コラム・論文」カテゴリーアーカイブ

戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)
小谷汪之

はじめに

1 石川達三のパラオ行

(以上、本号)

2 パラオの真珠産業と「南進熱」

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 第一次世界大戦後の1922年に日本の国際連盟・委任統治領となった南洋諸島、特にパラオは真珠産業(真珠貝採取業と真珠養殖業)を通してオーストラリアやニューギニアなど「南方」と深く結びついていた。

 オーストラリア西海岸やニューギニアとオーストラリアの間のアラフラ海における真珠貝採取業(貝殻が高級ボタンや螺鈿、装飾品などの素材になる)に日本人が初めて雇用されたのは1883(明治16)年で、オーストラリアの真珠貝採取船の船長ミラー(Captain J.A. Miller)が来日して、37人の漁民と雇用契約を結んだ(リンダ・マイリー、19頁)。これを皮切りとして、和歌山、愛媛、広島、沖縄などから多くの人々がオーストラリアに渡り、1900年代初めには、3000人ほどの日本人が真珠貝採取業に雇用されていた。彼らの多くはオーストラリア西海岸のブルームとケープヨーク半島最北端トレス海峡の木曜島に集住していた(図版1。山田篤美、124-125頁)。1931年からは、パラオのコロール島を根拠地とする日本の真珠貝採取船が直接にアラフラ海などに進出し、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(同、126頁)。

 他方、真珠養殖業では、1922年、御木本真珠がいち早くパラオのコロール島に真珠養殖場を開設した。1935年には、本稿の主題となる南洋真珠株式会社が同じくコロール島に白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とする真珠養殖場を設立した。白蝶貝はパラオでは産しないので、アラフラ海などの白蝶貝を輸入しての事業であった。

 こうして、真珠産業を通して「南方」と深く結びついていたパラオでは、1930年代には、「南進熱」と呼ばれるような民衆的状況が生まれた。しかし、それも日米開戦(1941年12月8日)が迫っていたころには行き詰まりの様相を濃くしていたようである。

 本稿では、そうしたパラオの真珠産業と「南進熱」について、石川達三の『赤虫島日誌』(1943年)などを通して見ていきたいと思う。(以下、引用文中の〔 〕は引用者による補足)

1 石川達三のパラオ行

 1941年5月19日、ブラジル移民を描いた「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞した作家、石川達三は「はっきりした目的」もなく、ただ「何か南方に惹かれる一種の欠陥のような性格」に導かれるままに、「南方」への旅に出た。サイパン島、テニアン島、ヤップ島を経て、6月6日、パラオのコロール島で下船した。「はっきりした目的」もなくといっても、パラオにはそれから一か月以上滞在したのであるから、何か目的に近いものはあったのであろう。石川はこの南方旅行の記録である『赤虫島日誌』に次のように書いている。

弟は三十一であったろうか三十二になろうか。パラオに住んでもう八年である。妻子は南洋の生活に疲れて内地に静養に帰り、彼はいまひとり住居(ずまい)の不自由さである。私が南洋旅行を計画した理由の一つは、彼がどんな風にして暮らしているのか、その様子を見たいからであった。彼は白蝶貝〔シロチョウガイ〕を海にひたし、その胎内に真珠を育てている。ちかごろはこの群島のはずれの方の小さな無人島に作業場をこしらえて、月曜から土曜日まではそこに泊まりこんで、三万匹の貝を養っているというのだ。凡そ人間ばなれのした仕事だ。そして、それがしきりに私の好奇心をそそるのだ。(52頁)

 この石川達三の弟は石川伍平といい、南洋真珠株式会社の社員として、パラオで真珠養殖の仕事に従事していた。石川が書いているように、南洋真珠の真珠養殖は白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とするもので、御木本幸吉が事業化したアコヤガイ(阿古屋貝)を母貝とする真珠よりも大粒の真珠がとれる。ただし、その分だけ養殖には技術的に難しい面があった(山田篤美、243-245頁)。この白蝶貝による真珠養殖に先鞭をつけたのは藤田輔世すけお(1878-1931年)で、三菱(岩崎小弥太)の資金援助を受けて、1916年、フィリピン、ミンダナオ島のサンボアンガで白蝶貝による真珠養殖を試みたが、政情悪化などにより断念した。その後、1922年に当時オランダ領だったインドネシア、セレベス(スラウェシュ)島東南端のブートン島に鳳敦(ブートン)真珠養殖研究所を設立した(図版1)。藤田死後の1932年、これが三菱系列の南洋真珠株式会社に改組されたのである。ブートン島の周辺の海では、白蝶貝がたくさんとれたのも好条件であった。南洋真珠は、1935年には、パラオのコロール島に真珠養殖場を開設した(坂野徹、164頁)。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。

 石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のコロール真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。この「無人島」にはダニの一種である「赤虫」が多かったので、「赤虫島」と呼ばれていた。赤虫島はコロール島の南のウルクタベール(ウルクターブル)島南端の湾奥にあった(図版2。ただし、赤虫島を特定することは、今日、困難であろう)。

 石川達三はコロール島では、弟の住んでいる南洋真珠の社宅に居候した。社宅は「六畳二室に台所と広縁とのついた、バラックのような狭い家であった」。南洋真珠の社屋と社宅は日本学術振興会が1934年にパラオに設立した熱帯生物研究所の隣にあった(図版2)。それで、石川伍平など南洋真珠の社員は熱帯生物研究所の研究員などと親しく付き合っていた(坂野徹、161頁)。そのうえ、石川達三はパラオへの船中で、熱帯生物研究所に赴任する「秋山さん」(本名、尾形藤治)と知り合いになっていた。その縁で、石川達三はコロール島では、特に「秋山さん」と親しくした。

 「秋山さん」の研究テーマは「南洋の生物の腸内に寄生する寄生虫の研究」であった。空気銃を愛好する石川は、鴫、鷺、蜜吸(スズメ目ミツスイ科の鳥)、青蜥蜴などを打ち落としては「秋山さん」の所に持って行った。「秋山さん」はすばやく腸を切り開いて、寄生虫を調べていた。ある日、トキソーテス(鉄砲魚。スズキ目テッポウウオ科の魚)を捕獲するために、石川は「秋山さん」や弟や熱帯生物研究所の研究員たちと一緒に、南洋真珠の便所の下に行った。「便所は海のうえに突きだしている。水洗便所である〔海岸から10メートルぐらいの桟橋のようなものを海中に突き出して作り、その先端に便所を置いた〕」。「水の中を動いている魚を空気銃でうつ事は、この道の最高技術であろう」。夕方、石川らは「三匹の漁獲をもって引きあげた」(『赤虫島日誌』64頁)。

 6月9日(月)、石川達三は、赤虫島に「見学がてらに遊びに行ってみることにした」。午前9時、コロール港を出航、同行は弟など南洋真珠の社員5人と現地民のワカキチ夫婦とクニイチ夫婦の四人で、土曜日まで六日間滞在の予定であった。船は満月丸という「十噸〔トン〕に足らぬ発動機船」で、「煙の輪を丸く吹きあげながら紺碧の水をたたえた島影のせまい水路をぬけて行った」。コロール島から赤虫島までは「珊瑚礁づたいに約二十哩〔約32キロメートル〕、三時間の航海であった」(『赤虫島日誌』84頁)。

 「赤虫島は大きな湖のように島々に抱かれた湾の一番奥の方にあった。湾の水はリーフ〔礁〕の淡緑の色にふち取られて、静かな風景であった。島々はみな石灰岩質の高い岩壁にかこまれていて、岩壁にはあじさし・・・・や飛行機鳥や海燕の巣が到るところにあった。船はリーフの上の浅瀬を危なく通りすぎて小さな入江にはいった。入江の奥に幅三十間〔約60メートル〕長さ一丁半〔約160メートル〕ばかりの砂浜があり、そこに二棟の宿舎と二棟の作業場とが建っていた」(『赤虫島日誌』90頁)。

 会社の連中は二日目から作業にとりかかった。富岡君は潜水夫とワカキチとクニイチとを連れて附近の海に沈めてある白蝶貝の籠を引きあげて来た。針金づくりの籠のなかに平たい貝が七八枚きちんと並べてあった。この籠のなかで貝は二年も三年もかかって一粒の真珠をその胎内に育てる。作業場では脇田君たちが貝をひらいては長いピンセットで真珠の粒をつまみ出し、硝子皿のなかへ無雑作に五十も六十も投げこんでいた。

 オーストラリアの方から買いこんだ白蝶貝は一時は三万匹に達したが、この海に在って何か原因不明の死を遂げて行った。水質が悪いらしいと言い営養不良だとも言うが、今では一万にも足らぬ数になってしまった。会社の事業は思わしくない。死んだ貝殻は作業場の軒下に風雨に晒されて煉瓦塀のように積み重ねられてある。ヤップ島では一枚の貝殻が一本の椰子の木と交換されるというのに、ここでは(ボタン)細工屋に売るのだという。

 この作業は私にはあまり興味がなかった。三年の日子を費やして一粒の真珠を作ることのばかばかしさと、その真珠を指輪にして美しさを誇ることのばかばかしさとが同時に感じられた。作業場の仕事をよそに、私は愛用の空気銃をもって干潮の砂浜を鳥を追うて歩きまわった。(『赤虫島日誌』98-99頁)

 こんな状況でも、南洋真珠の社員たちはこの赤虫だらけの無人島で、月曜日から土曜日まで泊まり込みで作業を続けていた。それだけに、土曜日に満月丸が迎えに来るのが待ち遠しかった。6月14日(土)、「南洋とも思われないうそ寒い風が吹いて、時折は小雨がはじまるようないやな天候であった。帰りの船はきっと揺れがはげしいだろうと思われたが、誰一人として船出を見合わせようと言い出す者はなかった」(『赤虫島日誌』114-115頁)。一行は荒天を押して赤虫島を出発し、波しぶきを浴びながらコロール島に戻った。ただ、ワカキチ夫婦だけは留守番として赤虫島に残った。

(次号に続く)

参考文献

石川達三『赤虫島日誌』八雲書店、1943年。

坂野徹『〈島〉の科学者―パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』勁草書房、2019年。

山田篤美『真珠の世界史―富と野望の五千年』中公新書、2013年。

リンダ・マイリー(青木麻衣子他訳)『最後の真珠貝ダイヴァー 藤井富太郎』時事通信社、2016年。

(「世界史の眼」No.24)

カテゴリー: コラム・論文 | 1件のコメント

「万国史」における東ヨーロッパ I-(1)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その1)
南塚信吾

はじめに

 明治期には、欧米で書かれた世界史を翻訳・紹介した「万国史」がつぎつぎと出版され、それが日本にとって国外の情勢を知る重要な情報源となっていた。「万国史」というべき歴史書は、明治初期から日露戦争前までほとんど毎年と言っていいほどに出版され、合計30篇ほどが出されている[1]。その中で、ヨーロッパの東の部分についても、われわれが驚くほど多くの情報が入っている。

 明治期の「万国史」を見ると、今日「東ヨーロッパ」と考えられている地域の歴史は、西欧と線引きされ区別されることなく扱われている。しかもその扱われかたは、明治期の中でも少しずつ違ってきているようである。時々の日本の実践的問題に即して東ヨーロッパの違った地域に強い関心が向けられてきている。そして、一定の時期から「東ヨーロッパ」というまとまりで考えられるようになるのである。

 では、「万国史」において、ヨーロッパの東部の歴史はどのように扱われ、その扱われ方はどのように変化し、いつから「東ヨーロッパ」としてまとめて考えられるようになったのか。当時の日本の人々の世界史像の中で、「東ヨーロッパ史」はどういう位置を占めていたのだろうか[2]

 考えてみれば、「東ヨーロッパ」の扱われ方だけを限定して検討することにどういう意味があるのだろうかという疑問も出るはずである。それぞれの「万国史」の全体的特徴を論ずべきではないか。もちろんそうである。しかし、今回は、それぞれの「万国史」の全体的特徴を明らかにするためにも、あえて筆者が多少とも専門にしてきた「東ヨーロッパ」に限定して、そこから全体を見直す視点を探りたい。

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

 江戸期に比べ明治期に入って世界への日本の関心は急速に拡大した。「開国」した日本は世界の中のどこへ行くべきか、必死の模索が続いたのである。明治の初期には、世界への関心はどこかに集中して向けられていたというよりも、まさにグローバルに世界各地に向けられていた。そこに「万国史」の必要性があった。

 知られるかぎりで、「万国史」と名のついた最も早い書は、西村茂樹『万国史略』1869年(明治2年)であろう。西村の『万国史略』はスコットランドのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の1866年版の翻訳であるが、序論と古代ギリシア史までしか訳されていない。序論は歴史学の方法などを論じていて、レベルの高い書であったが、本論としてはローマ帝国までしか訳されなかった。したがってここでは本書は取上げない。

 明治政府のもとで文部省が設置されたのは、1871年(明治4年)であった。そして、1872年(明治5年)に学制が発布され、新しい学校制度が発足した。これに合わせるように、明治4年から8年にかけて、文部省を中心にした人々によって「万国史」と言うべき書が出されていた。それは、寺内章明訳編『五洲紀事』、文部省篇『史略』、師範学校編『万国史略』、田中義廉『万国史略』、牧山耕平訳『巴来(パーレイ)万国史』であった。それらは、寺内が抄訳し牧山が完訳したアメリカのグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本を何らかの形で参考にしたものであった。原書はSamuel Griswold Goodrich(Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)である。パーレイの本は、幕末には日本に入っていたようで、1867(慶応3)年に、福澤諭吉が軍艦受け取りの使節として再びアメリカへ出かけた時、パーレイの「万国史」も購入してきているという。明治の初期にはパーレイの本を中心に日本の世界史認識が始まったものと言うことができる。

 では、それらにおいてヨーロッパの東部はどのように紹介されていたのだろうか。

1. 寺内章明訳編『五洲紀事』紀伊国屋源兵衛 明治4年(1871年)

 この本は「万国史」とは称していないが、内容は「万国史」そのものであった。「五洲」というのは、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアの五つの「洲」という意味である。これはグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本[3]などに拠りつつ、「他書」をも参照しながらまとめられたものである。パーレイの本は、なお聖書的な要素を残すとはいえ、気球で地球を回るような世界史で、ヨーロッパに偏ってはいなかった。アジアからオセアニアまでを回りながら、各地、各国の歴史(寺内はまだ「歴史」という言葉を使っていなくて、単に「史」と言っている)を縦に述べて、それを並べたものであった。

 寺内章明の訳した『五洲紀事』は、亜細亜洲や阿非理加(アフリカ)洲については十分なページを割いていたので、その点は注目すべきであるが、パーレイの原著のように徹底して世界地理をなぞるように全洲をめぐっているわけではなく、アメリカとオセアニアは扱っていなかった。その分、欧羅巴は詳しかった。では、そこではヨーロッパの東部はどのように描かれていたのだろうか。

 ヨーロッパ洲は、
  巻三 希臘紀
  巻四 羅馬(法王国、以太利諸国)(附 拿破里(ナプルス)、威内薩(ウエニス)、熱那(ビノア)、撒丁(サルデニア)、多加納(トスカニー)
  巻五 土耳其トルコ紀、西班牙・葡萄牙紀、仏蘭西紀
  巻六 日耳曼・墺太利・普魯士・瑞西紀(附 匈牙利ハンガリー)、魯西亜紀(附 波蘭ポーランド)、嗹馬デンマーク瑞典スウェーデン諾威紀ノルウェー、和蘭・比利時紀、英吉利紀
という構成であった。それぞれが、古い時代(上古)から近年まで国ごとに縦に歴史が述べられる形式をとっていた。ヨーロッパは東西の区別なく、国ごとの構成であった。

 ヨーロッパ東部では、希臘と匈牙利と波蘭がくわしく扱われていた。

 ギリシアについては、古代希臘の歴史にはじまって近代まで書かれていて、その最後に希臘の独立が扱われている。そこでは、土耳古に400年間「奴隷」の如く制馭されていた希臘の「人民」が、1821年から「大義を唱へ兵を挙げ」、英仏露の応援を受けて、1829年に「独立」国となったことが書かれている。ギリシアの独立は注目すべき出来事であったようである(巻三―50)。このギリシア独立の経緯は今日においても通用する記述である。  

 用語に注目すると、すでに「独立」という言葉が使われていたが、この時、ギリシアは独立ではなく、自治国となったのである。『五洲紀事』では「人民」は国民の意味でも、民衆の意味でも使われている。ちなみに、『五洲紀事』は佛国「革命」や「民権」という概念も使っている。

 ハンガリーの歴史は日耳曼・墺太利・普魯士の歴史の「附」として扱われている。そしてまとまった項が設けられていて、そこにはこのように出てくる(巻六の三と六)。

 「人種は許多の野民に成りて元より一ならずと雖も、其の祖先実は匈奴種に出で、上古亜細亜の北辺より漸次(しだい)にアルタイ山を超えて移り住せしものなり。蓋し紀元450年代匈奴の酋長阿的拉(アットラ)汗・・・欧州の内地に縦横し、嘗て東羅馬を脅して其歳貢を要し、更に以太利に入て殆ど西羅馬を陥るに及び、偶々(たまたま)病で路に死し、是より其の種人永く此の地に止まり、匈牙利と号して、常に抄掠を事とし、風俗強悍にして、久しく王国に昇らざりしが、紀元一千年代に至り、士提反(ステフェン)始て王位に即き、爾後数百年間頗る強威の一国と称せられしに、紀元一千五百六十年代、終に墺太利に併せらる。」(巻六の一三)

 ハンガリー人を匈奴の末裔とし、アッティラの子孫が匈牙利国を建てたとしているのは困りものだが、明治期の「万国史」にはしばらくはこういう理解が続くことになる。匈牙利が1560年代に墺太利に併合というのは誤りである。それにオスマン帝国が出てこないことが問題であろう。ちなみに江戸時代には、「翁加里亜(おんかりあ)」と言われていたが、この寺内から「匈奴」に由来するとして「匈牙利」が使われ、明治期をとおして、これが使われることになる。

 用語としては、『五洲紀事』では、すでにraceの訳語として「人種」という概念が使われていることに注目しておきたい。この時期に日本では「人種」はどのような意味で使われていたのか、調べる必要がある。ヨーロッパではThomas Keightley, D. Lardner’s Cabinet Cyclopedia: Outline of History, London, 1830.などは人種から論じ始めていたが、これは邦訳されていない。しかし、いわゆる人種論が出るのは、ダーウィン以降、1870年代である。

 ポーランドは、魯西亜紀の「附」として扱われている。そこではこう書かれている。

 「昔は甚だ富強の一国なりしが、千七百七十二年魯普墺の三国と戦て利あらず。土壌一旦之れが為めに削られ、同く九十五年再兵を其の兵を被り、当時人民皆死力を殫(つく)して、此と相争ひしと雖も、衆寡勢を殊にするを以て、遂に其の自主を立ること能はず。全く其の兼併する所となれり。此より国人皆魯西亜の暴政に軋せられ」た。(巻六の二十)

 ハンガリーに比べて、やや迫力がないが、いわゆるポーランド分割は明治期の日本人の強い関心を引いていたテーマであった。なお、魯西亜との関係で、セルビア人やブルガリア人やルーマニア人などが出て来ることはなかった。ギリシアの時と同じく「人民」の目線を持っていたことに注目しておきたい。「国人」はこの「人民」と同義で使われているようである。

 こういう具合に、ヨーロッパの東部では、ギリシアとハンガリーとポーランドが主に出て来るテーマであった。このような記述がしばらく受け継がれていく。アメリカのパーレイにとっても、日本にとっても、ギリシアは「独立」を獲得した例として、ポーランドは「独立」を失った例として、ハンガリーはヨーロッパを「攪乱」したアジア人として関心があったのであろう。ただ、パーレイの原書ではオーストリアの記述の中で、ボヘミアにも軽く触れられていて、そこは鉱山に富んで豊かな国だとしつつも、その住民の多くは「ユダヤ」で、「ジプシー」もたくさんいると記してあるが、この部分は訳されていなかった。

(続く)


[1] 「万国史」に関する主な研究は、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成―「万国史」教科書の分析を通して」増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年、p.185-203;南塚「近代日本の「万国史」」秋田茂他編『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房、2016年;岡崎勝世「日本における世界史教育の歴史(I-1)―「普遍史型万国史」の時代―」『埼玉大学紀要 教養学部』第51巻(第2号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-2)―「文明史型万国史」の時代 1―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第1号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-3)―「文明史型万国史」の時代 2―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第2号)2017年。

[2] このテーマについては、筆者は2012年1月に千葉実年大学にて講義をしたことがあるが、文章にしていなかった。その後の知見もあり、改めて文章化しておきたい。

[3] Samuel Griswold Goodrich (Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)の1871年版によったと寺内は書いている。

(「世界史の眼」No.24)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か 書評「座談会」

2021年11月20日 14時〜16時 於:世界史研究所(渋谷)

参加者:渡邊(進行)、南塚、小谷、藤田、木畑(「講座」編集委員、オブザーバー)、山崎(記録・構成)

はじめに

 2021年10月から『岩波講座 世界歴史』(岩波書店)全24巻が刊行開始になりました。世界史研究所では、2021年10月に出版された『岩波講座 世界歴史』第一巻が、この講座全体の性格を表すものになっているのではないかと考え、11月20日に座談会形式で、その合評会を開きました。ここにその成果を公表し、皆さんが世界史を考えるうえでのご参考に供したいと考えます。

1. 講座全体の編集方針と構成

渡邊:「座談会」を始めたいと思います。最初に、この講座の「本講座の編集方針と構成について」を南塚さんに確認し評価していただき、それに基づいて討論を行います。次に、本講座の出発点に立つ重要な論文である小川幸司さんの「展望」論文「〈私たち〉の世界史へ」に関して、小谷さんと南塚さんに報告をいただき、議論します。その後、「問題群」論文から、「世界史のなかで変動する地域と生活世界(西山暁義)」(報告者:山崎)と「現代歴史学と世界史認識(長谷川貴彦)」(報告者:南塚)を取り上げ、討論します。「焦点」論文からは、「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解(吉岡潤)」(報告者:山崎)、「東アジアの歴史認識対立と対話への道(笠原十九司)」(報告者:小谷)、「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る(勝山元照)」(報告者:藤田)の3論文を取り上げ、「焦点」論文としての価値と評価をまとめて行います。

 まず南塚さんに、新しい「岩波講座 世界歴史」の位置付けに関して、まとめて頂きたいと思います。

南塚:いよいよ2021年から岩波の世界史講座としては第三シリーズが始まります。そこで、過去の講座を踏まえて本講座はどのように位置づけられているのだろうかが気になります。「本講座の編集方針と構成について」によると、こうです。高度経済成長と冷戦のさなか、1969年から出た第一シリーズは、古代・中世・近代・現代に時代区分し、ヨーロッパがモデルとされていました。冷戦終結後、地域紛争、先進国の経済的行き詰まりのなかで1997年から出た第二シリーズは、古代・中世・・・という時代区分を放棄し、地域の通時的記述と時代の特徴を共時的・地域横断的にとらえる記述を併存させたほか、アジア、中東の歴史を充実させていた、ということです。

 では、第三シリーズはどう位置付けられているのでしょうか。1997年からの四半世紀に何が変わったと見ているのでしょうか。「編集方針と構成」によると、それは三つあって、①史料の多様性と歴史像の解釈の問題、新しい史料読解、②グローバル・ヒストリーつまり世界の各地域の構造的なつながりを描く歴史、世界の構造的な把握、③歴史諸概念の構築性であるといいます。

 こういう位置づけの元に、第三シリーズの[編集方針]として、以下の諸点が挙げられています。それは、

a) グローバル・ヒストリーなど世界の構造的把握を重視すること。だから地域から見た歴史も「世界史」としての展望を持つこと。

b) アフリカ、オセアニアへの目配りを厚くすること。

c) ジェンダー、文化、マイノリティへの配慮を重視すること。

d) 日本列島で紡がれてきた歴史を「世界史」とのつながりから捉えなおすこと。

以上です。前の二シリーズとの大きな違いは、「世界史」ということが前面に出ていることだと思います。

 このような[編集方針]は極めて妥当なものと考えます。その上で、先ほど見た③の構築性の指摘などを考えつつ、いくつかの懸念をあげるならばこのようなものがあげられます。

1)ポストモダン、ポストコロニアルなどにどう対応して、世界史にするのだろうか。グローバル・ヒストリーはそれとどうつながるのだろうか。

2)「世界史」を「日本史」と区別して考えているのではないだろうか。

3)相互の連携をあまり考えない独立の論稿の集まりにならないだろうか。

4)高校の生徒、社会人に分かるように表現できるだろうか。

などです。本シリーズはこういう懸念にどうこたえるのでしょうか、興味深いものがあります。

渡邊:南塚さんの当てた焦点を踏まえ、皆さん、いかがでしょうか。

藤田:これらの点は、個々の論文を見ても感じる点です。この第三シリーズをこの方針で進めるという、最初のメッセージになっているのだと思います。これからどのように展開してゆくのでしょうか。紙幅が限られていることもありますが、内容が抽象的で難しさも感じます。これを歴史教育でどう展開し、活かしてゆくのかには、期待と不安、可能性と課題を感じます。

渡邊:この講座の編集委員を務めている木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:誰をターゲットにするか、誰に読んで欲しいかという点に関してですが、歴史教育を意識していることは確かですが、「高校生が読めるように」とまでは考えていません。もちろん高校の教員はターゲットです。「歴史総合」が開始されることもあって、編集委員にも高校の先生に中心的に加わってもらっています。

小谷:「すべての人に大学の授業のような研究の最前線を届けるという「岩波講座」の原点を大切にし」(vi頁)とある中には、高校生までは入らないわけですか。

木畑:次のところに「高等学校をはじめとする歴史教育や市民の皆さんの歴史探究にも参考となるような編集を意識しました」(vi頁)とあるように、高校の歴史教育の受け手である高校生を対象とするわけではありません。それが明示されているわけではないですが。もちろん、これを読める高校生もいると思いますが、全体として対象にしているわけではありません。

渡邊:この点は、読んでいて気になる点です。高校生に読ませるものではなく、高校で歴史教育を担う先生方に読んで欲しいというものだと思うのですが、この点をもう少し強調してあればと思います。学者や大学生だけのためのものではなく、高校の歴史教育に役立つものであるということです。これは重要な点だと思います。

南塚:私たちはこれまで、『歴史的に考えるとはどういうことか』(ミネルヴァ書房)やシリーズ『日本の中の世界史』(岩波書店)などを、高校生にも読んでほしいと考えながら作ってきました。それで、私も「高校生も対象に」と考えたのです。この点、案外難しいですね。

小谷:新講座の位置付けに関する文章ですが、第一巻のような理論的な巻と、各時代・地域別の巻とをすべてまとめて議論しようとしているのですから、無理があるのだろうと思います。グローバル・ヒストリーを重視すると言っても、紀元前5000年にグローバル・ヒストリーを論じることは難しいでしょう。全体をカバーするのは難しいことです。「ポストモダン」と言っても、古代や中世の実証的歴史研究者はほとんど意識していないと思います。史料批判に関しては、史料の構築性がある以上、あり得る点だと思いますが、紀元前の時代の巻で「ポストコロニアル」は論じられないでしょう。この文章自体は、新講座全巻をカバーする総論ではなく、第一巻に適合するものだろうと思います。

2. 「展望」論文

渡邊:それを踏まえての「展望」論文ですが、まず小谷さんお願いします。

小谷:小川論考には、「一、一人ひとりの世界史」と、その後の「二、世界史実践の軌跡をたどる」、「三、日本の世界史実践とその課題」との間に大きな理論的断絶があると思います。まず1で前半部を取り上げ、後半部については2で検討します。

1「一、一人ひとりの世界史」に関して

 小川論考前半部の意図は、歴史学習運動が、歴史研究者の書いたもの(典型的例として、遠山茂樹他『昭和史』。比較的近年の例としては色川大吉らの「五日市憲法草案」)を学ぶというスタイルになりがちなのを否定し、歴史研究者も一般の人々も本質的には同じ「世界史実践」を行っているのだということを主張するということでしょう。歴史研究者の「特権性」の否定とも言えます。ただ、ちょっと無理があるように思います。

(1)「世界に向き合う世界史」とは?

 小川さんは、2011年3月に起こった東日本大震災・福島原発事故の際の消防士たちの「ことば」の中に、「世界に向き合う世界史」実践の例を見ています。

(a)「(原子炉が)爆発しました。世紀末みたいになっていますよ」(4頁)。

(b)(爆発した原子炉への出動について)「これでは特攻隊と同じではないか」(4頁)。

 そして小川さんは次のように言っています。「歴史実践とは、時間軸を意識して他者と自分との関係を考えることであるとすれば、(中略)歴史実践とは『世界史実践』と言い換えることもできよう」(6頁)、「フクシマの原発事故の中で必死に活動を続けた消防士たちがそうであったように、人は自分の置かれている状況や自分の進むべき道を考える際、この世界に生きた『過去』の人々や時代のありようを参照する。(中略)消防士たちも(中略)『世界と向き合う世界史』を実践しているのである」(6頁)。しかし、「世紀末」ということばを「この世の終わり」といった意味で使う非歴史的用法や、ステレオタイプ化した「特攻隊」イメージといったものをとおして、「世界に向き合う世界史」実践ができるのでしょうか?

(2)歴史学(「世界史実践」)の「六層構造」(13-14頁)

 ①【歴史実証】(「問題設定に関わる『事実の探求』」)

 ②【歴史解釈】(「問題設定に関わる仮説を構築」)

 ③【歴史批評】(その歴史解釈の「意味の探求」)

 ④【歴史叙述】(歴史解釈や歴史批評を表現する「叙述の探求」)

 ⑤【歴史対話】(他者の歴史解釈や歴史批評との間の対話)

 ⑥【歴史創造】(「自らが歴史主体として生きることにより、『行為の探求』を行う」)

 小川さんは「世界史実践の六層構造とは、歴史家だけでなく人々の営みにも多かれ少なかれ共通する」と言っています(14頁)。これについては、以下の二つの疑問をもちました。

(a)この「世界史実践の六層構造」と「世界に向き合う世界史」とはどう関係するのでしょうか?例えば、爆発した原子炉への出動を「特攻隊のようなものだ」と捉えた消防士は「世界史実践の六層構造」を実践しているのでしょうか?

(b)このような作業(手続き)を高校歴史教育の場にも求めるのでしょうか?

 小川さんは次のように言っています。「高校の歴史教師である私(小川)自身は、史料を読み解きながら歴史実証・歴史批評の作業を自覚的に授業で示すとともに、生徒の歴史批評を互いに交流するようにし、その授業の内容を一般市民に公開してきた」(64頁)。とすると、小川さんは生徒には「歴史批評」だけを求めているのでしょうか?しかし、「六層構造」のうち、「歴史批評」のみを行うということは可能なのでしょうか?

2「二、世界史実践の軌跡をたどる」、「三、日本の世界史実践とその課題」について

 小川さんはここでも「世界史実践」ということばを使っていますが、端的に言えば学説史ということでしょう。「二、世界史実践の軌跡をたどる」では、歴史記述の淵源をメソポタミヤの「王名表」に求め、古典期ギリシャのヘロドトスやトゥキュディデスなどから、中世のアウグスティヌスなどまで辿っています。その後、キリスト教会的な「普遍史」を批判する歴史記述の登場に言及し、19世紀ヨーロッパのランケやマルクスを取り上げています。20世紀に関しては、主として、フランスのアナール派の歴史家たちを取りあげています。 

 他方、「三、日本の世界史実践とその課題」においては、幕末・維新期の国家的・民族的危機に遭遇して、魏源の『海国図誌』が日本で翻刻されて広く読まれたり、福沢諭吉の『西洋事情』などが歓迎されたことに注意を向けています。それから、リースが(東京)帝国大学の史学科に招聘されたことから、ランケ流の実証史学が広がっていったことが指摘されています。ただ、その次に直ちに鈴木成高や羽仁五郎の名前が出てくるのには、若干の違和感があります。戦後については、大塚久雄に「戦後歴史学」を代表させ、1970年代、80年代以降の歴史学を「現代歴史学」として、「戦後歴史学」から区別しています。その「現代歴史学」の重要な潮流として、具体的には網野善彦、二宮宏之、良知力などのいわゆる「社会史」の業績が取りあげられています。その他の「現代歴史学」の特徴としては、グローバル・ヒストリー、「生命環境」の歴史、歴史の構築性、世界史教育の改革、記憶と歴史をめぐる問題、が挙げられています。

 この「三、日本の世界史実践とその課題」で注目されることは上原専禄他『日本国民の世界史』(岩波書店、1960年)が詳しく論評されていることです。小川さんも書いているように、この本はもともとは高校世界史教科書用に書かれたものなのですが、教科書検定で不合格となったために、一般書として刊行されたのです。したがって、内容的には高校生でも理解できるはずの本です。この本の冒頭に置かれた「世界史を学ぶために」という序論的文章(上原専禄執筆と思われる)には、次のようなきわめて重要な指摘があります。

 今までみてきたように、創造的意味において世界史を学ぶためには、実際上の仕方として、どうすればよいのであろうか。それには、現代の日本国民たるわれわれ自身の現実の問題意識と生活意識に基づいて、世界史像を実際に描きあげる努力を試みるほかない。世界史像を描きあげるというのは、もとより本書のような世界史を書くことだけではない。脳裏に人類生活の歩みとあり方をいきいきと構想することもまた、世界史像の創造的構成と呼ばれてよい。この「世界史」の編者たちは、本書を編述するという仕方で、世界史を学ぼうとした。本書を手がかりとして、初めて世界史を学ぼうとする者は、本書の構成を一つの見本として、自分自身の世界史像を描きあげるように努力すべきである。(『日本国民の世界史』5頁)

 ここに書かれていることは、今日の歴史教育が追い求めている方向と全く同じといってもよいのではないでしょうか。それだけに、『日本国民の世界史』を詳しく検討した小川さんがこの部分に触れていないのはちょっと不思議な感じがします。

渡邊:続いて南塚さんお願いします。

南塚:この論文は、歴史の方法論から論じ、歴史とはなにかという根底から考えて、世界史とは何かを考えようとしているようです。それはよくわかります。しかし、いくつか重要な疑問があります。

 まず、大きな問題を考えてみます。

 一つには、ここで言われる歴史実践がそのまま世界史実践になるのかが、よくわかりません。歴史実践はたとえば郷土史や一国史の実践にとどまってしまうのではないか、世界史実践になる保証はないのではないかという疑問があります。また、小谷さんの言うように、歴史実践の六つの局面は、行論では、その後の議論に無関係ではないかと思われます。どのように生かされているのでしょうか。

 二つには、「世界と向き合う世界史」と「世界のつながりを考える世界史」の区別を強調していますが、後者は分かるとして、前者はどういうことなのか、よくわかりません。これは小谷さんと同じだと思います。また、「過去からの世界史」と「未来への世界史」を区別していますが、このような区別はどういう意味があるのでしょうか。われわれはE.H.カーに倣って、過去と現在と未来を相互に関連するものと考えてきているので、こういう分け方は理解できないところです。

 結局、この論文は「〈私たち〉の世界史へ」というけれど、この著者の「世界」や「世界史」とは何だろうと思わされます。要するに自分の外の生と社会を「世界」と言っているのではないかと思われます。それでいいのでしょうか。

 つぎに、個別的な問題を取り上げてみます。いろいろある中で、主なものをあげてみると、こういう点があります。

 ①ヨーロッパでの世界史実践を考える時、ヴィーコやヘルダー、あるいは啓蒙主義やヴォルテールを抜きでいいのでしょうか。最近はこのあたりの見直しが進んでいるのはないかと思うのです。

 ②ヨーロッパの世界史実践を考える時アナールで終わっているわけですが、アナールは歴史の方法としては重要な問題を提起しているとしても、実際に世界史を書いてはいないわけですし、アナールとは別に実際に世界史を論じたE.H.カーやE.ホブズボウムやマクニールやC.A.ベイリをどう見るのでしょうか。

 ③日本での世界史実践を考える時、上原専禄の見方はもっときちんと考えるべきではないでしょうか。つまり、『世界史像の新形成』(1955年)などにおいて「ヨーロッパ中心」を批判するための基本的な問題をかれは提起しているので、それを無視はできないのではないでしょうか。

 ④この論文での江口朴郎の見方が疑問です。江口が世界史の「構造」を重視していたと見ているけど、それは江口が一番嫌った概念ではないでしょうか。むしろ、「運動」という見方が必要なのではないかと思います。江口の見方をローザ・ルクセンブルクの帝国主義の考えに近いと言っていますが、江口が最も重視していたのは、レーニンであり、彼の『社会民主主義の二つの戦術』のような考え方なのではないでしょうか。

 最後にまとめ的に言うならば、結局この論文は、前半では、世界史実践の教育的方法を説き、後半では、これまでの日本内外での世界史実践の方法を整理しているのですが、前半と後半の有機的な関係がよくわからないし、後半についても、欧米の世界史論の理論的推移をある程度フォローしていても、世界史実践の成果は扱っていないのです。それらが、「私の」世界史ではなかったというのなら、そういう議論をしてほしかった。また、この論文は、高校生は別としても、社会人は理解できるのだろうかという疑問も残りました。

渡邊:シリーズ巻頭の論文として、編集委員内部ではどのような議論があったのでしょうか。木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:「本講座の編集方針と構成について」とは異なり、この「展望」論文を編集委員全体で議論することはありませんでした。第一巻の巻頭にあることを考慮すれば、そうした機会があっても良かったかもしれません。小川さん自身は、経験の豊富な高校の教師であり、彼の今までの教育実践が詰まっていることは確かだと思います。

小谷:小川さんは、遅塚忠躬さん、西川正雄さんの影響を受けているのですね。やはり西洋中心主義的な感じが強くします。

木畑:「六層構造」の議論も、遅塚さんの議論を踏まえてのものです。小川さんは以前からこの議論をしています。ではそれをどう実践するのかですが、勝山さんの論文を見ると、それをどう実践しているのかが見えてきます。教育現場でどう具体的に生かすのかにはそれぞれの違いがあるでしょうが。

3.「問題群」論文

渡邊:勝山論文に関しては、別途検討しましょう。では、次に「問題群」論文に入ります。まず、山崎さんに、西山暁義さんの「世界史のなかで変動する地域と生活世界」を取り上げてもらいます。

山崎:この論文は、主に歴史を論じるにあたっての「地域」を取り上げています。出発点となっているのは、今まで、空間的区分とその歴史性が十分に認識されて来たとは言い難いという点、またナショナル・ヒストリーが依然力を持ち、また根強い「方法論的ナショナリズム」が存在しているという点、その一方で、トランスナショナル・ヒストリー、グローバル・ヒストリーからの「地域」の問い直し、「n地域論」、空間の変容とその相互関係への関心といった新たな動きが見えてきている点だと思われます。そして、「境界」、内部構造の重層性、地域相互の連関の三つの課題を設定し、それぞれに対して具体的な個別研究を挙げながら提示しています。

 議論が多岐にわたっているため、すべてをフォローするのは難しいのですが、地域自体の歴史性、「地域認識」のダイナミズムに目を向けることの重要性は、十分理解できます。ただ、やはり取り上げられる議論の事例は、ヨーロッパのもの(及び一部東アジアのもの)です。例えば「国民への無関心」論が、ヨーロッパ世界の外にどれだけ敷衍できるのか、という点には疑問も持ちました。また、タイトルにある「生活世界」の具体的な形やその変容などは、あまり見えない気がしました。また、近代以降、そして21世紀の生活空間の広域性、多義性(例えば領域を持たないコミュニティの存在)はどのように理解すべきでしょうか。

渡邊:いかがでしょうか。

藤田:地域に非常に多様な形があり、それが可視化できている現在における議論としての面白さが一つあります。しかし同時に、なぜ今、これだけ多様な地域が可視化されているのかということが気になりました。「国民への無関心」のような議論を過去に遡って確認することはできるわけですが、それが今どうなっているのかということです。ユーゴスラヴィアの民族分断や東欧の反動や民族の衝突を前にすると、国民国家に収まらない豊かな地域が、どうして今大きく取り上げられるのだろうと感じます。ここでのさまざまな地域の豊かな提示というのは、すべて、国民国家という枠の中に収まる地域であるような気がします。すると、国民国家という枠を突破する、国民国家とぶつかり合うという局面での地域の展開はどうなのかということに関心が向くのです。現在の地域形成が国民国家や権力との対抗の中でどう進むのかということ、地域が形成されるプロセスがどういうものかということに、私は関心があります。著者は板垣さんの「n地域論」を大きく取り上げています。「本来、帝国主義における支配・抑圧を重層的に把握するための「操作概念」であり」(116頁)としていますが、私は、これは誤解ではないかと思います。板垣さんの「n地域」という理論は、運動論の中での議論として提示されたものだと思います。つまり、「n地域」がどうできるかを捉えるためのものではなく、一つのアイデンティティを持つひとりの人間が、危機的事態の中、新たなアイデンティティをどう作るのかという、状況が流動的な中でのアイデンティティ形成を論じるための概念だと思います。つまり、「n地域論」は、運動を捉えるためのものだと思います。山室信一の「国民帝国」論について、「敗戦と植民地喪失によって崩壊するものとしてだけではなく、その形態ゆえに被支配地域が独立するにあたって国民国家という形態を採らざるを得なかった」(134頁)と言い、それに「n地域論」が当てはまるとしていますが、これも少し違うのではないかと思います。旧帝国の崩壊と、中国、朝鮮、台湾などの国民国家の形成は、旧帝国と繋がっていたような地元の権力者や支配層が国民国家を求めているということであり、それは民衆の意向とは必ずしも重ならないということだと思います。民衆の中には、こうした「n地域」的な民族形成がもっと豊かにあったのではないでしょうか。

 豊かな地域像を提供する論文ですが、一方で権力との対抗における地域の持つ意味に関しては議論から抜け落ちていると思いました。そして、「生活空間」としてどう広がっているのかが見えないという指摘がありましたが、この点がもっとも重要だと思います。寄せ場や路上生活者の存在は、従来の形でアイデンティティを描けない人々が存在することを示しています。そうした人々、国民国家に重ならない人々の生活圏を、改めて「地域」の議論の中でどう捉えるのか、これは重要な問題だと思います。

南塚:国民国家の枠だけでは世界の歴史は語れないのだというそれぞれの論点は理解できますが、世界史として見た場合、どうなのでしょうか。著者は、世界史に一定の動きがあるから、それが地域という実体を変容させてゆくのだと言いたいのでしょうね。でもそれは明示されていないのではないかな。さらに逆に、変容する地域から見た「世界史」はどのようなものなのだろうという疑問も湧きます。こういう点が、「講座 世界歴史」の論文として求められているのではないでしょうか。

渡邊:続いて、南塚さんに、長谷川貴彦さんの「現代歴史学と世界史認識」を取り上げてもらいます。

南塚:この論文は、おもに20世紀に入ってから「現代歴史学」の展開した欧米における歴史学・世界史の「作法」=方法を時代別に整理し紹介しています。

 まず「現代歴史学」に至る前に、19世紀には、①政治史の方法による世界史がランケなどによって構成され、②経済史や社会史による世界史がマルクス主義や近代化論によって構想されたとまとめ、ついで「現代歴史学」においては、世界史をめぐる「作法」は以下のように展開してきたと整理しています。

 ③ポストモダンの言語論的・文化論的転回は、「個別の断片化したミクロでローカルな事象に関心を集中させた」。

 ④ポストコロニアルは文化論的転回を受けて、ヨーロッパ中心主義批判(ヨーロッパの地方化)などの貢献はあったが、基本的にミクロ化を受け継いでいて、「大きな物語」を回避する傾向があった。

 ⑤グローバル・ヒストリーがこのミクロ化を批判して出てきた。これには「トップダウン型」と「ボトムアップ型」があるが、後者のグローバル・ヒストリーでは、ミクロな文化史が統合されてきている。

 ⑥それでも、このグローバル・ヒストリーも進歩主義やヨーロッパ中心主義を乗り越えることはできず、ビッグ・ヒストリーやディープ・ヒストリーにそれを乗り越えることが期待されている。

 このように欧米での世界史の最新の「作法」の変遷をきれいに整理して紹介しているわけです。そして、「終わりに」において、日本については、以上の欧米の歴史の「作法」がタイムラグを持って「受容」されてきているとしています。

 非常に明快な議論なのですが、いくつか疑問を感じます。

 何よりも初めに疑問に思うのは、ポストモダンとポストコロニアルが世界史認識とどういう関係にあるのかという点です。ここが明確になっていないのです。とくに「文化論的転回のなかでの世界史認識を提供してくれている」のがポストコロニアルだとの事ですが、結局はポストコロニアルは「大きな物語」を回避しているとされているのですね。

 次の疑問は、ここで言われている「現代歴史学」には属さないけれど、実際に世界史を書いた人たちは問題にならないのかということです。カー、ホブズボウム、マクニールなどは、「現代歴史学」には属さないけれど、重要な成果をあげている。最近のベイリは、ポストモダンやポストコロニアルを取り込みつつ、グロ-バル・ヒストリーを掲げているけど、ホブズボウムなどを基礎にしているわけです。上の①から⑥まで最新の「作法」が次々と推移してきているように論じられていますが、実際に世界史を構想する際には、①から⑥までの「作法」は重層的に重なっていて、①を捨てて②へ、②を卒業して③へ、などという具合にはいかないのではないかと思います。①や②は乗りこえられて無くなったのではありません。乗り越えられたとするために、かえって①や②が不十分に理解されているのではないでしょうか。ちなみにランケやマルクスらの理解には違和感があって、ランケはたんなる「民族の興亡史」ではありませんし、マルクス自身は「一国的な継起的な諸段階」を構想したのではないのではないでしょうか。

 もう一つの疑問は、日本での「受容」という問題です。過去にもヨーロッパの世界史の「作法」を日本で「受容」してきましたが、近年については、まだであるとされているようです。ここに示された欧米での「現代歴史学」の世界史認識の最新の「作法」を「受容」して、日本でも世界史を構想しなさいと聞えます。しかし、19世紀は別として、戦後は、一方的な「受容」ではなく、日本ないしは東アジア独自の観点からの世界史の構想も試みられてきたのではないでしょうか。上原専禄や江口朴郎等によって提起され、それの継続発展も試みられていると思います。読者としては、日本での世界史実践はどういう世界史認識のもとにどう展開してきて、それは欧米の世界史認識とどのように関係するのかという逆の議論もしてほしかったところです。

 全体として、欧米の先端的議論の礼賛のようにも見えてしまいます。1950-60年代の欧米礼賛が、2000年代に復活しているのではないでしょうか。全体的にポストモダンの風潮の元でのグローバル化のなかで、旧来の世界史の見方が「古臭く」なったように見えて、新奇な理論というか新奇な議論が注目されている。そういう議論が欧米で次々と打ち出されて、それらが「輸入」されて来ているのだと思います。そういう時代なのだろうけど、それをまた「受容」するというのもどうでしょうか。これまで何をやってきたのかというふうにもみえます。

 さて、この論文を『世界史とは何か』を考える本巻の中でどう読むべきなのでしょうか。率直な感想は、これは、小川論文と同じように、自分で世界史を構想し記述した(しようとする)人の話ではないなということです。

小谷:私は、執筆陣にある偏りがあるように思います。小川論文の後半、長谷川論文、粟屋論文、三成論文など、取り上げている文献がかなり重なります。つまり学説史に関しては、ある考えを共有しているような印象があります。方法論的にはそうでないかもしれませんが。

南塚:第一巻として「世界史とは何か」を我々に投げかけているのですが、この後講座が続く中で、どのような指導性を発揮するものなのだろう、という疑問を持ちました。

渡邊:こうしたシリーズにおいては、第一巻の意味は非常に大きいと思います。

小谷:第二シリーズでは、第三シリーズの第一巻のような内容は、別巻に出ています。そうした形の方が良かったのかもしれません。

渡邊:今回、第一巻としたのは、執筆陣の共通理解とする意図があったということでしょうか。それはともかくとして、「問題群」論文をまとめていかがでしょうか。

小谷:長谷川論文は、「問題群」論文に入るべきものではないように感じます。小川論文の後半部の延長上にあるように思われるからです。また、大塚久雄の「横倒しの世界史」という亡霊のようなものが出て来るのには、驚かされました。

南塚:私もこの部分の理解には疑問を持ちました。

4. 「焦点」論文

渡邊:次に「焦点」論文に移ります。まず、吉岡潤さんの「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解」を、山崎さんにお願いします。

山崎:この論文は、体制転換後ポーランドにおける、数々の「歴史論争」の展開を題材に、ヨーロッパにおける歴史認識の分断の様を明らかにしたものです。社会主義体制の解体後に、新たなナショナル・ヒストリーの構築と、「ヨーロッパ・スタンダード」からのそれへの批判が同時並行で進む中、社会主義時代におけるものを含めた三つの「規格」を設定して、それぞれの主張、力学の遷移を分析の対象にしています。三つの「規格」とは、すなわち、「ソ連規格」(社会主義期の公式の歴史叙述)、「民族の規格」(抑圧されていたナショナル・ヒストリーが再構築されたもの)、「EU規格」(普遍的価値、善隣関係の強調)の三つになります。80年の戒厳令をめぐる第一次「過去をめぐる戦争」(90年代)により、「ソ連規格」が排除され、円卓会議をめぐる第二次「過去をめぐる戦争」(00年代初頭)により、「EU規格」と「民族の規格」が対立、後者が大きな力を持つに至ります。そしてその後「法と公正」政権下に、「民族の規格」が力を持ち続けているということになります。そして、こうした過去の政治資源化は、ヨーロッパで広く見られるものであると指摘されています。

 歴史認識をめぐるこうした変化は、社会主義体制下に置かれていた東欧諸国ではある程度普遍的に見られるものだと思います。ただ、ここでいう「規格」間の力関係は、過去のあり方(特に第二次大戦中)や体制転換後の政治過程を反映して、多様でもあると思われます。また、歴史認識をめぐる問題は、多くの地域で、歴史教育の問題と絡めて取り上げられることが多いと思いますが、本稿では歴史教育に関しては、記述の対象となっていません。故になおのこと、歴史教育との関係には関心を惹かれました。また、近隣諸国との「歴史家対話」なども契機たりうるものだと思いますが、ポーランドの場合、そうした試みが歴史認識に何らかの変化をもたらしたのかも知りたい点です。そもそも人々の歴史意識は、どのように形成されるものでしょうか?公教育、家庭教育、各種メディア・・・。インターネット・コミュニケーションの発達した現在、歴史意識が共有される回路も多様化していますが、このことは問題に影響を与えうるものでしょうか。論文の最後に、「道義上の動機」に留まらず、「現実政治上の動機」から、「和解」への道を開くべきであると述べられているのですが、では、具体的にどのような戦略が成り立つのか、考えてゆかなければならない点だと思います。

小谷:ポーランドに即してみれば、いささか図式的には感じられますが、分かり易いものだと思います。

南塚:ドイツ・ポーランド間の歴史教科書問題なども出てくるのかと思いました。

渡邊:次に進みましょう。「焦点」論文から取り上げる二本目は、笠原十九司さんの「東アジアの歴史認識対立と対話への道」です。小谷さん、お願いします。

小谷:笠原論考に書かれていることに、私はまったく異論はありません。以下の二点は笠原論考にかかわる個人的感想です。一つは、サンフランシスコ平和条約に関わる朝鮮人(・韓国人)・台湾人に対する「戦後補償」あるいは「救済政策」の欠如の問題です。これがすべての問題の根底にあると思います。すなわち、朝鮮人・台湾人BC級戦犯、従軍慰安婦・徴用工、朝鮮人・台湾人被爆者などの問題です。これらの点には触れるべきではないかと思います。

 もう一つは、東アジアにおける現実政治と歴史研究の間の乖離の問題です。日本における歴史研究において、グローバル・ヒストリーやトランスナショナル・ヒストリーといったことが喧伝される中で、東アジアの現実政治の場ではナショナル・ヒストリーが圧倒的な力を持っています。この両者の乖離について少しでも理論的に考察する努力が求められているのではないかと思います。「国境の越え方」を考える前に、国境が厳然と存在するという状況の中で何ができるのかを考えることが求められているのではないでしょうか。例えば、「国境論」(「固有の領土」批判を含めて)は有効性を持つのではないかと思います。

藤田:シベリアに取り残された朝鮮出身者や、サハリンに残された日本人として扱われていた朝鮮の人々、北朝鮮への帰国者と同行した日本女性で朝鮮籍を取りながら日本国籍の回復が認められずに無国籍状態となった人々の問題があります。そうした点を盛り込むことができれば、まさに世界史となるのだと思います。

小谷:中国残留孤児と異なり、北朝鮮残留孤児の問題は完全に盲点になっていますね。

南塚:東ヨーロッパも東アジアも、国にとどまらずもっと広く議論を進めても良かったかもしれません。

渡邊:次に、勝山元照さんの「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る」について、藤田さんお願いします。

藤田: 2006年、世界史未履修問題の発覚、「高校生にとり世界史は暗記地獄」の現実が問題化したのをきっかけにはじまった世界史教育改革の取り組みは、2018年新高等学校学習指導要綱(新指導要領)によって、現行の高校地理歴史科は2022年度から日本史と世界史を一体化した「歴史総合」と「地理総合」(各二単位)必修、「世界史探求」・「日本史探求」・「地理探求」(各三単位)から選択履修の新制度への変更に決着しました。新しい高校歴史教育の方向性には、小川幸司さんら世界史現場教師の[知識詰め込み型]学習の克服・モノトーンな学習形態の是正という反省とあらたな授業構想が反映しており、勝山元照さんは新制度を「生徒の市民としての自己形成に資する『自分の頭で考え、自分の言葉で表現する』歴史学習の実現にある」(307頁)として評価し、神戸大学付属高校における「歴史総合」授業の取り組みや自らの授業プランを紹介しています。

 神戸大付属高校の「歴史総合」授業は「主題的単元学習」とよばれ、「二つの世界大戦」など6つの単元を設定して単元ごとに、課題の設定→歴史的展開→主題学習(生徒自身による考察と同一意見の生徒の班ごとにさらに検討を重ねて班の意見を発表し他の班と質疑討論する)の形で進行し、段階ごとに学習テーマが提示されています。グローバル(世界)・リージョナル(東アジア)・ナショナル(日本)・ローカル(神戸)の四層の視点からなる「歴史総合」の工夫もされており、諸事項を学習した生徒たち自身の歴史解釈を試みさせようとする「歴史総合」の授業は、受講生から「共に学びあえる」「面白い」「深い」との評価を得た点では成功でありました。しかし「二つの世界大戦」の単元における諸事項や主題学習における「戦争を回避できた時点」のテーマ設定を見る限り、この授業は戦争と民衆の関連を問う歴史より国際政治学的考察が勝っている感が否めません。ここには「これまでの歴史教育が戦争の原因・経過・結果ばかり教えてきたことを反省し、回避する選択肢はあったのか、暴力に抵抗する方法はあったのかなどといったことについても考えてみたほうがよい」(65頁)との小川さんの反省が反映しています。しかし小川さんの反省には戦争関連の様々な民衆資料が乏しかった頃の困難さが影響しており、民衆資料が多様で豊富になっている上に、世界中の人びとが境界を超えて移動し、働き、交流しているなかで戦争が民衆を様々な形で苦しめると同時に民衆の抵抗も国家・民族を超えて多様な形で発展している今日においては、戦争と民衆の関係を真正面から問うことなしには現代史は不可能でしょう。

 勝山さんが自己の「歴史総合」プランにおいて、「現代のグローバル化の下で、孤独や不安を抱える生徒が増加しているが、生徒の内面世界と歴史学習との間には、ある種の隔たりが存在しており、この隔たりを克服し「自分ごと」の歴史に転換することは、歴史アマチュアとしての市民的形成にとって極めて重要である。生徒の知的好奇心のみに依拠せず、生活意識・社会意識と結びついた「歴史との対話」をどう実現するか」(317頁)と述べているのが注目されます。「歴史総合」科目の充実は現場教師の「世界の中の日本」についての認識の深化に掛かっているのです。

渡邊:第一巻全体を見ても、今までの議論を振り返っても、歴史教育の比重が非常に大きいのがわかります。個々の論点を深める「焦点」論文には、7つの論文がありますが、具体的に取り上げたのは3論文です。ジェンダー史や感染症の歴史学などを取り上げているその他の論文に関してはいかがでしょうか。

南塚:ジェンダー史に関しては、ポストモダンの中でどのように研究が進んで来たのかを明らかにしています。ジェンダーの視点が世界史の展開をどう理解するのか、ジェンダーの視点から世界史をどう構成するのか、といった点がきちんと整理されていると思います。ただ、ジェンダー論を基礎にすると、どういった世界史を描けるのか、世界史をどう変更させていくのかという点も、投げかけてもらえていればいいのだがと感じました。サバルタンに関しても勉強になりました。これはポストモダンの中で考えようという方向のものですね。これも、サバルタンの視点から世界の歴史を見るとどうなるのかが欲しいなと思います。

小谷:それならいいのですが、今のサバルタン研究はそういったものにはなっていないと思います。本来のサバルタン研究は、インドのマルクス主義歴史研究者たちの始めた民衆史です。途中から、アメリカのポストモダニスト、特にスピヴァクが関与してから性格が変化し、民衆への関心を失ってしまったと思います。

藤田:現在のコロナ禍の中で、非正規のシングルマザーたちが、失業、貧困から路頭に迷う。これは、ジェンダーの問題とサバルタンの問題を両方内包しています。タリバンの女性差別にも問題がありますが、タリバン自体がサバルタンの立場に置かれているのでもあります。加害者の中にも、ジェンダーの問題、サバルタンの問題がつながっているのです。そのように読み取ることが重要になっているのだと思います。

南塚:ジェンダーの問題、サバルタンの問題、まさに世界史の構造の問題だと思います。環境の問題に関しては、おそらくもう少しスケールの大きな議論が求められていたのではないかと思います。専門に埋没している感が否めません。飯島さんの感染症の論文に関しては、世界史という趣旨に合っていると思います。

渡邊:コラムに関してはどうでしょう。

木畑:コラムも吉嶺さん、川島さんなど高校の教員に数多く執筆してもらっています。

5. まとめ

渡邊:それでは、第一巻の総まとめを南塚さんにお願いします。

南塚:本巻の多くの論文がポストモダンを強く意識しています。このラインで、全体史としてどのような「世界史」が書けるのか、それを示してほしかったと思います。ポストモダンで世界史の部分的なものは書けます。しかし全体像にはなりにくい。それを克服しようというのがグローバル・ヒストリーなのでしょうか。この辺りの議論は長谷川論文で試みられているようですが、いま一つピント来ません。そのところは、本巻としてはどうなのでしょうか。

 例えば、ジェンダーについての章は、ポストモダンのもとでいかに研究が進んだかを示しています。ジェンダー視線の世界史的展開、ジェンダー視線から世界史を構成する場合の鍵となる論点が示されていて教えられました。しかし、全体史には行き着きません。ジェンダー視線からの世界史の見方をもう少し具体的に示せたら大いに参考になったはずです。同じことが、サバルタンの章にも言えるように思います。それに比べると、パンデミックの章は、大変示唆の多いものであったと思います。

 思うに、グローバリゼションと冷戦崩壊の後、世界的に見て、旧来の価値基準が壊れ、よるべき知的柱が消えてしまいました。混迷の時代です。そこへ、ポストモダン以下の思考様式が広がりました。そして、欧米を中心に、新しい歴史論、新奇な議論がつぎつぎと現れました。本書の論稿の多くはそれらを取り入れようということですが、欧米礼賛の復活でなければいいのですが。

 本巻は、1990年代以降、「世界史」の盛り上がりがあるとみているようです。というのなら、日本での「世界史」の取り組み(研究も教育も)はどう進んでいるのか、それは諸外国の動きとどうつながっているとみるべきなのかを、一方的に欧米の目から日本を見るというのではなくて、教えてほしかった。シリーズ『日本の中の世界史』(岩波書店)などのわれわれの動きは、どこに位置づけられるのでしょうか。われわれは、大塚久雄、上原専禄、江口朴郎、カー、ホブズボウム、ベイリなどのラインで世界史を考えてきているはずなので、「現代歴史学」から外れていることはたしかですね。

 最後に、本巻も、これまでの「岩波講座」と同じように、相互の連携のない独立論文の集積なのかと考えてしまいました。本巻のタイトルは、「世界史とは何か」なのだけれど、この巻は読者になにを訴えたかったのでしょうか。

小谷:確かにこの第一巻全体として、何を言いたかったのかは、わからないところがあります。

渡邊:袖の文章に、「専門家だけではない一般市民の歴史実践という観点から分析する」とあります。そうした分析ができているでしょうか。

小谷:その点が小川さんのもっとも言いたいことなのだと思います。歴史家だけが歴史を認識しているのではなく、一般市民も歴史実践をしているのだということです。この巻では、個別の問題を扱っていないのですから、具体的に分析しているわけではないですが。

南塚:一般市民の歴史実践が、世界史実践になるというのは、少し飛躍があるように感じます。ローカルな歴史実践、日本を単位にする歴史実践、世界単位の歴史実践には、どこか違うところがあるように感じるのですがね。

藤田:新宿で炊き出しをしている人々が、アフガニスタンの中村哲さんの姿と重なります。

南塚:それが世界史認識に繋がるのかもしれません。なお、世界史実践というとどうも歴史教育を念頭に置いて言われているようですね。今後の巻にも歴史教育の論文がありますね。

木畑:歴史教育を前面に押し出しているわけではありませんが、意識はしています。第一巻と第十一巻がペアになっています。この2冊が、「仕掛け」に関して扱っているものになります。第十一巻にも歴史教育の話がありますし、感染症に関しても第十一巻でも扱っています。

小谷:感染症に関しては、学習指導要領に取り上げられているのですね。

木畑:「歴史総合」の指導要領で感染症が扱われています。それが出されたのはこのコロナ禍が始まるより前の話です。

渡邊:最後に木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:第一巻の位置付けに関してですが、全体として、小川さんの言う歴史実践を意識しています。笠原さんの論文もそうですが、歴史対話や歴史教育に一つの柱があります。さらに最近のさまざまな議論をもとに幾つかの柱を打ち出しています。それがシリーズ全体の趣旨に適っているか、またそこから世界史が読み取れるか、この点はなかなか難しさもあるかもしれません。ただ、狙いとしては、こうしたものであったと理解しています。

小谷:歴史学研究の最新潮流を追う人たちと歴史教育に取り組んでいる人たちとの間には、かなりの乖離があると思います。

木畑:実際に、教科書には新しい動向はなかなか盛り込めません。ただ最後、勝山さんの提起している「戦争を回避する選択肢はあったのか」などは、ここから油井大三郎さんの『避けられた戦争』が生まれてもいるわけです。

渡邊:この先の巻にも興味深い点があります。世界史研究所として、各巻の内容にも注目して行きたいと思います。

 以上で「座談会」を終えたいと思います。皆さん、ありがとうございました。

(「世界史の眼」No.23)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評:小倉充夫著『自由のための暴力—植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)
舩田クラーセンさやか

本書の特徴

 本書は、日本で国際社会学をうちたて、アフリカ地域研究に軸足を置き続けてきた小倉充夫氏のもっとも野心的な著作である。それは、タイトルに如実に表れている。英語では『自由と暴力』と訳されているこの本が、日本語ではあえて『自由のための暴力』とされている点に、小倉氏のさまざまな想いが込められていることを想像するのは難しいことではない。

 他方で、このタイトルに戸惑いを覚える人は少なくないだろう。

 まさに、それこそが小倉氏の狙いと考えられる。本書における文章の潔さも含め、小倉氏の過去の著作を知っていれば、氏によるディシプリンと地域研究を超えた長年にわたる探求が、読者を導くある種の到達点に、感嘆の声を漏らさざるを得ないだろう。後述するように、小倉氏は本書も途中経過と考えている。しかし、本書の「はじめに」で述べられているとおり、本書は過去に出された二冊の本と密接な関係にあり(『現代アフリカ社会と国際関係ー国際社会学の地平』有信堂、2012年、『解放と暴力ー植民地支配とアフリカの現在』東京大学出版会、2018年)。これら二冊とそのほかの過去の著作を眺めるとき、本書が小倉氏のこれまでの研究の集大成の大きな部分に位置づけられることに気づくだろう。

本書のねらい

 本書のねらいを一言で述べることは難しい。あまりに豊かな広がりの奥行き、深みのある議論を「一言」で表するなどということは、無謀かつ失礼極まりない。それでも、この書評を経由して本書に感心を持ってくれる人がいるかもしれないとの希望的観測から、あえて評者自身の言葉で本書のねらいを纏めてみる。

 本書は、抑圧からの解放と自由を実現する手法として民主主義を求め続けた人びとの葛藤を、世界における現実—とりわけ近現代史的展開の中—に位置づけ、そこから生まれてきた理論(たとえ、批判に満ちたものであろうとも)を丹念に検討しつつ、現在と未来を検討するための議論の土台を提供しようとした画期的な本である。そして、その議論の土台の提供先が、現在と未来の日本の人びとに向けられていることは、本書の「はじめに」と「おわりに」で明らかである。

 小倉氏を「アフリカ地域研究者」として認識してきた人は、「はじめに」が「日本における報道の自由世界ランキングの低下」から始まっていることには驚くかもしれない。小倉氏の懸念は、続く文章で具体的に示される。

「(日本の)戦後民主主義が成熟するどころか、残念ながら形骸化していることを示す一例なのではないか。特に今世紀になって、市民社会の未熟さを痛感させられることが多くなってきた。(中略)かつては権威主義体制のもとで苦しんできたアジアの諸国が、民主化するにつれ、今や市民社会の成熟度において、日本をあっという間に抜き去った感がある…(i頁)」。

 そして、「本書を構想した動機の一つ」として紹介される以下の文章をここで示しておくことは、本書を読み解くうえで重要であろう。

(日本の/で)「民主主義を鍛えることが難しいのは、それを勝ち取ったという経験にかけているからではないのか。天皇制ファシズムと闘った人々は決して少なくないが、その体制の崩壊と民主化は、基本的には敗戦と占領の結果であった。(中略)重要なことは、やはり変革と民衆との関わりにあるのではなかろうか。日本は他のアジア・アフリカ諸国のようには、外国による支配や独裁体制からの解放を民衆が自力で勝ち取ったという経験を持たない。このことは日本の問題を考える際に、いかなる意味を持つであろうか…(i-ii頁)」

 これらの記述は、本書における小倉氏の問題意識の根底に、日本の戦後民主主義への懸念があり、課題の抽出において、アジア・アフリカ諸国、とりわけ被植民地支配や革命を経験した民衆による闘いから学ぶべきとの認識があることを示している。小倉氏は続けて、「闘う手段の選択を絶えず迫られてきた」民衆が手段としての暴力・非暴力を選択した要因、その実践の様相と結果に注目することの重要性を指摘し、「これらについて影響をおよぼしたと考えられる思想的背景、構造的要因、国際的条件など」を明らかにすることが本書のねらいであるという。

本書に先だっ

 この問題意識は、評者との共著『解放と暴力』(前述)でもすでに示されている。本書(『自由のための暴力』)は、先だって三年前に出版された同書の第1章「解放と暴力」で展開された議論を、格段に深め、広げたものである。同書出版後の本書に連なる小倉氏の取り組みについては、東京大学出版会が毎月発刊するUPの論稿において(「解放をめぐる暴力の諸相」2019年2月号、14頁)、以下のように紹介されている。

「退場しつつあると思われた偏狭な国家主義や人種主義が再び頭をもたげてきた。国際的な協調や多様な属性を持つ人々の共存の試みを否定するかのような言動や政策が、世界のあちこちで見られるようになた。(中略)しかし問題はもう少し根深いところにあると思われる。筆者は南部アフリカの植民地支配と解放、独立後の動向に注目し、それによって現代世界の問題を捉え、併せて専門諸科学を問い直すことを自らの課題としてきた。このような問題意識のもと(執筆されたのが)、…『解放と暴力』である。そこでは、帝国主義時代に強化された植民地主義と人種主義が過去のものではなく、近年危惧される傾向はそれらが継続・再編されたものであるという視点から論じた」。

 そのうえで、「鍵概念のひとつである暴力についての議論がやや不十分であった」ことから、同論考が準備されたという。同論稿では、本書の第1章で展開される議論が、「『自由を守る義務を負う名誉』とテロリズム」、「解放にとっての非暴力主義」、「革命批判と犠牲のピラミッド」、「合意なき国家の紛争」という小見出しにあわせて進められる。本書は同論考で示されたこれらの議論の骨子を、具体的な事例と豊富な理論的考察をもとに、さらに発展させたものである。

本書の構成

 本書は、以下のように構成される。

第1章 自由のための暴力

第2章 非暴力の理念と現実 

第3章 革命と暴力(1)― 理想と現実

第4章 革命と暴力(2)― 後進国革命と国家暴力

第5章 植民地支配と現代の暴力

第6章 民主主義と暴力

 以下、各章の特徴を、網羅的にではなく、評者の視点から重要と考える点を中心に取り上げていく。

(第1章 自由のための暴力)

 第1章では、本書の鍵概念である「自由」と「暴力」がさまざまな角度から論じられるが、とりわけ次の問いに根ざして議論が進められる。つまり、自由のための暴力行為は許されるのか?許されるとしたら、あるいは許されないとすれば、なぜか? 暴力の結果、生じた犠牲はどこまで許容されるのか、されないのか? つまり、本書のタイトルを見て感じるであろう読者の疑問に真正面から理論的に答えているのが本章である。いかなる批判もまずはこの章を読むところからしか始まらない。

 何より、本書においてもっとも重要であろう本章が、「抵抗と暴力」から始まっている点にこそ着目したい。小倉氏は次のように説明する。「政治的な暴力には様々な担い手があり、その特徴も異なる。そのことは国家権力による暴力とそれへの対抗暴力において典型的に示される」として、「抵抗」が「国家権力による暴力」を前提にしていることが示唆される。これは、本書が一貫として、①それが絶対王政のものであれ、全体主義や独裁国家のものであれ、共和国や議会制民主主義国家のものであれ、植民地支配下のものであれ、「国家権力による暴力」を問題としていること、②これに「抵抗」し、これを乗り越え、抑圧からの解放という「自由」を獲得するための「闘い」のあり方を考察の対象としていること—を明らかにする。つまり、小倉氏は、本章を通じて、被抑圧者による社会変革、ひいては世界変革に向けた闘いのあり方、現実の面での可能性と限界、その要因のおおまかな見取り図を示そうとしているのである。

 闘争の時間軸は、抵抗から解放に至ることで終わるわけではない。ここに、ザンビアの村からアフリカ大陸、第三世界までの「地域」に立脚して社会と国際関係の変容を研究してきた小倉氏の洞察がある。理論家が解放運動として成果を上げた組織や理論をどれほど賞賛しようとも、その先(解放後)の社会を誰がどのように導き、その結果として何が起こったのか、それはどこの誰の現実から、どのように分析されるべきなのか—これらの問いこそ、過去の著作ならびに本書における小倉氏の問題意識の根幹を成す。人によっては、これを、人びとの生きる現実により肉薄しようとする社会学的アプローチによるものと考えるかもしれない。しかし、本書を丹念に読み進め、読み通すことができた読者は、小倉氏がなぜ「解放後」にこだわったのか、ディシプリンを超えたところで理解できると思う。

 その一端を評者なりに捉えるならば、研究者がどれほど現実に肉薄しようとしても、最終的にはそれは不可能な試みである。それでも、研究者はさまざまな手法で現実に近づこうとする。そこで過去の人類の具体的な営みに基づいて生まれ出た思想や理論が与えてくれる示唆は重要な意味を持つ。他方で、だからといって研究がそこにとどまるとすれば、現実に害悪すらもたらしうる。研究が国際政治・経済に直接的な影響を及ぼすようになった20世紀においては、これは重要な点である。とりわけ二十世紀後半以降の冷戦期において、知的サークルにおける認識枠組みのあり方は、国際政治の場に強く深い影響を及ぼし、同時代を生きる「地域」の人びとの現在と未来に希望の一方で深い亀裂を作り出してきたからである。この点は、最終章にあたる第6章でより具体的に検討されるが、読者が第1章に示される理論上の射程を理解する助けになるだろう。

(第2章 非暴力の理念と現実)

 自由のための手段としての暴力を論じる点で避けて通れないのが、非暴力思想である。とりわけ、日本ではマハトマ・ガンディーの非暴力思想とインド独立への寄与が広く知られているため、暴力的手段による闘争は無意味なもの、あるいは「血に飢えた者の蛮行」として認識されやすい。しかし、小倉氏が指摘するように、ガンディーは暴力の一切を否定したわけではなかった。これは、同じく非暴力主義者として日本で認識されるネルソン・マンデラ(後に南アフリカ大統領)とて、同じであった。本書のタイトルに疑問を感じた読書こそ、この章を丹念に読んでほしい。

 小倉氏が、本章の第1節(「非暴力の主張と暴力批判」)の第1項(「非暴力思想の特徴」)で指摘するように、ガンディーが非暴力が内含する道徳的優位性が、暴力を振るう者への訴えにおいて一定の有効性を有していることは重要であるが、他方でこの非暴力は何もしないという消極的な非暴力ではなく、積極的な非暴力であった点は忘れてはならないだろう。ただし、小倉氏は、続く第2項(「非暴力の主張における問題」)で、非暴力思想への批判の紹介を怠らない。つまり、圧倒的な国家権力による暴力の実力行使の前では、非暴力による解決の主張が、現実から遊離し無力なばかりか、現状維持を長引かせることにつながるとの批判である。そのうえで、第2節(「手段としての非暴力」)では、解放運動の担い手たちにとって、「暴力を容認するか、それとも非暴力に徹するべきか」という原則主義的な議論ではなく、解放実現のための手段や戦略として非暴力が有用か否かこそが重要であったことが、「暴力も非暴力も」と名づけられた第一項で紹介される。

 本章では、小倉氏の著作に特徴的な議論の進め方の特徴がもっとも如実に示されている。以上のように、相反する認識や理論を真正面から突き合わせつつ、あまり知られてこなかった現実の具体的動きとその結果を紹介し、最後に筆者としての考えを示唆するスタイルである。本章においては、59頁に小倉氏の考えの一端が表されているが、明確には、次章以降に詳しく記される各革命の展開の中でさらに議論が深められていくので、読者はそれを待たなければならない。

(第3章 革命と暴力(1)理想と現実 /第4章 革命と暴力(2)後進国革命と国家暴力)

 本来、核となる第3章と第4章は、分けて丁寧に論じられるべきであるが、これらの章は相互に密接に関連しあっており、単体では扱うことが難しいため、あわせて紹介する。

 本書の最大の特徴は、理論を踏まえつつも各地における「後進国革命」の具体的事例に注目し論じている点にある。現在の日本で、かつ日本語で本書が出版されることの積極的なねらいと意義について、これら二章を読めば明らかと考えるが、評者の受け止めを少しだけ紹介したい。

 日本は自らを「先進国」と呼びながら、民衆の覚醒という意味でも、闘いという意味でも、到底「先進国」の名を掲げることはできない。経済的に「後進国」とされ、かつての被植民地主義国にあった人びとの変革への欲求と圧倒的な力の差における不断の努力がもたらした体制転換—それは植民地にとどまらず、「地域」全体、あるいは/そして宗主国側社会、さらには国際関係や世界史に影響を及ぼしたこと—から、日本の人びとと社会はたくさんの学びを得られるだろうし、得るべきである。本書全体の中にこの二章を位置づけることで、そんな想いが伝わってくる。

 またこれら二章においては、革命とその後に対するアプローチにおける国際関係の重要性が、豊富な具体的な事例をもとに示される。つまり、理想と現実が、革命が生じた社会内部の構成体や原初蓄積の状況にとどまらず、国際的な経済政治関係の推移の中で互いに影響を与え合いながら進んでいく様相である。

 国際的条件やその相互影響を考慮に入れない革命理論は多い。特に、「比較」という一見学術的に真っ当な手法によって、覆い隠されてしまう運動ならびに「地域」の現実、革命を取り巻くさまざまなレベルの主体との関係、ならびに歴史的に醸成された関係性の網を明らかにすることは、小倉氏による研究手法の基本にあり続けた。これは、共著『現代アフリカ社会と国際関係』において、小倉氏が担当した第1章により詳しい。

 これまでの小倉氏の注目してきた地域や現象を考えれば、キューバ革命に相当の紙幅が割かれていることは新鮮であった。なぜキューバ革命でなくてはならなかったのか? キューバ革命が、冷戦期の米ソの対立と世界戦略という冷戦状況下で起こり進展していくこと、また1960年代を通じて、とりわけラテンアメリカとアフリカにおける「後進国革命」に具体的に及ぼしていく世界史的かつ地理的拡大を影響を考えれば、これは納得がいくものである。とはいえ、キューバ革命の課題(エリトリア独立へのネガティブな影響を含む)の紹介を怠らない点に、先に紹介した小倉氏らしさが表される。

 なお、これらアジア・ラテンアメリカ・アフリカにおける革命を「後進国革命」とする整理は独特のものである。これには、本書の「あとがき」に出てくる学術的背景—津田塾大学国際関係学研究科での勤務—の影響を考えずにはいられない。これについては、最後に検討する。

 なお、第4章はエチオピア革命が中心に扱われている。小倉氏は、アフリカ解放後の社会主義革命を分析した際にタンザニアと並んでエチオピアを扱った後も、エチオピア革命とその後の国家暴力、国家分裂に関心を持ち続けた。この具体的事例の展開に基づく理解こそ、続く第5章の総括につながっていく。

(第5章 植民地支配と現代の暴力)

 本章は、ここまでの理論と現実、特に第4章のエチオピアの事例に関するの検討を踏まえつつ、先に紹介した共著本『解放と暴力』をより普遍化したものといえる。本章では、 「1. 支配の正当化と暴力」、「 2. 独立と解放の乖離」、「 3. 国家暴力の正当化 」、「4. 『合意なき国家』の形成と暴力」との見出しで筆が運ばれていく。ここでは、解放を実現し、国家権力を手に入れた運動体が、植民地支配などでもたらされた社会内の分裂傾向と厳しい国際環境に直面する中で、暴力に加担していくプロセスが、多様な事例に基づきつつも、驚くようなシャープさで纏められている。植民地支配からの脱却という目標を超えて、新しい社会の創造を前提とした社会変革を目指す解放運動ならではの課題が、過去の革命の盛衰や課題、第4章におけるエチオピア革命史を土台にしつつ、繰り広げられており、本書の中でもっともダイナミックな章といえる。ある意味で、「自由のための暴力」(そして「革命を取り巻く暴力」)をテーマとした本書の終章に位置づけられる本章における手堅い整理は、本書全体だけでなく、過去の小倉氏の著作における取り組みを振り返る際に役に立つ。

 本章最後の節となる「『合意なき国家』の形成と暴力」は、そのタイトルに示されるように、見かけ上の民主化を遂げてなお、アフリカの民衆が苦しむ国家権力による暴力とそれへの対抗暴力、そしてそれらが織り混ざって生じる暴力の蓄積と連鎖の苦しみが記される。同時代に生きる私たちが、現代世界の各地で生じ続ける暴力を理解するために不可欠な視点が披露されるとともに、その解決の難しさを実感させる中身となっている。

 革命後に薔薇色の社会が待ち受けるわけでも、革命崩壊後に自由が訪れるわけでもないという19世紀から現在までの教訓の先に、何があるのか? 誰の何からの解放・自由こそを、問題にすべきか? そんな問いが胸に重くのしかかってきたところで、本書の本来の最終章(第6章)の出番となる。

(第6章 民主主義と暴力)

 最後に、小倉氏は以上の議論を、「民主主義と暴力」という題目の下、西欧社会や日本に広げる。本章には、小倉氏が古今東西、「後進国革命」を通じて日本の読者と議論したかったであろう論点が、そこかしこに提示されている。また、なぜ本書が、暴力を真正面から取り上げ、「後進国革命」を問題にしたのか、そしてこのようなアプローチをとったのか、本章を読んでいくうちに明らかになるだろう。この章こそ、まさに小倉氏の本書の根底にある問題意識の在処が如実に示された章といえる。もう一点重要なことは、本章に、小倉氏の次の研究の方向性が示されている点である。

 本章の第1節「民主主義の暴力」で、冒頭に「構造的暴力と暴力批判」が取り上げられている点に注目したい。『解放と暴力』の第1章でも検討された点であるが、本章では、とりわけ暴力が民主主義体制下(見かけのものであれ)の社会で発現し続けていることに注目する重視性が指摘され、そこに引きつけた議論が展開される。革命達成を終着点とせず、その後の社会変革—故に人びとの解放と民主主義の可能性—に重きをおく小倉氏ならではの議論の展開である。本章では、一見民主主義的な制度をいくつか紹介しつつ、このような制度上の工夫すら、暴力と抑圧を生み出し続ける近代国家や集団主義の現実が炙り出される。

 小倉氏は、問題の本質が暴力行為を許容すべきか否かではなく、構造的暴力をどう捉え、これをどのように乗り越えるべきかにあるという。結局のところ、「民主主義の制度に集団主義的な原理を加えるだけでは不十分であること」、また「この原理はかえって対立を強め、暴力を増長することがあること」が指摘される。これに新たに移民の問題が加わる。

 小倉氏は、このような現代的課題を乗り越えんとする努力がすでに脱植民地化のプロセスと新国家形成期のアフリカであったことを、ザンビアのカウンダ初代大統領とタンザニアのニエレレ初代大統領の試み通じて明らかにしようとする。パン・アフリカズムのリーダーでもあった二人が、植民地支配によってつくり出された分裂を避け国民的な統合を実現・維持するという課題と、さまざまな地域や民族の共存を図るという二つの課題を抱えていたばかりか、冷戦とアパルトヘイト下という厳しい国際・地域的(南部アフリカ)条件に直面していた点も指摘されている。なお、これらの点に関しては、『解放と暴力』により詳しい。

 冷戦後、とりわけ西側諸国が、このような苦悩と試みを矮小化したまま、形ばかりの民主化を押しつけた結果として生じた社会的亀裂、それに続く大規模な虐殺や戦争に、小倉氏は警鐘を鳴らす。いつの間にか忘れられてしまったこの論点は、本書が一貫して注目する国家暴力と抵抗暴力の綱引きにおいて、民衆の熱望を誰がどう刈り取る(ってしまう)のか、民衆の覚醒と主体化はどのように/どこまで可能なのかに関する疑問に読者を誘う。この問いの根底に、日本の国家、市民社会、民衆の過去・現在・未来が、小倉氏の念頭にあることについては、「あとがき」に明らかである。

(あとがき)

 以上との関係で、そもそも小倉氏がなぜこのテーマに取り組んできたのかについて、次のように述べていることは重要であろう。

「日本が他の社会の革命、解放闘争、民主化にネガティブな意味で関わってきたからである。例えば、日本はイギリス・フランス・アメリカと共にロシア革命に対する軍事介入に加わったばかりか徴兵した最後の国だった。東アジア・東南アジアにとって日本は、いうまでもなく帝国主義的侵略国であった。戦後の冷戦期には、民主勢力を弾圧する独裁政権を援助で支え続けた。日本の関わりを一面的に性格づけることはできないが、解放の主体からすれば、長らく日本はたぶんに解放を妨げる存在であり、闘う相手であった。このように解放とのネガティブな関係の認識を踏まえることが、本書のようなテーマに取り組むための第一歩であろあう」

 そして、本書の最後の最後に読者は、小倉氏の眼差しの向こうに、「ある村の人びと」がいたことを知る。

「サラエヴォも沖縄もそこに住む人にとっては世界の中心である。(中略)自分もペタウケにいると世界の中心にいるとの感覚を持つようになった。常識的には、政治でも経済の面でも、世界の辺境とされる地で生活している人びとのそばにいると、様々な不条理に嫌でも気づかざるを得ない。ペタウケから、物理的な空間としてはザンビアが、南部アフリカが、そしてアフリカと世界が、そして歴史的には、帝国による侵略以来の支配・服従と解放、その痕跡と現状が見えてくる」

 この文章に込められた想いについては、新たに付け加えるべきことはないだろう。

 なお、評者があえて「地域」と「」付きで紹介してきた理由は、小倉氏にとって「地域」が、地域社会からアフリカ地域までを含む多元的なものであることを示すためであった。

 もう一点、本書を可能にした「場の存在」について。小倉氏にとっての勤務校・津田塾大学の国際関係学研究科ならびに研究所の重要性である。小倉氏は、そこに集う同僚や研究員たちから受けた刺激を繰り返し語ってきた。共著『現代アフリカと国際関係』は、そんな小倉氏が退任を迎えるにあたって、感謝の気持ちを込めて準備した本であった。多くが知るところであろうが、同研究科・研究所は、江口朴郎氏が開設したものである。同時代の国際関係という横軸と、世界史的展開という縦軸が交差しながら網の目のように関係しながら育まれていく民衆の意識と構造の変容、革命と反革命の綱引き—江口氏に特徴的な分析視点は、これまで小倉氏をはじめとする多くの研究者に大きな影響を及ぼしてきた。また、本書が「問題意識に沿って必要であれば学問領域の垣根を乗り越える、そのことの危うさを自覚しつつ、同時にそれが不可避であることを意識したことの賜である」との説明は、社会学を学問的出発点にしながらも、その垣根を越え続けた小倉氏ならではの総括といえる。

最後に

 以上から、第三者的な書評を認めるには、評論者の属性(博士後期課程以降、小倉氏に学び、過去に出された二冊の共著者)は、あまりに不適切なため、本稿は本の紹介にとどまるものとなってしまったことをお詫びしたい。各章で取り上げられている理論や現象、そしてその解釈について、何百もの付箋を付けたものの、それらを事細かに紹介するよりは、これまで小倉氏の研究姿勢と著作に大きな影響を受けてきた者として、なぜ氏が本書を書くに至り、このような構成を用い、またこれらの事例をこのような形で取り上げたのかを分析・紹介することで、研究者以外の一般の人を含む多くの人に興味を持って本書を手にとってもらえたらと考えた。

 本書で包括的かつ弁証法的な議論が展開されている以上、詳細は各自で読んでもらい、紙面上での対話を試みてもらうべきだろう。

 最後に、第6章では、小倉氏が今後このテーマで議論をさらに深め、進めようとしている論点がいくつか示唆されている。そして、本書は過去のいずれの著作よりも、また第6章はいずれの章よりも、躍動感を持って描かれており、長年にわたり小倉氏の文章に慣れ親しんできた者としては、ある種の清々しさを感じずにはいられない。恩師の瑞々しい文章に触れ、背筋を伸ばしたのは評者だけではなかったろう。

【参考図書】

・小倉充夫・眞城百華・舩田クラーセンさやか・網中明世・セハスモニカ『現代アフリカ社会と国際関係—国際社会学の地平』(有信堂、2012年)

・小倉充夫・舩田クラーセンさやか『解放と暴力—植民地支配とアフリカの現在』(東京大学出版会、2018年)

(「世界史の眼」No.22)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評:北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー 大人のための現代史入門』(ミネルヴァ書房、2021年)
木畑洋一

 先に『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』(ミネルヴァ書房、2018年)という本を上梓して高い評価を得た著者が、その手法を引き継ぐ形で対象とする時代を20世紀から現在までに限定して著した本が、ここで取り上げる『20世紀のグローバル・ヒストリー』である。その手法とは、高校の歴史教育で用いられている教科書の内容にあくまで即しながら、著者なりの歴史像を提示していくというやり方である。参照された教科書は、前著においては「世界史B」(古代から現代までを詳細に扱う科目)の教科書であったが、本書では、それに加えて「世界史A」(近現代を中心に比較的簡潔に扱う科目)、「日本史B」、「日本史A」(BとAの違いは世界史と同じ)も参照されている。換言すれば、高校での歴史関係の教科書すべてを素材にしているわけであるが、それは、2022年から高校において新科目「歴史総合」が導入されるということに関わっている。従来の世界史と日本史を融合させる形で18世紀以降の歴史を扱うというこの新科目を見据えて、本書は書かれているのである。

 また前著と本書のタイトルがともにグローバル・ヒストリーという語を含んでいることから分かるように、著者が目指しているのは、グローバル・ヒストリーを意識した通史的叙述である。この点に関していえば、前近代についてもネットワークという考え方を適用して斬新な歴史像を提示した前著の方が刺激的であったとも感じられるが、本書でもさまざまな工夫が凝らされている。「はじめに」で著者が示している、グローバル・ヒストリーとして20世紀史を再構築する際のポイントは以下の5点であり、きわめて要を得ている。①人類共通の問題群を主軸にする、②国境をこえる関係性や結びつきを積極的に取りあげる、③地理的に広い範囲での歴史の動きを把握する、④大国よりもその周縁部に焦点を当てる、⑤「下からの」エネルギーに注目する。問題はこうした視点が貫徹した叙述になっているかどうかである。この内、③から⑤については、それなりに著者の努力がみられるものの(ただ③の広域性という視角は、前著においては非常に明示的に打ち出されていたが、本書ではそれほどでもないという印象をもった)、本書の「売り」となるのは、①と②ではないかと思う。それに関して例をあげてみたい。

 本書のプロローグ「20世紀前夜の世界」は、前著で著者が強調していたグローバル・ネットワークの完成についての議論から始まるが、そこで中心に据えられるのが、列強による植民地支配の拡大であり、さらにその支配を支えた人種主義である。人種主義は、上記の①にある人類共通の問題の一つであり、本書を貫く主軸の一つとなっている。著者は、1990年代初めのアパルトヘイト諸法の廃止に触れた個所で、「20世紀は人種主義の世紀だった。…人種主義が国家政策として公然と実施される時代はこれで終わった」と述べるのである。もとより人種主義そのものがそれで完全になくなったわけではないと著者は続けて論じるわけであり、このような形での20世紀論に評者は強い共感を覚える。

 また移民という問題も、「人類共通の問題」として重視されている。これをめぐっては、満洲国の建国後、日本が満洲移民を推進していく背景に、それまで日本人移民が多かったブラジルで強圧的な民族主義政策が開始されて移民が圧迫され始めたという要因も存在していたとの指摘が興味深い。これについての叙述に踵を接する形でナチ・ドイツのもとでのパレスチナへのユダヤ人移民問題を取り上げるといったところに、著者の巧みな工夫をうかがうことができる。

 ②の論点に関わる例としては、たとえば日露戦争とイラン立憲革命の関係をあげることができる。1906年のイラン立憲革命に日露戦争での日本の勝利が大きな影響を及ぼしたことは、これまでも教科書のなかで書かれてきたが、その様相を著者は簡潔ながら具体的に説明している。さらに、教科書ではお目にかかることはない指摘として、インドでのベンガル分割への反対運動に日露戦争が影響を与えた可能性が指摘されている。また、1960年代の世界の若者たちのカウンター・カルチャーと中国の文化大革命の同時性に着目し、前者への後者の影響に触れているところなども、印象に残った。

 こうした内容をもつ本書は、読みやすい文体で書かれており、教科書でおなじみのゴシック体による重要語句の強調も適度になされているなど、歴史教育のために使われるにふさわしい本になっている。ただ、注文したい点も若干存在するが、ここでは一点のみあげておこう。

 先に①から⑤というポイントを挙げたが、著者はそれに加えてあと二つの点を提示している。一つは、20世紀の世界史を10年毎に切り取る形で本書を構成するという点であり、いま一つは世界史と日本史の総合を意識するという点である。後者に関しては、ない物ねだりはいくらでもできるものの、本稿で指摘してきたような叙述など、工夫の努力がよく見られる。 

 一方、前者については、1930年代とか1960年代とか、確かに10年区分で議論をする意味がある場合も20世紀には多かったが、それでよいのかと思われる時期もある。たとえば1940年代である。これを一つの章にまとめてしまうと、1945年における第二次世界大戦終結の意味合いは、どうしても相対的に低められてしまうのではないだろうか。それは戦後変革の評価にも連動する。このことは、本書が念頭に置いている「歴史総合」での時期区分にもあてはまる問題である。「歴史総合」では、「国際秩序の変化や大衆化」という大項目と「グローバル化」という大項目とが、1945年ではなく、1950年代初めで区切られているのである。もちろんその区切り方を正当化する理由もありうるが、こうした点について何らかの説明が欲しかったところである。

 最後に一つ述べておきたいことがある。著者がこのような形で一書を著わすことができるというのは、日本の高校で使われている歴史教科書の中身がかなり標準化されていることの反映であるとも考えられる。叙述の中身にはそれぞれの特色が出されているとしても、頁数にせよ、用語にせよ、教科書がかなり似通ったものになっていることは否めない。固有名詞でも概念でも、従来の教科書で馴染みがないものは避けられがちであるし、頁数の制約のために叙述の密度も限られがちになる。本書は、そうした日本の教科書を素材にしながら、20世紀の世界史像をどこまで描けるか試した成果であるが、本書を読んだ上で、このような日本の歴史教科書のあり方自体を改めて問うてみることもできるのではないだろうか。

(「世界史の眼」No.22)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

『世界婦人』の伝える世界情報
南塚信吾

 『世界婦人』という新聞は、福田英子によって1907(明治40)年1月に創刊され1909(明治42)年7月まで、2年半にわたって、始めは月に2回、のちに1回のペースで発行された日本初の社会主義女性新聞である。わたしは神川松子の仕事を調べていてこの新聞に出会い、その視野の広さに驚いたのだった。それで改めてこの新聞を読み直してみた。幸い、労働運動史研究会編の『明治社会主義史料集』別冊(1)として『世界婦人』が全部収録されている。

 『世界婦人』は『新紀元』のあとを継ぐものと考えられていた。『新紀元』は、1905(明治38)年10月に平民社が解散させられたあと、11月から翌(明治39)年2月まで出ていたキリスト教社会主義の立場の新聞で、木下尚江、石川三四郎。安部磯雄、片山潜らが中心であった。

 『世界婦人』は、「女子をして最も自由なる天地に於て其の眞使命を自覺せしめ」、諸般の革新運動を鼓舞し開拓すること」を目指した(福田英子「發刊の辯」)もので、基調としてはキリスト教社会主義の立場に立っていた。ではなぜ、「世界」婦人なのか。「發刊の辯」にはそれは書かれていない。しかし、『世界婦人』の創刊を予告した『新紀元』最終号の記事は、こう言っている。『世界婦人』は婦人の世界的解放を成就せんことを以てその使命となす。故に『世界婦人』は先ず専ら世界的思想を婦人社会に注入するに勉むべし。『世界婦人』は此の脚地に立ちて、世界の政治問題、社会問題、宗教、教育、文学の諸問題を報導し、論議し、研究する、と(『明治社会主義史料集』別冊にある宮川寅雄の解説)。婦人の自覚は世界的視野でのそれが求められ、「世界的婦人」の出ることが期待されていたのである。それゆえに『世界婦人』は、婦人解放に関連する世界中の情報を提供していた。

 雑誌を主宰したのは福田英子であった。経営上福田を助けたのは、石川三四郎であり、寄稿したのは、二人のほか、安部磯雄、幸徳秋水、堺利彦、木下尚江、神川松子、片山潜らのほか、二葉亭四迷、板垣退助など、思想的に幅広いメンバーであった。福田英子をとおしてこの雑誌は田中正造とも密接な繋りを持っていた。

 では、『世界婦人』は、婦人解放に関連するどのような世界中の情報を提供していたのだろうか(本稿では、当時の用語に従い、「婦人解放」という表現を使うことにする)。『世界婦人』の全号の中から婦人解放に関する世界の情報を拾い出してみたい。ほぼ毎号、本文か「海外時事」という欄に諸外国の女性の動きについての情報が載せられていた。

 もちろん各号に載った福田英子、木下尚江、石川三四郎。安部磯雄、幸徳秋水らの論稿においては、時々海外の主題が含まれていた。たとえば、『世界婦人』16号では、幸徳秋水は「婦人解放と社会主義」と題する巻頭論文において、アメリカの「無政府党の領袖」エンマゴールドマン(エマ・ゴールドマン)を引いて、「婦人解放の第一着手は婦人をして社会主義を知らしむるにあり」と論じていた。

 しかし、『世界婦人』は、「海外事情」などの欄を設けて、そこで種々の海外での婦人解放にかんする情報を豊かに載せていたのである。この視野の広さには驚くほかはない。

 以下、どのような情報を載せていたのか、ジャンルに分けて「タイトル」だけを紹介しておこう。(・)は『世界婦人』の号数を示す。

1. 婦人労働(者)について

 「健脚の女丈夫」(英の郵便居局長)(5)、秘密印刷に従事する一日本婦人(ロシア)(11)、米国の婦人労働(14)、仏国の婦人労働、女子議員の職業―フィンランド(15)、仏国の婦人労働者(23)、アイスランド婦人の覚醒(27)、阿蘭(オランダ)婦人の訴願(29)、伯林(ベルリン)の婦人労働者(29)、婦人労働者同盟(英)(2)、英国の婦人労働協会(28)、英国婦人労働組合大会(30)、女子の裁判官(米国)(17)など。

 とくに婦人売買や女中問題などについて、

 婦人売買禁止列国大会(1)、下婢組合と下婢の権利(豪州)(7)、世界の女中問題(11)、英国女中団体(30)、家内労働者組合(14)など。

2. 婦人の運動 

 英国婦人の示威運動(2)、マンチェスターに於ける婦人問題大会(2)、英国婦人の覚醒(3)、独立労働党と婦人運動(3)、婦人達の擾動(英)(4)、女子教員の運動(16)、独逸の婦人運動(20)、英国女子の政治運動(22)、英国曼市に於る婦人示威運動(マンチェスター)(28)、萬國婦人大会(アムス)(28)、印度婦人団体(29)、滿洲の女馬賊(2)、流罪婦人の悲劇―シベリア(30)など。

3. 婦人参政権問題について

 英国婦人の選挙権運動(1)、豪州における婦人の勢力(選挙権)(2)ナイチンゲール女史と選挙権問題(5)、維納(ウイーン)通信―選挙権問題(5)、墺太利(オーストリア)の光景―普通選挙法可決(6)、英国婦人選挙権運動(7)、那威(なうるうえい=ノルウエー)と女子選挙権(16)、世界に於ける婦人選挙運動(21)、英国婦人選挙成行(25)、婦人参政権運動(英国)(26)など。

 これに関連して、婦人と議会に関するものとして、

 最初の婦人代議士、イギリス、フィンランド、ニュージーランド(12)、仏国婦人と議会(15)、芬蘭(フィンランド)国会(26)、香港議会における婦人問題の勝利(7)など。

4. 婦人と社会主義について 

 万国社会主義婦人会議(ドイツ)(16)、今週のすつっとがると=万国社会主義婦人会議(府人の万国的活動、ツェトキンスの働き振り、大会の花形役者ロザ・ルキセンブルグ、勇ましき武者振り、印度婦人の活躍など)(18)、英国の「教会社会主義者」(22)、欧州の社会主義者(22)、婦人社会主義者ルエーラ・ツッイニング(25)、墺國社会民主主義婦人大会(30)、婦人の社会主義観―シカゴ(31)など。

 これに関連して、婦人と革命という観点から、

 婦人は男子よりも革命を好む(7)、芬蘭の女子革命家(17)、露国革命婦人メリー・スピリドノヴワ(26)など。

5. 世界的に知られた婦人個人について

 マダム・ローラン略伝(3)、スノウデン夫人の演説(3)、ストウ略伝(4)、黄梁の一夢(烈婦ルイ、ミシェルを懐ふ)(5)、ルイ・ミセルの記念像(16)、「ヂァンダーク」略伝(24)、米国のプリマドンナ、ノルヂカ女史(35)、北米のプリマドンナ、イームス女史(36)など。

6. 婦人の教育について

 女子は学術に適せざる乎(15)、義務教育の延長(19)、英国女学生の光栄ある成功(26)、独逸に於る女子高等学校(29)、独逸婦人の勝利(30)、西洋文学と婦人の功績―帆雨棲主人(35)など。

7. 婦人の自由について

 文豪カーラエルと婦人自由問題(9)、土耳古(トルコ)婦人の自由(30)など。

 ここに見るように、婦人の労働、婦人の運動、婦人参政権問題、婦人と社会主義、それに婦人と教育が主なテーマであった。婦人解放は社会主義との関連でのみ実現されるという意識が強かったことを思わせる。また、婦人運動の組織化、婦人同盟の諸問題にも強い関心を寄せていた。すでに婦人売買や女中問題などにも関心を向けていた。そして、当時もっとも婦人解放の進んでいたイギリスを中心としつつ、フランス、ドイツ、オランダ、オーストリア、ノルウェー、フィンランド、ロシア、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国、あるいは、トルコ、インド、香港などに視野を広げ、滿洲やシベリアにおける婦人の状況にも関心を向けていた。『世界婦人』はこのような世界的な視野の元で、婦人の解放を考えてその2年半の生を終えたのであった。たしかに、婦人の自覚は世界的視野でのそれが求められ、「世界的婦人」の出ることが期待されていたことが伺える。そして婦人解放のために世界中で行われていることをすべて吸収して日本での婦人解放に生かそうという意気込みが見てとれる。世界史における重要な「傾向」が日本に「土着化」されようとしていた瞬間を見る事が出来る。この雑誌を中心に、当時の日本を含む世界における「婦人解放」の運動や思想の全体像がもっともっと研究されるといいのではないかと思った次第である。

(「世界史の眼」No.21)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

文献紹介 林忠行『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)
木村英明

 多くの人が、日本史や世界史の教科書ないし参考書で、「チェコスロヴァキア軍団」(以下、「軍団」)の名前は目にしたことがあるだろう。例えば日本のシベリア出兵の大義名分になった存在として、あるいはまたボリシェビキによる拙速なロシア皇帝ニコライ2世一家殺害の誘引の一つとして。しかしこのチェコスロヴァキア建国以前に姿を現した「軍団」が、なんのためにどのような経緯で組織され、第一次世界大戦とロシア革命期の混沌の渦中でいかなる活動を繰り広げ、その結果地域と世界の歴史に何をもたらしたのか、その詳細を叙述し、考察した日本語書籍はほぼ見当たらない。おそらく、これまでにもっとも多くの情報を提供してくれていたのは、同著者による『中欧の分裂と統合−マサリクとチェコスロヴァキア建国』(1993、中公新書)である。この前著では、初代大統領に就くことになるマサリクという個人を軸に、彼が世界をへめぐり、各国の政治状況、国際情勢と切り結びながら建国へと至る道のりが描かれていた。今回の著書は、独立国家創設を図るマサリクの切り札となる、しかし規模的には決して戦争の帰趨を決するような大兵団ではなかった「軍団」の活動を通して、チェコスロヴァキアという国が中欧に現実の姿を持つようになる過程、ならびに当時の入り組んだ世界史の形を巧みに浮き彫りにしていく。

 本書はプロローグとエピローグ、序章と終章に挟まれた全5章から構成される。文芸書を想起させるような、研究書としては独特な構成といえるかもしれない。まずプロローグで、著者はプラハのヴィートコフ丘にある無名戦士の墓を紹介している。そこに15世紀前半、フス派を率いて神聖ローマ皇帝軍と戦ったヤン・ジシュカの巨大な像がたち、その足もとに軍団兵士の遺骨も収められているからだ。ジシュカが19世紀以降のチェコナショナリズムにより神話化されたと書く著者は、両大戦間期において英雄視されていた「軍団」将兵の遺骨が1989年の共産党体制崩壊後になってそこに埋葬された経緯を叙している。社会主義期の歴史観を槍玉に挙げているのではなく、おそらく著書の冒頭部で単線的な語り=神話化に対する注意が喚起されているのだと思われる。著者は本書中で自らの叙述を何度か「物語」と呼ぶ。神々の趨勢を語る神話は批判を許さない非歴史的なものだろうが、人びとの来し方の物語は複線的であり、歴史であるだろう。エピローグは「最後に、軍団にかかわった人々のその後をたどって、この物語を終えることにしよう」と始められている。プロローグとエピローグが共鳴して、「物語」に隙のない枠を形作っていることが感じ取れる構成である。

 各章の内容については著者自らが序章で記しているのだが、以下に簡単に紹介しておく。

 序章では「軍団」の物語を始めるにあたって、ハプスブルク君主国(以下、「君主国」)中のボヘミアと上部ハンガリーの歴史空間、そこに住まう人びとの多言語性やナショナリズムの萌芽が語られる。また、「世界革命」と「世界戦争」の時代を歩んだ「軍団」を主人公に据え、「君主国」史と対ソ干渉戦争史を接合する形で整理するという本書の方向性が明示されている。

 第1章は大戦勃発を受けて、ロシア帝国領内のチェコ系・スロヴァキア系移民が、「軍団」のもととなる「チェコ・ドルジナ」(ドルジナはチェコ語で「従士団」の意)と名付けられた親ロシア義勇軍をキエフで結成したこと、またその軍旗の紋章の配列から、スロヴァキアがボヘミア諸邦の一つのように扱われていたことに触れている。この義勇軍は、近代ナショナリズムに基盤を置くチェコ系の体操運動「ソコル」の影響を受けていた。そして1916年に義勇軍は「チェコスロヴァキア狙撃連隊」と、初めてチェコスロヴァキアを冠する軍へ改称されたという。

 第2章は、大戦初期の「君主国」内に見るチェコ系政党と政治家の国内自治要求、それに対するロシアと結んだスラヴ帝国構想(ネオスラヴ主義)の議論を追跡する。前者の議論はボヘミア諸邦の「歴史的権利」に依拠していたため、スロヴァキアを含んでいなかった。並行して、パリとロンドンを軸足に独立運動を開始したマサリクの思惑が解説される。ロシアの帝政に批判的だったマサリクであるが、独立国家の領域についてはネオスラヴ主義者と同様に、スロヴァキアを含むものであったことが明らかにされる。そして1915年11月、「チェコ人在外委員会」の宣言で公式に「チェコスロヴァキア国家」の表現が使われたという。翌1916年2月頃には「チェコスロヴァキア国民評議会」(以下、「評議会」)が設立され、スロヴァキア人のシュチェファーニクが副代表として加わり、議長のマサリクを支えることになる。「評議会」は海外政府から認知を受けるようになるが、英仏ら協商国はまだ独立国家創設を支持しているわけではなかった。さらに、親ロシアの移民組織が独自に国民評議会設立を図るなど、この「評議会」内部にも路線闘争が起きた。アメリカ在住のチェコ系、スロヴァキア系それぞれの移民組織が結んだ「クリーヴランド協定」(1915)と「ピッツバーグ協定」(1918)にも触れられている(そこにはチェコとスロヴァキアの連邦化が約されていたため、独立後、両者の関係に火種を残すことになってしまった)。

 第3章は、1917年の二つのロシア革命に対応する「評議会」と「軍団」の動きが中心となる。2月革命は、ロシアにおいても「評議会」がマサリクの指導下にまとまることを促す契機となった。いっぽうでまたケレンスキーの臨時政府は、他国の地で祖国の軍と戦い、独立国家創設を掲げるチェコスロヴァキア義勇軍を快く思っていなかったが、「軍団」は独・墺軍に対するロシア臨時政府の7月攻勢下、ズボロフの戦いで名をあげる。その戦功の大小はさておき、両軍ともにチェコ系兵士多数であったことから、著者はこれを異国の地における内戦と呼び、革命戦争を象徴する戦いとしてのちに神話化されたと語る。また、この戦いにおける独・墺軍チェコ兵士の投降も愛国的行為という神話に昇華されたという。マサリクはこの機にロシア政府にたいし、「軍団」が「中央諸国と戦闘状態にある革命軍」であること、同軍が軍事的にロシア最高司令部に従うものの、政治外交面で「評議会」が責任を負うものと認めさせた。その後の10月革命とロシアの戦線離脱は、「軍団」にとって独・墺軍との戦場消滅という結果をもたらした。内戦に突入していくロシア国内で、「軍団」内部では革命軍への参加、あるいは反ボリシェビキ軍への合同と意見が錯綜する。マサリクの決断は、「軍団」の中立維持とフランスへの移送であった。ソヴィエト政権との間に「ペンザ協定」が結ばれ、武器携行の制限を受け、民間人としての移動が認められた。後続の章で、この協定への反発と「軍団」の反乱が語られることになる。

 第4章は「軍団」のシベリア横断とその反乱を取り上げる。ウラジオストクへ向けて東進を開始した「軍団」であったが、赤軍への編入を望むトロツキーの思惑、ドイツ人捕虜の帰還にとってその存在を障害とみなすドイツ政府の介入、さらにチェコ系、スロヴァキア系共産主義者による妨害行為などが絡み合い、遅々とした歩みを余儀なくされる。そうしたなかで、1918年5月には「軍団」とソヴィエト軍の衝突がチェリャビンスクで起き、「軍団」はチェリャビンスクを占拠してしまう。直後に開かれた代表者会議で、「軍団」はペンザ協定に背き、武装解除を拒否することを決め、反ソヴィエト反乱へと突き進んでいく。軍は長大なシベリア鉄道沿いに「チェリャビンスク・グループ」、「ペンザ・グループ」、「ノヴォニコラエフスク・グループ」の3つの部隊に別れて、それぞれを若い士官が指揮することになった(3人の若い士官はたちまちに少将へと昇進する)。各軍とも実戦経験に乏しい急拵えのソヴィエト軍を圧して進軍し、また反ソヴィエト勢力との協力関係も築き上げる。マサリクによる内戦への不介入、中立維持の指示は守られなかったことになる。

 第5章ではロシアの戦線離脱を受けた連合国の東部戦線に対する対応、それに絡んで「評議会」と「軍団」の扱いが移り変わっていく軌跡が綿密にたどられる。まずイギリスは、「軍団」がロシアに留まり東部戦線の再構築に投入されるべきだと考えていた。他方、フランスは西部戦線でドイツの攻勢に備えるために、「軍団」のフランス移送にこだわった。独立国家成立後に外務大臣を務める「評議会」事務局長のベネシュは、「軍団」を手札に各国の利害の狭間で独立国家の可能性をかけた外交を展開することになる。4月には、ウラル以西の「軍団」をアルハンゲリスクないしムルマンスクに移動させるイギリス案にベネシュは同意したとされるが、翌5月に「軍団」の反乱が始まってしまう。西部戦線で苦戦する英仏軍の要請を受け、日本やアメリカは「軍団」救援を目的にロシアへの軍事干渉を決定し、著者の言によれば「軍団」は「連合国の前衛」となった。このような状況の変化を受けて、連合国の「君主国」にたいする政策も転換していく。チェコスロヴァキア独立には明確な支持の声が上がらなかったものの、英仏は相次いで「評議会」を国家の代表として承認する。また国際情勢の変化を映して国内でも、以前の「チェコ国民委員会」が7月に、スロヴァキア人メンバーは不在ながら「チェコスロヴァキア国民委員会」と改組され、チェコスロヴァキアを名乗る国家の現実味が増していく。この時期、チェコスロヴァキア人という言葉も新聞等の見出しにふつうに用いられるようになっていたという。国内組織は「君主国」内への残留にこだわる派もあったようだが、終章で述べられるように、ボヘミア諸邦で19世紀後半から育まれた政党政治は、異なる意見を調整し妥結点を見出すほどに成熟していた。1918年10月28日、チェコスロヴァキアは独立を宣言し、イタリアで戦っていた義勇軍の力を得て、上部ハンガリーのスロヴァキア地域も構想通り新国家の領土に組み込まれた。

 終章では、ロシアの「軍団」が内戦下で物資確保のために行った工場運営などの経済活動が紹介されていて興味ぶかい。国家独立後に「在露チェコスロヴァキア軍」となった「軍団」は、新たな祖国へ帰還するために、赤軍が攻勢を強めるシベリアを逆方向のウラジオストクへ向けて進み続けた。1919年10月に始まった正式撤退は、オムスクの反ボリシェビキ政権の崩壊もあって困難な道のりとなる。1920年4月には、「軍団」と日本軍の間で、当初の発砲がどちらからだったか曖昧なままに銃撃戦となった、いわゆるハイラル事件も起きた。最後の部隊がようやくウラジオストクを出港したのは、同年9月に入ってのことだった。「軍団」を舞台回しに語られた建国の物語の最後に、著者はその後の国家をみまうことになった、ドイツ系住民の追放問題や1992年末日のチェコとスロヴァキアの分離についても触れている。ナショナリズムを規定するのは国内要因以上に、それを取り巻く国際環境であるという指摘は、本書を通読した後で確かな説得力を持って迫る。

 国家成立後、両戦間期から第二次世界大戦を経て、戦後の社会主義期を各自各様に過ごした本書登場人物の生涯が簡潔に示されたエピローグは、胸に染みる。

 拙稿を閉じるにあたり、私事になり恐縮なのだが、一つのエピソードを紹介することを許していただきたい。30年近くもまえ、著者とわたしはスロヴァキア南西部のとあるお宅にお邪魔したことがあった。著者はチェコ語で、当時本国でもよく知られていなかった「軍団」の活動と建国の歴史を熱心に語られた。その家の、日本式に言えば小学校上級生程度だった少年は、この折の経験に忘れ難い印象を受け、大学で国際関係論を学び、現在は国際関係に特化されたNGOで活躍している。著者のグローバルな視野は、現実においてもグローバルに作用したのである。

(「世界史の眼」No.21)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

ラムザイヤー論文の<腹話術>と北米・知の生産のポリティクス[i]
米山リサ

 ハーヴァード大学三菱日本法学教授J・マーク・ラムザイヤーの論文 「太平洋戦争期の性行為契約(”Contracting for Sex in the Pacific War”)」は、2020年12月にオンライン掲載された後、多方面からの広く厳しい批判を招くことになった。[ii] 当論文への批判は国境や言語の壁だけでなく、ディシプリンやアカデミズムの内外を隔てる敷居を超え、多くの人々を巻き込み、その抗議の内容は多様性を極めた。一本の論文を契機にこれほど多くのさまざまな批判が結集した背景には何があるのか。①北米における日本に関する知の生産、②歴史認識と社会のあり方をめぐるトランスナショナルな攻防、③北米の政治学に代表される社会科学に共通する知的態度―以上3点に絞って述べてみたい。

 「太平洋戦争期の性行為契約」が問題視されていることを知ったのは、同僚の朝鮮史研究者が署名運動について知らせてくれたのが最初だった。論文を掲載した『International Review of Law and Economics』誌への抗議文には、2021年2月の時点で経済学者エコノミスト、法学者、歴史学者、ゲーム理論家、アジア研究者、学術誌編集者など3000名を超える賛同署名が寄せられた。日本内外の反コリアン差別者、自己憐憫的ナショナリスト、歴史歪曲者たちが当論文に賛辞を送り、著者を擁護する一方で、その後も多分野、多方面からの抗議がブログやツイッター上で相次いだ。

 批判と糾弾がここまで広範で多元的になった理由のひとつは、 当論文の日本軍慰安所制度についての歴史記述が問題視される過程で、実は同著者が他論文でも誤った記述や差別的な見解を繰り返していた事実が明るみに曝されたことにある。看過できない誤謬を含んだ記述や偏った知識などを引用し、一義的にゲーム理論に応用して論文を発表してきたラムザイヤーの過去の業績の詳細が、幾人もの研究者によって明らかにされた。[iii] 

 抗議の矛先は多岐に及ぶが、共通して問題視されているのは、著者の「マイノリティ」観である。ラムザイヤーの一連の論文は、被差別部落、在日コリアン、沖縄の基地問題、福島の原発誘致行政などを日本の「マイノリティ」あるいは「下層階級」の事例として提示し、当該コミュニティを取り巻く経済的困難、階級間移動の欠如、機会の不均等、危険や環境汚染や健康被害などの負担の不公平配分などについて、その原因を政治的主流派や社会構造に求めるのではなく、被害者や「マイノリティ」の側の経済合理的判断にあるとする。地方交付金や行政による福祉や助成、閉ざされた民族コミュニティ内の階層化を利用した暴力的搾取など、被害者や「マイノリティ」であることで生じる(とラムザイヤーが信じる)利権の獲得・保全のために、不公正を訴える人々が自分の属する集団に対する差別や周縁化を自ら招いているとする被害者自己責任論である。

 北米における日本に関する知の生産という本稿の関心にとってとりわけ興味深いのは、米国には激しい「政治対立(polarization)」があるため、人種や民族のポリティクスについての「率直な議論(candid discussion)」は極めて難しい状況にあるが、日本の社会的差別や「マイノリティ」の事例を用いるなら思い通りの議論が許されるだろう、とラムザイヤーが述べたり示唆したりなどしている点だ。[iv] 

 ラムザイヤーが「政治対立」と呼ぶのは、90年代以降、既存の知と社会の変革を求める動きのさらなる広がりに恐れをなし、これを封じ込めようとする苛烈な反動が巻き起こした「文化戦争(culture wars)」のことである。「文化戦争」とはつまるところ、家父長的で異性愛規範主義的ヘテロノーマティヴなアメリカ白人至上社会の構造―19世紀的文明の規範であり、今日まで継続する植民地的支配と人種化された資本主義近代のあり方―をめぐる攻防に他ならない。[v] ラムザイヤーが人種や民族について自由に議論をさせてもらえないと苛立ちを募らせる背景には、知と社会のあり方への異議申し立てを封じ込められない北米の現状がある。要するにラムザイヤーによる日本の法経済論とは、変容するアメリカに身を置く著者自身のフラストレーションと敵意を日本を語ることを通じて表明する、いわばトランスナショナルな<腹話術>なのである。[vi]

 たとえばラムザイヤーの被害者自己責任論には、カリフォルニア州でとくに激しく交わされた積極的(差別)是正措置(affirmative action)の撤廃を求める議論と多くの共通点がある。積極的是正措置とは、大学やアカデミズムに限らず、北米の公共空間一般の構成員の多様化を推進する立場から、人種やジェンダーなどによって特定の人々が歴史的に排除されたり従属化されてきた構造を是正する行政などによる積極的介入を指す。これに対し、積極的是正措置が「逆差別」であるとか、差別を助長するといった理由で、共和党を主とする保守や極右その他の白人優位の現状や個人主義を肯定する立場からの撤廃要求が起こり、バックラッシュは凄まじさを増していった。2006年のトランプ政権成立を可能にした要因、あるいはその対極にあるブラック・ライヴズ・マター(BLM)やアイドル・ノー・モア(Idle No More)に代表される先住民による北米の脱植民地化の訴えの広がりの背景に、この争いがあることは想像に難くないだろう。

 ラムザイヤーはさらに、政治対立によって封じられた議論の例として有名な「モイニハン報告書」(1965年)を挙げる。[vii] 当時民主党政権下の労働省次官補だったパトリック・ダニエル・モイニハンによって作成されたこの有名な報告書は、アフリカ系アメリカ人の貧困の原因がシングル・マザーを長とする黒人家庭にあるとし、家父長的な家庭の建設が貧困の解消に欠かせないとする政策を提言した。報告書は、奴隷制や反黒人差別や白人至上主義などの歴史的諸要因を無視し、被害者だけに責任を転嫁し非難していると批判された。この報告書はアフリカ系アメリカ人のなかでも一人親家庭やレズビアニズムを標的としたことから、レイシズムとナショナリズムが異性愛規範的な家族主義と切り離せないことを示した好例ともみなされている。そのため、今日多くの研究分野に大きな変化を促しているクウィア・オヴ・カラー批評(queer of color critique)の契機ともなった[viii]。他方、ラムザイヤーのように、モイニハンはタブー視されていた問題を指摘したために政治の犠牲となったとして、同情を寄せる保守およびリベラルな論客は後を絶たない。

 被害者への責任転嫁、「マイノリティ」化された集団に対する執拗な差別と偏見、多様性の拒絶、さらには歴史による構造的な周縁化こそが社会的少数者を生む主要因だと捉える歴史認識を否定し、社会的不公平の是正や歴史的損傷のリドレスのための施策を愚弄するシニカルな態度――ラムザイヤーの日本版被害者責任論はこのように多くの点で、北米における積極的差別是正措置の撤廃要求、ひいては「文化戦争」を挑発したバックラッシュと強力につながっている。

 しかし実のところ、ラムザイヤー流の<腹話術>は、北米とりわけ米国における日本に関する知の生産において珍しいわけではない。文化的他者としての日本を肯定的に描くことを通じてアメリカの社会規範を表明し正当化するというパターンは、今日も映画やその他メディアにひろく表れるだけでなく、北米における日本に関する知の政治的無意識といってもよい近代化論もしくは近代化論の系譜上にある日本研究に見出すことができる。

 ルース・ベネディクトに代表される戦時期の国民文化研究から冷戦期にかけて北米のアジア研究を強力に形作った近代化論は、日本の近代が欧米のそれに比べて遅れているか、あるいは伝統や封建残滓によって歪曲されているという前提に立ち、これを例証するというトートロジカルな地域研究の手法を再生産してきた。[ix] 意識されるかされないかに関わりなく、この知のフレームが今も強固でありつづける理由は、日本を対照物とすることで、アジア太平洋戦争後の北米とりわけ米国の道徳的優位を確認し、正当化することを可能にする地理歴史認識を提供してきたためであるのは言うまでもない。しかし近代化論は同時に、日本をアメリカ型近代化の(未熟な)模範国として賞賛する。すなわち資本主義を支える勤勉、通俗道徳、家族主義、国家への忠誠など、善きアメリカの精神的価値や規範が形は多少違っていても日本にも見いだせる、とする言説であり、それは戦後占領によるリハビリを遂げた日本をアメリカにとって望ましい冷戦の同盟国として位置づける効果ももたらしてきた。そこに成立しているのは、米国的資本主義近代の(相当な)成功例として日本を褒め称えることで米国の規範的価値や優位を肯定する、というトランスパシフィックな相互慰撫の関係である。[x] 日本の保守政党は、この言説が承認する従属的だが確かな位置をありがたく押し頂くことで、今日までこの構造を支え続けてきた。

 歴史認識の観点でいうなら、この日米の相互慰撫の関係は、日米がともに近代植民地帝国の軍事侵略者として犯してきた暴力の歴史や記憶を相互に隠し合い、歴史的損傷のリドレスの可能性をそれぞれ抑圧してしまうという深刻な結果を招いてきた。私はかつてこれを「忘却の共犯関係」と呼んだことがある。[xi] 日本軍「慰安婦」問題をめぐるより最近の例では、日韓の外相が「最終的かつ不可逆的」な解決をめざしたとされる2015年の日韓「合意」に対し、アメリカが早々に歓迎の意を表明したことにこの関係が表れていた。アメリカが「合意」を後押しするのは、中国との新たな冷戦を戦うためには同盟国である韓国と日本との良好な関係が不可欠であるからに他ならない。[xii]

 しかしラムザイヤー論文をめぐって極めて多くの、広く多様な抗議の声が、国境を越え、しかも短期間に集結したという事実は、日米の共犯関係が維持してきた知や社会のあり方が、各所ですでに大きく揺らいでいることを示している。また、日本軍「慰安婦」問題が、日本による国家責任の否認に起因する歴史認識の問題であると同時に、性に関する規範、女性蔑視、ブルジョワ階級文化主義、軍事主義、レイシズム、ナショナリズム、冷戦という(新)植民地主義などの諸関係から成るアジア太平洋地域の現況を輻輳的に問うことなしには済まされない問題であることを明らかにしているともいえるだろう。冷戦が生み出したトランスパシフィックな親密さは、日米の「忘却の共犯関係」を支える一方で、国境を越えてこれに対抗する多様な動きを結びつけるトランスパシフィックな関係も同時に生み出してきた。ラムザイヤーの不満と苛立ちは、差別的で植民地的な歴史認識を維持することが困難になってきていることの兆候だといえるかもしれない。

 さまざまに異なる場や位置から輻輳的に発せられ、しかし奥底深く連携した批判の結集が明らかにするのは、もはや日米の共犯関係によって歴史責任を回避し続けることはできないという新たな局面であり、レイシズムや家父長的異性愛規範主義の歴史が堆積させてきた序列化や、排除の構造に対する多様な異議申し立てを封じ込めることはすでに容易ではなくなっている、という希望である。そこに見出せるのは、資本主義近代とあらゆる植民地的編成からの撤退、すなわち来るべき真の変革かもしれない。

***

 「太平洋戦争期の性行為契約」の学術論文としての杜撰さを現時点でおそらく最も徹底的に洗い出しているのは、多くの日本語の著作でも知られる歴史学者テッサ・モーリス-スズキではないだろうか。日本軍「慰安婦」は性を交換するために民間業者と自由な「契約」を結んだ経済合理的主体であった、という著者の議論を裏付ける資料や「契約」の証拠さえ提示されていないという根本的な欠陥は言うまでもなく、数か所に及ぶ引用文献の乱用や偏り、引用頁の誤記載や割愛など、ラムザイヤー論文が学術論文としての体をなしていないことを根気よく、丁寧に解き明かしている。この杜撰な論文を調査や研究の誠実性(integrity)とは何かを議論し学習する好機ととらえ、研究者が目指すべき正当な学術論文の基準や原則プリンシプルが何であり、ラムザイヤー論文がそれらをいかに満たせていないかをQ&A方式で伝えようとするモーリス-スズキのセンスの良さも際立っている。研究者が教員でもあることの意味を考えたい人たちにぜひ読んでもらいたい。[xiii]

 それにしてもなぜ、学術論文の基準を満たしていないにもかかわらず、あるいは誤った記述や研究倫理に反する論述を繰り返してきたにも関わらず、ラムザイヤーの論文はこれまで問題なく掲載を許可されたのか。最後にこの点について簡単に触れておこう。論文の内容自体にはさほど関心のない人々も含め、当然多くの研究者がこの疑問を抱いており、冒頭で触れたエコノミストによる抗議文など、掲載誌の査読の経緯や編集者の意思決定の責任を問う声は少なくなかった。

 故政治学者チャルマーズ・ジョンソン他によるラムザイヤーの共著書『日本の政治市場』(1993年)の書評は、今ようやく明るみに曝された多くの問題が論文の査読者によって見過ごされてきた背景に、普遍主義的な社会科学の知的態度の怠慢と傲慢があることを示唆している。[xiv] 

 一般に米国の政治学や経済学は、北米以外の地域に関する研究を特殊な事例に限られる分析やデータとみなし、普遍的に応用される(と信じられている)ディシプリンに固有な理論を説く論述に比べ劣位に置く傾向がある。これに対しジョンソンたちは、ゲーム理論の大枠である「合理的選択理論(rational choice theory)」を用いたラムザイヤーの共著書を評し、普遍性を標榜する社会科学の最も劣悪な研究例だと厳しく批判した。書評によれば、合理的選択理論はアメリカの経済的個人を基本とし、その個人主義的合理性が(実は文化的に特殊であるにもかかわらず)通文化的に普遍であるとみなす前提を問わない。その結果、地域の歴史や文化を無視し、困難な言語の習得や綿密なフィールド調査の必要性を認めない、あるいはデータの集積は現地アシスタントに頼れば十分だという研究方法を正当化することになる。この手法では深く掘り下げた知識は生まれないのは当然なのだが、こういった研究ではたとえ解明できない矛盾点が生じたとしても、分析モデルの整合性を優先することが重視されてしまう。ラムザイヤーの共著書にいたっては、「理論を破綻させないためには、日本でまだ一度も耳にしたことのない実践慣行を捏造せざるをえない」例であると結論づけ、もっと酷い場合には「事実の改ざんや偏向した言い換え」が生じることさえある、とジョンソンたちは告発している。

 ラムザイヤーの論文の掲載を許してきた書誌の編集者、査読者、専門的読者たちの間で、歴史や文化に関する深い考察を軽視し、資料や証拠の吟味をないがしろにする態度が共有されており、そのために事実に反する記述や論考の杜撰さに気づくことができなかったとは言えないだろうか。

 私がまだ若かった頃にカリフォルニア大学の同僚として知り合ったジョンソンは、知的好奇心あふれる叡智の人であり、CIA白書の作成など愛国者としての仕事を続ける一方で、「普遍的」モデルを優位に置く社会科学が知的探求の怠慢に陥っていることを憂慮していた。ジョンソンの「文化」や「伝統」の捉え方は非歴史的であり、古典的オリエンタリズムの文化決定論やアジア特殊論にも通じる限界が多々あることは否めない。それでも今回、ラムザイヤー論文について考えるうえであらためてジョンソンの論考に触れ、普遍主義の傲慢ともいうべき知的態度の行き着く先を鋭く見抜いていた彼の慧眼に、あらためて新鮮な感銘を受けたことを記しておく。

2021年8月13日 トロントにて。


[i] 本稿は、Fight for Justice緊急オンラインセミナー「もう聞き飽きた!『慰安婦は性奴隷ではない』説」(2021年3月14日)でのコメントと、岩波書店の渕上晧一朗氏が雑誌『世界』のために企画された板垣竜太氏との対談(2021年6月17日)での発言の一部をもとにしている。

[ii] J. Mark Ramseyer, “Contracting for Sex in the Pacific War.” International Review of Law and Economics 65 (2021) 105971.

[iii] 当論文をはじめ、ラムザイヤー氏が過去に発表した論文、抗議声明、署名活動、論考などは以下のサイトで読むことができる。Resources on “Contracting for Sex in the Pacific War” in the International Review of Law and Economics (chwe.net)

[iv] J. Mark. Ramseyer, “A Monitoring Theory of the Underclass: With Examples from Outcastes, Koreans and Okinawans in Japan” (January 2020). 引用は2頁。

[v] 「文化戦争」については、拙稿「多文化主義論」綾部恒夫編『文化人類学20の理論』(弘文堂、2006年)を参照。小山エミは以下の論考でラムザイヤーなど日本の保守に歓迎されているアメリカ人学者の白人至上主義について明言している。「「ラムザイヤー論文騒動」の背景にある白人至上主義」『週刊金曜日』(2021年4月22日)。http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2021/04/22/news-87/2/

[vi] 「トランスナショナルな腹話術」は以下より。Lisa Yoneyama, Cold War Ruins: Transpacific Critique of American Justices and Japanese War Crimes. (Duke University Press, 2016). 

[vii]  “On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japan,” Review of Law and Economics 16, no. 2 (2019); “Social Capital and the Problem of Opportunistic Leadership: The Example of Koreans in Japan.” European Journal of Law & Economics (2021) など。

[viii] 「モイニハン報告書」とクウィア・オヴ・カラー批評の関係については、Roderick A. Ferguson, Aberrations in Black: Toward a Queer of Color Critique. Minneapolis: University of Minnesota Press, 2004.

[ix]  ルース・ベネディクトおよび近代化論と日本研究については、拙著『暴力・戦争・リドレス―多文化主義のポリティクス』(岩波書店、2003年)など。

[x] 日米の相互慰撫のより最近の表象例は、拙稿「日本を語る位相――アメリカ研究とアジア研究のポストナショナル」『日本学報』29(2010年3月)8頁。

[xi] Lisa Yoneyama, “Complicit Amnesia: The Smithsonian ‘Atom Bomb Exhibit’ Controversy in Japan and the United States. Paper presented at American Anthropological Association Annual Meetings, Washington, D.C. (November 1995). 「越境する戦争の記憶―スミソニアン原爆展論争を読む」『世界』614号(1995年10月)。前掲書『暴力・戦争・リドレス』所収。

[xii] 日韓「合意」を多角的、世界史的に批判した論評は、中野敏男他編『「慰安婦」問題と未来への責任―日韓「合意」に抗して』(大月書店、2017年)。

[xiii] Tessa Morris-Suzuki, “The ‘Comfort Women’ Issue, Freedom of Speech, and Academic Integrity: A Study Aid.” The Asia-Pacific Journal vol.19:5, no.12 (March 2021).

[xiv] Chalmers Johnson and E.B. Keehn, “A Disaster in the Making: Rational Choice and Asian Studies,” The National Interest, Summer 1994, No.36 (Summer 1994): 14-22. ジョンソン他が酷評したラムザイヤーの共著書は、Mark Ramseyer and FrancesMcCall Rosenbluth, Japan’s Political Marketplace (Cambridge: Harvard University Press, 1993).

(「世界史の眼」No.20)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評 リチャード・J.エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』木畑洋一監訳、原田真見、渡辺愛子、芝崎祐典、浜井祐三子、古泉達矢訳、岩波書店、二〇二一年七月刊行
平田雅博

 本訳書のあちこちにある形容句でいう「世界中で最も有名で広く読まれる」歴史家の仕事を私ももっぱら翻訳を通じて読んできた。中でも『素朴な反逆者たち』『匪賊の社会史』『創られた伝統』は何といっても読んで楽しかったし、世界史関連の『革命の時代』『資本の時代』『帝国の時代』に『産業と帝国』を加えた「長い一九世紀史」の四部作は、書評したり引用したり授業のネタにもしたりしてきた。前から三冊に加えて「短い二〇世紀」を扱った『極端な時代』を含めて「近現代史の四部作」との見方もある。本書にはこれらの著作の出版に至る過程や出版後に寄せられた書評群も紹介されており、ほぼすべて未知だったために興味をそそられた。

 とりわけ上記の五点への書評でしばしば繰り返された批判は、「ポストコロニアル」のサイードに代表的に見られるような、ホブズボームの「ヨーロッパ中心主義」的な傾向を指摘するものである(下巻、二二七頁)。ただ「ヨーロッパ中心主義」という意味を視野がヨーロッパだけに限られ非ヨーロッパはまったく触れていないとするのであれば、間違いである。博士論文の計画時に実地調査した北アフリカ(ただしアフリカには南アフリカを除くサハラ以南のブラック・アフリカに関心がなかったのが「盲点」だった)をはじめ、とりわけラテンアメリカ全般には圧倒的な関心を注ぎ(お返しかどうかブラジルで彼の本は売れた)、インド、日本などのアジアにも射程に入れていたからである。「ヨーロッパ中心主義」を非ヨーロッパを視野に入れつつ、起点や基盤はあくまでヨーロッパにおいた「地球規模の歴史」を構想し叙述した、とか「焦点はヨーロッパ」で「その文脈は世界規模」(ハリソンの評価)とかとする方(下巻、一四二、二〇〇頁など)が正しいと言えよう。

 ところが、本書がいうように二一世紀の初頭まで、ホブズボームによる「地球規模の歴史」での「ヨーロッパ」の歴史記述を真似する人は出なかったものの(下巻、七四頁)、真似するどころかそれを越えようとする「グローバル・ヒストリー」が出現した。その一つは、ベイリ『近代世界の誕生』(C・A・ベイリ著『近代世界の誕生 グローバルな連関と比較一七八〇-一九一四』、上・下、平田雅博・吉田正広・細川道久訳、名古屋大学出版会、二〇一八年。本訳書に言及はないがホブズボームは本書の仏訳版に序文を寄せている)である。これもホブズボームへの辛辣な批判者の一人として本書に登場するフェミニスト史家のキャサリン・ホールによって、このベイリ著は彼の「一九世紀史の偉大な四部作」を「退場させた」と評価された。

 ベイリの専門はインド史だが、読書の幅はホールすら「妬ましいほど」と表現したほど広く、欧米史はもちろん、中国史、日本史、イラン史、オスマン帝国史に及んだ。これらをもとにヨーロッパ中心主義を克服したどころか世界のどこも中心としない「多中心的」な世界史を試みた。同じくヨーロッパ中心主義と批判されることがあり本書にも登場するウォーラーステインもヨーロッパ以外をすべて「周辺」とか「半周辺」として「概念上のごみ箱に放り込む」論者として斥けている。はたしてベイリがホブズボームを「退場させた」かどうかは綿密な検証が必要だが、たとえば、先に触れたサイードがヨーロッパ中心主義との批判内容である、非ヨーロッパの知識人の軽視ないし無視、および非抑圧者、危機に瀕したコミュニティ、被差別者、宗教に基づいた抵抗運動への視点の欠如といったものは、ポストコロニアルに「寛容」の姿勢を取ったベイリがこれらに非ヨーロッパの「歴史なき人びと」「国家なき社会に住む人びと」も加えて、彼の世界史に参加させたと評価されている(ベイリ関係の書誌データは以下を参照されたい。平田雅博『ブリテン帝国史のいま グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで』、晃洋書房、二〇二一年、一一九~一三〇頁)。

 歴史の叙述と国家形成を結合させて誕生したのが「近代歴史学」で、個別のネーションの枠組みに閉じ込めずにヨーロッパ全体を基準に議論するトランスナショナルなアプローチを取ったのが彼の世界史だとしたら(下巻、七四頁)、非ヨーロッパを取り込む「真のグローバル・ヒストリー」の出現がそれに取って代わったために、彼は近代歴史学とグローバル・ヒストリーの中間点に位置するというのが私の見方である。

 ポストコロニアル絡みのもう一つの今日的な観点としての「ポストモダン」から本書を読むとどうか。本書は「社会民主主義者(上巻、vii頁)」エヴァンズが書いた「終生の共産党員」ホブズボームの評伝である。距離がおかれた分か、むしろ労働党への影響力など「現実的な」政治活動をよく捉えている面があり、仮に同じ共産党員(まず思いつかないが)が書けば別物となっていただろう。ところが、文学理論家の冨山太佳夫によると、エヴァンズはポストモダンに対して「恫喝的な排除の姿勢を取る」歴史家であり、ホブズボームは「ポストモダンの弁護路線に頼るのは有罪の者の味方をする弁護士たち」との「悲しむべき暴言」を吐いた歴史家である。かくして本書はポストモダンを「恫喝」する者による、これに「暴言」を吐いた歴史家の評伝となる(富山太佳夫著『英文学への挑戦』岩波書店、二〇〇八年、三七一頁。ホブズボーム著『歴史論』原剛訳、ミネルヴァ書房、二〇〇一年、序文、エヴァンズ著『歴史学の擁護 ポストモダニズムとの対話』今関恒夫、林以知郎監訳、晃洋書房)。

 著者はホブズボームが詩や小説を多読して「文学を通して歴史に取り組むようになった」としながら、彼の意図を汲むかのようにポストモダンへの否定的な態度を本書でも拾っている(下巻、二六二、二九一、三一五頁など)。一方、冨山によると、従来の実証的な歴史学と文学が「調和的な交差」する場が「ポストモダン的な変貌」を遂げた「評伝」である。エヴァンズの当評伝は冨山のいう「評伝」なのか。膨大な未刊行資料を駆使した実証はおそらく当分は余人の追随を許さぬほど見事である。一方、評伝に書かれる人の行動にはすべて実証的な裏付けがあるとは限らず、冨山のいう「資料によっては論証できない動機や目的」を説明する必要もある。

 たとえば、多くの頁が割かれている女性関係に関して、この「ひどく醜い男」に惚れる女性があれほどいたのはなぜだったかの部分(下巻、六六頁)は、さしもの著者でもエビデンスを提示しないままの、推し量りかねる女性の恋心の「説明」である。その他「女性が大好きな」本人の各地の売春宿ヘの出入りや既婚女性との「情事」が手紙や日記で「実証」されているが、最初の妻の浮気から自殺も考え、自宅で「堕胎」の手伝いをしたことヘの悔恨、これまた「既婚」の成人学生との間に「非嫡出子」をもうけたことへの生涯にわたる苦悩等々はどう見ても「実証」しきれていない。ここはもはや「事実立脚性」と「論理整合性」に基づく歴史学ではなく「芸術」の領域だからである(遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会、二〇一〇年)。だが、その深部の心性の説明はなされているので、皮肉なことに恫喝したはずのポストモダンの説明の手法をあるいは取り入れた形になったのかも知れない。

 いわゆる「偉人伝」でも以前ならばタブーだった同性愛を含むセクシュアリティヘの言及は珍しいものでもなくなった。ただ、あまり私生活に触れなかった自伝『わが二〇世紀・面白い時代』には、ケインズやシュンペーターの伝記に「ベッドの下から」のぞき込むような性生活の描写があることを嫌っている箇所もあるので、自分の評伝に書かれてしまうことなど望まなかったはずである。

 ところが著者はエリックの「著作と生活は継ぎ目なく調和しており」、私的な側面も専門家としての側面も「同じ一枚のコインの裏と表」(下巻、五八頁)としていることから、あるいは著作に表れているかもしれないと私が想起したのは『帝国の時代』の「新しい女性」章の中の「性の解放」などだが、書評群の紹介において、著者はホブズボームがたびたび女性やジェンダーヘの視点の不十分さや欠如を指摘されたこと(下巻、一九四~一九五頁)、本書の末尾において「女性の歴史」は氏の知識の「盲点」の一つだったこと(下巻、三一三頁)を指摘して閉じており、生活と著作がいかにして「同じ一枚のコインの裏と表」だったのかはついに不明であった。

 終章はホブズボームの著作群を卓抜にまとめながら、世界中でなぜこれほど読まれたかの理由を説得的に示すが、女性の歴史の他にブラック・アフリカと大衆文化というあと二つの「盲点」を敢えて指摘しているのは、これからの歴史家に、これら三つの盲点を突いてホブズボームを越えてみよ、と示唆しているようにも見えた。

(「世界史の眼」No.20)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)
大門正克

 歴史研究にジェンダー視点の導入の必要性が指摘されて久しい。だが、グローバル経済史(経済史)では、依然としてジェンダー視点の導入の試みが乏しい。本書は、この点に「問題提起」と「挑戦」を試みた本であり(260頁)、大変に刺激に満ちた研究書である。

 編者のひとりである浅田進史氏が言うように、ジェンダー史とグローバル経済史は「交わることなく並行の関係」にある(6頁)、あるいは本書で姫岡とし子氏が言うように、通史とジェンダー史には「折り合いの悪さ」(251頁)がある。それに対して序章では、論争のなかのグローバル経済史とジェンダーの論点が紹介され、両者を接続することが重要な課題であることが示されている。紹介されている論点は、①ジェンダー史からの「イギリス高賃金経済」論批判、②「ガール・パワー」論をめぐって、③性別分業をめぐってであり、「序章」は本書全体の位置づけ、問題の所在と課題を明快にまとめている。加えて各章では、先行研究と論点の整理に留意したうえでの論証がめざされている。

 その結果、本書は、ジェンダー史を無視するグローバル経済史は居心地が悪いはずだというところまで、グローバル経済史に対して問題提起がかなりできているように思えた。「あとがき」(浅田進史)にある、グローバル経済の現場に接近するほどに、「いかにその支配のあり方がジェンダーと不可分に結びついており、それが全体の支配構造を支えていることがわかるのではないか」(260頁)という言葉が本書の問題関心をよく表現しており、もっとも深く胸に突き刺さった。

 本書の概要を紹介しよう。「序章」(浅田進史)に続き、本書は3つの部で構成されている。第1部「産業革命・グローバル史・ジェンダー」には、第1章「産業革命とジェンダー」(山本千映)、第2章「18―19世紀イギリスの綿製品消費とジェンダー」(竹田泉)、第3章「18世紀フランスにおけるプロト工業化とジェンダー」(仲松優子)、第2部「19世紀グローバル化のなかのジェンダー」には、第4章「ハワイにおける珈琲業の形成」(榎一江)、第5章「市場の表裏とジェンダー」(網中昭世)、第6章「ドイツ植民地に模範的労働者を創造する」(浅田進史)、第3部「グローバル経済の現段階とジェンダーの交差」には、第7章「生産領域のグローバル化のジェンダー分析」(長田華子)、第8章「ポスト新国際分業期におけるフィリピン女性家事労働者」(福島浩治)がそれぞれ配置され、コラムも3本おかれている(「工業化期イギリスの女性投資家」<坂本優一郎>、「家事労働の比較経済史へ向けて」<谷本雅之>、「グローバル経済史とジェンダー史の交差の可能性」<姫岡とし子>)。 

 本書は、2017年6月に開催された、政治経済学・経済史学会春季学術大会春季総合研究会「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」をもとに構成されたものであるが、上記のように研究会の記録にとどまらず、本書全体および各章にわたり、問題提起と課題の所在、論点などがよく整理された触発力の大きな研究書になっている。

 本書は、「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」ことを課題にするとうたっているが、本書を少し読めば、本書の射程はグローバル経済史にとどまらず、経済史一般に対する問題提起であることがすぐにわかる。そのことをもっとも明瞭に示しているのが、プロト工業化論に対してジェンダー視点の欠落を鋭く指摘した第3章の仲松優子論文である。プロト工業化論では、家族が重要な研究対象であったが、「女性労働とこれをめぐる権力関係に対する視野をほとんどもちえておらず」、「議論の基盤に大きな欠陥を抱えていた」(76頁)という指摘は、正鵠を射ているであろう。今後、仲松論文を抜きにしてプロト工業化論を語ることはできないはずである。

 日本経済史研究でもジェンダー視点の接続に対する問題関心は、長い間、希薄であったが、近年いくつかの問題提起が続いている。小島庸平『サラ金の歴史――消費者金融と日本社会』(中公新書、2021年)は、ジェンダーを重要な視点にすえており、「感情労働」などのキーワードを駆使しつつ、サラ金苦と男女の対応の相違や感情労働のあり方を具体的に検討している。消費や労働の研究にジェンダーの視点を導入したものとして、今後の研究の新しい方向性を示している。また私も、高度成長期の企業の社内報に掲載された主婦の文章から「機嫌」と「ぐち」というキーワードに注目し、企業社会における夫の労働と主婦の規範・実践に含まれた非対称のジェンダー関係に注目する必要性を提起した(大門「高度成長期の「労働力の再生産と家族の関係」をいかに分析するか」『歴史と経済』247号、2020年4月)。本書は、これらの研究をより広く位置づける役割もはたしているように思われる。

 本書は、グローバル経済史(経済史)におけるジェンダーへの問題関心を促し、さらにジェンダー視点の必要性を説いたものであり、日本経済史研究を含めて大変に時宜にかなった研究書である。広く共有されることを望みたい。

(「世界史の眼」No.19)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする