コラム・論文」カテゴリーアーカイブ

伊集院立さんの想い出
松本通孝

 2024年の年も押し迫った12月末、突然伊集院さんが亡くなられたというメールを受け取りました。奥様が亡くなられてから数年間、音信不通になっていましたが、やっと開通できたと思ったメールが、彼の他界のお報せでした。

 彼と私は、年は同じで、彼は一浪、私は一年留年しておりましたので、史学科西洋史で卒業年度は一緒でした。しかし学生時代の想い出は殆どありません。一つだけ、うろ覚えですが、そのころ存在していた東大歴研が明治100年をどうとらえるかというシンポジウムを企画した時、彼と二人でシンポジウムでの講演をお頼みするため、犬丸義一さんの家に依頼に行ったことがかすかに記憶に残っています。ただ、講演・シンポに関しては、まったく記憶がありませんので、彼がどのような役割をしていたかは不明です。

 その後、私は、高校の教師として歴史教育の方面に進路を決めましたので、以後のお付き合いは年賀状以外全くなくなりました。

 1970年代の半ば、私が高校の世界史教師として夢中になっていたころ、突然彼から電話がありまして、中村義さんらと中高生向けの人名事典を企画しているのだけど、教育現場の立場で協力してもらえないかとの誘いでした。歴史関係だけでなく、文学、科学、芸術、芸能、スポーツなどに及ぶ総合的な事典の企画でしたが、私は、自分の授業に絶対にプラスになると思い、二つ返事でお引き受けしました。2~3年かかったと思いますが、本当に楽しい編集委員会で、伊集院さんには本当に感謝しております。出来上がった本は、中村義ほか編『コンサイス学習人名事典』三省堂、1978年でした。中高生向けの事典でしたので、短い説明文の中にできるだけエピソードを盛り込むようにという方針で、これは、私が普段の授業で生徒たちに話す余談の貴重なネタになりました。伊集院さんには本当に感謝しております。

 それからしばらくして、1982年ころ、西川正雄さん、吉田悟郎さんらが中心となって比較史・比較歴史教育研究会が発足した時、私は事務局の仕事を手伝うという立場で参加しておりましたが、伊集院さんはその会のメンバーの一人で数回の東アジアシンポの報告者としても活躍されていたと思います。私は裏方でしたので、彼の報告は聞いておりません。シンポジウムの報告集を出すときにも、彼は中心メンバーの一人として活躍されていたと思います。

 時代的には併行しますが、1989年、99年に高等学校の学習指導要領が改訂され、社会科解体、世界史はAとBの教科書が作られるようになりました。この時は、三省堂から西川さんに依頼があり、高校現場から私を含め3名が編集執筆委員として参加することになりました。この教科書は、戦後史を3章立てにし(普通は2章)、しかも今までの西洋中心、中国中心の傾向を打ち破るため、大国の周辺からの叙述を狙った画期的な教科書でしたが、現場の高校の先生方には受け入れられず、結果的には失敗に終わってしまいました。この教科書で近代ヨーロッパを担当されたのが伊集院さんで、西川さんからの難しい要望に頭を悩ましていた姿を思い出します。

 その後も、西川グループの企画は続き、2006年には歴史学研究会編『世界史史料』全12巻(岩波書店)の刊行を開始し始めました。この企画は10年以上に及ぶ企画で、その途中で西川さんが病に倒れ、この仕事を引き継いだのが伊集院さんでした。この仕事は、直接的には各巻の責任者が執筆者への依頼、原稿集め等を分担するのですが、その総責任者が突然伊集院さんになったのです。彼の悩みはいかばかりであったことか、とにかく2012年7月、最後に残っていた第1巻の刊行が終わり、準備期間を含めると10年近くに及ぶ企画は無事終了しました。西川さん時代からの淡い希望であった、もし売れ行きが良かったら、高校生向けに本格的な史料集を出したいなーという夢は、いまだもって実現されていません。伊集院さんは、その後も高校の歴史教育関係の研究会に顔を出し、いずれ実現したいと思われていたと推察しますが、彼の遺志を継ぐ動きは、今のところ出てきていません。

 そのような中で、彼が晩年に取り組んでいたのは、明治以来の歴史教科書の系譜をたどる作業であったように思われます。万国史以来の日本における外国史の受け入れ、日本独自の歴史教育への道の探究に関心を持たれていたようです。それゆえ、歴教協の東京部会の例会にもたびたび顔を出されるようになり、帰る間際になって、ニコッと微笑みながら、難解な問題提起をされ、参加者の皆さんをけむに巻いて、私と一緒に新大塚の駅まで冗談を言いながら一緒に歩いたのが、最後になってしまったなーと、今さらながら残念に思い、彼の生前を偲ぶ次第です。

2025年4月

(「世界史の眼」No.63)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

伊集院さんの仕事を振り返る
南塚信吾

 伊集院立さんが、2024年12月に亡くなった。81歳であった。伊集院さんを偲んで、かれの仕事を簡単に一覧し、そのあと、わたしが一番興味を持っている「万国史」に関係したかれの論文の紹介をしてみたい。

1.伊集院さんの研究の歩み

 伊集院さんは、私と高等学校が同じ(かれが1年下)で、最後はともに法政大学にいたことから、なんとなく親しい間柄であった。かれは学生時代からファシズム、ナチズム、そしてとくにナチスの農民・農業政策に関心を持ち、地道な研究を続けてきた。かれの史料を重視した研究は他人を寄せ付けないものがあった。かれは、ナチスが権力を握った一つの重要な要素は、ワイマル期のドイツにおけるエリートに反発した大衆を巧みに捉まえたところにあるとみて、農民・農業政策の研究でもそれを根底においていたように思う。それと並行して、かれは西川正雄さんを助けるように、比較史・比較教育史の研究に伴走し、また、西川さんを助けて、世界史の史料集の編纂にエネルギーを注いできた(歴史学研究会編『世界史史料』岩波書店, 2006―2013年)。そのような伊集院さんは、2005年に発足した私たちの「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」研究会では、新しい挑戦をしていた。それはドイツ国民国家を考え直す仕事であり、市民社会におけるエスニシティの問題の追及であった。後者はやや未消化であったが、いまから考えるとかれの最後の挑戦であったわけである。

 伊集院さんはまだやり残した仕事もあったのではないかと思われるが、われわれに課題を残していったのかもしれない。

 ご冥福を祈る次第である。

***

 伊集院さんの主な仕事の一覧は以下のとおりである。

1)ファシズムとナチスの農業政策

「ワイマル共和制からファシズムへの移行」『世界史における1930年代―現代史シンポジウム―』青木書店 1971年
「相対的安定期末のドイツ共産党党内論争」『階級闘争の歴史と理論』第3巻 青木書店 1980年
「ファシズムの台頭」『西洋の歴史―近現代編―』ミネルヴァ書房 1987年
「ナチスと農村同盟の地域支配1930-1932」 茨城大学教養部 『紀要』 (20) 1988年  
「ヴァルター・ダレーとヴィルヘルム・ケプラー 1932年ナチ党内における農業派と工業派の角逐」『史学雑誌』 第98篇(3号) 1989年  
「ナチスの農村労働者政策(1930~32年)」 『大原社会問題研究所雑誌』378号 1990年  
「ナチズム 民族・運動・体制・国際秩序」『講座世界史6 必死の代案』 東京大学出版会 1995年
「ドイツ農村の変容とナチス ―ポメルンにおけるナチスの農村労働者政策―」 『社会労働研究』(法政大学社会学部) 第44巻(第3、4号) 1998年  
「ライン農民協会とラインラント農業界の保守的統合―1919~1920年―」『社会志林』 51(3) 2004年  
「ラインラントの農民協会とドイツ革命」『社会志林』 50(4) 2004年  

2)比較史・比較教育

「世界史のなかのヨーロッパ史」 『自国史と世界史』未来社 1985年
「自国へのリアリズムと他国へのリアリズム」 『アジアの「近代」と歴史教育』未来社 1991年
Nationalgeschichte und Universalgeschichte: Zweites Symposium zur ostasiatischen Geschichtserziehung,Internationale Schulbuchforschung: Zeitschrift des Georg-Eckert-Insitituts für Internationale Schulbuchforschung,  12(2) 1990年  
「文禄の役における「自国史と世界史」〜東アジア歴史教育シンポジウムから〜」 第3回韓・日歴史家會議「ナショナリズム:過去と現在」2003.10. 2003年 
「近代日本の世界史教科書における東洋史と世界史の叙述:歴史教育と歴史研究」 『社会志林』 56(1) 2009年  
History Education and Reconciliation : Comparative Perspectives on East Asia, Peter Lang 2012年 

3)新領域を求めて

『国民国家と市民社会』 有志舎 2012年
  「ドイツ国民国家形成とドイツ語の歴史」
  「市民社会とエスニシティの権利」
『われわれの歴史と歴史学』 有志舎 2012年 
  「「市民革命」と東アジア世界」
  「私の歴史彷徨記」

2.近代日本の世界史・東洋史教科書

 伊集院さんの歴史学界への貢献は、もちろんナチスの農業政策のついての一連の仕事にあるのではあるが、狭い専門分野以外での貢献の一つとして、かれの比較歴史教育の分野での仕事を上げることができる。そのような仕事の一つとして、かれの「近代日本の世界史教科書における東洋史と世界史の叙述:歴史教育と歴史研究」(『社会志林』 56(1) 2009年) をとりあげて、明治時代の世界史教育の取り組みの分析における、その意味を考えてみたい。

 この論文の構成は以下のようである。

 Ⅰ 幕末日本の世界史認識・東アジア認識の転換
 Ⅱ 明治日本に於ける世界史教育と東アジア世界という歴史意識
 Ⅲ 歴史教育におけるアジア主義の中国認識と朝鮮認識
 Ⅳ 明治初期の東洋史教育と自前の教科書の作成
 Ⅴ 日清戦争以降の東洋史の教科書
 Ⅵ 戦後の世界史教科書における東アジア世界の問題
 Ⅶ 「東アジア世界」という考え方の意味について

この論文は明治以来東洋史教育が世界史教育の中でどのように芽生え、発展し、どのような問題を抱えたのか、そしてその克服のためのどういう努力がなされてきたのかを探る、意欲的な議論を展開している。東洋史教育と世界史教育との斬り結びがテーマである。その議論は戦後現代にまで及んでいるのだが、中心は明治期にあるので、本稿では明治期を中心に取り上げることにする。

 さて、伊集院さんは、日本における世界史教育は1948年から始まったのではなく、明治期から行われていたと言い、「万国史」の教科書を取り上げている。これはその通りである。ただ、このテーマについては、当時すでに岡崎勝世『聖書vs世界史』(講談社現代新書、1996年)と、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成――「万国史」教科書の分析を通して」(増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年)が出ていたわけであるが、どうしたことか伊集院さんはこれらを見ていないようである。

 伊集院さんは、明治初期の万国史を中心とする世界史教育について、①欧米の成果を取り入れる形で、「万国史」として進められたこと、②この万国史は西洋の歴史であり、東洋史は含まれていなかったことを指摘している。その例として、ギゾー『欧羅巴文明史』やスウィントン『万国史要』が教科書として取り上げられていたことを挙げている。

 大きく言えばこれで間違いはない。しかし、岡崎さんや松本さんも指摘しているように、日露戦争までの明治期に限定しても、世界諸地域の歴史を並べるパーレイ風の万国史から文明の発展に貢献のあったヨーロッパを中心に見るスウィントン流の万国史へと変遷があり、前者においては、世界のあらゆる地域にそれなりの歴史が認められ、アジアの扱いもそれなりに意味のあるものであった。これが1880年代にスウィントン流の文明史的なものになり、アジアが後退していくのである。歴史の動きを主導するのは西洋で、それに関係のないアジアの国々は登場しなくなるのである。天野為之に言わせれば、「世界全体の発達に較著なる関係を及ぼさざるかぎりは」外されるのである。細かく見ると、伊集院さんの言うように「東洋史は含まれていなかった」というわけではない。世界全体の動きをリードする西洋の動きに関係のある限りで、アジアはピックアップされて世界史に組みこまれたのである。アジアに主体性がないという意味では、「含まれていなかった」のである。

 伊集院さんは、日清戦争前後にアジア主義が台頭して、世界史教育は変化したとして、万国史を離れて、東洋史という分野が自立してきたことをフォローしている。たしかにそうである。だが、これまた松本さんも指摘しているように、日清戦争前後のアジア主義の台頭を受けて、万国史においてもアジア・東方を重視した万国史を書くべきであるという強い動きが出ていた。万国史を東洋の拡大と西洋の拡大の二つの動きの総合と見るものであった。ここでは、西洋史の優位という姿勢はなくなっていた。だが、東洋の中で主導的な役割を演ずるのが日本であるという姿勢(それは日清戦争後には強化されたが)が込められていて、松本さんは、これを「日本盟主型」の万国史と位置付けている。この時期の万国史が、アジア主義的な要素を持っていたことを、もう少し見てもいいかもしれないが、ともかく、こういう西洋と東洋のせめぎあいのなかで世界史を考えるという万国史の方向を、伊集院さんがもっと注意しておいてもよかったのではなかろうか。

 伊集院さんは、日清戦争後の時期の教科書については、万国史を離れて東洋史の教科書を検討していた。そして、そこでアジア史と西洋諸国との関係を問題にしていた。いわく、日清戦争後の東洋史の教科書は、東洋史を中国史に集中させるのではなく、中国の周辺地域にも視野を広げ、東アジアだけでなく、南アジア、西アジアなどアジア全域に広がり、さらには、西洋諸国との関係においてアジア史を考えることの重要性を強調していたという。これは重要な指摘である。だが、実は、このような視角はこの時期の万国史の一つの特徴でもあったのである。

 日露戦争後には、歴史は、日本史・東洋史・西洋史に分けられて教育されていくことになる。このような東洋史と西洋史の関係、あるいは世界史の中での東洋史の位置づけという問題は、万国史に代わって「世界史」という方向で追究された。それが坂本健一や高桑駒吉らの仕事であった。ともに東京大学の東洋史の卒業であった。しかし、東洋史の教科書の分析という方向に進んでいた伊集院さんはこれに注意することはなかった。かれは東洋史の内部から世界史につながる契機がないか、その契機はどのようなものでありうるのかを探し続けたのである。戦前にはそれは見いだせなかった。そしてそれは戦後になって「東アジア世界」論として見出されることになるのだった。

 このように、世界に開かれた東洋史を求める伊集院さんの仕事は重要な問題提起であったわけであるが、万国史の流れから離れないでこれを追求した場合に、どういう成果が出ていたのか、大いに興味を掻き立てられる次第である。

(「世界史の眼」No.63)

 

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評 油井大三郎著『日系アメリカ人 強制収容からの<帰還> 人種と世代を超えた戦後補償(リドレス)運動』(岩波書店、2025年)
上杉忍

 まず本著のタイトルに注目したい。

 「強制収容からの<帰還>」は、収容所からもとの家に「帰還」することを意味しているだけでなく、「自己の尊厳回復」の意味を持たせたくて<帰還>と表現したと著者は述べている。強制収容によって市民権をはく奪された彼らは、アメリカ白人社会への同化政策を押し付けられ、戦後「モデル・マイノリティ」と呼ばれるまでに「成功」したが、戦中・戦後のアメリカ社会の変容の過程を経て、自らのエスニック・アイデンティティに目覚め、黒人やメキシコ系さらに中国系、先住民、第3世界の人々との連帯を通じて米国における人権侵害に立ち向かう「自己の尊厳回復」を実現したのである。

 そして、「人種と世代を超えた」との表題は、人口の1パーセント以下しか占めていなかった日系人が、世界史的な意義を持つ「謝罪と補償」の要求運動に成功したのは、彼らが、世代や立場の違いに基づく日系人の内部対立を克服し、有色人マイノリティ、革新的白人だけでなく、保守的団体までをも含む広範な支持層との連帯を追求しつつ進められたからであることを強調する意図を示している。 

 著者が指摘するこの日系人の戦後補償(リドレス)運動成功の世界史的意義とは、不当な差別や抑圧を受け、その不当性を政府に認めさせ、謝罪と補償を実現した例は極めてまれであり、その後の世界に画期的な先例を示したことにあった。そして著者は「戦勝国である米国でさえ戦時中に行った不正に対して謝罪と補償を行ったのだから、敗戦国である日本は一層、外国人の戦争被害者に対する謝罪と補償に向き合うべきだ」と述べている。

 日系人の一括強制収容が強行された当初、日系人コミュニティーは、その指導的存在だった一世の多くが「敵性外国人」として拘束され、混乱に陥っており、排外的愛国主義の嵐の中で孤立無援の状態だった。本著は、その彼らが、このような世界史的意義を持つ政府による謝罪と補償の要求を実現させ「アメリカ市民」としての人権を回復しただけでなく、例えば、911事件直後のアラブ系やイスラム系の人々に対する排斥に対して毅然として抗議したことに示されているように、外国人の人権に対しても政府が責任を負うべきだとの主張の前面に立つ「トランスボーダーな人権感覚」を身に着けるまでに成長していく過程を追っている。

 従来日系人の強制収容とその終結過程の研究は相当程度丁寧に行われてきたにもかかわらず、リドレス運動とその成功の過程の研究は必ずしも十分でなかったとの問題意識から、著者は30年もの長きにわたってリドレス運動の研究に取り組んできた。しかし、本書ではこの運動だけを切り離して取り上げるのではなく、強制収容以後の日系人の歴史全体の中に位置づけることによって、その積極的な歴史的意義をよりドラマティックに描き出すことに成功している。

 リドレス運動の開始は「難産」だった。著者は、「リドレス運動への壁」として、日系市民協会が「収容」に協力したこと、「収容」を執行した戦時転住局が最後までその「強制性」を否定したこと、そして、日系人内部に深刻な分裂があったことなどの「壁」を例示している。特に、強制収用を「恥」と認識し、収容体験を語ることを封印して来た日系人のトラウマからの解放に長い時間がかかったことも「難産」の大きな要因だった。政府が求める同化路線に従い、モデル・マイノリティとして「成功」した日系人が、戦後冷戦下で赤狩り旋風が吹き荒れ反体制運動全体が圧殺される状況のもとで、アメリカ政府の「強制収容」という戦時政策の違憲性を告発し、謝罪と補償を求めることは極めて困難だった。

 しかし、なぜリドレス運動が開始され、成功までの道を歩むことができたのか。著者は、その成功の要因を次の4点にまとめている。第1にこの「収容」が当局の言うように暴民からの日系人の「一時避難」などではなく、憲法に違反する人権を侵害する「強制収容」であることを明確にしたこと、第2に西海岸で進められた戦後の日系人土地所有禁止住民投票を不成立に追い込んだことに象徴されるアメリカ世論の変化があったこと、第3に白人の強制収容反対派の支援があったこと、そして第4に、日系人三世が日系人コミュニティーの運動の主体として成長してきたことである。 

 本著は3部構成からなっている。第1部では、強制収容決定・実施のあと間もなく始まった中西部・東部への再定住の過程での、「分散的再定住」政策などによる日系人のアメリカ社会への「同化の試み」が検討されている。

 第2部では、日本の敗戦や日系人部隊の活躍による日系人に対する世論の好転を受けて、西海岸での日系人排斥行動が鎮静化したこと、戦中・戦後の西海岸における軍需産業の急成長に伴う社会変動、人種関係の重層化、人種間緊張とその緩和と並行して日系人の西海岸への再定住が本格化したことが論ぜられている。

 第3部では、強制収容から解放された日系人が、西海岸での就業構造の変化などの新しい環境の下で、女性を含めより有利な雇用の機会を得て「成功」し、「モデル・マイノリティ」と呼ばれるまでに地位を向上させたが、それは、強制収容体験を忘却させる効果もあったことが指摘されている。それにもかかわらず、日系人は強制収容の立ち退きの際に強制された不当な財産処分に対する補償要求や、一世の帰化権の実現などの運動に取り組み、ある程度成功したこと、そしてその過程で、強制収容体験の「封印」という制約の下でも、収容所への巡礼運動などを経て強制収容体験が語られ始め、日系人が独自の文化を放棄せず、アイデンティティを変容させたことが述べられている。そして、ベビーブーム世代の三世が、1960年代に多数大学に進学し、当時の黒人運動やベトナム反戦運動を自らの問題として受け止め、それに励まされて多くの日系人が従来の「同化路線」を克服し、アジア系アメリカ人としての自覚を強め、リドレス運動を開始し、ついに成功に導いた過程が描かれている。

 アメリカでは、第1次世界大戦参戦の過程で、非英語圏からのヨーロッパ系移民の「アメリカ化」を推進するため「ホワイト・エスニック」の存在を受容する文化多元主義が主張され、また1930年代に台頭したナチスに対抗するために、黒人やアジア系、ヒスパニック系、先住民をも含む有色人マイノリティのアメリカ社会への統合が語られ始め、人類学者の間では、それまでの同化主義に異を唱えるフランツ・ボアズの「文化相対主義」が広く受け入れられるようになっていた。そして、第二次世界大戦後、黒人公民権運動の洗礼を受け、有色人マイノリティをアメリカ社会の一員とみなす「多文化主義」が建前としては積極的に受け入れられるようになった。本著は、まさにそのような変化の中で日系人のリドレス運動が展開されたことに注目している。

 本著は、そのほか重要な問題を数多く取り上げており、学ぶ点が多いが、評者にとって特に印象深かったことを一つ上げるとすれば、リドレス運動の先駆けとなったのが、1930年代以来の反ファシズム運動の担い手だった「オールド・レフト」と呼ばれる人々だったことである。冷戦下の赤狩り旋風によって一時は窒息させられていた「オールド・レフト」が再び立ち上がり、1960年代の公民権運動・ベトナム反戦運動の中で成長してきた「ニュー・レフト」と呼ばれている人々との融合によってこのリドレス運動が担われたのである。

 近年では、黒人公民権運動を、1930年代からの「長い公民権運動」の歴史の中に位置づけてとらえなおす研究が有力になっているが、それと共通する現象がここでもみられることが印象深かった。冷戦赤狩りによる分断を乗り越えて、黒人解放運動は、今日、BLM運動という新たな段階を迎えている。

 次に、本著の論の進め方について一言ふれて結びにしたい。筆者はプロローグで、明確に論点を整理し、それに基づいて妥協なく徹底した研究史の渉猟・整理を行ったうえで、一部の隙も見せることなく、理路整然と論述を積み重ねている。それは、社会科学的歴史論述のモデルといえよう。本著が、とても分かりやすく、安心して読み進めることができるのはそのためである。同時に、著者は、文学作品や写真集・画集などを丁寧に紹介し、強制収容された日系人に寄り添い、そこから生み出される変革の芽を丁寧に取り上げ本論に編み込んでいる。本著からわれわれは、日系人の苦悩と喜び、誇りを読み取ることができる。

 そして最後に一言。本著を熟読することなくして、今後の日系人の歴史研究やその他の「補償運動」研究を前に進めることはできない。

(「世界史の眼」No.63)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評:藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社、2025年
油井大三郎

 陸井三郎という名前を知っている人は、今や少なくなっているのではないか。彼は、哲学者のバートランド・ラッセルの提唱で始まった、ベトナム戦争における戦争犯罪を調査する民間法廷の日本側委員の一人として、米軍の爆撃下のベトナム民主共和国(北ベトナム)を3度訪問し、西欧で開催されたラッセル法廷でその調査結果を発表した人物の一人である。

 1975年にサイゴン政権が陥落し、ベトナム戦争が終結して50年が経過した。また、2000年に陸井三郎が亡くなって、25年が経過した。そのような節目の年で、しかも、ウクライナやガザで戦争犯罪が繰り返されている状況だけに、改めて陸井三郎の足跡を振り返る本が出たことの意義は大きい。

 本書の構成は以下のようになっている。

第一部ベトナム戦争犯罪調査、ベトナム国際反戦運動と陸井三郎
 第1章 ラッセル法廷、ベトナム戦争犯罪調査委員会と陸井三郎の役割  藤本博
 第2章 同時代のベトナム戦争論  陸井三郎
第二部 陸井三郎とはどのような人物だったのか 
 第1章 陸井三郎の生き方と人物像  河内信幸
 第2章 『陸井三郎先生に聞く』(1992年3月)東京大学アメリカ研究資料センター
 第3章 陸井三郎 略年譜(河内信幸 作成)

 つまり、第一部ではベトナム戦争の戦争犯罪調査と陸井の関係を、藤本博と陸井自身の論稿で検討し、第二部では陸井の人となりを、河内の論稿と東大のアメリカ資料センターが行ったオーラル・ヒストリーで再現している。

 ラッセル法廷やベトナム戦争における戦争犯罪自体は既に多くの研究で明らかになってきた。それ故、本書の意義は、ラッセル法廷と陸井三郎との関係に集中して、陸井とラッセルとの書簡や北ベトナムで戦争犯罪調査にあたったハ・ヴァン・ラウとの書簡、戦争犯罪調査に関わる豊富な写真などを紹介している点にオリジナリティが存在する。

 本書の第一の意義は、ラッセル法廷の指導部が当初、ニュルンベルグ裁判における「人道に対する罪」で米国の戦争犯罪を裁こうとしたのに対して、北ベトナムの意向を代弁する形で、日本代表がベトナム戦争はベトナム人の民族基本権に対する侵害であると主張し、サルトルなどのフランス代表が自らのレジスタンス体験などを想起して、それに同調した結果、会議全体として民族基本権に対する侵害という判定にいたったと指摘した点にある。

 第二に、ラッセル法廷に参加した米国の反戦知識人でさえ、当初、ベトナム戦争を南北の「内戦」と把握していたが、論争を通じて、米国のベトナム民族に対する侵略という判定に同調するようになった点の指摘である。その際、同じ米国代表のガブリエル・コルコが主導的な役割を果たしたという。

 第三に、民間目標への意図的な攻撃である点は第一回のストックホルム法廷時から明らかになっていたが、それが「全民族の抹殺」を意図したジェノサイドであるとの認定は、ニクソン政権期になって、1969年11月にソンミ虐殺事件が判明してからであった点の指摘である。

 このようなベトナム戦争の基本的な性格評価に関わる論争の中で、日本代表団が積極的な役割を果たせた原因は、日本自身がアジア太平洋戦争中に激しい戦略爆撃を体験していたこと(陸井自身は東京で3回焼け出されている)や日本軍が「アジア解放」を言いながらも、実際にはアジア諸民族の独立運動を圧迫していたことへの反省があった点の指摘も重要である。

 その上、戦後の日本は、原水爆禁止運動の国際会議を通じて、1959年以来、北ベトナムと交流を続けており、北爆被害の現地調査をやりやすいコネクションがあった。つまり、日本の平和運動が西欧に北ベトナムの人脈や情報を橋渡しする役目を負う立場にあった点の指摘も興味深い。関連して、本書では、ラッセル法廷の日本側委員会にベ平連系の知識人が不参加であった点を指摘しているが、それは、日本で原水禁運動を主導した社会党・共産党系の人々がラッセル法廷の日本委員会の中心となったことに関連してもいるのであろう。

 さらに、第二回のコペンハーゲン大会では、日本政府のベトナム戦争協力が問題となり、日本側は1967年8月に独自に東京法廷を開催し、北爆に向かう米軍機が沖縄や在日米軍基地から飛び立っていたこと、日本の企業が「ベトナム特需」で潤っていた点などを指摘して、日本の「加害者性」を指摘している点も重要である。但し、この指摘は、陸井個人の北ベトナム訪問中に北側から指摘された、日本軍のベトナム進駐中に大量の餓死者がでたという「過去の加害者性」の受け止めとしても語られているが、日本委員会全体の認識としては弱く、むしろベ平連の小田実などの主張としてマスメディアに注目された事実も指摘されている。

 以上のベトナム戦争の戦争犯罪調査における陸井三郎の役割については藤本博論文が主に解明したものであるが、同時に、陸井自身がベトナム戦争の同時期に朝日や読売に書いた論稿が収録されていて、臨場感を増す効果を出している。次に第二部では陸井の人生全体におけるベトナム戦争犯罪調査の意義が検討されている。ここでは陸井のアジア太平洋戦争体験の意味や戦後の原水禁運動参加の意味など、次のような意義があると思う。

 その第一は、1918年生まれの陸井が、富裕でリベラルな家庭の中で、大正デモクラシー時代の教養主義の影響を受けて青少年期を過ごしたこと、しかし、父親の会社の倒産で大学には進学できず、青山学院の高商部卒となったため、就職面で不利であり、戦後に大学でのフルタイムの職には就けず、フリーランスの立場を貫くことになったこと、が指摘されている。

第二に、アジア太平洋戦争の開戦時には23歳であったが、徴兵検査では丙種合格であったため、実際の兵役は免れ、太平洋協会という鶴見祐輔が設立した民間の研究所で、研究員のような仕事をして戦中を過ごしたこと、この研究所には平野義太郎のような講座派の知識人の他、日米開戦のため米国からの交換船で帰国した都留重人、鶴見和子などがいたが、比較的自由な雰囲気が残り、米国の資料なども入手できたので、陸井の米国への関心はここで育まれたという。

 第三に、1955年に原水禁運動が始まると、陸井はその米国に関する知識や原子力への関心から原水協の専門委員に選ばれ、その国際交流に深く関わることとなった。その経験がベトナム戦争犯罪調査の国際的なネットワーク形成に大きな影響を与えたと指摘されている。

 第四に、陸井が主として講座派の系譜を引く知識人グループに属しながら、米国のニューレフトなどに対して柔軟な見方でその良さを評価していたが、その原因は、アジア太平洋戦争中に陸井が太平洋協会で様々な知識人、特に清水幾太郎から米国思想、とくにプラグマティズム思想の面白さを学んだ点があげられている。この点は、本書では十分彫り上げられていない点であり、戦中の知識人史を考える上で興味深い論点だと思われる。

 以上のように、本書は、ベトナム戦争における戦争犯罪を国際連帯の中で厳しく批判した陸井三郎という稀有な人物に焦点を当てることにより、戦争犯罪に関する認識の深化の過程をリアルに描き出している。これ故、現在のウクライナ侵攻やガザ侵略における戦争犯罪を検討する際にも、数多くの示唆を与えてくれるだろう。

(「世界史の眼」No.62)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評:秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)
木畑洋一

 本書は、1970年代を対象として、二度の石油危機に揺れた世界における国際秩序の変化の様相に取り組んだ国際的な共同研究の成果である。編者秋田茂は、これまでも精力的に、時代を輪切りにしてその世界史的相貌に迫るという研究を組織してきており、これはそうした試みの一環である。この日本語版に先立って、英語版が2024年に出版されているが(Oil Crises of the 1970s and the Transformation of International Order: Economy, Development, and Aid in Asia and Africa , Bloomsbury, 2024)、そちらではサブタイトルが「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助」とされおり、本書のサブタイトルとは異なっている。両者を合わせて、「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助の様相に「東アジアの奇跡」の起点を探る」とでもしてみれば、本書のねらいははっきりしてくるであろう。

 そのねらいは、秋田による序章で詳論されている。その柱は次のようになろう。従来、石油危機によるインパクトは先進工業国について論じられることが多かったが、本書ではアジア・アフリカの非ヨーロッパ諸国へのインパクトが重視される。非ヨーロッパ諸国の経済開発、発展の様相、さらにそれに関わった援助の問題を検討することによって、冷戦と脱植民地化という二つの視角から議論されてきた国際秩序論に今一つの視角を加えることが目指される。それによって、「東アジアの奇跡」(世界銀行が1993年に用いた表現)という状況が生まれてくる過程の起点も確認されることになるのである。以下、各章の内容を簡単に紹介しつつ、若干のコメントを加えていきたい。

 本論は、三つの章から成る第Ⅰ部「石油外交と冷戦」で始まる。

 第1章「石油危機とグローバル冷戦」は、このテーマに関する研究者として世界の第一人者であるといってよいデーヴィッド・ペインターの筆になり、62頁と最長の章である。著者は、これまでの冷戦研究が石油問題を十分に位置づけているとはいえず、他方石油危機に関する歴史研究も冷戦状況を看過している、という問題意識のもとで本章を執筆しており、第一次石油危機から第二次石油危機の後に及ぶまでの期間を対象に、国際政治経済の動態を、石油問題を軸とし、米国の姿勢を中心として描いている。さらに、本書の後の部分での主役となるオイルマネーの問題も丁寧に論じられており、いわば序章に次ぐ第二の総論としての性格をもっている。ただ冷戦との関わりで石油をめぐるソ連の政策についてもかなりの言及がなされているものの、米国についての分析と比べると物足りないという感が残る。また、第一次石油危機を扱った部分においては、国家と企業の関係に踏み込んだ立体的な議論がなされているのに対し、第二次石油危機に関わる部分では国家の政策に視線が集中して議論がやや平板になっているという感を抱いた。

 第2章「第三世界プロジェクト盛衰の支柱としての石油危機」の筆者デーン・ケネディは、米国におけるイギリス帝国史研究の第一人者であり、最近では、脱植民地に関する著書が、『脱植民地国家―帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社、2023年)として邦訳されている。筆者は、脱植民地化の進展の様相を描いた後、それによって生まれた国々を主力とする国家群が「第三世界プロジェクト」と呼びうる国際体制改革に向けての動きを起こしたことの重要性を指摘する。そうした動きを背景として、第一次石油危機が生じるとともに、1974年に国連での「新国際経済秩序樹立宣言」の採択が実現したのである。しかし、国際経済秩序の改変が進まぬまま、石油価格の高騰で苦境に陥った非産油国は、イラン革命によるイラン石油産業の混乱を起点とする第二次石油危機でさらに衝撃を受けることとなり、「第三世界プロジェクト」はついえてしまった。このように、脱植民地化過程のなかから生まれた「第三世界プロジェクト」に焦点をあてて70年代の時代像に迫ろうとする本章の議論に、筆者は大いに共感を抱くものである。ただ、国際経済秩序の提起に対抗する先進国側の動きが今少し書きこまれていれば、「第三世界プロジェクト」盛衰の動態がより明確になったのではないだろうか。

 第3章は、わが国における米外交史研究の泰斗で、秋田と長く共同研究をつづけてきた菅英輝の筆になる「東南アジア開発におけるアジア開発銀行の役割―冷戦と石油危機の文脈」である。ここでは、1966年に設立されたアジア開発銀行(ADB)が、第一次石油危機とほぼ軌を一にする形で、アジア開発基金(ADF)を設置した経緯が述べられた後、ADFの増資をめぐるドナー加盟国間のかけひきが、米国の姿勢を中心に据えながら描写される。ADBにおいて影響力をもった日本が、ADBの意向と「日米協力」のもとでの米国の意向との間で微妙な立場に立たされた状況の分析も興味深い。米国の動きが詳論されることで、ADBの活動を冷戦の文脈で考察するというねらいは達成されている。

 以上の三つの章を承けて第Ⅱ部「国際金融秩序と開発金融の変容」の二つの章が配置される。

 第4章は、やはり秋田と息のあった共同研究を行ってきた山口育人による「石油危機と「民営化された国際開発金融」」と題する章である。タイトルの「民営化された国際開発金融」という表現は、田所昌幸が用いた「民営化された国際通貨システム」という言葉を意識したものであり、そこで大きな役割を演ずるのは、第一次石油危機によって生み出された膨大なオイルマネーである。このオイルマネーが主として流入していった先が、西側先進国の民間金融市場であり、そうした民間資金が、60年代末に停滞をみせはじめていた先進国のODAに代わって、途上国に対する開発金融で大きな役割を担っていくことになったのである。そのような状況が進むなかで、民間金融市場に対応できる途上国とそれができない途上国との間の違いが広がっていった。さらに山口は、ともにその前者の途上国であった韓国とブラジルが、第二次石油危機に際して、工業化戦略の違いからさらに分化していく様相をも扱う。それにより、ケネディが指摘した「第三世界プロジェクト」衰微の要因に迫っているのである。

 第5章「1970年代の大循環―ユーロダラー、オイルマネー、融資ブーム、債務危機、1973-82年」は、国際経済史の専門家として日本の問題にも通暁したマーク・メツラーが執筆している。山口が強調していたオイルマネーの国際的な動きの具体像はこの章で描かれており、「オフショア・米ドル・システム」の問題として詳述されている。それを軸としてこの章で提示される1970年代像はかなり包括的であり、序章、第1章とならんで、本書の全体像をつかむ上で重要な章となっている。最後の部分で、クリスチャン・ズーターなどの研究を引きつつ、長期的な資本主義の歴史のなかに1970年代の変化を位置づける試みを行っていることも、重要である。ただ、第一次産品産出国が置かれた位置については、しばしば言及されるものの、突っ込んだ議論はなされていない。たとえば、ささいな表現の問題であるかもしれないが、「オフショア・米ドル・システム」による「信用拡大は、新植民地主義によるある種の「トロイの木馬」として理解されるようになった」と述べつつ、それ以上の議論がなされていない、といった点に食い足りなさが残るのである。

 これに次ぐ最後の三つの章が、第Ⅲ部「冷戦、開発と経済援助」を構成する。三つの章は、それぞれ特定の国家を対象としている点で、第Ⅱ部までとは異なる様相を呈している。

 まず検討されるのが、中国であり、新進気鋭の研究者南和志による第6章「世界エネルギー危機と中国石油外交」である。本章の分析対象は石油政策に絞られており、60年代に産油国としての相貌を明らかにしていた中国が、石油生産量増加を図るために、技術輸入や海底油田開発に力を入れつつ、その過程で資本主義圏、とりわけ米国との結びつきを進めていった様相が描かれる。中国の石油政策がある意味場当たり的であったからこそ、金融危機で改革開放路線が終焉に追い込まれることもなく、他方で世界経済から孤立してしまうこともなかった、という結論部分での議論は、一見意表をつくものであるが、同時に説得的でもある。

 本書の編者秋田が、次の第7章「インドの「緑の革命」・世界銀行と石油危機―化学肥料問題を中心に」を担当している。この章の対象はインドの農業問題であり、60年代末にはじまった「緑の革命」のもとでの農業振興の重要な条件となった化学肥料の集中的な大量使用を実現するために、インド政府がとった政策が分析されている。化学肥料のための最大の資金源はインド政府自体であったが、国際金融機関としては世界銀行がきわめて大きな役割を演じ、また第二次石油危機後の国際収支危機をめぐってはIMFからの金融支援が重要な意味をもった。この問題の検討を通じて、秋田は、インドにおける「緑の革命」の意義の再評価という年来の主張を改めて展開する。それは確かに首肯できるものであるが、インド経済のパフォーマンスについての政府自身による評価には、今少し批判的な検討を加えることが必要ではないであろうか。

 最終章となる第8章は、イギリスでのアフリカ経済史研究を代表する研究者の一人、ギャレス・オースティンによる「商品価格高騰に直面したガーナとケニヤ―ナショナルとグローバルの交錯」と題する章である。オースティンは、ともにイギリスの植民地としての位置から独立したガーナとケニヤの70年代における経済状況を比較し、比較的安定した経済活動を示したケニヤと、大幅なインフレに見舞われたガーナの違いを生み出した背景を、為替レートの問題をはじめとして、多様な要因にわたって検討している。政治指導層内部における農業利害関係者の有無が問題になるという点の指摘など、興味深い論点も多いが、結局のところは、「石油価格の衝撃自体よりも、ナショナルな対応の方がより重要であった」という一文で結ばれていることに示されるように、両国内での政策選択が最大の問題であるという結論となっており、章のサブタイトルの「ナショナルとグローバルの交錯」という視角が後景に退いているという感は否めない。

 以上、本書の内容を評者なりに要約し、簡単なコメントを加えてきた。全体としてみた場合、二度の石油危機が非ヨーロッパ諸国にもたらしたインパクトに重点を置いて、1970年代における国際秩序の変容に新たな光をあてようとする本書のねらいは、かなり達成されていると思われる。石油危機で生み出されたオイルマネーの動きが浮き彫りにされている点など、この課題に迫る上で大きな効果をもっていると感じた。ただ、「東アジアの奇跡」の起点を探るという点に絞ってみると、確かにかなりの示唆はえられるものの、「奇跡」の主体となった国・地域の様相について、本書の枠組みのなかでの分析が今少し欲しかったという感はぬぐえない。その点で、英語版には収録されている佐藤滋によるマレーシアとシンガポールを扱った章が、本書には掲載されていないのが残念である。

 本書の各章は、それぞれ独立した内容をもつものであるが、章同士の連関を各筆者がよく意識しつつ執筆しているということが随所で感じられることも、本書の大きなメリットであるといってよい。共同研究の組織者であり本書の編者である秋田の労を多とするものである。

(「世界史の眼」No.61)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「増谷英樹の歴史学を語る会」記録

 2025年1月25日に、世界史研究所が主催して「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催しました。1942年生まれの増谷英樹さんは、オーストリア史、ユダヤ史を中心に研究を進めてこられ、また、東京外国語大学と獨協大学で長く教鞭を取られました。長く闘病中のところ、残念ながら2024年11月に、逝去されました。

 世界史研究所の研究員は、それぞれに増谷さんと公私に渡る深い交流があり、また、増谷さんの仕事から多くの刺激と啓発を受けてきました。ここに、増谷さんと交流の深かった方と、増谷さんのご家族にもご参加頂き、「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催し、増谷さんの仕事を振り返り、増谷さんが私たちに届けたかったものを改めて考える機会としたものです。ご参加頂いたのは、稲野強、小沢弘明、木畑和子、木畑洋一、小谷汪之、清水透、高澤紀恵、藤田進、古田善文、南塚信吾、山崎信一、油井大三郎、吉田伸之、渡邊勲の各氏と、加えてご家族の増谷直子さんと三人のご子息・ご息女の皆さんです。

 会は小谷汪之さんの司会のもと、まず増谷さんに黙祷を捧げ、次いで南塚信吾さんに、増谷さんの今までのお仕事を簡単に振り返って頂きました。その後、古田善文さんから、オーストリア史に関して、また、高澤紀恵さんと吉田伸之さんからウィーン史・都市史に関して、提題をして頂きました。三氏の報告は、それぞれ以下に掲載しています。

 次いで、参加者からの自由な発言と討論が行われました。増谷さんのユダヤ問題に対する立脚点、史料としてのビラの用い方、増谷さんの目指した「民衆史」の展望、フリーメーソンへの関心、移民への関心といった点を中心に議論がありました。その後は、皆さんそれぞれの増谷さんとの親交のあり方も含めて、ざっくばらんに懇談の時間となりました。参加者の皆さんの多くは、大学の同僚として、歴史学研究会において、あるいは読書会・勉強会のメンバーとして増谷さんと交流のあった皆さんでしたが、いずれのお話からも、増谷さんの真摯な学問的態度と、それに加えての気遣いと面倒見の良さ、民衆や労働者に寄せる増谷さんの深い共感、「食」へのこだわり、登山やスキーやテニスを楽しむ姿といった点が浮かび上がりました。いずれのエピソードにおいても、増谷さんとの深い信頼関係が感じられました。また、ご家族の言葉にもありましたが、学問は学問としてきちんと進めた上で、家族との時間も大切にし、スポーツにも取り組むという姿は、研究者の中ではあまり一般的ではなかったかもしれません。この点からも増谷さんのお人柄が偲ばれました。

 増谷さん、まだまだやり残したことがたくさんあったのだと思います。しかし、増谷さんが本当に多くを私たちに残してくれたことを、今回改めて理解することができました。増谷さん、本当にありがとうございました。

(山崎信一)

増谷英樹のおもな著作

増谷英樹「60年代歴研における「人民闘争史」研究とその問題点」『歴史学研究』372号《大会特集》安保体制の新段階とわれわれの歴史学―世界史認識と人民闘争史研究の課題、1971年5月

良知力編『共同研究 1848年革命』大月書店、1979年
    増谷英樹「序論 1848年革命の概観と研究の課題」
    増谷英樹「「フランクフルト労働者協会」と9月蜂起」
    増谷英樹『ビラの中の革命:ウィーン・1848年』東京大学出版会〈新しい世界史〉、1987年

増谷英樹『歴史のなかのウィーン:都市とユダヤと女たち』日本エディタースクール出版部、1993年

歴史学研究会編『講座世界史4 資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会、1995年
    増谷英樹「大都市の成立―一九世紀のウィーンと流入民」

増谷英樹、伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年
    増谷英樹「序論」
    増谷英樹「世紀末ウィーンの製靴工―資本主義化と「急進性」の伝統」

増谷英樹『ウィーン都市地図集成』柏書房、1999年

増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生 日本とドイツ/歴史と現状』有志舎、2009年
    増谷英樹「序章 移民・難民・外国人労働者とその受入れ」
    増谷英樹「補論 第二次世界大戦以前ドイツの外国人労働者と強制労働」

増谷英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2011年

増谷英樹、富永智津子、清水透『オルタナティヴの歴史学』有志舎〈21世紀歴史学の創造〉、2013年
    増谷英樹「1848年革命とユダヤの人びと―『オーストリア・ユダヤ中央機関紙』を読む」

研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」編『われわれの歴史と歴史学』有志舎〈21世紀歴史学の創造〉、2012年
    増谷英樹「社会史、そして民衆史について」
    増谷英樹「戦後歴史学からオルタナティヴヘ」

増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2016年

渡邊勲編『37人の著者 自著を語る』知泉書館、2018年
    増谷英樹「30年後の自己書評《ビラの中の革命》」

増谷英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2023年(増補改訂版)

(「世界史の眼」No.60)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

増谷英樹氏とオーストリア史
古田善文

1. 報告者と増谷さんの関係について

 まず増谷さんと私の関係についてお話しします。最初の出会いは、私が東京外国語大学のドイツ語学科3年生の時でした。その後、増谷さんの指導のもと、私は「オーストリアのファシズム」に関する卒論を執筆し、東京外国語大学大学院修士課程に進むことになりました。大学院在学中に私の指導教官はウィーン大学の交換教員として不在(1981〜83)となり、寂しい思いをしたこともありました。もちろん、このウィーン滞在で集められた数々の資料、特に大量のビラのおかげで、名作(1987)『ビラの中の革命』が生まれたことについて、異論はありません。

 修士終了後、私が他大学の大学院博士課程に進学したこともあり、増谷さんとはしばらく疎遠になっていましたが、2004 年以降、今度は獨協大学ドイツ語学科の同僚として10年間の年月を一緒に過ごさせていただきました。増谷さんは、獨協では特任教授として2004年から2010年まで、その後非常勤講師として2014年まで教鞭を取りました。この獨協時代に、増谷さんは通常授業、院生指導の他、2度のオーストリア史に関する「オープンカレッジ特別講座」の講師を努めています。さらに2007年には「ドイツと日本の移民、難民、外国人労働者」と称したインターナショナル・フォーラムの座長として、この催しの人選、企画、実行に多大な貢献をしています。この時の記録は有志舎から(2009)『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–––日本とドイツ/歴史と現状』というタイトルで出版されており、今でもその時の発表や議論の詳細を確認することが可能です。

 前置きが長くなりましたが、今日私が発題者としてお話ししなければならないのは、増谷さんとオーストリア史についてです。ご存知の通り、増谷さんの研究の土台がウィーン・1848年革命であることに疑いの余地はありません。しかしながら、増谷さんの関心は1848年とウィーンに限定されることなく地域的にも、時空的にも非常に多岐にわたります。この点について最もわかりやすいエピソードは、2004 年の東京外国語大学での最終講義でした。そこで語られたのはウィーン・1848年ではなく、何とブラジルのドイツ系移民社会についてでした(増谷さんは最終講義の直前の2003年末から04年初頭にかけて当時の同僚であった鈴木茂氏と、ブラジル南部ブルーメナウと周辺のドイツ系移民社会のフィールドワークに赴いています)。通常、最終講義の場では、積年の研究成果のまとめが語られることが多いのですが、あえてこれからの新しい研究の方向性を示唆する増谷さんの講義には私も度肝を抜かれました。このエピソードは、増谷さんの関心のあり方を理解するのに大いに役立ちます。常にアンテナを高く張り巡らし、もし興味をそそられるテーマや人間を見つけると、躊躇なくそちらに向かう行動力も増谷さんの特徴と言えるでしょう。実際、この最終講義を境にして、増谷さんの関心は、1848年革命を意識しつつも、新たに移民・難民問題にも向かうことになります。

2. ウィーンの1848年革命とユダヤ

 限られた時間で効率的に説明を施すため次の資料(図1)を提示させていただきます。これは増谷さんの主要研究業績の研究領域と私の推測に基づく増谷さんの関心の動きを大まかにまとめてみたものです。

図1

 この資料を見てまず気づくことは、増谷さんは最初からウィーンを研究の対象にはしていなかったという点です。まず増谷さんが関心を持ったのは、ドイツの大都市、特にベルリンの1848年革命分析でした。そこからウィーンの1848年に研究対象が変化した背景には、(1979)『<共同研究>1848年革命』執筆時に出会った良知力先生の存在が大きかったと推測しています。良知さんと増谷さんの信頼関係は、良知さんのご遺作、(1985)『青きドナウの乱痴気』の「あとがき」と、増谷さんの(1987)『ビラの中の革命』の「あとがき」の中にはっきりと見て取れます。増谷さんの言葉を借りれば、ウィーン滞在前に「僕のできなかったことをやってこいよ」という良知さんの言葉と、良知さんが増谷さんに渡した史料・文献類のカードのコピーは、良知さんの先駆的業績と合わせて、その後の増谷さんのウィーン革命史研究の発展を大きく後押しすることになったのでしょう。

 もちろん、良知さんの存在以外にも、1981年以降の最初のウィーン滞在中に出会った人たちが、その後の増谷史学の形成に大きな役割を果たすことになりました。特にウィーン滞在中に、初めて参加したリンツ会議の場で、増谷さんが「事実上の指導教官」西川正雄さんの紹介によって、自ら「革命史研究の指導教官」と呼ぶヘルバート・シュタイナー氏と知己の関係になったことも、その後のウィーン革命史研究の進展を確固たるものにしたと思われます。最初のウィーン滞在以降、ウィーン・1848年革命史研究が最後まで増谷さんの研究のメインストリームだったことは、この資料からも明らかでしょう。

 では増谷さんの1848年革命分析のカギは何かという問題が浮上します。みなさんもご存知の通り、それは革命の中のユダヤという存在になります。増谷さんは、(1984)『社会史研究』に発表した論文、「革命とアンティゼミティスムス」において、ウィーンのユダヤの居住区と職種によってユダヤの人々を「裕福なユダヤ」、「ユダヤ知識人およびユダヤ学生」、「プロレタリアートのユダヤ」という三つのグループに分類し、革命の中でのそれぞれの役割を緻密に分析します。この論文では、ウィーン市内区の「ブルジョア革命」においては解放の対象であったユダヤ教徒が、市外区の「プロレタリア革命」においては、一転して打倒の対象として考えられていたとする興味深い結論が実証的に導きだされます。さらに革命の見方として次のような重要な指摘もなされます。曰く、革命・反革命のヴェクトルで見た場合、革命の中においてその両方向に向きうる可能性を持っていた民衆の両義性の分析が、これまでは、民衆の革命性を強調するがために触れられて来なかった、という指摘です。

 このように1848年革命の分析の主題にユダヤを据え、さらにそこから1848年革命像の新しい見取り図を提供したという点において、増谷さんの研究は、ウィーン革命におけるスラブ系流入民の役割に着目した良知さんの研究を、さらに一歩進めたと言えるのではないか、と考えます。

このようにユダヤ問題への関心が深かった増谷さんですが、通例、ユダヤ人と呼ばれている集団を自分でどう呼ぶかについては色々と葛藤があったように思います。ちなみに、その変遷の跡を辿ってみましょう。

 まず(1984)『社会史研究』掲載論文の中ではユダヤ人と記述しています。(1987)『ビラの中の革命』でも同じくユダヤ人という呼称が使用されています。これに対して、論文集(1992)『感覚変容のディアレクティク』に掲載された論文では、ユダヤ教徒および改宗したユダヤ教徒をカッコ付きで「ユダヤ系」と形容しています。(1993)『歴史のなかのウィーン』に掲載された論文、これは前に紹介した『社会史研究』掲載論文の改訂版なのですが、ここでは以前使用していたユダヤ人を、ユダヤ教徒とカッコ付きの「ユダヤ人」という2つの言葉に使い分けています。その理由について、増谷さんは、「ドイツ語のJudenという言葉が、本来はユダヤ教徒を意味するにもかかわらず、それを使用する人によって意味している内容が違うからであって、その意味内容を汲んでのことである」と説明しています。同じ『歴史のなかのウィーン』の別の書き下ろし論文では初めてユダヤの人びとという呼び方も登場しており、1冊の本の中に複数の呼び方が混在するという状況が見られます。一方、訳本(1999)『ドイツ戦争責任論争』では、主題がユダヤを「民族」とみなすナチの強制労働政策のためか、カッコ付きの「ユダヤ人」が迷うことなく選択されています。

 さて、こうしたユダヤへのこだわりは2000年代に出版された一般の読者向けのオーストリア・ウィーン通史の中にもはっきりと見て取れます。増谷さんは(2011/2023)『図説 オーストリアの歴史』と、(2016)『図説 ウィーンの歴史』を上梓しています。そのうち後者の『図説 ウィーンの歴史』では、中世のユダヤの人々をめぐる生活実態と中世から近現代に至る反ユダヤ主義の変遷を、本文に巧みに織り込みながら整理しています。そうしたユダヤ関連の記述は本文、178ページ中、実に計20ページほどに及びます。

 ちなみに、この著作の5年前に出された『図説オーストリアの歴史』でもユダヤ関連テーマはコラムとして扱われていますが、そこでのユダヤ関連の記述は全部(135ページ)で7ページほどにすぎません。つまり、歳を重ねるにつれ、増谷さんの終生のテーマであるユダヤへのこだわりはますます強くなっていったのでしょう。

 とは言え、この2冊を読んで疑問に思った箇所も存在します。それは、ユダヤへの並々ならぬこだわりを随所に見せているにもかかわらず、何故、シオニズムについての記述が皆無なのかという問題です。『図説 ウィーンの歴史』で、ユダヤ関連記述が増えたことについては既に指摘しましたが、ユダヤの歴史ひいては世界の歴史のなかで重要な意味を持つと思われるウィーンのジャーナリスト、テオドーア・ヘルツルとそのシオニズム運動の起源に関する記述は、この2冊に登場することはありません。この点はどう説明されるべきなのでしょうか。シオニズムに関心がなかった訳ではないが、オーストリアに残るユダヤの人びとの状況分析と、彼らに向けられた反ユダヤ主義研究に主眼をおいた自分の研究スタンスのため、オーストリアからの国外脱出を目的とするシオニズムをとりあえずは研究対象外とせざるを得なかったのでしょうか。今となっては、残念ながら本人に確認することは叶いません。

 増谷さんの研究の主要領域と問題関心をまとめた先ほどの資料をよくみてみると、ユダヤの次に主要なテーマとなったのは、「国民国家」の相対化に通ずる「人の移動」あるいは「越境者」と呼ばれる人々に関する問題です。これとあわせて重要視されるべきウィーンという都市の構造をめぐる問題については、次の高澤さん、吉田さんのご報告と被ってしまう可能性があると思いますので、ここでは割愛させていただきます。

3. 「ヴァルトハイム問題」とオーストリア現代史について

 資料を見てみなさんもお気づきかとは思いますが、増谷さんのオーストリア史におけるユダヤや「越境者」と並んで重要なテーマとなっているのがオーストリア現代史に関するテーマです。具体的には、ナチ支配下のオーストリアにおける「土着的反セム主義運動」の問題と、その延長線上にある1938年3月のアンシュルス(独墺合邦)以降、アドルフ・アイヒマンによって進められたユダヤの財産収奪および追放モデル、いわゆる「ウィーン・モデル」の研究です。この論文(2002)「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)を今回改めて読ませていただきましたが、その中心的主張、つまりオーストリアの粗暴な「土着的反セム主義運動」(あるいは「民衆的反セム主義運動」、「野放しの反ユダヤ運動」)の存在こそが、ユダヤ追放計画の責任者であったアイヒマンに、合理的で秩序ある「解決法」を模索させた、という指摘はとても重要で興味深いものでした。

 オーストリアの戦争犯罪研究の一環として、さらに増谷さんは、第二次世界大戦中のユダヤおよび外国人労働者、ソ連兵捕虜に対する強制労働の問題にも取り組みます。その成果が、(2004)「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)という論文です。そして2007年の獨協大学インターナショナル・フォーラムにおける基調報告の中で、増谷さんはオーストリアの枠を超えてドイツの強制労働の事例にも踏み込んでいくのです。

 この時期、増谷さんが戦争犯罪研究に向かった動機ですが、私の考えではおそらく次の二つが関係していると思います。一つは、ドイツ・シュレーダー政権が立案し、2000年に連邦議会で可決された強制労働補償基金「記憶・責任・未来」設立の動きです。もう一つは、当時、ハーバード大学歴史学准教授であったダニエル・ゴールドハーゲンが、1996年に『普通のドイツ人とホロコースト:ヒトラーの自発的死刑執行人』を発表したことです。この有名な著作は、反響の大きかったドイツで新たな「歴史家論争」を引き起こすことにもなりました。周知のようにこの著作はドイツにおける「土着的反ユダヤ主義」とホロコーストの関係を大胆に論じたものです。現代史家なら誰でもこのゴールドハーゲンの著作をめぐる論争から大きな刺激を受けたと思いますが、増谷さんも同じで、ゴールドハーゲン論争は当時の東京外国語大学大学院増谷ゼミの検討テーマになったのです。そこで読まれたヴォルフガング・ヴィッパーマンの本は、当時の院生のみなさんと増谷さんによって(1999)『ドイツ戦争責任論争』という名前で訳出されています。

 そもそも、増谷さんが現代オーストリアの「土着的反セム主義運動」とは呼べないまでも、その前提となる「土着的反ユダヤ思想」の存在に気づいたのは、ゴールドハーゲン論争から10年ほど遡る1986年頃のことであり、決して90年代の新たな論争の登場を待っていた訳ではありません。具体的に増谷さんの目をこの問題に向けるきっかけとなったのが、1986年に勃発した「ヴァルトハイム問題」でした。これは、元国連事務総長のクルト・ヴァルトハイムが、1986年のオーストリア大統領選挙に保守派の国民党候補として選挙戦に臨んだ際、彼のナチ時代の「戦犯」としての過去が、アメリカの世界ユダヤ会議から暴露されたことに端を発する一連の騒動のことです。選挙戦への世界ユダヤ会議の介入に猛反発したオーストリア国民は、世界中から寄せられた激しいヴァルトハイム批判にもかかわらず、彼を自国の大統領に選出したのでした。これとの関連でオーストリアにおける現代の「土着的反ユダヤ思想」の存在が指摘され、さらにオーストリアの国民が戦争責任をすべてドイツのナチに押し付けることを可能にする戦後の歴史認識、いわゆる「犠牲者神話」のレトリックも改めて注目を集めることになりました。

 「ヴァルトハイム問題」が報道されると、どの局であったかは失念してしまいましたが、増谷さんは某民放テレビ局の緊急特番で専門家としてコメンテータを務めることになりました。あくまで私見ですが、この時の経験が、増谷さんの「ヴァルトハイム問題」およびオーストリア現代政治に対する関心をその後も継続させたのではないか、と密かに考えています。さらに増谷さんは、この問題についての所感を1989年に雑誌『人民の歴史学』にまとめます( (1993)『歴史のなかのウィーン』に再録)が、この頃から、増谷さんは「ヴァルトハイム問題」とならんで、オーストリアの極右自由党の党首に就任したイェルク・ハイダーにも強い関心を持ち始めます。ハイダーについての論説は『図説 オーストリアの歴史』内のコラム「ハイダー現象」で読むことが可能です。若干補足しておけば、この極右政党は元オーストリア・ナチ党員と支持者を中心にして大戦後に結成された「独立者同盟」をルーツの一つにしています。本年(2025年)1月初旬以降、この自由党が第一党として、歴史上初めてオーストリアの首相ポストを握りそうな現状を、増谷さんならどう分析して見せるでしょうか。

 増谷さんの研究業績をまとめた資料を見て、少々異質な存在に思えるのが(2015)『フリーメイソンの歴史と思想』というタイトルの翻訳書です。最初、私もこの本を訳した増谷さんの真意がどこにあるのかよくわからなかったのですが、今回、この報告に備えてもう一度増谷さんの著作を読み直してみたところすべてが腑に落ちました。同書の「あとがき」に公刊理由がはっきりと書かれています。

 「何度となく訪れているウィーンには、フリーメイソンの知人友人もいるが、僕の頭の中では、フリーメイソンは歴史的存在でしかなかった。しかし1990年代に極右排外主義者のハイダーの自由党が政治的に台頭してきたときに、それを批判し抵抗する運動の中心的存在をフリーメイソンが担っていたことを教えられた。」

 つまり、このフリーメイソン翻訳書はその裏で思いがけずハイダーおよび自由党ともつながっていたのです。

 以上みてきたように、増谷さんのオーストリア史への関わり方は実に多様でした。出発点である1848年革命とユダヤの他にも、ウィーンの都市構造、ウィーンのチェコ系流入民、フリーメイソン、両大戦間期の社会民主党市政「赤いウィーン」と労働者住宅、ナチス支配期のアイヒマンによるユダヤ財産の収奪とユダヤ追放計画、大戦中のナチによる外国人強制労働、「ヴァルトハイム問題」および戦後オーストリア国民の歴史認識と残存する「土着的反ユダヤ思想」、極右自由党を中心とする現代オーストリア政治、などがオーストリア関連の主要テーマとして挙げられます。その他にも、ドイツにおけるゴールドハーゲン論争(あるいは戦争責任論争)から、広くドイツ語圏諸国の移民・難民・外国人問題を紹介した(2021)『移民のヨーロッパ史』まで、増谷さんが研究論文や専門書、あるいは翻訳書で残した成果は実に多岐に渡ります。

 増谷さんは、こうした様々なテーマをその都度都度の関心に沿って、あるいは必要に迫られて研究していたのでしょう。しかし、そうした一見無関係に見える個々のテーマは、増谷さんの中では当然のように深いところで繋がっている問題でもありました。私がそう感じているだけなのかもしれませんが、資料で示した矢印の流れを見る限り、増谷さんの関心の動きとテーマ同士の相互連動性が十分に理解できるのではないでしょうか。

4. 再びユダヤへ〜ウィーンからホーエンエムスへ

 最後に再び1848年革命とユダヤの話題に戻りましょう。新しい関心領域と次々に向かい合いながらも、増谷さんがその生涯で、最後の最後まで意識し続けた最大のテーマは、やはり、オーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究でした。晩年の2020年には『メトロポリタン史学』に60ページに及ぶ「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む –新発見の一八四八年革命史料–」を掲載し、1848年革命とユダヤの研究に対する情熱が依然として衰えていないことを、自ら証明しています。

 増谷さんにとって、この生涯をかけたテーマを研究する目的とは何だったのでしょうか。ご自身の言葉を借りれば、ユダヤ研究の最終目的は、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだすことにある、とされます。2013年に出版された『オルタナティブの歴史学』の座談会記録に残っている増谷さんの発言を使って説明すれば、どうやらそれは次のような意味なのでしょう。増谷さんは座談会の席上次のように述べています。

 一つ、自分の大きな研究方向は、ヨーロッパ自身がもっている極めてキリスト教的な社会のあぶりだしということにある。
 一つ、そして、この問題を最も深いところからあぶりだす上で、ユダヤというものが鍵になる。
 一つ、ユダヤを弾圧し続けていく歴史がキリスト教ヨーロッパの歴史であるわけだが、ヨーロッパというものを考えていくには、そうしたユダヤの側から見ていくことが非常に効果的である。

 この言葉の中にこそ、増谷史学の核心が端的に見て取れるのではないでしょうか。

 いずれにしても、編集者をして「なぜそんなにユダヤにこだわるのですか?」と言わしめるほど、増谷さんのユダヤへのこだわりは最後まで強いものでした。今回、この懇談会の直前に増谷さんのPC 内から未発表原稿「ホーエンエムスのユダヤ」が見つかりました。そこにはウィーンではなく、スイスと国境を接するオーストリア西部のフォアアールベルク州のユダヤの人びとと当地の反ユダヤ主義の歴史が、ホーエンエムスのユダヤ博物館が発行したカタログに依拠しつつまとめられていました。さらに、草稿には増谷さん独自の鋭い分析も併記されていました。ご家族のお話しによると、この3万字を超える草稿は、どうやら2015年の半年間におよぶウィーン滞在後に書かれ始めたようです。これまでに報告者が得た情報を整理してみると、この原稿は2011年に公刊された『図説 オーストリアの歴史』の増補改訂版追加コラム用の原稿として想定されたものだったようです。しかし、2023年に実現した増補改訂版には、増谷さんの体調悪化もあり、残念ながらこのコラムが掲載されることはありませんでした。つまり、体調が万全であれば、増谷史学の根幹をなすオーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究は、考察の舞台をオーストリア東部の大都市ウィーンから西部地方の小都市へと移しつつ、さらなる理論的広がりと厚みを増していたのではないでしょうか。

 増谷さんの分析によれば、ウィーンの宮廷ユダヤとは異なり、ホーエンエムスのユダヤ住民は、その活発な経済活動を通じてアジアや新大陸とも通商関係を持っており、支配者から招請された17世紀初頭以来、当地の市民とは比較的良好な関係にあった、とされます。さらに、増谷さんはウィーンとの比較の中で、反ユダヤ思想の現れ方の違いについても以下を重要な差異として指摘します。

 「ユダヤに対する敵対的思想や運動の現れ方も、当然ながらウィーンおよび東方と異なる傾向を持つ。ウィーンという都市が社会歴史的に多民族都市として、特に東方のスラブ系ないしハンガリー、ルーマニアなどの諸『民族』との関係が強く、19世紀には彼らとの様々な問題を抱えていたことにより、ウィーンの住民の自己意識、他者認識は強く民族意識に支えられ、反ユダヤの発想や運動も明らかに民族主義的な色合いを持っていた。シェーネラーなどの運動が、ドイツ民族主義的傾向を持ち、ユダヤを民族主義的に位置づけ、さらには人種主義的に差別しようとする傾向が強くみられるのはある意味で必然とみられる。それに対し『ホーエンエムスのユダヤ』は住民との融合が進んでいた御蔭で、民族的ないし人種的に位置づけられることはすくなかったと考えられる。」

 つまり、この「ホーエンエムスのユダヤ」研究は、先ほど紹介した増谷さんのユダヤ研究の最終目的、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだす上で、これまでの研究ではあまり考察されることがなかった両者の「融合」の可能性を理解するための重要な素材を提供してくれるのではないでしょうか。こうした新たな研究の方向性が示されたにもかかわらず、道半ばでその可能性が閉ざされたことは本当に残念でなりません。

参考文献

増谷英樹「革命とアンティゼミティスムス ウィーン・一八四八年」『社会史研究』日本エディタースクール出版部1984所収
良知力『青きドナウの乱痴気』平凡社1985
増谷英樹「世紀転換期のウィーン 都市社会構造の変化と文化」『感覚変容のディアレクティク』平凡社1992所収
増谷英樹『歴史のなかのウィーン』日本エディタースクール出版部1993
増谷英樹「大都市の成立 –一九世紀のウィーンと流入民」歴史学研究会編『講座世界史4  資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会1995所収
伊藤定良/増谷英樹編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会1998
ヘルバート・シュタイナー(増谷英樹訳・解説)『1848年ウィーンのマルクス』未来社1998
ヴォルフガング・ヴィッパーマン(訳者代表 増谷英樹)『ドイツ戦争責任論争』未来社1999
増谷英樹「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第4号 2002所収
増谷英樹「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第6号 2004所収
増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–日本とドイツ/歴史と現状』有志舎 2009
増谷英樹/古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社2011(2023増補改訂版)
増谷英樹/富永智津子/清水透『21世紀歴史学の創造6 オルタナティブの歴史学』有志舎 2013
ヘルムート・ラインアルター(増谷英樹/上村敏郎訳・解説)『フリーメイソンの歴史と思想 –「陰謀論」批判の本格的研究』三和書籍2015
増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社2016
増谷英樹「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む–新発見の一八四八年革命史料 –」『メトロポリタン史学』第16号2020所収
クラウス・バーデ編(増谷英樹/穐山洋子/東風谷太一監訳)『移民のヨーロッパ史 ドイツ・オーストリア・スイス』東京外国語大学出版会2021
増谷英樹「ホーエンエムスのユダヤ」2015?未発表草稿
Hanno Loewy (Hrsg.), Heimat Diaspora. Das Jüdische Museum Hohenems, Hohenems 2008

(「世界史の眼」No.60)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

増谷英樹著『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』 『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』を再読する
高澤紀恵

 増谷さんのお仕事を都市史の視点から語る、というのが、今回、私と吉田伸之さんに託された役目です。吉田さんは、2015年に都市史学会で「増谷英樹氏のウィーン研究に学ぶ」という会を企画され、報告をしておられます。都市史については吉田さんがこの後、詳しくお話しになると思います。私からは、増谷さんの二冊のご本、『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』と『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』を再読し、あらためて学んだことを短く話させていただきます。

 まず個人的なことです。私は、最初に大学院の優しい先輩であった増谷直子さんと知り合っておりました。直子さんのパートナーとして英樹さんの存在を知った私が、増谷さんのお仕事といつどのような形で出会ったのか、考えてみました。評判の高かった87年の『ビラのなかの革命』を読んだあたりか、となんとなく思っておりましたが、今回、時系列を整理してみると、おそらくその前、84年に、『社会史研究』第5号に発表された「革命とアンティゼミテスムス ウィーン・1848年」を読んだと思います。説明するまでもありませんが、阿部謹也、川田順造、二宮宏之、良知力が編集同人として1982年に創刊された『社会史研究』は、歴史学の新しい動きを代表する雑誌で当時の大学院生、とりわけ西洋史の院生にとっては毎号、目の離せない雑誌だったからです。先日、川田順造さんが亡くなられ、同人であった方たちは全員、鬼籍に入ってしまわれました。個性的な同人たちは毎号の末尾にあった「不協和音」という欄に文章を書いておられました。「不協和音」というのは言い得て妙で、私たちはこの欄から社会史の捉えがたさや型にはまらぬ広がり、それが故の可能性を感じ取っていたものです。ともあれ、増谷さんの論文が『社会史研究』という媒体に発表された、ということで、私は、都市史という枠組ではなく、むしろ社会史的なアプローチによる48年革命研究として増谷さんのお仕事にまず出会ったように思います。ちなみに『社会史研究』の創刊号には、良知さんは「女が銃をとるまで 1848年女性史断章」を書いておられます。

 今回、この論文が収められた『歴史のなかのウィーン』(日本エディタースクール出版部、1993年)と『ビラのなかの革命』(東京大学出版会、1987年)を読みなおし、都市ウィーンをフィールドとすることは、増谷さんの歴史学にどのような特徴を刻んでいるのかを考えてみました。

 第一に強く感じたことは、増谷さんの都市史は、都市の微細な具体相を凝視しつつ、同時に都市を舞台とした48年革命を通して「近代」そのものを世界史的に思考する、いわば思考の拠点としてのウィーン史である、ということです。この二冊の本で増谷さんは、ウィーンのヨーロッパのなかでの位置とその役割を押さえた上で、19世紀に至るまで市門と城壁に堅固に囲まれた都市の空間構造を詳らかにし、その二重、ないしは三重の空間構造が階層、民族、言語などを異にする社会構造と対応している19世紀ウィーンの姿が明らかにされます。さらに、こうした空間/社会構造の析出が、出来事としての48年革命の分析に接続され、市内区の「ブルジョワ革命」と市外区の「プロレタリア革命」という形で48年革命の複合性が解き明かされていきます。そして、こうした分析に立って、「 ・・・「出来合の近代」の思想は、民衆の近代と対決することによって、その内実を与えられ、そして民衆の近代を抑圧していくことによって、それを実現していくものである」(同、p.248)と「出来合の近代」と「民衆の近代」の対抗という大きな見取図が示されるに至ります。「その否定された諸々の「近代」の中にこそ、現代にまでつながりうる様々な課題を見出す事ができる。」(『ビラのなかの革命』p.253.)という文章は、増谷さんの問題意識を鮮やかに示しているわけですが、一つの都市社会への沈潜と世界史を往還するこのダイナミズムが増谷さんのウィーン研究の大きな特徴であり、魅力であると、あらためて感じた次第です。言説分析からいきなり大きな構図を論じたり、あるいは緻密な実証に終始したりしがちな私達は、今一度、先達の仕事に立ち返る必要があると痛感いたしました。

 第二は、ビラという史料とこれを読む増谷さんの視点についてです。1981年秋から2年間の在外研究に出た増谷さんは、ビラという史料群に出会った時のことを次のように語っておられます。

 「・・こうして当時実際に街中で配られ読まれたビラを読み、その現場に立って考えてみることによって、革命のイメージは一変し、これまで匿名の群れとして動いていた民衆が、一人一人名前と表情とを持った者として現れ、1848年のウィーン革命は彼らのもの以外ではありえなくなってしまった。そうしたビラの中から民衆の革命を掘り起こし、そこから革命の意味をもう一度考え直してみることが本書の課題となった。」(同、p.257)

 この一節は、社会的属性に還元されない固有名詞を持った一人一人の存在へ肉薄した増谷さんのウィーン研究が、ビラという史料との出会いによって生まれたことを余すところなく語っています。増谷さんがビラの中に見出した人びとは、頭で考えるだけでなく、肉体を持った存在、つまり高い家賃に苦しみ、お腹を空かせ、歌い行進する人間たちです。同時に雇い主たちに「おまえ」ではなく「あなた」と呼ぶようにと自らの矜恃にかけて迫る人間たちです。働き、闘う多様な女たちの姿もそこには刻まれています。増谷さんは、民衆の日常生活を描くこうしたビラが民衆自身によって書かれたテクストではないことをしっかりと押さえたうえで、ビラを読み上げ、共有する実践過程が革命期に人びとの共同意識を作り出す側面があることを指摘しておられます。ビラを単に現実の痕跡を留めたテクストとして読むだけでなく、ビラの能動的機能といいますか、受け手たちに働きかけアイデンティテイを創造する機能に着目しておられるわけで、現在読んでも極めて刺激的な史料論がここでは展開されています。

 さらに史料としてのビラから増谷さんが掴み出したのは、経済的な搾取の仕組みとそれに抵抗する人びとの姿だけではありません。ウィーン社会に複雑に張り巡らされた蔑視の構造、つまり市外区の民衆の反セム主義をも見事に炙り出しています。現在まで根深く残り、さまざまに形を変えて再生産される差別や憎悪に照準を当てて両義的な民衆像を浮き上がらせ、そこから48年革命に迫ろうとした増谷さんの視点と方法は、現在も輝きを失ってはいません。むしろ、ガザとウクライナの戦火の行方が定まらず、憎悪を煽ることで様々な価値が無価値化しかねない危うい現在こそ、私達は、増谷さんの残してくれた書物を繰り返し読み、学ばなければならないように思うのです。

 増谷さん、本当にありがとうございました。

(「世界史の眼」No.60)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

増谷英樹氏の「都市史の方法」をめぐって
吉田伸之

1 増谷さんとの出会い

 吉田といいます。日本近世史を学んでおります。歴史学の分野では全くの畑違いである 増谷さんとの出会いは、歴研ぬきに考えられません。私は、1978~79 年度に始めて歴研委 員となり、この内 79 年度に科学運動部の部長を勤めましたが、この委員会で始めて増谷さ んと出会いました。また、1986~88 年度の三年間、歴研の初代事務局長となり(それまで は会務委員長)、その内 87~88 年度は増谷編集長と一緒でした。この時は中村平治さんが 委員長で、86 年度には、小谷汪之さんが勤める編集長の主導の下、歴研本誌の表紙が長年 の無味乾燥な黄色から、歴研カラーの赤紫(ピンク)へと変貌し、内容も大きく刷新され ました。また新たに研究部長を設け、研究活動を強化するなど、歴研委員会にとって大き な節目の時期にご一緒しました。かくして私は、研究者としてのスタートから「歴研風土」 で育てられ、その中で中村平治さんを始め、小谷さん・南塚信吾さんともども、増谷さん は敬愛する兄上的存在であり続け、ずっと弟のような心性でおりました。因みに、妻ゆり 子(日本近世史)は、1991 年度から 2005 年度まで、東京外語大で同僚として増谷さんの お世話になり、こうしたこともあって、いつも身近に感じてきた次第です。

2 増谷さんのウィーン研究に改めて学ぶ

 さて、19 世紀ヨーロッパ史などには全くの門外漢である私ですが、今から 10 年近く前、 2015 年 7 月 11 日に都市史学会の主催で「増谷英樹氏のウィーン研究に学ぶ」というテー マのワークショップを企画しました。この時私は、「1848 年革命と都市ウィーン」という タイトルで書評報告をしました(『都市史研究』1 号、2015 年、所掲の報告記事を参照)。 そこでは、増谷さんの代表作三点『ビラの中の革命 ウィーン1848年』(東京大学出版会、 1987)、『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』(日本エディタースクール出 版部、1993)、「1848年革命とユダヤの人びと」(『21世紀歴史学の創造6 オルタナテ ィブの歴史学』有志舎、2013)を素材とし、日本近世の都市社会史研究の立場から、雑駁なコメントを試みました。

 今回、10 年前の報告レジュメを見ながら、増谷さんの 1848 年革命期ウィーン都市研究 について述べたことの一部を、以下に文章化してみました。

 増谷さんのウィーン研究の特徴として、第一に、一貫してビラや『オーストリア・ユダ ヤ中央機関紙』など一次史料を重視し、史料によって直接語らせる手法をとり、関連史料 の博捜と、多大な労力を要する解読・分析を精緻に積み重ねることに、研究のオリジナリ ティの源泉があることが注目されます。

 第二に、都市ウィーンを、その社会の構造だけでなく、その基盤としてある空間構造と 深く連関させて把握することが挙げられます。これは、『ビラの中の革命』においてすで に顕著に見られる方法です。そこでは 1 章の出だしから「市壁の内と外」を対蹠的に捉え、市内区、市外区(市壁とリーニエの間)、リーニエ(の外部)からなる三重構造として、 ウィーンの社会=空間構造を把握されています。

 第三は、「女のいる」ウィーン革命史の叙述という、ジェンダー視点とその実践に見ら れる先駆性です。この点は特に、[増谷 1987]3 章「女たちの革命」や[増谷 1993]IV章 で顕著に見いだせます。

 第四は、増谷さんのウィーン革命研究における問題意識の核にあり、通奏低音としてあ るユダヤ(人)問題です。ここでは、民衆レベルの革命運動に内包される反セム主義にま で視点が注がれます。こうして示唆されている視点と方法の射程は長く、ホロコーストを も照射しており、その意味は深く重いといわざるを得ません。

 以上を確認した上で、日本近世における都市史研究を念頭に置きながら、氏の一連の ウィーン研究から浮かび上がる論点を二三指摘します。

 一つは、個別都市史・都市論がもつ限界、という点です。増谷さんの研究に接して痛感 させられたことは、江戸のような個別都市を限定して取り上げる研究の隘路、という点で す。研究対象とする当該の都市自体の構造を分析し、その歴史過程を追うことに終始する ことには限界があると自覚させられました。都市の社会=空間構造を限定的、かつ表層的 に観察するだけでは見えない論点が、厖大に存在することへの気づきでもあります。とり わけ江戸のような巨大都市の場合、こうした都市の背景に見え隠れする広大な裾野の全貌 を把握・認識することは容易でありません。かつてハプスブルク王国の首都であったウィ ーンが、1848 年当時、その都市社会内部や周縁部にどのような要素を内包していたか、増 谷さんの研究はこれを精緻に炙り出しています。その多様性の背景には、ハプスブルク家 支配の変動と解体が首都ウィーンの地位を激変させ、さまざまの諸集団、民族、宗教など を内部や周縁に抱え込んだことがあるのでしょう。つまり都市ウィーンの「都市史」にと って、その歴史的背景や問題群の総体を理解することが不可欠なものだということです。 こうした点は、実は江戸でも同様かと思われます。巨大都市江戸を成り立たせる裾野の広 がりを包括的に把握することのないままの「都市史」は無意味であることを、再認識した ということです。

 二つめは、いわゆる比較史の意味について考えさせられたことです。異なる歴史的背景 をもつ都市を比較する場合、表層的で素朴な比較史にとどまらずに、相互の都市社会のど の局面を取り上げ、いかなる方法で比較するかという問題です。

 そのポイントを端的に述べると、ふつうの市民や民衆レベルの生活・労働・文化の地平 に降り立ってその視座を共有し、異質な対象としての都市を相互に比較しあい、そうする ことで自身が取り組む対象=都市の「自画像」を、他者を鑑として細部にわたり捉え返す ことに意味がある、ということかと思います。都市社会の民衆的深部における相互の比較 であり、こうした手法を比較類型把握などと呼んでおります。

 例えば、『ビラの中の革命』から、1848 年革命期のウィーンと、同時期の嘉永初年頃の 江戸とを比較する軸を挙げてみると、以下のようになろうかと思います。(頁は[増谷 1987])

*借家経営。市外区・リーニエの外部における借家所有者(家主)と、ハウスマイスター の存在が注目されます。この家主(家持)は、ウィーン市の行政の末端機構を担い(p51)、 またその下で借家の管理を担うハウスマイスターは「秘密警察の手先」でもあり「ウィーンの隠れた支配構造」(p65cap.)でもあった、と指摘されています。この点は、江戸町方 の町屋敷における家持層の実態、また家持の代理人としての家守に委ねられる町屋敷経営、 あるいは町共同体の自治と末端の支配機制など、それぞれの相互対比が可能となります。

*職人層の結合組織。手工業者の「強制的同職共同組合」ツンフト、あるいは構成員への 強制力をもたないインヌンク、また職人頭層や雇用を媒介・斡旋する職人宿(p77 以降) などの存在は、当該期江戸の職人仲間や手間宿(職人宿)のありようと相互に参照するこ とができそうです。

*権力体への、都市民の賄機能。「概してウィーン市民は皇帝に忠実であった。もともと 彼らの商売は宮廷に依存している面が強かった」(p109)という指摘から、江戸において、 将軍権力が町方における多様な都市機能―燃料としての薪炭、食糧としての魚・野菜、城 郭や殿舎の普請・修復のための、材木を初めとする物資供給や諸職人の動員―に、多くを 依存したこと(せざるを得なかったこと)との類似性が気になるところです。

*遊所。ウィーンにおける売春問題に触れるビラを取り上る中で、「売春行為を公認し、 空間的に制限を加えた方がよいという議論」が紹介されています(p150)。日本近世に固 有のように言われる遊廓の「理念」とも同質のこの醜悪な議論が、1848 年革命期ウィーン に現出していることに驚かされます。

 こうして、相互に直接交流することはほとんどなかった異なる都市―ヨーロッパと極東 日本の都市―を相互に比較することは、上にみたような都市社会の細部や基底における構 造、人々のありようの特質を把握する中で、はじめてその意味が生ずるように思われます。 こうした試みは、日本とフランスの近世期都市を素材に長期にわたり取り組まれ、いくつ かの成果をもたらしてきました(高澤紀恵・アラン=ティレ・吉田伸之編『パリと江戸 伝 統都市の比較史へ』山川出版社、2009 年ほか)。しかし、ウィーンと江戸の比較は、日仏 間の相互比較では視界に入らなかった点、すなわちヨーロッパとアジアのハブとして位置 するハプスブルク帝国の首都として、非ヨーロッパ系を含む多様な諸民族の複合・坩堝で もあるウィーンと、特に幕末維新期における江戸・東京との比較からは、また異なる論点 を見出す可能性を予感させます。

3 若干の補足

 今回、増谷さんによる一連のウィーン研究を久しぶりに再読し、都市史の方法にとって 学ぶべき点として気づいたことを若干追記します。

 第一は、史料の中に「民衆の声」を聴く、という問題です。『ビラの中の革命』でウィ ーン 1848 年革命史研究の素材として用いられた大量のビラ。また、論考「1848 年革命と ユダヤの人びと」で、基礎史料として用いられた『オーストリア・ユダヤ中央機関紙』。 これらの精緻な読解から、増谷さんは、1848 年革命における多様な当時者の肉声や息吹ま でも甦らせています。これら書き手たちは、大半は当時の知識人層なのでしょうが、その 背後に、厖大な都市民衆の存在があることが浮かび上がってきます。日々の生活に追われ、 貧苦にうちひしがれ、自らの状況や思いを文書・記録に記述する術も余裕も無かった人々 の「声」が、これらビラや新聞の記述に数多く記録、反映されているのではないか。そう した思いで再読しました。歴史の闇からこうした民衆の声を断片でもいいから一つでも多く見出すことは、現代を生きる歴史研究者に課された大切な役割なのだ、ということを改 めて確認した次第です。(吉田「「史料のなかの民衆の声」に耳を澄ます」『ALC REPORT』 復刊 3 号、2022 年、参照)

 第二は、都市における社会=空間構造の分節的把握、という方法についてです。2で述 べたように、『ビラの中の革命』はその冒頭で、舞台となる 19 世紀ウィーンの都市空間の 構造から叙述します。こうして、都市の社会と空間構造が、相互に密接なものとして描か れて行きますが、重要なのは、都市の社会=空間をのっぺらぼうなものとしてではなく、 これを構成する多元的な要素、多核的な特質を、分節的な構造の連鎖として把握しようと する方法です。一見茫漠とした対象である巨大都市を、分節的な諸要素へと腑分けし、そ れぞれの特質を把握した上で、全体像へと再構築する。増谷さんの研究にはそうした方向 性が感じ取れ、これに深く共感する次第です。

 第三は、都市と身分的周縁という視点です。ウィーンの都市社会を構成する、なかでも 市外区やリーニエにおける民衆世界を構成する多様な要素へ注意を払う点が重要かと思い ます。都市プロレタリアート、ユダヤにおける「空気人間」、スラブ、女性たち、これら 周縁的存在への増谷さんの眼差しには、日本近世史における「身分的周縁論」を推進する 担い手の研究者たちと同質のものを感じます。こうした巨大都市と身分的周縁という視点 と方法は、解体期身分社会(初期近代)における都市の構造把握、あるいは特質解明にと ってとりわけ重要かと考えます。

おわりに:

 2の冒頭に記した、2015 年 7 月の都市史学会ワークショップの時であったかと思います が、これに参加された増谷さんは、私の拙い書評報告に丁寧にリプライされたあと、「そ のうち、ウィーンを案内してあげる」と話されました。これまでずっと、そうした機会が 訪れることを念じてまいりましたが、果たせませんでした。無念です。増谷さんの、温か く穏やかなお人柄と、他方に窺える、ウィーンの清濁綯い交ぜの民衆世界に対する強いシ ンパシー、さらには正義ならざるものへの怒り。こうしたものに支えられた増谷さんの歴 史学は、とかく日本列島史に閉じこもりがちなこの私に、世界史への扉を優しく開いてく ださった、という思いでおります。都市ウィーン研究については、もちろん全くの門外漢 である私にも、こうして多くの学びのきっかけを与えていただいたことへの心からの敬意 と深い感謝の念とともに、哀惜の思いで一杯です。増谷さん、ありがとうございました。 合掌。

(「世界史の眼」No.60)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

世界の世論と国連改革
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 1945年に第二次世界大戦の殺戮が終わった時、世界中に安堵感が広がった。そしてすぐ後に、平和を維持するために、国際連合が結成された。その二つの主要機関は、50か国全員が加わる総会と、15か国から成る安全保障理事会であった。15か国のうち、合衆国、イギリス、フランス、ソ連、国民党中国の5か国が常任理事国であった。5か国は、拒否権が与えられないのなら国連を組織することを拒否した。その拒否権というのは、望むなら安保理のいかなる動議をも拒否するというものであった。結果的に、この要求こそ、これまで75年にわたって由々しき要求であったのである。

 国連は、発足して以来新たに140か国のメンバーを受け容れた。そのほとんどはかつて帝国に支配されていた国である。国連総会は1947年に、イギリスの委任統治領(第一次世界大戦後につくられた制度)に導入された原則に従って、パレスチナの分割を提案した。パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割しようというものである。イスラエルは1948年に国連の参加国となったが、パレスチナの参加は何度も延期された。かくて、パレスチナとイスラエルの紛争は、他の長期の紛争と同じものになった。つまり、アルジェリアとフランス、ベトナムとフランス、ケニアとイギリス、アンゴラ(およびモザンビーク)とポルトガル、ナミビアと南アの間の紛争と同じになった。そして、イギリスとフランスは次第にイスラエル側につき、パレスチナ国家を認める決議には拒否権を行使してきた。

1.世界の世論

 テレビとデジタル・コミュニケーションのおかげで、世界の世論は社会変化を求めて大規模なデモによって自己を表現してきた。これらの大デモは大体は忘れ去られているかもしれない。しかし、それらは多文化主義の考えを打ち立てるのに重要な役割を演じた。この多文化主義の中で、それまでは孤立していたグループが、ジェンダーの平等やエスニックな平等や宗教的平等にと向かったのである。それらはまた帝国や植民地を終わらせることにも役立った。

 以下の例は、ひとびとがネイションや政治的意見の相違を超えて、いかに一緒になって、人間の諸価値について意見を表明してきたかを示している。

1989-1992年

 1989年2月に南アでネルソン・マンデラが牢獄から解放された。かれは、変化求めて、アフリカ中をまわり、それからヨーロッパとアメリカ合衆国へ行って、帰国した。そして彼は1994年に南アの大統領になった(注意しておくと、アメリカ合衆国は、1986-89年の間に、パレスチナ、ナミビア、南アの国家を承認する決議に拒否権を発動していた)。この間、1989年4月には中国で天安門デモが起きたが、その年の6月4日にはデモは中国政府と軍隊によって潰された。しかし、世界的なデモはよみがえって、中国での民主的改革や南アの政変を支援しただけでなく、東欧の体制転換やフランス語圏アフリカの諸国会議やソ連に代わってできた新しい国々をも支援したのであった。

 わたしは大西洋を回るツアーで、これらの民主化デモのいくつかを見る事が出来た。1991年の3か月間に、アメリカ合衆国、アフリカ、ヨーロッパの中の三か国を訪問して、社会運動への参加者にインタヴューをした。このツアーの後、1991年にソ連が崩壊した。しかし、アメリカ合衆国と他の常任理事国は、他の大国を受け容れて安保理のメンバーを拡大する改革を行うことを拒否した。

 わたしは民主主義の表現としてのデモを見た。つまり、人々が学校に行けることや、自分の望む分野で働くことや、その他の事を、政府が規制することへの大衆の反発としてのデモである。わたしはこのことについて、プラハでの労働組合の活動家であるわたしの父と議論をした。かれはそういう変化は、大きなグローバル権力とグローバル企業を持ち込むことになり、もっと経済統制をもたらすだろうと言った。たしかにかれは正しかった。1990年代にG7が世界貿易機関(WTO)を作り、自由貿易をすべての主要経済にたいして公的に拡大した。しかし、わたしもまた正しかった。ヨーロッパやアフリカのいくつかの国では政府はより民主的になり、国民は自分の考えるところを話し、大衆デモを行える経験を勝ち得たのである。

2003-2005年

 この時期、アメリカ合衆国は再び世界のことを指図しようとした。2001年から、アメリカ合衆国はイラクが「大量破壊兵器」WMDつまり核兵器を持っていると主張した。(アメリカ合衆国は国連安保理にイラク侵攻に同意し支援するように圧力をかけて、安保理は決して同意はしなかったとはいえ、アメリカ合衆国の計画に反対はしなかった)。2003年2月15日には6か国において、アメリカ合衆国のイラク侵略計画に反対する数百万のデモが広がった。抗議の広がりは、当初主なメディアが伝えていた以上に大きかった。主要メディアはロンドンとシドニーにのみ焦点を当てていたのだ。アメリカ合衆国は、大衆の意見にも拘わらず、突き進んで、3月20日にイラクに侵入した。戦争が続くにつれデモは下火になったが、戦後のアブグレイブ刑務所での捕虜虐待問題が明るみに出ると、ふたたび拡大した。イラクで多数の犠牲者を出したにも拘わらず、「大量破壊兵器」はまったく発見されなかった。

2011-2022年

 この10年の間に、世界の世論は、いくつかの重要な出来事に対する市民の反応として現れた。例えば、アラブの春である。これはチュニジア、エジプト、シリアその他アラブ諸国における国民的な蜂起で、民主主義を求めるものであった。このアラブの春は、世界中からの支持を集めたのだった。また、2020年5月25日にアフリカ系アメリカ合衆国人のジョージ・フロイドが警察によって殺された事件の後、抗議が全米に、そして世界中に広がった。そしてついには国連人権委員会の世界会議を開催させるまでになった。最後に、2014年には、ロシアがウクライナからクリミアを獲得したことへの非難が世界的な抗議となり、8年後にロシアがウクライナを全面的に侵略するといっそう抗議は広がった。

2023-2024年

 最近の歴史における最大の、そして最も一致したデモは、2023年10月7日にハマースがイスラエルを突如攻撃したあとに始まるガザ戦争への反対のデモである。「武力衝突―場所と事件 データ・プロジェクト」の研究によると、2023年10月7日から2023年11月24日までに、世界中で、親パレスチナの抗議デモが7000件以上あり、親イスラエルの抗議が850近くあった。下は、親パレスチナの抗議デモの分布である。

Data and image by The Armed Conflict Location & Event Data Project

 世界中の人々は、パレスチナ国家の正当性を尊重することを表明した。それは国連参加193か国のうちの140か国の旧植民地の独立にあたるのだとみなした。それは、独立と国民尊重と諸国間の平和への、世界的な呼びかけなのである。

 世界的なデモの高まり具合は、個々の出来事に応じて高くなったり下がったりするであろうが、パレスチナの独立を支持する声は、それが達成されるまで粘り強く続くであろう。

2.世界の新しい動き:国連と来るべき改革

 安保理の5つの常任理事国(特にアメリカ合衆国)に世界の諸問題への過度な影響力を与えさせてきた拒否権が終わりになる可能性は大いにあり得ることである。フランスは2016年以来、拒否権をなくすことに賛成してきている。メキシコもそうである。中国とロシアは、ある地域では拒否権の恩恵を受けているが、他の地域では、拒否権のない方が益することが多いかもしれない。

 実際のところ、国連加盟国の圧倒的多数は、5大国の拒否権を終わらせ、安保理にいくつかの常任国枠を設け、大陸ごとに中心国をそこに任命するという考えを支持している。これは国連憲章を少し修正することを必要とするが、国連総会が力を発揮してそういう変更をすればいいだけのことである。

 アメリカ合衆国とイギリスだけが依然として拒否権を守ろうとしている。昨年アメリカ合衆国はガザ戦争を終わらせようという国連決議に3回も拒否権を行使した。ついで、2024年3月にはパレスチナの国連加盟に拒否権を行使した。こういう立場は、パレスチナを外交的に承認しようという大勢に真っ向から対立するものである。パレスチナを承認した国はすべての国の80%にも達しているのである。ごく最近では、ヨーロッパでもアイルランド、スペイン、ルクセンブルク、アイスランド、スウエーデン、スロヴァキアがパレスチナを承認するようになった。

 戦争がほぼ一年も続いても、アメリカ合衆国政府(両政党も含めて)はイスラエルのガザ戦争に武器を与え支援し続けている。際限のない「交渉」によって、「ジェノサイド」が起きていることを認めず、停戦に向けて真剣な圧力をかけることもしていない。イスラエルは後退する気配も見せていない。イスラエルの首相ベンジャミン・ネタニアフがアメリカ合衆国を訪問した後、直ちにパレスチナとレバノンの指導者が暗殺された。さらに、ガザの病院や学校への攻撃が繰り返され、食糧や水が断たれていることは、イスラエルの戦争継続の決意をただもう再確認させられるだけである。

 指摘しておかねばならないのだが、現在のガザ戦争――イスラエルによって実行されているが、アメリカ合衆国の拒否権によって守られ、アメリカ合衆国の武器を供給されている――は、すでに世界裁判所において審査されているという事である。これは南アが国際司法裁判所に提出して、広い支持を集めている訴えに基礎をおいている。

 私の考えでは、世界の市民(そしてとくにアメリカ合衆国の市民)は、多数が支配し、大多数の意見を踏みにじる大国の拒否権をなくした国連という考え方に慣れるべきだと思う。そして拒否権のない世界においては、アメリカ合衆国は重要な国ではあるが、もはや世界の多数の意見を無視して国連に自国政府の意思を押し付けることはなくなるであろう。拒否権のない国連においては、決定は、大小を問わず、国々の連携関係によって行われるであろう。

 2024年9月22-23日にニューヨークで開催予定の「国連未来サミット」では、国連改革の問題がヤマ場に来るかもしれない。事務総長であるポルトガルのアントニオ・グテーレスは、このサミットの組織者として、安保理改革を強く支持している。もしこの改革がうまくいけば、どういう国々が世界のリーダーとして登場してくるのだろう。(これまでいくつかの国の熟練した外交官が重要なイニシアティヴを発揮してきたが、拒否権によって無視されてきた。)アメリカ合衆国は、もはや単にヨーロッパだけでなく、世界中の国と連携を打ち立てなければならなくなるのではないだろうか。そして、究極的には、アメリカ合衆国は、拒否権で支配するよりも、いくつかの点では敗北を受け入れなければならなくなるのではなかろうか。

(Contending Voices Global Opinions and United Nations Reform by Patrick Manning Sep. 4 2024) 

訳者注)9月に開かれた「国連未来サミット」では、マニングの期待していたような国連改革の動きは起きなかった。しかし、南塚とのメールのやりとりで、フィンランド大統領アレクサンデル・ストゥブが総会で、安保理改革に言及したことは、注目されると、マニングは言っている。

(「世界史の眼」No.58)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする