主義について紹介しているのは、管見の限りでは、箕作麟祥『万国新史』(1871-77年)であろう。この中で、箕作は、1848年革命期の「ソシアリスム」を論じていて、サン・シモン、シャルル・フーリエ、コンデシラン、ルイ・ブラン、プルードンを紹介しているが、ロバート・オーエンもマルクスもそこには入っていなかった(世界史研究所編『萬國新史』、225-226頁)。

 初期の社会主義を広めるのに貢献したのは、『六合雑誌』であった。『六合雑誌』は、1880年10月に小崎弘道,植村正久らが東京キリスト教青年会を起し,その機関誌として翌年に創刊したものである。『六合雑誌』は、社会主義運動への理解を示し,1898年に社会主義研究会が発足したのち,99年には安部磯雄が主筆となって、この研究会の機関誌的役割を担うようになった。そして1921年に廃刊されるまで、日清戦争後の社会主義運動に大きな影響を及ぼしたといわれる(『ブリタニカ国際大百科』)。広島時代、ミッション・スクールで学んでいた松子は、このキリスト教系の雑誌を読んでいたかもしれず、ミッション系の青山女学院在学時や、平民社に出入りしていた時期には確実に接していたのではないだろうか。

 社会主義者の思想が初めて系統的に紹介されたのは、『六合雑誌』第7号(1881年)に載った小崎弘道 の「近世社会党ノ原因ヲ論ス」においてであった。この中で、小崎は、「社会説(社会主義思想)」には三つの種類があるという。一つは、宗教家もしくは哲学者たちの「同信同説」のものが集まって産業を共同にするもので、インド仏教やユダヤ教やキリスト教などに見られるが、「英国オーウエン氏の共産法」もここに入ると一言言及されている。二つは、現在の社会に不満でその改良を欲するもので、イギリスのトーマス・モアやフランスのフオリエー(フーリエ)、ルイ・ブランク(ルイ・ブラン)などがここに入る。そして三つ目は、当今の説で、「地面資本等各自の所有権を廃し、貧富貴賤の差別を滅し、各自其幸福を共有せんと図る」もので、カール・マルクスが代表であるとして、その説を詳しく論じている(『六合雑誌』第7号、106-107頁)。この小崎の論文は,日本で初めてマルクス主義に言及した論文と言われるが、日本の初期社会主義の社会主義像はこのような全体像を持っていたのである。

 ロバート・オーエンについてやや具体的に紹介したのが、1891年の石谷斎蔵『社会党瑣聞』である。『社会党瑣聞』は、フランスやイギリスの社会主義者、つまりバブーフ、サン・シモン、シャルル・フーリエ、ルイ・ブラン、そしてロバート・オーエンらの経歴と運動を紹介して、とくにロバート・オーエンについては「英国社会党員ロバート・ヲーエン氏並にその主義の政社」という章を設けて、やや詳しく紹介していた。彼については、

「氏は自ら其資財を擲(なげう)ちニウ・ラナークと呼べる所に一の製造所を創立し、是に殖民の事業を初めたり。其主義とする所は、労働人を結合するの目的に出でたり。就中、労働者に向いて報酬の正しきと家計の整頓せざるべからざると、鰥寡(かんか)孤独を救恤(きゅうじゅつ)すべき事等、大に該社(=その会社)に益するところあり。」

と紹介していた(『明治文化全集』第 15巻、152頁)。ニウ・ラナークというのは、ニュー・ラナークの紡績会社のことで、オーエンはこの会社の社長をしていて、種々の改革をここで試みたのである。

 日清戦争後の産業化の進むなか、1899年の『六合雑誌』222号に発表された河上清「英国社会主義の木鐸ロバート・オーエンを論ず」は、オーエンの経歴と社会主義思想をまとめて紹介したものであった。それは、オーエンが、ニュー・ラナーク紡績会社の社長として、労働者の賃金、就業時間、幼児労働禁止、福祉施設の整備、労働者への家屋提供、日用品提供などの改革を行い、会社の業績を上げたこと、それに倣い、政府にも労働時間制限、幼児労働の廃止などの労働者保護の政策を提言し、さらに無償の義務教育や、公衆図書館設置、貧者への住居提供などを求めたことを、述べていた。こうして、オーエンは「実行的社会主義者」であったとされる。その上で、かれの思想が論じられる。その柱は、労働者は使役するのではなくその「品性」を高めていくことによって生産も向上するという考えで、その「品性」を高めるにはそのための「境遇」(環境)が準備されなければならないという「品性養成論」であった。したがって、「国富」はそれ自体が目的ではなくて、「市民の高尚なる品性」を要請するための手段なのだという。このようにオーエンの思想を紹介したうえで、河上は、オーエンはどのような政治経済組織を考えていたのかを「論述」していないので、自分の解釈を述べるとして、オーエンは、自由競争による利潤を廃するために、貨物の費用は需給の均衡によるのではなく、生産費によるべきだとしていたのであり、自由競争を否定して、土地などの私有財産を廃し、「凡ての貨物は社会共同の所有」とすべきとしていたのだと述べた。では具体的にどういう組織によるのか。河上は、オーエンは、利潤をあげてそれを配当することを目的とする「キリスト教的社会主義」の創立した「生産組合」には反対であったという。では、オーエンは、自分の政治経済組織をどう作るかというと、「民権」によるのではなく、「地主資本主等より成れる議会政府」に思想の実現を求めたのだとし、これを批判していた(『六合雑誌』222号、15-25頁)。

 この河上のオーエン理解は必ずしも正確ではなく、オーエンの「協同組合」については理解していなかった。オーエンは、「生産組合」に反対していたのではなく、ニュー・ラナークで労働待遇の改革をして生産を高めたあと、1820年ごろからは協同組合運動に関心を移し、生産と生活の共同化によって、資本主義の害悪に対抗しようとしたのである。永井義雄はこれを「協同社会主義」と呼んでいる(永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』、6-7頁)。そして、アメリカにわたって、1826年には、インディアナ州に自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニューハーモニー村)の実現を目指したのである。しかし、河上はこの協同組合については語っていないのである。

 とはいえ、この河上論文は広く影響を与えたといわれ、松子もこれを読んだはずである。のちの「測機舎」のことを考えると、松子はニュー・ラナークでの改革には共鳴したのではなかろうか。河上は、慶應義塾で福沢のもとで社会主義を知り、青山学院で社会主義とマルクスの勉強会を開いたりして、1897年、23歳のときに『万朝報』に初めて論文を出していた。松子が1904年に青山女学院に入ったときは、青山学院のそういう雰囲気が伝わっていたことと思われる(なお、河上は1901年にはアメリカへ留学していた)。

 しかし、河上でさえ「協同組合」については語っていないということは、大きな問題である。河上らが紹介したロバート・オーエンの「ニュー・ラナーク」事業は、あくまでも労働者の待遇改善という政策であった。しかし、それは測機舎の一面ではあってもすべてではなかった。測機舎の特徴は労使関係を否定した「労働者生産協同組合」という側面である。では、松子らは「協同組合」については、どこで学んだのだろうか。それを探らなければならない。鍵はつぎにある。

 自由民権運動の出身で、1880年には『万国史略』を出していて、その後社会主義に接近し、ジャーナリストとして活動していた久松義典は、著書『近世社会主義評論』(1901年)において、当時の社会主義理解を全体的に示していた。

 その「序論」において、久松はこう述べている。

「そもそも社会主義は、19世紀の新産物なり。その起源に遡れば、フランスのルーソー・・・等先ず自由平等の主義を唱道し、イギリスにてはロバート・オーウイン協同作業の理を説き、ドイツのヘーゲル、フィヒテ、ラッサル等これを顕彰し、もって漸く(ようやく=しだいに)発達せしが、その広く世にあらわれたるは、1817年イギリス議会にオーウインが初めて社会的建議を提出し、1830年フランス、サン・シモンの新言論出で、尋(つい)でフオーリール(フーリエ)の新計画起り、蹶后(けつご=すぐあとに)フランス革命(1848年革命のこと)の破裂あり、新社会党ルイ・ブラン、カール・マルクスの運動あり、終に1872年ハーグに開きし萬國連合大会において、社会党は断然として無政府党と分離し、ここに現今の社会的民政主義の純団体を生ぜり」(久松『近世社会主義評論』、4頁)。

 久松は、社会主義のルーツをルターまで遡ったり、ヘーゲルなどを社会主義の擁護者にしたり、不思議な議論を展開していて、当時の社会主義理解の状況を思わせる。本論で主に論じられているのは、サン・シモン、フーリエ、マルクスらの議論である。ロバート・オーエンについては、本論での議論はないが、この序論で述べられているように彼の位置づけは確かであった。

 しかし、注目されるのは、久松はこの本の中の第22章に「フオーリール新案共同農場共同合宿所、一夫多妻、自由恋愛、人倫の大変動」という章を設けてフーリエの「新計画」を論じていたことである。すでに述べたように、箕作麟祥は『萬國新史』において、フーリエを紹介していたが、その内容は、「財本、労働、才智の三者により、世界万民を糾合し、・・・従来の政府、法律、習慣などをまったく一時に廃絶して、全世界を一の巨大な労働社中(=労働組合)となし、・・・各人たがいに労働を厭わずかえってこれを歓娯となすに至らしむべき説」を唱えたというもので、具体的ではなかった(箕作麟祥『萬國新史』、226頁)。日本でフーリエの思想がまとめて紹介されたのは、久松において最初ではなかろうか。ここで、久松は、「協同作業」とともに男女の関係の平等化についてもフーリエの説を詳しく論じていた。これは松子の注意を引かないはずはなかったと思われる。久松は、フーリエの「新案」は、「日用生活の旧習」を刷掃し、「人の労働と富の配分」においてできるだけ不平等を取り去り、あわせて、「家族の組織男女の関係」までも「根本的に革新」しようとするものであるとまとめている。そしてフーリエは、1600ないし2000人の農業者からなる共同農場(ハランクス=「ファランジュ」)を構想し、そこでは土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所(ハランストーリー=ファランステール)に居住するという。そこでは、私有財産は全廃される。社員は、生産物の中から、各自の生活に必要な最低額を平等に取り、残りから「作業資本」を取り、残りの利潤を労働者に12分の5、資本主に12分の4、抜群功労者(才能)に12分の3を配分する。社員はその特性に応じて農工業の作業のうちの「一科」以上を執る。「何人も余分に労働するを要せず、不愉快なる仕事を執るに及ばず」。「自営自弁」である。またそこでは、役員職工の区別がなく、家事も共同合宿所のなかで行うので、男女の仕事が区別されることはない。そして、この共同体の中では、「男女の自由恋愛」は禁止されない(久松『近世社会主義評論』、100-113頁;久松については、猪原透「「自由民権」と「社会主義」のあいだ―久松義典の社会学研究をめぐって」『立命館大学人文科学研究所紀要』117号、2019年11月、367-397頁が参考になる)。このフーリエ理解はほぼ正確である(『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』、77-78頁参照)。

 ここに労働者生産協同組合と共同体と男女平等をともに組み込んだ思想があったのである。ロバート・オーエンとシャルル・フーリエ、これが松子の中に埋め込まれた思想のルーツではなかったか。

 このような本が出た後、松子は、台湾へ行き、1914年に帰るのである。その間に1910年に大逆事件が起き、社会主義者らは「冬の時代」を迎えるのであるが、1917年のロシア革命後、社会主義と共産主義への関心は強くなった。 とくに1919年はそういう関係の出版が集中して出た年であった。

 リチャード・イリー『近世社会主義論』(1919年)には、その「総論」において、京都帝国大学の経済学者田島錦治が社会主義について一般的に論じていて、社会主義の最初の実例として「ロバード・オウェン」を挙げ、こう述べている。

「西暦1835年、英国の工業家ロバード・オウェン氏は、社会を改良革新するの策を講ずる目的を以て一社を創立し、名けて「各国民各種族の協会」と称したり。而して此の結社たる、政事上の改革を計りたるに非ずして、社会上の改革に重きを措きたるが故に、其論議は世上より社会主義の称を得、その結社は社会党の名を得来たれり。」

(総論は田島の筆による。そのあとにイリーの社会主義論が訳されている。リチャード・イリー『近世社会主義論』)

 イリ―の翻訳である「本論」では、ロバート・オーエンの事業内容は書かれていない。しかし、バブーフ、サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブラン、プルードン、マルクス、ラサールらの活動と思想がそれぞれに章を立てて詳しく述べられていた。とくにフーリエについていえば、かれの「ファランクス」と「ファランステール」の構想が詳しく説明されていた。「ファランステール」においては、人は「己の嗜好に従ひて自由に」職業を選択し、労働は人間を愉快し、婦人も労働を愛し、こうして「貨物の生産」は増加する。また、「ファランクス」においては、共同生活のなかで、無益な職務は廃止され、警察も、弁護士もいらなくなる。そこでは、農業が最も奨励さるべき職業となり、工業と商業は社会の必要を満たすだけに限定される。そして、「人は其の能力に応じて労働し、其の報酬は各人勤勉の度と、財能の多少と、資本の大小とに比例して適当に分配される」というのであった(イリー『近世社会主義論』97-104頁)。この時期までに「空想的社会主義者」がこれほどまで詳細に日本で紹介されていたことは、驚くべきことである。

 しかし、この時期、社会主義への関心はロバート・オーエンやフーリエら「空想的社会主義者」を越えて広がっていた。例えば、松子とともに1908年の赤旗事件で捕まり入獄していた堺利彦は、入獄中に大逆事件が起きたので連座を免れ、事件後の「冬の時代」には雌伏して売文社を起こし、新旧の社会主義者を集め、雑誌『新社会』によってロシア革命の紹介を行った。そして1919年に山川均と『社会主義研究』を発刊し、1920年設立の日本社会主義同盟の発起人となっていた。かれは、この『社会主義研究』に幸徳秋水と共訳した『共産党宣言』を掲載していた。そのほか1919年には、河上肇が個人雑誌『社会問題研究』に、「マルクスの社会主義の理論的体系」を掲載し、その中に『共産党宣言』の部分訳を載せ、櫛田民蔵は『経済学研究』に、「社会主義及び共産主義文書」を掲載し、『共産党宣言』第三章を紹介していた。松子はこうした動きをしっかりフォローしていたはずである。  

 こういう社会主義への関心の広がりの中で、ロバート・オーエンには新たな関心も生じたに違いない。1920年の4月から翌年11月まで、河上肇は『社会問題研究』に9回 にわたって「ロバアト・オーウェン(彼れの人物、思想及び事業)」を連載した。これは、オーエンの自伝の基づいたもので、かれがアメリカに行ってニュー・ハーモニーの事業に取り掛かる前の、ニュー・ラナークを中心とした活動と政府への提言活動を扱ったもので、社会主義という観点からしっかりと分析した論稿であった。これはかなりな影響力を持ったといわれる。ただこの連載は、測機舎の発足と時を同じくしており、「参考」にはならなかったかもしれない。測機舎の規約ができる6月までには、河上はまだニュー・ラナークの改革の話までは書いていなかったからである(『河上肇全集』11、118-230頁)。

 まとめるならば、1920年の測機舎の設立までの時期に、1920年に出た河上肇の論文は別として、松子はそれ以前の社会主義関係の出版物は目にしていたと思われる。とくに『六合雑誌』は、松子の眼に触れていたに違いない。そういう松子の周辺にいた末三とその同志たちは、ロバート・オーエンやフーリエの考えをなんらかのかたちで直接間接に参考にして、測機舎の組織を生み出したのである。

参考文献

『六合雑誌』

箕作麟祥『萬國新史』世界史研究所編、2018年

イリー、リチャード『近世社会主義論』(河上清訳、田島錦治補)法曹閣書院、1897年(明治30年)初版、1919年(大正8年)再販 原書は、Richard Ely, French and German Socialism in Modern Times. New York: Harper & Brothers, 1883.

久松義典『近世社会主義評論』文学同志会、1901年

『河上肇全集』11、岩波書店、1983年

『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』中央公論社、1975年

『明治文化全集』第 15 巻、日本評論新社、?

永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』ミネルヴァ書房、1993年

(「世界史の眼」No.9)

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教職を目指す大学生は、今般のCOVID-19問題をどうとらえたか
吉嶺茂樹

1. はじめに

 今般のCOVID-19問題は、図らずもグローバル経済の問題点や、日本社会に内在していた様々なレベルの問題を顕在化させた。教育現場でも、唐突な一斉休校指示と、しかし、にもかかわらず「新しいセンター試験」を日程通り実施すること(このことが現役生と既卒者との学習機会の著しい不均衡をもたらすことに対する配慮は一切無い:試験自体を少し遅らせる二回目程度では問題解決には全くならない)等々である。社会全体でも、5~6月などの時期には、医療従事者への一方的な差別的発言(海外では賞賛はされども蔑視されることなど考えられない)、いわゆる「自粛警察」や帰省者の実家への張り紙など枚挙にいとまが無い。筆者も教育現場で毎日机やドアノブを消毒しながら、いわゆる「エッセンシャルワーク」の名の下、レジ打ちで毎日毎日、罵詈雑言を浴びせられて心が折れそうだ、と電話してくる勤労生徒たちの顔を思い起こしているところであった。

 さて、そんな筆者が、今年度春学期、ZOOMによる遠隔講義を使って、大学生に外国史を教えることになった。元々はビジネスマンを育てる大学で、教職を目指そうという学生に外国史や日本史を教え始めて10年近くになっていた。なお筆者自身は、通信制高校に勤務していて、遠隔教育については、7年前から国の研究指定を受け、全国唯一の遠隔教育による単位認定までを行う実験をしていた。i但し筆者自身、研究当時はこういう形で全国的に遠隔教育が広範に行われるような事態を想定したことも無かった。4年間行った研究指定の報告書も、はっきり言って「誰も読まなかった」。ところが「図らずも」遠隔教育に対するスキルを持っていたため、講義の実施自体はほぼスムーズに大きなトラブルも無く終えたのであるが、その限界や問題点が改めて理解できたというのが正直なところである。

 本稿では、しかしそうした、筆者が感じた技術的・制度的な問題では無く、これまた「図らずも」「遠隔教育を強制的に受けさせられる羽目になってしまった」学生たちの声に耳を傾けてみようと思う。例年受講生も数名で、家庭的にやっていたのだが、今年は今回の状況もあったのか、公務員志望が多く、受講者数も25名となっていて、昨年度から継続履修している学生自体が目を丸くするというような状態であったことを付記しておく。

2. レポート内容その他について

 教室に学生を集めてのテストが実施できないため、レポートなどによる成績評価が奨励された。筆者の外国史でのレポート課題は次の通りでであった。

 次の資料を二つ読んだ上で、次の2点について書いてください。(1600字以上)

A 藤原辰史「パンデミックを生きる指針」

https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic

B メルケル首相の国民にあてたメッセージ(ドイツ大使館メッセージ)

https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/politik/-/2318804

(1)(本講義が教職課程の外国史であることを踏まえ、外国史<近現代史の通史>を学んだ上で)

 4月以来の、自分の身に起こっている事態を、皆さんは教育現場で言語化して話す必要にたぶん置かれます。そこで、20年後の中学生や高校生に、どのように語りますか。口語体でも文章形式でも良いので書いてください。

(2) 4月以来の皆さんにおこった事態に対する思いの丈とか感想とかを聞かせてください。

の二つである。遠隔の講義だったので、学生の表情や講義中の雰囲気などが画面越しではわかりにくい。どのくらい書いてくれるかなと心配であったが、それは杞憂であった。彼らは彼らなりに自分の身に降りかかっていることを言語化し、冷静に判断し、時に「正しく怒っていた」。以下は、学生たちの言葉からである(適宜内容を変えない範囲で表現を改めた。文責はすべて筆者にある)。

2-1 「20年後の中学生や高校生に、どのように語りますか。」

 多くの学生は、現在のニュースや新聞報道、ネットの情報などから自分の周りで起きていたことを伝えようとしていた。その中で、いくつかのレポートが印象に残った。

2-1-1 「似ていること、違うこと」

 「…当時私は、北海道の大学に通っていて、有数の観光地である小樽でアルバイトをしていましたが、客の8割以上が中国人観光客だったため、バイト先も閉鎖になりました…入国制限によって、今まで賑わいをみせていた街から人が居なくなりました。…部活動が制限され、授業の開始が一ヶ月延期され、そして人生初のオンライン授業が始まりました」「…私は宮城県の出身で、当時宮城で暮らしていましたが、もう震災前の生活には戻れないことを知っています。一見復興したように見える街にも、たくさんの傷が残っています…おそらく、小樽の観光業に関わる人にも、そしてこの国に生きている人たちにも、たぶん同じです…」。

 (吉嶺コメント)東北の震災を経験した学生が、「似ていること、違うこと」と称して、「普通の生活ができなくなること」の意味を考えたレポートである。実際、小樽の状況は深刻であった。筆者は、オンライン講義だったが、高校の職場の都合上、札幌から小樽まで通って大学の教室から遠隔授業を行っていた。その帰り道、人通りの全くなくなった、土産物店がすべてシャッターを下ろした小樽運河沿いは、片側三車線の道路に全く車が無く、「ゴーストタウン」の様相を示していた。

2-1-2 歴史教員を志望している学生が、実際に教科書や資料でどのような図版を用いたら今の状況が伝わるか、という観点から考えたレポートである。

 「…教科書には、『様々なモノ(街の彫刻や、庭に置かれている置物やその他いろいろなもの)』がマスクをつけている写真、…ウイルスの顕微鏡写真、マスク・アルコール等々の在庫切れの写真、ソーシャルディスタンスをみんなが守っている写真(郵便局の外まで受け取りの列にみんなちゃんと並んでいる!)…を使ったら良いんじゃ無いでしょうか。」「なるべく、生徒に『考えてもらう』事によって想像してもらうのが良いんじゃ無いかと思います」

 (吉嶺コメント)このレポートには他にも、「…こうやって、歴史の教科書には、ある史実を伝えようとする写真が考えて使われるという事を改めて自分で考えてみて、ちゃんと教えようと思うようになりました。時間の使い方が重要ですね…」という記述がある。この学生の指摘によれば、「探求すること」が「歴史の勉強を面白くすることは間違いない」。問題はそういう学校現場の活動を後押しするような「入試問題」が出題されていくことであろう。大学入試センターも含めて、である。

2-1-3 自分の身の回りから外へ向けて現状を考えたレポートである。

 「皆さんは、家で過ごすことは好きですか?一人で過ごすことが好きだという方も少なくないと思います。でもそれが1ヶ月、3ヶ月、半年…と続いたらどうでしょうか。それも自主的では無く、国に指示されるのです。Stay Homeと称して…」「…コロナウイルスは、生活様式をがらっと変えました。…通勤通学の方法も変わり、大学は通学の必要がなくなり、オンラインになりました。…通学しなくて良いのは楽ですよね(そう思いますよね)。でも、違うんです。皆さん、体育をケガなどで見学するときにレポート書かされた経験はありませんか?それをほとんど全部の教科でやらされるんです。当時の大学生は命とか経済的な面もですけど、落単の危機にもさらされたと私は思っています(笑)。」「…ジャニオタはコンサートに行けず、世の中のカップルは、デートはおろか会うことも許されず(隠れて観光地にいった芸能人は糾弾され)、コロナ別れという言葉がはやりだし、髪の毛が伸び放題、プリン状態の髪色の人が増え、セルフカット・セルフカラーで自分の技術に落胆する人が増えました(あっ、私のことか<笑>)でも私がこれを皆さんに話していると言うことは、私は生き抜いたと言うことです…」。

 (吉嶺コメント)彼女は毎回の講義感想に実にユニークなコメントをしてきた学生である。他の学生とは少々違う観点から、切れ味鋭い「20年後の高校生への『拝啓…』で始まる手紙のようなもの」という実に面白いレポートを提出してきた。

2-2 「現状に対するあなたなりの思いの丈や感想を書いてください」

 この課題には、外国史(近現代史が中心である)の通史学習を踏まえた、実に様々な、それも長文のコメントが寄せられた。中には5000字を超えるものもあり、総じて「自分の身に起きていることを今、このときに言語化(コトバ化)して残しておきたいという意欲が感じられた。

2-2-1 中国からの留学生のレポートである。少し長くなるが引用したい。

 「先生は3月から7月に起きていることを書きなさいと言いましたが、私は1月の時からもうコロナとの闘いを始めたので、1月から書きたいと思います。…誰も世界で何千万人の感染者が出ることが想像できませんでした。私は武漢が封鎖される初日も、友達からなにを食べに行こうと誘われました。行ったのは家の近くのデパ地下でした。…」「…SARSも大丈夫から今回も大丈夫だと思っていたのでしょうか。そしてその日の夜で、地元に第一例の感染者が報告されました。それにも関わらず、街でマスクをする人がまだ少なかったです。周りで親にマスクをさせるのに苦戦していた若者がたくさんいました。なぜSARSも経験していない若者はマスクを重視しているのに、経験がある大人は重視しないのかを考えるのがなかなか面白いです。そのあと、私は受験のため日本に来ました。…」「…その後SNSを見たら、最初の時とのすごい差が感じました。最初の時、政府を批判する人が大勢いました。しかし時間が経つに連れて、みんなが納得したように見えました。…」「…二週間前、私の地元に新たな感染者が出ました。地元の通知を受けて、他の省が接触者である友達を検査して感染が判明された日、地元のニュースではまだ新増感染者0人と書いていました。…その結果、次の日に町を緊急封鎖したが、二週間で感染者が400人以上になりました。当然、政府のせいばかりじゃなく、マスクが普通に安く売っているがマスクもしなくて集まっていた人々もこういう結果になった原因の一つです。…私たちは一体コロナから何を学んだのが、私は未だに分かりません。しかしこれは中国だけでもないです。」「人は銅を以て鏡と為し、以て衣冠を正すべし。古きを以て鏡と為し、以て興替を見るべし。人を以て鏡と為し、以て得失を知るべし。こういう言葉を話す人こそ貞観の治ができるのか、私たちができるのは本当に衣冠を正すだけのレベルでしょうか。」

 (吉嶺コメント)彼女の戦いは1月から始まり、日本で大学に入学したらオンラインだった、という現実であり、その戦いに対するなんとも言いようのない感情を何度か講義コメントに書いてくれた。貞観政要の「三鏡の教え」を書くことのできる大学一年生が日本にどれくらいいるのか良くわからないが(彼女はしかも地方の出身である)、以て範とすべきであろう。中国嫌い、とか韓国大嫌いとか書いている人々がどのくらい隣国との関係史を知っているか、ということである。ちなみに貞観政要は明治天皇も元田永孚に進講させている。元田永孚は元熊本藩士、教育勅語の選定に深く関わった人物として知られている。

2-2-2「私の本音はこうです」

 「私がコロナによる影響を身に染みて感じたのは、高校の卒業式でした。例年は、保護者はもちろん在校生も参加して、オーケストラ部による演奏で入場するのですが、今年は卒業生だけで、入場曲もCDの音楽という寂しい卒業式になりました。それから、樽商で授業が始まるまでの間、これでもかというほど日々怠け、遊んでいたので、3から5月はそれほど深刻に受け止めていなかったのが本当のところでした。しかし、大学の授業が始まってからは、とにかく忙しかったです。家にいるのに忙しく、授業前の自分の生活ぶりを妬ましく思っていました(笑) SNSなどでも全国の大学生が課題の多さに疲れている情報をよく目にします。疲れているのは大学生だけではなく、小中学生の子供を持つ全国のお母さん方もだと、小4の弟、そして私の母を見ていて感じました。午前授業のために昼食を用意しなければならず、給食の恩恵を改めて感じているようでした。こうして、この状況のなかで、強く感じたことが一つあります。他者に配慮する、全員で協力するなんてことは無理ということです。メルケル首相も安倍総理もおっしゃっていますが、実際、全員が全員、今を生きるのに必死だと思います。他人の命を守るよりも、自分の家庭のトイレットペーパー、マスクの充足の方が大事に決まっています。そう思えるようになるのは、このコロナによる状況が歴史として認識される頃なのではないかなと。これは、あまり世間的には理解してもらえないと思うのですが、国民は今の状況を気にしすぎな気がします。絶滅危惧種に人間が入ってもおかしくないのではと。あと100年後にはコロナでなくとも必ずみんな死んでしまうのだから、とりあえず、旅行させてくれ、コンサート開催してくれというのが私の本音です…。」

 (吉嶺コメント)筆者は、彼女が卒業した高校に以前勤務しており、そうした気安さもあって、毎回のコメントも大学の教員では無いからか、かなり正直な感情を提出してきてくれた。今回のレポートも、「私の本音はこうです」というタイトルであった。

3. おわりに

 過去に行っていた遠隔授業の研究を通じて、その長所と短所を筆者なりに理解した上で、今回大学の講義を行うこととなった。やはりできることとできないことがあるというのが、当たり前ではあるがレポートで確認できた。ただ、前述したように、彼ら学生は、自分の身に降りかかった(彼らのせいではない)状況にどうやって対応するか、試行錯誤をしていて、それは教員も一緒なのだなということが分かり、安心した、という感想もあった。さらにWHOや中国政府の対応を攻撃的に批判するものがもっと多いかと思っていたが、問題はそういう矮小化できるものでは無いという記載が多くて少しほっとしている(ゼロでは無いですが)。政治に対して正しく怒ることが必要だし、投票というのはそういう意思表示なのだということを改めて考えた、というコメントも多かった。彼らがこの経験をどのようにこれから生かしてくれるのか、楽しみに見たいと思う。遠隔講義を15回行った経験から言うと、ほとんどの学生はきわめて真面目に前向きにこの事態を乗り切ろうとしていた。毎回欠席はほとんど無く、時間5分前には続々と「ピンポン」とZOOM待合室のドアが開いた。年度途中から出席を止めた、レポートを提出しなかった学生が5名いたが、それぞれ理由のあることであり、内向きの理由では無い。学生とのこうした関係性を遠隔形式で作ることができると確信できたことが、今回のCOVID-19対応の最大の収穫かもしれない。

註 i https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kenkyu/htm/02_resch/0203_tbl/1296100.htm

(「世界史の眼」No.8)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その4)
南塚信吾

4. 「測機舎」 

 玉屋商店に「23か条」の要求を拒否されたのち、3月18日、細川善治、三上綱男、松崎茂雄らと志を同じくする者13人は「宣誓書」を作成した。それは、今なお因習の久しき資本家が「労務者を蔑視し人格を認めない」のは頗る遺憾であるとし、自分たちは永く資本家に酷使されてきたが、ここに「独立自営を画策」し、「資本主義を排し純然たる労務者主義を樹て、最後の勝利を収めんことを期し、鞏固なる団体を作る」ことにしたと述べていた。こういう団体は、「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」であるので、自分たちは決死の覚悟であると断言していた。「宣誓書」に署名したのは、細川善治、三上綱男、松崎茂雄ら優れた技術者たち11人で、その他に鹿子木直ら見習い2人が加わっていた(松子『測機舎を語る』42-44頁;鹿子木『いのちの軌跡』76-77頁)。これはいわば血判書であった。松子はのちにこれを「互いの血を以て結び、肉を以て綴った誓約書」であるとしたうえで、「資本主義工場の圧迫と搾取とに目覚めたる新進気鋭の労働者の一団が、真と義を求めて進み出た生々しい労働者階級解放の第一声」なのだと言っている(松子『測機舎を語る』44頁、51-52頁)。「宣誓書」作成時には、細川らは西川の家に出入りしていたようであるから、ひょっとして、松子を通して、社会主義の「吐息」が吹き込まれていたのかもしれない。「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」という認識は他からは入ってきそうもないからである。

 そのうえで、13人は、新工場の「統帥者」として末三に参加を要請した。3月21日に「推戴書」を作成して、末三に渡し、「貴殿を新設工場の統帥者として推戴」すると表明した(松子『測機舎を語る』45-46頁)。末三は迷った。だが、兄弟や友人からの強い反対があったにもかかわらず、結局末三はこれを受けいれた。末三は、「森林の経営も向上の経営も根本においては一つである」との信念の上に、台湾での「地方人との折り合いの良かった実績」と「7年半の窮乏生活」があるから、何とかやっていけると考えたようである(松子『測機舎を語る』12-13頁;45-47頁;鹿子木『いのちの軌跡』75頁によれば、松子の強い後押しがあったようである)。

 早速、末三を含めて同志14人が、出資しあって資金を作った。西川(1480円)、細川(276円80銭)、三上(250円)、松崎茂雄(300円)、以下、150円や100円や60円や20円で、合計3086円80銭であった。組合員たちは玉屋時代には労働者であったから、貯えもなく、皆は財布の底をはたいて出資したのであった。もちろんこれでは、測機舎の建物や機械設備の購入には不足したから、西川の親戚の太宰銀行から1万円の融資を受けた(鹿子木『いのちの軌跡』78-79頁;松子『測機舎を語る』47-48頁は出資金合計1700円というが、間違いか)。この資金によって、港区麻布笄町(こうがいちょう)に48坪ほどの工場兼住宅を買い求めた。2月以降、4月に至るまで、すべての準備は、13人が玉屋に籍を置きながら進めた秘密の工作であった。末三が関与していることも、秘密のことであった(松子『測機舎を語る』12-13頁;49-51頁)。

 こういうひそかな準備が進められて、4月16日、ついに測量機械の製造販売をする組合組織「測機舎」が生まれた。5月には、末三が入舎することが発表された(松子『測機舎を語る』75-78頁)。この測機舎は一般の会社とは異なり、資本主義と労使関係を否定して、労働者生産者協同組合という形をとった。1920年6月に定められた「規約」の要点を整理するならば、以下のようになる。

  1. 「本組合は、労務出資者をもって組織する」が、「必要ある場合には金銭出資者を加うる」ことができる。
  2. 金銭出資は一口の金額を10円とし、主体となる労務出資は「一事業期の出勤日数を160日」として一人平均800口とする。労務出資口数と金銭出資口数を合わせて総出資口数とする。
  3. 労務出資者は一定の技術を持った成年とされる。労務出資者は五口以上の金銭出資を持つこととされる。
  4. 金銭出資には、年7%の利息が払われる。労務出資者には毎月給料が払われるほか、労務出資口数に応じて、剰余金の配当が払われる。
  5. 金銭出資者の資格は審査され、金銭出資口数は総口数の5分の1に制限される。
  6. 各事業期の収入から支出を引いた利益金からさらに固定資本の償却や繰越金などを引いた純利益金は、出資の口数に応じて、配当として配分する。
  7. 組合の経営の責任者は総会で選ばれる理事5人で、うち1人が互選で理事長となる。
  8. 総会の議決には労務出資者および金銭出資者のうち、500口以上を持つものに等しく一票が与えられる。

(規約の全文は松子『測機舎を語る』55-64頁)

 この規約は、民法の「組合」の規定(第667条~第688条)にそって作られていた(樋口『労働資本』47-48頁)。だが、民法は、労働出資と金銭出資の相互関係については規定していなかった。測機舎の規約のポイントは、労働の出資を柱としながらも、労働と資本の出資を等しく認めていることである。そうすると、金銭出資と労務出資の口数の計算の仕方が決められていなければならない。金銭出資に対しては、年率7%の利息が払われるほか、年間の純利益から12%の配当が払われることになっていた。労務出資については、毎月の給料のほか、年間の純利益から給料4か月分の配当が支払われることになっていた。こういう条件の下で、労務出資の口数をどう決めるか。労務出資の場合、年間の給料額を平均1200円としているから4か月分の給料は400円で、総額1600円。これが金銭出資の場合の7%プラス12%、計19%に相当すると考えると、1600円を0.19で資本還元して、8400円余り。これにいくらかの調整をかけて労務出資額を8000円とする。一口が10口だから、労務出資口数は800口ということになる。これが2に出てくる数字である。数字はさておいても、この「規約」は資本の機能を抑え、労働する者の価値を活かす論理をしっかりと持っていたのである。

 最初の理事5人は、西川末三のほかに誰であったか、明確には分からないが、おそらく細川善治、三上綱男、松崎茂雄の3人は入っていたと考えられる。理事長は西川が選任された。こうして測機舎は船出をした。

 松子によれば、これは、工場労働者自ら工場を管理経営する労務出資の生産協同組合であった。搾取者も被搾取者もない組織であった。このような組織を松子はさらに次のように特徴づけている。

「工場建築物やその他工作機械、製品あるいは諸般の設備に至るまですべて、何人の独占でなく、測機舎の事業に従事せる組合員全体の共有物であります。それゆえ組合全員はおのれの工場建築物の中において、おのれの仕事に従事するのであります。従業中監督せらるべき要もなければ、また監督すべき人もおりません。ただ従業員各自が各責任を負うて自らを治め、おのが工場を守って行くのであります」(松子『測機舎を語る』53-54頁)。

 これは玉屋との労使関係の教訓を生かしたもので、「労働者統制」的な理念をさらに超えた「生産組合」の理念を体現していたわけである。これは日本最初の生産組合といわれている。こういう労働者生産協同組合方式は、20世紀初めのヨーロッパではかなり広がっていたようである(樋口『労働資本』45頁)が、日本ではこの測機舎が最初で、その後1930年ごろにいくつもできることになる(松子『測機舎を語る』55頁)。それにしても、労働者生産協同組合という理念はどこで学んだものだろうか。

 この測機舎の組織理念は、「ロバート・オーエン」に学んだものであると、のちに松子は述べている。

「その往時ロバート・オーエンが労働階級の向上と幸福のために労働問題の理想を掲げて世界の労働界に一大警鐘を与えましたが、百年後の今日祖国フランス(=イギリスの誤り)を遠く離れた極東の日本においてわが測機舎が労務出資の生産組合として生まれ、・・・欧米諸国にもその比を見ざる好業績を挙げているとは、地下に眠れる氏の霊はいかばかりか満足するでしょう」(松子『測機舎を語る』 73-74頁)。

 測機舎の経営理念には、松子の思想が大きく反映していたといわれる。のちに鹿子木はこう述べている。「彼女(松子)は社会主義や女性解放運動の実践から遠ざかったが、労働者階級への親近感と同情まで捨てたわけではなかった。測機舎が組合組織で労務出資者をもって組織するという旗を掲げたとき、夢の一端が実現するという喜びがあったのではないか」(鹿子木『いのちの軌跡』103頁)。

 では、松子にせよ末三にせよ、いつどのようにして「ロバート・オーエン」の思想と実践を学んだのだろうか。ここで「 」を付けたが、上の引用で松子はロバート・オーエンの「祖国フランス」と言っていることに関係がある。これは単なる間違いなのか。それとも、フランスの社会主義者の影響もあったから「祖国フランス」が出たのではなかろうか。そういう疑問がある。ともかく、松子の思想の源泉を探らなければならない。

(続く)

参考文献

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

(「世界史の眼」No.8)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その3)
南塚信吾

3. 翻訳家松子と末三の「転機」 1914-1920年 

 松子は、帰国後は、新たな水を得た魚のようであった。まずは、詩人であり小説家でもあったロシアのイワン・ブーニン(1870-1953年)の作品を次々と翻訳した。1914年6月ごろから、『早稲田文学』、『第三帝国』、『創造』、『新潮』などに発表していった。後に1933年にノーベル文学賞を受賞するブーニンの作品を、受賞はもとより彼が1920年に亡命する前に、日本で初めて紹介したのである。松子がこのロシアの自然派詩人にどうして関心を持ったかは不明であるが、今日の日本でのブーニン研究では松子の存在が忘れ去られている。

 同時に、松子はロシア文学以外についても発言していた。大木は、松子が結婚後、「家庭の中での男女平等の実現に満足し、対社会的にはロシア文学を通じての発言に限定されていたとは思わない」と述べている(大木「神川松子論」16頁)。松子は、1916年1月に創刊された『婦人公論』の10月号に「自由離婚論」という論説を発表して以降、自由恋愛、ロシアの「婦人解放運動」、「奴隷的婦人道徳の撲滅」など、女性の生き方についての発言を続けた。折から女性問題が社会問題の一つとしてクローズアップされてきた時であった。自由恋愛論では、放縦な恋愛は否定するが、自由恋愛による結婚を勧め、自由離婚論では、旧来の結婚制度による結婚については自由離婚を認める反面、自由恋愛による場合には自由離婚を認めないという立場に立っていた(鈴木『広島県女性運動史』58-64頁;大木「神川松子論」18-19頁)。また、1917年1月には「露西亜に於ける婦人開放運動」という論稿を『第三帝国』に載せ、ゲルツェンとチェルヌイシェフスキーから始めて、アナスタシア・ベルビーツカヤに至るまでの婦人解放の運動取り上げた。そして、狭く女性のみの解放を考えた初期から、広く虐げられた人間の解放の一環として女性解放を考える時期へ、さらにベルビーツカヤのような性の極端な解放を唱える虚無的個人主義の時代への変化をあとづけた。

(1916年1月 創刊号)

 そういう時におきた1917年のロシア革命は、松子の強い関心を引いて、革命後のロシア研究と親善を目的とする露西亜研究会に寄付をしている。当然ロシア文学への関心は高まり、ブーニンの翻訳はもちろん、トルストイの翻訳も手掛け、『トルストイ全集』6巻(春秋社、1919年)に「児童の為めに説かれたる基督の教」「十二使徒に依りて伝へられたる主の教」「福音書は如何に読むべき乎併に其の本質如何」「簡易聖書」を訳している(早稲田大学文化構想学部の南平かおり先生のご教示)。

 同時に、相変わらず女性解放に向けての評論を多数発表し、まず、革命直後の1918年1月には「革命史上に現はれたる露西亜婦人」という論稿を『第三帝国』に載せ、ナロードニキのブレシコフスカヤ、ナロードニキ出身マルクス主義者のヴェラ・ザスーリッチなどの革命的婦人の紹介をした。続いてその後『婦人公論』を中心に注目すべき記事を次々と発表した。その1、2を挙げるならば、まず、1919年1月には、『婦人公論』において、「富山で起こったカミサン達の米一揆」は「地位も智識もない低級な彼女等に依って演出せられた」たんなる「茶番事」ではなく、「我が賢明な為政者の蒙昧を啓発するに至った」ではないかと述べていた(鈴木『広島県女性運動史』59-60頁)。また、女性の政治参加を強く求め、『婦人公論』の1918年9月号では、「婦人を侮辱せる法律」と題して、女性を隷属的に取扱っている法律は変更されねばならないとして、婦人参政権を要求した。婦人参政権は、外的には、男女の同権を実現するものであり、内面的には、女性が自分自身人間として自覚し、精神的に自立し、そして自立的に生きる「自由」を与えるものであると主張した(大木「神川松子論」22頁)。また、同じく『婦人公論』の1920年2月号では、「私が若し政治に参与することが出来たなら、私は男女同権の見地から従来の日本の法律の如く、徒に婦人を弱者とし或は無能力者として制定せる婦人に関する各法律規則に対して、全部これが修正なり或は削除なりを請願したいと思ふ」と述べていた(鈴木『広島県女性運動史』61頁)。

 この時期の松子の言論活動について、大木は興味深いことを二点、指摘している。一つは、松子は、運動に携わる者にとって、その運動への世人の支持を得るために「人格の修養」が必要だと説いていたという。そして、大木は、この「人格の修養」を説くのは、女性解放運動に携わる者だけでなく、「平民社を中心とする明治社会主義運動」に対しても向けられていたのだという(大木「神川松子論」19-20頁)。これは平民社を中心とする人的集団の内外での放縦な男女関係を念頭に置いているのであろう。二つには、この時期、松子は平民社のことや社会主義のことに全く触れていなかった。たしかに「結婚を機にして社会主義運動から身を引くと同時に社会主義そのものも捨てたということも考えられないわけではないけれども、むしろこの点について沈黙を守ることによって、内心ぎりぎりのところで守ろうとしていたとも思われる」と、大木は言う(大木「神川松子論」19、23頁)。折から、社会主義にとっての「冬の時代」が過ぎたとはいえ、まだ全面的に社会主義を語ることが解禁されたわけでもなかったのである。しかし、むしろ大木が簡単にふれているように、「社会変革以前に為すべきこと及び為しうることが山積しているという判断」を松子がしていただろうことが重要であったように思われる。

 松子の最後の社会的活動として知られているのは、1920年3月28日に平塚らいてうらの始めた女性の政治的自由を求める新婦人協会の発会式に参加し、石田友治らとともに会則検討委員となったことである(折井『新婦人協会』16、148頁)。だが、翌月の測機舎の設立以後、松子は再び積極的な女性運動家へ戻ることはなかった。わずかに、1921年3月号『女性同盟』の「貴女は選挙権を如何に行使なさいますか」というアンケート、1921年11月号『婦人公論』の「小売商人の不正事実」をどう考えるかというアンケートに回答しているのみである。台湾行きの時と同じく、これ以後の松子の進路も社会主義や女性解放運動を放棄した「転向」ととることはできるが、見方によってはこれからが、松子がその本領を発揮した時期なのだとも言える。

(『女性同盟』創刊号)

 一方、末三は、帰国後は、大学に戻ったが、「平凡な生活」であったと、回顧している(末三『測機舎と共に』9頁)。第一次世界大戦の時期をどう過ごしたのであろうか。ただ、この時期であろう、世田谷の三宿に敷地230坪の自宅を手にしていた(松子『測機舎を語る』166頁)。戦争が終わって1919年、末三は、大学の職を辞し、「先輩の切なる懇請」によって合名会社玉屋商店に入社した。銀座の玉屋商店は、測量機器、教育学術機器、製図機器などの販売を行っていたが、日露戦争後原宿に日本最初の測量機製造の工場を作り、当時輸入に頼っていた測量機を日本人の手で製作していた。

 末三はそこに工場長の次長として入ったのだった。ところが、半年後には大事件が待っていた。玉屋商会の原宿の工場は第一次世界大戦中に大量の発注を受けて従業員に過度の労働を強いていたにも関わらず、約束の報奨を払わず、従業員の給料も引き上げなかったため、労働者からの強い不満を招いていた(松子『測機舎を語る』31-32頁)。1919年11月7日、優れた技術者であった細川善治、三上綱男、松崎茂雄をリーダーとして従業員たちがまとまって、「23か条」の要求を作成した。これをまとめるならば、

1)「人格」を認めた扱い。秘密主義の廃止。

2)「組長制」の採用。「事務長」の設置。

3)合理的な工場拡張

4)決算の明確化、決算への労務員代表の参加、「工場全員に対し利益分配する」こと。

5)「経営上の方策に対しては、一々会議を開き、工場長、事務長、工作主任及び評議員に諮り決定すること」。

6)「評議員は従業員中勤続十ケ年以上なる者総てその資格を有するものとすること」

などであった(全文は松子『測機舎を語る』33-35頁)。これは当時としては、驚くほど革新的な内容であった。

 松子は、この要求を次のように高く評価している。「氏等の改革方針の重点は所謂世間にありがちな労働賃金の値上げとか或いは労働時間の短縮等のごとき皮相浅見なものに非ずして、寧ろお互いに一歩進んで資本主も労働者も協力一致して工場の繁栄と能率の前進を計り、それに依って得たる利益を従業員も分配に預かって、而して各自の生活の安定を計りたいといふ」ものであった(松子『測機舎を語る』32頁)。

 「23か条」は労働者の経営参加を求めた画期的な要求であった。ロシア革命後、私的企業を認めたうえで、それへの労働者の積極的関与を導入した「労働者統制」を想起させるものである。細川善治、三上綱男、松崎茂雄らはこのような発想をどこから得たのであろうか。これは残念ながら、まだ辿れない。ともかく、このような要求を労働者たちは、工場長が不在だったため、次長の末三に依頼して玉屋本店へ提出させた。ちなみに松子はこれに関与してはいないようであるが、上のように高く評価していた。

 これに対して、会社は11月24日に回答し、1)2)3)は受け入れたが、4)の「決算への労務員代表の参加」は認めず、「工場全員に対し利益分配する」のは賞与で十分だとし、5)6)についてはすべてこれを認めなかった。加えて、このような労働者の行動は末三が扇動したものであろうとして、1920年1月28日、かれに退社を勧告し、2月1日から出社せぬよう命じた。末三は迷ったが、2月2日、ついにこの「不名誉」な退社を受け入れた(2月5日に退社)。末三は従業員たちの「23か条」要求の作成にはまったく関与していなかったわけであり、従業員たちはこれに憤慨した。しかも末三の馘首とともに、「23か条」の要求も葬り去られた。このような玉屋の対応に、従業員たちの有志は会社を辞めて新しい組織を作る工作をひそかに開始した(松子『測機舎を語る』36-40頁;樋口『労働資本』29-39頁は『測機舎を語る』に依っている;この騒動期間1919年10月から20年2月までの経過を記した末三の手記が松子『測機舎を語る』1-21頁に収録されている)。当時見習工だったが、のちの末三を支えた鹿子木は、末三の「管理者としての傑出した能力」、従業員からの「信望」、「視野の広さ、民主的な寛容さ」を指摘している(鹿子木『いのちの軌跡』61-71頁)。これゆえに、労働者たちは末三を離さなかった。

(続く)

参考文献

著書

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

論文

鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号 (1980年3月)

鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号 (1983年3月)

大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)

吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)

(「世界史の眼」No.7)

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文献紹介:南塚信吾(責任編集)『情報がつなぐ世界史』(ミネルヴァ書房、2018年)
山崎信一

 本書は、全16巻よりなるシリーズ、MNINERVA世界史叢書の第6巻として刊行されたものである。叢書の中では、『人々がつなぐ世界史』、『ものがつなぐ世界史』と並んで、「第II期 つながる世界史」を構成するものと位置付けられている。序論によれば本書の狙いは、文字、画像、音声などの「メッセージ形態」と印刷物、テレビなどの「メディア=情報伝達手段」の二つの側面から、情報がどう世界をつなぎ、どのように世界を変化させたのかなどを論じることにある。全体は、「第I部 文字と図像による伝達」、「第II部 印刷物による伝達」、「第III部 信号・音声・映像による伝達」の3部から構成されており、第I部には「第1章 写本が伝える世界認識」、「第2章 世界図はめぐる」、第II部には「第3章 書籍がつなぐ世界」、「第4章 近代的新聞の可能性と拘束性」、「第5章 イギリスのイラスト紙・誌が見せた19世紀の世界」、「第6章 反奴隷制運動の情報ネットワークとメディア戦略」、第III部には「第7章 海底ケーブルと情報覇権」、「第8章 アメリカの政府広報映画が描いた冷戦世界」、「第9章 サイゴンの最も長い日」、「第10章 衛星テレビのつくる世界史」が置かれ、これに加えて、全体に6のコラムが配されている。古代から現代まで広く扱われているが、その多くを占めるのは近代以降に関する論考となっており、情報に関わる技術やメディアの進化や拡大がこの時代に集中していることを、間接的にも示すものとなっている。

 「情報」を切り口として世界史を論じる書籍があまり見当たらないことを考えても、また、私たちの暮らす現在において、「情報」というものの持つ意味が、暮らしそのものにも深く関わるような大きなものとなっていることを考えても、本書には多くの意義があるだろう。以下に筆者なりにその意義をまとめてみる。

 まず気付かされるのは、情報の形態の多様性である。歴史学において、図像史料など、非文字史料の重要性が言われて久しいが、やはり一義的には文字による情報に重きを置いてきたことは否めないであろう。本書では、1章(図表)、2章(地図)、5章(イラスト)、10章(衛星テレビ)などにおいて、文字によらない情報情報を扱っており、非文字情報や史料の重要性を改めて認識させられる。

 また、本書で扱われる、歴史上のさまざまな情報の姿が、現在の情報をめぐるさまざまな課題とも通底するものであるという点を強く意識させられた。1990年代以降、インターネット技術が一般化する中、インターネットとそれに関連する技術は、現代に暮らす私たちにとって、不可欠なインフラとなっている。インターネット時代の訪れを同時代に経験した筆者の立場から見ても、それがもたらした変化の大きさは改めて驚きであるし、すでにデジタル・ネイティヴと呼ばれる世代にとっては、それが存在しない世界はもはや想像しえないものかもしれない。本書では、インターネットの普及以後を扱う部分は多くはないが、しかし本書の取り上げるさまざまな問題が、実は現在ともつながっているという点は、重要であろう。

 3章では、『千一夜物語』を題材に、印刷技術の確立後の情報の広範な伝播と、「翻訳」による情報の変質について論じている。現在も大きく取り上げられる伝播の過程における情報の変質や意図的な歪曲の問題もまた、より長い時間軸の中で分析しうることを示唆している。

 近代以降のマスメディアにおける報道、とりわけ戦争報道の問題が、4章(日露戦争)と9章(ヴェトナム戦争)で取り上げられている。1990年代の湾岸戦争や旧ユーゴスラヴィア紛争に際してのセンセーショナルな報道姿勢や、事実関係への理解を失わせるような相互に矛盾する報道の存在は筆者も身近に経験した。その後においても、イラク戦争からウクライナ紛争に至るまで、こうした点はますます広く見られている。こうした問題の一端もまた、より深い歴史的な根を持つことが確認できる。

 また、現在においては、「フェイク・ニュース」に代表されるように、意図的な情報操作、あるいは人々の情報受容のあり方に対する操作が日常的に見られる。6章(メディア戦略)と8章(広報映画)に扱われるのは、広い意味での情報戦略に関してであり、「フェイク・ニュース」もまた、突然の現象ではなく情報戦略を追求した帰結として産まれた側面のあることを示唆しているとは言えないだろうか。

 7章では、海底ケーブルを題材に、情報伝達手段の所有・統制が、情報覇権の確立につながり、支配の道具として機能したことを明らかにしている。情報技術の進歩が、必ずしも人々に幸福をもたらすばかりのものでないという点は、コラム6に扱われる情報の資源化とGAFAに代表される多国籍巨大IT企業による情報と富の独占の問題、10章に付記される国家による個人情報利用の問題ともつながっている。

 インターネット時代以降の情報をめぐる技術の進展は、市井の人々を情報の受け手であるばかりではなく、発信者ともなることを知らしめた。スマートフォンとSNSの普及を背景に、既存のメディアを介さずに人々が相互にやり取りをし、ネットワークを形成するようになった。SNSを基盤とする人々のネットワークは、フェイク・ニュースの温床ともなりうるが、一方で、「アラブの春」や旧ソ連における「カラー革命」に見られるように、政治的な力を持ちうるものでもある。そうした現象を分析してゆく上でも、「情報の世界史」を切り開く本書の意義は大きい。

(「世界史の眼」No.7)

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書評:油井大三郎『避けられた戦争―1920年代・日本の選択』(ちくま新書、2020年)
小谷汪之

 本書は、1920年代、具体的にはヴェルサイユ(パリ)講和会議(1919年)から満州事変(1931年)までの時代に、日本にはその後の破滅的な戦争を避ける機会あるいは可能性はなかったのかという問題を追求しようとしたものである(本書評では、本書からの引用文中の漢数字をすべて算用数字に変えた。引用文中の〔 〕は引用者による補足)。

 この問題意識から、著者は、①ヴェルサイユ講和条約(1919年)、②ワシントン条約(1921年)、③1924年の米国移民法、④中国の国権回復運動、⑤張作霖爆殺事件(1928年)、⑥ロンドン海軍軍縮条約(1930年)、⑦満州事変(1931年)、に焦点を当てる(これらのうち、①~⑤がそれぞれ本書の第1章から第5章をなし、⑥と⑦が第6章をなしている)。これらの節目となる時期に、現実に行われたのとは異なる選択(「オルターナティヴ」の選択)が行われていたならば、破滅的な戦争は避けられていたのではないかというのが著者の歴史への問いかけである。

 この現実の歴史とは異なる「選択肢=オルターナティヴ」がどのようなものであったのかについて具体的に書かれているのは、主として、中国との関係の部分である。第4章「中国の国権回復と米英ソ日の対応」では、イギリスが1925年の5・30事件を契機に中国全土に広がった英貨ボイコット運動に直面して、中国の国権回復運動に理解を示すようになったのに対して、日本があくまでも中国における既得権益に固執したことについて次のように述べられている。

 国民軍革命〔国民革命軍?〕が北京に入城して、中国統一を実現するのは1928年6月のことで、吉野〔作造〕がこの論文を発表した時点〔1927年1月20日〕では、まだ北伐は途上であり、武漢に政府を移動させたくらいの状況であった。それでも、吉野は国民党政府が早晩中国を統一すると予測して、日本政府に対して〔国民党政府の〕承認を提唱したのであり、先見の明があったと評価できるだろう。
 もし、実際に、日本政府が、早い段階で、国民党政府を承認し、国権回復運動に前向きに対応した場合には、日貨ボイコット運動も沈静化し、満蒙権益の一部を残す交渉も可能だったのではないだろうか。(187-188頁)

 しかし、実際には、日本は、国民革命軍に追われて北京を退去、本拠地である奉天(現、瀋陽)に向かった張作霖を奉天直前で爆殺してしまった(1928年6月4日)。これが河本大作など関東軍の一部将校による謀略的行為であったとしても、その結果、張作霖の息子、張学良を国民政府に合流させることになり、日中全面戦争の伏線となった。第5章「山東出兵と張作霖爆殺事件」では次のように述べられている。

 関東軍の暴走の背景として、日本の満蒙利権の死守の考えが、当時の田中〔義一〕内閣や河本〔大作〕などの関東軍幹部に共有されていた点も重大であった。それは裏返すと、国民党政権による中国統一を否定的に、ないしは日本にとって不都合なものと考えることに繋がっていた。(234頁)
 〔他方〕、吉野〔作造〕は、国民党による中国統一が実現した暁には、満蒙の支配は早晩中国本土(ママ)に返還されるのが筋と主張していたのであった。このように、中国の国民党政権を中国の正統政府として承認し、不平等条約の改正や一部利権の返還などが当時の日本政府によって、行われていれば、満蒙利権の一部を継続させて、関東軍などの暴走を抑止する可能性はあったのではないだろうか。(235-236頁)

 以上のような分析を通して、著者は日本が破滅的な戦争を避ける可能性があったのは、次の二つの時期だとする。

 「第一のチャンスは、1925(大正14)10月の北京関税特別会議から第一次若槻〔礼次郎〕内閣が崩壊する1927年4月までの第一次幣原〔喜重郎〕外交の対中政策にあった」(289頁)。この時期は、アメリカやイギリスが対中不平等条約の改定や一部利権の返還に応じる方向に政策転換した時期であり、日本も、「中国の国権回復運動に一定の譲歩を行うことによって、中国の排日運動を緩和させ、満州利権の一部を中国との交渉で確保する可能性はあったのではないか。英国が、漢口や九江の〔イギリス租界の〕返還に応じて、香港を確保したように。そうすれば、関東軍による暴走は事前に抑止できたと考える」(291頁)。

 「第二のチャンスは、1930(昭和5)年5月に、日本が中国の関税自主権を承認した新関税協定を締結した時期である。この協定の締結に続いて、満州利権の一部留保の交渉をする可能性である。この場合は、田中内閣のもとで発生した済南事件や張作霖爆殺事件の後であり、排日運動は満州にも及んでいたので、合意の可能性は、第一のチャンスに比べると、もっと低かったかもしれないが、ゼロではなかったであろう」(291-292頁)。

 以上が本書の概要であるが、本書の特徴をなすのは歴史(過去)の様々な時点において、現実に行われた選択の他に、別のどのような「選択肢=オルターナティヴ」がありえたかを追求するという方法である。「歴史にもし・・はない」というのは巷間に流布した俗説であるが、歴史に「もし」を追求するのは、歴史認識が現在を通して未来を見据えるものだからであろう。未来に向けて、現在ありうる様々な「選択肢=オルターナティヴ」を、歴史(過去)(に照らして秤量しようとするのが歴史認識の一つの方法であるとするならば、歴史(過去)に「もし」を追求することが重要な意味を持ってくるのである。

 本書をこのような歴史的思考実験と評価したうえで、ちょっと引っかかった点を指摘しておきたい。それは、本書評中の何か所かの引用文に出てくる「満蒙権益の一部を残す交渉」、「満州利権の一部留保の交渉」といった文言である。確かに、満蒙利権(満州利権)をすべて放棄すると言ったら、軍部や財界だけではなく、一般国民からも激しい反発が起きていたであろう。したがって、一つの「オルターナティヴ」として、「満蒙権益(満州利権)の一部留保」の線で中国側と交渉するということがありうるということになるのであろうが、そこには何か引っかかるものがある。旨く説明できないが、植民地主義的利権の一部を確保するための交渉、という点にどうしても引っかかるのである。

 最後に一点だけ。本書29頁と41頁に、「賞金」という言葉が出てくるが、これはやはり「償金」(indemnity)とするべきだと思う。

(「世界史の眼」No.6)

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書評:イアン・ヴォルナー/山田文訳『壁の世界史 万里の長城からトランプの壁まで』(中央公論新社、2020年)
藤田進

 「不法入国者は殺人者と強姦魔だ」。この中傷発言とともに2016年米大統領選に出馬したドナルド・トランプは、「メキシコとの国境に堅固で均質な壁を建設して不法入国を阻止し、われわれの仕事を中国とメキシコから取り戻す」との公約を掲げて没落する白人中産階級や失業に苦しむ白人貧困層、白人差別主義者らの支持をつかみ大統領選を制した。公約の「堅固な国境の壁」の建設は議会の反対や様々な混乱に直面して遅々として進まぬなか、2019年2月トランプは非常事態宣言を発して大統領権限で国防総省予算から費用を捻出して壁の建設を強行しようと企てた。

 「全長3200㎞、数十億㌦規模の米墨国境の壁建設を米大統領が繰り返し命じることが鬱屈した有権者のある種の心の支えになっている。それは、われわれの文明の行く末が論じられる際には、どこかにこの壁の問題がつねに潜んでいるということだ」。そう憂慮する建築家でデザイン批評家のイアン・ブルナーは、そもそも「壁」とは何かという根源的な問いを発した。彼は「新石器時代前期の終わりからの1万年間に人類が定住したほとんどの土地には境界を示す何らかの建造物があった」ことに注目し、古今東西の様々な壁についての発掘調査報告や多岐にわたる参考文献にあたって知見を深めるとともにみずから現場を訪れて「壁」を観察し考察するという作業に取り組んだ。本書はその作業の成果であり、人類史において壁がどのような意味と役割を発揮してきたかを論じている。第1章「差異の発明」は本書の核心部分であり、以下ではこの章を中心に見ていくことにする。

 パレスチナのヨルダン川西岸地区にあるイェリコの城壁は世界最古の城壁である。考古学・人類学の発掘調査によれば、その出現は紀元前8300年にさかのぼり、城壁があったイェリコは、ユダヤ丘陵地帯のふもとにあった泉のそばにつくられた集落を備えた世界最古の町でもあった。人類はイェリコの町がつくられたずっとあとの時代まで狩猟採取生活段階にあり、町の住民と城壁の外側の遊牧民との違いは壁の有無だけでほとんど区別はつかなかったはずなのになぜ両者を分ける壁が築かれたのかは謎であった。だがこの謎は1980年代の発掘調査によって解けた。イエリコ城壁の内側に高い尖塔があったことが発見され、この尖塔の影が一年で最も日の長い日に太陽が沈むと城壁内の集落全体に重なったであろうことが天文学的・地形学的計測によって割り出された。その結果、イェリコの城壁は防御のためではなく、人を感動させ招き寄せる儀式に使うための建物だったとの説が有力となったのである。紀元前8000年代の地層には激しい戦争の形跡が見られず、最初の壁がつくられた時代に埋葬された人物が当時としては長寿だったことからも、イェリコの城壁が比較的平和な時代に建造され、人を遠ざける要塞ではなかったとの説が一層有力となった。著者はそれらの発掘調査の成果を踏まえて、イェリコの壁は「“われわれ”と“彼ら”を分ける差異の概念」とともに「“われわれ”と“彼ら”がともにいるという考え」をも生みだしたというように理解した。

 著者は次に、長らく史実とされてきた旧約聖書におけるイェリコの町占領と城壁崩壊の記述について検討している。『ヨシュア記』第6章における「イェリコの占領」の記述はこうである。

 ヨルダン渓谷に到着したモーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエル人の軍勢は、神の命令に従って契約の箱をかつぎ、カナン人が閉じこもる防壁で囲まれたイェリコの町を包囲し、7日目に城壁が奇跡的に崩壊してイスラエル軍は町を侵略し、ユダヤの神の怒りを恐れて従った内通者のラハブの一族を除く城内のすべての者たちを殺してカナンを征服し、約束の地におけるユダヤ王国を実現した。

 しかし発掘調査によって、紀元前8300年にできたイェリコの城壁は紀元前3000年にはすでに崩れて消えており、イスラエル十二支族がカナンの地を奪った紀元前1500年頃のイェリコには町も何も残っておらず、また地層には戦乱の形跡も見当たらないことが判明している。したがってイェリコ陥落の記述は史実ではなく、『ヨシュア記』の第2-7章はあとから創作されたと考えられている。

 『ヨシュア記』の成立はカナン征服のはるか後のバビロン捕囚期(紀元前597-578年)においてである。ユダヤ王国滅亡後バビロンに連れ去られたエルサレムの祭司たちが、ペルシャ国王の命令でユダヤ王国没落にいたる以前のモーセ五書の歴史全体の要約・再解釈作業に取り組む(紀元前538-458年)なかで『ヨシュア記』は編纂された。同書において、モーセの法(神の教えと戒め=律法)が不信仰者を罰する<法>として据えられ、異民族との結婚や異教信仰を受け入れたイスラエル人は「混血階層」として「ユダヤ人」から排除され、そしてカナン人やヱビス人、ヒビ人などセム系民族はカナン征服時に絶滅させられる等々が記述され、また同じ時期に編まれた『エゼキル書』には、神に選ばれたユダヤの民が囚われの身でエルサレムへ戻るのを待つ間に憎しみを向ける対象として「ゴグとマゴグ」という神に敵対する邪悪な存在が記述された。「ユダヤ人の伝統と言語がかつてなく脅かされている時期」(著者のことば)に編纂された両書は、モーセの法を破ったユダヤの民に試練を与えつつ他の諸民族と切り離して「ユダヤ民族」を確立して滅ぼされたユダヤ王国を復活させる意図を示していた。

 『ヨシュア記』において律法が人を裁く<法律>とされ、「イスラエル人」以外の民族は絶滅させられる描写には“われわれ”を脅かすものは壁を設けて排除するとの意志が表れている。

 イスラエル占領下の現在のイェリコを訪れた著者は、1万年にわたりパレスチナで実際に暮らし続けたカナン人、モアブ人、エブス人、古代ヘブライ人、アラブ人などの子孫にあたるパレスチナ住民たちが、「ユダヤ民族」思想を体現したイスラエル国家がユダヤ人入植地を守るために設けた隔離壁・防衛フェンスによって土地を奪われ日々の生活を暴力的に弾圧されている現実を目にした。彼はその光景に、古代イェリコ城壁に見出した「われわれと彼らが区分をまたいでともにいる」という平和状態が、「不公正に対する正義の勝利を示す寓話」(著者のことば)が築いた「イェリコの町を囲む堅固な壁」という空想の産物によって打ち破られているのを感じている。

 次いで著者は、南北アメリカ大陸の先住民には壁がなかったことを取り上げている。人類学者によれば、北アメリカ先住民の生活習慣において壁が意味をなさなかったのは、多くの先住民間の戦争は決まった季節に短期間の小競り合いをする程度の儀式的なものであり、従って集落を壁で囲むことも攻撃者を撃退する仕組みも必要なかったのだという。

 だがその状態は、西欧国家が対外進出を拡大する17世紀にマサチューセッツ湾にプリマス植民地が出現したことで一変した。1621年11月、力が弱く数でも劣る入植者たちが土地を浸蝕されて敵意を抱くマサ―チュセッツ族の首長から威嚇メッセージを受け取ると、指導者のスタンディシュは先を尖らせた板壁の巨大な正方形の防御柵を築いて武装部隊を配備した。その後に交渉のため首長を夕食に招き閉じ込め刺し殺した後に、周囲の森に待機するマサチューセッツ族の兵士たちを殺して首をはねた。集落を包囲する壁とそれにともなう戦争はこのような形で出現し、多くの先住民族はこの事件に恐れをなして周辺地域から逃げ出し、マサチューセッツ族とナラガンセット族は完全に消え去ってニューイングランド全体がヨーロッパ人入植地として利用できるようになった。

 ユダヤの聖書における「ゴグ・マゴグ」の脅威は新約聖書の『ヨハネ黙示録』に受け継がれており、ハルマゲドン(終末の決戦場)にキリストの町を包囲する軍勢としてそれがあらわれるとの予言は多くのキリスト教徒の信じるところとなった。ハルマゲドンの後に到来するとされた「新しいエルサレム」の建設を新大陸において試みたピューリタンのキリスト教徒植民者たちは指導者の指示に従って、抵抗する異文化世界の住民を「ゴグ・マゴグ」に見立ててこれを殲滅した。著者はここに、「ゴグ・マゴグ」に端を発する「“われわれ”を脅かす“彼ら”の脅威から守らなければならない」というロジックを駆使して民衆をみずからの利益に向けて組織・動員する国家の時代の指導者の戦略を見出しており、彼らが築く「壁は権力の付属物であり政治の道具である」ことを認識している。アメリカや世界の他の多くの場所で排他的な感情が高まって有形無形の壁がつくられている理由を見出している。

 しかし一方で著者は、壁が軍事的役割を余り果たさなかった点に注目している。紀元1世紀ローマ皇帝ハドリアヌが「野蛮人のカレドニア人」の襲撃を遮断するため巨大な「ハドリアヌスの長城」を築いて多数の守備隊を配置したものの外敵の襲撃を軍事的に食い止めることはできず、むしろ壁をはさんでローマ軍兵士とカレドニア人が接触して交流を深め、また非ローマ人に一定の条件のもとでローマ市民権を認めるローマ帝国の寛容政策がローマ文化にあこがれる被征服民のローマ軍外人部隊やカレドニア人を引きつけたことがむしろ国境の安全につながったこと、また中国の万里の長城は北方・南方民族の侵略を防ぐ軍事的防衛ラインとしてよりも、城壁の多くに交易所を設けて遊牧民と農耕民族の相互交易をつかさどる役割を果たしたことが中国王朝の安全をより良く保つたことを指摘している。さらに19世紀末以降米墨国境における中国系メキシコ人やメキシコ革命勢力の越境阻止固めに出動したパーシング指揮下のアメリカ国境騎兵隊は不法越境者との銃撃戦で危険にさらされた多くの中国系メキシコ人を保護してアメリカに連れ帰り、彼らを砂漠地帯での軍事施設建設作業につかせた後「パーシングの中国人」としてアメリカに定着させるというようなことも起きている。

 だがそのような分断のゆるい壁の時代は終わり、いま世界は多数の壁で遮断され、「冷戦の時代」が戻ってきたみたいだと著者は言う。そこには、1980年代以降新自由主義経済体制の全開で、中東、東欧・バルカン、アフリカ、中南米で資源、金融・サービス、兵器輸出で莫大な利益を収めてきたグローバル資本とそれを擁護する国家権力が、それらの地域での「民主化」運動の高まりでみずからの利益が損われるのを危惧する状態がからんでいる。彼らは「イスラム・テロリズム」、「文明の衝突」、「反民主主義の高まり」等々の説明によって「われわれの安全が脅かされている」というロジックをつくりあげ、歴史的・文化的・宗教的つながりを維持して暮らしてきた地元住民同士の民族的・宗教的衝突を煽動したうえで多数の軍事的境界線や隔離壁を築いて軍事介入し自己の利益を守ろうとすることにより住民の生活破壊や難民化を引き起こしているというのが真相である。

 「現在は壁の時代であり、人びとがその背後にある物語を信じるのをやめないかぎりは、壁の増殖がつづくのを食いとめるものは何もないように思われる」。これが著者の結論である。そして壁によって翻弄されているわれわれの現状を変えるには、「壁なしで栄えたあらゆる場所のこともまた研究しなければならない。壁の不在をたどること、それには壁の存在をたどることよりもさらに大きな価値があるのかもしれない」との希望的ことばを残して本書を終えている。

(「世界史の眼」No.6)

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