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「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―
稲野強

 戦前に活躍した漫画家の岡本一平が、その風采から「鼠の殿様」と綽名した弁護士出身の国会議員がいた。立憲民政党の斎藤隆夫(1870~1949〔明治3~昭和24〕年)である。かれは、鼠どころか、歯に衣着せぬ言論によって軍部の政治介入を舌鋒鋭く批判した「虎」や「狼」であった。その「正論」は、当時、軍拡に燃える軍部や軍部にすり寄る政治家をたじろがせた。

 今日でも、斎藤は「憲政擁護の闘将」(作家・大橋昭夫)として、国会議員の不祥事、体たらく、遵法意識の低さ、世界観の乏しさ、人権意識の低さ、を嘆き、あるいは批判する際にしばしば思い起こされる貴重な存在である。いや、「闘将」どころか、大橋は斎藤を「『立憲主義』の理想を堅持した大正デモクラシーの権化」とまで賛美する。また『北一輝』などの著作で知られる評論家の松本健一は、斉藤隆夫の評伝の副題に「孤高のパトリオット」とつけた。松本は、斎藤を、あるべき政党政治の道を模索することによって軍国主義時代のポピュリズムに抵抗したパトリオットであった、と捉えたのである。一方、丸山眞男も、斎藤を戦前の「親英米派=現状維持派」〔リベラル〕で「有名な聖戦批判演説をした」人物と評価している。

 斉藤は、苦学して弁護士になり、アメリカ・イェール大学留学を経て、兵庫県選出の衆議院議員となった(1912)。かれの経歴を見ると、第一次世界大戦後の1919年1月12日の議会では、当時所属の憲政会を代表して、国民思想に関する質問演説を行ない、民本主義の重要性を説いている。また軍縮の推進者で国際協調派の濱口雄幸首相のもとで内務政務次官に任命され(1929)、次の第二次若槻礼次郎内閣のもとでも法制局長官に就任している(1931)。こうした活動から、斎藤が自由主義者、国際協調主義者、民主主義者とみなされてきたことも当然である。のちに斎藤が、大政翼賛運動(1940)に対して鋭い批判を投げかけたのも、そうした一貫した政治思想の延長線上にあったと言えよう。

 さて、日本は、国際協調路線を歩み始めた1920年代初頭からわずか10年足らずで、中国大陸への野心をむき出しにする軍部の独走を許す状況を生み出し、満州事変(1931)、満州国建国(1932)、国連脱退(1933)へと国際的孤立への道を突き進んだ。

 そうした外交上にも危機的な状況の中で、斎藤は、満州事変以降急速に台頭する軍部の政治介入に真っ向から反対する数々の大演説を帝国議会で行った。それによってかれは日本憲政史上不朽の名を留めることになったのである。かれは多くの名演説を残しているが、その中で特に人口に膾炙しているのは、2・26事件(1936年2月)後における陸軍を中心とする「改革派」を批判した「粛軍に関する質問演説」(いわゆる「粛軍演説」)(1936年5月7日、第69議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」(1938年2月24日、第73議会)〔同法案がナチスの授権案と類似していることを指摘〕、それに「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)(1940年2月3日、第75議会)である。これらの演説は、軍部にひれ伏し、及び腰になっている議員の中にあって、斎藤の存在感を際立たせるものであった。

***

 斎藤は、先に掲げた1940〔昭和15〕年2月3日の「反軍演説」が直接の原因で、同年3月7日に民政党を除名され、本会議でも懲罰動議にかけられ衆議院議員の議席を剥奪された。かれはすでに70歳になっていた。だが、かれは議会での演説の機会を奪われたものの、持ち前の反抗精神を失わなかった。例えば、かれは近衛文麿首相を中心に推進された「新体制運動」〔ファシズム体制の樹立を図る〕批判の書簡を3度も近衛自身に送りつけたのである(同年6月26日、8月9日、9月19日付)。また斎藤の『回顧七十年』によれば、かれは「来年の総選挙〔1942年4月30日〕までには1年2か月ある。次の選挙には、捲土重来必ず最高点をもって当選し、軍部および除名派に一大痛棒を加えねばならぬ。」と、言い放ち、相変わらず意気軒高なところを示していた。

 以下で紹介するのは、斎藤が、そうした折に書き溜めた数十の論考のうちの断片である。その断片を見るだけでも、日本の中国大陸進出に対する斎藤の批判が、余すところなく開陳されていることが分かる。斎藤は、翼賛体制の下で沈黙を強いられ、戦争に引き摺られていく国民の多くが抱く内心忸怩たる思いを代弁する役割を堅守し、自身の生命の危険を顧みることなく、軍部と親軍政治家批判をし続けたのである。 

 さて、件の論考のタイトルは、「天上より見たる世界戦争」(1942年11月)である。これが書かれた時期、すでに日本は中国大陸で軍事的劣勢に立たされており、また太平洋戦争は勃発からほぼ1年経っていた。

 斉藤は、ここで、今日から見ても小気味いいほどの日本の侵略主義・聖戦批判を展開する(以下のカッコ内の頁は、『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』からの引用頁である。また旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた)。

 斉藤は、まず戦争の大義である「聖戦」思想の欺瞞性を暴く。

「天上より今日の世界を見渡して居ると色々の感想が起こる」(169頁)で始まる文章で、斎藤は、

① 戦争の勃発は、「結局は直接に国家を背負って戦争の衝に当る軍部の認識不足と云うことに帰着するのではなかろうか」とし(172頁)、日本の軍部が、敵対国との軍事力の決定的な差を認識していず、いかに世界情勢を見誤ったまま戦争に突き進んだか、を痛烈に批判している。

② 支那事変〔日中戦争〕に関しては、日本が「此の国力を揮って支那〔中国〕を侵略し日本の勢力を植え付けて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱えられて居るものは悉く虚偽仮装の口実に過ぎない」(173頁)、と日本の真の目的がアジア大陸侵略であることを看破する。

③ この戦争を日本は「聖戦と称している」(173頁)が、「聖と言う以上は少なくとも自己を犠牲として他人を救済することを意味するのであるが、凡そ昔から左様な戦争のあるべき訳はない。如何なる場合に於ても戦争は他国を侵略するか其の侵略を防禦するか。是が戦争の本質であって、是れ以外に戦争の本質は絶対にあるべき訳はない」(173頁)。「況んや支那人民は日本に向かって救済などを求めて居ないのみならず、日本の進撃に対して極力抵抗を続けて居る。此の事実を目前に見ながら聖戦などと云うことが口にせらるゝ義理ではない」(174頁)と、斎藤はここで戦争の本質を侵略と見なし、その最大の大義名分である「聖戦思想」を完全に否定し、却って日本に対する中国の「抵抗」の正当化すら容認している。

④ 中国の「抗日政策」に関しては、日本は、「蒋介石の政権を抗日政権と称して彼の抗日政策を非難し、之を戦争の理由として居るが、日本より見れば彼の抗日政策は実に怪しからぬと思われるかしれないが、蒋介石及び支那側から見れば抗日政策は当然のことである。なぜなれば支那は過去数十年の間に於て日本から侵略に侵略を重ねられて領土を取られ償金を取られたことは枚挙すべからざるものがある」(176頁)からだ、と述べる。ここで斎藤は、日清・日露戦争を念頭に置いたうえで被害者である中国が抵抗するのは当然だ、と歴史的経緯に照らしてその正当性を認め、日本の侵略主義を断罪するのである。

⑤ 「〔日本は〕現に日清戦争後の三国干渉にすら憤慨して十年間の臥薪嘗胆、以て復讐戦を決行したではないか。此の意気と勇気があってこそ初めて国家の独立と威信を保つことが出来るのである」(176‐177頁)と述べ、列強の領土的野心を論難する。一見すると彼の主張は、独立自尊の戦いを否定せず、むしろ愛国主義的ですらある。だが、かれは、列強の領土的野心と日本のそれを重ね合わせるのである。「之を思わずして独り蒋介石の抗日政策を否認するのは我が儘勝手の見方であって、世間には通用しない議論である」(177頁)、と。かれは侵略された側の抵抗権を認めることによって、ナショナリズムに捕らわれることなく、客観的な視野に立って世界情勢を見ているのである。

⑥ 「国家競争は正しく斯くの如きものであるから、蒋介石が支那国民に向って排日抗日の精神を打ち込むのは当然のことであって、〔日本が〕これを非難するのは間違って居る」(177頁)。「唯此の戦争を目して聖戦などと称して世上を欺き、何か日本が自国の利益を犠牲に供して仁義の戦争でも始めて居るが如く吹聴する其の偽善が〔自分は〕気に喰わないのである」(177頁)。

 そして、斎藤は日中戦争をこう総括する。

⑦ 「之を要するに大東亜戦争の目的は東亜民族を解放して彼等に独立と自由を与えるにはあらずして、東亜に於ける英米の勢力を駆逐し、之に依って日本が東亜の覇権を握り、東亜民族を隷属せしめて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱道せらるゝものは何れも偽善者の譫言に過ぎない」(185頁)と。

 日本は、日露戦争以来、帝国主義列強からのアジア解放をスローガンにして武力による対外進出を正当化してきた。斎藤は、日本の帝国主義的野心は、列強と何ら変わることなく、日本はアジアの国土を蹂躙し、ただアジアの人々を隷属させるだけだ、と断言するのである。

***

 最近の『朝日新聞』の記事で、論説委員の有田哲文は、「斎藤のような代議士がいたのは戦前日本のデモクラシーが誇っていいことだ。しかし斉藤しかいなかったことは、この国の汚点であろう。」と嘆いている。確かに当時多くの国会議員は軍部と自ら進んで結託し、あるいは軍部になびき、その圧力に屈し、「大政翼賛体制」を支持していた。また国民の大半も、国家の有形無形の暴力に脅え、沈黙を強いられ、体制に順応して行かざるを得なかった。だが、その一方で、表面化されなかったとは言え、国民大衆の民主主義的な運動が、戦時下であっても脈々と続いており、陰から斎藤を励まし、支えていたことは、改めて確認しておく必要がある。

 そのことは、斎藤が、太平洋戦争真っ只中の1942年4月30日に実施された第21回衆議院総選挙〔翼賛選挙〕に非推薦で立候補し、執拗で徹底的な選挙妨害にあいながらも、トップ当選を果たし、議席を回復したことによっても裏付けられていると言えよう。

 戦時体制下において、厳しい思想的・政治的弾圧・監視が日常化している中で、斎藤を支援する民衆がいたことも、また十分「誇っていいこと」である。

〔参考文献〕

草柳大蔵『斎藤隆夫―かく戦えり』文藝春秋、1981
斎藤隆夫『回顧七十年』中公文庫、1987
『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』(復刻版)新人物往来社、1994
松本健一『評伝 斉藤隆夫―孤高のパトリオット』東洋経済新報社、2002
大橋昭夫『斎藤隆夫―立憲政治家の誕生と軌跡』明石書店、2004
松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男回顧談』下、岩波書店、2006
保坂正康『昭和史の教訓』朝日新書、2007
伊藤隆編『斎藤隆夫日記』上・下、中央公論新社、2009
森まゆみ『暗い時代の人々』朝日文庫、2023
有田哲文「日曜に想う」『朝日新聞』朝刊(2024年8月11日付)

(「世界史の眼」No.57)

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『「歴史」の世界史』合評会記録

 世界史研究所では、2024年7月にミネルヴァ書房より刊行された、ダニエル・ウルフ著(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』の合評会を、9月16日に行いました。以下にその記録を掲載します。最初に訳者の南塚信吾、小谷汪之両氏から内容のプレゼンをしてもらい、その後木畑洋一、藤田進、油井大三郎、佐藤育子、小山田紀子、杉本諒の各氏にコメントをして頂きました。最後に内容に関して討論を行なっています。(記録:山崎信一)

1. プレゼン 南塚信吾

 本書は、①「三〇〇〇年間にわたる過程を通じて、過去を取り戻し表象するための組織的アプローチとしての歴史が、いかに現代世界の教育と文化の主要な一側面へとじょじょに発展してきたか」ということ、②「この三〇〇〇年間を通じて、啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、東アジアやイスラーム世界、そして本書で言及されていない他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、いかにしてしだいに取って代わっていったのか」ということを描いている。これはたしかに壮大な仕事である。世界各地の歴史の試みに目を届かせてそれを全体像にまとめようとしている仕事は、評価に値する。しかし、それゆえに問題もありそうである。

 今回の合評会では、本書の第6章と第7章のみを取り上げるが、それはわれわれに直結する歴史の方法を論じているからである。最初に、翻訳に携わった者として、議論の筋の整理をして、そのうえで気が付いた点をあげてみたい。それらはM)で表記する。

第6章 移行―戦間期から現在に至るまでの歴史学

Ⅰ ポストモダンが現れるまでの(あるいはそれに影響される前の)歴史
(A)歴史の新しい方法
 1.アナール「学派」―ウルフはこれを20世紀の歴史学上最も重要な現象と位置づけている。
   ①ブロックとフェーブルの「全体史」
   ②戦後ブローデルの「長期的持続」
   ③70-80年代には小規模な世界へ以降:心性史、日常生活史
    →ミクロ・ヒストリー ラドュリー、ギンスブルク
   ウルフはここから一般化がどのように可能かという疑問を提示している。
 2.歴史と社会科学
   社会学:ウエーバーは比較、理念型、主観的要素に注目
   経済学:数量経済史
   人類学:「構造主義」と「厚い記述」(ローカルで特殊なものへ)
 3.歴史と自然科学 
   歴史の分析哲学が「法則」、「パラダイム」概念を打ち出した。
(B)歴史と政治体制
   ウルフは、歴史は独裁制にせよ民主制にせよ政治体制に奉仕してきたという。
  ・右翼的独裁体制  体制に合致する歴史を要求  
   →戦後の余波 フィッシャー論争、「ドイツ特有の道」論
  ・左翼の独裁も歴史家への制約、統制、調整
  ・民主制のもとでも、歴史家の発言と出版への制約、マルクス主義への迫害があった。 
   ウルフはポピュリズムに歴史は対抗できるかという疑問を提起している。
(C)戦後の新しい分野
 1.インテレクチュアル・ヒストリー  1950年代
   1980年代から「文化史」が登場、言語・テキストの意味を問うようになった。
   1960-70年代に歴史心理学が「集団的振舞い」に注目した。
 2.女性史 1970年代からフェミニズムを受けて拡大し、大学でも地位を得た。
 3.ジェンダー史 1980年代から
   スコット 過去全体を見直すことを主張
  →拡大:マスキュリニティ、ホモセクシュアリティ、植民地とジェンダーなどに拡大。
 4.戦後アフリカ史
   西欧的進歩のナラティヴが導入されたが、それへの批判も生まれた。 
   口承伝統の限界と意味が議論された。問題はあるがその意味は疑い得ない。
   歴史が植民地権力の道具として利用されることになった。
 M)ここの1~4はポストモダンの影響を受けなかったとみているのだろうか。

Ⅱ これ以後は、ポストモダンおよびその影響を受けた歴史学の動き
(D)ポストモダン
  1970年代から登場。リオタール『ポストモダンの条件』などがきっかけ。
  ただし、E.H.Carrは1960年代に地盤を準備していた。 
1.言語論的転回:ポストモダンは歴史の「外」から来た。
  言語論的転回は、歴史とフィクションの間の境界線を侵食。
  西欧が中心だが、アジアにも拡大し、それは西欧とは違う近代を求める動きに繋がった。
2.ポストモダンと歴史
(1)主張 「歴史は知識の一形式」と言われていたのを、「歴史はナラティヴの一形式」と改めた。とくにH.ホワイト
   つまり、歴史の記述とフィクションの間には本質的な相違はない。共に物語を語っているのだとした。
(2)批判  マーウィック、エルトン
(3)ポストモダンの意義
   「正統」の解体、脱中心化。構築性を主張。
   ウルフは、ポストモダンがとくに西欧の歴史観(直線的)を相対化し、不連続、非互換的な見方を提示したと指摘。
(4)ポストモダンの欠点
   都合のいい「他者」を「構築」しているのではないかという批判がある。
   左派からは「階級」を軽視していると批判がある。
(5)結論
   ウルフは、ポストモダンは文書やテキストは「それ自身で語りはしない」こと、歴史は人間による「人工物」であることを確認したのだとする。
   M) このことの論理的帰結はどうなるのだろうか?
(E)ポストコロニアリズム
   サバルタン・スタディーズやオリエンタリズム批判を含む。
(1)意義:ウルフは、ポストコロニアリズムは、自分自身の中の「他者」(理性、進歩、西洋)への批判であって、理論ではないと強調。
サイード、スピヴァク、チャタジー
(2)ポストモダンとの重なり
ウルフは、既存の大ナラティヴを不安定化、転覆、脱中心化、「在地化」する点で、また、テキストやナラティヴの読み返しをする点で、ポストコロニアリズムとポストモダンは重なり合うという。
(3)西洋の歴史観の拒絶;例ガンディー
(4)「従属理論」とも重なり合って広がった。
(F)ポストモダン後の動向
 1.ウルフは、「モラル上非難すべき立場を正当化する」歴史が出てきたとして、例えば「ホロコースト」を否定する歴史を取り上げる。
 2.ウルフは、「歴史はだれのものか」「集団の一員でなければその歴史は書けない」のかという問いが出てきたという。
   例 先住民(ネイティヴ)の歴史、オーストラリア「歴史戦争」
 3.ウルフは、国民的な「記憶の文化」、「共有の記憶」としての歴史の登場に注目。(1)これは過去への客観的な態度ではなく、過去に直接、感情的につながる歴史だとされる。
(2)批判:あらゆる国民が強い国民的記憶を持っているとは限らない。
ウルフは、記憶と歴史との関係は曖昧なのだという。
(3)しかし、ウルフは、現代のオーラル・ヒストリーは昔のものとは違うという。
   それはポストモダンを踏まえた「最上の実物」を提供しうるのだと。
   ただ、生存者がいなくなった時にどうするかという問題があるとウルフは言う。
第6章の終わりに
 ウルフは、少数の歴史家しか歴史を考えない時代が長く続いたが、今やその終わりにあると言う。そして、これは歴史の終焉なのかと問う。

***

第7章 私たちはどこへ行くのか
 ウルフは、ここで現代の歴史の状態をどう見るかを示している。
(A)細分化―多様化・専門化が進んでいる。
  これまでにもこういう時には誰かが「統合」をしてきた。ランケなど
しかし、細分化にも意味がある。:新たな主題、見方、活性化を生むという。
(B)「社会性」の欠如
  ウルフは、現代の歴史は、権力に対して真実を語るということをしない。未来を予測しようとしないという。だが、「パブリック・ヒストリー」はこうした不安をある程度緩和するのだという。
  ただ、ウルフは、「社会性」の欠如を批判したが、考えてみれば、歴史は教育的存在であるか否か、善をなすものであるか否か、これには一致した答えはないのだと言う。
(C)「還元主義」
  現代の歴史は過去の人物の糾弾をしなくなっている。ヒトラーやスターリンなど
  ウルフによると、その理由は「還元主義」である。つまり、歴史は個別的な「事実(これは議論の対象にならない)に還元可能であり、それら「事実」の解釈は修正されるべきでも、問われるべきでもないという考えである。つまり、歴史を日付、年代などに単純化してしまうのである。
(D)インターネットと歴史
  ウルフによれば、SNSは、根拠の乏しい歴史的議論をしている。人々に受けるような議論をしている。
  だがインターネットは歴史に大きな恩恵を与えてもいる。例えば、大きな国際プロジェクトを可能にし、史料にアクセスしやすくし、Big Dataを使えるようにしている。
  M) ウルフはまだ生成AIの問題には直面していない。
(E)統合形態
現代の歴史では、惑星全体の過去をとらえ直す試みが進んでいる。
1.グローバル・ヒストリー
(1)1960-70年代の「世界史」の波を踏まえて、ここ20年程の間に登場。
  ―マクニール、ウオーラーステイン等
  M) 江口朴朗氏らの「世界史」はどういう位置になるのだろうか。
(2)グローバル・ヒストリーはポストコロニアリズムの影響を受けていて、ヨーロッパの「周辺化」を目指し、異なる「近代化」を提起している。
(3)グローバル・ヒストリーの「修正」の動き
  ―サバルタン、P.マニング、ル・ゴフ(時代区分)、コンラート(「接触」批判)
2.ビッグ・ヒストリー  D.クリスチャン
(1)「人新生」(人類が惑星に有害な影響を与える時代)の概念を提起
(2)文字の意義を相対化
(3)昔の「普遍史」が文字どおり宇宙的になる。
(4)「トランスナショナル史」「絡み合った歴史」を生み出し、「比較」を超えようとする。→古代の「シンプローケ」(内在的連関)に通底
(5)ウルフによると、グローバル・ヒストリーは、「過去を見るための少し広い窓」にすぎない。だが、「目下の深刻な政治的不安定と、起こり得る環境的災厄を前にして」「我々が共有しているものを認識する」という目的に役立つかもしれない。
  M) ビッグ・ヒストリーには自然科学、人文科学の相互協力が必要であることを見ているのだろうか。

***

本書のおわりに、ウルフはこう言っている。
(1)啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、しだいに取って代わっていったが、「この過程は、・・・多くの場合、植民地という形での政治的従属を伴い、そうでない場合には、土着の社会改革家やリベラルな政治家が、西洋に比して遅れているとみなした土着の文明を「近代化」する手段として、改良された歴史学を受容しようという願望を伴った」。
(2)「当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での「他者」との関わり合いによって深く影響を受けた。だが、それはそうしたオルタナティヴを受け容れたからというよりも(ほぼすべての場合には受け容れられなかった)、「他者」の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるのか、なぜそれが優位な立場を要求しえるかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである」。
 M)つまり西洋の歴史は、「他者」の歴史に影響は受けたが、他者の歴史を受け容れたわけではなく、むしろ自覚を高めたのだと言っている。非ヨーロッパでの歴史の考え方との関係で、ヨーロッパのそれも修正されつつ発展したというのであろう。
(3)「過去六〇年間に世界中で文字どおりの脱植民地化の過程が進んだとすれば、それに並行して歴史学上の脱植民地化の過程、つまり西洋近代の方法論やモデルからの解放の過程も始まった」。
(4)現在「アカデミックな歴史家たちは、・・・ポストモダン的状況の中に堅固に留め置かれている。すなわち過去についてもまた新たな大ナラティヴに対しても懐疑的であり、実際、ますます小さな区別や限定や反例を通じて、一般化に対して反射的に抵抗することが多い。これは大部分の読者が抱く期待とは対立するもので、大部分の読者はいつも両義的であったり傍観者的であったりする態度には我慢がならなくなっている」。
 M) 歴史学は一般社会の要求とかけ離れているというのである。

では、歴史には未来は無いのか。ウルフは、歴史の未来への希望はあるという。その根拠は、
 ① 歴史分野のグローバリゼーションが進んでいること
  ウルフは、グローバル・ヒストリーは、諸文明を同等に評価すべきと主張しているのだと言う。
 M)これはランケの流れだとウルフは言うが、それよりも、ヘルダーではないか。
 ② 歴史が社会的に幅広い人気を維持していること
  ウルフは、アカデミックな歴史は特権的地位を失ったが、一般大衆の歴史への関心が、今ほどはっきりしている時代はないという。
 この②の人びとの歴史への関心について、ウルフはさらに述べていて、現代世界においては、「ほとんど本能的とも言える過去への興味関心が存在する。」という。われわれは現代のすべての問題を「歴史化」しようとする。つまり、その起源やそこに潜む危険などを理解しようとする。だから、一般向けの歴史書はまったく減少していない。歴史は現代の諸問題の起源について、便利な素材を提供しているのであるとする。
 ただし、これらの議論が魅力を持つのは、読者の側に、基礎的なリテラシーがあると想定してのことであるとウルフは言う。

 最後に、ウルフは、一つの「反事実的」思考を提示して終えている。
 もしヨーロッパが世界に覇権を唱えなかったならば、「司馬遷やその後継者によって実践されたような類いの歴史が」世界的に広がっていたのではないか。

2. プレゼン 小谷汪之

(ハンドアウト)

1 『「歴史」の世界史』の「袖書き」
「本書は、ヨーロッパで発達した歴史の考え方、叙述の方法(『歴史』)が、非ヨーロッパに拡大し、そこでの土着の歴史と遭遇したとき、どのような変化が生まれるのか、この相互の『歴史』の『連動』関係を丹念に追う」。

2 『「歴史」の世界史』からの抜粋

抜粋1(382-384頁) 

西洋の脱中心化―ポストコロニアリズム   

 ポストモダンの事業は、同時代の知的運動であるポストコロニアルの研究と重なり、かつ交錯してきた。両者は同一のものではなく、異なる起源と課題(狙い・意図・アジェンダ)を持つが、しかしどちらにも共通するいくつかの特徴がある。ポストモダンと同じく、ポストコロニアリズムも広範な意味を含む用語であり、インドの「サバルタン・スタディーズ」(これは初期にはむしろE・P・ トムソンの「下からの歴史」に対する南アジアの応答であった)やパレスチナの学者エドワード・サイード(一九三五~二〇〇三年)の「オリエンタリズム」批判を含んでいる。中国学者プラセンジット・ドゥアラ(一九五〇年生)が述べたように、ポストコロニアリズムは一つの理論であるというよりは、むしろ自分自身の中の「他者」に対する批判である。この「他者」は、しばしば広汎な「ポスト啓蒙主義」の諸課題として定義され、理性や、進歩や、西洋の文化的・経済的支配の留め難い増大や、国民国家の安定性という虚偽の観念によって特徴づけられるものである。フランツ・ファノン(一九二五~六一年)やC・L・R・ジェームス(一九〇一~八九年)のようなカリブ海の著述家たちによって一九世紀中頃にすでに先取りされていたポストコロニアリズムは、今やサイード(彼の一九七八年の著書『オリエンタリズム』は一つの重要文献である)や、多数の傑出したインド生まれの著述家たち(彼らの多くは歴史以外の分野に属している)に関連付けられることが多い。後者には例えば文学批評家ホミ・K・バーバ(一九四九年生)やガヤトリ・チャクラバルティ・スピヴァク(一九四二年生)、政治学者パルタ・チャタジー(一九四七年生)、そして心理学者で社会批評家のアシス・ナンディー(一九三七年生)らがいる。
 批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えることPostcolonialism as a critical tool has been deployed most widely in Indian or Middle Eastern studies, and has overlapped with postmodernism in having the common goal of destabilizing, subverting or de-centring existing master-narratives (………) in favour of the local and previously marginalized、またテキストや文書を「織り目に逆らって」読み、それが言っていることと同じくらいにそれが言っていないことを見つけ出すことを、共通の目的としているのである。ポストコロニアリズムは、インドのようなかつての植民地に関する研究の視線を、帝国支配者やインドにおけるその後継者たる政治エリートから、従属的立場にある大衆へと向けさせた。ラナジット・グハ(一九二二年生)によって創設されたインドの歴史学のひとつの「学派」であるサバルタン・スタディーズ・グループは、後者の潮流の傑出した一事例であり、独立以前の歴史叙述に対して批判的であるだけでなく、一九四七年以降の歴史の書き換えに対しても批判的であった。彼らによれば四七年以降の歴史叙述も、単に役割を裏返したまま歴史を書いているのであり、在地の政治的エリートに焦点を当てて、人口の十分の九を除外しているのである。サバルタン研究のアジェンダにおいては、従属的で声を発しない人々、在地や地域のものが、国民的なものよりも優先される。この意味での「サバルタン」はアントニオ・グラムシから取られた用語である(=サバルタンは従属的社会集団と訳されることがある)。この集団に関連のある文学理論家の中でもスピヴァクは(彼女はデリダの翻訳もしていて、ポストモダニストとの結節点にもなっている)、サバルタン的アプローチをフェミニスト的主題にも拡大して用いている。近年では、社会史家のスミット・サルカール(一九三九年生)のような一部の古参サバルタン研究者は、この運動がしだいにラディカルになり、ポストモダンと関連を持ってきたことを嫌っている。しかし他の多くの人たちは、マルクス主義的な分析の範疇に背を向けて、植民地主義の言語を脱構築するというポストモダン的関心へと向かっていっている。ある場合には、彼らは西洋の歴史観そのものを、帝国的支配の道具であり、啓蒙主義の進歩観の産物であり、そしてインドの(そして拡張すればその他の旧植民地の)真の意味での過去観に対して「ヘゲモニーなき支配」を可能にするものであるとして拒絶している。真の意味での過去は、一見不可避的に国家へ向かって歩を進めていくヘーゲル的な物語から解放されねばならないのであるIn some cases, they reject Western historicity itself as a tool of imperial control, born of the Enlightenment’s progressivist agenda, and enabling a ‘dominance without hegemony’ over India’s  (and, by extension, other colonized countries’)  true sense of the past, a sense that must be liberated from the seemingly inevitable Hegelian story of progress to nationhood.

抜粋2(431-432頁)

 このことは、学術誌の論考や学識者の会合でしばしば発せられる一つの問いを引き起こす。すなわち、歴史の未来はどのようなものでありうるかという問いである。本書で描いてきたことは、三千年間にわたる過程を通じて、過去を取りもどし表象するための組織的アプローチとしての歴史が、いかに現代世界の教育と文化の主要な一側面へと徐々に発展してきたかということ、またこの三千年間を通じて、啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、東アジアやイスラーム世界、そして本書で言及されていない他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、次第に取って代わっていったのかということであった。この過程は、それと並行してヨーロッパが世界の他の地域のより広い文化的機構を「征服」していった過程と明白にリンクしており、多くの場合、植民地という形での政治的従属を伴い、そうでない場合には、土着の社会改革家やリベラルな政治家が、西洋に比して遅れているとみなした土着の文明を「近代化」する手段として、改良された歴史学を受容しようという願望を伴った。「近代的」歴史(あるいは一九世紀的な自信を込めて用いられた語彙を使えば「科学的」歴史)の支配において、二つの鍵となる時期があったが、それが両方とも野心的な帝国的膨張の時代と重なっているのは偶然ではない。それは、一六~一七世紀の最初の波と、一九~二〇世紀初頭の第二波であった。そして当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での「他者」との関わり合いによって深く影響を受けた。だが、それはそうしたオルタナティヴを受け容れたからというよりも(ほぼ全ての場合には受け容れられなかったin nearly every case it did not)、「他者」の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるか、なぜそれが優位な立場を要求し得るかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである――少なくともヨーロッパ人や、アジアや植民地のその信奉者たちの心の中において――。そして最後に当然のことながら、一九世紀において西洋の歴史観が一見したところ世界的に勝利したように見えた瞬間というのは、この物語の「長期持続」の中ではほんの一瞬のことに過ぎないのであり、過去についての知識を歴史が帝国的に支配するのだという主張は、二〇世紀の間に、文字通りの意味での諸帝国がそうであったのと同じように、内的な不一致や反抗や分離や民主化に曝されてしまっていた。

(報告)

 この『「歴史」の世界史』の全体的な点は、南塚さんがコメントされるだろうと思いましたので、私は、一点に限って扱ってみたいと思います。私の疑問の出発点は、『「歴史」の世界史』の袖書きにありました。これは南塚さんの意見をもとに、編集者の岡崎さんが書かれた文章だと思います。ここには、「本書は、ヨーロッパで発達した歴史の考え方、叙述の方法(『歴史』)が、非ヨーロッパに拡大し、そこでの土着の歴史と遭遇したとき、どのような変化が生まれるのか、この相互の『歴史』の『連動』関係を丹念に追う」と記されています。本当にこれが達成されていれば、本書は素晴らしい本になろうと思います。ただ全体を読んだ時、本当にこのように読めるだろうかという点が、私の持った疑問の出発点です。「非ヨーロッパ」の土着の「歴史」とヨーロッパの「歴史」が遭遇した時、お互いにいわばアウフヘーベンし合うような変化が生まれるということが、本当にあっただろうか。この点に私は疑問を感じました。前掲・ハンドアウトの「抜粋1」をご覧頂ければと思います。「西洋の脱中心化――ポストコロニアリズム」という部分です。私自身は、ポストモダンにはあまり関心がありませんが、ポストコロニアリズムには強い関心を持っています。これは私がアジア史研究者であることからくるものだと思います。本書では、ポストコロニアリズムについて、最初にサイードやサバルタン・スタディーズが取りあげられていますが、その次には中国学者プラセンジット・ドゥアラという人の所説が出てきます。彼は「ポストコロニアリズムは一つの理論であるというよりは、むしろ自分自身の中の『他者』に対する批判である」と言っています。これはその通りだと思います。この「他者」は、「『ポスト啓蒙主義』の諸課題として定義され、理性や、進歩や、西洋の文化的・経済的支配の留め難い増大や、国民国家の安定性という虚偽の観念によって特徴づけられる」とされています。こうした虚偽の観念としての「他者」が自分の中に巣食っているというわけです。ポストコロニアリズムの本来の含意は、植民地支配(コロニアリズム)のもとで形作られた自分の中の「他者」を、政治的独立の後にもなお排除できないという点だろうと思います。そう言った意味ではドゥアラの言うことは正しいと思います。

 次に、その後の下線を引いた部分に注目して下さい。本書の著者は、「批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えることを、共通の目的としているのである」としています。ここで、「それ〔西洋近代的なもの〕を在地のもの、以前は周縁化されていたものに代える」ということですが、この点を、具体的に考えた場合、どういったことになるのでしょう。例えば、1996年に、日本で、「新しい歴史教科書をつくる会」というのが藤岡信勝や西尾幹二らによって結成されました。これは、ポストモダンの影響により西洋近代的な思想の自明性が揺らぎ始め、脱中心化されつつあるという状況の中で、それに乗じて新たに動き出したものだと思います。戦後日本においてローカル化され、マージナライズされてきた、戦前的なもの、皇国史観的なものの復活のような面が非常に強いものです。問題はこうしたものを評価できるのだろうかということです。私自身は、こうしたものを評価してしまってはいけないと思います。こうした点は他地域にもあります。インドにおける歴史教科書問題という長く続く抗争もそのような例です。西洋近代思想の自明性が揺らいだ時に、その隙に出てくるこうした動きに対しては、最も注意深く対処しなければいけないと思います。本書の著者が、「既存の大ナラティヴ(……)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代える」という営みを肯定的に評価したいのであれば、その具体的な例として、「新しい歴史教科書をつくる会」などとは異なる、もっと積極的な意味のある例を示して欲しかったと思います。少なくとも私の知る限り、そういった例は今までなかったと思います。

 もう一つの疑問点は「抜粋1」の次の下線の所です。「ある場合には、彼ら〔ポストコロニアリズムの立場に立つ人たち〕は西洋の歴史観そのものを、帝国的支配の道具、であり、啓蒙主義の進歩観の産物であり、そしてインドの(そして拡張すればその他の旧植民地の)真の意味での過去観に対して『ヘゲモニーなき支配』を可能にするものであるとして拒絶している。真の意味での過去は、一見不可避的に国家へ向かって歩を進めていくヘーゲル的な物語から解放されねばならないのである」という部分です。ここにも引っ掛かりました。「インドの真の意味での過去」とは何でしょう。「India’s (……) true sense of the past」ですから、過去に対するインドの本当のsenseということでしょうか。何を言いたいのかが私にはよく分かりません。インドの人が皆同じようなtrue senseを持つとも思えません。なぜここに、trueという言葉が出てくるのかも理解できないところです。そう簡単にtrueと言えるものではないでしょう。ここでも、India’s true sense of the pastが、具体的には何を意味しているのかを書いてくれているとより理解できたと思います。

 前掲・ハンドアウトの「抜粋2」に関しては、本書の最後のところですが、南塚さんも言及されました。最後の下線部を見て頂ければと思います。「そして当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での『他者』との関わり合いによって深く影響を受けた」と書かれています。これも具体的に、何からどういった深い影響を受けたのかが記述されていないと、本当だろうかという疑問を持たざるをえません。続いて、「だが、それはそうしたオルタナティヴ〔『他者』の歴史観〕を受け容れたからというよりも(ほぼ全ての場合には受け容れられなかった)、『他者』の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるか、なぜそれが優位な立場を要求し得るかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである――少なくともヨーロッパ人や、アジアや植民地のその信奉者たちの心の中において――」とあります。ここでも具体例が入っていると分かりやすいと思います。それがないと、一体何を念頭に置いているのかが理解しにくいのです。

 抜粋1と抜粋2をあわせて考えると、袖書きにいう非ヨーロッパの土着の「歴史」と西洋の「歴史」が遭遇した時、どのような変化が生まれ、その相互の「歴史」がどのように「連動」したのかという点ですが、本書を通してそこまで本当に理解できるのだろうかいう疑問を感じました。

3. コメント 木畑洋一

(ハンドアウト)

1 第5章までについて
*ヨーロッパの歴史叙述を相対化していこうとする姿勢
*第3章で、「新世界」との遭遇に力点が置かれる
*女性への着目(たとえば、190ff、303ff)
*通常こうした史学史で重視されることがないニーチェの強調(276ff)

2 第6章について
*アナールの影響力の強調…「全体史」をどう見るか
 …二宮宏之『全体を見る眼と歴史学』(1986)など日本での影響力の問題
*歴史と社会科学…ここでマルクス主義について言及しないことの意味
  「下からの歴史」の項目でのみマルクス主義を扱うことは部分的
*独裁体制と権威主義体制のもとでの歴史…この項目を立てていることの意味大
  中国についての記述の評価を久保さんにうかがいたかった!
  フィッシャー論争や歴史家論争はここで扱うべき対象か?
*下からの歴史…家永教科書裁判問題を扱っていること、米国での「左翼の歴史」を紹介していることは大きなメリット
*インテレクチュアル・ヒストリー/心理学…最近の「感情史」への流れ
*女性史/ジェンダー/セクシュアリティ…上述のように本書のメリット(と私は思うものの、フェミニスト歴史家たちはどう評価?)
  井上清の他は神近市子だけなのは、やはり日本の状況の紹介不足?
*戦後アフリカの歴史叙述…この項目も大きなメリット
*言語論的転回とポストモダン…こうした動きの影響力は世界の各地で異なったのでは?少なくとも日本では歴史研究の実践上、大きな影響力があったとは思えないが。
*ポストコロニアリズム…先駆者としてのガンディーの位置づけ
*歴史戦争、修正主義、そして「記憶」と「歴史」との疑わしい関係…この項目に最も大きなスペースをとっていることは、著者のスタンスをよく示し、共感。
 被征服者や周縁の民の語られずにきた歴史をめぐる「認識論的暴力」問題の重要性
  オーラル・ヒストリーについては、ここでの文脈のなかで扱う他に、それ自体、方法論としてより強調されるべきか?

3 第7章について…分かりやすい小見出しにするとすれば
 細分化批判への懐疑 / 社会性欠如という非難をめぐる留保 / 単純な「事実」への還元主義と歴史的人物の顕彰問題 / インターネットの功罪 / 歴史の総合の試みとしての世界史の波 / グローバル・ヒストリーからビッグ・ヒストリーまで

4 第7章最後の結び部分について
*歴史の未来の可能性につながる2点…歴史分野の国際化は首肯できるとして、幅広い人気の方は著者のように無条件に肯定できるか?

(報告)

 私からは、全体を見て気づいた点に簡単に触れさせて頂きます。対象となるのは、第6章と第7章ですが、第5章までのところをざっと読むと、基本的には本書全体の性格になりますが、ヨーロッパの歴史叙述を相対化していこうという姿勢が非常に強くあることが見て取れます。ヨーロッパの側から出た史学史の本として、評価すべきだろうと思います。例えば第3章では、「新世界」との遭遇をめぐる歴史叙述の問題に非常に力点が置かれています。また全体として、女性のファクターが各所で強調されており、これも印象に残った点です。また、どういった人物が取り上げられているのかに関しても、古今東西のさまざまな人物が取り上げられていますが、例えばニーチェの議論が強調されています。この点なども、こうしたテーマの議論の中ではユニークなのではないかと感じました。

 第6章、第7章ですが、第6章の方を節の見出しごとに少し詳しく見ていきます。最初はアナールの影響力から始まっています。まずヨーロッパに着目した時にアナールの影響力を強調する点は、頷ける点です。ただ、どういった点を強調するかは問題になると思います。日本の場合だと、アナールの影響はいろいろあると思われますが、やはり一番重要であったのは、「全体史」に対する問題提起ではなかったかと思います。

 歴史と社会科学のところでは、マルクス主義の位置付けが少し気になります。ここではマルクス主義に言及がなされていません。マルクス主義に関しては、「下からの歴史」の項目で触れられていますが、マルクス主義の世界各地の歴史研究への影響力から見て、この項目の中で位置付けがあって然るべきであろうと思います。

 次に独裁体制と権威主義体制のもとでの歴史という項目が置かれています。こうした形で項目が立てられていることの意味は大きいと思います。ただここでかなり詳しく扱われているのは中国、特に大躍進から文革の時代です。この辺りの議論をどう見るのかは、久保亨さんに伺いたかった点です。またここで、フィッシャー論争やドイツの歴史家論争が扱われているのですが、ここで扱うべき問題なのかは疑問に感じます。むしろ、歴史戦争の文脈で扱うべき問題なのではないかと思います。

 下からの歴史という項目が設けられているのも面白い点です。家永裁判問題が扱われていること、アメリカでの「左翼の歴史」に力点を置いていることは良い点だと思います。

 次がインテレクチュアル・ヒストリーということで、心理学の話が出てきます。この本では扱われませんが、最近の流れとしては感情史があり、それにつながる位置付けも十分可能だろうと思います。

 次に女性史/ジェンダー/セクシュアリティが扱われます。この問題は第5章までの部分でも扱われています。これは本書のメリットだと私は思っていますが、フェミニスト歴史家たちが本書をどう評価するのかという点は、また問題になるのかと思います。日本に関しても扱われています。井上清が扱われている点は納得できますが、その他には神近市子だけが言及されています。著者は基本的に世界各地の歴史学の状況をさまざまな材料をもとに見ていますが、どうしても限界があるのではないかと感じます。日本の状況についても紹介不足があるのではないかと思います。これは日本側からの発信がどうであったかという問題とも関わるかもしれません。ただし例えば、高群逸枝に関しては、英語やドイツ語でも多くの紹介があります。そうしたことを考えれば、もう少し広くカバーできたのではないかという気がしました。

 一方、戦後アフリカの歴史叙述に関しては、詳しく扱われています。こうした形でアフリカの歴史叙述が扱われている点も、私は大きなメリットだと思います。

 ポストモダンに関しては、言語論的転回などが扱われます。ただポストモダンを扱う際には、それがどのように世界各地の歴史研究に影響を与えたのかという点は、もう少し議論があっても良いのではないかという気がします。結局はポストモダンが力を持ったのは、先進国の国内であったのではないかと思いますし、日本でも、一つの歴史議論としてはいろいろに議論されますが、それが歴史研究の実践上どれほど大きな影響力を持ったのかという点は、議論の対象になろうかと思います。他の地域でもこうした点に関する議論ができるだろうと思います。

 ポストコロニアリズムに関しては、ガンディーが先駆者として位置づけられています。どのようにしてその位置付けが可能となるのかは気になった点です。

 最後のところで、歴史戦争、修正主義、そして「記憶」と「歴史」との疑わしい関係として項目を立て、ここに最大の紙幅を割いています。これは著者のスタンスをよく示すもので、共感を覚えて読みました。実際に、被征服者や周縁の民の語られずにきた歴史をめぐる「認識論的な暴力」ということが議論されている点も重要で、なるほどと思わされました。ただ、その流れの中でオーラル・ヒストリーについて出てきます。マルクス主義の扱いに関してもそうなのですが、オーラル・ヒストリーもそれ自体、方法論の問題として強調されることができたのではないかと思います。

 第7章に関しては、小見出しを見ただけではわからないところがあり、自分なりに分かりやすい小見出しを作るとどうなるかを考えてみました。南塚さんからも指摘がありましたが、特に「還元主義」のところは、私にもよく分からないところがありました。これを小見出しとしてある程度わかる形にするならば、「単純な事実への『還元主義』と歴史的人物の顕彰問題」となるでしょうか。こういった形になっていれば、もう少しわかりやすかったかと思います。

 第7章の最後の結びの部分で、これからの方向性に関して述べられています。一つ気になるのは、「歴史の未来の可能性につながる2点」です。2点として挙がっているうち、歴史分野のグローバル化・国際化についてはある程度首肯できますし、本書自体がそうした性質のものだろうと思います。もう一つは歴史が幅広い人気を博しているという点で、著者はその見方をかなり肯定的に捉えていますが、この点には疑問を感じます。私たちが書いた『歴史はなぜ必要なのか』は、副題に「脱歴史時代」と入っていますが、「脱歴史時代」をどのようなものとして見るかという問題でもあります。歴史が人気があるからといって、それが歴史学の未来につながるのだろうかという点です。この点について、本書は無批判的なのではなかろうかと思います。

4. コメント 藤田進

 本書の内容から、そして皆さんの発言を聞いていて思った点は、著者は「世界史」について語ってはいますが一面的ではないかということです。私が「一面的」というのは、「下から」の視点が強調されていながら「下から」は見ていないのではないかと感じるからです。本書では扱われない「民衆」、「人民」、あるいは「階級」という言葉にもとづく歴史の流れ、言ってみれば「人民革命」につながるようなジャンルに著者の目があまり届いていないのではないかということです。

 例えば、本書の索引中にマルクス、レーニン、あるいは第三世界についてならばナセル、冷戦期アジア・アフリカ非同盟中立主義のバンドン会議等々、その時々の「人民の歴史」に大きく関わった人物・事柄の項目がほとんど見当たりません。このことから、「歴史」が一部の歴史家の営みの中にあり、歴史が扱うべき人々の九割部分について語ってこなかったという歴史叙述や歴史学理論・方法上の欠陥を本書も引きずっていると感じました。

 私が無国籍難民のパレスチナ人の歴史を重視する立場にあるせいかもしれませんが、本書における世界史の構想や展開の仕方では、圧倒的に多数の人々の現実やそこに孕まれているさまざまな問題が抜け落ちてしまうのではないかと感じます。

 「今、歴史は人気がある」と言われていますが、一方で歴史書が売れないという現実があります。多くの民衆にとって、「歴史」とは何なのでしょうか。本書で問われているような歴史学の役割や有用性が、人々にはほとんど受け止められていないのは大きな問題だと思います。本書には、第三世界、特にイスラム世界についての言及が多くありますが、具体的な歴史上のタームとしての重要性にとどまっており、それらを深めて行くと世界史的にはどうなるのかというところまでは、歴史的関心・認識が十分届いていないのです。こうした現状のまま歴史の新しい展開を求めても、多くの人々は歴史に目を向けないのではないかと思います。

 一方でポピュリズム的歴史理解の方向に人々が持っていかれています。そうした憂慮すべき現状打開に向けて歴史叙述の手は届いているのでしょうか。

 かつてヨーロッパの抑圧権力側が社会主義を装った「愚者の社会主義」を打ち立てて民衆を反動側に組織するという企てがなされました。人類史の成果たる社会主義が歪曲されるとともにグローバル自由資本主義がまかり通っている今日、そうした世界の現実を批判しうる世界史であらねばならない。私は本書を前にして、そうした思いを新たにしました。

5. コメント 油井大三郎

I 本書の意義・・・ほぼ世界各地の古代から現代までの史学史の網羅的な書で、その博覧強記ぶりには驚く。また、その翻訳作業は極めて労苦の多いものだっただろうと拝察。

II 本書の問題点
1 前近代における叙事詩的な歴史記述と近代以降の実証的な歴史記述を連続的にとらえている印象が強いが、中世の歴史記述には史料批判が欠如(p.100)との指摘もあるように、時代的な変化ももっと掘り下げた方がよい印象をもった。

2 西洋的な歴史記述と非西洋的な歴史記述の関連や比較が本書の魅力の一つだが、比較にあたっても、時代や社会構造の差などが考慮外に置かれている印象が残る、例.P.222に司馬光の『資治通鑑』が「啓蒙絶対君主のために書かれたヨーロッパの多くの歴史に匹敵」との指摘があるが、11世紀の宋時代の歴史書がヨーロッパの絶対君主時代の歴史書と類似していると考えるのであれば、その根拠を明示すべきだったのではないだろうか。

3 西洋帝国主義の植民地支配と西洋流の歴史認識との関係について・・・「東アジアの改革者の側にヨーロッパのやり方を受け容れようとする意志」があった(p.281)と指摘して、被植民地側が西洋文明の「先進性」を認めることで、植民地支配を受け容れたような記述が多くみられる。それは一面事実だっただろうが、同時に植民地支配が暴力的に西洋文明を押し付けた面の記述が少なすぎる印象をうけた。

4 グローバル・ヒストリーに関連して、著者は、非ヨーロッパ諸国の歴史記述の復権をも意図して本書を書いたのであろうから、当然、ケネス・ポメランツ『大分岐』2000年への言及があってしかるべきと考える。何故なら、ポメランツは、西欧の産業革命以前のアジアの豊かさや自立性を強調しているからである。また、グローバル・ヒストリーの台頭におけるポメランツの影響力の大きさからしても、本書にポメランツの言及がないのは疑問となる。

5 ポストモダンとポストコロニアリズムの関係について・・・本書では両者を双子のように関連深いものとして扱っている。しかし、ポストモダンは、1968年の5月革命などを「挫折」と把握した西欧知識人が、反啓蒙・反進歩を主張し、マルクス主義などの「大きな物語」を否定する思想を展開した。それに対して、ポストコロニアリズムは、第三世界出身の知識人が植民地の独立以降も、西洋では植民地支配の思想的残滓があるとして批判したもので、帝国主義や植民地主義という「大きな物語」を問題にする点で、ポストモダンの思想とは大きく異なる面がある。著者のこの点への言及がない点に疑問が残った。

6 以上、本書に関わる疑問点を列記したが、世界各地の古代から現代までの歴史家や歴史書を史学史的に述べた類書はないので、歴史記述や歴史学方法論を全時代的や全地域的に考察する際には、必読の文献となることは間違いない。訳者のご苦労に敬意を表する。

6. コメント 佐藤育子

 私は古代史を専門にしています。第6章、第7章は、私が普段扱っている時代からははるかに後の時代です。個人的な話ですが、読ませて頂きながら、丁度学部から大学院に上がる頃に、「史学史」という授業でいろいろな文献や書物を扱う中で目にした名前に、ここで再び触れることができました。思い出しながら、勉強させて頂きました。

 今までに挙がったさまざまな論点は、私自身まだ消化はできていないのですが、これだけ多くの歴史家が登場する中で、木畑先生が言及された高群逸枝の名前が挙がっていないというのは、日本の事情に関して調べきれていないということかと思いました。高群の『大日本女性史』は、学部のゼミか何かで読んだことがあります。

 少し古代史に関してお話ししたいと思います。私が今回この場にいるのは、本書の21ページに私の名前を南塚先生が言及してくださったからだと思います。先生には、ディブレー・ハッヤーミームについて質問を頂きました。これは、旧約聖書の「歴代誌」のことです。直訳ですと「日々のできごと」という意味になるかと思います。年代記のようなものです。急にヘブライ語が出てきたということで、私に声をかけてくださったものと思っています。

 第1章に関しては、「歴史叙述がどういうきっかけで生まれるのか」に関心を持ちました。古代ギリシアと古代ローマに関するところです。古代ギリシアでは例えば同時代の歴史家とその叙述として、ヘロドトスと紀元前5世紀前半のペルシア戦争、トゥキュディデスと紀元前5世紀後半のペロポネソス戦争が挙げられます。本書でも、ヘロドトスとトゥキュディデスから始まっています。一方の古代ローマに関しては、同時代の歴史、紀元前3世紀以前の同時代の歴史叙述が存在しません。ローマ文学の黄金期である紀元前後は、共和政から帝政に転換する国家再編の時期でした。その時に、自らのオリジン、自分たちはどこから来たのか、自分たちは何者であるのかというのが彼らの知りたいところだったのだと思います。ここで、リウィウスやウェルギリウスといった人々が登場します。「歴史叙述がいつ生まれるか」ということが、古代史の場合、特にギリシアとローマの違いです。

 私が専門にしているフェニキア・カルタゴ史に関しては、彼ら自身によって書かれた文献史料は存在しません。つまり、残っているものは、他者が見た彼らに対する理解であるわけです。本書に言及されるヨセフスとポリュビオスは、最終的にローマの庇護のもとに史料を残しますが、この二人がいなければ、フェニキア人の歴史もカルタゴの歴史もわかりませんでした。特にポリュビオスが扱った第一次ポエニ戦争は完本の形で残っており、このポエニ戦争に関する記述がなければ、ポエニ戦争のことも調べることができません。ヨセフスは、ローマの庇護を受けて、壮大なユダヤ民族の歴史である『ユダヤ古代史』を書き記しました。その中でユダヤ民族の古さを持ち出すために、フェニキアの歴史、特にテュロスの年代記に関しても言及しています。この二人なしには、フェニキアの歴史は文献史料からはアプローチできないわけです。そんなことを考えながら読ませて頂きました。歴史叙述がいつ生まれるかということ、そしてそれはさらに遡れば神話と言っていいのかもしれませんが、日本でも例えば、日本書紀や古事記が生まれたのは、ちょうど国家が成熟していった成り立ちの時であり、そこに自分たちのオリジンを求める動きがあったということです。非常に似ているところがあると思いました。

7. コメント 小山田紀子

 ここでは、私の研究分野の紹介をさせていただくことで、本書のコメントに代えさせていただきたいと思います。昨年、8年間かかって『植民地化・脱植民地化の比較史』という本を藤原書店から出版しました(2023年)。私が専門としているフランスとアルジェリアの植民地関係と、日本と朝鮮半島の関係を比較するというものです。現在、フランス語版の翻訳を進めています。日本語版の装丁が綺麗にできています。表紙の上は朝鮮の1945年の解放の写真、下は1962年のアルジェリア独立時、総督府の前で人々が喜んでいるものです。裏表紙には綺麗なアーモンドの花の咲く山の写真を載せました。これはプロジェクト参加者のアルジェ大学の先生が新年に年賀状としてくださったものです。花が綺麗だったからというわけではなく、部族が大虐殺された、まさにその場所の写真だということです。私が後で調べてそういった事情がわかり、裏に載せました。

 共同研究のメンバーは、日本側が10人、フランス・アルジェリア側が4人で、私が新潟国際情報大学の共同研究として提案して始めたものでした。「植民地責任論」を扱った永原陽子氏の研究に続く具体的な例として進めたものです。南塚先生にも木畑先生にも高く評価して頂きました。中身は、今日のウルフの著書の内容の話と比べれば、入り口の部分ではあります。なかなか具体的な比較はできていないのですが、このような国際学術交流で、日朝関係とフランス・アルジェリア関係を比較するのは初めてだろうと思います。

 この共同研究にもつながるのですが、私は学部の卒論から続くテーマとして、対仏独立戦争におけるフランス軍の住民強制移住政策をずっと研究しています。修士課程では南フランスのエクサンプロヴァンス大学に留学しましたが、ここは植民地研究のメッカです。同じところに何十年も経ってからサバティカルで滞在しました(2018-19年)。現地の人々とも交流して、共同研究を組織することができました。ただこれから皆で議論を進めていく段階です。

 もともとの私の研究から見ると、ウルフによる本書やこの研究会は、方法論的に学ぶ場です。一度個別具体的な研究を世に出した後で、方法論的な検証をするということになります。自分がどの方法論を用いているのかが必ずしもよくわかっていなかったのですが、ウルフの本書によってはっきりしたことがあります。私は井上幸治先生からフランス史を学びました。井上先生は、日本にフランスのアナール学派を紹介するという大きな仕事をされました。先生の指導のもと、私がどのように方法論を用いてきたのかが、今になって本書によってわかったところがあります。アナール学派のマルク・ブロックとフェーブルというストラスブール派の第一世代と、『地中海』のブローデル、ジョルジュ・デュビーの社会史などです。藤原書店の藤原良雄さんは、井上幸治先生のアナール学派の日本への紹介を目的に編集者をされていた方です。ブローデルの『地中海』の最初の訳は、井上先生の編で新評論から出版されました。その後、藤原さんが独立して、藤原書店を立ち上げました。こうしたつながりがあり、私たちの共同研究の成果は、藤原書店から出版できました。

 アナール学派のブローデルは、何巻にもわたる『地中海』が出版されており、百科事典のような感じがします。「長期分析」と「計量分析」、経済とミクロヒストリーを行い、「地域史は必ず世界史に取り込まれてゆく」ということを示しました。「地域史」をまず一次史料を用いて実証研究せねばならないという点が、井上先生の教えでした。南仏のエクサンプロヴァンスに留学しましたが、植民地研究の中心だったこともあり、文書研究やアルジェリアの現地調査も行いました。私のアルジェリア研究は、こうした史料に基づいたミクロヒストリーですが、枠組みとしては、オスマン帝国期から独立までを扱っています。

 日本においてもアルジェリア研究は広がってきていますが、この地域を地中海世界として捉えるのか、私のように植民地政策としてフランス・アルジェリア関係を見るのかさまざまです。植民地化の暴力的な戦争と暴力的な脱植民地化の後、今何を目指して研究を進めるのかという点は、まだ先が見えてこない点です。私自身でいま模索しているテーマは、人の移動と帝国の変貌と国民国家の問い直しを、大局的なグローバルヒストリーからではなく、個別具体的なところで分析した上で提示することにあります。

8. コメント 杉本諒

 私は高校の世界史の教員をしています。常に世界史をどのように教えるかを考えていますので、本書もそう言った関心から読みました。「歴史」というのがどのようにつながってきたのか、そして自分がなぜ「歴史」を教えるのかのヒントを得たいと思ってのことです。正直に言えば、歴史教育、歴史がどのように教えられてきたのかという点に関しては、まったく記述がありません。そこをもう少し扱って欲しかったと思います。また、歴史家のビッグネームの成果の比較やまとめはなされていますが、それがどのように民衆に伝わっているのかといった点は、あまり議論されていないのではないかと思いました。私の問題関心から中心に読んでいますので、著者の問題関心とは異なるのだとは思いますが、「歴史」を総体で見た時に、歴史教育というのもやはり忘れてはいけない点だと思っています。

 歴史教育が何のためにあるのかと言えば、それはネイション形成などに帰するものとなるのだろうとは思います。現在の高校の歴史教育では、グローバルヒストリーを大きく取り入れて教科書が書かれるようになっています。「歴史をなぜ教えるのか」がクローズアップされている状況です。ネイション形成に回収されないような歴史教育を私は志しています。歴史学の問題意識がどのように変化してきて、それが歴史教育にどのような影響を与えてきているのか、この点を深めて欲しいと思いました。現代を扱う本書の第6章、第7章では、歴史学の問題意識の変化が羅列されています。ジェンダー史、ポストコロニアリズム、グローバルヒストリーなどです。ではどういう方向に向かうべきなのか、この点をもっと深めて欲しかったと思います。教員としては、それを受けて、何を目指して生徒たちに教えてゆくかを考えることになります。本書では、現代の歴史学の問題が単に羅列されているだけなのではないかという印象を受けました。

9. 訳者よりのリプライ

南塚

 著者に変わって答える必要はなかろうと思いますが、疑問点は明らかにしておいた方がいいでしょう。まず、ポストコロニアルに関する小谷さんの提起についてです。「批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えること、またテキストや文書を「織り目に逆らって」読み、それが言っていることと同じくらいにそれが言っていないことを見つけ出すことを、共通の目的としているのである。」をどう理解するのかという点です。翻訳を進めながら気になっていた点ではあります。私の理解は以下のようなものです。「インドにイギリスの歴史学がやって来て、それを植民地権力や同盟者が取り入れたかもしれないが、それにより、非常にヨーロッパ的なインド史が形成された。インドにおいては封建社会はこうであり、それに代わり市民が出てきて、国民国家がこのように形成された。」といった形で、インド史の大ナラティヴが作られてきていた。それは現地の権力や同盟者が作って来たものということです。こうしたナラティヴを、ポストコロニアリズムが不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したり、在地化するということで、その結果、よりインドに固有の価値、インド的な人の繋がりや社会の構成に即して歴史を考えなければならないということになる、ということではないかと思いながら翻訳しました。

小谷

 本書の校閲をしながら、難しいと思ったのは次の点です。ヨーロッパの歴史学を正面から引き受けたのは、「現地における〔ヨーロッパの〕同盟者」ではなく、実際にはマルクス主義的な歴史学者の方だと思います。マルクスの言葉を非常に単純化して、それをそのまま歴史として捉えるという姿勢は、インドのマルクス主義歴史学者にも共通しています。従って、奴隷制、封建制、資本主義といった社会構成体論が、非常に強い影響力を及ぼしました。日本の戦後史学にもそういったところがありますが。「変革の学」であるはずの非ヨーロッパ世界のマルクス主義歴史学がもっとも「ヨーロッパ中心主義」的であるということに、非ヨーロッパ世界の近代思想のイロニーがあると思いました。

 それから、藤田さん、杉本さんの議論を聞いていて思った点でありますが、本書はあくまでも「書かれたものとしての歴史」の世界史です。書かれた、「高級な」歴史以外は本書の対象にはならないわけです。例えば、「生きられた歴史」という概念があります。日々、人々がその中で生きている非文字的な歴史世界というものが必ずあるはずです。大飢饉の記憶といった記憶の集積としての「生きられた歴史」です。こういった「歴史」は、本書では対象外になっています。それに対して、藤田さんや杉本さんが求めているのは、こういう意味での「生きられた歴史」なのではないかと思いました。

10. 議論の論点

○歴史教育について
・歴史教育に関してもう少し扱われて然るべきだろう。アメリカの歴史研究者には教育への意識が強いだろう。
・「『歴史学』と『歴史教育』の対話」には意義があるが、両者の埋めがたい溝も明らか。
・大学での「歴史教育」の視点、博学連携の視点も重要だろう。
・研究をするだけでは歴史家の役割としては部分的。研究者が教育的機能を果たすことへの視点を持つことも重要。

○社会運動について
・歴史研究における社会運動の役割への視点が薄いのでは。歴史のダイナミズムに繋がらないのでは。
・歴史研究者の語る歴史と、生きている人間が意識する歴史との乖離がどう埋められるのかが歴史学の可能性だが、そこには届いていない。
・そういった趣旨の本が書かれていないということだろう。

○古代史・中世史について
・現代に述べられている歴史の方法(フェミニズム、インテレクチュアル・ヒストリー、ポストコロニアル、還元主義など)で、古代史・中世史を考えることもできるのではないか?
・古代におけるギリシア中心史観とそれへの反論が存在。西部ユーラシア主義の存在。
・地中海史、西部ユーラシア史を設定すると、ヨーロッパの源泉としての古代ギリシア・ローマ史は否定されるのでは?
・西洋と非西洋の二元化という点ではオーソドックス。ただ、細かい論点は紹介されている。

○歴史への一般の関心について
・著者が広い関心には基礎的なリテラシーが必要としていることは重要。
・日本でも「歴史」には人気があるが、興味本位のものから。大河ドラマも人気だが、評価は難しい。
・より突き詰めて考えるべき点だろう。

○植民地支配の暴力性について
・植民地支配の道具としてのヨーロッパ的歴史に関しては幾度か言及。
・植民地統治の中における歴史教育も重要だろう。

(「世界史の眼」No.56)

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書評:クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)
木畑洋一

 帝国というものへの関心は、第二次世界大戦後における脱植民地化進展の結果薄れたと思われたが、冷戦の終結による東欧社会主義圏とソ連の解体以降高まりを見せ、21世紀に入ると、「アメリカ帝国」論の浮上によってさらに強まっていった。そして最近では、ウクライナ戦争やガザ戦争の勃発によって、帝国に関する議論は新たな盛行を見せている。

 この間、世界史のなかでの帝国の歴史を鳥瞰し、それがもってきた意味を論じようとする著作も、いろいろとあらわれてきた。すぐ頭に浮かぶすぐれた作品をあげてみただけでも、ロシア帝国史の研究者ドミニク・リーベン(『帝国の興亡』日本経済新聞社、2002)やイギリス帝国史の専門家ジョン・ダーウィンの著書(『ティムール以後 世界帝国の興亡1400-2000年』国書刊行会、2020)、ロシア帝国史のジェイン・バーバンクとアフリカ史のフレデリック・クーパーの共著(Jane Burbank and Frederick Cooper, Empires in World History: Power and the Politics of Difference, Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2010)などがある。歴史社会学者としての仕事を積み上げてきた著者クリシャン・クマーによる本書も、そうした系列に連なる本である。

 本書は、時間的にみても空間的にみても多様な存在である帝国という政体の性格に、広い視野のもとで迫ろうとする試みである。限られたスペースでそれを行うことは至難の技であるが、本書はその課題に果敢に取り組んで刺激的な議論を展開している。

 本書は時間的には、二つの「裂け目」もしくは「分水嶺」(第一は紀元前1000年頃で世界宗教が登場してくる時期、第二は15~16世紀のヨーロッパにおける「発見の旅」とともに始まる征服と植民地化の時期)を設定しつつ、古代から現在までを対象としている(vii、以下カッコ内の数字は本書の頁数を指す)。一方空間的には、ヨーロッパに重点を置きつつも、それ以外の帝国にもかなりの関心を払っている。とりわけ中華帝国が詳しく扱われているのが特徴的である。

 時間的な議論に関して言えば、19世紀におけるいわゆる「帝国主義の時代」の画期性が等閑視されていることに、評者として不満をもつが、その点については後で触れたい。また空間的には、著者自身断っているように(viii)、コロンブス到達以前の南米の帝国やアフリカの帝国がほとんど扱われていないし、さらに評者としては、日本帝国にも今少しスペースが割かれて然るべきであったとも思うが、これらについての議論を求めるのは、ないものねだりの類であろう。

 ここで本書各章の内容を簡単に紹介しておこう。

 まず序文では、世界的な体験として帝国の歴史を扱う本書の意図が示され、二つの分水嶺と、「帝国移動」という概念とが紹介される。

 第1章「時間と空間のなかの帝国」では、二つの分水嶺の意味が論じられる。第一の分水嶺については、それ以前の旧帝国(エジプトなど)と異なり、この時代に生まれた「古典文明」時代の帝国(ローマなど)が、普遍主義的なイデオロギーを伴っていたことで大きな影響力をもった点が強調される。第二の分水嶺に関しては、その後に展開しはじめた「海外帝国」の性格に注意が促され、スペイン帝国に比べて軽視されがちなポルトガル帝国の重要性が再評価される。

 第2章「東洋と西洋の帝国の伝統」は、「帝国移動」概念を用いてローマ帝国の伝統を軸とするヨーロッパにおける帝国の系譜を論じた後、中華帝国の歴史をかなり詳細に論じる。その上で、西洋におけるローマ帝国とその後継者と同じような意味で中国は帝国だったのかと問い、それに肯定的な答えを与えている。さらにイスラームの帝国についても述べているが、中国に比べてその扱い方は軽い。

 「支配者と被支配者」と題される第3章では、帝国では国民国家においてよりも支配者と被支配者の関係が対立的であるとする通念への疑問が出され、両者間に対立も当然見られたものの、協力や共謀、実際的な妥協といった多様な関係が存在したことが説明される。

 評者の見る所では、本書の中心部分と言えるのは、次の第4章「帝国、ネーション、国民国家」である。本書の帯にある「多くの国民国家は帝国のミニチュアである」という印象的な一文も、この章から採られている(127)。この章で著者は、普遍主義的でマルチナショナルな帝国と均一性・均質性の達成をめざす国民国家との間の原理的な差異を前提としつつも、実際の歴史的様相においては帝国と国民国家の間に類似性が存在し、「帝国から国民国家へ」という変化の過程もはっきりしたものではないと主張する。その際著者が着目するのは、国民国家の内部の多様性(「国内植民地化」という考え方の援用など)であり、帝国の時代と呼ばれる時代が終わった後にも、アメリカやソ連が帝国的権力として存続していることである。現在の中国についても、それが中華帝国の姿を回復していることが指摘されている。

 それに次ぐ第5章「衰退と滅亡」では、帝国の衰退・崩壊をもたらした要因が分析される。ここでもまず中国の例が詳しく取りあげられ、清帝国を崩壊させた中心的要因が、ナショナリズムではなく清帝国を巻き込んだ戦争であったと主張される。その考え方は、第一次世界大戦を通じての各陸上帝国の解体、第二次世界大戦後の各海外帝国の解体(脱植民地化)にも適用され、ナショナリズムの意味が相対化されて「帝国のおもな解体要因は戦争だった」(177)という断言がなされるのである。

 本書の最後の部分である第6章「帝国後の帝国」では、それぞれの帝国が解体した後も、その影響がさまざまな形で世界に残ることが説明された後(ここで最も詳しく扱われるのはハプスブルク帝国である)、脱植民地化後の「逆植民地化」と著者が呼ぶ旧帝国支配地域への移民の問題が論じられる。さらに現在の世界において、ロシアやアメリカ、中国に加えて、EUについても帝国性の存続が指摘され、「混乱の度を深めていく世界において、帝国が何らかのかたちで、秩序にとって必要だと考える人も出てくるだろう」(241)という観測が述べられるのである。

 このような内容の本書は、かなりの包括性をもって世界史のなかの帝国を論じた研究として、重要な意味をもっている。なかでも、本書の中心的主張であると思われる帝国と国民国家の間の類似性や継続性という点は、それを著者ほど強調しすぎることには問題があるとしても、重要な議論であり、さまざまな研究の展望を開くものである。

 ただし、本書で提示されている帝国像、とりわけ第二の分水嶺以降の帝国像について、評者は大きな疑問を抱いており、その点を以下で述べてみたい。この疑問は、本書に関するものであるばかりでなく、本書が一つの代表例となっている近年の帝国史研究の全体的趨勢にも関わるものである。

 第一の疑問点は、帝国支配のもとで見られ、帝国支配の根幹をなした暴力性というものを、著者が過小評価している点である。帝国における暴力的契機についての著者の考えは、「帝国には暴力が入り込む余地があったが、帝国は暴力を引き起こすのと同じくらい、それを抑制する機能も有していた」(226-227)という一文に集約される。もちろん帝国支配のあらゆる局面が暴力でいろどられていたわけではないし、帝国支配の成立・存続に際しては同意・協力といった契機も必要であり、そうした行為による秩序の維持は重要であった。しかし、著者の帝国論においては、また近年の帝国論の多くのなかでは、この後者の側面が過度に前面に押し出されて、暴力的契機が後景に退けられるきらいがある。著者が重視するのが帝国における秩序であることから、内容紹介の最後で触れた一文につながる帝国支配評価の姿勢が生まれてくるのである。

 本書の第3章で支配者と被支配者の間の対立面が軽視されているのも、著者のこの基本姿勢のあらわれであり、植民地の成立や維持過程の節目節目で生じた対立やそれに伴う暴力が軽視される形で、帝国が論じられている。

 先に「帝国主義の時代」の画期性への着目が必要だったのではないかと記したが、暴力軽視の問題はその点にも関わる。この時代は帝国主義列強によって世界が分割され尽くした時代であったが、そこではヨーロッパで「平和」が続いていったのと対照的に、植民地世界では数多くの戦争(植民地戦争)が生じていた。本稿執筆時に続いている「ガザ戦争」でも見られる犠牲者数の極端な非対称性などを特色とするこうした戦争が頻発するなかで、世界史のなかの帝国は新たな段階に入っていったと評者は考えている。こうした植民地戦争は帝国を論じる上で重要な要素であるが、著者の議論のなかでは軽視されており、それと連動する形で「帝国主義の時代」における世界の変容も看過されていると思われる。

 第二の疑問点は、第5章における、帝国の衰退・滅亡要因の検討に際しての、ナショナリズムの位置づけ方である。前述したごとく、著者はナショナリズムが果たした役割を相対化しつつ、戦争(両世界大戦)による帝国支配国側の変化という要因を重視している。もとより、脱植民地化が実際に展開していた時期の議論に見られたように被支配側のナショナリズム、民族運動の力をもっぱら強調することは、バランスを失しており、帝国支配国側の要因を十分に考慮することは必要であるが、著者はそちらの要因を過大評価しているのである。しかも、本書ではそうした戦争要因の内実に踏み込んだ分析はなされておらず、「すべてのヨーロッパの大国が、戦争によって経済的、軍事的、心理的に疲弊した」(179)といった一般論が述べられるのみである。その一方で、戦争といっても、植民地支配の暴力性に対する形で被支配側が引き起こした独立戦争の意味(これは当然ナショナリズム評価に関わる)は軽視されている。

 このような問題をはらむ本書は、著者が何度か好んで引用しているニーアル・ファーガソン(イギリス帝国の歴史を称揚し、アメリカもそれをモデルとすべきであるとの主張を展開したことで知られる)に似て、支配する側からの視線で帝国の歴史をポジティブに描き、そうした帝国性をもつ国際秩序をこれからの世界でも追求していこうとする試みに堕しかねない危うさをもっている。豊富な内容をもつだけに、その点によく注意しつつ接するべき書であろう。

(「世界史の眼」No.54)

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書評 ラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之、山本健介、金城美幸訳、法政大学出版局、2023年刊
早尾貴紀

 本書は2020年に刊行されたRashid Khalidi, Hundred Years’ War on Palestine: A History of Settler Colonialism and Resistance, 1917-2017の全訳である。著者のラシード・ハーリディーはアメリカ合衆国生まれのパレスチナ人で、近現代アラブ・パレスチナ史の研究者である。そして本書の内容をまずは目次で確認すると以下のとおりである。

序章
第1章 最初の宣戦布告 1917~1939年
第2章 第二の宣戦布告 1947~1948年
第3章 第三の宣戦布告 1967年
第4章 第四の宣戦布告 1982年
第5章 第五の宣戦布告 1987~1995年
第6章 第六の宣戦布告 2000~2014年
終章 パレスチナ戦争の1世紀

 こうして見るとシンプルに通史的であること、各章がひじょうに明確に、1917年のバルフォア宣言(ユダヤ人国家建設への英国の支持表明)、1947年の国連パレスチナ分割決議(および48年のイスラエル建国宣言)、1967年の第三次中東戦争(西岸・ガザ地区の全面占領開始)、1982年のレバノン侵攻(難民キャンプの虐殺とPLOの追放)、1987年の第一次インティファーダ(被占領地からの抵抗運動)、2000年の第二次インティファーダ(オスロ体制の欺瞞への抗議)をそれぞれ起点とした、一般的な時代区分となっていること、が読み取れる。

 しかしそう書くと、よくある概説書とどう違うのかと思われる向きもあるだろう。しかし、本書は以下の3点において、比類のない書物となっている。

 1点目としては、著者がエルサレムの名門一家ハーリディー家(学者や法律家を輩出してきた)の子孫であることから、「曽祖父の叔父」の代からシオニスト(ユダヤ人国家推進者)らと直接の交渉があったり、以降それに抵抗するパレスチナ・ナショナリスト内で「伯父」など親族が重要な役割を果たしたりするなど、深くこの地の政治史に直接関わった家系をもち、それに関する私的な歴史資料への特権的なアクセスを得ていることが挙げられる。その史料は、ハーリディー家の私設図書館に収蔵されており、そこには当事者の日記や書簡などの非公式文書も含まれる。さらには生前に親族から直接聞いていた証言も本書を支える貴重な史料を構成しており、本書はオーラルヒストリーとしての側面も有している。

 序章は、曽祖父の叔父ユースフ・ディヤー・アル=ハーリディーが「シオニズムの父」テオドール・ヘルツルとやり取りをした書簡の分析から始まっており、すでにヨーロッパからの集団入植や土地の大規模購入が、先住民社会への壊滅的打撃を与える可能性について、緊迫した交渉がなされている。冒頭からその展開に引き込まれて読んだ。ヘルツルの『ユダヤ国家』は1896年の刊行、ユースフ・ディヤーの書簡、ヘルツルの返信は1899年。このやり取りの分析のなかに、本書の基底をなす「入植者植民地主義(セトラー・コロニアリズム)」の本質がすでに現れている。その点で、本書の起点は副題にある1917年よりも実際さらに20年は遡る。ともあれ、本書が他の誰にも書き得ない特別な性格を持っているのは、この特権的な史料アクセスによる。(とりわけ第1・2章)

 2点目としては、アメリカ合衆国へ留学し国連で働いていた父のもとで生まれた著者自身が米国で学び学位を取り、そしてレバノン侵攻を挟む時期にはベイルート・アメリカン大学で教員をしながらPLOの活動にもコミットし、その後また米国に戻って米国の大学で教授職を得ながら、PLOと国連や米国政府との交渉にも関わったといった諸経験が、本書の論述の随所に描かれている。その意味で本書は「自伝」という側面も持つ。ハーリディー家という名門出という事情に加えて、パレスチナ人として最初期の米国留学者である父を持つという僥倖も手伝い、PLOの古参の活動家たちが無知ゆえに軽視した米国の圧倒的なシオニズムに対する影響力を間近で冷徹に見極めるという、その世代では稀有な分析力を著者にもたらした。しかも1976年から83年という決定的な時期を家族とともに活動家としてベイルートで暮らしたことは、単なる米国の知識人ではなく、イスラエルによる攻撃の凄まじさ、PLOの過ちや内紛、周辺アラブ諸国政府や党派の脆弱さを、身を以て知る当事者という要素を著者にもたらした。

 その後著者は、米国やパレスチナで交渉の場に立ったりアドバイザーになったりしながら、PLOないし自治政府が苦境に追い込まれていく過程にも立ち会っており、本書にはそうした時代の証言という意味合いもある。(とりわけ第3・4・5章)

 3点目として、分析や論述の内容に関わって。「宣戦布告」という各章のタイトルから年代区分の最初の出来事を焦点化しがちだが、本書においては各章で最も深く注目するのはそこではない。1章では、1922年からの国際連盟のもとでのイギリス委任統治のもとで実質的に「委任統治」の理念を全く逸脱し、先住民のパレスチナ人を無視してシオニスト入植者のユダヤ機関のみに代表性と自治を認めたことが、すでにパレスチナ人の「追放」を前提とした入植者植民地主義の制度化であると指摘している。2章で最も紙幅を割いているのは、アラブ新興独立国の脆弱性(旧宗主国英国への依存と新覇権国米国への無知)と相互の対立とパレスチナの利用である。分割決議とナクバだけで語れる問題ではない。3章で繰り返し焦点化されるのは安保理決議242号の罠である。一見「1967年占領地からの撤退」を求めた文面でありながら、その真意の一つは分割決議を大幅に逸脱したイスラエル領「1948年占領地」(1949年休戦ライン)の自然化・固定化であり、もう一つは撤退のためにイスラエルとアラブ諸国との和平条約を促すことであった。すなわちイスラエルの存在をアラブ諸国に認めさせつつ、パレスチナ問題を消去する狙いがあり、実際これ以降、この決議242が中東和平を規定していく。

 4章では、いかにPLOがレバノン国民の反感を買い戦略的に失敗し撤退に至ったのかを、5章では、いかにインティファーダを担った被占領地内のパレスチナ民衆と在外指導部のPLOとが乖離していたか、そしてPLO指導部の判断の誤りと甘さでオスロ体制という壊滅的な罠(パレスチナ自治など実質皆無なままイスラエルは存在を承認され占領・入植も自在にできる仕組み)に陥ったのかを、6章では、第二次インティファーダでそのオスロへの抵抗の仕方において、PLOもハマースも勝ち目がないどころか逆効果しかない貧弱な武力に頼って自滅していったのかを論じている。総じて、自らも深く関与したPLOに対する批判は辛辣を極める。

 大きく3点、形式と内容から本書の特質を概観した。パレスチナ/イスラエル(シオニズム)の100年史を深く知るうえで、類書を見ない特異な書物であると言える。

 著者の論述に対して違和感を覚えたところを2箇所、触れておきたい。一つは6章の西岸・ガザの分断体制に至った経緯のところで、シオニズム・イスラエルの周到さと米国の影響力を訴える著者にしては、この分断の原因を、内部批判の誠実さとはいえ、PLOとハマースにのみ帰した論述は、分析として甘いと思う。著者は触れてはいないが、西岸地区ではイスラエルがハマースの議員と活動家をあらかた逮捕・一掃し、収監するかガザ「流刑地」送りにしたことからも、西岸地区=PLO支配の継続、ガザ地区=ハマースの封じ込め、という政治体制状の分断構図はイスラエルと米国が意図的に生み出したことである。「その手に乗らない」という抵抗ができなかった責任はパレスチナ側にもあるだろうが、分断体制の創出こそが、それ以降現在まで繰り返し続くガザ地区の封鎖攻撃を可能にしている以上、軽視はできない点である。

 もう一つの違和感は、終章のナショナリズムについての論述である。シオニズムを「血と土」を重視する中央ヨーロッパに由来するものとし、フランス革命やアメリカ革命を支えた自由主義の思想には反する、それゆえ現在のシオニズムも西洋民主主義の価値に反する、としているところは、フランス革命後のユダヤ人解放と市民社会化の失敗・挫折、排外主義的国民主義と反ユダヤ主義からシオニズムが生まれ出ていることを忘れてしまっている。現在のガザ攻撃においてネタニヤフ首相とヘルツォーグ大統領が揃って繰り返し「これは西洋文明を守る戦争だ」と欧米諸国に支援を求めていることもそこに繋がっている。

 またこのナショナリズム観と関わり同箇所において、シオニズムというユダヤ・ナショナリズムが生まれたことと、パレスチナ・ナショナリズムが生まれたことも、ともに「同様に偶然の積み重ね」であり、「入植者か先住者かといった違いは意味を持たない」という相対化をしているのは、著者が反論を予期しながら書いているとはいえ、やはり過度な短絡と感じる。イスラエルとパレスチナの相互承認と平等な共存を求めるためのレトリックという要素も認めるが、しかし著者自身のとりわけ序章・1章・2章の「入植者植民地主義」をめぐる周到な論述・分析を自ら無化させかねない性急さであると言わざるを得ない。

 最後に翻訳について。訳者たちの正確でかつ読みやすい翻訳を迅速に完成させ、大規模なガザ攻撃という事態のさなかに世に出されたことに感謝したい。一点だけ、本書の日本語訳タイトルは『パレスチナ戦争――入植者植民地主義と抵抗の百年史』であるが、直訳は『パレスチナ百年戦争――入植者植民地主義と抵抗の歴史』であり、「百年」の場所が主題から副題に移されている。訳者らで熟考した末に、よりシンプルな主題にしようという判断であろうが、主題だけを見た場合は、『パレスチナ戦争』(つまり副題まで見ないと「百年」が出てこない)よりも、やはり原書どおりに『パレスチナ百年戦争』のほうがよかったと私は思う。

(「世界史の眼」No.53)

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『家族の世界史』(メアリー・ジョー・メインズ、アン・ウォルトナー著、三時眞貴子訳、ミネルヴァ書房、2023年)書評
米村千代

 「家族を物語の中心に据えたときに、世界史はどのように見えるのか」(1頁)。著者によれば本書の目的はこの疑問に答えることにある。家族史研究は、時代や地域による個別性や多様性、いわば小さな物語を描き出すことに重点の一つがあったといえるだろう。もちろん家族史といっても研究の幅があり、一言でその特徴を述べることはできないが、少なくない研究は、人々の日常生活に焦点を当てた個別の歴史を描き出すことを重視してきたといえる。比較的大きな物語を描く場合でも、ヨーロッパのある社会層を対象とするなど、世界全体を対象とする研究ではなかった。そうした家族史研究のなかで一時代の日本の家族を研究してきた評者にとって、本書を最初に手にしたときの関心は、どのように一つの流れで「家族の世界史」を描くことができるのかという点にあった。本書は、文字通り家族の世界史を1冊にまとめた稀有な書であり、紀元前一万年以降の家族を、時間的・空間的多様性にも目を配り対象とするものである。家族の世界史がどのように描かれているのかを読み解いていくために、まずは、本書の全体像を目次から概観することから始めたい。章構成は以下のとおりである。

序章 ディープ・ヒストリーとしての家族史
第1章 家族生活と人生の起源-紀元前500年まで
第2章 神の誕生-宗教登場後の家族(西暦1000年まで)
第3章 支配者家族-政治の黎明期における家族のつながり(紀元前約3000年~1450年)
第4章 近世の家族-1400~1750年
第5章 グローバル市場における家族-1600年~1850年
第6章 革命期の家族-1750年~1920年
第7章 生と死の力―国家による人口管理政策時代の家族(1880年~現在)
終章  家族の未来

 次に、序章に記されている本書の視点を確認しよう。序章冒頭において、家族は歴史的に構築されてきた制度であり、自然に生み出されたものではないこと、「家族はそれ自体が歴史を持つと同時に、歴史を作り出してきた」ことを出発点にするとある(1頁)。家族史のすべてを網羅しようとするものではなく、冒頭に紹介したように「家族を物語の中心に据えたときに、世界史はどのように見えるのか」という疑問に答えることが目的であるという。そしてその方法を著者は二つあげる。一つは、「家族それ自体と、家族の時代的、空間的な多様性に焦点を当てる方法」であり、もう一つは、「これらの家族生活が時代とともにどのように変化してきたのか、それぞれの文化が家族生活を営むために独自の方法をどのようにして 見出してきたかについて探求する方法」(1-2頁)である。続いて、家族の定義(「家族は、結婚や類似のパートナーシップ、血統、そして/あるいは養子縁組による文化的に認識された紐帯で結びつけられた人々からなり、多くの場合、一定期間、同じ世帯を構成する小集団」(4頁))を行い、ディープ・ヒストリー/深層史(いわゆる先史の時代から現代までの長期的な展開を、人間の行動や文化の相互作用から読み解くもの)として家族史を位置付ける。

 目次からわかるように、章は時間とテーマに基づいて論じられているため、各章は時間軸として完全に独立しているわけではない。各章において複数の地域が取り上げられ、とりわけ後半においては、それらの地域の歴史は個別に取り上げられるのではなく、相互の影響関係において論じられる。紀元前500年までを対象とした第1章では、人類の起源あるいは初期の文明における女性の重要性に一つのポイントがおかれ、初期の家族生活とジェンダー分業に多様性があったことが指摘されている。第2章が西暦1000年までの家族であり、宗教と家族の関係がテーマとなる。ここから次章へとつながる流れのなかで家父長制が登場する。第3章は、主に古代君主制が取り上げられていて、父系制社会を主な対象としながらも、君主制を持たない地域も考察に含まれる。いずれの地域においても政治と家族関係の結びつき、特に支配者家族との結びつきが時代の特徴として取り上げられていて、この章の主要なテーマとなっている。続く第4章は近世社会がテーマで、アメリカ大陸という「新世界」と「旧世界(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)」との接触から章が始まり、グローバルな家族史の視点がより直接的な題材となっている。この「接触」は、著者の言葉を借りれば「〔無関係な者同士の出会いではなく〕ある種の再会」であり、近世社会の「遭遇」は「人間とは何かについての新しい疑問」(94頁)を提起するものであった。たとえば、征服者は、その手段として被征服者の家族生活へと介入し、結婚を許さない形で被征服者が家族の絆を形成することを阻止しようとした。他方、別の場所では、同盟関係を結ぶための結婚や相続という対照的な戦略もとられた。近世ヨーロッパによる海洋進出と植民地獲得には、在地の宗教との葛藤やキリスト教への改宗という新しい緊張もはらんでおり、宗教もまた本書を貫く重要なモチーフの一つとなっている。第5章は表題の通りグローバル化する市場における家族関係がテーマである。親族による商業ネットワークの形成、混合婚、奴隷制、小農経営が取り上げられている。本書は、一つの国や地域の歴史を個別に論じるのではなく、「接触」や「遭遇」によってもたらされる社会や家族の相互関係と変容を描くことによって全体が構成されている。第5章はこうした本書の筆致が最もよくあらわれている章であるといえよう。第6章は「経済と政治の二重の革命」の家族生活への影響がテーマで、イギリスの産業革命、フランス革命、中国革命が取り上げられている。革命というテーマの下で、階層、ジェンダー、世代の問題が、他の章と同様に、やはり世界史的な観点から論じられる。第7章の主題は人口である。人口政策としての家族政策が、一方で、子育て支援や社会保障などの福祉政策を推進する方向性を持った一方で、植民地支配や優生政策として大量虐殺を引き起こした。著者は本章の末尾を「20世紀末までに、家族は事実上、すべての地域と国家で政治化されたのであった」(210頁)としめくくる。最終章は、歴史を通して未来を語る章となっている。

 空間と時間が交錯する歴史を家族という視点から見たときに、「生と死の力」というテーマは、今もなお、家族研究が重い課題を背負っていることを改めて思い出させてくれる。今日、家族は、多様化、個人化という文脈のもとに論じられる傾向にあるが、「政治化」という視点は依然有効であり、家族にはたらくさまざまな力を長い時間軸や広い空間的視野において絶えず捉えなおすことは、わたしたちに新しい気づきをもたらしてくれるだろう。

 なお、「訳者あとがき」には、11頁にわたる丁寧な解説があり、家族史を今日的な視点に接合するための示唆に富んでいることもあわせて紹介しておきたい。

(「世界史の眼」No.51)

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国連改革の動き
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 先月、P.Manning(パトリック・マニング)が、かれのホームページContending Voicesに出した、USの政策を批判し国連の力の増大に注目する見解Who rules the world today? を紹介した。今月は、それに続いてかれが同じくContending Voicesに発表したThe Campaign for UN Reform(Mar. 3, 2024)を翻訳して紹介したい。もとはアフリカ史を研究していたマニングは、アフリカを中心とする途上国の動きをよく見ているようである。世界的に多数の諸国の動きとして、国連改革の動きは無視できないもののようにも思える。国際的に圧倒的多数の国々の批判を無視してガザのパレスチナ人ジェノサイドを続けるイスラエルと米国、これを許す国際秩序はじょじょに昔のものになりつつあるかもしれない。マニングの大局的な見方を参考にしていただきたい。(南塚)

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 国連の「未来サミット」が2024年9月にニューヨークで開かれるはずである。この会議は、国連の改組に焦点を当てたもので、国連事務総長アントニオ・グテーレスの支援を受けて、数年前から計画されてきたものである。このサミットの声明は、季候の持続可能な発展目標と社会的平等に焦点を当てることになっているが、サミットは長い間求められてきた安保理事会の改革の機会だとますます見られるようになってきている。

1. 国連安保理改革の呼びかけ

 国連の最高執行機関である安全保障理事会は、常任理事国5か国、非常任理事国10か国から成る。5か国はいかなる決議にも拒否権を持つ。この拒否権を使って、米国、英国、仏国は長らく他国の影響力を制限してきた。中国とロシアも常任国ではあるが、安保理にもっと多くの国を加えることを妨げ、グローバルなバランスを阻害してきたのは、米国と英国である。

 1992年にロシアがソ連の崩壊を受けて常任理事国となった時から、安保理の拒否権を見直そうという関心が高まってきている。2015年に、フランスとメキシコが、「大量虐殺」の場合は安保理の常任理事国は拒否権を行使しないことにしようという提案をした。2022年4月には、国連総会は、安保理におけるすべての拒否権を主題にして討議するよう命令を出した。

 もっと近いところでは、2022年10月に、ウクライナでの平和に関する決議にロシアが拒否権を使ったところから、安保理の改革がいっそう緊急の問題となった。(カーネギー国際平和基金の2023年6月のコロキウムでは多くの国から深刻な懸念が示された。)そして、ガザでの戦争が始まった後は、米国が、2023年の10月と12月に3回にわたって戦闘停止の決議に拒否権を使い、そのことが安保理の改革をより強く呼びかけることになった。

安保理に理事国を追加するという事は、強力な候補国の中から選ぶことを必要とする。現在の非常任理事国は選出されているわけであるが、それは世界の5つの地域からそれぞれ2か国ずつ選ばれていて、任期は2年である。そこで、さらに5か国の常任理事国と5か国の非常任理事国を選んで、25か国構成にするということが考えられる。常任理事国5か国には、アジアからインドと日本、西ヨーロッパからドイツ、東ヨーロッパからポーランド、ラテンアメリカおよびカリブ地域からブラジルとメキシコ、アフリカからはエジプト、ナイジェリア、南アフリカが候補として考えられる。

2. 今から9月までのキャンペイン

 2024年3月現在、イスラエルーハマス戦争に関連するいくつかの動きによって、国連の運営をめぐる争いがいっそう激しくなっている。第一の動きは、現在進行中の争いそのもので、2月2日に、米国はガザでの停戦決議にまたもや拒否権を発動した。(この拒否権についての国連総会での討論は3月4日に予定された)。

 第二の動きは、イスラエルに対するジェノサイド告訴に関する1月26日の国連司法裁判所の命令である。司法裁判所はできうる限りで最も強い命令を出して、イスラエルにすべての殺害をやめ、人道援助への干渉をすべてやめるよう要求した。それでも、裁判所は執行機関ではなく、安保理事会のみがこの命令の順守を強制できるのであり、米国はそういう行動には拒否権を使う用意をしている。

 最後に、司法裁判所はイスラエルによるパレスチナ占領は非合法であるか否かについて判断を下すように求める国連総会の要請に答えていた。2月19日の週に50か国以上が裁判所に意見を述べたが、その90%が占領は非合法であると述べていた。

このあと二つのデッドラインがこの先に待っている。一つは、3月10日で、ラマダンの開始の日である。イスラエルは、ハマスが人質をすべて解放しない限り、この日にガザの人口密集したラファ地区への全面攻撃を開始すると約束している米国主導の交渉は成功の見込みはほとんどない。ハマスもイスラエルがガザから撤退しない限り、同意しないという。さらに、ハマスはパレスチナの独立を主張するのに、イスラエルはパレスチナ国家を認めることを拒否している。そして、米国を始め他の8つの富裕国は、UNRWA救済機関への拠出を停止している。米国のバイデン大統領は一方でさらなる武器輸送を計画し、他方で停戦を呼び掛けている。3月には、停戦がなるだろうか、あるいはラファへの壊滅的な攻撃があるだろうか。あるいはその両方だろうか。

 二つ目のデッドラインは9月18日である。これは「未来サミット」の開会の日で、そこでの議論では国連改革が中心となるであろう。きっと大多数の国が、常任国と非常任国を降らして安保理事会を拡大すること、ならびに常任理事国の拒否権を廃止ないしは制限することを求めるであろう。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、島嶼諸国はほとんど一致して安保理改革を支持するであろうーもちろん言うまでもなくガザでの停戦も。一方、ヨーロッパの諸国は、ガザと安保理改革の双方について、意見が分かれるであろう。

 安保理改革のキャンペインは勢いを増している。ガザの停戦および安保理改革の両方を目指して外交活動を最も活発に行っている国々は、南ア、トルコ、ブラジル、アルジェリア、エジプト、スペイン、ベルギー、アイルランドである。アラブ連盟とアフリカ連合は団体として立場を明らかにした。ロシアと中国は、ともに拒否権を失うかも知れないが、このキャンペインを静かに支持し続けている。概して、安保理の構成国の大多数はしっかりと改革支持の立場である。現在の国連総会議長であるトリニダードのデニス・フランシスもかれの2023-24年の任期中ずっと改革を積極的に支持してきた。そして、アフリカから出るであろうかれの後任も、同じ政策を採りそうである。

 改革のキャンペインの原動力になっているのは、安保理の議長自身である。議長は構成国の中で毎月輪番で交代する。2024年の1月と2月の議長はそれぞれフランスとガイアナであった。3月から10月までの議長に選ばれているのは、順番に、日本、マルタ、モザンビーク、韓国、ロシア、シエラ・レオネ、スロヴェニア、スイスである。このすべてが改革支持派である(ロシアとスイスをも含んで)。しかし、9月のサミットが安保理の改革に動いたとしても、最後に2024年中に行われる二つの大統領・首相選挙を乗り越えねば、変化は起らないであろう。それは英国と米国の選挙である。

 安保理改革への支持は国連自身に限られてはいない。中東における旧来の敵対関係が解消しつつある。とくに、トルコとエジプトの関係であるが、サウジアラビアとイランの関係もそうである。ブラジルのルラ・ダシルバ大統領は、アラブ連盟のカイロ会議とアフリカ連合のアジスアベバ会議で、ガザおよび国連改革に言及した。かれは翌日、ブラジルに戻って、リオでのG20の外相会議を主宰し司会を務めた。ここには、米国のアントニー・ブリンケン国務長官も来ていた。この会議で、G20の外相たちは、ガザでの停戦を呼び掛けた。1年前には、この反対に、かれらはウクライナで対ロシア戦争の継続を求める米国起草の呼びかけを発していたのである。

3. キャンペインのありうべき帰結

 国連改革は、実際遅くとも9月の「未来サミット」において山場を迎えるのではないか。安保理の構成の変化の議論が具体的に起こるたびに(実際に起こったときには)、それは激しいものになり、激論さえ起こっている。改革を提案する側は、5大国の拒否権にも拘わらず改革を実現するための道を見出す必要がある。結局は、国連憲章をほんの少し変えるだけで済むはずだが、そのような変更を行い批准するには、国連組織の原則と手続きに基本的な転換が求められるであろう。

 もし、拒否権を縮小ないしは廃止し、安保理に新たな国を加えるといった国連改革が進むならば、安保理と総会と事務総長の間で協力して、パレスチナに国家を打ち立て、ジェノサイドとパレスチナの地位についての国際司法裁判所の命令を実行し、ウクライナ問題に取り組むことができるかもしれない。そのような協力があったとしても、パレスチナやウクライナの問題、さらに中国の領土要求についても、実際の解決は、スムーズには進まないかもしれない。しかし、それらは、根本的に違った世界秩序の中で取り組まれることになるのである。

 一方、若しこの国連改革が失敗するならば、拒否権はそのまま残るだろう。そして米国は軍事力と組織的支配力をもって、グローバルな覇権を維持しようとし続けるだろう。たとえ、他の国からの支持がほとんどなくてもである。最悪の場合には、ガザやウクライナやその他の場所でもっと死者が出るであろう。そしてそのあとには、何年も国連の行き詰まり、国連の政策に一国主義が広がるであろう。これはすべて将来の国連改革のための運動を再開するのに反する事になるだろう。この場合には、米国は多分国連を脱退することを決めるのではないだろうか。それは国連にとっても米国にとっても破滅的なことである。大国の拒否権のない国連は先例のない事ではない。他の大国は、「普通の国」としての地位になることの教訓を学んでおかねばならない。時とともに、これら諸国は皆、世界の共同体の中で協力し合う市民となることを学ぶことになるのである。米国はそれに続くであろうか。

(「世界史の眼」No.51)

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くすぐられた大国意識―黄禍論をめぐって―
稲野強

 「脅威論」とは、一般に「ある国の覇権主義が他国または世界にとって重大な脅威になる言説」と捉えることができるが、ここでは対象国家・国民・民族は、その言説をどのように受け止めたかを考えてみる。その例として「黄禍論」を挙げてみたい(1)

 黄禍論は、現代でも、欧米の言論界で時折人種差別的に持ち出され、物議を醸すことがあるが、19世紀の終わりから20世紀初めにかけて帝国主義期の欧米で流布した黄色人種差別論・脅威論である。その根底には「アジアの野蛮」に対するヨーロッパ=キリスト教世界の防衛という歴史の記憶がある。そしてここで考察の対象とする黄禍論は、日清戦争(1894)で「眠れる獅子」の中国に勝利した「小国」日本の急速な台頭と、日本が中国と連携ないしは中国を指導してヨーロッパ勢力をアジアから駆逐するのではないか、という欧米の危惧の念もしくは恐怖感から出現したものである(2)

 この黄禍論=脅威論に対して日本政府・ジャーナリズムはどのように反応したのか。

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一般に黄禍論の火付け役は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とされる。かれは、従兄弟のロシア皇帝ニコライ2世にけしかけ、ロシアの目を東アジアに向けさせる方策に出た。そのために、すでに人口に膾炙しているが、かれは黄禍の「脅威」をわかりやすく視覚に訴えるべく、タイトルに「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な財産を守れ!」と付した「黄禍の図」なるものを描き、その複製画をヨーロッパの王室、元首、米大統領に贈るという愚挙に出たのである(3)。描かれたのは、ヴィルヘルム2世の手紙によれば、「ヨーロッパの姿が仏教と野蛮の侵入に抗して十字架を守護するために天使ミハエルに招かれている聖者」である(4)

 ところで、ヨーロッパで流布した黄禍論に対する日本側の反応の早期の例としては、駐独(兼駐英)日本公使青木周蔵が1895年5月17日に、当時のヨーロッパ世論の動向を山県有朋に紹介している「手紙」が挙げられる(5)

 「…加之〔しかのみならず〕、日清の間に於て、『亜細亜は亜細亜人に属すべしとの主義』に基由する協議相整ひ、攻むるにも守るにも互に応援援護すべしとの攻守条約を締結せんには、黄人の勢力益々旺盛となり、白人社会は危害を受くるや必せり。故に、今や一方に於ては、日本人を牽制して其の勢力を発達牽制し、他の一方に於ては、是に由て清人を開明の区域に進歩せしめざるにあり、云々」と。

 また駐仏日本公使栗野真一郎は、1900年7月に青木周蔵外相への電報で英仏で黄禍論がジャーナリズムを賑わしていることを伝えている(6)

 「大体は日本が早晩支那と一致し、4億の人民に号令し、其固有尚武の精神を吹き込み、以て欧州に反対するに至れは、之れは由々敷大事にして、到底欧州の強敵たるを免れず。されは、日本をして今回の機を利用して支那に優勢を独占せしむる如きは極力排斥せさるへからすと諭し、又た政客中にも続々新聞に投稿し、黄色人種の危険Yellow Perilを喋々して日本圧抑の議論を称へ、平素沈黙を守るものも前記論旨には首肯すと云ふ有様にて、従ひてその反応も亦意外に偉大なりしは本官の遺憾とする処に有之候」〔原文は片仮名混りで、読点・句読点なし〕と。   

 両者とも、日清戦争で世界に力を見せつけた日本がリーダーとなり、中国と連携してアジアをまとめ上げ、一致団結してヨーロッパに刃向かってくる、という当時ヨーロッパで喧伝されていた典型的な黄禍論を紹介しているのである。かれらは、黄禍論を否定せず、その正当性を追認することで、期せずして日本の存在感を示しているように見える。ことに青木の指摘は、日本と中国との「黄人」〔黄色人種〕同士の連携を提唱しており、欧米列強が危険視するアジア・モンロー主義、大アジア主義への傾斜さえ明確に思考している。こうした思考は、日本国民・民族に対外的な危機感を募らせ、ナショナリズムを高揚させる働きをした。さらに、その動きは、勢いを得て、軍事力増強を果たし、大国意識に目覚め、「勢力圏たる」朝鮮半島を確保し、大陸進出への道を準備したのである。

 だが、その一方で、黄禍論を根拠のない妄想として、穏便にかわそうとする人々も主流として存在した。欧米列強に日本の近代化=西欧化の促進をひたすら承認を願う戦略をとる、言わばのちの国際協調派ともいうべきリベラルな政治家・官僚・ジャーナリストの志向である(7)

 かれらは、当時、日本が外交上もっとも苦慮している条約改正問題の完全な解決を果たしていない現状では、日本が近代化に邁進し、成功した国であることを世界に示す必要があると考えた。ただし、そこでは他のアジアの国々との同列化を嫌い、劣等国家・国民視されるのに耐えられずに差別化を図る自画自賛的な言論も見え隠れしている(8)。日本は、文明化された国であって、すでに「アジアの野蛮」を脱し、憲法を有し、議会主義が機能し、自由貿易が行われ、言論・移動の自由、信教の自由など市民的自由が保証される列国に連なる近代国家というわけであった。したがって、のちの日露戦争(1904‐5)においても、その方針は貫かれ、この戦争が、人種戦争、宗教戦争であることを否定し、「野蛮な」ロシアとの違いを明確に示し、自身をヨーロッパ文明に連なるものとするのである(今なお続く「西側諸国の一員」とレッテルを貼られたがる志向)。文明の側に立っているのは、ロシアではなく日本であるという優越意識の表明である。

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 そうした中で、上述の「〔黄禍論を虚妄として〕穏便にかわそうとする派」にとって危惧する極めて不都合な発言が日本の政治の最高指導者のひとり元老・伊藤博文から出た。その経緯は、こうである。

 伊藤は、1901年12月下旬にイギリス・ロンドンのモーブレイ・ハウスで上述の「黄禍の図」の複製画を見たとされている〔当時、伊藤は、12月上旬にロシアで日露協定交渉を打ち切り、イギリス・ロンドンに移動していた〕(9)

 お雇い外国人でドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツが、この絵を見た伊藤の不快感を、日記に次にように書き記している(10)

 「ドイツ皇帝は、ご自身のお描きになった絵の上でヨーロッパ文明の最も神聖な財宝が蒙古人によって脅かされていると説明されました。この場合だれであろうわれわれ日本人をお指になったことは疑いないところです。なぜなれば、…無気力な清国ではなく、頭をもたげてきた国日本こそ脅威的だったからです。しかもあなた方の皇帝のこの絵の中でわれわれは『放火殺人者』なる立派な役割で表されています」。

 この発言で注目すべきことは、日本の政治指導者の一人である伊藤が、欧米人が脅威と見なしている対象は、弱体化した中国ではなく他ならぬ日本であると断言し、黄禍論の存在を自ら肯定している点である。この伊藤の発言は、彼の身分ゆえに日本の総意ととられかねず、自国の近代文明と国際協調ぶりを世界にアピールし、国際的な承認を得ることを外交方針としていた日本政府にとって憂慮すべき案件となった。つまり、日本政府としては、事もあろうに日本が中国を従え、アジアのリーダーとして、ヨーロッパに脅威を与えるという黄禍論を「妄言」として打ち消しに躍起となっていたまさにその時期に、欧米列国に上げ足を取られる格好の材料を提供すると危ぶまれたのである(11)

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 対抗相手国や国民を非難し、軽蔑し、貶めるために喧伝された思想(ここでは黄禍論)が、往々にして逆に当の相手に優越感を覚えさせることもある。つまり、そうした思想によって敵視されたはずの国家国民は、当然ながらそれに反駁し、被害者意識をもつ。それと同時に、相手に注目され、脅威と見なされる存在であることで自らの自尊心がくすぐられる。それどころか、場合によっては「被害国家・国民」は強国意識・大国意識を覚醒させ、はては自国のパトリオティズムないしはナショナリズムに一役買う機会を与えられることになるのである。

 こうして被害者意識を植え付けられたはずの脅威論=黄禍論には、逆に対象国・国民(ことに日本の政治指導者、言論人)に大国意識を目覚めさせる側面があることが分かる。したがって日本政府・ジャーナリズムは黄禍論を声高に叫ぶことで、自国民を煽り、自国のナショナリズムを鼓舞するために、それを最大限利用した点も見逃すべきではない。

(注)

(1)平川祐弘『和魂洋才の系譜』河出書房新社、1971年、橋川文三『黄禍物語』、筑摩書房、1976年、ハインツ・ゴルビッツアー(瀬野文教訳)『黄禍論とは何か』草思社、1999年、飯倉章『イエロー・ぺリルの神話―帝国日本と「黄禍」の逆説―』、彩流社、2004年。

(2)拙稿「ハプスブルク帝国の轟く黄禍の叫び」『歴史読本』第56巻1号、新人物往来社、2011年、116‐121頁

(3)この図は、1895年4月、かれが下絵を描き、宮廷画家ヘルマン・クナックフスが仕上げた。同図は、『太陽』第14巻第3号、1908年3月、および橋川、前掲書の口絵にも使われている。

(4)ニコライ2世宛の手紙は、1895年9月26日付。大竹博吉監輯『独帝と露帝の往復書簡』ロシア問題研究所、1929年、19頁、大竹博吉訳纂「第3編 極東に関する露独両帝の往復文書」『外交秘録 満州と日露戦争』1933年、ナウカ社、300頁

(5)青木周蔵『青木周蔵自伝』東洋文庫、平凡社、1970年、286頁。この手紙は、橋川、前掲書、20‐21頁でも紹介されている。

(6)「機密第25号、7月28日付(「英人『ミトフォード』の対日誹謗論文に付報告の件」)」、外務省編纂『日本外交文書』第33巻別冊1、北清事変 上、1956年、428頁、大谷正『近代日本の対外宣伝』研文出版、1994年、324頁。

(7)逆に、政府の列強との協調姿勢は、屈辱的と見なす反西欧主義者の批判を受け、排外的国粋主義やナショナリズムの急速な台頭を促すことになった。ケネス・B・パイル(松本三之介監訳、五十嵐暁郎訳)『欧化と国粋―明治新時代と日本のかたち―』講談社学術文庫、2013年。
(8)日本人が、ヨーロパ人から他のアジア人と同列に扱われるのを屈辱と感じるのも、優越主義の表れである。森鴎外曰く、「白人種は我国人と他の黄色人とを一くるめにして、これに対して一種の嫌悪若しくは猜疑の念をなし居るのでございますから、…」「黄禍論梗概」『鷗外全集』第25巻、359頁、1973年。この個所は、研究上よく引用される一文である。例えば、中村尚美「日本帝国主義と黄禍論」『社會科學討究』(早稻田大学社会科学研究所)第41巻121、1996年、268頁。また平川、前掲書、148頁、飯倉、前掲書、106‐107頁。

(9)伊藤が、ロンドンで絵を見たというエピソードは、飯倉、前掲書、91頁、また同、第4章(注2)、16‐17頁を参照。

(10)トウ・ベルツ(菅沼竜太郎訳)『ベルツの日記』上、岩波文庫、1979年、320頁、中村、前掲論文、265頁。

(11)伊藤の発言以前に物議を醸したのは、近衛篤麿の「同人種同盟 附支那問題研究の必要」である。この論考は、日本が東アジアにおける野心を明確に表明していると受け取られた。「…最後の運命は、黄白人種の競争にして、此競争下には、支那人も、日本人も、共に白人種の仇敵として認めらる丶の位地に立たむ。…」、「支那人民の存亡は、決して他人の休戚に非ずして、又日本人の利害に関するもの」だから、日本人は中国人と協力して「人種保護の策」を講じなければならない。と。『太陽』第4巻第1号、1898年1月1日、1‐3頁。

(「世界史の眼」No.50)

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今日、世界を支配するのはだれか
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 イスラエルによるガザのパレスチナ攻撃は続いている。圧倒的な国際世論にも拘わらず。その背後にはアメリカ合衆国(US)の支持がある。最近、さすがにその支持には留保が付けられてきているようだが、イスラエルの戦闘の意思は固い。

 このようなガザ戦争について、そして何よりもUSのイスラエル支持について、US内部でも批判の声が高まってきている。われわれの良き友人である世界史研究の主導者P.Manning(パトリック・マニング)が、かれのホームページContending Voicesにおいて、USの政策を批判し、国連の力の増大に注目する見解を発表した。Who rules the world today? と題する小論である(Jan. 30, 2024)。彼はその小論を一人でも多くの人に共有してほしいというので、それを翻訳して我々のHPに載せることを歓迎してくれた。以下、マニングの小論の翻訳を掲載する。かれの大局的な見方を参考にしていただきたい。(南塚)

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はじめに

 イスラエルとガザの危機は世界の転換点になりそうである。USの世界支配はグローバルな世論に支えられた国連におけるコンセンサスに取って代わられるかもしれない。つまり、国連総会が国連安保理での5大常任理事国の拒否権というものを素通りして、大量殺戮を断固として終わらせ、戦後の体制づくりの調整をするかもしれない。

 なぜ国連総会が事態をその手中に収めなければならないのか。国連は大国よりも全世界の国々を代表するようになってきたので、USは頻繁に拒否権を行使するようになり、そして、UNの行動を阻止して、みずからの軍事的・政治的行動を拡大しようとしている。ここにはパレスチナ人の権利を制限し、イスラエルを武装化するための拒否権も含まれている。

1. 最近の危機の詳細

《ハマスの攻撃とイスラエルの報復》
 数年間の戦争の後、10月7日に行われたハマスのイスラエル攻撃は、1200人の人を殺した。ハマスは約200人の人質も取った。イスラエルはすぐに反応し、今でも続いている。USはイスラエルの戦争のために武器と政治的支持を与え続けている。4か月近くの爆撃と銃撃によって25,000人以上のパレスチナ人が殺された。とくに女性と子供である。そして、200万人が避難民となった。

《グローバルな世論》
 ガザでの平和を求める最近の世界的なデモは、これまでのそのような呼びかけのどれにも優っている。それは同一の意見ではない。しかしそれは未曽有のものであり、それが続けば、各国政府に影響力を与えるであろう。

《USの政策の偽善性》
 バイデン大統領とブリンケン国務長官は、イスラエルが戦争を縮小していると言う。だが、バイデンは米国議会に諮ることなく、イスラエルに攻撃兵器を送り、イエメン、シリア、イラク、レバノンを爆撃している。偽善性は明らかである。USは平和を支持していると主張するが、戦争を支持し続けているのだ。USの指導者たちは自分たちがイスラエルとパレスチナの戦後体制を決めるのだと期待している。だが、ワシントンはイニシアティヴを失いつつあるように見える。この間、EUのほとんどのアメリカの同盟国は戦闘の中止を求めている。国連総会の12月の緊急総会では、27のEUメンバーのうちの17国が停戦を支持した。その後、EU議会は停戦と人質解放を可決した。

《USの拒否権》
 12月8日の安保理において、停戦決議は全会一致に近い支持を得た。しかし、USが拒否権を発動した。国連における拒否権は、1950年以来少なくとも11回は克服されたが、USの拒否権は一度も克服されることはなかった。国連は新たな手続きを開発しない限り、行動をすることはできないのだ。

《南アのイスラエルに対するジェノサイド告訴》
 2023年12月29日、南アが国際司法裁判所にイスラエルがジェノサイドを犯していると告発した。「国民、民族、人種、ないしは宗教集団を、すべてないしは部分的に抹殺しようという意思をもってなされる罪」を犯しているというのである。南アは、速やかに「暫定措置」を裁定するように求めた。それによって、イスラエルに、ジェノサイドを犯すあらゆる扇動を止め、軍事行動を停止するなどを命ずるようにするためである。1月11-12日に公聴会が開かれた。バイデン大統領その他の幹部は、ぞんざいにもイスラエルに対する南アの主張を「価値のない」ものとして無碍にした。
 国際司法裁判所は、17人の判事をもって、1月26日に判決を出した。裁判所は、1948年のジェノサイド条約にきっちりと基づいて、イスラエルに対して可能な限り強い命令を出した。裁判所は、殺戮と軍事行動などを直ちに止めることを命じた。これは「停戦」命令という言葉こそ使わなかったが、それに等しいものであった。さらに、イスラエルに、人道的支援を行うこと、ジェノサイドの扇動を罰すること、そして一か月以内にその遵守について報告することを求めた。裁判所はまた、人質の解放への関心をも表明した。

2. 危機の起源

《国連管理》
 恐ろしい戦争と二発の原爆の後、1945年につくられた国連とその安保理は、世界の秩序を指導するはずであった。そのとき国連憲章は安保理の5大国に拒否権を与えた。国連が、大国よりもむしろ世界のすべての国を代表するようになると、USとその他の大国は安保理の決議に拒否権を発動することによって国連の活動を制止し始めた。1970年以後の主な拒否権を見ると、イスラエルの軍事行動を擁護するためのUSの拒否権、2022年のロシアのウクライナ戦争を終結させる決議へのロシアの拒否権、シリアでの停戦についてのロシアの拒否権などがある。

《イスラエルとパレスチナ》
 イスラエルは1948年に国家として承認されたが、パレスチナは国家としては認められなかった。いまでは、イスラエルとパレスチナに600万人のパレスチナ人と700万人のイスラエル人が住んでいる。過去70年の間にいくつもの衝突があって(1947-48年、1956年、1967年、1982年、2009年、2023-24年)、その間に約1万3000人のイスラエル人と、約6万人のパレスチナ人が死んでいる。いまのイスラエル政府は征服を狙っている。つまり、パレスチナ人をすべて追出し、パレスチナをイスラエルに併合することを狙っている。

《世界中の世論》
 歴史的に見ると、社会的・人道的危機(例えば、1989年に起きた天安門事件、ベルリンの壁、南アのアパルトヘイト、2003年のUSのイラク侵攻)に対する地球大の大きなデモが社会変化に影響を与えそれを強化したことが分かる。これらの大衆的意思表示は、世界的な脱植民地化(100の新興国が独立)と、多文化主義(世界的な人の移動と文化交流の結果)から生まれたものである。そういう過去と同様、世界的な世論は、イスラエル―ハマス戦争とその最終的軌道にかんする世界的な決定に依然として意味を持ちつづけるであろう。

3. 次は何が起こるか

 現在の虐殺は何らかの形で終わるであろう。しかし、だれが決着をリードするのだろう。

《シナリオ1―国連が主導する》
 1月26日の国際司法裁判所がイスラエルにジェノサイドを回避ないしは終息させるように命じた判決に基づき、国連安保理と国連総会がイスラエルの順守と危機の解決を求める。国連の主導する諸国の連合とともに、パレスチナ人が勝利する。国連は、おそらく1967年以前の国境によるパレスチナ国家と、パレスチナ市民の権利を早急に承認するよう要請するだろう。その場合、国連におけるUSの役割はどうなるだろうか。望ましいのは、USが政策を変えて、解決にいたるための国際的努力に合流し、イスラエルに合意に至るよう後押しすることである。

《シナリオ2-USが覇権に固執する》
 もしUSが大国としての影響力を行使し続ける―国連のコンセンサスを圧倒して―ならば、そのときにはイスラエルが優位に立つだろう。実際、USの高官たちはすでに国連に相談なしに戦後処理を準備しつつある。その際には、パレスチナ人の長続きする国民国家はすぐにはできないであろう。なぜならそういうUS=イスラエル主導の決定にはごく限られた国々しか参加しないだろうからである。おそらく紛争は続くであろう。

《別のシナリオ》
 もし、USがイエメン、シリアその他の国への攻撃を続けたり拡大したりしてイスラエルのガザ攻撃を支援し続けるならば、戦争はさらに中東に広がり、場合に依ってはもっと大きく世界的な紛争にさえなることが考えられる。USはそのような危険を冒しつつあるように見える。そうなれば、世界情勢に破滅的な変化を引き起こすであろう。
 国際司法裁判所の最近の命令はイスラエルに戦争を中止させるかも知れない。しかし、それですぐに終戦にはならないであろう。国連安保理がイスラエルとUSに戦争を中止し裁判所の命令に応ずるよう指令する決議を提案することが予想される。その際、もしUSが拒否権を発動したら、国連総会が同じくらいに強い規制を可決しようとするであろう。
 もし国連とそのメンバーがこの度の危機を解決する事が出来れば、USの国民と政治家たちは国連と、その重要性と、その組織にもっと関心を払うべきであるということを学ぶであろう。パレスチナとイスラエルにおいて、公平な講和は多くの人に歓迎されるであろう。もちろん、平和への道程にはまだ重要なチャレンジが待って居るだろうけれども。しかしながら、世界中の大小の国にとって、国連が強くなることはポジティブな展開である。より強い力は、国連をその本来のヴィジョンにいっそう近づけるであろう。つまり、国際的な平和と安全を守るというヴィジョンである。

(「世界史の眼」No.50)

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書評:マーク・B・タウガー著・戸谷浩訳『農の世界史』(ミネルヴァ書房、2023年)
倉金順子

 農業は、われわれ人類の生命維持活動に必要不可欠である食料の生産を担い、一国(家)レベルにとどまらず、世界規模での食料の安定的確保に重大な役割を果たしている。われわれの生存は農業によって支えられていると言っても。決して過言ではない。「ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー」より刊行された、ロシア・ソ連史と農業史を専門とするマーク・B・タウガーによる『農の世界史』は、世界各地の農業の歴史、そして農業に従事する農民の歴史を概説し、現代における喫急の諸問題への展望を提供する。

 原書はRoutledge社の「主題で見る世界史」シリーズの一冊であり、序「世界史における農業と農民の位置」で著者は、同シリーズの他の各書が文明を構成するものの根幹であり、文明が生み出した重要な産出物を主題としている中、本書の主題である農業は文明に先行し、その前提となるものであったことを主張する。自然環境と都市文明との接点として奉仕してきた農民たちは、両者との関係において従属的な存在であり続けた。本書はこの「二重の従属」を分析枠組みとし、農民と自然環境と農民に依存してきた文明の間の関係の変化を考察する。続く各章では、農業の起源から21世紀に至るまでを時系列で追い、長いスパンの歴史的展望を提供することが試みられている(pp.1-3)。以下、各章の内容について簡単に紹介していきたい。

 第1章「農業の起源と二重の従属」では、世界各地の農業の起源の解釈から始まる。後半では著者は『銃・病原菌・鉄』や『昨日までの世界』等の邦題著作で知られるジャレド・ダイヤモンドが展開する農業が「人類史上最悪の誤り」とする「悲観的な解釈」に異論を唱えたうえで、「二重の従属」を本書の分析枠組みとした意義を説く。(pp.18-21)。ひとつに農民は自然環境に従属しており、天候や環境の変化、動植物の活動といった農業生産の脅威に対抗してきた。もうひとつに農民は都市文明、ないし都市および都市民による支配下に服しており、一方で農業生産の向上や圧制軽減のために権力側から支援を受けることもあった(pp.21-22)。

 第2章「古代の農業―土地と自由にまつわる最初の大いなる闘争」では、ギリシャ、ローマ、中国のそれぞれの古代農業社会における異なるタイプの「二重の従属」が明らかにされる。この時期は環境的な要因や当局の対応は異なっていたものの、農民が村域外の強力な権力に地方が従属するという状況に直面していたという点、権力側が改革政策をもって農民問題の解決を試みていた点においては共通していた。

 第3章「古典古代以降の農業」では、西暦500年から1450年ごろまでの約1000年における「二重の従属」の複雑な変容を辿る。農民と大土地所有者との対立関係は引き継がれ、両社間で「自律と生存をかけた闘争」が絶え間なく行われた(p.88)。三つの時期に迎えた温暖化により特に北半球で農業が発展する中、ヨーロッパの中世村落では荘園制が確立した。しかしながら、14世紀前半に小氷期の始まりにより大飢饉、さらに疫病の流行に見舞われた。中国でも恒常的な自然災害による飢饉が繰り返された。こうした危機への対応もあり、ヨーロッパにはイスラーム教徒によりアジアの作物がもたらされ、中国では農業の技術革新が推進された。

 第4章「近世の農業とヨーロッパ式農業の優位―1500~1800年」は、農民たちが「二重の従属を最も極端な形で経験」(p.133)した近世期を対象とする。長期の小氷期が続くという同時期の環境的要因は、慢性的な不作や飢饉を引き起こした。農民たちは「隷属的システム」の下に置かれていたという点では世界各地で共通していたが、中国や日本では農奴解放の動きも見られた。一方でヨーロッパでは、東部の「再版農奴制」に代表されるように「隷属的システム」が維持され続けた。さらに、アメリカ大陸へと拡大し、奴隷労働に依存したプランテーション複合体が形成された16世紀の状況もここに含まれる。

 第5章「19世紀の農業―解放、近代化、植民地主義」では、ヨーロッパ資本主義経済の形成、ヨーロッパおよびアメリカによる経済・政治的な支配の台頭に伴う、農奴解放や奴隷解放、オランダやイングランドにおける農業制度の発展といった近代的な変化が焦点とされる。環境的要因としては、小氷期から地球規模の温暖化が進行し、エルニーニョ現象や台風といった自然災害が農業においても深刻な危機をもたらし、「二重の従属」は依然として続いた。本章では植民地での農業制度についても検討される。また、この時期には品種改良など農業科学の発展により、世界市場を舞台とした「アグリビジネス」が台頭し始めた。

 第6章「農業と危機――1900~40年」は、農業が「一連の経済危機と政治危機の主要な課題」であった時期を扱う(p.181)。19世紀に始まった地球温暖化が20世紀に入っても農業危機の発端となる中、世界は第一次世界大戦、大恐慌、飢饉など危機的状況を経験した。これらに対しての各国政府による大胆な取り組みは、農業および農民のあり方に変革をもたらすことにもつながった。本章ではファシスト国家や植民地における農業、東欧やソ連の農業革命も取り上げ、各国政府が主導する技術支援や財政支援が、結果的に農民にとっての「先例のない従属」を生み出したことを指摘する(pp.233-234)。

 そして、著者が本書の中でとりわけ紙面を割いているのが、第7章「農のブームと危機―第二次世界大戦から21世紀」である。ここでは、第二次世界大戦以後アメリカが牽引した世界の食糧制度の変容、共産主義的農業制度、緑の革命と呼ばれる農業技術革命、農業危機および農業債務危機、農業のグローバル化に加え、序でも提示された地球温暖化、石油生産の減少、そして農業人口の減少などの諸問題が論じられている。著者は章の末尾にて、農業にまつわる地球規模での諸改革が「二重の従属」の緩和につながったものの、いまだ国家政策の犠牲者でありつづけるアフリカの実情、農民および都市社会をも脅かす環境問題の二点を挙げ、グローバル化した現代の農業の機会とリスクを提言する(pp.307-308)。

 第8章「結論」では、特に第7章で取り上げられた論点をもとに、21世紀を迎えた現代社会において、農業がその重要性を高める一方で「地球規模の限界に達しつつ」あり、「相当な緊張状態の下で維持されている」ことが強調されている(pp.311-313)。「二重の従属」は形態を変えながらも継続しており、文明と農業との相互依存関係の問題などが課題となっているのである。そして、最後に著者はジャレド・ダイヤモンドの「農業を文明が生み出した害悪である」とする主張への批判をもって締めくくる(pp.314-315)。

 以上概観してきたように、著者は各時代の主要な出来事との関連も取り上げながら、現代にも維持される農民の「二重の従属」の変遷を明らかにする。訳者もあとがきで触れているが、農民は文明と自然に従属する一方で、そのいずれからも恩恵を受けてきたのだった(p.321)。また、逆に文明も農業に依存しているという側面も、著者により浮き彫りにされている。全体的な読後感としては、冒頭と結論でジャレド・ダイヤモンドの「悲観的解釈」に異論を唱え、「穏やかな楽観主義を与える」(p.3)という立場を取りながらも、世界規模での深刻な農業危機や諸問題に警鐘を鳴らす著者の真意が印象に残る。もう一点、「世界史」としながらも、各章は各国史および地域史で構成されるという形式が取られているため、ひとつのシステムとしての世界を俯瞰した歴史が見えづらくなっているという点も指摘しておきたい。

 原書が発表された2011年から10年以上が経過し、昨今は気候変動、蝗害、新型コロナウイルスの流行、ロシアによるウクライナ侵攻をはじめとする不安定な情勢が世界の食料事情をも脅かす。農業が抱える諸問題への対策として、例えばICT(情報通信技術)を活用したスマート農業など次世代型の取り組みも注目されつつあるが、普及にはいまだ課題も多い。これからの「農」の歴史に、楽観的な未来は果たして訪れるのだろうか。

 なお、著者によると原書が属する「主題で見る世界史」シリーズは、世界史を概観する授業を履修する世界各国の大学生を第一の読者と想定していることもあり(p.3)、(訳者の技量が大いに貢献していると思われるが)比較的平明な文章で書き綴られている。各章の末尾には主要参考文献が紹介されており、読者のさらなる理解を手助けしてくれる。もちろん、「農」「食」といったわれわれの日々の生活に直結したテーマに少しでも関心のある読者にとっても、農業が抱える諸問題を再考するにあたっての有益な一冊となることであろう。

(「世界史の眼」No.49)

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文献紹介:NPO法人 都市無差別爆撃の原型・重慶大爆撃を語り継ぐ会編『カラー映画に撮られた重慶大爆撃―数奇な運命を辿った記録映画『苦干』の世界―』(2023年)
木畑洋一

 1940年8月19日から20日にかけて、当時中華民国の首都となっていた重慶市は、日本軍による激しい空爆の対象となった。重慶に対する空爆は、38年2月から43年8月まで216回にわたって行われたが(荒井信一『空爆の歴史』岩波新書、2008年)、この時の爆撃が最も苛烈なものであった。8月19日は、重慶爆撃にゼロ戦(零式戦闘機)が初めて投入された日でもある。

 この日爆撃にさらされた重慶の様相を現場で映像に記録したアメリカ人カメラマンがいた。レイ・スコットという人物である。彼は、日中戦争の記録映画を作って、世界の人々に中国の抗戦状況を知らせたいと考えた米国籍中国人李霊愛の援助のもと、39年から40年にかけて、中国各地を回って人々の暮らしぶりを撮影しており、8月19日にちょうど重慶に滞在していたのである。

 スコットの旅を記録したフィルムは、米国で『苦干』(一生懸命にやるという意味)というタイトルの映画に編集されて、各地の映画館で上映された。41年元日にはローズヴェルト大統領夫妻もホワイトハウスでそれを観たという。その後この映画のことは人々から忘れ去られていたが、2010年にスコットの長男の家の地下室で発見され、修復作業を経て蘇った。それは中国でも関心を呼び、中国語の字幕をもつ中国版も作られた。その結果、今私たちは、英語で語られ、中国語の字幕をもつ『苦干』をユーチューブで観ることができる。そのurlは以下の通りである。
https://www.youtube.com/watch?v=321DQmOZc6w

 評者はこの映画について、中国史研究者石島紀之氏から教えていただき、とても強い感銘を受けた。その後石島氏が中心となって、映画『苦干』について、さらに重慶爆撃について丁寧な解説を加えたブックレットを作成された。それが、ここで取りあげる『カラー映画に撮られた重慶大爆撃』である。以下、本書の内容を簡単に紹介していきたい。「世界史の眼」でこの本を取りあげるのは、第二次世界大戦を論じる際に欠かすことができない都市の大規模空爆の早い例として重慶爆撃がもつ重みのためである。

 このブックレットは四部から成る。

 第一部においては、石島氏によって、『苦干』の成立事情と、フィルム再発見と現在の版の作成・公開の過程が紹介された後、映画の内容が順を追って説明されている。約1時間20分の上映時間の内、40年8月の重慶爆撃を対象とするのは最後の部分であり、それまでの大部分は、林語堂による序文と中米関係など歴史的背景を扱った最初の部分の他は、スコットが回った日中戦争下の中国各地(香港とベトナムのハイフォンを含む)の映像にあてられている。そのなかで8月19日以前の重慶の様相も描かれる。スコットはそこから成都と蘭州、青海方面を訪れた後、重慶に戻り、8月の空爆に遭遇するのである。石島氏は映画全体を15の部分に分けて、各部について短いながらも懇切な紹介を行っている。ブックレットを側に置いてユーチューブでの映像を観ることが勧められる。

 第二部は、『苦干』の主な対象となった中国西部地区についての解説である。石島氏が「西南地区の諸相」と題する章で、この地区に居住するエスニック・マイノリティの抗日戦への参加が民族意識の覚醒と結びついたことなどを論じた後、松本ますみ氏が「スコットの西北への旅の意味」を分析し、日本による中国東北部占領によって西北部の意味が知識人たちに再発見されたという興味深い論点を提起している。

 40年8月の爆撃を扱うのが第三部である。ここではまず伊香俊哉氏が、その時に至るまで繰り返されてきた重慶爆撃の諸相(焼夷弾攻撃導入の意味など)と、8月の空爆へのゼロ戦投入の問題などを解説する。そして、聶莉莉氏による、重慶爆撃で孤児となった人々43人の陳述紹介が、それに続く。空爆についての彼らの記憶と、その時に負った心の傷に悩まされ続ける彼らの姿が、浮き彫りにされている。

 最後の第四部では、これまで空爆研究をリードしてきた前田哲男氏が、武器使用をめぐる今の日本の状況を踏まえた上で、重慶爆撃からくみ取ることができる歴史的教訓を提示する。そして結びの部分では、本稿でも冒頭で引いた『空爆の歴史』の著者荒井信一氏の仕事が取り上げられるのである。

 私も、荒井氏や前田氏の研究から多くを学び、第二次世界大戦において都市空爆がもった意味、さらにそのなかでの重慶爆撃の重要性について、それなりの認識は抱いてきた。しかし、爆撃の実相について具体的なイメージをもってきたとはとてもいえず、『苦干』に接して大きな衝撃を受けた。そして本ブックレットを読んでから、再度『苦干』を見ることにより、空爆の場面だけでなくこの映画全体から伝わってくるメッセージの迫力をより強く感じることができた。

 本ブックレットを手引きにしての映画『苦干』の鑑賞を推奨する次第である。

 ただ、本書はアマゾンなどでは入手不可能なようである。そこで、発行元データを記して文献紹介の結びとしたい。

〒105-0003 東京都港区西新橋1-21-5一瀬法律事務所気付、NPO法人 都市無差別爆撃の原型・重慶大爆撃を語り継ぐ会

(「世界史の眼」No.49)

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