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イスラエル批判と反ユダヤ主義
木畑洋一

 本特集「イスラエルのガザ攻撃」を考える4の「米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向」において、油井大三郎氏は、「米国では、イスラエルを批判すると、すぐ「反ユダヤ主義者」のレッテルが貼られ、それ以上の批判が封印される傾向がずっと続いてきたが、近年、シオニズムに反対するユダヤ系知識人の台頭が目立つようになっている」と、指摘した。これは確かに、現在のイスラエルによる暴虐な行動を前にした、米国での目立った変化といえよう。しかし、イスラエル批判が「反ユダヤ主義」と同一視されるような形で激しい社会的攻撃の対象となる事態が、米国で顕著に見られていることにも、また注意しておくべきであろう。その一例が、パレスチナの現状に関する大学内での意見表明をめぐる最近の動きである。

 今月(2023年12月)5日、米国の連邦下院の教育・労働委員会で開かれた公聴会において、証人として出席した、ハーヴァード大、ペンシルヴァニア大、マサチューセッツ工科大の学長に対して、共和党のエリーゼ・ステファニク議員(トランプ派として知られる)が、「ユダヤ人のジェノサイドを呼びかけることは、あなた方の大学では、いじめやハラスメントを禁止する学則違反に該当するか」と、質問した。ここで、「ユダヤ人のジェノサイドを呼びかけること」と表現されている対象は、各大学の学生の間で盛り上がったイスラエル批判の運動のなかで、パレスチナ人によるインティファーダ(反イスラエル蜂起)が鼓吹されたりしていることなどを指していた。それに対して、ペンシルヴァニア大のエリザベス・マギル学長は、「文脈による」と答え、他の学長たちも同じような回答を行った。

 学長たちのこうした発言に対し、「ユダヤ人のジェノサイド」への呼びかけを完全に非難しなかったことは反ユダヤ主義的であるとの批判が生じた。そして、ペンシルヴァニア大学では、多額の寄付をしていた人物が寄付金を引き上げ、ユダヤ系学生が同大学はユダヤ人に対する憎悪、差別の温床と化していると訴えるといった事態が展開することになり、そうした動きを前に、マギル学長が、12月9日に学長を辞任すると表明せざるをえなくなったのである。他の学長たちは職にとどまっているが、こうした「反ユダヤ主義」批判がこれからも米国の大学キャンパスでさらに激化することが予想される。

 この状況をめぐり筆者が考えていることを、以下で簡単に述べてみたい。

 問題は、イスラエル批判、イスラエルの行為に対する非難が、反ユダヤ主義と同一視されるという点である。イスラエルがユダヤ人によって作られたことはいうまでもない。イスラエルにはユダヤ人以外の人々も多く居住しており、ユダヤ人国家と言い切ってしまうことは厳密にはできないものの、とりあえずそう呼んでおこう。そうであるとしても、イスラエル政府、イスラエル軍がパレスチナ人に対して現在行っている(そしてこれまで長年行ってきた)非人道的残虐行為、国際法違反行為を批判することが、ユダヤ人差別や反ユダヤ主義とそのまま重なるわけではない。にもかかわらず、その同一視がまかり通っているのである。

 その要因の一つとして、反ユダヤ主義に関する国際的なある定義を紹介しておこう。それは、2016年に国際ホロコースト記憶連盟(International Holocaust Remembrance Alliance: IHRA)という政府間組織(日本は非加盟)が下した定義である。それは、「反ユダヤ主義はユダヤ人についての一観念であり、それはユダヤ人に対する憎しみと表現できる」と一般的に規定した上で、11の具体的例を挙げている。そこに、ユダヤ人の殺害を求めたり正当化したりすることとならんで、「イスラエル国家の存在を人種主義的営為と主張」したり「現在のイスラエルの政策をナチスの政策と比較」することが挙げられているのである。この定義は法的な力をもつものではないが、米国政府とEU諸国の大半はそれを受け入れる姿勢を示し、2019年には米国のトランプ大統領が、この定義による反ユダヤ主義から学生が守られていない大学に連邦政府が資金を提供することをやめる旨の行政命令に署名した(Masha Gessen, “In the Shadow of the Holocaust“, The New Yorker Daily, Online, 2013.12.9)。この定義に対しては当然批判も起こり、2020年には研究者たちが、イスラエル批判の言辞と反ユダヤ主義的言動とを区別することを例示した「エルサレム宣言」を出したものの、IHRAの定義は国際的な影響力を持ちつづけている。

 IHRAのこの定義については、イスラエルの政策とナチスの政策の比較という論点に着目する必要があろう。ここでいうナチスの政策が、ユダヤ人の大量虐殺を中心とするホロコースト(その犠牲者はユダヤ人だけではなく、シンティ、ロマなども含まれていたが)であることは、いうまでもない。ハマスによる10月7日のイスラエル攻撃への反撃、人質の解放という名目のもとで、女性、子供の大量殺戮を伴いながら進められているイスラエルによるガザでの戦争は、ガザのパレスチナ人の根絶(肉体的抹殺だけでなく、住む土地からの根こそぎの追放をも指す)を狙うもので、まずはユダヤ人の国外追放(マダガスカルなどが追放先として考えられた)を、さらにはその肉体的抹殺をめざしたナチスの政策をまさに思い起こさせるものであるが、この定義はそうした歴史的想起を禁じているのである。本特集の1「ハマースのアル・カッサーム部隊のイスラエル軍事侵攻を検証する」の末尾で、藤田進氏は、ユダヤ系ポーランド人で強制収容所生還者の両親をもつガザ経済史研究者サラ・ロイ氏が、イスラエルによる2009年のガザ空爆直後に、「ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが、なぜこんなことをできるのか」と述べたことを、紹介しているが、IHRAの定義は、問題の核心をつくこのような問いを封殺するものでしかない。

 IHRAによる反ユダヤ主義の定義では、ナチスによるホロコーストとイスラエル政府・軍の対パレスチナ人政策との比較可能性が否定されているが、ホロコーストと世界史上の他の虐殺行為が比較可能であるかどうかという問題は、1980年代にドイツで展開された「歴史家論争」以来、しばしば提起されてきた。そのなかで、ホロコーストが規模や残虐さの面で格段に重い意味をもっていたとしても、それは決して他の虐殺との比較を拒むものではないことが、認識されるようになってきている。ホロコーストを念頭に置いて考え出されたジェノサイドという概念が、世界現代史のさまざまなケースについて検討されていることは、その点を示している。前述したステファニク議員の質問がジェノサイドという言葉を用いていること自体も、逆説的ではあるがその証左といえよう。ジェノサイドという概念の適用可能性をも含めて、イスラエル政府・軍のガザにおける現在の行動がどのようなものか考えていくためには、ナチスの政策との比較を含む歴史的な眼が求められるのである。

(「世界史の眼」2023.12 特集号6)

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米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向
油井大三郎

 2023年10月23日、バイデン大統領はイスラエルを訪問し、ハマスによるイスラエル攻撃を2001年9月11日の同時多発テロ事件になぞらえて、イスラエル人の怒りの感情に理解を示しながら、こう語った。「私は警告する。怒りを感じても、それに飲まれてはいけない。9.11の後、我々は激高した。正義を求めて、それを実現した。だが同時に過ちも犯した」と(『朝日』10月23日号)。

 第二次世界大戦後の米国は、一貫してイスラエルを支持してきたが、イスラエルにネタニヤフ政権のような右翼政権が成立し、パレスチナ人地区への侵攻が繰り返されるようになると、少しずつ批判の姿勢を見せ始めている。特に、イスラエルによるガザへの報復攻撃が激化するにつれ、イスラエル支持の世論が減少し始めている。例えば、PBSなどの世論調査でイスラエルが「やり過ぎ」とした意見は、10月11日時点では26%であったが、11月6-9日時点になると、38%に増加していた。

 11月25-26日のニューヨーク・タイムズの世論調査で、全体の平均では親イスラエルが38%、親パレスチナが11%、同等が28%であったのに対して、自分を「大変リベラル」と考える人では、親イスラエルが16%、親パレスチナが32%、同等が35%となった。つまり、革新的なグループの間では親パレスチナが親イスラエルの倍を記録するに至っている。

 このような動きは、イスラエルがガザに報復爆撃をした直後に、「平和のためのユダヤ人の声」などの団体が呼び掛けて「ガザでの虐殺停止」を要求するデモが連邦議会内で行われ、300人が逮捕された事件にも表れている。このデモに参加したナオミ・クラインは、イスラエルがナチによるジェノサイドの恐怖を利用して、現在の虐殺を試みていると非難し、「我々はこのような形で反ユダヤ主義の恐怖を操作することを許さない」と宣言した(The Guardian, October 19, 2023)。

 米国では、イスラエルを批判すると、すぐ「反ユダヤ主義者」のレッテルが貼られ、それ以上の批判が封印される傾向がずっと続いてきたが、近年、シオニズムに反対するユダヤ系知識人の台頭が目立つようになっている。その代表格が、2007年に『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(邦訳も2007年刊)を出版したジョン・J・ミヤシャイマーとスティーヴン・M・ウォルトであった。この本では、米国のイスラエル・ロビーがイスラエルを無条件で支持するように米国政府に圧力をかけて来たとした上で、「こうした米国の外交政策は米国の国益に適っていない。それどころか、イスラエルの長期的な利益も損なう」(上巻、p.4)と主張した。

 彼らが特に米国の利益を損なった例として挙げたのは、9.11事件以来の「対テロ戦争」の一環として2003年3月に始まったイラク戦争であった。この戦争の開戦理由として当時のブッシュ(子)政権があげたのがフセイン政権が大量破壊兵器を保有しており、それがテロリストに渡るのを防ぐ必要性であった。しかし、実際に開戦後、フセイン政権が打倒され、米軍がイラクを隈なく探したが、大量破壊兵器は発見されなかった。

 つまり、ブッシュ政権は「がせネタ」に踊らされて、国連安全保障理事会の同意も得られないまま、開戦したこと、その結果、長期にわたるイラク占領で、米兵にも多数の犠牲者をだすことになったのであった。当然、米国の議会ではこの「がせネタ」を誰が流したのか、追求したが、この本の著者はそれがイスラエル政権から流され、米国のイスラエル・ロビーがブッシュ政権の開戦決断に重大な影響を及ぼしたと主張した(下巻、p.71)。

 例えば、開戦1年前の2002年4月中旬、ネタニヤフ・イスラエル元首相がワシントンを訪問し、米国の上院議員や『ワシントン・ポスト』の編集委員と会談し、こう語ったという。「サダム・フセイン大統領は核兵器を開発中である。その核兵器は、スーツケースや小型かばんに入れて運ぶことができるものだ。もちろん米国本土にも運び入れることができる」と(下巻、p.79)。また、当時イスラエルの外相だったシモン・ペレスはCNNの番組に出演しこう語った。「サダム・フセインはビン・ラディンと同じくらい危険です。米国はフセインが核兵器を開発しているのに、ただ座ってそれを見物しているべきではないのです」と(下巻、p.79)。

 当時のブッシュ政権では、副大統領のチェイニー、国防長官のラムズフェルトら「ネオコン」と呼ばれた保守派の対外干渉主義者が政権の中枢を占めていた。このネオコン・グループは、1997年に2000年の大統領選挙で共和党政権を奪還すべく結成された「新アメリカの世紀プロジェクト」に起源をもっていた。このグループの中には、ノーマン・ポドレッツのような保守化したユダヤ系の知識人も参加していた(拙著『好戦の共和国 アメリカ』。pp.265-6)。

 米国におけるユダヤ系移民の多くは19世紀末に東欧やロシアから移民し、大都市の不熟練労働者として、民主党を支持する傾向が強かった。しかし、1980年代になると、富裕化して共和党に鞍替えするものが出始め、イスラエルを無条件で支持する「保守的国際主義」の主張を展開するようになった。それでも、過去の差別やホロコーストの体験から現在でも革新的な立場を維持しているユダヤ系も多く、彼らは民主党左派に影響力を維持している。

 その民主党ではイスラエルのガザ侵攻が激化する中で、4分3が停戦を支持するようになっており、即時停戦を求める決議が40人の民主党議員によって提案されたという(『朝日』12月5日)。他方、共和党の中にはトランプ前大統領の影響を受けて「アメリカ・ファースト」の動きが出て、イスラエルへの軍事援助が減額される可能性もある。そうなると、従来のように米国政府が無条件にイスラエルを支持し続ける政策に転機が訪れる可能性もある。今後の米国世論や政府の動向を注視する必要があるだろう。

(「世界史の眼」2023.12 特集号5)

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イスラエル軍ガザ攻撃60日目の今
藤田進

Israeli tanks surrounding the Al-Shifa Medical Complex in Gaza City. (Photo: via WAFA)

 11月14日深夜イスラエル軍は、ガザ北部のシファ病院地下にハマースの司令部があるとして突入に踏み切った。そして病院敷地内で地下トンネルの「入り口」を発見、武器も発見したと主張した。ハマースはこれらの情報についてイスラエル軍のでっち上げとした。病院は命を繋ぐ最後の砦であり、如何なる大義名分を掲げようとも決して侵されることが許されない。最大限の言葉で非難すると共に、この凄惨な事態を伝える情報の乏しさと偏りによって、パレスチナの人々の命を危機に晒す残虐行為が正当化されることの無きよう、現地の報道や情報を交え現状をお伝えしたい(藤田進)。

Ⅰ イスラエル軍によるシファ病院蹂躙の詳細

 シファ病院はガザ最大の総合病院であり、特に高度の技術水準の医師と最新医療設備を備えた外科・整形外科の存在はガザ住民にとりきわめて重要であり、年間3万2000件の手術(2022年)をこなしてきた(https://www.aljazeera.net/encyclopedia/2023/11/27)。ガザ自治政府広報部の発表によれば、イスラエル軍封鎖当時シファ病院には約1500人の医師、約700人の患者、新生児39人、さらに家を失い安全を求めて避難してきた人々が約7000人いた。

 11月14日深夜イスラエル軍がシファ病院に突入した。翌15日の衛星テレビのアル・ジャジーラのインタビューで、ガザ病院連合会長のムハンマド・ザクート氏は病院の窮状について次のように語った。

 「シファ病院はイスラエル軍突入の数日前から戦車で包囲されており、電力も燃料も断ち切られた中で集中治療室の患者と新生児の多くが死亡した。イスラエル軍はイスラムの戒律に基いて死者を弔い埋葬することを禁じ、病院当局はやむなく昨日14日に100人の犠牲者の遺体を病院の構内に集団埋葬した」。

 「イスラエル軍突入時、病院構内にはパレスチナ人コマンドもイスラエルの人質も見当たらず、軍は一発の銃弾も浴びなかったにもかかわらず、建物の通路から出てくる人々を銃撃した。」

 「イスラエルはシファ病院にハマースの軍司令部があると主張したが、ハマースはこの主張を全面的に否定し、国連調査委員会にことの真相をあきらかにするよう要求していた。」

 「イスラエル占領軍は自軍兵士が病院内へ突入すれば勝利は自分たちのものだと判断し、15日の明け方緊急治療棟と外科病棟の二つの建物に突入した。しかしハマース軍の存在を示すようなものは何も発見できなかった。病院内に閉じ込められた患者、患者の付添人、医師たちは院内を移動することも禁止されて10時間にわたる取り調べを受け、取り調べは今も続いている。」

 「新生児が看護、保育器、薬を欠いて特に危険な状態にあり、我々ガザの医師団はイスラエル軍に発電用燃料を病院に緊急に供給して欲しいと訴えたが、占領軍はその要求を拒否した。」

 「エジプト側のラファ検問所を通って運ばれてくる医療支援物資は2週間前から全くガザ市に届いておらず、我々は患者たちのエジプトへの移送を強く求めている。」https://www.alijazeera.net/news/2023/11/15

 11月18日、シファ病院を占拠しているイスラエル軍はムハンマド・アブー・サルミーヤ病院長に病院を明け渡すよう通告した。院長はこれまでに通告を何度か拒否してきたが、ついに数百人の患者と避難者たちをガザ南部の他の病院へ移し、また数十人の新生児を安全地帯へ緊急移送する措置を講じた(https://www.alijazeera.net/news/2023/11/27)。

Ⅱ WHOのシファ病院惨状視察報告

 患者、避難民、医師団のほとんどが病院から立ち退かされたあと、世界保険機関(WHO)などの専門家チームがシファ病院の惨状視察に訪れた。イスラエル軍の許可をえて1時間だけ病院内に入ったWHOは記者会見でシファ病院を『死の地帯』と表現し、病院の惨状について次のように発表した。

 「病院にはイスラエル軍の爆撃や銃撃の弾痕跡が多く認められ、病院の入り口付近の敷地は集団埋葬地となっており、80人以上の遺体が埋葬されているとのことである。」

 「院内には25人の医療スタッフと291人の患者しか残っておらず、病院から強制退去させられるときに数人の患者が死亡している。換気装置が止まった集中治療室の2人の患者と人工透析機がかろうじて動いている22人の患者は極めて危険な状態にある。重度の骨折状態の患者29人は医療介護者を欠いて動くこともできない状態にあった。心的外傷患者の多くが伝染予防措置や抗生物質の欠如により感染症を患っていた。新生未熟児31人は無事にガザ南部のラファの病院に搬送された。」

 WHOはシファ病院の患者、医療スタッフ、さらにはガザ北部で部分的医療業務を続けている病院に取り残されている人々の安全と健康状態について重大な危惧を表明した。

 最後にWHOは病院とハマース軍事拠点との関連についても触れ、「シファ病院の医師たちは病院内にいるのは一般市民だけでコマンドの姿は見たことがないと語っていた。我々も、病院がハマース軍事本部として使われていたとする根拠を見いだすことはできなかった」と述べた。

 WHOは、ガザにおける人道にもとる大破滅を阻止するために即時停戦ととぎれることのない人道支援にむけて全世界が一致して取り組むよう訴えた(https://www.palestinechronicle.com/al-shifa-hospital-was-turned-into-who)。

Ⅲ イスラエル軍の「病院地下のハマース軍事指令部」説の破綻

 11月16日、シファ病院捜索中のイスラエル占領軍のダニエル・ハガル報道官が「病院にハマースの地下トンネルと武器・秘密情報機材等を発見した」と発表した。しかしこの主張がハマースの全面否定や先のWHOのコメントが指摘するように物証不足で説得力を欠く中、11月23日のアメリカ衛星テレビCNNのインタビューで、元イスラエル軍司令官でイスラエル首相も務めたエフード・バラク氏が「イスラエルはガザを占領していた40~50年前にシファ病院の地下に避難所を作り、地下トンネルもそのときに掘った」と証言し(https://www.aljazeera.net/politics/2023/11/23)、イスラエル側の「ハマースの築いた地下トンネル」説は決定的に破綻した。イスラエルが「テロリストのハマースの軍事拠点」を発見して「ガザ侵略戦争」を正当化しようと企てた情報戦略は、多方面からの証言や情報により信憑性は揺らぎ、イスラエル軍はガザ住民への残虐行為を繰り返しているに過ぎないという現状が浮き彫りとなった。

 イスラエルとハマースは人質交換とガザへの緊急支援物資搬入のため、11月24日から4日間(その後3日間延長)の停戦協定を結んだ。しかし停戦期間4日目の11月27日、ガザ自治政府保険省スポークスマンのアシュラフ・アルキドラ氏がガザ北部の医療システム崩壊状況を次のように明らかにした。

 「イスラエル占領軍はガザ北部の病院組織を破壊して同地域から住民をガザ南部へ立ち退かせようとしており、医師・看護士たちも一緒に追い立ててその多くを死傷させようとしている。救急車は60台以上が破壊され、医療関係施設は160か所が爆撃されて28の病院は医療活動不能となり、応急措置を施す医療センター63か所も破壊された。」

 「イスラエル・ハマース停戦協定発効直後にガザに搬入された医療物資は必要量より少く、しかも遺憾なことにガザ北部の病院には全く届かなかった。停戦協定期間中もイスラエル軍の病院弾圧は続いており、ガザの医療状態の悪化は極限まできている。ガザの保険組織を保護する役割を担っている国連諸機関は全くその任を果たしていない。医療必需品が十分供給されぬままガザの医療システムは刻々崩壊しつつある。」(The Palestine Information Center,2023 November 27  https://palinfo.com/864355

Ⅳ 停戦期間打ち切り後のハマース政治局員サーレフ・アルアルーリーの声明

 12月1日ドーハで行き詰まった人質交換交渉決裂後、イスラエル軍はガザ報復攻撃を再開し1日で200名以上のパレスチナ人を殺害した。2日夕方、ハマース政治局員のサーレフ・アルアルーリーが次の様なメッセージをアル・ジャジーラ・ネットとのインタビューで表明した。

  1. 「ハマースは最初から外国人の人質は無条件で解放し、また子どもと女性も人質対象でないので解放することにしていた。いま我々のもとにいる人質はイスラエル人の兵士と元軍人だけである。イスラエルが兵士の人質解放交渉を途中で拒否したのは、女性や子供を殺害し続けることによって我々を屈服させようと考えているからである。だがもはや我々は、イスラエルが敵対戦争を終了するまで人質解放交渉に応じるつもりはない。これが我々の公的で最終的な立場である。」
  2. 「イスラエル軍はガザ攻撃に陸軍の3分の1、空軍の3分の1以上を動員したが、その軍事力は数か国を完全に打ち敗れるほど強力である。しかしイスラエルはその軍事力を駆使して50日もかけながら、ガザ北部の3分の1の侵略にとどまりしかも我々の抵抗にあって同地域を完全掌握できないままである。そしてイスラエルが軍事力でハマース殲滅、人質奪還、ガザ占領を実現すると宣言したのを当初支持した国々も、今ではそれらの目的実現は困難だと確信するに至った。」

 そしてアルアルーリーは声明の最後で、イスラエルを断固支持するアメリカについて次の様に述べた。「アメリカは、パレスチナ人に対する数々の犯罪を隠ぺいし、それらの犯罪を様々な口実を設けて正当化し、またみずからも加担している。アメリカは犯罪性において、シオニスト国家イスラエルと同列である。パレスチナにおける戦闘の武器供与国であるアメリカは道徳的に完全に破綻しており、占領国家というよりはファシズム・ナチズム型国家である。」(引用はアル・ジャジーラ記事を掲載したパレスチナ情報センター12月2日ニュースからhttps://palinfo.com/news/2023/12/02/865255)

イスラエル空爆下の病院で懐中電灯で照らしながら負傷者を手当するパレス人医師(2023年11月10日、ガザ市のインドネシア病院)© 2023 Anas al-Shareef/Reuters (https://www.hrw.org/news/2023/11/14/gaza-unlawful-israeli-hospital-strikes-worsen-health-crisis
1948年5月イスラエル軍に村から集団追放されたパレスチナ人家族(ナクバ)(https://www.aljazeera.net/midan/reality/politics/2023/12/7/)
右2023年11月、イスラエル軍にガザ北部から追い出され南部に徒歩で向かうパレスチナ人家族(ナクバ再来の恐怖)
(https://palinfo.com/?p=861054)

投稿日: 2023年12月7日

(「世界史の眼」2023.12 特集号4)

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小山田紀子・吉澤文寿・W.ブリュイエール・オステル編『植民地化・脱植民地化の比較史―フランス・アルジェリアと日本・朝鮮関係を中心に』藤原書店 2023年
南塚信吾

 本書は、フランスのアルジェリア植民地支配と日本の朝鮮植民地支配になんらかの形で関係する研究をしている歴史家たちが、「植民地化・脱植民地化の比較史」を目指して書いた論文を集めた論集である。

 表題から考えると、今日、日本と韓国・朝鮮との関係が「冷たい」のは、何が問題だったのだろう。世界のどこでも植民国と植民地との関係であったところでは、こうしたものなのだろうか。例えば、フランスとアルジェリアの関係はどうなのだろう。日本の朝鮮植民地化がフランスのアルジェリア植民地化とどう違うのだろう。朝鮮の脱植民地化への日本の関与と、フランスのアルジェリアの脱植民地化への関係とはどう違うのだろう。あるいは、きわめてよく似ているのか。こうした問題を念頭に置いてしまう。本書はそうした問題に直接的に答えるものではない。しかし、考えるヒントは与えてくれている。

 本書は必ずしも植民地化・脱植民地化の「比較」を徹底しているわけではないが、「比較」すべき論点はほぼすべて提供している。本書の構成は以下のようである。

Ⅰ 植民地化・植民地支配と民族運動・労働運動
Ⅱ 脱植民地化の過程
Ⅲ 独立/解放後の政治と経済
Ⅳ 人の移動と被植民者(移民)の地位
Ⅴ フランス・アルジェリア・日本関係から見たグローバル・ヒストリー
Ⅵ 植民地と文学
Ⅶ 「記憶の戦争」と植民地責任論

 この目次からは直接的には見えてこないが、「比較」すべき論点として、「植民地戦争」というとらえ方、植民地支配と在地権力の関係、反植民地抵抗運動、植民地の民衆の眼から見た植民観、「植民地責任」の問題、脱植民地のもとでの社会主義と新自由主義の役割、脱植民地後の人の移動、旧植民地から来た人たちの法的地位・二重国籍の問題、引揚者による「歴史の記憶」「記憶の戦争」という問題、旧植民地出身者の内部対立、植民地史教育など、実に多様なものが提起されている。

 ここでは、評者の視点から、「比較」のポイントを四つだけ拾い挙げて、それに本書がどのように答えようとしているのかを探ってみたい。

 まず「植民地化」についてであるが、第一に、「植民地戦争」という捉えかたが提起されている。「植民地戦争」という見方は、植民地から見れば「植民地支配」=平時と「戦争」=戦時とは分離できず密接に結びついているのであり、これらを一体として考えるべきであるというものである。そしてこれは、日本の朝鮮支配について有効な見方だと主張されている。「韓国併合」後の「植民地支配」下での個々の抑圧・軍事的暴力からアジア太平洋戦争下での大陸膨張までを、全体として植民地戦争と捉えるべきであるというわけである(槇論文)。では、フランスのアルジェリア支配はどうなのかという問題が当然出てくる。本書では、1961年のアルジェリア解放戦争での異議申し立て運動などが論じられているが、アルジェリア戦争は植民地戦争とみるとどういう視野が開けてくるのだろうか。おそらく1830年のフランスのアルジェリア進出からの支配が全体として論じられることになるのだろう。

 第二に、植民地支配についての民衆の眼という視角が提起されている。日本の朝鮮支配の時期の民衆レベルでの日本観、日帝支配観が論じられている。朝鮮民衆にとって、「文明開化なんて、たいしたものじゃない。一言でいうと、人殺しの道具が上等だってことと、ひとさまの持ち物をかっさらうのが文明開化じゃないか」、「昔はわれわれの前にひざまずいていた倭奴たちが、俺たちの喪服をまねて自分たちの着物を作った・・・」のだと受け取られていた。だが、では日本人とは何なのか。「日本人に民族主義など存在しない。あるとしても希薄で、軍国主義と皇道主義が本筋だ。」結局、日本人は天皇という現人神を崇拝する人間だということだと考える。そして朝鮮民衆の抵抗意識の頂点にあるのは、日本人の現人神崇拝への批判とそれを押し付けられることへの抵抗であったという(申銀珠論文)。植民者の精神構造への抵抗こそが、反植民地抵抗運動なのである。では、アルジェリアの民衆の眼から見たフランス観はどうか。

 第三に、在地権力の問題がある。これは幕末の駐日公使レオン・ロッシュの研究として提起されている。ロッシュの個人史は興味深いが、「植民地化」の比較の中では、どのように扱うべきであろうか。小山田は、フランスが植民地帝国と発展していく過程で、フランスは北アフリカのマグレブの支配のために在地権力を利用しようとし、同じく日本でも日本をフランスの経済圏に引き込むために在地の幕府権力を利用しようとしたというところに意味を見出している。つまり、自由主義帝国主義のために「植民地」「反植民地」にどういう政策で入り込むかという問題への一つの答をここに見ているのである。日本が韓国の在地権力をどのように利用したか、それとの比較がされていくと、議論が広がるのではないだろうか。

 次に「脱植民地化」についてみてみよう。

 第一に、「植民地責任」の問題がある。「植民地支配」と「戦争」とを全体としてとらえる「植民地戦争」という視角は「植民地支配責任」につながる。1910年の韓国併合とその後の韓国支配を合法的な植民地支配と捉え、第二次世界大戦期の「慰安婦問題」などと切り離して、「慰安婦問題」の実在性を問おうという日本政府の姿勢に対し、日露戦争期の抗日義兵闘争以来の対日「植民地戦争」という見方は、第二次世界大戦期までの「植民地支配」の責任を問うのである(吉澤論文)。日本は朝鮮への植民地責任を回避し、それを解決済みと称し、問題を太平洋戦争中の「慰安婦問題」に集約しているというわけである。では、フランスのアルジェリアへの植民地責任についてはどうなっているのだろう。これが比較されるとよかった。

 第二に、「脱植民地化」のもとで採用された社会主義と新自由主義の問題が提起されている。アルジェリアでは、独立後1960-70年代にベン・ベラおよびブーメディエンのもとで社会主義政策がとられたが、資源依存経済は脱却できず、工業化も前進しなかった。80年代前半には原油価格の高値に支えられて経済は好調であったが、後半には価格が下がり、経済困難に陥った。そこで採用されたのが新自由主義のための「構造調整」政策であった。農地を含む民営化、市場化が実施された。しかし、これは食糧問題、失業、住宅問題などを引き起こし、新自由主義政権を批判する抗議デモが各地で起きた。そして、2019年には民衆的平和的・非暴力的抗議運動ヒラクが起きて、ついに政権を倒壊させた。この「市民革命」は、諸個人の自発性に基づき、多様性と協調を基調とし、自由と平等を主張するものであった。それは新自由主義的グローバル化時代における民衆運動の発現形態であるとされる。とすれば、それは世界の他の地域でもあり得る運動であった(福田論文、渡辺論文)。それは韓国ではどうであったか。脱植民地化が南北朝鮮の動きとして南北を同時に視野にいれて考察されていて興味深い。ただ、「脱冷戦」期の南北朝鮮の動きも、新自由主義との関係で論じられていれば、「比較」が実り多いものになったように思われる。

 最後に「比較」史とグローバル・ヒストリーの関係について問題提起を行った短い論稿がある。ここでは、地理的にも時代的にも離れた二つの植民地化・脱植民地化の「比較」は、グローバル・ヒストリーの中に位置づけられなければ、意味をなさないのではないかという問いが発せられている。その問いに対して、本章は、必ずしも十分な解答を与えているわけではないが、いくつかの可能性を示唆している。その一つは、帝国主義的アプローチをする歴史学の刷新であるという。つまり、「ある国家が軍事的手段によって領土を支配することをどのように設定し正当化するのかという帝国構築のプロセス、またそれによって引き起こされる暴力を理解すること、そして古い行政機関を消滅させ、新しい植民地行政機関を構築する論理を問う」ことを比較しあえるというのである。

 この書評では、比較研究のすべての論点を扱うことはできなかったが、今回の日本・朝鮮、フランス・アルジェリアの「植民地化・脱植民地化」の比較研究が、地球的規模で展開され、さらには、植民地化・脱植民地化の研究全体にどのような新たな視角を提供するのだろうか、見守りたいものである。世界史を考えるうえで重要な諸問題を投げかける一書である。

(「世界史の眼」No.45)

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イスラエル軍ガザ攻撃47日目の今
藤田進

 10月7日占領地・ガザを発進したパレスチナ民族組織ハマースのアル・カッサーム部隊が占領本国イスラエルを急襲したのを機に、ガザ北部を占領しようとするイスラエルは「テロリストのハマース殲滅」を口実に、隔離壁で封鎖された中で230万住民が暮らしている南北ガザに徹底的空爆・砲撃を加えた。ライフラインは断ち切られ逃げ場のない中で、南部への退去を勧告された北部住民の多くは動かなかった。イスラエル軍はハマースの抵抗激化に直面するなかで11月10日、多くの患者・避難者を抱えて立ち退きを拒否する病院を集中的に攻撃しだした。イスラエル軍は「ハマースの地下トンネルの捜索」を口実に施設の一部を爆破後シファ病院に突入し、患者、医療スタッフ、避難していた数千人の人びとを尋問したあと病院から追い出した。ガザ封鎖で電動保育器が使えず瀕死状態となった新生児8人が死亡し、31人はエジプトの病院へ搬送されてかろうじて助かった。インドネシア病院内では軍隊の発砲で少なくとも12人が殺された。ガザに31ある病院のうち少なくとも21は完全に医療崩壊となり、他の病院も甚大な破壊を被ったうえ薬と医療品の決定的不足状態に陥った。イスラエル軍攻撃によるガザ住民の犠牲は11月22日夕方時点で、死者1万4128人(子供が5840人、女性3920人)に達した。(以上はAl Jazeera net 20 Nov 2023 by Urooba Jamal https://www.aljazeera.com/features/2023/11/20

 だがガザのイスラエル軍もハマースの至近距離からのゲリラ攻撃によって大きな犠牲を強いられており、イスラエル軍発表では10月27日地上軍侵攻後11月22日までのイスラエル軍戦死者は72名、10月7日以降の戦死者合計は将校59名、兵士392名に達したが、ハマース軍関係者によれば実際はもっとはるかに多いという(パレスチナ情報センター2023年11月23日報道、https://palinfo.com/?p=863621)。

 11月11日のパレスチナ自治区ガザの医療状況に関する国連安保理事会で、多くの国はイスラエルによる病院への攻撃を国際人道法違反だと批判し、ガザ攻撃の即刻停止を求めた。しかし安保理常任理事国のアメリカはハマースのテロを非難、ガザ攻撃はイスラエルの自衛権だとし、攻撃の即刻停止に賛成しなかった。だが国連憲章51条の「占領した領域において自衛権は発しない」に照らせば、この占領地であるガザにおいて「イスラエルの自衛権」を行使することはできないのである。つまり米拒否権発動自体が国際法を無視した、自国の利益に誘導するものなのである。

 時を同じくしてイスラエルの有力紙「ハーレツ」が、米輸送機40機以上と英輸送機20機ならびに大型輸送ヘリコプター7機が軍事機器・武器・兵員をイスラエルに運び入れたと報じている。(Matt Kennard and Mark Curtis,‘U.S.Military Is Secretly Supplying Weapons to Israel Using UK Base on Cyprus’ in DECLASSIFIED UK, 17 November 2023[https://www.declassifieduk.org/])2つの大国が一つの占領地であるガザにこれら軍事支援をする意味は一体何故なのか。ガザの沖合には豊富な天然ガスが眠っていることを知らないはずがない。

(「世界史の眼」2023.11 特集号3)

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「ユダヤ人国家」イスラエルはどのように実現したのか
―分割され奪われ続けるパレスチナ (1)―
藤田進

 私たちが現時点で目にする惨事はテロを絶対的な悪とする論調により伝えられていることを目にする。しかしこの惨事はただテロという視点だけで語られる事態ではない。イスラエル建国から現在に至るまで圧倒的な抑圧と暴挙の歴史があり、ガザに住まう全ての人々にはそのような悲惨な時が積み重ねられてきたことを見ていく必要がある。

 イスラエルは1949年に国連に加盟して以来、遵守しなければならない国際法と人権規約に違反して占領と抑圧を続けてきた。法に基づいた秩序と平和を維持する責務を負っている国際社会が黙認し、イスラエルはアメリカをはじめ英・仏・独など西側主要国の支持を得て圧倒的な軍事力を背景に暴政の限りを尽くしてきた。

 建国直後から領土拡大をめざしたイスラエルは、1948年第一次中東戦争、1955年第二次中東戦争、1967年第三次中東戦争ごとにアラブ領土を占領し、停戦後は占領地撤退を定めている国際法に違反して76年間にわたり占領地を自国領土に取り込み続けてきた。

 イスラエルは2007年以来占領地ガザを16年間封鎖して「天井のない牢獄」の状態に追いやり、住民200万人(2023年230万人)を閉じ込め、医薬品、食料、その他多くの必需品の搬入を禁止した。ガザ完全封鎖とイスラエル空爆は、2008年暮れ-9年初頭の22日間に1400人、2012年11月の8日間に140人余り、2014年7-8月の51日間に2200人余り、2021年5月の15日間に256人のパレスチナ人を虐殺した。

 筆者はパレスチナの地図に沿った「ユダヤ人国家」イスラエルの実現過程を、今回は①②について検討する。

出典:藤田進『蘇るパレスチナ/東大出版1987年』より引用

1 英パレスチナ委任統治とユダヤ人入植(地図①参照)

 第一次世界大戦中のイギリスは、大英帝国航路が通過するスエズ運河と東地中海の防衛の要であるパレスチナを何としても掌中に収めたかった。そこで注目したのが、19世紀末からユダヤ人財閥のロスチャイルド家に支えられてパレスチナでユダヤ移民の入植と入植地建設に取り組んでいるシオニズム運動である。パレスチナ軍事占領を目前にした1917年、英外相バルフォアはシオニストとの間に「パレスチナにおいてユダヤ人の民族的郷土の建設を認める」と約束した「バルフォア宣言」に調印し、シオニズムを利用してパレスチナをイギリス植民地として開発することに着手した。

 1920年、英パレスチナ委任統治がスタートした。英パレスチナ委任統治は、国際連盟が「パレスチナを文明化する」役割をイギリスに任せるという形をとった植民地統治であり、「英パレスチナ委任統治協定」第六条によって、「非ユダヤ住民(ムスリムやキリスト教徒のアラブ住民―藤田)の平和・繁栄を実現し彼らの権利・利益を尊重する」ことをイギリスに義務づけていた。しかし委任統治政府初代高等弁務官のハーバード・サミュエルは熱烈なシオニストであり、バルフォア宣言に基づいてユダヤ移民の入植と土地取得を積極的に支援する反面アラブ住民側には厳しく接し、その圧政ぶりは次のように記録されている。

 「高等弁務官は『第一次世界大戦で村々は破壊され、国内は貧しさと閉塞の空気に満ちている』と指摘しながら何の打開策も講じなかった。疲弊したアラブ農民の負担能力を超えた苛酷な税を課し、その一方で安い価格の穀物を大量に輸入して国内作物の価格暴落を招いた上に作物の海外輸出を禁止した。行き詰まった農民は納税のため土地を売るしかなく、ユダヤ人は土地を安値で手に入れた。また政府は旧オスマン帝国銀行の債務取り立てを引き継いで農民に厳しく返済を迫り、その結果多くの土地が没収された……。アラブ住民は、委任統治政府の不当な政策により生活の糧を奪われる危険に陥ったことを痛感している」(Al-Huseinī,Jamāl, Radd al-Lajnati al-Tanfīdhīyah alā Mulāhazāti al-Mandūbi. 1924、140)。

 ところでユダヤ人入植者は、何故アラブ住民に対し敵対心を剥き出しにしていったのだろうか。ここで一つ言っておきたいのは、ユダヤ人入植者が入ってくる前に、このアラブの地に住まうユダヤ人は既におり、異教徒の隣人として共存していたのである。しかしロスチャイルドの支援を受けたユダヤ人入植者たちはその圧倒的財力を持ってアラブの地に、突如として近代的で立派なヨーロッパ調の街を築いていったのである。その流れのなかでユダヤ人入植者はアラブを自分たちより劣る野蛮な人々とし、それらは取り除くべき存在として敵視していく。それが表面化したのが、いわゆる「嘆きの壁事件」である。1929年8月23日金曜日、聖地エルサレム聖域ハラム・シェリーフでユダヤ人入植者に占拠されそうだとの危機感から、集団礼拝を終えたアラブ・ムスリム群衆によるユダヤ人襲撃が発生した。これを契機にユダヤ人は「旧約聖書に記された約束の地、自分たちの土地を守る」ためとし武装した入植地自警団(ハガナ、後に独立後のイスラエル正規軍)を組織し、より一層アラブ住民の排斥を強行していくとこととなるのである。

 1930年代初頭土地を奪われ追いつめられていくアラブ住民がユダヤ人入植と土地購入の禁止を求める抗議運動を起こすと、イギリスは武力弾圧で臨み、さらに抗議運動がアラブ大反乱(一九三六―三九年)となってパレスチナ全土におよんだ。

 パレスチナのアラブ紙「フィラスティーン」1936年6月17日付に載った漫画は、英委任統治下のパレスチナに暮らすアラブ住民が困窮しアラブ大反乱につながっていった過程を描き出している。

 漫画は数字に沿って次の様に説明している。①英外相バルフォアが、ユダヤ人に与えたバルフォア宣言(1917年)は、②ユダヤ人入植者をパレスチナにもたらした。英委任統治政府(1920年以降)は、ユダヤ人側にパレスチナ開発特許状を与えて➂パレスチナ公共事業、⑤ヨルダン渓谷湿地帯の土地開発、⑥死海の天然資源開発、⑦ヨルダン川電源開発をまかせ、⑧貿易港とイラク石油からパイプラインで送られてくる石油精製基地を兼ねるハイファ港の完成にユダヤ移民の工業投資を奨励した。ユダヤ人によるパレスチナ近代化が進む一方、⓸アラブ農民は土地から追放されていった。⑨アラブの指導者たちはパレスチナがユダヤ人に奪われていくとなす術もなく口角泡を飛ばしているが、⑩軍人の高等弁務官ワークホープはずらりと軍隊を並べて威圧している。政府にユダヤ人の移民・土地獲得を制限する意思はなく、アラブ民衆の窮状は深まるばかりで打開の道はなく、その間にも国土は刻々とユダヤ人国家の様相を帯び、絶望感ばかりが息苦しい。漫画はそのようにアラブの現状を描いていた。

 その結果一九三〇年代初頭、土地を奪われ追いつめられていくアラブ住民がユダヤ人入植と土地購入の禁止を求める抗議運動を起こすと英高等弁務官はこれを武力弾圧した。さらに抗議運動はアラブ大反乱(一九三六―三九年)となってパレスチナ全土におよび、反乱鎮圧は困難となった。

2 「ユダヤ人国家建設予定地」とイギリスの中東石油開発(地図②参照)

 アラブの抗議運動がパレスチナ全土に広がってアラブ大反乱となり、これを軍事力で鎮圧できなくなったイギリスは1937年、「パレスチナ委任統治は困難になった」との「ピール報告」(The Peel Commission Report)を国際連盟に提出した。同報告なかに、パレスチナをアラブ・ユダヤ両地区に分断し、ユダヤ人入植者と入植地が集中している諸都市(聖地エルサレムとヤーファは除く)が集まった沿岸部からパレスチナ北部にかけての最も肥沃な地域を「ユダヤ人国家建設予定地」に指定して図示した地図(②地図参照)を挿し込んだ(この地図が47年国連「パレスチナ問題に関する特別委員会」(UNSCOP)の分割案作成の土台となった)。「ピール報告」に挿入された「ユダヤ人国家建設予定地」を書き込んだ「パレスチナ分割」図に激怒したアラブ大反乱は、武装ゲリラ闘争に姿を変え、「ユダヤ人国家建設予定地」のパレスチナ北部を通る石油パイプラインがしばしば爆破された。

 ところで、第一次世界大戦後石油が戦闘機・軍艦の燃料として重視され、イラン・ペルシャ湾岸が膨大な石油埋蔵地として一躍脚光を浴びることになった中東はヨーロッパ帝国主義列強の熾烈な領土争いにさらされてきた。第一次世界大戦後の中東は英仏二大帝国の支配地域となり、石油開発先頭に立ったのはイギリスであった。イギリスはイランにおける石油事業の一切をイギリス国営企業の「アングロ・イラン石油会社」(AIOC)に任せ、石油製品を英本国へ送り出した。またイラクなどイギリス支配下の石油開発事業は、イギリスをはじめ国際石油メジャーの共同出資による「イラク石油会社」(IPC)に一任した。IPCのキルクーク油田が生産を開始すると、原油は二本のパイプラインで英・仏支配下の地中海沿岸の精油所に送られ、石油製品となってヨーロッパへ積み出された。

 油田、精油所、積出港がパイプラインで有機的に結ばれた石油生産・輸送一体化のシステムの中に英・仏委任統治領を組み込む一方、中東全域をカバーする英軍事体制を築いたイギリスは、東アラブ全域におよぶ石油システムの支配者として君臨し、莫大な利益を手にした。イギリスは、ペルシャ湾岸産油地帯をヨーロッパへの最重要石油供給地として開発し、油田と東地中海の石油積出港を石油パイプラインで結んだことによって、パレスチナが位置する東地中海はヨーロッパへ向かう石油タンカーの重要航路となった。

 しかしアラブ大反乱が激化した1937年以降、パレスチナのハイファ港と結ぶ石油パイプラインがしばしば爆破されてIPC石油のヨーロッパへの供給が滞る由々しき事態がもちあがった。英パレスチナ委任統治政府のアラブ弾圧はIPC石油供給システムを脅かしたばかりか、パレスチナにおけるイギリスとシオニストに対する反発を全中東に行きわたらせる結果をもたらした。独・伊との第二次世界大戦戦争が間近に迫る中でアラブ大反乱に動揺したマクドナルド英政府は39年5月、急遽シオニズム支援策を中止してユダヤ新移民の入国とユダヤ人の土地購を禁止する決定(「1939年マクドナルド白書」)を下し、アラブ大反乱の終息と大戦中の反英運動の激化を回避する策を講じた。「ユダヤ人民族国家」建設運動へのイギリスの支援を突如失ったシオニズムの側は、大戦中ナチのユダヤ人絶滅政策を逃れたユダヤ難民の受け入れを拒否するイギリスに対して暴力テロ活動を強めていった。

(続く)

(「世界史の眼」2023.11 特集号3)

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ハマース政治局情報センターの緊急メッセージ
藤田進

 「ハマース殲滅」を口実とするイスラエル軍の病院爆破攻撃によってガザがジェノサイド(住民皆殺し)状態に陥ったいま、ハマース政治局情報センターがガザ住民の窮状を報告し占領軍攻撃即時停止を訴える緊急メッセージを次々と発信しています。そのメッセージの一部を以下にお伝えします。メディア報道では届かないイスラエル軍の蛮行の現実を受け止めて、パレスチナ人集団殺戮を狙う戦争阻止に向けたさまざまな取り組みをお願いいたします。またこの情報を多くの方々に拡散していただけると幸いです。(ニュース伝達者・藤田進)

2023年10月17日夜、イスラエル軍空爆後のアハリー・アラブ病院犠牲者遺体安置所

≪10月7日以降のイスラエル占領軍ガザ攻撃による死者は1万1320人に達した≫ (以下は本文の部分翻訳―藤田)

  • ガザ自治政府情報局11月14日発表によるガザの被害状況

・イスラエル軍ガザ攻撃開始以来の死者数:1万1320人(子供4650人、女性3145人)
・イスラエル占領軍による集団虐殺:1165人、
・瓦礫の下敷きになっている行方不明者3600人(子供1755人)、
・全壊住宅4万2000軒、半壊住宅22万3000軒(ガザ住宅の60%に相当)
・政府関係建物や公共施設の破壊95か所、学校破壊255校(校舎全壊65校)、モスク破壊72か所、モスク一部崩壊165か所、
・農作物被害額:1億8000万ドル、果樹園の樹木何千本が切り倒された、
・戦車・ブルドーザー等による農地破壊4万5千ドノム、
・畜産、養鶏、漁業は完全に破綻。

  • 11月14日、ガザ自治政府情報局報道官の記者会見における発言:

・「ガザの通信会社は、動力燃料枯渇を理由に11月16日(木)以降通信とインターネットのサービス業務を全面停止すると発表した。ガザはイスラエル占領軍によるあらたな犯罪に直面することになったいま、我々は全世界に向けて以下の諸点を訴える。」

  1. 我々は、イスラエル占領軍が民間人、女性、子供にたいしておかしている様々な組織的戦争犯罪の責任をイスラエル占領当局および国際社会とりわけ米国に対して問いただす。そしてまたイスラエルと協議し、占領軍による病院・住宅への空爆・ミサイル攻撃をはじめあらゆるレベルの攻撃を支援している国際社会を我々は強く糾弾する。
  2. 我々は世界の自由諸国に対して、犯罪的占領国家イスラエルとの関係を断ち切るとともに、この占領国家が空爆・砲撃ばかりかいかなる国際法・人権法にも抵触する残酷な映像やデマまで用いて企てている集団的破壊戦争を即時止めるよう圧力を加えるよう要請する。
  3. ガザの病院と各種救援センターへ支援物資と医療必需品を届けるために、ラファの通行路の恒常的開門を可及的速やかに実現するよう要求する。
  4. ガザの病院の新生児や入院患者が絶命状態に陥る前に、またすべての医療スタッフが治療看護活動を続けるために、病院の動力燃料を緊急に供給するよう要求する。
  5. イスラエル占領軍報道官名でのランティーシ―病院に関する発表(病院はハマースのテロ活動を支援しているとの報道―引用者)は虚であり、つじつまの合わない作り話であることを言明する。軍報道官の発表は、病院を破壊して患者、医療スタッフ、避難してきた人々を瓦礫の下敷きにする空爆が迫っているとの恐怖を抱かせて人々をガザから立ち退かせようとする神経戦の一環である。われわれは、ガザの病院に集まっている数万人の医療スタッフ、患者、避難してきている人々たちの生命の安全についてイスラエル占領軍が全面的責任を負わねばならないことを明確にしておく。
  6. ガザの通信・インターネット回線を遮断する発表によって、いかに危険な結果が生じるかを警告しておく。すなわちこの連絡回線の遮断によって、ガザ230万人の生命と住民の病院や住宅を日夜破壊しているイスラエル占領軍の戦争犯罪のすべてを覆い隠すことになり、さらに連絡が取れずに人的危機が一層悪化し、緊急救援隊、民間防衛隊、市町村のさまざまな救援活動も滞ることにつながる。以上のすべてのことは、世界的に当然とされている最低限の基本的人権にも反している。通信・インターネット回線の遮断は、全てを覆い隠して何が起きているのかわからない状態にするのが目的である。

出典「ガザ・パレスチナ情報センター」2023年11月14日報道(アラビア語))(https://palinfo.com/?p=862110

(「世界史の眼」2023.11 特集号2)

 

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ハマースのアル・カッサーム部隊のイスラエル軍事侵攻を検証する
藤田進

 イスラエル国防軍専門家筋は、占領地ガザでの軍事攻撃を「芝刈り」と呼んできた(Yolande Knell、Israel’s pain still raw a month after Hamas attacks、https://www.bbc.com/news/world-middle-east-67339008)。パレスチナ人は、1948年イスラエル建国以来76年間にわたる追放と迫害、16年にわたる「天井のない牢獄」と言われるガザ封鎖、イスラエルによる入植地拡大・占領で住む場所を奪われ、抗議すれば殺されるという凄まじい支配と抑圧の状況に置かれてきた。イスラム政治組織ハマース政治局のサーレフ・アル・アラーウィは「パレスチナ人が世界の諸民族と同じように、自らの国家をもち土地に根ざした生活をする権利を世界に認めてもらうには戦わねばない」と述べた。イスラエル軍がガザ一斉攻撃を開始するとの情報を得たハマース軍事組織のアル・カッサーム部隊は10月7日、イスラエル攻撃に踏み切った。ところで、なぜイスラエルは米国と手を結んでここまでパレスチナ人に抑圧的なのか?今日の三者間の関係を知るには、イスラエル建国時の以下のような事情を踏まえねばならない。

 第二次世界大戦後の1947年3月11日、米巨大石油資本のアラムコが戦後ヨーロッパ経済復興に向けて中東石油生産を急増し莫大な利益を上げることに取り組むことを発表し、その翌日トルーマン米大統領が、米国は中東の石油生産・輸送体制を共産主義から防衛すると発表した(トルーマン・ドクトリン)。この時以来石油を軸とするアメリカの中東支配がはじまり、今日に至っている。当時ベングリオン(初代のイスラエル首相)を中心とするシオニストグループが、アウシュヴィッツ強制収容所から救出されたユダヤ難民の安住の地として、アラブ人が住んでいるパレスチナに「ユダヤ人国家」を実現せよと英委任統治政府に強く迫っていた。イギリスは第一次世界大戦時の「三枚舌外交」によってユダヤ人にその「ナショナル・ホーム」をアラブ人の地に建てることを認めていたのである。一方、米大統領選でユダヤ票を重視してシオニストを支援していたトルーマンは、前大統領ルーズヴェルトと違って、アメリカの援助で「ユダヤ人国家」を建設し、ヨーロッパへの石油輸送路である東地中海の防衛の砦としてパレスチナを確保することにした。1948年に建国して以来、イスラエルはアメリカの政治的・経済的援助に支えられながら、あらゆる手段を講じてアラブ住民追放によるパレスチナでの自国領土拡大をはかってきた。現在ガザ沖合に天然ガスが発見され、イスラエルはガザ全域を手に入れる取り組みに乗り出していたのである。

 このことを踏まえたうえで、10月7日以後の事態について、ハマース側から見てみるとどのように見えるであろうか。

① 10月7日のハマース攻撃について、欧米の報道は「ハマースはテロリスト」の位置づけで一致しているが、しかしハマース側はどのように言っているのだろうか。ハマース政治局員のサーレフ・アル・アラーウィとムーサー・アブー・マルズークが、カタール衛星テレビのアル・ジャジーラとのインタビューにおいて、アル・カッサーム部隊の「アル・アクサー洪水」軍事作戦、イスラエルにおける戦闘、戦闘に巻き込まれた市民の犠牲などについて、イスラエル・欧米側情報とは異なった発言をしている。以下に発言要旨を、補足説明(下線部分)を加えて、紹介しておきたい(資料は、発言を活字表記した。出典はJazeera Net, 2023 October12とNovember3<アラビア語版>)。

  1. 「イスラムの聖地アル・アクサーモスク(エルサレムにあるユダヤ教の聖地で、2021年5月にイスラエルはこれを襲撃していた)を、ユダヤ教のスコット祭(秋祭りの一つ)期間中、ユダヤ人入植者が占拠していた。祝祭終了後にイスラエル軍のガザ一斉攻撃が始まるとの情報を得たアル・カッサーム部隊は、イスラエルの「ガザ分隊」の壊滅を主目的とする軍事作戦計画を立てた。これは「アル・アクサー洪水」と名づけられた。「ガザ分隊」はガザ封鎖とパレスチナ人の暗殺・殺害を任務とする最新鋭兵器と戦闘員の精鋭を備えた最強のイスラエル軍治安部隊として知られ、ガザ住民の恐怖と怒りの対象だった。イスラエル突入作戦によって、パレスチナ人を武力弾圧し続けるイスラエルに対する大々的な武力闘争が開始された。
  2. スコット祭終了翌日の10月7日早朝、アル・カッサーム部隊のコマンド122人がガザ北部の封鎖隔離壁を爆破してイスラエルに突入し、ガザ境界線近くのイスラエル軍Zukim基地の「ガザ分隊」を急襲した。コマンドたちは最初「ガザ分隊」との長時間の戦闘を覚悟していたが、不意を突かれたイスラエル兵士の多くが殺され捕虜として拘束されて短時間で約5000人規模の「ガザ分隊」は壊滅した。その後コマンドたちは、基地内のガザ分隊司令部と空軍基地を一時的に占拠した。
  3. アル・カッサーム部隊は軍事基地襲撃後、ガザ境界線近くのZukim, Karmiaの二つのキブツ(ユダヤ人協同農場)をはじめイスラエル人住宅街へ移動した。キブツの場所はかつてアラブのヒルビー村の土地だった。建国直後にイスラエル政府は追放したアラブ農民を「不在者」と規定してヒルビー村の土地を接収し、1949年ルーマニアからのユダヤ人青年入植者たちを収容するためにZukimとKarmiaが建てられた。
  4. アル・カッサーム部隊が隔離壁を爆破したときガザ北部の住民たちが駆けより、その一部はコマンドと一緒にイスラエル国内になだれ込み、住宅街の多くのユダヤ人を拘束した。コマンドとイスラエル治安部隊・武装住民の激しい銃撃戦となり、近くで開催されていたZukimミュージック・フェスティバルの参加者たちも銃撃に巻き込まれた結果、多数が死傷し人質としてガザに連れ去られた。

 以上がハマース側の説明である。イスラエル・欧米諸国も世界のメディアも「ハマースのテロ攻撃」と断じているが、アル・カッサーム部隊は、10月7日のイスラエルにおける軍事行動は76年前ユダヤ人権力に奪われた故郷を取り戻す「パレスチナ民族解放戦争」であると宣言した。連れ去った多くの人質は戦争捕虜であり、「ヨルダン川西岸・ガザに対するイスラエル占領の停止とイスラエル刑務所の全パレスチナ人の釈放」要求と引き換えに捕虜を釈放するとした。

 ところで、欧米報道は「ハマースは市民を襲って人質に取った」と言うが、イスラエルの「市民」は銃を手にした兵士である。イスラエル国家の18歳以上のユダヤ人市民は、3年間(女性は2年間)の兵役と退役後40歳になるまで毎年平均36日の予備役を義務付けられており、常に「イスラエルの敵」を意識しながら暮らしている。パレスチナ人に暴力的に襲いかかるユダヤ人入植者も、抵抗のそぶりを見せたパレスチナ人を日常的に殴打し逮捕する予備役を交えた兵士も警察官もすべてイスラエル市民である。女性・子供を含む大勢のパレスチナ人が不当な罪状でイスラエルの刑務所に投獄されている現実は、武装したイスラエル市民の恐ろしさをあらわしている。イスラエルに突入したパレスチナ人は、そのようなイスラエル市民に襲いかかっていた。

② アル・カッサーム部隊奇襲攻撃で国民の多くが殺され世界中のメディアが「ハマースのテロ」を攻撃しているのを、かねてよりガザ取得を目論んでいたネタニヤフ・イスラエル首相は絶好の機会ととらえ、「ハマース殲滅」を宣言してガザ空爆を開始した。ガンツ国防相は大規模な「ガザ侵攻作戦」の準備に取りかかった。

 一方でイスラエルのメディアは、ハマース憎悪を刺激する「ハマース兵士が乳幼児を斬首した」との報道をした。10月10日夜、イスラエルのケーブル・テレビニュース番組の「i24News」が、ニコン・ツェデク記者が取材した「キブツのクファル・アザで乳児や幼児が『頭部を切断された』状態で見つかった」との報告を伝えた。ハマースは「子供を斬首したと根拠もなしにうそを広めている」とこの報道を全面的に否定し、記者自身も間もなくして、報道された内容は遺体収容作業中の兵士から聞いた話を物証も裏付け取材も欠いたまま事実として伝えたことを認めた。だがすでに「ハマース戦闘員による残虐行為」情報は全世界に配信されており、それを見たバイデン米大統領は10月11日、ハマースへの怒りをあらわしてイスラエルのハマース報復攻撃を米国は全面的に支持すると表明した。「捏造」報道によってアメリカの全面的支持を獲得したネタニヤフ首相は同日、30万のイスラエル兵と大量の戦車・装甲車を動員したガザへの地上侵攻に踏み切った。

③ イスラエル軍は人口230万が密集する狭いガザに昼夜を問わない空爆を続けて徹底的に破壊し膨大な数のパレスチナ人死傷者の山を築くとともに、水・電気・食料・燃料・医療品などライフラインを全面遮断するという残酷な仕打ちを加えている中で、ガザ北部の地下にあるアル・カッサーム部隊のトンネル網を破壊して同部隊の殲滅をめざす「ガザ侵攻作戦」の第一段階を迎えた。イスラエル軍は10月13日、ガザの北半分の地域の110万人のパレスチナ住民に南部へ退去して同地域を明け渡すよう勧告した。

 10月13日のカタール衛星テレビ局アル・ジャジーラのインタビューで、アヤロン元駐米イスラエル大使が「砂漠には無限のスペースがあり、われわれと国際社会がテントなどインフラを用意する」と主張し、ガザ住民を東部シナイ半島の砂漠に移動すべきだと発言したことが伝えられた(「しんぶん赤旗」2023年10月18日)。この元イスラエル高官の発言は、総攻撃体制を構えてガザ北半分の住民の集団立ち退きを要求する「ガザ侵攻作戦」の狙いが、ガザ住民を破壊と死の危険にさらしてガザから追い出し、空っぽになったガザを最後に手に入れるというイスラエルの狙いを浮き彫りにした。イスラエル軍によるパレスチナ住民の砂漠への強制移送が以前にもあったことを年配のガザ住民なら覚えているに違いない。

 1971年、ガザのイスラエル占領軍当局(アリエル・シャロン南部軍司令官)は、パレスチナ人の反占領武装闘争の拠点となっているジャバーリヤ、シャティなどの国連難民キャンプ内の「指名手配ゲリラ」地区を取り壊して住民をシナイ半島へ強制移送した。「イスラエル軍による三難民キャンプの住宅破壊は約2000戸、強制退去させられた難民は1万5855人にのぼった」(Sara Roy, The GAZA STRIP:The Political Economy of De-development, The Institute for Palestine Studies, Washington, 1995; p.105)「イスラエル占領中のシナイ半島のアル・アリーシュの町は、難民キャンプから移送されてくる約400家族の再定住地として利用され、半島の砂漠地帯には「指名手配ゲリラ」の親族ゆえに拘束され移送されてくる1万2000人の収容所がつくられた。」(ibid., p.105)「『指名手配ゲリラ』親族追放拘束命令により、最低男1人を含む家族は一緒に追放されてシナイ半島の収容所に拘束されており、親族の男たち(兄弟、甥、従兄弟)はシナイ半島のアブー・ルデイス地区の別の収容所に拘禁されている」(Israel League for Human and Civi Rights, ”The Horrors of Gaza Must Cease”, January 23 1971)という状態であった。

 1971年のガザ住民の砂漠への集団移送は難民キャンプにおけるゲリラ闘争鎮圧対策に留まった。だが今回の「ハマース殲滅」を口実とした集団的住民移送計画は、ガザ全域を封鎖し、空爆による破壊と殺戮を加え、ライフラインを寸断し、やむを得ず移動勧告に従い北から南へ移動中の人々をも空爆し、ガザを取得するためには民族浄化もいとわない。国連パレスチナ救済事業機関(UNRWA)のフィリップ・ラザリーニ事務局長は10月15日の会見で、戦闘などにより過去一週間で少なくとも100万人が家を追われ、ガザには「一滴の水も、一粒の小麦も、一リットルの燃料も入ってきていない。今すぐに支援物資を搬入しなければならない」と訴えた。イスラエル側はガザへの空爆を強めており、犠牲者は急増し、パレスチナ保健省は16日、死者数が2750人、負傷者が9700人に達したと発表した(「朝日新聞」2023年10月17日)。

 ガザでイスラエル占領軍と激しいゲリラ戦を展開しているアル・カッサーム部隊の司令部は、ガザ北部住民集団退去勧告に際して、その場に踏みとどまってガザが奪われるのを阻止しようとガザ住民に訴えた。

④ ガザ市にあるキリスト教系のアハリー・アラブ病院は、誰であれ傷つき病に倒れた人は受け入れて治療する原則を貫いてきた。2007年ハマース政権誕生後16年間にわたるガザ封鎖が続く中で、イスラエルの経済的・社会的弾圧に抵抗して傷ついた人々を治療し、外出禁止令で失業し、また働き手を投獄されて貧困に陥った家族の無料診療を手がけてきた。2009,2014年のガザ空爆による大規模な殺戮と住宅破壊にさらされた人々を病院は治療し、元気づけてガザ住民が苦難を凌ぐのに協力してきた。

 アハリー・アラブ病院はイスラエル軍当局に南に退去するよう勧告され、多くの患者と負傷者の治療があると勧告を拒否すると、10月14日病院の癌治療センターがミサイルで破壊された。10月17日にも退去勧告があり、安全な場所を失って避難してきた多くの人びとで建物の周りを埋め尽くされた病院が再度勧告を断ると、その日の夜アハリー・アラブ病院はミサイルで破壊され、500人もの人々が一度に惨殺された。

 病院が爆撃されて国際機関・各国のイスラエル非難が高まる中10月30日の国連安保理で、イスラエルのギラド・ダヤン国連大使は「パレスチナ自治区ガザでのハマースのテロ攻撃を非難していない」ことに抗議して、ナチス占領下の欧州でユダヤ教徒が強制的に着用させられた黄色い星を着用して登場し、そしてX(旧ツイッター)への投稿で「黄色い星は、ユダヤ人の無力さとユダヤ人が他者のなすがままになっていることの象徴だ。今日、我々は独立した国家と強力な軍隊を持っており、我々は自分たちの運命の主人だ。今日、我々は黄色い星ではなく、青と白の旗を着用しよう」と述べた。

 アウシュヴィッツにおけるユダヤ人虐殺期間よりはるかに長きにわたってイスラエルがガザ住民を閉じ込めて空爆と弾圧を加え続けてきたことを棚に上げて、ガザの惨状の責任をいつものように「ハマースのテロ」に押し付けるイスラエル権力者の姿とは対照的に、ユダヤ系ポーランド人で強制収容所生還者の両親をもつガザ経済史研究の第一人者であるサラ・ロイ女史が、2009年空爆直後のガザの惨状を前にして「ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが、なぜこんなことをできるのか」と述べたことが思い起こされる(「朝日新聞」2009年3月5日付「ひと」欄より)。

(「世界史の眼」2023.11 特集号)

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パレスチナ問題の起源:第一次世界大戦期のイギリス三枚舌外交
木畑洋一

 現在深刻化しているパレスチナのガザ地区の状況の起源が、第一次世界大戦期におけるイギリスのいわゆる「三枚舌外交」に求められるということはよく語られている。ドイツなどの同盟国側に立って1914年秋に参戦したオスマン帝国支配下の中東の将来をめぐって、イギリスはフサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言という三つの相互に全く矛盾する外交的コミットメントを行ったのである。

 しかし、それらが出された経緯自体はあまり知られていないと思われるので、それを紹介しておく意味はあるだろう。ドイツ側と対立していたイギリス、フランス、ロシア三国は、それぞれに中東をめぐる領土的野心を抱いていたが、他方、この地域に住むアラブ人たちはオスマン帝国支配下から独立して自らの国をもつことを望んでおり、さらにユダヤ人シオニストはパレスチナを自分たちの帰還する地としてそこに「民族的郷土(ナショナル・ホーム)」(これはユダヤ人国家に他ならない)を建設しようと考えていた。そうした各勢力の思惑が交錯するなかで、イギリスの三枚舌外交は以下のような形で展開されたのである。

 これらの内、最初に交わされたのが、メッカのシャリフ(ムハンマドの血統につながる人々についての尊称)であったフサインと、エジプトのカイロ駐在のイギリス高等弁務官(駐在外交官のトップで独立国同士であれば大使にあたる)ヘンリー・マクマホンとの間の書簡である。イギリスは大戦が始まった時からフサインに対し、戦争での自国への協力と引き換えにその地位を保障するとの約束をしていたが、フサインは15年夏、イギリスがカリフ制(ムハンマドの後継者とみなされるカリフを首長とする統治制度)を認めつつオスマン帝国のアラブ人居住地全体の独立獲得に助力をしてくれれば、イギリスを経済的に優遇し防衛的同盟関係に入る用意があるとの申し出を行った。イギリス側は当初この条件が過大であると考えて煮え切らぬ対応をしていたが、ドイツがこうしたアラブの条件を呑もうとしているとの情報(実際にはその根拠はなかった)が流れたことによって態度を変え、グレイ外相はマクマホンに対して、フサインが求める独立したアラブ国家を認めること、ただし、シリアの地中海側地域(フランスの関心地域であった)などは除くこと、という指示を出し、それはフサイン側に伝えられた。パレスチナは、ここでは除外範囲に入っておらず、アラブの独立国家領域に入る地域であるとイギリス側も考えていたのである。

 フサインとマクマホンの間の往復書簡は、15年7月から16年3月まで10回にわたったが、その間に英仏間で進んでいた交渉の結果、16年5月16日にイギリスの中東問題特使マーク・サイクスとフランスの外交官ジョルジュ・ピコとの間で結ばれたのが、サイクス・ピコ協定である。一週間後にロシアも加わることになるこの協定の前段階は、15年春に起っていた。ロシアはダーダネルス・ボスフォラス海峡、ヨーロッパ・トルコ地域を欲しており、15年春にはその要求を英仏に提示した。イギリスは、ダーダネルス海峡における対オスマン帝国作戦(ガリポリ作戦)へのロシアの支持を必要として、ロシアによる両海峡とイスタンブル(コンスタンティノープル)併合に同意したのである。ただし、それには戦争が勝利に終わり、イギリスとフランスがオスマン帝国その他での目的を達する、という条件がつけられていた。フランスは、最初それに乗り気でなかったが、ロシア側がオスマン帝国などでの英仏の要求を受け入れるとの姿勢を示したことで、結局はそれに賛成した。 

 この動きを踏まえ、フサインとのやりとりの方向が見えた15年10月に、イギリス外相グレイは、オスマン帝国の東アラブ部分についての領土分割をめぐるフランスとの交渉に入ることにした。その交渉の結果、16年1月3日にロンドンのフランス大使館で、サイクスとピコの間で暫定合意が成立し、両国政府による承認を経て、5月16日に正式の協定となったのである。この協定によって、オスマン帝国の東アラブ地域は、フランスの勢力範囲(現在のシリアの大部分とイラク北部のモースル地域)、フランスの統治領(現在のシリアの地中海沿岸部分、レバノン、トルコの中部から南東部)、イギリスの勢力範囲(現在のイラク北部、ヨルダンの大部分)、イギリスの統治領(現在のイラクの中部・南部、ペルシア湾岸地域)、国際管理地域(ほぼ後にパレスチナ委任統治領となる地域)に分割されることになった。これに、ダーダネルス・ボスフォラス海峡、イスタンブルおよびロシアの隣接地域をロシアの勢力範囲にするという計画が加わり、フサイン・マクマホン書簡ですでにアラブ側に示されていた約束と背馳する取り決めが成立したのである。

 最後がバルフォア宣言である。パレスチナに対するユダヤ人の望みに積極的な姿勢を示そうという考えは、すでに16年にイギリス外務省で抱かれていたが、それはまだ参戦していないアメリカのユダヤ人勢力を強く意識したものであった。この計画は、それを知ったフランス政府が好まず、棚上げにされた。それが17年になると、革命勃発によって戦争離脱(ドイツとの講和)の可能性も強くなってきたロシアの指導層の中のユダヤ人を意識する形で、再浮上したのである。イギリス首相ロイド=ジョージは大戦回顧録のなかで、「もしもイギリスがパレスチナでシオニストの目的を満たすとの宣言を行えば、…その結果はロシアのユダヤ人を協商国の大義へと引きつけることになると考えられていた」と述べている。

 ただし、イギリスの考えはそれに限定されていたわけではない。この頃には、オスマン帝国軍との間の戦いでイギリス軍の優勢が明らかになっていたため、イギリスはサイクス・ピコ協定では国際管理地域とされることになっていたパレスチナを自国の勢力下に組み込むことを目論見はじめ、フランスの勢力を排除するためにも、シオニズムの希望をいわば「イチジクの葉」として利用しようとした。そしてバルフォア宣言の作成過程には、他ならぬサイクス自身も深く関わった。こうした思惑を含みつつ、17年10月のイギリス閣議決定を経て11月2日にバルフォア外相の名で出されたのがバルフォア宣言である。宣言は、「国王陛下の政府はパレスチナにおいてユダヤ人のための民族的郷土(ナショナル・ホーム)を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです」と述べていた。サイクス・ピコ協定なるものが存在していることを知らず、ましてやその協定での約束を修正しようとする思惑をイギリスが抱いていることなど知らないシオニスト側は、当然この宣言を大歓迎した。ただし、この宣言が発出された直後には、ロシアで11月革命(ロシア暦で10月革命)が起こり、ロシアでのユダヤ人勢力への考慮は意味をもたなくなった。一方、イギリスのパレスチナ統治に向けての動きと、ユダヤ人によるパレスチナでの国家建設に向けての動きの方は、着々と進んでいった。これが、1948年におけるイスラエルの誕生に、その後のパレスチナ・アラブ人の苦難に、そして現在のガザをめぐる悲惨な状況へとつながってきたのである。

(「世界史の眼」2023.11 特集号)

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書評:南塚信吾『「世界史」の誕生―ヨーロッパ中心史観の淵源』ミネルヴァ書房 2023年
弓削尚子

 西洋が世界の歴史を主導しているという西洋中心的な世界史は、どのような経緯をたどって誕生したのか。本書は、キリスト教的な「普遍史」を体現するアウグスティヌスの『神の国』(413‐426)から、「ランケ的世界史」を著した米国のG.P.フィッシャーによる著作まで、実に1450年の長きにわたってヨーロッパや北米において発表されたさまざまな世界史叙述を考察してこの問いに答える。

 本書の最大の特徴は、明治期日本に紹介され、近代日本へ影響を与えた「万国史」を中心に、西洋の世界史をとらえるという視点である。著者は2016年に「近代日本の「万国史」」(『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房)という論考を発表している。西洋で生まれた西洋中心的な世界史を、明治期以降の私たちの世界史観の問題に引き付けて考える著者の仕事に多くの読者が共感を覚えるだろう。

 目次は以下のとおりである。

はじめに
第1章 キリスト教的「普遍史」の世界
第2章 「科学的」世界史の模索
第3章 啓蒙主義の世界史
第4章 多元的世界史の試み
第5章 「普遍史」からの脱却へ
第6章 実証主義の歴史学とヨーロッパ中心の世界史
第7章 ナショナル・ヒストリーと世界史

 アダムとイヴの誕生から人類の歴史が始まり、神の摂理によって導かれるという「普遍史」は、ゆったりとした時間をかけて、人間を主体とする世俗的な歴史へとシフトしていった。聖書に記述のない「新世界」の「発見」、宗教改革によるカトリシズムの相対化、自然科学的な絶対時間という観念の広がり、合理的認識論の成立や人間理性を重視する啓蒙主義などを契機に、西洋の世界観および歴史観は変わっていった。

 18世紀には、フランスのヴォルテールやG.-T.レーナル、コンドルセ、ドイツのJ.C.ガッテラーやA.シュレーツァーらによって、世界史の世俗化(脱キリスト教化)は加速した。世界の諸民族の習俗や風習、交易などの経済活動、精神性の発達など、さまざまな観点から世界史をとらえ、叙述する試みが現れる。カトリックの聖職者であるC.F.ミロは、『一般史の諸要素』(1768)の中で、「真実」の追究を掲げ、世界の始まりを正確に示す文献はないと断じて聖書の記述には触れず、「ギリシア・ローマ以前」として歴史を書き始めた。歴史と宗教は分離される。日本の啓蒙主義研究においてほとんど論じられることのないミロに着目し、彼の歴史像やアジア観に迫った考察は貴重だ。

 こうして「普遍史」的要素が脱色された世界史とはどのようなものか。

 19世紀の世界史について、著者が最初に取り上げるのがスコットランドのA.F.タイトラーである。彼の『一般史の諸要素』(1801)は、アメリカを経由して明治期日本に最初に翻訳された。ほかにもアイルランドのW.C.テイラーや、オランダ語訳によって幕末日本に紹介されたドイツのK.ペリッツ、「気球に乗って眺める世界史」を書いたアメリカのパーレイ、「コーカサス人種」を世界史牽引の主体とする「人種的世界史」のE.A.フリーマンやW.スウィントンなど、日本に輸入された世界史が、19世紀の西洋の史学史に名を刻むミシュレやヘーゲル、ランケ、マルクスらの著作とともに考察される。

 興味深いのは、「普遍史」の根強さである。「キリスト教の確立が世界史全体のなかで唯一の重要性をもつ出来事」とするボシュエの『普遍史』(1682)は、19世紀になっても広く読まれた。ボシュエは、ヴォルテールやタイトラーらによって厳しく批判されたが、タイトラーの著作自体が、彼の死後、19世紀半ばになっても普遍史的な方向へと「逆戻り」する改訂版が出されるなどの展開を見た。また、アダムとイヴからの聖書的歴史叙述に、ローマ帝国以降の世俗史を継ぎ合わせる「折衷型」は、ドイツのK.ロテック、T.B.ヴェルター、イギリスのH.ホワイトのように19世紀半ばまで見られた。ヴェルターとホワイトは、ともに明治期日本でも翻訳された。米国にも、ヨーロッパの「世界史」が輸入、紹介され、女子教育に携わるE.ウィラードや教会学校の教育に関心をもつM.J.カーネイなどが「自前」でボシュエに似た「普遍史」を書き、歴史教育で活用された。19世紀半ばを過ぎると、Ch.ダーウィンの『種の起源』(1859)および『人類の起源』(1871)が、「キリスト教的な天地創造論への決定的な批判」となるが、米国における「普遍史」の根強さは、現代も残る進化論への反発にも大きく関わるであろう。

 もう一つ、19世紀の世界史を考察するにあたって興味深いのは、ランケに代表される実証主義的歴史学がヨーロッパ中心的な世界史確立に与えた意味である。

 ここでは、聖書の「天地創造」だけではなく、人類が「理性」や「自由」を獲得して「進歩」していくさまも、「科学的」に実証することは不可能であるとして退けられる。「事実はいかにあったのか」、「それがあったままに記述する」ことが目指され、「科学的」歴史叙述は、史実を確定できない原始時代や遠方の民族や文化、とりわけ西洋との接点をもたない諸民族の歴史を切り捨てることにつながった。世界史は、「実証できる史実」からなり、「実証できない語りや伝説」は排除されるべきであった。

 また、ランケは、地上における諸民族との関係や関連を見極めることで世界史を把握するとし、ローマ的・ゲルマン的諸民族を「偉大な歴史的発展の諸要素」とみなしてその中心に据えた。彼の世界史は、この「支配的な民族の行動、影響力、闘争、他民族との『関係』」をたどるものとなった。

 本書の最終章では、1870年代以降のナショナル・ヒストリー勃興の時代における世界史が考察されている。ランケの未完の『世界史』(1881‐88)に加え、スイスのJ.ブルクハルトおよびイギリスのJ.アクトンをとりあげ、ナショナル・ヒストリーへの抵抗という立ち位置にも注意を払う。

 ブルクハルトの『世界史的省察』(1905)においては、ナショナル・ヒストリーの「錯覚や傲慢さ」が批判され、諸民族や諸文化の多様性と共存性をとらえて、「すべての種族や民族や慣習や宗教をも相互に関連させて正当に取扱うように努める」世界史が目指された。しかし、ブルクハルトのいう「種族」や「民族」はヨーロッパのそれであり、彼の眼差しは、西洋世界を超えることはなく、ランケ以上にヨーロッパ中心的であった。

 最後に著者が考察するのは、アメリカのG.P.フィッシャーである。彼の『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』(1885)は、ランケ的な歴史学の「科学的」方法を取り入れ、「古代から現代までをネイションで構成」し、ヨーロッパ中心の文明史的世界史であった。日本でフィッシャーの抄訳が出版されたのは1890年代で、ランケの『世界史』の紹介はそれから約30年を経た第一次世界大戦後であったため、「フィッシャーを通したランケの方法の部分的紹介」は、当時の日本の世界史理解において「重要なできごとであったにちがいない」と結ばれている。

*   *   *

 ところで、冒頭に述べたように、本書の最大の特徴は、日本に影響を与えた西洋の世界史の「ヨーロッパ中心史観の淵源」を問うものである。そのために著者が依拠するのが、上原専禄『世界史像の新形成』(1955)の問題提起である。

 上原は、「近代歴史学がその経験科学的実証的方法によって、いったいどのような世界史像形成の実践を行ってきたのか」を批判的に問う必要性を訴えた。しかし、日本の歴史学において上原の問題提起を受け止める研究はこれまでになく、本書がそれにわずかでも応えるものとして位置づけられる。著者は第一章でキリスト教的「普遍史」の考察を終えると、上原の問題提起を詳細に述べて整理し、第二章以降の世界史叙述の考察基盤を提示する。「キリスト教を離れても、なんらかの『超越的ファクター』が設定され続ける」という上原の見解が、幾度となく挙げられ、検証される。

 なるほど、日本の歴史学界において、かつて上原のような歴史家がいたことは特筆に値する。しかし、上原を引き合いに出すことに違和感を抱く読者もいるのではないだろうか。

 いうまでもなく、1955年の上原と2023年の著者では、「世界」も変化しており、両者がアクセスできる世界史叙述も違う。20世紀末のポスト・コロニアリズム以降の歴史学は、西洋史研究においても西洋中心史観の相対化が図られ、かつてドメスティックな関心しかなかったヨーロッパの西洋史家が、今や植民地抜きの西洋史叙述などありえないと述べる時代である。それにもかかわらず、著者は半世紀以上前の上原の疑問に立ち返ろうとしている。これまで数々の世界史論を展開してきたグローバル・ヒストリアンである著者が、なぜ上原にこれほど依拠するのだろうか。現在の読者にとっては、20世紀半ばの上原ではなく、21世紀の世界史研究を切り拓いてきた著者の存在感の方が大きい。上原の問題提起に応えることは、日本の歴史学界内部の、いわば内輪の話である。著者自身の問題提起を前面に出すことで、副次的、結果的に上原の声に応えるということで充分ではないだろうか。

 そもそも、著者がそこまで重視する上原とは何者なのか。20世紀半ばの日本の歴史学界にいながら、西洋の世界史に対するこのような問題意識をなぜもったのか。本書を読むだけでは読者にはわからない。歴史家も社会の産物である。「歴史を研究する前に、歴史家を研究せよ」「歴史家を研究する前に、歴史家の歴史的・社会的環境を研究せよ」と述べたのはE.H.カーだが、本書においてこの原則から唯一外れているのが上原ではないだろうか。上原の『世界史像の新形成』だけが、この作品を生み出した歴史的文脈から断ち切られて、つまりア・ヒストリカルに存在している。第二次世界大戦の敗北から10年後の日本はどのように世界を見ていたのだろう。当時の日本の歴史家たちは、どのような使命感をもって歴史研究を進めていたのだろう。

 評者の専門分野である啓蒙主義研究の視点からも一点付言したい。

 著者はカントの『世界市民という視点からみた普遍史の理念』(1784)とヘルダーの『人類の歴史哲学考』(1784‐91)を「多元的世界史の試み」として啓蒙主義の外に置いている。啓蒙主義の世界史は、理性の重視によって啓蒙に到達した西洋を頂点に、世界の諸民族が一元的に進歩の歴史を歩むという定義からであるが、両作品もまた啓蒙主義の産物と理解する研究者は評者も含めて少なくない。

 啓蒙主義の時代においては、非西洋における民族の多様性は、キリスト教的価値観ではなく、人間の理性によって承認された。すなわち、世界の諸民族が一元的に進歩の階段をのぼるのであれ、多元的な文化や価値観で多様な位置を占めるのであれ、これらの議論はともに神の摂理から離れ、人間を中心とする啓蒙の知であった。カントもヘルダーも啓蒙主義を批判したというが、理性と批判を重視する啓蒙主義は、啓蒙主義自らにも批判を向ける。I.バーリンのように、ヘルダーをヴィーコらとともに反啓蒙主義者と位置づける流れもあるが、著者も参照している笠原賢介のように、近年の啓蒙主義研究では、ヘルダーの歴史哲学を啓蒙との連続性の中にとらえ、文化の多様性の肯定や非ヨーロッパへの関心が理解されている。

 もちろんこのような指摘は、数多くの世界史の著作を読みこみ、その要点を手際よくまとめて世界史変容のプロセスをたどる本書の価値を損なうものではない。

 読者は、著者による妥協のない考察に圧倒され、著者の情熱を感じるだろう。タイトラーの『一般史の諸要素』やヘーゲルの『歴史哲学講義』などには複数の版があり、ランケの世界史の構想については、1820年代、50年代、80年代と3つの時期に分けて、思想や記述の変化が丁寧に考察されている。英語、フランス語、ドイツ語の原典、および明治期の翻訳本にあたるマルチ・リンガルな読解力に加え、岡崎勝世やI.バーリン、J.フォークト、D.ウルフ(Woolf)らの先行研究を押さえ、世界史叙述の「微妙な変化の積み重ね」に迫る手腕は見事というしかない。そのような著者だからこそ一層、上原専禄の提起した問題に応えた書と位置づける謙虚さが、読者にはもどかしく感じるのである。

(「世界史の眼」No.44)

 

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