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書評:林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)
山田朗

戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげか?

 2025年10月10日、石破茂首相(当時)は、「戦後 80 年に寄せて」と題する「内閣総理大臣所感」を発表した。この日は、81年前(1944年)、米空母機動部隊の艦載機によって沖縄本島をはじめとする南西諸島が大規模な空襲を受けたいわゆる「十・十空襲」の日である。この空襲は、無差別爆撃となって那覇市は旧首里城を含む約90%が焼失、沖縄本島だけで軍人・軍属218名、陸軍人夫120名、民間人330名が犠牲になり、その他に船舶の被害で民間人約600人が死亡したとされている。当時の日本政府(小磯國昭内閣)は、この無差別攻撃に、中立国スペインを介してアメリカ合衆国政府に対して、国際法に違反するものだとの抗議を行なっている(合衆国政府は無回答)。もっとも、「石破所感」は、「十・十空襲」やこの無差別攻撃という歴史を意識して、この日を選んで発表されたものとは思われない。

 それどころか、この「所感」は、戦前日本の植民地支配や侵略戦争については一言も言及せず、「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。」といった、いわゆる「おかげ論」(戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげだとするもの)を展開している。だが、現実には、日本人犠牲者の前に、アジアにおける2000万人を超えるとされる膨大な犠牲者が存在し、日本軍将兵の犠牲も半分以上は餓死・病死であり、日本人犠牲者310万人の約90%は、戦争の勝敗が決した後の最後の1年間に生じたもの(吉田裕『続・日本軍兵士』中公新書、2025年)であることを考えると、犠牲者の「おかげ」で戦後の平和と繁栄があるとする議論は、大きな欺瞞を含んでいる。戦争の犠牲者を日本人(植民地支配下にあった人々を含む)に限定してみても、軍人・民間人の膨大な犠牲は降伏を許さない、捕虜になることを許さない日本軍というシステム、それを支えた政府や日本社会のあり方によって死ぬことを強いられた、いわばそのような制度的な束縛によって殺されたものである。

 降伏を許さない、捕虜になることを許さないというシステムは軍人だけでなく、民間人にも強制され、本来であれば助かる命がむざむざと失われた。そのことをはっきりと示すのが沖縄戦である。沖縄戦に関する本は、数多くあるが、林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)ほど沖縄戦の実態を深く、かつ広がりをもって叙述している本は他に例を見ない(なお、前述した「十・十空襲」に際しての日本側の抗議、米側無回答の件も、本書156〜157頁に記述されている)。

沖縄戦の全体像と細部に至るまでをも示す周到な構成

 『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』の章立ては以下のとおりである。長いスペースを取るにもかかわらず、章・節だけでなく、項まですべて示したのは、本書の構成から本書の叙述の時間的・空間的広がり(隙のなさ)を見ていただきたいからである。

序 なぜ今、沖縄戦か
第一章 沖縄戦への道
 1 沖縄の近代—同化・差別と反発
     琉球王国から沖縄県へ  
     同化と差別・貧困への反発
 2 中国やアジア太平洋への侵略戦争と沖縄
     中国での沖縄出身兵士たちの体験
     沖縄の外に送られた労働力と「南進論」
 3 なぜ沖縄が戦場になったのか
     沖縄への日本軍の配備と飛行場建設  地上戦闘部隊の増強
     本土防衛の捨て石としての沖縄
     米軍はなぜ沖縄をねらったのか
第二章 戦争・戦場に動員されていく人々
 1 沖縄の戦時体制
     社会運動や思想の弾圧
     行政・教育による戦時体制づくり
     天皇・国家に命を捧げる国民づくり—皇民化政策
     人々を動員していく地域社会
      戦争を煽るマスメディア
      徴兵を忌避する人たち 
 2 戦場動員態勢へ
     軍のために動員される人々
     徴用
     食糧など物資の供出
     日本軍将兵の横暴・非行
     軍と県の対立
 3 疎開—根こそぎ動員と表裏一体の政策
     役に立たない者を疎開させる
     県外疎開—一般疎開と学童疎開
     県内疎開
     宮古・八重山の疎開
 4 軍と県による戦場動員
     軍県一体で進められた「県民総武装」
     軍人として召集された中学生—鉄血勤皇隊
     一般住民を戦闘員に—義勇隊                               
第三章 沖縄戦の展開と地域・島々の特徴
 1 米軍最初の上陸—慶良間諸島
 2 米軍の沖縄本島上陸 一九四五年四月
     沖縄本島上陸
     大本営と天皇の戦争指導
 3 沖縄本島中部の激戦 一九四五年四月~五月
     運命を分けた地域
     斬り込みに駆り出される兵士たち
     天皇・政府から見放された沖縄
     時間稼ぎの南部撤退
     住民スパイ視を煽った日本軍
 4 沖縄本島北部の戦闘
     広大な北部に配備されたわずかな国頭支隊
     ゲリラ戦部隊の遊撃戦
     軍官民一体のスパイ組織・住民監視
     日本軍による住民虐殺
     ハンセン病者の犠牲
     米軍による住民虐殺                                         
 5 沖縄戦の終焉—本島南部 一九四五年六月
     多くの民間人を道連れにした海軍部隊
     組織戦闘の終焉
 6 飢えとマラリアの宮古・八重山
     宮古諸島
     八重山諸島
     戦犯裁判
 7 離島の沖縄戦
     沖縄本島周辺の島々
     久米島・粟国島・渡名喜島
     伊平屋島・伊是名島
     大東諸島
     奄美群島・トカラ列島
 8 米軍の戦闘方法、心理戦、軍政と収容所
     十・十空襲と米軍の攻撃方法
     心理戦
     軍政と収容所
     「戦後」の出発
     捕虜収容所
 9 沖縄からの九州奄美への爆撃                                     
第四章 戦場のなかの人々
 1 日本兵たち
     変化する日本軍
     捕虜になることを許さない日本軍
     人々の良心良識を抑圧する軍組織
 2 日本軍による住民に対する残虐行為
     日本軍による住民虐殺
     日本軍によって死に追いやられた人々
     スパイ視された障がい者たち
 3 戦場に駆り出された人々
      戦場動員された義勇隊員
     本土決戦の先取りとしての沖縄戦
     海の墓場に駆り出された漁船と漁民たち
 4 「集団自決」
      慶良間列島
     沖縄本島中部
     伊江島
     沖縄以外
     起きなかった地域・島々
        なぜ「集団自決」が起きたのか
 5 学徒隊
     男子学徒隊
     女子学徒隊
 6 死を拒否した人々
     生きることを選んだ民間人
     投降を促した人たち
     助かった人たち
 7 防衛隊員
     主力温存のための捨て石部隊
     生きようとした防衛隊員
     なぜ防衛隊員たちは「玉砕」を拒否したのか
     沖縄出身兵たち
 8 朝鮮人
     軍夫
     朝鮮人兵士たち
     船舶の乗組員など
 9 日本軍「慰安婦」と性暴力
     日本軍「慰安婦」
     日本軍「慰安婦」にされた朝鮮人女性
     米軍の性暴力
 10 沖縄の外での戦争に参加した沖縄の人々
     無謀な作戦の犠牲になった兵士たち—中国・大陸打通作戦
     戦後も帰らなかった兵士たち
     戦犯になった沖縄の人たち
 11 移民した人たちの戦争
     中国・「満州」
     東南アジア
     南洋諸島
     南米                                                       
 12 米軍兵士にとっての沖縄戦
     戦争神経症の多く出た米軍兵士たち
      沖縄にやってきた米軍部隊の戦歴
第五章 沖縄戦の帰結とその後も続く軍事支配
 1 どれほどの人たちが亡くなったのか
     戦没者数の推計
     南部撤退・戦闘の長期化と北部疎開が増大させた犠牲
     沖縄の外での戦没者
  2 どうすれば犠牲をなくせたのか、減らせたのか
     民間人を守る方法はなかったのか
     沖縄戦は避けられなかったのか
 3 加害と侵略の出撃基地—米軍基地
     加害の出撃基地
     沖縄/日本に集中する米軍基地
 4 沖縄戦の戦後処理
     遺骨収集と追悼
     援護法の適用と歪められた沖縄戦像
     不発弾
 5 沖縄戦の認識・体験談・研究
     沖縄戦叙述・研究の歩み
     自衛隊の沖縄戦認識
おわりに
あとがき
参考文献

〔県市町村史・字史74点、一般文献146点、英語文献4点、林博史文献単著9点、林博史文献論文・史料紹介10点 合計243点〕

新書判、348頁 〔 〕内は山田による補足

 書物の構成(目次)というものは、その著作の見取り図であり、どのようなパーツをどのように配置し、組み立てているのかを、端的に示すものである。もちろん、叙述そのものが大切であることは勿論だが、読者はこの見取り図を見ることで、その著作の意図や力点の置き方、著者の用意周到さを読み取ることができる。

 本書の構成(目次)を見ると、沖縄戦という対象を歴史として、あるいは現代につながるものとして考える上で、必要な素材が過不足なく周到に盛り込まれていることがわかる。なぜ、このような周到な構成を作成できたのか。それは、著者がこれまでに沖縄戦に関して実に多角的に研究を蓄積してきたからである。参考文献欄と本書本文でわかるように著者は、『沖縄県史』(新県史)の編纂に深くかかわってきただけでなく、『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001年)、『沖縄戦:強制された「集団自決」』(吉川弘文館、2009年)、『沖縄戦が問うもの』(大月書店、2010年)、『暴力と差別としての米軍基地:基地形成史の共通性』(かもがわ出版、2014年)、『沖縄からの本土爆撃:米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館、2018年)などの沖縄・沖縄戦・沖縄の基地問題に深く切り込んだ仕事をしてきた。それに多くの人が知るように、著者は、日本軍の戦争犯罪・BC級戦犯裁判、日本軍「慰安婦」の問題においても特筆すべき成果をあげて来ており、大日本帝国・日本軍・戦争の矛盾の凝縮点とも言える沖縄戦について分析・執筆し、問題の所在を明らかにするのに、これほどうってつけの執筆者はいないだろう。

本書の叙述の特徴(1):沖縄戦を時間・空間・社会的広がりの中で描く

 本書は、沖縄戦をテーマにした新書ではあるが、通常の新書のスペースには収まりきらない叙述を特徴としている。本書では、第1に時間的広がり、第2に地理的広がり、第3に社会的広がり、第4に戦争の加害と被害の関係性に十分配慮した叙述がなされている。

 第1の時間的な広がりを十分に考慮した叙述という点では、第一章において時間的に琉球王国から説きおこし、近代日本に併合され、強権的な同化システムのもとでの差別と貧困、そして「南進」の拠点とされていくプロセス、日本の世界戦争への参戦によって沖縄が否応なく戦場にされていく流れが示される。そして、第三章1~5で沖縄戦の始まりから終焉までの経過が丁寧に追われ、さらに同章8・9で沖縄が本土空襲の基地として使用されたこと、第五章3・4で戦後も続く米軍による軍事支配と戦後処理問題が解説されている。つまり、沖縄戦を中心に据えながら、前近代から現在に至るまでの沖縄と沖縄の人々が置かれた立場を細大もらさず叙述している。いろいろな本を読まなくても、まずは本書1冊を読めば、歴史の大きな流れの中の近代沖縄史・沖縄戦・戦後沖縄史がわかるようになっている。

 第2の地理的広がりという点では、大日本帝国が行った戦争がアジア・太平洋・インド洋に及ぶ広大な地域を舞台にしていることを前提として、沖縄戦を連合軍と日本軍の戦略の中で、東南アジア・中国戦線との関わりで捉え、日本本土と沖縄の関係性、そして沖縄本島だけでなく(「本島」中心主義に陥らず)、第二章3や第三章6・7など可能な限り先島諸島や周辺島嶼・離島にも目配りした叙述になっている。また、本書のサブタイトルにもある「なぜ20万人が犠牲になったのか」という点では、戦闘による様々な形態の直接的犠牲だけでなく、疎開・食糧不足・マラリアなどによる犠牲にも地域ごとに丹念にふれ、戦争の犠牲・被害というものが、直接に戦闘に巻き込まれなくても広範囲で起こることを示している。

 第3の社会的広がりという点では、とりわけ第四章において沖縄戦にかかわった様々な階層の人々を丁寧に叙述し、非常に内容が充実している。沖縄戦における日本兵の戦い、沖縄の人々への差別意識と残虐行為、とりわけ投降しようとする兵士・一般住民を射殺したり、さまざまな場面で住民をスパイ視して虐待、殺害したりする日本兵の事例を数多く紹介している。また、「捨て石」部隊として戦場に投げ込まれた一般住民である防衛隊員・義勇隊員の実態、米軍に捕まったらどうせ殺されるのだからと説いて一般住民の女性まで手榴弾を持たせて「斬り込み」に参加させた日本軍、沖縄の一般住民にとって、米軍の「鉄の暴風」と日本軍の威圧・強要の板挟みの中で「集団自決」を強いられた状況が具体的に描かれる。一般住民の「集団自決」の多くは、軍人の命令や日本兵や官吏が語る中国戦線での体験談(捕虜は殺され、女性は性暴力の対象となる)に後押しされて生じている。

 そして、本書の大きな特徴の一つだが、「集団自決」しなかった人々、「玉砕」を拒否した人々、兵士や住民に投降することを促した人々の存在を、それらの人々がそうした選択をした理由を含めて(移民体験者が多く、「鬼畜米英」の宣伝に疑問を持っていたことなど)丁寧に叙述している。これは、回想録などの文献調査だけでなく、沖縄で広範に実施されてきた聞き取り調査の成果が生かされているものだ。また、沖縄戦に多数が投入された朝鮮出身の軍人・軍属・労働者の存在、日本軍「慰安婦」のこともきちんと描かれている。

本書の叙述の特徴(2):沖縄戦における加害・被害の関係性

 本書は、沖縄戦における加害と被害の関係性を、米軍による加害、日本兵・沖縄住民の被害という単純化された枠組みで捉えることを拒否している。むしろ、沖縄戦の特徴として日本軍・官吏による加害(軍と政府・県当局による軍民一体体制の構築、戦争批判者の排除)、沖縄住民の被害、さらには沖縄住民の中における加害と被害(沖縄出身日本兵も時には住民にとっては加害者であった)、日本人による加害と朝鮮人の被害、「慰安婦」の被害など、加害と被害の重層性・複層性を描き出している。また、単に一部の「悪い」日本兵が一般住民を酷使・虐待したという捉え方ではなく、国際的な規範から逸脱し、捕虜になれない日本軍という自縄自縛のシステムと、日中戦争における日本軍による残虐行為(捕虜や一般住民の殺害、略奪・性暴力)の裏返しとしての敵観念(米軍も同じことをやるに違いないという誤認知)が、日本軍兵士たちを住民抑圧の加害者にしていったという加害と被害の構造を明らかにしている。

 本書は、著者による長年の沖縄戦研究、戦争の加害と被害についての研究の「まとめ」という役割を担っているものであろう。沖縄戦について考えたい、学びたい、あるいは戦争とはどのようなものであるか考えたい、学びたいと思う人には、ぜひ本書を手に取ることをお勧めしたい。前述したように、本書は、これまでの著者自身の沖縄戦研究だけでなく、多岐にわたる沖縄研究・戦争研究に支えられたものであるので、戦争について、沖縄戦について、沖縄についてさらに深く学ぼうと思っている人にも、本書は格好の道案内、問題別のインデックスとなるであろう。

 おそらく著者が、本書をこの時期に執筆、刊行したのは、2025年が「戦後80年」という節目にあたり、過去の戦争に関する振り返りが行われることを予期したからであろう。そして、長年にわたって沖縄そのものをウオッチしてきた著者は、沖縄の現在の姿に大きな危惧を抱いているからだと思う。かつて、「本土決戦」準備の「捨て石」とされて、20万人もの犠牲者を出した沖縄が、現在、日米安保体制のもとで軍備拡張と国際的な緊張の最前線となっている。「台湾有事」なるものが喧伝され、沖縄の島々にスタンド・オフ・ミサイルをはじめとする「抑止力」を担う部隊が配備されつつある。軍拡には軍拡で、軍事力の展開には軍事力の展開で対抗しようというパワーポリティクスそのものの動きが強まる中で、沖縄戦の歴史から世界と日本の政治が、世界と日本の市民が深く学んで教訓を汲み取って欲しい、そうしなければ、「20万人の犠牲」の存在を私たちは生かせないのではないか、そうした著者の思いが強く伝わってくる、実に読み応えのある一冊である。

(「世界史の眼」No.68)

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書評:アンドリュー・リース著、鹿住大助訳『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)
菅原未宇

 本書は「ミネルヴァ世界史<翻訳>ライブラリー」の一書として、オクスフォード大学出版局から出版されたNew Oxford World Historyシリーズのうち2015年に刊行されたThe City: A World Historyを翻訳したものである。著者のアンドリュー・リースはアメリカの近現代ドイツ社会史、思想史、都市史研究者である。

 第1章「初期都市の起源と位置」の冒頭で著者は、歴史上長きにわたり相対的に少数の人口を擁したに過ぎない都市が、社会に深い影響を与え、人類史の決定要因となってきたと述べ、都市の世界史を語る意義を示す。最初期の都市は紀元前4000年紀半ば、都市形成の前提条件である余剰食糧の生産地域から近く、水利に恵まれたメソポタミアに出現した。次いでその影響を受けながら、それぞれ異なる特徴を有した都市がエジプト、インダス渓谷に建設された。独自の都市化が起こった中国では、紀元前3000年頃に都市の出現が見られ、紀元前500年頃までに、人口10万人超の都市が少なくとも四つ存在するという、同時代の他地域では見られない状況を呈した。中央アメリカにおいても都市ネットワークの建設が確認できるが、そのほかのほとんどの地域において都市はまだまれな現象であった。

 第2章「大都市」では、紀元前500年から紀元300年にかけて都市文明の繁栄を見た地中海沿岸都市が主として論じられる。中でも、政治制度や建築、文化の面で独創性を示したアテネ、ヘレニズム世界の文化的中心となったアレクサンドリア、世界史上最初の巨大都市といえるローマについて考察がなされた。ローマ人の手で、帝国内の各地にローマ同様の公共建築を備えた都市が築かれたこと、同時代にはそのほか、パータリプトラや長安、洛陽といった王国の首都が、ギリシア・ローマの影響圏の外に発達したことも記される。

 第3章「衰退と発展」では、西欧が西ローマ帝国の崩壊による都市の衰退とその後の再発展を経験する4世紀から15世紀までの世界各地の都市の展開を跡付ける。当該時期前半、11世紀までのヨーロッパにおいて都市の活力を牽引したのはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルであった。アジアとヨーロッパ、地中海と黒海を結ぶ国際商業網の要に位置したことが、その繁栄の鍵であった。同様に、首都という政治的地位と大陸間貿易の経路という地理的条件によって発達を遂げたのは、8世紀後半にアッバース朝カリフによって築かれたバグダードである。中国では行政中心地を主な核として都市網が形成され、長安、南京、大都といった時の帝国の首都がその頂点に位置した。アメリカ大陸においては、14世紀にアステカ帝国の首都として建設されたテノチティトランが、15世紀末までに西半球最大の都市に発展した。これら大国の首都として整備された都市と異なり、当該時期後半に再発展を遂げた西欧都市は、個人の居住選択の結果出現したという特徴があった。そのほか日本、カンボジア、西アフリカで都市の発生が見られた。

 第4章「首都、文化、植民地化、革命」は、16世紀から18世紀までの都市を検討対象とする。近世ヨーロッパでは、政治的中央集権化の結果、首都の急拡大が見られ、とりわけ北西部において急速に都市化が進展した。アジアでは、進出してきたヨーロッパ人との交易も部分的には寄与したが、多くはそれぞれの地域内の要因により都市化が進展し、例えば大名による城下町の建設によって日本における都市部の人口割合は増大した。中でも行政の中心地たる江戸は文化的消費の中心地としても繁栄を極めた。他方、アメリカ大陸においてはヨーロッパ人による植民都市建設が都市化を主導した。中でも18世紀第四四半期に英語圏で二番目の大都市となったフィラデルフィアは、公共圏の成立を背景にアメリカ独立運動の主たる原動力となった。社会的格差などの問題を孕みつつ巨大都市となったパリとロンドンにおいてはすでに同様の公共圏の発達が生じており、アメリカ独立に力づけられた人々は、パリでは革命を成し遂げ、ロンドンでは急進主義組織の活動を通じて民主主義の拡散を図った。

 第5章「工業化時代における都市の成長とその結果」は、世界大戦勃発までの長い19世紀の都市について考察する。新たな国民国家の樹立による行政の中央集権化と産業革命の結果、都市への人口集中が生じた。工場での高生産性を担保するのは蒸気機関という新たな動力源や機械の導入だけではなく、多数の労働者の工場近くへの居住でもあったからだ。機械化された輸送手段の登場は農村から都市への移住も促すことになった。過密に伴う公衆衛生上および道徳上の懸念から、都市環境の改良を目指した民間団体による事業が活発化した一方、権限強化された地方自治体の主導で、19世紀半ばから20世紀初めにかけてヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で衛生面を中心にインフラ整備が進められた。加えて、百貨店やミュージックホールなどの文化的インフラが大衆消費市場の力で生み出され、これらは都市の魅力、都市生活への愛着を強化することになった。

 第6章「植民都市」は、第5章と同時期の帝国主義支配下に置かれた地域の都市について論じる。ヨーロッパ列強の直接的支配が及んだ南アジア、東アジア、東南アジア、アフリカの都市は、支配権力を象徴する公共建築物の存在といった共通点を持ちつつ、住民のほとんどがヨーロッパ人の場合と、非白人である場合(その多くが植民地化以前に歴史を持つ古い都市)とで、設計や政治制度などの点で異なる特徴を有することになった。後者においては、同時代のヨーロッパでは許容されなくなりつつあった非民主的な統治が行われた。権威主義的体制の下で公衆衛生の改善はあまり進まなかったが、こうした試みの中で西洋人と地元民の居住地を分離する人種隔離政策が提案され、いくつかの都市でそれが実行に移されていく。いずれにせよ宗主国の支配の確立、維持のための拠点として都市が重要な役割を果たし、ヨーロッパの都市、植民地の都市、後背地の間で以前にも増して緊密な関係が形成されることになったが、そのネットワークは帝国主義の打倒を目指す運動にも力を与えることになった。

 第7章「破壊と再建」は、世界大戦勃発から戦後復興期にかけての都市について検討する。総力戦による困難に直面し不満を抱えた人々を懐柔し秩序を維持するため、国家や自治体は以前にも増して社会への介入を強めた。しかしペトログラードでは革命が勃発し、その後の内戦を経て生まれたソヴィエト連邦の領域では、急速な工業化とそれに伴う都市化が進んだ。アメリカの都市などの例外を除き、第二次世界大戦がもたらす暴力と無秩序は、それまでの戦争と比べてもはるかに壊滅的な被害を都市居住者に与えることになった。戦後、西側東側問わず、都市部の再建が政府の最重要課題として推進されていく。

 第8章「一九五〇年以降の都市の衰退と成長」は、20世紀後半から今世紀初頭にかけての都市の変遷を跡付ける。この時期、脱工業化と都市郊外化により衰退する都市が欧米で見られた一方、都市化が急速に進展したアジアやアフリカで、上海やラゴスといった巨大都市が出現した。この要因は公衆衛生の改善による自然増と農村から都市への人口移動であり、後者は教育を通じた若者の啓発やマスメディアを通じた都市生活の喧伝によって促されていた。また、摩天楼の建設も都市居住者の急拡大を可能にした。これら開発途上国の都市を中心に、スラムや大気汚染などの課題が今なお山積しているが、他方、都市はそうした問題の解決が模索され未来が形作られる場でもあると締めくくられる。

 以上概観してきたが、評者の考える本書の意義は、同時代の世界史的状況の中に各地の都市形成や発展を位置付けているという点にある。例えば、紀元前3世紀に35万人ほどの住民を擁したパータリプトラが同時代のローマと同程度の規模だったと述べる(p. 42)一方、その後紀元2世紀までに後者の人口は少なくとも70万人に達し、世界史における最初の巨大都市となったという評価を与える(pp. 33-34)。このように本書は随所で様々な都市の推計人口を示しつつ共時的、通時的な比較を提示しており、評者のように個別都市の実証研究を行っている者の目を開いてくれるように思われる。

 ただ本書が、シリーズの巻頭言で掲げられるヨーロッパ中心的な発展段階の叙述ではない新しい世界史叙述の試みとなっているかどうかと問われると、その点はやや心許なく感じた。例えば章別編成について、第3章からは明らかであるが、西洋史の時代区分を踏襲しているように思われる。その結果、15世紀末までに都市化が進んだ中国の都市人口はヨーロッパのそれよりも多く、1800年当時、北京は恐らく世界最大の都市であった(p. 81)と指摘しながら、第3章、第4章でのそれぞれ分散した言及に留まり、大都から北京への都市発展の筋道立った叙述が提示されないという憾みが残る。ほかにも、植民都市を考察する第6章において(前後の章では日本の事例が考察されているにもかかわらず)、大日本帝国の植民地ないし居留地についての言及は皆無であるが、仮にそうした議論が加わっていれば、この章でもっぱら対象となっているヨーロッパ列強による植民都市のあり方を相対化する叙述になり得たのではなかろうか。

 もっとも、たとえ上述の指摘が妥当だとしても、都市を主題とする世界史叙述を日本語で世に問うた本書の価値は揺らぐものではない。都市史研究者はもちろん、日本史と世界史の共時性に関心を持つ教育者にも一読をお勧めする。

(「世界史の眼」No.67)

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書評:鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』中公新書、2025年
野村真理

 本書の図0-1「ユダヤ人が拠点とした都市間ネットワークや移民の動き」を見ればわかるように、彼らの足跡は世界各地におよび、3000年にわたるユダヤ人の歴史を語ることは、ほとんど世界歴史を語るに等しい。私の場合、近現代ヨーロッパの歴史であればほぼ頭に入っているが、同じヨーロッパでもそれ以外の時代や、ヨーロッパ以外の地域の歴史となると断片的な知識しかなく、その知識も、大昔に高校世界史を学んで以後、どこまでリニューアルされているか怪しい。たとえば本書の第2章第2節「イスラーム世界での繁栄」を読むにあたって、ササン朝、ウマイヤ朝、アッバース朝とはどのような王朝であったかと、ヴィキペディアを読み始めたりしようものなら、新書一冊を読み終えるのにとんでもない日数を要する。この点、著者の鶴見氏は「まえがき」で、「本書は、世界史やユダヤ教に関する予備知識なしでも通読できるように書かれている」(iv)と謳っているが、実際、いちいち細かいことを気にしなければ、予備知識がなくてもそれほどストレスを感じることなく通読できるように配慮ある書き方がされており、この点、見事というしかない。

 またユダヤ人は、古代の一時期を除き、彼らが活動した大半の地域においてマイノリティであり、その地域の歴史の規定者ではなかった。著者は、歴史は諸状況の「組み合わせ」の変化であるととらえ、マイノリティであるユダヤ人の歴史の見どころは、彼らが与えられた組み合わせに対し、いかにみずからを「カスタマイズ」することに成功したか、あるいはカスタマイズに成功したがゆえに、その組み合わせが変わったとき、いかなる悲劇に見舞われたかを検証することだという。歴史社会学者ならではの(?)「組み合わせ」や「カスタマイズ」という語が目新しいが、それによってユダヤ人の歴史の新しい語り方が示されたわけではない。これまで職業歴史家が「諸関係」とか、「適応/変容」その他の語を用いて語ってきたことと内容的には同じである。しかし、それを「組み合わせ」や「カスタマイズ」ということで、著者は一般読者に対して読書のハードルを下げることに成功した。ほかにも意図的に口語的表現を織り交ぜ叙述を軽くするなど、高校生にも読める本にしようとする著者の工夫が感じられる。

 さて、世界歴史を語るに等しいといっても、古代から現代まで、それぞれの時代でユダヤ人が経済的にそれなりの影響力を持ち、また彼ら自身の文化が発展をとげた地域というのはあり、その地域の時系列的移動に対応して、本書は、第1章の主たる舞台は歴史的パレスチナ(現在パレスチナと呼ばれている地域と区別し、オスマン帝国時代に大シリアの一部と認識されていたパレスチナをさしてこの語を使用する)、第2章は西アジア、イベリア半島、ドイツ、第3章はオランダ、オスマン帝国、ポーランド、第4章はロシア/ソ連を含むヨーロッパ、第5章はパレスチナ、アメリカと、ユダヤ人の歴史を語る書物ではほぼ定番といえる構成をとっている。

 そのさい本書の特徴は、著者が専門とする近現代ロシア/ソ連にかかわる記述が手厚いことだ(第4章第2節と第3節、第5章第1節)。20世紀はじめのロシア帝国は、現在の国名でいえばリトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァその他をカバーし、1900年の時点で、世界のユダヤ人人口の約半数に相当する520万人がロシア帝国に暮らしていた(175頁および図4-1)。古代の歴史的パレスチナを発祥地とするユダヤ人は、ローマ帝国時代に帝国の支配がおよんだ現在のフランスやドイツへと居住地域を広げるが、十字軍時代に迫害の激化に押されて東進を開始し、ヨーロッパのユダヤ人人口の重心は、16世紀にはポーランド・リトアニア国の版図へと移動した(第3章第2節)。日本は『アンネの日記』が最もよく読まれている国の一つであり、ホロコーストに対する関心は低くはないと思われるが、推定600万人にのぼるホロコーストの犠牲者の多くが、アンネが生まれたドイツではなく、上記の520万人から出たことはどの程度知られているのだろうか(図4-4)。ロシア帝国末期のウクライナ南部や、現在のモルドヴァの首都キシナウ(キシニョフ)でのポグロム、ロシア1905年革命後のユダヤ人の政治参加や、1917年のロシア革命後、内戦期のウクライナで猖獗をきわめたポグロムと「想像の民族対立」(202頁)など、一般読者に対し、これら520万のユダヤ人の歴史への着目を促したことの意義は大きい。

 しかし、そうであればこそ、新書という紙幅の制限があるにしても、520万のユダヤ人のうちの300万人以上が暮らした両大戦間期ポーランドの記述には少々不満が残る。著者、鶴見氏が本書でも、他の諸論考でも繰り返される持論は、シオニストにおいて、1917年のロシア革命後の内戦期ポグロムとパレスチナのアラブ人によるユダヤ人襲撃との観念的同定が、彼らにアラブ人との共生の可能性に見切りをつけさせ、アラブ人に対する彼らの態度を敵対的な方向で過激化させたということである(250頁)。だが、それをいうのであれば、両大戦間期ポーランドの「想像」ではない少数民族としてのユダヤ人が体験した迫害とナクバ(イスラエル建国の年1948年に起こったパレスチナ人の虐殺、追放/逃走)とのねじれた関係にも踏み込んでほしかった。というより、踏み込まなければ、提供される歴史的知識は偏ったものとなる。

 第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドは、本書にも書かれているとおり(216-217頁)、人口の3分の1をウクライナ人やユダヤ人その他が占める多民族国家であったが、「ポーランド人のポーランド」を希求してウクライナ人の民族的権利要求を弾圧し、経済活動や大学等におけるユダヤ人差別も苛烈だった。ポーランドにとってユダヤ人は、できればどこかに出て行ってほしい人々であり、ここに、ユダヤ人のパレスチナ移住を促進したいシオニストとユダヤ人を排除したいポーランド国家とのねじれた利害の一致が生じる。パレスチナでは、1920年、1921年、1929年、1936年から39年と、ユダヤ人やパレスチナを委任統治するイギリスに対してアラブ人の襲撃が規模を拡大しながら続いたが、ポーランドで活動する修正主義シオニスト(252頁)の青年組織ベタルのメンバーに対し、ユダヤ人国家の設立を阻害するアラブ人やイギリスと戦うための軍事訓練を提供したのはポーランド軍だった。ウクライナ人によるテロ行為の頻発など、両大戦間期ポーランドの少数民族問題の先鋭化を身に染みて知る修正主義シオニストは、将来のユダヤ人国家で発生が予測されるアラブ人問題をけっして過小評価してはいなかった。そのさい修正主義シオニストが模倣したのは、民族の浄化を志向するポーランドの排他的ナショナリズムであり、1948年のナクバにおいて、修正主義シオニストの軍事組織イルグン(252頁)やベダルのメンバーは、ユダヤ人国家となるべき土地にいるアラブ人に対して民族浄化を率先した。現在のイスラエルでネタニヤフが率いるリクードは、修正主義シオニズムの系譜に連なる政党である。

 大型書店に行くと、ウクライナ・コーナーとパレスチナ・コーナーがあり、パレスチナ・コーナーに本書が平積みしてあった。数多の学術賞の受賞に輝く鶴見氏の知名度の高さもあり、よく売れているようだ。ウクライナにしても、ユダヤ人にしても、その歴史に注目が集まるきっかけが戦争というのは複雑な気持ちだが、ユダヤ人については陰謀論めいた「トンデモ本」も少なくないなか、本書のような堅実な歴史書が一般読者の手に渡るのは、ユダヤ人の歴史研究に携わる者の一人として喜ばしい。鶴見氏の記述に注文をつけたが、本来、ポーランドのユダヤ人の問題は、ポーランド史の研究者によってきっちりと探求されるべき事柄である。しかし、日本にはポーランド史を専攻する研究者は少なく、ましてユダヤ人の歴史の専門研究者となると数えるほどしかいない。本書の若き読者のなかから、東欧・ロシアの520万ユダヤ人の歴史に興味を持つ人が現れるようにと願ってやまない。

(「世界史の眼」No.64)

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帝国対民主主義の今日―ガザの危機
パトリック・マニング(南塚信吾訳)

新しい帝国―合衆国とイスラエル

 第二次世界大戦後、帝国は徐々に消滅してきた。140カ国が植民地支配から独立を勝ち取った。しかし、帝国を築く2つの動きがあった。イスラエルは1948年の独立以来、パレスチナ人を追放し、抑圧し続けた。1980年までにイスラエルは帝国となり、中東を支配しようとしてきた。一方、アメリカ合衆国は、1981年のロナルド・レーガン政権以降、核兵器の増強、多くの国での戦争、イスラエルとの緊密な同盟関係によって、「西洋文明」の夢を掲げつつ、過去の帝国を再び確認してきた。イスラエルとアメリカ合衆国はともに、植民地支配の廃止を支持する強い民主主義の伝統を持っていたが、多数派になることはできなかった。

 イスラエルと米国の指導者たちは、特に2000年以降、中東における産軍支配を目的とした戦略で一致してきた。米国はさらに、世界的な支配も追求してきた。米国は国連への参加を徐々に縮小し、安全保障理事会での決議の拒否権行使を除いては、ほとんど参加しなくなった。一方、イスラエルは主に、パレスチナ人を抑圧しているとの非難を否定するため、国連に残って活動を続けてきた。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領の時代、この二つの同盟帝国はそれぞれより強硬な措置を講じ、世界における優位性を主張した。米国はニューヨークとワシントンでの9・11テロ攻撃の後、イラクとアフガニスタンへの侵攻を行い、イスラエルはガザでの反乱に対する抑圧を強化した。

 米=イスラエル同盟は、政治的・社会的な不平等を強化し、税金を秘密裏の攻撃や終わりのないプロパガンダに流用している。米国は環境改革を無視し、一方イスラエルはパレスチナ人への対応において「環境アパルトヘイト」と非難されている。

 それでも、米国とイスラエルにおいて、民主的かつ反帝国主義的な勢力が権力を掌握する可能性はゼロではなかった。

グローバル・デモクラシーとその戦略

 グローバル・デモクラシーの運動は、脱植民地化と国民レベルでの平等を目的としている。つまり、各国家の自由と、国家内におけるすべての人の権利である。国連の南アフリカにおける多数派政府樹立に向けた長期的なキャンペーンは1992年までに成功したが、パレスチナ国民の国家の樹立に向けた長期的なキャンペーンは未だ成功していない。ただし、パレスチナは138カ国から承認されている。

 国連において、各国代表は、各国と世界の福祉に関する広範な合意と関心を築きあげ、それには環境改革への広範な要望をも含ませている。彼らは、米国と他の4カ国が拒否権によって安全保障理事会の行動を阻止する拒否権の廃止を求めている。グローバル・デモクラシーと提携して大国になろうとする野心的な国々がある。それは、中国、ロシア、トルコ、フランスであり、そして時折インドが含まれる。

 国連以外では、グローバル・デモクラシー運動は、天安門、南アフリカと西アフリカ、東欧などでのデモのように、世界的なデモを通じて平等を支援する取り組みを行ってきた。真実と和解委員会は、数多くの国で紛争の解決を目指してきた。グローバルな大衆カルチャー、特にスポーツは、伝統の広範な共有を促進した。世界的なデモは、2003年のイラク侵攻に反対し、2020年にはジョージ・フロイドの記憶を偲び、差別撤廃を訴えた。特に強力な反対運動はジェノサイドへの反対であり、ごく最近ではイスラエルに対するジェノサイド訴追がある。

産軍の戦略

 推計によると、米国は2023年10月以降、イスラエルへの軍事援助を年間$200億以上増加させた。この間、米国は世界中に基地と艦隊を維持している。これには、2007年に設立されたアフリカ司令部が含まれ、これはアフリカと西アジアで定期的な攻撃を実施し、アラブや他の敵対勢力の機関を弱体化させるための秘密プログラムを維持している。

 イスラエルは植民地時代からパレスチナ指導者を暗殺してきた——この政策は2000年に拡大した際に、正式に発表された。2002年以降、米国は、パキスタンや中東だけでなく、アフリカにおいても、同様の暗殺を小規模ながら実施してきた。これらの標的殺害のほかにも、イスラエルの占領下パレスチナへの入植は、西岸地区の併合の基盤を築いてきた。このやり口に関連するイスラエルの宣伝活動は、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)に対する攻撃をでっち上げたり、米国議会議員がイスラエルの政策を支持するように政治献金をしたり、イスラエルの帝国主義を批判する者を「反ユダヤ主義」とレッテル貼りして歴史を改竄するまで多岐にわたっている。

 さらに、1980年以降のイスラエルの核ミサイル生産によって、100基を大幅に上回るミサイルが備蓄されるに至っていて、それらは主にテヘランを標的としている。

歴史の教訓―帝国の征服対世界戦争

 ナポレオン・ボナパルトは、1790年代の革命期フランスで最も成功した将軍として権力を掌握し、それから、世界支配の夢を抱いて帝国を築いた。彼は10年間その地位を維持したが、1814年にはその戦略は失敗した。それは、ヨーロッパのなかのあまりに多くの他の指導者たちや一般市民が彼に反対したためである。その後は、各国の統治者は、一度に一地域ずつ征服することによって帝国を拡大しようと試み、しばしば成功を収めた。

 イギリスとフランスは巨大な帝国を築き、ドイツ、日本、アメリカは世界大国となった。しかし、2つの大きな場合に、戦争が制御不能になった。第一次世界大戦では、大国間の戦争が莫大なコストを要したため、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ロシアの各帝国が崩壊し、その植民地15カ国が独立を勝ち取った。第二次世界大戦では、ドイツ、日本、イタリアが主導した限定戦争が世界規模に拡大した。戦後、勝利した帝国もほとんどの植民地を手放さざるを得なかったが、パレスチナは例外であった(イスラエルは1948年にイギリスから独立したが、イギリスとイスラエルはパレスチナの独立を認めなかった)。

 イスラエルの現在の戦争——パレスチナを破壊し、中東を支配するための戦争——は、制御不能になり、世界大戦に発展する可能性が高い。グローバルな民主主義は、そのようなエスカレーションを阻止するために介入できるだろうか?

現在の争い

 2025年1月、停戦合意により、ガザの住民数千人が破壊された自宅の残骸に戻ることができた。人質交換が行われ、国連難民救済事業機関(UNRWA)が食料と物資の配給を実施した。しかし、数ヶ月後、イスラエルは停戦合意の第二段階を実施せず、UNRWAを退去させ、ガザでの食料と物資の配給をすべて停止した。イスラエルは3月18日にガザ爆撃を再開し、その後の2ヶ月間で5,500人が死亡したと報告されている。

 パレスチナ人が飢餓に直面する中、イスラエルと米国は「ガザ人道支援組織」という民間企業を設立し、5月26日からハマース反対派と分類された人々に対し、少量の水と食料を配布した。6月1日、フリーダム・フロティラ連合(=国際的な人権活動家のNGO)は、イギリス旗を掲げた船舶「マドリーン」に食料と医療物資を積んで、シチリアからガザへ向けて出航させた。乗組員12名には活動家のグレタ・トゥンベリが含まれていた。6月9日、イスラエル軍艦が同船と乗組員を拘束した。同様に、6月15日から17日にかけて予定されていた「グローバル・マーチ・トゥ・ガザ」は、カイロを経由してガザを目指す予定だったが、エジプトの治安部隊がグループを停止させ、解散させてしまった。

 6月12日、国連総会(UNGA)は、ガザでの停戦に関する新たな決議を採択した。この決議は、193カ国中149カ国の支持を得た一方、反対は12カ国(=米国、イスラエルなど)に留まりまった(これは、ニューヨークでの計画されていたガザに関する会議直前のことであった。この会議では、フランスとサウジアラビアが、いくつかの国にパレスチナを外交的に承認するよう促そうとしていたのだった)。

 6月13日、イスラエルはイランの原子力施設とテヘランに対して大規模な攻撃を仕掛け、科学者や将軍を殺害した。6月13日は重要な日であった。攻撃は、その日イタリアで開幕したG7会議の議題を揺り動かした。また「マドリーン」と「グローバル・マーチ」(=児童労働に反対する運動)に対するメディアの注目も途絶えさせた。さらにこれは、国連総会決議に対するイスラエルの反応であり、6月17日から20日にニューヨークで開催予定だった会議(=ニューヨークの国連本部で2国家共存による中東和平を目指す国際会議が予定されていた)を「延期」させた。しかし、最も重要なことは、イランへの爆撃によって、4月から続いていた米国とイランの核平和に関する協議が中断されたことである。ドナルド・トランプは、イランへの爆撃について、米国による海外での戦争に反対するという彼の長年の立場に反するにもかかわらず、突然、イスラエルを支持するよう迫られたのだった。

明日―民主主義か世界戦争か

 米国とイスラエルは現在、深刻な孤立状態に陥っている。G7加盟国と欧州諸国は、国内の反対意見の高まりを受けて、イスラエルの戦争から手を引きつつある。BRICS諸国(インドを除く)はイスラエルの攻撃に反対している。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアの諸国における市民運動は、自国政府に対し、イスラエルにより強硬な姿勢を取るよう圧力をかけている。米国市民の世論はガザとイランへの攻撃に反対しているが、米国政府によるイスラエルへの支援はさらに強化されている。そして、6月22日、米国はイスラエルのイランに対する空爆作戦に参加した。トランプ大統領は、おそらくネタニヤフ首相からの迅速な行動を求める圧力に直面していたため、ナタンズ、フォルドゥ、イスファハンにあるイランの核施設に対する空爆を命じた。

 イラン攻撃において、トランプはガザのことを忘れてしまった。ジェノサイドによる民族抑圧と大国間対立との複雑な結びつきは、突然の変化の余地を多く残している*。実際、米国とイスラエルに対する真の反対は、イランの防衛からではなく、ジェノサイドへの反対とパレスチナの独立支持から来るのである。このような反対は、世界中で明確に表れている。それは公けのデモを通じてだけでなく、国連、G7、国際司法裁判所のような公式機関を通じても出てくるのである。

 私は、米国とイスラエルが最終的にはパレスチナの国家独立とイランとの平和を受け入れるだろうと信じている。その方法は、民主的な変化を通じてなのか、世界大戦を通じてなのかは分からない。いずれにせよ、ガザでの殺戮の全記録は、次第に国際社会から孤立する両「帝国」を、国際社会へ再加盟させることになるであろう。だが、これには、国際司法裁判所によるジェノサイドに関する判断を受け入れるだけでなく、グローバル・デモクラシーのより広範な原則を完全に受け入れ、大事にすることが必要となるであろう。

出典:
Patrick Manning, Empire vs. Democracy Today: The Crisis of Gaza
(Contending Voice 2025年6月24日)
https://patrickmanningworldhistorian.com/blog/empire-vs-democracy-today-the-crisis-of-gaza/

マニング氏から翻訳・掲載の許可を得てある。ただし、その後、本人からの連絡により、一部を修正してある。

*このところが不分明であったので、著者に意味を問い合わせたところ、ここでは、いくつかのことを指摘しようとしていると言う。その一つは、トランプはイラン爆撃に熱中してガザの事を本当に忘れてしまったのだという事。第二に、トランプは2セットの矛盾した目標を持っているという事。つまり、イスラエルの求めるようにガザその他のパレスチナ人を絶滅させることと、パレスチナの和平を実現すること、および、同じくイスラエルの求めるようにイランを破壊することと、イランの和平を実現することである。第三に、国連やその他の国が介入して来るかもしれないという事。とくに、ロシアと中国とパキスタンが(方法は不明だが)核兵器をイランに提供するかもしれない。こういうことがあるので、状況は不安定で突然変化が起こるかもしれないと言うのである。

(「世界史の眼」No.64)

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伊集院立さんの想い出
松本通孝

 2024年の年も押し迫った12月末、突然伊集院さんが亡くなられたというメールを受け取りました。奥様が亡くなられてから数年間、音信不通になっていましたが、やっと開通できたと思ったメールが、彼の他界のお報せでした。

 彼と私は、年は同じで、彼は一浪、私は一年留年しておりましたので、史学科西洋史で卒業年度は一緒でした。しかし学生時代の想い出は殆どありません。一つだけ、うろ覚えですが、そのころ存在していた東大歴研が明治100年をどうとらえるかというシンポジウムを企画した時、彼と二人でシンポジウムでの講演をお頼みするため、犬丸義一さんの家に依頼に行ったことがかすかに記憶に残っています。ただ、講演・シンポに関しては、まったく記憶がありませんので、彼がどのような役割をしていたかは不明です。

 その後、私は、高校の教師として歴史教育の方面に進路を決めましたので、以後のお付き合いは年賀状以外全くなくなりました。

 1970年代の半ば、私が高校の世界史教師として夢中になっていたころ、突然彼から電話がありまして、中村義さんらと中高生向けの人名事典を企画しているのだけど、教育現場の立場で協力してもらえないかとの誘いでした。歴史関係だけでなく、文学、科学、芸術、芸能、スポーツなどに及ぶ総合的な事典の企画でしたが、私は、自分の授業に絶対にプラスになると思い、二つ返事でお引き受けしました。2~3年かかったと思いますが、本当に楽しい編集委員会で、伊集院さんには本当に感謝しております。出来上がった本は、中村義ほか編『コンサイス学習人名事典』三省堂、1978年でした。中高生向けの事典でしたので、短い説明文の中にできるだけエピソードを盛り込むようにという方針で、これは、私が普段の授業で生徒たちに話す余談の貴重なネタになりました。伊集院さんには本当に感謝しております。

 それからしばらくして、1982年ころ、西川正雄さん、吉田悟郎さんらが中心となって比較史・比較歴史教育研究会が発足した時、私は事務局の仕事を手伝うという立場で参加しておりましたが、伊集院さんはその会のメンバーの一人で数回の東アジアシンポの報告者としても活躍されていたと思います。私は裏方でしたので、彼の報告は聞いておりません。シンポジウムの報告集を出すときにも、彼は中心メンバーの一人として活躍されていたと思います。

 時代的には併行しますが、1989年、99年に高等学校の学習指導要領が改訂され、社会科解体、世界史はAとBの教科書が作られるようになりました。この時は、三省堂から西川さんに依頼があり、高校現場から私を含め3名が編集執筆委員として参加することになりました。この教科書は、戦後史を3章立てにし(普通は2章)、しかも今までの西洋中心、中国中心の傾向を打ち破るため、大国の周辺からの叙述を狙った画期的な教科書でしたが、現場の高校の先生方には受け入れられず、結果的には失敗に終わってしまいました。この教科書で近代ヨーロッパを担当されたのが伊集院さんで、西川さんからの難しい要望に頭を悩ましていた姿を思い出します。

 その後も、西川グループの企画は続き、2006年には歴史学研究会編『世界史史料』全12巻(岩波書店)の刊行を開始し始めました。この企画は10年以上に及ぶ企画で、その途中で西川さんが病に倒れ、この仕事を引き継いだのが伊集院さんでした。この仕事は、直接的には各巻の責任者が執筆者への依頼、原稿集め等を分担するのですが、その総責任者が突然伊集院さんになったのです。彼の悩みはいかばかりであったことか、とにかく2012年7月、最後に残っていた第1巻の刊行が終わり、準備期間を含めると10年近くに及ぶ企画は無事終了しました。西川さん時代からの淡い希望であった、もし売れ行きが良かったら、高校生向けに本格的な史料集を出したいなーという夢は、いまだもって実現されていません。伊集院さんは、その後も高校の歴史教育関係の研究会に顔を出し、いずれ実現したいと思われていたと推察しますが、彼の遺志を継ぐ動きは、今のところ出てきていません。

 そのような中で、彼が晩年に取り組んでいたのは、明治以来の歴史教科書の系譜をたどる作業であったように思われます。万国史以来の日本における外国史の受け入れ、日本独自の歴史教育への道の探究に関心を持たれていたようです。それゆえ、歴教協の東京部会の例会にもたびたび顔を出されるようになり、帰る間際になって、ニコッと微笑みながら、難解な問題提起をされ、参加者の皆さんをけむに巻いて、私と一緒に新大塚の駅まで冗談を言いながら一緒に歩いたのが、最後になってしまったなーと、今さらながら残念に思い、彼の生前を偲ぶ次第です。

2025年4月

(「世界史の眼」No.63)

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伊集院さんの仕事を振り返る
南塚信吾

 伊集院立さんが、2024年12月に亡くなった。81歳であった。伊集院さんを偲んで、かれの仕事を簡単に一覧し、そのあと、わたしが一番興味を持っている「万国史」に関係したかれの論文の紹介をしてみたい。

1.伊集院さんの研究の歩み

 伊集院さんは、私と高等学校が同じ(かれが1年下)で、最後はともに法政大学にいたことから、なんとなく親しい間柄であった。かれは学生時代からファシズム、ナチズム、そしてとくにナチスの農民・農業政策に関心を持ち、地道な研究を続けてきた。かれの史料を重視した研究は他人を寄せ付けないものがあった。かれは、ナチスが権力を握った一つの重要な要素は、ワイマル期のドイツにおけるエリートに反発した大衆を巧みに捉まえたところにあるとみて、農民・農業政策の研究でもそれを根底においていたように思う。それと並行して、かれは西川正雄さんを助けるように、比較史・比較教育史の研究に伴走し、また、西川さんを助けて、世界史の史料集の編纂にエネルギーを注いできた(歴史学研究会編『世界史史料』岩波書店, 2006―2013年)。そのような伊集院さんは、2005年に発足した私たちの「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」研究会では、新しい挑戦をしていた。それはドイツ国民国家を考え直す仕事であり、市民社会におけるエスニシティの問題の追及であった。後者はやや未消化であったが、いまから考えるとかれの最後の挑戦であったわけである。

 伊集院さんはまだやり残した仕事もあったのではないかと思われるが、われわれに課題を残していったのかもしれない。

 ご冥福を祈る次第である。

***

 伊集院さんの主な仕事の一覧は以下のとおりである。

1)ファシズムとナチスの農業政策

「ワイマル共和制からファシズムへの移行」『世界史における1930年代―現代史シンポジウム―』青木書店 1971年
「相対的安定期末のドイツ共産党党内論争」『階級闘争の歴史と理論』第3巻 青木書店 1980年
「ファシズムの台頭」『西洋の歴史―近現代編―』ミネルヴァ書房 1987年
「ナチスと農村同盟の地域支配1930-1932」 茨城大学教養部 『紀要』 (20) 1988年  
「ヴァルター・ダレーとヴィルヘルム・ケプラー 1932年ナチ党内における農業派と工業派の角逐」『史学雑誌』 第98篇(3号) 1989年  
「ナチスの農村労働者政策(1930~32年)」 『大原社会問題研究所雑誌』378号 1990年  
「ナチズム 民族・運動・体制・国際秩序」『講座世界史6 必死の代案』 東京大学出版会 1995年
「ドイツ農村の変容とナチス ―ポメルンにおけるナチスの農村労働者政策―」 『社会労働研究』(法政大学社会学部) 第44巻(第3、4号) 1998年  
「ライン農民協会とラインラント農業界の保守的統合―1919~1920年―」『社会志林』 51(3) 2004年  
「ラインラントの農民協会とドイツ革命」『社会志林』 50(4) 2004年  

2)比較史・比較教育

「世界史のなかのヨーロッパ史」 『自国史と世界史』未来社 1985年
「自国へのリアリズムと他国へのリアリズム」 『アジアの「近代」と歴史教育』未来社 1991年
Nationalgeschichte und Universalgeschichte: Zweites Symposium zur ostasiatischen Geschichtserziehung,Internationale Schulbuchforschung: Zeitschrift des Georg-Eckert-Insitituts für Internationale Schulbuchforschung,  12(2) 1990年  
「文禄の役における「自国史と世界史」〜東アジア歴史教育シンポジウムから〜」 第3回韓・日歴史家會議「ナショナリズム:過去と現在」2003.10. 2003年 
「近代日本の世界史教科書における東洋史と世界史の叙述:歴史教育と歴史研究」 『社会志林』 56(1) 2009年  
History Education and Reconciliation : Comparative Perspectives on East Asia, Peter Lang 2012年 

3)新領域を求めて

『国民国家と市民社会』 有志舎 2012年
  「ドイツ国民国家形成とドイツ語の歴史」
  「市民社会とエスニシティの権利」
『われわれの歴史と歴史学』 有志舎 2012年 
  「「市民革命」と東アジア世界」
  「私の歴史彷徨記」

2.近代日本の世界史・東洋史教科書

 伊集院さんの歴史学界への貢献は、もちろんナチスの農業政策のついての一連の仕事にあるのではあるが、狭い専門分野以外での貢献の一つとして、かれの比較歴史教育の分野での仕事を上げることができる。そのような仕事の一つとして、かれの「近代日本の世界史教科書における東洋史と世界史の叙述:歴史教育と歴史研究」(『社会志林』 56(1) 2009年) をとりあげて、明治時代の世界史教育の取り組みの分析における、その意味を考えてみたい。

 この論文の構成は以下のようである。

 Ⅰ 幕末日本の世界史認識・東アジア認識の転換
 Ⅱ 明治日本に於ける世界史教育と東アジア世界という歴史意識
 Ⅲ 歴史教育におけるアジア主義の中国認識と朝鮮認識
 Ⅳ 明治初期の東洋史教育と自前の教科書の作成
 Ⅴ 日清戦争以降の東洋史の教科書
 Ⅵ 戦後の世界史教科書における東アジア世界の問題
 Ⅶ 「東アジア世界」という考え方の意味について

この論文は明治以来東洋史教育が世界史教育の中でどのように芽生え、発展し、どのような問題を抱えたのか、そしてその克服のためのどういう努力がなされてきたのかを探る、意欲的な議論を展開している。東洋史教育と世界史教育との斬り結びがテーマである。その議論は戦後現代にまで及んでいるのだが、中心は明治期にあるので、本稿では明治期を中心に取り上げることにする。

 さて、伊集院さんは、日本における世界史教育は1948年から始まったのではなく、明治期から行われていたと言い、「万国史」の教科書を取り上げている。これはその通りである。ただ、このテーマについては、当時すでに岡崎勝世『聖書vs世界史』(講談社現代新書、1996年)と、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成――「万国史」教科書の分析を通して」(増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年)が出ていたわけであるが、どうしたことか伊集院さんはこれらを見ていないようである。

 伊集院さんは、明治初期の万国史を中心とする世界史教育について、①欧米の成果を取り入れる形で、「万国史」として進められたこと、②この万国史は西洋の歴史であり、東洋史は含まれていなかったことを指摘している。その例として、ギゾー『欧羅巴文明史』やスウィントン『万国史要』が教科書として取り上げられていたことを挙げている。

 大きく言えばこれで間違いはない。しかし、岡崎さんや松本さんも指摘しているように、日露戦争までの明治期に限定しても、世界諸地域の歴史を並べるパーレイ風の万国史から文明の発展に貢献のあったヨーロッパを中心に見るスウィントン流の万国史へと変遷があり、前者においては、世界のあらゆる地域にそれなりの歴史が認められ、アジアの扱いもそれなりに意味のあるものであった。これが1880年代にスウィントン流の文明史的なものになり、アジアが後退していくのである。歴史の動きを主導するのは西洋で、それに関係のないアジアの国々は登場しなくなるのである。天野為之に言わせれば、「世界全体の発達に較著なる関係を及ぼさざるかぎりは」外されるのである。細かく見ると、伊集院さんの言うように「東洋史は含まれていなかった」というわけではない。世界全体の動きをリードする西洋の動きに関係のある限りで、アジアはピックアップされて世界史に組みこまれたのである。アジアに主体性がないという意味では、「含まれていなかった」のである。

 伊集院さんは、日清戦争前後にアジア主義が台頭して、世界史教育は変化したとして、万国史を離れて、東洋史という分野が自立してきたことをフォローしている。たしかにそうである。だが、これまた松本さんも指摘しているように、日清戦争前後のアジア主義の台頭を受けて、万国史においてもアジア・東方を重視した万国史を書くべきであるという強い動きが出ていた。万国史を東洋の拡大と西洋の拡大の二つの動きの総合と見るものであった。ここでは、西洋史の優位という姿勢はなくなっていた。だが、東洋の中で主導的な役割を演ずるのが日本であるという姿勢(それは日清戦争後には強化されたが)が込められていて、松本さんは、これを「日本盟主型」の万国史と位置付けている。この時期の万国史が、アジア主義的な要素を持っていたことを、もう少し見てもいいかもしれないが、ともかく、こういう西洋と東洋のせめぎあいのなかで世界史を考えるという万国史の方向を、伊集院さんがもっと注意しておいてもよかったのではなかろうか。

 伊集院さんは、日清戦争後の時期の教科書については、万国史を離れて東洋史の教科書を検討していた。そして、そこでアジア史と西洋諸国との関係を問題にしていた。いわく、日清戦争後の東洋史の教科書は、東洋史を中国史に集中させるのではなく、中国の周辺地域にも視野を広げ、東アジアだけでなく、南アジア、西アジアなどアジア全域に広がり、さらには、西洋諸国との関係においてアジア史を考えることの重要性を強調していたという。これは重要な指摘である。だが、実は、このような視角はこの時期の万国史の一つの特徴でもあったのである。

 日露戦争後には、歴史は、日本史・東洋史・西洋史に分けられて教育されていくことになる。このような東洋史と西洋史の関係、あるいは世界史の中での東洋史の位置づけという問題は、万国史に代わって「世界史」という方向で追究された。それが坂本健一や高桑駒吉らの仕事であった。ともに東京大学の東洋史の卒業であった。しかし、東洋史の教科書の分析という方向に進んでいた伊集院さんはこれに注意することはなかった。かれは東洋史の内部から世界史につながる契機がないか、その契機はどのようなものでありうるのかを探し続けたのである。戦前にはそれは見いだせなかった。そしてそれは戦後になって「東アジア世界」論として見出されることになるのだった。

 このように、世界に開かれた東洋史を求める伊集院さんの仕事は重要な問題提起であったわけであるが、万国史の流れから離れないでこれを追求した場合に、どういう成果が出ていたのか、大いに興味を掻き立てられる次第である。

(「世界史の眼」No.63)

 

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書評 油井大三郎著『日系アメリカ人 強制収容からの<帰還> 人種と世代を超えた戦後補償(リドレス)運動』(岩波書店、2025年)
上杉忍

 まず本著のタイトルに注目したい。

 「強制収容からの<帰還>」は、収容所からもとの家に「帰還」することを意味しているだけでなく、「自己の尊厳回復」の意味を持たせたくて<帰還>と表現したと著者は述べている。強制収容によって市民権をはく奪された彼らは、アメリカ白人社会への同化政策を押し付けられ、戦後「モデル・マイノリティ」と呼ばれるまでに「成功」したが、戦中・戦後のアメリカ社会の変容の過程を経て、自らのエスニック・アイデンティティに目覚め、黒人やメキシコ系さらに中国系、先住民、第3世界の人々との連帯を通じて米国における人権侵害に立ち向かう「自己の尊厳回復」を実現したのである。

 そして、「人種と世代を超えた」との表題は、人口の1パーセント以下しか占めていなかった日系人が、世界史的な意義を持つ「謝罪と補償」の要求運動に成功したのは、彼らが、世代や立場の違いに基づく日系人の内部対立を克服し、有色人マイノリティ、革新的白人だけでなく、保守的団体までをも含む広範な支持層との連帯を追求しつつ進められたからであることを強調する意図を示している。 

 著者が指摘するこの日系人の戦後補償(リドレス)運動成功の世界史的意義とは、不当な差別や抑圧を受け、その不当性を政府に認めさせ、謝罪と補償を実現した例は極めてまれであり、その後の世界に画期的な先例を示したことにあった。そして著者は「戦勝国である米国でさえ戦時中に行った不正に対して謝罪と補償を行ったのだから、敗戦国である日本は一層、外国人の戦争被害者に対する謝罪と補償に向き合うべきだ」と述べている。

 日系人の一括強制収容が強行された当初、日系人コミュニティーは、その指導的存在だった一世の多くが「敵性外国人」として拘束され、混乱に陥っており、排外的愛国主義の嵐の中で孤立無援の状態だった。本著は、その彼らが、このような世界史的意義を持つ政府による謝罪と補償の要求を実現させ「アメリカ市民」としての人権を回復しただけでなく、例えば、911事件直後のアラブ系やイスラム系の人々に対する排斥に対して毅然として抗議したことに示されているように、外国人の人権に対しても政府が責任を負うべきだとの主張の前面に立つ「トランスボーダーな人権感覚」を身に着けるまでに成長していく過程を追っている。

 従来日系人の強制収容とその終結過程の研究は相当程度丁寧に行われてきたにもかかわらず、リドレス運動とその成功の過程の研究は必ずしも十分でなかったとの問題意識から、著者は30年もの長きにわたってリドレス運動の研究に取り組んできた。しかし、本書ではこの運動だけを切り離して取り上げるのではなく、強制収容以後の日系人の歴史全体の中に位置づけることによって、その積極的な歴史的意義をよりドラマティックに描き出すことに成功している。

 リドレス運動の開始は「難産」だった。著者は、「リドレス運動への壁」として、日系市民協会が「収容」に協力したこと、「収容」を執行した戦時転住局が最後までその「強制性」を否定したこと、そして、日系人内部に深刻な分裂があったことなどの「壁」を例示している。特に、強制収用を「恥」と認識し、収容体験を語ることを封印して来た日系人のトラウマからの解放に長い時間がかかったことも「難産」の大きな要因だった。政府が求める同化路線に従い、モデル・マイノリティとして「成功」した日系人が、戦後冷戦下で赤狩り旋風が吹き荒れ反体制運動全体が圧殺される状況のもとで、アメリカ政府の「強制収容」という戦時政策の違憲性を告発し、謝罪と補償を求めることは極めて困難だった。

 しかし、なぜリドレス運動が開始され、成功までの道を歩むことができたのか。著者は、その成功の要因を次の4点にまとめている。第1にこの「収容」が当局の言うように暴民からの日系人の「一時避難」などではなく、憲法に違反する人権を侵害する「強制収容」であることを明確にしたこと、第2に西海岸で進められた戦後の日系人土地所有禁止住民投票を不成立に追い込んだことに象徴されるアメリカ世論の変化があったこと、第3に白人の強制収容反対派の支援があったこと、そして第4に、日系人三世が日系人コミュニティーの運動の主体として成長してきたことである。 

 本著は3部構成からなっている。第1部では、強制収容決定・実施のあと間もなく始まった中西部・東部への再定住の過程での、「分散的再定住」政策などによる日系人のアメリカ社会への「同化の試み」が検討されている。

 第2部では、日本の敗戦や日系人部隊の活躍による日系人に対する世論の好転を受けて、西海岸での日系人排斥行動が鎮静化したこと、戦中・戦後の西海岸における軍需産業の急成長に伴う社会変動、人種関係の重層化、人種間緊張とその緩和と並行して日系人の西海岸への再定住が本格化したことが論ぜられている。

 第3部では、強制収容から解放された日系人が、西海岸での就業構造の変化などの新しい環境の下で、女性を含めより有利な雇用の機会を得て「成功」し、「モデル・マイノリティ」と呼ばれるまでに地位を向上させたが、それは、強制収容体験を忘却させる効果もあったことが指摘されている。それにもかかわらず、日系人は強制収容の立ち退きの際に強制された不当な財産処分に対する補償要求や、一世の帰化権の実現などの運動に取り組み、ある程度成功したこと、そしてその過程で、強制収容体験の「封印」という制約の下でも、収容所への巡礼運動などを経て強制収容体験が語られ始め、日系人が独自の文化を放棄せず、アイデンティティを変容させたことが述べられている。そして、ベビーブーム世代の三世が、1960年代に多数大学に進学し、当時の黒人運動やベトナム反戦運動を自らの問題として受け止め、それに励まされて多くの日系人が従来の「同化路線」を克服し、アジア系アメリカ人としての自覚を強め、リドレス運動を開始し、ついに成功に導いた過程が描かれている。

 アメリカでは、第1次世界大戦参戦の過程で、非英語圏からのヨーロッパ系移民の「アメリカ化」を推進するため「ホワイト・エスニック」の存在を受容する文化多元主義が主張され、また1930年代に台頭したナチスに対抗するために、黒人やアジア系、ヒスパニック系、先住民をも含む有色人マイノリティのアメリカ社会への統合が語られ始め、人類学者の間では、それまでの同化主義に異を唱えるフランツ・ボアズの「文化相対主義」が広く受け入れられるようになっていた。そして、第二次世界大戦後、黒人公民権運動の洗礼を受け、有色人マイノリティをアメリカ社会の一員とみなす「多文化主義」が建前としては積極的に受け入れられるようになった。本著は、まさにそのような変化の中で日系人のリドレス運動が展開されたことに注目している。

 本著は、そのほか重要な問題を数多く取り上げており、学ぶ点が多いが、評者にとって特に印象深かったことを一つ上げるとすれば、リドレス運動の先駆けとなったのが、1930年代以来の反ファシズム運動の担い手だった「オールド・レフト」と呼ばれる人々だったことである。冷戦下の赤狩り旋風によって一時は窒息させられていた「オールド・レフト」が再び立ち上がり、1960年代の公民権運動・ベトナム反戦運動の中で成長してきた「ニュー・レフト」と呼ばれている人々との融合によってこのリドレス運動が担われたのである。

 近年では、黒人公民権運動を、1930年代からの「長い公民権運動」の歴史の中に位置づけてとらえなおす研究が有力になっているが、それと共通する現象がここでもみられることが印象深かった。冷戦赤狩りによる分断を乗り越えて、黒人解放運動は、今日、BLM運動という新たな段階を迎えている。

 次に、本著の論の進め方について一言ふれて結びにしたい。筆者はプロローグで、明確に論点を整理し、それに基づいて妥協なく徹底した研究史の渉猟・整理を行ったうえで、一部の隙も見せることなく、理路整然と論述を積み重ねている。それは、社会科学的歴史論述のモデルといえよう。本著が、とても分かりやすく、安心して読み進めることができるのはそのためである。同時に、著者は、文学作品や写真集・画集などを丁寧に紹介し、強制収容された日系人に寄り添い、そこから生み出される変革の芽を丁寧に取り上げ本論に編み込んでいる。本著からわれわれは、日系人の苦悩と喜び、誇りを読み取ることができる。

 そして最後に一言。本著を熟読することなくして、今後の日系人の歴史研究やその他の「補償運動」研究を前に進めることはできない。

(「世界史の眼」No.63)

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書評:藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社、2025年
油井大三郎

 陸井三郎という名前を知っている人は、今や少なくなっているのではないか。彼は、哲学者のバートランド・ラッセルの提唱で始まった、ベトナム戦争における戦争犯罪を調査する民間法廷の日本側委員の一人として、米軍の爆撃下のベトナム民主共和国(北ベトナム)を3度訪問し、西欧で開催されたラッセル法廷でその調査結果を発表した人物の一人である。

 1975年にサイゴン政権が陥落し、ベトナム戦争が終結して50年が経過した。また、2000年に陸井三郎が亡くなって、25年が経過した。そのような節目の年で、しかも、ウクライナやガザで戦争犯罪が繰り返されている状況だけに、改めて陸井三郎の足跡を振り返る本が出たことの意義は大きい。

 本書の構成は以下のようになっている。

第一部ベトナム戦争犯罪調査、ベトナム国際反戦運動と陸井三郎
 第1章 ラッセル法廷、ベトナム戦争犯罪調査委員会と陸井三郎の役割  藤本博
 第2章 同時代のベトナム戦争論  陸井三郎
第二部 陸井三郎とはどのような人物だったのか 
 第1章 陸井三郎の生き方と人物像  河内信幸
 第2章 『陸井三郎先生に聞く』(1992年3月)東京大学アメリカ研究資料センター
 第3章 陸井三郎 略年譜(河内信幸 作成)

 つまり、第一部ではベトナム戦争の戦争犯罪調査と陸井の関係を、藤本博と陸井自身の論稿で検討し、第二部では陸井の人となりを、河内の論稿と東大のアメリカ資料センターが行ったオーラル・ヒストリーで再現している。

 ラッセル法廷やベトナム戦争における戦争犯罪自体は既に多くの研究で明らかになってきた。それ故、本書の意義は、ラッセル法廷と陸井三郎との関係に集中して、陸井とラッセルとの書簡や北ベトナムで戦争犯罪調査にあたったハ・ヴァン・ラウとの書簡、戦争犯罪調査に関わる豊富な写真などを紹介している点にオリジナリティが存在する。

 本書の第一の意義は、ラッセル法廷の指導部が当初、ニュルンベルグ裁判における「人道に対する罪」で米国の戦争犯罪を裁こうとしたのに対して、北ベトナムの意向を代弁する形で、日本代表がベトナム戦争はベトナム人の民族基本権に対する侵害であると主張し、サルトルなどのフランス代表が自らのレジスタンス体験などを想起して、それに同調した結果、会議全体として民族基本権に対する侵害という判定にいたったと指摘した点にある。

 第二に、ラッセル法廷に参加した米国の反戦知識人でさえ、当初、ベトナム戦争を南北の「内戦」と把握していたが、論争を通じて、米国のベトナム民族に対する侵略という判定に同調するようになった点の指摘である。その際、同じ米国代表のガブリエル・コルコが主導的な役割を果たしたという。

 第三に、民間目標への意図的な攻撃である点は第一回のストックホルム法廷時から明らかになっていたが、それが「全民族の抹殺」を意図したジェノサイドであるとの認定は、ニクソン政権期になって、1969年11月にソンミ虐殺事件が判明してからであった点の指摘である。

 このようなベトナム戦争の基本的な性格評価に関わる論争の中で、日本代表団が積極的な役割を果たせた原因は、日本自身がアジア太平洋戦争中に激しい戦略爆撃を体験していたこと(陸井自身は東京で3回焼け出されている)や日本軍が「アジア解放」を言いながらも、実際にはアジア諸民族の独立運動を圧迫していたことへの反省があった点の指摘も重要である。

 その上、戦後の日本は、原水爆禁止運動の国際会議を通じて、1959年以来、北ベトナムと交流を続けており、北爆被害の現地調査をやりやすいコネクションがあった。つまり、日本の平和運動が西欧に北ベトナムの人脈や情報を橋渡しする役目を負う立場にあった点の指摘も興味深い。関連して、本書では、ラッセル法廷の日本側委員会にベ平連系の知識人が不参加であった点を指摘しているが、それは、日本で原水禁運動を主導した社会党・共産党系の人々がラッセル法廷の日本委員会の中心となったことに関連してもいるのであろう。

 さらに、第二回のコペンハーゲン大会では、日本政府のベトナム戦争協力が問題となり、日本側は1967年8月に独自に東京法廷を開催し、北爆に向かう米軍機が沖縄や在日米軍基地から飛び立っていたこと、日本の企業が「ベトナム特需」で潤っていた点などを指摘して、日本の「加害者性」を指摘している点も重要である。但し、この指摘は、陸井個人の北ベトナム訪問中に北側から指摘された、日本軍のベトナム進駐中に大量の餓死者がでたという「過去の加害者性」の受け止めとしても語られているが、日本委員会全体の認識としては弱く、むしろベ平連の小田実などの主張としてマスメディアに注目された事実も指摘されている。

 以上のベトナム戦争の戦争犯罪調査における陸井三郎の役割については藤本博論文が主に解明したものであるが、同時に、陸井自身がベトナム戦争の同時期に朝日や読売に書いた論稿が収録されていて、臨場感を増す効果を出している。次に第二部では陸井の人生全体におけるベトナム戦争犯罪調査の意義が検討されている。ここでは陸井のアジア太平洋戦争体験の意味や戦後の原水禁運動参加の意味など、次のような意義があると思う。

 その第一は、1918年生まれの陸井が、富裕でリベラルな家庭の中で、大正デモクラシー時代の教養主義の影響を受けて青少年期を過ごしたこと、しかし、父親の会社の倒産で大学には進学できず、青山学院の高商部卒となったため、就職面で不利であり、戦後に大学でのフルタイムの職には就けず、フリーランスの立場を貫くことになったこと、が指摘されている。

第二に、アジア太平洋戦争の開戦時には23歳であったが、徴兵検査では丙種合格であったため、実際の兵役は免れ、太平洋協会という鶴見祐輔が設立した民間の研究所で、研究員のような仕事をして戦中を過ごしたこと、この研究所には平野義太郎のような講座派の知識人の他、日米開戦のため米国からの交換船で帰国した都留重人、鶴見和子などがいたが、比較的自由な雰囲気が残り、米国の資料なども入手できたので、陸井の米国への関心はここで育まれたという。

 第三に、1955年に原水禁運動が始まると、陸井はその米国に関する知識や原子力への関心から原水協の専門委員に選ばれ、その国際交流に深く関わることとなった。その経験がベトナム戦争犯罪調査の国際的なネットワーク形成に大きな影響を与えたと指摘されている。

 第四に、陸井が主として講座派の系譜を引く知識人グループに属しながら、米国のニューレフトなどに対して柔軟な見方でその良さを評価していたが、その原因は、アジア太平洋戦争中に陸井が太平洋協会で様々な知識人、特に清水幾太郎から米国思想、とくにプラグマティズム思想の面白さを学んだ点があげられている。この点は、本書では十分彫り上げられていない点であり、戦中の知識人史を考える上で興味深い論点だと思われる。

 以上のように、本書は、ベトナム戦争における戦争犯罪を国際連帯の中で厳しく批判した陸井三郎という稀有な人物に焦点を当てることにより、戦争犯罪に関する認識の深化の過程をリアルに描き出している。これ故、現在のウクライナ侵攻やガザ侵略における戦争犯罪を検討する際にも、数多くの示唆を与えてくれるだろう。

(「世界史の眼」No.62)

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書評:秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)
木畑洋一

 本書は、1970年代を対象として、二度の石油危機に揺れた世界における国際秩序の変化の様相に取り組んだ国際的な共同研究の成果である。編者秋田茂は、これまでも精力的に、時代を輪切りにしてその世界史的相貌に迫るという研究を組織してきており、これはそうした試みの一環である。この日本語版に先立って、英語版が2024年に出版されているが(Oil Crises of the 1970s and the Transformation of International Order: Economy, Development, and Aid in Asia and Africa , Bloomsbury, 2024)、そちらではサブタイトルが「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助」とされおり、本書のサブタイトルとは異なっている。両者を合わせて、「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助の様相に「東アジアの奇跡」の起点を探る」とでもしてみれば、本書のねらいははっきりしてくるであろう。

 そのねらいは、秋田による序章で詳論されている。その柱は次のようになろう。従来、石油危機によるインパクトは先進工業国について論じられることが多かったが、本書ではアジア・アフリカの非ヨーロッパ諸国へのインパクトが重視される。非ヨーロッパ諸国の経済開発、発展の様相、さらにそれに関わった援助の問題を検討することによって、冷戦と脱植民地化という二つの視角から議論されてきた国際秩序論に今一つの視角を加えることが目指される。それによって、「東アジアの奇跡」(世界銀行が1993年に用いた表現)という状況が生まれてくる過程の起点も確認されることになるのである。以下、各章の内容を簡単に紹介しつつ、若干のコメントを加えていきたい。

 本論は、三つの章から成る第Ⅰ部「石油外交と冷戦」で始まる。

 第1章「石油危機とグローバル冷戦」は、このテーマに関する研究者として世界の第一人者であるといってよいデーヴィッド・ペインターの筆になり、62頁と最長の章である。著者は、これまでの冷戦研究が石油問題を十分に位置づけているとはいえず、他方石油危機に関する歴史研究も冷戦状況を看過している、という問題意識のもとで本章を執筆しており、第一次石油危機から第二次石油危機の後に及ぶまでの期間を対象に、国際政治経済の動態を、石油問題を軸とし、米国の姿勢を中心として描いている。さらに、本書の後の部分での主役となるオイルマネーの問題も丁寧に論じられており、いわば序章に次ぐ第二の総論としての性格をもっている。ただ冷戦との関わりで石油をめぐるソ連の政策についてもかなりの言及がなされているものの、米国についての分析と比べると物足りないという感が残る。また、第一次石油危機を扱った部分においては、国家と企業の関係に踏み込んだ立体的な議論がなされているのに対し、第二次石油危機に関わる部分では国家の政策に視線が集中して議論がやや平板になっているという感を抱いた。

 第2章「第三世界プロジェクト盛衰の支柱としての石油危機」の筆者デーン・ケネディは、米国におけるイギリス帝国史研究の第一人者であり、最近では、脱植民地に関する著書が、『脱植民地国家―帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社、2023年)として邦訳されている。筆者は、脱植民地化の進展の様相を描いた後、それによって生まれた国々を主力とする国家群が「第三世界プロジェクト」と呼びうる国際体制改革に向けての動きを起こしたことの重要性を指摘する。そうした動きを背景として、第一次石油危機が生じるとともに、1974年に国連での「新国際経済秩序樹立宣言」の採択が実現したのである。しかし、国際経済秩序の改変が進まぬまま、石油価格の高騰で苦境に陥った非産油国は、イラン革命によるイラン石油産業の混乱を起点とする第二次石油危機でさらに衝撃を受けることとなり、「第三世界プロジェクト」はついえてしまった。このように、脱植民地化過程のなかから生まれた「第三世界プロジェクト」に焦点をあてて70年代の時代像に迫ろうとする本章の議論に、筆者は大いに共感を抱くものである。ただ、国際経済秩序の提起に対抗する先進国側の動きが今少し書きこまれていれば、「第三世界プロジェクト」盛衰の動態がより明確になったのではないだろうか。

 第3章は、わが国における米外交史研究の泰斗で、秋田と長く共同研究をつづけてきた菅英輝の筆になる「東南アジア開発におけるアジア開発銀行の役割―冷戦と石油危機の文脈」である。ここでは、1966年に設立されたアジア開発銀行(ADB)が、第一次石油危機とほぼ軌を一にする形で、アジア開発基金(ADF)を設置した経緯が述べられた後、ADFの増資をめぐるドナー加盟国間のかけひきが、米国の姿勢を中心に据えながら描写される。ADBにおいて影響力をもった日本が、ADBの意向と「日米協力」のもとでの米国の意向との間で微妙な立場に立たされた状況の分析も興味深い。米国の動きが詳論されることで、ADBの活動を冷戦の文脈で考察するというねらいは達成されている。

 以上の三つの章を承けて第Ⅱ部「国際金融秩序と開発金融の変容」の二つの章が配置される。

 第4章は、やはり秋田と息のあった共同研究を行ってきた山口育人による「石油危機と「民営化された国際開発金融」」と題する章である。タイトルの「民営化された国際開発金融」という表現は、田所昌幸が用いた「民営化された国際通貨システム」という言葉を意識したものであり、そこで大きな役割を演ずるのは、第一次石油危機によって生み出された膨大なオイルマネーである。このオイルマネーが主として流入していった先が、西側先進国の民間金融市場であり、そうした民間資金が、60年代末に停滞をみせはじめていた先進国のODAに代わって、途上国に対する開発金融で大きな役割を担っていくことになったのである。そのような状況が進むなかで、民間金融市場に対応できる途上国とそれができない途上国との間の違いが広がっていった。さらに山口は、ともにその前者の途上国であった韓国とブラジルが、第二次石油危機に際して、工業化戦略の違いからさらに分化していく様相をも扱う。それにより、ケネディが指摘した「第三世界プロジェクト」衰微の要因に迫っているのである。

 第5章「1970年代の大循環―ユーロダラー、オイルマネー、融資ブーム、債務危機、1973-82年」は、国際経済史の専門家として日本の問題にも通暁したマーク・メツラーが執筆している。山口が強調していたオイルマネーの国際的な動きの具体像はこの章で描かれており、「オフショア・米ドル・システム」の問題として詳述されている。それを軸としてこの章で提示される1970年代像はかなり包括的であり、序章、第1章とならんで、本書の全体像をつかむ上で重要な章となっている。最後の部分で、クリスチャン・ズーターなどの研究を引きつつ、長期的な資本主義の歴史のなかに1970年代の変化を位置づける試みを行っていることも、重要である。ただ、第一次産品産出国が置かれた位置については、しばしば言及されるものの、突っ込んだ議論はなされていない。たとえば、ささいな表現の問題であるかもしれないが、「オフショア・米ドル・システム」による「信用拡大は、新植民地主義によるある種の「トロイの木馬」として理解されるようになった」と述べつつ、それ以上の議論がなされていない、といった点に食い足りなさが残るのである。

 これに次ぐ最後の三つの章が、第Ⅲ部「冷戦、開発と経済援助」を構成する。三つの章は、それぞれ特定の国家を対象としている点で、第Ⅱ部までとは異なる様相を呈している。

 まず検討されるのが、中国であり、新進気鋭の研究者南和志による第6章「世界エネルギー危機と中国石油外交」である。本章の分析対象は石油政策に絞られており、60年代に産油国としての相貌を明らかにしていた中国が、石油生産量増加を図るために、技術輸入や海底油田開発に力を入れつつ、その過程で資本主義圏、とりわけ米国との結びつきを進めていった様相が描かれる。中国の石油政策がある意味場当たり的であったからこそ、金融危機で改革開放路線が終焉に追い込まれることもなく、他方で世界経済から孤立してしまうこともなかった、という結論部分での議論は、一見意表をつくものであるが、同時に説得的でもある。

 本書の編者秋田が、次の第7章「インドの「緑の革命」・世界銀行と石油危機―化学肥料問題を中心に」を担当している。この章の対象はインドの農業問題であり、60年代末にはじまった「緑の革命」のもとでの農業振興の重要な条件となった化学肥料の集中的な大量使用を実現するために、インド政府がとった政策が分析されている。化学肥料のための最大の資金源はインド政府自体であったが、国際金融機関としては世界銀行がきわめて大きな役割を演じ、また第二次石油危機後の国際収支危機をめぐってはIMFからの金融支援が重要な意味をもった。この問題の検討を通じて、秋田は、インドにおける「緑の革命」の意義の再評価という年来の主張を改めて展開する。それは確かに首肯できるものであるが、インド経済のパフォーマンスについての政府自身による評価には、今少し批判的な検討を加えることが必要ではないであろうか。

 最終章となる第8章は、イギリスでのアフリカ経済史研究を代表する研究者の一人、ギャレス・オースティンによる「商品価格高騰に直面したガーナとケニヤ―ナショナルとグローバルの交錯」と題する章である。オースティンは、ともにイギリスの植民地としての位置から独立したガーナとケニヤの70年代における経済状況を比較し、比較的安定した経済活動を示したケニヤと、大幅なインフレに見舞われたガーナの違いを生み出した背景を、為替レートの問題をはじめとして、多様な要因にわたって検討している。政治指導層内部における農業利害関係者の有無が問題になるという点の指摘など、興味深い論点も多いが、結局のところは、「石油価格の衝撃自体よりも、ナショナルな対応の方がより重要であった」という一文で結ばれていることに示されるように、両国内での政策選択が最大の問題であるという結論となっており、章のサブタイトルの「ナショナルとグローバルの交錯」という視角が後景に退いているという感は否めない。

 以上、本書の内容を評者なりに要約し、簡単なコメントを加えてきた。全体としてみた場合、二度の石油危機が非ヨーロッパ諸国にもたらしたインパクトに重点を置いて、1970年代における国際秩序の変容に新たな光をあてようとする本書のねらいは、かなり達成されていると思われる。石油危機で生み出されたオイルマネーの動きが浮き彫りにされている点など、この課題に迫る上で大きな効果をもっていると感じた。ただ、「東アジアの奇跡」の起点を探るという点に絞ってみると、確かにかなりの示唆はえられるものの、「奇跡」の主体となった国・地域の様相について、本書の枠組みのなかでの分析が今少し欲しかったという感はぬぐえない。その点で、英語版には収録されている佐藤滋によるマレーシアとシンガポールを扱った章が、本書には掲載されていないのが残念である。

 本書の各章は、それぞれ独立した内容をもつものであるが、章同士の連関を各筆者がよく意識しつつ執筆しているということが随所で感じられることも、本書の大きなメリットであるといってよい。共同研究の組織者であり本書の編者である秋田の労を多とするものである。

(「世界史の眼」No.61)

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「増谷英樹の歴史学を語る会」記録

 2025年1月25日に、世界史研究所が主催して「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催しました。1942年生まれの増谷英樹さんは、オーストリア史、ユダヤ史を中心に研究を進めてこられ、また、東京外国語大学と獨協大学で長く教鞭を取られました。長く闘病中のところ、残念ながら2024年11月に、逝去されました。

 世界史研究所の研究員は、それぞれに増谷さんと公私に渡る深い交流があり、また、増谷さんの仕事から多くの刺激と啓発を受けてきました。ここに、増谷さんと交流の深かった方と、増谷さんのご家族にもご参加頂き、「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催し、増谷さんの仕事を振り返り、増谷さんが私たちに届けたかったものを改めて考える機会としたものです。ご参加頂いたのは、稲野強、小沢弘明、木畑和子、木畑洋一、小谷汪之、清水透、高澤紀恵、藤田進、古田善文、南塚信吾、山崎信一、油井大三郎、吉田伸之、渡邊勲の各氏と、加えてご家族の増谷直子さんと三人のご子息・ご息女の皆さんです。

 会は小谷汪之さんの司会のもと、まず増谷さんに黙祷を捧げ、次いで南塚信吾さんに、増谷さんの今までのお仕事を簡単に振り返って頂きました。その後、古田善文さんから、オーストリア史に関して、また、高澤紀恵さんと吉田伸之さんからウィーン史・都市史に関して、提題をして頂きました。三氏の報告は、それぞれ以下に掲載しています。

 次いで、参加者からの自由な発言と討論が行われました。増谷さんのユダヤ問題に対する立脚点、史料としてのビラの用い方、増谷さんの目指した「民衆史」の展望、フリーメーソンへの関心、移民への関心といった点を中心に議論がありました。その後は、皆さんそれぞれの増谷さんとの親交のあり方も含めて、ざっくばらんに懇談の時間となりました。参加者の皆さんの多くは、大学の同僚として、歴史学研究会において、あるいは読書会・勉強会のメンバーとして増谷さんと交流のあった皆さんでしたが、いずれのお話からも、増谷さんの真摯な学問的態度と、それに加えての気遣いと面倒見の良さ、民衆や労働者に寄せる増谷さんの深い共感、「食」へのこだわり、登山やスキーやテニスを楽しむ姿といった点が浮かび上がりました。いずれのエピソードにおいても、増谷さんとの深い信頼関係が感じられました。また、ご家族の言葉にもありましたが、学問は学問としてきちんと進めた上で、家族との時間も大切にし、スポーツにも取り組むという姿は、研究者の中ではあまり一般的ではなかったかもしれません。この点からも増谷さんのお人柄が偲ばれました。

 増谷さん、まだまだやり残したことがたくさんあったのだと思います。しかし、増谷さんが本当に多くを私たちに残してくれたことを、今回改めて理解することができました。増谷さん、本当にありがとうございました。

(山崎信一)

増谷英樹のおもな著作

増谷英樹「60年代歴研における「人民闘争史」研究とその問題点」『歴史学研究』372号《大会特集》安保体制の新段階とわれわれの歴史学―世界史認識と人民闘争史研究の課題、1971年5月

良知力編『共同研究 1848年革命』大月書店、1979年
    増谷英樹「序論 1848年革命の概観と研究の課題」
    増谷英樹「「フランクフルト労働者協会」と9月蜂起」
    増谷英樹『ビラの中の革命:ウィーン・1848年』東京大学出版会〈新しい世界史〉、1987年

増谷英樹『歴史のなかのウィーン:都市とユダヤと女たち』日本エディタースクール出版部、1993年

歴史学研究会編『講座世界史4 資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会、1995年
    増谷英樹「大都市の成立―一九世紀のウィーンと流入民」

増谷英樹、伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年
    増谷英樹「序論」
    増谷英樹「世紀末ウィーンの製靴工―資本主義化と「急進性」の伝統」

増谷英樹『ウィーン都市地図集成』柏書房、1999年

増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生 日本とドイツ/歴史と現状』有志舎、2009年
    増谷英樹「序章 移民・難民・外国人労働者とその受入れ」
    増谷英樹「補論 第二次世界大戦以前ドイツの外国人労働者と強制労働」

増谷英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2011年

増谷英樹、富永智津子、清水透『オルタナティヴの歴史学』有志舎〈21世紀歴史学の創造〉、2013年
    増谷英樹「1848年革命とユダヤの人びと―『オーストリア・ユダヤ中央機関紙』を読む」

研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」編『われわれの歴史と歴史学』有志舎〈21世紀歴史学の創造〉、2012年
    増谷英樹「社会史、そして民衆史について」
    増谷英樹「戦後歴史学からオルタナティヴヘ」

増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2016年

渡邊勲編『37人の著者 自著を語る』知泉書館、2018年
    増谷英樹「30年後の自己書評《ビラの中の革命》」

増谷英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2023年(増補改訂版)

(「世界史の眼」No.60)

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