コラム・論文」カテゴリーアーカイブ

世界史の中の北前船(その6)―長崎・薩摩・富山―
南塚信吾

3. 新潟抜荷事件と薩摩組

(1) 1836年新潟抜荷事件   

 薩摩藩の藩政改革を進める調所笑左衛門は、藩の中国貿易に期待をかけた。まずは、長崎での唐物売り捌きである。藩は長崎における唐物売り捌き(長崎商法)の許可を幕府から得ていたが、10年間の認可の期限が切れるのを機に、1834年(天保5年)に幕府にたいして期限の延長を願い出て、1835年には、その許可を1836年から20年間延長してもらった(上原 1990 209-211頁:徳永 2005 120-122頁;上原 2016 229頁)。だが、この審議に当たっては、薩摩藩の抜荷疑惑が幕閣にちらついていて、幕府は、抜荷の探索を進めた。とくに長岡藩の新潟での抜荷が怪しまれた。

 そして、1835年(天保6年)3月、幕閣(老中)から関係奉行に示された『風説書』は、①鹿児島はもちろん、薩摩藩内の島々において、唐船が寄港して抜荷が行われている。➁抜荷品は、越後あたりに送り込まれ、売り捌かれている。③抜荷品はまた、琉球国物産に取り混ぜて長崎で売り捌かれている。③薩摩藩は、琉球国の島々において、唐だけでなく、異国船との貿易を沙汰している。④薩摩藩は、時々朝鮮に宛てて貿易船を派遣しているとの疑惑を指摘した。これには真偽両方が含まれていた。とくに④は事実とは認めがたいと言われる。だが、幕府の疑念は強まった。同年4月には勘定奉行土方出雲守の「言上書」は、薩摩の密貿易について、松前からの俵物や昆布が「新潟海老江」近辺において密売されて「直に」薩摩に廻っている場合と、薩摩が自藩の船を「外国之商船」に仕立てて松前江差に差し回して俵物などを買っている場合とがあると報告していた(徳永 2005 166頁)。また、同年7月には、長崎奉行久世広正らも「言上書」を幕府に差出し、長崎会所を悩ましている唐物抜荷が広がるのは、俵物抜荷が背後にあるからであり、俵物出産地を領する松前氏と、唐物抜荷の地を抱える島津氏に、その管理の徹底を求めた(上原 1990 211-212頁;上原 2016 267-280頁)。

 のちに老中水野忠邦が御庭番から江戸城内の切手番になっていた川村修就(ながたか)に命じて新潟をめぐる抜荷の実態調査をさせ、1840年(天保11年)に出させた報告書『北越秘説』によると、新潟では、薩摩の船は毎年6隻ほど来ていて、春は薩摩芋、夏は白砂糖、氷砂糖を運んできているが、その下積みとして、薬種や朱などを積み込んできて、公然と交易していた。藩当局もそれを了承し、薩摩船から運上を取り立てていた。この不正の唐物は奥羽や北国に出回っていた。そして最近また怪しげな薩摩船が新潟湊の近くに出没しているというのであった(徳永 2005 205-206頁;中野 2008 10-11頁;上原 2016 271‐272頁)。新潟は、薩摩への俵物・昆布の輸送の蝦夷地との中間点、薩摩からの唐物の輸送の受け入れ地点になるだけでなく、その抜け荷を隣国の越中、加賀、能登、信州、上州のみならず、江戸へも運ぶ供給拠点にもなっていたようなのである(深井 2009 248-252頁)。

 新潟湊では、廻船問屋が多数あって、大問屋と小問屋とが分かれ、大問屋も48軒に限定されていた。天保期には48のうち、25軒ほどしか活動していなかったが、その中でも、間瀬屋、小川屋、若狭屋、北国屋、田中屋などが知られている。船主には、喜兵衛や弥五左衛門や十兵衛など多くがいた。また豪商としては、小澤家や斎藤家が大きかった。新潟湊は北前船で栄えていたが、ピークは二つあって、一つは、元禄期で、これは米を大坂へ運ぶ北前船で栄えた時期である。二つ目は、江戸後期で、蝦夷と薩摩を結ぶ北前船の中継地として栄えた。この時期は、「蝦夷地交易と買い積みの時代」とも言われている。(https://actros.sakura.ne.jp/file12.html) 抜荷が関係するのは、この二つ目の時期である。

 さて、上の『風説書』や「言上書」が出た1835年の10月、薩摩の船が長岡藩村松浜に遭難する事件が起きた。上述の『北越秘説』によりつつ、事件を見てみよう。船は、薩摩湊浦の八太郎の持ち船で、八太郎が直乗船頭(船主が自ら船頭として乗船)で、雇われの沖船頭源太郎と水主4人が操船していた。だが、他に唐物抜荷仲買人が二人も乗船していた。これは北前船とは言えない薩摩の船であった。遭難船は、幕府の検分を受けることになっていたが、この船は、唐薬種、手織物などのご禁制品を多数積み込んでいたため、積荷を秘匿し、八太郎と仲買人二人も隠れ、通常の遭難と見せかけた。代官の検分も無事に終わり、積荷は、新潟へ運ばれ、そこから、越中、信州などへ売り捌かれた(徳永 2005 200-201頁)。幕府も、1836年末までは、抜荷の事実を知らなかった。

 そういう中で、1836年(天保7年)3月、幕府は松前、薩摩藩に俵物、唐物の抜荷取締令を出した。取締令は、松前・蝦夷地から煎海鼠・干鮑・昆布が薩摩・越後に抜け散っていて、長崎に入っていないことを指摘し、抜荷を厳しく取り締まるよう命じたものであった(上原 2016 278-279頁)。

 この直後4月には、「どういうきっかけか判然としないが」、幕府は新潟の事件が抜荷に関連していることを把握した。一説では、新潟で売り捌かれた唐物抜荷を仕入れた江戸の商人らから露見したという(中野 2008 7頁)。以後、江戸の評定所で取り調べが行われた。新潟側の抜荷の中心は、廻船問屋の若狭屋、北国屋、田中屋で、品物を購入した商人は、新潟の商人に加え、信州、富山、上州の商人や売薬商がいた。総勢50人余りが審問された。その結果、直接の関係者3名は病死していたが、首謀者は遠島や家財没収、江戸払いなどの刑を受けた。調べは4年後の1839年(天保10年)にようやく終結した(上原 2016 270‐271頁)。「村松浜難船幷唐物一件御裁許書」が関係者の裁きの全体を記録している(徳永 2005 196-200頁)。この時、新潟において抜荷の唐薬種を越中の売薬商も買い付けていたことが発覚し、処罰を受けた(深井 2009 196頁)。そのほか、関係者は信州松本・善光寺、越後高田、五泉、中条町などに広がっていた。しかし、薩摩側の船頭や唐物商人がどのように処分されたのかは不明である(中野 2008 7頁)。

 この事件の発覚を踏まえて、1836年6月、幕府は、薩摩藩に対して、1839年年(天保10年)以降長崎商法を停止する旨通告した。これにより薩摩藩は、長崎会所において琉球の進貢貿易を通して得られる唐物を売却する事が出来なくなった。1835年の土方の「言上書」以来幕府内部で議論されてきた件が、ここに決着したのであった(上原 2016 291‐296頁)。

 1836年以後の抜荷取り締まりは新潟港を取り締まる長岡藩、蝦夷の松前藩、そして薩摩藩に大きな衝撃を与えただけでなく、越中、信州、上州など関連した藩にも重大な影響を与えた。薩摩藩について言えば、1839年に薩摩の長崎商法で「琉球物産」の売り捌きが禁止されたことは、大きな痛手であった(上原 1990 247-248頁)。越中については、次に見てみよう。

(2) 新潟抜荷事件後の富山

 新潟で取引された唐薬種は、越中の売薬商も購入したのであるが、1836年以降幕府の取り締まりが厳しくなると、状況は変わった。新潟での抜荷摘発は、富山の船主や売薬商人たちに衝撃を与え、廻船を取りやめる例も見られた(深井 2009 196頁)。だが、新潟摘発後も薩摩船は、能登の輪島などへ寄港し、輪島の薬種は、富山の茶木屋清兵衛やもろ屋久兵衛が買い付けたという(深井 2009 249-251頁)。

 そういうこともあってか、新潟に代わって、抜荷は「越中富山」から出るようになったと言わる。上述の『北越秘説』は、抜荷摘発以後、新潟に代わって富山が拠点となって、北国筋、信州筋、関東筋へ中国からの薬種類、朱などが出回るようになったというのであった(徳永 2005 205-206頁)。だが、深井は、それでも薩摩組が「組として」抜荷をやったとは考えられないと言う。もちろん、個別に抜けに購入の道に走ったものは増えたかもしれない。「北国での越中抜荷船のもたらす抜荷品の重要性が一層高まり、越中抜荷廻船のある程度の増加を招いたのではないかとかんがえられる。」それでも、抜荷をした船は、越中の廻船全体の中ではごく一部にすぎないというのである(深井 2009 86-87頁)。

 しかし一部でも、そうした廻船は相当な利益を上げることが出來、じょじょに薩摩組の関与は深まっていった。薩摩組が廻船購入資金を貸与して昆布輸送船を確保しようとしたり、売薬商人自身が廻船を所有したりするようになったのである(深井 2009 196頁)。

 その例が、能登屋である。能登屋(密田家)は薩摩組の中心的存在であった。能登屋は1837年(天保8年)には、650石の長者丸、400石の栄久丸という二隻の北前船を所有していた。調所の支援を受けて、能登屋は長者丸という専用船を1833年(天保4年)に完成させていたのである。1838年(天保9年)にはもう一隻栄久丸級の船を購入していたが、この翌年には栄久丸を売却し、加えて長者丸が難破してしまうのである(徳永 1992 3頁;高瀬 2006 56頁;深井 2009 196-208頁)。能登屋は薩摩藩への昆布廻船を行う、中心的な売薬商人ではあったが、船の手配は容易ではなかったようである。能登屋は新潟での抜荷事件には強い関心を持っていたようで、裁きの全容の報告を受けていた(密田家文書)。

 長者丸と栄久丸両船の動きは、例えば次のようであった。1837年(天保8年)、栄久丸は船頭宇三郎の下で、越中―松前―薩摩と航海した。4月に越中を出て氷見で筵などを買い付け、8月に松前に着き、松前で昆布、干し鰯、笹目(干し鰊)などを仕入れ、その後薩摩へ4万斤あまりの昆布を運んだ。そして薩摩からの戻りに輪島に寄って、越中に戻った(高瀬 2006 47-49頁;深井 2009 205-206頁)。船頭平四郎の長者丸は、1839年(天保10年)には、以下のような廻船をした。4月に西岩瀬で米を積み、5月に大阪へ着いて富山御蔵役人に米を渡し、大坂で綿、砂糖その他を積んで6月に出発、7月に新潟に着いて、新潟行の荷物を問屋に届け、同じ7月に新潟を出て、8月に松前に到着、大坂からの荷物を降ろした。そして、ここで昆布を「5、6百石」程を積み込み、10月に、「東回り」(太平洋廻り)で薩摩へ向かった(高瀬 2006 49頁;深井 2009 206-207頁)。ただ、長者丸は、蝦夷から昆布を満載して東回りで薩摩へ向かう途中、遭難してしまうのである。これは後述する。

(3) 1840年第二回新潟抜荷事件  

 長岡藩の新潟では、『北越秘説』が出た直後の1840年(天保11年)11月に、ふたたび抜荷が発覚した。

 石見の北前船によって長崎を介さないで新潟港へ運ばれた唐薬種を、新潟の廻船問屋の小川屋などが買い取って販売していたことが露見したのである。ほかに、新潟の商人越中屋、出雲屋も関係していた。そして販路は、会津若松、酒田、鶴岡など東北に広がっていた。1841年(天保12年)になり、まず新潟町奉行所で取り調べが行われ、ついで江戸へ移された。これには、長岡藩の御用商人でもある廻船問屋の津軽屋と当銀屋に嫌疑がかけられたが、結局この二家は無関係であった。判決は1843年(天保14年)に言い渡され、関係者は、財産の部分的没収、江戸追放などの刑を受けた。今回の関係者には、高田や越中や信州のものは含まれず、逆に羽州鶴岡や酒田、奥州若松のものが入っていた。また、今回は、抜荷を運んできた薩摩船のいた長崎のものも処分されていた(中野 2008 12―13頁)。

 以上の二件の抜荷事件から分かるように、新潟湊は、薩摩・長崎などから、新潟湊を経て、内陸部の広い範囲にわたる抜荷流通ルートの拠点であった。また事件に関わった町人は、廻船問屋などの大商人から、中小商人、召使にまで及んでいることが分かった。こういう抜荷ルートと抜荷商人を支えていたのは、そのルートで出回る安価で良質な唐物を熱望する人々の存在であった(中野 2008 16頁)。

 新潟では、この他にも抜荷の事件があり、幕府は長岡藩が新潟湊の取り締まりをできていないとみなし、ついに1843年(天保14年)に、新潟湊の上知(あげち)令を出した。当初は酒田と新潟の二つの湊が上知されるはずであったが、将軍家慶の裁可に際しては、酒田が外され、新潟だけになった。これにより、新潟湊は幕府直轄となり、薩摩との交易・抜荷はできなくなった(上原 1990 249頁;徳永 2005 203-204頁;中野 2008 16―17頁)。

 この新潟抜荷事件では、薩摩藩からは処罰者は出なかった。しかし、薩摩は大きな打撃を受けた。おりから、1840年代前半、アヘン戦争後の時期、琉球、薩摩をめぐる国際関係は急変していた。薩摩藩としては、英仏船の寄港が増えたのでそれに対抗するためにも、また琉球を確保するためにも、藩財政を強化する必要をますます感じていた。そのためには「琉球物産」の販売が必要であった。

 その道の一つが長崎商法の復活であった。1839年に長崎商法を停止されてからも、藩は幕府に琉球保護などの名目で説得を重ね、ついに1846年(弘化3年)、長崎における「琉球物産」の販売の禁止が解除された。同年から5年間生糸と絹織物などの販売が許されたのである(上原 1990 250-264頁)。しかし、薩摩藩としては、もっと利益の上がる抜荷のための道を、新潟に代えて見出さねばならなかった。

(4) 1849年―薩摩組の転機  

 調所の改革が進む薩摩藩は、1844年(弘化1年)(上原は1842年としている)に琉球物産方に御製薬方を設け、その合薬を藩内で安価に病人に配ることとした。御製薬方の製薬掛は薩摩組が親しい鹿児島町年寄の木村与兵衛であった(1846年からは市来四郎)。調所や木村は、多くの薬種を必要とし、それを中国・琉球から得るために一層多くの昆布を必要とするようになった。すでに1846年(弘化3年)に、薩摩組仲間の能登屋の船頭又八が松前から北前船で昆布を鹿児島の能登屋などあてに無料で廻送したという記録がある(徳永 2005 164―165頁)。こういう実績の上に、1847年(弘化4年)、木村与兵衛からの働きかけで、薩摩組仲間の能登屋平蔵、船頭又八が昆布の廻送を引き受けた。又八は1847年、1848年に木村から資金の貸与を受け、蝦夷松前において昆布を仕入れて廻送し、鹿児島藩に昆布一万斤を献上し、残りも同藩で販売した。これは薩摩組としてではなく、能登屋(密田家)個人としての「私的な取引」であった(徳永 1992 8頁;高瀬 2006 56頁;深井 2009 208頁;上原 2016 319-320頁)。

 御製薬方は1848年(嘉永1年)から領内に配薬し始めた。このため、藩内で配薬をしていた京都、伊勢などの薬業者は、藩内での活動を「差留」された。しかし、木村に繋がっていた薩摩組仲間は従来通りの活動を認められた。そのお礼として、薩摩組仲間は、あらためて薬や布や昆布などを献上した(上原 1990 277-278頁;徳永 2005 170-171頁;高瀬 2006 45、55頁)。

 ただし、薩摩組仲間や組そのものが中国からの薬種の抜荷をしていたのかどうかは記録の上ではわからない。深井は、1849年(嘉永2年)以前に薩摩組が「組として」抜荷の唐薬種購入を行ったとは考えられないという。富山藩前田家が幕府からの処分を恐れていたからだと。ただ、中には、上述の神速丸のように、抜荷を購入・輸送したものはいたかもしれないというのである(深井 2009 86-87頁)。

 ところが、「ある時期を契機に薩摩の昆布回漕事業の事業主体に変化が見られ」、「昆布回漕の経営主体として売薬薩摩組が本格的にのりだした」(徳永 1992 7頁;上原 1990 277-278頁も)。つまり、1849年(嘉永2年)、昆布船廻送は能登屋平蔵、船頭又八から、「薩摩組」に引き継がれたのである。薩摩組から木村与兵衛にあてた書簡では、昆布の回漕は「当年より相改仲間共に而引請」ると述べていた。しかしこれは木村与兵衛の主導のもとに進められたものであり、木村から融資も行われるものであった(徳永 2005 169-174頁)。これは富山藩が容認するようになったこともあって、以後1854年まで6年間、薩摩組が「組として」責任をもって松前の昆布を薩摩藩に秘密裏に回漕することになった。又八が薩摩藩から借りていた金は、薩摩組が引き受けた。嘉永段階では、栄福丸と万徳丸、安政期には順風丸と神通丸が昆布を運ぶ北前船であった(高瀬 2006 55-56頁;深井 2009 88、208-209頁)。

 1849年までは昆布回漕は薩摩藩が主導していたが、この時点から薩摩組が主導するようになったと言ってよい。薩摩藩が御製薬方を設け、さらに藩内の売薬をも展開するような事態に対し、薩摩組は藩内での営業権を維持するために、薩摩藩が求める昆布回漕事業を強化したのである。1849年以降、船頭又八に代わり船頭松蔵の下で、栄福丸が昆布の回漕を担い、日本海(西回り)航路も太平洋(東回り)航路も使いつつ、薩摩組は松前と薩摩との間を行き来した(徳永 1992 8、10―13頁;徳永 2005 174-179頁)。1849年に調所が死去(自死)したあとも、これは続いた。1849年に、栄福丸は、献上分1万斤の昆布のほか、4万8000斤余りの昆布などを薩摩に運んでいた(深井 2009 261頁)。

 1852年(嘉永5年)の書状が、栄福丸船頭松蔵の動きの一例を証言している。これは、富山の鳥羽屋五左衛門らが、木村喜兵衛、木村与兵衛に宛てたものである。それによると、この年4月、松蔵には、蝦夷の松前で昨年通りに昆布を注文し、受取時期の土用までは時間があるので、越後の新潟へ往復し、土用に昆布を受け取って、御地鹿児島へ向かうように申し付けた。9月ごろにはそちらへ着くだろうから、例年のとおり藩に昆布を上納し、残りはこれまで通り「宜しく御執成し」下さるようにというものであった(上原 1990 275-276頁)。

 このように富山売薬商人やそれと連携した船頭たちによって海産物が薩摩にもたらされたとすれば、また彼らの手によって唐物薬種が北国へ移出されていたのでもあった(上原 1990 276-277頁)。では、唐物の運搬はどうなっていたか。これはあまりよく分からない。

 1849年(嘉永2年)以後は、富山藩の政策の変化もあって、薩摩組は「組として」抜荷を行うようになったわけであるが、1852年(嘉永5年)ごろとされる栄福丸松蔵の記録では、薩摩組は、蝦夷で購入した昆布を直接薩摩へ運んだ後、昆布を献納・売却して、帰荷として唐薬種を購入していた。薩摩組は唐薬種、繊維品、陶磁器などを購入していて、それらを新潟で売却していたという(深井 2009 261-268、279-288頁)。

 今のところ、薬種の抜荷につては、これ以上は分からない。

 以上のような抜荷は、薩摩組に大きな利益をもたらしていたが、1854年(安政元年)に薩摩藩は昆布船の中止を通告して、薩摩組による薩摩への昆布回漕は終わった。越中は、薬種の入手ルートの一つを断たれたことになった。そして、琉球の中国からの輸入は薩摩の長崎商法の枠内に制限された。

 この間、琉球は、薩摩藩の政策に翻弄されてきた。あらためて、琉球の視線から日中貿易を見ておかねばならない。

参考文献

上原兼善『鎖国と藩貿易―薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
高瀬 保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年 (高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
深井甚三ほか『富山県の歴史』山川出版社 2012年(初版1997年)
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年

(「世界史の眼」No.58)

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「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―
稲野強

 戦前に活躍した漫画家の岡本一平が、その風采から「鼠の殿様」と綽名した弁護士出身の国会議員がいた。立憲民政党の斎藤隆夫(1870~1949〔明治3~昭和24〕年)である。かれは、鼠どころか、歯に衣着せぬ言論によって軍部の政治介入を舌鋒鋭く批判した「虎」や「狼」であった。その「正論」は、当時、軍拡に燃える軍部や軍部にすり寄る政治家をたじろがせた。

 今日でも、斎藤は「憲政擁護の闘将」(作家・大橋昭夫)として、国会議員の不祥事、体たらく、遵法意識の低さ、世界観の乏しさ、人権意識の低さ、を嘆き、あるいは批判する際にしばしば思い起こされる貴重な存在である。いや、「闘将」どころか、大橋は斎藤を「『立憲主義』の理想を堅持した大正デモクラシーの権化」とまで賛美する。また『北一輝』などの著作で知られる評論家の松本健一は、斉藤隆夫の評伝の副題に「孤高のパトリオット」とつけた。松本は、斎藤を、あるべき政党政治の道を模索することによって軍国主義時代のポピュリズムに抵抗したパトリオットであった、と捉えたのである。一方、丸山眞男も、斎藤を戦前の「親英米派=現状維持派」〔リベラル〕で「有名な聖戦批判演説をした」人物と評価している。

 斉藤は、苦学して弁護士になり、アメリカ・イェール大学留学を経て、兵庫県選出の衆議院議員となった(1912)。かれの経歴を見ると、第一次世界大戦後の1919年1月12日の議会では、当時所属の憲政会を代表して、国民思想に関する質問演説を行ない、民本主義の重要性を説いている。また軍縮の推進者で国際協調派の濱口雄幸首相のもとで内務政務次官に任命され(1929)、次の第二次若槻礼次郎内閣のもとでも法制局長官に就任している(1931)。こうした活動から、斎藤が自由主義者、国際協調主義者、民主主義者とみなされてきたことも当然である。のちに斎藤が、大政翼賛運動(1940)に対して鋭い批判を投げかけたのも、そうした一貫した政治思想の延長線上にあったと言えよう。

 さて、日本は、国際協調路線を歩み始めた1920年代初頭からわずか10年足らずで、中国大陸への野心をむき出しにする軍部の独走を許す状況を生み出し、満州事変(1931)、満州国建国(1932)、国連脱退(1933)へと国際的孤立への道を突き進んだ。

 そうした外交上にも危機的な状況の中で、斎藤は、満州事変以降急速に台頭する軍部の政治介入に真っ向から反対する数々の大演説を帝国議会で行った。それによってかれは日本憲政史上不朽の名を留めることになったのである。かれは多くの名演説を残しているが、その中で特に人口に膾炙しているのは、2・26事件(1936年2月)後における陸軍を中心とする「改革派」を批判した「粛軍に関する質問演説」(いわゆる「粛軍演説」)(1936年5月7日、第69議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」(1938年2月24日、第73議会)〔同法案がナチスの授権案と類似していることを指摘〕、それに「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)(1940年2月3日、第75議会)である。これらの演説は、軍部にひれ伏し、及び腰になっている議員の中にあって、斎藤の存在感を際立たせるものであった。

***

 斎藤は、先に掲げた1940〔昭和15〕年2月3日の「反軍演説」が直接の原因で、同年3月7日に民政党を除名され、本会議でも懲罰動議にかけられ衆議院議員の議席を剥奪された。かれはすでに70歳になっていた。だが、かれは議会での演説の機会を奪われたものの、持ち前の反抗精神を失わなかった。例えば、かれは近衛文麿首相を中心に推進された「新体制運動」〔ファシズム体制の樹立を図る〕批判の書簡を3度も近衛自身に送りつけたのである(同年6月26日、8月9日、9月19日付)。また斎藤の『回顧七十年』によれば、かれは「来年の総選挙〔1942年4月30日〕までには1年2か月ある。次の選挙には、捲土重来必ず最高点をもって当選し、軍部および除名派に一大痛棒を加えねばならぬ。」と、言い放ち、相変わらず意気軒高なところを示していた。

 以下で紹介するのは、斎藤が、そうした折に書き溜めた数十の論考のうちの断片である。その断片を見るだけでも、日本の中国大陸進出に対する斎藤の批判が、余すところなく開陳されていることが分かる。斎藤は、翼賛体制の下で沈黙を強いられ、戦争に引き摺られていく国民の多くが抱く内心忸怩たる思いを代弁する役割を堅守し、自身の生命の危険を顧みることなく、軍部と親軍政治家批判をし続けたのである。 

 さて、件の論考のタイトルは、「天上より見たる世界戦争」(1942年11月)である。これが書かれた時期、すでに日本は中国大陸で軍事的劣勢に立たされており、また太平洋戦争は勃発からほぼ1年経っていた。

 斉藤は、ここで、今日から見ても小気味いいほどの日本の侵略主義・聖戦批判を展開する(以下のカッコ内の頁は、『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』からの引用頁である。また旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた)。

 斉藤は、まず戦争の大義である「聖戦」思想の欺瞞性を暴く。

「天上より今日の世界を見渡して居ると色々の感想が起こる」(169頁)で始まる文章で、斎藤は、

① 戦争の勃発は、「結局は直接に国家を背負って戦争の衝に当る軍部の認識不足と云うことに帰着するのではなかろうか」とし(172頁)、日本の軍部が、敵対国との軍事力の決定的な差を認識していず、いかに世界情勢を見誤ったまま戦争に突き進んだか、を痛烈に批判している。

② 支那事変〔日中戦争〕に関しては、日本が「此の国力を揮って支那〔中国〕を侵略し日本の勢力を植え付けて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱えられて居るものは悉く虚偽仮装の口実に過ぎない」(173頁)、と日本の真の目的がアジア大陸侵略であることを看破する。

③ この戦争を日本は「聖戦と称している」(173頁)が、「聖と言う以上は少なくとも自己を犠牲として他人を救済することを意味するのであるが、凡そ昔から左様な戦争のあるべき訳はない。如何なる場合に於ても戦争は他国を侵略するか其の侵略を防禦するか。是が戦争の本質であって、是れ以外に戦争の本質は絶対にあるべき訳はない」(173頁)。「況んや支那人民は日本に向かって救済などを求めて居ないのみならず、日本の進撃に対して極力抵抗を続けて居る。此の事実を目前に見ながら聖戦などと云うことが口にせらるゝ義理ではない」(174頁)と、斎藤はここで戦争の本質を侵略と見なし、その最大の大義名分である「聖戦思想」を完全に否定し、却って日本に対する中国の「抵抗」の正当化すら容認している。

④ 中国の「抗日政策」に関しては、日本は、「蒋介石の政権を抗日政権と称して彼の抗日政策を非難し、之を戦争の理由として居るが、日本より見れば彼の抗日政策は実に怪しからぬと思われるかしれないが、蒋介石及び支那側から見れば抗日政策は当然のことである。なぜなれば支那は過去数十年の間に於て日本から侵略に侵略を重ねられて領土を取られ償金を取られたことは枚挙すべからざるものがある」(176頁)からだ、と述べる。ここで斎藤は、日清・日露戦争を念頭に置いたうえで被害者である中国が抵抗するのは当然だ、と歴史的経緯に照らしてその正当性を認め、日本の侵略主義を断罪するのである。

⑤ 「〔日本は〕現に日清戦争後の三国干渉にすら憤慨して十年間の臥薪嘗胆、以て復讐戦を決行したではないか。此の意気と勇気があってこそ初めて国家の独立と威信を保つことが出来るのである」(176‐177頁)と述べ、列強の領土的野心を論難する。一見すると彼の主張は、独立自尊の戦いを否定せず、むしろ愛国主義的ですらある。だが、かれは、列強の領土的野心と日本のそれを重ね合わせるのである。「之を思わずして独り蒋介石の抗日政策を否認するのは我が儘勝手の見方であって、世間には通用しない議論である」(177頁)、と。かれは侵略された側の抵抗権を認めることによって、ナショナリズムに捕らわれることなく、客観的な視野に立って世界情勢を見ているのである。

⑥ 「国家競争は正しく斯くの如きものであるから、蒋介石が支那国民に向って排日抗日の精神を打ち込むのは当然のことであって、〔日本が〕これを非難するのは間違って居る」(177頁)。「唯此の戦争を目して聖戦などと称して世上を欺き、何か日本が自国の利益を犠牲に供して仁義の戦争でも始めて居るが如く吹聴する其の偽善が〔自分は〕気に喰わないのである」(177頁)。

 そして、斎藤は日中戦争をこう総括する。

⑦ 「之を要するに大東亜戦争の目的は東亜民族を解放して彼等に独立と自由を与えるにはあらずして、東亜に於ける英米の勢力を駆逐し、之に依って日本が東亜の覇権を握り、東亜民族を隷属せしめて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱道せらるゝものは何れも偽善者の譫言に過ぎない」(185頁)と。

 日本は、日露戦争以来、帝国主義列強からのアジア解放をスローガンにして武力による対外進出を正当化してきた。斎藤は、日本の帝国主義的野心は、列強と何ら変わることなく、日本はアジアの国土を蹂躙し、ただアジアの人々を隷属させるだけだ、と断言するのである。

***

 最近の『朝日新聞』の記事で、論説委員の有田哲文は、「斎藤のような代議士がいたのは戦前日本のデモクラシーが誇っていいことだ。しかし斉藤しかいなかったことは、この国の汚点であろう。」と嘆いている。確かに当時多くの国会議員は軍部と自ら進んで結託し、あるいは軍部になびき、その圧力に屈し、「大政翼賛体制」を支持していた。また国民の大半も、国家の有形無形の暴力に脅え、沈黙を強いられ、体制に順応して行かざるを得なかった。だが、その一方で、表面化されなかったとは言え、国民大衆の民主主義的な運動が、戦時下であっても脈々と続いており、陰から斎藤を励まし、支えていたことは、改めて確認しておく必要がある。

 そのことは、斎藤が、太平洋戦争真っ只中の1942年4月30日に実施された第21回衆議院総選挙〔翼賛選挙〕に非推薦で立候補し、執拗で徹底的な選挙妨害にあいながらも、トップ当選を果たし、議席を回復したことによっても裏付けられていると言えよう。

 戦時体制下において、厳しい思想的・政治的弾圧・監視が日常化している中で、斎藤を支援する民衆がいたことも、また十分「誇っていいこと」である。

〔参考文献〕

草柳大蔵『斎藤隆夫―かく戦えり』文藝春秋、1981
斎藤隆夫『回顧七十年』中公文庫、1987
『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』(復刻版)新人物往来社、1994
松本健一『評伝 斉藤隆夫―孤高のパトリオット』東洋経済新報社、2002
大橋昭夫『斎藤隆夫―立憲政治家の誕生と軌跡』明石書店、2004
松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男回顧談』下、岩波書店、2006
保坂正康『昭和史の教訓』朝日新書、2007
伊藤隆編『斎藤隆夫日記』上・下、中央公論新社、2009
森まゆみ『暗い時代の人々』朝日文庫、2023
有田哲文「日曜に想う」『朝日新聞』朝刊(2024年8月11日付)

(「世界史の眼」No.57)

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世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―
南塚信吾

2.富山の売薬と薩摩組

(1)富山売薬の始まり

 富山藩は、1639年(寛永16年)に100万石の加賀藩から分封してできた10万石の小藩である。越中国の中の婦負(ねい)郡を中心にした藩で、その東西は加賀藩領であった。

 富山売薬を代表する反魂丹(はんごんたん)が登場した経緯については、諸説があるが、有力なのが1683年(天和3年)に岡山の医師が富山藩主前田正甫(まさとし)に献上した時であるという。そして貞享年代(1684-88年)には富山藩内で一般に使われるようになった。

 反魂丹が全国に行商されるようになるのはなぜか。諸説があるが、もっとも知られているのが、元禄3年(1690年)に藩主正甫が江戸城に参勤していた折、他の大名の腹痛に反魂丹を勧めて腹痛を恢復させたという話である。この話を聞いて、他の大名も自藩への反魂丹の販売を希望したというのである。こうして、遅くとも享保(1716-1735年)年間には、富山売薬は全国的に展開したと言ってよい。富山売薬は、江戸時代にあって、藩の領域を超えて全国的な広い行商活動をしていたのである。富山売薬の行商圏は、まず中国、九州へ、ついで日本海沿岸地域、近畿、奥羽、関東へ、そして松前・蝦夷へ広がった。

 富山の売薬は、得意先に薬を詰めた箱や袋を預けておいて、年に1、2回訪問して、使用した薬の代金を回収し薬の補充を行うという、配置売薬の方式を取っていた(先用後利という)。売薬行商人が行商に出掛ける時期は、とくに決まってはいなかったが、大体は春と(晩)秋に1回ずつ、年2回巡廻していた。これを春廻り、秋廻りと言った。享保以後進展する商品経済の中で、全国の町や農村の住民の間での薬需要が高まり、富山売薬は全国的に受け容れられたのである(以上は、植村 1959 49-50、59-60、64頁;村田 2015年 252頁;幸田 2015 50-52頁)。

 博物館だより (city.toyama.toyama.jp)

 貧乏な富山藩は売薬商人が藩外に出て行商することを積極的に奨励した。藩からの正貨流出を防ぎ、他領からの正貨流入を促進するために、元禄から享保にかけて(1690-1730年ごろ)の時期には、藩外に出て自由に行商をすることを許可する「他領商売勝手」の触れを出していた(幸田 2015 51頁)。

(2)「組」の結成

 売薬が全国的に広がるにつれ、薬売り仲間が売薬地域ごとに集まって、売薬の相互協力や規律を決めあうようになった。そういう集団が「組」であるが、組の結成の理由については、あまり議論がされていない。わずかに村田が、一定の議論をしている。それによると、組の結成の理由は、①他国で行う行商に必要な鑑札をまとめて申請できること、➁行商人の増加や行商圏の拡大に伴い、管理・運営を個別で行うことが難しくなったこと、③富山藩としても、まとまった組織からの上納金を得て、その組織に保護と独占権を与えるという形で行商人を統制できたことが理由としてあげられている。各「組」は、それぞれに「示談定法書」というものを定め、自律統制を強固にしていた。

 かくて、明和期(1764-1772年)ごろに、薬売りは日本全国を行商先ごとに「組」に分けて、関東組、九州組、美濃組などを作った。最初は18組、文化年間(1804-1818年)には20から21組、安政期(1854-60年)には22組ができた。1853年(嘉永6年)におけるその分布は、下の地図の通りである。分布は、関東・畿内など、領国的な支配が強くなく、経済活動の盛んなところに多く、九州・中国・東北など領国的な支配の強いところには多くはなかった。なお、1人脚(ひとりあし)というのは、一年に二回りとして、2000~2500軒くらいの顧客の規模である(植村 1959 166-167頁;村田 2015 251頁;高瀬 2006 39頁)。

出典 植村 1959 67頁

 この「組」の結成は、富山藩が反魂丹(はんごんたん)役所を設けて、薬売り全体を統括しようとしたのと、時期的には一致していたようである。反魂丹役所の設立時期は、二説あって、明和期(1764-72年)か文化・文政期(1804-30年)ごろと言われているが、組は反魂丹役所に届け出て、認めてもらい、藩から特権を授けられたのである(植村 1959 237;村田 2015 249-251頁;幸田 2015 57頁)。一方、「組」は、行商をする当該の藩にたいして冥加・運上を納入して、藩内での売薬行商を求められたのであり、「組」においては組の規約「仲間示談書」があり、行商人の行動を厳しく取り締まっていた(高瀬 1993 39頁;幸田 2015 56―57頁)。

 売薬が広がるにつれ、1760年代には安価な薬種が求められるようになった。薬種の仕入は、仲間組合ならびに富山藩において厳しく制限されていた。富山平野ならびに近隣地域には、売薬の薬種や原料はほとんどなかったため、領外から仕入・調達するしかなかった。外国産の原料薬の仕入は、すべて富山の薬種屋を経由して買入れなければならなかった。宝暦期(1754―61 年)頃になると、藩は薬原料を富山の薬種問屋(茶木屋、中屋、油屋、能登屋など)が指定した仲買人を通して売薬商人に配給した。この薬種問屋が薬原料の運送・調達 ・保管の機能まで持つようなっていた(幸田 2015 52頁)。

 反魂丹の主原料である木香(もっこう)、黄苓(おうごん)、胡黄連(こおうれん)、縮砂(しゅくしゃ)、乳香(にゅうこう)、爵香(じゃこう)、相実(きじっ)、青目白(りゅうのう)、牛黄(ごおう)などは、中国やその南方方面からの輸入品であった(幸田 2015 52頁)。例えば、乳香は中国産、爵香は中央アジア、ヒマラヤ地方や中国に産する爵香鹿から取れ、牛黄は中国のほか、インド、ペルシアなどにいる山羊や牛から取れるものであった(植村 1960 118頁)。つまり、反魂丹は、中国からの薬種から作られると言っても、さらに探ると、広くアジア世界からの薬種をその中に詰め込んでいることになる。

 このような唐薬種は、長崎会所を通じて輸入され、入札商人の手を経て大坂船場の道修町周辺の薬種問屋(に納められた後、富山の薬種屋に運び込まれた。これが正規のルートであった(幸田 2015 52頁)。しかし、このルートで仕入れられる薬種は高価で、富山売薬や薬種商には経営上障害であった。「享保年間以降に進展する商品経済」は町人や農民の薬需要を増加させていたので、より安価な薬種が求められた。したがって薬種の入手にはそういう正規のルート以外のいろいろな道が使われていた(深井2009 189-190頁)。

(3)薩摩組

 上のような「組」の一つに薩摩組もできていた。薩摩組は、1783年(天明3年)には13人脚、1801年(享和1年)に22人脚、1816年(文化13年)に26人脚であった(高瀬 1993 39頁;上原1990 274頁;徳永 2005 148-149頁―植村 1959 166頁は少し違った数字を示している)。秋田組に次いで小さな組であった。九州についてみると、薩摩組のほかに「九州組」もあった。これは薩摩を除いた九州全域を対象とする大きな組であった。薩摩組は小さくても独自の組でなければならなかったわけである。

 薩摩組の売薬を取り仕切ったのは、能登屋(密田)、宮島屋(金森)、鳥羽屋(高桑)などの帳主であった(高瀬 1993 39、42頁)。中心は、宮島屋(金森)と能登屋(密田家)である。このうち密田家は、1662年(寛文2年)に能登から富山へ移住してきて、能登屋と号した。密田家は、売薬を主な業として発展し、得意先は薩摩のほか、紀伊、讃岐、阿波、京都、大坂に広がっていた。同時に密田家は、富山町人としても地位を高め、1690年(元禄3年)には、富山町年寄の仲間入りをしていた。薩摩組に入って、天明年間(1781-89年)には、薩摩組の仲間の内で、三人脚を持って、組の筆頭であった。薩摩藩側との交渉に当たらなければならなかったが、藩権力と直接に交渉するのではなく、町年寄など仲介者を介して交渉した。とくに薩摩藩のたびたびの「差留」に際しては、その解除に動かなければならなかった。1830年代(天保期)には、400石積の中型船「栄久丸」と650石積の大型船「長者丸」を持つことになる(徳田 1992 3頁;富山市教育委員会 2001 61―62頁)。

 薩摩組は大きくなれなかったが、それは薩摩藩が頻繁に「差留」(=藩内での行商活動を禁止すること。差留については、幸田 2015 55―56頁)を行なったことにも関係している。藩では大きな顧客市場は見込まれなかったのであろう。関東や畿内では富山売薬に対する規制が相対的に弱かったが、九州|や奥中園、東北では藩の規制が相対的に強く、運上金や冥加金などによって、独占的に御免場所を許可されることが多かった。反面、そうした地域では「差留」による営業停止を受けることもしばしばであったのである(幸田 2015 54-55頁)。

 だが、薩摩組は他の組よりも富山藩にとって重要な組であった。上述の通り、薬種の入手は南からが中心であったが、正規の長崎―大坂ルートからの入手は高価で数量も限定されていた。だから、薩摩藩が鍵であって、薩摩組が注目されたのである。

3.薩摩藩の政策

(1)薩摩藩と薩摩組

 富山売薬は北九州と中九州へは17世紀中には入っていたようであるが、南の薩摩へはいつごろから入ったかは正確には分からない(高瀬 1993 38頁;上原 1990 273頁)。しかし、18世紀前半の享保年間(1716-36年)には入国していたようである(塩澤 2004 28頁)。徳永は富山売薬の活動が1781年(天明1年)には確認できるという。前述のとおり、1783年(天明3年)には「薩摩組」ができていたのである。薩摩組の「示談定法書」は1818年(文政元年)のものが知られている(徳永 2005 144頁)。薩摩藩は浄土真宗を禁じていたが、越中は浄土真宗の広がった国であった。それゆえ、薩摩組は、「越中の売薬」と自称する事を避け、「越中八尾の売薬」と称して薩摩藩内で商売をした(徳永 2005 146 頁)。

 のちに薩摩藩は琉球を通した進貢貿易からの利益を得るために、薩摩組に蝦夷からの昆布を運ばせることになるが、最初からそうだったのではない。

 薩摩組は、薩摩との輸送は西回り航路を使う北前船で薬を運んで、薩摩に届けた。ただ、当初北前船は、直接鹿児島まで薬を運んだのではなく、富山からの薬は、大坂行の北前船に積まれて、大坂まで運ばれるか、下関で降ろされた。その両地から別の船などで薩摩へ運ばれたのであった(高瀬 1993 42頁;徳永 2005 153-154、162-163頁)。やがてこの方式は変わってくるが、こうしたルートで薩摩藩内に運ばれてくる薬を、売薬商人が引き受けて藩内の町民や農民に家に配置して歩いたのである。薩摩組は薩摩藩の領域内をいくつもの区画(掛場)に分けて売薬をした。鹿児島城下などは宮島家が持ち、國分、都城などは能登屋が持った。

 薩摩藩は出入りが厳しかった。薩摩組はたびたび藩内での商いを「差留」された。薩摩は天明元年―3年(1781-83年)、天明7年―寛政元年(1787―89年),寛政11年―享和元年(1799-1801年)に薩摩組の入国を「差留」している。理由はあまり明確ではないが、正貨を藩外に持ち出させないように、藩財政を悪化させるから、などであった。これに対して、薩摩組は、「差留」を解除させるために金品を差し出した(こういう差留は薩摩に限ったことではなかった)(塩澤 2004 28-31頁)。

 こういう薩摩藩の厳しい政策の下でも薩摩組関係は、薩摩で唐薬種を入手した。富山藩にとって薩摩組の意味は、単に薩摩藩で薬を売るだけではなく、薩摩においてから唐薬種を入手する事でもあった。唐薬種の抜荷ではない入手ルートは、琉球から薩摩へきたものを、定められた量だけ長崎へ持ち込んで検査を受け、それを大坂に運んで、そこから陸路で富山へ持ち込むというものである。だが、量的にも、長崎を経ないという点でも、抜荷で運ばれる唐薬種は多かったようである。琉球から来た唐薬種を薩摩から富山へ運ぶ抜荷ルートはいくつかあった。一つは、薩摩から直接富山ないし新潟へ運ぶルートである。いま一つは、薩摩から長崎を通らないで大坂へ運び、大坂から川船で京都へ移し、京都から陸路の飛脚で富山へ運ぶルートである(深井 2009 220,222頁)。前者の場合はもちろん後者の場合も大阪までは、北前船が運んだのである。

 薩摩方面からの薬種の不法入手は、薬価の引き下げには期待されていたわけであるが、事の性格上、史料は残っていない。抜荷についての史料は極めて少ない。わずかに間接的に知る事が出来るにとどまる。たとえば、1818年(文政元年)の『薩摩組示談定法書』には、仲間が厳守すべき規定として、「彼地において出口不正の薬種は申すに及ばず、ご法度の品々何によらず、小分たりとも仲間一統に買取候儀は、決してあいなり申さず候事」というものがある。これは逆に、「出口不正の薬種」などが買い取られていたことを物語っていると考えられている。また、1821年(文政4年)には、長崎会所より唐物販売に関する嫌疑を受け、薩摩組一統が科料銀の支払いをよぎなくされていた(上原 1990 276-277頁;高瀬 1993 40頁)。

 最もはっきりしているのは、神速丸の事件である。1827年(文政11年)に越中放生津の七兵衛の船である神速丸が昆布を薩摩へ運び、帰りに抜荷の唐薬種を積んで難破するという事件があった。350石の神速丸は箱館で昆布や鰊などを買い付け、西回り航路で下り、下関から長崎沖を廻り、山川で取引をした。帰り荷に唐薬種などを買い、備中玉島で冬囲いをし、翌春に積み荷を越中東岩瀬に運ぶ途中、石州那賀郡(島根県浜田)で難破した。これは抜荷を薩摩・富山まですべて海上で輸送していた北前船の例である。神速丸は、船主や船頭の意思で昆布輸送などを行っていたのではなく、ある富山売薬商から依頼されて輸送を請け負ったものであった。これは薩摩組の依頼ではなかった(深井 2009 72-79,194頁)。

 だが、注意しておきたいのは、この時期、抜荷の唐薬種を購入することを、富山藩の意向もあって、薩摩組は禁じていたことである。だから、組として、組仲間として抜荷の薬種に関わることは自制していた(深井 2009 71頁)。やがてその姿勢は崩れるのだが、それは追って考えることにする。

(2)1832年「差留」解除と昆布

 薩摩藩では薩摩組に対して1826年(文政10年)に、四たび「差留」があった。この「差留」が1832年(天保3年)に解除されたとき、薩摩組は、鹿児島下町年寄の木村喜兵衛の仲介で、年々昆布1万斤と金200両を献納することで解除を得た(高瀬 1993 43―45頁;塩澤 2004 30頁)。この1832年前後という時期は重要で、この時から、薩摩組は新たな役割を演じることになった。

 すなわち、薩摩組は、薩摩藩内での売薬を求められるだけでなく、薩摩藩が琉球の進貢貿易から得た唐薬種を手に入れるために、北前船を駆使して、蝦夷松前からの俵物や昆布を直接薩摩へ運び込む役割を引き受けた。言い換えれば、薩摩組は、北前船を使って、辺境の松前と辺境の薩摩を結び付け、琉球口貿易と松前口貿易とを結びつけ、そうすることによって、東アジアの国際的な貿易ネットワークを成立させたのである(徳永 2005 160-161頁)。

コラム:植松 2023によると、この間1831年に、薩摩藩では、調所笑左衛門が蝦夷の昆布と中国の薬種との取引から一層の利益を得ようと、富山の薩摩組に近づいた。そして、彼らが一層多くの昆布を蝦夷から持ち込むよう説得し、薩摩組の中心である能登屋を動かした。そしてそのための融資をするところまで踏み込んだ。薩摩の船が蝦夷を行き来しては怪しまれるからである。この融資を使って、能登屋は長者丸という専用の船も建造した。こういう薩摩側の動きの中で、1832年の解除がなされたのであろうか。ただし、植松の描くこの間のことは、典拠は不明である。

 かくて、薩摩組にとって、1832年の「差留」解除に際しての約束以後、昆布の確保、輸送が大切な問題となった。組は支度金を渡してまで、昆布輸送の船を確保しようとした(高瀬 1993 54頁;深井 2009 195-196頁)。すでに文化年間(1804-17)に、北前船によって昆布を直接薩摩へ輸送し、帰りに抜荷の唐薬種を仕入れる越中の売薬業者がいたと考えられていて、文政期(1818-29)以降、薩摩の抜荷推進に伴い、彼らの活動が活発になっていたと言われる(深井 2009 86頁)。いまや、この動きが制度化されたのである。

 薩摩組にとって年々昆布1万斤と金200両を献納することは、かなりの負担であったはずであるが、利益もあった。薩摩組は、一万斤を超える昆布を持ち込んで、一万斤は献納したが、それ以外の数万斤は藩に買い取ってもらうことになったからである。それだけではない。実は、これらの船は、薩摩で薬種などを仕入れて、それを大坂でも販売していたと思われる(高瀬 1993 45頁)。北方口の蝦夷地から昆布を琉球口の窓口となる薩摩へ届け、帰りには琉球口から入る唐薬種を薩摩から大阪、あるいは新潟、輪島などにおろし、販売したのである。もちろんそこから越中へ運ばれたのである(深井 2009 221-222頁)。加えて、薩摩組の廻船は、途中の港で買積も行って、北前船の機能も保持していた。そして、天保期(1830年代)には、西回りだけでなく、東回り(太平洋廻り)も駆使するようになった。

 松浦静山が1832年(天保3年)に著した『保辰琉聘録』は、唐薬種が薩摩から新潟へ運ばれていたようすを記録している。「中華産は多く薩船にて越後の新潟其外へも回し、夫より専ら奥地へ送り、或は江都(江戸)へも内々は売出すか、然るゆゑ、都下にても中産存外に下価なる有り」(上原 1990 214-215頁;徳永 2005 192頁は『甲子夜話』としている)。新潟から江戸へも運ばれていたわけである。

 薩摩藩にとって、昆布積載の北前船は薩摩が積極的に招いた領外船であり、昆布購入の需要な手段の一つとなった。だが、北前船は昆布以外にも薩摩にとって役に立った。一つは、情報の入手であり、いま一つは、流通手段であった。日本海を自在に航行する北前船によって、北の松前や、天下の台所である大坂の情報を得、貿易品を流通させることができたのである(徳永 1992 2頁;徳永 2005 162頁)。こうして、北前船は世にいう「薩摩の密貿易」の担い手の一つとなりつつあった(徳永 2005 161頁)。

 薩摩藩と薩摩組の微妙な関係は、1835年以後、薩摩藩における調所の藩政改革と、新潟における薩摩の抜荷摘発を受けて、大きく変わることになる。

参考文献

上原兼善『鎖国と藩貿易ー薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植松三十里『富山売薬薩摩組』H&I 2023年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
植村元覚「近世富山売薬業の仕入れ」『富大経済論集』第6号 1960年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
塩澤明子「近世後期における富山売薬商人と旅先藩―薩摩藩との関係を中心に」『史文』天理大学史学会 2004年3月
高瀬保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年(高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
深井甚三ほか『富山県の歴史』山川出版社 2012年(初版1997年)
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年

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『「歴史」の世界史』合評会記録

 世界史研究所では、2024年7月にミネルヴァ書房より刊行された、ダニエル・ウルフ著(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』の合評会を、9月16日に行いました。以下にその記録を掲載します。最初に訳者の南塚信吾、小谷汪之両氏から内容のプレゼンをしてもらい、その後木畑洋一、藤田進、油井大三郎、佐藤育子、小山田紀子、杉本諒の各氏にコメントをして頂きました。最後に内容に関して討論を行なっています。(記録:山崎信一)

1. プレゼン 南塚信吾

 本書は、①「三〇〇〇年間にわたる過程を通じて、過去を取り戻し表象するための組織的アプローチとしての歴史が、いかに現代世界の教育と文化の主要な一側面へとじょじょに発展してきたか」ということ、②「この三〇〇〇年間を通じて、啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、東アジアやイスラーム世界、そして本書で言及されていない他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、いかにしてしだいに取って代わっていったのか」ということを描いている。これはたしかに壮大な仕事である。世界各地の歴史の試みに目を届かせてそれを全体像にまとめようとしている仕事は、評価に値する。しかし、それゆえに問題もありそうである。

 今回の合評会では、本書の第6章と第7章のみを取り上げるが、それはわれわれに直結する歴史の方法を論じているからである。最初に、翻訳に携わった者として、議論の筋の整理をして、そのうえで気が付いた点をあげてみたい。それらはM)で表記する。

第6章 移行―戦間期から現在に至るまでの歴史学

Ⅰ ポストモダンが現れるまでの(あるいはそれに影響される前の)歴史
(A)歴史の新しい方法
 1.アナール「学派」―ウルフはこれを20世紀の歴史学上最も重要な現象と位置づけている。
   ①ブロックとフェーブルの「全体史」
   ②戦後ブローデルの「長期的持続」
   ③70-80年代には小規模な世界へ以降:心性史、日常生活史
    →ミクロ・ヒストリー ラドュリー、ギンスブルク
   ウルフはここから一般化がどのように可能かという疑問を提示している。
 2.歴史と社会科学
   社会学:ウエーバーは比較、理念型、主観的要素に注目
   経済学:数量経済史
   人類学:「構造主義」と「厚い記述」(ローカルで特殊なものへ)
 3.歴史と自然科学 
   歴史の分析哲学が「法則」、「パラダイム」概念を打ち出した。
(B)歴史と政治体制
   ウルフは、歴史は独裁制にせよ民主制にせよ政治体制に奉仕してきたという。
  ・右翼的独裁体制  体制に合致する歴史を要求  
   →戦後の余波 フィッシャー論争、「ドイツ特有の道」論
  ・左翼の独裁も歴史家への制約、統制、調整
  ・民主制のもとでも、歴史家の発言と出版への制約、マルクス主義への迫害があった。 
   ウルフはポピュリズムに歴史は対抗できるかという疑問を提起している。
(C)戦後の新しい分野
 1.インテレクチュアル・ヒストリー  1950年代
   1980年代から「文化史」が登場、言語・テキストの意味を問うようになった。
   1960-70年代に歴史心理学が「集団的振舞い」に注目した。
 2.女性史 1970年代からフェミニズムを受けて拡大し、大学でも地位を得た。
 3.ジェンダー史 1980年代から
   スコット 過去全体を見直すことを主張
  →拡大:マスキュリニティ、ホモセクシュアリティ、植民地とジェンダーなどに拡大。
 4.戦後アフリカ史
   西欧的進歩のナラティヴが導入されたが、それへの批判も生まれた。 
   口承伝統の限界と意味が議論された。問題はあるがその意味は疑い得ない。
   歴史が植民地権力の道具として利用されることになった。
 M)ここの1~4はポストモダンの影響を受けなかったとみているのだろうか。

Ⅱ これ以後は、ポストモダンおよびその影響を受けた歴史学の動き
(D)ポストモダン
  1970年代から登場。リオタール『ポストモダンの条件』などがきっかけ。
  ただし、E.H.Carrは1960年代に地盤を準備していた。 
1.言語論的転回:ポストモダンは歴史の「外」から来た。
  言語論的転回は、歴史とフィクションの間の境界線を侵食。
  西欧が中心だが、アジアにも拡大し、それは西欧とは違う近代を求める動きに繋がった。
2.ポストモダンと歴史
(1)主張 「歴史は知識の一形式」と言われていたのを、「歴史はナラティヴの一形式」と改めた。とくにH.ホワイト
   つまり、歴史の記述とフィクションの間には本質的な相違はない。共に物語を語っているのだとした。
(2)批判  マーウィック、エルトン
(3)ポストモダンの意義
   「正統」の解体、脱中心化。構築性を主張。
   ウルフは、ポストモダンがとくに西欧の歴史観(直線的)を相対化し、不連続、非互換的な見方を提示したと指摘。
(4)ポストモダンの欠点
   都合のいい「他者」を「構築」しているのではないかという批判がある。
   左派からは「階級」を軽視していると批判がある。
(5)結論
   ウルフは、ポストモダンは文書やテキストは「それ自身で語りはしない」こと、歴史は人間による「人工物」であることを確認したのだとする。
   M) このことの論理的帰結はどうなるのだろうか?
(E)ポストコロニアリズム
   サバルタン・スタディーズやオリエンタリズム批判を含む。
(1)意義:ウルフは、ポストコロニアリズムは、自分自身の中の「他者」(理性、進歩、西洋)への批判であって、理論ではないと強調。
サイード、スピヴァク、チャタジー
(2)ポストモダンとの重なり
ウルフは、既存の大ナラティヴを不安定化、転覆、脱中心化、「在地化」する点で、また、テキストやナラティヴの読み返しをする点で、ポストコロニアリズムとポストモダンは重なり合うという。
(3)西洋の歴史観の拒絶;例ガンディー
(4)「従属理論」とも重なり合って広がった。
(F)ポストモダン後の動向
 1.ウルフは、「モラル上非難すべき立場を正当化する」歴史が出てきたとして、例えば「ホロコースト」を否定する歴史を取り上げる。
 2.ウルフは、「歴史はだれのものか」「集団の一員でなければその歴史は書けない」のかという問いが出てきたという。
   例 先住民(ネイティヴ)の歴史、オーストラリア「歴史戦争」
 3.ウルフは、国民的な「記憶の文化」、「共有の記憶」としての歴史の登場に注目。(1)これは過去への客観的な態度ではなく、過去に直接、感情的につながる歴史だとされる。
(2)批判:あらゆる国民が強い国民的記憶を持っているとは限らない。
ウルフは、記憶と歴史との関係は曖昧なのだという。
(3)しかし、ウルフは、現代のオーラル・ヒストリーは昔のものとは違うという。
   それはポストモダンを踏まえた「最上の実物」を提供しうるのだと。
   ただ、生存者がいなくなった時にどうするかという問題があるとウルフは言う。
第6章の終わりに
 ウルフは、少数の歴史家しか歴史を考えない時代が長く続いたが、今やその終わりにあると言う。そして、これは歴史の終焉なのかと問う。

***

第7章 私たちはどこへ行くのか
 ウルフは、ここで現代の歴史の状態をどう見るかを示している。
(A)細分化―多様化・専門化が進んでいる。
  これまでにもこういう時には誰かが「統合」をしてきた。ランケなど
しかし、細分化にも意味がある。:新たな主題、見方、活性化を生むという。
(B)「社会性」の欠如
  ウルフは、現代の歴史は、権力に対して真実を語るということをしない。未来を予測しようとしないという。だが、「パブリック・ヒストリー」はこうした不安をある程度緩和するのだという。
  ただ、ウルフは、「社会性」の欠如を批判したが、考えてみれば、歴史は教育的存在であるか否か、善をなすものであるか否か、これには一致した答えはないのだと言う。
(C)「還元主義」
  現代の歴史は過去の人物の糾弾をしなくなっている。ヒトラーやスターリンなど
  ウルフによると、その理由は「還元主義」である。つまり、歴史は個別的な「事実(これは議論の対象にならない)に還元可能であり、それら「事実」の解釈は修正されるべきでも、問われるべきでもないという考えである。つまり、歴史を日付、年代などに単純化してしまうのである。
(D)インターネットと歴史
  ウルフによれば、SNSは、根拠の乏しい歴史的議論をしている。人々に受けるような議論をしている。
  だがインターネットは歴史に大きな恩恵を与えてもいる。例えば、大きな国際プロジェクトを可能にし、史料にアクセスしやすくし、Big Dataを使えるようにしている。
  M) ウルフはまだ生成AIの問題には直面していない。
(E)統合形態
現代の歴史では、惑星全体の過去をとらえ直す試みが進んでいる。
1.グローバル・ヒストリー
(1)1960-70年代の「世界史」の波を踏まえて、ここ20年程の間に登場。
  ―マクニール、ウオーラーステイン等
  M) 江口朴朗氏らの「世界史」はどういう位置になるのだろうか。
(2)グローバル・ヒストリーはポストコロニアリズムの影響を受けていて、ヨーロッパの「周辺化」を目指し、異なる「近代化」を提起している。
(3)グローバル・ヒストリーの「修正」の動き
  ―サバルタン、P.マニング、ル・ゴフ(時代区分)、コンラート(「接触」批判)
2.ビッグ・ヒストリー  D.クリスチャン
(1)「人新生」(人類が惑星に有害な影響を与える時代)の概念を提起
(2)文字の意義を相対化
(3)昔の「普遍史」が文字どおり宇宙的になる。
(4)「トランスナショナル史」「絡み合った歴史」を生み出し、「比較」を超えようとする。→古代の「シンプローケ」(内在的連関)に通底
(5)ウルフによると、グローバル・ヒストリーは、「過去を見るための少し広い窓」にすぎない。だが、「目下の深刻な政治的不安定と、起こり得る環境的災厄を前にして」「我々が共有しているものを認識する」という目的に役立つかもしれない。
  M) ビッグ・ヒストリーには自然科学、人文科学の相互協力が必要であることを見ているのだろうか。

***

本書のおわりに、ウルフはこう言っている。
(1)啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、しだいに取って代わっていったが、「この過程は、・・・多くの場合、植民地という形での政治的従属を伴い、そうでない場合には、土着の社会改革家やリベラルな政治家が、西洋に比して遅れているとみなした土着の文明を「近代化」する手段として、改良された歴史学を受容しようという願望を伴った」。
(2)「当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での「他者」との関わり合いによって深く影響を受けた。だが、それはそうしたオルタナティヴを受け容れたからというよりも(ほぼすべての場合には受け容れられなかった)、「他者」の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるのか、なぜそれが優位な立場を要求しえるかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである」。
 M)つまり西洋の歴史は、「他者」の歴史に影響は受けたが、他者の歴史を受け容れたわけではなく、むしろ自覚を高めたのだと言っている。非ヨーロッパでの歴史の考え方との関係で、ヨーロッパのそれも修正されつつ発展したというのであろう。
(3)「過去六〇年間に世界中で文字どおりの脱植民地化の過程が進んだとすれば、それに並行して歴史学上の脱植民地化の過程、つまり西洋近代の方法論やモデルからの解放の過程も始まった」。
(4)現在「アカデミックな歴史家たちは、・・・ポストモダン的状況の中に堅固に留め置かれている。すなわち過去についてもまた新たな大ナラティヴに対しても懐疑的であり、実際、ますます小さな区別や限定や反例を通じて、一般化に対して反射的に抵抗することが多い。これは大部分の読者が抱く期待とは対立するもので、大部分の読者はいつも両義的であったり傍観者的であったりする態度には我慢がならなくなっている」。
 M) 歴史学は一般社会の要求とかけ離れているというのである。

では、歴史には未来は無いのか。ウルフは、歴史の未来への希望はあるという。その根拠は、
 ① 歴史分野のグローバリゼーションが進んでいること
  ウルフは、グローバル・ヒストリーは、諸文明を同等に評価すべきと主張しているのだと言う。
 M)これはランケの流れだとウルフは言うが、それよりも、ヘルダーではないか。
 ② 歴史が社会的に幅広い人気を維持していること
  ウルフは、アカデミックな歴史は特権的地位を失ったが、一般大衆の歴史への関心が、今ほどはっきりしている時代はないという。
 この②の人びとの歴史への関心について、ウルフはさらに述べていて、現代世界においては、「ほとんど本能的とも言える過去への興味関心が存在する。」という。われわれは現代のすべての問題を「歴史化」しようとする。つまり、その起源やそこに潜む危険などを理解しようとする。だから、一般向けの歴史書はまったく減少していない。歴史は現代の諸問題の起源について、便利な素材を提供しているのであるとする。
 ただし、これらの議論が魅力を持つのは、読者の側に、基礎的なリテラシーがあると想定してのことであるとウルフは言う。

 最後に、ウルフは、一つの「反事実的」思考を提示して終えている。
 もしヨーロッパが世界に覇権を唱えなかったならば、「司馬遷やその後継者によって実践されたような類いの歴史が」世界的に広がっていたのではないか。

2. プレゼン 小谷汪之

(ハンドアウト)

1 『「歴史」の世界史』の「袖書き」
「本書は、ヨーロッパで発達した歴史の考え方、叙述の方法(『歴史』)が、非ヨーロッパに拡大し、そこでの土着の歴史と遭遇したとき、どのような変化が生まれるのか、この相互の『歴史』の『連動』関係を丹念に追う」。

2 『「歴史」の世界史』からの抜粋

抜粋1(382-384頁) 

西洋の脱中心化―ポストコロニアリズム   

 ポストモダンの事業は、同時代の知的運動であるポストコロニアルの研究と重なり、かつ交錯してきた。両者は同一のものではなく、異なる起源と課題(狙い・意図・アジェンダ)を持つが、しかしどちらにも共通するいくつかの特徴がある。ポストモダンと同じく、ポストコロニアリズムも広範な意味を含む用語であり、インドの「サバルタン・スタディーズ」(これは初期にはむしろE・P・ トムソンの「下からの歴史」に対する南アジアの応答であった)やパレスチナの学者エドワード・サイード(一九三五~二〇〇三年)の「オリエンタリズム」批判を含んでいる。中国学者プラセンジット・ドゥアラ(一九五〇年生)が述べたように、ポストコロニアリズムは一つの理論であるというよりは、むしろ自分自身の中の「他者」に対する批判である。この「他者」は、しばしば広汎な「ポスト啓蒙主義」の諸課題として定義され、理性や、進歩や、西洋の文化的・経済的支配の留め難い増大や、国民国家の安定性という虚偽の観念によって特徴づけられるものである。フランツ・ファノン(一九二五~六一年)やC・L・R・ジェームス(一九〇一~八九年)のようなカリブ海の著述家たちによって一九世紀中頃にすでに先取りされていたポストコロニアリズムは、今やサイード(彼の一九七八年の著書『オリエンタリズム』は一つの重要文献である)や、多数の傑出したインド生まれの著述家たち(彼らの多くは歴史以外の分野に属している)に関連付けられることが多い。後者には例えば文学批評家ホミ・K・バーバ(一九四九年生)やガヤトリ・チャクラバルティ・スピヴァク(一九四二年生)、政治学者パルタ・チャタジー(一九四七年生)、そして心理学者で社会批評家のアシス・ナンディー(一九三七年生)らがいる。
 批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えることPostcolonialism as a critical tool has been deployed most widely in Indian or Middle Eastern studies, and has overlapped with postmodernism in having the common goal of destabilizing, subverting or de-centring existing master-narratives (………) in favour of the local and previously marginalized、またテキストや文書を「織り目に逆らって」読み、それが言っていることと同じくらいにそれが言っていないことを見つけ出すことを、共通の目的としているのである。ポストコロニアリズムは、インドのようなかつての植民地に関する研究の視線を、帝国支配者やインドにおけるその後継者たる政治エリートから、従属的立場にある大衆へと向けさせた。ラナジット・グハ(一九二二年生)によって創設されたインドの歴史学のひとつの「学派」であるサバルタン・スタディーズ・グループは、後者の潮流の傑出した一事例であり、独立以前の歴史叙述に対して批判的であるだけでなく、一九四七年以降の歴史の書き換えに対しても批判的であった。彼らによれば四七年以降の歴史叙述も、単に役割を裏返したまま歴史を書いているのであり、在地の政治的エリートに焦点を当てて、人口の十分の九を除外しているのである。サバルタン研究のアジェンダにおいては、従属的で声を発しない人々、在地や地域のものが、国民的なものよりも優先される。この意味での「サバルタン」はアントニオ・グラムシから取られた用語である(=サバルタンは従属的社会集団と訳されることがある)。この集団に関連のある文学理論家の中でもスピヴァクは(彼女はデリダの翻訳もしていて、ポストモダニストとの結節点にもなっている)、サバルタン的アプローチをフェミニスト的主題にも拡大して用いている。近年では、社会史家のスミット・サルカール(一九三九年生)のような一部の古参サバルタン研究者は、この運動がしだいにラディカルになり、ポストモダンと関連を持ってきたことを嫌っている。しかし他の多くの人たちは、マルクス主義的な分析の範疇に背を向けて、植民地主義の言語を脱構築するというポストモダン的関心へと向かっていっている。ある場合には、彼らは西洋の歴史観そのものを、帝国的支配の道具であり、啓蒙主義の進歩観の産物であり、そしてインドの(そして拡張すればその他の旧植民地の)真の意味での過去観に対して「ヘゲモニーなき支配」を可能にするものであるとして拒絶している。真の意味での過去は、一見不可避的に国家へ向かって歩を進めていくヘーゲル的な物語から解放されねばならないのであるIn some cases, they reject Western historicity itself as a tool of imperial control, born of the Enlightenment’s progressivist agenda, and enabling a ‘dominance without hegemony’ over India’s  (and, by extension, other colonized countries’)  true sense of the past, a sense that must be liberated from the seemingly inevitable Hegelian story of progress to nationhood.

抜粋2(431-432頁)

 このことは、学術誌の論考や学識者の会合でしばしば発せられる一つの問いを引き起こす。すなわち、歴史の未来はどのようなものでありうるかという問いである。本書で描いてきたことは、三千年間にわたる過程を通じて、過去を取りもどし表象するための組織的アプローチとしての歴史が、いかに現代世界の教育と文化の主要な一側面へと徐々に発展してきたかということ、またこの三千年間を通じて、啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、東アジアやイスラーム世界、そして本書で言及されていない他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、次第に取って代わっていったのかということであった。この過程は、それと並行してヨーロッパが世界の他の地域のより広い文化的機構を「征服」していった過程と明白にリンクしており、多くの場合、植民地という形での政治的従属を伴い、そうでない場合には、土着の社会改革家やリベラルな政治家が、西洋に比して遅れているとみなした土着の文明を「近代化」する手段として、改良された歴史学を受容しようという願望を伴った。「近代的」歴史(あるいは一九世紀的な自信を込めて用いられた語彙を使えば「科学的」歴史)の支配において、二つの鍵となる時期があったが、それが両方とも野心的な帝国的膨張の時代と重なっているのは偶然ではない。それは、一六~一七世紀の最初の波と、一九~二〇世紀初頭の第二波であった。そして当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での「他者」との関わり合いによって深く影響を受けた。だが、それはそうしたオルタナティヴを受け容れたからというよりも(ほぼ全ての場合には受け容れられなかったin nearly every case it did not)、「他者」の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるか、なぜそれが優位な立場を要求し得るかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである――少なくともヨーロッパ人や、アジアや植民地のその信奉者たちの心の中において――。そして最後に当然のことながら、一九世紀において西洋の歴史観が一見したところ世界的に勝利したように見えた瞬間というのは、この物語の「長期持続」の中ではほんの一瞬のことに過ぎないのであり、過去についての知識を歴史が帝国的に支配するのだという主張は、二〇世紀の間に、文字通りの意味での諸帝国がそうであったのと同じように、内的な不一致や反抗や分離や民主化に曝されてしまっていた。

(報告)

 この『「歴史」の世界史』の全体的な点は、南塚さんがコメントされるだろうと思いましたので、私は、一点に限って扱ってみたいと思います。私の疑問の出発点は、『「歴史」の世界史』の袖書きにありました。これは南塚さんの意見をもとに、編集者の岡崎さんが書かれた文章だと思います。ここには、「本書は、ヨーロッパで発達した歴史の考え方、叙述の方法(『歴史』)が、非ヨーロッパに拡大し、そこでの土着の歴史と遭遇したとき、どのような変化が生まれるのか、この相互の『歴史』の『連動』関係を丹念に追う」と記されています。本当にこれが達成されていれば、本書は素晴らしい本になろうと思います。ただ全体を読んだ時、本当にこのように読めるだろうかという点が、私の持った疑問の出発点です。「非ヨーロッパ」の土着の「歴史」とヨーロッパの「歴史」が遭遇した時、お互いにいわばアウフヘーベンし合うような変化が生まれるということが、本当にあっただろうか。この点に私は疑問を感じました。前掲・ハンドアウトの「抜粋1」をご覧頂ければと思います。「西洋の脱中心化――ポストコロニアリズム」という部分です。私自身は、ポストモダンにはあまり関心がありませんが、ポストコロニアリズムには強い関心を持っています。これは私がアジア史研究者であることからくるものだと思います。本書では、ポストコロニアリズムについて、最初にサイードやサバルタン・スタディーズが取りあげられていますが、その次には中国学者プラセンジット・ドゥアラという人の所説が出てきます。彼は「ポストコロニアリズムは一つの理論であるというよりは、むしろ自分自身の中の『他者』に対する批判である」と言っています。これはその通りだと思います。この「他者」は、「『ポスト啓蒙主義』の諸課題として定義され、理性や、進歩や、西洋の文化的・経済的支配の留め難い増大や、国民国家の安定性という虚偽の観念によって特徴づけられる」とされています。こうした虚偽の観念としての「他者」が自分の中に巣食っているというわけです。ポストコロニアリズムの本来の含意は、植民地支配(コロニアリズム)のもとで形作られた自分の中の「他者」を、政治的独立の後にもなお排除できないという点だろうと思います。そう言った意味ではドゥアラの言うことは正しいと思います。

 次に、その後の下線を引いた部分に注目して下さい。本書の著者は、「批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えることを、共通の目的としているのである」としています。ここで、「それ〔西洋近代的なもの〕を在地のもの、以前は周縁化されていたものに代える」ということですが、この点を、具体的に考えた場合、どういったことになるのでしょう。例えば、1996年に、日本で、「新しい歴史教科書をつくる会」というのが藤岡信勝や西尾幹二らによって結成されました。これは、ポストモダンの影響により西洋近代的な思想の自明性が揺らぎ始め、脱中心化されつつあるという状況の中で、それに乗じて新たに動き出したものだと思います。戦後日本においてローカル化され、マージナライズされてきた、戦前的なもの、皇国史観的なものの復活のような面が非常に強いものです。問題はこうしたものを評価できるのだろうかということです。私自身は、こうしたものを評価してしまってはいけないと思います。こうした点は他地域にもあります。インドにおける歴史教科書問題という長く続く抗争もそのような例です。西洋近代思想の自明性が揺らいだ時に、その隙に出てくるこうした動きに対しては、最も注意深く対処しなければいけないと思います。本書の著者が、「既存の大ナラティヴ(……)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代える」という営みを肯定的に評価したいのであれば、その具体的な例として、「新しい歴史教科書をつくる会」などとは異なる、もっと積極的な意味のある例を示して欲しかったと思います。少なくとも私の知る限り、そういった例は今までなかったと思います。

 もう一つの疑問点は「抜粋1」の次の下線の所です。「ある場合には、彼ら〔ポストコロニアリズムの立場に立つ人たち〕は西洋の歴史観そのものを、帝国的支配の道具、であり、啓蒙主義の進歩観の産物であり、そしてインドの(そして拡張すればその他の旧植民地の)真の意味での過去観に対して『ヘゲモニーなき支配』を可能にするものであるとして拒絶している。真の意味での過去は、一見不可避的に国家へ向かって歩を進めていくヘーゲル的な物語から解放されねばならないのである」という部分です。ここにも引っ掛かりました。「インドの真の意味での過去」とは何でしょう。「India’s (……) true sense of the past」ですから、過去に対するインドの本当のsenseということでしょうか。何を言いたいのかが私にはよく分かりません。インドの人が皆同じようなtrue senseを持つとも思えません。なぜここに、trueという言葉が出てくるのかも理解できないところです。そう簡単にtrueと言えるものではないでしょう。ここでも、India’s true sense of the pastが、具体的には何を意味しているのかを書いてくれているとより理解できたと思います。

 前掲・ハンドアウトの「抜粋2」に関しては、本書の最後のところですが、南塚さんも言及されました。最後の下線部を見て頂ければと思います。「そして当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での『他者』との関わり合いによって深く影響を受けた」と書かれています。これも具体的に、何からどういった深い影響を受けたのかが記述されていないと、本当だろうかという疑問を持たざるをえません。続いて、「だが、それはそうしたオルタナティヴ〔『他者』の歴史観〕を受け容れたからというよりも(ほぼ全ての場合には受け容れられなかった)、『他者』の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるか、なぜそれが優位な立場を要求し得るかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである――少なくともヨーロッパ人や、アジアや植民地のその信奉者たちの心の中において――」とあります。ここでも具体例が入っていると分かりやすいと思います。それがないと、一体何を念頭に置いているのかが理解しにくいのです。

 抜粋1と抜粋2をあわせて考えると、袖書きにいう非ヨーロッパの土着の「歴史」と西洋の「歴史」が遭遇した時、どのような変化が生まれ、その相互の「歴史」がどのように「連動」したのかという点ですが、本書を通してそこまで本当に理解できるのだろうかいう疑問を感じました。

3. コメント 木畑洋一

(ハンドアウト)

1 第5章までについて
*ヨーロッパの歴史叙述を相対化していこうとする姿勢
*第3章で、「新世界」との遭遇に力点が置かれる
*女性への着目(たとえば、190ff、303ff)
*通常こうした史学史で重視されることがないニーチェの強調(276ff)

2 第6章について
*アナールの影響力の強調…「全体史」をどう見るか
 …二宮宏之『全体を見る眼と歴史学』(1986)など日本での影響力の問題
*歴史と社会科学…ここでマルクス主義について言及しないことの意味
  「下からの歴史」の項目でのみマルクス主義を扱うことは部分的
*独裁体制と権威主義体制のもとでの歴史…この項目を立てていることの意味大
  中国についての記述の評価を久保さんにうかがいたかった!
  フィッシャー論争や歴史家論争はここで扱うべき対象か?
*下からの歴史…家永教科書裁判問題を扱っていること、米国での「左翼の歴史」を紹介していることは大きなメリット
*インテレクチュアル・ヒストリー/心理学…最近の「感情史」への流れ
*女性史/ジェンダー/セクシュアリティ…上述のように本書のメリット(と私は思うものの、フェミニスト歴史家たちはどう評価?)
  井上清の他は神近市子だけなのは、やはり日本の状況の紹介不足?
*戦後アフリカの歴史叙述…この項目も大きなメリット
*言語論的転回とポストモダン…こうした動きの影響力は世界の各地で異なったのでは?少なくとも日本では歴史研究の実践上、大きな影響力があったとは思えないが。
*ポストコロニアリズム…先駆者としてのガンディーの位置づけ
*歴史戦争、修正主義、そして「記憶」と「歴史」との疑わしい関係…この項目に最も大きなスペースをとっていることは、著者のスタンスをよく示し、共感。
 被征服者や周縁の民の語られずにきた歴史をめぐる「認識論的暴力」問題の重要性
  オーラル・ヒストリーについては、ここでの文脈のなかで扱う他に、それ自体、方法論としてより強調されるべきか?

3 第7章について…分かりやすい小見出しにするとすれば
 細分化批判への懐疑 / 社会性欠如という非難をめぐる留保 / 単純な「事実」への還元主義と歴史的人物の顕彰問題 / インターネットの功罪 / 歴史の総合の試みとしての世界史の波 / グローバル・ヒストリーからビッグ・ヒストリーまで

4 第7章最後の結び部分について
*歴史の未来の可能性につながる2点…歴史分野の国際化は首肯できるとして、幅広い人気の方は著者のように無条件に肯定できるか?

(報告)

 私からは、全体を見て気づいた点に簡単に触れさせて頂きます。対象となるのは、第6章と第7章ですが、第5章までのところをざっと読むと、基本的には本書全体の性格になりますが、ヨーロッパの歴史叙述を相対化していこうという姿勢が非常に強くあることが見て取れます。ヨーロッパの側から出た史学史の本として、評価すべきだろうと思います。例えば第3章では、「新世界」との遭遇をめぐる歴史叙述の問題に非常に力点が置かれています。また全体として、女性のファクターが各所で強調されており、これも印象に残った点です。また、どういった人物が取り上げられているのかに関しても、古今東西のさまざまな人物が取り上げられていますが、例えばニーチェの議論が強調されています。この点なども、こうしたテーマの議論の中ではユニークなのではないかと感じました。

 第6章、第7章ですが、第6章の方を節の見出しごとに少し詳しく見ていきます。最初はアナールの影響力から始まっています。まずヨーロッパに着目した時にアナールの影響力を強調する点は、頷ける点です。ただ、どういった点を強調するかは問題になると思います。日本の場合だと、アナールの影響はいろいろあると思われますが、やはり一番重要であったのは、「全体史」に対する問題提起ではなかったかと思います。

 歴史と社会科学のところでは、マルクス主義の位置付けが少し気になります。ここではマルクス主義に言及がなされていません。マルクス主義に関しては、「下からの歴史」の項目で触れられていますが、マルクス主義の世界各地の歴史研究への影響力から見て、この項目の中で位置付けがあって然るべきであろうと思います。

 次に独裁体制と権威主義体制のもとでの歴史という項目が置かれています。こうした形で項目が立てられていることの意味は大きいと思います。ただここでかなり詳しく扱われているのは中国、特に大躍進から文革の時代です。この辺りの議論をどう見るのかは、久保亨さんに伺いたかった点です。またここで、フィッシャー論争やドイツの歴史家論争が扱われているのですが、ここで扱うべき問題なのかは疑問に感じます。むしろ、歴史戦争の文脈で扱うべき問題なのではないかと思います。

 下からの歴史という項目が設けられているのも面白い点です。家永裁判問題が扱われていること、アメリカでの「左翼の歴史」に力点を置いていることは良い点だと思います。

 次がインテレクチュアル・ヒストリーということで、心理学の話が出てきます。この本では扱われませんが、最近の流れとしては感情史があり、それにつながる位置付けも十分可能だろうと思います。

 次に女性史/ジェンダー/セクシュアリティが扱われます。この問題は第5章までの部分でも扱われています。これは本書のメリットだと私は思っていますが、フェミニスト歴史家たちが本書をどう評価するのかという点は、また問題になるのかと思います。日本に関しても扱われています。井上清が扱われている点は納得できますが、その他には神近市子だけが言及されています。著者は基本的に世界各地の歴史学の状況をさまざまな材料をもとに見ていますが、どうしても限界があるのではないかと感じます。日本の状況についても紹介不足があるのではないかと思います。これは日本側からの発信がどうであったかという問題とも関わるかもしれません。ただし例えば、高群逸枝に関しては、英語やドイツ語でも多くの紹介があります。そうしたことを考えれば、もう少し広くカバーできたのではないかという気がしました。

 一方、戦後アフリカの歴史叙述に関しては、詳しく扱われています。こうした形でアフリカの歴史叙述が扱われている点も、私は大きなメリットだと思います。

 ポストモダンに関しては、言語論的転回などが扱われます。ただポストモダンを扱う際には、それがどのように世界各地の歴史研究に影響を与えたのかという点は、もう少し議論があっても良いのではないかという気がします。結局はポストモダンが力を持ったのは、先進国の国内であったのではないかと思いますし、日本でも、一つの歴史議論としてはいろいろに議論されますが、それが歴史研究の実践上どれほど大きな影響力を持ったのかという点は、議論の対象になろうかと思います。他の地域でもこうした点に関する議論ができるだろうと思います。

 ポストコロニアリズムに関しては、ガンディーが先駆者として位置づけられています。どのようにしてその位置付けが可能となるのかは気になった点です。

 最後のところで、歴史戦争、修正主義、そして「記憶」と「歴史」との疑わしい関係として項目を立て、ここに最大の紙幅を割いています。これは著者のスタンスをよく示すもので、共感を覚えて読みました。実際に、被征服者や周縁の民の語られずにきた歴史をめぐる「認識論的な暴力」ということが議論されている点も重要で、なるほどと思わされました。ただ、その流れの中でオーラル・ヒストリーについて出てきます。マルクス主義の扱いに関してもそうなのですが、オーラル・ヒストリーもそれ自体、方法論の問題として強調されることができたのではないかと思います。

 第7章に関しては、小見出しを見ただけではわからないところがあり、自分なりに分かりやすい小見出しを作るとどうなるかを考えてみました。南塚さんからも指摘がありましたが、特に「還元主義」のところは、私にもよく分からないところがありました。これを小見出しとしてある程度わかる形にするならば、「単純な事実への『還元主義』と歴史的人物の顕彰問題」となるでしょうか。こういった形になっていれば、もう少しわかりやすかったかと思います。

 第7章の最後の結びの部分で、これからの方向性に関して述べられています。一つ気になるのは、「歴史の未来の可能性につながる2点」です。2点として挙がっているうち、歴史分野のグローバル化・国際化についてはある程度首肯できますし、本書自体がそうした性質のものだろうと思います。もう一つは歴史が幅広い人気を博しているという点で、著者はその見方をかなり肯定的に捉えていますが、この点には疑問を感じます。私たちが書いた『歴史はなぜ必要なのか』は、副題に「脱歴史時代」と入っていますが、「脱歴史時代」をどのようなものとして見るかという問題でもあります。歴史が人気があるからといって、それが歴史学の未来につながるのだろうかという点です。この点について、本書は無批判的なのではなかろうかと思います。

4. コメント 藤田進

 本書の内容から、そして皆さんの発言を聞いていて思った点は、著者は「世界史」について語ってはいますが一面的ではないかということです。私が「一面的」というのは、「下から」の視点が強調されていながら「下から」は見ていないのではないかと感じるからです。本書では扱われない「民衆」、「人民」、あるいは「階級」という言葉にもとづく歴史の流れ、言ってみれば「人民革命」につながるようなジャンルに著者の目があまり届いていないのではないかということです。

 例えば、本書の索引中にマルクス、レーニン、あるいは第三世界についてならばナセル、冷戦期アジア・アフリカ非同盟中立主義のバンドン会議等々、その時々の「人民の歴史」に大きく関わった人物・事柄の項目がほとんど見当たりません。このことから、「歴史」が一部の歴史家の営みの中にあり、歴史が扱うべき人々の九割部分について語ってこなかったという歴史叙述や歴史学理論・方法上の欠陥を本書も引きずっていると感じました。

 私が無国籍難民のパレスチナ人の歴史を重視する立場にあるせいかもしれませんが、本書における世界史の構想や展開の仕方では、圧倒的に多数の人々の現実やそこに孕まれているさまざまな問題が抜け落ちてしまうのではないかと感じます。

 「今、歴史は人気がある」と言われていますが、一方で歴史書が売れないという現実があります。多くの民衆にとって、「歴史」とは何なのでしょうか。本書で問われているような歴史学の役割や有用性が、人々にはほとんど受け止められていないのは大きな問題だと思います。本書には、第三世界、特にイスラム世界についての言及が多くありますが、具体的な歴史上のタームとしての重要性にとどまっており、それらを深めて行くと世界史的にはどうなるのかというところまでは、歴史的関心・認識が十分届いていないのです。こうした現状のまま歴史の新しい展開を求めても、多くの人々は歴史に目を向けないのではないかと思います。

 一方でポピュリズム的歴史理解の方向に人々が持っていかれています。そうした憂慮すべき現状打開に向けて歴史叙述の手は届いているのでしょうか。

 かつてヨーロッパの抑圧権力側が社会主義を装った「愚者の社会主義」を打ち立てて民衆を反動側に組織するという企てがなされました。人類史の成果たる社会主義が歪曲されるとともにグローバル自由資本主義がまかり通っている今日、そうした世界の現実を批判しうる世界史であらねばならない。私は本書を前にして、そうした思いを新たにしました。

5. コメント 油井大三郎

I 本書の意義・・・ほぼ世界各地の古代から現代までの史学史の網羅的な書で、その博覧強記ぶりには驚く。また、その翻訳作業は極めて労苦の多いものだっただろうと拝察。

II 本書の問題点
1 前近代における叙事詩的な歴史記述と近代以降の実証的な歴史記述を連続的にとらえている印象が強いが、中世の歴史記述には史料批判が欠如(p.100)との指摘もあるように、時代的な変化ももっと掘り下げた方がよい印象をもった。

2 西洋的な歴史記述と非西洋的な歴史記述の関連や比較が本書の魅力の一つだが、比較にあたっても、時代や社会構造の差などが考慮外に置かれている印象が残る、例.P.222に司馬光の『資治通鑑』が「啓蒙絶対君主のために書かれたヨーロッパの多くの歴史に匹敵」との指摘があるが、11世紀の宋時代の歴史書がヨーロッパの絶対君主時代の歴史書と類似していると考えるのであれば、その根拠を明示すべきだったのではないだろうか。

3 西洋帝国主義の植民地支配と西洋流の歴史認識との関係について・・・「東アジアの改革者の側にヨーロッパのやり方を受け容れようとする意志」があった(p.281)と指摘して、被植民地側が西洋文明の「先進性」を認めることで、植民地支配を受け容れたような記述が多くみられる。それは一面事実だっただろうが、同時に植民地支配が暴力的に西洋文明を押し付けた面の記述が少なすぎる印象をうけた。

4 グローバル・ヒストリーに関連して、著者は、非ヨーロッパ諸国の歴史記述の復権をも意図して本書を書いたのであろうから、当然、ケネス・ポメランツ『大分岐』2000年への言及があってしかるべきと考える。何故なら、ポメランツは、西欧の産業革命以前のアジアの豊かさや自立性を強調しているからである。また、グローバル・ヒストリーの台頭におけるポメランツの影響力の大きさからしても、本書にポメランツの言及がないのは疑問となる。

5 ポストモダンとポストコロニアリズムの関係について・・・本書では両者を双子のように関連深いものとして扱っている。しかし、ポストモダンは、1968年の5月革命などを「挫折」と把握した西欧知識人が、反啓蒙・反進歩を主張し、マルクス主義などの「大きな物語」を否定する思想を展開した。それに対して、ポストコロニアリズムは、第三世界出身の知識人が植民地の独立以降も、西洋では植民地支配の思想的残滓があるとして批判したもので、帝国主義や植民地主義という「大きな物語」を問題にする点で、ポストモダンの思想とは大きく異なる面がある。著者のこの点への言及がない点に疑問が残った。

6 以上、本書に関わる疑問点を列記したが、世界各地の古代から現代までの歴史家や歴史書を史学史的に述べた類書はないので、歴史記述や歴史学方法論を全時代的や全地域的に考察する際には、必読の文献となることは間違いない。訳者のご苦労に敬意を表する。

6. コメント 佐藤育子

 私は古代史を専門にしています。第6章、第7章は、私が普段扱っている時代からははるかに後の時代です。個人的な話ですが、読ませて頂きながら、丁度学部から大学院に上がる頃に、「史学史」という授業でいろいろな文献や書物を扱う中で目にした名前に、ここで再び触れることができました。思い出しながら、勉強させて頂きました。

 今までに挙がったさまざまな論点は、私自身まだ消化はできていないのですが、これだけ多くの歴史家が登場する中で、木畑先生が言及された高群逸枝の名前が挙がっていないというのは、日本の事情に関して調べきれていないということかと思いました。高群の『大日本女性史』は、学部のゼミか何かで読んだことがあります。

 少し古代史に関してお話ししたいと思います。私が今回この場にいるのは、本書の21ページに私の名前を南塚先生が言及してくださったからだと思います。先生には、ディブレー・ハッヤーミームについて質問を頂きました。これは、旧約聖書の「歴代誌」のことです。直訳ですと「日々のできごと」という意味になるかと思います。年代記のようなものです。急にヘブライ語が出てきたということで、私に声をかけてくださったものと思っています。

 第1章に関しては、「歴史叙述がどういうきっかけで生まれるのか」に関心を持ちました。古代ギリシアと古代ローマに関するところです。古代ギリシアでは例えば同時代の歴史家とその叙述として、ヘロドトスと紀元前5世紀前半のペルシア戦争、トゥキュディデスと紀元前5世紀後半のペロポネソス戦争が挙げられます。本書でも、ヘロドトスとトゥキュディデスから始まっています。一方の古代ローマに関しては、同時代の歴史、紀元前3世紀以前の同時代の歴史叙述が存在しません。ローマ文学の黄金期である紀元前後は、共和政から帝政に転換する国家再編の時期でした。その時に、自らのオリジン、自分たちはどこから来たのか、自分たちは何者であるのかというのが彼らの知りたいところだったのだと思います。ここで、リウィウスやウェルギリウスといった人々が登場します。「歴史叙述がいつ生まれるか」ということが、古代史の場合、特にギリシアとローマの違いです。

 私が専門にしているフェニキア・カルタゴ史に関しては、彼ら自身によって書かれた文献史料は存在しません。つまり、残っているものは、他者が見た彼らに対する理解であるわけです。本書に言及されるヨセフスとポリュビオスは、最終的にローマの庇護のもとに史料を残しますが、この二人がいなければ、フェニキア人の歴史もカルタゴの歴史もわかりませんでした。特にポリュビオスが扱った第一次ポエニ戦争は完本の形で残っており、このポエニ戦争に関する記述がなければ、ポエニ戦争のことも調べることができません。ヨセフスは、ローマの庇護を受けて、壮大なユダヤ民族の歴史である『ユダヤ古代史』を書き記しました。その中でユダヤ民族の古さを持ち出すために、フェニキアの歴史、特にテュロスの年代記に関しても言及しています。この二人なしには、フェニキアの歴史は文献史料からはアプローチできないわけです。そんなことを考えながら読ませて頂きました。歴史叙述がいつ生まれるかということ、そしてそれはさらに遡れば神話と言っていいのかもしれませんが、日本でも例えば、日本書紀や古事記が生まれたのは、ちょうど国家が成熟していった成り立ちの時であり、そこに自分たちのオリジンを求める動きがあったということです。非常に似ているところがあると思いました。

7. コメント 小山田紀子

 ここでは、私の研究分野の紹介をさせていただくことで、本書のコメントに代えさせていただきたいと思います。昨年、8年間かかって『植民地化・脱植民地化の比較史』という本を藤原書店から出版しました(2023年)。私が専門としているフランスとアルジェリアの植民地関係と、日本と朝鮮半島の関係を比較するというものです。現在、フランス語版の翻訳を進めています。日本語版の装丁が綺麗にできています。表紙の上は朝鮮の1945年の解放の写真、下は1962年のアルジェリア独立時、総督府の前で人々が喜んでいるものです。裏表紙には綺麗なアーモンドの花の咲く山の写真を載せました。これはプロジェクト参加者のアルジェ大学の先生が新年に年賀状としてくださったものです。花が綺麗だったからというわけではなく、部族が大虐殺された、まさにその場所の写真だということです。私が後で調べてそういった事情がわかり、裏に載せました。

 共同研究のメンバーは、日本側が10人、フランス・アルジェリア側が4人で、私が新潟国際情報大学の共同研究として提案して始めたものでした。「植民地責任論」を扱った永原陽子氏の研究に続く具体的な例として進めたものです。南塚先生にも木畑先生にも高く評価して頂きました。中身は、今日のウルフの著書の内容の話と比べれば、入り口の部分ではあります。なかなか具体的な比較はできていないのですが、このような国際学術交流で、日朝関係とフランス・アルジェリア関係を比較するのは初めてだろうと思います。

 この共同研究にもつながるのですが、私は学部の卒論から続くテーマとして、対仏独立戦争におけるフランス軍の住民強制移住政策をずっと研究しています。修士課程では南フランスのエクサンプロヴァンス大学に留学しましたが、ここは植民地研究のメッカです。同じところに何十年も経ってからサバティカルで滞在しました(2018-19年)。現地の人々とも交流して、共同研究を組織することができました。ただこれから皆で議論を進めていく段階です。

 もともとの私の研究から見ると、ウルフによる本書やこの研究会は、方法論的に学ぶ場です。一度個別具体的な研究を世に出した後で、方法論的な検証をするということになります。自分がどの方法論を用いているのかが必ずしもよくわかっていなかったのですが、ウルフの本書によってはっきりしたことがあります。私は井上幸治先生からフランス史を学びました。井上先生は、日本にフランスのアナール学派を紹介するという大きな仕事をされました。先生の指導のもと、私がどのように方法論を用いてきたのかが、今になって本書によってわかったところがあります。アナール学派のマルク・ブロックとフェーブルというストラスブール派の第一世代と、『地中海』のブローデル、ジョルジュ・デュビーの社会史などです。藤原書店の藤原良雄さんは、井上幸治先生のアナール学派の日本への紹介を目的に編集者をされていた方です。ブローデルの『地中海』の最初の訳は、井上先生の編で新評論から出版されました。その後、藤原さんが独立して、藤原書店を立ち上げました。こうしたつながりがあり、私たちの共同研究の成果は、藤原書店から出版できました。

 アナール学派のブローデルは、何巻にもわたる『地中海』が出版されており、百科事典のような感じがします。「長期分析」と「計量分析」、経済とミクロヒストリーを行い、「地域史は必ず世界史に取り込まれてゆく」ということを示しました。「地域史」をまず一次史料を用いて実証研究せねばならないという点が、井上先生の教えでした。南仏のエクサンプロヴァンスに留学しましたが、植民地研究の中心だったこともあり、文書研究やアルジェリアの現地調査も行いました。私のアルジェリア研究は、こうした史料に基づいたミクロヒストリーですが、枠組みとしては、オスマン帝国期から独立までを扱っています。

 日本においてもアルジェリア研究は広がってきていますが、この地域を地中海世界として捉えるのか、私のように植民地政策としてフランス・アルジェリア関係を見るのかさまざまです。植民地化の暴力的な戦争と暴力的な脱植民地化の後、今何を目指して研究を進めるのかという点は、まだ先が見えてこない点です。私自身でいま模索しているテーマは、人の移動と帝国の変貌と国民国家の問い直しを、大局的なグローバルヒストリーからではなく、個別具体的なところで分析した上で提示することにあります。

8. コメント 杉本諒

 私は高校の世界史の教員をしています。常に世界史をどのように教えるかを考えていますので、本書もそう言った関心から読みました。「歴史」というのがどのようにつながってきたのか、そして自分がなぜ「歴史」を教えるのかのヒントを得たいと思ってのことです。正直に言えば、歴史教育、歴史がどのように教えられてきたのかという点に関しては、まったく記述がありません。そこをもう少し扱って欲しかったと思います。また、歴史家のビッグネームの成果の比較やまとめはなされていますが、それがどのように民衆に伝わっているのかといった点は、あまり議論されていないのではないかと思いました。私の問題関心から中心に読んでいますので、著者の問題関心とは異なるのだとは思いますが、「歴史」を総体で見た時に、歴史教育というのもやはり忘れてはいけない点だと思っています。

 歴史教育が何のためにあるのかと言えば、それはネイション形成などに帰するものとなるのだろうとは思います。現在の高校の歴史教育では、グローバルヒストリーを大きく取り入れて教科書が書かれるようになっています。「歴史をなぜ教えるのか」がクローズアップされている状況です。ネイション形成に回収されないような歴史教育を私は志しています。歴史学の問題意識がどのように変化してきて、それが歴史教育にどのような影響を与えてきているのか、この点を深めて欲しいと思いました。現代を扱う本書の第6章、第7章では、歴史学の問題意識の変化が羅列されています。ジェンダー史、ポストコロニアリズム、グローバルヒストリーなどです。ではどういう方向に向かうべきなのか、この点をもっと深めて欲しかったと思います。教員としては、それを受けて、何を目指して生徒たちに教えてゆくかを考えることになります。本書では、現代の歴史学の問題が単に羅列されているだけなのではないかという印象を受けました。

9. 訳者よりのリプライ

南塚

 著者に変わって答える必要はなかろうと思いますが、疑問点は明らかにしておいた方がいいでしょう。まず、ポストコロニアルに関する小谷さんの提起についてです。「批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えること、またテキストや文書を「織り目に逆らって」読み、それが言っていることと同じくらいにそれが言っていないことを見つけ出すことを、共通の目的としているのである。」をどう理解するのかという点です。翻訳を進めながら気になっていた点ではあります。私の理解は以下のようなものです。「インドにイギリスの歴史学がやって来て、それを植民地権力や同盟者が取り入れたかもしれないが、それにより、非常にヨーロッパ的なインド史が形成された。インドにおいては封建社会はこうであり、それに代わり市民が出てきて、国民国家がこのように形成された。」といった形で、インド史の大ナラティヴが作られてきていた。それは現地の権力や同盟者が作って来たものということです。こうしたナラティヴを、ポストコロニアリズムが不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したり、在地化するということで、その結果、よりインドに固有の価値、インド的な人の繋がりや社会の構成に即して歴史を考えなければならないということになる、ということではないかと思いながら翻訳しました。

小谷

 本書の校閲をしながら、難しいと思ったのは次の点です。ヨーロッパの歴史学を正面から引き受けたのは、「現地における〔ヨーロッパの〕同盟者」ではなく、実際にはマルクス主義的な歴史学者の方だと思います。マルクスの言葉を非常に単純化して、それをそのまま歴史として捉えるという姿勢は、インドのマルクス主義歴史学者にも共通しています。従って、奴隷制、封建制、資本主義といった社会構成体論が、非常に強い影響力を及ぼしました。日本の戦後史学にもそういったところがありますが。「変革の学」であるはずの非ヨーロッパ世界のマルクス主義歴史学がもっとも「ヨーロッパ中心主義」的であるということに、非ヨーロッパ世界の近代思想のイロニーがあると思いました。

 それから、藤田さん、杉本さんの議論を聞いていて思った点でありますが、本書はあくまでも「書かれたものとしての歴史」の世界史です。書かれた、「高級な」歴史以外は本書の対象にはならないわけです。例えば、「生きられた歴史」という概念があります。日々、人々がその中で生きている非文字的な歴史世界というものが必ずあるはずです。大飢饉の記憶といった記憶の集積としての「生きられた歴史」です。こういった「歴史」は、本書では対象外になっています。それに対して、藤田さんや杉本さんが求めているのは、こういう意味での「生きられた歴史」なのではないかと思いました。

10. 議論の論点

○歴史教育について
・歴史教育に関してもう少し扱われて然るべきだろう。アメリカの歴史研究者には教育への意識が強いだろう。
・「『歴史学』と『歴史教育』の対話」には意義があるが、両者の埋めがたい溝も明らか。
・大学での「歴史教育」の視点、博学連携の視点も重要だろう。
・研究をするだけでは歴史家の役割としては部分的。研究者が教育的機能を果たすことへの視点を持つことも重要。

○社会運動について
・歴史研究における社会運動の役割への視点が薄いのでは。歴史のダイナミズムに繋がらないのでは。
・歴史研究者の語る歴史と、生きている人間が意識する歴史との乖離がどう埋められるのかが歴史学の可能性だが、そこには届いていない。
・そういった趣旨の本が書かれていないということだろう。

○古代史・中世史について
・現代に述べられている歴史の方法(フェミニズム、インテレクチュアル・ヒストリー、ポストコロニアル、還元主義など)で、古代史・中世史を考えることもできるのではないか?
・古代におけるギリシア中心史観とそれへの反論が存在。西部ユーラシア主義の存在。
・地中海史、西部ユーラシア史を設定すると、ヨーロッパの源泉としての古代ギリシア・ローマ史は否定されるのでは?
・西洋と非西洋の二元化という点ではオーソドックス。ただ、細かい論点は紹介されている。

○歴史への一般の関心について
・著者が広い関心には基礎的なリテラシーが必要としていることは重要。
・日本でも「歴史」には人気があるが、興味本位のものから。大河ドラマも人気だが、評価は難しい。
・より突き詰めて考えるべき点だろう。

○植民地支配の暴力性について
・植民地支配の道具としてのヨーロッパ的歴史に関しては幾度か言及。
・植民地統治の中における歴史教育も重要だろう。

(「世界史の眼」No.56)

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世界史の中の北前船 その4―長崎・薩摩・富山―
南塚信吾

1. 対中国貿易

 北前船は、船主、船頭、知工(ちく)、表(おもて)、片表、親司(おやじ)、若衆(わかいしゅう)、炊等(かしき)から構成されていた。船頭が最高責任者で売買も差配した。船主が船頭になる直乗(じきのり)もあった。知工は事務長で、荷物の受け渡しを管理し、経理を司った。表は航海士、親司は水夫長、若衆が一般の水夫で、炊等は雑用をする水夫見習であった(牧野 1979 66-68頁)。ある湊で買い込んだ品を別の湊で高く売って利益を得ながら、下ったり(大阪から北国へ向かう)上ったり(北国から大坂へ向かう)したのである。これを買積みという。そして、その売買を指揮したのが、船頭であった。

 19世紀の初めには北前船は以下のような買積み活動をしていたと考えられる。

《下り》
 北前船は大坂で冬を越す。春になると、周辺でできる綿製品や京都でできる呉服や京焼などを積んで出発する。瀬戸内海を西進し、神戸、岡山、広島の諸港で綿製品や塩を買入れる。下関を経て、関門海峡を通って、日本海側に出る。島根の境(鉄)や石見(石見焼きと石州瓦と)や出雲(木綿と木材)で特産物を買入れて、北上する。能登半島の輪島では漆器を買い入れる。岩瀬では薬を仕入れる。新潟では鉄を売って米、むしろを買う、酒田では米や紅花などを買い入れる。途中で、高く売れる品を売りさばいていく。こうして夏に蝦夷に着く。松前の会所を経て、松前、箱館、江差などの港に入り、持ってきた品物を売りさばく。松前藩の入用なものを除いて、商人は、各自の「場所」へ持ち帰って、アイヌとの交易で、肥料用ニシンや昆布を入手する。

《上り》
 松前、箱館、江差の港に入った北前船は、肥料ニシンや昆布などを仕入れて、秋口になると南下する。途中、酒田や新潟ではニシンを売って米を仕入れ、岩瀬ではニシンや昆布を売って薬などを仕入れる。能登では漆器などを仕入れる。そうして下関に戻る。ここではかなりの昆布を降ろし、大坂など瀬戸内各地の市場情報を入手する。それから、広島、岡山、神戸などで肥料用ニシンを売ったり、大阪で売れる品を入手する。そして、晩秋から冬に大阪へ戻り、ここの問屋を通して米や肥料用ニシンや昆布や各地で買った特産物を売りさばく。そして大坂で冬を越す。

《長崎》
 一方、下関で降ろされた昆布などは、別の船で長崎に運ばれ、会所を経て、中国に売られ、代わりに生糸、薬種などの唐物を買い入れる。この唐物は、大阪の道修町(どしょうまち)へ運ばれ、そこの問屋から全国に販売される(植松 2023 89-90頁を参考に加工した)。

 こういう物流の中で、長崎へのルートは対中国貿易として重要であった。

(1) 長崎貿易

 南方の中国への輸出入は基本的に長崎を経由した。1633年、35年、39年の幕府の指令により、ポルトガルなどとの貿易と人の往来が制限され、ついに長崎のみにおいてオランダと中国との交渉が認められるに至っていた。その長崎支配の中心は長崎奉行で、その下に町年寄を筆頭とする地役人の組織があった(荒野 2013 220-225頁)。これが「長崎口」であった。

 長崎貿易においては、中国からの薬種や雑唐物(紙、羊毛識、生糸、絹織物)などの産品と交換に、日本からは銀が輸出されていた。だが、銀の国内産出が減退した結果、17世紀中頃から銀に代わって銅が輸出された。しかし数年間好調だったこの銅輸出も17世紀末には頭打ちとなり、銅を補うために俵物・諸色海産物が登場した。海産物の中国向け輸出は少なくとも1660年代に始まっていたという。俵物は、煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の三品で、諸色海産物は昆布、鯣(するめ)、所天草、鶏冠草、寒天などであった。このうち実際に意味を持っていたのは、煎海鼠、乾鮑、昆布の三品であった。これら三品のうち、中国向けで最も重要な産品が昆布であった(菊地 1994 185-189頁;上原 2016 44頁;函館市地域史料アーカイヴ)。

 長崎貿易は幕府が貿易のすべてを管理する幕府の官営商業であった。中国との貿易については、1688(元禄元)年、幕府は貿易を管理するために長崎郊外に「唐人屋敷」を建て、翌年から5000人近くの中国人(唐人)をここに収容し、出入りを厳しく制限した。ついで、1698(元禄11)年、幕府は銅輸出の陰りを踏まえ、海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てた。この年、幕府は俵物支配役と俵物総問屋を置いて各地から俵物を集荷する仕組みを整え、長崎には奉行所の監督の下で貿易の事務を扱う長崎会所を置いた。18世紀にはいると、銅輸出は停滞し、俵物・諸色の需要がますます高まった。中国ではとくに風土病のためにヨードを含む昆布への需要が大きかったのである(荒野 1988 99頁;神長 2022 54―55頁)。

 このように管理された長崎貿易に対して抜荷(密貿易)が横行し、1686-91年、1704-10年、1720-31年と頻発していた。抜荷とは、幕府によって管理された長崎貿易を通さない貿易がすべてそうであった。それは主に長崎の下層住民を中心にして、長崎沖で、中国船を相手に行われていた。扱われる品は、中国からの生糸、紗綾(さや=絹織物)、薬種といった唐物と、蝦夷からの俵物・諸色であった。このうち、生糸、紗綾などの品質が悪化し価格も高騰すると、薬種や荒物などが増えた。抜荷に対して、まず、幕府は唐物の輸入を管理しようとした。とくに唐薬種はそうで、幕府は享保年間(1716-35年)に、長崎に入った唐薬種をすべて大坂に集荷させ、そこから問屋を通して全国に売り捌く統制体制を整備した。しかし、18世紀半ばには、このルートを経ない不正の唐薬種が出回った。唐薬種は長崎から大阪へ回らず、一部が長崎で売られたり、大坂の問屋が幕府の了解を得ずに勝手に各地へ売り払ったりした(荒野 1988 67-112頁;上原 1990 97-103;161-165頁)。これは薩摩が長崎を経ずに唐薬種を売りさばくもので、薩摩藩営の密貿易(抜荷)であった。一方、俵物・諸色の抜荷については、幕府は、取り締まりをさらに強化し、1785(天明5)年には会所の下に長崎俵物役所を置き、この役所が俵物や諸色を各地から直接集荷するようにした。同時に幕府は各地に俵物巡見使を派遣して抜荷を厳しく取り締まった(菊地 1994 186頁;神長 2022 55頁)。北前船の多くは、蝦夷から大坂へ俵物や諸色を持ち込んだが、大坂と長崎を経ないで、直接薩摩へ持ち込む場合も現れ、ここでも抜荷は消えなかった。

(2) 薩摩藩と琉球

 この長崎貿易と直接競合する関係にあったのが、薩摩藩の支配する琉球を経た対中貿易(進貢貿易)であった。

《琉球口》 
 琉球は、1609年(慶長14年)に薩摩の島津氏に制圧されて以来、17世紀の前半に、島津氏の直接支配を受けながら、明と徳川幕府の両方に朝貢する地位を確定していた。その中で、島津氏は琉球への渡航やキリスト教国の船の寄港禁止など「海禁」の体制を整備した(荒野 2013 150-152頁)。これが「琉球口」であった。

 薩摩藩も琉球王国もともに財政難にあった。薩摩藩は、財政難を乗り越えるために、安易な方法として、琉球などを犠牲にした。まず、薩摩は、琉球や奄美諸島で産する黒糖から藩の収入を得ようとした。とくに黒糖は奄美諸島に特化させて、琉球から切り離し、島津の直轄とした。つぎに、1631年(寛永8年)以後、琉球王国が中国と行う進貢貿易に積極的に介入して、生糸、巻物(織物)、薬種など唐物を入手した(荒野 1988 140-145頁;上原 2016 19-23頁)。藩は、琉球貿易に必要な経費の半分を負担し、対中貿易による利益を自分のものにした。

 しかし、薩摩藩・琉球と幕府の関係は微妙であった。そもそも輸出も輸入も長崎以外での取引は抜荷であったが、幕府は琉球と中国の進貢貿易は容認していた。とくに生糸と薬種の輸入を確保しておきたかった。ただ、幕府は薩摩が琉球を通して行う対中貿易と国内販売の品目と数量を制限し、長崎貿易に一本化しようとした。また薩摩が、生糸などを除いて、琉球貿易で輸入した品を他領で販売することを禁止した(菊地1994 189-190頁;上原 2016 35-42頁)。

 だが、18世紀にはいると日本国内で生糸や絹織物の生産が広がり、18世紀後半には中国産の生糸の質が低下すると、琉球貿易で入った生糸などの市場が縮小し、薩摩にとっての利益も上がらなくなった。この貿易不振に対する対策の一つが、輸入品の生糸から薬種などへの転換であり、いま一つが、銀や銅での支払いに代えて、俵物や昆布をあてることであった。俵物や昆布が長崎を経ないで、薩摩から琉球を経て中国へ輸出されるようになった。そういう抜荷が広がったために、上述のように幕府は1785年(天明5年)、俵物と昆布を長崎会所が独占的に仕入れる体制をうちたてたのである(上原 2016 44-48頁)。幕府は、琉球口を長崎口を補完するものとして組み込もうとしたのである。しかし、薩摩藩はそれに対抗し、琉球王国も独自の貿易を追求しようとした。

 こうして幕府は薩摩藩、琉球王国、そして長崎会所の間で、やり取りをしながら、統制された長崎貿易体制を維持しようとしたが、綻びは各所にあった。その最大の問題が抜荷であった。薩摩藩は様々な形で抜荷を行ったのである(徳永 1992 5頁)。

コラム:平岩弓枝は、1787年(天明7年)に新潟で薩摩の抜荷が摘発された事件を巡って、『はやぶさ新八御用旅(四)北前船の事件』という興味深い小説を書いているが、この抜荷摘発は確認できない。

《薩摩藩と琉球》
 薩摩藩は、秀吉の九州征伐、江戸城修復の手伝い、参勤交代などによって、おおきな財政赤字を抱えていた。それを緩和するために、琉球王国が中国と行う進貢貿易で得られる生糸や薬種の販売から利益を得ようとした。

 琉球口の進貢貿易で輸出する物産では、長崎口と同様、18世紀にはいると、銅が不足し、かわりに昆布が重視された。しかし、輸出用の昆布はどのようにして薩摩が入手し、それが琉球に運ばれたのか。それは海商たちの抜荷によるところが大きかった。海商たちは大坂や下関で蝦夷から来る昆布を買い取り、それを琉球へ運んだりした。大阪の問屋を通さずに買い付けたのである(上原 1990 178-182頁)。  

 一方、中国からの輸入では、唐薬種が中心であった。1780年代から、薩摩は、琉球に入る唐薬種も含めた薬種を、長崎へ持ち込まず、大坂などで販売していたが、そこには抜荷の薬種も入る余地があった。また、琉球王国自身も直接大阪へ売ろうとしたり、抜荷を認めたりしたので、薩摩は琉球と幕府の双方に対応しなければならなかった。幕府は不正品の流通を絶つべく1803年には長崎から大坂などへの流通の管理を強化した(上原 1990 169-177頁)。

幕府と薩摩藩の争いは続いたが、薩摩藩は、1792年のロシア使節ラクスマンの根室到来以来の北方の危機を材料に、南方での政策転換を求め、ついに1810年(文化7年)に長崎貿易に割り込み、翌年には5年期限ではあるが、生糸、絹織物の外に唐物販売権の数量増加(8品目)を幕府に認めさせた。その後1818年(文化15年、文政元年)にはさらなる増加(3品目)を3年期限で勝ち得て、1825年(文政8年)には琉球口の公許唐物免許品は合計16品目となった。これには長崎貿易の主力品である薬種も加わっていた(深井 2009 69頁;上原 2016 186-188頁;徳永 2005 118-120頁はやや違う)。同時に、薩摩藩は琉球に対しては、朝貢貿易で入手した唐物の一手買い入れを求めた。琉球側は、中国との貿易は、渡唐役者(中国貿易に携わる役人)や船主たちが貿易から得られる儲けの一部を得られる形で行われているので、薩摩による一手買いはその儲けをなくすという理由で、これを拒否した。しかし、薩摩は強硬にこれを求め続け、ついに1819年に強行した(上原 2016 130-133頁)。

 19世紀の初頭から始まる藩の改革は、財政赤字を補填するために、藩内の農民負担を増加したり、奄美諸島の黒糖を買い上げたりしたが、琉球を経由した中国貿易は薩摩藩にとって藩財政を建て直す重要な事業であった。それは、長崎商法の拡大と、唐物の一手買いによって進められたが、この間に薩摩藩は天草の豪商石本家を取り込んで、同家の資金力で借金をしたり、幕府その他を買収したりして、事を進めたのであった(上原 2016 142-157頁)。

 そして、薩摩は、文政期(1818-29年)以降、抜荷を推進していたようである。これが次に問題となる。

(3) 密貿易・抜荷

 1827年(文政10年)に調所笑左衛門が薩摩藩の財政再建を担うようになってから、対中貿易は促進された。調所は農民収奪を効果的にするために農政改革を行い、南島の黒砂糖の生産・流通管理を強化したが、もっとも頼りにしたのが、対中貿易であった。藩は従来の路線で、長崎での唐物の売り捌き品目と数量の拡大を求め続け、1825年(文政8年)に5年限りで許可品目が合計16品目になっていた(これは1829年には5年間延長となる)。同時に、薩摩は琉球での買い占めも強化し、1826年に、藩から人員を派遣して、琉球に唐物方御座を設置して、長崎商法で認められた計16品目の調達と、一手買入れを確実にしようとした(上原 1990 209-213頁;上原 2016 162―165頁)。 

 だが、薩摩にとっても利益の多かったのが、藩営の抜荷(密貿易)であった。琉中間の進貢貿易は幕府によって認められていたが、そこで薩摩の得た薬種など唐物は、長崎の会所での手続きをして、その後大坂などへ運ばれて売買されるのが、規則に沿った売買ルートであった。そのようなルートにのらない交易は抜荷なのである。薩摩は、進貢貿易によって得た薬種などの唐物を、長崎を経ないで、大坂のほか、新潟へ運んで、抜荷として売りさばいた。一方、この時期、薩摩藩は、なんらかのルートで蝦夷からの俵物などを密売買していた。

 肥前平戸藩主松浦静山が書いた『甲子夜話』に1826-27年の出来事が記されている。それによると、1826年(文政9年)、越前の蓬莱屋の持ち船寳力丸が3月に松前行き、そこから蝦夷地の三ツ石に入り、昆布を仕入れ、それから8月に松前を出て、9月に薩摩へ向かったが、長崎の松島沖で暴風雨に遭って、遭難したという(上原 1990 214頁)。これは、越前の北前船を利用して松前から昆布を薩摩へ直接運んでいたことを示すものである。ここにやがて新潟が重要な拠点となってくる。

 幕府が貿易独占のために行っていた長崎貿易に薩摩藩は対抗していたのであるが、このため長崎貿易に依存していた中国商人からは不満が寄せられていた。しかし、それでも薩摩が琉球をとおして抜荷する昆布は、品質が良く、しかも安価であったから、中国では広く流通していた(徳永 1992 4-5頁;徳永 2005 167―168頁)。

(4) 北前船薩摩へ

 この間じょじょに北前船が活躍するようになってきた。

 すでに述べたように、北前船が長崎まで行くようになって、長崎経由の昆布ロードが本格化したのは、1698年(元禄11年)という説が強い(北前船新総曲輪夢倶楽部、2006,88頁)。長崎の唐人屋敷を経由して、北前船が蝦夷からもたらす海産物が中国へ送られ、中国からは薬種などがもたらされた。

 ところが北前船が蝦夷の昆布を直接薩摩に運ぶようになったのはいつか。はっきりしない。量的にはっきりしているのは1799年頃からである。薩摩藩は、1804年頃から新潟の廻船問屋を介して、北前船で買い込んだ大量の昆布などを、琉球を通して中国で売りさばいた。あるいは、北前船は蝦夷で昆布を積んで薩摩まで行った。ただし薩摩で北前船は終わり、そこで積み替えて、薩摩の船で琉球へ運んだ。琉球は異国であり、また琉球への渡航は禁止されていたのである(読売新聞 1997 62-63、73頁)。北前船はここでは抜荷に関係していたわけである。

 昆布が薩摩へ運び込まれていた様を、松浦静山の『甲子夜話』が記録している。1826年(文政9年)3月、越前国丹生郡下海浦の蓬莱屋庄右衛門の持ち船寶力丸700石が、沖船頭喜右衛門以下9人で、蝦夷の松前へ行き、三ツ石で昆布を仕入れ、8月に出発した。西回り航路を取って、若狭国丹生浦(にうのうら)、但馬国柴山を経て、9月に薩摩へ向かった。しかし、薩摩の松島沖で嵐に遭遇して漂流した。そして清国に漂着したが、漁民に助けられて、1827年8月に生還した(上原 1990 213-214頁)。

このように、薩摩藩の密貿易には、越前のほか、越中、越後の北前船が関係し合っていた。越中の売薬がここに入ってくるのは、この後である。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
上原兼善『鎖国と藩貿易ー薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植松三十里『富山売薬薩摩組』エイチアンドアイ 2023年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
北日本新聞社編集局編『昆布ロードと越中 海の懸橋』北日本新聞社 2007年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
越崎宗一『北前船考 新版』北海道出版企画センター 1972年
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の硏究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
平岩弓枝『はやぶさ新八御用旅(四)北前船の事件』講談社 2006年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
松浦武四郎『アイヌ人物誌』青土社 2018年
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年
読売新聞北陸支社編『北前船 日本海こんぶロード』能登印刷出版部 1997年
函館市地域史料アーカイヴ
  https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100050/ht004040

(「世界史の眼」No.55)

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世界史の中の北前船 その3―蝦夷とアイヌと昆布―
南塚信吾

2.《場所請負制》とアイヌ

(1)「場所」―商人の漁業経営

 享保年間(1716-35年)から元文期(1736-1740年)に、蝦夷の支配体制が「商場知行制」から「場所請負制」へ移行したと考えられている。商場知行制は、もっぱら交易を中心としていたが、場所請負制は、交易權と漁業権をふくみ、むしろ漁業経営が中心となった。そうなると、商人の性質が変わってきた。商場知行制のもとでは、蝦夷の物産を上方に輸送する本州商人が主役であったが、今や、松前藩の公商で、漁業を経営することもできる商人(主として近江商人)が主役となった。そして商人たちは近隣のアイヌなどを使役して漁場を直接経営するようになった(菊地 1994 111-112頁;淡海文化を育てる会 2001 117頁;神長 2022 54頁)。

 享保年間に「場所請負制」が始まると、近江商人は、松前氏の給人から「場所」を請負い、漁場経営を任された。近江商人たちは自らの裁量で漁場を運営し、干鱈、干鰯、干鮑、ニシン、昆布、わかめなどを入手した。同時に、かれらは、「場所」につくられた交易所において、アイヌから毛革や金や海産物を獲得した。かれらは、獲得したものを松前氏に上納したほか、「荷所船」によって近江を経て京・大坂に送り、逆に日用品や米、衣類を買い入れて、アイヌとの交易にあてたりした(淡海文化を育てる会 2001  115頁)。アイヌの漁民たちから言うと、かれらは、採取した毛皮や昆布などを交易所に持ち込み、そこで「運上屋」の商人を通して、内地などから来た米や雑貨の交易用品と交換した。この様子は、小説ながら鳴海章『密命売薬商』(集英社文庫 2017年)にたくみに描かれている。

 すでに見たように、1698(元禄11)年、幕府は海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの重要貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てていた。このとき、昆布も諸色として認められ、以後、昆布は重要な産品となっていた。輸出用の国際商品としてコンブが「発見」されたのである。1785年(天明5年)には、幕府は長崎の会所の下に長崎俵物役所を置き、俵物や諸色を各地から直接買い集める体制を強化した(神長 2022 55頁)。近江商人の商いはこれに繋がっていった。

 しかし、18世紀半ば以後、近江商人の独占状態に変化が起こる。多くの近江商人は商場知行制の流通制度に拘束され、運上金の引き上げに耐え切れず、場所請負制に乗ることのできた近江商人以外は、生き残れず、非近江系商人が台頭してきた。例えば、淡路出の高田屋嘉兵衛は箱館を拠点に活躍し、択捉までの航路を開拓した(淡海文化を育てる会2001 117頁)。こうして、さまざまな出身の商人が場所請負制に入り込んできて、18世紀の末までには、場所請負制が蝦夷地(北海道)全域に行きわたり、請負人によるアイヌ支配が確立した(荒野 1988 51頁)。

 18世紀末から19世紀初めにかけて北の隣人であるロシア帝国との緊張が高まると、1807年に、幕府は松前藩から東蝦夷地、次いで西蝦夷地を召し上げて直轄した。そして、対外的な緊張が弱まった1821年に、幕府は松前藩に蝦夷地を返したが、幕末の1855年には北辺防備のために蝦夷地をふたたび直轄にした(神長 2022 56頁)。こういう直轄化をとおして、「場所請負制」は強化されていった。 

(2) 昆布漁場 

 17世紀末に幕府が俵物と諸色を対中貿易の重要品目と指定し、昆布も諸色として認められ、こうして新たな輸出用の国際商品としてコンブが「発見」された後、18世紀から19世紀半ばにかけて、蝦夷地の各地でコンブの新漁場が開発された。

 18世紀の前半は、おもに近江商人の手によって箱館周辺で生産されたコンブが松前から敦賀や近江、ないしは瀬戸内海を経由して大坂に運ばれていた。18世紀半ばまでの松前昆布の産地はおもに松前地の吉岡(現在の渡島地方)から東蝦夷地のエトモ(現在の胆振地方)あたりであったが、1780年代前半(安永末から天明初)にはそれがミツイシ(三ツ石=現在の日高地方)まで広がった。1780年代に幕府が密貿易を取り締まるためにコンブの集荷を強化すると、産地はさらに広がった。18世紀の末には和人とアイヌのコンブ交易の場が蝦夷地の北の端まで広がった。

 19世紀前半の西蝦夷地では、トママイ(現在の苫前)とテシホ(現在の天塩)もコンブの産地として知られるようになった。東蝦夷地のコンブ業は18世紀の末にクスリ(現在の釧路)やアツケシ(現在の厚岸)に達していた。そして19世紀初めにはネモロ(根室)で高田屋がコンブ漁業をはじめて試みた(神長 2022 57-58頁)。

 7月ごろに漁場で採られた2メートルから3メートルの長さの昆布は、乾燥させて、長さを揃えて束にし、8-9月に場所に出され、場所の商人に買い付けられた。対価は、本土からの日常用品などの原物であった。

(北海道漁連)https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html

(3) 労働力としてのアイヌ  

 「場所」では商人が近隣のアイヌなど使役して漁場を直接経営するようになった。場所の中核施設は運上屋であり、ここで支配人・通詞・帳役などが場所を管理した。場所の労働者はおもに番人・職人・漁民からなり、漁民としてはアイヌと、定住ないし出稼ぎの和人が働いた。

 18世紀末までの松前藩は、蝦夷地への和人の立ち入り(蝦夷地往住)を厳しく規制していたが、実際には遅くとも18世紀後半から多くの和人の出稼ぎ労働者が蝦夷地で漁業に携わっていた。厳しい取り締まりのなかでも、漁業の発展とともに和人の人口が増え、アイヌの人口が減っていった。そして、幕府による直轄が始まった19 世紀初めから、幕府は和人に対して蝦夷地への積極的な移住と出稼ぎを勧め、出稼ぎ労働者は東西蝦夷地ともにいちじるしく増えた。松前藩による支配が復活した後もこの傾向は続いた。その結果、和人地に近い蝦夷地ではアイヌ人口が激減した。和人との雑居を好まないアイヌたちの移住が一つの要因だが、和人との雑居による感染症の蔓延も大きく影響したのだった(神長 2022 60-61頁)。

 しかし、アイヌの人口が全体として減ったとはいえ、昆布獲りについては、冷遇されたアイヌの労働力に依ることが大きかった。アイヌは男も女も昆布獲りに働かされた。昆布を取るアイヌは、各「場所」に組織され、交易所で取り締まられていた。各漁場では、アイヌは、酋長(おとな)、小使(こづかい)、土産取(みやげとり)という役を置いて、共同体をなしていた。昆布獲りには、アイヌは、場所のアイヌ部落だけでなく山の方からも降りてきて、漁場近くの海岸に小屋を設けて働いていたという。アイヌが「漁業や昆布とりに雇われてよそに行く」こともあった(松浦 2018 66,299頁)。

 19世紀以前のアイヌにはそもそも季節ごとに生活の本拠地を替える習慣があり、蝦夷地の各地で多くのアイヌが春から秋にかけての集落(サクコタン)と冬の集落(マタコタン)を行き来していたが、和人による労働者としての使役が各地で広がった19世紀半ばにこうした習慣がほぼ消滅したという(神長 2022 62頁)。

 多くの場所でのアイヌの労働条件はきわめて悪く、「場所」を管理する和人たちから長らく暴力的な支配と差別的な扱いを受けていた。アイヌの労働に対する対価は不当に少なかった。場所での労働の対価としてアイヌに支給された賃金は最大でも和人の4 分の1だったし、和人がアイヌから海産物を買い取る場合は、同じ海産物でもアイヌからの買上げ価格は和人からの買上げ価格の3 分の1 だった。この時期のアイヌの生活には、日本製の商品が欠かせないものになっていたが、場所での和人との交易では、これらの商品の価格が不当に高く設定されていた(神長 2022 64頁)。

 このようなアイヌの労働力に支えられて獲られた昆布などは、どのように取引されたのか。

3. 蝦夷から見た交易

(1)「荷所船」

 松前藩は藩の内外に行き来する人と物を厳しく管理した。内地から蝦夷地へ来る船が入る港は、福山(松前の港)、江差、箱館に限られ、これ以外の港での交易を禁じられた。それぞれに「沖口番所」が設けられて、船舶・積荷・旅人の出入りが取り締まられ、規定の税が徴収された。密貿易はきびしく禁止されていた。さらに三港には、それぞれ問屋(商人)があって、他国よりの貨物、他国への貨物は、必ず問屋を通して売買することになっていた。問屋は貨物の売買を仲介し、売買代金の一定額を口銭として受け取った。そのほか、問屋は、船出が移入したり移出したりする貨物を沖口番所に届け出て検査を受け、沖口口銭(つまり関税)を船主から取り立てて、役所へ届けた。これらの問屋を松前氏が統括していたのである。奥蝦夷地へ往来する船も必ずこの三港のいずれに寄って、こうした手続きを経なければならなかった。こうして蝦夷地に入った貨物は、和人地で必要なものを除くと、蝦夷地の各「場所」に送られて、蝦夷交易用品として使われた(越崎 1972 16-17頁)。

 これに伴って、近江商人らの「荷所船」の動きも変化した。「荷所船」はこれまでは賃積みであったが、いまや場所請負人が船を所有して直接輸送したり、北陸の船主・船頭が松前・江差・箱館で自ら取引を行ったりする買積み船が登場してきた。ここに「北前船」の素地が生まれることになるのである。買積みというのは、運賃を取って依頼荷物を運ぶ運賃積みに対して、船主・船頭が、商い荷物を自ら買い込んで自分の船で運び売り捌くもので、相場の地域間格差を利用して儲けを得るのであった(菊地 1994 118,165-167頁)。 

 福山(松前の港)、江差、箱館の湊はこのあと繁栄を迎えるが、それぞれに違った役割を持っていた。松前は、船の出入りする湊としては、江差・箱館に劣るが、城下町として当初は沖の口改めを独占していた。場所請負制の下で発展した江差と箱館の間では、箱館が大坂、長崎向けの昆布の積出、江差が木材と鰊の積出で栄えた(菊地 1994 119-121頁)。逆に、内地から蝦夷地への移出品は、津軽、羽後、越後、越中などからの米、出羽大山、越後、大阪からの酒、敦賀、津軽よりの縄筵、瀬戸内海各地よりの塩、大阪などからの木綿その他雑貨類がおもなものであった(越崎 1972 16頁)。  

 やがて1850年代になって、越中の売薬行商人も蝦夷地に入り込んでくる。彼らは、近江の売薬商と競争しつつ、渡島、釧路など蝦夷地に入り込むのだった(植村 1959 129-131頁)。

   (菊地 1994 150頁)

(2) 北のルート

 ここで無視できないのは、北の交易ルートである。北の交易ルートには、二つのものがあった。一つは、西蝦夷地から樺太、山丹、満洲へとつながるもので、いま一つは、東蝦夷地から千島、カムチャツカへとつながるものであった。これらのルートは17世紀の初めには幕府と松前藩によって認知されていた。これらのルートは、松前藩の交易船が直接取引をし、そこには家臣も商人も入れなかった(菊地 1994 151-155頁)。山丹ルートでは宗谷が、千島ルートでは厚岸が松前藩の交易船が行く最果ての「商場」であった(菊地 1994 151-155頁)。

 山丹ルートは、松前から宗谷を経て、樺太の南端ノトロ岬の白主(しらぬし)に至り、樺太を経て、北方の黒竜江(アムール川)下流の住民である山丹(サンタン)人を通じて満州にいたる日満貿易のルートであった。樺太では、樺太アイヌが交易を担っていたが、山丹人が入り込むこともあった。やがて交易が広がるにつれ、1790年(寛政2年)に、このルートの会所は、宗谷から白主に移っていくことになる。そこでは、アイヌに漁法を教えたりした(白山 1971 863頁;菊地 1994 155-158、161-163頁)。このルートから「蝦夷錦」などの唐衣やラッコなどが入ってきていた。

 千島ルートは、千島アイヌに担われて、厚岸から南千島のクナシリを経てさらに北千島の占守(シュムシュ)、さらにはカムチャツカにまで至り、猟虎などをもたらしていた(菊地 1994 158-161頁)。ここにはロシア人も入ってきていた。大黒屋光太夫が漂流し帰国した後の1799年に、ロシア帝国の国策会社ロシア・アメリカ会社ができ、19世紀には、同社はアリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を与えられて、イルクーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動していた。毛皮の入手には現地のアイヌとも接触していた。こうして、ロシア、シベリア、アラスカへの口は繋がっていた。

 やがて北前船は、この二つの北方ルートから運ばれた「蝦夷錦」その他の品を、昆布など蝦夷の物産と共に本土へもたらすのであった。また、のちに漂流した北前船の長者丸は、最後にはシトカから、千島列島を経て、帰国することになるのだった。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
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牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
松浦武四郎『アイヌ人物誌』青土社 2018年

(「世界史の眼」No.54)

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書評:クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)
木畑洋一

 帝国というものへの関心は、第二次世界大戦後における脱植民地化進展の結果薄れたと思われたが、冷戦の終結による東欧社会主義圏とソ連の解体以降高まりを見せ、21世紀に入ると、「アメリカ帝国」論の浮上によってさらに強まっていった。そして最近では、ウクライナ戦争やガザ戦争の勃発によって、帝国に関する議論は新たな盛行を見せている。

 この間、世界史のなかでの帝国の歴史を鳥瞰し、それがもってきた意味を論じようとする著作も、いろいろとあらわれてきた。すぐ頭に浮かぶすぐれた作品をあげてみただけでも、ロシア帝国史の研究者ドミニク・リーベン(『帝国の興亡』日本経済新聞社、2002)やイギリス帝国史の専門家ジョン・ダーウィンの著書(『ティムール以後 世界帝国の興亡1400-2000年』国書刊行会、2020)、ロシア帝国史のジェイン・バーバンクとアフリカ史のフレデリック・クーパーの共著(Jane Burbank and Frederick Cooper, Empires in World History: Power and the Politics of Difference, Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2010)などがある。歴史社会学者としての仕事を積み上げてきた著者クリシャン・クマーによる本書も、そうした系列に連なる本である。

 本書は、時間的にみても空間的にみても多様な存在である帝国という政体の性格に、広い視野のもとで迫ろうとする試みである。限られたスペースでそれを行うことは至難の技であるが、本書はその課題に果敢に取り組んで刺激的な議論を展開している。

 本書は時間的には、二つの「裂け目」もしくは「分水嶺」(第一は紀元前1000年頃で世界宗教が登場してくる時期、第二は15~16世紀のヨーロッパにおける「発見の旅」とともに始まる征服と植民地化の時期)を設定しつつ、古代から現在までを対象としている(vii、以下カッコ内の数字は本書の頁数を指す)。一方空間的には、ヨーロッパに重点を置きつつも、それ以外の帝国にもかなりの関心を払っている。とりわけ中華帝国が詳しく扱われているのが特徴的である。

 時間的な議論に関して言えば、19世紀におけるいわゆる「帝国主義の時代」の画期性が等閑視されていることに、評者として不満をもつが、その点については後で触れたい。また空間的には、著者自身断っているように(viii)、コロンブス到達以前の南米の帝国やアフリカの帝国がほとんど扱われていないし、さらに評者としては、日本帝国にも今少しスペースが割かれて然るべきであったとも思うが、これらについての議論を求めるのは、ないものねだりの類であろう。

 ここで本書各章の内容を簡単に紹介しておこう。

 まず序文では、世界的な体験として帝国の歴史を扱う本書の意図が示され、二つの分水嶺と、「帝国移動」という概念とが紹介される。

 第1章「時間と空間のなかの帝国」では、二つの分水嶺の意味が論じられる。第一の分水嶺については、それ以前の旧帝国(エジプトなど)と異なり、この時代に生まれた「古典文明」時代の帝国(ローマなど)が、普遍主義的なイデオロギーを伴っていたことで大きな影響力をもった点が強調される。第二の分水嶺に関しては、その後に展開しはじめた「海外帝国」の性格に注意が促され、スペイン帝国に比べて軽視されがちなポルトガル帝国の重要性が再評価される。

 第2章「東洋と西洋の帝国の伝統」は、「帝国移動」概念を用いてローマ帝国の伝統を軸とするヨーロッパにおける帝国の系譜を論じた後、中華帝国の歴史をかなり詳細に論じる。その上で、西洋におけるローマ帝国とその後継者と同じような意味で中国は帝国だったのかと問い、それに肯定的な答えを与えている。さらにイスラームの帝国についても述べているが、中国に比べてその扱い方は軽い。

 「支配者と被支配者」と題される第3章では、帝国では国民国家においてよりも支配者と被支配者の関係が対立的であるとする通念への疑問が出され、両者間に対立も当然見られたものの、協力や共謀、実際的な妥協といった多様な関係が存在したことが説明される。

 評者の見る所では、本書の中心部分と言えるのは、次の第4章「帝国、ネーション、国民国家」である。本書の帯にある「多くの国民国家は帝国のミニチュアである」という印象的な一文も、この章から採られている(127)。この章で著者は、普遍主義的でマルチナショナルな帝国と均一性・均質性の達成をめざす国民国家との間の原理的な差異を前提としつつも、実際の歴史的様相においては帝国と国民国家の間に類似性が存在し、「帝国から国民国家へ」という変化の過程もはっきりしたものではないと主張する。その際著者が着目するのは、国民国家の内部の多様性(「国内植民地化」という考え方の援用など)であり、帝国の時代と呼ばれる時代が終わった後にも、アメリカやソ連が帝国的権力として存続していることである。現在の中国についても、それが中華帝国の姿を回復していることが指摘されている。

 それに次ぐ第5章「衰退と滅亡」では、帝国の衰退・崩壊をもたらした要因が分析される。ここでもまず中国の例が詳しく取りあげられ、清帝国を崩壊させた中心的要因が、ナショナリズムではなく清帝国を巻き込んだ戦争であったと主張される。その考え方は、第一次世界大戦を通じての各陸上帝国の解体、第二次世界大戦後の各海外帝国の解体(脱植民地化)にも適用され、ナショナリズムの意味が相対化されて「帝国のおもな解体要因は戦争だった」(177)という断言がなされるのである。

 本書の最後の部分である第6章「帝国後の帝国」では、それぞれの帝国が解体した後も、その影響がさまざまな形で世界に残ることが説明された後(ここで最も詳しく扱われるのはハプスブルク帝国である)、脱植民地化後の「逆植民地化」と著者が呼ぶ旧帝国支配地域への移民の問題が論じられる。さらに現在の世界において、ロシアやアメリカ、中国に加えて、EUについても帝国性の存続が指摘され、「混乱の度を深めていく世界において、帝国が何らかのかたちで、秩序にとって必要だと考える人も出てくるだろう」(241)という観測が述べられるのである。

 このような内容の本書は、かなりの包括性をもって世界史のなかの帝国を論じた研究として、重要な意味をもっている。なかでも、本書の中心的主張であると思われる帝国と国民国家の間の類似性や継続性という点は、それを著者ほど強調しすぎることには問題があるとしても、重要な議論であり、さまざまな研究の展望を開くものである。

 ただし、本書で提示されている帝国像、とりわけ第二の分水嶺以降の帝国像について、評者は大きな疑問を抱いており、その点を以下で述べてみたい。この疑問は、本書に関するものであるばかりでなく、本書が一つの代表例となっている近年の帝国史研究の全体的趨勢にも関わるものである。

 第一の疑問点は、帝国支配のもとで見られ、帝国支配の根幹をなした暴力性というものを、著者が過小評価している点である。帝国における暴力的契機についての著者の考えは、「帝国には暴力が入り込む余地があったが、帝国は暴力を引き起こすのと同じくらい、それを抑制する機能も有していた」(226-227)という一文に集約される。もちろん帝国支配のあらゆる局面が暴力でいろどられていたわけではないし、帝国支配の成立・存続に際しては同意・協力といった契機も必要であり、そうした行為による秩序の維持は重要であった。しかし、著者の帝国論においては、また近年の帝国論の多くのなかでは、この後者の側面が過度に前面に押し出されて、暴力的契機が後景に退けられるきらいがある。著者が重視するのが帝国における秩序であることから、内容紹介の最後で触れた一文につながる帝国支配評価の姿勢が生まれてくるのである。

 本書の第3章で支配者と被支配者の間の対立面が軽視されているのも、著者のこの基本姿勢のあらわれであり、植民地の成立や維持過程の節目節目で生じた対立やそれに伴う暴力が軽視される形で、帝国が論じられている。

 先に「帝国主義の時代」の画期性への着目が必要だったのではないかと記したが、暴力軽視の問題はその点にも関わる。この時代は帝国主義列強によって世界が分割され尽くした時代であったが、そこではヨーロッパで「平和」が続いていったのと対照的に、植民地世界では数多くの戦争(植民地戦争)が生じていた。本稿執筆時に続いている「ガザ戦争」でも見られる犠牲者数の極端な非対称性などを特色とするこうした戦争が頻発するなかで、世界史のなかの帝国は新たな段階に入っていったと評者は考えている。こうした植民地戦争は帝国を論じる上で重要な要素であるが、著者の議論のなかでは軽視されており、それと連動する形で「帝国主義の時代」における世界の変容も看過されていると思われる。

 第二の疑問点は、第5章における、帝国の衰退・滅亡要因の検討に際しての、ナショナリズムの位置づけ方である。前述したごとく、著者はナショナリズムが果たした役割を相対化しつつ、戦争(両世界大戦)による帝国支配国側の変化という要因を重視している。もとより、脱植民地化が実際に展開していた時期の議論に見られたように被支配側のナショナリズム、民族運動の力をもっぱら強調することは、バランスを失しており、帝国支配国側の要因を十分に考慮することは必要であるが、著者はそちらの要因を過大評価しているのである。しかも、本書ではそうした戦争要因の内実に踏み込んだ分析はなされておらず、「すべてのヨーロッパの大国が、戦争によって経済的、軍事的、心理的に疲弊した」(179)といった一般論が述べられるのみである。その一方で、戦争といっても、植民地支配の暴力性に対する形で被支配側が引き起こした独立戦争の意味(これは当然ナショナリズム評価に関わる)は軽視されている。

 このような問題をはらむ本書は、著者が何度か好んで引用しているニーアル・ファーガソン(イギリス帝国の歴史を称揚し、アメリカもそれをモデルとすべきであるとの主張を展開したことで知られる)に似て、支配する側からの視線で帝国の歴史をポジティブに描き、そうした帝国性をもつ国際秩序をこれからの世界でも追求していこうとする試みに堕しかねない危うさをもっている。豊富な内容をもつだけに、その点によく注意しつつ接するべき書であろう。

(「世界史の眼」No.54)

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大連からの世界史(下)―大連の発展と中国人移住労働者―
小谷汪之

はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、前号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、本号)

3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」

 中島敦に「Ⅾ市七月叙景(一)」という作品がある。第一高等学校『校友会雑誌』第325号(1930年1月)に掲載されたもので、「Ⅾ市」(大連)に関係する三題話といった趣の作品である。その三番目が大連港や大連の油房で働く「クーリー」(苦力)の話で、次のように始まる。

 〔大連の〕「港は七月の午後の日ざしにあえいで居た」。「トロッコのレールを避けて、埠頭倉庫の日陰に荷揚苦力が二三十人も、ゴロゴロと死んだ様になって眠って居た」。「その中に、たった一人起きて居る男が居た。彼は右手で瓜のかけらをもって齧りながら、〔中略〕さっきからボンヤリと陸の方を眺めていた」。「しばらくすると、埠頭事務所の入口の扉硝子が内側から開いて、恐ろしく背の高い痩せた苦力が一人、元気なく出てきた」。「瓜を喰って居た男は鈍い黄色い目を上げて、その男を仰いだ」。「?」、「駄目だったよ。とても」、「何処もか?」、「ウン」。「二人は互にがっかりした顔を見合せた」。「二人は、ぐったりして暫くの間動かなかった」。「背の高い方が突然立ち上がった」。「おい何処かに行こう」、「こんな所に居ても、仕方がないじゃないか」。「歩きながら一人は、もう一度心配そうにたずねた」。「お前、どうする気だ?ほんとに」、「分らんよ、どうにか、なるだろう」、「営口へでも行くか。歩いて。あそこなら少しはいいかも知れんぞ」。「一人は、それには答えずに、不機嫌そうな顔をして黙々と歩み続けた」。(『中島敦全集1』筑摩文庫、364-367頁)

 「クーリー」(苦力)たちは仕事を求めて大連市中をさ迷い歩くが、どこにも仕事は見つからない。その状況について中島は次のように書いている。

 此の地方の主要工業製品である豆粕や豆油が、近来、外国のそれに圧倒されてきたこと。殊にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと。それに第一、肥料としての豆粕が、近頃はすでに硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること。こんなことを彼等苦力が知ろう筈はない。七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった時、彼等は全く途方に暮れて了った。彼等は早速沙河口の〔満鉄の〕鉄道工場や、硝子工場に行って見た。だが、空いて居る筈はなかった。彼等は、それで波止場に来た。だが、今は一年中で一番ひまな時であった。六月から十月迄、――之が此の港でいう所の閑散期であった。(『中島敦全集 1』筑摩文庫、367頁)

 中島のこの記述については、『満洲日報』の1929年の各号の記事に依拠したものであるとする指摘が出されている(安福智行「『D市七月叙景(一)』論―『満洲日報』を視座として」佛教大学国語国文学会『京都語文』、2001年)。『満洲日報』は1907年に満鉄初代総裁、後藤新平の肝いりで大連において発刊された『満洲日日新聞』の後身で、1927年に『遼東新報』を併合した際に『満洲日報』と改称された。『満洲日日新聞』(『満洲日報』)は満鉄の準機関紙的な性格の強い新聞であるが、当時の満洲においては有力な新聞であった。1935年、『大連新聞』を併合した際、『満洲日日新聞』という旧称に戻された。したがって、中島が資料として利用したとされる1929年の各号はたしかに『満洲日報』の名のもとに発行されていた。

 上引の中島の記述のうち、『満洲日報』の記事に依拠しているのではないかとされているのは主に次の二点である。(1)「特にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと」、(2)「それに第一、肥料としての豆粕が、近頃はすでに硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること」。(1)はドイツが大豆のまま大連港から本国に積み出し、ベンジン抽出法などの新技術で効率よく豆油や豆粕を製造するようになったということ、(2)は豆粕と同じ窒素肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の使用が広がり始め、豆粕と競合状態になってきたということである。これら二点はたしかに『滿洲日報』1929年の各号に同様の記事が見られる。『満洲日報』は日本(東京)でも発売されていたから、中島が『滿洲日報』を購読し、これらの記事を見ていたということは考えられる。その場合、中島は植民地朝鮮の京城中学校を卒業後、第一高等学校に入学した後も満洲の政治・経済状況に深い関心を持ち、『満洲日報』といった一般の人が読まないような新聞を購読していたということになる。中島は、1925年、京城中学校4年の時の修学旅行で大連、奉天など満洲各地を旅行している。中島の満洲への関心はそこから芽生えたのであろう。

 しかし、1920年代末から1930年代、満洲の豆油・豆粕製造業が不振に陥っていることを指摘し、その原因として上記二点を挙げる文献は他にもたくさんあった。したがって、中島の記述の素材として、『満洲日報』以外の文献を考えることも可能であろう。

 中島の上引の文中、事実と大きく異なる箇所が1か所ある。それは、「七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった」という個所である。これでは、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったように読めるが、これはかなりの誇張である。当時、大連の油房が不況に苦しんでいたことは事実だが、1931年になっても、大連では52の油房が営業しており、その半数以上は大豆の破砕に水圧を用いる改良型の油房であった。また、豊年製油大連工場も稼働していた(満鉄商工課編「満洲大豆粕と其飼料化に就いて」)。

 中島は大連の「クーリー」たちの窮状を強調したくて、このような誇張を行ったのであろう。

4 清岡卓行『アカシアの大連』

 清岡卓行(1922-2006年)は大連で生まれ、旧制大連第一中学校卒業まで大連で過ごした。その後、東京に出て、第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進学したが、敗戦間近の1945年4月初め、大連に戻った。その時のことを清岡は次のように書いている。

〔大連は〕東京のある大学の一年生であった彼〔清岡〕が、抑えがたい郷愁にかられ、病気でもないのに休学して舞い戻った、実家のあった町、そしてやがて祖国の敗戦を体験し、そのあと三年もずるずると留まることになり、思いがけなくも結婚した町である。(清岡卓行『アカシアの大連』講談社、1970年、87-88頁)

 清岡卓行『アカシアの大連』は数年間の東京生活を間に挟みながら、20数年に及んだ大連での生活やそこでの思索を50歳近くなった清岡が回顧した作品である。ただ、その中に1か所だけ、この作品の全体的な基調音とは際立って異なる部分がある。それは清岡が中国人労働者の集住していた寺児溝という地域を訪ねた時の体験と、大連港において大きな円盤状の豆粕を船に積み込む「苦力」たちの姿を描いた部分である。清岡は次のように書いている。

彼は小学校の六年生頃、大連の東部にあった中国人の居住地、寺児溝の一部における惨憺たる有様を眺め、ほとんど恐怖に近いものを覚えたことがあった。それは、たまたま、その地区にある大きな材木置場の中の日本人の番人の家に遊びに行ったときのことであった。その家の男の子が、彼と同級生で、その誕生日の祝いに招かれたのであった。
 戸外で遊び廻っていたとき、彼は、中国人ふうの普通の家のほかに、崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家とか、風に吹き飛ばされそうな屋根に重たい石をいくつも載っけて、今にも潰れそうになっている家とか、そのほか貧困そのものの象徴であるような住居を、いろいろと沢山見た。山東から、芝罘チーフで、ジャンに乗って、直隷海峡〔渤海海峡〕を渡ってやってきている中国人の労働者、いわゆる苦力の多くはこのへんに住んでいるのだろうと彼は想像した。そして、共同便所にはいったとき、その壁の隅に「打倒日本」という文字がいくつか落書されているのを見て、もしかしたら自分はここで誘拐されるのではないかと不安を感じた。(『アカシアの大連』139-140頁)
 町の中を走っている電車にも、苦力専用のものがあった。それは寺児溝に通じていた。ほんの少し料金が安いその電車に、彼は小づかい銭を倹約するために乗ったことがあった。そのとき、苦力たちは一様に黙っていたが、車内に漂っている、汗臭く、エネルギッシュな、そして少し大蒜にんにくの匂いが混じっているような空気に、彼はいくらか圧倒されるような気持になったものであった。
 大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた。その光景は、いつまでも繰返される苦役のような感じであった。それが、日本人とは差別された実に安い報酬によるものであるということを、そのときの彼は知らなかった。(『アカシアの大連』140-141頁)

 この清岡の記述は彼が小学校6年生頃のこととして書かれているので、おそらく1930年代半ばの状況を示しているのであろう。

 前述のように、日露戦争後、遼東半島が日本の租借地となると、多くの中国人が仕事を求めて大連に流入した。彼らは大連港や油房の人夫、人力車夫、馬車夫などとして働いていた。1909~10年のペスト流行を機に、彼らをそれぞれの職種ごとに1か所に集住させることを目的として、民間の手で「クーリー収容所」、「人力車夫収容所」などが設営された。「クーリー収容所」は大連埠頭の荷役を一手に引き受けていた満鉄の子会社、福昌公司が経営する収容人員一万人の大収容所であった(「福昌公司 華工収容所」)。この収容所は壁に囲まれまさに隔離の状態にあった(水内俊雄「植民地都市大連の都市形成――1899~1945年」『人文地理』37-5、1985年、62、64頁)。この「クーリー収容所」には、大連港の荷役人夫だけでは無く、油房の中国人労働者も多く居住していたのであろう。「クーリー収容所」に隣接する「大連東部」は油房工場地区だったからである。

 しかし、その後も中国人労働者の流入は続き、大連の都市計画地域の外に、自然発生的に中国人労働者の集落ができていった。清岡がその悲惨さに「ほとんど恐怖に近いものを覚えた」と書いている「寺児溝」もその一つであった。寺児溝は「大連東部」地区よりさらに東南の海岸に近い崖の多い所である。それで、清岡が書いているように、「崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家」が多かったのであろう。寺児溝の人口は、1935年には、約24000人になっていた(水内前掲論文、64頁)。

 清岡が一度乗ったことがあると書いている「苦力専用」の電車というのは中国人労働者の就業場所と居住地域を往復する電車で、当時、「労工車」と呼ばれていた(水内前掲論文、65頁)。清岡によれば、そのうちの一つの路線が寺児溝まで通っていたということである。「苦力専用」といっても、少年清岡が乗れたのだから、日本人が全く乗れなかったということではないのであろう。

 「大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた」と清岡は書いている。これは人力あるいは水圧で大豆を破砕して豆油を抽出する在来型の油房で産出される豆粕で、大きな円盤状に固められていた。それで、「円糟」(「円粕」)と呼ばれていた。それに対して、ベンジン抽出法により産出される豆粕はバラバラで固められていなかったので「撒糟」(「撒粕」)と呼ばれていた(前掲『満洲大豆』、32頁)。大連埠頭では、1930年代になっても、「円糟」(「円粕」)を何枚も背負って歩く中国人労働者の姿がよく見られたのである。

おわりに

 大連における豆油・豆粕製造業は20世紀初めに始まり、第一次世界大戦期に急速に発展した。しかし、戦後の不況期に衰勢に向かい、大恐慌期には不振状態に陥った。だからといって、衰退しきってしまったわけではなく、1930~40年代にも豆油・豆粕の生産は続けられていた。

 本章で取りあげた3人のうち、夏目漱石は大連のきわめて初期の油房を観察していて、その記述は貴重ということができる。それに対して、中島敦が描いている状況は大恐慌期直前の大連である。まだ大恐慌の直接的な影響が及んでいるようではないが、大連をめぐるある変動を感じ取ることができる。ただし、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったかのような記述は文学的潤色としても問題であろう。少年清岡は父が満鉄の技師だったから、南山麓という日本人用の高級住宅地に住んでいたので、大連の「恐怖をも誘う汚い部分」(『アカシアの大連』140頁)に触れることは少なかったが、寺児溝での体験や大連埠頭で働く中国人労働者の姿を通して、「植民地都市」大連における民族的矛盾にうすうす感づいていた。しかし、それを意識化することができたのは大学を休学して、大連に戻ってからであった。

(「世界史の眼」No.53)

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世界史の中の北前船(その2)―松前とアイヌと昆布―
南塚信吾

1. 蝦夷地における《商場知行制》 

 北前船は、蝦夷では松前において、南から運んできた品々を売りさばいて、代わりに昆布などを買い付け、それを南へ運んだ。では、蝦夷ではどのように昆布などが入手できたのだろうか。誰が、どこで、どのような方法で昆布が取れ、売られたのだろうか。それはアイヌの人々を抜きには考えられない。(本稿では、北海道全体を「蝦夷」とし、その中で松前氏を中心とする「和人地」と区別されたアイヌの地を「蝦夷地」と記すことにする。)

(1) 松前藩 

13世紀以降、アイヌの人々は、北はサハリンからアムール川流域の地に始まり、千島、蝦夷を経て、南は津軽・下北半島までを生産と生活の場とし、「交易の民」として活発な活動を行っていた。これに刺激されて、和人も蝦夷に流入し、道南と津軽の地は、アイヌ集団と和人の混在する境界の地として意識されていた。1457年(長禄元年)、渡島半島のアイヌの首領コシャマインの蜂起がおこり、圧倒的なアイヌの攻勢によって、和人はわずかに松前と天の川に集住することになった。この和人の中では、蠣崎氏が勢力を伸ばし、アイヌとの交易を独占する体制を作り、蝦夷地とは区別される「和人地」の原型を作っていった(荒野他編 2013 277―282頁;淡海文化を育てる会 2001 96-98頁)。

(荒野 2003 147頁)

 蠣崎氏は1593年(文禄2年)に豊臣政権より松前での船役徴収権(松前に入る船への徴税権)を認められ、蝦夷松前につき事実上大名領主権を与えられたが、1604年(慶長9年)には松前氏(1599年に蠣崎氏を改め松前氏)は徳川家康によって蝦夷松前での独占的な交易權を認められ、ここに松前藩が確定した。これ以後、松前氏以外のものは松前氏の許可なくアイヌとの交易ができなくなった。アイヌの人々は、交易品を松前城下に持ち込み一定の儀礼を踏まえて藩主に贈り物をし、藩主がアイヌに必要なものを贈るという関係が続いた。「朝貢」的な城下交易であった。アイヌと松前氏の間に何等の支配関係はなく、アイヌは旧来の風俗習慣を守り、コタン(部落)の自活を行ない、もちろん租税などは納めず、松前藩主と直接的なつながりはなかった。

 しかし、1630年代に「和人地」が確定すると城下交易は廃止され、交易は、和人地の外、つまり蝦夷地に設定された「商場(あきないば)」に限定された。松前氏は蝦夷地のアイヌとの通商や漁業をする縄張を「商場」として独占権利化し、アイヌとの交易の権利を「知行」として上級の家臣(給人)に分け与えた。この各地の「商場」において、松前氏の給人は、現地産物と内地産物との交易を行った。この利益が給人の封建給付となった。これを「商場知行制」と言った(白山 1971 9-10、17、31頁;菊地 1994 70-71頁;80-81;荒野編 2003 146頁;荒野他編 2013 283-285頁)。

 「商場」が設定されたのはアイヌが生活し生産をする場である河川流域の漁猟場の中であった。そこに知行主が毎年交易船を派遣して、アイヌと物々交換をした。これはアイヌの漁猟場を破壊することを意味し、アイヌは、特定の商場で特定の知行主としか交易ができなくなり、受動的な立場に置かれた(白山 1971 29-31頁;白山は商場知行制とのちの場所請負制とをはっきりとは区別していない)。

 これは、松前氏及びアイヌが徳川幕府の支配体制に組み込まれたことも意味した。こういう体制の下で、アイヌは次第に従来の生活・交易様式を続けられなくなった。とくにアイヌの交易相手が特定の商場知行主に限定され、交易の自由が奪われた。それへの反発として日高地方で起きたのが、1669年(寛文9年)のシャクシャインの蜂起であった。この蜂起が鎮圧されると、アイヌ社会は崩壊に向かったのである(荒野編 2003 148-149頁;荒野他編 2013 283-285頁)。

(2) 近江商人 

 「商場」において、松前氏の給人は、現地産物と内地産物との交易を行ったが、「商場知行制」のもとでは、知行主の武士(給人)は不得手な漁業経営をし、複雑化したアイヌ社会を相手に苦手な商業をせざるを得なくなった。そこで漁業経営と交易の権利を内地から来た商人に委ね、商人は一定の金額(運上金)のもとにそれを請け負った。実際に交易を主として請け負ったのが、近江の商人たちであった。

 そもそも松前に近江商人が着いたのは1588年(天正16年)と言われる。その後寛永年間(1624-44年)に集中的に近江商人が松前や江差に入った。建部七郎右衛門、岡田弥三右衛門(八十次)や西川伝右衛門などの近江商人は、はじめは松前城下に住んで、呉服、太物、荒物を商い、日常生活に必要なものを上方から仕入れて販売し、松前の物資を上方に売るという商いをした。やがて、かれらは「商場」を請け負ったのである。たとえば岡田家は小樽、西川家は忍路(オショロ)に「商場」を得た。かれらは自分の裁量で漁場を運営し、アイヌを使役して経営を行い、そこで獲れた干鱈(ひだら)、干鰯(ほしか=ほしいわし)、干鮑(ほしひ=ほしあわび)白子、昆布、わかめなどを、近江を経て京・大坂に送り、日曜品や米や衣料を持ち込んだ。松前氏にとっても商人は大事な存在であった。近江商人達は,「両浜組」という仲間組織をつくって,松前藩から,通行税の免除などの特権を与えられた(白山 1971 66-67頁に西川家の忍路の例あり;淡海文化を育てる会 2001 108-111;115頁)。こうした近江商人は、商場知行制の中で蝦夷地産物の商品化に道を開いた。

 近江商人らが「商場」での取引で内地へ送る荷は「荷所荷」と呼ばれ、それを運ぶ船を「荷所船」と呼んだ。「荷所荷」は松前から敦賀ないし小浜の港を経て近江へ運ばれた。そこから、京・大坂へさらに運ばれたわけである。「荷所船」には敦賀から石川の橋立にいたる地域の船主の船が雇われ、船乗りには北陸の船乗りが雇われた(牧野 1979 41頁;菊地 1994 117-118頁;淡海文化を育てる会 2001 121-127頁)。この「荷所船」がやがて北前船に取って代わられることになる。

(3) 昆布とアイヌ  

 松前の近江商人らがアイヌから入手したのは、干鱈、干鰯、干鮑、昆布、わかめなどであったが、やがてニシンや昆布や木材となり、とくに〆粕として肥料に使われたニシンと、中国向け輸出用の昆布が重要な産品となっていった。

 昆布の生育地は、南部・津軽地方の沿岸以北、主として北海道であった。また、昆布の採取は、おもに先住民族であるアイヌによって行われていた。「昆布」の語源は、やはりアイヌ語にあると言われている(函館市地域史料アーカイヴ)。

 日高の方では、アイヌは、昆布はカミサマのお髭だから取ってはいけないと言われていたという(「名勝襟裳岬」《風の館》)。昆布を商品として大量に取るようになったのは、和人が入ってからではないだろうか。

 1643年(寛永20)の『新羅之記録』には、「1640年(寛永17)6月13日、駒ヶ岳が突然噴火して大津波がおこり、百余隻の昆布取舟に乗っていた人々はことごとく溺死した」とある。ただし、『松前年々記』の寛永17年の記には、夏6月に「津波、商船の者ども並びに蝦夷人ども人数七百人死」と記され、松前家の記録である『福山舊記録』にも「津波、商船・夷舶夷船、船人数七百余人溺死」と記されている。文中の商船とは、昆布採取の出稼ぎ、あるいは商(あきな)いに来ている和人の船で、夷舶夷船は、アイヌの船(チップ)と解される。この両書とも和人、アイヌ合わせて七百余人溺死とある(『松前年々記』)。

 上の史料からは、昆布取りには和人、アイヌを含め大勢の漁民が船で乗り出して作業をしていたことが分かる。そこで取れた昆布は乾かして交易所へ持ち込まれ、商人を介して、松前に送られたわけである。

 昆布は長崎における対中貿易と関連していた。1698(元禄11)年、幕府は対中貿易における支払い手段としての銅の生産が減ったので、海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの重要貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てた。各地から俵物を集荷する体制を整え、長崎には奉行所の監督下で貿易事務を扱う長崎会所が置かれた。このとき、昆布も諸色として認められた。俵物は、煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の三品で、諸色海産物は昆布、鯣(するめ)、所天草、鶏冠草、寒天などであった。このうち実際に意味を持っていたのは、煎海鼠、乾鮑、昆布の三品であった。昆布は蝦夷の特産であったから、これ以後、蝦夷にとって昆布が重要な産品となった(菊地 1994 185-186頁;神長 2022 55頁)。

 荒野の言う松前口はこのように始まり展開していった(荒野 2003 146-149頁)。そして、このような昆布を提供するための蝦夷地と和人地の関係は、18世紀の前半、享保年間(1716-35年)から元文期(1736-1740年)以降、根本的に変化するのである。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の研究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
函館市地域史料アーカイヴ
https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100050/ht004040
『松前年々記』
https://jmapps.ne.jp/hmcollection1/pict_viewer.html?data_id=214242&shiryo_data_id=160688&site_id=SIM003BLA&lang=ja&theme_id=SIM003&data_idx=0

(「世界史の眼」No.53)

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書評 ラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之、山本健介、金城美幸訳、法政大学出版局、2023年刊
早尾貴紀

 本書は2020年に刊行されたRashid Khalidi, Hundred Years’ War on Palestine: A History of Settler Colonialism and Resistance, 1917-2017の全訳である。著者のラシード・ハーリディーはアメリカ合衆国生まれのパレスチナ人で、近現代アラブ・パレスチナ史の研究者である。そして本書の内容をまずは目次で確認すると以下のとおりである。

序章
第1章 最初の宣戦布告 1917~1939年
第2章 第二の宣戦布告 1947~1948年
第3章 第三の宣戦布告 1967年
第4章 第四の宣戦布告 1982年
第5章 第五の宣戦布告 1987~1995年
第6章 第六の宣戦布告 2000~2014年
終章 パレスチナ戦争の1世紀

 こうして見るとシンプルに通史的であること、各章がひじょうに明確に、1917年のバルフォア宣言(ユダヤ人国家建設への英国の支持表明)、1947年の国連パレスチナ分割決議(および48年のイスラエル建国宣言)、1967年の第三次中東戦争(西岸・ガザ地区の全面占領開始)、1982年のレバノン侵攻(難民キャンプの虐殺とPLOの追放)、1987年の第一次インティファーダ(被占領地からの抵抗運動)、2000年の第二次インティファーダ(オスロ体制の欺瞞への抗議)をそれぞれ起点とした、一般的な時代区分となっていること、が読み取れる。

 しかしそう書くと、よくある概説書とどう違うのかと思われる向きもあるだろう。しかし、本書は以下の3点において、比類のない書物となっている。

 1点目としては、著者がエルサレムの名門一家ハーリディー家(学者や法律家を輩出してきた)の子孫であることから、「曽祖父の叔父」の代からシオニスト(ユダヤ人国家推進者)らと直接の交渉があったり、以降それに抵抗するパレスチナ・ナショナリスト内で「伯父」など親族が重要な役割を果たしたりするなど、深くこの地の政治史に直接関わった家系をもち、それに関する私的な歴史資料への特権的なアクセスを得ていることが挙げられる。その史料は、ハーリディー家の私設図書館に収蔵されており、そこには当事者の日記や書簡などの非公式文書も含まれる。さらには生前に親族から直接聞いていた証言も本書を支える貴重な史料を構成しており、本書はオーラルヒストリーとしての側面も有している。

 序章は、曽祖父の叔父ユースフ・ディヤー・アル=ハーリディーが「シオニズムの父」テオドール・ヘルツルとやり取りをした書簡の分析から始まっており、すでにヨーロッパからの集団入植や土地の大規模購入が、先住民社会への壊滅的打撃を与える可能性について、緊迫した交渉がなされている。冒頭からその展開に引き込まれて読んだ。ヘルツルの『ユダヤ国家』は1896年の刊行、ユースフ・ディヤーの書簡、ヘルツルの返信は1899年。このやり取りの分析のなかに、本書の基底をなす「入植者植民地主義(セトラー・コロニアリズム)」の本質がすでに現れている。その点で、本書の起点は副題にある1917年よりも実際さらに20年は遡る。ともあれ、本書が他の誰にも書き得ない特別な性格を持っているのは、この特権的な史料アクセスによる。(とりわけ第1・2章)

 2点目としては、アメリカ合衆国へ留学し国連で働いていた父のもとで生まれた著者自身が米国で学び学位を取り、そしてレバノン侵攻を挟む時期にはベイルート・アメリカン大学で教員をしながらPLOの活動にもコミットし、その後また米国に戻って米国の大学で教授職を得ながら、PLOと国連や米国政府との交渉にも関わったといった諸経験が、本書の論述の随所に描かれている。その意味で本書は「自伝」という側面も持つ。ハーリディー家という名門出という事情に加えて、パレスチナ人として最初期の米国留学者である父を持つという僥倖も手伝い、PLOの古参の活動家たちが無知ゆえに軽視した米国の圧倒的なシオニズムに対する影響力を間近で冷徹に見極めるという、その世代では稀有な分析力を著者にもたらした。しかも1976年から83年という決定的な時期を家族とともに活動家としてベイルートで暮らしたことは、単なる米国の知識人ではなく、イスラエルによる攻撃の凄まじさ、PLOの過ちや内紛、周辺アラブ諸国政府や党派の脆弱さを、身を以て知る当事者という要素を著者にもたらした。

 その後著者は、米国やパレスチナで交渉の場に立ったりアドバイザーになったりしながら、PLOないし自治政府が苦境に追い込まれていく過程にも立ち会っており、本書にはそうした時代の証言という意味合いもある。(とりわけ第3・4・5章)

 3点目として、分析や論述の内容に関わって。「宣戦布告」という各章のタイトルから年代区分の最初の出来事を焦点化しがちだが、本書においては各章で最も深く注目するのはそこではない。1章では、1922年からの国際連盟のもとでのイギリス委任統治のもとで実質的に「委任統治」の理念を全く逸脱し、先住民のパレスチナ人を無視してシオニスト入植者のユダヤ機関のみに代表性と自治を認めたことが、すでにパレスチナ人の「追放」を前提とした入植者植民地主義の制度化であると指摘している。2章で最も紙幅を割いているのは、アラブ新興独立国の脆弱性(旧宗主国英国への依存と新覇権国米国への無知)と相互の対立とパレスチナの利用である。分割決議とナクバだけで語れる問題ではない。3章で繰り返し焦点化されるのは安保理決議242号の罠である。一見「1967年占領地からの撤退」を求めた文面でありながら、その真意の一つは分割決議を大幅に逸脱したイスラエル領「1948年占領地」(1949年休戦ライン)の自然化・固定化であり、もう一つは撤退のためにイスラエルとアラブ諸国との和平条約を促すことであった。すなわちイスラエルの存在をアラブ諸国に認めさせつつ、パレスチナ問題を消去する狙いがあり、実際これ以降、この決議242が中東和平を規定していく。

 4章では、いかにPLOがレバノン国民の反感を買い戦略的に失敗し撤退に至ったのかを、5章では、いかにインティファーダを担った被占領地内のパレスチナ民衆と在外指導部のPLOとが乖離していたか、そしてPLO指導部の判断の誤りと甘さでオスロ体制という壊滅的な罠(パレスチナ自治など実質皆無なままイスラエルは存在を承認され占領・入植も自在にできる仕組み)に陥ったのかを、6章では、第二次インティファーダでそのオスロへの抵抗の仕方において、PLOもハマースも勝ち目がないどころか逆効果しかない貧弱な武力に頼って自滅していったのかを論じている。総じて、自らも深く関与したPLOに対する批判は辛辣を極める。

 大きく3点、形式と内容から本書の特質を概観した。パレスチナ/イスラエル(シオニズム)の100年史を深く知るうえで、類書を見ない特異な書物であると言える。

 著者の論述に対して違和感を覚えたところを2箇所、触れておきたい。一つは6章の西岸・ガザの分断体制に至った経緯のところで、シオニズム・イスラエルの周到さと米国の影響力を訴える著者にしては、この分断の原因を、内部批判の誠実さとはいえ、PLOとハマースにのみ帰した論述は、分析として甘いと思う。著者は触れてはいないが、西岸地区ではイスラエルがハマースの議員と活動家をあらかた逮捕・一掃し、収監するかガザ「流刑地」送りにしたことからも、西岸地区=PLO支配の継続、ガザ地区=ハマースの封じ込め、という政治体制状の分断構図はイスラエルと米国が意図的に生み出したことである。「その手に乗らない」という抵抗ができなかった責任はパレスチナ側にもあるだろうが、分断体制の創出こそが、それ以降現在まで繰り返し続くガザ地区の封鎖攻撃を可能にしている以上、軽視はできない点である。

 もう一つの違和感は、終章のナショナリズムについての論述である。シオニズムを「血と土」を重視する中央ヨーロッパに由来するものとし、フランス革命やアメリカ革命を支えた自由主義の思想には反する、それゆえ現在のシオニズムも西洋民主主義の価値に反する、としているところは、フランス革命後のユダヤ人解放と市民社会化の失敗・挫折、排外主義的国民主義と反ユダヤ主義からシオニズムが生まれ出ていることを忘れてしまっている。現在のガザ攻撃においてネタニヤフ首相とヘルツォーグ大統領が揃って繰り返し「これは西洋文明を守る戦争だ」と欧米諸国に支援を求めていることもそこに繋がっている。

 またこのナショナリズム観と関わり同箇所において、シオニズムというユダヤ・ナショナリズムが生まれたことと、パレスチナ・ナショナリズムが生まれたことも、ともに「同様に偶然の積み重ね」であり、「入植者か先住者かといった違いは意味を持たない」という相対化をしているのは、著者が反論を予期しながら書いているとはいえ、やはり過度な短絡と感じる。イスラエルとパレスチナの相互承認と平等な共存を求めるためのレトリックという要素も認めるが、しかし著者自身のとりわけ序章・1章・2章の「入植者植民地主義」をめぐる周到な論述・分析を自ら無化させかねない性急さであると言わざるを得ない。

 最後に翻訳について。訳者たちの正確でかつ読みやすい翻訳を迅速に完成させ、大規模なガザ攻撃という事態のさなかに世に出されたことに感謝したい。一点だけ、本書の日本語訳タイトルは『パレスチナ戦争――入植者植民地主義と抵抗の百年史』であるが、直訳は『パレスチナ百年戦争――入植者植民地主義と抵抗の歴史』であり、「百年」の場所が主題から副題に移されている。訳者らで熟考した末に、よりシンプルな主題にしようという判断であろうが、主題だけを見た場合は、『パレスチナ戦争』(つまり副題まで見ないと「百年」が出てこない)よりも、やはり原書どおりに『パレスチナ百年戦争』のほうがよかったと私は思う。

(「世界史の眼」No.53)

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