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イスラエル軍ガザ攻撃47日目の今
藤田進

 10月7日占領地・ガザを発進したパレスチナ民族組織ハマースのアル・カッサーム部隊が占領本国イスラエルを急襲したのを機に、ガザ北部を占領しようとするイスラエルは「テロリストのハマース殲滅」を口実に、隔離壁で封鎖された中で230万住民が暮らしている南北ガザに徹底的空爆・砲撃を加えた。ライフラインは断ち切られ逃げ場のない中で、南部への退去を勧告された北部住民の多くは動かなかった。イスラエル軍はハマースの抵抗激化に直面するなかで11月10日、多くの患者・避難者を抱えて立ち退きを拒否する病院を集中的に攻撃しだした。イスラエル軍は「ハマースの地下トンネルの捜索」を口実に施設の一部を爆破後シファ病院に突入し、患者、医療スタッフ、避難していた数千人の人びとを尋問したあと病院から追い出した。ガザ封鎖で電動保育器が使えず瀕死状態となった新生児8人が死亡し、31人はエジプトの病院へ搬送されてかろうじて助かった。インドネシア病院内では軍隊の発砲で少なくとも12人が殺された。ガザに31ある病院のうち少なくとも21は完全に医療崩壊となり、他の病院も甚大な破壊を被ったうえ薬と医療品の決定的不足状態に陥った。イスラエル軍攻撃によるガザ住民の犠牲は11月22日夕方時点で、死者1万4128人(子供が5840人、女性3920人)に達した。(以上はAl Jazeera net 20 Nov 2023 by Urooba Jamal https://www.aljazeera.com/features/2023/11/20

 だがガザのイスラエル軍もハマースの至近距離からのゲリラ攻撃によって大きな犠牲を強いられており、イスラエル軍発表では10月27日地上軍侵攻後11月22日までのイスラエル軍戦死者は72名、10月7日以降の戦死者合計は将校59名、兵士392名に達したが、ハマース軍関係者によれば実際はもっとはるかに多いという(パレスチナ情報センター2023年11月23日報道、https://palinfo.com/?p=863621)。

 11月11日のパレスチナ自治区ガザの医療状況に関する国連安保理事会で、多くの国はイスラエルによる病院への攻撃を国際人道法違反だと批判し、ガザ攻撃の即刻停止を求めた。しかし安保理常任理事国のアメリカはハマースのテロを非難、ガザ攻撃はイスラエルの自衛権だとし、攻撃の即刻停止に賛成しなかった。だが国連憲章51条の「占領した領域において自衛権は発しない」に照らせば、この占領地であるガザにおいて「イスラエルの自衛権」を行使することはできないのである。つまり米拒否権発動自体が国際法を無視した、自国の利益に誘導するものなのである。

 時を同じくしてイスラエルの有力紙「ハーレツ」が、米輸送機40機以上と英輸送機20機ならびに大型輸送ヘリコプター7機が軍事機器・武器・兵員をイスラエルに運び入れたと報じている。(Matt Kennard and Mark Curtis,‘U.S.Military Is Secretly Supplying Weapons to Israel Using UK Base on Cyprus’ in DECLASSIFIED UK, 17 November 2023[https://www.declassifieduk.org/])2つの大国が一つの占領地であるガザにこれら軍事支援をする意味は一体何故なのか。ガザの沖合には豊富な天然ガスが眠っていることを知らないはずがない。

(「世界史の眼」2023.11 特集号3)

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「ユダヤ人国家」イスラエルはどのように実現したのか
―分割され奪われ続けるパレスチナ (1)―
藤田進

 私たちが現時点で目にする惨事はテロを絶対的な悪とする論調により伝えられていることを目にする。しかしこの惨事はただテロという視点だけで語られる事態ではない。イスラエル建国から現在に至るまで圧倒的な抑圧と暴挙の歴史があり、ガザに住まう全ての人々にはそのような悲惨な時が積み重ねられてきたことを見ていく必要がある。

 イスラエルは1949年に国連に加盟して以来、遵守しなければならない国際法と人権規約に違反して占領と抑圧を続けてきた。法に基づいた秩序と平和を維持する責務を負っている国際社会が黙認し、イスラエルはアメリカをはじめ英・仏・独など西側主要国の支持を得て圧倒的な軍事力を背景に暴政の限りを尽くしてきた。

 建国直後から領土拡大をめざしたイスラエルは、1948年第一次中東戦争、1955年第二次中東戦争、1967年第三次中東戦争ごとにアラブ領土を占領し、停戦後は占領地撤退を定めている国際法に違反して76年間にわたり占領地を自国領土に取り込み続けてきた。

 イスラエルは2007年以来占領地ガザを16年間封鎖して「天井のない牢獄」の状態に追いやり、住民200万人(2023年230万人)を閉じ込め、医薬品、食料、その他多くの必需品の搬入を禁止した。ガザ完全封鎖とイスラエル空爆は、2008年暮れ-9年初頭の22日間に1400人、2012年11月の8日間に140人余り、2014年7-8月の51日間に2200人余り、2021年5月の15日間に256人のパレスチナ人を虐殺した。

 筆者はパレスチナの地図に沿った「ユダヤ人国家」イスラエルの実現過程を、今回は①②について検討する。

出典:藤田進『蘇るパレスチナ/東大出版1987年』より引用

1 英パレスチナ委任統治とユダヤ人入植(地図①参照)

 第一次世界大戦中のイギリスは、大英帝国航路が通過するスエズ運河と東地中海の防衛の要であるパレスチナを何としても掌中に収めたかった。そこで注目したのが、19世紀末からユダヤ人財閥のロスチャイルド家に支えられてパレスチナでユダヤ移民の入植と入植地建設に取り組んでいるシオニズム運動である。パレスチナ軍事占領を目前にした1917年、英外相バルフォアはシオニストとの間に「パレスチナにおいてユダヤ人の民族的郷土の建設を認める」と約束した「バルフォア宣言」に調印し、シオニズムを利用してパレスチナをイギリス植民地として開発することに着手した。

 1920年、英パレスチナ委任統治がスタートした。英パレスチナ委任統治は、国際連盟が「パレスチナを文明化する」役割をイギリスに任せるという形をとった植民地統治であり、「英パレスチナ委任統治協定」第六条によって、「非ユダヤ住民(ムスリムやキリスト教徒のアラブ住民―藤田)の平和・繁栄を実現し彼らの権利・利益を尊重する」ことをイギリスに義務づけていた。しかし委任統治政府初代高等弁務官のハーバード・サミュエルは熱烈なシオニストであり、バルフォア宣言に基づいてユダヤ移民の入植と土地取得を積極的に支援する反面アラブ住民側には厳しく接し、その圧政ぶりは次のように記録されている。

 「高等弁務官は『第一次世界大戦で村々は破壊され、国内は貧しさと閉塞の空気に満ちている』と指摘しながら何の打開策も講じなかった。疲弊したアラブ農民の負担能力を超えた苛酷な税を課し、その一方で安い価格の穀物を大量に輸入して国内作物の価格暴落を招いた上に作物の海外輸出を禁止した。行き詰まった農民は納税のため土地を売るしかなく、ユダヤ人は土地を安値で手に入れた。また政府は旧オスマン帝国銀行の債務取り立てを引き継いで農民に厳しく返済を迫り、その結果多くの土地が没収された……。アラブ住民は、委任統治政府の不当な政策により生活の糧を奪われる危険に陥ったことを痛感している」(Al-Huseinī,Jamāl, Radd al-Lajnati al-Tanfīdhīyah alā Mulāhazāti al-Mandūbi. 1924、140)。

 ところでユダヤ人入植者は、何故アラブ住民に対し敵対心を剥き出しにしていったのだろうか。ここで一つ言っておきたいのは、ユダヤ人入植者が入ってくる前に、このアラブの地に住まうユダヤ人は既におり、異教徒の隣人として共存していたのである。しかしロスチャイルドの支援を受けたユダヤ人入植者たちはその圧倒的財力を持ってアラブの地に、突如として近代的で立派なヨーロッパ調の街を築いていったのである。その流れのなかでユダヤ人入植者はアラブを自分たちより劣る野蛮な人々とし、それらは取り除くべき存在として敵視していく。それが表面化したのが、いわゆる「嘆きの壁事件」である。1929年8月23日金曜日、聖地エルサレム聖域ハラム・シェリーフでユダヤ人入植者に占拠されそうだとの危機感から、集団礼拝を終えたアラブ・ムスリム群衆によるユダヤ人襲撃が発生した。これを契機にユダヤ人は「旧約聖書に記された約束の地、自分たちの土地を守る」ためとし武装した入植地自警団(ハガナ、後に独立後のイスラエル正規軍)を組織し、より一層アラブ住民の排斥を強行していくとこととなるのである。

 1930年代初頭土地を奪われ追いつめられていくアラブ住民がユダヤ人入植と土地購入の禁止を求める抗議運動を起こすと、イギリスは武力弾圧で臨み、さらに抗議運動がアラブ大反乱(一九三六―三九年)となってパレスチナ全土におよんだ。

 パレスチナのアラブ紙「フィラスティーン」1936年6月17日付に載った漫画は、英委任統治下のパレスチナに暮らすアラブ住民が困窮しアラブ大反乱につながっていった過程を描き出している。

 漫画は数字に沿って次の様に説明している。①英外相バルフォアが、ユダヤ人に与えたバルフォア宣言(1917年)は、②ユダヤ人入植者をパレスチナにもたらした。英委任統治政府(1920年以降)は、ユダヤ人側にパレスチナ開発特許状を与えて➂パレスチナ公共事業、⑤ヨルダン渓谷湿地帯の土地開発、⑥死海の天然資源開発、⑦ヨルダン川電源開発をまかせ、⑧貿易港とイラク石油からパイプラインで送られてくる石油精製基地を兼ねるハイファ港の完成にユダヤ移民の工業投資を奨励した。ユダヤ人によるパレスチナ近代化が進む一方、⓸アラブ農民は土地から追放されていった。⑨アラブの指導者たちはパレスチナがユダヤ人に奪われていくとなす術もなく口角泡を飛ばしているが、⑩軍人の高等弁務官ワークホープはずらりと軍隊を並べて威圧している。政府にユダヤ人の移民・土地獲得を制限する意思はなく、アラブ民衆の窮状は深まるばかりで打開の道はなく、その間にも国土は刻々とユダヤ人国家の様相を帯び、絶望感ばかりが息苦しい。漫画はそのようにアラブの現状を描いていた。

 その結果一九三〇年代初頭、土地を奪われ追いつめられていくアラブ住民がユダヤ人入植と土地購入の禁止を求める抗議運動を起こすと英高等弁務官はこれを武力弾圧した。さらに抗議運動はアラブ大反乱(一九三六―三九年)となってパレスチナ全土におよび、反乱鎮圧は困難となった。

2 「ユダヤ人国家建設予定地」とイギリスの中東石油開発(地図②参照)

 アラブの抗議運動がパレスチナ全土に広がってアラブ大反乱となり、これを軍事力で鎮圧できなくなったイギリスは1937年、「パレスチナ委任統治は困難になった」との「ピール報告」(The Peel Commission Report)を国際連盟に提出した。同報告なかに、パレスチナをアラブ・ユダヤ両地区に分断し、ユダヤ人入植者と入植地が集中している諸都市(聖地エルサレムとヤーファは除く)が集まった沿岸部からパレスチナ北部にかけての最も肥沃な地域を「ユダヤ人国家建設予定地」に指定して図示した地図(②地図参照)を挿し込んだ(この地図が47年国連「パレスチナ問題に関する特別委員会」(UNSCOP)の分割案作成の土台となった)。「ピール報告」に挿入された「ユダヤ人国家建設予定地」を書き込んだ「パレスチナ分割」図に激怒したアラブ大反乱は、武装ゲリラ闘争に姿を変え、「ユダヤ人国家建設予定地」のパレスチナ北部を通る石油パイプラインがしばしば爆破された。

 ところで、第一次世界大戦後石油が戦闘機・軍艦の燃料として重視され、イラン・ペルシャ湾岸が膨大な石油埋蔵地として一躍脚光を浴びることになった中東はヨーロッパ帝国主義列強の熾烈な領土争いにさらされてきた。第一次世界大戦後の中東は英仏二大帝国の支配地域となり、石油開発先頭に立ったのはイギリスであった。イギリスはイランにおける石油事業の一切をイギリス国営企業の「アングロ・イラン石油会社」(AIOC)に任せ、石油製品を英本国へ送り出した。またイラクなどイギリス支配下の石油開発事業は、イギリスをはじめ国際石油メジャーの共同出資による「イラク石油会社」(IPC)に一任した。IPCのキルクーク油田が生産を開始すると、原油は二本のパイプラインで英・仏支配下の地中海沿岸の精油所に送られ、石油製品となってヨーロッパへ積み出された。

 油田、精油所、積出港がパイプラインで有機的に結ばれた石油生産・輸送一体化のシステムの中に英・仏委任統治領を組み込む一方、中東全域をカバーする英軍事体制を築いたイギリスは、東アラブ全域におよぶ石油システムの支配者として君臨し、莫大な利益を手にした。イギリスは、ペルシャ湾岸産油地帯をヨーロッパへの最重要石油供給地として開発し、油田と東地中海の石油積出港を石油パイプラインで結んだことによって、パレスチナが位置する東地中海はヨーロッパへ向かう石油タンカーの重要航路となった。

 しかしアラブ大反乱が激化した1937年以降、パレスチナのハイファ港と結ぶ石油パイプラインがしばしば爆破されてIPC石油のヨーロッパへの供給が滞る由々しき事態がもちあがった。英パレスチナ委任統治政府のアラブ弾圧はIPC石油供給システムを脅かしたばかりか、パレスチナにおけるイギリスとシオニストに対する反発を全中東に行きわたらせる結果をもたらした。独・伊との第二次世界大戦戦争が間近に迫る中でアラブ大反乱に動揺したマクドナルド英政府は39年5月、急遽シオニズム支援策を中止してユダヤ新移民の入国とユダヤ人の土地購を禁止する決定(「1939年マクドナルド白書」)を下し、アラブ大反乱の終息と大戦中の反英運動の激化を回避する策を講じた。「ユダヤ人民族国家」建設運動へのイギリスの支援を突如失ったシオニズムの側は、大戦中ナチのユダヤ人絶滅政策を逃れたユダヤ難民の受け入れを拒否するイギリスに対して暴力テロ活動を強めていった。

(続く)

(「世界史の眼」2023.11 特集号3)

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ハマース政治局情報センターの緊急メッセージ
藤田進

 「ハマース殲滅」を口実とするイスラエル軍の病院爆破攻撃によってガザがジェノサイド(住民皆殺し)状態に陥ったいま、ハマース政治局情報センターがガザ住民の窮状を報告し占領軍攻撃即時停止を訴える緊急メッセージを次々と発信しています。そのメッセージの一部を以下にお伝えします。メディア報道では届かないイスラエル軍の蛮行の現実を受け止めて、パレスチナ人集団殺戮を狙う戦争阻止に向けたさまざまな取り組みをお願いいたします。またこの情報を多くの方々に拡散していただけると幸いです。(ニュース伝達者・藤田進)

2023年10月17日夜、イスラエル軍空爆後のアハリー・アラブ病院犠牲者遺体安置所

≪10月7日以降のイスラエル占領軍ガザ攻撃による死者は1万1320人に達した≫ (以下は本文の部分翻訳―藤田)

  • ガザ自治政府情報局11月14日発表によるガザの被害状況

・イスラエル軍ガザ攻撃開始以来の死者数:1万1320人(子供4650人、女性3145人)
・イスラエル占領軍による集団虐殺:1165人、
・瓦礫の下敷きになっている行方不明者3600人(子供1755人)、
・全壊住宅4万2000軒、半壊住宅22万3000軒(ガザ住宅の60%に相当)
・政府関係建物や公共施設の破壊95か所、学校破壊255校(校舎全壊65校)、モスク破壊72か所、モスク一部崩壊165か所、
・農作物被害額:1億8000万ドル、果樹園の樹木何千本が切り倒された、
・戦車・ブルドーザー等による農地破壊4万5千ドノム、
・畜産、養鶏、漁業は完全に破綻。

  • 11月14日、ガザ自治政府情報局報道官の記者会見における発言:

・「ガザの通信会社は、動力燃料枯渇を理由に11月16日(木)以降通信とインターネットのサービス業務を全面停止すると発表した。ガザはイスラエル占領軍によるあらたな犯罪に直面することになったいま、我々は全世界に向けて以下の諸点を訴える。」

  1. 我々は、イスラエル占領軍が民間人、女性、子供にたいしておかしている様々な組織的戦争犯罪の責任をイスラエル占領当局および国際社会とりわけ米国に対して問いただす。そしてまたイスラエルと協議し、占領軍による病院・住宅への空爆・ミサイル攻撃をはじめあらゆるレベルの攻撃を支援している国際社会を我々は強く糾弾する。
  2. 我々は世界の自由諸国に対して、犯罪的占領国家イスラエルとの関係を断ち切るとともに、この占領国家が空爆・砲撃ばかりかいかなる国際法・人権法にも抵触する残酷な映像やデマまで用いて企てている集団的破壊戦争を即時止めるよう圧力を加えるよう要請する。
  3. ガザの病院と各種救援センターへ支援物資と医療必需品を届けるために、ラファの通行路の恒常的開門を可及的速やかに実現するよう要求する。
  4. ガザの病院の新生児や入院患者が絶命状態に陥る前に、またすべての医療スタッフが治療看護活動を続けるために、病院の動力燃料を緊急に供給するよう要求する。
  5. イスラエル占領軍報道官名でのランティーシ―病院に関する発表(病院はハマースのテロ活動を支援しているとの報道―引用者)は虚であり、つじつまの合わない作り話であることを言明する。軍報道官の発表は、病院を破壊して患者、医療スタッフ、避難してきた人々を瓦礫の下敷きにする空爆が迫っているとの恐怖を抱かせて人々をガザから立ち退かせようとする神経戦の一環である。われわれは、ガザの病院に集まっている数万人の医療スタッフ、患者、避難してきている人々たちの生命の安全についてイスラエル占領軍が全面的責任を負わねばならないことを明確にしておく。
  6. ガザの通信・インターネット回線を遮断する発表によって、いかに危険な結果が生じるかを警告しておく。すなわちこの連絡回線の遮断によって、ガザ230万人の生命と住民の病院や住宅を日夜破壊しているイスラエル占領軍の戦争犯罪のすべてを覆い隠すことになり、さらに連絡が取れずに人的危機が一層悪化し、緊急救援隊、民間防衛隊、市町村のさまざまな救援活動も滞ることにつながる。以上のすべてのことは、世界的に当然とされている最低限の基本的人権にも反している。通信・インターネット回線の遮断は、全てを覆い隠して何が起きているのかわからない状態にするのが目的である。

出典「ガザ・パレスチナ情報センター」2023年11月14日報道(アラビア語))(https://palinfo.com/?p=862110

(「世界史の眼」2023.11 特集号2)

 

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ハマースのアル・カッサーム部隊のイスラエル軍事侵攻を検証する
藤田進

 イスラエル国防軍専門家筋は、占領地ガザでの軍事攻撃を「芝刈り」と呼んできた(Yolande Knell、Israel’s pain still raw a month after Hamas attacks、https://www.bbc.com/news/world-middle-east-67339008)。パレスチナ人は、1948年イスラエル建国以来76年間にわたる追放と迫害、16年にわたる「天井のない牢獄」と言われるガザ封鎖、イスラエルによる入植地拡大・占領で住む場所を奪われ、抗議すれば殺されるという凄まじい支配と抑圧の状況に置かれてきた。イスラム政治組織ハマース政治局のサーレフ・アル・アラーウィは「パレスチナ人が世界の諸民族と同じように、自らの国家をもち土地に根ざした生活をする権利を世界に認めてもらうには戦わねばない」と述べた。イスラエル軍がガザ一斉攻撃を開始するとの情報を得たハマース軍事組織のアル・カッサーム部隊は10月7日、イスラエル攻撃に踏み切った。ところで、なぜイスラエルは米国と手を結んでここまでパレスチナ人に抑圧的なのか?今日の三者間の関係を知るには、イスラエル建国時の以下のような事情を踏まえねばならない。

 第二次世界大戦後の1947年3月11日、米巨大石油資本のアラムコが戦後ヨーロッパ経済復興に向けて中東石油生産を急増し莫大な利益を上げることに取り組むことを発表し、その翌日トルーマン米大統領が、米国は中東の石油生産・輸送体制を共産主義から防衛すると発表した(トルーマン・ドクトリン)。この時以来石油を軸とするアメリカの中東支配がはじまり、今日に至っている。当時ベングリオン(初代のイスラエル首相)を中心とするシオニストグループが、アウシュヴィッツ強制収容所から救出されたユダヤ難民の安住の地として、アラブ人が住んでいるパレスチナに「ユダヤ人国家」を実現せよと英委任統治政府に強く迫っていた。イギリスは第一次世界大戦時の「三枚舌外交」によってユダヤ人にその「ナショナル・ホーム」をアラブ人の地に建てることを認めていたのである。一方、米大統領選でユダヤ票を重視してシオニストを支援していたトルーマンは、前大統領ルーズヴェルトと違って、アメリカの援助で「ユダヤ人国家」を建設し、ヨーロッパへの石油輸送路である東地中海の防衛の砦としてパレスチナを確保することにした。1948年に建国して以来、イスラエルはアメリカの政治的・経済的援助に支えられながら、あらゆる手段を講じてアラブ住民追放によるパレスチナでの自国領土拡大をはかってきた。現在ガザ沖合に天然ガスが発見され、イスラエルはガザ全域を手に入れる取り組みに乗り出していたのである。

 このことを踏まえたうえで、10月7日以後の事態について、ハマース側から見てみるとどのように見えるであろうか。

① 10月7日のハマース攻撃について、欧米の報道は「ハマースはテロリスト」の位置づけで一致しているが、しかしハマース側はどのように言っているのだろうか。ハマース政治局員のサーレフ・アル・アラーウィとムーサー・アブー・マルズークが、カタール衛星テレビのアル・ジャジーラとのインタビューにおいて、アル・カッサーム部隊の「アル・アクサー洪水」軍事作戦、イスラエルにおける戦闘、戦闘に巻き込まれた市民の犠牲などについて、イスラエル・欧米側情報とは異なった発言をしている。以下に発言要旨を、補足説明(下線部分)を加えて、紹介しておきたい(資料は、発言を活字表記した。出典はJazeera Net, 2023 October12とNovember3<アラビア語版>)。

  1. 「イスラムの聖地アル・アクサーモスク(エルサレムにあるユダヤ教の聖地で、2021年5月にイスラエルはこれを襲撃していた)を、ユダヤ教のスコット祭(秋祭りの一つ)期間中、ユダヤ人入植者が占拠していた。祝祭終了後にイスラエル軍のガザ一斉攻撃が始まるとの情報を得たアル・カッサーム部隊は、イスラエルの「ガザ分隊」の壊滅を主目的とする軍事作戦計画を立てた。これは「アル・アクサー洪水」と名づけられた。「ガザ分隊」はガザ封鎖とパレスチナ人の暗殺・殺害を任務とする最新鋭兵器と戦闘員の精鋭を備えた最強のイスラエル軍治安部隊として知られ、ガザ住民の恐怖と怒りの対象だった。イスラエル突入作戦によって、パレスチナ人を武力弾圧し続けるイスラエルに対する大々的な武力闘争が開始された。
  2. スコット祭終了翌日の10月7日早朝、アル・カッサーム部隊のコマンド122人がガザ北部の封鎖隔離壁を爆破してイスラエルに突入し、ガザ境界線近くのイスラエル軍Zukim基地の「ガザ分隊」を急襲した。コマンドたちは最初「ガザ分隊」との長時間の戦闘を覚悟していたが、不意を突かれたイスラエル兵士の多くが殺され捕虜として拘束されて短時間で約5000人規模の「ガザ分隊」は壊滅した。その後コマンドたちは、基地内のガザ分隊司令部と空軍基地を一時的に占拠した。
  3. アル・カッサーム部隊は軍事基地襲撃後、ガザ境界線近くのZukim, Karmiaの二つのキブツ(ユダヤ人協同農場)をはじめイスラエル人住宅街へ移動した。キブツの場所はかつてアラブのヒルビー村の土地だった。建国直後にイスラエル政府は追放したアラブ農民を「不在者」と規定してヒルビー村の土地を接収し、1949年ルーマニアからのユダヤ人青年入植者たちを収容するためにZukimとKarmiaが建てられた。
  4. アル・カッサーム部隊が隔離壁を爆破したときガザ北部の住民たちが駆けより、その一部はコマンドと一緒にイスラエル国内になだれ込み、住宅街の多くのユダヤ人を拘束した。コマンドとイスラエル治安部隊・武装住民の激しい銃撃戦となり、近くで開催されていたZukimミュージック・フェスティバルの参加者たちも銃撃に巻き込まれた結果、多数が死傷し人質としてガザに連れ去られた。

 以上がハマース側の説明である。イスラエル・欧米諸国も世界のメディアも「ハマースのテロ攻撃」と断じているが、アル・カッサーム部隊は、10月7日のイスラエルにおける軍事行動は76年前ユダヤ人権力に奪われた故郷を取り戻す「パレスチナ民族解放戦争」であると宣言した。連れ去った多くの人質は戦争捕虜であり、「ヨルダン川西岸・ガザに対するイスラエル占領の停止とイスラエル刑務所の全パレスチナ人の釈放」要求と引き換えに捕虜を釈放するとした。

 ところで、欧米報道は「ハマースは市民を襲って人質に取った」と言うが、イスラエルの「市民」は銃を手にした兵士である。イスラエル国家の18歳以上のユダヤ人市民は、3年間(女性は2年間)の兵役と退役後40歳になるまで毎年平均36日の予備役を義務付けられており、常に「イスラエルの敵」を意識しながら暮らしている。パレスチナ人に暴力的に襲いかかるユダヤ人入植者も、抵抗のそぶりを見せたパレスチナ人を日常的に殴打し逮捕する予備役を交えた兵士も警察官もすべてイスラエル市民である。女性・子供を含む大勢のパレスチナ人が不当な罪状でイスラエルの刑務所に投獄されている現実は、武装したイスラエル市民の恐ろしさをあらわしている。イスラエルに突入したパレスチナ人は、そのようなイスラエル市民に襲いかかっていた。

② アル・カッサーム部隊奇襲攻撃で国民の多くが殺され世界中のメディアが「ハマースのテロ」を攻撃しているのを、かねてよりガザ取得を目論んでいたネタニヤフ・イスラエル首相は絶好の機会ととらえ、「ハマース殲滅」を宣言してガザ空爆を開始した。ガンツ国防相は大規模な「ガザ侵攻作戦」の準備に取りかかった。

 一方でイスラエルのメディアは、ハマース憎悪を刺激する「ハマース兵士が乳幼児を斬首した」との報道をした。10月10日夜、イスラエルのケーブル・テレビニュース番組の「i24News」が、ニコン・ツェデク記者が取材した「キブツのクファル・アザで乳児や幼児が『頭部を切断された』状態で見つかった」との報告を伝えた。ハマースは「子供を斬首したと根拠もなしにうそを広めている」とこの報道を全面的に否定し、記者自身も間もなくして、報道された内容は遺体収容作業中の兵士から聞いた話を物証も裏付け取材も欠いたまま事実として伝えたことを認めた。だがすでに「ハマース戦闘員による残虐行為」情報は全世界に配信されており、それを見たバイデン米大統領は10月11日、ハマースへの怒りをあらわしてイスラエルのハマース報復攻撃を米国は全面的に支持すると表明した。「捏造」報道によってアメリカの全面的支持を獲得したネタニヤフ首相は同日、30万のイスラエル兵と大量の戦車・装甲車を動員したガザへの地上侵攻に踏み切った。

③ イスラエル軍は人口230万が密集する狭いガザに昼夜を問わない空爆を続けて徹底的に破壊し膨大な数のパレスチナ人死傷者の山を築くとともに、水・電気・食料・燃料・医療品などライフラインを全面遮断するという残酷な仕打ちを加えている中で、ガザ北部の地下にあるアル・カッサーム部隊のトンネル網を破壊して同部隊の殲滅をめざす「ガザ侵攻作戦」の第一段階を迎えた。イスラエル軍は10月13日、ガザの北半分の地域の110万人のパレスチナ住民に南部へ退去して同地域を明け渡すよう勧告した。

 10月13日のカタール衛星テレビ局アル・ジャジーラのインタビューで、アヤロン元駐米イスラエル大使が「砂漠には無限のスペースがあり、われわれと国際社会がテントなどインフラを用意する」と主張し、ガザ住民を東部シナイ半島の砂漠に移動すべきだと発言したことが伝えられた(「しんぶん赤旗」2023年10月18日)。この元イスラエル高官の発言は、総攻撃体制を構えてガザ北半分の住民の集団立ち退きを要求する「ガザ侵攻作戦」の狙いが、ガザ住民を破壊と死の危険にさらしてガザから追い出し、空っぽになったガザを最後に手に入れるというイスラエルの狙いを浮き彫りにした。イスラエル軍によるパレスチナ住民の砂漠への強制移送が以前にもあったことを年配のガザ住民なら覚えているに違いない。

 1971年、ガザのイスラエル占領軍当局(アリエル・シャロン南部軍司令官)は、パレスチナ人の反占領武装闘争の拠点となっているジャバーリヤ、シャティなどの国連難民キャンプ内の「指名手配ゲリラ」地区を取り壊して住民をシナイ半島へ強制移送した。「イスラエル軍による三難民キャンプの住宅破壊は約2000戸、強制退去させられた難民は1万5855人にのぼった」(Sara Roy, The GAZA STRIP:The Political Economy of De-development, The Institute for Palestine Studies, Washington, 1995; p.105)「イスラエル占領中のシナイ半島のアル・アリーシュの町は、難民キャンプから移送されてくる約400家族の再定住地として利用され、半島の砂漠地帯には「指名手配ゲリラ」の親族ゆえに拘束され移送されてくる1万2000人の収容所がつくられた。」(ibid., p.105)「『指名手配ゲリラ』親族追放拘束命令により、最低男1人を含む家族は一緒に追放されてシナイ半島の収容所に拘束されており、親族の男たち(兄弟、甥、従兄弟)はシナイ半島のアブー・ルデイス地区の別の収容所に拘禁されている」(Israel League for Human and Civi Rights, ”The Horrors of Gaza Must Cease”, January 23 1971)という状態であった。

 1971年のガザ住民の砂漠への集団移送は難民キャンプにおけるゲリラ闘争鎮圧対策に留まった。だが今回の「ハマース殲滅」を口実とした集団的住民移送計画は、ガザ全域を封鎖し、空爆による破壊と殺戮を加え、ライフラインを寸断し、やむを得ず移動勧告に従い北から南へ移動中の人々をも空爆し、ガザを取得するためには民族浄化もいとわない。国連パレスチナ救済事業機関(UNRWA)のフィリップ・ラザリーニ事務局長は10月15日の会見で、戦闘などにより過去一週間で少なくとも100万人が家を追われ、ガザには「一滴の水も、一粒の小麦も、一リットルの燃料も入ってきていない。今すぐに支援物資を搬入しなければならない」と訴えた。イスラエル側はガザへの空爆を強めており、犠牲者は急増し、パレスチナ保健省は16日、死者数が2750人、負傷者が9700人に達したと発表した(「朝日新聞」2023年10月17日)。

 ガザでイスラエル占領軍と激しいゲリラ戦を展開しているアル・カッサーム部隊の司令部は、ガザ北部住民集団退去勧告に際して、その場に踏みとどまってガザが奪われるのを阻止しようとガザ住民に訴えた。

④ ガザ市にあるキリスト教系のアハリー・アラブ病院は、誰であれ傷つき病に倒れた人は受け入れて治療する原則を貫いてきた。2007年ハマース政権誕生後16年間にわたるガザ封鎖が続く中で、イスラエルの経済的・社会的弾圧に抵抗して傷ついた人々を治療し、外出禁止令で失業し、また働き手を投獄されて貧困に陥った家族の無料診療を手がけてきた。2009,2014年のガザ空爆による大規模な殺戮と住宅破壊にさらされた人々を病院は治療し、元気づけてガザ住民が苦難を凌ぐのに協力してきた。

 アハリー・アラブ病院はイスラエル軍当局に南に退去するよう勧告され、多くの患者と負傷者の治療があると勧告を拒否すると、10月14日病院の癌治療センターがミサイルで破壊された。10月17日にも退去勧告があり、安全な場所を失って避難してきた多くの人びとで建物の周りを埋め尽くされた病院が再度勧告を断ると、その日の夜アハリー・アラブ病院はミサイルで破壊され、500人もの人々が一度に惨殺された。

 病院が爆撃されて国際機関・各国のイスラエル非難が高まる中10月30日の国連安保理で、イスラエルのギラド・ダヤン国連大使は「パレスチナ自治区ガザでのハマースのテロ攻撃を非難していない」ことに抗議して、ナチス占領下の欧州でユダヤ教徒が強制的に着用させられた黄色い星を着用して登場し、そしてX(旧ツイッター)への投稿で「黄色い星は、ユダヤ人の無力さとユダヤ人が他者のなすがままになっていることの象徴だ。今日、我々は独立した国家と強力な軍隊を持っており、我々は自分たちの運命の主人だ。今日、我々は黄色い星ではなく、青と白の旗を着用しよう」と述べた。

 アウシュヴィッツにおけるユダヤ人虐殺期間よりはるかに長きにわたってイスラエルがガザ住民を閉じ込めて空爆と弾圧を加え続けてきたことを棚に上げて、ガザの惨状の責任をいつものように「ハマースのテロ」に押し付けるイスラエル権力者の姿とは対照的に、ユダヤ系ポーランド人で強制収容所生還者の両親をもつガザ経済史研究の第一人者であるサラ・ロイ女史が、2009年空爆直後のガザの惨状を前にして「ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが、なぜこんなことをできるのか」と述べたことが思い起こされる(「朝日新聞」2009年3月5日付「ひと」欄より)。

(「世界史の眼」2023.11 特集号)

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パレスチナ問題の起源:第一次世界大戦期のイギリス三枚舌外交
木畑洋一

 現在深刻化しているパレスチナのガザ地区の状況の起源が、第一次世界大戦期におけるイギリスのいわゆる「三枚舌外交」に求められるということはよく語られている。ドイツなどの同盟国側に立って1914年秋に参戦したオスマン帝国支配下の中東の将来をめぐって、イギリスはフサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言という三つの相互に全く矛盾する外交的コミットメントを行ったのである。

 しかし、それらが出された経緯自体はあまり知られていないと思われるので、それを紹介しておく意味はあるだろう。ドイツ側と対立していたイギリス、フランス、ロシア三国は、それぞれに中東をめぐる領土的野心を抱いていたが、他方、この地域に住むアラブ人たちはオスマン帝国支配下から独立して自らの国をもつことを望んでおり、さらにユダヤ人シオニストはパレスチナを自分たちの帰還する地としてそこに「民族的郷土(ナショナル・ホーム)」(これはユダヤ人国家に他ならない)を建設しようと考えていた。そうした各勢力の思惑が交錯するなかで、イギリスの三枚舌外交は以下のような形で展開されたのである。

 これらの内、最初に交わされたのが、メッカのシャリフ(ムハンマドの血統につながる人々についての尊称)であったフサインと、エジプトのカイロ駐在のイギリス高等弁務官(駐在外交官のトップで独立国同士であれば大使にあたる)ヘンリー・マクマホンとの間の書簡である。イギリスは大戦が始まった時からフサインに対し、戦争での自国への協力と引き換えにその地位を保障するとの約束をしていたが、フサインは15年夏、イギリスがカリフ制(ムハンマドの後継者とみなされるカリフを首長とする統治制度)を認めつつオスマン帝国のアラブ人居住地全体の独立獲得に助力をしてくれれば、イギリスを経済的に優遇し防衛的同盟関係に入る用意があるとの申し出を行った。イギリス側は当初この条件が過大であると考えて煮え切らぬ対応をしていたが、ドイツがこうしたアラブの条件を呑もうとしているとの情報(実際にはその根拠はなかった)が流れたことによって態度を変え、グレイ外相はマクマホンに対して、フサインが求める独立したアラブ国家を認めること、ただし、シリアの地中海側地域(フランスの関心地域であった)などは除くこと、という指示を出し、それはフサイン側に伝えられた。パレスチナは、ここでは除外範囲に入っておらず、アラブの独立国家領域に入る地域であるとイギリス側も考えていたのである。

 フサインとマクマホンの間の往復書簡は、15年7月から16年3月まで10回にわたったが、その間に英仏間で進んでいた交渉の結果、16年5月16日にイギリスの中東問題特使マーク・サイクスとフランスの外交官ジョルジュ・ピコとの間で結ばれたのが、サイクス・ピコ協定である。一週間後にロシアも加わることになるこの協定の前段階は、15年春に起っていた。ロシアはダーダネルス・ボスフォラス海峡、ヨーロッパ・トルコ地域を欲しており、15年春にはその要求を英仏に提示した。イギリスは、ダーダネルス海峡における対オスマン帝国作戦(ガリポリ作戦)へのロシアの支持を必要として、ロシアによる両海峡とイスタンブル(コンスタンティノープル)併合に同意したのである。ただし、それには戦争が勝利に終わり、イギリスとフランスがオスマン帝国その他での目的を達する、という条件がつけられていた。フランスは、最初それに乗り気でなかったが、ロシア側がオスマン帝国などでの英仏の要求を受け入れるとの姿勢を示したことで、結局はそれに賛成した。 

 この動きを踏まえ、フサインとのやりとりの方向が見えた15年10月に、イギリス外相グレイは、オスマン帝国の東アラブ部分についての領土分割をめぐるフランスとの交渉に入ることにした。その交渉の結果、16年1月3日にロンドンのフランス大使館で、サイクスとピコの間で暫定合意が成立し、両国政府による承認を経て、5月16日に正式の協定となったのである。この協定によって、オスマン帝国の東アラブ地域は、フランスの勢力範囲(現在のシリアの大部分とイラク北部のモースル地域)、フランスの統治領(現在のシリアの地中海沿岸部分、レバノン、トルコの中部から南東部)、イギリスの勢力範囲(現在のイラク北部、ヨルダンの大部分)、イギリスの統治領(現在のイラクの中部・南部、ペルシア湾岸地域)、国際管理地域(ほぼ後にパレスチナ委任統治領となる地域)に分割されることになった。これに、ダーダネルス・ボスフォラス海峡、イスタンブルおよびロシアの隣接地域をロシアの勢力範囲にするという計画が加わり、フサイン・マクマホン書簡ですでにアラブ側に示されていた約束と背馳する取り決めが成立したのである。

 最後がバルフォア宣言である。パレスチナに対するユダヤ人の望みに積極的な姿勢を示そうという考えは、すでに16年にイギリス外務省で抱かれていたが、それはまだ参戦していないアメリカのユダヤ人勢力を強く意識したものであった。この計画は、それを知ったフランス政府が好まず、棚上げにされた。それが17年になると、革命勃発によって戦争離脱(ドイツとの講和)の可能性も強くなってきたロシアの指導層の中のユダヤ人を意識する形で、再浮上したのである。イギリス首相ロイド=ジョージは大戦回顧録のなかで、「もしもイギリスがパレスチナでシオニストの目的を満たすとの宣言を行えば、…その結果はロシアのユダヤ人を協商国の大義へと引きつけることになると考えられていた」と述べている。

 ただし、イギリスの考えはそれに限定されていたわけではない。この頃には、オスマン帝国軍との間の戦いでイギリス軍の優勢が明らかになっていたため、イギリスはサイクス・ピコ協定では国際管理地域とされることになっていたパレスチナを自国の勢力下に組み込むことを目論見はじめ、フランスの勢力を排除するためにも、シオニズムの希望をいわば「イチジクの葉」として利用しようとした。そしてバルフォア宣言の作成過程には、他ならぬサイクス自身も深く関わった。こうした思惑を含みつつ、17年10月のイギリス閣議決定を経て11月2日にバルフォア外相の名で出されたのがバルフォア宣言である。宣言は、「国王陛下の政府はパレスチナにおいてユダヤ人のための民族的郷土(ナショナル・ホーム)を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです」と述べていた。サイクス・ピコ協定なるものが存在していることを知らず、ましてやその協定での約束を修正しようとする思惑をイギリスが抱いていることなど知らないシオニスト側は、当然この宣言を大歓迎した。ただし、この宣言が発出された直後には、ロシアで11月革命(ロシア暦で10月革命)が起こり、ロシアでのユダヤ人勢力への考慮は意味をもたなくなった。一方、イギリスのパレスチナ統治に向けての動きと、ユダヤ人によるパレスチナでの国家建設に向けての動きの方は、着々と進んでいった。これが、1948年におけるイスラエルの誕生に、その後のパレスチナ・アラブ人の苦難に、そして現在のガザをめぐる悲惨な状況へとつながってきたのである。

(「世界史の眼」2023.11 特集号)

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書評:南塚信吾『「世界史」の誕生―ヨーロッパ中心史観の淵源』ミネルヴァ書房 2023年
弓削尚子

 西洋が世界の歴史を主導しているという西洋中心的な世界史は、どのような経緯をたどって誕生したのか。本書は、キリスト教的な「普遍史」を体現するアウグスティヌスの『神の国』(413‐426)から、「ランケ的世界史」を著した米国のG.P.フィッシャーによる著作まで、実に1450年の長きにわたってヨーロッパや北米において発表されたさまざまな世界史叙述を考察してこの問いに答える。

 本書の最大の特徴は、明治期日本に紹介され、近代日本へ影響を与えた「万国史」を中心に、西洋の世界史をとらえるという視点である。著者は2016年に「近代日本の「万国史」」(『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房)という論考を発表している。西洋で生まれた西洋中心的な世界史を、明治期以降の私たちの世界史観の問題に引き付けて考える著者の仕事に多くの読者が共感を覚えるだろう。

 目次は以下のとおりである。

はじめに
第1章 キリスト教的「普遍史」の世界
第2章 「科学的」世界史の模索
第3章 啓蒙主義の世界史
第4章 多元的世界史の試み
第5章 「普遍史」からの脱却へ
第6章 実証主義の歴史学とヨーロッパ中心の世界史
第7章 ナショナル・ヒストリーと世界史

 アダムとイヴの誕生から人類の歴史が始まり、神の摂理によって導かれるという「普遍史」は、ゆったりとした時間をかけて、人間を主体とする世俗的な歴史へとシフトしていった。聖書に記述のない「新世界」の「発見」、宗教改革によるカトリシズムの相対化、自然科学的な絶対時間という観念の広がり、合理的認識論の成立や人間理性を重視する啓蒙主義などを契機に、西洋の世界観および歴史観は変わっていった。

 18世紀には、フランスのヴォルテールやG.-T.レーナル、コンドルセ、ドイツのJ.C.ガッテラーやA.シュレーツァーらによって、世界史の世俗化(脱キリスト教化)は加速した。世界の諸民族の習俗や風習、交易などの経済活動、精神性の発達など、さまざまな観点から世界史をとらえ、叙述する試みが現れる。カトリックの聖職者であるC.F.ミロは、『一般史の諸要素』(1768)の中で、「真実」の追究を掲げ、世界の始まりを正確に示す文献はないと断じて聖書の記述には触れず、「ギリシア・ローマ以前」として歴史を書き始めた。歴史と宗教は分離される。日本の啓蒙主義研究においてほとんど論じられることのないミロに着目し、彼の歴史像やアジア観に迫った考察は貴重だ。

 こうして「普遍史」的要素が脱色された世界史とはどのようなものか。

 19世紀の世界史について、著者が最初に取り上げるのがスコットランドのA.F.タイトラーである。彼の『一般史の諸要素』(1801)は、アメリカを経由して明治期日本に最初に翻訳された。ほかにもアイルランドのW.C.テイラーや、オランダ語訳によって幕末日本に紹介されたドイツのK.ペリッツ、「気球に乗って眺める世界史」を書いたアメリカのパーレイ、「コーカサス人種」を世界史牽引の主体とする「人種的世界史」のE.A.フリーマンやW.スウィントンなど、日本に輸入された世界史が、19世紀の西洋の史学史に名を刻むミシュレやヘーゲル、ランケ、マルクスらの著作とともに考察される。

 興味深いのは、「普遍史」の根強さである。「キリスト教の確立が世界史全体のなかで唯一の重要性をもつ出来事」とするボシュエの『普遍史』(1682)は、19世紀になっても広く読まれた。ボシュエは、ヴォルテールやタイトラーらによって厳しく批判されたが、タイトラーの著作自体が、彼の死後、19世紀半ばになっても普遍史的な方向へと「逆戻り」する改訂版が出されるなどの展開を見た。また、アダムとイヴからの聖書的歴史叙述に、ローマ帝国以降の世俗史を継ぎ合わせる「折衷型」は、ドイツのK.ロテック、T.B.ヴェルター、イギリスのH.ホワイトのように19世紀半ばまで見られた。ヴェルターとホワイトは、ともに明治期日本でも翻訳された。米国にも、ヨーロッパの「世界史」が輸入、紹介され、女子教育に携わるE.ウィラードや教会学校の教育に関心をもつM.J.カーネイなどが「自前」でボシュエに似た「普遍史」を書き、歴史教育で活用された。19世紀半ばを過ぎると、Ch.ダーウィンの『種の起源』(1859)および『人類の起源』(1871)が、「キリスト教的な天地創造論への決定的な批判」となるが、米国における「普遍史」の根強さは、現代も残る進化論への反発にも大きく関わるであろう。

 もう一つ、19世紀の世界史を考察するにあたって興味深いのは、ランケに代表される実証主義的歴史学がヨーロッパ中心的な世界史確立に与えた意味である。

 ここでは、聖書の「天地創造」だけではなく、人類が「理性」や「自由」を獲得して「進歩」していくさまも、「科学的」に実証することは不可能であるとして退けられる。「事実はいかにあったのか」、「それがあったままに記述する」ことが目指され、「科学的」歴史叙述は、史実を確定できない原始時代や遠方の民族や文化、とりわけ西洋との接点をもたない諸民族の歴史を切り捨てることにつながった。世界史は、「実証できる史実」からなり、「実証できない語りや伝説」は排除されるべきであった。

 また、ランケは、地上における諸民族との関係や関連を見極めることで世界史を把握するとし、ローマ的・ゲルマン的諸民族を「偉大な歴史的発展の諸要素」とみなしてその中心に据えた。彼の世界史は、この「支配的な民族の行動、影響力、闘争、他民族との『関係』」をたどるものとなった。

 本書の最終章では、1870年代以降のナショナル・ヒストリー勃興の時代における世界史が考察されている。ランケの未完の『世界史』(1881‐88)に加え、スイスのJ.ブルクハルトおよびイギリスのJ.アクトンをとりあげ、ナショナル・ヒストリーへの抵抗という立ち位置にも注意を払う。

 ブルクハルトの『世界史的省察』(1905)においては、ナショナル・ヒストリーの「錯覚や傲慢さ」が批判され、諸民族や諸文化の多様性と共存性をとらえて、「すべての種族や民族や慣習や宗教をも相互に関連させて正当に取扱うように努める」世界史が目指された。しかし、ブルクハルトのいう「種族」や「民族」はヨーロッパのそれであり、彼の眼差しは、西洋世界を超えることはなく、ランケ以上にヨーロッパ中心的であった。

 最後に著者が考察するのは、アメリカのG.P.フィッシャーである。彼の『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』(1885)は、ランケ的な歴史学の「科学的」方法を取り入れ、「古代から現代までをネイションで構成」し、ヨーロッパ中心の文明史的世界史であった。日本でフィッシャーの抄訳が出版されたのは1890年代で、ランケの『世界史』の紹介はそれから約30年を経た第一次世界大戦後であったため、「フィッシャーを通したランケの方法の部分的紹介」は、当時の日本の世界史理解において「重要なできごとであったにちがいない」と結ばれている。

*   *   *

 ところで、冒頭に述べたように、本書の最大の特徴は、日本に影響を与えた西洋の世界史の「ヨーロッパ中心史観の淵源」を問うものである。そのために著者が依拠するのが、上原専禄『世界史像の新形成』(1955)の問題提起である。

 上原は、「近代歴史学がその経験科学的実証的方法によって、いったいどのような世界史像形成の実践を行ってきたのか」を批判的に問う必要性を訴えた。しかし、日本の歴史学において上原の問題提起を受け止める研究はこれまでになく、本書がそれにわずかでも応えるものとして位置づけられる。著者は第一章でキリスト教的「普遍史」の考察を終えると、上原の問題提起を詳細に述べて整理し、第二章以降の世界史叙述の考察基盤を提示する。「キリスト教を離れても、なんらかの『超越的ファクター』が設定され続ける」という上原の見解が、幾度となく挙げられ、検証される。

 なるほど、日本の歴史学界において、かつて上原のような歴史家がいたことは特筆に値する。しかし、上原を引き合いに出すことに違和感を抱く読者もいるのではないだろうか。

 いうまでもなく、1955年の上原と2023年の著者では、「世界」も変化しており、両者がアクセスできる世界史叙述も違う。20世紀末のポスト・コロニアリズム以降の歴史学は、西洋史研究においても西洋中心史観の相対化が図られ、かつてドメスティックな関心しかなかったヨーロッパの西洋史家が、今や植民地抜きの西洋史叙述などありえないと述べる時代である。それにもかかわらず、著者は半世紀以上前の上原の疑問に立ち返ろうとしている。これまで数々の世界史論を展開してきたグローバル・ヒストリアンである著者が、なぜ上原にこれほど依拠するのだろうか。現在の読者にとっては、20世紀半ばの上原ではなく、21世紀の世界史研究を切り拓いてきた著者の存在感の方が大きい。上原の問題提起に応えることは、日本の歴史学界内部の、いわば内輪の話である。著者自身の問題提起を前面に出すことで、副次的、結果的に上原の声に応えるということで充分ではないだろうか。

 そもそも、著者がそこまで重視する上原とは何者なのか。20世紀半ばの日本の歴史学界にいながら、西洋の世界史に対するこのような問題意識をなぜもったのか。本書を読むだけでは読者にはわからない。歴史家も社会の産物である。「歴史を研究する前に、歴史家を研究せよ」「歴史家を研究する前に、歴史家の歴史的・社会的環境を研究せよ」と述べたのはE.H.カーだが、本書においてこの原則から唯一外れているのが上原ではないだろうか。上原の『世界史像の新形成』だけが、この作品を生み出した歴史的文脈から断ち切られて、つまりア・ヒストリカルに存在している。第二次世界大戦の敗北から10年後の日本はどのように世界を見ていたのだろう。当時の日本の歴史家たちは、どのような使命感をもって歴史研究を進めていたのだろう。

 評者の専門分野である啓蒙主義研究の視点からも一点付言したい。

 著者はカントの『世界市民という視点からみた普遍史の理念』(1784)とヘルダーの『人類の歴史哲学考』(1784‐91)を「多元的世界史の試み」として啓蒙主義の外に置いている。啓蒙主義の世界史は、理性の重視によって啓蒙に到達した西洋を頂点に、世界の諸民族が一元的に進歩の歴史を歩むという定義からであるが、両作品もまた啓蒙主義の産物と理解する研究者は評者も含めて少なくない。

 啓蒙主義の時代においては、非西洋における民族の多様性は、キリスト教的価値観ではなく、人間の理性によって承認された。すなわち、世界の諸民族が一元的に進歩の階段をのぼるのであれ、多元的な文化や価値観で多様な位置を占めるのであれ、これらの議論はともに神の摂理から離れ、人間を中心とする啓蒙の知であった。カントもヘルダーも啓蒙主義を批判したというが、理性と批判を重視する啓蒙主義は、啓蒙主義自らにも批判を向ける。I.バーリンのように、ヘルダーをヴィーコらとともに反啓蒙主義者と位置づける流れもあるが、著者も参照している笠原賢介のように、近年の啓蒙主義研究では、ヘルダーの歴史哲学を啓蒙との連続性の中にとらえ、文化の多様性の肯定や非ヨーロッパへの関心が理解されている。

 もちろんこのような指摘は、数多くの世界史の著作を読みこみ、その要点を手際よくまとめて世界史変容のプロセスをたどる本書の価値を損なうものではない。

 読者は、著者による妥協のない考察に圧倒され、著者の情熱を感じるだろう。タイトラーの『一般史の諸要素』やヘーゲルの『歴史哲学講義』などには複数の版があり、ランケの世界史の構想については、1820年代、50年代、80年代と3つの時期に分けて、思想や記述の変化が丁寧に考察されている。英語、フランス語、ドイツ語の原典、および明治期の翻訳本にあたるマルチ・リンガルな読解力に加え、岡崎勝世やI.バーリン、J.フォークト、D.ウルフ(Woolf)らの先行研究を押さえ、世界史叙述の「微妙な変化の積み重ね」に迫る手腕は見事というしかない。そのような著者だからこそ一層、上原専禄の提起した問題に応えた書と位置づける謙虚さが、読者にはもどかしく感じるのである。

(「世界史の眼」No.44)

 

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論文紹介:松本英治「別段風説書の取り扱いと翻訳作業-長崎訳の場合-」(『青山史学』第41号(2023)、129-142頁)/「別段風説書の取り扱いと翻訳作業-江戸訳の場合-」(『洋学研究誌 一滴』第30号(2023)、1-23頁)
山崎信一

 ほぼ同時期に発表されたこの二つの論考は、江戸時代末期にオランダ商館から幕府に提出された別段風説書が、長崎で受領後にどういった経緯で翻訳や江戸への送付がなされ、また江戸でどのように翻訳がなされたのかを分析したものである。著者の松本英治氏は、開成中学・高校で教鞭を取る一方、この問題の研究に従事している。別段風説書とは、江戸時代を通して、オランダ商館長からの聞き取りをもとに作成された通常の風説書とは別の、より詳細な内容を伴ったものであり、アヘン戦争以降、バタヴィアで作成されオランダ語原文の形で長崎にもたらされたものということである。この別段風説書は、オランダ語原文から長崎で翻訳の上、江戸に送付され、さらに時期に応じて江戸でも翻訳作業が行われており、その経緯が両論考で明らかにされている。なお松本氏は、両論考に先立って、「書評 風説書研究会編『オランダ別段風説書集成』」(『青山史学』第39号(2021)、41-50頁)を発表している。これは、2019年に刊行された『オランダ別段風説書集成』の書評であるが、別段風説書に関わる問題が扱われており、いわば本年の二論考の問題整理の部分としても読むことが可能である。無論、個々の論考は独立してもいるが、この書評を加えて三つの論考に目を通すことで、このテーマに関する理解は格段に進むと思われる。

 『青山史学』は、青山学院大学文学部史学科の紀要としてよく知られているが、『洋学研究誌 一滴』は、あまり知名度は高くないかもしれない。これは、岡山県津山市にある津山洋学資料館が発行する研究誌であり、1992年から年一冊のペースで刊行が続いている。江戸期の津山藩は、宇田川家、箕作家から著名な洋学者を輩出しており、津山に洋学資料館が設けられたのもそうした経緯によっている。津山洋学資料館は博物館として機能する一方で、洋学研究の場ともなっている。

 両論考は、入手可能な史料の情報にあたって、オランダ商館に別段風説書が到着してからの長崎訳の作成過程、さらに江戸に送られたのちの江戸訳の作成過程を可能な限り再構成し、併せて、各年それぞれにおける作成の相違も簡潔にまとめている。松本氏が明らかにしているところによれば、別段風説書はまず長崎奉行のもとに長崎の阿蘭陀通詞により翻訳され、原文とともに完成した翻訳が江戸に送付された。その後、江戸で改めて天文方の蛮書和解御用野本で翻訳が進められ、さらに長崎訳との校合も行われた。また、江戸訳は必ずしも毎年作成されたわけではないと言う。また、別段風説書に記された情報の扱いの変化にも言及されている。そもそも阿蘭陀通詞による情報操作への警戒が江戸訳作成の動機となっていたようであり、また機密保持から徐々に関係諸藩への限定的な情報公開へといった変化も明らかにされている。

 評者の専門は西洋史研究であるが、外国語文献の翻訳、さらには外国(史)研究を志す者から見れば、別段風説書の翻訳にあたった人々は、ある意味で先駆者であったということになるだろう。幕末から明治期の各種の翻訳、さらには翻訳書を元にした文献においては、諸概念の日本語訳が設けられて定着してゆくが、その原点の一つが、別段風説書の翻訳作業であったのかもしれないと思わされ、またそうした時間をかけた蓄積が外国(史)研究を可能にしたとも思える。また、垣間見える固有名詞の同定などの地道な作業のあり方に想像を膨らませると、この時代の翻訳者たちには時には共感も覚え、また、公務として非常に大きな責任を負いながら、草稿が没収されるような困難な形で作業にあたったことへの苦労も偲ばれる。評者も翻訳に関わることが少なくないが、本論考によって、オランダ語原文からの翻訳そのものがどのような過程で進行したのかへの興味も否応なく掻き立てられた。今後も、研究の進展により、さらに多くの点が明らかになってゆくだろう。

 なお、『青山史学』に掲載の論文は、こちらから読むことが可能である。また、『洋学研究誌 一滴』は、津山洋学資料館(こちら)より入手可能となっている。

(「世界史の眼」No.44)

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「万国史」における東ヨーロッパII-(4)
南塚信吾

4. 岡本監輔著・中村正直閲『万国史記』内外兵事新聞局、1879年 

版権免許は1878年(明治11年)

 著者の岡本監輔(天保10(1839)年~明治37(1904)年)は、徳島出身で、「小農に生まれる。苦学力行・気宇遠大、その生涯を開拓精神でつらぬいた異色人物である」という。号は韋庵。明治元年(1868年)、樺太奥地探検をおこない、樺太開拓に情熱を傾け、明治初年に函館裁判所判事(樺太開拓使)になって樺太経営に携わった。しかし、明治3年(1870年)、樺太放棄論をひろめた黒田清隆と意見が合わず辞任、東京府第一中学校(現日比谷高校)にて教壇に立った。 この第一中学時代に著したのが、この『万国史記』1879年(明治12年)であった。岡本は、のちに福沢の「脱亜論」とは反対に日清の協力を説き、アジア主義者と呼ばれるようになった。岡本は、この本を漢文で書いていた。それは中国でも読んでもらいたかったからであるという(宮地)。校閲をした中村正直はスマイルの「自助論」の翻訳者であった。

 2005年7月に二松学舎における挟間直樹(京都産業大学)の講演によると、岡本は数回清国へ訪れていて、『万国史記』は清国において30万部以上が坊間に流布したという。また、韓国の玄采『万国史記』は岡本韋庵の書を基に編集したものであるという。1884年には、岡本監輔著、三宅憲章校『万国通典』(集義館)というものも出版されている。

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 『万国史記』の構成は以下のようであった。

巻一 万国全記、亜細亜総説、大日本記
巻二 支那
巻三 印度、波斯、韃靼
巻四 亜西里亜(アッシリア)、巴靭斯坦(パキスタン)、朓尼基(フェニキア)、西里亜(シリア)、亜剌伯(アラビア)、その他アジア
巻五 亜非理駕(アフリカ)総説、厄日多(エジプト)、巴巴黎(ベルベル)、桑給巴(ザンジバル)、達疴美(ダホミー)、そして黒奴、馬達加斯架(マダカスカル)など
巻六 欧羅巴総説、希臘、馬基頓(マケドニア)
巻七 羅馬
巻八 東羅馬、羅馬教宗国(ローマ教皇国)、伊太利、土耳古
巻九、十、十一 仏蘭西
巻十二 西班牙、葡萄牙、荷蘭、比利時(ベルギー)
巻十三、十四 日耳曼
巻十五 瑞西、墺太利、普魯西
巻十六 俄羅斯(ヲロシア)、波蘭、瑞典(スウェーデン)、丁抹(デンマーク)
巻十七、十八 英吉利
巻十九 亜美理駕総説、米利堅(アメリカ)、墨西哥(メキシコ)、秘魯(ぺルー)、巴西(ブラジル)、その他アメリカ
巻二十 阿塞亞尼亞(オセアニア)

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 この『万国史記』も指定教科書ではなかった。漢文で書かれた岡本の『万国史記』は、単なる「翻訳」ではない「万国史」であった。その特徴を整理すると、このようになる。

1) 基本はパーレイ的で、アジアから始めて、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカと回って、オセアニアに戻ってくる方式をとっていた。諸地域の歴史の並列としての「万国史」である。だが、記述はパーレイ自身のものより正確になっている。それらの地域の歴史を地域に即して見ていると言える。

2) パーレイとは違って、「天地開闢」の説はさまざまにあると言って、キリスト的天地創造説は採っていない。脱聖書の「万国史」であった。

3) パーレイと同じく、徹底して古いところから新しいところまでの歴史を縦に述べ、そういう各国史を並べるという方式をとっていた。ただ古代・中世・近世といった時代区分をしていない。

4) アジアは、日本から始めていて、「万国史」の中に日本を組みこもうとしている。日本の歴史は「大日本記」が始まりで、天照大神から天皇の事績を連ねた皇国史が略述され、ついで「附録」として、15-17世紀と1850年代以後の日本と諸外国との交渉史が述べられている。1853年の米利堅人伯爾理(ペルリ)来日から各国との修好条約の締結までが正確に書かれ、そのうえで、世界には様々な政体があり、各国が主権を持って、上下の違いはない。日本は1868年以後天皇のもとで世界に乗り出したのだとしていた(巻1)。

5) 支那(中国)の歴史も王朝史で、最後に「附録」として1790年代以後の欧州勢力との交渉史が置かれている。特に鴉片をめぐっておきた1840年の戦争から、1850-1860年の太平王の戦争までの対外関係が詳しく論じられ、最後に中国は「中華」といって奢っていたが、今は固陋に甘んじ「西人」に遅れている。気力を取りもどさないといけないとしていた(巻2)。
 インドについては、1857-58年の対英「乱」(大反乱)に至るまでの歴史が述べられ、「乱」の鎮圧ののち、インドが英政府の「所轄」となった次第が論じられる。こののち、「印度事務宰相」のもとでインドは鉄道が引かれ、棉花等の産物の産地になっていくという。インド支配が肯定的に評価されている。インドの風俗も述べられ、「以子女為犠牲人死即」(寡婦殉死)という風習も出てくる。この後、ペルシア、アッシリア(バビロン)、パレスチナ(耶蘇)、フェニキア、シリアが出てくる(巻3)。
 その後東アジアに戻って、朝鮮、安南、暹羅(シャム)、緬甸(ビルマ)、阿富汗(アフガニスタン)、西伯利(シベリア)が畧記される。「万国史」でこれらの国(アフガニスタンを除き)の歴史が出てくるのは、これが初めてではないだろうか。とくに朝鮮については、紀元100年頃の高麗から始めて、1860-70年代の仏米の接近、1875年の日本との戦いと講和条規(江華島条約のこと)までを略記している。朝鮮の各「王室」が滅亡するまで史料を公にしないので、その沿革を描くのが難しく、日本や支那の書に依らざるを得ないとしていた。総じて、これら朝鮮以下のアジアの国々は、「皆甘んじて人に屈下する者に非ず」といえども、「古より今に至るまで未だ其の能く自主する者を見ず」。その理由は、地勢のほかに「人」の性格などにあり(巻4)というのであった。

6) 亜非理駕(アフリカ)についても、明治期に出た「万国史」の中では初めて詳しい歴史を論じている。岡本は、アフリカのまとめとして、次のように述べている。アフリカは港湾が少なく、気候も高湿で疫病が多く、土人は無知であると言われが、これは人の「性」に依るのではない。欧州の学者は黒人の才質は白人と同じではないと言う。だがそうではなくて、これは知識と教学によって乗り越えられるものである。欧州人は売奴は禁止したが、黒人子弟を教育したということはまだ聞いていない。このように述べて、欧州人を批判していた(巻5)。

7) 全体として、アジア主義からのユニークな「万国史」であった。アジア諸国についてはそれぞれの弱さを指摘し、西人に対抗するためには、各国がその弱さを克服していかねばならないと主張していた。一方、ヨーロッパ列強については、その文明が至上であるとはとらえず、時には批判的な見方をしていることが注目される。そして、世界全体の動きを、主権を持った国々の冷徹な利害の交錯する場であるとみていたようである。

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 では、ヨーロッパ東部の歴史はどのように書かれていたのだろうか。欧羅巴は巻六から十八までで論じられている。総説以下、希臘、馬基頓(マケドニア)、羅馬、東羅馬、羅馬教宗国(ローマ教皇国)、伊太利、土耳古、仏蘭西、西班牙、葡萄牙、荷蘭、比利時(ベルギー)、日耳曼、瑞西、墺太利、普魯西、俄羅斯(ロシア)、波蘭、瑞典(スウェーデン)、丁抹(デンマーク)、英吉利と続くのである。その中で東ヨーロッパについての記述を見てみよう。

≪希臘≫
 欧羅巴総説に次いで、希臘の歴史が、古代から希臘帝国(ビザンツ帝国)をへて1820年代における独立までタテに論じられる。ギリシアの独立に関しては、そのきっかけとなったのが、「希的里亜(ヘチリア)」(フィリキ・エタリアのこと)という「一社」であったことを指摘し、独立戦争においても「国人(国民)」の力を評価している。しかし、結局は英仏ロの列強の支援、つまり各国の冷徹な利害を重視していた(巻6)。

≪土耳古≫
 土耳古の歴史が、一貫した通史として描かれている。紀元600年頃に始まり、961年におけるカズナ朝の成立、1032年?にセルジュク家が支配したこと、1300年代にモンゴルに従属したこと、1293年?にオスマン家が国を建て、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、1520年代のハンガリーとオーストリア攻撃のこと、1687年のウイーン攻撃の失敗のこと、1770年代から1850年代の露土戦争のことなど、支配の構造も含めて、「トルコ」の一貫した歴史を描いている。多少とも年代のずれはあるが、パーレイよりもしっかりとしたトルコ史になっていた。この「トルコ史」との関係で、ハンガリーやポーランドの歴史が触れられることになった。たとえば、1520年代と80年代のハンガリーからウイーンへのオスマン軍の侵攻が述べられている(巻8)。

≪波蘭≫
 興味深いのは、ポーランド史について、独自に詳しい記述をしていることである。「俄羅斯(ヲロシャ)記」の後に置かれた「波蘭記」では、とくに1772年、1793年、1795年のポーランド分割の過程、ポーランド国家の消滅後の1830年にフランス革命を機に起こったポーランド人の蜂起、1863年のポーランド蜂起が、詳細に記述されている。特に蜂起に際しては、「自由」のための社会改革の動きに注目している。最後に、ポーランドが分割されて国がなくなったについては、「公法」がまだ行き渡っていないこと、「隣邦公伯」が手をこまねいて助けに行かなかったことを憤っている。「万国史」においては一般にポーランド史への関心は高いのであるが、ここでは他の「万国史」以上に列強への批判がなされている(巻16)。

≪匈牙利≫
 墺地利の歴史は、ほとんどが1848年の「乱」から1867年に「並立帝国」ができるまでの過程に充てられている。それは匈牙利との関係で書かれている。匈牙利自体の歴史は、ポーランドに比べて、極めて限られた記述であるが、土耳古の部と墺太利の部で述べられているわけである。ここでは、48年革命を、王侯君主間の政権争いとしてのみではなく、「府民」、「国人」、「書生」などの動きを交えて論じている。それは「暴民」、「不逞の徒」、「乱民」といった観念をも引き出していたが、権力と民衆の関係を意識したダイナミックな記述であった。明治10年に完成した箕作『万国新史』における48年革命論に習っていると思われるが、それよりは深まっている部分と、事実関係を誤っている部分とがあった。
 例えば、1848年の革命はこう書かれている。「1848年3月、仏蘭西革命の報維也納に達す。府民之に倣わんと欲し、広く起こり、乱を作す。」オーストリアの支配を受けていたイタリアでも、民が乱を起こした。オーストリアの「帝」は、「国人」に約して新法をたてたが、「国人」服せず。そこで皇帝はインスブルックに脱出、ウイーンは「書生及び暴民」の「淵藪」となる。さらに、ボヘミアでは7月に、スラーヴ人がプラーグを砲撃してこれを奪い、新に政府をたてて、ウイーンの「乱民」を助けようとした。同月に「国人」がウイーンに大勢集まった。このため8月に皇帝はついにシェーンブルンに都を移した。今日でいえば、明確に権力と民衆の関係で論じられている。
 岡本は、1867年のオーストリアとハンガリーの「妥協(アウスグライヒ)」の結果として成立した二重君主制に早くも注目し、これを「並立帝国」として記述している。オーストリアの帝をハンガリーの王にし、共通の執政局、共通の議院をおいて、二国を「聯合」したもので、これによって両国積年の怨みは「氷解」したという。これに注目しているのは、明治期において岡本が最初であろう。間もなく久米邦武『米欧回覧実記』明治11年(1878年)が注目することになる(巻15)。
 よく見ると、1848年におけるチェコやハンガリーの位置づけはおかしい。「7月にスラーヴ人がプラーグを砲撃し・・・」は間違いである。ハンガリー人は「帝を推して首領となし」たとか、皇帝はハンガリー人に「自主政府」を立てることを許したなどというのも間違いである。箕作『万国新史』に習ったと思われるが、箕作はこういう誤りは犯していない。しかし、そういうことが問題になるほど、詳しい歴史であった。

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 岡本の東ヨーロッパ論においては、「人民」以外に、今日ならば「市民」を意味する「府民」、「国民」を意味する「国人」が使われている。「府民」は箕作『万国新史』にすでに出てきていたが、ともかくここでは、国王や貴族や軍人など権力者だけではない人々からの視線が求められていたわけである。ただし、一方で、人民、府民、国人への視線に対し、「暴民」、「不逞の徒」、「乱民」への不信もある。賢君に導かれる上下貴賤の別のない国というのが岡本の基準であったのではなかろうか。

 また、フランスの1789年や1848年を「革命」として論じているが、ウィーンでは「乱」になっていて、まだ一貫した用語にはなっていなかった。これに関連して、「府民」らが構成する「社会」という概念はまだできておらず、社会改革という考え方は生まれていなかったようである。

 その他、東ヨーロッパ論では、今から見れば欠かせないはずの「民族」や「階級」という概念は出て来ていない。他では、「民族」という概念と「階級」という概念も新たに登場させているだけに、やや気になる所ではある。ただこの「民族」や「階級」という概念はその後明治期の「万国史」に継続して使われることはなかった。

 諸概念の問題が出て来るほどに、岡本の「万国史」は、東ヨーロッパやアジアに内在しようとしたユニークなものであり、このような世界史認識を岡本はどのようにして獲得したのか、大いに研究の余地があるところである。

(「世界史の眼」No.43)

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書評:『スポーツの世界史』
川本真浩

 世界選手権やワールドカップなど、最近数ヶ月の間に開催されたスポーツの世界大会を皆さんはいくつご存じだろうか。水泳、女子サッカー、陸上競技、バドミントン、バスケットボール、ラグビーなど、なじみのあるスポーツだけでも数多くあったが、評者が惜しくも出場を逃したローンボウルズのような超マイナースポーツまで含めれば、ずいぶん多くの世界大会が開催された。いっぽう、夏と言えば、インターハイや高校野球といった高校生の大会をはじめとする児童・生徒及び学生の大会も数多く行われる。異常な猛暑のなかでの開催がとくに問題視された今夏であったが、裏を返せば、多くの耳目を集めるスポーツイベントが定着しているということでもある。いまやe-スポーツが国際オリンピック委員会のお墨付きを得る時代である。従来型のスポーツに全く関心や接点が無かった人でさえ、スポーツに触れたり見聞きしたりする機会は確実に高まっている。おおぜいの人の行動と感情に影響し、大量のモノがやりとりされ、相当な額のカネが動く…好むと好まざるとにかかわらず、スポーツはわれわれが生きる現代社会のなかで無視しえない存在である。

 「ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー」の一書として刊行されたデイビッド・G・マコーム著・中房敏朗/ウエイン・ジュリアン訳『スポーツの世界史』は、その帯で「スポーツはなぜ、かくも巨大なグローバル文化に成長しえたのか」とうたうとおり、スポーツの今日的状況を世界史の観点から解説する。五章立ての内容は、序章「語義と理論」、第1章「運動の必然性とスポーツが生まれる理由」、第2章「近代スポーツの誕生」、第3章「スポーツのグローバル化」、第4章「グローバルスポーツの諸問題」である。

 序章では手短に基本的な用語や概念を整理し、本書の構成を紹介する。原著では”chapter 1″であるが、分量及び内容から考えても、これを「序章」とし、原著の”chapter2″以降を「第1章」から始めていく本書の章立ては妥当であろう。

 第1章では、「スポーツが生まれる理由」つまり「なぜスポーツがあるのか」という根源的な問いに取り組み、著者なりの見取り図が開陳される。人間には「運動への衝動」が生まれつき備わっており、そこに労働、戦争、宗教、観る楽しみ、地理、エロスといった二次的な影響が加わることで、輪郭と形態が与えられてスポーツが造形された、という。そこには先史時代の壁画から20世紀の映画までさまざまな逸話があふれている。「実証的な裏付けがないとか、本質主義に陥っているとかと批判してみても生産的ではないだろう。これは一つの思考実験であり、私たちもこの実験に参加して楽しめばよい」という訳者の意見(248頁)に評者もおおむね同意するいっぽうで、そうした批判が想定されることにこそ歴史学のなかのスポーツ史の位相が示唆されているようにも思える。いずれにしてもスポーツ史のありかたについて考えをめぐらせる格好の材料にはちがいない。

 第2章では、章題どおり「近代スポーツの誕生」について、18世紀終わり頃から20世紀前半にかけての時期に発展した、競馬、クリケット、野球、ゴルフ、テニス、卓球、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボール、バスケットボール、バレーボール、水泳、スキー、アイスホッケー、陸上競技、ボクシング、自動車レースなどが概観される。アマチュアリズムとプロフェッショナリズムそしてスポーツの組織化に関する歴史的経緯についても触れられる。いずれも発祥の地でありかつ盛んに行なわれてきたイギリスとアメリカ合衆国に関する叙述が中心となる。近代スポーツとしての各競技の黎明期について手短に知ることができるのはありがたい。

 つづく第3章と第4章では、第2章と同じく19世紀以降現代に至るまでの時期を扱いながらも、スポーツのグローバル化に論点を絞って、その歴史的過程と現代的問題について論じられる。まず第3章では、野球、クリケット、サッカーのグローバルな展開から説き起こして、YMCAが果たした役割、米中国交回復の逸話(いわゆるピンポン外交)、アメリカズカップ(ヨット)、そして世界最大のスポーツイベントである近代オリンピックに話が進む。また第4章では、さらに現在に近い問題がとりあげられる。アマチュアリズムの衰退、スポーツ界で不当ないし不利な状況に置かれた人種/民族/女性の問題、テクノロジーと医学の功罪、ドーピング問題の〈闇〉の深さ、そして商業化である。アメリカ合衆国を中心とする欧米の状況やオリンピックの事例がもっぱら引用されるが、現在に至る国際スポーツの実相をしっかりとらえることができる。

 全体を通していえば、古代あるいは先史時代から現代まで世界各地から渉猟された逸話をたんなる蘊蓄の羅列にしない、語りの巧みさと魅力は見逃せない。また、「スポーツは戦争を終わらせないし、スポーツを通じた友好関係が戦争を抑止するという有力な証拠もない。」(9頁)や「現代の世界では、スポーツそのものが宗教と見なしうるのに、伝統的な信仰を持つ多くの人はそのようには考えず、神への冒涜とさえ考えているのは皮肉なこと…」(45頁)といった言からは、スポーツに対する愛着とうらはらに冷静にスポーツを見定めようとするスタンスもうかがえる。

 とりわけ読み応えがあるのは、第3、4章で論じられるスポーツのグローバル化とその問題である。上述のように欧米とりわけアメリカ合衆国のスポーツに叙述が偏るきらいはあるが、20世紀以降のグローバルなスポーツ界において同国および同国におけるスポーツが重要な位置を占めること、そこにグローバル・スポーツの光と影があらわに見てとれることはまちがいない。世界史的観点から捉えた20世紀スポーツにかかる見取り図を把握するために、とても有用な章である。

 他方で、西洋人が現地人に無理強いするだけでなく現地人が進んでスポーツを受け入れた事例があったことをも強調する(「訳者解説」247頁)とはいえ、西洋=能動的/非西洋=受動的という古典的ステレオタイプの印象につながりかねない叙述はいささか気になる。例えば、「植民地時代以前のアフリカではいったいどんなスポーツがおこなわれていたのかは、ほとんど知られていない。…先住民は徒競走、レスリング、カヌー競漕、跳躍、舞踊などで楽しんでいたようだが、新しい西洋のスポーツがこれらにとって代わった」(143頁)と述べるが、東アフリカの伝統的な生活において独特の身体運動文化があったことや、西洋人が設立した学校や組織において西洋スポーツと現地に根ざす運動や遊戯の混在するさまがみられたことは、原著刊行時までにも学界で知られるところであった[1]。「歴史の本流に焦点を当てて、支流を削ぎ落とした分、全体的な見通しについては見やすくなっている」(「訳者解説」246頁)反面、見えにくくなった部分があることを想定して読むことも大切である。

 また原著刊行(2004年)から時間が経ったがゆえに、原文の時制のまま訳されていることから、そのご現在までに事態が大きく展開したテーマについては―もちろん著者や訳者の責任ではないが―ときおりとまどう。例えば、人種、ジェンダー、ドーピングにかかる問題は、この20年ほどの間に、技術・知見・理論の進歩のみならず、さまざまな出来事が起こり、議論が交わされ、状況がずいぶん変わったところもある(あいにく旧態依然の部分も少なくないが)。本書はあくまで21世紀に入ったばかりの時点で世界史的観点からスポーツとその歴史を概観した書であるということをときどき思い出しながら読まねばなるまい。

 いっぽう、原著を読みやすい翻訳でもって紹介するために、訳者による細やかな配慮が尽くされ工夫が凝らされていることも強調したい。原著には図版が全く載っていないが、本書には内容に関連する図版が多数盛り込まれ、文字情報だけでは難しいイメージづくりを助ける。やや叙述の長い節には原著に無い小見出しを加えることでトピックの転換を読者に示す。もっぱらアメリカ合衆国そしてイギリスという英米2国に偏った本書の欠点を補うべく、19世紀末以来スポーツのグローバル化を推し進めたフランスの主導的な役割について―それと対照的なイギリスの態度とあわせて―「訳者解説」で補足説明されているのもありがたい。さらに、原著には事実誤認、誤記ないし誤植が少なからず見受けられるが、それらには丁寧に注記が付けられたり修正が施されたりしている。

 著者マコームは、「学生、学者、専門職、あるいはその他の人々でも、ほとんど生まれながらにしてスポーツに関心をもっているような人とそうでない人に分けられる」と述べ、日常的な自己紹介の場面においてスポーツ史家である自分に対して「おぉ!」と関心をもってくれるような人に向けて本書を書いたという(i-ii頁)。しかし、評者としては、スポーツやその歴史に全く関心がなくても世界史、グローバル・ヒストリー、世界情勢に関心のある人には、ぜひ本書を手にとってもらいたい。そして、本書に何らかの物足りなさを感じる方、あるいはもっとほりさげて探りたいという方は、訳者の一人が編者として名を連ねる(たまたま)同名の論文集[2]、あるいは長年スポーツ史研究をリードしてきた大家W・ヴァンプルーが著した浩瀚の書[3]を読み進めるのもよいだろう。いっそう立体感をもって〈世界史のなかのスポーツ〉を捉えることができるはずである。


[1] たとえば、John Bale & Joe Sang, Kenyan Running: Movement Culture, Geography and Global Change, London(Frank Cass), 1996, など。

[2] 坂上康博/中房敏朗/石井昌幸/高嶋航編著『スポーツの世界史』、一色出版、2018年。

[3] W・ヴァンプルー(角敦子訳)『スポーツの歴史』原書房、2022年。

(「世界史の眼」No.43)

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小川幸司(2023、岩波書店)『世界史とはなにか ー「歴史実践」のために」』書評
渡邉大輔

 新科目『歴史総合』は2年目の夏を迎えている。

 同業者や出版関係者と話していると、決まってでてくるのが「ほぼ誰も最後まで終わっていないみたいです」「第二次世界大戦と冷戦まででやっと、という反応が多いです」「渡邉先生はどうやって最後まで終えることができたんですか」「史資料を集めるのが大変でコンテンツの説明に終止してるみたいです」「問いを立てさせるといってもどうすればよいのか…」「歴史の扉、あるいは大項目D(4)の探究活動をカットしました」といった、歴史総合の悲しい現状についての話題である。これでは科目の目標は達成されないし、未履修問題に揺れた『世界史A』と同じ轍を踏む危険性も否定できない。原因は明らかである。歴史総合の趣旨にそう書かれていないにもかかわらず、コンテンツを網羅しようとするからだ[1]。では、どうすればコンテンツ網羅主義を脱却して教科書を最後まで終えながら、よりよい授業実践にバージョンアップできるのだろうか。

 その大きなヒントとなるのが『シリーズ 歴史総合を学ぶ』であり、6月に上梓された最終巻である本書であろう。小川幸司氏は、今春に希望降任制度により校長から教諭へと戻られた、全国的にも有名な授業実践者である。本書で語られる「歴史実践」を、我々はどのように日々の授業に接合していけばよいのだろうか。本稿の目的は、執筆者が13クラスで行ってきた授業実践及び研究・発表してきたことを踏まえ、本論である第1,2講を中心に本書の内容を紹介しながら、上記の課題に幾許かでも答えることにある。紙幅の関係から、大項目BCDの歴史実践事例である第3,4,5講は必要に応じて触れるに留めたい。

 第1講では本書のタイトルにもなっている「世界史とは何か」「歴史実践とは何か」がテーマとなる。第一に1994年の松本サリン事件において、事実ではないことを事実として報道するメディアを通じて、人々が歴史を歪曲しながら解釈していった事例が語られる。そこから氏は「歴史について考える」ために、アプリオリに事実とされがちな教科書の歴史叙述が、史資料を通じて多面的に見直すことでどのように異なって見えてくるのかという授業実践と、教師と生徒が対等な立場で参加する自主ゼミを開始し、「事実」がとても見出しにくく、解釈や用いる言葉により見え方も異なる相対主義的なものであることを指摘する。そして「多様な意見があっていいね、考えさせられるね」という安易な相対主義に陥らないためには事実立脚性と論理整合性が大切となるが、解釈の対立が水掛け論や感情的な攻撃になることを回避するために、相対化への意志を持ち相手をリスペクトしながら対話、協働して「私たち」となることの重要性が示される。第二に、「歴史について考え(第一で指摘したいわゆる歴史的思考力に基づく思考)」行動すること、すなわち「歴史実践」について、その先駆者である保苅実の遺書『ラディカル・オーラル・ヒストリー』に依拠しながら、「真摯な経験」に基づく「歴史叙述」や「歴史実践」同士で、グランドキャニオンにバラの花弁を落とし爆発を待つような形で「接続可能性」を探究することの重要性を説く。そして、生徒と教師の間にグランドキャニオンの高さほどの隔絶が存在する現場において、生徒が「より良い」思考をしながら行動できるようになるためには、花弁がどのように落ちていくか(生徒と教師の対話がどのように展開するか、どのように展開させるかについての方法)よりもどのような花弁を落とすか(何を一緒に考えたいのか)がより大切であるという。つまり史資料を中心としたコンテンツの吟味が、コンピテンシー育成の必要不可欠な基礎なのである。次に、そのようにして「考え、吟味され叙述された」「歴史実践」としての世界史には、保苅のように特定の問題関心を持ってテーマを設定し過去に問いかけ、「今、ここで」どう生きるかを考える「世界と向き合う世界史」と、ナチス・ドイツの独裁体制が生まれた原因のように過去へ問いかけた歴史像を結びつけていく「世界のつながりを考える世界史」があり、後者は①つながりや発展にパターンを見出す「歴史類型論」、②つながりの根底に世界経済の動向を置きながら描く「歴史構造論」、③「世界と向き合う世界史」の空間軸と時間軸を拡大し、つながりを網羅的に明らかにしてテーマの分析を深める「歴史連関分析」に分類される。そして氏が目指す歴史総合は、生徒たちが「世界と向き合う世界史」の探求を重ねるなかで、教科書の「世界のつながりを考える世界史」を書き直す歴史実践の主体となっていくことであるという。

 第2講は、第1講の内容を歴史総合の授業を充実させる方法として再定義する。まず歴史実践について、遅塚忠躬が『史学概論』で提示した①問題関心と問題設定、②史料選出、③史料を通じた歴史実証、④歴史的意義の解釈、⑤問題設定への仮説提示と歴史像の構築や修正からなる「作業工程表」を、①歴史実証、②歴史解釈、③歴史批評、④歴史叙述、⑤歴史対話、⑥歴史創造の六層構造に再定義する。そしてそれは研究者だけのものではなく高校生を含む全ての人々がそれぞれの関心や次元で営むものであるとし、歴史総合においても「様々な歴史叙述を検討しながら不断に私の叙述する歴史を相対化し練り上げつつ、歴史についての考え方を身につけて」=「歴史の学び方を学んで」いけば、「歴史主体の成長」という「歴史創造」になるという。そこで重要となるのが検討・相対化・考え方の素材となる問い(立問力は育成すべきコンピテンシーでもある)であるが、昨今の歴史教育に関する実践が大きな問い(MQ)と小さな問い(SQ)を精緻化することに注力された結果形式主義に陥り、多くの問いが教科書に書かれてある答えを読み取るだけになってしまう危険性を指摘する[2]。この「問いの形式化」を乗り越えるために、氏は①「変だなあ」「どうしてなんだろう」「なんでこんなふうに書いているんだろう」から始まる課題発見作用の対話、②現代における類似した事例を考えさせることで歴史を自分ごと化していく主体化作用の対話、③比較することで歴史的特徴をより鮮明に浮かび上がらせると同時に相対化を可能にしていく時空間拡大作用の対話、④歴史解釈のフレームや概念を見つめ直すような根拠の問い直し作用の対話、⑤教科書の叙述に対して史資料をもとに女性や奴隷など別の立場から書き換えていくような仮説の構築・検証作用の対話を産むような問いを教師がすること、そして生徒自身がそのような問いを立てられるようになるような「歴史実践」を提起し、対話の際の留意点として、「ボイテルスバッハ・コンセンサス」をひきながら、①対象にタブーを作らないこと、②対話者は対等であり相互にいのちをリスペクトしあうこと、③自己を相対化する意志を大切にすることを挙げている。

 では、どのようにすれば60時間前後の歴史総合で、網羅主義を乗り越え教科書を終えながら、本書で示された歴史実践に近づくことが可能になるのか。そのためには、第一に教科書を事前に読ませ(生徒の実態に応じて準拠ノートに取り組ませ)、授業におけるコンテンツの網羅的説明をやめることである。教材の精選原理については、各大項目を通じて獲得させたい概念や育成したいコンピテンシーに必要なコンテンツが原則であり、そこから関連する史資料を吟味すると良いだろう。例えば近代化と私たちであれば、冊封体制、主権国家体制、市民革命、国民国家、産業革命、資本主義、社会主義、帝国主義、ウエスタンインパクト、オリエンタリズム、グレートゲームといった概念を設定し、近代化についてこれらの概念を用いて多面的に説明できるようになるために必要な史資料を吟味する、といった具合である。第二にスライドなどのICTを効果的に活用し、板書や考査返却にかける時間を短縮することである。そうすれば問いに基づいて史資料を読み解き、対話する活動を充実しながら、概念を獲得をさせつつ、概念を通じて見る力や事実立脚性と論理整合性に基づく思考といったコンピテンシーの育成を目指すことが容易になる。第三に、問いを立てられるようになるためには、教師が模範として良質の問いを発することは勿論(前提として歴史の扉で、閉じた問いと開かれた問いなど問いの種類や階層性について予め説明すると良い)だが、同時に生徒自身が普段から不断に問いを立てるような仕掛けをすることが求められる。そのために私は単元ポートフォリオを活用し、各授業の問いに対する回答だけでなく、疑問に感じたことや更に考えたいことについての欄を設け、表現させている。そしてフィードバックとしてポートフォリオ返却時に問いの質について再度コメントしたり、疑問や考えたいことについて自分で史資料を調べ探究する(ちょこっと探究と名付けている)ことを促すことで、立問力や探究力の育成と、自ら学びを改善するという意味での主体的に学習に取り組む態度の育成につなげている。こうすれば、D(4)の頃には多くの生徒が無理なく問いを立て探求できるようになっている、というわけである。勿論生徒によって到達度は多様なため課題を抱える生徒に対して個別にファシリテートする必要はあるが、今日の高校生は想像以上にICTを活用した調べ学習慣れしているので、総合的な探究の時間や他科目とのカリキュラム・マネジメントを進めながら実践していけば、それほどハードルは高くないだろう[3]

 以上のように多くの歴史総合担当者にとって福音となるであろう本書であるが、最後にいくつかの論点を提示して結びとしたい。第一に問いについてである。教師が問いをブラッシュアップし続けることは間違いなく重要であるが、生徒自身が複数な次元の問いがあることを理解しながらより良い問いを立てられるようになっていくようにするという歴史総合の科目の性質を考慮すると、一問一答から教科書を読めば答えられるもの、史資料の読解が必要なもの、複数の史資料や概念を関連付けながら答えるもの、様々な事例があって答えが一つに定まらないもの、学説史上もまだ答えが一つに定まっていないものなど意図的に多様な問いがあってもよいだろうし、生徒の実態に応じて段階的にカスタマイズすることが求められるのではないだろうか。第二に六層構造についてである。六層構造に問題がある、ということではないし、原則的には教師が生徒の実態に応じて六層の扱いに軽重をつけることにはなるだろう。ただ、立問力の育成や、D(4)で生徒自身が歴史総合の学びを元に現代の諸課題と関連付けながら問いを立て史資料を集めて探究活動を行うことを考慮に入れるならば、事実立脚性と論理整合性に基づく歴史実証力の育成により重点を置くべきではないだろうか。すなわち、歴史実証の過程を三段階に分けている遅塚の作業工程法のほうが歴史総合にはよりマッチするのではないだろうか。第三に、第3章で史資料として取り上げられる蠣崎波響の『夷酋列像』についてである。氏は加藤公明の実践にもとづき、「アイヌは礼節を知らない野蛮人であるとするまなざしが、蠣崎の絵にはありました」という(154頁)。確かに幕府や明治政府の側にそのようなまなざしは存在したであろう。しかし、『夷酋列像』においても、そのようなまなざしが主であったと果たして言えるのだろうか。「礼節をしらない野蛮人」をあれだけ微細にまでこだわって、屈強な出で立ちで、蝦夷錦まで着せて描くのだろうか。むしろ、松前藩は、異形ではあるが威風堂々としており、蝦夷錦などの豊かな産物をもたらす存在であったアイヌを、クナシリ・メナシの戦いをでもわかるように従えおり、蝦夷地の支配に問題はないというアピールであったというのが通説だろう。そのようなアイヌへのまなざしが明治維新後の国民国家形成の文脈の中で北海道においても変容していったという文脈で、「近代化と私たち」の私たちと関連付けながら扱ったほうが良いのではないだろうか[4]。また『夷酋列像』がなぜフランスのブザンソンで発見されたのか、ということも歴史総合にとっては格好の探究テーマとなるだろう。このことについてはまた稿を改めて論じたい。以上いくつかの論点を指摘してきたが、そのことは本書の価値を否定するものでは一切ない。高校教員だけでなく、歴史総合を教える高校教員養成に関わる大学教員にとっても、地歴科教諭を目指す大学生にとっても必読の一冊である。


[1] 高大連携歴史教育会編(2021)『歴史総合Q&A』5-6頁。ただし、後述するようにこのことはコンテンツや講義式授業の否定ではない。知ることによって考えることができることは多いし、教師による適切な説明はニュースや雑誌記事と同様に史資料であるともいえるからだ。例えばニジェールの問題を高校生に考えさせる際に、基本的知識や背景の説明は史資料と同様に必要だろう。

[2] 現在刊行されている歴史総合の教科書の多くにも、章ごとの大きな問い、節ごとの小さな問い、授業内で教師が発するようなさらに小さな問いが立てられているが、その大半は教科書や史資料を読み解くことで答えられるもので、歴史叙述の理解や史資料の読解力の育成には適しているものの、いわゆるオープンエンドな問いは少ないのが現状であり、改訂に向けて議論すべきところであろう。

[3] 以上のような私の歴史総合の実践の詳細については、2022年度の高大連携歴史教育研究会での発表を参照されたい。『高大連携歴史教育研究会会報』第11号、2023年3月、の報告資料、レジュメ編のパネル2ー②からハイパーリンクで参照できるようになっている。https://drive.google.com/drive/folders/1hf3nGL4UIgNF_4CBKEcf60LjWwan7bs7

[4] このことについては北海道立近代美術館学芸部長の五十嵐聡美および江戸東京博物館学芸員の春木晶子の研究より大きな示唆を得ている。五十嵐聡美(2020−2021)「アイヌ絵を読み解く」『朝日新聞「北の文化」』、春木晶子(2019)「《夷酋列像》と日月屏風ー多重化する肖像とその意義ー」『美術史』186など。

(「世界史の眼」No.42)

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