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松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』(Mi&J企画)から学び、受け継ぐこと
米山宏史

 青山学院高等部で42年の長きにわたり世界史教育に携わり、その後、複数の大学で非常勤講師として社会科教員の育成に尽力した松本通孝氏が標記の書籍を上梓した。本書は同名の3冊目の著作であり、教員としての軌跡を振り返り、「HR通信」「世界史通信」を掲載して授業実践やクラス運営の努力や工夫を紹介するとともに、デジタル化時代の現在にふさわしい歴史の授業方法について、様々な提言を寄せている。本書の内容を紹介しながら、松本氏の歴史教育の業績から学び、継承すべきことを考えてみたい。本書の構成は以下の通りである。

はじめに
第1章 「私の授業」を振り返る-生徒・卒業生との対話-
 序
 その1 「チョーク&トーク」式授業は、役に立たなかったのか
 その2 先輩の諸先生方の実践から学んだこと
 その3 「私の授業」での工夫 略地図・略年表を利用した授業
 その4 生徒との対話①「HR通信」……担任と生徒とのキャッチボール
 その5 生徒との対話②「世界史通信」……授業での対話を目指して
 その6 毎日の授業での工夫と限界……臨機応変の対応、問いと史資料の活用 
第2章 「これからの授業」を展望する
 その1 「インタビュー」記事の補足 私にとっての歴史教育の原点
 その2 定年後の歴史教育との接点
 その3 これからの歴史教育に期待すること
執筆を終えて

 第1章の序では、40数名が在籍する教室で「チョーク&トーク」式授業を展開しながら常に生徒とのコミュニケーションを取ることを重視し、歴史を学ぶことは、面白く、暗記は必要なく、自分の頭で考え推論すること、縦の連関と横の連動、視角を変えると別の解釈が成り立つことなどの大切さを伝えてきたと述べ、講義式授業でも工夫しだいで生徒自身が思考する授業の試みが可能であることを紹介したいと語っている。

 つづく第1章では、6つの節を通じて、自身が中学・高校時代に経験した「チョーク&トーク」式授業を自分が教員としても続けてきたこと、授業の本質が教員-生徒間の対話である以上、この授業スタイルから学ぶことは尽きないこと、毎時の授業で色チョークで略地図を記入し空間的把握の大切さを強調したこと、随時刊行した「世界史通信」(2006年には年間60回の授業で36回刊行)に各学習テーマの略年表や「今週の授業のねらい」などの情報のほか、お勧めの美術館・博物館やテレビ番組・映画作品の案内、推薦図書などを載せ、また、それらに対する生徒の感想や意見を掲載し続け、授業の内外で生徒との対話を追求したことなどが詳述されている。

 第2章では、第1節で「インタビュー記録 歴史教育体験を聞く 松本通孝先生」(歴史教育史研究会編『歴史教育史研究』第20号、所収)が掲載され、小学校まで遡り、卒業論文など学生時代の学びをたどりながら松本氏の歴史教育者としての歩みが語られている。第2節では定年退職後、卒業生との読書会を立ち上げ(2018年5月開始、60回以上を開催、登録メンバーは50余名)、日本史を含む世界史の様々なテーマの学習活動を行っていること、学習ボランティアとして中高生の社会科学習のサポートに関わり、「生徒の立場から見た授業」を知り、中学校歴史的分野の教科書記述が詳しすぎること、生徒がタブレットの情報や教員が求める「正答」に縛られているとコメントしている。第3節では、歴史の授業の最大の問題点として、歴史の授業から何を学ぶか、そしてある程度の知識の定着を挙げ、さらに歴史を理解できるために知識、分析力、関連づけて考える力の重要性を指摘し、そのためにはアナログ的手法とデジタル的手法の対立ではなく両者のプラス面を最大限に生かした新しい手法が必要だと語っている。

 本書を通じて、松本氏の教員人生の歩みを理解し、氏の歴史教育の仕事から学び、継承したいことは多々あるが、とくに以下の6点に注目したい。その第1は、生徒(保護者・卒業生)との対話の重視とその実践である。氏の他者を尊重し、真摯に対話を行う姿勢は、現職の教員時代だけでなく定年退職後の学習ボランティアや卒業生との読書会でも首尾一貫している。とくに、授業を、教員から生徒への一方的な伝達ではなく教員と生徒との対話の場と位置づけ、それを追求してきたことは、氏の歴史教育論の核心として極めて重要である。そこには、氏が指針として学んだという鈴木亮氏ら先人の歴史教育者からの影響(授業は教員から生徒への問題提起であり、生徒と教員の学び合いの場である)がうかがわれる(鈴木『世界史学習の方法』岩崎書店、1977年)。

 第2に、対話の重視と並ぶ松本氏の教員人生の特徴は、生涯、探究心を持って学び続け、自己研鑽を重ねる姿勢である。それは、比較史・比較歴史教育研究会への参加や近現代史教育研究会の結成、世界史の教科書や辞典、『世界史史料』(歴史学研究会編、全12巻、岩波書店)をはじめとする様々な論考の執筆活動や編集作業に現れている。研究会での人との出会いや書籍からの豊かな学びが氏の教員としての力量を高め、授業方法の刷新・更新の契機になっている。

 第3に、教室を越えた生徒への学びの提供である。近年、働き方改革が社会問題となり、教員の長時間労働が問題視されているが、それに先立ち、氏は生徒の世界史への興味・関心の涵養をめざし、多くの時間と労力を費やして教科通信を精力的に発行し、教室を越えた生徒との世界史対話を実践した。「世界史通信」には教員からの情報提供だけでなく、多くの生徒からの投稿原稿が掲載されたことにより、教科通信が教員と生徒、生徒と生徒を結びつけ学び合いを作り出すことに成功した。また、毎月1回、放課後に若手教員と有志の生徒が集まり、その時々の歴史のテーマ(明治維新の諸改革と『夜明け前』に描かれた農村の変化の比較、ウィーン体制下のオーストリアの音楽家たちの活躍など)を語り合う「自主講座」は、教室空間を越えて生徒と教員が対等な立場で、人格的に触れ合い学び合う極めて優れた教育実践である。よく見られる風景である定期試験直前の補習や質問会ではなく、大学のサブゼミのように何らかのテクストの輪読会などを設け、生徒と教員の学び合いを恒常的に続けることができれば、非常に理想的な歴史実践となる。

 第4に、毎時の授業の中で、略地図と略年表の活用を重視したことを特記したい。世界史の学習では、今日の授業で扱うテーマがいつ、どこで生じた歴史的事象であるかという空間認識と時間認識の保障が単元を理解する前提となる。その点で氏が毎回、色チョークで略地図を板書し、生徒がそれを書き写す作業は、氏のおなじみの授業風景であるとともに生徒の「縦の連関と横の連動」の把握に資したに違いない。氏は、世界史学習における地図利用の重要性を吉田悟郎氏や鈴木亮氏から学んだと記している(吉田氏が提唱した「世界史の同時代的・全面的(全地域的)把握」の構想(吉田『歴史認識と世界史の論理』勁草書房、1970年)は、その後の世界史教科書の「○○世紀の時代」やグローバル・ヒストリーの歴史把握にもつながり、再評価に値する)。

 第5に、多様な世界史像や世界史の見方の追究が挙げられる。氏は比較史・比較歴史教育研究会への参加などを通じて、「自国史と世界史」「世界から見た日本、日本からの世界」という視点を獲得し、それを追究したほか、定年退職後に卒業生との読書会を立ち上げ、教会音楽史、アジアから見たヨーロッパ、日本の開国と連動する世界史、アメリカ合衆国の先住民政策や1920年代の人種差別など多岐にわたるテーマを学び合い、常に世界史認識を拡大・深化させ、更新している。松本氏の姿勢が示すように、世界史教育に携わる者は、世界史の研究動向に敏感であり、新しい研究潮流(グローバル・ヒストリー、パブリック・ヒストリー、ジェンダー史、地球環境・生命環境系の歴史、歴史の構築主義・構成主義など)を学ぶ必要がある(小川幸司「<私たち>の世界史へ」『岩波講座世界歴史01』岩波書店、2021年)。また、氏が歴史教育の方法論的仮説として探究した「自国史と世界史」とそれに先行する「世界史と日本史との統一的把握」(上原専禄が1957年に問題提起)は現在の「歴史総合」の授業づくりに役立ち、参照されるべきである。

 第6には、デジタル的手法とアナログ的手法の両立・併用という指摘である。グローバル化とともに社会のデジタル化が進行し、生徒が一人一台端末を所有・活用する現在、デジタル教材の利用は不可欠である。その際、デジタル教材か、アナログ教材かの二者択一ではなく、両者を併用した有効活用が現在の学校教育の実際の授業風景である。たとえば、中学校2年生の歴史の授業でホロコーストを学習する際、デジタル教材としてロイロノートのシンキングツールとアナログ教材として新聞や絵本が併用され、学習成果を上げている(原琴音「戦争と平和を考える-デジタル×アナログ教材での学び-」教育科学研究会編『教育』960号、2026年1月号)。

 戦後80年の今年(2025年)、松本氏の3冊目の『一世界史教師として伝えたかったこと』に接し、「伝えたかったこと」を受け止め応答したいという想いから本書の内容を紹介し、受け継ぐべき論点を提示した。氏のメッセージが今後の世界史教育に継承され、授業づくりに資することを願ってやまない。

(「世界史の眼」No.70)

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幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)
南塚信吾

 久米邦武『米欧回覧実記』(1878年)は、久しく日本の世界観がロシア中心に形成されてきたとしている。 

「文化元年(1804年)の9月、露国の使節レサノット氏の軍艦、長崎神の島に入港し、・・・全国太平の夢を驚かし、是より攘夷鎖国論は、沸然として沸起せり。此文化より嘉永安政の間に至るまで、鎖国の論家、外国の事情を研究するにあたり、先ず露国を畏憚する心を脳中におき・・」 (久米 1980 107-108頁)

 このため、「米欧」の事情を見ていない「井蛙の妄想」「妄想虚影の論」が日本に広がったというのだった。このレサノットとはニコライ・レザノフ(1764~1807年)のことである。レサノットの事件は、江戸期の日本が、それまでの中国中心の世界に現れた第一の「外国」としてロシアを強く意識し、ロシアを中心とした対外認識をする契機となったのである。

***

 フランス革命でヨーロッパが混乱している間に、東・北アジアでは、ロシアとアメリカが活動を繰り広げた。18世紀に入りじょじょに極東に出てきていたロシアでは、1799年に、レザノフがロシア皇帝の勅許を受けて国策会社ロシア・アメリカ会社(露米会社)を創立し、アリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を認められて、イルクーツク、オホーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動を始めていた。

 そして、1804年には、ロシアは通商を求めてレザノフを対日使節として長崎へ派遣した。レザノフは仙台の漂流船若宮丸の津太夫らを送還するために、バルト海のクロンシュタット港からナジェジダ号で出発して、南アメリカの南端を経由してカムチャツカのペトロパヴロフスクに入り、そこから長崎へ行って日本と交渉したのであった(木崎 1991 85-96、110-115頁;森永 2008 30-39,135頁)。

 奥州の若宮丸(800石、16名乗り組み)は、1793年(寛政5年)12月(旧暦11月)、石巻から江戸に向う途中、仙台沖で漂流し、1794年6月にアリューシャン列島に漂着した。漂着したのは津太夫ら14人であった。14人は、オホーツク、イルクーツク、モスクワを経て、ペテルブルクへ送られて、そこで8年間を過ごした。やがて、津太夫ら4名は、1803年にロシアの軍艦ナジェジダ号で,対日使節レザノフと、クルーゼンシュテルン艦長の率いる世界一周周航に乗ってロシアを出発、イギリス、ブラジル、ホーン岬を経て太平洋に出て、ハワイ諸島(オアフ島か)に寄港、そのあとカムチャツカに寄って、1804年(文化元年)10月(旧暦9月)に長崎に到着した。日本人として初めての世界一周であった。津太夫らの記録は大槻玄沢による『環海異聞』(1807年)として残っている(大槻他 1986 276頁;宮永2013 10―13頁)。

 しかし、長崎でのレザノフの交渉は幕府に拒否され、1805年、レザノフは長崎を後にしカムチャツカに帰った。彼はその後アラスカのシトカなどに向い、1807年に首都に向かうが途中で病死した。その間、幕府は1806年(文化3年)に「文化の薪水給与令」を出していた。だが、直後のレザノフの部下による樺太襲撃を受けて、1807年(文化4年)には「ロシア船打払令」を出すことになった。幕府との交渉に失敗したレザノフの部下フヴォストフは、1807年に樺太の大泊や利尻島や択捉島の紗那などを襲撃した。これにはロシア政府は関与していなかったが、日本の側に強い対露緊張感を惹き起こしたのだった(木崎 1991 85-96,110-115頁;森永1991 28-39,135頁)。

***

 このレザノフ事件は日本でどのように受け止められ、どのような対外認識を生み出したのだろうか。

 出羽国の出で蝦夷地にも渡ったことのある経世学者の佐藤信淵(1769-1850年)は、阿波国にいる時1808年に『西洋列国史畧』を著した。信淵は、やがて江戸に出て、宇田川玄随や大槻玄沢に学んだりして、農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範囲な分野で活躍していくが、その初期の作である。その中でいわく、

「文化2年(1808年)乙丑秋、魯西亜国より「ニコライレサノット」を使として・・・方物を貢す。我国の漂民佐平津太夫等を送て長崎に来舶し再び和親交易を通ぜんことを請ふ。朝廷又固く拒て許さず、且その使に告て曰く。自今已後必復来ること勿れ、若再来る者あらば大銃火砲以て事に従んと。使者「レサノット」拂然(=憤激)せりと云ふ。其翌丙虎の春「レサノット」帰帆す。其年の秋海賊我西蝦夷の内「カラフト」「リイシリ」諸島の鎮府を焼き、我邦の戌卒を擒(とりこ)にして而て去る。同4年丁卯夏海賊我東蝦夷「エトロフ」等の諸鎮を焼き、戌卒を擒にし、「シヤナ」の陣営を焼き、大に乱妨狼藉をなして、遂に奥州南部の海上、松前の箱館辺海に至り、然して去る。在曰是魯西亜国の「カクサツカ」在番の賊徒也と。」

 これはかなり事実を正確に述べたものである。この「海賊」というのは、上述のレザノフの部下のフヴォストフの部隊の事である。

 さらに『西洋列国史畧』はこう続けている。

「同5戌辰年(1811年)八月賊船肥前長崎の港に入り地形を度り津路を捜り狼藉して去る。或曰此海賊は是諳厄利亜(アングリア)人也と。彼諳厄利亜は従来魯西亜と同盟兄弟の国也。右の数事に依りて是を看れば、則今の世界の大躰且彼の二賊の情を亦然して識るべき也。」

 この諳厄利亜人の件は、ナポレオン戦争中の1808年(文化5年)に、イギリスのフェートン号がフランスの同盟国オランダの船を追撃して長崎に来て、その際通商を求めるが拒否された事件のことではないかと思われる。ただし1811年という年が違うが。  

 『西洋列国史畧』には、この後ろに「防海策」という一文がつけられている。徳島藩に仕えていた佐藤信淵は、海防も論じていたのである。これは1809年に藩の小老に信淵が語ったところを藤原邦貞が記録したものである。明和年中にロシアの船(ベニョフスキのこと)が阿州に来たので、海防の危機感を抱いていた徳島藩が、海防を聞いたものである。

 信淵は、「国家の利を興す者は通商交易より大なるはなし」という。そして、「自国をのみ保有して他国に出でて交易せざる国」は、「国内次第に衰耗」してしまう。「四方へ交易をなさざる国は武備も衰弱になり、国内も次第に窮乏し政教も小思になり風俗も軽薄になり人心も険悪になりて、且防御の備えも危難に」なると、鎖国政策を批判する。西洋の人は、日本をイギリスと対比するが、イギリスは大洋に航海し万国に通商し、「兵強く且富盛にして海外に属国極めて多く」、日本とは比べようがないと、冷静に見ている。

 そのうえで、まず、日本は、蝦夷を開拓し、その先の「カムサツカ」を「領知」とすべきであるという。そこは、ロシアと北アメリカの間にあり、交易の拠点になりうるし、東北の防海の要である。次いで、南では、「大清国」をめぐって、「狡猾」な国々がやってきて交易をしている。イスパニア、ポルトガルからオランダ、そしてイギリスとやってきている。この方面の防禦のためには、伊豆七島より出て南海の「無人諸島」を開発し、そこからさらにフィリピン諸島を開拓し、それらで物産を集めて清朝や安南と交易し、さらに琉球国と繋がるのがいいというのだった。蝦夷方面でのロシアの進出、清朝を目指すイギリスなどの進出による危機意識がわかる。ここには、蝦夷と清朝をめぐる世界認識が述べられていた(https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf)。

***

 ヨーロッパにおいてフランス革命とナポレオン戦争による混乱が一段落すると、ロシアに代わって、イギリスが日本に接近してきた。ウィーン会議後には、イギリスが積極的な東南・東アジア進出を行なったのである。1822年(文政5年)には、イギリスの捕鯨船が浦賀に来航、この際は食料・水・薪ほかを給与されていた。1824年には、イギリスの捕鯨船員が常陸国大津浜(茨城県北茨城市)に不法上陸するという事件が起きていた。これに対して幕府は、1825年(文政8年)に諸藩に「異国船打払令」を発して厳しく対応した。

 幕府が対外的危機感を強めている中で、1828-29年にシーボルト事件が起きた。1823年にオランダ商館付医官として来日していたフィリップ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、1824年に鳴滝塾を開設し、鳴滝塾の生徒としての高野長英、小関三英、伊藤圭介らのほか、天文方の高橋景保らとも交友を広めていた。この間に海外についての情報は蘭学者のネットワークを通じて拡散した。シーボルトは、1828年に帰国する際、禁制の日本の地図などを持ち出そうとしたかどで、帰国直前に捕まり、1829年に国外追放となったが、天文方高橋景保らは厳しい処罰を受けた。このシーボルト事件は、長崎の鳴滝塾を拠点に広がった蘭学者のネットワークを震え上がらせたが、幕府の政策を良しとしない人々も刺激した(石山他 2011 155-228頁)。

 このような蘭学の拡大のなかで、幕府の海外認識の甘さを指摘する者が現れるのは当然であった。それは、1837年のモリソン事件を契機に一層高まった。たとえば、渡辺崋山と高野長英は「異国船打払令」を時代にそぐわないものとして批判したのだった(佐藤編 1972 40-41、61-62頁;Plummer 1991 pp.110-112)。

 1837年、中国広東にあったアメリカ貿易商社が、イギリスと共同で、同社のモリソン号を日本へ派遣し、日本人漂流民7人を送還するほか、対日貿易の交渉を行おうとした。しかし、モリソン号を、イギリス船と見た幕府は、「異国船打払令」によって薩摩と浦賀において砲撃して追い返した。漂流民も寄港できなかったし、翌年には船はアメリカのものであることや漂流民を乗せていたことが判明し、幕府の対応が問われることになった。渡辺崋山も高野長英もモリソン号をイギリス船とみて、その背後にイギリスの勢力の進出を推測していた。

 1838年に出た高野長英の『戊戌夢物語』は、モリソン号事件を取り上げて、もっぱらイギリスの脅威を強調した。それは、イギリスの地誌や歴史を語り、近年のアジアへのイギリスの進出を語っていた。長英も、アメリカの商船モリソン号をイギリス人のモリソンが「頭」となった船であると誤解していて、その関係で、イギリスという国、その植民地、「支那」との関係を論じ、その後で、漂流民の引き渡しと、それへの幕府の対応を論じて、これを批判したのである。「船国地へ近寄」ると、「有無の御沙汰も之なく、鉄砲にて打払」うが、「凡そ世界の中、かくの如き御取扱は之無き事」である。そして、徳川の「鎖国の御政道」について、「仁義」をもって漂流民を送ってきたイギリスの船を「打払」うなら、「日本は民を憐まざる不仁の国」だと考えられるだろうと批判した。そして、長英は、イギリス船をどこかの港へ入港を許して、漂流民を受け取り、ついでに、「清朝、朝鮮、魯西亜、その他近国の事情」を尋ねるのがいいと提案した。

 そして、モリソンの事件が深刻であることを知らせるために、レザノフ事件を教訓とすべきだと述べた。文化年中、ロシア使節レサノット(レザノフ)が日本に渡来し、交易を願ったものの許されず、本国に帰ったのち、責任を取って自殺した。そのため部下のホーシトウ(フォストフ)がこれを恨み憤り、ただ一艘の船で蝦夷地付近の海上を荒らしまわって騒動を起こさせ、国家に非常な損害を与えた。このたびのモリソンは、日本から近い広東に滞在し、多数の軍艦を支配しているうえに、日本近海にイギリスの属島が多数あるので、モリソンの後ろの勢力はレサノット(レザノフ)の「類いにはこれなく」(=比ではない)候と述べた。長英は、モリソンに「非法の御取扱」をすれば、「後来如何なる患害出来候哉」、「実に恐るべきこと」であると警告していた(佐藤他校注 1971 162-169頁;佐藤編  1972 313―321頁)

 レザノフ事件については史実の間違いもあり、佐藤信淵のほうが正確であった。また、後に見る崋山のような歴史的視野はなかったが、レザノフ号事件とモリソン号事件を踏まえて、時の政策を真っ向から批判したのであった。

 崋山も、モリソン事件にレザノフの時と同じ対応をした幕府を批判した。崋山が、モリソン号の噂を聞いて1838年(天保9年)に書いた『慎機論』や、1839(天保10年)に書いた『外国事情書』、『西洋事情書』など「事情書三部作」は、広い国際的な展望のもとに、日本の鎖国的な政策を批判したものであった。

 崋山は、公開されなかった『慎機論』において、「莫利宋(モリソン)なる者」の来日を機に、世界情勢を語った。今や世界の五大州のうち、亜墨利加(アメリカ)、阿弗利加(アフリカ)、亜斯太羅利(アウスタラリー)の三州はすでに欧羅巴諸国の「有」となっている、亜細亜州の中でもわずかに我国、唐山(中国)、百爾西亜(ヘルシア)の三国のみが独立を保っている。その中でも、西人と通信せざるは、わが国のみである。そのわが国には、ロシアとイギリスが綿密に計画を練って、機会をうかがっている。そういう時に「徒に太平を唱ふるは、固より論なし」と述べて、幕府の鎖国政策を批判した。

 翌年、崋山は伊豆の韮山代官江川英竜(海防論者として幕閣に入っていた)の依頼により、世界情勢を論じた無題の論稿を書いた。これはのちに「事情書三部作」と言われることになる。最初の稿は、のちに佐藤昌介が『初稿西洋事情書』と名付けたもので、過激なものであった。これを書き直したのが、のちに同じく佐藤によって『再稿西洋事情書』と名付けられたものであるが、これも激しすぎるというので受け取られなかった。そこで書かれた第三稿が江川に上申され、これを江川が『外国事情書』と名付けた。最後に書かれたものが『外国事情書』であるならば、『初稿西洋事情書』は『初稿外国事情書』であり、『再稿西洋事情書』は『再稿外国事情書』とされてもおかしくはなかった。それはさておき、次に「事情書三部作」の内容を比べてみよう。

参考文献

Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991
石山禎一・宮崎克則「シーボルトの生涯とその業績関係年表1(1796‐1832年)」
『西南学院大学国際文化論集』第26巻 第 1号 2011年9月 155-228頁
大槻玄沢・志村弘強編 杉本つとむ他解説『環海異聞 本文と解説』八阪書房 1986年
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年 
久米邦武『特命全権大使・米欧回覧実記』岩波文庫 1980年
佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年
佐藤信淵『西洋列国史畧』 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf
宮永 孝「北米・ハワイ漂流奇談」(その1) 『社会志林』(法政大学社会学)60巻 2号 2013年9月
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易』彩流社 2008年

(「世界史の眼」No.69)

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『世界史の中の「ガザ戦争」』(藤田進・世界史研究所編、大月書店)に寄せて
栗田禎子

 本書は現在も進行中のガザの事態に関し、これを世界史の中に位置づけてその性格・背景を明らかにすると共に、克服の展望―それはとりもなおさず今後の世界のゆくえを考えることに直結する―をも歴史学的観点から考察しようとする労作である。「はじめに」でも触れられているように、2023年10月にガザをめぐる状況が新たな(そして破局的な)段階に突入して以来、現状分析的あるいは地域研究的な視点からは既に多くの著作が発表されてきたが、問題を世界史の中に位置づけ、人類社会全体の今後のゆくえに関わるものとして捉えようとする姿勢を明確に打ち出している点で本書は際立っている。編者の藤田進、そして世界史研究所メンバーをはじめとする十数名の執筆者らの、「歴史家集団」としての面目躍如と言えよう。

 本書の構成は以下の通りである。

はじめに
第Ⅰ部 「ガザ戦争」とは何か―歴史から問う
第1章「ガザ戦争」の実像
1 二〇二三年一〇月七日まで
2 「ガザ戦争」
3 高まる世界的批判
おわりに
第2章 パレスチナ問題の歴史を読み直す
1 パレスチナ問題の起源―イギリスの責任
2 イスラエル国家とパレスチナ難民の解放闘争
3 二〇〇六年 パレスチナ分裂以降―ハマース政権下のガザ
第Ⅱ部 イスラエルと西側諸国
第3章 イスラエル・パレスチナ問題と米欧
1 米国のイスラエル・パレスチナ政策と反シオニズム
2 イスラエル批判と反ユダヤ主義
3 ドイツの〈反・反ユダヤ主義〉のドグマ
第4章 イスラエルの岐路
1 ガザ攻撃を続けるイスラエル国家が示すもの
2 イスラエルのユダヤ人問題
第5章 日本とガザ戦争―中東での戦争と日本の戦争国家化
1 中東の戦争と日本の関係性
2 日本の中東政策の原点―オイルショック
3 第一の転機としての湾岸戦争
4 第二の転機としてのイラク戦争
5 第三の転機としての集団的自衛権容認
おわりに――中東の戦争を利用した日本の戦争国家化
第Ⅲ部 対抗と平和への模索
第6章 「下から」の抵抗と変革
1 亡びることなき抵抗者たち―不死なるものムスタズアフィーン
2 「ガザ戦争」と「グローバルサウス」―戦争が顕在化する「グローバルサウス」空間の重層性
3 南アフリカのジェノサイド提訴
第7章 ロシア・中国と「ガザ戦争」
1 ロシアのユダヤ人問題と「ガザ戦争」
2 中国と中東問題―パレスチナおよびイスラエルとの関係を中心に
第8章 国連の改革へ
1 「ガザ戦争」と国際社会の失敗―国連の現場で見た「ガザ戦争」の現実
2 「ガザ戦争」と国際世論と国連改革
あとがき

 評者(栗田)は既に本書に関し、新聞の書評欄で概評を行ない、本書がガザ戦争は「植民地戦争」の現代版であり、ガザで起きていることは入植者国家イスラエルによる現地住民の集団殺戮(ジェノサイド)にほかならないとの視点を明確に示していること、ガザの惨劇を放置・黙認する先進諸国の姿を浮き彫りにしながらも、各国支配層と市民社会との間に「亀裂」が生じつつあることも明らかにしていること、そしていわゆる「グローバルサウス」の動向や国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界に向けての国際的な「変化の兆し」に注目していること、等の特徴を指摘した(『しんぶん赤旗』2025年11月23日読書欄)。本書を貫くこのような骨太の姿勢と、その叙述に説得力と厚みを与えている多角的な視点とは、上記の章別構成からも明らかであろう。以上を基本的な認識、評価とした上で、以下では(上述の概評では紙幅の関係で触れられなかった点も含めて)追加的な感想やコメントを記すこととしたい。

 「はじめに」および第Ⅰ部について。2023年10月の事件がガザのパレスチナ人にとっては占領と封鎖を突破し、かつて自分たちが住んでいた土地に「帰還」するための闘いであったことを明確に示すと共に(「はじめに」)、続く第Ⅰ部で「ガザ戦争」そのもの(第1章)、およびその背後にあるパレスチナ問題全体(第2章)の性格と展開を歴史的に解き明かして行く。あくまで平易な語り口を心がけつつ、実は最新の研究の成果やアラビア語資料も用いた綿密な叙述がされている点が印象的である。ただ、注文をつけるとすれば、パレスチナの民衆の闘いを彼ら自身の視点から捉えようとする試みの前例として、本書の編者である藤田自身の著作である『蘇るパレスチナ―語りはじめた難民たちの証言』(東京大学出版会、1989年)を(「はじめに」あるいは第1章で)紹介し、同書が明らかにしたパレスチナ民衆運動史をめぐる貴重な知見を、本書の読者とも共有しておくべきではなかったか?『蘇るパレスチナ』はパレスチナの歴史を民衆の視点から捉える上での必読書であり、特に英委任統治期の1936~39年に展開されたパレスチナ民衆蜂起(いわゆる「アラブ大反乱」)をめぐる叙述・分析の深さは世界的にも例を見ない水準に達している。1936年蜂起の性格を知ることは現在のハマースによる運動を理解する上でも不可欠(1936年蜂起の「記憶」やイメージのハマースによる援用、という側面に限っても)と考えられるので、本書中に『蘇るパレスチナ』への言及がないのは惜しい気がした。(本書の刊行を機に『蘇るパレスチナ』が再び注目を集めることを期待する。)

 また、これとも関連するが、パレスチナ問題が(1948年のイスラエル建国でスタートするわけではなく)英帝国の中東支配の過程で生み出されたものであること、まさしく「植民地主義」にルーツを持つ問題であることを読者により鮮明に印象づけるためには、たとえば第2章の歴史叙述も(第一次大戦よりさらに遡って)19世紀末の列強による中東・アフリカへの侵略、植民地化過程を巨視的に振り返ることから説き起こす、という手法もあり得たのではないか、という印象も持った。(具体的にはエジプト占領や「アフリカ分割」、ボーア戦争等の歴史的意味の再確認。この時期に遡るチェンバレン、バルフォアといった「帝国主義人脈」の系譜の検討など。)それにより、ガザ戦争を19世紀末のアフリカでドイツが行なったのと同様の「植民地戦争」として捉える、という(「あとがき」での)問題提起が生きてくるし、また、たとえば「南アフリカの経験とパレスチナの経験は本当に共通しているのか」という第6章での問いとの対話の回路も準備できたのではないか、とも感じた。

 第Ⅱ部について。ここでは前述のように、イスラエルによるガザ攻撃を黙認あるいは支援する先進諸国(米国やドイツ、さらには日本)諸政府の姿が描き出され、イスラエル支持を正当化する思想的・イデオロギー的な装置(いわゆる「反ユダヤ主義」概念等)が分析されると共に、各国の支配層と市民の間の「亀裂」、中東での戦争に対し抗議の声を上げ始めた市民の動きにも目配りがされている。イスラエルという国家自体の性格や内部矛盾に関する分析も興味深い。注文をつけるとすれば、これらすべて(イスラエルを支える先進諸国の姿勢やイスラエル自体の行動)を「世界資本主義の現状」という視点から捉え、位置づけるとしたら、どのような分析が可能か訊いてみたい、ということだろうか。第Ⅰ部、そして第Ⅱ部第3章の叙述からも明らかなようにイスラエルという国家は当初は英帝国の中東支配の都合上建設が開始された入植者国家であり、第二次大戦後は米国の強力な後押しのもとに建国を実現、以後、冷戦期の米国の中東戦略の要とも言うべき役割を果たしてきた存在であるわけだが、冷戦終結後の今、先進資本主義諸国による中東支配の構造はどのような変容を遂げ、現在進行中の「ガザ戦争」は世界資本主義のどのような局面・段階を反映していると言えるのだろうか?ハイテク化・軍事化するイスラエル経済がグローバル資本主義の中で果たしつつある役割や、イスラエルの「新自由主義」路線への転換等をめぐる示唆的分析が見られるが、これをあらためて米国やヨーロッパ諸国、日本も含む大きな構図の中に位置づける議論も期待したい。現在の欧米における政治・思想状況やイスラエル国内のイデオロギーの変化、日本の戦争国家化等をめぐり、各章で展開されている鋭く深い分析を、冷戦後の世界の変容や、「新自由主義」の現段階という観点から統一的に捉え、説明することはできないだろうか?

 第Ⅲ部について。前述のように、いわゆる「グローバルサウス」の動向、またロシア、中国等の動きをも分析すると共に、国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界をめざす「変化の兆し」にも注目を促す内容であり、興味深い。特に第8章にはUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)保健局長や米国の歴史家も寄稿するなど、執筆者の多様性、広がりを感じさせる部ともなっている。第Ⅲ部を読んで印象に残るのは、ガザ戦争をめぐり、先進諸国とは一線を画した態度をとっている「グローバルサウス」の動向を検討しながらも、むしろその内部の重層性や矛盾に着目する視点が示されていることである。評者(栗田)はイランの現体制が「ムスタズアフィーン(虐げられた弱者)」との連帯を掲げるイラン・イスラーム革命の理念のもとにパレスチナの民衆の抵抗を支援する姿勢をとっていることを基本的には評価する立場であるが、こうした姿勢の根底に「善悪二元論」があり、また一種の「戦士文化」が存在する(それは男性中心主義にもつながる)ことをイスラーム研究の立場から批判的に指摘した分析(第6章)は興味深いと感じた。また、「グローバルサウス」諸国の政府も実は「新自由主義」路線をとっており、先進資本主義諸国やイスラエルと利害の共通性を有していることを鋭く指摘する論考もあり、ここには(先に第Ⅱ部への「注文」として記した)世界資本主義の現状の中にガザ戦争を位置づける、という発想が観察されると言えるかもしれない。

 それと同時に感じたのは、(現実には「新自由主義」にからめとられ、腐敗し、独裁化しつつあるかもしれない)「グローバルサウス」の諸政府が、にもかかわらず公的には先進諸国とは一線を画し、国際政治の場でガザ戦争に批判的なスタンスを示しているという事実の背後には、やはりこれら諸国の民衆の存在―植民地支配や占領に苦しんだアジア・アフリカ・ラテンアメリカの民衆の経験と、それゆえに彼らがガザの状況に寄せる共感―があり、それが各国の政府の立場を否応なく規定しているという面もあるのではないか、ということであった。本文中にも(「国家」主体のBRICSではなく)「民衆が主体のグローバル空間の構築」が重要だとの指摘があるように、グローバルサウスの「政府」だけでなく、その背後にある「民衆」のエネルギーにも注目する必要があるのではないか。

 「冷戦」終結以降、「新自由主義」時代のグローバル資本主義の下で、世界の民衆はともすれば支配エリートの価値観・言説を植え付けられ、分断され、搾取や差別に対し抗議の声を上げる力を奪われてきたが、現在ガザで進行中の事態は、そのあまりに破局的な様相――まさに民衆を標的とするジェノサイド、絶滅戦争という性格―ゆえに、全世界の民衆を覚醒させ、その怒りとエネルギーを解き放ちつつあると言えるかもしれない。―「ガザ戦争」はまさしく人類史の転換点なのではないかと感じながら、本書を読了した。

(「世界史の眼」No.69)

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江戸後期の対外認識―「ハンベンゴロー事件」の衝撃
南塚信吾

(1)ハンベンゴロー事件

 江戸後期の日本における対外認識において、「ハンベンゴロー事件」は一つの大きな画期であろう。 

 ピョートル一世(1672-1725年)のロシアは、1707年にカムチャツカを占領し、その後千島列島に進出していた。そして、1756年(宝暦6年)には厚岸において松前藩士が初めてロシア船を目撃した。これが日露の最初の接触である。1760年代にはロシアの千島進出は毛皮を求めて強化され、1768年(明和5年)にロシア人がエトロフ島を占拠してからは、ロシア船が蝦夷本島にやってきて、かれらのもたらす品々が大坂市場で公然と販売されていたと言われる。当然、北前船がこれを運んだわけである(佐藤編 1972 28-29頁;木崎 1991 2-41頁)。

 このようなロシア人の北方での動きは、「ハンベンゴロー」事件によって明らかとなり、それは、江戸時代の外国の事情についての関心を著しく高めたのであった。

 1771年(明和8年)、「ハンベンゴロー」つまりベニョフスキー・モーリッツ(1741-1786年)という人物が、土佐へ漂着し、出島のオランダ人への手紙で、ロシアの南下の脅威を指摘した。ベニョフスキーは、当時のハプスブルク帝国のなかのハンガリー王国の北部(現在のスロヴァキア)に生まれた貴族で、ポーランド系であった。1768-69年の露ポ戦争に参加し、捕虜となった。その後、シベリア、カムチャツカに流されるが、1771年、仲間60人ほどを募ってロシアの船を奪い、カムチャツカから逃亡し、日本を経由して本国へ帰国しようとした(メキシコのアカプルコへ行きたかったのだとも言われる)。かれらは日本列島を南下して、土佐の佐喜浜、阿波の日和佐、そして奄美大島の出須浜に寄港し、薪水の提供を受けた。ベニョフスキーは、この際に長崎出島のオランダ人経由で、ロシアの南下情報を幕府に差し出したのであった(水口他編訳1960 2-14頁;木崎 1991 42-43頁)。

ベニョフスキー・モーリツBenyovszky Móric; Móric Beňovský(1741-1786年)は、その後、奄美大島にも立ち寄って、マカオへ着いて、ここで仲間と別れて、フランス船を捜して乗船、1772年にフランスへ帰った。そして国王に請願して1776年にマダガスカルへ行き「王」を称し、79年にはアメリカ独立戦争に参加し、85年には再びマダガスカルへ行って現地人と共にフランス軍と戦い、戦闘中に死亡した。

 この「ハンベンゴロー事件」のあと、わが国では対外危機が意識され、北方事情への関心が高まった。仙台藩の藩医で経世論家であった工藤平助(1734-1801年)の『赤蝦夷風説考』1783年(天明3年)は、こう論じていた。

 「赤蝦夷」つまり「カムサスカ」の人々(ヲロシア人)は千島と言われる島々を通って蝦夷に来て交易をしていたが、1771年に「赤蝦夷」から来た船が漂流して、奥州、上総、阿波に来て、「マウリツ・アラダル・ハン・ベンゴロ」という「商人」(=これは間違い)が長崎にいるオランダ人あてに書簡を送った。「ハン・ベンゴロ」はオランダの同類の「ドイチ(ドイツ)」国の人で、わが国の地勢を調査しようとしてきた者のようである。書簡は、阿波にて殿様のお恵みで命を救われたので、そのお礼をしたためたものであった。こう述べた工藤は、赤蝦夷の本国はヲロシアで、ヲロシアは日本に金銀が多く産するので、日本と交易をしたがっているのだと考えていた(佐藤編 1972 29-33、392-395頁)。こうして工藤は、幕府に対して貿易の許可と蝦夷地の開発を訴えていたのである。

 やや遅れて、時の経世家、林子平(1738-1793年)も、『海国兵談』(1787-91年)において、ベニョフスキーの到来を挙げて、幕府の北方政策に警告を発っしていた。

「近頃、欧羅巴のムスカウビア其勢ひ無変にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、・・・東の限りカムシカツトカ(カムチャツカ)迄押領したり。然るにカムシカツトカより東には此上、取べき国土なし。此故に又西に顧みて蝦夷国の東なる、千嶌を手に入るべき機ありと聞及べり。既に明和辛卯の年(1771年)、ムスカウビアよりカムシカツトカに遣し置る豪傑、バロンマオリツツ・アラダルハン・ベンゴロウといふ者、カムシカツトカより船を廃して、日本に押渡り港々に下縄(さげなわ)して、其深さを計りながら、日本を過半、乗廻したることあり。就中土佐の国に於ては、日本国に在合、阿蘭陀人にと認し書を遣置きたる事もある也」(林 1944 9頁)。

林子平もベニョフスキーは日本を「取る」ために地勢の調査のために来たのだと考えていた。そして、工藤と同じく蝦夷地の開発を主張したのだった(佐藤編 1972 34頁)。

(2)本多利明の蝦夷開発論  

 新井白石などに薫陶を受けた本多利明は、東北や蝦夷の視察をしたりしていたが、しばらくのちの1798年(寛政10年)に出した『経世秘策』にこう書いていた。

「ハロンモリツアラタールハンベンゴローという者あり。此の者欧羅巴洲の者なるが、其嚮(そのさき)モスコビヤと挑合(=交戦)せしが、敗北して将卒五十余人擒(とりこ)となりて、後助命を蒙りて日本之東蝦夷カムサスカヘ流罪となり、・・・時節を待居てモスコビアの官船を盗取りて、本国欧羅巴へ遁到らんとて、日本之東洋を渉途(しょうと)之節、阿州(=阿波)に碇宿(=寄港)して薪水を乞求めたり。又国主の慈悲を願ひたるに因(より)て、玄米数百俵の賑恤(しんじゅつ)を給りたり。それより阿州を開帆(かいはん)して後、再び日本に船を寄せ、薩州の大島に碇宿せり。再び日本の地に船をよせたるは、阿州に於て恩恵を蒙りたるに感じ、日本へ寸忠を立てん意にて、今既にモスコビアの帝陰謀ある旨を認(したため)、横文字の注進状を呈したり」(塚谷他校注 1970 46頁)。

 モーリッツ・アラダール・ベニョフスキーが、ロシアと戦って敗れ、カムチャツカに流刑になったが、ロシアの軍艦を盗んで、ヨーロッパに帰る途中、日本の薩州に寄港して、ロシアが日本を狙って「陰謀」を図っていることを、長崎の和蘭カピタンを通して注進したというのである。ここで話は、ベニョフスキーの来た目的がたんなる地勢調査ではなくなった。 

 『経世秘策』はさらに、モスコビアから、これまで10年ばかりの間に、いろいろな人がエトロフ、クナシリに徘徊したり、漂着したりしていると述べ、ハンベゴローの注進はでたらめではなく、モスコビアは蝦夷の島々を「開業」しようとしているのであり、わが国もこれらの島々を開業しなければ、これらはモスコビアに服することになると警告した(塚谷他校注 1970 49-50頁)。

 同じく1798年(寛政10年)に出た本多利明の『西域物語』もベニョフスキーの到来をあげ、ベニョフスキーがロシアの南下を警告していると述べていた。しかし、『西域物語』は、もっと広い世界を見ていた。それは「西域」つまり「西洋」の歴史と現状を日本と対比しつつ述べたもので、ある意味で「世界史」なのであった。

 「我邦の人、西域のさる事も弁え」ていないと始まる。つまり、日本は中国の書籍を鵜呑みにしているから、西洋のことを知らないという。そしてこう論じていく。欧羅巴州にはトルコ、ロシア、イタリア、ホロシア(ポーランド)、ゼルマニア、フランス、イスパニア、アンゲリア、フランスなどがあり、みな国外に属国を多く持ち、「大豊饒にして剛国」である。そして、エゲプテ(エジプト)から人道が発起して、各地に広がった。支那、日本へは大いに遅く届いたのだ。欧羅巴諸国の治道は、武を用いて治めるのではなく、「只徳を用いて治るのみ」である。だが、「欧羅巴隆(さかん)の国々は、本国は小国なるもあれど、属国多くある国を指て大国という」。例えばエゲレス国はそうだ。モスコビアもそういう属国を求めて日本の北へきている。

 そういう中で、1771年(明和8年)にハロンモリツアラタールハン-ベンゴローというものがやってきた。そして、注進状を呈した。その趣意は、「今モスコビヤより日本の東蝦夷の諸島を侵(おか)し掠めん萌しあり。今の内用心ありて、彼の島々へ船を出し、守護あらば無難なるべき」というものであった。そこで本多が言うには、「今按ずるに、ハンベンゴロトが注進・教示の如くあらば、カムサスカより南洋20余島も無難にあり。」これらの島々は、「日本に自然と属し従ふべき」島々なのであった。

 本多はこのような世界認識に立って、「大日本国の国号をカムサスカの土地に移し」、カムサスカの地を大良国(素晴らしく豊かな国)とするべきであると説いた。カムサスカはオランダのアムステルダムと同じ緯度にあり、オランダのように属国を集めて繁栄できるのだというのであった(塚谷他校注 1970 88-162頁)。

 これはそれまでのように蝦夷地の開発や貿易を提言する以上のものであった。世界の趨勢に乗り遅れるなというわけである。18世紀の末には、日本の知識人の間にこういう認識ができつつあったのである。

参考文献

木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年
木村英明「スロヴァキア出身の冒険児モーリツ・ベニョフスキー:鎖国日本の平安をざわめかせた異国船」長與進・神原ゆうこ編著『スロヴァキアを知るために64章』明石書店 2023年
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年
佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年
塚谷晃弘・蔵並省自校注『本多利明・海保青陵 日本思想体系44』岩波書店 1970年
林子平述 村岡典嗣校訂『海国兵談』岩波文庫 1944年(初版1939年)
水口志計夫・沼田次郎編訳『ベニョフスキー航海史』平凡社 1960年

*ベニョフスキーの航海や冒険については、世界中で多数の研究や論評が出ている。本稿は、日本での受け止められ方についてのみ考えたものである。

(「世界史の眼」No.68)

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書評:林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)
山田朗

戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげか?

 2025年10月10日、石破茂首相(当時)は、「戦後 80 年に寄せて」と題する「内閣総理大臣所感」を発表した。この日は、81年前(1944年)、米空母機動部隊の艦載機によって沖縄本島をはじめとする南西諸島が大規模な空襲を受けたいわゆる「十・十空襲」の日である。この空襲は、無差別爆撃となって那覇市は旧首里城を含む約90%が焼失、沖縄本島だけで軍人・軍属218名、陸軍人夫120名、民間人330名が犠牲になり、その他に船舶の被害で民間人約600人が死亡したとされている。当時の日本政府(小磯國昭内閣)は、この無差別攻撃に、中立国スペインを介してアメリカ合衆国政府に対して、国際法に違反するものだとの抗議を行なっている(合衆国政府は無回答)。もっとも、「石破所感」は、「十・十空襲」やこの無差別攻撃という歴史を意識して、この日を選んで発表されたものとは思われない。

 それどころか、この「所感」は、戦前日本の植民地支配や侵略戦争については一言も言及せず、「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。」といった、いわゆる「おかげ論」(戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげだとするもの)を展開している。だが、現実には、日本人犠牲者の前に、アジアにおける2000万人を超えるとされる膨大な犠牲者が存在し、日本軍将兵の犠牲も半分以上は餓死・病死であり、日本人犠牲者310万人の約90%は、戦争の勝敗が決した後の最後の1年間に生じたもの(吉田裕『続・日本軍兵士』中公新書、2025年)であることを考えると、犠牲者の「おかげ」で戦後の平和と繁栄があるとする議論は、大きな欺瞞を含んでいる。戦争の犠牲者を日本人(植民地支配下にあった人々を含む)に限定してみても、軍人・民間人の膨大な犠牲は降伏を許さない、捕虜になることを許さない日本軍というシステム、それを支えた政府や日本社会のあり方によって死ぬことを強いられた、いわばそのような制度的な束縛によって殺されたものである。

 降伏を許さない、捕虜になることを許さないというシステムは軍人だけでなく、民間人にも強制され、本来であれば助かる命がむざむざと失われた。そのことをはっきりと示すのが沖縄戦である。沖縄戦に関する本は、数多くあるが、林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)ほど沖縄戦の実態を深く、かつ広がりをもって叙述している本は他に例を見ない(なお、前述した「十・十空襲」に際しての日本側の抗議、米側無回答の件も、本書156〜157頁に記述されている)。

沖縄戦の全体像と細部に至るまでをも示す周到な構成

 『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』の章立ては以下のとおりである。長いスペースを取るにもかかわらず、章・節だけでなく、項まですべて示したのは、本書の構成から本書の叙述の時間的・空間的広がり(隙のなさ)を見ていただきたいからである。

序 なぜ今、沖縄戦か
第一章 沖縄戦への道
 1 沖縄の近代—同化・差別と反発
     琉球王国から沖縄県へ  
     同化と差別・貧困への反発
 2 中国やアジア太平洋への侵略戦争と沖縄
     中国での沖縄出身兵士たちの体験
     沖縄の外に送られた労働力と「南進論」
 3 なぜ沖縄が戦場になったのか
     沖縄への日本軍の配備と飛行場建設  地上戦闘部隊の増強
     本土防衛の捨て石としての沖縄
     米軍はなぜ沖縄をねらったのか
第二章 戦争・戦場に動員されていく人々
 1 沖縄の戦時体制
     社会運動や思想の弾圧
     行政・教育による戦時体制づくり
     天皇・国家に命を捧げる国民づくり—皇民化政策
     人々を動員していく地域社会
      戦争を煽るマスメディア
      徴兵を忌避する人たち 
 2 戦場動員態勢へ
     軍のために動員される人々
     徴用
     食糧など物資の供出
     日本軍将兵の横暴・非行
     軍と県の対立
 3 疎開—根こそぎ動員と表裏一体の政策
     役に立たない者を疎開させる
     県外疎開—一般疎開と学童疎開
     県内疎開
     宮古・八重山の疎開
 4 軍と県による戦場動員
     軍県一体で進められた「県民総武装」
     軍人として召集された中学生—鉄血勤皇隊
     一般住民を戦闘員に—義勇隊                               
第三章 沖縄戦の展開と地域・島々の特徴
 1 米軍最初の上陸—慶良間諸島
 2 米軍の沖縄本島上陸 一九四五年四月
     沖縄本島上陸
     大本営と天皇の戦争指導
 3 沖縄本島中部の激戦 一九四五年四月~五月
     運命を分けた地域
     斬り込みに駆り出される兵士たち
     天皇・政府から見放された沖縄
     時間稼ぎの南部撤退
     住民スパイ視を煽った日本軍
 4 沖縄本島北部の戦闘
     広大な北部に配備されたわずかな国頭支隊
     ゲリラ戦部隊の遊撃戦
     軍官民一体のスパイ組織・住民監視
     日本軍による住民虐殺
     ハンセン病者の犠牲
     米軍による住民虐殺                                         
 5 沖縄戦の終焉—本島南部 一九四五年六月
     多くの民間人を道連れにした海軍部隊
     組織戦闘の終焉
 6 飢えとマラリアの宮古・八重山
     宮古諸島
     八重山諸島
     戦犯裁判
 7 離島の沖縄戦
     沖縄本島周辺の島々
     久米島・粟国島・渡名喜島
     伊平屋島・伊是名島
     大東諸島
     奄美群島・トカラ列島
 8 米軍の戦闘方法、心理戦、軍政と収容所
     十・十空襲と米軍の攻撃方法
     心理戦
     軍政と収容所
     「戦後」の出発
     捕虜収容所
 9 沖縄からの九州奄美への爆撃                                     
第四章 戦場のなかの人々
 1 日本兵たち
     変化する日本軍
     捕虜になることを許さない日本軍
     人々の良心良識を抑圧する軍組織
 2 日本軍による住民に対する残虐行為
     日本軍による住民虐殺
     日本軍によって死に追いやられた人々
     スパイ視された障がい者たち
 3 戦場に駆り出された人々
      戦場動員された義勇隊員
     本土決戦の先取りとしての沖縄戦
     海の墓場に駆り出された漁船と漁民たち
 4 「集団自決」
      慶良間列島
     沖縄本島中部
     伊江島
     沖縄以外
     起きなかった地域・島々
        なぜ「集団自決」が起きたのか
 5 学徒隊
     男子学徒隊
     女子学徒隊
 6 死を拒否した人々
     生きることを選んだ民間人
     投降を促した人たち
     助かった人たち
 7 防衛隊員
     主力温存のための捨て石部隊
     生きようとした防衛隊員
     なぜ防衛隊員たちは「玉砕」を拒否したのか
     沖縄出身兵たち
 8 朝鮮人
     軍夫
     朝鮮人兵士たち
     船舶の乗組員など
 9 日本軍「慰安婦」と性暴力
     日本軍「慰安婦」
     日本軍「慰安婦」にされた朝鮮人女性
     米軍の性暴力
 10 沖縄の外での戦争に参加した沖縄の人々
     無謀な作戦の犠牲になった兵士たち—中国・大陸打通作戦
     戦後も帰らなかった兵士たち
     戦犯になった沖縄の人たち
 11 移民した人たちの戦争
     中国・「満州」
     東南アジア
     南洋諸島
     南米                                                       
 12 米軍兵士にとっての沖縄戦
     戦争神経症の多く出た米軍兵士たち
      沖縄にやってきた米軍部隊の戦歴
第五章 沖縄戦の帰結とその後も続く軍事支配
 1 どれほどの人たちが亡くなったのか
     戦没者数の推計
     南部撤退・戦闘の長期化と北部疎開が増大させた犠牲
     沖縄の外での戦没者
  2 どうすれば犠牲をなくせたのか、減らせたのか
     民間人を守る方法はなかったのか
     沖縄戦は避けられなかったのか
 3 加害と侵略の出撃基地—米軍基地
     加害の出撃基地
     沖縄/日本に集中する米軍基地
 4 沖縄戦の戦後処理
     遺骨収集と追悼
     援護法の適用と歪められた沖縄戦像
     不発弾
 5 沖縄戦の認識・体験談・研究
     沖縄戦叙述・研究の歩み
     自衛隊の沖縄戦認識
おわりに
あとがき
参考文献

〔県市町村史・字史74点、一般文献146点、英語文献4点、林博史文献単著9点、林博史文献論文・史料紹介10点 合計243点〕

新書判、348頁 〔 〕内は山田による補足

 書物の構成(目次)というものは、その著作の見取り図であり、どのようなパーツをどのように配置し、組み立てているのかを、端的に示すものである。もちろん、叙述そのものが大切であることは勿論だが、読者はこの見取り図を見ることで、その著作の意図や力点の置き方、著者の用意周到さを読み取ることができる。

 本書の構成(目次)を見ると、沖縄戦という対象を歴史として、あるいは現代につながるものとして考える上で、必要な素材が過不足なく周到に盛り込まれていることがわかる。なぜ、このような周到な構成を作成できたのか。それは、著者がこれまでに沖縄戦に関して実に多角的に研究を蓄積してきたからである。参考文献欄と本書本文でわかるように著者は、『沖縄県史』(新県史)の編纂に深くかかわってきただけでなく、『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001年)、『沖縄戦:強制された「集団自決」』(吉川弘文館、2009年)、『沖縄戦が問うもの』(大月書店、2010年)、『暴力と差別としての米軍基地:基地形成史の共通性』(かもがわ出版、2014年)、『沖縄からの本土爆撃:米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館、2018年)などの沖縄・沖縄戦・沖縄の基地問題に深く切り込んだ仕事をしてきた。それに多くの人が知るように、著者は、日本軍の戦争犯罪・BC級戦犯裁判、日本軍「慰安婦」の問題においても特筆すべき成果をあげて来ており、大日本帝国・日本軍・戦争の矛盾の凝縮点とも言える沖縄戦について分析・執筆し、問題の所在を明らかにするのに、これほどうってつけの執筆者はいないだろう。

本書の叙述の特徴(1):沖縄戦を時間・空間・社会的広がりの中で描く

 本書は、沖縄戦をテーマにした新書ではあるが、通常の新書のスペースには収まりきらない叙述を特徴としている。本書では、第1に時間的広がり、第2に地理的広がり、第3に社会的広がり、第4に戦争の加害と被害の関係性に十分配慮した叙述がなされている。

 第1の時間的な広がりを十分に考慮した叙述という点では、第一章において時間的に琉球王国から説きおこし、近代日本に併合され、強権的な同化システムのもとでの差別と貧困、そして「南進」の拠点とされていくプロセス、日本の世界戦争への参戦によって沖縄が否応なく戦場にされていく流れが示される。そして、第三章1~5で沖縄戦の始まりから終焉までの経過が丁寧に追われ、さらに同章8・9で沖縄が本土空襲の基地として使用されたこと、第五章3・4で戦後も続く米軍による軍事支配と戦後処理問題が解説されている。つまり、沖縄戦を中心に据えながら、前近代から現在に至るまでの沖縄と沖縄の人々が置かれた立場を細大もらさず叙述している。いろいろな本を読まなくても、まずは本書1冊を読めば、歴史の大きな流れの中の近代沖縄史・沖縄戦・戦後沖縄史がわかるようになっている。

 第2の地理的広がりという点では、大日本帝国が行った戦争がアジア・太平洋・インド洋に及ぶ広大な地域を舞台にしていることを前提として、沖縄戦を連合軍と日本軍の戦略の中で、東南アジア・中国戦線との関わりで捉え、日本本土と沖縄の関係性、そして沖縄本島だけでなく(「本島」中心主義に陥らず)、第二章3や第三章6・7など可能な限り先島諸島や周辺島嶼・離島にも目配りした叙述になっている。また、本書のサブタイトルにもある「なぜ20万人が犠牲になったのか」という点では、戦闘による様々な形態の直接的犠牲だけでなく、疎開・食糧不足・マラリアなどによる犠牲にも地域ごとに丹念にふれ、戦争の犠牲・被害というものが、直接に戦闘に巻き込まれなくても広範囲で起こることを示している。

 第3の社会的広がりという点では、とりわけ第四章において沖縄戦にかかわった様々な階層の人々を丁寧に叙述し、非常に内容が充実している。沖縄戦における日本兵の戦い、沖縄の人々への差別意識と残虐行為、とりわけ投降しようとする兵士・一般住民を射殺したり、さまざまな場面で住民をスパイ視して虐待、殺害したりする日本兵の事例を数多く紹介している。また、「捨て石」部隊として戦場に投げ込まれた一般住民である防衛隊員・義勇隊員の実態、米軍に捕まったらどうせ殺されるのだからと説いて一般住民の女性まで手榴弾を持たせて「斬り込み」に参加させた日本軍、沖縄の一般住民にとって、米軍の「鉄の暴風」と日本軍の威圧・強要の板挟みの中で「集団自決」を強いられた状況が具体的に描かれる。一般住民の「集団自決」の多くは、軍人の命令や日本兵や官吏が語る中国戦線での体験談(捕虜は殺され、女性は性暴力の対象となる)に後押しされて生じている。

 そして、本書の大きな特徴の一つだが、「集団自決」しなかった人々、「玉砕」を拒否した人々、兵士や住民に投降することを促した人々の存在を、それらの人々がそうした選択をした理由を含めて(移民体験者が多く、「鬼畜米英」の宣伝に疑問を持っていたことなど)丁寧に叙述している。これは、回想録などの文献調査だけでなく、沖縄で広範に実施されてきた聞き取り調査の成果が生かされているものだ。また、沖縄戦に多数が投入された朝鮮出身の軍人・軍属・労働者の存在、日本軍「慰安婦」のこともきちんと描かれている。

本書の叙述の特徴(2):沖縄戦における加害・被害の関係性

 本書は、沖縄戦における加害と被害の関係性を、米軍による加害、日本兵・沖縄住民の被害という単純化された枠組みで捉えることを拒否している。むしろ、沖縄戦の特徴として日本軍・官吏による加害(軍と政府・県当局による軍民一体体制の構築、戦争批判者の排除)、沖縄住民の被害、さらには沖縄住民の中における加害と被害(沖縄出身日本兵も時には住民にとっては加害者であった)、日本人による加害と朝鮮人の被害、「慰安婦」の被害など、加害と被害の重層性・複層性を描き出している。また、単に一部の「悪い」日本兵が一般住民を酷使・虐待したという捉え方ではなく、国際的な規範から逸脱し、捕虜になれない日本軍という自縄自縛のシステムと、日中戦争における日本軍による残虐行為(捕虜や一般住民の殺害、略奪・性暴力)の裏返しとしての敵観念(米軍も同じことをやるに違いないという誤認知)が、日本軍兵士たちを住民抑圧の加害者にしていったという加害と被害の構造を明らかにしている。

 本書は、著者による長年の沖縄戦研究、戦争の加害と被害についての研究の「まとめ」という役割を担っているものであろう。沖縄戦について考えたい、学びたい、あるいは戦争とはどのようなものであるか考えたい、学びたいと思う人には、ぜひ本書を手に取ることをお勧めしたい。前述したように、本書は、これまでの著者自身の沖縄戦研究だけでなく、多岐にわたる沖縄研究・戦争研究に支えられたものであるので、戦争について、沖縄戦について、沖縄についてさらに深く学ぼうと思っている人にも、本書は格好の道案内、問題別のインデックスとなるであろう。

 おそらく著者が、本書をこの時期に執筆、刊行したのは、2025年が「戦後80年」という節目にあたり、過去の戦争に関する振り返りが行われることを予期したからであろう。そして、長年にわたって沖縄そのものをウオッチしてきた著者は、沖縄の現在の姿に大きな危惧を抱いているからだと思う。かつて、「本土決戦」準備の「捨て石」とされて、20万人もの犠牲者を出した沖縄が、現在、日米安保体制のもとで軍備拡張と国際的な緊張の最前線となっている。「台湾有事」なるものが喧伝され、沖縄の島々にスタンド・オフ・ミサイルをはじめとする「抑止力」を担う部隊が配備されつつある。軍拡には軍拡で、軍事力の展開には軍事力の展開で対抗しようというパワーポリティクスそのものの動きが強まる中で、沖縄戦の歴史から世界と日本の政治が、世界と日本の市民が深く学んで教訓を汲み取って欲しい、そうしなければ、「20万人の犠牲」の存在を私たちは生かせないのではないか、そうした著者の思いが強く伝わってくる、実に読み応えのある一冊である。

(「世界史の眼」No.68)

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敗戦と「南洋」(下)―「土人」という言葉に触発されて
小谷汪之

はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、前号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、本号)

3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順

 敗戦後の日本社会の風潮や日本人の言動に批判的な目を向けた知識人は渡辺以外にもたくさんいる。作家の高見順もその一人で、高見の『敗戦日記』(中公文庫、2005年)からは彼の苛立ちのようなものがよく伝わってくる。

 1945年10月20日、高見は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「人権指令」(10月4日)にもとづいて釈放された「政治犯」・内野壮児の「出獄歓迎会」に出席するために、中央線の高円寺駅で下車、友人たちと待ち合わせて、内野の家に行った。一人早く退席して帰路についた高見は、戦争によって変わってしまった街並みのため道を間違えたが、何とか高円寺の駅にたどり着いた。

 駅は薄暗かった。電球がないのだろう。
 向側の歩廊に人だかりがしている。笑い声が挙がっている。アメリカ兵が酔ってでもいるのか、大声で何か言い、何かおかしい身振りをしている。そのまわりに、日本人が群がっている。そのなかに、若い女の駅員が二人混じっている。アメリカ兵は自分の横を指差して、女の駅員に、ここへ来いと言っている。そして何か身振りをして見せる。周囲の日本人はゲラゲラ笑い、二人の女の駅員は、あら、いやだと言ったあんばいに、二人で抱きついて、嬌態を示す。彼女等は、そうしてからかわれるのがうれしくてたまらない風であった。
 別の女の駅員が近づいてきた。からかわれたいという気持を全身に出した、その様子であった。
 なんともいえない恥ずかしい風景だった。この浅間あさましい女どもが選挙権を持つのかとおもうと慄然とした。面白がって見ている男どもも、―南洋の無智な土着民以下の低さだ。   
 日本は全く、底を割って見れば、その文化的低さは南洋の植民地と同じだったのだ。(『敗戦日記』382~383頁)

 アメリカ兵に「嬌態を示す」日本人の女たちやそれを取り巻いて喜んでいる日本人の男たちを見た高見のやりきれないような気持ちはよく分かるが、日本人の「文化的低さ」をいうために、どうして「南洋の無智な土着民」を引き合いに出したのであろうか。

 高見の『敗戦日記』の中には、もう一カ所「南洋」が出てくる。それは映画「そよかぜ」(1945年10月11日公開)を見た感想を記した箇所である。

 1945年10月24日、高見は一人の友人と「国民酒場」で一杯やろうと思って、銀座に出た。しかし、「切符」が取れなかったので入店することができなかった。それで、「全線座の前へ行って、不意に映画でも見ようかという気になった」。映画は「そよかぜ」という題であった。「そよかぜ」は、敗戦後初めて製作された日本映画で、並木路子が歌った主題歌「リンゴの唄」で有名だが、知識人たちの間では、評判が悪かった。それで、「どのくらいひどいものか、ためしに見てみよう」ということになったのである。見終わった高見はその感想を次のように書いている。

 いや全くひどいものだった。レヴュー劇場の三人の楽手が照明係の娘に音楽的才能のあるのを見て、これをスターに育てあげるという筋。筋も愚劣なら、映画技術も愚劣の極。いつの間に日本映画はこう退化したのだろう。
 私は南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画を見て、南方植民地の文化の低さをまざまざと見せつけられた気がしたことを思い出した。軽蔑感よりも切ない悲哀が胸を締めつけたものだ。同じ黄色人種というところから来た切なさであった。(『敗戦日記』385頁)

 「そよかぜ」を見て、「南方植民地」の「土着民の軽薄な音楽映画」と共通する愚劣さを感じ、そこから日本文化も「南方植民地」の文化と同程度の低さだと思ったというわけである。

 高見は「南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画」を見たと書いているが、それは英領ビルマの首都だったラングーン(現、ミャンマーのヤンゴン)でのことである。

 1941年11月、高見は陸軍報道班員として、「南」に派遣されることになった。12月2日、大阪港からサイゴン(現、ベトナムのホーチミン市)に向けて出発、12月8日には、船上のラジオ放送で日米開戦を知った。「折から香港の沖合いを航行中。一同厳粛な表情」と高見は書いている(「徴用生活」、『高見順日記 第一巻』勁草書房、1965年、所収、260頁)。高見らの一行は、サイゴン、カンボジアのプノンペンを経て、12月29日にはタイのバンコックに入った。バンコックからは英領ビルマ最南端のヴィクトリア・ポイント(現、ミャンマーのコータウン)に行く日本軍の参謀に随行した。その後、高見らはバンコックに戻り、そこから英領ビルマの首都ラングーンに進軍する部隊に同行したが、英領ビルマ軍に包囲され、ゴム園に逃げ込むという経験もした。1942年3月8日、日本軍はラングーンを占領し、軍政を布いた。高見のラングーンでの職務は主に映画の検閲で、高見はほとんど毎日のように多くの映画を見て、日本軍政に都合の悪いと思われる部分をカットするという作業を行っていた。ビルマ映画だけではなく、インド映画や日本映画も検閲の対象であった。

 1942年9月1日の夜、「ヤンナイン・ヤンオウン」というビルマ映画を検閲した高見はその感想を次のように記している。

 実にくだらない映画で、仕事ながら、腹立たしくなる(「徴用生活」384頁)。
 残酷な場面を平気でうつしているのは、なにもこの映画だけのことではないが、ちょっとたまらない。
 ビルマ人というのは、その民衆の大半はまだ未開の民なのだなと、そんなことを考えさせられるのだが、同時にビルマ人を、そういうところにとどめておいた英国の政策にも思いがおよぶ。
 英国領の頃、ビルマは犯罪が多いので有名だった。そして英国当局は、犯罪を助長させるような(道徳的には、その頽廃を助長させるような)映画を平気で許していたのである。ビルマ人の向上というようなことは、統治上かえって有害として一向にかえりみなかったことがわかる。(「徴用生活」385~386頁)

 敗戦後、映画「そよかぜ」を見た高見はラングーンでの体験を思い出し、日本人の文化程度も「南方」のビルマ人並みの低さだと感じたのである。

 高見はもともとは「南」に「あこがれ」のようなものをもっていた。高見のオランダ領東インド(現在のインドネシア)旅行(1941年1~4月)の記録である「渡南遊記」には次のように書かれている。

 南へ行きたいと思い出したのは、いつ頃だったろうか。私がまだ映画会社の東京発声の嘱託をやっていた時分、キャメラマンが南洋に行くという話を聞いて、一緒に行きたいといったのを覚えている。あれは昭和十二年[1937年]だったか、十三年だったか。[中略]
 [連載小説]「如何なる星の下に」で一緒に仕事をはじめた[挿絵の]三雲[祥之助]君に、この私の南へのあこがれを話した。すると三雲君も行ってみようという。私は、外国の旅の経験者である三雲君と行を共にするのは心づよいと喜んだ。
 南といっても、はっきり南のどこときまっているわけではなかった。すると三雲君が、安南[ベトナム]に知り合いがあるという。安南の王様の弟が絵の修業でパリへ行っていた頃、アトリエを貸してやったりして、知り合いだという。そこで二人で安南を訪ねようということになった。[中略]
 するうち、仏印(註=フランス領印度支那、現在のヴェトナム[ベトナム])への進駐がはじまり、人々の眼がそこへ一斉にそそがれはじめ、ジャーナリストが行きだした。作家の仏印行を聞くようになった。そうすると、いやけがさしてきた。[中略]
 いっそ、では蘭印[オランダ領東インド]に行こうということになった。[中略]
 いざ行くとなって、あちこちに手づるを求めて紹介状を貰ったり何かすると、そのさきざきで、
「―あぶないですね」
「もうすこし待ってみたらどうです」
「一触即発の形勢ですからね―」
「とても空気が険悪で、ろくろく見物もできないらしいですよ」
そんなことを一斉にいわれた。
(「渡南遊記」、『高見順日記 第一巻』所収、56~57頁)

 このように、高見は1937、38年頃には「南」に行きたいと思っていた。最初はベトナムに行くことを考えていたのだが、1940年9月、日本軍の「仏印進駐」が始まったので、ベトナム行きを断念して、オランダ領東インド(インドネシア)に行くことにした。

 1941年1月27日、高見は三雲祥之助とともに、貨客船ジョホール丸で神戸港から出発した。2月4日には、パラオ諸島のコロール島に着き、コロール島や西隣のアラカベサン島の各地を見て回った。2月6日、コロール港を出て、セレベス島(スラウェシ島)のメナド(マナド)とマカッサルを経由、2月13日にジャワ島のスラバヤに到着した。スラバヤにはしばらく留まって、イスラム化したインドネシアの社会や文化を実見した。3月5日にはバリ島に行き、ヒンドゥー寺院やバリ舞踊などを見歩きながら、3月いっぱいまで滞在した。その後、ジャワ島に戻り、バタヴィア(ジャカルタ)、バンドン、ジョグジャカルタなどの町々やボロブドゥール寺院などを訪ねた。4月中旬、帰国の途に就き、ボルネオ島北岸のサンダカン(当時英領で、上陸禁止)、中国大陸のアモイ(厦門。当時ポルトガル領、上陸して見物)、台湾の高雄、基隆を経て、5月6日、神戸港に帰着した。

 このオランダ領東インド(インドネシア)旅行の間、高見は知人たちに心配されたようなオランダ側からの妨害や嫌がらせに遭うことはなかったようであるが、情勢は確かに切迫していた。第二次世界大戦下の1940年5月14日、オランダ本国はドイツに降伏し、ロンドンに亡命政府が置かれていた。同年9月には、石油などの輸出をめぐって、日本とオランダ領東インド政庁との間で協議(第二次日蘭会商)が行われた。その結果、日本は1941年1月には、対日石油輸出の増量をオランダ側に認めさせた。高見らが帰国した後のことであるが、1942年3月1日には、日本軍がジャワ島に上陸し、オランダ領東インド政庁は降伏した。こうして、インドネシアは日本軍の軍政下に置かれたのである。

 高見がオランダ領東インドを旅行していた時期はまさにこのような情勢の時であった。しかし、その割には、高見の「渡南遊記」からはそんな切羽詰まったようなものは感じられない。高見の「渡南遊記」は「南」に関する客観的な観察の記録といいうるようなものである。高見はオランダ領東インド滞在中も、「南」に関する英文の専門書などを広く読んでいた。だから、オランダ領東インド旅行時の高見にはステレオタイプ的な「南洋」イメージはなかったのだが、その約1年後のラングーンでの体験が高見の「南洋」観を固定的なものにしてしまったようである。

4 「文明―未開」―不変の構図

 敗戦期の日記などを見ていると、欧米の進んだ文化の前に、程度の低い日本文化が敗北したという論調が目立つ。そこには、「文明―未開」という一本の階梯の上に、欧米と日本を置き、両者の間の開きに敗因を求めるという構図がうかがえる。その時、「未開」の底辺に置かれたのが「南洋」だったのである。『濹東綺譚』(1937年)などで知られる作家・永井荷風にもこういった発想が見られる。

〔1946 年〕四月廿八日日曜日晴、配給の煙草ますます粗惡となり今はほとんど喫するに堪えず、醬油には鹽氣乏しく味噌は惡臭を帶ぶ、これ亡國の兆一歩一歩顯著となりしを知らしむるものならずや、現代の日本人は戰敗を口實となし事に勤るを好まず、改善進歩の何たるかを忘るゝに至れるなり、日本の社會は根柢より堕落腐敗しはじめしなり、今は既に救ふの道なければやがては比島人〔フィリピン人〕よりも猶一層下等なる人種となるなるべし、其原因は何ぞ、日本の文教は古今を通じて皆他國より借來りしものなるが爲なるべし、支那の儒學も西洋の文化も日本人は唯その皮相を學びしに過きず、遂にこれを咀嚼すること能はざりしなり(永井荷風『斷腸亭日乗 六』岩波書店、1981年、136~137頁)。

 煙草や味噌・醤油の味に対する不満から「亡國」に思い到る所などは荷風らしいといえばいえるのかもしれないが、ここに見られる日本文化の「借り物」性やそれに起因する日本社会の「堕落腐敗」の指摘は何も珍しいものではない。ただ、ここで永井が、日本人は「やがて比島人よりも猶一層下等なる人種」になってしまうだろうと、「比島人」(フィリピン人)を引き合いに出しているところにはやはりひっかかる。永井はフィリピンに行ったことはなかったのだが、文化の程度の低さというと、すぐにフィリピンを連想するという思考の回路を持っていたのである。その点では、永井も「戦後民主主義」期の多くの知識人たちと異なるところはなかったといえるであろう。

 戦前、戦後を通して、日本にとって「文明」の先達は欧米であり、「未開」の底辺にあるのが「南洋」であった。敗戦を通しても、この「文明(欧米)―未開(南洋)」という思想的階梯には何の変化もなかった。しかし、敗戦によって、そこにおける日本の位置だけは変った。日本は「文明―未開」の階梯の上の方にいると思いこんでいたのだが、実はその階梯の低い位置、「南洋」に近い位置にいるのではないかという自意識が多くの知識人たちを捉えたのである。

 このように、敗戦を優れた欧米文化の前における低級な日本文化の敗北と受け止めるのが「戦後知」であったとするならば、そこに生まれた「戦後民主主義」期の諸思想において、「南洋」が正当に取り扱われなかったのは不思議なことではない。「戦後民主主義」の諸思想は、「南洋」を「未開」の底辺にとどめ置くことによって、自己の後進性を自覚化し、それをバネとして日本社会の「近代化=民主化」を唱道するという構造をもつものだったからである。そして、「南洋」が「未開」の底辺に位置づけられている限り、ステレオタイプ的な「南洋の土人」像も無意識の底に生き続けることになる。大阪府警機動隊員の「土人」発言はそれが暴発的に表面に噴出したものといえるであろう。

おわりに

 このような戦後日本の思想構造の中で、多くの日本人の敗戦体験や植民地体験は真摯に反芻され、意味づけられることなく、記憶の底に隠蔽されることになった。その過程で、加害の記憶は忘れられ、被害の記憶だけが怨念となって、増殖していった。しかし、西洋中心主義的で、啓蒙主義的な「戦後民主主義」期の諸思想は、その「上から目線」のゆえに、このような大衆的怨念をすくいあげる能力を本質的に欠いていた。1970年代以降一挙に顕著となった「戦後民主主義」的諸思想の凋落、落飾は、この増殖された大衆的怨念の「逆襲」によって引き起こされたということもできるであろう。

 それだけではない。このような敗戦の捉え方は、日本にとっての第二次世界大戦であった「アジア・太平洋戦争」における「太平洋の戦争」(対米・英戦)だけをクローズアップして、朝鮮支配や中国への侵略など「アジアの戦争」を切り捨てることにつながっている。天皇制軍国主義のアジア侵略そのことを丸ごと否定しようとする右翼的論調がはびこっている今日、「アジア・太平洋戦争」をその総体において捉えることが求められているのである。

(「世界史の眼」No.67)

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書評:アンドリュー・リース著、鹿住大助訳『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)
菅原未宇

 本書は「ミネルヴァ世界史<翻訳>ライブラリー」の一書として、オクスフォード大学出版局から出版されたNew Oxford World Historyシリーズのうち2015年に刊行されたThe City: A World Historyを翻訳したものである。著者のアンドリュー・リースはアメリカの近現代ドイツ社会史、思想史、都市史研究者である。

 第1章「初期都市の起源と位置」の冒頭で著者は、歴史上長きにわたり相対的に少数の人口を擁したに過ぎない都市が、社会に深い影響を与え、人類史の決定要因となってきたと述べ、都市の世界史を語る意義を示す。最初期の都市は紀元前4000年紀半ば、都市形成の前提条件である余剰食糧の生産地域から近く、水利に恵まれたメソポタミアに出現した。次いでその影響を受けながら、それぞれ異なる特徴を有した都市がエジプト、インダス渓谷に建設された。独自の都市化が起こった中国では、紀元前3000年頃に都市の出現が見られ、紀元前500年頃までに、人口10万人超の都市が少なくとも四つ存在するという、同時代の他地域では見られない状況を呈した。中央アメリカにおいても都市ネットワークの建設が確認できるが、そのほかのほとんどの地域において都市はまだまれな現象であった。

 第2章「大都市」では、紀元前500年から紀元300年にかけて都市文明の繁栄を見た地中海沿岸都市が主として論じられる。中でも、政治制度や建築、文化の面で独創性を示したアテネ、ヘレニズム世界の文化的中心となったアレクサンドリア、世界史上最初の巨大都市といえるローマについて考察がなされた。ローマ人の手で、帝国内の各地にローマ同様の公共建築を備えた都市が築かれたこと、同時代にはそのほか、パータリプトラや長安、洛陽といった王国の首都が、ギリシア・ローマの影響圏の外に発達したことも記される。

 第3章「衰退と発展」では、西欧が西ローマ帝国の崩壊による都市の衰退とその後の再発展を経験する4世紀から15世紀までの世界各地の都市の展開を跡付ける。当該時期前半、11世紀までのヨーロッパにおいて都市の活力を牽引したのはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルであった。アジアとヨーロッパ、地中海と黒海を結ぶ国際商業網の要に位置したことが、その繁栄の鍵であった。同様に、首都という政治的地位と大陸間貿易の経路という地理的条件によって発達を遂げたのは、8世紀後半にアッバース朝カリフによって築かれたバグダードである。中国では行政中心地を主な核として都市網が形成され、長安、南京、大都といった時の帝国の首都がその頂点に位置した。アメリカ大陸においては、14世紀にアステカ帝国の首都として建設されたテノチティトランが、15世紀末までに西半球最大の都市に発展した。これら大国の首都として整備された都市と異なり、当該時期後半に再発展を遂げた西欧都市は、個人の居住選択の結果出現したという特徴があった。そのほか日本、カンボジア、西アフリカで都市の発生が見られた。

 第4章「首都、文化、植民地化、革命」は、16世紀から18世紀までの都市を検討対象とする。近世ヨーロッパでは、政治的中央集権化の結果、首都の急拡大が見られ、とりわけ北西部において急速に都市化が進展した。アジアでは、進出してきたヨーロッパ人との交易も部分的には寄与したが、多くはそれぞれの地域内の要因により都市化が進展し、例えば大名による城下町の建設によって日本における都市部の人口割合は増大した。中でも行政の中心地たる江戸は文化的消費の中心地としても繁栄を極めた。他方、アメリカ大陸においてはヨーロッパ人による植民都市建設が都市化を主導した。中でも18世紀第四四半期に英語圏で二番目の大都市となったフィラデルフィアは、公共圏の成立を背景にアメリカ独立運動の主たる原動力となった。社会的格差などの問題を孕みつつ巨大都市となったパリとロンドンにおいてはすでに同様の公共圏の発達が生じており、アメリカ独立に力づけられた人々は、パリでは革命を成し遂げ、ロンドンでは急進主義組織の活動を通じて民主主義の拡散を図った。

 第5章「工業化時代における都市の成長とその結果」は、世界大戦勃発までの長い19世紀の都市について考察する。新たな国民国家の樹立による行政の中央集権化と産業革命の結果、都市への人口集中が生じた。工場での高生産性を担保するのは蒸気機関という新たな動力源や機械の導入だけではなく、多数の労働者の工場近くへの居住でもあったからだ。機械化された輸送手段の登場は農村から都市への移住も促すことになった。過密に伴う公衆衛生上および道徳上の懸念から、都市環境の改良を目指した民間団体による事業が活発化した一方、権限強化された地方自治体の主導で、19世紀半ばから20世紀初めにかけてヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で衛生面を中心にインフラ整備が進められた。加えて、百貨店やミュージックホールなどの文化的インフラが大衆消費市場の力で生み出され、これらは都市の魅力、都市生活への愛着を強化することになった。

 第6章「植民都市」は、第5章と同時期の帝国主義支配下に置かれた地域の都市について論じる。ヨーロッパ列強の直接的支配が及んだ南アジア、東アジア、東南アジア、アフリカの都市は、支配権力を象徴する公共建築物の存在といった共通点を持ちつつ、住民のほとんどがヨーロッパ人の場合と、非白人である場合(その多くが植民地化以前に歴史を持つ古い都市)とで、設計や政治制度などの点で異なる特徴を有することになった。後者においては、同時代のヨーロッパでは許容されなくなりつつあった非民主的な統治が行われた。権威主義的体制の下で公衆衛生の改善はあまり進まなかったが、こうした試みの中で西洋人と地元民の居住地を分離する人種隔離政策が提案され、いくつかの都市でそれが実行に移されていく。いずれにせよ宗主国の支配の確立、維持のための拠点として都市が重要な役割を果たし、ヨーロッパの都市、植民地の都市、後背地の間で以前にも増して緊密な関係が形成されることになったが、そのネットワークは帝国主義の打倒を目指す運動にも力を与えることになった。

 第7章「破壊と再建」は、世界大戦勃発から戦後復興期にかけての都市について検討する。総力戦による困難に直面し不満を抱えた人々を懐柔し秩序を維持するため、国家や自治体は以前にも増して社会への介入を強めた。しかしペトログラードでは革命が勃発し、その後の内戦を経て生まれたソヴィエト連邦の領域では、急速な工業化とそれに伴う都市化が進んだ。アメリカの都市などの例外を除き、第二次世界大戦がもたらす暴力と無秩序は、それまでの戦争と比べてもはるかに壊滅的な被害を都市居住者に与えることになった。戦後、西側東側問わず、都市部の再建が政府の最重要課題として推進されていく。

 第8章「一九五〇年以降の都市の衰退と成長」は、20世紀後半から今世紀初頭にかけての都市の変遷を跡付ける。この時期、脱工業化と都市郊外化により衰退する都市が欧米で見られた一方、都市化が急速に進展したアジアやアフリカで、上海やラゴスといった巨大都市が出現した。この要因は公衆衛生の改善による自然増と農村から都市への人口移動であり、後者は教育を通じた若者の啓発やマスメディアを通じた都市生活の喧伝によって促されていた。また、摩天楼の建設も都市居住者の急拡大を可能にした。これら開発途上国の都市を中心に、スラムや大気汚染などの課題が今なお山積しているが、他方、都市はそうした問題の解決が模索され未来が形作られる場でもあると締めくくられる。

 以上概観してきたが、評者の考える本書の意義は、同時代の世界史的状況の中に各地の都市形成や発展を位置付けているという点にある。例えば、紀元前3世紀に35万人ほどの住民を擁したパータリプトラが同時代のローマと同程度の規模だったと述べる(p. 42)一方、その後紀元2世紀までに後者の人口は少なくとも70万人に達し、世界史における最初の巨大都市となったという評価を与える(pp. 33-34)。このように本書は随所で様々な都市の推計人口を示しつつ共時的、通時的な比較を提示しており、評者のように個別都市の実証研究を行っている者の目を開いてくれるように思われる。

 ただ本書が、シリーズの巻頭言で掲げられるヨーロッパ中心的な発展段階の叙述ではない新しい世界史叙述の試みとなっているかどうかと問われると、その点はやや心許なく感じた。例えば章別編成について、第3章からは明らかであるが、西洋史の時代区分を踏襲しているように思われる。その結果、15世紀末までに都市化が進んだ中国の都市人口はヨーロッパのそれよりも多く、1800年当時、北京は恐らく世界最大の都市であった(p. 81)と指摘しながら、第3章、第4章でのそれぞれ分散した言及に留まり、大都から北京への都市発展の筋道立った叙述が提示されないという憾みが残る。ほかにも、植民都市を考察する第6章において(前後の章では日本の事例が考察されているにもかかわらず)、大日本帝国の植民地ないし居留地についての言及は皆無であるが、仮にそうした議論が加わっていれば、この章でもっぱら対象となっているヨーロッパ列強による植民都市のあり方を相対化する叙述になり得たのではなかろうか。

 もっとも、たとえ上述の指摘が妥当だとしても、都市を主題とする世界史叙述を日本語で世に問うた本書の価値は揺らぐものではない。都市史研究者はもちろん、日本史と世界史の共時性に関心を持つ教育者にも一読をお勧めする。

(「世界史の眼」No.67)

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敗戦と「南洋」(上)―「土人」という言葉に触発されて
小谷汪之

はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、本号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 2016年10月、沖縄に派遣されていた大阪府警の1機動隊員が、国頭郡東村高江の米軍用ヘリパッド建設に抗議する沖縄の人々に対して、「ボケ、土人が!」という罵声を浴びせかけた。この「土人」というもはや死語になっていたように思われた言葉を、20歳そこそこの機動隊員が使ったということに、多くの人たちは驚き以上の衝撃を受けた。戦前・戦中、「土人」という言葉は、主として、日本の国際連盟・委任統治領であった「南洋群島」や「南洋」(東南アジア諸地域)の現地民を指す言葉として広く使われていた。当時、「土人」とは、何よりも、「南洋の土人」を意味していた。その「土人」という言葉が、敗戦後70年も経って、亡霊のようによみがえって、沖縄の人々に対して投げつけられたのである。

 この「土人」発言に触発されて、敗戦と「南洋」とがどうかかわっているのかということを、改めて考えてみたいと思う。

1 「酋長の娘」

 敗戦後数年間、まだテレビ放送はなく(NHKがテレビ放送を開始したのは1953年)、ラジオの時代で、「ラジオ歌謡」といった歌謡番組が多かった。そんなラジオ番組などで「酋長の娘」という歌をよく耳にした。

私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
赤道直下 マーシャル群島
椰子の木陰で テクテク踊る
踊れ踊れ どぶろくのんで

 この歌は、旧制高知高校生の間で歌い継がれていた「ダクダク踊り」の歌をもとにして、1930年に、演歌師・石田一松により歌曲化され、レコード発売されたものである。第一次世界大戦において、日本海軍がドイツ領であった赤道以北の西太平洋・ミクロネシアの島々を占領したのが1914年10月であるから、その約15年後ということになる。この15年の間に、歌にうたわれるほど「南洋」は日本人にとって身近なものとなり、その過程でこの歌に表れているようなステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像が形成されていったのである。

 この歌の「私」のモデルになったのは、森小弁こべんだという話がある。森小弁は1869年、高知・土佐藩の小禄の士族の家に生まれ、若くして政治に志して、同郷の政治家、大江卓や後藤象二郎の世話になった。しかし、しだいに「南洋」に関心を持つようになり、1891年、22歳の時に、一屋商会(田口卯吉がつくった南島商会の事業を継承した会社)に入り、天祐丸という小さな帆船で「南洋」に赴いた。森は、一屋商会の支店を開設するために、当時スペイン統治下にあったミクロネシアのトラック諸島(現、ミクロネシア連邦チューク州)に残り、その後、ドイツ統治期(1899-1914年)、日本統治期(1914-45年)を通して、トラック(チューク)諸島を拠点として商業活動などに従事した。その間に、森はトラック諸島・春島(ウェノ島)の首長の娘と結婚し、子ども12人をもうけた。森は1945年8月、日本敗戦の数日後にトラック諸島・金曜島(ポレ島)で死去したが、現在、その5世、6世の子孫は1000人以上にのぼり、モリ・ファミリーとしてチュークでは大きな経済力を持っているという(高知新聞社編『夢は赤道に―南洋に雄飛した土佐の男の物語』1998年、各所)。

 こうして見ると、森小弁は「酋長の娘」の「私」のモデルにいかにも似つかわしく見えるが、その確証はないということのようである(『夢は赤道に』192‐193頁)。しかし、ここで問題としたいのはこの話の真偽ではない。

 問題は、「酋長の娘」という歌が戦後になっても戦前と何ら変わることなく歌い継がれていたということである。一例を挙げれば、山田風太郎は、1946年11月、但馬に帰省した折に出席した親類の結婚式の宴会で、腰に蓑を巻いた男が「私のラバさん」と歌い、踊るのを見た(『戦中派焼け跡日記 昭和二一年』小学館文庫、2011年、393頁)。その後も、いくつかの映画などに、「酋長の娘」を歌い、踊る場面が登場した。こうしたことは、敗戦を通しても、日本人のステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像に本質的な変化がなかったということを示している(ただし、現在ではこの歌の差別的な表現が問題とされ、放送禁止歌となっている)。

2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫

 しかし、これは「酋長の娘」のような大衆歌謡の世界だけに限られたことではない。日本の近代的知性を代表するような人々においても、敗戦は「南洋」を見る目を考え直す契機とはならなかったようである。

 戦争中、戦争に反対であったり、戦争に疑問を持っていたりしながらも、それを表立って表明することができなかった人々がたくさんいた。そのような人たちの多くにとって、敗戦はむしろ一種の解放であったから、敗戦そのものは大きな衝撃ではなかった。彼らにとって衝撃だったのは、敗戦を機に一変した日本社会の風潮や日本人の言動の方であった。

 フランス文学研究者として著名な渡辺一夫は、戦後の1945年8月21日、妻と「善後策」を打ち合わせるために、妻子の疎開先である新潟の燕町に行った。8月26日朝、汽車で帰京した渡辺は、車中で見た「デモラリゼされた(士気喪失した)兵士逹の群。妄動する民衆」の姿に衝撃を受けた(渡辺一夫『敗戦日記』博文館新社、1995年、75頁)。渡辺は同日付の串田孫一宛手紙に、次のように書いている。

これからの僕逹の生活の困難を思ふ時、悄然ともします。汽車の中などで見聞するデモラリゼした人々狂ひ立つた人々愚昧を更に深める人々……これらを向ふにまはして生き且戦ふのです。カタルシスがもつと深刻だつた方がよかつたかもしれぬとすら思ふことがあります。それ程同胞諸氏はいけません。(『敗戦日記』104‐105頁)

 敗戦時、東京帝国大学文学部助教授であった渡辺は、復員して大学に通い出した学生などを見て、彼らがこれからどういう生活を送ることになるのかと考えこむことがあった。そんな時、「ある学校の口頭試問で『天皇は陸海軍を統率す〔統帥す―引用者〕』という文句が、新憲法にあるのか旧憲法にあるのか判らぬ青年が沢山いたという事実」を教えられて、「非常に愕然」とした(渡辺「非力について」〔1947年9月23日付〕、『敗戦日記』200頁)。考える力を持たない青年たちがたくさんいるのではないかということに気づいた渡辺は、学生たちに向かって語るかのように、次のようにのべている。

考えないのが悪いなどとは申しませんが、考えないと大損になると申せましょう。学生諸君に向かって、僕は何も要求できません。しかし、今申したような大損になるにきまっているようなことだけはしないようにとは言いたいのです。その上で、恋愛もよいでしょう。ダンスもよいでしょう。そして、深遠な形而上学や詩歌も結構です。しかし、恋愛もダンスも「文化」の所産として練磨され得ますが、それ自体は決して文化の条件ではないのです。犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします。そして深遠な形而上学や詩歌は、これを護り育てる地盤がなければ、いつでも抹殺され得るものであります。
これも恐らく、私と申す中老書生の泣言であります。その上に僕は、人間というものは自分の思いこんだことをなかなか棄てられぬと申しました。僕もそうなのでしょう。学生諸君もそうかもしれぬと思います。[中略]そう思う時、僕は、自らの非力を悟り、がっくりしますし、自分の思いこんだことをみつめて、ためいきをもらしてしまいます。
(「非力について」、『敗戦日記』201頁)。

 敗戦後の青年たちのものを考えようとしない風潮を憂慮し、自らの「非力」にためいきをもらす渡辺の心意はよく分かるが、恋愛もダンスも文化の条件ではないことを説く文脈で、「犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします」という一文が出てくるのにはどうしてもひっかかる。犬猫の方はどういうことなのかよく分からないが、ダンスというと「ポリネシアの土人」を連想することにひっかかるのである。

 渡辺は第一高等学校の学生時代にピエール・ロティ(Pierre Loti)のLe Roman d’un spahi,1881(直訳すれば、『あるシパーヒーの物語』。シパーヒーはペルシャ語・トルコ語で兵士の意。イギリスやフランスの植民地軍の兵士、特に傭兵もこう呼ばれた)を読んで「強烈な刺激と深刻な影響」を受け、その十数年後の1938年に同書を『アフリカ騎兵』(白水社)という訳書名で翻訳、刊行している。それは、こんな「物語」である。

 ジャン・ペーラルはフランス中央部の高地セヴェンヌ地方の貧しい農夫の息子だった。彼には「許嫁」と言ってもいい娘がいたが、20歳の時、兵役により入営し、アフリカ大陸西海岸のフランス植民地、セネガルに派遣された。フランス軍の駐屯地はセネガル河が大西洋に注ぐ河口の町、サン・ルイにあった。ジャンはフランス軍の騎兵として、セネガルの南に位置するギネア地方などへの遠征に従軍した。しかし、戦闘のない時には、サン・ルイの地で放恣な生活に耽り、「黒人」の娘と同棲するようになった。ジャンの5年間の兵役がもう数カ月で終わろうとする時、サン・ルイのフランス駐屯軍はセネガル河を遡上して、アフリカ大陸内陸部に遠征することになった。その地の「黒人の大首領」・「ブゥバカール・セグゥー」が暴虐を極めているとして、討伐することになったのである。「ブゥバカール・セグゥーの國」に最も近い屯所まで進軍した時、ジャンなど12人の騎兵が斥候に出された。しかし、「ブゥバカール・セグゥー」の別動隊の待ち伏せに遭い、ジャンなどほとんどの斥候兵が戦死した。これより前、ジャンの家郷では、ジャンの「許嫁」が他の男と結婚式を挙げていた。他方、フランス軍を襲撃した「ブゥバカール・セグゥー」の本隊は撃退され、彼自身もフランス軍の銃弾に倒れた。こうして、「ブゥバカール・セグゥーの國」は崩壊した。

 『アフリカ騎兵』の「後記」に、渡辺は次のように書いている。

後年同じ著者の他の作品を讀んでも常に見出された「現世のはかない營みの隙間から折あらば低く高く響いて來る永劫無や死滅の呼聲」が、『アフリカ騎兵』に於いては、アフリカの灼熱された不動の大氣の中にも、物質のやうに壓力のある烈光の中にも、硬い沈默を乘せてゐる砂漠の上にも、著實に又執拗に囁き、或は喚くのを感じ、当時の僕は異常な嚴肅さに擊たれ新しい感傷の波にもまれたやうに記憶してゐる。(『アフリカ騎兵』432頁)

 日中戦争が泥沼化していく時代に、このようなロティの著書を翻訳、刊行したということは時局に対する渡辺の姿勢を示しているのであろう。

 渡辺はロティの「他の作品」も読んだと書いているから、その中には、『ロティの結婚』も含まれていたに違いない。小説『ロティの結婚』の主人公は「イギリス海軍少尉候補生」とされている「ロティ」―作者と同じ名前だが―である。ロティは乗艦がポリネシアのタヒチ島に寄港した時、しばらくタヒチに滞在し、マオリ族の少女「ララフ」の魅力にとらわれて、「結婚」するという「物語」である。

 『ロティの結婚』には、例えば次の一文のように、タヒチの人々が歌とダンス(ウパ・ウパ)に興じる姿がしばしば出てくる。

 一千八百七十二年といへば、パペエテ[タヒチ王国の都、パペーテ]の最もすばらしい時期の一つであつた。こんなに多くの祭や、踊りや、饗宴アムラマの催されたことは未だかつて無かつた。
 來る夕べごとに眼もくるめくばかりであつた。―夜になるとタヒチの女逹は見る眼も彩なとりどりの花で身を飾つた。急調子の太鼓の音は、彼女らをウパ・ウパへと誘うた。―みんな髪を解き亂し、ムスリンの胴著はほとんど胴も露はのままに駈け寄って―氣の狂つたやうな淫逸な踊りが、往々にして明け方までつづくのであつた。(『ロティの結婚』125頁)
 タヒチの女たちは手を打ち鳴らして、急調子の熱狂的な合唱歌の銅鑼の音に合はせた。―順番が來ると、女たちは銘々ひとしきりの舞踏をやつた。足取りも音樂もはじめの中は緩やかであるが、果ては氣も狂はんばかりに次第にその速さを增してゆき、やがて疲れた踊子が、突然銅鑼の音高い一打ちに踊を止めると、前よりは一層猥雜な狂亂の踊子がつづいてそれに踊り出るのであつた。(同、126頁)

 『ロティの結婚』のこのような叙述から、渡辺は「ダンスに明け暮れるポリネシアの土人」というイメージを持ったのであろう。

 しかし、そんなイメージとは裏腹に、『ロティの結婚』からは渡辺の言う「永劫無と死滅の呼聲」が響いてくる。というよりは、『ロティの結婚』は、著者である生き身のロティが2度のタヒチ滞在(1872年1-3月、6-7月)の中で、タヒチ王国の発する「永劫無と死滅の呼聲」を聴き取り、それを文学的に表現したものと言った方がいいであろう。

 それは、フランスなど欧米列強の圧力によって、タヒチ王国が衰亡へと向かい、それとともにタヒチ的文化が荒廃していく響きであり、現実的には、肺結核など欧米由来の病気による多くのタヒチ島民の死の響きである。

 『ロティの結婚』(94頁)にも出てくるように、1842年、タヒチ王国はフランスとの間に保護条約を結び、フランスの保護国となった。フランスによる圧迫に対抗するために、イギリスの介入を求めたが、イギリスが静観するだけだったので、タヒチ王国はフランスの強圧に屈服するほかなかったのである。タヒチの女王ポマレ4世(在位、1827-1877年)の時代のことであった。女王ポマレ4世は「文明に侵蝕されては潰滅してゆく自分の王國―賣淫の場所となつては頽廢してゆく自分のうるわしい王國を眺めなければならぬ憂鬱」にとりつかれていた(『ロティの結婚』148頁)。1877年、ポマレ4世が死去すると、その次子がポマレ5世として即位した。しかし、1880年には、フランスと併合協定を結ぶことを強いられ、タヒチはついにフランスの植民地となった。こうして、約90年続いたタヒチ王国は滅亡したのである。

 欧米人たちの到来は「數年このかたこの不動のポリネシアに、かくも多くの未聞の變化と、豫想だもしなかつた新奇とをもたらした」(『ロティの結婚』73頁)。その一つが肺病という未知の病気の蔓延であった。女王ポマレ4世は何人かの男子を生んだが、「ちやうど或る季節に生ひ出でてその秋には朽ち斃れる熱帶植物のやうに、みな同じ不治の病氣で亡くなられた。/みな胸で亡くなられたのである」(同、31‐32頁)。女王ポマレ4世の孫娘の「姫君―タヒチの玉座の推定相續者」はまだ幼年であったが、「すでに世襲的疾患の徴候」を示していた(同、32頁)。この「姫君」も数年後には死去した。「ララフ」にも、「女王の息女のそれのやうな微かな空咳」が時々起こるようになった(同、128頁)。「ロティ」が「ララフ」をタヒチに置き去りにして、イギリスへ帰航する軍艦でタヒチを去った後、「ララフ」は生き方が崩れていった。タヒチにいる「ロティ」の友人からの通信によれば、彼女は「胸の病氣でだんだん弱つていつたのだが、火酒をあふりはじめたので、病勢は急に進」み、18歳で世を去った(同、280頁)。

 もし、渡辺一夫が『ロティの結婚』から、このようなタヒチの発する「永劫無と死滅の呼聲」を聞きとっていたとするならば、渡辺はどうして「ポリネシアの土人もダンスをします」などと書いたのであろうか。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.66)

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北前船・長者丸の漂流 その4
南塚信吾

1.エトロフ着 

 1843年(天保14年)5月21日(新暦6月18日 旧暦を先にして新暦を( )にいれて表示する)の午後2時ごろ、長者丸の一行6人を乗せた船は厚岸沖の大黒島に近づいた。一行は、八左衛門、七左衛門、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛の6人であった。船長はシトカのカーロヴィッチ長官の意を受けて、一行を厚岸に下ろそうとしてくれたのであった。しかし、人影が見えないので上陸は諦め、エトロフに向った。

 5月23日(新暦6月20日)、船はエトロフ島のフルベツの沖に着いた。すると一隻のアイヌの小舟が漕ぎよせてきた。異国の衣類を脱いで、ずっと持ち続けていた漂流時の衣服を着ていた一行が、「我々は越中放生津岩瀬の者にて、6年前奥州唐丹湊出帆の所漂流いたし、此度「ロシア」より送り返されたる」ところだと伝えると、小舟の連中が縄梯子を伝って乗り移ってきた。松前藩の足軽小林朝五郎、エトロフ島場所請負人林右衛門の使いの三吉、清蔵、又兵衛、それにアイヌ人3人の、計7人であった。7名は歓待を受け、最後に朝五郎が長者丸6人の受取書をしたためた(池田編 1968 146-147頁;高瀬重雄 1974 152-153頁)。

 朝五郎がしたためた覚書は次のようであったという。

    覚
 一.六人  大日本国之者
   右の者共無相違請取申所如件
            松前志摩守内
             小林朝五郎判
  年 号  月  日
   ナチヤネヤカ城主
    アドロフカロ兵衛様御内
      ニカライアルキサンダロ殿

 これを見て、ロシア人が日本の文字に大変興味を持ったので、朝五郎は、人麻呂の歌、

   ほのぼのと あかしの浦の朝霧に
     島かくれ行く 舟をしぞおもふ

と、もう一首を書いてあげたところ、ロシア人は大いに悦んで、お礼の紙をくれたり、酒宴を催してくれて、大いに交歓したのだった。

 岸では、「打払令」に基づいて砲撃の用意をしていたが、朝五郎はそれを押さえてきたのだとのことであった。「打払令」は1842年に廃止され、「薪水給与令」が出されていたはずであるが、ロシア船の水の補給要求も拒否された。その後、6人は、船長らに別れを惜しんで、2隻のボートに分乗して、船を離れた。離れる際に、「時規」(時計)を渡してもらった(池田編 1968 143-148,251頁;高岡市立中央図書館 1973 35-36頁;室賀他編 1965 123-129頁)。

 フルベツ港に上陸した長者丸一行は、1838年1月23日に漂流し始めてから、実に4年半ぶりに日本へ帰ってきたのであった。まず台場で漂流の年月などを聞かれたのち、漂流時の衣服を脱いで、新しい着物や下帯などをもらった。それからフルベツの会所で重役の小笠原判平らに漂流の次第を聞かれたりして、しばらくここに逗留した。フルベツには、大坂や松前から来ている船が5、6艘もあった。一行は、ここでは、越中伏木の徳三郎という船頭に赤飯や酒でもてなしてもらった。

 7月20日ごろ、松前から来た役人とともに、6人はフルベツを出帆した。そのあと、クナジリ島を経て、ネモロ(根室)、アッケシ(厚岸)に至った。このアッケシで一行は、越中東水橋の石黒屋権吉と会った。かれは1200石積という大きな北前船でこの地に来ていたのである。東水橋は、大坂への廻米、蝦夷からのニシンなどの肥料を運ぶ船で栄えていた港である。石黒家はそこの大きな船主であった。権吉は、一行に煙草、手拭、足袋などを差し入れ、平四郎など海外で亡くなった者たちの法事を営んでくれた。このあと、一行は陸路をたどり、クスリ(釧路)、ヒロウ(広尾)、ミツイシ、シラヲイ、モロラン、ヲシャマンベなどを通って、9月6日ごろ松前に至った。

 松前では、4年半前に泊まった上田屋忠右衛門という廻船問屋のところに宿が与えられた。松前には、越中東岩瀬の猪嶋久作というものが住んでいて、一行6人に饅頭、煙草、手拭、足袋などを差し入れてくれた。6人は町奉行所に数回呼び出され、取り調べられたが、とくにエトロフの小林朝五郎がロシア船に行った件につき、江戸で公儀から尋ねられない限りは、申し出ることは無用との申し渡しを受けた。

 9月21日、松前の役人以下足軽など11人の付き添いで、6人は松前を出帆し、津軽半島の三厩(みんまや)に上陸、その後陸路で青森、一ノ関、福嶋、宇津宮、越ケ谷を経て、閏9月14日(この年は閏年で9月を繰り返した)、武州千住に着いた(池田編 1968 148-150頁;高瀬重雄 1974 95-105、152-155、182-193頁)。

2.江戸での取り調べ 

 長者丸一行は、翌9月15日に江戸下谷の松前藩邸に出頭し、翌16日に勘定奉行所に呼ばれた。松前藩の役人も同行し、ロシアからの土産の「時規」を含め、異国装束などを台に乗せ、30人余りの行列で向かった。この日は奉行の佐々木近江守に、庭先でそれぞれ名前などを尋ねられただけで、小石川春日町の大黒屋長右衛門という加賀藩領越中水橋出身の者の営む宿屋へ預けられた。これは1836年に越後早川村の五社丸の漂流民らが預けられたのと同じ宿屋であった。その時、シトカでもらった「時規」も大黒屋へ引き取った。その後、一行は大黒屋にて、不自由なく過ごすことになった。ただ、この賄料はだれが出すのかという問題があったが、結局船主の能登屋兵衛門が出すことになった(高瀬保 2006 53頁)。この後、別の勘定奉行の戸田播磨守から3、4度呼び出しがあり、漂流の様子などを聞かれたが、しかし、なかなか越中へ帰る許しは得られなかった。

 その間に、七左衛門の病状が悪化し、10月13日に病死してしまった。検視を受けた後、浄土宗浅草誓願寺宗周院に埋葬した。残ったのは八左衛門、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛の5名であった。

 しかし、1844年(弘化元年)も1845年(同2年)も、それぞれ一度呼び出しがあっただけで、吟味はなかった。1846年(同3年)に入って、春と秋9月に、小林朝五郎の件で聞き取りがあったが、松前で打ち合わせておいたとおり、朝五郎らはロシア船には来ていなくて、一行は艀にて上陸したと言い通した。これ以外は、公儀からのお調べはなかった(池田編 1968 150頁;室賀他編 1965 19頁)。 

 ただし、表向きの動きはなかったが、実は、江戸へきて1年ばかり過ぎた1844年9月ころから、一行への私的な聞き取りが始まっていた。中でも次郎吉への聞き取りが多かった。9月、かれは水戸藩の江戸屋敷にて藩主徳川斉昭ほか家来4、5人に異国の様子を聞かれた。当時斉昭は、幕命により強制隠居の身にあったが、改革志向が強く、異国の事情にも関心が強かったと思われる。1845年に老中首座となった阿部正弘に仕える儒者の石川和介、越後長岡藩の藩主で時の老中牧野忠雅の儒者宅にも数度招かれた。次郎吉はまた、肥前守の蘭学者伊東玄朴のところにも出向いて、4、5人の人に異国の事を話した。そのほか儒者やオランダ語のできる医者や画家たちにも呼ばれて話をした。次郎吉に比べて、長者丸の他のメンバーは呼ばれることは少なかった。太三郎は医者の伊東玄朴、六兵衛は古賀謹一郎宅へ一度ずつ呼ばれただけであった。金蔵は一度も呼ばれなかった。

 次郎吉は、とくに幕府の書院番古賀謹一郎の屋敷(昌平黌内の役宅に住んでいた)には、1844年(弘化元年)秋から翌年秋にかけて30回も呼ばれた。古賀謹一郎は、昌平黌の儒学者古賀侗庵の息子で、のちに1855年に蕃書調所を作りその頭取になる人物であった。考えるに、当時、異国帰りの者との接触は厳しく警戒されており、このように何度も聞き取りに屋敷に出入りするには、家老筋からの了解があったとしか考えられない。石川和介―安部正弘の線が強く考えられる。間もなく1846年12月に昌平黌の儒者見習となった古賀謹一郎は、次郎吉らから聞いたことを、1849年(嘉永2年)12月に『蕃談』という書籍にしてまとめることになる(池田編 1968 233頁)。

 ようやく1846年(弘化3年)10月23日に、長者丸一行がいったん帰村して、来年5月に再度江戸に来るようにとの御沙汰が出た。ただし、その間親戚の外には対面すべからずとの条件が付いていた。11月6日に足軽の同行で、江戸を出て、越中に着き、17日に加賀藩東岩瀬の役所に太三郎、次郎吉がまかり出で、18日に加賀藩小杉の役所に八左衛門、六兵衛、金蔵がまかり出て、そのあと帰宅が許された。

 5人は、1838年4月23日に東岩瀬を出てから10年半ぶりに帰郷したのだった。だが、帰ってきた一行には苦しい生活が待っていた。「異国へ漂流いたし候」ゆえ、家族まで調査され、奉行所に届けられた。分かっている限りでは、太三郎は、一家7人の主として戻ったが、暮らしにゆとりはなかった。次郎吉は、独り身であったので、兄の七郎右衛門のところに世話になったが、兄は小舟で能登方面への運賃積をして細々と稼いでいるだけで、弟の面倒は見切れなかった。治郎吉が江戸へまた呼び出された時には、兄は旅費を村の肝煎から借りてやらねばならなかった(高瀬重雄 1974 165-167、170-171頁)。

 帰村して半年して一行は江戸へ帰ることになった。1847年5月23日、足軽たちの付き添いで、八左衛門、六兵衛、金蔵が放生津を出発、翌24日に太三郎と次郎吉が東岩瀬から、再び江戸へ向けて出発し、6月7日に江戸に着いた。そして、11月11日に奉行所に呼び出された。だが、1848年正月より八左衛門の病気が悪化し、ついに3月5日に死去した。七左衛門と同じく浅草誓願寺宗周院に火葬した。残るは、4人、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛となった。6,8月に再度小林朝五郎の件につきお尋ねがあったが、この度は詳細な文書を見せられて審議を受け、4人はついに朝五郎がロシアの船に来たことを認めた。そこで「公儀に偽りを申し上げた」というので一時的に手鎖をかけられて大黒屋へ戻された。9月4日、4人は勘定奉行のもとに呼び出され、海防掛を兼ねた勘定奉行の石河土佐守より、各自が漂流したことに相違なく、お咎めはないことに落着したことを告げられ、絵の類は取り上げられたが、「時規」は引き渡された。そして4人は、10月16日、足軽の付き添いのもと、江戸を出発、帰村した(池田編 1968 150-151頁)。

 一行が東岩瀬を出帆してから帰国するまでは5年であったが、帰国してから最終的に帰郷ができるまでには、5年半かかったことになる。

 ここで気になるのは、なぜ江戸での取り調べがほとんど実質的になかったにも拘わらず5年もかかってしまったのか、なぜエトロフの小林朝五郎の件だけが実質的な取り調べの対象であったのかということである。幕府として、なにか気にすべき大問題がこの時期に起きていたのだろうか。対外的に危機的な問題が起きていたのだろうか。とくにロシアとの関係で問題が起きていたのだろうか。

 たしかに、アヘン戦争のもたらした対外的危機は、国内における政治的危機と「天保の改革」の重要なきっかけになった。1841年(天保12年)に水野忠邦のもとで開始された「天保の改革」によって、幕府は国内の改革とともに、1842年に、異国船打払令を撤廃し、薪水給与令を発し、海防を強化した。そういう折、1844年に、オランダ国王の使節が「大日本国君」にあてた「親書」を携えて長崎へやってきて、幕府に開国を勧告した。また1844年には斎藤竹堂の『鴉片始末』が出て、イギリスの接近に注意を喚起していた。しかし、1845年2月から老中首座となった阿部正弘のもとで、幕府はオランダ国書の忠告を拒否し、同年7月、「通信は朝鮮・琉球に限定し、通商は貴国と中国にかぎる」と返答した。幕府にとって幸いにも、このような動きの後「約3年のあいだ、対外関係は小康を保っていた」のである(南塚 2018 31-32頁)。 

 したがって、もちろん海外事情の聞き取りということは必要ではあったが、切羽詰まった課題ではなかった。現に長者丸一行への聞き取りは数回でしかなかった。とすると、考えられるのは北方でのロシアの動きであろう。木崎が言うように、蝦夷地支配をめぐる幕府と松前藩の微妙な関係が問題であったと思われる(木崎 1991 169頁)。とくに、長者丸一行をエトロフにおいてプロミセル号に乗り込んで受け取った小林朝五郎らの行動が問題視されたようである。上述のように、一行は当初、松前での打ち合わせの通り朝五郎らがロシア船には来なかったと述べていたが、幕府が三吉らをも江戸に呼び寄せて調べた結果、真相が明らかになり、一行は処罰を受けることになったのだった。

3.帰郷と聞き取り   

 1848年(嘉永元年)10月に長者丸一行4人は最終的に越中に帰郷した。江戸を出たのが10月16日であるから、28日前後には着いていると思われる。先ず、富山藩の取り調べを受けた。一行全員が取り調べられたのかどうかは不明だが、次郎吉の口述は、『漂流人次郎吉物語全』という40頁あまりの小さな書類として残っている。また、六兵衛と金蔵が小杉岩瀬の郡奉行所で述べた口述も、10月29日の日付で残っている。

 だが、一行4人はさらに加賀藩の聞き取りを受けねばならなかった。東岩瀬も放生津も加賀藩領だったからである。放生津からは六兵衛と金蔵、東岩瀬からは太三郎と次郎吉であった。4人は1849年(嘉永2年)3月に出府し、家臣遠藤数馬宅へ行った。そして3月17日に藩主前田斉泰(なりやす)が漂民たちを、庭のうすべりに侍らせ、障子を隔てて、「引見」した。これは昼過ぎから夕方まで続いた。この時、六兵衛と金蔵はロシア風の衣装をつけ、ロシア風のあいさつをしてみせた(池田編 1968 225頁)。さらに5月26日にも藩主別邸の金谷御殿へ召し出された。この時には一行は3人であった。この間に太三郎が病気で、3月25日には東岩瀬へ帰って、ついに5月9日に肺患で死亡していた。だから、5月26日には不在であった(高瀬重雄 1974 83,167、170-172頁)。

 この間、定番頭御算用場奉行を務める遠藤数馬高環(たかのり)のもとで、熱心な聞き取りが行われた。次郎吉は、1849年3月11日から3度にわたって、計81日も金沢に滞在して、聞き取りに応じた。そして、遠藤高環は、1850年(嘉永3年)6月1日、『時規物語(とけいものがたり)』全10巻、25冊(10巻で1冊)を、藩主斉泰に献上した。編集作業は高環の息子等、遠藤家を中心に行われた(高瀬重雄 1974 174-176頁)。

 加賀藩ではこのころ藩政改革が叫ばれ、西洋の砲術などを取り入れるよう動きが高まっていた。だから、海外への関心は強かったと思われる。長者丸の帰還者がもたらした情報に関心がないはずがなかった(木越 2001 168-169頁)。しかし、折から、1849−52年には、すでに述べたように、銭屋五兵衛をめぐって、河北潟埋め立て問題が起きて、藩政が揺れていた。また、藩主の前田家は折からの開国論議にはあまり関心を示さず、どちらかといえば消極的であった。そういうわけで、『時規物語』の価値が評価されるゆとりはなかった。『時規物語』は広く写本が出回ることもなく、藩の書庫にしまわれたままであった。また、人的にも、帰還者への待遇は悪かった。藩主は帰還者に障子越しに対面しただけであるし、彼らを藩の組織内に位置づけることもなかった。

4.帰還者のその後

 長者丸一行は1838年(天保9年)4月に東岩瀬を出た時は、船頭の平四郎、親司(おやじ)の八左衛門、表(おもて)の八左衛門、知工(ちく)の太三郎、片表(かたおもて)の善右衛門、追廻(おいまわし)の六兵衛と七左衛門と次郎吉、そして炊(かしき)の五三郎と金蔵の10名であった。松前で表(おもて)が八左衛門に代わって金六になっていたが、10名で漂流したわけである。結局、越中へ帰京したのは、八左衛門、六兵衛、金蔵、太三郎、次郎吉の5名であった。だが、帰郷してから八左衛門は死去したので、残るは、六兵衛、金蔵、太三郎、次郎吉の4名であった。1849年に加賀藩の聞き取りを受けた後の4人のうち、太三郎は、加賀での聞き取りの最中に体調を悪くして、1849年5月には亡くなっていた。したがって、『時規物語』ができ上って藩主に献上されたときに生き残っていたのは、六兵衛、金蔵、次郎吉の3名であった。

 このうち、放生津の六兵衛は、1857年(安政4年)の12月に、享年51歳で亡くなった。同じく放生津の金蔵は、1848年の帰郷後「金蔵一代限り御塩小売人」となることを認められていた(高瀬重雄 1957 48―49頁;高瀬重雄 1974 89-91頁)が、1863年(文久3年)に、43歳で亡くなったと言われる。

 東岩瀬の次郎吉は、その後のことがよく分からない。1850年には38歳であったはずで、眼の病気にかかっていたようだ(高瀬重雄 1974 85-89,164-167,179-178頁)。ところが、近年、新たな発見があった。1852年(嘉永5年)6月10日に、越後国出雲崎湊の廻船問屋「佐野屋」の「諸国御客帳」に「水橋 米田屋治郎吉」が入津しているとの記載がある。このときは「空船」であったとある。水橋は東岩瀬のすぐ隣の湊である。さらにもう一つ、1857年(安政4年)6月18日に、同じ「佐野屋」の「諸国御客帳」に「東岩瀬 米田屋治郎吉」の名があり、「穴水すみ(炭)500俵」「かたすみ(堅炭)200俵」の取引があったことが記されている。「米田屋治郎吉」は「米田屋次郎吉」と考えてよい。ということは、次郎吉は、小規模ながら、船の仕事に戻っていたことを物語ることになる。この「佐野屋」の「諸国御客帳」には、越中からも多くの船が入っていることが記載されていて、次郎吉の兄の「岩瀬 米田屋七右衛門」の名も数回(嘉永6年5月3日、安政3年5月22日)見えていて、米田家のよく行く問屋であったようである(https://ameblo.jp/kitamaebune2/entry-12469628925.html;小村弌 1992 74,77頁)。しかし、次郎吉がいつ、どのように亡くなったのか、次郎吉の墓がどこにあるのかなどはわからない(高瀬重雄 1974 88-89頁)。いずれにせよ、プラマーは、次郎吉は「歴史上名前の残るべき人物」であると、高く評価している(Plummer 1991a p.119)。  〔完〕

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
高岡市立中央図書館『漂流人次郎吉物語全』高岡市立中央図書館 1973年
笠原潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
木越隆三『銭屋五兵衛と北前船の時代』北國新聞社 2001年
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年
小村弌『近世日本海海運と港町の研究』国書刊行会 1992年
高瀬重雄「漂流記蕃談に関する考察」『史林』1957年
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易 16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』彩流社、2008年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b

(「世界史の眼」No.66)

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湯浅克衛の朝鮮と満洲(下)―「植民地文学」の変質
小谷汪之

はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、前号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、本号)

4 満洲移民村歴訪

 湯浅克衛は、その後、日本人移民たちの後を追うように、満洲の移民村を歴訪した。1939年4月末から6月半ばにかけては、大陸開拓文芸懇話会から派遣された使節団の一員として、満洲各地を訪ね歩いた。湯浅はその後ほとんど毎年のように、満洲に行き、日本人移民の村や満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所などを訪ね歩いた。湯浅が満洲旅行について書いた旅行記風の文章の多くは湯浅克衛『民族の緯絲』(育成社弘道閣、1942年)に収められているが、年月日、旅程、同行者などについて不明確な部分がきわめて多い。ここでは、そのうち比較的よく分かる二つの旅行について、いくらか詳しく見ていきたい。

 前述のように、湯浅たちは1939年に大陸開拓文芸懇話会から派遣されて満洲各地を旅行した。10人ほどの視察団であったが、常に全員そろって行動したわけではなく、数人ずつに分かれて行動することもあった。

 湯浅は南満洲鉄道(満鉄)で奉天、新京、ハルビン(哈爾浜)と北上し、ハルビンからは松花江を船で下って、5月8日にジャムス(佳木斯)に着いた。伊藤整、福田清人との三人旅であった。ジャムスからは、ジャムスと図門を結ぶ図佳線で南下し、弥栄村と千振村を訪ねた。次に、図佳線の勃利駅で下車して、満蒙開拓青少年義勇軍の勃利訓練所に行った。勃利訓練所では島木健作と行き違って、ほとんど話もできないまま別れた。その後、林口駅で林口と虎頭間を結ぶ虎林線に乗り換えて、沿線の村(1936年、第四次入植。前号付図の⑤)、城子河村(第四次入植)を訪れた。そこから林口駅に引き返して、龍爪村(1937年、第六次入植。前号付図の④)に行った。最後に、牡丹江駅で視察団の他のメンバーと合流し、浜綏線(北満鉄路[旧東清鉄道本線]の東部線)でハルビンに戻った。

 湯浅はこれらの開拓村(開拓団)で団長などと話し合ったが、彼がもっとも関心を持ったのは共同経営(集団経営)と個人経営の問題だったようである。島木健作とは異なり、湯浅は共同経営の問題点をいろいろと指摘している。例えば、団全体の組合がかなり高度に発達している弥栄村でも、「Sと云ふ人が班單位で漬物の工場をやつてゐる」。しかし、「組合の機構から離れ勝ちになつて、班又は個人で企業的になつて行くことは、全體の均衡を破るし、危險率も大きいので注意され、摩擦も大きい」。このSのような人たちも「他の團や機構の中でなら大いに生かせるであらう」(『民族の緯絲』68頁)。また、「第六次龍爪[村]のやうに、集團經營を恒久的に續けて、土地の分割をせず、収穫物の管理を團、組合でやると云ふ場合に、現金収入を入れて郷里に送金したいなどと云ふ人が居たらどうだらう」(『民族の緯絲』67頁)。このように、湯浅は開拓団内の「班」や個々人の創意や意向を重視する考え方を取っていたようである。

 1941年には、湯浅は南満洲の新台子・「紀州村」を訪ねた。新台子駅は南満州鉄道(満鉄)の奉天と鉄嶺の間にある駅で、「紀州村」は新台子駅から4、5キロメートルのところにあった。「紀州村」というのが正式の名前なのかどうか、湯浅の記述からははっきりしないが、和歌山県最南部・串本町沖合の大島から分村移民してきた村である。1939年9月に先遣隊が入り、翌1940年4月に、本隊53人が入植したということであるから、きわめて新しい移民村であった。自由移民として入ったので、拓務省からの補助はなく、和歌山県庁が移住費用を立て替えた。「紀州村」は奉天や鉄嶺などの都会に近いので、大根、白菜、ネギなどの蔬菜栽培を主としていたが、最初の年は気候の関係もあって失敗だった。しかし、翌年は気候にも恵まれ、大豊作で、人々は蔬菜栽培に自信を持てたようである。その夜には湯浅を囲んで座談会が講堂で開かれ、多くの人たちが集まって、いろいろと語りあった(『民族の緯糸』96‐110頁)。

 湯浅は、このように、あまり視察団が行かなかった南満洲の移民村を含めて、満洲各地の移民村を歴訪していた。しかし、その関心はほとんど日本人移民の動向に限られていて、日本人の入植によって生活の基盤を破壊された満洲人や在満朝鮮人あるいは漢族の農民などにはほとんど目が届いていない。

5 『長篇小説 鴨緑江』

 1942年5月、湯浅克衛は朝鮮総督府拓務課から派遣されて、東北満洲の亮子嶺新興農村を視察した。亮子嶺新興農村は、中国(当時は「満洲国」)と朝鮮の国境を流れる大河・鴨緑江に建設された巨大な水豊ダムによって土地が水没した朝鮮人農民たちが入植したところである。亮子嶺はハルビンと綏芬河を結ぶ北満鉄路・浜綏線のハルビンと牡丹江駅の間にある駅で、その西隣が亜布洛尼ヤプロニ(ロシア語で「リンゴ」の意)駅である。この二つの駅の中間、北側一帯が亮子嶺新興農村であった(前号付図の⑥)。亮子嶺新興農村は新興屯、昌坪屯、昌城屯、双河屯、栄山屯、錦河屯、楚山屯の6集落から成り、それぞれ戸数90戸前後、村民数400人前後であった(佐々木甚八他「濱江省葦河縣亮子嶺新興農村の衞生状態に就て」『昭和醫學會雜誌』2巻4号[1940年]の各所)。

 水豊ダムは朝鮮半島西南端の新義州で黄海に注ぐ鴨緑江の河口から80キロメートルほど上流の地点に建設された。「満洲国」や東洋拓殖株式会社(東拓)などの出資により、1937年に着工され、1941年8月に第1号発電機が送電を開始した。その後、他の発電機も順次発電を始めていったが、第二次世界大戦下、完成には至らなかった。

 湯浅克衛は水豊ダムや亮子嶺新興農村における見聞などにもとづいて『長篇小説 鴨緑江』(晴南社、1944年)を書いた。『鴨緑江』の主人公は「大山英章」であるが、これは創氏改名した名前で、本名を崔英章という朝鮮人とされている。彼は亮子嶺新興農村・「昌平屯」(昌坪屯を指すのであろう)の「指導者」ということになっている。朝鮮人農民の満洲への移民(移住)を取り扱っている点で、この小説は湯浅の後期の作品の中では珍しいもののように見える。しかし、問題なのはそこに描かれた朝鮮人像である。以下、この点に絞って、『長篇小説 鴨緑江』を検討していくことにしたい。

 「大山英章」は自分の村が水豊ダムの建設によって水没することを知ると、いち早く村人たちを説得して満洲・亮子嶺新興農村への移民(移住)に踏み切った。その「英章」が親戚の者を満洲に連れていくことを目的として、鴨緑江の故地に戻ったところからこの小説は始まる。

 「大山英章」は新義州の港から定期船に乗って鴨緑江を遡り、水豊ダムに向かった。その込み合った船中で、「工科の學生」らしい一団がしゃべっているのを聞いた(『長篇小説 鴨緑江』6‐14頁)。

「湖底の村の連中はどうしたのかな、立退いたものだけで七萬人と云ふぢやないか」
「さうかね、七萬人もかね」[中略]
「水豊の湖底の村の立退き[先]も満洲ださうだな」
「よく靜かに行つたね。何も新聞に出なかつたぢやないか」
「七萬人と云つたら、大した數だぜ」
「小河内貯水池なんて比べものにも何にもならないのだからな。その六十倍あるんださうだ。[後略]」
「しかし、あと、六つ、貯水池が出來るんだらう」
「もう始まつている筈だ」
「上流は名にし負ふ、白頭山を頂く長白山系、あの蓋馬高臺だらう。鴨緑江はこんな大河で、そのくせ、まるで急流なのも、河がまるで傾斜してゐるんだね。それを階段式に、七ツのダムにしやうと云ふわけだ」[中略]
「すると、その湖底になる面積はどうなんだ」
「知らないね。何だか、流域面積は九州全體よりも大きいとか云ふんだがね」

 「學生達の會話が續いてゐる間中、大山英章は緊張して、固くなつてゐた。頬がかあつと熱くなつたり、心臓がどきどきと鳴り出したり、はたと頬をたたかれたやうな思ひにもなつた」。「ああ、俺達は追拂はれる,何代も何代も、父が、祖父が、そのまた祖父が住み、永久だと思つてゐた土地から追拂はれる」、「さう云ふ氣持が何としても抜けなかつた」。「そこを、先程の學生達の會話でどやされたのである」。「英章」はこう思い至った。

自分達が移住して來たことが、そんな途方もない大きな計畫の中の一部分で、それが世界に示し得るやうな仕事になつてゐると云ふことを知つたときには、自分達もその一員であることが誇りたい氣持になつた。

 鴨緑江ダム計画について「學生達」の言っていることはほぼ正確であるが、水豊ダム以外の六つのダムは結局完成しなかった。水豊ダム建設のために立ち退かされた朝鮮人の数が約7万人で、ダムの「流域面積」(降った雨や雪がその川に流れ込む地域の総面積)が九州全体より大きいというのもその頃よく言われていたことのようである。

 しかし、朝鮮人「大山英章」が、先祖代々の土地を立ち退いたことによって、自分たちもこの「世界に示し得る」巨大なダム建設の「一員である」と思い至り、「誇りたい氣持」になったというのは、あまりにも身勝手な日本人作家の発想であろう。『長篇小説 鴨緑江』は国策文学以外の何物でもないのである。それは次のような個所では、さらに露骨な形で現れている。

 「大山英章」は水豊ダムの内部を案内してくれた日本人事務員にこう語った(『長篇小説 鴨緑江』74‐75頁)。

「私達のやうに開拓團としてレツキとしてやつて行くと、倉庫だつて何だつて永久的なものを建てますし、それだけ匪賊達にも、大きくねらはれるわけです。もう匪賊は少なくなりましたが、對抗するだけの用意をして行つて居るのです。開拓團をやつてみると、まつたく計畫性がなければいけないことがわかります。その計畫性と云ふのは、何かに信頼なしには出來ないことなのです。その何かが、お恥ずかしい話ですがわからなかつたのです」
「何か……つて云ひますと」
案内の人は、やゝ不審氣であつた。
「え、その何かとは、國家なのですね」
「あゝ國家」
「 天皇陛下様のことを、私達は實感として知らないで來たのです。あなた達は、それは小さい頃から、衣食住全體を通じて、わかつてゐられるけれども、私達は、今から、生活の全部をあげてわからなければ、ならないところに來ています」

 国家を信頼しなければ計画性をもって事に当たることができない、その国家とは「 天皇陛下様」のことだ、と朝鮮人「大山英章」に語らせる日本人作家・湯浅克衛は「カンナニ」の著者・湯浅克衛とはまるで別人のように感じられる。

〈付記〉
 亮子嶺新興農村のその後については、資料がないようで、よく分からない。特に、1945年8月9日、ソ連軍が満洲に侵攻してきたとき、亮子嶺新興農村の人々がどうなったのかはまったく分からない。

おわりに

 1942年5月、日本文学報国会が設立されると、大陸開拓文芸懇話会はそこに吸収併合され、その事業は日本文学報国会の大陸開拓文学委員会によって継承された。湯浅克衛も日本文学報国会に加わり、大陸開拓文学委員会の一員となった。1943年になると、日本文学報国会内に皇道朝鮮研究委員会が設立され、湯浅はその常任委員に任命された。小説「オリンポスの果実」で知られる田中英光もその一員であった。田中は横浜護謨株式会社の京城支店に長く勤務していたので、皇道朝鮮研究委員会に加わることになったのであろう。皇道朝鮮研究委員会の一つの活動は埼玉県入間郡高麗村(現、埼玉県日高市新堀)の高麗神社に参詣することであった。湯浅自身も1943年10月と1944年1月に、皇道朝鮮研究委員会の他の会員たちとともに高麗神社に参詣している。高麗神社は、湯浅や田中英光も鼓吹していた日鮮同祖論の象徴と見なされていたのであろう。

 1943年、朝鮮文人報国会が結成され、1944年6月、決戦態勢即応在鮮文学者総蹶起大会を開催した。湯浅はこれに日本文学報国会の代表として参加し、朝鮮文人報国会の幹事となった。その後、湯浅は朝鮮総督の文化顧問に任命された。この間に、湯浅は妻子を伴って朝鮮・水原に疎開した。1945年8月15日、日本の敗戦を迎えた湯浅は朝鮮に残留することを望んでいたが、結局、同年9月家族ともども日本に帰った。その後の湯浅については、ここでは省略する(湯浅の経歴に関しては、池田浩二編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に収載されている梁禮先「湯淺克衞年譜」を参照した)。

(「世界史の眼」No.65)

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