コラム・論文」カテゴリーアーカイブ

書評 伊藤定良『第一次世界大戦への道とドイツ帝国』(有志舎 2023年)
飯田洋介

 本書は、1871年に成立したドイツ帝国が帝国主義の時代、どのような過程を経て第一次世界大戦へと至ったのか、それについて考察したものである。テーマそれ自体は(本書「はじめに」で概観されているように)ナチズムへと至る歴史的展開を帝政期から連続的に捉えるべきか否か、それが「特殊」なものであったと言えるのかをめぐって、これまで論争が激しく展開されてきたこともあって、決して目新しいものではない。だが、だからこそ、こうした古典的テーマは近年の研究成果を踏まえてその都度問い直されて然るべきものであり、その意義は今日でも色褪せることはあるまい。

 では、本書はどのような視点からこの古典的テーマに挑むのか。本書によれば「帝国主義の時代の全般的な動きを押さえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、当時の国際的・国内的諸課題に立ち向かったさまざまな政治勢力のせめぎあいをとおして考察する」(13頁)という。以下、本書の構成に沿ってその内容を見ていこう。

 第1章「帝国主義の国際政治と民衆の政治化」では、はじめにコンゴ問題解決のために開かれたベルリン会議(1884~85年)を起点とする西洋列強による世界分割の動きについて論じられる。帝国主義を「民族抑圧的な世界体制」(17頁)と定義する本書は、列強の抑圧的な植民地統治が現地住民の抵抗を引き起こし、それがさらに列強の軍事行動を招く「暴力の連鎖」(21頁)に注目する。特に現地での抵抗の排除・鎮圧に際しては、互いに対立する列強や諸勢力が「抑圧の共同作業」(40頁)で応じていたこと、さらには他の植民地や現地で動員された人員までもがこれに充てられたという構図があったことを本書は指摘する。

 次に、本書の視線は帝国主義時代のヨーロッパに向けられる。そこでは、帝国主義による列強間の対立やバルカン問題の緊迫化を受けて、ハーグ平和会議やドイツでの平和主義運動、さらには第二インターナショナルによる反戦平和運動に見られるような国際的な動きが活発に展開される一方、各国内では国民統合を推進する上で重要となる、独善的で排外主義的な帝国意識やナショナリズムの育成・強化がなされ、大衆を基盤としたさまざまな政治運動や革命運動・民族運動が展開された。本書では女性参政権運動や労働運動にも目配りしながら、この時期に大衆が政治化していったこと、しかしながら、これらの運動は大衆を団結させるどころか逆に分裂をもたらし、それがナショナリズムの圧倒的な力と相まって、第一次世界大戦の勃発を阻止できなかったとりわけ大きな原因だとしている(91頁)。

 第2章「ドイツ第二帝政の政治」では、1871年の帝国成立から1910年までのドイツの政治状況を辿りながら、①歴代政権による帝国議会での「ブロック政治」の展開、②国民統合のありよう、③急進的ナショナリズム運動の展開について論じられている。いずれもヴィルヘルム期が話の中心になっている。

 ①では、帝国宰相ビューロを支えた保守系からリベラル左派に至るまでの諸政党による「ビューロ・ブロック」とその後継政権となったベートマン=ホルヴェークを支えた保守党と中央党による「黒青ブロック」が当時の内政課題であった帝国財政改革問題と(ドイツの議会制民主主義の発展を阻害していた)プロイセン三級選挙法(不平等・間接・公開)改正問題にどのように対処したのかが主な焦点になっている。その際、本書は社会民主党の妥協的な姿勢に注目する。②では、国民国家ドイツにおける民族的少数派であったポーランド人に対する統合と排除、そして彼らの抵抗に焦点が当てられ、このテーマについて長年取り組んできた著者ならではの指摘が目立つ。特にポーランドに対する強圧的な「ドイツ化」政策に対する現地の抵抗(学校ストライキ)が、同じ宗派でありながらナショナリズムの影響を受けた中央党には「国民化」の拒絶と受け止められ、両者の連帯を阻むようになっていったこと(130頁)、さらにはルテニア人労働者の雇用も反ポーランド的観点からなされた(133頁)という指摘はとても読み応えがあった。③では主にオストマルク協会とプロテスタント同盟に焦点が当てられている。

 第3章「世界大戦への道とドイツの政治・社会」では、1908年に勃発した青年トルコ人革命とオーストリア=ハンガリーによるボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合を機にバルカン半島情勢が緊迫化していく中でのドイツ国内政治について論じられている。ここで本書が特に注目するのが、1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)がドイツ国内に及ぼした影響である。それは一方では大規模な反戦平和集会を引き起こし、1912年1月の帝国議会選挙では進歩人民党と連携した社会民主党の躍進と、ベートマン=ホルヴェーク政権を支える「黒青ブロック」の敗退を招くなど、国民の政治的不満や戦争への危機意識が大きく表れる形となった。だが他方では、全ドイツ連盟によるクーデタ計画の公表、ナショナリスティックな大衆運動の勢力拡大とさらなる急進化を引き起こし、陸軍増強を求めるドイツ国防協会も結成され、「戦争は不可避である」という風潮が社会に広がり、青少年の軍事組織化も図られ、社会の軍国主義化が一層促進されていったのである。また、本章ではそのようなドイツ社会に広がる「後進性」と「専制」を強調したロシア蔑視・反感があったこと、そして社会民主党もそれとは無縁ではなかったことが指摘されている。

 第4章「第一次世界大戦」では、はじめにサライェヴォ事件から開戦、さらには「城内平和」に至る流れについて論じられているのだが、ここで本書は、開戦時に見られた国民の一体感と熱狂が必ずしも全国一律のものではなかったという点を強調する。そこには戦争への心配や不安も見て取れ、このときの国民的感情が「けっして単色ではなく、複雑なひだを帯びて重なり合っていた」(252頁)ことが国内外の先行研究を交えて示されている。また、「城内平和」に至るまでの社会民主党の動向についても注視されている。

 次に本書は、世界史的な観点に立って第一次世界大戦の歴史的性格について考察し、それが「帝国主義戦争」「総力戦」「世界戦争」=植民地での戦闘・植民地の人員物資を動員した戦争であったと位置づけ、この戦争によって帝国主義諸国による植民地・従属地域支配体制の動揺・弱体化がもたらされたことを指摘する。さらにここでは、ドイツ革命に至る流れが概観されるだけでなく、ウィルソンの14カ条がボリシェヴィキ・ロシアによる「平和に関する布告」と対置する形で紹介されている。また、本書では(近年の新型コロナウイルスの世界的大流行を意識して)第一次世界大戦末期に世界規模で蔓延した「スペイン風邪」が第一次世界大戦の西部戦線やパリ講和会議に与えた影響について、それがはらむ今日的な課題と結びつける形で論じられている。

 このように本書では、世界史的視座から帝国主義時代の全般的な動きをおさえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、増加する労働争議と高揚するナショナリズムを背景に当時の諸課題に立ち向かった様々な政治勢力のせめぎ合いを通じて考察されている。帝国内の民族的マイノリティであったポーランド人問題を通じて、国民統合の不調と急進的・排外主義的ナショナリズム運動が連動すると(たとえ同じ宗派であっても)民衆の分裂を招くことが本書ではよく示されていたように見える。

 それに加え、本書の特徴として挙げておきたいのが、同様に「帝国の敵」とされた社会民主党を視角に含めたことで、ナショナリズムの影響を受けて戦争への道を歩んでいくドイツの議会政治の展開と、第二インターナショナルによる国際的な反戦平和運動の展開という、この時期に見られた2つの相反する側面を巧く総合的に捉えている点である。このことは20世紀初頭のドイツが外交的苦境=「包囲」から抜け出すには、あるいは好戦的なナショナリズムの高揚や社会の軍国主義化を背景に、もはや戦争への道しか残されていたわけでは決してなかったということを我々に再確認させてくれよう。

 だが、その一方で社会民主党の指導部が1914年8月の大戦勃発に伴う「場内平和」、戦時公債への賛成に連なるような、政府あるいはナショナリズムの動きに対する譲歩的な姿勢をそれまでに幾度となく示してきたこと(1907年の帝国議会選挙での惨敗のときや1913年の軍拡に必要な拠出金法案への賛成など)を著者は見逃さない。戦争と平和に対する社会民主党のこうした二面性を浮き彫りにした点も、本書の特徴であろう。

 次に、本書を読んで評者が気になった点を幾つか挙げておきたい。

 1点目は、世界史的な視座による帝国主義の説明と、帝政期ドイツの政治状況の説明が上手く対応していない点である。本書は南アフリカ戦争、義和団事件、アメリカのフィリピン支配などを事例に「民族の抑圧的な世界体制」としての帝国主義と「暴力の連鎖」を伴う列強の植民地支配を論じているのだが、それに比してドイツの植民地支配の説明が少なく、バランスが取れていない。例えば、独領南西アフリカ(現ナミビア)におけるヘレロ・ナマの蜂起とその鎮圧については、それがジェノサイドの様相を呈していたことや、それに際して設けられた強制収容所が「絶滅収容所」の性格を有していたことはきちんと言及されているのだが(121、314~315頁)、その説明は1907年1月の帝国議会選挙(いわゆる「ホッテントット選挙」)の背景説明の域を出ず摘要に留まっているのが惜しまれる。本書が帝国主義と絡めて帝政期のドイツ政治を論じるのであれば、やはりドイツの植民地統治の事例も第1章と同程度の密度で論じたほうがよかったのではないか。

 2点目は、帝国主義時代の戦争と平和を論じるのであれば、本書が注目するような第二インターナショナルやドイツ平和協会といった「下からの」平和運動に留まらず、政府間による「上からの」平和を求める動きにも(たとえそれが失敗に終わったとしても)目を向けてもよいのではなかろうか。例えば、建艦競争による独英関係の緊張を緩和すべく1912年2月にベルリンに派遣された当時の英陸相ホールデン子爵の試みが挙げられよう。また、サライェヴォ事件から第一次世界大戦勃発までの1ヵ月間(7月危機)は、本書が論じるように開戦に向かって「事態が一直線に進んだわけではない」(242頁)。第二インターナショナルによる反戦平和集会の動きがある一方(254~255頁)、政府レベルでも英外相グレイが英仏伊独4か国協議を提案して外交交渉による解決に最後の望みを託していた(243頁)。本書では7月下旬の皇帝ヴィルヘルム2世の発言には戦争と平和の間で揺れ動きがあったことには言及が見られず、こうした大戦勃発直前に見られた平和に向けた「上からの」最後の動きについては、もう少し説明が欲しいところである。

 3点目は、ヴィルヘルム2世の位置づけである。彼の統治スタイルはよく「個人統治」と言われるが、その実は先行研究が示すように人事を活用した側近政治であり、それはときとして帝国宰相をはじめとする指導部の方針と対立することがあったことが知られている。それについては対中・対米政策といった外交政策では幾つか事例が思いつくのだが、今回本書が取り上げた内政面での政治的諸課題ではどうであったのだろうか。

 以上の点は、評者の専門とする外交史の視角からのものでしかなく、本書の内容や学術的価値を決して損なうものではない。何故ドイツが第一次世界大戦への道を歩んだのかという古典的テーマについては外交史的アプローチも不可欠だが、この時期のドイツ社会と議会政治が抱えていた問題を把握する上で本書は欠かせない一書であると高く評価できよう。

(「世界史の眼」No.48)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

ドイツの内なる植民地主義?
木戸衛一

はじめに

 パレスチナ・ガザ地区を実効支配するハマスがイスラエルを奇襲攻撃した2023年10月7日以降、ドイツはかたくなにイスラエル支持の姿勢を貫いている。苛烈を極める同国の軍事攻撃にも、原因はあくまでハマスにあるとの立場を崩していない。圧倒的に非対称的なイスラエル・パレスチナ関係への歴史的視座を欠いた一面的な言説は、「ホロコーストへの反省」では説明しきれない植民地主義的深層心理を感じさせる[1]

1.「無制限の連帯」と「国是」

 「10・7」以降、ドイツはイスラエルへの「無制限の連帯」の声で覆われた。10月12日の所信表明演説で「イスラエルの安全はドイツの国是だ」と述べたオラーフ・ショルツ首相は、5日後、事件後外国首脳として最初にイスラエルを訪問した。

 10月27日および12月12日、戦闘停止を求める国連総会決議に、ドイツはいずれも棄権した。メディアでは、なぜ決然と反対を貫かなかったのかと政府の弱腰を糾弾する声が響いた。

 だが、ドイツは弱腰どころか、熱心にイスラエルに武器を送っている。2023年の11月2日までに、ドイツは前年全体の10倍に及ぶ3億300万ユーロの武器輸出を承認した。1月16日『シュピーゲル』誌の報道では、戦車の弾薬の供与まで検討されているという。

 そもそもドイツは世界有数の武器輸出国である。2023年3月13日、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の報告によれば、2018~22年にドイツは世界全体の武器輸出の5.2%を占め、米国(40%)、ロシア(16%)、フランス(11%)、中国(5.2%)に次ぐ第5位であった[2]。その供給先は、エジプト18%、韓国17%、イスラエル9.5%の順となっている。

 去る1月25日、アムネスティ・インターナショナル、オックスファム、セーブ・ザ・チルドレンなど16の国際団体が、イスラエルとハマスの紛争終結を目的に、世界各国に双方への武器や弾薬の供与を停止するよう求める共同声明を発表したが、その声は残念ながらドイツの政界・経済界には届かないであろう。

2.「反ユダヤ主義」によるイスラエル批判の封殺

 ベルリンの「反ユダヤ主義調査・情報協会」(RIAS)によれば、「10・7」から11月9日までの間にドイツでは、994件の反ユダヤ主義事件が確認された(内訳は極端な暴力3件、攻撃29件、器物損壊72件、脅迫32件、大量のメール送信4件、侮辱的態度854件)[3]。ユダヤ教施設やユダヤ系市民への暴力・嫌がらせが非難されるのは当然だとしても、ドイツでは、国際人道法上の原則から逸脱したイスラエルの軍事行動に対する批判ですら、「反ユダヤ主義」のレッテルを貼られ封殺される。そして、イスラエルに関連して「植民地主義」や「アパルトヘイト」を語ることすら、「反ユダヤ主義」の疑いをかけられるのである。

 近代ドイツにおける反ユダヤ主義は、1879年、ヴィルヘルム・マルによる反ユダヤ連盟の結成に端を発するが、宗教に加え文化・経済・社会背景を持ったユダヤ嫌悪・迫害は中世にまでさかのぼることができ、「反ユダヤ主義」の定義は一筋縄ではいかない。RIASがまとめた「10・7」以降の反ユダヤ主義事案(antisemitische Vorfälle)の政治的背景には、反イスラエル行動主義(antiisraelischer Aktivismus)が21%含まれているが、「反ユダヤ主義」と「反イスラエル」の概念の違いは全く分からない。

 結局今日「反ユダヤ主義」は、イスラエル国家への批判をあらかじめ封じ込める「道徳的棍棒」として道具化されている。2024年1月19日、ドイツ連邦議会は、新しい国籍法を可決した。それにより、ドイツ国籍を取得可能な滞在期間が従来の8年から5年(特別な場合は3年)に引き下げられ、二重国籍も原則認められるようになったが、他方国籍付与の条件として、自由で民主的な基本秩序への信奉に「反ユダヤ主義、人種差別主義ほか、人間蔑視の動機による行為」が相容れないことが明記された。つまり、イスラエルを批判したことで、10年以内に国籍付与が撤回されることも考えられるわけである。

3.南アフリカの国際司法裁判所提訴への侮蔑的反応

 2023年12月29日、南アフリカは、イスラエルがガザ地区のパレスチナ人に対しジェノサイドを犯していると国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。かのネルソン・マンデラ大統領は1997年12月4日、「我々は、パレスチナ人の自由がなければ自分たちの自由が不完全なことをよく知っている」と演説したが[4]、提訴は彼の遺志を継ぐだけでなく、これまで「先進国」にいいように差配されてきたグローバルサウスを代弁する行為と言えよう。

 翌年1月11日に審理が始まり、南アフリカがICJに対し、イスラエルにガザでの軍事作戦の即時停止を命じるよう要請すると、「ドイツの歴史とショアーの人道に対する罪に照らして、ジェノサイド条約に特別に結びついている」と自負するドイツは、その「政治的利用に断固反対」し、提訴は「いかなる根拠も欠いてい」て「断固かつ明確に拒絶する」と、イスラエルを全面的に擁護する声明を発表した[5]

 それにしても、ドイツはよく臆面もなく、南アフリカによるジェノサイド条約の「政治的利用」を非難できたものである。1990年10月3日の「ドイツ統一」の実態は西独による東独の吸収合併であることから、国家分断時代の歴史は、「勝者」である西独の見方で語られがちである。だが、冷戦時代西独が、反共の防波堤として数々の軍事独裁政権を支持、人権侵害に加担すらした事実は看過できない。

 アパルトヘイト体制の南アも、その一例である[6]。なにしろ、1966~78年首相を務めたバルタザール・フォルスターが第二次大戦中ヒトラー信奉者として逮捕され、1950年人口登録法がナチ・ドイツの人種差別規程を雛型にしたように、戦前も戦後もナチズムは南アフリカに、少なからぬ人的・イデオロギー的影響を及ぼしていたのである。

 ドイツの「新植民地主義的傲慢」(ゼヴィム・ダーデレン連邦議会議員)に刺激されて、奇しくもちょうど120年前、「ドイツ領南西アフリカ」下でナマ人へのジェノサイド開始を経験したナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領は、「ドイツが国連のジェノサイド条約への道義的支持を表明しながら、同時にガザにおけるホロコースト・ジェノサイドと同等のことを支持することはできない」のであり、「その残酷な歴史から教訓を引き出すことができない」ことを強く批判した[7]

 1月26日、ICJは南アフリカの提訴を却下せず、イスラエルに軍事作戦の停止は求めなかったものの、ガザにおける200万人もの故郷からの追放、2万5000人もの殺害という現実を踏まえ、「法廷は、この地域で起きている人道的悲劇の大きさを痛感しており、人命の損失と人的被害が続いていることを深く憂慮している」(ジョーン・E・ドノヒュー議長)とし、判決を言い渡すまでの間、住民の大量虐殺などを防ぐためあらゆる手段を尽くすよう暫定的な措置を命じた。裁判所に強制的な執行力はなく、イスラエルのネタニヤフ首相もこの決定を拒絶する姿勢を明らかにしたが、ドイツ政府のコメントは確認できない。

 1月12日の声明でドイツは、ICJ規定第63条に則り、第三国として審理に参加する意向を示していた。事実2022年9月5日には「自らの歴史に基づき」(”given its own past”)ロシアに対するウクライナでのジェノサイド審理[8]、翌年11月15日、ガンビアが提起したミャンマーに対するジェノサイド審理に参加している[9]

 だが今回ドイツは、むしろICJが提訴を却下するのを期待していたのではないか。1月26日の裁定を踏まえ、ドイツは一体どのように第三国として今後の審理に関わろうというのであろうか。

おわりに

 第一次大戦に敗れ植民地を放棄したことから、ドイツがそれまで英仏に次ぐ植民地大国だったことを知るドイツ人は、必ずしも多くない。近年BLM運動の高揚や、ナミビアとの補償問題、カメルーン(「ドイツ領西アフリカ」)への美術品返還を通じて、ようやくドイツ植民地主義の問題が人々に意識されつつあると言える。

 今日ドイツが成熟した民主主義国家であることは、誰も否定しないであろう。だが、「イスラエルは民主主義国で、非常に人道的な原則に導かれている」(2023年10月26日、ショルツ首相)とその軍事行動を支持する時、そこには文明と野蛮、民主主義とテロリズムという対立図式が明瞭に見て取れる。植民地を手放して100年余り、グローバルサウスが発言力を増す中、この国はどこか「使命感に基づいて支配を正当化する教条[10]」に固執しているのであろうか。


[1] 本稿1.および2.について、詳しくは拙稿「ドイツはどこへ行くのか」(2023年12月24日)参照。https://www.peoples-plan.org/index.php/2023/12/24/post-865/

[2] https://www.sipri.org/sites/default/files/2023-03/2303_at_fact_sheet_2022_v2.pdf

[3] https://report-antisemitism.de/monitoring/

[4] http://www.mandela.gov.za/mandela_speeches/1997/971204_palestinian.htm

[5] https://www.bundesregierung.de/breg-de/suche/erklaerung-der-bundesregierung-zur-verhandlung-am-internationalen-gerichtshof-2252842

[6] https://zeithistorische-forschungen.de/2-2016/5350?language=de

[7] https://www.dw.com/de/namibia-deutschland-lernt-nicht-aus-der-geschichte/a-68034829 なおドイツ外務省は2021年5月28日、当時のドイツの行為をジェノサイドと認め、「再建・開発」プログラムに合計11億ユーロ支払うことでナミビア政府と合意したと発表したが、当事者であるヘレロ人・ナマ人の合意を未だ得られていない。

[8] https://www.lto.de/recht/hintergruende/h/warum-deutsche-intervention-in-ukraine-russland-igh-voelkerrecht-voelkermordkonvention/

[9] https://www.auswaertiges-amt.de/de/newsroom/-/2632016

[10] ユルゲン・オスターハメル『植民地主義とは何か』論創社、2005年、37頁。

(「世界史の眼」2024.2 特集号9)

カテゴリー: 「世界史の眼」特集, コラム・論文 | コメントする

奉天からの世界史(中)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、前号)
2 内藤湖南と奉天
 (本号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次号)

2 内藤湖南と奉天

(1)内藤湖南の第一回奉天行

 1902年10月1日、後に著名な東洋学者で京都帝国大学教授になる内藤湖南(この時はまだ大阪朝日新聞社に在籍)は神戸から大連丸に乗船して、中国訪問の旅に出た。旅順、大連などを訪れた後、東清鉄道でハルビンに直行し、その後、ハルビンから同線で南下して、10月21日、初めて奉天で下車した。この時、奉天は義和団事件から2年以上が経ち、治安には全く問題がなかったようである。ただ、満洲全体がそうだったのだが、奉天でもロシア軍の勢力が強く、何かと制約されることはあった。また、当時の奉天には日本人経営の旅館やホテルなどはなかったようで、宿泊先を探すのにも苦労した。結局、知り合いを介して紹介された中国人の私宅に泊めてもらったり、「極めて不潔な」「支那旅店」に泊まったりした。

 10月23日、内藤湖南は知人二人と共に北陵を訪ね、その帰路、「御花園長寧寺」で清朝第二代太宗ホンタイジ愛用の弓矢を観た。その後、「黄寺」に行き、「一僧と話し明日満蒙二蔵を観ることを約す。帰途白大喇嘛ラマに逢い又後楼の蒙蔵を観ることを約す」。(内藤湖南「禹域鴻爪後記」『内藤湖南全集 第六巻』筑摩書房、1972年、356頁)

 この時、内藤たちが北陵のどこまで入ることができたのかということについては、内藤が何も書いていないのでよく分からない。その後訪れた「御花園長寧寺」というのは北陵から奉天市街に戻る途中にあるチベット仏教の寺で、もともとは太宗ホンタイジの「御花園」であったが、ホンタイジの死後、それを改修して、長寧寺という寺にしたものである。したがって、ホンタイジゆかりの品が蔵されていたのである。他方、黄寺という寺は皇寺ともいわれるが、正式名は実勝寺という(黄寺の名は寺の屋根瓦が黄色であることによる)。1636年、太宗ホンタイジは内モンゴルを支配下に収めて、国号を大清と改めた。黄寺はそれを記念して建てられたチベット仏教寺院で、北陵へと北上する道の起点にある(図1参照)。黄寺は満洲やモンゴル地方のチベット仏教の中心をなす大寺で、その経蔵などには各種の仏典が収蔵されていた。内藤はそれらの仏典を観ることを大きな目的としていたのである。

 10月24日、内藤は黄寺の後楼で白大喇嘛ラマに会い、「導かれて別処に至り」、「蒙字蔵経」を観た。「別処」とは黄寺の西に隣接する太平寺のことで、この寺にはモンゴル語大蔵経(「蒙古文蔵経」108函)が完全な形で収蔵されていた。その後、昨日約束した黄寺の僧に導かれて、「皇寺〔黄寺〕の経蔵に蒙文蔵及び満字蔵経を観て帰る」(内藤湖南「禹域鴻爪後記」356頁)。

 「蒙字蔵経」、「蒙文蔵」というのはモンゴル語の大蔵経のことで、「満字蔵経」は満洲語の大蔵経である。このように、内藤は黄寺などにモンゴル語や満洲語の大蔵経が収蔵されていることを確認しえたのである。そのうちモンゴル語の大蔵経はサンスクリット語大乗仏典のモンゴル語訳およびウイグル語訳、チベット語訳、中国語訳からの重訳などを含む仏典の集成である。しかし、内藤は翌10月25日に東清鉄道で奉天を去ったので、この時は仏典所在の確認以上のことはできなかった。 

(2)内藤湖南の第二回奉天行

 1905年7月4日、内藤湖南は宇品港から須磨浦丸に乗船して、また中国旅行に出た(この時も内藤は大阪朝日新聞社在籍)。同行者は「法学士大里武八郎」と「従僕」1人であった。この中国旅行の主目的は前回の中国旅行において奉天で所在を確認した仏典や同じく奉天宮殿内の文溯閣ぶんそかくに収蔵されている四庫全書を調査することであった。そのために内藤は周到な準備をした。1905年3月、奉天会戦(3月1~10日)でロシア軍が奉天から退却して日本軍が奉天に入ると、内藤は日露戦争における「陸戦の大勢すでに定る」と判断して、奉天での文献調査の準備に取り掛かった。内藤は『大阪朝日新聞』1905年3月30日号に、「東洋学術の宝庫」という論説を発表して、文溯閣に収蔵されている四庫全書および黄寺などに所蔵されているチベット語、モンゴル語、満洲語の仏典のもつ「東洋学術」上の重要性を強く訴えた(内藤「東洋学術の宝庫」『内藤湖南全集 第四巻』筑摩書房、1971年、177-178頁)。そのうえで、外務省や陸軍と粘り強く交渉して、外務省嘱託員の肩書を入手、陸軍次官、石本新六からは「到達地軍衙に於て宿舎の貸與、糧食の給與、汽車汽船の便乗其他の待遇等……便宜を被與度あたえられたし」という内容の書類を貰った(内藤「游淸第三記」『内藤湖南全集 第六巻』369頁)これだけの準備をしたうえで、1905年7月、内藤は中国へ向かったのである。まだ、日露講和条約(ポーツマス条約)締結(9月5日)以前のことである。

 7月9日、大連で下船した内藤は旅順、営口を経て、7月29日奉天に到着した。内藤は満洲軍総司令部を訪ね、小村寿太郎外相の満洲軍総参謀長、児玉源太郎に宛てた書簡を示して、児玉と会見した。児玉は内藤の調査内容に興味を示し、満洲軍総司令部参謀の福嶋安正少将に引き合わせた。福嶋は陸軍随一の地理学者・言語学者として知られた人物で、内藤の調査計画に「感動」して、まず黄寺から始めるべきだと勧めた。翌日、福嶋は自ら内藤を黄寺に伴い、寺僧らに内藤の調査について詳細な説明を行った。福嶋が内藤の調査にきわめて協力的だったのには、一つの理由があった。それは宮内大臣、田中光顕が満洲軍総司令部に対して、「蒙満蔵経」を日本に持ち帰ることを委嘱したということで、福嶋はそのための仏典調査を東洋学者として最初に奉天入りした内藤に任せようとしたのである。

 8月4日から、内藤は黄寺のそばに設営された満洲軍総司令部衛兵宿舎の一室に滞在して、連日黄寺などに所蔵されていた大蔵経の調査を行った。14日には「奉天蔵経略解題」(「消失せる蒙満文蔵経」『内藤湖南全集 第七巻』筑摩書房、1970年、429-432頁、所収)を作成した。これには黄寺、太平寺、長寧寺、北塔(法輪寺)の「蔵経」の概要が記されている。この「奉天蔵経略解題」の一通は福嶋に提出され、さらに田中宮内大臣にも報告された。

 その間の8月10日には、北塔(法輪寺)を訪ねたが、「満文の蔵経残破の紙屑狼藉地に満つ。之が為に一歎す。其のやや完全なる者は〔すでに、満洲軍総司令部奉天〕軍政署に運び去ると云う」と記している(「游淸第三記」383頁)。北塔は奉天城の外壁のさらに外の東西南北に建てられた四つの守護塔の一つで、各塔には寺院が付設されていた。北塔の寺院は法輪寺といい、そこには満洲人の仏僧養成のために満洲語の大蔵経が収蔵されていたのだが、日露戦争中ロシア軍の軍営とされ、ロシア兵の狼藉により仏典が破損された。内藤が北塔(法輪寺)で観たのはそのうち「やや完全なる者」が奉天軍政署に運ばれた後の「残破の紙屑」だったのである(北塔の位置については図1参照)。この後、内藤は奉天軍政署に保管されていた満洲語の大蔵経の調査を行った。

 11月17日、内藤が清朝の始祖ヌルハチの古都、興京(ヘトアラ)や初期の王たちの墓陵である永陵の史跡探訪旅行から奉天に戻って、黄寺を訪ねると、奉天軍政署の中島通訳が福嶋安正少将の命により黄寺に来てモンゴル語大蔵経(「金字蒙古文蔵経」100余函。もと108函であったが、義和団事件の際数函が破損された)を借り出していったということであった。寺僧たちはこれらが返されることはないだろうと言っていた。この中島通訳というのは本名を中島比多吉ひたきといい、中島敦の父の弟、すなわち中島敦の父方の叔父である。長く中国に滞在し、中国語に堪能だったので、満洲軍通訳に採用、あるいは徴用されたのであろう。中島敦も、1932年8月、旅順の比多吉を頼り、南満洲、北部中国を旅行している。

 その後、この黄寺のモンゴル語大蔵経は東京の宮内省に送られ、東京帝国大学図書館に保管されることとなった。他方、奉天軍政署に運び込まれていた北塔(法輪寺)の満洲語大蔵経は東京の参謀本部に送られ、同じく東京帝国大学図書館に保管されることとなった。しかし、これらのモンゴル語および満洲語の大蔵経は、1923年9月、関東大震災時に発生した火災に東京帝国大学図書館が被災したため、すべて焼失してしまった。

 時日は少しさかのぼるが、8月24日、清国政府から「宮殿拝謁」の許可が出たので、内藤は宮殿内の宝物などの拝観を行った。28日から三日間は文溯閣に収蔵されている四庫全書の調査を行った。

 文溯閣は宮殿内の西側に1782年に建てられた建物である。この1782年という年は四庫全書の書写が完成した年である。四庫全書は七揃いの写本が作られ、北京など各地の書庫に収められたが、そのうちの一揃いが奉天の文溯閣に配布されたのである。文溯閣の四庫全書は何度かの戦乱や騒乱にもかかわらず良好な状態で保存されていた。

 この文溯閣の調査で、内藤の今回の中国旅行の主目的は終わったのであるが、もう一つの目的であった清国行政制度の調査は清国政府の疑惑を招くということで、なかなか進められなかった。その間の9月11日、内藤は東京帝国大学の市村瓉次郎、伊東忠太などと共に「御花園、昭陵、北塔」を訪ねた。『内藤湖南全集 第六巻』(614-618頁)に附載されている北陵の写真(8点)はこの時に内藤の同行者、大里武八郎が撮影したものである。クリスティーのいう南門(正門)から「内苑」への道の両側に置かれた巨大なラクダや馬の石像、さらには隆恩殿(葬祭殿=享殿、太宗ホンタイジの遺灰が安置されている)の前に立つ内藤の写真などがあるので、この時には内藤らはかなり中まで入ることができたのであろう(図2、図3、図4参照)。ただし、北陵最奥部にある太宗ホンタイジの墓廟までは行けなかったようである。

 東京帝国大学は日露戦争中から、さまざまな研究者を中国に派遣することを文部省に求めた。その中には市村瓉次郎のような中国研究者だけではなく、伊東忠太(東京帝国大学工科大学造家学科)のような建築学の専門家もいた。奉天を「東洋学術の宝庫」と考えたのは内藤だけではなかったのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.47)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争
木畑洋一

 1944年3月8日(本稿執筆時の80年前)、日本軍はアジア・太平洋戦争の戦局打開をねらって、当時日本の占領下にあったビルマからインド北東部のインパールへの侵攻作戦を開始した。この作戦は、イギリス軍の反攻によって完全な失敗に終わり、7月初めに中止され、さらにその後の退却過程のなかでも多大な犠牲を生むこととなった。

 アジア・太平洋戦争の初期、東南アジアで勝利を重ねた日本軍はイギリス領であったビルマにも攻め込み、42年5月にそのほぼ全域を占領下に入れた。日本に追い出されたイギリス側は、ビルマ奪回をめざす軍事行動を開始し、その動きは43年から本格化した。インパール作戦が始められた時、ビルマ北部では、オード・ウィンゲートが率いるチンディットと呼ばれる軍隊が、航空機の働きを重視しつつ、日本軍を攪乱したしていた(チンディット作戦)。またビルマ西部のアラカン地方(現在のラカイン州)でも、44年初めからイギリス軍による進撃が始まっていたが、日本軍の側も、それに抗し、さらに予定されたインパール作戦を前に敵の力をこの地方に割かせておくという意図をもって、2月に作戦(第二次アキャブ作戦)を開始した。本稿では、これらの作戦とインパール作戦、およびその後の展開(44年12月から45年3月までのイラワジ会戦などを含む)を、ビルマ戦争と総称することにする。

 ビルマ戦争の中核をなしたインパール作戦は、日本ではアジア・太平洋戦争の各局面のなかでも、強い関心を集めてきた。牟田口廉也将軍の指揮下、十分な補給体制を全く備えないまま過酷な自然条件のなかでの戦いを強いられた日本兵の惨状が、日本による戦争遂行の仕方の非合理性、無謀性をよく示すものとして、批判の対象となってきたのである。インパール作戦については高木俊朗による一連の著作などがよく知られており、最近ではNHKが2度に渡って特別番組を作り(二つ目はインパール作戦後の1年間が対象)、話題となった。その番組内容は書籍化されているが、『戦慄の記録インパール』『ビルマ絶望の戦場』というタイトルがこの戦争についてのイメージを物語っている。[1]

 他方イギリスでの関心は、決して強いとはいえない。第二次世界大戦当時でも、戦後を通しても、ヨーロッパにおける戦争に比べて、アジア・太平洋での戦争全体への関心は薄かった。『忘れられた軍隊』といったタイトルの研究書が出される所以である。[2] そのなかのインパール作戦・ビルマ戦争も重視されてはこなかった。ただその一方で、日本側には欠けている重厚な研究書が世に問われてきていることも、確かである。[3]

 関心の度合いが日本とイギリスでこのように異なるとはいえ、この戦争についてはこれまでさまざまな研究が積み重ねられてきた。しかし、インパール作戦・ビルマ戦争を世界史のなかに位置づけていく上で重要であるものの、従来必ずしも十分に論じられてこなかったと思われる問題がある。筆者が「帝国の総力戦」と呼んできた戦争の性格である。

 第一次世界大戦も第二次世界大戦も、総力戦という性格をもったが、筆者は、この総力戦という概念を比喩的に用いる形で、帝国支配国が戦争に際して帝国領土の人員や物資を大規模に動員することを「帝国の総力戦」と呼んできた。[4]「帝国の総力戦」の姿とそれがもたらしたものを検討することは、帝国主義の時代にできあがった帝国主義世界体制の変容、脱植民地化の過程について考える上できわめて重要な意味をもつ。そうした「帝国の総力戦」の姿を、インパール作戦・ビルマ戦争はよく示しているのである。とくに、イギリス軍にアフリカにおける植民地から動員されたアフリカ兵が加わっていたことに、筆者は注目している。その問題については後に触れることとして、まずは日英両軍における「帝国の総力戦」の形を概観してみたい。その戦争の内実にまで踏み込んで述べることはここではできないため、以下はこうした視点から見た日英両軍の構成の素描である。

 まず日本軍である。日本軍には、日本人の他に、植民地であった朝鮮と台湾から動員された人々が兵士や軍属として参加していた。

 日本軍にはまた、イギリスの植民地であるインドの人々がインド国民軍(Indian National Army: INA)という形で加わっており、これが、この戦争における「帝国の総力戦」の形を複雑なものにしていた。イギリスからの独立を志向するインド民族運動の力を対英戦争のために利用する思惑で42年初めに日本側が組織したインド国民軍は、43年春にチャンドラ・ボースを指導者として戴いてから活気を帯びた。国民会議派議長になったこともあるボースは、ヨーロッパでの開戦後、インド独立への助力をナチス・ドイツに求めようとしたもののうまくいかず、日本側からの誘いに応じたのである。ボースとINAは、インパール作戦を独立達成への有効な手段とみて、日本軍との共同行動をとったのである。しかし、彼らの夢は叶わず、大量の犠牲者を出すに至った。

 日本側は、占領下に置いた末、43年夏に独立を認めていた(実質は全くの傀儡国家であった)ビルマの国軍であるビルマ国民軍(Burma National Army: BNA)も、イラワジ会戦の戦況が悪化するなかで動員した。ただし、その頃には、日本による独立付与が名ばかりのものであったことに不満を抱くBNAの人々は対日蜂起の準備を進めており、45年3月末には蜂起が開始した。

 また、直接の戦地となった地域の現地人の軍への関与の仕方も問題となる。ビルマとインドも多くの民族によって構成されており、さまざまな少数民族が双方の側で戦争に巻き込まれたのである。

 次いで、イギリス軍の場合である。

 そこで何といっても重要な位置を占めるのが、インド兵である。普通、インパール作戦・ビルマ戦争は、日本軍とイギリス軍の間の戦いと表現されることが多いが、イギリス軍(第14軍)の大半はインド人から成っていたのであり、正確には、イギリス・インド軍(英印軍)と表現すべきであろう。

 19世紀以降、インド兵はイギリス帝国の拡大・維持にとって欠かせない存在であった。中国におけるアヘン戦争や、義和団運動鎮圧戦争の場合にとくに顕著であったように、イギリスが植民地戦争を展開していく上で、インド兵は中心的役割を演じたのである。第一次世界大戦においては、150万人近くのインド人が動員され、その内100万人を越える人々がヨーロッパや中東の戦線に送られた。こうしたそれまでの戦争では、インド自体で英印軍が戦闘を行ったことはなかったが(隣国アフガニスタンでの戦争には従事した)、その事態が、この戦争で出現したのである。第二次世界大戦期には、国民会議派のように、即時の独立を求めて、それに応じないイギリスへの戦争協力を拒みつづけた人々も存在したものの、「帝国の総力戦」に協力する者も多く、そうしたインド人が過酷な戦線に投入され、戦争のいずれの局面においても最前線に立って戦った。

 英印軍の有力な構成部分としては、イギリス帝国内の「尚武の民martial race」の代表的存在であったネパール出身のグルカ兵が、この戦争においても重用されたことも忘れてはならない。

 また日本軍についても指摘したように、現地の少数民族も英印軍に使役される形で戦闘に巻き込まれた。とりわけ居住地域が戦闘地域と大きく重なったナガ人の役割は重要である。

 インパール作戦・ビルマ戦争について考える際に、INAを含むインド人や現地少数民族といった要因により注意を払う必要があるということは、最近刊行された笠井亮平の好著のなかで強調されている。[5]

 ただ、その笠井も軽視している「帝国の総力戦」の構成員が存在する。アフリカからはるばるとインド洋を渡る形でビルマ戦線に動員されたアフリカ人兵士たちである。日本では近年、アフリカ研究者の溝辺泰雄がこの問題に着目しているが、[6] 本格的な研究はまだない。イギリスにおいては第二次世界大戦全体の「帝国の総力戦」としての側面についての研究は一定程度行われているものの、[7] インパール作戦・ビルマ戦争でのアフリカ兵に関する検討は進んでいるとは言いがたい。

 アフリカ人は第一次世界大戦においても大量に動員された。ただしイギリスは、アフリカ人兵士をヨーロッパ戦線で用いたフランスと異なり、アフリカ大陸内のドイツ植民地をめぐる戦争で彼らを用い、しかもその役割は主として物資の運搬であった。そこには、白人との戦いにおいて黒人は用いないという人種主義的考慮が働いていた。そのことを考えると、アフリカ兵をインド、ビルマへ送り、直接の戦闘要員として用いたこと(物資運搬要員としても使われたが)は、イギリスの「帝国の総力戦」の新たな面を示していたといってよいであろう。

 アフリカ兵は、インパール作戦自体には参加していない。彼らが用いられたのは、チンディット作戦とアラカンでの戦闘、およびインパール作戦後の日本軍掃蕩作戦においてである。チンディット作戦にはガーナやナイジェリアなど西アフリカからの兵士が参加し、アラカン作戦には西アフリカ兵の他ケニアなどの東アフリカ兵も参加した。そしてインパール作戦後の戦闘には、東アフリカ兵が用いられたのである。

 次に、この動員が戦後におけるアフリカの変化に及ぼした影響の一例に触れておこう。

 1950年代のケニアで、イギリス側が「マウマウ」と呼んだ民族運動家たち(彼ら自身はケニア土地自由軍と称した)に過酷な弾圧を加えたことは、よく知られている。その「マウマウ」の指導者の一人に、「中国将軍General China」と呼ばれた人物がいる。ワルヒウ・イトテ(1922-93)という人物で、42年にイギリス軍に入り、ビルマでの戦争に加わった。カレワでの戦い(44年暮れに展開したはずであるが、彼自身は43年と記している)であり、ギクユ人としてのアイデンティティしかもっていなかった自分自身はケニア人であると、彼はそこで初めて意識したという。彼はそうした意識のもと、ケニアへの復員後「マウマウ」に参加し、勇猛さで知られるようになった。中国将軍というあだ名は、朝鮮戦争もしくはマラヤでの中国人の活動に刺激されたためといい、ビルマ戦争とは関係がないようであるが、彼の自伝によれば、ビルマの軍隊で習得したことをケニアでの民族運動に活かしたのである。[8] 彼は54年に逮捕されて死刑宣告を下されたものの、減刑され、ケニア独立後は公務員としての生活を送ることになる。

 アジアの戦争とアフリカの変動とがこのように連動していく様相などに注目しつつ、インパール作戦・ビルマ戦争の「帝国の総力戦」としての性格をより深く検討していきたいと、筆者は思っている。本稿はその準備作業としてのごく粗いデッサンである。


[1] NHKスペシャル取材班『戦慄の記録インパール』岩波書店、2018(岩波現代文庫版、2023;NHKスペシャル取材班『ビルマ絶望の戦場』岩波書店、2023.

[2] Christopher Bayly and Tim Harper, Forgotten Armies: The Fall of British Asia        1941-1945, London: Allen Lane, 2004.

[3] ルイ・アレン『ビルマ遠い戦場 ビルまで戦った日本と英国1941-45年』上・中・下、原書房、1995;Robert Lyman, A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain 1941-45,       Oxford: Osprey Publishing, 2021.

[4] 木畑洋一「「帝国の総力戦」としての第一次世界大戦」メトロポリタン史学会編『20世紀の戦争―その歴史的位相』有志舎、2012など。

[5] 笠井亮平『インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか』文春新書、2021.

[6] 溝辺泰雄「第二次世界大戦期のビルマ戦線に出征したローデシア・アフリカ人ライフル部隊(現ジンバブウェ)のアフリカ兵士からの手紙:全文訳」(1)(2)『明治大学国際日本学研究』6-1、7-1、2013-2014.

[7] たとえば、Ashley Jackson, The British Empire and the Second World War, London: Hambledon Continuum, 2006;David Killingray, Fighting for Britain: African Soldiers in the Second World War, Woodbridge: James Currey, 2010.

[8] Waruhiu Itote (General China), ‘Mau Mau’ General, Nairobi: East African Publishing House, 1967, Ch.3

(「世界史の眼」No.47)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

奉天からの世界史(上)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、本号)
2 内藤湖南と奉天
 (次号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次々号)

はじめに

 奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)は清朝の始祖ヌルハチが1625年に首府とした古都である。1644年3月、反乱を起こした李自成軍が北京を占拠して明朝を滅ぼしたが、5月清軍が李自成軍を破って北京に入城した。その後清朝が北京を首府とすると、奉天は陪都となったが、ヌルハチおよび第二代太宗ホンタイジの墓陵の地として重要な位置を占め続けた。なかでも太宗ホンタイジの墓陵である昭陵(通称、北陵)は近代になってもいろいろな人たちが訪れて、記述を残している。本稿では、19世紀末から20世紀前半の昭陵(北陵)にかんするいくつかの記述を追いながら、奉天という小さな窓から見える世界史を描いてみたいと思う。なお、以下では北陵という通称を用いる。(戦前の文献からの引用では、旧字体を新字体に、適宜片仮名を平仮名に改めた。また、読みやすくするために、句読点を補い、ルビを付した。)

1 奉天におけるキリスト教布教

(1)キリスト教布教の開始

 満洲、特に奉天は19世紀から20世紀前半、キリスト教の布教が進展した地域のようである。奉天における最初の宣教団はフランスのカトリック宣教団で、1838年に布教活動を開始した。次いで、1876年にスコットランド長老教会の宣教師が何度も奉天を訪れ、時には長期に滞在して布教活動を行った。1883年、スコットランド長老教会から派遣されたドュガルド・クリスティー牧師が奉天に入り、布教活動を本格化させた。クリスティーは外科・内科の医療活動を通して布教を進める伝道医師であった。彼の奉天在住は1922年までの約40年に及んだが、『奉天三十年』(Thirty Years in Moukden, being the experiences and recollections of Dugald Christie, London, 1914. 矢内原忠雄訳、岩波新書、1938年)という著書に1912年までの体験を書き残している。

 クリスティーらスコットランド長老教会の宣教師たちは、奉天で教会や病院を建てる土地を入手するのに苦労したが、最終的には奉天城東南の外壁に沿った「小河沿」(「小さな河のほとり」。図1参照)と呼ばれる地域に敷地を購入することができた。この地について、クリスティーは次のように書いている。

 市街の東南、繁華な通りから遠くない所に、小河沿といふ、流れの緩い、殆んど湖水のやうな静かな河がある。夏にはその岸辺は散歩遊楽の人々の好んで訪れる処であり、多くの茶店でしゃべったり茶を啜ったりして、水に浮かぶ葉の広い美しい紅蓮の花を眺め、奉天第一の良き空気を吸ふのである。我々は幸運にもこの流れを瞰下みおろす高台に二つの屋敷を手に入れた。我々の立場より見て、病院の敷地としてこれ以上に良好なる場所は奉天中になかった。其処にあった建物は病室に利用することとし、全然新しく且つ設備の整った診療所を正面に建てた。病院は1887年(明治二十年)、我々の友人たる満洲族の大官兵部尚書によりて正式に開院せられ、奉天の主だちたる官吏多数が列席した。同じ日に基督キリスト教徒の熱烈なる集会が、約百五十名を容れる待合室で開かれた。病院は百名の男と五十名の女に対する収容能力を有した。(『奉天三十年』上巻、14-15頁)

 この小河沿という地は奉天の東南を東北から南西に流れる渾河こんがの支流である万泉河に沿った地域で、奉天の外壁を作るときに流れを妨げないためにその流入部と流出部だけ外壁を木組みにしたものである。当時、奉天随一の遊楽地、歓楽地として賑わっていた。その小河沿の高台に病院を建てることができたのであるから、スコットランド長老教会宣教団にとって「幸運」なことであったのは確かである。

 その頃の北陵について、クリスティーは次のように書いている。

 市の北方数マイル、広々とした草原を行けば、奉天附近の田舎の単調無味を償うて余りある一地劃――樹間深く埋もれた努爾哈赤ヌルハチの子の墓(北陵)がある。外周は純然たる野生の森であって、迂曲せる小径は野花、密林、空地を縫うて、どこに出られるとも思われない。六月の午後、かしわや樺の生き生きとした若緑に反映して白い樹の花や地に尾を曳く風車の花は驚くべき美を放ち、緑と白とを透かして靑空は一層靑に輝き、日光は小暗き影の中に参差たる光を落す。〔中略〕樹の間がくれに墓を繞らす鮮やかな丹塗の塀が輝き、中なる黄色の瓦の屋根が一寸見える。この矩形を成せる外囲の南に、浮彫に刻んだ白色の大理石の拱門アーチが一つ立って居り、その背後に正門があるがこれは閉ざして誰も入れない。〔後略〕

 多年の間、側門も亦固く閉鎖されて、此処に住む満洲族の警吏の外は何人も此の聖域の内部を窺ふことを得なかった。現在では〔1912年のことか? 引用者〕東と西の門が開かれて居り、一方の門から他方の門迄アーチ形を成した松並木の通路が通って居る。〔後略〕

 閉鎖されて居る南門から石を舗いた広い道が内苑に通じて居り、その両側には大きい石彫の動物が並んで居る。

 内苑の門は通過證パスの所持者か、もしくは墓の監視人を知っている者にでなければひらかれない。〔中略〕すべての最奥の処に、一つの大きな円形の草した土盛りがある。これが即ち〔太宗ホンタイジの〕墓であって、その頂に一本の樹が生えて居る。(『奉天三十年』上巻、23-25頁)

(2)日清戦争と奉天

 スコットランド長老教会宣教団の活動はすべりだしは順調だったのだが、その後数度にわたって大きな困難に直面することになった。その第一は日清戦争(1894~95年)であり、次は義和団事件(1900年)、そして第三には日露戦争(1904~05年)であった。

 1894年7月、豊島沖の海戦で日清戦争が始まると、奉天からも左宝貴将軍に率いられた奉天部隊が陸路、朝鮮に向かった。左宝貴軍は他の四つの清軍部隊と共に平壌の防衛に当たることになった。9月15日、日本軍は平壌を守る清軍に対して総攻撃をかけた。一方、清軍側は各部隊の連絡が取れず、個々バラバラに戦うという状態であった。その中で、左宝貴が銃弾を受けて戦死すると、左宝貴軍は算を乱して平壌から撤退した。清朝の他の部隊も撤退し、翌日には日本軍が平壌を占拠した。

 左宝貴軍敗退の報が奉天に届くと、人々は日本軍の奉天攻撃を恐れて、奉天北方や東北方面の山岳部に避難しようとした。スコットランド長老教会宣教団は南方、遼河が遼東湾に入る河口に近い開港場である「牛荘」(本当の牛荘ではなく、実際には営口。イギリスは1858年の天津条約との関係で、営口を「牛荘」と呼び続けた)に避難することになり、10月28日、クリスティーも奉天を退去して、「牛荘」に向かった。「牛荘」には他の宣教団がいくつもあったので、12月、協力して赤十字病院を開設し、戦傷者の治療などに当たった。1895年3月7日、日本軍は「牛荘」を攻撃し、小規模の市街戦の後、これを占拠した。しかし、それによって宣教団の活動が妨害されるということはなかった。1895年4月17日、日清講和条約が調印され、日清戦争は終結した。これにより、7月、クリスティーらは奉天に戻った。奉天は戦火に見舞われることもなく、各キリスト教団の教会や病院はすべて無事であった。

(3)義和団と奉天

 しかし、1900年の義和団事件では、奉天のキリスト教宣教団やキリスト教徒は多大な被害を被った。1900年6月、義和団は北京に入り、清国兵と共に各国公使館を攻撃、日本公使館の職員1名とドイツ公使が殺害された。6月19日、西太后は義和団を支持し、列強と戦うことを決定、21日、列強に対して宣戦布告した。その頃、奉天にも義和団の首領が何人か来て、団員の徴募を始めた。6月20日、「外国人を口穢く悪罵した貼紙が到るところに貼りだされ、すべての忠良なる支那人民は蹶起して彼らを国土より掃蕩せよ、と呼びかけられた。二十四日が建物焼打の日と定められ、それに助勢した者には賞金が約束された」(『奉天三十年』上巻、182頁)。

 こういう騒然たる情勢の中、6月23日、スコットランド長老教会宣教団はクリスティーら3人を残して、奉天を退去し、25日にはクリスティーらも「牛荘」に退避した。30日、クリスティーは奉天に残っていた中国人医師からの次のような電報を受け取った。「本日四時頃教会が焼かれた。病院と住宅とが燃えつつある。牧師の生死、並に殺された信者数不明」。その翌朝には、「男子病院、婦人病院、住宅、聖書協会の建物、教会、礼拝堂、すべて拳匪〔義和団〕のため灰燼に帰した」という電信があった(『奉天三十年』上巻、187頁)。

 その後、「牛荘」も危険になったため、スコットランド長老教会宣教団は日本、上海、本国(スコットランド)などに四散した。クリスティーは日本に逃れ、2カ月ほど滞在した。

 この頃、奉天では、クリスティーは奉天市外の北陵の森の中に潜んでいるという噂が立った。病院で治療を受けたことがある中国人馬商人で、普段はぺてん師のならず者でとおった男が、さまざまな食料品を一杯籠に入れて、密かに北陵の森の中を一日中クリスティーを探しまわった。外国人を助けたことが知られると殺されるのであるから、彼は命の危険を冒してそうしたのである(『奉天三十年』上巻、73-74頁)。当時、北陵を取り囲むうっそうとした森は身を隠したい人が隠れる絶好の場所と考えられていたのであろう。

 他方、8月14日、日・露・英・独など8カ国連合軍が北京に入城し、翌15日、光緒帝は西太后と共に西安に蒙塵(逃亡)した。これにより、清国政府の義和団に対する対応が一変し、9月7日、義和団鎮圧令が出された。奉天でも、清国軍が義和団の弾圧に当たり、10月1日にはロシア軍も奉天に入って、治安が回復された。しかし、この間に奉天のキリスト教会のすべてが破壊され、多くの中国人キリスト教徒が殺害された。特に、フランスのカトリック宣教団は数百人の中国人信徒とともに頑丈な壁で囲われた教会の敷地に立てこもり、武装して抵抗したが、最後には大砲で攻撃されて、全滅した(『奉天三十年』上巻、191-193頁)。クリスティーは11月9日、肌を刺す寒気の中奉天に帰ったが、とても布教活動や医療活動をできる状態ではなかったので、2、3週間後には「牛荘」に戻り、その後一時スコットランドに帰国した。

(4)日露戦争と奉天

 1904年2月、日露戦争が始まり、5月には日本軍が遼東半島に上陸、満洲に戦火が拡がっていった。8月末には遼陽が主戦場となったが、9月4日、ロシア軍が遼陽から北方に退却し、日本軍が遼陽に入った。10月には遼陽と奉天の間の沙河で日露両軍が対峙し、戦局は膠着状態になった。翌1905年2月末、ロシア軍は奉天南方の日本軍に攻撃をかけようとした。それに対して日本軍が先手を打ってロシア軍陣地を攻撃したことから、奉天会戦と呼ばれる戦闘が始まった。3月1日、日本軍は奉天に総攻撃をかけ始めた。ロシア軍は北陵の森を占領していたので、8日には、北陵の森でも激しい戦闘があった。9日、ロシア軍は余力を残しながらも、戦闘態勢の整備のために、北方の鉄嶺さらにはハルビンへと退却することになった。10日、日本軍が奉天に入った。

 これらの満洲における日露両軍の戦闘は人々の生活を大混乱に陥れた。奉天には周辺の村々から戦火に追われた人々が大量に流入し、物価や家賃が数倍に高騰した。しかし、日露戦争にかんして局外中立の立場をとる清国の行政機関が曲がりなりにも機能していたこともあり、義和団事件の時のような極端な治安の乱れはなかった。

 クリスティーは日露戦争が始まった時、中国の天津に行っていて、すぐには奉天に戻れなかったのであるが、日本軍が遼陽を占領した後の1904年9月9日、混乱するロシア軍の間を縫うようにして、奉天に戻った。クリスティーはこの間の奉天の状況を次のように書いている。

 一九〇五年(明治三十八年)の始めの三箇月間に、我々は一万人以上、政府は三万八千人以上の人を助けた。始めから終り迄の間に、奉天に来た避難民は約九万人と推定せられ、この外新民屯その他に逃げた者も何千人とあった。

 これらの群衆に住居を与えるのは容易な問題ではなかった。しかし、冬に一晩露天で寝ることは多数の者に取りて死を意味したから、最も間に合わせの設備でも感謝を以て迎へられた。我々は、要求せられたら家賃を払うことにして、所有者の逃げ去った一二の大きい空屋敷を占領した。焼け跡となった我々の病院の屋敷内には約七百人を収容した。(『奉天三十年』下巻、252頁)

 当時に於ける奉天の衛生状態が良くなかったことは、想像するに難くないであろう。流行病が頻りにあった。小児の多数ゐる我々の収容所では、麻疹、水痘、猩紅熱が絶え間なくあり、更に天然痘の流行があって多くの小児の生命を奪った。チフス患者のためには別の屋敷を宛てたが、その他の病気に対しては隔離は不可能であった。腸チフスの流行は、それの起り得べきあらゆる条件があったに拘わらず、幸にも見ないですんだ。(『奉天三十年』下巻、254頁)

 日露戦争は奉天にまで戦火を及ぼしたが、奉天のキリスト教医療宣教団は、義和団事件の時とは異なり、日露戦争中も戦後も医療活動を継続することができたのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.46)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

戦争の裏に天然ガスあり
藤田進

 12月12日、国連総会は、ガザにおける「人道的停戦」を求める決議を、賛成153、反対10、棄権23の圧倒的多数で採択した。日本はこれに賛成した。反対したのはイスラエル、米国、オーストリア、チェコなどで、棄権はイギリス、ドイツなどであった。al-JazeeraはもちろんNHKでさえ、ここに米国の「孤立」が見て取れると指摘している(南塚氏の12月13日記事より)。圧倒的多数で採択された事実には、パレスチナにおけるイスラエルの残虐な蛮行に対しこれ以上見過ごせないとする各国の思いが見て取れる。

 同時に、アメリカとイスラエルは状況が壊滅的になろうとも殺戮を止めないことに関して興味深い報告が発表され注目を集めている。

 ロンドンで発行されているアラビア語紙「アル・クドゥス・アル・アラビー」2023年11月25日付(電子版)[i] は、石油・天然ガス専門情報組織OIL PRICEの11月23日のウェブサイト に掲載された「ガザ沖合の天然ガスによってガザ経済の再建は可能」(Offshore Gas Field Could Help Gaza Recovery)と題するCharles Kennedy報告[ii] を取り上げた。

 Charles Kennedyは「ガザ沖合の天然ガス埋蔵地区(Gaza Marine)の海底に10兆立方マイル以上の天然ガスが埋蔵されており、これは将来のパレスチナ経済の大きな財源である」と指摘している。その上で、「イスラエル政府がGaza Marineを狙っており、天然ガスがイスラエルとハマースの戦争の理由となるとしばしば言われてきた」のにふれ、さらに11月にイスラエルを訪問した米大統領エネルギー安全担当顧問Amos Hochsteinの発言を通じて、ヨーロッパのエネルギー危機で東地中海の天然ガスが熱い視線を浴びている今、イスラエルの天然ガス会社を含めたいくつもの企業がGaza Marineのガス田開発に強い関心を抱いているのに不思議はない、とする米国の反応を伝えている(写真参照)。

 同報告は「ハマース殲滅」を掲げて住民を強制退去させガザ全面支配をめざしているイスラエル軍のジェノサイド攻撃が、抵抗を排除してガザ沖合天然ガス開発事業を本格化させようとする米国・イスラエル・国際資本の意向と結びついていることを浮かび上がらせた。以下ではCharles Kennedy報告・その他関連資料に依拠しながら、天然ガスをめぐるイスラエルとパレスチナ住民の抗争の経緯をたどってみたい。

 ガザ沖合の海底天然ガス開発がはじまったのは、「パレスチナ国家(通称パレスチナ自治政府)」成立6年後の1999年である。1993年オスロ合意が、イスラエルのパレスチナ占領地返還とPLO(パレスチナ民族代表機関)の対イスラエル武力闘争放棄に合意した両者間の平和条約(=「パレスチナ・イスラエル平和条約」)として成立した。オスロ合意に基づいて「ガザとヨルダン川西岸地区」を領土とするパレスチナ自治政府が誕生し、1995年制定のオスロ第二協定(Oslo AccordsⅡ)は「パレスチナの沖合20マイル以内の海域はパレスチナ領」と定めた。

 パレスチナ自治政府は1999年、パレスチナ領内の「ガザ天然ガスエリア」(Gaza Marine)の試掘権をBritish Gas(BG)とアラブ建設企業のConsolidated Contractors Company(CCC)に与え、BGは2000年海底に巨大な天然ガス層を発見した。パレスチナ自治政府はBGと、Gaza Marineのほぼ全域でのガス田開発を認めるとともにパレスチナ諸関連産業の振興をはかることを内容とする25年期限の契約を交わし、BGは2つの天然ガス田の開発に着手した[iii]。豊富な天然ガスの発見に接した自治政府代表のアラファトは2000年9月のテレビ演説で「この資源は経済の堅固な土台をなしわれわれの独立国家を支えてくれることだろう」と喜びを語った[iv]

 しかし、イスラエル政府は当初からパレスチナ自治政府が独自に天然ガス開発に取り組むことに難色を示し、イスラエル海軍を出動させてBGの操業を執拗に妨害した[v]。さらに2002年、BGがガス田から抽出した天然ガスをガザの加工プラントに送るパイプラインの建設を提案しパレスチナ自治政府がこれを承認すると、イスラエルはこれに介入し、「天然ガスを送るパイプラインをイスラエル国内の港につなぎ、天然ガスの余剰部分は市場価格より大幅安値でイスラエルに供与する」[vi],また「“テロの資金になることを防ぐ”ためパレスチナ側に渡るすべての収入をイスラエルが管理する」[vii]要求を自治政府に突きつけた。パレスチナ自治政府はオスロ合意に基づいた確固たる「主権国家」であり、パレスチチナ側が自国領海内で独自にすすめる天然ガス開発事業を妨害したり計画内容の変更を迫ったり、収入の管理にまで手を出すのはパレスチナ自治に対するあからさまな自治権侵害に他ならなかった。

 イスラエル管理下のガザ天然ガス開発が続く一方で、豊富な天然資源による経済的繁栄が約束されるはずのパレスチナ住民達の生活は、オスロ合意以降、以前にも増してあらゆる妨害や抑圧により状況は悪化の一途を辿っていた。その状況を変えることができず自治政府や一部の特権階級が振りかざす腐敗した権力に対する不満が住民達の間に生じるのは当然のことであった。生殺与奪の権を握るイスラエルと自治政府に抗う民意が、2006年1月パレスチナ自治議会選挙で「占領がある限りパレスチナ人の平和はない」としてイスラエルの占領を黙認するオスロ合意に反対し占領軍・入植者に対する武力抵抗を続けてきたイスラム政治組織のハマースを合法的に政権の座につかせたのである。

 イスラエルとカルテット(米・ロシア・EU連合・国連)はハマースがパレスチナ自治政府の政権の座につく事態に動揺し、パレスチナへの経済援助の停止とハマース拠点のガザへの空爆の圧力で民衆を離反させハマース政権の失脚を企てたが失敗した。ハマース政権放逐が困難となった2007年、イスラエルはガザ沖合の天然ガス開発エリア(Gaza Marine)を軍事封鎖した。さらにガザ長期封鎖策を開始した2008年12月、国際法に違反して「Gaza Marineはイスラエル領」と一方的に宣言した。この宣言によって、ガザ天然ガス開発事業に取り組んできたBGは活動を停止し、その後ロイヤル・ダッチ・シェルがBGを買収したものの、Gaza Marineの天然ガス開発事業は好転せずそのまま休眠状態となった。イスラエルはGaza Marineを封鎖して天然ガス生産を凍結する一方で、長期封鎖体制下のガザ住民が外部に依存する電力および電力を起こす火力発電所の燃料の供給を管理しており、たとえば2008年1月22日火曜日のガザ住民は次のような締め付けを被っていた。「人口150万人のガザの必要電力量は240メガワットであるが、通常200メガワットくらいしか配電されない。電力の60%はイスラエルが供給し、エジプトの送電量は8%で、残りの電気はガザの火力発電所で発電するが、発電用燃料はすべてイスラエルが供給する。1月17日、ハマースによるイスラエル南部ミサイル攻撃の報復としてイスラエルはガザへの燃料搬入を禁止した。発電所は燃料切れとなり19日以降ガザ市は停電状態が続き、国際社会はガザ住民生活の危険な状態を憂慮した。」[viii]

 一方イスラエルは2009―10年に天然ガス埋蔵地帯の一角に二つの巨大な海底ガス田を開発し、同国は天然ガス輸出国となったにも関わらず、パレスチナ領内にあるGaza Marineに関しては占拠したままガス田開発凍結状態を解こうとしなかった。

 2019年国連貿易開発会議(UNCTAD)調査報告が発表され、①東地中海のエジプト、パレスチナ、イスラエル、レバノン一帯のLevant Basin Province Assessment Area(地図参照)には1220兆立方フィートの天然ガス埋蔵量―世界の最重要天然ガス埋蔵地のひとつ―がある、②ガザ沖合のGaza Marineには45億9200万ドル相当の天然ガスがある、➂パレスチナのヨルダン川西岸地区とガザに石油と天然ガスの埋蔵地点が確認されており「パレスチナの貧困改善に大いに役立つ」ことが明らかにされた。

 この調査報告でパレスチナ沖の豊富な天然資源がパレスチナ人を貧困から救う切り札であることが明確になった後も、イスラエルは一貫してそれに触れることを許さず、占領下パレスチナで必要とされる燃料、ライフラインは全てイスラエルが管理し、イスラエルの判断で遮断される状況が現在も続いている。

 ところがGaza Marine開発を凍結していたイスラエルが、突如開発に舵を切ると態度をかえた。2023年6月18日、ネタニヤフ首相は「イスラエル、エジプト、アッバース・パレスチナ自治政府はパレスチナの経済発展と治安の安定に向けて協力し、ガザ沖合の天然ガス埋蔵地域(Gaza Marine)の開発事業に共に取り組むことを決定した」ことを明らかにした[ix]

 この発表の前年の2022年、ウクライナ戦争によるノルドストリーム・パイプライン爆破、ロシアに対する経済封鎖と輸出禁止によりヨーロッパを中心に世界的なエネルギー供給危機が起き、急激な天然ガス需要拡大がもちあがった。この緊急事態への対応をめぐって同年6月エジプトのカイロで、米、イスラエル、エジプト、パレスチナ自治政府、湾岸産油国などが出席した7か国首脳会議が開かれ、会議期間中にイスラエルの天然ガスをエジプト経由ヨーロッパ輸出することを決めたイスラエル・エジプト協定が、フォン・ディア・ライエン欧州委員会委員長立会いのもとでむすばれた[x]。ネタニヤフの発表は、前年来のイスラエルを含む中東諸国と欧米の経済協力関係の前進を踏まえてのものだった。

 ネタニヤフ首相がGaza Marine新規開発計画を発表した翌19日、その計画に反対するハマースのスポークスマンが次のメッセージを発した。「天然ガスはパレスチナ人民の財産である。ガザ沖の天然ガスは貧しい人々、青年たち、そしてパレスチナの将来を担って次々やってく者たちのものである。」[xi]

 ガザを違法占領して住民を長期完全封鎖下に置いているイスラエルが、パレスチナ領内のガス田を管理し掘削を許可する権限をもっているのを、アッバースのパレスチナ自治政府は受け入れてイスラエルと一緒になって新規開発計画を協議している(写真参照)。その様子は、海底に自分たちの豊富な天然資源を有しながら近づくことも利用することもできないガザ住民には屈辱的である(写真参照)。

ネタニヤフ イスラエル首相とアッバース パレスチナ自治政大統領の密談(2023/11/20)
https://www.alquds.com/en/posts/101527
「ガザの沖合天然ガス田は我らのもの」とデモする住民  (2022 年 9 月)
Palestinians demand right to natural gas field off Gaza Strip – Middle East Monitor

 冒頭に示した、Charles Kennedy報告が指摘した「イスラエル政府がGaza Marineを狙っており、天然ガスがイスラエルとハマースの戦争の理由となるとしばしば言われてきた」ことを歴史に遡ることにより、イスラエルの蛮行の真意が明確なものとして可視化されたのではないだろうか。利権を巡り行われるあらゆる残虐行為や虐殺が理由付けされて公然とまかり通っている現状は許されて良いはずがない。

 最後に、2023年11月17日、ジュネーブ国連本部でのナダー・アブー・タルブッシパレスチナ国連大使が訴えたメッセージの一部分を下記に示しておきたい。[xii]

 「今年イスラエルの財務大臣がパリでこう発言しました。『パレスチナ人などという人々は存在しない』。9月24日のネタニヤフ首相は国連総会に出て「新しい中東」と書かれた地図を広げた。その地図でパレスチナは消されていた。すべてがイスラエルになっていた。イスラエルが領土拡大や差別を国是としていたとしても、ここでは通用しません。」

 「侮辱と根拠のない重大な非難を浴びせるだけでなく、イスラエルは皆さんがぞっとするようなことを述べました。事実上こう言ったのです。『私はガザのあらゆる人間をひとり残らず殺すことができる。ガザにいる230万人はテロリストか、テロリストの支持者か、人間盾のどれかだ。だから、標的にするのは合法的なのだ』と。イスラエルによれば、ガザのすべての人間がこれらの3つのいずれかに分類されるのです。子ども、ジャーナリスト、医師、国連職員、保育器のなかの未熟児も、それゆえイスラエルは人々を殺したあとで、大胆にもこの会議に出席し、『我々は国際法に準じて行動している』と。この1カ月の犠牲者は11,350人以上になりました。たとえそれが、子ども、ジャーナリスト、国連職員、病める人、高齢者であれ、イスラエルはそれぞれの死を正当化しました。」

 「私たちの民を強制的に移住させ、私たちの土地を占領し、私たちの家を破壊し、その所在地から追い出しました。10月7日以降だけでなく、それ以前の75年間にわたってみてきた事実です。」

 「例え『ガザを消してしまえ』また『パレスチナの人々の上に核爆弾を落とそう』『ヒューマン・アニマルと邪悪な子供を殺せ』」と煽ってもこう考えていませんか?威嚇や脅迫的な言葉を続けることで世界の眼を事実からそらせると、イスラエルは今この瞬間も赤ん坊、子ども、男女、高齢者まで殺しています。幼くても年老いても重病であっても、攻撃対象からは外れません。」

劫火の中で高まる抵抗の民意

 パレスチナの民間調査機関「パレスチナ政策調査研究所」(PSR)が12月13日と11月22-12月2日に、ヨルダン川西岸地区とガザ地区で1231人に対面で行った世論調査の結果を次の様に発表した。
・ハマース支持44%、ファタハ支持17%。
・「パレスチナ自治政府の大統領選が行われた場合はどちらを選ぶか」の質問への回答
現アッバース大統領支持16%、ハマース指導者のハニーヤ支持78%」
(「赤旗」12月5日付より引用)


[i] https://www.alquds.co.uk/(2023/11/25)

[ii] https://oilprice.com/Energy/Natural-Gas/Offshore-Gas-Field-Could-Help-Gaza-Recovery-html

[iii] Betsey Piette, Behind Israel’s ‘end game’ for Gaza: Theft of offshore gas reserves, posted on November 14, 2023  https://www.workers.org/2023/11/74864/ 

[iv] Emad Moussa,Gaza’s gas fields:A symbol of Palestine’s shackled economic potential, https://www.newarab.com/analysis/gazas-gas-fields-how-israel-shackled-palestines-economy

[v] Wikipedia’ Natural gas in the Gaza Strip https://www.workers.org/2023/11/74864  

[vi] Betsey Piette, op.cit.

[vii] Wikipedia, op.cit.

[viii] http://english.aljazeera.net/News/aspx/print.hym

[ix] al-Quds al-Arabi,19,June,2023  https://www.alquds.co.uk

[x] al-Quds al-Arabi,7,January,2023 https://www.alquds.co.uk

[xi] al-Quds al-Arabi,19,June,2023 https://www.alquds.co.uk

[xii] 特定通常兵器使用禁止制限条約(CCCW)第5回締結国会議における発言 https://www.youtube.com/watch?v=_IvuYQNHcts

(「世界史の眼」2023.12 特集号7)

カテゴリー: 「世界史の眼」特集, コラム・論文 | コメントする

イスラエル批判と反ユダヤ主義
木畑洋一

 本特集「イスラエルのガザ攻撃」を考える4の「米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向」において、油井大三郎氏は、「米国では、イスラエルを批判すると、すぐ「反ユダヤ主義者」のレッテルが貼られ、それ以上の批判が封印される傾向がずっと続いてきたが、近年、シオニズムに反対するユダヤ系知識人の台頭が目立つようになっている」と、指摘した。これは確かに、現在のイスラエルによる暴虐な行動を前にした、米国での目立った変化といえよう。しかし、イスラエル批判が「反ユダヤ主義」と同一視されるような形で激しい社会的攻撃の対象となる事態が、米国で顕著に見られていることにも、また注意しておくべきであろう。その一例が、パレスチナの現状に関する大学内での意見表明をめぐる最近の動きである。

 今月(2023年12月)5日、米国の連邦下院の教育・労働委員会で開かれた公聴会において、証人として出席した、ハーヴァード大、ペンシルヴァニア大、マサチューセッツ工科大の学長に対して、共和党のエリーゼ・ステファニク議員(トランプ派として知られる)が、「ユダヤ人のジェノサイドを呼びかけることは、あなた方の大学では、いじめやハラスメントを禁止する学則違反に該当するか」と、質問した。ここで、「ユダヤ人のジェノサイドを呼びかけること」と表現されている対象は、各大学の学生の間で盛り上がったイスラエル批判の運動のなかで、パレスチナ人によるインティファーダ(反イスラエル蜂起)が鼓吹されたりしていることなどを指していた。それに対して、ペンシルヴァニア大のエリザベス・マギル学長は、「文脈による」と答え、他の学長たちも同じような回答を行った。

 学長たちのこうした発言に対し、「ユダヤ人のジェノサイド」への呼びかけを完全に非難しなかったことは反ユダヤ主義的であるとの批判が生じた。そして、ペンシルヴァニア大学では、多額の寄付をしていた人物が寄付金を引き上げ、ユダヤ系学生が同大学はユダヤ人に対する憎悪、差別の温床と化していると訴えるといった事態が展開することになり、そうした動きを前に、マギル学長が、12月9日に学長を辞任すると表明せざるをえなくなったのである。他の学長たちは職にとどまっているが、こうした「反ユダヤ主義」批判がこれからも米国の大学キャンパスでさらに激化することが予想される。

 この状況をめぐり筆者が考えていることを、以下で簡単に述べてみたい。

 問題は、イスラエル批判、イスラエルの行為に対する非難が、反ユダヤ主義と同一視されるという点である。イスラエルがユダヤ人によって作られたことはいうまでもない。イスラエルにはユダヤ人以外の人々も多く居住しており、ユダヤ人国家と言い切ってしまうことは厳密にはできないものの、とりあえずそう呼んでおこう。そうであるとしても、イスラエル政府、イスラエル軍がパレスチナ人に対して現在行っている(そしてこれまで長年行ってきた)非人道的残虐行為、国際法違反行為を批判することが、ユダヤ人差別や反ユダヤ主義とそのまま重なるわけではない。にもかかわらず、その同一視がまかり通っているのである。

 その要因の一つとして、反ユダヤ主義に関する国際的なある定義を紹介しておこう。それは、2016年に国際ホロコースト記憶連盟(International Holocaust Remembrance Alliance: IHRA)という政府間組織(日本は非加盟)が下した定義である。それは、「反ユダヤ主義はユダヤ人についての一観念であり、それはユダヤ人に対する憎しみと表現できる」と一般的に規定した上で、11の具体的例を挙げている。そこに、ユダヤ人の殺害を求めたり正当化したりすることとならんで、「イスラエル国家の存在を人種主義的営為と主張」したり「現在のイスラエルの政策をナチスの政策と比較」することが挙げられているのである。この定義は法的な力をもつものではないが、米国政府とEU諸国の大半はそれを受け入れる姿勢を示し、2019年には米国のトランプ大統領が、この定義による反ユダヤ主義から学生が守られていない大学に連邦政府が資金を提供することをやめる旨の行政命令に署名した(Masha Gessen, “In the Shadow of the Holocaust“, The New Yorker Daily, Online, 2013.12.9)。この定義に対しては当然批判も起こり、2020年には研究者たちが、イスラエル批判の言辞と反ユダヤ主義的言動とを区別することを例示した「エルサレム宣言」を出したものの、IHRAの定義は国際的な影響力を持ちつづけている。

 IHRAのこの定義については、イスラエルの政策とナチスの政策の比較という論点に着目する必要があろう。ここでいうナチスの政策が、ユダヤ人の大量虐殺を中心とするホロコースト(その犠牲者はユダヤ人だけではなく、シンティ、ロマなども含まれていたが)であることは、いうまでもない。ハマスによる10月7日のイスラエル攻撃への反撃、人質の解放という名目のもとで、女性、子供の大量殺戮を伴いながら進められているイスラエルによるガザでの戦争は、ガザのパレスチナ人の根絶(肉体的抹殺だけでなく、住む土地からの根こそぎの追放をも指す)を狙うもので、まずはユダヤ人の国外追放(マダガスカルなどが追放先として考えられた)を、さらにはその肉体的抹殺をめざしたナチスの政策をまさに思い起こさせるものであるが、この定義はそうした歴史的想起を禁じているのである。本特集の1「ハマースのアル・カッサーム部隊のイスラエル軍事侵攻を検証する」の末尾で、藤田進氏は、ユダヤ系ポーランド人で強制収容所生還者の両親をもつガザ経済史研究者サラ・ロイ氏が、イスラエルによる2009年のガザ空爆直後に、「ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが、なぜこんなことをできるのか」と述べたことを、紹介しているが、IHRAの定義は、問題の核心をつくこのような問いを封殺するものでしかない。

 IHRAによる反ユダヤ主義の定義では、ナチスによるホロコーストとイスラエル政府・軍の対パレスチナ人政策との比較可能性が否定されているが、ホロコーストと世界史上の他の虐殺行為が比較可能であるかどうかという問題は、1980年代にドイツで展開された「歴史家論争」以来、しばしば提起されてきた。そのなかで、ホロコーストが規模や残虐さの面で格段に重い意味をもっていたとしても、それは決して他の虐殺との比較を拒むものではないことが、認識されるようになってきている。ホロコーストを念頭に置いて考え出されたジェノサイドという概念が、世界現代史のさまざまなケースについて検討されていることは、その点を示している。前述したステファニク議員の質問がジェノサイドという言葉を用いていること自体も、逆説的ではあるがその証左といえよう。ジェノサイドという概念の適用可能性をも含めて、イスラエル政府・軍のガザにおける現在の行動がどのようなものか考えていくためには、ナチスの政策との比較を含む歴史的な眼が求められるのである。

(「世界史の眼」2023.12 特集号6)

カテゴリー: 「世界史の眼」特集, コラム・論文 | 1件のコメント

米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向
油井大三郎

 2023年10月23日、バイデン大統領はイスラエルを訪問し、ハマスによるイスラエル攻撃を2001年9月11日の同時多発テロ事件になぞらえて、イスラエル人の怒りの感情に理解を示しながら、こう語った。「私は警告する。怒りを感じても、それに飲まれてはいけない。9.11の後、我々は激高した。正義を求めて、それを実現した。だが同時に過ちも犯した」と(『朝日』10月23日号)。

 第二次世界大戦後の米国は、一貫してイスラエルを支持してきたが、イスラエルにネタニヤフ政権のような右翼政権が成立し、パレスチナ人地区への侵攻が繰り返されるようになると、少しずつ批判の姿勢を見せ始めている。特に、イスラエルによるガザへの報復攻撃が激化するにつれ、イスラエル支持の世論が減少し始めている。例えば、PBSなどの世論調査でイスラエルが「やり過ぎ」とした意見は、10月11日時点では26%であったが、11月6-9日時点になると、38%に増加していた。

 11月25-26日のニューヨーク・タイムズの世論調査で、全体の平均では親イスラエルが38%、親パレスチナが11%、同等が28%であったのに対して、自分を「大変リベラル」と考える人では、親イスラエルが16%、親パレスチナが32%、同等が35%となった。つまり、革新的なグループの間では親パレスチナが親イスラエルの倍を記録するに至っている。

 このような動きは、イスラエルがガザに報復爆撃をした直後に、「平和のためのユダヤ人の声」などの団体が呼び掛けて「ガザでの虐殺停止」を要求するデモが連邦議会内で行われ、300人が逮捕された事件にも表れている。このデモに参加したナオミ・クラインは、イスラエルがナチによるジェノサイドの恐怖を利用して、現在の虐殺を試みていると非難し、「我々はこのような形で反ユダヤ主義の恐怖を操作することを許さない」と宣言した(The Guardian, October 19, 2023)。

 米国では、イスラエルを批判すると、すぐ「反ユダヤ主義者」のレッテルが貼られ、それ以上の批判が封印される傾向がずっと続いてきたが、近年、シオニズムに反対するユダヤ系知識人の台頭が目立つようになっている。その代表格が、2007年に『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(邦訳も2007年刊)を出版したジョン・J・ミヤシャイマーとスティーヴン・M・ウォルトであった。この本では、米国のイスラエル・ロビーがイスラエルを無条件で支持するように米国政府に圧力をかけて来たとした上で、「こうした米国の外交政策は米国の国益に適っていない。それどころか、イスラエルの長期的な利益も損なう」(上巻、p.4)と主張した。

 彼らが特に米国の利益を損なった例として挙げたのは、9.11事件以来の「対テロ戦争」の一環として2003年3月に始まったイラク戦争であった。この戦争の開戦理由として当時のブッシュ(子)政権があげたのがフセイン政権が大量破壊兵器を保有しており、それがテロリストに渡るのを防ぐ必要性であった。しかし、実際に開戦後、フセイン政権が打倒され、米軍がイラクを隈なく探したが、大量破壊兵器は発見されなかった。

 つまり、ブッシュ政権は「がせネタ」に踊らされて、国連安全保障理事会の同意も得られないまま、開戦したこと、その結果、長期にわたるイラク占領で、米兵にも多数の犠牲者をだすことになったのであった。当然、米国の議会ではこの「がせネタ」を誰が流したのか、追求したが、この本の著者はそれがイスラエル政権から流され、米国のイスラエル・ロビーがブッシュ政権の開戦決断に重大な影響を及ぼしたと主張した(下巻、p.71)。

 例えば、開戦1年前の2002年4月中旬、ネタニヤフ・イスラエル元首相がワシントンを訪問し、米国の上院議員や『ワシントン・ポスト』の編集委員と会談し、こう語ったという。「サダム・フセイン大統領は核兵器を開発中である。その核兵器は、スーツケースや小型かばんに入れて運ぶことができるものだ。もちろん米国本土にも運び入れることができる」と(下巻、p.79)。また、当時イスラエルの外相だったシモン・ペレスはCNNの番組に出演しこう語った。「サダム・フセインはビン・ラディンと同じくらい危険です。米国はフセインが核兵器を開発しているのに、ただ座ってそれを見物しているべきではないのです」と(下巻、p.79)。

 当時のブッシュ政権では、副大統領のチェイニー、国防長官のラムズフェルトら「ネオコン」と呼ばれた保守派の対外干渉主義者が政権の中枢を占めていた。このネオコン・グループは、1997年に2000年の大統領選挙で共和党政権を奪還すべく結成された「新アメリカの世紀プロジェクト」に起源をもっていた。このグループの中には、ノーマン・ポドレッツのような保守化したユダヤ系の知識人も参加していた(拙著『好戦の共和国 アメリカ』。pp.265-6)。

 米国におけるユダヤ系移民の多くは19世紀末に東欧やロシアから移民し、大都市の不熟練労働者として、民主党を支持する傾向が強かった。しかし、1980年代になると、富裕化して共和党に鞍替えするものが出始め、イスラエルを無条件で支持する「保守的国際主義」の主張を展開するようになった。それでも、過去の差別やホロコーストの体験から現在でも革新的な立場を維持しているユダヤ系も多く、彼らは民主党左派に影響力を維持している。

 その民主党ではイスラエルのガザ侵攻が激化する中で、4分3が停戦を支持するようになっており、即時停戦を求める決議が40人の民主党議員によって提案されたという(『朝日』12月5日)。他方、共和党の中にはトランプ前大統領の影響を受けて「アメリカ・ファースト」の動きが出て、イスラエルへの軍事援助が減額される可能性もある。そうなると、従来のように米国政府が無条件にイスラエルを支持し続ける政策に転機が訪れる可能性もある。今後の米国世論や政府の動向を注視する必要があるだろう。

(「世界史の眼」2023.12 特集号5)

カテゴリー: 「世界史の眼」特集, コラム・論文 | コメントする

イスラエル軍ガザ攻撃60日目の今
藤田進

Israeli tanks surrounding the Al-Shifa Medical Complex in Gaza City. (Photo: via WAFA)

 11月14日深夜イスラエル軍は、ガザ北部のシファ病院地下にハマースの司令部があるとして突入に踏み切った。そして病院敷地内で地下トンネルの「入り口」を発見、武器も発見したと主張した。ハマースはこれらの情報についてイスラエル軍のでっち上げとした。病院は命を繋ぐ最後の砦であり、如何なる大義名分を掲げようとも決して侵されることが許されない。最大限の言葉で非難すると共に、この凄惨な事態を伝える情報の乏しさと偏りによって、パレスチナの人々の命を危機に晒す残虐行為が正当化されることの無きよう、現地の報道や情報を交え現状をお伝えしたい(藤田進)。

Ⅰ イスラエル軍によるシファ病院蹂躙の詳細

 シファ病院はガザ最大の総合病院であり、特に高度の技術水準の医師と最新医療設備を備えた外科・整形外科の存在はガザ住民にとりきわめて重要であり、年間3万2000件の手術(2022年)をこなしてきた(https://www.aljazeera.net/encyclopedia/2023/11/27)。ガザ自治政府広報部の発表によれば、イスラエル軍封鎖当時シファ病院には約1500人の医師、約700人の患者、新生児39人、さらに家を失い安全を求めて避難してきた人々が約7000人いた。

 11月14日深夜イスラエル軍がシファ病院に突入した。翌15日の衛星テレビのアル・ジャジーラのインタビューで、ガザ病院連合会長のムハンマド・ザクート氏は病院の窮状について次のように語った。

 「シファ病院はイスラエル軍突入の数日前から戦車で包囲されており、電力も燃料も断ち切られた中で集中治療室の患者と新生児の多くが死亡した。イスラエル軍はイスラムの戒律に基いて死者を弔い埋葬することを禁じ、病院当局はやむなく昨日14日に100人の犠牲者の遺体を病院の構内に集団埋葬した」。

 「イスラエル軍突入時、病院構内にはパレスチナ人コマンドもイスラエルの人質も見当たらず、軍は一発の銃弾も浴びなかったにもかかわらず、建物の通路から出てくる人々を銃撃した。」

 「イスラエルはシファ病院にハマースの軍司令部があると主張したが、ハマースはこの主張を全面的に否定し、国連調査委員会にことの真相をあきらかにするよう要求していた。」

 「イスラエル占領軍は自軍兵士が病院内へ突入すれば勝利は自分たちのものだと判断し、15日の明け方緊急治療棟と外科病棟の二つの建物に突入した。しかしハマース軍の存在を示すようなものは何も発見できなかった。病院内に閉じ込められた患者、患者の付添人、医師たちは院内を移動することも禁止されて10時間にわたる取り調べを受け、取り調べは今も続いている。」

 「新生児が看護、保育器、薬を欠いて特に危険な状態にあり、我々ガザの医師団はイスラエル軍に発電用燃料を病院に緊急に供給して欲しいと訴えたが、占領軍はその要求を拒否した。」

 「エジプト側のラファ検問所を通って運ばれてくる医療支援物資は2週間前から全くガザ市に届いておらず、我々は患者たちのエジプトへの移送を強く求めている。」https://www.alijazeera.net/news/2023/11/15

 11月18日、シファ病院を占拠しているイスラエル軍はムハンマド・アブー・サルミーヤ病院長に病院を明け渡すよう通告した。院長はこれまでに通告を何度か拒否してきたが、ついに数百人の患者と避難者たちをガザ南部の他の病院へ移し、また数十人の新生児を安全地帯へ緊急移送する措置を講じた(https://www.alijazeera.net/news/2023/11/27)。

Ⅱ WHOのシファ病院惨状視察報告

 患者、避難民、医師団のほとんどが病院から立ち退かされたあと、世界保険機関(WHO)などの専門家チームがシファ病院の惨状視察に訪れた。イスラエル軍の許可をえて1時間だけ病院内に入ったWHOは記者会見でシファ病院を『死の地帯』と表現し、病院の惨状について次のように発表した。

 「病院にはイスラエル軍の爆撃や銃撃の弾痕跡が多く認められ、病院の入り口付近の敷地は集団埋葬地となっており、80人以上の遺体が埋葬されているとのことである。」

 「院内には25人の医療スタッフと291人の患者しか残っておらず、病院から強制退去させられるときに数人の患者が死亡している。換気装置が止まった集中治療室の2人の患者と人工透析機がかろうじて動いている22人の患者は極めて危険な状態にある。重度の骨折状態の患者29人は医療介護者を欠いて動くこともできない状態にあった。心的外傷患者の多くが伝染予防措置や抗生物質の欠如により感染症を患っていた。新生未熟児31人は無事にガザ南部のラファの病院に搬送された。」

 WHOはシファ病院の患者、医療スタッフ、さらにはガザ北部で部分的医療業務を続けている病院に取り残されている人々の安全と健康状態について重大な危惧を表明した。

 最後にWHOは病院とハマース軍事拠点との関連についても触れ、「シファ病院の医師たちは病院内にいるのは一般市民だけでコマンドの姿は見たことがないと語っていた。我々も、病院がハマース軍事本部として使われていたとする根拠を見いだすことはできなかった」と述べた。

 WHOは、ガザにおける人道にもとる大破滅を阻止するために即時停戦ととぎれることのない人道支援にむけて全世界が一致して取り組むよう訴えた(https://www.palestinechronicle.com/al-shifa-hospital-was-turned-into-who)。

Ⅲ イスラエル軍の「病院地下のハマース軍事指令部」説の破綻

 11月16日、シファ病院捜索中のイスラエル占領軍のダニエル・ハガル報道官が「病院にハマースの地下トンネルと武器・秘密情報機材等を発見した」と発表した。しかしこの主張がハマースの全面否定や先のWHOのコメントが指摘するように物証不足で説得力を欠く中、11月23日のアメリカ衛星テレビCNNのインタビューで、元イスラエル軍司令官でイスラエル首相も務めたエフード・バラク氏が「イスラエルはガザを占領していた40~50年前にシファ病院の地下に避難所を作り、地下トンネルもそのときに掘った」と証言し(https://www.aljazeera.net/politics/2023/11/23)、イスラエル側の「ハマースの築いた地下トンネル」説は決定的に破綻した。イスラエルが「テロリストのハマースの軍事拠点」を発見して「ガザ侵略戦争」を正当化しようと企てた情報戦略は、多方面からの証言や情報により信憑性は揺らぎ、イスラエル軍はガザ住民への残虐行為を繰り返しているに過ぎないという現状が浮き彫りとなった。

 イスラエルとハマースは人質交換とガザへの緊急支援物資搬入のため、11月24日から4日間(その後3日間延長)の停戦協定を結んだ。しかし停戦期間4日目の11月27日、ガザ自治政府保険省スポークスマンのアシュラフ・アルキドラ氏がガザ北部の医療システム崩壊状況を次のように明らかにした。

 「イスラエル占領軍はガザ北部の病院組織を破壊して同地域から住民をガザ南部へ立ち退かせようとしており、医師・看護士たちも一緒に追い立ててその多くを死傷させようとしている。救急車は60台以上が破壊され、医療関係施設は160か所が爆撃されて28の病院は医療活動不能となり、応急措置を施す医療センター63か所も破壊された。」

 「イスラエル・ハマース停戦協定発効直後にガザに搬入された医療物資は必要量より少く、しかも遺憾なことにガザ北部の病院には全く届かなかった。停戦協定期間中もイスラエル軍の病院弾圧は続いており、ガザの医療状態の悪化は極限まできている。ガザの保険組織を保護する役割を担っている国連諸機関は全くその任を果たしていない。医療必需品が十分供給されぬままガザの医療システムは刻々崩壊しつつある。」(The Palestine Information Center,2023 November 27  https://palinfo.com/864355

Ⅳ 停戦期間打ち切り後のハマース政治局員サーレフ・アルアルーリーの声明

 12月1日ドーハで行き詰まった人質交換交渉決裂後、イスラエル軍はガザ報復攻撃を再開し1日で200名以上のパレスチナ人を殺害した。2日夕方、ハマース政治局員のサーレフ・アルアルーリーが次の様なメッセージをアル・ジャジーラ・ネットとのインタビューで表明した。

  1. 「ハマースは最初から外国人の人質は無条件で解放し、また子どもと女性も人質対象でないので解放することにしていた。いま我々のもとにいる人質はイスラエル人の兵士と元軍人だけである。イスラエルが兵士の人質解放交渉を途中で拒否したのは、女性や子供を殺害し続けることによって我々を屈服させようと考えているからである。だがもはや我々は、イスラエルが敵対戦争を終了するまで人質解放交渉に応じるつもりはない。これが我々の公的で最終的な立場である。」
  2. 「イスラエル軍はガザ攻撃に陸軍の3分の1、空軍の3分の1以上を動員したが、その軍事力は数か国を完全に打ち敗れるほど強力である。しかしイスラエルはその軍事力を駆使して50日もかけながら、ガザ北部の3分の1の侵略にとどまりしかも我々の抵抗にあって同地域を完全掌握できないままである。そしてイスラエルが軍事力でハマース殲滅、人質奪還、ガザ占領を実現すると宣言したのを当初支持した国々も、今ではそれらの目的実現は困難だと確信するに至った。」

 そしてアルアルーリーは声明の最後で、イスラエルを断固支持するアメリカについて次の様に述べた。「アメリカは、パレスチナ人に対する数々の犯罪を隠ぺいし、それらの犯罪を様々な口実を設けて正当化し、またみずからも加担している。アメリカは犯罪性において、シオニスト国家イスラエルと同列である。パレスチナにおける戦闘の武器供与国であるアメリカは道徳的に完全に破綻しており、占領国家というよりはファシズム・ナチズム型国家である。」(引用はアル・ジャジーラ記事を掲載したパレスチナ情報センター12月2日ニュースからhttps://palinfo.com/news/2023/12/02/865255)

イスラエル空爆下の病院で懐中電灯で照らしながら負傷者を手当するパレス人医師(2023年11月10日、ガザ市のインドネシア病院)© 2023 Anas al-Shareef/Reuters (https://www.hrw.org/news/2023/11/14/gaza-unlawful-israeli-hospital-strikes-worsen-health-crisis
1948年5月イスラエル軍に村から集団追放されたパレスチナ人家族(ナクバ)(https://www.aljazeera.net/midan/reality/politics/2023/12/7/)
右2023年11月、イスラエル軍にガザ北部から追い出され南部に徒歩で向かうパレスチナ人家族(ナクバ再来の恐怖)
(https://palinfo.com/?p=861054)

投稿日: 2023年12月7日

(「世界史の眼」2023.12 特集号4)

カテゴリー: 「世界史の眼」特集, コラム・論文 | コメントする

小山田紀子・吉澤文寿・W.ブリュイエール・オステル編『植民地化・脱植民地化の比較史―フランス・アルジェリアと日本・朝鮮関係を中心に』藤原書店 2023年
南塚信吾

 本書は、フランスのアルジェリア植民地支配と日本の朝鮮植民地支配になんらかの形で関係する研究をしている歴史家たちが、「植民地化・脱植民地化の比較史」を目指して書いた論文を集めた論集である。

 表題から考えると、今日、日本と韓国・朝鮮との関係が「冷たい」のは、何が問題だったのだろう。世界のどこでも植民国と植民地との関係であったところでは、こうしたものなのだろうか。例えば、フランスとアルジェリアの関係はどうなのだろう。日本の朝鮮植民地化がフランスのアルジェリア植民地化とどう違うのだろう。朝鮮の脱植民地化への日本の関与と、フランスのアルジェリアの脱植民地化への関係とはどう違うのだろう。あるいは、きわめてよく似ているのか。こうした問題を念頭に置いてしまう。本書はそうした問題に直接的に答えるものではない。しかし、考えるヒントは与えてくれている。

 本書は必ずしも植民地化・脱植民地化の「比較」を徹底しているわけではないが、「比較」すべき論点はほぼすべて提供している。本書の構成は以下のようである。

Ⅰ 植民地化・植民地支配と民族運動・労働運動
Ⅱ 脱植民地化の過程
Ⅲ 独立/解放後の政治と経済
Ⅳ 人の移動と被植民者(移民)の地位
Ⅴ フランス・アルジェリア・日本関係から見たグローバル・ヒストリー
Ⅵ 植民地と文学
Ⅶ 「記憶の戦争」と植民地責任論

 この目次からは直接的には見えてこないが、「比較」すべき論点として、「植民地戦争」というとらえ方、植民地支配と在地権力の関係、反植民地抵抗運動、植民地の民衆の眼から見た植民観、「植民地責任」の問題、脱植民地のもとでの社会主義と新自由主義の役割、脱植民地後の人の移動、旧植民地から来た人たちの法的地位・二重国籍の問題、引揚者による「歴史の記憶」「記憶の戦争」という問題、旧植民地出身者の内部対立、植民地史教育など、実に多様なものが提起されている。

 ここでは、評者の視点から、「比較」のポイントを四つだけ拾い挙げて、それに本書がどのように答えようとしているのかを探ってみたい。

 まず「植民地化」についてであるが、第一に、「植民地戦争」という捉えかたが提起されている。「植民地戦争」という見方は、植民地から見れば「植民地支配」=平時と「戦争」=戦時とは分離できず密接に結びついているのであり、これらを一体として考えるべきであるというものである。そしてこれは、日本の朝鮮支配について有効な見方だと主張されている。「韓国併合」後の「植民地支配」下での個々の抑圧・軍事的暴力からアジア太平洋戦争下での大陸膨張までを、全体として植民地戦争と捉えるべきであるというわけである(槇論文)。では、フランスのアルジェリア支配はどうなのかという問題が当然出てくる。本書では、1961年のアルジェリア解放戦争での異議申し立て運動などが論じられているが、アルジェリア戦争は植民地戦争とみるとどういう視野が開けてくるのだろうか。おそらく1830年のフランスのアルジェリア進出からの支配が全体として論じられることになるのだろう。

 第二に、植民地支配についての民衆の眼という視角が提起されている。日本の朝鮮支配の時期の民衆レベルでの日本観、日帝支配観が論じられている。朝鮮民衆にとって、「文明開化なんて、たいしたものじゃない。一言でいうと、人殺しの道具が上等だってことと、ひとさまの持ち物をかっさらうのが文明開化じゃないか」、「昔はわれわれの前にひざまずいていた倭奴たちが、俺たちの喪服をまねて自分たちの着物を作った・・・」のだと受け取られていた。だが、では日本人とは何なのか。「日本人に民族主義など存在しない。あるとしても希薄で、軍国主義と皇道主義が本筋だ。」結局、日本人は天皇という現人神を崇拝する人間だということだと考える。そして朝鮮民衆の抵抗意識の頂点にあるのは、日本人の現人神崇拝への批判とそれを押し付けられることへの抵抗であったという(申銀珠論文)。植民者の精神構造への抵抗こそが、反植民地抵抗運動なのである。では、アルジェリアの民衆の眼から見たフランス観はどうか。

 第三に、在地権力の問題がある。これは幕末の駐日公使レオン・ロッシュの研究として提起されている。ロッシュの個人史は興味深いが、「植民地化」の比較の中では、どのように扱うべきであろうか。小山田は、フランスが植民地帝国と発展していく過程で、フランスは北アフリカのマグレブの支配のために在地権力を利用しようとし、同じく日本でも日本をフランスの経済圏に引き込むために在地の幕府権力を利用しようとしたというところに意味を見出している。つまり、自由主義帝国主義のために「植民地」「反植民地」にどういう政策で入り込むかという問題への一つの答をここに見ているのである。日本が韓国の在地権力をどのように利用したか、それとの比較がされていくと、議論が広がるのではないだろうか。

 次に「脱植民地化」についてみてみよう。

 第一に、「植民地責任」の問題がある。「植民地支配」と「戦争」とを全体としてとらえる「植民地戦争」という視角は「植民地支配責任」につながる。1910年の韓国併合とその後の韓国支配を合法的な植民地支配と捉え、第二次世界大戦期の「慰安婦問題」などと切り離して、「慰安婦問題」の実在性を問おうという日本政府の姿勢に対し、日露戦争期の抗日義兵闘争以来の対日「植民地戦争」という見方は、第二次世界大戦期までの「植民地支配」の責任を問うのである(吉澤論文)。日本は朝鮮への植民地責任を回避し、それを解決済みと称し、問題を太平洋戦争中の「慰安婦問題」に集約しているというわけである。では、フランスのアルジェリアへの植民地責任についてはどうなっているのだろう。これが比較されるとよかった。

 第二に、「脱植民地化」のもとで採用された社会主義と新自由主義の問題が提起されている。アルジェリアでは、独立後1960-70年代にベン・ベラおよびブーメディエンのもとで社会主義政策がとられたが、資源依存経済は脱却できず、工業化も前進しなかった。80年代前半には原油価格の高値に支えられて経済は好調であったが、後半には価格が下がり、経済困難に陥った。そこで採用されたのが新自由主義のための「構造調整」政策であった。農地を含む民営化、市場化が実施された。しかし、これは食糧問題、失業、住宅問題などを引き起こし、新自由主義政権を批判する抗議デモが各地で起きた。そして、2019年には民衆的平和的・非暴力的抗議運動ヒラクが起きて、ついに政権を倒壊させた。この「市民革命」は、諸個人の自発性に基づき、多様性と協調を基調とし、自由と平等を主張するものであった。それは新自由主義的グローバル化時代における民衆運動の発現形態であるとされる。とすれば、それは世界の他の地域でもあり得る運動であった(福田論文、渡辺論文)。それは韓国ではどうであったか。脱植民地化が南北朝鮮の動きとして南北を同時に視野にいれて考察されていて興味深い。ただ、「脱冷戦」期の南北朝鮮の動きも、新自由主義との関係で論じられていれば、「比較」が実り多いものになったように思われる。

 最後に「比較」史とグローバル・ヒストリーの関係について問題提起を行った短い論稿がある。ここでは、地理的にも時代的にも離れた二つの植民地化・脱植民地化の「比較」は、グローバル・ヒストリーの中に位置づけられなければ、意味をなさないのではないかという問いが発せられている。その問いに対して、本章は、必ずしも十分な解答を与えているわけではないが、いくつかの可能性を示唆している。その一つは、帝国主義的アプローチをする歴史学の刷新であるという。つまり、「ある国家が軍事的手段によって領土を支配することをどのように設定し正当化するのかという帝国構築のプロセス、またそれによって引き起こされる暴力を理解すること、そして古い行政機関を消滅させ、新しい植民地行政機関を構築する論理を問う」ことを比較しあえるというのである。

 この書評では、比較研究のすべての論点を扱うことはできなかったが、今回の日本・朝鮮、フランス・アルジェリアの「植民地化・脱植民地化」の比較研究が、地球的規模で展開され、さらには、植民地化・脱植民地化の研究全体にどのような新たな視角を提供するのだろうか、見守りたいものである。世界史を考えるうえで重要な諸問題を投げかける一書である。

(「世界史の眼」No.45)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする