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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その3)
南塚信吾

3. 翻訳家松子と末三の「転機」 1914-1920年 

 松子は、帰国後は、新たな水を得た魚のようであった。まずは、詩人であり小説家でもあったロシアのイワン・ブーニン(1870-1953年)の作品を次々と翻訳した。1914年6月ごろから、『早稲田文学』、『第三帝国』、『創造』、『新潮』などに発表していった。後に1933年にノーベル文学賞を受賞するブーニンの作品を、受賞はもとより彼が1920年に亡命する前に、日本で初めて紹介したのである。松子がこのロシアの自然派詩人にどうして関心を持ったかは不明であるが、今日の日本でのブーニン研究では松子の存在が忘れ去られている。

 同時に、松子はロシア文学以外についても発言していた。大木は、松子が結婚後、「家庭の中での男女平等の実現に満足し、対社会的にはロシア文学を通じての発言に限定されていたとは思わない」と述べている(大木「神川松子論」16頁)。松子は、1916年1月に創刊された『婦人公論』の10月号に「自由離婚論」という論説を発表して以降、自由恋愛、ロシアの「婦人解放運動」、「奴隷的婦人道徳の撲滅」など、女性の生き方についての発言を続けた。折から女性問題が社会問題の一つとしてクローズアップされてきた時であった。自由恋愛論では、放縦な恋愛は否定するが、自由恋愛による結婚を勧め、自由離婚論では、旧来の結婚制度による結婚については自由離婚を認める反面、自由恋愛による場合には自由離婚を認めないという立場に立っていた(鈴木『広島県女性運動史』58-64頁;大木「神川松子論」18-19頁)。また、1917年1月には「露西亜に於ける婦人開放運動」という論稿を『第三帝国』に載せ、ゲルツェンとチェルヌイシェフスキーから始めて、アナスタシア・ベルビーツカヤに至るまでの婦人解放の運動取り上げた。そして、狭く女性のみの解放を考えた初期から、広く虐げられた人間の解放の一環として女性解放を考える時期へ、さらにベルビーツカヤのような性の極端な解放を唱える虚無的個人主義の時代への変化をあとづけた。

(1916年1月 創刊号)

 そういう時におきた1917年のロシア革命は、松子の強い関心を引いて、革命後のロシア研究と親善を目的とする露西亜研究会に寄付をしている。当然ロシア文学への関心は高まり、ブーニンの翻訳はもちろん、トルストイの翻訳も手掛け、『トルストイ全集』6巻(春秋社、1919年)に「児童の為めに説かれたる基督の教」「十二使徒に依りて伝へられたる主の教」「福音書は如何に読むべき乎併に其の本質如何」「簡易聖書」を訳している(早稲田大学文化構想学部の南平かおり先生のご教示)。

 同時に、相変わらず女性解放に向けての評論を多数発表し、まず、革命直後の1918年1月には「革命史上に現はれたる露西亜婦人」という論稿を『第三帝国』に載せ、ナロードニキのブレシコフスカヤ、ナロードニキ出身マルクス主義者のヴェラ・ザスーリッチなどの革命的婦人の紹介をした。続いてその後『婦人公論』を中心に注目すべき記事を次々と発表した。その1、2を挙げるならば、まず、1919年1月には、『婦人公論』において、「富山で起こったカミサン達の米一揆」は「地位も智識もない低級な彼女等に依って演出せられた」たんなる「茶番事」ではなく、「我が賢明な為政者の蒙昧を啓発するに至った」ではないかと述べていた(鈴木『広島県女性運動史』59-60頁)。また、女性の政治参加を強く求め、『婦人公論』の1918年9月号では、「婦人を侮辱せる法律」と題して、女性を隷属的に取扱っている法律は変更されねばならないとして、婦人参政権を要求した。婦人参政権は、外的には、男女の同権を実現するものであり、内面的には、女性が自分自身人間として自覚し、精神的に自立し、そして自立的に生きる「自由」を与えるものであると主張した(大木「神川松子論」22頁)。また、同じく『婦人公論』の1920年2月号では、「私が若し政治に参与することが出来たなら、私は男女同権の見地から従来の日本の法律の如く、徒に婦人を弱者とし或は無能力者として制定せる婦人に関する各法律規則に対して、全部これが修正なり或は削除なりを請願したいと思ふ」と述べていた(鈴木『広島県女性運動史』61頁)。

 この時期の松子の言論活動について、大木は興味深いことを二点、指摘している。一つは、松子は、運動に携わる者にとって、その運動への世人の支持を得るために「人格の修養」が必要だと説いていたという。そして、大木は、この「人格の修養」を説くのは、女性解放運動に携わる者だけでなく、「平民社を中心とする明治社会主義運動」に対しても向けられていたのだという(大木「神川松子論」19-20頁)。これは平民社を中心とする人的集団の内外での放縦な男女関係を念頭に置いているのであろう。二つには、この時期、松子は平民社のことや社会主義のことに全く触れていなかった。たしかに「結婚を機にして社会主義運動から身を引くと同時に社会主義そのものも捨てたということも考えられないわけではないけれども、むしろこの点について沈黙を守ることによって、内心ぎりぎりのところで守ろうとしていたとも思われる」と、大木は言う(大木「神川松子論」19、23頁)。折から、社会主義にとっての「冬の時代」が過ぎたとはいえ、まだ全面的に社会主義を語ることが解禁されたわけでもなかったのである。しかし、むしろ大木が簡単にふれているように、「社会変革以前に為すべきこと及び為しうることが山積しているという判断」を松子がしていただろうことが重要であったように思われる。

 松子の最後の社会的活動として知られているのは、1920年3月28日に平塚らいてうらの始めた女性の政治的自由を求める新婦人協会の発会式に参加し、石田友治らとともに会則検討委員となったことである(折井『新婦人協会』16、148頁)。だが、翌月の測機舎の設立以後、松子は再び積極的な女性運動家へ戻ることはなかった。わずかに、1921年3月号『女性同盟』の「貴女は選挙権を如何に行使なさいますか」というアンケート、1921年11月号『婦人公論』の「小売商人の不正事実」をどう考えるかというアンケートに回答しているのみである。台湾行きの時と同じく、これ以後の松子の進路も社会主義や女性解放運動を放棄した「転向」ととることはできるが、見方によってはこれからが、松子がその本領を発揮した時期なのだとも言える。

(『女性同盟』創刊号)

 一方、末三は、帰国後は、大学に戻ったが、「平凡な生活」であったと、回顧している(末三『測機舎と共に』9頁)。第一次世界大戦の時期をどう過ごしたのであろうか。ただ、この時期であろう、世田谷の三宿に敷地230坪の自宅を手にしていた(松子『測機舎を語る』166頁)。戦争が終わって1919年、末三は、大学の職を辞し、「先輩の切なる懇請」によって合名会社玉屋商店に入社した。銀座の玉屋商店は、測量機器、教育学術機器、製図機器などの販売を行っていたが、日露戦争後原宿に日本最初の測量機製造の工場を作り、当時輸入に頼っていた測量機を日本人の手で製作していた。

 末三はそこに工場長の次長として入ったのだった。ところが、半年後には大事件が待っていた。玉屋商会の原宿の工場は第一次世界大戦中に大量の発注を受けて従業員に過度の労働を強いていたにも関わらず、約束の報奨を払わず、従業員の給料も引き上げなかったため、労働者からの強い不満を招いていた(松子『測機舎を語る』31-32頁)。1919年11月7日、優れた技術者であった細川善治、三上綱男、松崎茂雄をリーダーとして従業員たちがまとまって、「23か条」の要求を作成した。これをまとめるならば、

1)「人格」を認めた扱い。秘密主義の廃止。

2)「組長制」の採用。「事務長」の設置。

3)合理的な工場拡張

4)決算の明確化、決算への労務員代表の参加、「工場全員に対し利益分配する」こと。

5)「経営上の方策に対しては、一々会議を開き、工場長、事務長、工作主任及び評議員に諮り決定すること」。

6)「評議員は従業員中勤続十ケ年以上なる者総てその資格を有するものとすること」

などであった(全文は松子『測機舎を語る』33-35頁)。これは当時としては、驚くほど革新的な内容であった。

 松子は、この要求を次のように高く評価している。「氏等の改革方針の重点は所謂世間にありがちな労働賃金の値上げとか或いは労働時間の短縮等のごとき皮相浅見なものに非ずして、寧ろお互いに一歩進んで資本主も労働者も協力一致して工場の繁栄と能率の前進を計り、それに依って得たる利益を従業員も分配に預かって、而して各自の生活の安定を計りたいといふ」ものであった(松子『測機舎を語る』32頁)。

 「23か条」は労働者の経営参加を求めた画期的な要求であった。ロシア革命後、私的企業を認めたうえで、それへの労働者の積極的関与を導入した「労働者統制」を想起させるものである。細川善治、三上綱男、松崎茂雄らはこのような発想をどこから得たのであろうか。これは残念ながら、まだ辿れない。ともかく、このような要求を労働者たちは、工場長が不在だったため、次長の末三に依頼して玉屋本店へ提出させた。ちなみに松子はこれに関与してはいないようであるが、上のように高く評価していた。

 これに対して、会社は11月24日に回答し、1)2)3)は受け入れたが、4)の「決算への労務員代表の参加」は認めず、「工場全員に対し利益分配する」のは賞与で十分だとし、5)6)についてはすべてこれを認めなかった。加えて、このような労働者の行動は末三が扇動したものであろうとして、1920年1月28日、かれに退社を勧告し、2月1日から出社せぬよう命じた。末三は迷ったが、2月2日、ついにこの「不名誉」な退社を受け入れた(2月5日に退社)。末三は従業員たちの「23か条」要求の作成にはまったく関与していなかったわけであり、従業員たちはこれに憤慨した。しかも末三の馘首とともに、「23か条」の要求も葬り去られた。このような玉屋の対応に、従業員たちの有志は会社を辞めて新しい組織を作る工作をひそかに開始した(松子『測機舎を語る』36-40頁;樋口『労働資本』29-39頁は『測機舎を語る』に依っている;この騒動期間1919年10月から20年2月までの経過を記した末三の手記が松子『測機舎を語る』1-21頁に収録されている)。当時見習工だったが、のちの末三を支えた鹿子木は、末三の「管理者としての傑出した能力」、従業員からの「信望」、「視野の広さ、民主的な寛容さ」を指摘している(鹿子木『いのちの軌跡』61-71頁)。これゆえに、労働者たちは末三を離さなかった。

(続く)

参考文献

著書

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

論文

鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号 (1980年3月)

鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号 (1983年3月)

大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)

吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)

(「世界史の眼」No.7)

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文献紹介:南塚信吾(責任編集)『情報がつなぐ世界史』(ミネルヴァ書房、2018年)
山崎信一

 本書は、全16巻よりなるシリーズ、MNINERVA世界史叢書の第6巻として刊行されたものである。叢書の中では、『人々がつなぐ世界史』、『ものがつなぐ世界史』と並んで、「第II期 つながる世界史」を構成するものと位置付けられている。序論によれば本書の狙いは、文字、画像、音声などの「メッセージ形態」と印刷物、テレビなどの「メディア=情報伝達手段」の二つの側面から、情報がどう世界をつなぎ、どのように世界を変化させたのかなどを論じることにある。全体は、「第I部 文字と図像による伝達」、「第II部 印刷物による伝達」、「第III部 信号・音声・映像による伝達」の3部から構成されており、第I部には「第1章 写本が伝える世界認識」、「第2章 世界図はめぐる」、第II部には「第3章 書籍がつなぐ世界」、「第4章 近代的新聞の可能性と拘束性」、「第5章 イギリスのイラスト紙・誌が見せた19世紀の世界」、「第6章 反奴隷制運動の情報ネットワークとメディア戦略」、第III部には「第7章 海底ケーブルと情報覇権」、「第8章 アメリカの政府広報映画が描いた冷戦世界」、「第9章 サイゴンの最も長い日」、「第10章 衛星テレビのつくる世界史」が置かれ、これに加えて、全体に6のコラムが配されている。古代から現代まで広く扱われているが、その多くを占めるのは近代以降に関する論考となっており、情報に関わる技術やメディアの進化や拡大がこの時代に集中していることを、間接的にも示すものとなっている。

 「情報」を切り口として世界史を論じる書籍があまり見当たらないことを考えても、また、私たちの暮らす現在において、「情報」というものの持つ意味が、暮らしそのものにも深く関わるような大きなものとなっていることを考えても、本書には多くの意義があるだろう。以下に筆者なりにその意義をまとめてみる。

 まず気付かされるのは、情報の形態の多様性である。歴史学において、図像史料など、非文字史料の重要性が言われて久しいが、やはり一義的には文字による情報に重きを置いてきたことは否めないであろう。本書では、1章(図表)、2章(地図)、5章(イラスト)、10章(衛星テレビ)などにおいて、文字によらない情報情報を扱っており、非文字情報や史料の重要性を改めて認識させられる。

 また、本書で扱われる、歴史上のさまざまな情報の姿が、現在の情報をめぐるさまざまな課題とも通底するものであるという点を強く意識させられた。1990年代以降、インターネット技術が一般化する中、インターネットとそれに関連する技術は、現代に暮らす私たちにとって、不可欠なインフラとなっている。インターネット時代の訪れを同時代に経験した筆者の立場から見ても、それがもたらした変化の大きさは改めて驚きであるし、すでにデジタル・ネイティヴと呼ばれる世代にとっては、それが存在しない世界はもはや想像しえないものかもしれない。本書では、インターネットの普及以後を扱う部分は多くはないが、しかし本書の取り上げるさまざまな問題が、実は現在ともつながっているという点は、重要であろう。

 3章では、『千一夜物語』を題材に、印刷技術の確立後の情報の広範な伝播と、「翻訳」による情報の変質について論じている。現在も大きく取り上げられる伝播の過程における情報の変質や意図的な歪曲の問題もまた、より長い時間軸の中で分析しうることを示唆している。

 近代以降のマスメディアにおける報道、とりわけ戦争報道の問題が、4章(日露戦争)と9章(ヴェトナム戦争)で取り上げられている。1990年代の湾岸戦争や旧ユーゴスラヴィア紛争に際してのセンセーショナルな報道姿勢や、事実関係への理解を失わせるような相互に矛盾する報道の存在は筆者も身近に経験した。その後においても、イラク戦争からウクライナ紛争に至るまで、こうした点はますます広く見られている。こうした問題の一端もまた、より深い歴史的な根を持つことが確認できる。

 また、現在においては、「フェイク・ニュース」に代表されるように、意図的な情報操作、あるいは人々の情報受容のあり方に対する操作が日常的に見られる。6章(メディア戦略)と8章(広報映画)に扱われるのは、広い意味での情報戦略に関してであり、「フェイク・ニュース」もまた、突然の現象ではなく情報戦略を追求した帰結として産まれた側面のあることを示唆しているとは言えないだろうか。

 7章では、海底ケーブルを題材に、情報伝達手段の所有・統制が、情報覇権の確立につながり、支配の道具として機能したことを明らかにしている。情報技術の進歩が、必ずしも人々に幸福をもたらすばかりのものでないという点は、コラム6に扱われる情報の資源化とGAFAに代表される多国籍巨大IT企業による情報と富の独占の問題、10章に付記される国家による個人情報利用の問題ともつながっている。

 インターネット時代以降の情報をめぐる技術の進展は、市井の人々を情報の受け手であるばかりではなく、発信者ともなることを知らしめた。スマートフォンとSNSの普及を背景に、既存のメディアを介さずに人々が相互にやり取りをし、ネットワークを形成するようになった。SNSを基盤とする人々のネットワークは、フェイク・ニュースの温床ともなりうるが、一方で、「アラブの春」や旧ソ連における「カラー革命」に見られるように、政治的な力を持ちうるものでもある。そうした現象を分析してゆく上でも、「情報の世界史」を切り開く本書の意義は大きい。

(「世界史の眼」No.7)

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書評:油井大三郎『避けられた戦争―1920年代・日本の選択』(ちくま新書、2020年)
小谷汪之

 本書は、1920年代、具体的にはヴェルサイユ(パリ)講和会議(1919年)から満州事変(1931年)までの時代に、日本にはその後の破滅的な戦争を避ける機会あるいは可能性はなかったのかという問題を追求しようとしたものである(本書評では、本書からの引用文中の漢数字をすべて算用数字に変えた。引用文中の〔 〕は引用者による補足)。

 この問題意識から、著者は、①ヴェルサイユ講和条約(1919年)、②ワシントン条約(1921年)、③1924年の米国移民法、④中国の国権回復運動、⑤張作霖爆殺事件(1928年)、⑥ロンドン海軍軍縮条約(1930年)、⑦満州事変(1931年)、に焦点を当てる(これらのうち、①~⑤がそれぞれ本書の第1章から第5章をなし、⑥と⑦が第6章をなしている)。これらの節目となる時期に、現実に行われたのとは異なる選択(「オルターナティヴ」の選択)が行われていたならば、破滅的な戦争は避けられていたのではないかというのが著者の歴史への問いかけである。

 この現実の歴史とは異なる「選択肢=オルターナティヴ」がどのようなものであったのかについて具体的に書かれているのは、主として、中国との関係の部分である。第4章「中国の国権回復と米英ソ日の対応」では、イギリスが1925年の5・30事件を契機に中国全土に広がった英貨ボイコット運動に直面して、中国の国権回復運動に理解を示すようになったのに対して、日本があくまでも中国における既得権益に固執したことについて次のように述べられている。

 国民軍革命〔国民革命軍?〕が北京に入城して、中国統一を実現するのは1928年6月のことで、吉野〔作造〕がこの論文を発表した時点〔1927年1月20日〕では、まだ北伐は途上であり、武漢に政府を移動させたくらいの状況であった。それでも、吉野は国民党政府が早晩中国を統一すると予測して、日本政府に対して〔国民党政府の〕承認を提唱したのであり、先見の明があったと評価できるだろう。
 もし、実際に、日本政府が、早い段階で、国民党政府を承認し、国権回復運動に前向きに対応した場合には、日貨ボイコット運動も沈静化し、満蒙権益の一部を残す交渉も可能だったのではないだろうか。(187-188頁)

 しかし、実際には、日本は、国民革命軍に追われて北京を退去、本拠地である奉天(現、瀋陽)に向かった張作霖を奉天直前で爆殺してしまった(1928年6月4日)。これが河本大作など関東軍の一部将校による謀略的行為であったとしても、その結果、張作霖の息子、張学良を国民政府に合流させることになり、日中全面戦争の伏線となった。第5章「山東出兵と張作霖爆殺事件」では次のように述べられている。

 関東軍の暴走の背景として、日本の満蒙利権の死守の考えが、当時の田中〔義一〕内閣や河本〔大作〕などの関東軍幹部に共有されていた点も重大であった。それは裏返すと、国民党政権による中国統一を否定的に、ないしは日本にとって不都合なものと考えることに繋がっていた。(234頁)
 〔他方〕、吉野〔作造〕は、国民党による中国統一が実現した暁には、満蒙の支配は早晩中国本土(ママ)に返還されるのが筋と主張していたのであった。このように、中国の国民党政権を中国の正統政府として承認し、不平等条約の改正や一部利権の返還などが当時の日本政府によって、行われていれば、満蒙利権の一部を継続させて、関東軍などの暴走を抑止する可能性はあったのではないだろうか。(235-236頁)

 以上のような分析を通して、著者は日本が破滅的な戦争を避ける可能性があったのは、次の二つの時期だとする。

 「第一のチャンスは、1925(大正14)10月の北京関税特別会議から第一次若槻〔礼次郎〕内閣が崩壊する1927年4月までの第一次幣原〔喜重郎〕外交の対中政策にあった」(289頁)。この時期は、アメリカやイギリスが対中不平等条約の改定や一部利権の返還に応じる方向に政策転換した時期であり、日本も、「中国の国権回復運動に一定の譲歩を行うことによって、中国の排日運動を緩和させ、満州利権の一部を中国との交渉で確保する可能性はあったのではないか。英国が、漢口や九江の〔イギリス租界の〕返還に応じて、香港を確保したように。そうすれば、関東軍による暴走は事前に抑止できたと考える」(291頁)。

 「第二のチャンスは、1930(昭和5)年5月に、日本が中国の関税自主権を承認した新関税協定を締結した時期である。この協定の締結に続いて、満州利権の一部留保の交渉をする可能性である。この場合は、田中内閣のもとで発生した済南事件や張作霖爆殺事件の後であり、排日運動は満州にも及んでいたので、合意の可能性は、第一のチャンスに比べると、もっと低かったかもしれないが、ゼロではなかったであろう」(291-292頁)。

 以上が本書の概要であるが、本書の特徴をなすのは歴史(過去)の様々な時点において、現実に行われた選択の他に、別のどのような「選択肢=オルターナティヴ」がありえたかを追求するという方法である。「歴史にもし・・はない」というのは巷間に流布した俗説であるが、歴史に「もし」を追求するのは、歴史認識が現在を通して未来を見据えるものだからであろう。未来に向けて、現在ありうる様々な「選択肢=オルターナティヴ」を、歴史(過去)(に照らして秤量しようとするのが歴史認識の一つの方法であるとするならば、歴史(過去)に「もし」を追求することが重要な意味を持ってくるのである。

 本書をこのような歴史的思考実験と評価したうえで、ちょっと引っかかった点を指摘しておきたい。それは、本書評中の何か所かの引用文に出てくる「満蒙権益の一部を残す交渉」、「満州利権の一部留保の交渉」といった文言である。確かに、満蒙利権(満州利権)をすべて放棄すると言ったら、軍部や財界だけではなく、一般国民からも激しい反発が起きていたであろう。したがって、一つの「オルターナティヴ」として、「満蒙権益(満州利権)の一部留保」の線で中国側と交渉するということがありうるということになるのであろうが、そこには何か引っかかるものがある。旨く説明できないが、植民地主義的利権の一部を確保するための交渉、という点にどうしても引っかかるのである。

 最後に一点だけ。本書29頁と41頁に、「賞金」という言葉が出てくるが、これはやはり「償金」(indemnity)とするべきだと思う。

(「世界史の眼」No.6)

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書評:イアン・ヴォルナー/山田文訳『壁の世界史 万里の長城からトランプの壁まで』(中央公論新社、2020年)
藤田進

 「不法入国者は殺人者と強姦魔だ」。この中傷発言とともに2016年米大統領選に出馬したドナルド・トランプは、「メキシコとの国境に堅固で均質な壁を建設して不法入国を阻止し、われわれの仕事を中国とメキシコから取り戻す」との公約を掲げて没落する白人中産階級や失業に苦しむ白人貧困層、白人差別主義者らの支持をつかみ大統領選を制した。公約の「堅固な国境の壁」の建設は議会の反対や様々な混乱に直面して遅々として進まぬなか、2019年2月トランプは非常事態宣言を発して大統領権限で国防総省予算から費用を捻出して壁の建設を強行しようと企てた。

 「全長3200㎞、数十億㌦規模の米墨国境の壁建設を米大統領が繰り返し命じることが鬱屈した有権者のある種の心の支えになっている。それは、われわれの文明の行く末が論じられる際には、どこかにこの壁の問題がつねに潜んでいるということだ」。そう憂慮する建築家でデザイン批評家のイアン・ブルナーは、そもそも「壁」とは何かという根源的な問いを発した。彼は「新石器時代前期の終わりからの1万年間に人類が定住したほとんどの土地には境界を示す何らかの建造物があった」ことに注目し、古今東西の様々な壁についての発掘調査報告や多岐にわたる参考文献にあたって知見を深めるとともにみずから現場を訪れて「壁」を観察し考察するという作業に取り組んだ。本書はその作業の成果であり、人類史において壁がどのような意味と役割を発揮してきたかを論じている。第1章「差異の発明」は本書の核心部分であり、以下ではこの章を中心に見ていくことにする。

 パレスチナのヨルダン川西岸地区にあるイェリコの城壁は世界最古の城壁である。考古学・人類学の発掘調査によれば、その出現は紀元前8300年にさかのぼり、城壁があったイェリコは、ユダヤ丘陵地帯のふもとにあった泉のそばにつくられた集落を備えた世界最古の町でもあった。人類はイェリコの町がつくられたずっとあとの時代まで狩猟採取生活段階にあり、町の住民と城壁の外側の遊牧民との違いは壁の有無だけでほとんど区別はつかなかったはずなのになぜ両者を分ける壁が築かれたのかは謎であった。だがこの謎は1980年代の発掘調査によって解けた。イエリコ城壁の内側に高い尖塔があったことが発見され、この尖塔の影が一年で最も日の長い日に太陽が沈むと城壁内の集落全体に重なったであろうことが天文学的・地形学的計測によって割り出された。その結果、イェリコの城壁は防御のためではなく、人を感動させ招き寄せる儀式に使うための建物だったとの説が有力となったのである。紀元前8000年代の地層には激しい戦争の形跡が見られず、最初の壁がつくられた時代に埋葬された人物が当時としては長寿だったことからも、イェリコの城壁が比較的平和な時代に建造され、人を遠ざける要塞ではなかったとの説が一層有力となった。著者はそれらの発掘調査の成果を踏まえて、イェリコの壁は「“われわれ”と“彼ら”を分ける差異の概念」とともに「“われわれ”と“彼ら”がともにいるという考え」をも生みだしたというように理解した。

 著者は次に、長らく史実とされてきた旧約聖書におけるイェリコの町占領と城壁崩壊の記述について検討している。『ヨシュア記』第6章における「イェリコの占領」の記述はこうである。

 ヨルダン渓谷に到着したモーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエル人の軍勢は、神の命令に従って契約の箱をかつぎ、カナン人が閉じこもる防壁で囲まれたイェリコの町を包囲し、7日目に城壁が奇跡的に崩壊してイスラエル軍は町を侵略し、ユダヤの神の怒りを恐れて従った内通者のラハブの一族を除く城内のすべての者たちを殺してカナンを征服し、約束の地におけるユダヤ王国を実現した。

 しかし発掘調査によって、紀元前8300年にできたイェリコの城壁は紀元前3000年にはすでに崩れて消えており、イスラエル十二支族がカナンの地を奪った紀元前1500年頃のイェリコには町も何も残っておらず、また地層には戦乱の形跡も見当たらないことが判明している。したがってイェリコ陥落の記述は史実ではなく、『ヨシュア記』の第2-7章はあとから創作されたと考えられている。

 『ヨシュア記』の成立はカナン征服のはるか後のバビロン捕囚期(紀元前597-578年)においてである。ユダヤ王国滅亡後バビロンに連れ去られたエルサレムの祭司たちが、ペルシャ国王の命令でユダヤ王国没落にいたる以前のモーセ五書の歴史全体の要約・再解釈作業に取り組む(紀元前538-458年)なかで『ヨシュア記』は編纂された。同書において、モーセの法(神の教えと戒め=律法)が不信仰者を罰する<法>として据えられ、異民族との結婚や異教信仰を受け入れたイスラエル人は「混血階層」として「ユダヤ人」から排除され、そしてカナン人やヱビス人、ヒビ人などセム系民族はカナン征服時に絶滅させられる等々が記述され、また同じ時期に編まれた『エゼキル書』には、神に選ばれたユダヤの民が囚われの身でエルサレムへ戻るのを待つ間に憎しみを向ける対象として「ゴグとマゴグ」という神に敵対する邪悪な存在が記述された。「ユダヤ人の伝統と言語がかつてなく脅かされている時期」(著者のことば)に編纂された両書は、モーセの法を破ったユダヤの民に試練を与えつつ他の諸民族と切り離して「ユダヤ民族」を確立して滅ぼされたユダヤ王国を復活させる意図を示していた。

 『ヨシュア記』において律法が人を裁く<法律>とされ、「イスラエル人」以外の民族は絶滅させられる描写には“われわれ”を脅かすものは壁を設けて排除するとの意志が表れている。

 イスラエル占領下の現在のイェリコを訪れた著者は、1万年にわたりパレスチナで実際に暮らし続けたカナン人、モアブ人、エブス人、古代ヘブライ人、アラブ人などの子孫にあたるパレスチナ住民たちが、「ユダヤ民族」思想を体現したイスラエル国家がユダヤ人入植地を守るために設けた隔離壁・防衛フェンスによって土地を奪われ日々の生活を暴力的に弾圧されている現実を目にした。彼はその光景に、古代イェリコ城壁に見出した「われわれと彼らが区分をまたいでともにいる」という平和状態が、「不公正に対する正義の勝利を示す寓話」(著者のことば)が築いた「イェリコの町を囲む堅固な壁」という空想の産物によって打ち破られているのを感じている。

 次いで著者は、南北アメリカ大陸の先住民には壁がなかったことを取り上げている。人類学者によれば、北アメリカ先住民の生活習慣において壁が意味をなさなかったのは、多くの先住民間の戦争は決まった季節に短期間の小競り合いをする程度の儀式的なものであり、従って集落を壁で囲むことも攻撃者を撃退する仕組みも必要なかったのだという。

 だがその状態は、西欧国家が対外進出を拡大する17世紀にマサチューセッツ湾にプリマス植民地が出現したことで一変した。1621年11月、力が弱く数でも劣る入植者たちが土地を浸蝕されて敵意を抱くマサ―チュセッツ族の首長から威嚇メッセージを受け取ると、指導者のスタンディシュは先を尖らせた板壁の巨大な正方形の防御柵を築いて武装部隊を配備した。その後に交渉のため首長を夕食に招き閉じ込め刺し殺した後に、周囲の森に待機するマサチューセッツ族の兵士たちを殺して首をはねた。集落を包囲する壁とそれにともなう戦争はこのような形で出現し、多くの先住民族はこの事件に恐れをなして周辺地域から逃げ出し、マサチューセッツ族とナラガンセット族は完全に消え去ってニューイングランド全体がヨーロッパ人入植地として利用できるようになった。

 ユダヤの聖書における「ゴグ・マゴグ」の脅威は新約聖書の『ヨハネ黙示録』に受け継がれており、ハルマゲドン(終末の決戦場)にキリストの町を包囲する軍勢としてそれがあらわれるとの予言は多くのキリスト教徒の信じるところとなった。ハルマゲドンの後に到来するとされた「新しいエルサレム」の建設を新大陸において試みたピューリタンのキリスト教徒植民者たちは指導者の指示に従って、抵抗する異文化世界の住民を「ゴグ・マゴグ」に見立ててこれを殲滅した。著者はここに、「ゴグ・マゴグ」に端を発する「“われわれ”を脅かす“彼ら”の脅威から守らなければならない」というロジックを駆使して民衆をみずからの利益に向けて組織・動員する国家の時代の指導者の戦略を見出しており、彼らが築く「壁は権力の付属物であり政治の道具である」ことを認識している。アメリカや世界の他の多くの場所で排他的な感情が高まって有形無形の壁がつくられている理由を見出している。

 しかし一方で著者は、壁が軍事的役割を余り果たさなかった点に注目している。紀元1世紀ローマ皇帝ハドリアヌが「野蛮人のカレドニア人」の襲撃を遮断するため巨大な「ハドリアヌスの長城」を築いて多数の守備隊を配置したものの外敵の襲撃を軍事的に食い止めることはできず、むしろ壁をはさんでローマ軍兵士とカレドニア人が接触して交流を深め、また非ローマ人に一定の条件のもとでローマ市民権を認めるローマ帝国の寛容政策がローマ文化にあこがれる被征服民のローマ軍外人部隊やカレドニア人を引きつけたことがむしろ国境の安全につながったこと、また中国の万里の長城は北方・南方民族の侵略を防ぐ軍事的防衛ラインとしてよりも、城壁の多くに交易所を設けて遊牧民と農耕民族の相互交易をつかさどる役割を果たしたことが中国王朝の安全をより良く保つたことを指摘している。さらに19世紀末以降米墨国境における中国系メキシコ人やメキシコ革命勢力の越境阻止固めに出動したパーシング指揮下のアメリカ国境騎兵隊は不法越境者との銃撃戦で危険にさらされた多くの中国系メキシコ人を保護してアメリカに連れ帰り、彼らを砂漠地帯での軍事施設建設作業につかせた後「パーシングの中国人」としてアメリカに定着させるというようなことも起きている。

 だがそのような分断のゆるい壁の時代は終わり、いま世界は多数の壁で遮断され、「冷戦の時代」が戻ってきたみたいだと著者は言う。そこには、1980年代以降新自由主義経済体制の全開で、中東、東欧・バルカン、アフリカ、中南米で資源、金融・サービス、兵器輸出で莫大な利益を収めてきたグローバル資本とそれを擁護する国家権力が、それらの地域での「民主化」運動の高まりでみずからの利益が損われるのを危惧する状態がからんでいる。彼らは「イスラム・テロリズム」、「文明の衝突」、「反民主主義の高まり」等々の説明によって「われわれの安全が脅かされている」というロジックをつくりあげ、歴史的・文化的・宗教的つながりを維持して暮らしてきた地元住民同士の民族的・宗教的衝突を煽動したうえで多数の軍事的境界線や隔離壁を築いて軍事介入し自己の利益を守ろうとすることにより住民の生活破壊や難民化を引き起こしているというのが真相である。

 「現在は壁の時代であり、人びとがその背後にある物語を信じるのをやめないかぎりは、壁の増殖がつづくのを食いとめるものは何もないように思われる」。これが著者の結論である。そして壁によって翻弄されているわれわれの現状を変えるには、「壁なしで栄えたあらゆる場所のこともまた研究しなければならない。壁の不在をたどること、それには壁の存在をたどることよりもさらに大きな価値があるのかもしれない」との希望的ことばを残して本書を終えている。

(「世界史の眼」No.6)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その2)
南塚信吾

2. 西川末三と台湾

 西川末三は、1883年1月27日、栃木県下都賀郡壬生町の下級藩士(足軽)であった父正順と母タキの三男として生まれた。1902年9月、東京帝国大学農科大学林学実科に入学、1905年7月に卒業した。ちょうど日露戦争が終結し、8月にはポーツマスで講和会議が始まるという時期であった。卒業後、末三は9月に、農科大学助手となり、06年12月、農科大学の台湾演習林の主任として台湾へ行った。なお、長兄一男は宮城控訴院長、大審院判事、次兄順之は松本高等学校長で、末三の弟は、東京帝国大学を出て医者になっていた(鈴木『広島県女性運動史』51頁。付記するならば、一男の息子はアメリカ文学研究の西川正身、その息子が歴史学の西川正雄、ともに東京大学教授だった)。

 すでに日清戦争の結果、1895年の下関条約によって、日本は台湾を中国に「割与」させていて、1897年に東京帝国大学がその台湾に実習林をつくる計画をたてていた。大学は、1902年に台湾総督府から現在の南投県鹿谷郷鳳凰山から玉山一帯の区域を実習林として獲得し、04年に接収作業を終えていた。そして、同年10月から現在の竹山鎮に実験林臨時事務所を設置し、06年12月に23歳の西川末三を初代の主任として赴任させたのであった(この点については、以下を参照 https://www.facebook.com/414514448656884/posts/672151709559822/)。

 1907年8月、東京帝国大学は、西川末三が台湾において造林の仕事と樟脳の生産を手掛けたので、徴兵を免除してほしいと、文部大臣に申し立て、10月に徴兵免除の通知を受け取っていた(これについては以下を参照https://uta.u-tokyo.ac.jp/uta/s/da/document/a9bf35c8faec566d6e709c672b162881)。

 さて、末三は、大学(駒場)時代に神川松子の兄登と同級生で、松子が日本女子大学に入って上京して登と住んでいる市ヶ谷の家に遊びに行き、そこで松子と知り合ったという。松子が青山女学院に移ると、兄妹は渋谷の道玄坂に一室を借りて住んだ。そこへも末三は行って、松子としだいに意気投合するようになった。この登という松子の兄は、東京帝国大学を卒業すると、広島に戻り、一時役人となったが、すぐに退職し、父の遺産を受けて、書画骨董や茶を楽しんで悠々自適の生活を送ったという(末三『測機舎と共に』5頁;鈴木『広島県女性運動史』51―52頁)。

 台湾から一時帰国した(おそらく補充兵教育のため3か月ほど帰国したのであろう)末三は、1908年11月に広島から東京へ戻ってきた松子に長年のプロポーズを受け入れてもらい、09年の4月か5月に結婚した。この結婚には末三の長兄も次兄も猛反対したという。しかし、二人はまさに机ひとつの家財道具で結婚した。広島で結婚式を挙げて、披露宴もせずすぐに5月8日に台湾へ向かった(鈴木『広島県女性運動史』52―53頁。この間の経緯は、末三の記憶とは少し違いがある。末三は、06年2月に台湾に赴任したあと、1か月ほどして補充兵教育のために赤羽にあった近衛工兵大隊に入営せよとの令状を受け取り、3月末に帰京、6月末まで入営したという。そして、除隊後、登、松子とともに広島へ行き、松子の母や妹たちと会って、台湾へ帰った。その後、赤旗事件ののち、出獄した松子は、末三に渡台したいと申し越してきて、09年に台湾へやってきたのだという。末三『測機舎と共に』5、6、8頁。しかし、次の新聞記事によれば、松子は6月8日以前に台湾に行かねばならず、その他の日付も含めて末三の回顧はやや怪しい)。

 さて、松子の渡台を受けて、1909年6月8日の『東京朝日新聞』は「無罪出獄せし元女子大生神川松子は断然社会主義を捨てて台湾に渡り人の妻となれ居れり」と報じた。だが、果たして、松子は「断然社会主義を捨て」たのだろうか。ここで問題なのは、鈴木が、この新聞報道を松子の「転向」を報じたものとして書いていることではなかろうか(鈴木『広島県女性運動史』44頁)。鈴木自身は、松子が「転向」したとは断定していないようだが、鈴木の研究をふまえた吉田は、「転向」説を採用しているのである(吉田「新しい女」80頁)。この問題はのちに検討することにしよう。

(上は、末三の最初の住処、下は、「生蕃と松子其他」とある。共に末三『測機舎と共に』より)

 一方の末三は、「海国男児! よろしく海外に雄飛すべし。台湾は我領土である。第一歩をこの地に印してさらに南海に活躍すべきものである」と勇み立って台湾に向った。しかし、行ってみると、大学の実習林は「縦貫鉄道から十里も奥で、蛮地七分の未開地」であった。領有僅か十年では、総督府も森林経営の方針を確立していなかったという(末三『測機舎と共に』13-14頁)。

 台湾における末三の最初の住処は、ジャングルの中の掘立小屋に近いものであったようだ。末三は、「土人部落」から一里ほど上った山の中腹にやや平坦の土地を見つけて、そこに「竹の柱に竹の屋根、竹の床」という台湾山中独特の小屋を作った。隣近所もない一軒家であった。結婚してこの住居が改善されたのかどうかは分からない。また、マラリアも蔓延していた。「二か月に三度程」悩まされたという。医者も薬もなく、風邪熱さましのキナエンで耐えた。三度三度の食事に窮したこともあった。言葉も通じない現地人(台湾人)の間で、現地人を使って作業し生活することは、容易ではなかったはずである。加えて、末三が「土人」「生蕃」と言っている台湾の先住民族も活かさねばならなかった。山中を歩き回るときには「生蕃」に案内してもらうが、末三は「生蕃」を恐れたが、かれらに助けられたとも回顧している。末三はこの台湾時代を「7年半の窮乏生活」、「大切なる試験時代」「鍛錬時代」「修行期間」と言っている(末三『測機舎と共に』11、14、20)。そのうちの4年間は松子と一緒だったわけである。それでも二人は台湾の生活を充実させたようである。1909年5月に始まる台湾での二人の生活について知れるところは少ないが、松子は、台湾で、末三との間に1男2女をもうけた。長男は誠幹であった。

 女性運動家として活動してきていた松子は、あまり家事は得意ではなかったらしい。それでも家事も少しはできるようになったが、食事も10分足らずで終わり、さっさと書斎に入って本を読んでいたという。「男女同権」が口癖であったようだ。1910年6月に大逆事件が起き、翌年1月に親しかった菅野スガや幸徳秋水が処刑されたとき、松子は、自分も東京にいたら処刑されていたかもしれないと言っていたという(鈴木『広島県女性運動史』53―55頁)。松子は、結婚後は社会主義から離れ、ロシア文学研究に没頭したと言われる。事実、親しかった菅野スガも、処刑される直前に堺利彦夫妻に送った手紙では、「松ちゃんは今何処に居るでせう、便りはございませんか」と書いているほどで、松子はかつての仲間との連絡を途絶えさせていた。それでも、松子には常に尾行がついていたという。松子は、のちに「どうした風の吹き回しか、今から丁度25年前、私の心機は一転しまして家庭の人となりましてからは、おそまきながらやや女らしい気持ちになりまして、ご飯を炊くことも覚えましたし、あるいはまた子守唄を歌うことも覚えまして」と語っている(松子『測機舎を語る』238;大木「神川松子論ノート」24頁)。しかし、これは松子が家庭人に成り切ったということを意味するものではない。

 末三は、造林の仕事には優れた腕を発揮したようである。1909年に、海外での移植は難しいと言われていた吉野杉をはじめて台湾に植林、それを成功させた(今日中国・台湾では日本からの杉を柳杉【りゅうすぎ】と称している)。そういう具合にして、5万7千町歩の山林を整備したのだった。いまでも「西川末三古道」と言われる道が残っている。「大学演習林の苦力は台湾全島中模範的なり」と言われたという(松子『測機舎を語る』12-13頁)。

演習林事務所

(西川柳杉歩道・西川末三古道と呼ばれている)

 しかし、たびたび風土病に悩まされていた末三が、ついに肝炎を引き起こしたので、1914年6月、やむなく一家は帰国した(このあと、末三は1940年と1965年に台湾を訪れ、かつての実習林を視察、かつての同僚の台湾人たちに歓迎されている(https://www.lib.ntu.edu.tw/gallery/promotions/20141105_TreeRings/1902.html)。

(続く)

参考文献
著書
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年

論文
鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号(1980年3月)
鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号(1983年3月)
大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)
吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)

(「世界史の眼」No.6)

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新刊紹介:人類システムの鳥観図―Patrick Manning, A History of Humanity: The Evolution of the Human System, Cambridge: Cambridge University Press, 2020
木畑洋一

 パトリック・マニング氏の名前は、世界史研究所にとっては馴染み深い。近年世界史研究を牽引してきたマニング氏は、アジア世界史学会を強力に支える力となってきたし、氏の著作『世界史をナビゲートする――地球大の歴史を求めて』は世界史研究所の南塚信吾所長と渡邊昭子さんによって邦訳され、2016年に刊行された。同書の紹介は、旧世界史研究所ニューズレターの第27号で木村英明氏によって行われている。

 そのマニング氏による壮大な世界史の鳥瞰図が、ここに紹介する『人類の歴史』である。『世界史をナビゲートする』において、世界史に迫る上でのさまざまな切り口や方法を論じた氏が、その豊かな素養(大学では自然科学を学び、研究者としてはアフリカ史、経済史を専門とし、さらに人類学、人口学、言語学なども修めたという)を生かしながら、自らの世界史像を提示した成果が本書である。以下、本書の議論をごくかいつまんだ形で紹介してみたい。

 本書執筆に当たっての著者の動機はきわめて鮮明である。現在人類は、環境の劣化、社会的・経済的不平等という、自然との関係、社会関係での危機に直面しているばかりでなく、それに対応していくための知の不足という文化的な危機をも抱えている。こうした三つのレベル(生物学的、社会的、文化的)での危機を乗り越えていくためには、人類がシステムとして過去にどのような変化を経験してきたかを問う必要がある、というところから人類史への著者の問いかけが始まるのである。ここでいう人類システムとは、環境との間での物質のやりとりを行う開かれたシステムであり、外的・内的影響力によって変化する歴史的・適応的システムである。『世界史をナビゲートする』においてマニング氏はルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィの開放システム論を紹介しながらも、歴史家によるその適用はこれまで大きな成功を収めていないと述べていたが、本書では自らその枠組みを分析の基本に据えているのである。

 本書での議論の対象となる時代は、7万年前からである。第1章で問題意識や方法を述べた後、第2章では400万年前から7万年前までを取り上げているが、それは第3章以降の前提となっている。7万年前頃に急な変化が生じ、人類システムが始まるのである。その変化とは、言語(speech)の獲得である。他人とのコミュニケーションを可能にするシンタックスをもった言語は、人類にとっての最初の社会制度(social institution)であったと著者は言う。言語を共にする共同体の形成、さらにそうした人々の移動によって、それ以降の人類史は進んでいくことになる。その際、著者が重視するのは、特定の目的のために人々が形成する制度(institution)であり、またそうした制度を伴う人の移動(migration)である。

 変化の時代(7万年前~6万5千年前)を扱う第3章に続いて、第4章以降は次のように時期区分されている。

第4章(6万5千年前~2万5千年前:アフリカから現在のジャワ島方面やオーストラリア方面への人類の移動、言語をもつ共同体の拡大)
第5章(2万5千年前~1万2千年前:寒冷化の時代を経た後に移動範囲の拡大、アメリカ大陸へも人類の移動、生産活動の拡大とそのための共同作業の場workshopの形成)
第6章(1万2千年前~1千年前)これはさらに次の3期に分けられる。
  ① 1万2千年前~6千年前:農業、牧畜の展開、居住制度(town)の発達
  ② 6千年前~3千年前:宗教をも含むさまざまな共同作業の場の発展、大規模な移動
  ③ 3千年前~1千年前:諸制度(通貨、教育、軍隊、水利、宗教、帝国)の発達
第7章(1000CE~1600CE:移動に伴う病原菌の拡大、戦争などで人類システムは衝突・収縮、宗教でも亀裂など)
第8章(1600CE~1800CE:人類システムは成長軌道に復帰、商業の発達、植民地拡大、資本主義とそれに基づく帝国の拡大)
第9章(1800CE~現在:環境、社会・経済の現在の危機への道、脱植民地化)

 こうして現在までの人類システムの変化が論じられた後、第10章においては、同じく1800年以降の時期に即して、三つの世界的なネットワークが広がってきたことの意味が強調される。いずれも世界にひろがる、民衆文化、知、民主主義的言説という三つのネットワークである。その際著者が第9章に続いて脱植民地化の意味を改めて強調し、人類システムの主体としてかつて植民地支配の下にあった人々の役割を重視していることに注目したい。

 人類の歴史をこのようにたどってきた上で、著者は最後のところで、①成長は人類システムに必要か?②社会的不平等は人類システムに必要な側面か?③社会制度の作動はどのような形で統制されるべきか?という問いを読者に投げかけて本書を終える。著者は人類の将来についての予想を明言しているわけではないが、そうした問いに答え、本書執筆の前提となった現在の危機を克服していくための戦略を考えていく上で、本書のような形で人類システムの「進化」の様相を検討するといった知的営為が積極的な意味をもっていることが、本書からの強いメッセージとなっているのである。

(「世界史の眼」No.5)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その1)
南塚信吾

神川松子というと、日本の女性運動史の中では、いくらか知られた女性であろう。平民社と関係して、社会主義的な女性運動を担ったことで知られる。彼女は西川末三という人物と結婚して、台湾に渡り、帰国してからはロシア文学の翻訳などをしていたが、1920年に、二人はロバート・オーエンらの思想を取り入れた労働者の自主管理生産協同組合「測機舎」を樹立、ユニークな組合を成功させた。

これまでの女性運動史の中での神川松子研究についていえば、鈴木裕子の先駆的な研究をはじめとして、松子の社会主義への傾倒とその発言、社会主義者との交友が論じられてはいるが、彼女がどのようにして、どのような社会主義的思想を吸収したのかは問題にされていない。また、松子の結婚以後の測機舎時期は、「転向」として位置付けられ、ほとんど語られることはない。だが、ここには社会主義を実世界において具体的に生かそうという試みを見ることができるのではないだろうか。

一方、測機舎については、これまでは関係者の回想録が中心であったが、近年、樋口兼次が「ワーカーズ・コレクティヴ」の先駆けとして測機舎を扱う研究を出して注目される。しかし、これは逆に、測機舎以前の西川末三の経歴や、末三と結婚する以前の松子の経歴を見ていないのであり、突然あのような独特の組織が生まれたことになっている。台湾で「修行時代」を経験した西川末三は、松子の生き方に共感し、社会主義の面でも、女性の地位向上の面でも、松子を懐深く応援し、その中で松子と共にユニークな組合組織「測機舎」を作ったのである。

本稿は、松子の社会主義思想と末三の台湾体験の総合として「測機舎」を位置付けようというものである。そして結論を先走りして言うならば、測機舎は、いわば当時の「世界史」のある「傾向」が凝縮されている一つの姿と考えることができるのである。

1.神川松子と平民社

神川松子は1885年(明治18年)4月28日に、広島市に広島藩士神川渉・サトの六女として生まれ、ミッション・スクールである広島女学校(現、広島女学院)で学んだ。負けん気で自由奔放な女学生であったらしい。1903年に日本女子大学に入学し、平塚らいてうと同学年であったが、すでに社会主義に関心をもっていた松子は、女子大の良妻賢母型の教育に合わず、1年で退学、青山女学院に入学しなおした(鈴木『広島県女性運動史』24頁)。どういうきっかけで社会主義に関心を持ったのか、興味のあるところである。このころのことを、松子は「私は生まれながらに女らしくない云はば大のお転婆娘で・・・短い袴を穿いて手織木綿の筒袖を着て肩をいからかして大道狭しと闊歩し」ていたと自ら回顧している(松子『測機舎を語る』237-238頁)が、社会主義との接点についてはなにも示唆していない。

この間1903年11月に平民社ができていた。松子は、在学中に大塚の平民社に出入りするようになり、幸徳秋水、堺利彦らと交流し、1904年1月に平民社によって「社会主義婦人講演会」が開かれるようになると、木下尚江らとともにそれに積極的に参加し、同年11月には、そこで初めて講演を行い、「真に一身を献じて社会の為に尽くすツモリ」であると語っていた。05年4月にも石川三四郎、堺利彦、木下尚江らに交じって、松子も「独身に対する我見解」と題して講演し、この腐敗した社会を救うために身を挺し、スイートホームの楽しさを捨てる覚悟であると述べていた。この講演会のことは、1905年4月23日号の『直言』に紹介され、「松子氏は青山学院の生徒にして年未だ二十歳に過ぎざれども」その告白は人々を感動させたという。これは「神川松子」の名前が文献上で最初に現れた機会であった(鈴木『広島県女性運動史』31-32頁;吉田「新しい女」79頁;『明治社会主義史料集』第1集『直言』、1960年、87頁)。

figure1

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日露戦争が終わった05年10月、弾圧によって平民社が解散したあと、松子は、07年1月に福田英子、石川三四郎らによって創刊された社会主義婦人機関紙『世界婦人』を拠点に活動を続けた。女性の解放は社会主義によらねばならないとするこの機関紙は、世界各国における女性解放運動や社会主義運動についての情報を載せて、女性の解放を世界的な視野で論じていた。この雑誌には、安部磯雄、堺利彦、幸徳秋水をはじめ多くの男子社会主義者が協力していた。二葉亭四迷も「二葉亭主人」という名で寄稿していた。松子はここに木下尚江らと並んで、大小15本の文章を載せている。当初は詩が多く、詩に託して女性の解放を求めていたが、女性の自立をどう確保すべきかをめぐって、遠藤友四郎との論争を繰り広げる中で、いくつもの記事を書き、松子なりの女性解放の理念を整理していった。それが、「おこがましくも玉郎兄に」第九号(1907年5月)や「婦人解放管見」第十二号(6月)や「世界婦人の見地」第十九号(11月)や「口吻余滴」第二十一号(1908年1月)などであった。この論争の詳細は先達の研究に委ねることにして、この論争において、松子は、女性は「奴隷的境遇」、旧来の道徳、旧習慣を脱して、人としてまた女子として「自由の権利」を獲得するには、先ず「経済上の独立」を得なければならないと主張した。松子は、社会の変革が実現すれば女性も解放されるのだという考えに対して、社会変革の前に女性の自由の獲得が大事なのだと主張したのであった。そして、社会の革命は「我ら婦人の自覚より生ずる新生命の力」によってこそなされるのだと言うのだった。1908年1月の「口吻余滴」には、「我々が此世に生まれて来たのは、決して男子の玩弄物ならむがためではない。何処までも自己の個性を発展せしめて、人として将た女性として自己の価値を認めむと欲するにあるのだ」と書いていた。これが『世界婦人』上の松子の最後の論説であった。この間、松子は、『世界婦人』から世界の女性解放や社会主義についての多様な情報を得た一方、日本にある社会主義文献を読み、とくにフランス革命に強い関心を示していたという。世界的な視野をもつ女性活動家に成長していったのである。後年、松子は『青鞜』に集った平塚らいてうらの近代的女性=「新しい女」に先立つ「新しい女」であったと評価されることになる(このあたりの詳細は、鈴木『広島県女性運動史』38-43頁;吉田「新しい女」80-82頁;『明治社会主義史料集』別冊『世界婦人』)。

では、この時期に「日本にある社会主義文献」とはどういうものがあったのか、これは後に見ることにして、この時期に松子が関心を持った日本での社会主義の様子はどうであったのだろうか。今日からはこう見られている。

「一九〇〇年前後から一九二〇年代前半までが日本における「初期社会主義」 の時期であるが、初期社会主義には、多様な人物がおりなす人間関係のおもしろさと可能性を秘めた未分化の思想状況があった。 そして、幸徳秋水、石川三四郎、安部磯雄、片山潜、大杉栄、神川松子、伊藤野枝、管野スガ、堺利彦、荒畑寒村等々、 思想との葛藤に生きる人間の魅力が人をひきつけて離さないものがある。 しかし一九二〇年代後半以降、星雲状態であった思想がそれぞれに分化し、分立した組織が確立し、ときとしては コミンテルン等の国際的権威により思想の独自的発展の契機が失われ、人間が組織に埋没しがちな状況となった」(石川捷治「社主義者における『性』と政治―日本の一九二〇〜三〇年代を中心として―」『年報政治学』2003年54号 163頁)。

 こういう魅力的な「初期社会主義」の真っただ中に松子は飛び込んだのである。

松子はいつからか確定できないが、東京朝日新聞に勤めていた二葉亭四迷に師事していて、かれにロシア語やロシア文学を学んだ(鈴木『広島県女性運動史』56-56頁は、1907年の『世界婦人』創刊前後かという。また『大阪平民新聞』の1907年10月20日号には、「神川松子氏、深く思ふ所ありて、此の頃某露国婦人につき専ら露西亜語の研究中」と記されているという。西川末三『測機舎と共に』(6頁)にある末三の記憶によると、松子は青山女学院での勉学中に、英語のほかにロシア語も学び、長谷川二葉亭に師事したのだという)。1908年6月に二葉亭四迷はロシアへ派遣される(1909年5月にベンガル湾で客死)が、出発の前に二葉亭四迷は昇曙夢に松子を紹介している(松子『測機舎を語る』240頁)。

しかし、松子は、まもなく、その6月22日の「赤旗事件」で、荒畑寒村、堺利彦、山川均、大杉栄、菅野すが、大須賀さと子などとともに検挙された。この「赤旗事件」というのは、神田の錦輝館で社会主義者たちが開いた山口孤剣(義三)の出獄祝いの際、荒畑らが赤旗を掲げて街頭に出て警察に捕まったという事件である。松子はのちに神野すがと共に神田署へ面会に行って捕まったのであった。裁判は8月18、22日に行われ、29日に判決が言い渡された。幸い、松子は菅野すがとともに無罪とされた。この時、松子は公判で堂々と論陣を張って、逮捕の不当を主張し、一躍有名になったという(<赤旗事件公判筆記> 『熊本評論』29号、1908年8月20日)。松子は拘留を解かれた後9月に広島に帰るが、11月には上京、柏木辺に落ち着いた。広島にいた間、および上京後の松子の行動はよくわかっていない(鈴木『広島県女性運動史』47頁は「不可解」という)。しかし、「29日間の独房生活」は、「彼女の心境に大きな変化を与えたに違いない」と、のちに末三は回顧している(末三『測機舎と共に』7頁。29日間の独房生活というのは不明)。

その後、09年に西川末三と結婚して、台湾に渡るのである(以上、より詳しくは鈴木『広島県女性運動史』11-47頁)。

【続く】

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(9月に広島に帰った際、姉妹と撮った写真)

参考文献
著書
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年
樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年
折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年
測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

論文
鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号(1980年3月)
鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号(1983年3月)
大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)
吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)
『明治社会主義史料集』第1集『直言』、労働運動史研究会、1960年
『明治社会主義史料集』別冊『世界婦人』、労働運動史研究会、1960年

(「世界史の眼」No.5)

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歴史と「来歴」―坂本多加雄の構築主義的「国家論」
小谷汪之

はじめに

 坂本多加雄は『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』(以下、『天皇論』とする)で、「国家の来歴」という言葉を用いて、明治維新以降の日本近代国家の歴史を意味づけようとした。端的にいえば、いわゆる「東京裁判史観」批判の文脈で、日本近代国家のあり方を意味づけようとしたのである。アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)における日本の敗北(1945年)の後、日本のA級戦犯たちが裁かれた「極東国際軍事裁判」(いわゆる「東京裁判」)は日本近代史の見方を歪め、「東京裁判史観」ともいうべき偏向した歴史観を生み出した、と批判する風潮が1990年代からとみに強まってきた。西尾幹二と藤岡信勝を中心として1997年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」はその一つの現れである。坂本の主張も、基本的には、このような風潮に沿うものということができるであろうが、その中では最もまともなものであろう。

1 「人の来歴」

 坂本は、「国家の来歴」について語る前提として、「人の来歴」について語っている。「国家の来歴」を「人の来歴」とのアナロジーで説明するためである。
 この「人の来歴」と歴史研究(伝記的研究)との相違について、坂本は次のようにいっている。

 ここでは、物語すなわち来歴を、当人が自己自身について語るものを指し、歴史については、対象となる人物やその周辺に生じた様々な出来事の相互の関係について、当人が認知していなかった要素をも考慮に入れた、厳密な因果関係の解明を目指すものを指すことにしよう。(『天皇論』28頁)

 そのうえで、「人の来歴」、すなわち「当人が自己自身について語るもの」にかんしては、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はないであろう。〔中略〕何よりも、本人が納得して語り、それを聞いた周りの者も、一人の人間の中で起こり得たこととして受け容れるような『筋』があればよいのである」(『天皇論』19頁)、とする。
 ある人の「来歴」とは、その人が自分の過去を振り返って、自分が今ある所にどのようにしてたどり着いたかを、ある「筋」をもって語った「物語」というわけである。そして、その「筋」はその人の将来の生き方の方向をも指し示すものとされる。
 坂本は、このようなものとしての「人の来歴」にとって、歴史研究は「極めて重要な貢献をする」として、次のようにいう。

ひとつには、まず、歴史研究は〔その人の〕来歴が言及する個々の事実の実在性を確証することで、その「真実性」を高める。次に、それは、来歴の「筋」の理解に奥行きを与える。〔中略〕すなわち、われわれの来歴の理解は、その来歴自身は触れていない様々な背景を歴史研究によって補われることで、より充実したものになるのである。また、来歴は、このように外からの歴史的な説明の補足を受けるまでもなく、自らの筋のなかに、適切な歴史的説明を様々に織り込むことで、その「信頼性」を高めることが出来るのである。(『天皇論』33‐34頁)

 「人の来歴」は、自分にとって都合のいい歴史研究の成果を取り込むことによって、「真実性」と「信頼性」を高め、補強されるというわけである。しかし、歴史研究から作用を受けて「来歴」に変化が生まれるということはない。「人の来歴」は、自分にとって都合の悪い歴史研究の成果を取り込むことはしないからである。したがって、ある人の「来歴」が変わるとしたならば、それはその当人が違う「来歴」(物語)を自分にとってより好ましいものとして受け容れた時だけであろう。
 

2 「国家の来歴」

 坂本は、このようなものとしての「人の来歴」と「国家の来歴」とを同じ文脈に置こうとする。坂本のもう一つの著書に、『日本は自らの来歴を語りうるか』というのがある。この「日本」を「国家」に置き換えれば、「国家は自らの来歴を語りうるか」ということになるわけだが、国家(日本)が自分自身について自ら語りうるわけはもちろんない。したがって、「国家の来歴」というのは、坂本なり誰かが国家の名において語ったものということでしかない。その点で、個としての人間が自らについて語る「人の来歴」と「国家の来歴」とは本質的に異なるのだが、坂本は両者の共通性の方を強調して、次のようにいっている。

来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有するのである。(『天皇論』242-243頁)

 こうして、「人の来歴」と「国家の来歴」を共通項でくくれば、「国家の来歴」にも、「人の来歴」と同様に、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はない」ということになる。
 坂本は、「来歴」という概念を、先の戦争中に「大東亜共栄圏」のイデオローグとして「活躍」した京都学派、特に高山岩男の「系譜」という概念からヒントを得て構想したようで、この「系譜」について、次のようにいっている。京都学派の企図した「世界史の哲学」にとって、「現在と過去の双方に対して、単なる歴史研究とは異なった特有の考察の方法」が必要であった。こうした考察の方法の根底にあるのは「創造的構想力」であり、それに導かれて歴史を再構成したのが「系譜」である(『日本は自らの来歴を語りうるか』228頁)、と。そのうえで、坂本は次のようにいう。

そもそも不確実な未来に向けてわれわれの来歴を確認しようとする場合には、実証主義的な考察と並んで、「京都学派」が掲げたような「創造的構想力」に立脚する考察もまた必要とされるのではないだろうか。(『日本は自らの来歴を語りうるか』237頁)

坂本のいう「われわれの来歴」、すなわち近代日本の「国家の来歴」とは、それを語る人間が自らの「実証主義的な考察」から導き出した(帰納した)ものではなく、それとはまったく別に、「創造的構想力」によって構想したものだということである。過去から現在に続く歴史の流れの先に、未来を展望しようとするのが実証主義的歴史学の立場であるが、それだけでは「不確実な未来」を見通すことはできない。それとは、次元の異なる「創造的構想力」によって、未来を透視することが必要だというわけである。したがって、この「創造的構想力」とは何かということが問題になるが、この点について、坂本は十分な説明をしていない。

3 歴史と「来歴」はどこが、どう違うのか?

 前にも引用したが、坂本は次のようにいっている。「来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有する」。しかし、このことは、「来歴」だけではなく、実証的歴史研究に依拠して書かれた歴史にもあてはまる。書かれた歴史というものは、「過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づける」ことによって成り立つものだからである。その意味で、クローチェが言うように、すべての歴史は「現代史」なのである(カー『歴史とは何か』24‐25頁)。それでは、このようなものとしての歴史と、坂本のいう「来歴」とはどこが、どう違うのであろうか。
 書かれたものとしての歴史は、実証的歴史研究が進展して、新しい歴史的事実が発見されたり、時代の流れと共に、新しい「歴史の見方」が生まれたりすれば、それにともなって、変化し、多様化していく。逆に、歴史の書き方が変化し、多様化していけば、そのことが実証的歴史研究の方向を多様化したり、新たな「歴史の見方」を生み出したりすることにもなる。このように、実証的歴史研究と「歴史の見方」と書かれたものとしての歴史は、それらの間の相互作用を通して、つねに変化し、新しくなっていくものなのである。
 しかし、「来歴」の場合はそうではない。前にも指摘したように、「来歴」は歴史研究の成果を取り入れて、自己を補強することはあっても、歴史研究から作用を受けて変化するということはない。「来歴」は歴史研究からは独立した、まったく別個の「創造的構想力」によって構想されたものだからである。この「創造的構想力」は、もっとも広い意味では、一つの「歴史の見方」といえるであろうが、それが実証的歴史研究との間に相互作用をもたないという点で、あるべき「歴史の見方」とは異なる。「歴史の見方」は、実証的歴史研究によって、つねに再検証され、変化していくべきものだからである。
 以上の点において、「実証的歴史研究―「歴史の見方」―書かれた歴史」という関係と、「実証的歴史研究―創造的構想力―来歴」という関係は、相互にまったく異質のものということができる。

おわりに

 「東京裁判史観」批判を旗印とする人たちの多くが、関東大震災時の朝鮮人虐殺はなかったとか、南京大虐殺は虚構であるとか、実証的歴史研究の成果を頭から全面的に否定するのとは異なり、坂本多加雄は実証的歴史研究と「共存」し、その成果を利用しようとする。坂本によれば、「国家」(具体的には日本近代国家)はそれに固有の「来歴」(自分自身の物語)を持つのであり、「来歴」は歴史とは異質なものであるが、実証的歴史研究の成果に依拠することによって「真実性」や「信頼性」を高めることができるというわけである。
 坂本のいう「国家の来歴」というのは、一種の構築主義的「国家論」ということができるであろう。その点では、今日の思想状況に即応しているのであり、頭から無視したり、「非科学的」などと言って排斥したりするわけにはいかないものだと思う。

参考文献
カー、E. H.(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。 
坂本多加雄『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房、1994年。
坂本多加雄『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』文春学芸ライブラリー、2014年(『象徴天皇制度と日本の来歴』都市出版、1995年、を改題して、再刊)。

(「世界史の眼」No.4)

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芥川龍之介とウオルター・ローレイ
南塚信吾

 芥川龍之介は1917年(大正6年)に発表した短編『西郷隆盛』において、「ウオルタ・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というものに触れている。そこでは、「およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。・・・ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。」と出てくる。(『芥川龍之介全集』2、ちくま文庫、1986年、107ページ)

 この短編『西郷隆盛』は、西南戦争を卒論で扱おうとする大学生と、一老人が、西郷隆盛が城山で戦死したことの真偽をめぐって対話をし、老人が、西郷がそこで死んだという決定的な証拠(史料)はないのだから、それは確定できないことであるとし、歴史はそのように史料で客観的に確定できないことが多いから、自分は歴史よりも文学を選ぶのだという話になっている。「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というのは、「ウオルタア・ラレエ」が「客観的な事実」というものが何かが分からなくなって、その世界史の原稿を途中で破棄してしまったという話である。

 この話を歴史の面から考えてみると、二つのポイントがある。

 ひとつには、「正確な史料」などないのだ、「事実の記録」には人は「ディテエルの取捨選択」をするのだという記述から、この1917年の時点で、すでに歴史における史料の重要さ、その確定の難しさ、史料に入り込むバイアスということが、考慮すべきことになっていたということが知りうる。欧米の歴史学では、ランケの史料批判の方法が広がっていて、こういう考慮は当然のことになりつつあった。ただ、それを超えて「懐疑主義」的になるまでは行っていなかった。欧米の歴史学の分野では、管見の限りでは、フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』(1885年)などに、そういう「懐疑主義」にまで行く必要はないという方法論が述べられている。だが、文学や哲学の分野では、そういう「懐疑主義」はひろがっていたのかもしれない。アナトール・フランス『エピクロスの園』(1895年)のなかの「歴史」というエッセイに見られるような「歴史」への「懐疑主義」が広がり始めていたのかもしれない。『エピクロスの園』のなかの「歴史」において、アナトール・フランスは、「公平な歴史というものがあるだろうか」と問い、結局、「歴史は科学ではない。芸術である。歴史においては想像力によってしか成功できない。」と言っている(『エピクロスの園』岩波文庫、96-97)。芥川は、アナトール・フランスの影響を強く受けていたから、この『エピクロスの園』などを読んでいたとすれば、そこから懐疑主義を取り入れていたとも考えられる。芥川も、『西郷隆盛』の最後において老人に、「僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。」といわせている(『芥川龍之介全集』2、111ページ)。

 もうひとつは、「あれは君も知っているでしょう。」といっている点である。「あれ」というのは、「正確な史料」などはないから「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」ということであろう。そうすると、当時たんにウオルタア・ラレエの名前だけでなく、またかれの『世界の歴史』だけでなく、かなり重要な内容が知られていたということになる。しかし、ウオルタア・ラレエの『世界の歴史』もそれが中途で終わったという話も、すでに日本に知られていたのかというと、管見の限りでは、見当たらない。ちなみに、ウオルタア・ラレエ自身について、当時どの程度知られていたのかを調べてみると、かれについては、夏目漱石の『倫敦塔』(1905年)という短編に出てくる。そこには、「階下の一室は昔しオルター・ロリーが幽囚の際万国史の草を記した所だと云い伝えられている。」と出てくる。だが、ここで「オルター・ロリー」がなんの説明もなく出てくるということは、すでに「オルター・ロリー」については、日本で知られていたということであろうか。ただし、漱石は、「オルター・ロリー」が万国史を途中で放棄したということは書いていない。

    * 

 さて、サー・ウオルター・ローレイは1614年に『世界の歴史』を書いている(いや途中まで書いた)1。17世紀には、神の摂理によって歴史を見るキリスト教的な「普遍史」に対し、合理主義的批判が始まってはいたが、まだその批判が対案を示せていない時代であった。そのような時代に、キリスト教の立場から書かれた世界史のひとつがこれであった。

 周知のように、ローレイは、エリザベス女王(在位1558~1603年)の廷臣で女王の寵愛を受け、イギリスの植民地政策の先頭を切っていた。しかし、かれは「スペインのスパイ」であるというので、1603年に告発され死刑の判決を受けたが、国王ジェイムズ(在位1603~25年)は最後に恩赦を与え、かれをロンドン塔に幽閉させた。かれはここに1603年から1616年までの13年間を過ごすことになる。まさにこのロンドン塔に幽閉されているときにかれは『世界の歴史』を書いたのである。1616年に釈放されてすぐにかれはギアナへ遠征に出かけたが、これもスペインとの関係を疑われて、1618年にふたたび逮捕され、裁判なしに処刑が決定され、執行された。

 かれの『世界の歴史』は全部で4巻からなり、第一巻は、世界の創造、アダムとエバ、「ノアの洪水」、ノアの子孫による地球の植民と最初のネイション、政府のはじまりなどからなり、第二巻は、出エジプト、モーゼの律法、イスラエルの初代王(ダビデ、ソロモンなど)、第三巻は、ペルシア帝国、ペロポネソス戦争、ギリシアからなり、第四巻は、マケドニア王国、ポエニ戦争、マケドニアとローマの戦争で終わっていた。さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定であったが、第二次マケドニア戦争のところで急に終えてしまっていた。

 それは、古い歴史から新しい歴史への「移行期」の産物であった。かれは文書に依拠しようとする一方、神の摂理をも明らかにしようとしたのである。ローレイの『世界の歴史』は、イギリスのみならずヨーロッパにおいても、時間と空間の双方において世界史というべきものが目指されるなかで、本格的な世界史としては、最も早い著作であるとしばしば言われる。ローレイの『世界の歴史』は完全に聖書に忠実な「普遍史」ではなく、キリスト教の世界からすると、ある意味では「問題作」であった。ローレイは、聖書に基づいて世界史を論じているが、すべての論点について、諸説を突き合わせており、事実上、聖書にそのまま基づく「普遍史」に深刻な疑問を呈しているのである。かれは史料を重視したから、史料をコピーさせたり、借り出したりして、書いたという。これはルネサンスを経た時代の合理的な思考の表れであり、「普遍史」の「危機」の現れでもあった。その意味で、この本は重要な意味を持っている。
 
 かれが『世界の歴史』を途中で放棄した理由はいろいろと考えられている。通説によれば、かれの後援者でかれを救い出そうと努力していた若きヘンリー皇子が1612年に没したので、ローレイは落胆し、さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定を放棄してしまったといわれる。たしかにそれは、皇子に捧げられていた。しかし、他にも説があり、定説はない。

    *

 さて、このローレイの『世界の歴史』はいつどのように日本に入り、芥川らの読むところとなったのだろうか。明治期には欧米の世界史がつぎつぎと翻訳され、「万国史」などとして出版されていたが、筆者がこれまでに見た限りでは、ローレイの『世界の歴史』が紹介されたのは、アメリカのジョージ・フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』2(1885年)を通してではなかったかと考えられる。かれは1852-54年にドイツへ行って、神学を学ぶとともに、歴史研究の方法を徹底的に学んでいた。かの本は、ランケ以後のドイツ史学の方法を学びつつ書かれた世界史で、19世紀の欧米での「世界史」の形成の一つの頂点をしめしている。これは日本にも紹介され、大きな影響を与えることになる。長沢市蔵『新編万国歴史』1893年(明治26年)はその要訳であった。ランケやブルックハルトの世界史が未だ紹介されていない日本において、このフィッシャーの世界史は、19世紀末のヨーロッパでの「世界史」をその方法と構成において最も忠実に日本へ伝えたものであった。フィッシャーは、ランケにならって史料の重要さを説くが、この史料の重要性を考えるあまり、歴史に「懐疑的」になることも批判していた。

 興味深いことにここで、ウオルター・ローレイの『世界の歴史』の話が出てくるのである。ローレイがロンドン塔に幽閉されて、『世界の歴史』を執筆していたとき、牢獄の中庭で大騒ぎが起こった。かれが、その騒ぎに関係した人たちから聞いたところによると、その説明にはあまりに多くの矛盾があって、本当のところを確認することができなかった。そこで、かれは、このような狭い場所に起きている出来事さえ確定できないのだから、この広大な世界という舞台に起きていることを描くということは無駄なことではないかと考えた、というのである。それは懐疑的すぎるとフィッシャーは言うのである。

 これはひょっとしたら、芥川龍之介が『西郷隆盛』(大正6年)において述べていた話のネタなのかもしれないと思ってしまう。しめたと思って調べてみると、フィッシャーの本の抄訳である長沢市蔵『新編万国歴史』ではこの史料論のところが翻訳されていないのである。とすると、芥川は夏目漱石から学んだのだろうか。あるいは東京帝国大学文学部で学んでいるときに英語で読んだのだろうか。そこでの大塚保治の美学講義で語られていたのだろうか(小谷瑛輔氏のご教示)。さらには、かれのよく通った漱石主催の「木曜会」での話題だったのだろうか(木村英明氏のご教示)。今のところ、これは疑問のままにしておくしかない。ともかく、芥川龍之介『西郷隆盛』の中には、世界史がうごめいているのである。

1 Sir Walter Rawleigh, History of the World, London, 1614.
2 George P. Fisher, Outlines of Universal History, New York, 1885.

(「世界史の眼」No.4)

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新刊紹介:イスラム国暴力支配をはね返したロジャヴァ革命の記録―ミヒャエル・クナップ、アーニャ・フラッハ、エルジャン・アイボーア/山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命』(青土社、2020年刊)
藤田進

 2011年春「シリアのアラブの春」として始まったシリアの民主化要求運動が、大国の軍事介入と「イスラム国」の凄惨な暴力がもたらした野蛮な戦争と国内外の何百万人のシリア難民の群れに覆われた「21世紀最悪の人道危機」に帰結した事態を前にして、苛酷な状況下において民主主義的なシリア社会の構築に向けた革命的な取り組みが繰り広げられていたのを伝える本が登場した。

 本書は、文化人類学者、歴史家、市民運動家のドイツ人女性たちがシリア北部のクルド人地域に出現した「ロジャヴァ革命」について現地での詳細な聞き取り調査を踏まえて共同執筆したものである。ロジャヴァ革命というクルド人による現在進行形の取り組みを、革命における女性の重要性に焦点を当てて描き出した本書は、クルド人についての内在的理解を深めさせるだけでなく、クルド人を抱えている中東諸国にとってクルド問題がいかに大きな影響を及ぼしているかを知らせしめる第一級のクルド文献である。

 ロジャヴァは、トルコ―シリア国境沿い地域のクルド人住民の多い一帯をさす地名であり、そこには多様なエスニック・グループの住民も住んでいる。シリア政府は1965年にトルコ国境沿い地域を「アラブ人ベルト」とする決定を下し、73年アサド政権は同地域のクルド人村落に隣接した41のアラブ新村をクルド人の土地を強制収容して創設し、ユーフラテス川のダム・貯水池建設で家を失ったアラブ人家族らを入植させ、土地と仕事を与える優遇政策をとった。一方土地を奪われたクルド人農民は「外国人」宣告をされ、自分の財産を持つことも、家を建てることも古い家を修理することも禁じられた。ロジャヴァはシリアの最貧困地帯とされ、「無国籍」のクルド人には身分証明書がなく、市民権を奪われて子供の出生や結婚の登録も出来ず、土地を奪われたクルド人農民の多くはシリアの大都市への出稼ぎ労働を強いられ、子供たちも学校を終えるとシリアの都市で低賃金労働者になった。バース党政権下でロジャヴァはシリアの最貧困地帯とされ、クルド人には差別政策が加えられた。

 ロジャヴァのクルド人女性の多くは市民権を拒絶されたうえ公的な生活からも排除され、伝統的社会の家父長的支配の虜とされて夫や父親に経済的に依存し、家庭内暴力も流布していた。女性の救いの道となったのは、「社会の解放は女性の解放なくしては不可能である」と説くクルド解放運動指導者でクルディスタン労働党党首アブドゥラ・オジャランが1980、90年代にシリアで主宰した草の根運動だった。それに参加した数千人のクルド人女性たちは「自らの人生に責任を持ち、自ら決定できるように努力する」という考え方を育まれ、自らの解放とすべての女性の解放のための闘いを実践しようと決意していった。女性たちは一軒ずつ訪問して家にいる女性に解放のための運動に加わるように説得して回り、草の根で女性たちの組織化をはかっていった。

 2011年「シリアのアラブの春」を迎えたクルド人はクルド差別政策の改善を期した。しかし、アサド独裁政権打倒のため結成された「自由シリア軍」もバース党政権に代わる新シリア政府を標榜する「シリア国民評議会」も指導部はイスラム主義者に占められており、アサド政府と同じように「シリアはアラブ人・イスラムの国家」、「クルド人は外国人」との見解に立っていた。2012年7月、クルド人運動はロジャヴァ地域をバース党政府支配と切り離して「ロジャヴァ三州」宣言に踏み切り、独自の「民主主義的自治」作り=ロジャヴァ革命をスタートさせた。

 「民主主義的自治によるコミューン体制の樹立」構想に沿って、「女性の自由」「エスニック的・宗教的多様性」「労働者階級重視」を根本とする「社会的契約」に基づいた社会作りを目ざし、シリア国家から離脱しない「非中央集権と民主主義」に基づく独自の自治が志向された。

 「民主主義的自治」は、自己防衛手段たるクルド人民防衛隊と3-4割を占める女性防衛隊を備えていた。ただしその軍事力は「社会を防衛するための治安部隊」とされており、「自己防衛」の目的は敵に攻撃の意図を諦めさせることにあるとされた。ロジャヴァは徹底した民主主義をめざし、利潤のための資本主義経済を拒否し、女性防衛部隊の多くは家父長制的な支配をきっぱりと否定した。ロジャヴァはそれ故に「イスラム国」と同盟者に攻撃された。

 2015年1月、コバニを占領したイスラム国との4カ月に及ぶ激しい戦闘で500人の人民防衛隊と女性防衛隊の戦闘員が殺され、ほとんどの家庭も殉教者を出し、都市の建物のおよそ80パーセントが破壊された後に、コバニ市も365村落のほとんども解放された。それ以後もイスラム国占領からのロジャバ諸地域の解放が続き、人民防衛隊と女性防衛隊がエスニシティの混在するロジャヴァ諸都市を防衛し差別のない自治を運営したことによって他の住民たちの支持が拡大し、アラブ人、アラム人、トルクメン人、クルド人は協力し続けることになった。2015年10月、対イスラム国共同戦線と自己統治による民主主義的シリアの樹立をめざすクルド人・アラブ人・アラム人合同の「シリア民主軍」が創設され、翌16年3月「ロジャヴァ・北部シリアの連邦制」宣言で、「非中央集権と民主主義」に基づく解放地域がロジャヴァ3州の外部にまで拡大した。

 本書が描き出した「ロジャヴァ革命」における「民主主義的自治」は、2019年以降トルコをはじめ大国の軍事的干渉によって再び潰されていく方向にあることが危惧される。

(「世界史の眼」No.3)

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