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新たな「ガザ占領」―トランプ米大統領のガザ戦争停戦協定がもたらした新たな「ガザ占領」の危機
藤田 進

1 トランプ米大統提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」

2023年10月、ハマースがイスラエル軍のガザ撤退とイスラエル獄中のパレスチナ人解放を求めて開戦し、「ハマース殲滅」を唱えるイスラエルがガザ全土占領とパレスチナ人追放を目ざして長きにわたったジェノサイド戦争は、2025年10月トランプ米大統提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」にイスラエル・ハマース双方が合意したことでひとまず停戦に至った。10月10日ガザ戦争停戦協定第一段階がスタートし、イスラエル占領軍の撤退、人質の釈放、ガザ住民への緊急支援物資の搬入等々が取り組まれるとともに、ガザ南部へ強制移動させられていた多くのパレスチナ人家族が北部の自宅を目ざして戻りはじめた。たどり着いたガザ北部はイスラエル軍に徹底的に破壊されつくしており(図1)、すべてを失った人々は町を埋め尽くしたゴミの山のそばに掘立て小屋を建てて住みはじめた(図2)。

図1
2025年11月初旬のガザ市東部シュジャーイーヤ地区の破壊された建物群(Credit: Nir Elias/Reuters)
図2
2025年12月10日、ガザ市のごみの山の隣に立てた掘立て小屋の住人. (Video by Abdel Qader Sabbah.)

2 停戦後もガザに居座り、ガザ分割占領をはかるイスラエル軍

 ところで、ガザ戦争停戦協定第一段階でイスラエル占領軍が撤退したのは、ガザの一部地域からだけだった。(図3)にみるように、ガザは停戦協定に基づいて「イエローライン」と呼ばれる境界線で二つに区切られ、イエローラインの東側のガザ全土の52%は、段階的に撤退することになっているイスラエル占領軍が現時点においてとどまる地域とされた。

図3
イエローラインによるガザ分割

 イエローラインを示す標識はないので、住民には実際にはどこが境界線なのか分からず、またイエローライン地域内にはパレスチナ地区や住民が存在するので、人々がこれまで通りに進んでいくと、境界線を越えてイスラエル支配地域に立ち入ったとしてイスラエル軍によって射殺されるという事態が持ち上がり、ガザ地区の半分が排他的イスラエル軍支配地域になってしまったことを示していた。

 ガザ中部のハーン・ユニス地方もイエローラインによって分割され、バニ・スヘイラ地区はイスラエル支配地域内に組み込まれてしまった。だがバニ・スヘイラ地区が分断されたことを明示する境界線があるわけでなく、人々がそれまでのようにバニ・スヘイラ地区に立ち入ってイスラエル軍に銃撃され死傷する事件が起きはじめた。戦争中イスラエル軍によって23人もの家族が殺された後ハーン・ユニスで避難生活を送っており、今回の停戦協定発効の一週間前にイスラエルの空爆で兄も殺された3人の子供の父親であるハーレド・ファルハート氏(35歳)が、ハアレツ紙の記者に次のように語った「その道は通れるようになるだろうと思っていたら、翌日にはそこで誰かが撃たれていたりする。誰もがそのようなことを通じて、あそこには占領軍がいるのだと分かるのです。」

 寒さが増してきた12月、ハーン・ユニスの10歳と12歳の兄弟のパレスチナ人の少年が、負傷している父親のために薪を拾い集めるためにバニ・スヘイラ地区へ出かけて行っていたところをイスラエル軍のドローンに攻撃され二人とも死亡するという事件が起きた。イスラエル軍当局は、少年たちがイスラエル軍の近くで「不審な行動」をしている危険な存在だったと殺害の正当性を主張した。これに対してパレスチナの住民たちは、少年たちは生きるために人間として当然の義務を果たしていただけだと反論し、また先のファルハート氏は「少年たちは家族を助けようとしただけであり、イスラエル軍だって彼らが幼い子どもであることは分かっていたはずだ。だがイスラエル軍にとって最も重要なのは、例え子ども、女性、老人であろうとも境界線を越えることを決して許さないことだ」と語った。

 やがてイスラエル軍は、イエローラインの西側のハマース支配地域に黄色いコンクリートブロックを等間隔に設置しはじめた。ブロックで囲んだ新たなイエローライン地域をつくり、それを加えてイスラエル支配地域を拡大する(図4参照)。人々はイエローラインが西に向けて知らぬ間に移動するのを「翌朝目覚めると、黄色いコンクリートブロックや軍用車両が玄関先に置かれているのを見つけた」というようなショッキングな出来事を通じて実感した。

図4
イエローライン西側地域にイスラエル軍が据えた黄色いコンクリートブロック  (Source:Planet Labs PBC BBC)

3 イスラエル軍による人質遺体捜索作業を利用した「ハマース殲滅」の企て

残された人質の遺体回収を重視するイスラエルは、遺体がイスラエル軍支配地域のラファ一帯に広がるハマースの地下トンネル内にあると見当をつけていた。イスラエルは人質の遺体が返還されるまでは停戦合意時に約束されたガザ飢餓住民に緊急に大々的に届ける人道支援物資の搬入を許可しないとの圧力をハマースにかけて、ハマース戦闘員たちを地下トンネル内の遺体捜索作業にあたらせることにした。だがイスラエルの猛爆撃で現場が破壊されていたり、捜索場所を特定する目印がなかったりして遺体回収作業は困難を極めた。イスラエル軍はハマース戦闘員たちに困難な作業をやらせる一方で、地下トンネルを捜索して中に200名ほどいる戦闘員たちの殺害を企てた。11月26日、イスラエル軍がラファでのパレスチナ人戦闘員複数名の殺害と2名の拘束を発表したとき、ハマースが「イスラエルが停戦合意に違反してラファのトンネル内でハマース戦闘員を追跡し殺害している」と非難したのに対して、カッツ・イスラエル国防相はSNSのXに「イスラエル支配下のイエローライン地帯における最優先事項はトンネル網の完全な破壊である。トンネルがなければ、ハマースも存在しないのだから」と投稿して、非戦闘状態の隊員たちの殺害を正当化した。

4 パレスチナ人行方不明者の遺体回収作業

 ガザのパレスチナ人にとって、行方不明になった人々の遺体の発見・回収は切実な願いだった。イスラエルの爆撃が続く中で倒壊した建物の大量の瓦礫除去作業に必要な多くの救助隊員自身の殺害と大型重機の決定的不足によって遺体回収はほとんど進まず、1万人相当の行方不明のパレスチナ人が2年間も瓦礫の下に埋もれたままになっていた。その人々の遺体捜索・回収事業がようやく12月15日、ガザの民間防衛隊によって開始された。だが遺体回収作業は、イスラエル軍支配下の「イエローライン」地域内には近づけない上に、作業要員不足、瓦礫を取り除く大型シャベルカーはわずか1台、貧弱な遺体鑑定体制等々の困難な条件のもとで困難を極めた。

 最初に取り組まれたのは、ガザ市でイスラエル空爆の犠牲になったファーティマ・サーレムさんの家族総勢60人の遺体回収だった。サーレム家の人々は家があった北部ガザから子供たちを連れて一族全員でガザ市へ逃れ、市内に見つけた住民が退去して空き家状態になっていた雑居ビルで避難生活を始めたが、その矢先の2023年12月19日、イスラエルの空爆の標的にされて建物は崩れ落ち、中にいたファーティマさんの兄弟姉妹とその家族の全員が瓦礫の下敷きになった。それ以来ファーティマさんは「皆に会いたい、抱きしめて最期のお別れをしたい」との思いを抱きながら遺体が発見されるのを待ち続けていた。民間防衛隊は瓦礫の下からサーレム家の人々の遺体をすべて回収し、プラスチック製の遺体袋に遺骨を収納して、ガザ中部のデイル・アル・バラフの廃墟に築かれた集団墓地に移送した。ファーティマさんは墓地に埋葬される家族たちの遺体のそばに立って、2年間待ち続けた家族に最期のお別れをした。

5 ガザ住民への円滑な支援物資搬入を拒むイスラエル占領当局

 パレスチナ情報センターのウェブサイト2026年1月1日付は、エジプトと国境を接するラファの検問所における物流を管理しているイスラエルが、ガザに向けて送られてきた物資の国内持ち込みの可否を独自に選別する一方、禁輸扱いとなった物資は特定商人が輸入してガザ市場で販売するいわゆる「並行輸入方式」を採用していることを指摘した。イスラエルが禁輸扱いにした物資には、寒い雨期の季節の難民キャンプには欠かせない「発電機や雨や泥に強い金属製のテントの支柱」などが含まれており、それらを禁輸にした理由は「金属はハマースやその他の抵抗勢力が軍事目的に利用する可能性がある」からだという。また国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)ガザ支部所長代理のサム・ローズ氏は「人道支援団体が持ち込みを禁じられたものは発電機をはじめすべて市場で売られており、イスラエル、エジプト、パレスチナのそれぞれでビジネス上の利益が生み出され、イスラエルが保護する安全保障会社やその他の犯罪組織もそれらの利益の一部を得ている」ことを明らかにした。

 以上の指摘は、生存の危機に直面するガザ住民への国際的緊急支援物資の送付を妨害する組織的方策をめぐらせることで住民を餓死・病死に追いやろうとするイスラエルの企てを浮き彫りにしている。AP通信の分析データによると、ガザ住民に届けられた支援物資は停戦協定で合意された水準を大きく下回り、停戦の2025年10月10日から26年1月18日までの3カ月余りに体力の衰えたガザ住民の死者は481人、負傷者は713人に達した。また2026年になってから寒気のなか暴風雨でテントがちぎれ飛び、国連やパレスチナの報告によれば、約150万人が避難生活を強いられて少なくとも30万張りの新しいテントが緊急に必要となった。そうした中で1月1日、イスラエル当局はガザで活動する37の国際的NGOに対し、パレスチナ人スタッフの詳細情報を提供しない限り、60日以内にすべての活動を停止しなければならないと通告し、ガザ住民から重要な支え手を奪って更なる窮状へ追い込もうとした。

* * *

 以上に見てきたように、ガザ戦争停戦協定第一段階は求められていた「ガザ住民の危機回避」にはつながらず、イエローライン地域の設定というイスラエルのガザ分割占領を支えるシステムを生み出し、ハマースが求めたガザからのイスラエル軍撤退とパレスチナ人拘留者の解放の要求よりも後退したガザ占領の深化と思われる事態に立ち至った。イエローラインによるガザの分割構想はトランプ米大統領の娘婿のジャレド・クシュナーによるものである。支援物資が届かないガザ住民の飢餓・医療崩壊による死活状況は深刻度を増しているなかで、トランプ米大統領提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」の第二段階の「平和評議会」が軸となっての「ガザの平和」構想の行方が不気味である。

(「世界史の眼」No.71)

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『被爆者・切明千枝子さんとの対話:私たちの復興をめざして』(彩流社、2025年)
高橋博子

 本書は著者の桐谷多恵子と被爆者の切明千枝子さんの13年間、55回にわたる対話から生まれた。年数・回数だけでなく、著者と切明さんが軍都ヒロシマ、そして戦後のヒロシマの在り方への疑問・問題意識が重なっているからこそ引き出される、切明さんの人生を辿ることができる。その問いとは「人間とはなにか」である(24頁)。

 切明さんは「私はね、戦争を通して、人間をやめたくなったんですよ」と述べ、「兵器を作って、ここまで殺し合うのは、人間だけじゃないですか。他の動物に対して恥ずかしいですよね。ほんとうに、人間ってなんなんでしょうね」と問いかける。

軍都広島

 「人間とは」という問いは抽象化された問いでもあり、また彼女の軍国主義日本と戦後の日本を通じて感じてきた具体的な体験からの問いでもある。

 「私たちは原爆で酷い目に遭いました。しかし被害の前に廣島が加害の街であったことを言わなければならないと思っています。軍都を生きてきた一人として背負うものがあります」とする姿勢に対して(46頁)、著者は「原爆の被害だけを発信するのではなく、加害の面から軍都としての歴史についても言及するべきだという切明さんの声は、歴史と向き合う勇気ある姿勢である」と述べる。

 「軍がのさばっていた時代」で体調不良の女学生が路面電車を利用したことにより学校で暴力を受けていたことなどの理不尽な体験や、その一方で服装が規制されていたなかでも、ささやかで密かなおしゃれをしていたことなどが語られる。

原爆体験

 アメリカによる広島への原爆攻撃当時、十四歳であった切明さんは、学徒動員で広島地方専売局の煙草工場で働いていたが、朝礼後足を痛めていたので病院に向かう途中、爆心から1.9キロの地点で被爆した。本書では自身の壮絶な被爆体験、また亡くなった友人を焼かざるを得なかった体験を語っている。また彼女の2人の従姉妹は生き残っても4・5日してから「高熱が出て、血を吐いた。歯茎からも血が出て、血便も続いて苦し」み、10日後には2人とも亡くなったという。さらに彼女自身が原爆症に苦しんだ体験が語られる。

 原爆投下から1ヶ月を過ぎた頃(1945年9月)になると、彼女の体調は著しく悪くなる。まず髪の毛が抜け始め、歯ぐきからの出血、血便が出て、身体に紫色の斑点が現れ、高熱に苦しめられた(74頁)。

 原爆症が現れた時、切明さんがどのような心境だったかというと「死ねば楽になれる」と思ったという。母親の看病で、急性症状については少しずつ回復していったという。原爆投下後の切明さんの心身に現れた症状について、本書ではかなり具体的ことが語られているが、冷静な筆致でありながら、切明さんの辛い体験が切々と伝わる。著者自身がさまざまな体験をしているからこそ、切明さんの原爆体験を受けとめ、伝えるための想像力があるのだと思う。

 原爆投下から1ヶ月たった頃には米軍は広島の残留放射線の影響を否定し、原爆症についての情報を軍事機密扱いにしていた。このような原爆投下当日以降も苦しむ人々の証言は、あまりにも重要である。

アメリカによる占領とその後

 本書ではアメリカによる占領期での切明さんの複雑な思いも語られる。1951年11月に開設された広島県児童図書館に希望して勤務したことで、子供の人権を大事にするアメリカの教育に触れる。

 ABCCについての体験は図書館での体験は対極的である。1948年ごろ交通事故に遭って亡くなった叔父の遺体をABCCから一晩預かりたいと申し入れられ、帰ってくると内臓がなかったこと、占領下で進駐軍には向かうことができず、叔母も了承せざるをえなかったことが語られる。

 切明さんは切明悟さんとの結婚、そして新たな教育を求めて1956年に立ち上げた「株式会社 東方出版」での出版活動によって、戦後一貫して平和・反戦そして差別問題に力を入れたてきたことがわかる(92頁)。

「私たちの復興」

 著者と切明さんとの「復興」に対する探究が興味深い。「原爆が投下される前の日常に戻れば「復興」になるのか」と問い、都市計画における「復興」と生活における「復興」との違いを問い、その上で「私たちの復興」という言葉にたどり着く。

 切明さんは語る。「大それたことではなくて、人間同士で絶対に殺し合わないこと。武器で脅しあったりしないで、お互いを信頼して、お互いに助け合って生きていくこと・・・」(182頁)。この言葉を著者は涙で受け止める。著者は「自己の悲惨な体験を、相手への「憎しみ」や「報復」で終わらせるのではなく、「二度と誰にもこのような思いはさせない」という利他性へと、長い年月をかけて醸成し昇華した思想こそ「広島の思想」の源泉ではないだろうか。(183頁)そして「大国の指導者たちが、利己性を露わにしている世界の現状の中で「力による平和」というジャングルの掟が跋扈(ばっこ)している」中で、「平和のうちに生存する権利」を訴える先頭に立つのが切明さんたちをはじめとする被爆者の方々である。しかし、残された時間はあまりにも短い」と述べる。

力による平和」への抗い

 アメリカの原爆攻撃と第二次世界大戦終了から80年にあたる2025年に、この2人の交流が本書にまとめられた意味は、大変深い。第二次世界大戦のような惨禍を繰り返させないどころか、戦後も核兵器に依存する体制や戦争は続いてきた。そして2026年の幕開けはアメリカのベネズエラ空襲と米軍特殊部隊デルタフォース投入による大統領誘拐である。危険な状態にいる人質を救出する作戦ではなく、就寝中の大統領夫妻を誘拐拉致するために米軍を投入しているのである。先住民の土地を接収することによって拡大し、中南米諸国を「裏庭」なる表現を使ってきたアメリカ合衆国。

 しかしこのようなアメリカ政府に対しても、アメリカに追随する日本政府に対しても、広島市はその責任を問うていない。それどころか公立学校の副読本から『はだしのゲン』や福竜丸の被災など米核実験についての記述を削除し、広島平和記念公園はパールハーバー国立記念館との「姉妹連携」を締結した。また新任職員はその研修に『教育勅語』を習わされる。

 著者は、まるで戦前の廣島に戻ってゆくかのような都市広島、そして長崎を対象に、その流れに抗う研究を続けてきた。本書を含めてそうした著者の研究姿勢、そして切明さんとの交流に励まされる。

 軍都広島の復活を「許す」と言うことは切明さんも著者も願うような「私たちの復興」を阻むということだと思う。アメリカの原爆を「許す」ということは力による制圧を「許す」ということだと思う。

 多くの読者が本書とともに「私たちの復興」をめざすことを願っている。

(「世界史の眼」No.71)

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文献紹介:佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)
山崎信一

 2025年には、日本でも参院選で「外国人問題」を提起する政党が躍進するなどして、排外主義的主張が政治的に大きな影響力を得た。さらにこうした主張は、政府の政策にも取り入れられようとしている。社会、政治の「右傾化」は、そういう意味で日本においても感じられるものとなっているが、この「右傾化」を世界的な観点から分析しようと試みているのが、佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)である。ただ、本書は2025年の日本の状況に触発されて執筆されたものではなく、著者の長期間にわたる研究をベースとしてそれを総合したものであり、刊行がこのタイミングとなったのは偶然だろうが、先見の明を示している。

 著者のこれまでの研究の中心は、民間軍事会社などを含む非正規軍(パラミリタリー)や、その暴力発現のあり方にあり、これまでにも『ボスニア内戦』(有志舎、2008年)、『中東民族問題の起源:オスマン帝国とアルメニア人』(白水社、2014年)などの優れた実証研究を世に出している。本書も同様に、バルカン各国語を含む豊富な史料に依拠している。

 まず、本書の章と節の構成を挙げる。

序章 極右勢力の世界的な台頭
第一章 カウンター・ジハード主義とは何か-サイバー空間で続くユーゴスラヴィア継承戦争
  第一節 ヴァーチャル空間の十字軍戦士
  第二節 西欧とセルビアの極右思想の共鳴作用
第二章 ジハード主義とムスリム諸国の右傾化
  第一節 ジハード主義の思想的展開
  第二節 ジハード主義の結節点としてのボスニア
  第三節 伝統的宗教勢力の保守化
第三章 我々はヨーロッパ人種だ!-欧米の極右運動と「入れ替え論」
  第一節 極右の国際テロ・ネットワークとフランス新右翼の思想
  第二節 新たな人種主義の登場-フランス新右翼思想の新大陸での展開
  第三節 反ユダヤ主義の入れ替え
第四章 ブルガリアの新自由主義経済政策と極右勢力の台頭
  第一節 ブルガリアの新自由主義
  第二節 体制変動後のブルガリア政治
  第三節 ブルガリアの極右勢力
第五章 バルカン・ルート-奴隷化される難民たちと新たな特権階級
  第一節 西欧における都市政策の破綻とイスラムの犯罪視
  第二節 難民流入とシェンゲン体制の危機
  第三節 難民の犯罪化と人種主義の制度化
  第四節 新たな身分制社会への道
終章 正解の右傾化の正体
補論 シリアのアサド政権の崩壊から分かったこと

 第一章では、反イスラムのカウンター・ジハード主義を分析の対象とし、それが、ヨーロッパ各地の極右の国際的なネットワーク構築の核となっている点を述べている。第二章では、イスラム圏におけるジハード主義をその思想的系譜を分析し、カウンター・ジハード主義とジハード主義の構造的類似性を指摘している。第三章では、極右思想が、土着性を超えて普遍性を獲得し国際的なネットワークとるメカニズムに関して述べている。また、極右とリベラリズムの親和性を指摘する。第四章では、ブルガリアを例に、社会主義からの体制転換後の新自由主義的「ショック療法」を背景として、社会格差の拡大、経済の衰退、国外への人口流出、政治腐敗の構造化が起き、それが反グローバル化を掲げる極右の台頭とどう関係したのかを分析している。第五章では、2015年の「欧州難民危機」を背景に、極右の伸長を移民の増加だけを原因としては論じられないとし、人種差別が制度化される背景には、極右と新自由主義に依拠するリベラルの利害の一致があると指摘している。また、巻末の補論では、2024年秋のシリアのアサド政権崩壊とジハード主義者の背後にトルコ、ウクライナが存在することを述べている。

 本書の分析の対象は、多岐に渡っているが、そうした多様な対象の一つの焦点となっているのが、バルカン地域の状況である。第一章ではセルビアの極右イデオロギーの展開が、第二章では、ボスニアにおけるイスラム主義の展開が、そのものとしてもかなりの紙幅を割いて分析されている。また、第四章ではブルガリアを中心に体制転換後の社会、政治の変化を扱っており、バルカン地域に関心を持つ本紹介の筆者にとって非常に興味深いものでもあった。

 終章で明快に述べられているが、本書は、結論として、扱われている諸テーマは相互に結びついた複合的なものであり、その背後にグローバル資本主義の存在があること、リベラリズムに代わり極右思想が今やグローバル資本主義にとってシステムの維持のためにもっとも適合的なイデオロギーとなったことこそが、世界的「右傾化」の本質であると指摘する。

 本書に従えば、「右傾化」とはグローバル資本主義システムの自己防衛と自己存続の過程そのものであり、今後もこうした傾向が強まってゆくということであろう。その点からすれば悲観的にならざるを得ないが、ただ、それ故に、著者があとがきで述べるように、「システムから排除される人々と、なんとかシステムに踏みとどまっている人々が協力して、負の流れを逆転させることである。連帯という言葉の意味は今後ますます重要になるであろう。」という言葉に重みを感じる。

(「世界史の眼」No.71)

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書評:小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』(東京大学出版会、2025年)
木畑洋一

 日本を代表するアフリカ研究者として、数々の研究を積み重ねるとともに、すぐれた後継者たちを育ててきた小倉充夫氏が、『自由のための暴力 植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)という挑戦的な論文集を出版してから、わずか4年の間を置いただけで、これまたきわめて刺激的な著作である本書を世に送り出した。いずれもA5版で300頁になんなんとする本であり、現代世界を見通していく上で鍵となる問題について、著者が全力で取り組んでいる様相をよく示している。そこでの視角の中心を占めるのは、二著のタイトルに共通してあらわれる暴力と民主主義という問題だといってよいであろう。そして、暴力や民主主義を論じるに際しての著者の立場の特徴となるのは、前著の副題に出てくる植民地支配という要因にあくまでもこだわるという点である。アフリカ研究者としての著者の強みがその点で十分に発揮されるわけであり、それがこれらの本の価値を高めている。

 このことは、本書について特に言えるであろう。民主主義がいかなるものであり、あるいはそれがどのようなものと考えられ、現代世界においてどういった様相を呈しているかについては、実にさまざまな検討がなされてきている。とりわけ、近年になって各国で民主主義の危機が叫ばれるようになってからは、『民主主義の死に方』といったセンセーショナルなタイトルを掲げた本などもあらわれるように、民主主義についての議論はかまびすしいものがある。しかしそのほとんどの場合、検討の対象となるのは、欧米の「先進国」や日本であり、韓国や台湾など独裁体制から民主主義的体制へと劇的な変化をとげた国々も着目されることがあるものの、それ以外の国、とりわけアフリカ諸国の状況はごく付随的にしか扱われない。それに対して、本書ではアフリカの経験が大きな比重を占め、とりわけザンビアの事例が随所で詳しく論じられる。

 本書の第1章「永続的な革命としての民主化」に、そうした本書の特色はきわめてよくあらわれている。著者は、「はじめに」で述べるように「民主主義は完成されることはなく、新たな課題を克服すべく絶えず発展してきたし、発展していくべきものと考えることができる」(5、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という視点に立った上で、人々が民主主義に期待するものが時代によって変化してきたこと、その期待が既存の民主主義に対する挑戦の形をとってあらわれることを重視し、その具体例として西欧諸国における1968年前後の諸運動をあげる。代議制民主主義に疑問が投げかけられ、直接民主主義を追求する動きが台頭した時期として「1968」に注目することは、民主主義を論じる上でとくに珍しいことではない。ただ普通は、フランスの場合を軸に据えながら、「プラハの春」など東ヨーロッパも視野に入れてヨーロッパ諸国の状況を論じ、米国でのベトナム反戦運動や黒人の動きに言及し、日本のことにも触れる、といった形で議論が完結するのではないかと思われる。しかし本書の場合、そのような国々の検討を受ける形で「同時代のアフリカ」についての考察がなされるのである。

 1968年のアフリカといえば、多くの国々が独立直後であり、植民地主義からの完全な脱却と人々の生活水準の向上という二つの課題をかかえるなかで、それを実現するための体制を模索していた。代議制民主主義は、アフリカにおいては、それまでの植民地支配国がいわば遺産として残していった体制であったが、その形が問われるなかで、複数政党制を否定し一党制に向かう方向性が目立つようになった。アフリカ諸国のこうした変化は、従来、民主主義の後退、権威主義化の動きとして解釈され、欧米の「1968」とはベクトルが全く異なるものとして論じてこられたが、それが本書では、代議制民主主義の意味の問い直しという点で欧米の「1968」と同じ地平で検討されているのである。

 その場合に最も重要な検討対象とされているのは、ジュリウス・ニエレレが指導したタンザニアである。政治的独立後の課題に取り組んでいくためには、人々の団結を脅かす複数政党制は危険であり、一党制の方が現実に合うという議論をニエレレは展開した。こうした主張を、植民地支配に伴う人工的な境界線引きの結果作られた国家領域のまま独立したアフリカ諸国の状況を重視する著者は、肯定的に受けとめる。そして、「普遍的人権を保障する政治制度についてみれば、各政治共同体成立の経緯や社会経済的条件の相違に応じて、特定の時点における制度の選択には様々な可能性があると考えるべき」(52)であると、「1968」の文脈にアフリカ諸国を位置づける際の基本的視座が再確認される。「1968」のアフリカ諸国にどのような「選択の可能性」があったかについては、より立ち入った検討が必要であるという感は残るものの、こうした柔軟な視点はきわめて重要である。

 著者は、本書のタイトルとした「民主主義の躓き」をもたらしている要因として、サブタイトルにある民衆、暴力、国民国家という三つの要因を指摘し、それらは民主主義の内部に存在しているとしつつ、今紹介した第1章につづく三つの章でそれぞれに関する議論を展開する。この内、第3章「民主主義の暴力」と第4章「国民国家の民主主義」では、アフリカについての考察が議論の中心に置かれることになる。

 第3章で著者は、構造的暴力への反抗としての暴動や社会的分断がもたらした暴力にまず着目する。構造的暴力の最たるものは植民地支配であったし、植民地から独立して新たな国家を形成する歴史的経緯から社会的分断を免れがたかったアフリカ諸国についての検討が、まさにこうした議論の核となる。ここで著者は、自身がザンビアの首都ルサカで約20年の間隔をおいて行った社会調査の結果に拠りながら、若年齢層を中心とするアフリカの都市住民の存在態様と意識についての分析を行っている。

 第3章ではさらに、20世紀末にアフリカ諸国があいついで民主化(「第三の民主化」)を遂げて複数政党制が導入されるようになった後の、「民主化に伴う暴力」も注目されている。複数政党制のもとで選挙が実施されるなかで暴力が誘発されていったわけであるが、それについて著者は、第1章で扱われた独立直後の状況とは異なって、民主化を推進していった外部要因(欧米諸国の援助政策の変化など)も十分考慮に入れる必要があるとしつつ、さまざまな国の例に言及する。そうした考察を踏まえた上で、著者は、「植民地主義・帝国主義によって作りだされた対立を克服し、構造の歪みを解消する運動が今日いたるところで噴出している」(161)と、民主主義のもとでの暴力の歴史的背景に改めて注意を促し、民主化を論じる際にそうした歴史が忘却されることに警鐘を鳴らすのである。

 第4章で問題とされる国民国家に関しても、検討の中心はアフリカに置かれる。ここで評者が最も注目した文章は次のようなものである。「[欧米では]代議制の展開は階級闘争の歴史でもあった。ところが植民地では北ローデシアの例から分かるように、代議制をめぐる対立は優れて人種差別、異民族支配とかかわる問題であった。議会や選挙権の問題は民族解放の問題であり、生れつつある国家の主体は誰なのかという問題であったといえる。」(195)植民地支配を脱して民族解放を達成した国々は、支配国によって恣意的に引かれた国境線のもと、国民国家として多くの問題をかかえており、「国家の主体は誰なのか」ということを追求するなかで、民主主義の躓きを経験してきたのである。「近代国家における国民形成とは、支配的民族への同化の進行というのが実態であった。ところが良かれ悪しかれ同化の中核となるべきものが、存在しないか、自明でない場合が旧植民地には多い」(221)という指摘が、問題の核心をついている。そうした条件を生んだ植民地主義という歴史的背景の重みにここでも気づかされる。

 第3章にせよ第4章にせよ、著者が取りあげる論点は多岐にわたっており、ここでの評者による紹介はその一部をすくいあげたものにすぎない。著者は欧米における事例や民主主義論にも広く眼を配りつつ、アフリカの問題を位置づけているが、その豊富な内容はここでは扱いきれない。そうした第3章、第4章の内容と比べた場合、民衆という要因を対象とした第2章では、民衆・大衆に関する欧米での議論(ジョン・スチュアート・ミルやオルテガ・イ・ガセットなど)の丁寧な検討や、代議制民主主義を補いうる制度としてのくじ引き制の考察など、これまた豊かな中身をもつものの、話題が欧米の事例に集中し、アフリカ(さらに他の非欧米世界も)への言及がなされていない。これは、本書を通読した後、評者が最も不思議に思った点である。すでに紹介したように、著者はアフリカでの社会調査を通してアフリカ民衆の声に直接接する体験などをもっているわけであるが、その知見は第2章での議論に生かされなかったものであろうか。第5章「失われた確信と新たな試練」、終章「未完の民主主義」で、現在における民主主義の後退の様相、デジタル技術の進歩とも関わる未来への展望が、アフリカの事例をも踏まえながら語られていることからも、本書のなかでの第2章の特異性が目立つのである。

 最後はないものねだりの書評となってしまったが、そのことが本書全体の価値を下げるものでないことは、強調しておく必要があろう。グローバル・サウスの考え方や動向がさまざまな局面で注目されている今、アフリカを視野の中心に据えて、植民地支配下にあった歴史的背景を常に念頭に置きつつ、独立後の模索の過程から、冷戦終結に連動する「民主化」の様相を経て、21世紀の現在までの民主主義の変遷を論じる本書がもつ意味は大きい。著者は、あくまでも「民主主義の躓き」について議論しているわけであり、「躓き」から立ち直れば、民主主義の将来はまた開けるというのが基本的な展望であろう。ただそのためには、民主主義の状況を傍観する姿勢は許されない。「闘うしかないことを覚悟するところから希望の光が生まれる」(279)という本書を結ぶ一文の意味は重い。

(「世界史の眼」No.70)

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松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』(Mi&J企画)から学び、受け継ぐこと
米山宏史

 青山学院高等部で42年の長きにわたり世界史教育に携わり、その後、複数の大学で非常勤講師として社会科教員の育成に尽力した松本通孝氏が標記の書籍を上梓した。本書は同名の3冊目の著作であり、教員としての軌跡を振り返り、「HR通信」「世界史通信」を掲載して授業実践やクラス運営の努力や工夫を紹介するとともに、デジタル化時代の現在にふさわしい歴史の授業方法について、様々な提言を寄せている。本書の内容を紹介しながら、松本氏の歴史教育の業績から学び、継承すべきことを考えてみたい。本書の構成は以下の通りである。

はじめに
第1章 「私の授業」を振り返る-生徒・卒業生との対話-
 序
 その1 「チョーク&トーク」式授業は、役に立たなかったのか
 その2 先輩の諸先生方の実践から学んだこと
 その3 「私の授業」での工夫 略地図・略年表を利用した授業
 その4 生徒との対話①「HR通信」……担任と生徒とのキャッチボール
 その5 生徒との対話②「世界史通信」……授業での対話を目指して
 その6 毎日の授業での工夫と限界……臨機応変の対応、問いと史資料の活用 
第2章 「これからの授業」を展望する
 その1 「インタビュー」記事の補足 私にとっての歴史教育の原点
 その2 定年後の歴史教育との接点
 その3 これからの歴史教育に期待すること
執筆を終えて

 第1章の序では、40数名が在籍する教室で「チョーク&トーク」式授業を展開しながら常に生徒とのコミュニケーションを取ることを重視し、歴史を学ぶことは、面白く、暗記は必要なく、自分の頭で考え推論すること、縦の連関と横の連動、視角を変えると別の解釈が成り立つことなどの大切さを伝えてきたと述べ、講義式授業でも工夫しだいで生徒自身が思考する授業の試みが可能であることを紹介したいと語っている。

 つづく第1章では、6つの節を通じて、自身が中学・高校時代に経験した「チョーク&トーク」式授業を自分が教員としても続けてきたこと、授業の本質が教員-生徒間の対話である以上、この授業スタイルから学ぶことは尽きないこと、毎時の授業で色チョークで略地図を記入し空間的把握の大切さを強調したこと、随時刊行した「世界史通信」(2006年には年間60回の授業で36回刊行)に各学習テーマの略年表や「今週の授業のねらい」などの情報のほか、お勧めの美術館・博物館やテレビ番組・映画作品の案内、推薦図書などを載せ、また、それらに対する生徒の感想や意見を掲載し続け、授業の内外で生徒との対話を追求したことなどが詳述されている。

 第2章では、第1節で「インタビュー記録 歴史教育体験を聞く 松本通孝先生」(歴史教育史研究会編『歴史教育史研究』第20号、所収)が掲載され、小学校まで遡り、卒業論文など学生時代の学びをたどりながら松本氏の歴史教育者としての歩みが語られている。第2節では定年退職後、卒業生との読書会を立ち上げ(2018年5月開始、60回以上を開催、登録メンバーは50余名)、日本史を含む世界史の様々なテーマの学習活動を行っていること、学習ボランティアとして中高生の社会科学習のサポートに関わり、「生徒の立場から見た授業」を知り、中学校歴史的分野の教科書記述が詳しすぎること、生徒がタブレットの情報や教員が求める「正答」に縛られているとコメントしている。第3節では、歴史の授業の最大の問題点として、歴史の授業から何を学ぶか、そしてある程度の知識の定着を挙げ、さらに歴史を理解できるために知識、分析力、関連づけて考える力の重要性を指摘し、そのためにはアナログ的手法とデジタル的手法の対立ではなく両者のプラス面を最大限に生かした新しい手法が必要だと語っている。

 本書を通じて、松本氏の教員人生の歩みを理解し、氏の歴史教育の仕事から学び、継承したいことは多々あるが、とくに以下の6点に注目したい。その第1は、生徒(保護者・卒業生)との対話の重視とその実践である。氏の他者を尊重し、真摯に対話を行う姿勢は、現職の教員時代だけでなく定年退職後の学習ボランティアや卒業生との読書会でも首尾一貫している。とくに、授業を、教員から生徒への一方的な伝達ではなく教員と生徒との対話の場と位置づけ、それを追求してきたことは、氏の歴史教育論の核心として極めて重要である。そこには、氏が指針として学んだという鈴木亮氏ら先人の歴史教育者からの影響(授業は教員から生徒への問題提起であり、生徒と教員の学び合いの場である)がうかがわれる(鈴木『世界史学習の方法』岩崎書店、1977年)。

 第2に、対話の重視と並ぶ松本氏の教員人生の特徴は、生涯、探究心を持って学び続け、自己研鑽を重ねる姿勢である。それは、比較史・比較歴史教育研究会への参加や近現代史教育研究会の結成、世界史の教科書や辞典、『世界史史料』(歴史学研究会編、全12巻、岩波書店)をはじめとする様々な論考の執筆活動や編集作業に現れている。研究会での人との出会いや書籍からの豊かな学びが氏の教員としての力量を高め、授業方法の刷新・更新の契機になっている。

 第3に、教室を越えた生徒への学びの提供である。近年、働き方改革が社会問題となり、教員の長時間労働が問題視されているが、それに先立ち、氏は生徒の世界史への興味・関心の涵養をめざし、多くの時間と労力を費やして教科通信を精力的に発行し、教室を越えた生徒との世界史対話を実践した。「世界史通信」には教員からの情報提供だけでなく、多くの生徒からの投稿原稿が掲載されたことにより、教科通信が教員と生徒、生徒と生徒を結びつけ学び合いを作り出すことに成功した。また、毎月1回、放課後に若手教員と有志の生徒が集まり、その時々の歴史のテーマ(明治維新の諸改革と『夜明け前』に描かれた農村の変化の比較、ウィーン体制下のオーストリアの音楽家たちの活躍など)を語り合う「自主講座」は、教室空間を越えて生徒と教員が対等な立場で、人格的に触れ合い学び合う極めて優れた教育実践である。よく見られる風景である定期試験直前の補習や質問会ではなく、大学のサブゼミのように何らかのテクストの輪読会などを設け、生徒と教員の学び合いを恒常的に続けることができれば、非常に理想的な歴史実践となる。

 第4に、毎時の授業の中で、略地図と略年表の活用を重視したことを特記したい。世界史の学習では、今日の授業で扱うテーマがいつ、どこで生じた歴史的事象であるかという空間認識と時間認識の保障が単元を理解する前提となる。その点で氏が毎回、色チョークで略地図を板書し、生徒がそれを書き写す作業は、氏のおなじみの授業風景であるとともに生徒の「縦の連関と横の連動」の把握に資したに違いない。氏は、世界史学習における地図利用の重要性を吉田悟郎氏や鈴木亮氏から学んだと記している(吉田氏が提唱した「世界史の同時代的・全面的(全地域的)把握」の構想(吉田『歴史認識と世界史の論理』勁草書房、1970年)は、その後の世界史教科書の「○○世紀の時代」やグローバル・ヒストリーの歴史把握にもつながり、再評価に値する)。

 第5に、多様な世界史像や世界史の見方の追究が挙げられる。氏は比較史・比較歴史教育研究会への参加などを通じて、「自国史と世界史」「世界から見た日本、日本からの世界」という視点を獲得し、それを追究したほか、定年退職後に卒業生との読書会を立ち上げ、教会音楽史、アジアから見たヨーロッパ、日本の開国と連動する世界史、アメリカ合衆国の先住民政策や1920年代の人種差別など多岐にわたるテーマを学び合い、常に世界史認識を拡大・深化させ、更新している。松本氏の姿勢が示すように、世界史教育に携わる者は、世界史の研究動向に敏感であり、新しい研究潮流(グローバル・ヒストリー、パブリック・ヒストリー、ジェンダー史、地球環境・生命環境系の歴史、歴史の構築主義・構成主義など)を学ぶ必要がある(小川幸司「<私たち>の世界史へ」『岩波講座世界歴史01』岩波書店、2021年)。また、氏が歴史教育の方法論的仮説として探究した「自国史と世界史」とそれに先行する「世界史と日本史との統一的把握」(上原専禄が1957年に問題提起)は現在の「歴史総合」の授業づくりに役立ち、参照されるべきである。

 第6には、デジタル的手法とアナログ的手法の両立・併用という指摘である。グローバル化とともに社会のデジタル化が進行し、生徒が一人一台端末を所有・活用する現在、デジタル教材の利用は不可欠である。その際、デジタル教材か、アナログ教材かの二者択一ではなく、両者を併用した有効活用が現在の学校教育の実際の授業風景である。たとえば、中学校2年生の歴史の授業でホロコーストを学習する際、デジタル教材としてロイロノートのシンキングツールとアナログ教材として新聞や絵本が併用され、学習成果を上げている(原琴音「戦争と平和を考える-デジタル×アナログ教材での学び-」教育科学研究会編『教育』960号、2026年1月号)。

 戦後80年の今年(2025年)、松本氏の3冊目の『一世界史教師として伝えたかったこと』に接し、「伝えたかったこと」を受け止め応答したいという想いから本書の内容を紹介し、受け継ぐべき論点を提示した。氏のメッセージが今後の世界史教育に継承され、授業づくりに資することを願ってやまない。

(「世界史の眼」No.70)

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『世界史の中の「ガザ戦争」』(藤田進・世界史研究所編、大月書店)に寄せて
栗田禎子

 本書は現在も進行中のガザの事態に関し、これを世界史の中に位置づけてその性格・背景を明らかにすると共に、克服の展望―それはとりもなおさず今後の世界のゆくえを考えることに直結する―をも歴史学的観点から考察しようとする労作である。「はじめに」でも触れられているように、2023年10月にガザをめぐる状況が新たな(そして破局的な)段階に突入して以来、現状分析的あるいは地域研究的な視点からは既に多くの著作が発表されてきたが、問題を世界史の中に位置づけ、人類社会全体の今後のゆくえに関わるものとして捉えようとする姿勢を明確に打ち出している点で本書は際立っている。編者の藤田進、そして世界史研究所メンバーをはじめとする十数名の執筆者らの、「歴史家集団」としての面目躍如と言えよう。

 本書の構成は以下の通りである。

はじめに
第Ⅰ部 「ガザ戦争」とは何か―歴史から問う
第1章「ガザ戦争」の実像
1 二〇二三年一〇月七日まで
2 「ガザ戦争」
3 高まる世界的批判
おわりに
第2章 パレスチナ問題の歴史を読み直す
1 パレスチナ問題の起源―イギリスの責任
2 イスラエル国家とパレスチナ難民の解放闘争
3 二〇〇六年 パレスチナ分裂以降―ハマース政権下のガザ
第Ⅱ部 イスラエルと西側諸国
第3章 イスラエル・パレスチナ問題と米欧
1 米国のイスラエル・パレスチナ政策と反シオニズム
2 イスラエル批判と反ユダヤ主義
3 ドイツの〈反・反ユダヤ主義〉のドグマ
第4章 イスラエルの岐路
1 ガザ攻撃を続けるイスラエル国家が示すもの
2 イスラエルのユダヤ人問題
第5章 日本とガザ戦争―中東での戦争と日本の戦争国家化
1 中東の戦争と日本の関係性
2 日本の中東政策の原点―オイルショック
3 第一の転機としての湾岸戦争
4 第二の転機としてのイラク戦争
5 第三の転機としての集団的自衛権容認
おわりに――中東の戦争を利用した日本の戦争国家化
第Ⅲ部 対抗と平和への模索
第6章 「下から」の抵抗と変革
1 亡びることなき抵抗者たち―不死なるものムスタズアフィーン
2 「ガザ戦争」と「グローバルサウス」―戦争が顕在化する「グローバルサウス」空間の重層性
3 南アフリカのジェノサイド提訴
第7章 ロシア・中国と「ガザ戦争」
1 ロシアのユダヤ人問題と「ガザ戦争」
2 中国と中東問題―パレスチナおよびイスラエルとの関係を中心に
第8章 国連の改革へ
1 「ガザ戦争」と国際社会の失敗―国連の現場で見た「ガザ戦争」の現実
2 「ガザ戦争」と国際世論と国連改革
あとがき

 評者(栗田)は既に本書に関し、新聞の書評欄で概評を行ない、本書がガザ戦争は「植民地戦争」の現代版であり、ガザで起きていることは入植者国家イスラエルによる現地住民の集団殺戮(ジェノサイド)にほかならないとの視点を明確に示していること、ガザの惨劇を放置・黙認する先進諸国の姿を浮き彫りにしながらも、各国支配層と市民社会との間に「亀裂」が生じつつあることも明らかにしていること、そしていわゆる「グローバルサウス」の動向や国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界に向けての国際的な「変化の兆し」に注目していること、等の特徴を指摘した(『しんぶん赤旗』2025年11月23日読書欄)。本書を貫くこのような骨太の姿勢と、その叙述に説得力と厚みを与えている多角的な視点とは、上記の章別構成からも明らかであろう。以上を基本的な認識、評価とした上で、以下では(上述の概評では紙幅の関係で触れられなかった点も含めて)追加的な感想やコメントを記すこととしたい。

 「はじめに」および第Ⅰ部について。2023年10月の事件がガザのパレスチナ人にとっては占領と封鎖を突破し、かつて自分たちが住んでいた土地に「帰還」するための闘いであったことを明確に示すと共に(「はじめに」)、続く第Ⅰ部で「ガザ戦争」そのもの(第1章)、およびその背後にあるパレスチナ問題全体(第2章)の性格と展開を歴史的に解き明かして行く。あくまで平易な語り口を心がけつつ、実は最新の研究の成果やアラビア語資料も用いた綿密な叙述がされている点が印象的である。ただ、注文をつけるとすれば、パレスチナの民衆の闘いを彼ら自身の視点から捉えようとする試みの前例として、本書の編者である藤田自身の著作である『蘇るパレスチナ―語りはじめた難民たちの証言』(東京大学出版会、1989年)を(「はじめに」あるいは第1章で)紹介し、同書が明らかにしたパレスチナ民衆運動史をめぐる貴重な知見を、本書の読者とも共有しておくべきではなかったか?『蘇るパレスチナ』はパレスチナの歴史を民衆の視点から捉える上での必読書であり、特に英委任統治期の1936~39年に展開されたパレスチナ民衆蜂起(いわゆる「アラブ大反乱」)をめぐる叙述・分析の深さは世界的にも例を見ない水準に達している。1936年蜂起の性格を知ることは現在のハマースによる運動を理解する上でも不可欠(1936年蜂起の「記憶」やイメージのハマースによる援用、という側面に限っても)と考えられるので、本書中に『蘇るパレスチナ』への言及がないのは惜しい気がした。(本書の刊行を機に『蘇るパレスチナ』が再び注目を集めることを期待する。)

 また、これとも関連するが、パレスチナ問題が(1948年のイスラエル建国でスタートするわけではなく)英帝国の中東支配の過程で生み出されたものであること、まさしく「植民地主義」にルーツを持つ問題であることを読者により鮮明に印象づけるためには、たとえば第2章の歴史叙述も(第一次大戦よりさらに遡って)19世紀末の列強による中東・アフリカへの侵略、植民地化過程を巨視的に振り返ることから説き起こす、という手法もあり得たのではないか、という印象も持った。(具体的にはエジプト占領や「アフリカ分割」、ボーア戦争等の歴史的意味の再確認。この時期に遡るチェンバレン、バルフォアといった「帝国主義人脈」の系譜の検討など。)それにより、ガザ戦争を19世紀末のアフリカでドイツが行なったのと同様の「植民地戦争」として捉える、という(「あとがき」での)問題提起が生きてくるし、また、たとえば「南アフリカの経験とパレスチナの経験は本当に共通しているのか」という第6章での問いとの対話の回路も準備できたのではないか、とも感じた。

 第Ⅱ部について。ここでは前述のように、イスラエルによるガザ攻撃を黙認あるいは支援する先進諸国(米国やドイツ、さらには日本)諸政府の姿が描き出され、イスラエル支持を正当化する思想的・イデオロギー的な装置(いわゆる「反ユダヤ主義」概念等)が分析されると共に、各国の支配層と市民の間の「亀裂」、中東での戦争に対し抗議の声を上げ始めた市民の動きにも目配りがされている。イスラエルという国家自体の性格や内部矛盾に関する分析も興味深い。注文をつけるとすれば、これらすべて(イスラエルを支える先進諸国の姿勢やイスラエル自体の行動)を「世界資本主義の現状」という視点から捉え、位置づけるとしたら、どのような分析が可能か訊いてみたい、ということだろうか。第Ⅰ部、そして第Ⅱ部第3章の叙述からも明らかなようにイスラエルという国家は当初は英帝国の中東支配の都合上建設が開始された入植者国家であり、第二次大戦後は米国の強力な後押しのもとに建国を実現、以後、冷戦期の米国の中東戦略の要とも言うべき役割を果たしてきた存在であるわけだが、冷戦終結後の今、先進資本主義諸国による中東支配の構造はどのような変容を遂げ、現在進行中の「ガザ戦争」は世界資本主義のどのような局面・段階を反映していると言えるのだろうか?ハイテク化・軍事化するイスラエル経済がグローバル資本主義の中で果たしつつある役割や、イスラエルの「新自由主義」路線への転換等をめぐる示唆的分析が見られるが、これをあらためて米国やヨーロッパ諸国、日本も含む大きな構図の中に位置づける議論も期待したい。現在の欧米における政治・思想状況やイスラエル国内のイデオロギーの変化、日本の戦争国家化等をめぐり、各章で展開されている鋭く深い分析を、冷戦後の世界の変容や、「新自由主義」の現段階という観点から統一的に捉え、説明することはできないだろうか?

 第Ⅲ部について。前述のように、いわゆる「グローバルサウス」の動向、またロシア、中国等の動きをも分析すると共に、国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界をめざす「変化の兆し」にも注目を促す内容であり、興味深い。特に第8章にはUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)保健局長や米国の歴史家も寄稿するなど、執筆者の多様性、広がりを感じさせる部ともなっている。第Ⅲ部を読んで印象に残るのは、ガザ戦争をめぐり、先進諸国とは一線を画した態度をとっている「グローバルサウス」の動向を検討しながらも、むしろその内部の重層性や矛盾に着目する視点が示されていることである。評者(栗田)はイランの現体制が「ムスタズアフィーン(虐げられた弱者)」との連帯を掲げるイラン・イスラーム革命の理念のもとにパレスチナの民衆の抵抗を支援する姿勢をとっていることを基本的には評価する立場であるが、こうした姿勢の根底に「善悪二元論」があり、また一種の「戦士文化」が存在する(それは男性中心主義にもつながる)ことをイスラーム研究の立場から批判的に指摘した分析(第6章)は興味深いと感じた。また、「グローバルサウス」諸国の政府も実は「新自由主義」路線をとっており、先進資本主義諸国やイスラエルと利害の共通性を有していることを鋭く指摘する論考もあり、ここには(先に第Ⅱ部への「注文」として記した)世界資本主義の現状の中にガザ戦争を位置づける、という発想が観察されると言えるかもしれない。

 それと同時に感じたのは、(現実には「新自由主義」にからめとられ、腐敗し、独裁化しつつあるかもしれない)「グローバルサウス」の諸政府が、にもかかわらず公的には先進諸国とは一線を画し、国際政治の場でガザ戦争に批判的なスタンスを示しているという事実の背後には、やはりこれら諸国の民衆の存在―植民地支配や占領に苦しんだアジア・アフリカ・ラテンアメリカの民衆の経験と、それゆえに彼らがガザの状況に寄せる共感―があり、それが各国の政府の立場を否応なく規定しているという面もあるのではないか、ということであった。本文中にも(「国家」主体のBRICSではなく)「民衆が主体のグローバル空間の構築」が重要だとの指摘があるように、グローバルサウスの「政府」だけでなく、その背後にある「民衆」のエネルギーにも注目する必要があるのではないか。

 「冷戦」終結以降、「新自由主義」時代のグローバル資本主義の下で、世界の民衆はともすれば支配エリートの価値観・言説を植え付けられ、分断され、搾取や差別に対し抗議の声を上げる力を奪われてきたが、現在ガザで進行中の事態は、そのあまりに破局的な様相――まさに民衆を標的とするジェノサイド、絶滅戦争という性格―ゆえに、全世界の民衆を覚醒させ、その怒りとエネルギーを解き放ちつつあると言えるかもしれない。―「ガザ戦争」はまさしく人類史の転換点なのではないかと感じながら、本書を読了した。

(「世界史の眼」No.69)

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書評:林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)
山田朗

戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげか?

 2025年10月10日、石破茂首相(当時)は、「戦後 80 年に寄せて」と題する「内閣総理大臣所感」を発表した。この日は、81年前(1944年)、米空母機動部隊の艦載機によって沖縄本島をはじめとする南西諸島が大規模な空襲を受けたいわゆる「十・十空襲」の日である。この空襲は、無差別爆撃となって那覇市は旧首里城を含む約90%が焼失、沖縄本島だけで軍人・軍属218名、陸軍人夫120名、民間人330名が犠牲になり、その他に船舶の被害で民間人約600人が死亡したとされている。当時の日本政府(小磯國昭内閣)は、この無差別攻撃に、中立国スペインを介してアメリカ合衆国政府に対して、国際法に違反するものだとの抗議を行なっている(合衆国政府は無回答)。もっとも、「石破所感」は、「十・十空襲」やこの無差別攻撃という歴史を意識して、この日を選んで発表されたものとは思われない。

 それどころか、この「所感」は、戦前日本の植民地支配や侵略戦争については一言も言及せず、「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。」といった、いわゆる「おかげ論」(戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげだとするもの)を展開している。だが、現実には、日本人犠牲者の前に、アジアにおける2000万人を超えるとされる膨大な犠牲者が存在し、日本軍将兵の犠牲も半分以上は餓死・病死であり、日本人犠牲者310万人の約90%は、戦争の勝敗が決した後の最後の1年間に生じたもの(吉田裕『続・日本軍兵士』中公新書、2025年)であることを考えると、犠牲者の「おかげ」で戦後の平和と繁栄があるとする議論は、大きな欺瞞を含んでいる。戦争の犠牲者を日本人(植民地支配下にあった人々を含む)に限定してみても、軍人・民間人の膨大な犠牲は降伏を許さない、捕虜になることを許さない日本軍というシステム、それを支えた政府や日本社会のあり方によって死ぬことを強いられた、いわばそのような制度的な束縛によって殺されたものである。

 降伏を許さない、捕虜になることを許さないというシステムは軍人だけでなく、民間人にも強制され、本来であれば助かる命がむざむざと失われた。そのことをはっきりと示すのが沖縄戦である。沖縄戦に関する本は、数多くあるが、林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)ほど沖縄戦の実態を深く、かつ広がりをもって叙述している本は他に例を見ない(なお、前述した「十・十空襲」に際しての日本側の抗議、米側無回答の件も、本書156〜157頁に記述されている)。

沖縄戦の全体像と細部に至るまでをも示す周到な構成

 『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』の章立ては以下のとおりである。長いスペースを取るにもかかわらず、章・節だけでなく、項まですべて示したのは、本書の構成から本書の叙述の時間的・空間的広がり(隙のなさ)を見ていただきたいからである。

序 なぜ今、沖縄戦か
第一章 沖縄戦への道
 1 沖縄の近代—同化・差別と反発
     琉球王国から沖縄県へ  
     同化と差別・貧困への反発
 2 中国やアジア太平洋への侵略戦争と沖縄
     中国での沖縄出身兵士たちの体験
     沖縄の外に送られた労働力と「南進論」
 3 なぜ沖縄が戦場になったのか
     沖縄への日本軍の配備と飛行場建設  地上戦闘部隊の増強
     本土防衛の捨て石としての沖縄
     米軍はなぜ沖縄をねらったのか
第二章 戦争・戦場に動員されていく人々
 1 沖縄の戦時体制
     社会運動や思想の弾圧
     行政・教育による戦時体制づくり
     天皇・国家に命を捧げる国民づくり—皇民化政策
     人々を動員していく地域社会
      戦争を煽るマスメディア
      徴兵を忌避する人たち 
 2 戦場動員態勢へ
     軍のために動員される人々
     徴用
     食糧など物資の供出
     日本軍将兵の横暴・非行
     軍と県の対立
 3 疎開—根こそぎ動員と表裏一体の政策
     役に立たない者を疎開させる
     県外疎開—一般疎開と学童疎開
     県内疎開
     宮古・八重山の疎開
 4 軍と県による戦場動員
     軍県一体で進められた「県民総武装」
     軍人として召集された中学生—鉄血勤皇隊
     一般住民を戦闘員に—義勇隊                               
第三章 沖縄戦の展開と地域・島々の特徴
 1 米軍最初の上陸—慶良間諸島
 2 米軍の沖縄本島上陸 一九四五年四月
     沖縄本島上陸
     大本営と天皇の戦争指導
 3 沖縄本島中部の激戦 一九四五年四月~五月
     運命を分けた地域
     斬り込みに駆り出される兵士たち
     天皇・政府から見放された沖縄
     時間稼ぎの南部撤退
     住民スパイ視を煽った日本軍
 4 沖縄本島北部の戦闘
     広大な北部に配備されたわずかな国頭支隊
     ゲリラ戦部隊の遊撃戦
     軍官民一体のスパイ組織・住民監視
     日本軍による住民虐殺
     ハンセン病者の犠牲
     米軍による住民虐殺                                         
 5 沖縄戦の終焉—本島南部 一九四五年六月
     多くの民間人を道連れにした海軍部隊
     組織戦闘の終焉
 6 飢えとマラリアの宮古・八重山
     宮古諸島
     八重山諸島
     戦犯裁判
 7 離島の沖縄戦
     沖縄本島周辺の島々
     久米島・粟国島・渡名喜島
     伊平屋島・伊是名島
     大東諸島
     奄美群島・トカラ列島
 8 米軍の戦闘方法、心理戦、軍政と収容所
     十・十空襲と米軍の攻撃方法
     心理戦
     軍政と収容所
     「戦後」の出発
     捕虜収容所
 9 沖縄からの九州奄美への爆撃                                     
第四章 戦場のなかの人々
 1 日本兵たち
     変化する日本軍
     捕虜になることを許さない日本軍
     人々の良心良識を抑圧する軍組織
 2 日本軍による住民に対する残虐行為
     日本軍による住民虐殺
     日本軍によって死に追いやられた人々
     スパイ視された障がい者たち
 3 戦場に駆り出された人々
      戦場動員された義勇隊員
     本土決戦の先取りとしての沖縄戦
     海の墓場に駆り出された漁船と漁民たち
 4 「集団自決」
      慶良間列島
     沖縄本島中部
     伊江島
     沖縄以外
     起きなかった地域・島々
        なぜ「集団自決」が起きたのか
 5 学徒隊
     男子学徒隊
     女子学徒隊
 6 死を拒否した人々
     生きることを選んだ民間人
     投降を促した人たち
     助かった人たち
 7 防衛隊員
     主力温存のための捨て石部隊
     生きようとした防衛隊員
     なぜ防衛隊員たちは「玉砕」を拒否したのか
     沖縄出身兵たち
 8 朝鮮人
     軍夫
     朝鮮人兵士たち
     船舶の乗組員など
 9 日本軍「慰安婦」と性暴力
     日本軍「慰安婦」
     日本軍「慰安婦」にされた朝鮮人女性
     米軍の性暴力
 10 沖縄の外での戦争に参加した沖縄の人々
     無謀な作戦の犠牲になった兵士たち—中国・大陸打通作戦
     戦後も帰らなかった兵士たち
     戦犯になった沖縄の人たち
 11 移民した人たちの戦争
     中国・「満州」
     東南アジア
     南洋諸島
     南米                                                       
 12 米軍兵士にとっての沖縄戦
     戦争神経症の多く出た米軍兵士たち
      沖縄にやってきた米軍部隊の戦歴
第五章 沖縄戦の帰結とその後も続く軍事支配
 1 どれほどの人たちが亡くなったのか
     戦没者数の推計
     南部撤退・戦闘の長期化と北部疎開が増大させた犠牲
     沖縄の外での戦没者
  2 どうすれば犠牲をなくせたのか、減らせたのか
     民間人を守る方法はなかったのか
     沖縄戦は避けられなかったのか
 3 加害と侵略の出撃基地—米軍基地
     加害の出撃基地
     沖縄/日本に集中する米軍基地
 4 沖縄戦の戦後処理
     遺骨収集と追悼
     援護法の適用と歪められた沖縄戦像
     不発弾
 5 沖縄戦の認識・体験談・研究
     沖縄戦叙述・研究の歩み
     自衛隊の沖縄戦認識
おわりに
あとがき
参考文献

〔県市町村史・字史74点、一般文献146点、英語文献4点、林博史文献単著9点、林博史文献論文・史料紹介10点 合計243点〕

新書判、348頁 〔 〕内は山田による補足

 書物の構成(目次)というものは、その著作の見取り図であり、どのようなパーツをどのように配置し、組み立てているのかを、端的に示すものである。もちろん、叙述そのものが大切であることは勿論だが、読者はこの見取り図を見ることで、その著作の意図や力点の置き方、著者の用意周到さを読み取ることができる。

 本書の構成(目次)を見ると、沖縄戦という対象を歴史として、あるいは現代につながるものとして考える上で、必要な素材が過不足なく周到に盛り込まれていることがわかる。なぜ、このような周到な構成を作成できたのか。それは、著者がこれまでに沖縄戦に関して実に多角的に研究を蓄積してきたからである。参考文献欄と本書本文でわかるように著者は、『沖縄県史』(新県史)の編纂に深くかかわってきただけでなく、『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001年)、『沖縄戦:強制された「集団自決」』(吉川弘文館、2009年)、『沖縄戦が問うもの』(大月書店、2010年)、『暴力と差別としての米軍基地:基地形成史の共通性』(かもがわ出版、2014年)、『沖縄からの本土爆撃:米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館、2018年)などの沖縄・沖縄戦・沖縄の基地問題に深く切り込んだ仕事をしてきた。それに多くの人が知るように、著者は、日本軍の戦争犯罪・BC級戦犯裁判、日本軍「慰安婦」の問題においても特筆すべき成果をあげて来ており、大日本帝国・日本軍・戦争の矛盾の凝縮点とも言える沖縄戦について分析・執筆し、問題の所在を明らかにするのに、これほどうってつけの執筆者はいないだろう。

本書の叙述の特徴(1):沖縄戦を時間・空間・社会的広がりの中で描く

 本書は、沖縄戦をテーマにした新書ではあるが、通常の新書のスペースには収まりきらない叙述を特徴としている。本書では、第1に時間的広がり、第2に地理的広がり、第3に社会的広がり、第4に戦争の加害と被害の関係性に十分配慮した叙述がなされている。

 第1の時間的な広がりを十分に考慮した叙述という点では、第一章において時間的に琉球王国から説きおこし、近代日本に併合され、強権的な同化システムのもとでの差別と貧困、そして「南進」の拠点とされていくプロセス、日本の世界戦争への参戦によって沖縄が否応なく戦場にされていく流れが示される。そして、第三章1~5で沖縄戦の始まりから終焉までの経過が丁寧に追われ、さらに同章8・9で沖縄が本土空襲の基地として使用されたこと、第五章3・4で戦後も続く米軍による軍事支配と戦後処理問題が解説されている。つまり、沖縄戦を中心に据えながら、前近代から現在に至るまでの沖縄と沖縄の人々が置かれた立場を細大もらさず叙述している。いろいろな本を読まなくても、まずは本書1冊を読めば、歴史の大きな流れの中の近代沖縄史・沖縄戦・戦後沖縄史がわかるようになっている。

 第2の地理的広がりという点では、大日本帝国が行った戦争がアジア・太平洋・インド洋に及ぶ広大な地域を舞台にしていることを前提として、沖縄戦を連合軍と日本軍の戦略の中で、東南アジア・中国戦線との関わりで捉え、日本本土と沖縄の関係性、そして沖縄本島だけでなく(「本島」中心主義に陥らず)、第二章3や第三章6・7など可能な限り先島諸島や周辺島嶼・離島にも目配りした叙述になっている。また、本書のサブタイトルにもある「なぜ20万人が犠牲になったのか」という点では、戦闘による様々な形態の直接的犠牲だけでなく、疎開・食糧不足・マラリアなどによる犠牲にも地域ごとに丹念にふれ、戦争の犠牲・被害というものが、直接に戦闘に巻き込まれなくても広範囲で起こることを示している。

 第3の社会的広がりという点では、とりわけ第四章において沖縄戦にかかわった様々な階層の人々を丁寧に叙述し、非常に内容が充実している。沖縄戦における日本兵の戦い、沖縄の人々への差別意識と残虐行為、とりわけ投降しようとする兵士・一般住民を射殺したり、さまざまな場面で住民をスパイ視して虐待、殺害したりする日本兵の事例を数多く紹介している。また、「捨て石」部隊として戦場に投げ込まれた一般住民である防衛隊員・義勇隊員の実態、米軍に捕まったらどうせ殺されるのだからと説いて一般住民の女性まで手榴弾を持たせて「斬り込み」に参加させた日本軍、沖縄の一般住民にとって、米軍の「鉄の暴風」と日本軍の威圧・強要の板挟みの中で「集団自決」を強いられた状況が具体的に描かれる。一般住民の「集団自決」の多くは、軍人の命令や日本兵や官吏が語る中国戦線での体験談(捕虜は殺され、女性は性暴力の対象となる)に後押しされて生じている。

 そして、本書の大きな特徴の一つだが、「集団自決」しなかった人々、「玉砕」を拒否した人々、兵士や住民に投降することを促した人々の存在を、それらの人々がそうした選択をした理由を含めて(移民体験者が多く、「鬼畜米英」の宣伝に疑問を持っていたことなど)丁寧に叙述している。これは、回想録などの文献調査だけでなく、沖縄で広範に実施されてきた聞き取り調査の成果が生かされているものだ。また、沖縄戦に多数が投入された朝鮮出身の軍人・軍属・労働者の存在、日本軍「慰安婦」のこともきちんと描かれている。

本書の叙述の特徴(2):沖縄戦における加害・被害の関係性

 本書は、沖縄戦における加害と被害の関係性を、米軍による加害、日本兵・沖縄住民の被害という単純化された枠組みで捉えることを拒否している。むしろ、沖縄戦の特徴として日本軍・官吏による加害(軍と政府・県当局による軍民一体体制の構築、戦争批判者の排除)、沖縄住民の被害、さらには沖縄住民の中における加害と被害(沖縄出身日本兵も時には住民にとっては加害者であった)、日本人による加害と朝鮮人の被害、「慰安婦」の被害など、加害と被害の重層性・複層性を描き出している。また、単に一部の「悪い」日本兵が一般住民を酷使・虐待したという捉え方ではなく、国際的な規範から逸脱し、捕虜になれない日本軍という自縄自縛のシステムと、日中戦争における日本軍による残虐行為(捕虜や一般住民の殺害、略奪・性暴力)の裏返しとしての敵観念(米軍も同じことをやるに違いないという誤認知)が、日本軍兵士たちを住民抑圧の加害者にしていったという加害と被害の構造を明らかにしている。

 本書は、著者による長年の沖縄戦研究、戦争の加害と被害についての研究の「まとめ」という役割を担っているものであろう。沖縄戦について考えたい、学びたい、あるいは戦争とはどのようなものであるか考えたい、学びたいと思う人には、ぜひ本書を手に取ることをお勧めしたい。前述したように、本書は、これまでの著者自身の沖縄戦研究だけでなく、多岐にわたる沖縄研究・戦争研究に支えられたものであるので、戦争について、沖縄戦について、沖縄についてさらに深く学ぼうと思っている人にも、本書は格好の道案内、問題別のインデックスとなるであろう。

 おそらく著者が、本書をこの時期に執筆、刊行したのは、2025年が「戦後80年」という節目にあたり、過去の戦争に関する振り返りが行われることを予期したからであろう。そして、長年にわたって沖縄そのものをウオッチしてきた著者は、沖縄の現在の姿に大きな危惧を抱いているからだと思う。かつて、「本土決戦」準備の「捨て石」とされて、20万人もの犠牲者を出した沖縄が、現在、日米安保体制のもとで軍備拡張と国際的な緊張の最前線となっている。「台湾有事」なるものが喧伝され、沖縄の島々にスタンド・オフ・ミサイルをはじめとする「抑止力」を担う部隊が配備されつつある。軍拡には軍拡で、軍事力の展開には軍事力の展開で対抗しようというパワーポリティクスそのものの動きが強まる中で、沖縄戦の歴史から世界と日本の政治が、世界と日本の市民が深く学んで教訓を汲み取って欲しい、そうしなければ、「20万人の犠牲」の存在を私たちは生かせないのではないか、そうした著者の思いが強く伝わってくる、実に読み応えのある一冊である。

(「世界史の眼」No.68)

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書評:アンドリュー・リース著、鹿住大助訳『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)
菅原未宇

 本書は「ミネルヴァ世界史<翻訳>ライブラリー」の一書として、オクスフォード大学出版局から出版されたNew Oxford World Historyシリーズのうち2015年に刊行されたThe City: A World Historyを翻訳したものである。著者のアンドリュー・リースはアメリカの近現代ドイツ社会史、思想史、都市史研究者である。

 第1章「初期都市の起源と位置」の冒頭で著者は、歴史上長きにわたり相対的に少数の人口を擁したに過ぎない都市が、社会に深い影響を与え、人類史の決定要因となってきたと述べ、都市の世界史を語る意義を示す。最初期の都市は紀元前4000年紀半ば、都市形成の前提条件である余剰食糧の生産地域から近く、水利に恵まれたメソポタミアに出現した。次いでその影響を受けながら、それぞれ異なる特徴を有した都市がエジプト、インダス渓谷に建設された。独自の都市化が起こった中国では、紀元前3000年頃に都市の出現が見られ、紀元前500年頃までに、人口10万人超の都市が少なくとも四つ存在するという、同時代の他地域では見られない状況を呈した。中央アメリカにおいても都市ネットワークの建設が確認できるが、そのほかのほとんどの地域において都市はまだまれな現象であった。

 第2章「大都市」では、紀元前500年から紀元300年にかけて都市文明の繁栄を見た地中海沿岸都市が主として論じられる。中でも、政治制度や建築、文化の面で独創性を示したアテネ、ヘレニズム世界の文化的中心となったアレクサンドリア、世界史上最初の巨大都市といえるローマについて考察がなされた。ローマ人の手で、帝国内の各地にローマ同様の公共建築を備えた都市が築かれたこと、同時代にはそのほか、パータリプトラや長安、洛陽といった王国の首都が、ギリシア・ローマの影響圏の外に発達したことも記される。

 第3章「衰退と発展」では、西欧が西ローマ帝国の崩壊による都市の衰退とその後の再発展を経験する4世紀から15世紀までの世界各地の都市の展開を跡付ける。当該時期前半、11世紀までのヨーロッパにおいて都市の活力を牽引したのはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルであった。アジアとヨーロッパ、地中海と黒海を結ぶ国際商業網の要に位置したことが、その繁栄の鍵であった。同様に、首都という政治的地位と大陸間貿易の経路という地理的条件によって発達を遂げたのは、8世紀後半にアッバース朝カリフによって築かれたバグダードである。中国では行政中心地を主な核として都市網が形成され、長安、南京、大都といった時の帝国の首都がその頂点に位置した。アメリカ大陸においては、14世紀にアステカ帝国の首都として建設されたテノチティトランが、15世紀末までに西半球最大の都市に発展した。これら大国の首都として整備された都市と異なり、当該時期後半に再発展を遂げた西欧都市は、個人の居住選択の結果出現したという特徴があった。そのほか日本、カンボジア、西アフリカで都市の発生が見られた。

 第4章「首都、文化、植民地化、革命」は、16世紀から18世紀までの都市を検討対象とする。近世ヨーロッパでは、政治的中央集権化の結果、首都の急拡大が見られ、とりわけ北西部において急速に都市化が進展した。アジアでは、進出してきたヨーロッパ人との交易も部分的には寄与したが、多くはそれぞれの地域内の要因により都市化が進展し、例えば大名による城下町の建設によって日本における都市部の人口割合は増大した。中でも行政の中心地たる江戸は文化的消費の中心地としても繁栄を極めた。他方、アメリカ大陸においてはヨーロッパ人による植民都市建設が都市化を主導した。中でも18世紀第四四半期に英語圏で二番目の大都市となったフィラデルフィアは、公共圏の成立を背景にアメリカ独立運動の主たる原動力となった。社会的格差などの問題を孕みつつ巨大都市となったパリとロンドンにおいてはすでに同様の公共圏の発達が生じており、アメリカ独立に力づけられた人々は、パリでは革命を成し遂げ、ロンドンでは急進主義組織の活動を通じて民主主義の拡散を図った。

 第5章「工業化時代における都市の成長とその結果」は、世界大戦勃発までの長い19世紀の都市について考察する。新たな国民国家の樹立による行政の中央集権化と産業革命の結果、都市への人口集中が生じた。工場での高生産性を担保するのは蒸気機関という新たな動力源や機械の導入だけではなく、多数の労働者の工場近くへの居住でもあったからだ。機械化された輸送手段の登場は農村から都市への移住も促すことになった。過密に伴う公衆衛生上および道徳上の懸念から、都市環境の改良を目指した民間団体による事業が活発化した一方、権限強化された地方自治体の主導で、19世紀半ばから20世紀初めにかけてヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で衛生面を中心にインフラ整備が進められた。加えて、百貨店やミュージックホールなどの文化的インフラが大衆消費市場の力で生み出され、これらは都市の魅力、都市生活への愛着を強化することになった。

 第6章「植民都市」は、第5章と同時期の帝国主義支配下に置かれた地域の都市について論じる。ヨーロッパ列強の直接的支配が及んだ南アジア、東アジア、東南アジア、アフリカの都市は、支配権力を象徴する公共建築物の存在といった共通点を持ちつつ、住民のほとんどがヨーロッパ人の場合と、非白人である場合(その多くが植民地化以前に歴史を持つ古い都市)とで、設計や政治制度などの点で異なる特徴を有することになった。後者においては、同時代のヨーロッパでは許容されなくなりつつあった非民主的な統治が行われた。権威主義的体制の下で公衆衛生の改善はあまり進まなかったが、こうした試みの中で西洋人と地元民の居住地を分離する人種隔離政策が提案され、いくつかの都市でそれが実行に移されていく。いずれにせよ宗主国の支配の確立、維持のための拠点として都市が重要な役割を果たし、ヨーロッパの都市、植民地の都市、後背地の間で以前にも増して緊密な関係が形成されることになったが、そのネットワークは帝国主義の打倒を目指す運動にも力を与えることになった。

 第7章「破壊と再建」は、世界大戦勃発から戦後復興期にかけての都市について検討する。総力戦による困難に直面し不満を抱えた人々を懐柔し秩序を維持するため、国家や自治体は以前にも増して社会への介入を強めた。しかしペトログラードでは革命が勃発し、その後の内戦を経て生まれたソヴィエト連邦の領域では、急速な工業化とそれに伴う都市化が進んだ。アメリカの都市などの例外を除き、第二次世界大戦がもたらす暴力と無秩序は、それまでの戦争と比べてもはるかに壊滅的な被害を都市居住者に与えることになった。戦後、西側東側問わず、都市部の再建が政府の最重要課題として推進されていく。

 第8章「一九五〇年以降の都市の衰退と成長」は、20世紀後半から今世紀初頭にかけての都市の変遷を跡付ける。この時期、脱工業化と都市郊外化により衰退する都市が欧米で見られた一方、都市化が急速に進展したアジアやアフリカで、上海やラゴスといった巨大都市が出現した。この要因は公衆衛生の改善による自然増と農村から都市への人口移動であり、後者は教育を通じた若者の啓発やマスメディアを通じた都市生活の喧伝によって促されていた。また、摩天楼の建設も都市居住者の急拡大を可能にした。これら開発途上国の都市を中心に、スラムや大気汚染などの課題が今なお山積しているが、他方、都市はそうした問題の解決が模索され未来が形作られる場でもあると締めくくられる。

 以上概観してきたが、評者の考える本書の意義は、同時代の世界史的状況の中に各地の都市形成や発展を位置付けているという点にある。例えば、紀元前3世紀に35万人ほどの住民を擁したパータリプトラが同時代のローマと同程度の規模だったと述べる(p. 42)一方、その後紀元2世紀までに後者の人口は少なくとも70万人に達し、世界史における最初の巨大都市となったという評価を与える(pp. 33-34)。このように本書は随所で様々な都市の推計人口を示しつつ共時的、通時的な比較を提示しており、評者のように個別都市の実証研究を行っている者の目を開いてくれるように思われる。

 ただ本書が、シリーズの巻頭言で掲げられるヨーロッパ中心的な発展段階の叙述ではない新しい世界史叙述の試みとなっているかどうかと問われると、その点はやや心許なく感じた。例えば章別編成について、第3章からは明らかであるが、西洋史の時代区分を踏襲しているように思われる。その結果、15世紀末までに都市化が進んだ中国の都市人口はヨーロッパのそれよりも多く、1800年当時、北京は恐らく世界最大の都市であった(p. 81)と指摘しながら、第3章、第4章でのそれぞれ分散した言及に留まり、大都から北京への都市発展の筋道立った叙述が提示されないという憾みが残る。ほかにも、植民都市を考察する第6章において(前後の章では日本の事例が考察されているにもかかわらず)、大日本帝国の植民地ないし居留地についての言及は皆無であるが、仮にそうした議論が加わっていれば、この章でもっぱら対象となっているヨーロッパ列強による植民都市のあり方を相対化する叙述になり得たのではなかろうか。

 もっとも、たとえ上述の指摘が妥当だとしても、都市を主題とする世界史叙述を日本語で世に問うた本書の価値は揺らぐものではない。都市史研究者はもちろん、日本史と世界史の共時性に関心を持つ教育者にも一読をお勧めする。

(「世界史の眼」No.67)

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書評:鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』中公新書、2025年
野村真理

 本書の図0-1「ユダヤ人が拠点とした都市間ネットワークや移民の動き」を見ればわかるように、彼らの足跡は世界各地におよび、3000年にわたるユダヤ人の歴史を語ることは、ほとんど世界歴史を語るに等しい。私の場合、近現代ヨーロッパの歴史であればほぼ頭に入っているが、同じヨーロッパでもそれ以外の時代や、ヨーロッパ以外の地域の歴史となると断片的な知識しかなく、その知識も、大昔に高校世界史を学んで以後、どこまでリニューアルされているか怪しい。たとえば本書の第2章第2節「イスラーム世界での繁栄」を読むにあたって、ササン朝、ウマイヤ朝、アッバース朝とはどのような王朝であったかと、ヴィキペディアを読み始めたりしようものなら、新書一冊を読み終えるのにとんでもない日数を要する。この点、著者の鶴見氏は「まえがき」で、「本書は、世界史やユダヤ教に関する予備知識なしでも通読できるように書かれている」(iv)と謳っているが、実際、いちいち細かいことを気にしなければ、予備知識がなくてもそれほどストレスを感じることなく通読できるように配慮ある書き方がされており、この点、見事というしかない。

 またユダヤ人は、古代の一時期を除き、彼らが活動した大半の地域においてマイノリティであり、その地域の歴史の規定者ではなかった。著者は、歴史は諸状況の「組み合わせ」の変化であるととらえ、マイノリティであるユダヤ人の歴史の見どころは、彼らが与えられた組み合わせに対し、いかにみずからを「カスタマイズ」することに成功したか、あるいはカスタマイズに成功したがゆえに、その組み合わせが変わったとき、いかなる悲劇に見舞われたかを検証することだという。歴史社会学者ならではの(?)「組み合わせ」や「カスタマイズ」という語が目新しいが、それによってユダヤ人の歴史の新しい語り方が示されたわけではない。これまで職業歴史家が「諸関係」とか、「適応/変容」その他の語を用いて語ってきたことと内容的には同じである。しかし、それを「組み合わせ」や「カスタマイズ」ということで、著者は一般読者に対して読書のハードルを下げることに成功した。ほかにも意図的に口語的表現を織り交ぜ叙述を軽くするなど、高校生にも読める本にしようとする著者の工夫が感じられる。

 さて、世界歴史を語るに等しいといっても、古代から現代まで、それぞれの時代でユダヤ人が経済的にそれなりの影響力を持ち、また彼ら自身の文化が発展をとげた地域というのはあり、その地域の時系列的移動に対応して、本書は、第1章の主たる舞台は歴史的パレスチナ(現在パレスチナと呼ばれている地域と区別し、オスマン帝国時代に大シリアの一部と認識されていたパレスチナをさしてこの語を使用する)、第2章は西アジア、イベリア半島、ドイツ、第3章はオランダ、オスマン帝国、ポーランド、第4章はロシア/ソ連を含むヨーロッパ、第5章はパレスチナ、アメリカと、ユダヤ人の歴史を語る書物ではほぼ定番といえる構成をとっている。

 そのさい本書の特徴は、著者が専門とする近現代ロシア/ソ連にかかわる記述が手厚いことだ(第4章第2節と第3節、第5章第1節)。20世紀はじめのロシア帝国は、現在の国名でいえばリトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァその他をカバーし、1900年の時点で、世界のユダヤ人人口の約半数に相当する520万人がロシア帝国に暮らしていた(175頁および図4-1)。古代の歴史的パレスチナを発祥地とするユダヤ人は、ローマ帝国時代に帝国の支配がおよんだ現在のフランスやドイツへと居住地域を広げるが、十字軍時代に迫害の激化に押されて東進を開始し、ヨーロッパのユダヤ人人口の重心は、16世紀にはポーランド・リトアニア国の版図へと移動した(第3章第2節)。日本は『アンネの日記』が最もよく読まれている国の一つであり、ホロコーストに対する関心は低くはないと思われるが、推定600万人にのぼるホロコーストの犠牲者の多くが、アンネが生まれたドイツではなく、上記の520万人から出たことはどの程度知られているのだろうか(図4-4)。ロシア帝国末期のウクライナ南部や、現在のモルドヴァの首都キシナウ(キシニョフ)でのポグロム、ロシア1905年革命後のユダヤ人の政治参加や、1917年のロシア革命後、内戦期のウクライナで猖獗をきわめたポグロムと「想像の民族対立」(202頁)など、一般読者に対し、これら520万のユダヤ人の歴史への着目を促したことの意義は大きい。

 しかし、そうであればこそ、新書という紙幅の制限があるにしても、520万のユダヤ人のうちの300万人以上が暮らした両大戦間期ポーランドの記述には少々不満が残る。著者、鶴見氏が本書でも、他の諸論考でも繰り返される持論は、シオニストにおいて、1917年のロシア革命後の内戦期ポグロムとパレスチナのアラブ人によるユダヤ人襲撃との観念的同定が、彼らにアラブ人との共生の可能性に見切りをつけさせ、アラブ人に対する彼らの態度を敵対的な方向で過激化させたということである(250頁)。だが、それをいうのであれば、両大戦間期ポーランドの「想像」ではない少数民族としてのユダヤ人が体験した迫害とナクバ(イスラエル建国の年1948年に起こったパレスチナ人の虐殺、追放/逃走)とのねじれた関係にも踏み込んでほしかった。というより、踏み込まなければ、提供される歴史的知識は偏ったものとなる。

 第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドは、本書にも書かれているとおり(216-217頁)、人口の3分の1をウクライナ人やユダヤ人その他が占める多民族国家であったが、「ポーランド人のポーランド」を希求してウクライナ人の民族的権利要求を弾圧し、経済活動や大学等におけるユダヤ人差別も苛烈だった。ポーランドにとってユダヤ人は、できればどこかに出て行ってほしい人々であり、ここに、ユダヤ人のパレスチナ移住を促進したいシオニストとユダヤ人を排除したいポーランド国家とのねじれた利害の一致が生じる。パレスチナでは、1920年、1921年、1929年、1936年から39年と、ユダヤ人やパレスチナを委任統治するイギリスに対してアラブ人の襲撃が規模を拡大しながら続いたが、ポーランドで活動する修正主義シオニスト(252頁)の青年組織ベタルのメンバーに対し、ユダヤ人国家の設立を阻害するアラブ人やイギリスと戦うための軍事訓練を提供したのはポーランド軍だった。ウクライナ人によるテロ行為の頻発など、両大戦間期ポーランドの少数民族問題の先鋭化を身に染みて知る修正主義シオニストは、将来のユダヤ人国家で発生が予測されるアラブ人問題をけっして過小評価してはいなかった。そのさい修正主義シオニストが模倣したのは、民族の浄化を志向するポーランドの排他的ナショナリズムであり、1948年のナクバにおいて、修正主義シオニストの軍事組織イルグン(252頁)やベダルのメンバーは、ユダヤ人国家となるべき土地にいるアラブ人に対して民族浄化を率先した。現在のイスラエルでネタニヤフが率いるリクードは、修正主義シオニズムの系譜に連なる政党である。

 大型書店に行くと、ウクライナ・コーナーとパレスチナ・コーナーがあり、パレスチナ・コーナーに本書が平積みしてあった。数多の学術賞の受賞に輝く鶴見氏の知名度の高さもあり、よく売れているようだ。ウクライナにしても、ユダヤ人にしても、その歴史に注目が集まるきっかけが戦争というのは複雑な気持ちだが、ユダヤ人については陰謀論めいた「トンデモ本」も少なくないなか、本書のような堅実な歴史書が一般読者の手に渡るのは、ユダヤ人の歴史研究に携わる者の一人として喜ばしい。鶴見氏の記述に注文をつけたが、本来、ポーランドのユダヤ人の問題は、ポーランド史の研究者によってきっちりと探求されるべき事柄である。しかし、日本にはポーランド史を専攻する研究者は少なく、ましてユダヤ人の歴史の専門研究者となると数えるほどしかいない。本書の若き読者のなかから、東欧・ロシアの520万ユダヤ人の歴史に興味を持つ人が現れるようにと願ってやまない。

(「世界史の眼」No.64)

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帝国対民主主義の今日―ガザの危機
パトリック・マニング(南塚信吾訳)

新しい帝国―合衆国とイスラエル

 第二次世界大戦後、帝国は徐々に消滅してきた。140カ国が植民地支配から独立を勝ち取った。しかし、帝国を築く2つの動きがあった。イスラエルは1948年の独立以来、パレスチナ人を追放し、抑圧し続けた。1980年までにイスラエルは帝国となり、中東を支配しようとしてきた。一方、アメリカ合衆国は、1981年のロナルド・レーガン政権以降、核兵器の増強、多くの国での戦争、イスラエルとの緊密な同盟関係によって、「西洋文明」の夢を掲げつつ、過去の帝国を再び確認してきた。イスラエルとアメリカ合衆国はともに、植民地支配の廃止を支持する強い民主主義の伝統を持っていたが、多数派になることはできなかった。

 イスラエルと米国の指導者たちは、特に2000年以降、中東における産軍支配を目的とした戦略で一致してきた。米国はさらに、世界的な支配も追求してきた。米国は国連への参加を徐々に縮小し、安全保障理事会での決議の拒否権行使を除いては、ほとんど参加しなくなった。一方、イスラエルは主に、パレスチナ人を抑圧しているとの非難を否定するため、国連に残って活動を続けてきた。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領の時代、この二つの同盟帝国はそれぞれより強硬な措置を講じ、世界における優位性を主張した。米国はニューヨークとワシントンでの9・11テロ攻撃の後、イラクとアフガニスタンへの侵攻を行い、イスラエルはガザでの反乱に対する抑圧を強化した。

 米=イスラエル同盟は、政治的・社会的な不平等を強化し、税金を秘密裏の攻撃や終わりのないプロパガンダに流用している。米国は環境改革を無視し、一方イスラエルはパレスチナ人への対応において「環境アパルトヘイト」と非難されている。

 それでも、米国とイスラエルにおいて、民主的かつ反帝国主義的な勢力が権力を掌握する可能性はゼロではなかった。

グローバル・デモクラシーとその戦略

 グローバル・デモクラシーの運動は、脱植民地化と国民レベルでの平等を目的としている。つまり、各国家の自由と、国家内におけるすべての人の権利である。国連の南アフリカにおける多数派政府樹立に向けた長期的なキャンペーンは1992年までに成功したが、パレスチナ国民の国家の樹立に向けた長期的なキャンペーンは未だ成功していない。ただし、パレスチナは138カ国から承認されている。

 国連において、各国代表は、各国と世界の福祉に関する広範な合意と関心を築きあげ、それには環境改革への広範な要望をも含ませている。彼らは、米国と他の4カ国が拒否権によって安全保障理事会の行動を阻止する拒否権の廃止を求めている。グローバル・デモクラシーと提携して大国になろうとする野心的な国々がある。それは、中国、ロシア、トルコ、フランスであり、そして時折インドが含まれる。

 国連以外では、グローバル・デモクラシー運動は、天安門、南アフリカと西アフリカ、東欧などでのデモのように、世界的なデモを通じて平等を支援する取り組みを行ってきた。真実と和解委員会は、数多くの国で紛争の解決を目指してきた。グローバルな大衆カルチャー、特にスポーツは、伝統の広範な共有を促進した。世界的なデモは、2003年のイラク侵攻に反対し、2020年にはジョージ・フロイドの記憶を偲び、差別撤廃を訴えた。特に強力な反対運動はジェノサイドへの反対であり、ごく最近ではイスラエルに対するジェノサイド訴追がある。

産軍の戦略

 推計によると、米国は2023年10月以降、イスラエルへの軍事援助を年間$200億以上増加させた。この間、米国は世界中に基地と艦隊を維持している。これには、2007年に設立されたアフリカ司令部が含まれ、これはアフリカと西アジアで定期的な攻撃を実施し、アラブや他の敵対勢力の機関を弱体化させるための秘密プログラムを維持している。

 イスラエルは植民地時代からパレスチナ指導者を暗殺してきた——この政策は2000年に拡大した際に、正式に発表された。2002年以降、米国は、パキスタンや中東だけでなく、アフリカにおいても、同様の暗殺を小規模ながら実施してきた。これらの標的殺害のほかにも、イスラエルの占領下パレスチナへの入植は、西岸地区の併合の基盤を築いてきた。このやり口に関連するイスラエルの宣伝活動は、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)に対する攻撃をでっち上げたり、米国議会議員がイスラエルの政策を支持するように政治献金をしたり、イスラエルの帝国主義を批判する者を「反ユダヤ主義」とレッテル貼りして歴史を改竄するまで多岐にわたっている。

 さらに、1980年以降のイスラエルの核ミサイル生産によって、100基を大幅に上回るミサイルが備蓄されるに至っていて、それらは主にテヘランを標的としている。

歴史の教訓―帝国の征服対世界戦争

 ナポレオン・ボナパルトは、1790年代の革命期フランスで最も成功した将軍として権力を掌握し、それから、世界支配の夢を抱いて帝国を築いた。彼は10年間その地位を維持したが、1814年にはその戦略は失敗した。それは、ヨーロッパのなかのあまりに多くの他の指導者たちや一般市民が彼に反対したためである。その後は、各国の統治者は、一度に一地域ずつ征服することによって帝国を拡大しようと試み、しばしば成功を収めた。

 イギリスとフランスは巨大な帝国を築き、ドイツ、日本、アメリカは世界大国となった。しかし、2つの大きな場合に、戦争が制御不能になった。第一次世界大戦では、大国間の戦争が莫大なコストを要したため、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ロシアの各帝国が崩壊し、その植民地15カ国が独立を勝ち取った。第二次世界大戦では、ドイツ、日本、イタリアが主導した限定戦争が世界規模に拡大した。戦後、勝利した帝国もほとんどの植民地を手放さざるを得なかったが、パレスチナは例外であった(イスラエルは1948年にイギリスから独立したが、イギリスとイスラエルはパレスチナの独立を認めなかった)。

 イスラエルの現在の戦争——パレスチナを破壊し、中東を支配するための戦争——は、制御不能になり、世界大戦に発展する可能性が高い。グローバルな民主主義は、そのようなエスカレーションを阻止するために介入できるだろうか?

現在の争い

 2025年1月、停戦合意により、ガザの住民数千人が破壊された自宅の残骸に戻ることができた。人質交換が行われ、国連難民救済事業機関(UNRWA)が食料と物資の配給を実施した。しかし、数ヶ月後、イスラエルは停戦合意の第二段階を実施せず、UNRWAを退去させ、ガザでの食料と物資の配給をすべて停止した。イスラエルは3月18日にガザ爆撃を再開し、その後の2ヶ月間で5,500人が死亡したと報告されている。

 パレスチナ人が飢餓に直面する中、イスラエルと米国は「ガザ人道支援組織」という民間企業を設立し、5月26日からハマース反対派と分類された人々に対し、少量の水と食料を配布した。6月1日、フリーダム・フロティラ連合(=国際的な人権活動家のNGO)は、イギリス旗を掲げた船舶「マドリーン」に食料と医療物資を積んで、シチリアからガザへ向けて出航させた。乗組員12名には活動家のグレタ・トゥンベリが含まれていた。6月9日、イスラエル軍艦が同船と乗組員を拘束した。同様に、6月15日から17日にかけて予定されていた「グローバル・マーチ・トゥ・ガザ」は、カイロを経由してガザを目指す予定だったが、エジプトの治安部隊がグループを停止させ、解散させてしまった。

 6月12日、国連総会(UNGA)は、ガザでの停戦に関する新たな決議を採択した。この決議は、193カ国中149カ国の支持を得た一方、反対は12カ国(=米国、イスラエルなど)に留まりまった(これは、ニューヨークでの計画されていたガザに関する会議直前のことであった。この会議では、フランスとサウジアラビアが、いくつかの国にパレスチナを外交的に承認するよう促そうとしていたのだった)。

 6月13日、イスラエルはイランの原子力施設とテヘランに対して大規模な攻撃を仕掛け、科学者や将軍を殺害した。6月13日は重要な日であった。攻撃は、その日イタリアで開幕したG7会議の議題を揺り動かした。また「マドリーン」と「グローバル・マーチ」(=児童労働に反対する運動)に対するメディアの注目も途絶えさせた。さらにこれは、国連総会決議に対するイスラエルの反応であり、6月17日から20日にニューヨークで開催予定だった会議(=ニューヨークの国連本部で2国家共存による中東和平を目指す国際会議が予定されていた)を「延期」させた。しかし、最も重要なことは、イランへの爆撃によって、4月から続いていた米国とイランの核平和に関する協議が中断されたことである。ドナルド・トランプは、イランへの爆撃について、米国による海外での戦争に反対するという彼の長年の立場に反するにもかかわらず、突然、イスラエルを支持するよう迫られたのだった。

明日―民主主義か世界戦争か

 米国とイスラエルは現在、深刻な孤立状態に陥っている。G7加盟国と欧州諸国は、国内の反対意見の高まりを受けて、イスラエルの戦争から手を引きつつある。BRICS諸国(インドを除く)はイスラエルの攻撃に反対している。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアの諸国における市民運動は、自国政府に対し、イスラエルにより強硬な姿勢を取るよう圧力をかけている。米国市民の世論はガザとイランへの攻撃に反対しているが、米国政府によるイスラエルへの支援はさらに強化されている。そして、6月22日、米国はイスラエルのイランに対する空爆作戦に参加した。トランプ大統領は、おそらくネタニヤフ首相からの迅速な行動を求める圧力に直面していたため、ナタンズ、フォルドゥ、イスファハンにあるイランの核施設に対する空爆を命じた。

 イラン攻撃において、トランプはガザのことを忘れてしまった。ジェノサイドによる民族抑圧と大国間対立との複雑な結びつきは、突然の変化の余地を多く残している*。実際、米国とイスラエルに対する真の反対は、イランの防衛からではなく、ジェノサイドへの反対とパレスチナの独立支持から来るのである。このような反対は、世界中で明確に表れている。それは公けのデモを通じてだけでなく、国連、G7、国際司法裁判所のような公式機関を通じても出てくるのである。

 私は、米国とイスラエルが最終的にはパレスチナの国家独立とイランとの平和を受け入れるだろうと信じている。その方法は、民主的な変化を通じてなのか、世界大戦を通じてなのかは分からない。いずれにせよ、ガザでの殺戮の全記録は、次第に国際社会から孤立する両「帝国」を、国際社会へ再加盟させることになるであろう。だが、これには、国際司法裁判所によるジェノサイドに関する判断を受け入れるだけでなく、グローバル・デモクラシーのより広範な原則を完全に受け入れ、大事にすることが必要となるであろう。

出典:
Patrick Manning, Empire vs. Democracy Today: The Crisis of Gaza
(Contending Voice 2025年6月24日)
https://patrickmanningworldhistorian.com/blog/empire-vs-democracy-today-the-crisis-of-gaza/

マニング氏から翻訳・掲載の許可を得てある。ただし、その後、本人からの連絡により、一部を修正してある。

*このところが不分明であったので、著者に意味を問い合わせたところ、ここでは、いくつかのことを指摘しようとしていると言う。その一つは、トランプはイラン爆撃に熱中してガザの事を本当に忘れてしまったのだという事。第二に、トランプは2セットの矛盾した目標を持っているという事。つまり、イスラエルの求めるようにガザその他のパレスチナ人を絶滅させることと、パレスチナの和平を実現すること、および、同じくイスラエルの求めるようにイランを破壊することと、イランの和平を実現することである。第三に、国連やその他の国が介入して来るかもしれないという事。とくに、ロシアと中国とパキスタンが(方法は不明だが)核兵器をイランに提供するかもしれない。こういうことがあるので、状況は不安定で突然変化が起こるかもしれないと言うのである。

(「世界史の眼」No.64)

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