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国連改革の動き
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 先月、P.Manning(パトリック・マニング)が、かれのホームページContending Voicesに出した、USの政策を批判し国連の力の増大に注目する見解Who rules the world today? を紹介した。今月は、それに続いてかれが同じくContending Voicesに発表したThe Campaign for UN Reform(Mar. 3, 2024)を翻訳して紹介したい。もとはアフリカ史を研究していたマニングは、アフリカを中心とする途上国の動きをよく見ているようである。世界的に多数の諸国の動きとして、国連改革の動きは無視できないもののようにも思える。国際的に圧倒的多数の国々の批判を無視してガザのパレスチナ人ジェノサイドを続けるイスラエルと米国、これを許す国際秩序はじょじょに昔のものになりつつあるかもしれない。マニングの大局的な見方を参考にしていただきたい。(南塚)

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 国連の「未来サミット」が2024年9月にニューヨークで開かれるはずである。この会議は、国連の改組に焦点を当てたもので、国連事務総長アントニオ・グテーレスの支援を受けて、数年前から計画されてきたものである。このサミットの声明は、季候の持続可能な発展目標と社会的平等に焦点を当てることになっているが、サミットは長い間求められてきた安保理事会の改革の機会だとますます見られるようになってきている。

1. 国連安保理改革の呼びかけ

 国連の最高執行機関である安全保障理事会は、常任理事国5か国、非常任理事国10か国から成る。5か国はいかなる決議にも拒否権を持つ。この拒否権を使って、米国、英国、仏国は長らく他国の影響力を制限してきた。中国とロシアも常任国ではあるが、安保理にもっと多くの国を加えることを妨げ、グローバルなバランスを阻害してきたのは、米国と英国である。

 1992年にロシアがソ連の崩壊を受けて常任理事国となった時から、安保理の拒否権を見直そうという関心が高まってきている。2015年に、フランスとメキシコが、「大量虐殺」の場合は安保理の常任理事国は拒否権を行使しないことにしようという提案をした。2022年4月には、国連総会は、安保理におけるすべての拒否権を主題にして討議するよう命令を出した。

 もっと近いところでは、2022年10月に、ウクライナでの平和に関する決議にロシアが拒否権を使ったところから、安保理の改革がいっそう緊急の問題となった。(カーネギー国際平和基金の2023年6月のコロキウムでは多くの国から深刻な懸念が示された。)そして、ガザでの戦争が始まった後は、米国が、2023年の10月と12月に3回にわたって戦闘停止の決議に拒否権を使い、そのことが安保理の改革をより強く呼びかけることになった。

安保理に理事国を追加するという事は、強力な候補国の中から選ぶことを必要とする。現在の非常任理事国は選出されているわけであるが、それは世界の5つの地域からそれぞれ2か国ずつ選ばれていて、任期は2年である。そこで、さらに5か国の常任理事国と5か国の非常任理事国を選んで、25か国構成にするということが考えられる。常任理事国5か国には、アジアからインドと日本、西ヨーロッパからドイツ、東ヨーロッパからポーランド、ラテンアメリカおよびカリブ地域からブラジルとメキシコ、アフリカからはエジプト、ナイジェリア、南アフリカが候補として考えられる。

2. 今から9月までのキャンペイン

 2024年3月現在、イスラエルーハマス戦争に関連するいくつかの動きによって、国連の運営をめぐる争いがいっそう激しくなっている。第一の動きは、現在進行中の争いそのもので、2月2日に、米国はガザでの停戦決議にまたもや拒否権を発動した。(この拒否権についての国連総会での討論は3月4日に予定された)。

 第二の動きは、イスラエルに対するジェノサイド告訴に関する1月26日の国連司法裁判所の命令である。司法裁判所はできうる限りで最も強い命令を出して、イスラエルにすべての殺害をやめ、人道援助への干渉をすべてやめるよう要求した。それでも、裁判所は執行機関ではなく、安保理事会のみがこの命令の順守を強制できるのであり、米国はそういう行動には拒否権を使う用意をしている。

 最後に、司法裁判所はイスラエルによるパレスチナ占領は非合法であるか否かについて判断を下すように求める国連総会の要請に答えていた。2月19日の週に50か国以上が裁判所に意見を述べたが、その90%が占領は非合法であると述べていた。

このあと二つのデッドラインがこの先に待っている。一つは、3月10日で、ラマダンの開始の日である。イスラエルは、ハマスが人質をすべて解放しない限り、この日にガザの人口密集したラファ地区への全面攻撃を開始すると約束している米国主導の交渉は成功の見込みはほとんどない。ハマスもイスラエルがガザから撤退しない限り、同意しないという。さらに、ハマスはパレスチナの独立を主張するのに、イスラエルはパレスチナ国家を認めることを拒否している。そして、米国を始め他の8つの富裕国は、UNRWA救済機関への拠出を停止している。米国のバイデン大統領は一方でさらなる武器輸送を計画し、他方で停戦を呼び掛けている。3月には、停戦がなるだろうか、あるいはラファへの壊滅的な攻撃があるだろうか。あるいはその両方だろうか。

 二つ目のデッドラインは9月18日である。これは「未来サミット」の開会の日で、そこでの議論では国連改革が中心となるであろう。きっと大多数の国が、常任国と非常任国を降らして安保理事会を拡大すること、ならびに常任理事国の拒否権を廃止ないしは制限することを求めるであろう。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、島嶼諸国はほとんど一致して安保理改革を支持するであろうーもちろん言うまでもなくガザでの停戦も。一方、ヨーロッパの諸国は、ガザと安保理改革の双方について、意見が分かれるであろう。

 安保理改革のキャンペインは勢いを増している。ガザの停戦および安保理改革の両方を目指して外交活動を最も活発に行っている国々は、南ア、トルコ、ブラジル、アルジェリア、エジプト、スペイン、ベルギー、アイルランドである。アラブ連盟とアフリカ連合は団体として立場を明らかにした。ロシアと中国は、ともに拒否権を失うかも知れないが、このキャンペインを静かに支持し続けている。概して、安保理の構成国の大多数はしっかりと改革支持の立場である。現在の国連総会議長であるトリニダードのデニス・フランシスもかれの2023-24年の任期中ずっと改革を積極的に支持してきた。そして、アフリカから出るであろうかれの後任も、同じ政策を採りそうである。

 改革のキャンペインの原動力になっているのは、安保理の議長自身である。議長は構成国の中で毎月輪番で交代する。2024年の1月と2月の議長はそれぞれフランスとガイアナであった。3月から10月までの議長に選ばれているのは、順番に、日本、マルタ、モザンビーク、韓国、ロシア、シエラ・レオネ、スロヴェニア、スイスである。このすべてが改革支持派である(ロシアとスイスをも含んで)。しかし、9月のサミットが安保理の改革に動いたとしても、最後に2024年中に行われる二つの大統領・首相選挙を乗り越えねば、変化は起らないであろう。それは英国と米国の選挙である。

 安保理改革への支持は国連自身に限られてはいない。中東における旧来の敵対関係が解消しつつある。とくに、トルコとエジプトの関係であるが、サウジアラビアとイランの関係もそうである。ブラジルのルラ・ダシルバ大統領は、アラブ連盟のカイロ会議とアフリカ連合のアジスアベバ会議で、ガザおよび国連改革に言及した。かれは翌日、ブラジルに戻って、リオでのG20の外相会議を主宰し司会を務めた。ここには、米国のアントニー・ブリンケン国務長官も来ていた。この会議で、G20の外相たちは、ガザでの停戦を呼び掛けた。1年前には、この反対に、かれらはウクライナで対ロシア戦争の継続を求める米国起草の呼びかけを発していたのである。

3. キャンペインのありうべき帰結

 国連改革は、実際遅くとも9月の「未来サミット」において山場を迎えるのではないか。安保理の構成の変化の議論が具体的に起こるたびに(実際に起こったときには)、それは激しいものになり、激論さえ起こっている。改革を提案する側は、5大国の拒否権にも拘わらず改革を実現するための道を見出す必要がある。結局は、国連憲章をほんの少し変えるだけで済むはずだが、そのような変更を行い批准するには、国連組織の原則と手続きに基本的な転換が求められるであろう。

 もし、拒否権を縮小ないしは廃止し、安保理に新たな国を加えるといった国連改革が進むならば、安保理と総会と事務総長の間で協力して、パレスチナに国家を打ち立て、ジェノサイドとパレスチナの地位についての国際司法裁判所の命令を実行し、ウクライナ問題に取り組むことができるかもしれない。そのような協力があったとしても、パレスチナやウクライナの問題、さらに中国の領土要求についても、実際の解決は、スムーズには進まないかもしれない。しかし、それらは、根本的に違った世界秩序の中で取り組まれることになるのである。

 一方、若しこの国連改革が失敗するならば、拒否権はそのまま残るだろう。そして米国は軍事力と組織的支配力をもって、グローバルな覇権を維持しようとし続けるだろう。たとえ、他の国からの支持がほとんどなくてもである。最悪の場合には、ガザやウクライナやその他の場所でもっと死者が出るであろう。そしてそのあとには、何年も国連の行き詰まり、国連の政策に一国主義が広がるであろう。これはすべて将来の国連改革のための運動を再開するのに反する事になるだろう。この場合には、米国は多分国連を脱退することを決めるのではないだろうか。それは国連にとっても米国にとっても破滅的なことである。大国の拒否権のない国連は先例のない事ではない。他の大国は、「普通の国」としての地位になることの教訓を学んでおかねばならない。時とともに、これら諸国は皆、世界の共同体の中で協力し合う市民となることを学ぶことになるのである。米国はそれに続くであろうか。

(「世界史の眼」No.51)

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くすぐられた大国意識―黄禍論をめぐって―
稲野強

 「脅威論」とは、一般に「ある国の覇権主義が他国または世界にとって重大な脅威になる言説」と捉えることができるが、ここでは対象国家・国民・民族は、その言説をどのように受け止めたかを考えてみる。その例として「黄禍論」を挙げてみたい(1)

 黄禍論は、現代でも、欧米の言論界で時折人種差別的に持ち出され、物議を醸すことがあるが、19世紀の終わりから20世紀初めにかけて帝国主義期の欧米で流布した黄色人種差別論・脅威論である。その根底には「アジアの野蛮」に対するヨーロッパ=キリスト教世界の防衛という歴史の記憶がある。そしてここで考察の対象とする黄禍論は、日清戦争(1894)で「眠れる獅子」の中国に勝利した「小国」日本の急速な台頭と、日本が中国と連携ないしは中国を指導してヨーロッパ勢力をアジアから駆逐するのではないか、という欧米の危惧の念もしくは恐怖感から出現したものである(2)

 この黄禍論=脅威論に対して日本政府・ジャーナリズムはどのように反応したのか。

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一般に黄禍論の火付け役は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とされる。かれは、従兄弟のロシア皇帝ニコライ2世にけしかけ、ロシアの目を東アジアに向けさせる方策に出た。そのために、すでに人口に膾炙しているが、かれは黄禍の「脅威」をわかりやすく視覚に訴えるべく、タイトルに「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な財産を守れ!」と付した「黄禍の図」なるものを描き、その複製画をヨーロッパの王室、元首、米大統領に贈るという愚挙に出たのである(3)。描かれたのは、ヴィルヘルム2世の手紙によれば、「ヨーロッパの姿が仏教と野蛮の侵入に抗して十字架を守護するために天使ミハエルに招かれている聖者」である(4)

 ところで、ヨーロッパで流布した黄禍論に対する日本側の反応の早期の例としては、駐独(兼駐英)日本公使青木周蔵が1895年5月17日に、当時のヨーロッパ世論の動向を山県有朋に紹介している「手紙」が挙げられる(5)

 「…加之〔しかのみならず〕、日清の間に於て、『亜細亜は亜細亜人に属すべしとの主義』に基由する協議相整ひ、攻むるにも守るにも互に応援援護すべしとの攻守条約を締結せんには、黄人の勢力益々旺盛となり、白人社会は危害を受くるや必せり。故に、今や一方に於ては、日本人を牽制して其の勢力を発達牽制し、他の一方に於ては、是に由て清人を開明の区域に進歩せしめざるにあり、云々」と。

 また駐仏日本公使栗野真一郎は、1900年7月に青木周蔵外相への電報で英仏で黄禍論がジャーナリズムを賑わしていることを伝えている(6)

 「大体は日本が早晩支那と一致し、4億の人民に号令し、其固有尚武の精神を吹き込み、以て欧州に反対するに至れは、之れは由々敷大事にして、到底欧州の強敵たるを免れず。されは、日本をして今回の機を利用して支那に優勢を独占せしむる如きは極力排斥せさるへからすと諭し、又た政客中にも続々新聞に投稿し、黄色人種の危険Yellow Perilを喋々して日本圧抑の議論を称へ、平素沈黙を守るものも前記論旨には首肯すと云ふ有様にて、従ひてその反応も亦意外に偉大なりしは本官の遺憾とする処に有之候」〔原文は片仮名混りで、読点・句読点なし〕と。   

 両者とも、日清戦争で世界に力を見せつけた日本がリーダーとなり、中国と連携してアジアをまとめ上げ、一致団結してヨーロッパに刃向かってくる、という当時ヨーロッパで喧伝されていた典型的な黄禍論を紹介しているのである。かれらは、黄禍論を否定せず、その正当性を追認することで、期せずして日本の存在感を示しているように見える。ことに青木の指摘は、日本と中国との「黄人」〔黄色人種〕同士の連携を提唱しており、欧米列強が危険視するアジア・モンロー主義、大アジア主義への傾斜さえ明確に思考している。こうした思考は、日本国民・民族に対外的な危機感を募らせ、ナショナリズムを高揚させる働きをした。さらに、その動きは、勢いを得て、軍事力増強を果たし、大国意識に目覚め、「勢力圏たる」朝鮮半島を確保し、大陸進出への道を準備したのである。

 だが、その一方で、黄禍論を根拠のない妄想として、穏便にかわそうとする人々も主流として存在した。欧米列強に日本の近代化=西欧化の促進をひたすら承認を願う戦略をとる、言わばのちの国際協調派ともいうべきリベラルな政治家・官僚・ジャーナリストの志向である(7)

 かれらは、当時、日本が外交上もっとも苦慮している条約改正問題の完全な解決を果たしていない現状では、日本が近代化に邁進し、成功した国であることを世界に示す必要があると考えた。ただし、そこでは他のアジアの国々との同列化を嫌い、劣等国家・国民視されるのに耐えられずに差別化を図る自画自賛的な言論も見え隠れしている(8)。日本は、文明化された国であって、すでに「アジアの野蛮」を脱し、憲法を有し、議会主義が機能し、自由貿易が行われ、言論・移動の自由、信教の自由など市民的自由が保証される列国に連なる近代国家というわけであった。したがって、のちの日露戦争(1904‐5)においても、その方針は貫かれ、この戦争が、人種戦争、宗教戦争であることを否定し、「野蛮な」ロシアとの違いを明確に示し、自身をヨーロッパ文明に連なるものとするのである(今なお続く「西側諸国の一員」とレッテルを貼られたがる志向)。文明の側に立っているのは、ロシアではなく日本であるという優越意識の表明である。

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 そうした中で、上述の「〔黄禍論を虚妄として〕穏便にかわそうとする派」にとって危惧する極めて不都合な発言が日本の政治の最高指導者のひとり元老・伊藤博文から出た。その経緯は、こうである。

 伊藤は、1901年12月下旬にイギリス・ロンドンのモーブレイ・ハウスで上述の「黄禍の図」の複製画を見たとされている〔当時、伊藤は、12月上旬にロシアで日露協定交渉を打ち切り、イギリス・ロンドンに移動していた〕(9)

 お雇い外国人でドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツが、この絵を見た伊藤の不快感を、日記に次にように書き記している(10)

 「ドイツ皇帝は、ご自身のお描きになった絵の上でヨーロッパ文明の最も神聖な財宝が蒙古人によって脅かされていると説明されました。この場合だれであろうわれわれ日本人をお指になったことは疑いないところです。なぜなれば、…無気力な清国ではなく、頭をもたげてきた国日本こそ脅威的だったからです。しかもあなた方の皇帝のこの絵の中でわれわれは『放火殺人者』なる立派な役割で表されています」。

 この発言で注目すべきことは、日本の政治指導者の一人である伊藤が、欧米人が脅威と見なしている対象は、弱体化した中国ではなく他ならぬ日本であると断言し、黄禍論の存在を自ら肯定している点である。この伊藤の発言は、彼の身分ゆえに日本の総意ととられかねず、自国の近代文明と国際協調ぶりを世界にアピールし、国際的な承認を得ることを外交方針としていた日本政府にとって憂慮すべき案件となった。つまり、日本政府としては、事もあろうに日本が中国を従え、アジアのリーダーとして、ヨーロッパに脅威を与えるという黄禍論を「妄言」として打ち消しに躍起となっていたまさにその時期に、欧米列国に上げ足を取られる格好の材料を提供すると危ぶまれたのである(11)

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 対抗相手国や国民を非難し、軽蔑し、貶めるために喧伝された思想(ここでは黄禍論)が、往々にして逆に当の相手に優越感を覚えさせることもある。つまり、そうした思想によって敵視されたはずの国家国民は、当然ながらそれに反駁し、被害者意識をもつ。それと同時に、相手に注目され、脅威と見なされる存在であることで自らの自尊心がくすぐられる。それどころか、場合によっては「被害国家・国民」は強国意識・大国意識を覚醒させ、はては自国のパトリオティズムないしはナショナリズムに一役買う機会を与えられることになるのである。

 こうして被害者意識を植え付けられたはずの脅威論=黄禍論には、逆に対象国・国民(ことに日本の政治指導者、言論人)に大国意識を目覚めさせる側面があることが分かる。したがって日本政府・ジャーナリズムは黄禍論を声高に叫ぶことで、自国民を煽り、自国のナショナリズムを鼓舞するために、それを最大限利用した点も見逃すべきではない。

(注)

(1)平川祐弘『和魂洋才の系譜』河出書房新社、1971年、橋川文三『黄禍物語』、筑摩書房、1976年、ハインツ・ゴルビッツアー(瀬野文教訳)『黄禍論とは何か』草思社、1999年、飯倉章『イエロー・ぺリルの神話―帝国日本と「黄禍」の逆説―』、彩流社、2004年。

(2)拙稿「ハプスブルク帝国の轟く黄禍の叫び」『歴史読本』第56巻1号、新人物往来社、2011年、116‐121頁

(3)この図は、1895年4月、かれが下絵を描き、宮廷画家ヘルマン・クナックフスが仕上げた。同図は、『太陽』第14巻第3号、1908年3月、および橋川、前掲書の口絵にも使われている。

(4)ニコライ2世宛の手紙は、1895年9月26日付。大竹博吉監輯『独帝と露帝の往復書簡』ロシア問題研究所、1929年、19頁、大竹博吉訳纂「第3編 極東に関する露独両帝の往復文書」『外交秘録 満州と日露戦争』1933年、ナウカ社、300頁

(5)青木周蔵『青木周蔵自伝』東洋文庫、平凡社、1970年、286頁。この手紙は、橋川、前掲書、20‐21頁でも紹介されている。

(6)「機密第25号、7月28日付(「英人『ミトフォード』の対日誹謗論文に付報告の件」)」、外務省編纂『日本外交文書』第33巻別冊1、北清事変 上、1956年、428頁、大谷正『近代日本の対外宣伝』研文出版、1994年、324頁。

(7)逆に、政府の列強との協調姿勢は、屈辱的と見なす反西欧主義者の批判を受け、排外的国粋主義やナショナリズムの急速な台頭を促すことになった。ケネス・B・パイル(松本三之介監訳、五十嵐暁郎訳)『欧化と国粋―明治新時代と日本のかたち―』講談社学術文庫、2013年。
(8)日本人が、ヨーロパ人から他のアジア人と同列に扱われるのを屈辱と感じるのも、優越主義の表れである。森鴎外曰く、「白人種は我国人と他の黄色人とを一くるめにして、これに対して一種の嫌悪若しくは猜疑の念をなし居るのでございますから、…」「黄禍論梗概」『鷗外全集』第25巻、359頁、1973年。この個所は、研究上よく引用される一文である。例えば、中村尚美「日本帝国主義と黄禍論」『社會科學討究』(早稻田大学社会科学研究所)第41巻121、1996年、268頁。また平川、前掲書、148頁、飯倉、前掲書、106‐107頁。

(9)伊藤が、ロンドンで絵を見たというエピソードは、飯倉、前掲書、91頁、また同、第4章(注2)、16‐17頁を参照。

(10)トウ・ベルツ(菅沼竜太郎訳)『ベルツの日記』上、岩波文庫、1979年、320頁、中村、前掲論文、265頁。

(11)伊藤の発言以前に物議を醸したのは、近衛篤麿の「同人種同盟 附支那問題研究の必要」である。この論考は、日本が東アジアにおける野心を明確に表明していると受け取られた。「…最後の運命は、黄白人種の競争にして、此競争下には、支那人も、日本人も、共に白人種の仇敵として認めらる丶の位地に立たむ。…」、「支那人民の存亡は、決して他人の休戚に非ずして、又日本人の利害に関するもの」だから、日本人は中国人と協力して「人種保護の策」を講じなければならない。と。『太陽』第4巻第1号、1898年1月1日、1‐3頁。

(「世界史の眼」No.50)

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今日、世界を支配するのはだれか
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 イスラエルによるガザのパレスチナ攻撃は続いている。圧倒的な国際世論にも拘わらず。その背後にはアメリカ合衆国(US)の支持がある。最近、さすがにその支持には留保が付けられてきているようだが、イスラエルの戦闘の意思は固い。

 このようなガザ戦争について、そして何よりもUSのイスラエル支持について、US内部でも批判の声が高まってきている。われわれの良き友人である世界史研究の主導者P.Manning(パトリック・マニング)が、かれのホームページContending Voicesにおいて、USの政策を批判し、国連の力の増大に注目する見解を発表した。Who rules the world today? と題する小論である(Jan. 30, 2024)。彼はその小論を一人でも多くの人に共有してほしいというので、それを翻訳して我々のHPに載せることを歓迎してくれた。以下、マニングの小論の翻訳を掲載する。かれの大局的な見方を参考にしていただきたい。(南塚)

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はじめに

 イスラエルとガザの危機は世界の転換点になりそうである。USの世界支配はグローバルな世論に支えられた国連におけるコンセンサスに取って代わられるかもしれない。つまり、国連総会が国連安保理での5大常任理事国の拒否権というものを素通りして、大量殺戮を断固として終わらせ、戦後の体制づくりの調整をするかもしれない。

 なぜ国連総会が事態をその手中に収めなければならないのか。国連は大国よりも全世界の国々を代表するようになってきたので、USは頻繁に拒否権を行使するようになり、そして、UNの行動を阻止して、みずからの軍事的・政治的行動を拡大しようとしている。ここにはパレスチナ人の権利を制限し、イスラエルを武装化するための拒否権も含まれている。

1. 最近の危機の詳細

《ハマスの攻撃とイスラエルの報復》
 数年間の戦争の後、10月7日に行われたハマスのイスラエル攻撃は、1200人の人を殺した。ハマスは約200人の人質も取った。イスラエルはすぐに反応し、今でも続いている。USはイスラエルの戦争のために武器と政治的支持を与え続けている。4か月近くの爆撃と銃撃によって25,000人以上のパレスチナ人が殺された。とくに女性と子供である。そして、200万人が避難民となった。

《グローバルな世論》
 ガザでの平和を求める最近の世界的なデモは、これまでのそのような呼びかけのどれにも優っている。それは同一の意見ではない。しかしそれは未曽有のものであり、それが続けば、各国政府に影響力を与えるであろう。

《USの政策の偽善性》
 バイデン大統領とブリンケン国務長官は、イスラエルが戦争を縮小していると言う。だが、バイデンは米国議会に諮ることなく、イスラエルに攻撃兵器を送り、イエメン、シリア、イラク、レバノンを爆撃している。偽善性は明らかである。USは平和を支持していると主張するが、戦争を支持し続けているのだ。USの指導者たちは自分たちがイスラエルとパレスチナの戦後体制を決めるのだと期待している。だが、ワシントンはイニシアティヴを失いつつあるように見える。この間、EUのほとんどのアメリカの同盟国は戦闘の中止を求めている。国連総会の12月の緊急総会では、27のEUメンバーのうちの17国が停戦を支持した。その後、EU議会は停戦と人質解放を可決した。

《USの拒否権》
 12月8日の安保理において、停戦決議は全会一致に近い支持を得た。しかし、USが拒否権を発動した。国連における拒否権は、1950年以来少なくとも11回は克服されたが、USの拒否権は一度も克服されることはなかった。国連は新たな手続きを開発しない限り、行動をすることはできないのだ。

《南アのイスラエルに対するジェノサイド告訴》
 2023年12月29日、南アが国際司法裁判所にイスラエルがジェノサイドを犯していると告発した。「国民、民族、人種、ないしは宗教集団を、すべてないしは部分的に抹殺しようという意思をもってなされる罪」を犯しているというのである。南アは、速やかに「暫定措置」を裁定するように求めた。それによって、イスラエルに、ジェノサイドを犯すあらゆる扇動を止め、軍事行動を停止するなどを命ずるようにするためである。1月11-12日に公聴会が開かれた。バイデン大統領その他の幹部は、ぞんざいにもイスラエルに対する南アの主張を「価値のない」ものとして無碍にした。
 国際司法裁判所は、17人の判事をもって、1月26日に判決を出した。裁判所は、1948年のジェノサイド条約にきっちりと基づいて、イスラエルに対して可能な限り強い命令を出した。裁判所は、殺戮と軍事行動などを直ちに止めることを命じた。これは「停戦」命令という言葉こそ使わなかったが、それに等しいものであった。さらに、イスラエルに、人道的支援を行うこと、ジェノサイドの扇動を罰すること、そして一か月以内にその遵守について報告することを求めた。裁判所はまた、人質の解放への関心をも表明した。

2. 危機の起源

《国連管理》
 恐ろしい戦争と二発の原爆の後、1945年につくられた国連とその安保理は、世界の秩序を指導するはずであった。そのとき国連憲章は安保理の5大国に拒否権を与えた。国連が、大国よりもむしろ世界のすべての国を代表するようになると、USとその他の大国は安保理の決議に拒否権を発動することによって国連の活動を制止し始めた。1970年以後の主な拒否権を見ると、イスラエルの軍事行動を擁護するためのUSの拒否権、2022年のロシアのウクライナ戦争を終結させる決議へのロシアの拒否権、シリアでの停戦についてのロシアの拒否権などがある。

《イスラエルとパレスチナ》
 イスラエルは1948年に国家として承認されたが、パレスチナは国家としては認められなかった。いまでは、イスラエルとパレスチナに600万人のパレスチナ人と700万人のイスラエル人が住んでいる。過去70年の間にいくつもの衝突があって(1947-48年、1956年、1967年、1982年、2009年、2023-24年)、その間に約1万3000人のイスラエル人と、約6万人のパレスチナ人が死んでいる。いまのイスラエル政府は征服を狙っている。つまり、パレスチナ人をすべて追出し、パレスチナをイスラエルに併合することを狙っている。

《世界中の世論》
 歴史的に見ると、社会的・人道的危機(例えば、1989年に起きた天安門事件、ベルリンの壁、南アのアパルトヘイト、2003年のUSのイラク侵攻)に対する地球大の大きなデモが社会変化に影響を与えそれを強化したことが分かる。これらの大衆的意思表示は、世界的な脱植民地化(100の新興国が独立)と、多文化主義(世界的な人の移動と文化交流の結果)から生まれたものである。そういう過去と同様、世界的な世論は、イスラエル―ハマス戦争とその最終的軌道にかんする世界的な決定に依然として意味を持ちつづけるであろう。

3. 次は何が起こるか

 現在の虐殺は何らかの形で終わるであろう。しかし、だれが決着をリードするのだろう。

《シナリオ1―国連が主導する》
 1月26日の国際司法裁判所がイスラエルにジェノサイドを回避ないしは終息させるように命じた判決に基づき、国連安保理と国連総会がイスラエルの順守と危機の解決を求める。国連の主導する諸国の連合とともに、パレスチナ人が勝利する。国連は、おそらく1967年以前の国境によるパレスチナ国家と、パレスチナ市民の権利を早急に承認するよう要請するだろう。その場合、国連におけるUSの役割はどうなるだろうか。望ましいのは、USが政策を変えて、解決にいたるための国際的努力に合流し、イスラエルに合意に至るよう後押しすることである。

《シナリオ2-USが覇権に固執する》
 もしUSが大国としての影響力を行使し続ける―国連のコンセンサスを圧倒して―ならば、そのときにはイスラエルが優位に立つだろう。実際、USの高官たちはすでに国連に相談なしに戦後処理を準備しつつある。その際には、パレスチナ人の長続きする国民国家はすぐにはできないであろう。なぜならそういうUS=イスラエル主導の決定にはごく限られた国々しか参加しないだろうからである。おそらく紛争は続くであろう。

《別のシナリオ》
 もし、USがイエメン、シリアその他の国への攻撃を続けたり拡大したりしてイスラエルのガザ攻撃を支援し続けるならば、戦争はさらに中東に広がり、場合に依ってはもっと大きく世界的な紛争にさえなることが考えられる。USはそのような危険を冒しつつあるように見える。そうなれば、世界情勢に破滅的な変化を引き起こすであろう。
 国際司法裁判所の最近の命令はイスラエルに戦争を中止させるかも知れない。しかし、それですぐに終戦にはならないであろう。国連安保理がイスラエルとUSに戦争を中止し裁判所の命令に応ずるよう指令する決議を提案することが予想される。その際、もしUSが拒否権を発動したら、国連総会が同じくらいに強い規制を可決しようとするであろう。
 もし国連とそのメンバーがこの度の危機を解決する事が出来れば、USの国民と政治家たちは国連と、その重要性と、その組織にもっと関心を払うべきであるということを学ぶであろう。パレスチナとイスラエルにおいて、公平な講和は多くの人に歓迎されるであろう。もちろん、平和への道程にはまだ重要なチャレンジが待って居るだろうけれども。しかしながら、世界中の大小の国にとって、国連が強くなることはポジティブな展開である。より強い力は、国連をその本来のヴィジョンにいっそう近づけるであろう。つまり、国際的な平和と安全を守るというヴィジョンである。

(「世界史の眼」No.50)

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書評:マーク・B・タウガー著・戸谷浩訳『農の世界史』(ミネルヴァ書房、2023年)
倉金順子

 農業は、われわれ人類の生命維持活動に必要不可欠である食料の生産を担い、一国(家)レベルにとどまらず、世界規模での食料の安定的確保に重大な役割を果たしている。われわれの生存は農業によって支えられていると言っても。決して過言ではない。「ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー」より刊行された、ロシア・ソ連史と農業史を専門とするマーク・B・タウガーによる『農の世界史』は、世界各地の農業の歴史、そして農業に従事する農民の歴史を概説し、現代における喫急の諸問題への展望を提供する。

 原書はRoutledge社の「主題で見る世界史」シリーズの一冊であり、序「世界史における農業と農民の位置」で著者は、同シリーズの他の各書が文明を構成するものの根幹であり、文明が生み出した重要な産出物を主題としている中、本書の主題である農業は文明に先行し、その前提となるものであったことを主張する。自然環境と都市文明との接点として奉仕してきた農民たちは、両者との関係において従属的な存在であり続けた。本書はこの「二重の従属」を分析枠組みとし、農民と自然環境と農民に依存してきた文明の間の関係の変化を考察する。続く各章では、農業の起源から21世紀に至るまでを時系列で追い、長いスパンの歴史的展望を提供することが試みられている(pp.1-3)。以下、各章の内容について簡単に紹介していきたい。

 第1章「農業の起源と二重の従属」では、世界各地の農業の起源の解釈から始まる。後半では著者は『銃・病原菌・鉄』や『昨日までの世界』等の邦題著作で知られるジャレド・ダイヤモンドが展開する農業が「人類史上最悪の誤り」とする「悲観的な解釈」に異論を唱えたうえで、「二重の従属」を本書の分析枠組みとした意義を説く。(pp.18-21)。ひとつに農民は自然環境に従属しており、天候や環境の変化、動植物の活動といった農業生産の脅威に対抗してきた。もうひとつに農民は都市文明、ないし都市および都市民による支配下に服しており、一方で農業生産の向上や圧制軽減のために権力側から支援を受けることもあった(pp.21-22)。

 第2章「古代の農業―土地と自由にまつわる最初の大いなる闘争」では、ギリシャ、ローマ、中国のそれぞれの古代農業社会における異なるタイプの「二重の従属」が明らかにされる。この時期は環境的な要因や当局の対応は異なっていたものの、農民が村域外の強力な権力に地方が従属するという状況に直面していたという点、権力側が改革政策をもって農民問題の解決を試みていた点においては共通していた。

 第3章「古典古代以降の農業」では、西暦500年から1450年ごろまでの約1000年における「二重の従属」の複雑な変容を辿る。農民と大土地所有者との対立関係は引き継がれ、両社間で「自律と生存をかけた闘争」が絶え間なく行われた(p.88)。三つの時期に迎えた温暖化により特に北半球で農業が発展する中、ヨーロッパの中世村落では荘園制が確立した。しかしながら、14世紀前半に小氷期の始まりにより大飢饉、さらに疫病の流行に見舞われた。中国でも恒常的な自然災害による飢饉が繰り返された。こうした危機への対応もあり、ヨーロッパにはイスラーム教徒によりアジアの作物がもたらされ、中国では農業の技術革新が推進された。

 第4章「近世の農業とヨーロッパ式農業の優位―1500~1800年」は、農民たちが「二重の従属を最も極端な形で経験」(p.133)した近世期を対象とする。長期の小氷期が続くという同時期の環境的要因は、慢性的な不作や飢饉を引き起こした。農民たちは「隷属的システム」の下に置かれていたという点では世界各地で共通していたが、中国や日本では農奴解放の動きも見られた。一方でヨーロッパでは、東部の「再版農奴制」に代表されるように「隷属的システム」が維持され続けた。さらに、アメリカ大陸へと拡大し、奴隷労働に依存したプランテーション複合体が形成された16世紀の状況もここに含まれる。

 第5章「19世紀の農業―解放、近代化、植民地主義」では、ヨーロッパ資本主義経済の形成、ヨーロッパおよびアメリカによる経済・政治的な支配の台頭に伴う、農奴解放や奴隷解放、オランダやイングランドにおける農業制度の発展といった近代的な変化が焦点とされる。環境的要因としては、小氷期から地球規模の温暖化が進行し、エルニーニョ現象や台風といった自然災害が農業においても深刻な危機をもたらし、「二重の従属」は依然として続いた。本章では植民地での農業制度についても検討される。また、この時期には品種改良など農業科学の発展により、世界市場を舞台とした「アグリビジネス」が台頭し始めた。

 第6章「農業と危機――1900~40年」は、農業が「一連の経済危機と政治危機の主要な課題」であった時期を扱う(p.181)。19世紀に始まった地球温暖化が20世紀に入っても農業危機の発端となる中、世界は第一次世界大戦、大恐慌、飢饉など危機的状況を経験した。これらに対しての各国政府による大胆な取り組みは、農業および農民のあり方に変革をもたらすことにもつながった。本章ではファシスト国家や植民地における農業、東欧やソ連の農業革命も取り上げ、各国政府が主導する技術支援や財政支援が、結果的に農民にとっての「先例のない従属」を生み出したことを指摘する(pp.233-234)。

 そして、著者が本書の中でとりわけ紙面を割いているのが、第7章「農のブームと危機―第二次世界大戦から21世紀」である。ここでは、第二次世界大戦以後アメリカが牽引した世界の食糧制度の変容、共産主義的農業制度、緑の革命と呼ばれる農業技術革命、農業危機および農業債務危機、農業のグローバル化に加え、序でも提示された地球温暖化、石油生産の減少、そして農業人口の減少などの諸問題が論じられている。著者は章の末尾にて、農業にまつわる地球規模での諸改革が「二重の従属」の緩和につながったものの、いまだ国家政策の犠牲者でありつづけるアフリカの実情、農民および都市社会をも脅かす環境問題の二点を挙げ、グローバル化した現代の農業の機会とリスクを提言する(pp.307-308)。

 第8章「結論」では、特に第7章で取り上げられた論点をもとに、21世紀を迎えた現代社会において、農業がその重要性を高める一方で「地球規模の限界に達しつつ」あり、「相当な緊張状態の下で維持されている」ことが強調されている(pp.311-313)。「二重の従属」は形態を変えながらも継続しており、文明と農業との相互依存関係の問題などが課題となっているのである。そして、最後に著者はジャレド・ダイヤモンドの「農業を文明が生み出した害悪である」とする主張への批判をもって締めくくる(pp.314-315)。

 以上概観してきたように、著者は各時代の主要な出来事との関連も取り上げながら、現代にも維持される農民の「二重の従属」の変遷を明らかにする。訳者もあとがきで触れているが、農民は文明と自然に従属する一方で、そのいずれからも恩恵を受けてきたのだった(p.321)。また、逆に文明も農業に依存しているという側面も、著者により浮き彫りにされている。全体的な読後感としては、冒頭と結論でジャレド・ダイヤモンドの「悲観的解釈」に異論を唱え、「穏やかな楽観主義を与える」(p.3)という立場を取りながらも、世界規模での深刻な農業危機や諸問題に警鐘を鳴らす著者の真意が印象に残る。もう一点、「世界史」としながらも、各章は各国史および地域史で構成されるという形式が取られているため、ひとつのシステムとしての世界を俯瞰した歴史が見えづらくなっているという点も指摘しておきたい。

 原書が発表された2011年から10年以上が経過し、昨今は気候変動、蝗害、新型コロナウイルスの流行、ロシアによるウクライナ侵攻をはじめとする不安定な情勢が世界の食料事情をも脅かす。農業が抱える諸問題への対策として、例えばICT(情報通信技術)を活用したスマート農業など次世代型の取り組みも注目されつつあるが、普及にはいまだ課題も多い。これからの「農」の歴史に、楽観的な未来は果たして訪れるのだろうか。

 なお、著者によると原書が属する「主題で見る世界史」シリーズは、世界史を概観する授業を履修する世界各国の大学生を第一の読者と想定していることもあり(p.3)、(訳者の技量が大いに貢献していると思われるが)比較的平明な文章で書き綴られている。各章の末尾には主要参考文献が紹介されており、読者のさらなる理解を手助けしてくれる。もちろん、「農」「食」といったわれわれの日々の生活に直結したテーマに少しでも関心のある読者にとっても、農業が抱える諸問題を再考するにあたっての有益な一冊となることであろう。

(「世界史の眼」No.49)

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文献紹介:NPO法人 都市無差別爆撃の原型・重慶大爆撃を語り継ぐ会編『カラー映画に撮られた重慶大爆撃―数奇な運命を辿った記録映画『苦干』の世界―』(2023年)
木畑洋一

 1940年8月19日から20日にかけて、当時中華民国の首都となっていた重慶市は、日本軍による激しい空爆の対象となった。重慶に対する空爆は、38年2月から43年8月まで216回にわたって行われたが(荒井信一『空爆の歴史』岩波新書、2008年)、この時の爆撃が最も苛烈なものであった。8月19日は、重慶爆撃にゼロ戦(零式戦闘機)が初めて投入された日でもある。

 この日爆撃にさらされた重慶の様相を現場で映像に記録したアメリカ人カメラマンがいた。レイ・スコットという人物である。彼は、日中戦争の記録映画を作って、世界の人々に中国の抗戦状況を知らせたいと考えた米国籍中国人李霊愛の援助のもと、39年から40年にかけて、中国各地を回って人々の暮らしぶりを撮影しており、8月19日にちょうど重慶に滞在していたのである。

 スコットの旅を記録したフィルムは、米国で『苦干』(一生懸命にやるという意味)というタイトルの映画に編集されて、各地の映画館で上映された。41年元日にはローズヴェルト大統領夫妻もホワイトハウスでそれを観たという。その後この映画のことは人々から忘れ去られていたが、2010年にスコットの長男の家の地下室で発見され、修復作業を経て蘇った。それは中国でも関心を呼び、中国語の字幕をもつ中国版も作られた。その結果、今私たちは、英語で語られ、中国語の字幕をもつ『苦干』をユーチューブで観ることができる。そのurlは以下の通りである。
https://www.youtube.com/watch?v=321DQmOZc6w

 評者はこの映画について、中国史研究者石島紀之氏から教えていただき、とても強い感銘を受けた。その後石島氏が中心となって、映画『苦干』について、さらに重慶爆撃について丁寧な解説を加えたブックレットを作成された。それが、ここで取りあげる『カラー映画に撮られた重慶大爆撃』である。以下、本書の内容を簡単に紹介していきたい。「世界史の眼」でこの本を取りあげるのは、第二次世界大戦を論じる際に欠かすことができない都市の大規模空爆の早い例として重慶爆撃がもつ重みのためである。

 このブックレットは四部から成る。

 第一部においては、石島氏によって、『苦干』の成立事情と、フィルム再発見と現在の版の作成・公開の過程が紹介された後、映画の内容が順を追って説明されている。約1時間20分の上映時間の内、40年8月の重慶爆撃を対象とするのは最後の部分であり、それまでの大部分は、林語堂による序文と中米関係など歴史的背景を扱った最初の部分の他は、スコットが回った日中戦争下の中国各地(香港とベトナムのハイフォンを含む)の映像にあてられている。そのなかで8月19日以前の重慶の様相も描かれる。スコットはそこから成都と蘭州、青海方面を訪れた後、重慶に戻り、8月の空爆に遭遇するのである。石島氏は映画全体を15の部分に分けて、各部について短いながらも懇切な紹介を行っている。ブックレットを側に置いてユーチューブでの映像を観ることが勧められる。

 第二部は、『苦干』の主な対象となった中国西部地区についての解説である。石島氏が「西南地区の諸相」と題する章で、この地区に居住するエスニック・マイノリティの抗日戦への参加が民族意識の覚醒と結びついたことなどを論じた後、松本ますみ氏が「スコットの西北への旅の意味」を分析し、日本による中国東北部占領によって西北部の意味が知識人たちに再発見されたという興味深い論点を提起している。

 40年8月の爆撃を扱うのが第三部である。ここではまず伊香俊哉氏が、その時に至るまで繰り返されてきた重慶爆撃の諸相(焼夷弾攻撃導入の意味など)と、8月の空爆へのゼロ戦投入の問題などを解説する。そして、聶莉莉氏による、重慶爆撃で孤児となった人々43人の陳述紹介が、それに続く。空爆についての彼らの記憶と、その時に負った心の傷に悩まされ続ける彼らの姿が、浮き彫りにされている。

 最後の第四部では、これまで空爆研究をリードしてきた前田哲男氏が、武器使用をめぐる今の日本の状況を踏まえた上で、重慶爆撃からくみ取ることができる歴史的教訓を提示する。そして結びの部分では、本稿でも冒頭で引いた『空爆の歴史』の著者荒井信一氏の仕事が取り上げられるのである。

 私も、荒井氏や前田氏の研究から多くを学び、第二次世界大戦において都市空爆がもった意味、さらにそのなかでの重慶爆撃の重要性について、それなりの認識は抱いてきた。しかし、爆撃の実相について具体的なイメージをもってきたとはとてもいえず、『苦干』に接して大きな衝撃を受けた。そして本ブックレットを読んでから、再度『苦干』を見ることにより、空爆の場面だけでなくこの映画全体から伝わってくるメッセージの迫力をより強く感じることができた。

 本ブックレットを手引きにしての映画『苦干』の鑑賞を推奨する次第である。

 ただ、本書はアマゾンなどでは入手不可能なようである。そこで、発行元データを記して文献紹介の結びとしたい。

〒105-0003 東京都港区西新橋1-21-5一瀬法律事務所気付、NPO法人 都市無差別爆撃の原型・重慶大爆撃を語り継ぐ会

(「世界史の眼」No.49)

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ガザ攻撃を続けるイスラエル社会が内包する矛盾
清水学

 ガザのパレスチナ人に対するイスラエル軍の過剰な攻撃は、23年10月以降半年近くも続いており、その突出した非人道性と相俟って国際社会の眼を益々厳しいものにしている。約200万人のガザの人々に対してすでに子供を中心に死者数は3万人を優に超え、病院など医療機関への攻撃に付け加えて、さらに食糧・栄養不足による全般的飢饉が懸念されるに至っている。ジェノサイドを公然と否定するのは事実上イスラエルのみといってよい。ヨルダン川西岸とガザを支配する植民地主義の脅威も一層顕著になっている。同時にガザでのハマース攻撃を最優先するなかで自国の人質に対する安全・生命さえ軽視するネタニヤフ政権の動きは、従来のイスラエルを知る者を驚かせた。

 他方イスラエルは国際社会において、科学技術が発展した所得水準も高い先進的な民主主義国というイメージを宣顕してきた。人口約900万人(ユダヤ系700万人、パレスチナ・アラブ系200万人)のイスラエルは、一人当たりGDPで日本の3万5000ドルを凌駕する5万ドル水準を享受しており、また先進国クラブであるOECDのメンバー国でもある。ここではハイテク先進国イスラエルと非人道的植民地支配の二つの側面がどのような内的構造となっているのかを検討してみたい。

イスラエル経済のハイテク化の政治的外交的意味

 ハイテク国家イスラエルの1万人当たりの科学技術者数は140人で、米国の85人、日本の83人の2倍に近い比率を占め、グローバル・イノベーション指数で世界14位を占めている。イスラエルが優位な技術を誇る分野は節水・水利とIT、エレクトロニクス、サイバー、バイオテクノロジー、医療などのハイテク技術である。節水技術はドリップ灌漑など最小限の水で感慨を行うもので、中東など水不足に悩む地域にとって極めて魅力的なものと映っている。IT関連は軍事技術の発展と並行して発展してきた技術である。イスラエル兵器は実戦で使用されたことが多いというのが売りとなっている。ハイテク関連産業はイスラエル経済のグローバル化の根幹で、現在GDPの2割がそれで支えられている。

 ハイテク技術は特に今世紀に入って以降、イスラエルが政治的外交的影響力を拡大する上で重要な武器として意識されるようになった。それはパレスチナ政策に関しての諸外国の批判を抑制するうえで有効に機能したからである。中国・ロシア・インドなどもパレスチナ人の民族自決権支持の政策を掲げながら、他方ではイスラエルとのハイテク分野での協力強化を積極的に進めていた。さらにスタートアップなど新興企業創設の試みもイスラエルは一つの学ぶべきモデルとして浮上した。先端技術の優位性と魅力は周辺アラブ諸国特に湾岸諸国への牽引力として最も有効に機能したのは、2020年のいわゆるアブラハム合意である。湾岸産油国のポスト石油ガス時代を睨んだ経済発展戦略においてイスラエルのハイテク技術の取得は魅力ある選択肢であり、今まで国交がなかったアラブ諸国がイスラエルとの平和条約締結と国交樹立に踏み切るインセンティブとなった。しかし、その場合アラブとしてのパレスチナ人との連帯との折り合いをどうつけるかが各国の難しい選択となった。しかし対イラン政策での一定の共通性、米国の新鋭兵器獲得の条件改善なども考慮して、20年8月にUAE(アラブ首長国連邦)、同年10月にバハレーン、同年12月にモロッコがイスラエルとの国交樹立に踏み切った。米イスラエルにとっての最終目的はイスラーム世界の盟主とされるサウジアラビアとイスラエルとの間の国交正常化であり、それが実現すれば米の中東外交の勝利であると期待し、その交渉は水面下で進められていた。しかしパレスチナ問題のハードルはサウジにとっては他の湾岸諸国以上に複雑な課題であった。にもかかわらず、米・イスラエルはアブラハム合意の成功に自信を深め、いまやパレスチナ問題が中東安定化のための大きな障害ではないという前提で動き始めていた。このイスラエルと米国の上から目線の新中東戦略の前提を突如大きく破ったのは23年10月のイスラーム主義組織ハマースによるイスラエル襲撃事件であった。短時間でイスラエル人(兵士も含む)が1200人以上も殺害され200人近い人質が取られたことは、イスラエルにとってはかつてない大きな打撃であったが、それは同時にイスラエル支配に対するパレスチナ人の積もった怒りも反映されていた。

シオニズム社会主義から新自由主義へ

 イスラエルのハイテク産業の発展を特徴づけるものは、第1に中東欧から来たシオニズム指導者の間で自然科学者・技術者の存在が小さくなく、技術重視が政策化されたことである。第2に、パレスチナ人・周辺アラブ諸国との対立緊張関係を前提にした兵器・軍事関連技術育成の重視である。それを支える軍事的制度とその文化、特に IDF(イスラエル国防軍)における技術の蓄積と発展は重視されてきた。IDF内の科学・軍事技術の超エリート集団の育成にも力を入れてきた。代表的組織として8200 部隊は著名であり、その出身者は退役後、多くのハイテク・ベンチャー企業を生み出したことで知られる。第3に、1985年の中央銀行の実質的独立性を導入した経済改革であり、ハイパー・インフレと証券市場の混乱などのイスラエル経済の危機を大胆な新自由主義的改革で打開しようとする試みであった。独立以降のイスラエル経済を大きく二分した大転換であった。イスラエル経済の行方に危機感を持った米政府は、イスラエル政策当局に圧力をかけ、ケインズ学派から新自由主義への「パラダイム転換」を強力に促した。これにより競争力を持つイスラエル経済の再生をはかろうとしたのである。これは経済的に強力なイスラエルの存在を中東政策の主柱とする米国にとっても必死の工作であった。それは建国以来の「シオニズム社会主義」の構造を大きく揺るがすものであり、民間資本の活動の余地を拡大し、同時に自由競争、金融を含むグローバル化の展開を意図するものであった。特に最大の雇用主体であり、つまり大企業を有し、かつ労働組合でもあったイスラエル特有の組織「ヒスタドルト(労働総同盟)」の弱体化の方向が促進された。新自由主義による厳しい自由競争を技術資本発展の刺激剤にしようとした改革であった。しかし、このプロセスは実際において外部からの財政的経済的支援を不可欠であった。第4に、米国およびイスラエル政府の財政的支援である。1970年代半ば以降、高価な米国製兵器を購入するための援助を提供し始めた。それは次第に使途自由の軍事援助の方向に発展し、オバマ時代にはイスラエル製兵器購入も可能な無償援助が年間30億㌦供与されることになった。これは所得水準が先進国並みのイスラエル市民一人当たり400ドルに相当する返済不要の無償援助である。さらに、イスラエル政府は失敗のリスクが大きいスタートアップ企業を支援するファンドへの財政支援を行い、ハイテク企業の育成に力を入れた。新自由主義といっても国家や援助の役割が減少したとは言えなかった。

イスラエル社会と政治構造の変質

 イスラエルでは貧富の格差が拡大し、そのジニ係数は0.38で今日OECD諸国のなかでも最高水準となっている。貧困層に属するのは人口の約30%と言われ、パレスチナ系市民、東エルサレムのパレスチナ人のほか、超正統派ユダヤ人(ハレディ)と言われており、社会的連帯意識を分断することになっている。他方、1967年6月の戦争でヨルダン川・ガザを占領したイスラエルでは、「ヒスタドルト」関連企業の軍需産業化も進んだ。1881年に成立した第2次リクード内閣は、入植事業を初めて資本主義的事業に委託させた。入植事業が民間のデベロッパーやコントラクターが行うようになり、ヨルダン川西岸の新規郊外センターに住宅を建設し、中流的生活を志向する入植希望者を引き寄せようとした。政府は住宅購入のための補助金を支給した。他方、占領地の低廉なパレスチナ人労働力の導入も構造化され、さらに外国人労働者を南アジア・東南アジア・アフリカなどから導入するようになった。労働市場の一層の階層化が進展した。

 新自由主義化と社会的連帯性は一致しない。その矛盾を深めたのは、ネタニヤフ右派リクード政権下での「ユダヤ人国家法」の導入で、イスラエル国家の性格を大きく変えるものであった。2018年7月19日に右派議員が提出していた「ユダヤ人国家法」がクネセト(国会)で賛成62,反対55票で可決された。イスラエルには憲法が未だ制定されておらず、「帰還法」など一連の重要法を「基本法」と称しているが、このような重要な法案が単純多数決で決定し得る点は大きな問題となっている。この新法の特徴は、イスラエルにおいてユダヤ人にのみ民族自決権があると明記し、パレスチナ人の自決権を否定していること、イスラエルをユダヤ人の歴史的な国土と明記したことである。さらにアラビア語が公用語から「特別な地位」に格下げし、公用語はヘブライ語のみと明記したことで、イスラエルを「ユダヤ人国家」とし、アラブ(パレスチナ人)の二級市民化を法制化したことになっている。エルサレムをイスラエルの首都と宣言して、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家構想を否定した。さらに占領地の併合を否定した1967年の国連安保理決議242に明白に違反するヨルダン川西岸等での「ユダヤ人入植の拡大」について、イスラエル政府が「奨励して促進すべき国家的価値」と明記して合法化した。ユダヤ人の入植が東エルサレム・ヨルダン川西岸のパレスチナ人の権利を著しく侵害するものとしてイスラエル・パレスチナ紛争の重要焦点であり続けるなかで、これはパレスチナ人に対して著しく挑発的な意味を持っていた。これによって西岸においてもイスラエル・パレスチナ人の間の衝突が一層深刻化することは確実である。

 「ユダヤ人国家法」制定が23年10月7日の一つの伏線となっていたことは確実である。さらに現ネタニヤフ政権のもとで、激しい反対運動にもかかわらず、クネセト(国会)は23年7月24日に「最高裁での判決をクネセトでの多数決で覆すことができる」とする司法改革法案を可決した。24年1月最高裁は、裁判所の権限を弱める司法制度改革は無効としたが、イスラエルが誇ってきた「民主主義」制度自体が劣化しつつあることを示している。

終わりに

 イスラエルの右派勢力は「パレスチナ国家」の樹立に対する反対運動を強化しており、ガザ戦争も対ハマースのみならず全パレスチナ人の民族的存在に対する挑戦の意味を持っている。いわば、イスラエルはパレスチナ人との共存のシナリオを持っていないのである。従来、イスラエルはハイテクを武器とする経済発展戦略とパレスチナ政策をいわば並行して遂行できる余裕を持っていた。しかし10月7日以降の新展開で、両者の絡み合いあいが表面化した。日本においても近年イスラエルとの経済関係が主としてハイテク分野を中心に強化する動きが強まっていた。しかし、今回のガザ戦争の余波で日本の伊藤忠商事は23年3月に締結していたMoUによるイスラエルの軍事産業大手の「エルビット・システム」との協力関係を、24年2月末を期して打ち切りを決めたと発表した。同社によれば、国際司法裁判所が1月にイスラエルにジェノサイドを防ぐためのあらゆる措置を命じ、」外務省がこの命令の誠実な履行を求めたことを踏まえた決定としている。これはハイテクあるいは軍事技術協力とイスラエルのパレスチナ政策が矛盾を来した事例の一つである。ガザ問題が国際的反響を広げれば広げるほど、グローバル化したイスラエル経済にとって従来とは異なる挑戦を受けることになった。また多国籍企業もイスラエルに対する国際社会の反発も考慮に入れざるを得なくなっている。だからといって、現在のイスラエルの対パレスチナ政策が容易に転換すると期待できる根拠はまったくない。しかしそのなかで、米国の若年層の意識の変化と米大統領選への影響、グローバル・サウスの厳しい眼と反応など、イスラエルを取り巻く国際的環境は厳しくなっている。イスラエル自体の「民主主義」システム自体も揺るいでいる。国際政治の多様な可能性を柔軟に見出していくことが常に求められる時代であることも事実である。

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中国と中東問題、史的概観
久保亨

 中国が中東問題に関わってきた歴史的な経緯を振り返っておくのが本稿の課題である。地理的に遠いこともあって、そもそも緊密な関係があったわけではない。1948年のイスラエル建国は、1949年に中華人民共和国が成立する以前の出来事である。一方、イスラエルが1950年1月9日に中華人民共和国を承認したのに対し、中華人民共和国がイスラエルを承認し、正式に国交が樹立されたのは、1992年1月24日のことになった。他方、パレスチナとの間では、1964年にPLO(パレスチナ解放機構)が設立された時から強固な関係を維持し、翌65年には北京にPLOの代表部が開設された。1988年11月15日のパレスチナ独立宣言の直後にパレスチナを承認し、国交関係を取り結んでいる。こうして中国は、イスラエルとパレスチナの双方と国交を結ぶ国の一つになった。

 その後、今世紀に入り中国が大国としての外交を志向する中、中東問題への関与も本格化しつつある。そうした中での中国の動向を考える際、留意すべき5つのファクターについて、考えてみたい。その第一は、いうまでもなくアラブの大義を擁護し、パレスチナ独立国家を支持する立場である。第二は、それとも緊密な関係にある中国国内のムスリムへの配慮という問題である。第三に、やはりアラブの大義の擁護と深く関わるアラブ諸国との経済関係を見ておかなければならない。パレスチナとの直接的な経済関係こそ極めて少ないとはいえ、アラブ諸国との経済関係には極めて大きなものがある。第四に、あまり関心を引くことがないけれども、中国のイスラエルとの経済関係がある程度の規模になっていたことにも注意しておきたい。最後に、やはり中国が負うべき大国としての責任も問われるであろう。

 1955年のアジアアフリカ会議で新興独立諸国と協力する立場を示した中国は、1956年の第二次中東戦争に際してもエジプト・シリアを支持した。そして、すでに述べたように、1960年代からパレスチナの民族運動に連帯する姿勢を鮮明にしており、パレスチナが独立を宣言した直後にパレスチナを承認し、最も早い時期に国交関係を樹立した。昨年(2023年)6月には、国交樹立35周年を記念し、パレスチナ自治政府のアッバス議長が中国を訪れ、中国政府との間でエールを交換している。多くの欧米諸国や日本が未承認なのに対し、パレスチナを承認する国家は、アジア、アフリカ諸国を中心に、現在100ヵ国以上に達する。そうした諸国の中でも、中国は抜きん出て重みのある存在である。現在のガザの事態に対しても、パレスチナへ何度も緊急人道支援を実施するなど、物心両面で様々な支援を進めてきている。

 このように中国がパレスチナをはじめとする中東の民族運動に強い関心を払う背景には、国内に多数のムスリムが居住しているという事実がある。中国政府の説明によれば、現在、国内には、回族、ウイグル族をはじめイスラムの信仰を持つ人々が大多数を占める民族が10を数え、その総人口は2100万人以上に達する。14億人という総人口中の比率こそ小さいとはいえ、2100万人という数自体は決して少ない数ではない。全国に3万5000ある清真寺(モスク)には日々祈りの声が響き、街角にも大学にもムスリム専用の食堂が設けられている。新疆ウイグル族自治区をめぐる複雑な状況も、よく知られている。中東問題に対し中国政府は敏感にならざるを得ないし、その際は常に国内のムスリムの感情を念頭に置かなければならない。

 パレスチナの経済規模からして、中国とパレスチナの間の直接的な経済関係は極めて小さい。2022年の貿易総額は1億5600万ドルであった。しかし、石油、石油化学製品の中国への輸入を中心に、中国とアラブ諸国、とくにペルシャ湾湾岸諸国との経済関係は近年急速に伸張しており、2022年の貿易総額は3149億2800万ドルに達した(表1)。中国の2023年の原油輸入量の三分の一は湾岸諸国が占める。中国経済にとって、アラブの石油は今や死活的な意味を持つようになった。

 一方、アラブ諸国にとっても、中国の存在には大きなものがある。いずれは枯渇する石油資源の将来を見据え、アラブ諸国は、今、石油依存経済からの脱却をめざし、懸命に経済開発を進めている。それに対し、中国は企業の投資から労働者の派遣に至るまで、さまざまな経済協力を発展させている。UAEだけで30万人の中国人労働者が働いているとの報道もあった。

 以上に述べたような両者の相互補完的な協力関係を背景に、2022年秋、アラブ諸国を歴訪した習近平は、11月9日、GCC(湾岸協力会議)と中国の首脳会談に出席した。

 しかし、中国とイスラエルとの関係についても注意が必要である。ユダヤ人と中国人は第二次世界大戦の最大の被害者であるとして両者のつながりを指摘する声も時に耳にするとはいえ、1950年代から70年代まで、アラブの民族運動に敵対するイスラエルは、中国にとって距離を置くべき相手であった。

 しかし、1980年代に改革開放政策が進展するにつれ、新たな状況が生まれた。中ソ対立が続く中、軍事力の近代化を進めたい中国にとって、イスラエルの兵器産業が魅力を増したからである。COCOMに参加していないイスラエルは、中国に兵器を輸出する際の国際的な制約を受けずにすんだこと、イスラエルの兵器産業の水準が高いものであったこと、なども重要な条件になり、80年代を通じ数十億ドルの取引があったともいわれる(齋藤真言「イスラエルと中国」『みるとす』182、2022年6月)。いわばそうした実績の上に、1990年の湾岸戦争で生じたアラブ諸国の間の不一致を突く形で、1992年にイスラエルと中国の間で国交関係が樹立された。

 その後も両国間の貿易関係は拡大傾向を続け、2020年の輸出入総額は153億ドル、2022年は226億ドルに達し、イスラエルの貿易全体の12%台を占めた(表2)。同じ時期の日本とイスラエルの間の貿易額が20億ドル台で低迷しているのに較べ、際だって高い。中国製電気自動車の輸出、中国企業による路面電車の建設、上海国際港務公司によるハイファ港への巨額の投資など、一帯一路政策とあいまって兵器産業以外の様々なつながりが強まっている。イスラエルのネタニエフ首相は、2013年と2017年に中国を訪れた。

 このように中国とイスラエルの関係がとみに緊密さを増してきたとはいえ、中国の中東外交の軸足は、やはりアラブ民族運動の側に置かれている。2023年春から、すでにイスラエル向け工業製品輸出に対する規制を強めており、それに対するイスラエルの抗議も撥ねつけたと伝えられる。 

 2023年11月30日、中国外務省は、「パレスチナ・イスラエル紛争の解決に関する中国の立場」として、全面的停戦の実現など5項目を提案する文書を公表した。提案は、全面的な停戦のほか、市民の保護、人道支援の確保、外交的な仲介の強化、政治的解決の追求を訴えるものであり、紛争の根本的な解決策は、パレスチナ国家樹立による「2国家解決」だと主張するものであった。

 また2024年1月15日には、エジプトを訪れた王毅外相が、中国は和平に関してより大規模で権威と有効性を持つ国際会議の開催を呼びかけるとともに、改めてイスラエルとパレスチナ国家の「2国家解決」に向けた具体的な工程表を求めていると述べた。 その一方、イスラエル支援を続けるアメリカには、厳しい批判を展開している。2024年2月21日にも、国連のガザ停戦決議案に対しアメリカが拒否権を行使したことに強い失望を表明した。中国にとってガザ問題はアメリカと角逐を繰り広げる大国としての外交の一環にも位置づけられている。

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奉天からの世界史(下)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、前々号)
2 内藤湖南と奉天
 (前号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、本号)

3 夏目漱石と奉天

 1909年、夏目漱石は慢性の胃痛を抱えながら満洲と韓国をめぐる旅に出た。漱石の高等学校以来の旧友で南満洲鉄道株式会社(満鉄)の第二代総裁となった中村是公ぜこうの勧めによる視察旅行であった。漱石は神戸で鉄嶺丸に乗船し、9月6日早朝、大連に着いた。7日からは満鉄中央試験所、「電気公園」(電気遊園)、西公園、満鉄本社など各所を回った。10日には、主として日露戦争の戦跡を見るために旅順に行ったが、12日に、もう一度大連に戻った。14日、大連を出発、営口などを経て、9月19日に奉天に着いた。その時のことが「漱石日記」には次のように書かれていて、当時の奉天の状況がよく分かる。

三時奉天着。満鉄の附属地に赤煉瓦の構造所々に見ゆ。立派なれどもいまだ点々の感を免かれず。瀋陽館の馬車にて行くに電鉄の軌道を通る。道広けれども塵埃甚だし。左右は茫々たり。漸くにして町に入る。(その前にラマ塔を見る。)瀋陽館まで二十分かかる。電話にて佐藤肋骨の都合を聞き合す。よろしという。直ちに行く。城門を入る。大なるものなり。十五分ばかりにして満鉄公所に着。(平岡敏夫編『漱石日記』岩波文庫、119頁)

 この時、奉天の満鉄附属地はまだ建設途上で、建築中の赤煉瓦の建物が見えたが、それも点々とある程度であった。満鉄直営のヤマトホテルもまだ開業していなかった(開業は1910年)。それで、満鉄総裁、中村是公は奉天宮殿敷地内の満鉄公所(満鉄の事務所・宿泊施設)に泊まることを勧めたが、漱石は連れがいることから遠慮し、瀋陽館という日本式旅館に宿泊することにした。奉天駅で瀋陽館の迎えの馬車に乗った漱石は後に軽便鉄道が通ることになった道を東北方向に進み、小西辺門に向かった(図1参照)。漱石は「電鉄の軌道を通る」と書いているが、この時はまだ鉄道馬車であった。瀋陽館は小西辺門と小西門の間、小西辺門から馬車で20分ほどの所にあった。瀋陽館に着いた漱石は電話で満鉄公所の所長である佐藤肋骨(本名、佐藤安之助。正岡子規門下の俳人)の都合を聞き、「よろし」ということで、再び馬車に乗り「城門」(小西門)を通って宮殿敷地内に入り、15分ほどで満鉄公所に着いた。漱石はここで晩餐などの供応を受けた後、瀋陽館に戻った。

 満鉄公所が宮殿の敷地内にあったということは、清朝の衰微を表すと同時に、奉天の満鉄附属地がまだ未整備の状況だったということを示している。その点では、大連や旅順とはかなり違っていた(漱石は大連や旅順では満鉄直営のヤマトホテルに泊まっていた)。奉天は日本にとってまだいわば新開地だったのである。

 翌9月20日、漱石は瀋陽館の番頭の案内で北陵を訪ねた。『漱石日記』には、次のような記載がある。

 九月二十日(日) 北陵。獅の首。亀の甲、高さ四首、五尺。脊に石碑あり。幅六尺厚二尺。隆恩門。アーチ。その上三層。アーチの上、厚壁。四方とも壁厚さ二丈五尺位。四隅に楼閣あり。正面に殿。左右にも殿。屋根の瓦薬付、茶・玉子色・赤・紅。下は総石。正面の石階左右は段々、中央は竜刻、大官はその上を通る。隆恩殿。欄干。それに菊生ゆ。
 昭陵。太宗文皇帝の陵。〔後略〕
 石壁の上、幅二間半。昭陵の後ろ 形。伝って歩すべし。長さ百六十歩。(『漱石日記』120頁)

 この記載を見る限り、漱石は北陵最奥部にある太宗ホンタイジの墓廟を含めて北陵の全体を見ることができたようである。その点で、内藤湖南の場合とは異なっている。それは両者の北陵訪問の間の約四年間の変化であろう。

 この漱石の北陵訪問の具体的な道行については、漱石の紀行文「満韓ところどころ」から知ることができる(「満韓ところどころ」はもともと朝日新聞に連載されたものであるが、本稿では藤井淑禎編『漱石紀行文集』岩波文庫、に拠る)。

 瀋陽館の番頭と馬車で出発した漱石はおそらく小西辺門を通って城外に出た。その間悪路に悩まされたのだが、「右に折れると往来とは云われない位広い所へ出たので漸く安心した」(この右折した路というのは鉄道馬車の通る道から黄寺や御花園長寧寺の方に北上する道であろう)。「しばらくすると、路が尽きて高い門の下に出た。門は石を畳んだ三つのアーチから出来上っているが、アーチの下迄行くには大分高い石段を登らなくてはならない」。「是が正門ですがね、締切りだから壁へついて廻るんですと〔番頭が〕云って馬を土手のような高い所へ上げた。右は煉瓦の壁である」。「路は馬車が辛うじて通れる位狭い。其処を廻って横手の門から車を捨てて這入ると、眼がすっきりと静まった」。(この「横手の門」というのは文脈からすると西門であろう。前述のように、クリスティーは正門〔南門〕は閉鎖されているが、西門と東門は開かれていたと書いているが、もう1909年段階で開かれていたのであろう。)「一丁ばかり行って正面に曲ると左右に石の象がいた」。「突き当りにある楼門の様な所へ這入ったら、今度は大きな亀の脊に頌徳碑が立ててあった」(この「楼門の様な所」というのは碑を蓋う碑亭のことであろう)。「後へ出ると隆恩門と云うのが空に聳えていた」。「あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、ええ今乗って見ましょうと云って中に這入った」。「正面にある廟の横から石段を登って壁の上に出ると、廟の後だけが半月形になって所謂北陵を取り巻いている」(北陵の最奥部は隆業山という人工の小山によって取り囲まれている)。漱石も内藤湖南と同じように、隆恩門の上から北陵の全景を見ることができたのである(図2参照)。(以上の引用は『満韓ところどころ』137-141頁の各所から。)

 その後、漱石は隆恩殿などを経て、北陵最奥部にある太宗ホンタイジの塚(円墳)のような墓廟まで行き、その周囲を一周している。その間、清朝の墓守などから全く何の妨害も制約も受けなかったようである。このことも清朝の衰退を物語っている。1909 年の清朝はもはや北陵や奉天の宮殿を管理する余力を失っていたのであろう。その約2年半後の1912年2月、300年近く続いた清朝はついに滅亡した。

4 中島敦と北陵

 中島敦は1925(大正14)年の春、植民地朝鮮の京城中学校4年生の時、修学旅行で満洲各地を訪れた。その一環として奉天にも行き、北陵にまで足を延ばしている。ただ、この北陵訪問について中島は小説その他の文章の中で一切触れていない。したがって、中島が北陵からどんな印象を受けたのかは分からない。

 他方、中島と京城中学校で4年間同級だった湯浅克衛は「敦と私」と題された中島死後の回想記の中で、この満洲修学旅行について次のように書いている(湯浅は「カンナニ」という小説で中島より早く作家デヴューした小説家である)。

 四年生の修学旅行は満州だった。奉天では、銃剣を逆さに持った張作霖軍が、物々しい顔で睨みつけていた。馬車を数十台連ねて、生い茂ったアカシアの葉先に頬をたたかれながら、北陵に向かった。ワイロをとらなければ門をあけない。帰途は城内に迷いこんで、私たちの馬車だけ、遅れた。酒手をはずまなかったからだ。棒、鍬をもった群衆にとりまかれたとき、敦が何か早口で喋った。群衆はさっと引き、馬車は何事もなかったように、城門を駆け抜けた。
 敦はシナ語〔中国語〕を知っていたのだろうか。どうも、うまかったとは思えないのだが。
 と云うのは、大連や旅順では専ら、筆談に頼っていたからだ。〔中略〕
 しかし、旅順の丘のアカシアは、吹雪のように散っていたし、水師営には、心もとない棗のあとがあった。東鶏冠山、沙河と、敦は日露戦史にも不思議な記憶力で、有能な案内人だった。(中村光夫、氷上英廣、郡司勝義編『中島敦研究』筑摩書房、1978年、233-234頁)

 この北陵訪問にかんする湯浅の記述にはあいまいな部分があるが、だいたい次のようなことであろう。

 図1に見られるように、当時の奉天は三つの部分に分かれていた。一番東側が本来の奉天城で、その真ん中に一辺1300メートルほどの矩形の内壁で囲まれた宮殿敷地がある。それを取り囲むいびつな円形の外壁が1680年に建造され、内壁と外壁の間が市街地となっていった。内壁の四辺には、大東門、小東門といったようにそれぞれ大小二つの門があり、外壁の四辺にも、大東辺門、小東辺門といったようにそれぞれ大小二つの門があった。

 南満洲鉄道(満鉄)は外壁から3ないし5キロメートルほど西側を通っていて、奉天駅を中心に線路沿いの土地約2×4キロメートルの碁盤の目状に地割されている部分が満鉄附属地であった。この満鉄附属地には、ヤマトホテルなど主として日本人が利用するさまざまな施設が立ち並んでいた。

 この奉天城の外壁と満鉄附属地の間が第三の地域、いわゆる商埠地しょうふちで、清国政府が地域を指定して外国人の居住を認め、その保護の任に当たる土地であった。1912年に清朝が滅亡した後は、中華民国政府や奉天軍閥の張作霖がそれを引き継いでいたのであろう。この商埠地には、日本の総領事館やアメリカ、イギリス、フランスの領事館などがあった。

 中島敦ら京城中学校の修学旅行生は満鉄附属地内のどこかのホテルに滞在していたのであろう。そのある日、一行は奉天駅から満鉄線路に沿って東北に進み小西辺門に至る軽便鉄道の通る道を行き、1907年に清朝が建設した奉天公園の手前で左折して一路北上、満鉄線路を越えて北陵に向かったものと思われる(図1参照)。帰路は同じ道を南下したのであろうが、奉天公園の所でなぜか右折せず、逆に左折して小西辺門から城内に迷いこんだようである(このことと御者に酒手をはずまなかったことがどう関係するのかは分からないし、中島が何を言ったのかも分からないが)。そこからどうやって城外に出たのか、湯浅は何も書いていないのだが、おそらく小西辺門あるいは大西辺門を通って満鉄附属地に戻ったのではないかと思われる。

 北陵は清朝時代には禁制の地で、立ち入りが禁止されていた。1912年、清朝が崩壊すると、奉天は大きな混乱もなく中華民国の版図に入った。北陵はこの段階で中華民国政府の管理下に置かれたものと思われる。1916年、中華民国大総統、袁世凱が死去すると、張作霖が奉天省の実権を掌握した。この後、北陵は張作霖軍が管理することになったのであろう。中島らの北陵訪問時、正門(南門)はまだ閉ざされていたが、西門と東門からは自由に入ることができた(湯浅の記述によれば、ワイロを出せば正門も開けてもらえたようである)。張作霖は、中島らの北陵訪問の2年後、1927年には北陵全体を一般に公開している。

おわりに

 その後、1928年6月4日、奉天直前で、張作霖が関東軍の謀略により、北京から奉天に帰る列車ごと爆殺されるという事件が起こった。1931年9月18日には、奉天東北郊の柳条湖で、関東軍の謀略により満鉄線路爆破事件が起こり、満洲事変へと展開した。1932年3月1日には、日本帝国主義の傀儡国家「満洲国」の建国が宣言され、「ラスト・エンペラー」溥儀が執政(後に「満洲国」皇帝)に就任した。1937年7月7日には、北京の南西、盧溝橋で日本軍と中国軍(国民政府軍)の衝突が起こり、その後日中全面戦争へと拡大した。

 しかし、この間、奉天に戦火が直接に及ぶことはなく、日本人研究者による奉天研究は続けられていた。それが破局を迎えたのは1945年8月9日、ソ連軍の満洲侵攻によってであった。日本に逃亡しようとしていた「満洲国」皇帝、溥儀は奉天空港においてソ連軍に身柄を拘束された。

参考文献(文中でいちいち注記しなかったが、以下の文献を参考にした)

デルヒ「モンゴル語『大蔵経』について」『北海道言語文化研究』No. 9、2011年。

内藤戊申「游淸第三記(下) 内藤湖南記」『東洋史研究』16-2、1957年。

三宅理一『ヌルハチの都―満洲マンジュ遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社、2009年。

李薈・石川幹子「中国瀋陽市における公園緑地系統計画の展開に関する歴史的研究」『日本都市計画学会 都市計画論文集』45-3、2010年10月。

『世界地理風俗大系 第一巻 満洲』新光社、1930年。

(「世界史の眼」No.48)

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書評 伊藤定良『第一次世界大戦への道とドイツ帝国』(有志舎 2023年)
飯田洋介

 本書は、1871年に成立したドイツ帝国が帝国主義の時代、どのような過程を経て第一次世界大戦へと至ったのか、それについて考察したものである。テーマそれ自体は(本書「はじめに」で概観されているように)ナチズムへと至る歴史的展開を帝政期から連続的に捉えるべきか否か、それが「特殊」なものであったと言えるのかをめぐって、これまで論争が激しく展開されてきたこともあって、決して目新しいものではない。だが、だからこそ、こうした古典的テーマは近年の研究成果を踏まえてその都度問い直されて然るべきものであり、その意義は今日でも色褪せることはあるまい。

 では、本書はどのような視点からこの古典的テーマに挑むのか。本書によれば「帝国主義の時代の全般的な動きを押さえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、当時の国際的・国内的諸課題に立ち向かったさまざまな政治勢力のせめぎあいをとおして考察する」(13頁)という。以下、本書の構成に沿ってその内容を見ていこう。

 第1章「帝国主義の国際政治と民衆の政治化」では、はじめにコンゴ問題解決のために開かれたベルリン会議(1884~85年)を起点とする西洋列強による世界分割の動きについて論じられる。帝国主義を「民族抑圧的な世界体制」(17頁)と定義する本書は、列強の抑圧的な植民地統治が現地住民の抵抗を引き起こし、それがさらに列強の軍事行動を招く「暴力の連鎖」(21頁)に注目する。特に現地での抵抗の排除・鎮圧に際しては、互いに対立する列強や諸勢力が「抑圧の共同作業」(40頁)で応じていたこと、さらには他の植民地や現地で動員された人員までもがこれに充てられたという構図があったことを本書は指摘する。

 次に、本書の視線は帝国主義時代のヨーロッパに向けられる。そこでは、帝国主義による列強間の対立やバルカン問題の緊迫化を受けて、ハーグ平和会議やドイツでの平和主義運動、さらには第二インターナショナルによる反戦平和運動に見られるような国際的な動きが活発に展開される一方、各国内では国民統合を推進する上で重要となる、独善的で排外主義的な帝国意識やナショナリズムの育成・強化がなされ、大衆を基盤としたさまざまな政治運動や革命運動・民族運動が展開された。本書では女性参政権運動や労働運動にも目配りしながら、この時期に大衆が政治化していったこと、しかしながら、これらの運動は大衆を団結させるどころか逆に分裂をもたらし、それがナショナリズムの圧倒的な力と相まって、第一次世界大戦の勃発を阻止できなかったとりわけ大きな原因だとしている(91頁)。

 第2章「ドイツ第二帝政の政治」では、1871年の帝国成立から1910年までのドイツの政治状況を辿りながら、①歴代政権による帝国議会での「ブロック政治」の展開、②国民統合のありよう、③急進的ナショナリズム運動の展開について論じられている。いずれもヴィルヘルム期が話の中心になっている。

 ①では、帝国宰相ビューロを支えた保守系からリベラル左派に至るまでの諸政党による「ビューロ・ブロック」とその後継政権となったベートマン=ホルヴェークを支えた保守党と中央党による「黒青ブロック」が当時の内政課題であった帝国財政改革問題と(ドイツの議会制民主主義の発展を阻害していた)プロイセン三級選挙法(不平等・間接・公開)改正問題にどのように対処したのかが主な焦点になっている。その際、本書は社会民主党の妥協的な姿勢に注目する。②では、国民国家ドイツにおける民族的少数派であったポーランド人に対する統合と排除、そして彼らの抵抗に焦点が当てられ、このテーマについて長年取り組んできた著者ならではの指摘が目立つ。特にポーランドに対する強圧的な「ドイツ化」政策に対する現地の抵抗(学校ストライキ)が、同じ宗派でありながらナショナリズムの影響を受けた中央党には「国民化」の拒絶と受け止められ、両者の連帯を阻むようになっていったこと(130頁)、さらにはルテニア人労働者の雇用も反ポーランド的観点からなされた(133頁)という指摘はとても読み応えがあった。③では主にオストマルク協会とプロテスタント同盟に焦点が当てられている。

 第3章「世界大戦への道とドイツの政治・社会」では、1908年に勃発した青年トルコ人革命とオーストリア=ハンガリーによるボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合を機にバルカン半島情勢が緊迫化していく中でのドイツ国内政治について論じられている。ここで本書が特に注目するのが、1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)がドイツ国内に及ぼした影響である。それは一方では大規模な反戦平和集会を引き起こし、1912年1月の帝国議会選挙では進歩人民党と連携した社会民主党の躍進と、ベートマン=ホルヴェーク政権を支える「黒青ブロック」の敗退を招くなど、国民の政治的不満や戦争への危機意識が大きく表れる形となった。だが他方では、全ドイツ連盟によるクーデタ計画の公表、ナショナリスティックな大衆運動の勢力拡大とさらなる急進化を引き起こし、陸軍増強を求めるドイツ国防協会も結成され、「戦争は不可避である」という風潮が社会に広がり、青少年の軍事組織化も図られ、社会の軍国主義化が一層促進されていったのである。また、本章ではそのようなドイツ社会に広がる「後進性」と「専制」を強調したロシア蔑視・反感があったこと、そして社会民主党もそれとは無縁ではなかったことが指摘されている。

 第4章「第一次世界大戦」では、はじめにサライェヴォ事件から開戦、さらには「城内平和」に至る流れについて論じられているのだが、ここで本書は、開戦時に見られた国民の一体感と熱狂が必ずしも全国一律のものではなかったという点を強調する。そこには戦争への心配や不安も見て取れ、このときの国民的感情が「けっして単色ではなく、複雑なひだを帯びて重なり合っていた」(252頁)ことが国内外の先行研究を交えて示されている。また、「城内平和」に至るまでの社会民主党の動向についても注視されている。

 次に本書は、世界史的な観点に立って第一次世界大戦の歴史的性格について考察し、それが「帝国主義戦争」「総力戦」「世界戦争」=植民地での戦闘・植民地の人員物資を動員した戦争であったと位置づけ、この戦争によって帝国主義諸国による植民地・従属地域支配体制の動揺・弱体化がもたらされたことを指摘する。さらにここでは、ドイツ革命に至る流れが概観されるだけでなく、ウィルソンの14カ条がボリシェヴィキ・ロシアによる「平和に関する布告」と対置する形で紹介されている。また、本書では(近年の新型コロナウイルスの世界的大流行を意識して)第一次世界大戦末期に世界規模で蔓延した「スペイン風邪」が第一次世界大戦の西部戦線やパリ講和会議に与えた影響について、それがはらむ今日的な課題と結びつける形で論じられている。

 このように本書では、世界史的視座から帝国主義時代の全般的な動きをおさえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、増加する労働争議と高揚するナショナリズムを背景に当時の諸課題に立ち向かった様々な政治勢力のせめぎ合いを通じて考察されている。帝国内の民族的マイノリティであったポーランド人問題を通じて、国民統合の不調と急進的・排外主義的ナショナリズム運動が連動すると(たとえ同じ宗派であっても)民衆の分裂を招くことが本書ではよく示されていたように見える。

 それに加え、本書の特徴として挙げておきたいのが、同様に「帝国の敵」とされた社会民主党を視角に含めたことで、ナショナリズムの影響を受けて戦争への道を歩んでいくドイツの議会政治の展開と、第二インターナショナルによる国際的な反戦平和運動の展開という、この時期に見られた2つの相反する側面を巧く総合的に捉えている点である。このことは20世紀初頭のドイツが外交的苦境=「包囲」から抜け出すには、あるいは好戦的なナショナリズムの高揚や社会の軍国主義化を背景に、もはや戦争への道しか残されていたわけでは決してなかったということを我々に再確認させてくれよう。

 だが、その一方で社会民主党の指導部が1914年8月の大戦勃発に伴う「場内平和」、戦時公債への賛成に連なるような、政府あるいはナショナリズムの動きに対する譲歩的な姿勢をそれまでに幾度となく示してきたこと(1907年の帝国議会選挙での惨敗のときや1913年の軍拡に必要な拠出金法案への賛成など)を著者は見逃さない。戦争と平和に対する社会民主党のこうした二面性を浮き彫りにした点も、本書の特徴であろう。

 次に、本書を読んで評者が気になった点を幾つか挙げておきたい。

 1点目は、世界史的な視座による帝国主義の説明と、帝政期ドイツの政治状況の説明が上手く対応していない点である。本書は南アフリカ戦争、義和団事件、アメリカのフィリピン支配などを事例に「民族の抑圧的な世界体制」としての帝国主義と「暴力の連鎖」を伴う列強の植民地支配を論じているのだが、それに比してドイツの植民地支配の説明が少なく、バランスが取れていない。例えば、独領南西アフリカ(現ナミビア)におけるヘレロ・ナマの蜂起とその鎮圧については、それがジェノサイドの様相を呈していたことや、それに際して設けられた強制収容所が「絶滅収容所」の性格を有していたことはきちんと言及されているのだが(121、314~315頁)、その説明は1907年1月の帝国議会選挙(いわゆる「ホッテントット選挙」)の背景説明の域を出ず摘要に留まっているのが惜しまれる。本書が帝国主義と絡めて帝政期のドイツ政治を論じるのであれば、やはりドイツの植民地統治の事例も第1章と同程度の密度で論じたほうがよかったのではないか。

 2点目は、帝国主義時代の戦争と平和を論じるのであれば、本書が注目するような第二インターナショナルやドイツ平和協会といった「下からの」平和運動に留まらず、政府間による「上からの」平和を求める動きにも(たとえそれが失敗に終わったとしても)目を向けてもよいのではなかろうか。例えば、建艦競争による独英関係の緊張を緩和すべく1912年2月にベルリンに派遣された当時の英陸相ホールデン子爵の試みが挙げられよう。また、サライェヴォ事件から第一次世界大戦勃発までの1ヵ月間(7月危機)は、本書が論じるように開戦に向かって「事態が一直線に進んだわけではない」(242頁)。第二インターナショナルによる反戦平和集会の動きがある一方(254~255頁)、政府レベルでも英外相グレイが英仏伊独4か国協議を提案して外交交渉による解決に最後の望みを託していた(243頁)。本書では7月下旬の皇帝ヴィルヘルム2世の発言には戦争と平和の間で揺れ動きがあったことには言及が見られず、こうした大戦勃発直前に見られた平和に向けた「上からの」最後の動きについては、もう少し説明が欲しいところである。

 3点目は、ヴィルヘルム2世の位置づけである。彼の統治スタイルはよく「個人統治」と言われるが、その実は先行研究が示すように人事を活用した側近政治であり、それはときとして帝国宰相をはじめとする指導部の方針と対立することがあったことが知られている。それについては対中・対米政策といった外交政策では幾つか事例が思いつくのだが、今回本書が取り上げた内政面での政治的諸課題ではどうであったのだろうか。

 以上の点は、評者の専門とする外交史の視角からのものでしかなく、本書の内容や学術的価値を決して損なうものではない。何故ドイツが第一次世界大戦への道を歩んだのかという古典的テーマについては外交史的アプローチも不可欠だが、この時期のドイツ社会と議会政治が抱えていた問題を把握する上で本書は欠かせない一書であると高く評価できよう。

(「世界史の眼」No.48)

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ドイツの内なる植民地主義?
木戸衛一

はじめに

 パレスチナ・ガザ地区を実効支配するハマスがイスラエルを奇襲攻撃した2023年10月7日以降、ドイツはかたくなにイスラエル支持の姿勢を貫いている。苛烈を極める同国の軍事攻撃にも、原因はあくまでハマスにあるとの立場を崩していない。圧倒的に非対称的なイスラエル・パレスチナ関係への歴史的視座を欠いた一面的な言説は、「ホロコーストへの反省」では説明しきれない植民地主義的深層心理を感じさせる[1]

1.「無制限の連帯」と「国是」

 「10・7」以降、ドイツはイスラエルへの「無制限の連帯」の声で覆われた。10月12日の所信表明演説で「イスラエルの安全はドイツの国是だ」と述べたオラーフ・ショルツ首相は、5日後、事件後外国首脳として最初にイスラエルを訪問した。

 10月27日および12月12日、戦闘停止を求める国連総会決議に、ドイツはいずれも棄権した。メディアでは、なぜ決然と反対を貫かなかったのかと政府の弱腰を糾弾する声が響いた。

 だが、ドイツは弱腰どころか、熱心にイスラエルに武器を送っている。2023年の11月2日までに、ドイツは前年全体の10倍に及ぶ3億300万ユーロの武器輸出を承認した。1月16日『シュピーゲル』誌の報道では、戦車の弾薬の供与まで検討されているという。

 そもそもドイツは世界有数の武器輸出国である。2023年3月13日、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の報告によれば、2018~22年にドイツは世界全体の武器輸出の5.2%を占め、米国(40%)、ロシア(16%)、フランス(11%)、中国(5.2%)に次ぐ第5位であった[2]。その供給先は、エジプト18%、韓国17%、イスラエル9.5%の順となっている。

 去る1月25日、アムネスティ・インターナショナル、オックスファム、セーブ・ザ・チルドレンなど16の国際団体が、イスラエルとハマスの紛争終結を目的に、世界各国に双方への武器や弾薬の供与を停止するよう求める共同声明を発表したが、その声は残念ながらドイツの政界・経済界には届かないであろう。

2.「反ユダヤ主義」によるイスラエル批判の封殺

 ベルリンの「反ユダヤ主義調査・情報協会」(RIAS)によれば、「10・7」から11月9日までの間にドイツでは、994件の反ユダヤ主義事件が確認された(内訳は極端な暴力3件、攻撃29件、器物損壊72件、脅迫32件、大量のメール送信4件、侮辱的態度854件)[3]。ユダヤ教施設やユダヤ系市民への暴力・嫌がらせが非難されるのは当然だとしても、ドイツでは、国際人道法上の原則から逸脱したイスラエルの軍事行動に対する批判ですら、「反ユダヤ主義」のレッテルを貼られ封殺される。そして、イスラエルに関連して「植民地主義」や「アパルトヘイト」を語ることすら、「反ユダヤ主義」の疑いをかけられるのである。

 近代ドイツにおける反ユダヤ主義は、1879年、ヴィルヘルム・マルによる反ユダヤ連盟の結成に端を発するが、宗教に加え文化・経済・社会背景を持ったユダヤ嫌悪・迫害は中世にまでさかのぼることができ、「反ユダヤ主義」の定義は一筋縄ではいかない。RIASがまとめた「10・7」以降の反ユダヤ主義事案(antisemitische Vorfälle)の政治的背景には、反イスラエル行動主義(antiisraelischer Aktivismus)が21%含まれているが、「反ユダヤ主義」と「反イスラエル」の概念の違いは全く分からない。

 結局今日「反ユダヤ主義」は、イスラエル国家への批判をあらかじめ封じ込める「道徳的棍棒」として道具化されている。2024年1月19日、ドイツ連邦議会は、新しい国籍法を可決した。それにより、ドイツ国籍を取得可能な滞在期間が従来の8年から5年(特別な場合は3年)に引き下げられ、二重国籍も原則認められるようになったが、他方国籍付与の条件として、自由で民主的な基本秩序への信奉に「反ユダヤ主義、人種差別主義ほか、人間蔑視の動機による行為」が相容れないことが明記された。つまり、イスラエルを批判したことで、10年以内に国籍付与が撤回されることも考えられるわけである。

3.南アフリカの国際司法裁判所提訴への侮蔑的反応

 2023年12月29日、南アフリカは、イスラエルがガザ地区のパレスチナ人に対しジェノサイドを犯していると国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。かのネルソン・マンデラ大統領は1997年12月4日、「我々は、パレスチナ人の自由がなければ自分たちの自由が不完全なことをよく知っている」と演説したが[4]、提訴は彼の遺志を継ぐだけでなく、これまで「先進国」にいいように差配されてきたグローバルサウスを代弁する行為と言えよう。

 翌年1月11日に審理が始まり、南アフリカがICJに対し、イスラエルにガザでの軍事作戦の即時停止を命じるよう要請すると、「ドイツの歴史とショアーの人道に対する罪に照らして、ジェノサイド条約に特別に結びついている」と自負するドイツは、その「政治的利用に断固反対」し、提訴は「いかなる根拠も欠いてい」て「断固かつ明確に拒絶する」と、イスラエルを全面的に擁護する声明を発表した[5]

 それにしても、ドイツはよく臆面もなく、南アフリカによるジェノサイド条約の「政治的利用」を非難できたものである。1990年10月3日の「ドイツ統一」の実態は西独による東独の吸収合併であることから、国家分断時代の歴史は、「勝者」である西独の見方で語られがちである。だが、冷戦時代西独が、反共の防波堤として数々の軍事独裁政権を支持、人権侵害に加担すらした事実は看過できない。

 アパルトヘイト体制の南アも、その一例である[6]。なにしろ、1966~78年首相を務めたバルタザール・フォルスターが第二次大戦中ヒトラー信奉者として逮捕され、1950年人口登録法がナチ・ドイツの人種差別規程を雛型にしたように、戦前も戦後もナチズムは南アフリカに、少なからぬ人的・イデオロギー的影響を及ぼしていたのである。

 ドイツの「新植民地主義的傲慢」(ゼヴィム・ダーデレン連邦議会議員)に刺激されて、奇しくもちょうど120年前、「ドイツ領南西アフリカ」下でナマ人へのジェノサイド開始を経験したナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領は、「ドイツが国連のジェノサイド条約への道義的支持を表明しながら、同時にガザにおけるホロコースト・ジェノサイドと同等のことを支持することはできない」のであり、「その残酷な歴史から教訓を引き出すことができない」ことを強く批判した[7]

 1月26日、ICJは南アフリカの提訴を却下せず、イスラエルに軍事作戦の停止は求めなかったものの、ガザにおける200万人もの故郷からの追放、2万5000人もの殺害という現実を踏まえ、「法廷は、この地域で起きている人道的悲劇の大きさを痛感しており、人命の損失と人的被害が続いていることを深く憂慮している」(ジョーン・E・ドノヒュー議長)とし、判決を言い渡すまでの間、住民の大量虐殺などを防ぐためあらゆる手段を尽くすよう暫定的な措置を命じた。裁判所に強制的な執行力はなく、イスラエルのネタニヤフ首相もこの決定を拒絶する姿勢を明らかにしたが、ドイツ政府のコメントは確認できない。

 1月12日の声明でドイツは、ICJ規定第63条に則り、第三国として審理に参加する意向を示していた。事実2022年9月5日には「自らの歴史に基づき」(”given its own past”)ロシアに対するウクライナでのジェノサイド審理[8]、翌年11月15日、ガンビアが提起したミャンマーに対するジェノサイド審理に参加している[9]

 だが今回ドイツは、むしろICJが提訴を却下するのを期待していたのではないか。1月26日の裁定を踏まえ、ドイツは一体どのように第三国として今後の審理に関わろうというのであろうか。

おわりに

 第一次大戦に敗れ植民地を放棄したことから、ドイツがそれまで英仏に次ぐ植民地大国だったことを知るドイツ人は、必ずしも多くない。近年BLM運動の高揚や、ナミビアとの補償問題、カメルーン(「ドイツ領西アフリカ」)への美術品返還を通じて、ようやくドイツ植民地主義の問題が人々に意識されつつあると言える。

 今日ドイツが成熟した民主主義国家であることは、誰も否定しないであろう。だが、「イスラエルは民主主義国で、非常に人道的な原則に導かれている」(2023年10月26日、ショルツ首相)とその軍事行動を支持する時、そこには文明と野蛮、民主主義とテロリズムという対立図式が明瞭に見て取れる。植民地を手放して100年余り、グローバルサウスが発言力を増す中、この国はどこか「使命感に基づいて支配を正当化する教条[10]」に固執しているのであろうか。


[1] 本稿1.および2.について、詳しくは拙稿「ドイツはどこへ行くのか」(2023年12月24日)参照。https://www.peoples-plan.org/index.php/2023/12/24/post-865/

[2] https://www.sipri.org/sites/default/files/2023-03/2303_at_fact_sheet_2022_v2.pdf

[3] https://report-antisemitism.de/monitoring/

[4] http://www.mandela.gov.za/mandela_speeches/1997/971204_palestinian.htm

[5] https://www.bundesregierung.de/breg-de/suche/erklaerung-der-bundesregierung-zur-verhandlung-am-internationalen-gerichtshof-2252842

[6] https://zeithistorische-forschungen.de/2-2016/5350?language=de

[7] https://www.dw.com/de/namibia-deutschland-lernt-nicht-aus-der-geschichte/a-68034829 なおドイツ外務省は2021年5月28日、当時のドイツの行為をジェノサイドと認め、「再建・開発」プログラムに合計11億ユーロ支払うことでナミビア政府と合意したと発表したが、当事者であるヘレロ人・ナマ人の合意を未だ得られていない。

[8] https://www.lto.de/recht/hintergruende/h/warum-deutsche-intervention-in-ukraine-russland-igh-voelkerrecht-voelkermordkonvention/

[9] https://www.auswaertiges-amt.de/de/newsroom/-/2632016

[10] ユルゲン・オスターハメル『植民地主義とは何か』論創社、2005年、37頁。

(「世界史の眼」2024.2 特集号9)

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