世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争
木畑洋一

 1944年3月8日(本稿執筆時の80年前)、日本軍はアジア・太平洋戦争の戦局打開をねらって、当時日本の占領下にあったビルマからインド北東部のインパールへの侵攻作戦を開始した。この作戦は、イギリス軍の反攻によって完全な失敗に終わり、7月初めに中止され、さらにその後の退却過程のなかでも多大な犠牲を生むこととなった。

 アジア・太平洋戦争の初期、東南アジアで勝利を重ねた日本軍はイギリス領であったビルマにも攻め込み、42年5月にそのほぼ全域を占領下に入れた。日本に追い出されたイギリス側は、ビルマ奪回をめざす軍事行動を開始し、その動きは43年から本格化した。インパール作戦が始められた時、ビルマ北部では、オード・ウィンゲートが率いるチンディットと呼ばれる軍隊が、航空機の働きを重視しつつ、日本軍を攪乱したしていた(チンディット作戦)。またビルマ西部のアラカン地方(現在のラカイン州)でも、44年初めからイギリス軍による進撃が始まっていたが、日本軍の側も、それに抗し、さらに予定されたインパール作戦を前に敵の力をこの地方に割かせておくという意図をもって、2月に作戦(第二次アキャブ作戦)を開始した。本稿では、これらの作戦とインパール作戦、およびその後の展開(44年12月から45年3月までのイラワジ会戦などを含む)を、ビルマ戦争と総称することにする。

 ビルマ戦争の中核をなしたインパール作戦は、日本ではアジア・太平洋戦争の各局面のなかでも、強い関心を集めてきた。牟田口廉也将軍の指揮下、十分な補給体制を全く備えないまま過酷な自然条件のなかでの戦いを強いられた日本兵の惨状が、日本による戦争遂行の仕方の非合理性、無謀性をよく示すものとして、批判の対象となってきたのである。インパール作戦については高木俊朗による一連の著作などがよく知られており、最近ではNHKが2度に渡って特別番組を作り(二つ目はインパール作戦後の1年間が対象)、話題となった。その番組内容は書籍化されているが、『戦慄の記録インパール』『ビルマ絶望の戦場』というタイトルがこの戦争についてのイメージを物語っている。[1]

 他方イギリスでの関心は、決して強いとはいえない。第二次世界大戦当時でも、戦後を通しても、ヨーロッパにおける戦争に比べて、アジア・太平洋での戦争全体への関心は薄かった。『忘れられた軍隊』といったタイトルの研究書が出される所以である。[2] そのなかのインパール作戦・ビルマ戦争も重視されてはこなかった。ただその一方で、日本側には欠けている重厚な研究書が世に問われてきていることも、確かである。[3]

 関心の度合いが日本とイギリスでこのように異なるとはいえ、この戦争についてはこれまでさまざまな研究が積み重ねられてきた。しかし、インパール作戦・ビルマ戦争を世界史のなかに位置づけていく上で重要であるものの、従来必ずしも十分に論じられてこなかったと思われる問題がある。筆者が「帝国の総力戦」と呼んできた戦争の性格である。

 第一次世界大戦も第二次世界大戦も、総力戦という性格をもったが、筆者は、この総力戦という概念を比喩的に用いる形で、帝国支配国が戦争に際して帝国領土の人員や物資を大規模に動員することを「帝国の総力戦」と呼んできた。[4]「帝国の総力戦」の姿とそれがもたらしたものを検討することは、帝国主義の時代にできあがった帝国主義世界体制の変容、脱植民地化の過程について考える上できわめて重要な意味をもつ。そうした「帝国の総力戦」の姿を、インパール作戦・ビルマ戦争はよく示しているのである。とくに、イギリス軍にアフリカにおける植民地から動員されたアフリカ兵が加わっていたことに、筆者は注目している。その問題については後に触れることとして、まずは日英両軍における「帝国の総力戦」の形を概観してみたい。その戦争の内実にまで踏み込んで述べることはここではできないため、以下はこうした視点から見た日英両軍の構成の素描である。

 まず日本軍である。日本軍には、日本人の他に、植民地であった朝鮮と台湾から動員された人々が兵士や軍属として参加していた。

 日本軍にはまた、イギリスの植民地であるインドの人々がインド国民軍(Indian National Army: INA)という形で加わっており、これが、この戦争における「帝国の総力戦」の形を複雑なものにしていた。イギリスからの独立を志向するインド民族運動の力を対英戦争のために利用する思惑で42年初めに日本側が組織したインド国民軍は、43年春にチャンドラ・ボースを指導者として戴いてから活気を帯びた。国民会議派議長になったこともあるボースは、ヨーロッパでの開戦後、インド独立への助力をナチス・ドイツに求めようとしたもののうまくいかず、日本側からの誘いに応じたのである。ボースとINAは、インパール作戦を独立達成への有効な手段とみて、日本軍との共同行動をとったのである。しかし、彼らの夢は叶わず、大量の犠牲者を出すに至った。

 日本側は、占領下に置いた末、43年夏に独立を認めていた(実質は全くの傀儡国家であった)ビルマの国軍であるビルマ国民軍(Burma National Army: BNA)も、イラワジ会戦の戦況が悪化するなかで動員した。ただし、その頃には、日本による独立付与が名ばかりのものであったことに不満を抱くBNAの人々は対日蜂起の準備を進めており、45年3月末には蜂起が開始した。

 また、直接の戦地となった地域の現地人の軍への関与の仕方も問題となる。ビルマとインドも多くの民族によって構成されており、さまざまな少数民族が双方の側で戦争に巻き込まれたのである。

 次いで、イギリス軍の場合である。

 そこで何といっても重要な位置を占めるのが、インド兵である。普通、インパール作戦・ビルマ戦争は、日本軍とイギリス軍の間の戦いと表現されることが多いが、イギリス軍(第14軍)の大半はインド人から成っていたのであり、正確には、イギリス・インド軍(英印軍)と表現すべきであろう。

 19世紀以降、インド兵はイギリス帝国の拡大・維持にとって欠かせない存在であった。中国におけるアヘン戦争や、義和団運動鎮圧戦争の場合にとくに顕著であったように、イギリスが植民地戦争を展開していく上で、インド兵は中心的役割を演じたのである。第一次世界大戦においては、150万人近くのインド人が動員され、その内100万人を越える人々がヨーロッパや中東の戦線に送られた。こうしたそれまでの戦争では、インド自体で英印軍が戦闘を行ったことはなかったが(隣国アフガニスタンでの戦争には従事した)、その事態が、この戦争で出現したのである。第二次世界大戦期には、国民会議派のように、即時の独立を求めて、それに応じないイギリスへの戦争協力を拒みつづけた人々も存在したものの、「帝国の総力戦」に協力する者も多く、そうしたインド人が過酷な戦線に投入され、戦争のいずれの局面においても最前線に立って戦った。

 英印軍の有力な構成部分としては、イギリス帝国内の「尚武の民martial race」の代表的存在であったネパール出身のグルカ兵が、この戦争においても重用されたことも忘れてはならない。

 また日本軍についても指摘したように、現地の少数民族も英印軍に使役される形で戦闘に巻き込まれた。とりわけ居住地域が戦闘地域と大きく重なったナガ人の役割は重要である。

 インパール作戦・ビルマ戦争について考える際に、INAを含むインド人や現地少数民族といった要因により注意を払う必要があるということは、最近刊行された笠井亮平の好著のなかで強調されている。[5]

 ただ、その笠井も軽視している「帝国の総力戦」の構成員が存在する。アフリカからはるばるとインド洋を渡る形でビルマ戦線に動員されたアフリカ人兵士たちである。日本では近年、アフリカ研究者の溝辺泰雄がこの問題に着目しているが、[6] 本格的な研究はまだない。イギリスにおいては第二次世界大戦全体の「帝国の総力戦」としての側面についての研究は一定程度行われているものの、[7] インパール作戦・ビルマ戦争でのアフリカ兵に関する検討は進んでいるとは言いがたい。

 アフリカ人は第一次世界大戦においても大量に動員された。ただしイギリスは、アフリカ人兵士をヨーロッパ戦線で用いたフランスと異なり、アフリカ大陸内のドイツ植民地をめぐる戦争で彼らを用い、しかもその役割は主として物資の運搬であった。そこには、白人との戦いにおいて黒人は用いないという人種主義的考慮が働いていた。そのことを考えると、アフリカ兵をインド、ビルマへ送り、直接の戦闘要員として用いたこと(物資運搬要員としても使われたが)は、イギリスの「帝国の総力戦」の新たな面を示していたといってよいであろう。

 アフリカ兵は、インパール作戦自体には参加していない。彼らが用いられたのは、チンディット作戦とアラカンでの戦闘、およびインパール作戦後の日本軍掃蕩作戦においてである。チンディット作戦にはガーナやナイジェリアなど西アフリカからの兵士が参加し、アラカン作戦には西アフリカ兵の他ケニアなどの東アフリカ兵も参加した。そしてインパール作戦後の戦闘には、東アフリカ兵が用いられたのである。

 次に、この動員が戦後におけるアフリカの変化に及ぼした影響の一例に触れておこう。

 1950年代のケニアで、イギリス側が「マウマウ」と呼んだ民族運動家たち(彼ら自身はケニア土地自由軍と称した)に過酷な弾圧を加えたことは、よく知られている。その「マウマウ」の指導者の一人に、「中国将軍General China」と呼ばれた人物がいる。ワルヒウ・イトテ(1922-93)という人物で、42年にイギリス軍に入り、ビルマでの戦争に加わった。カレワでの戦い(44年暮れに展開したはずであるが、彼自身は43年と記している)であり、ギクユ人としてのアイデンティティしかもっていなかった自分自身はケニア人であると、彼はそこで初めて意識したという。彼はそうした意識のもと、ケニアへの復員後「マウマウ」に参加し、勇猛さで知られるようになった。中国将軍というあだ名は、朝鮮戦争もしくはマラヤでの中国人の活動に刺激されたためといい、ビルマ戦争とは関係がないようであるが、彼の自伝によれば、ビルマの軍隊で習得したことをケニアでの民族運動に活かしたのである。[8] 彼は54年に逮捕されて死刑宣告を下されたものの、減刑され、ケニア独立後は公務員としての生活を送ることになる。

 アジアの戦争とアフリカの変動とがこのように連動していく様相などに注目しつつ、インパール作戦・ビルマ戦争の「帝国の総力戦」としての性格をより深く検討していきたいと、筆者は思っている。本稿はその準備作業としてのごく粗いデッサンである。


[1] NHKスペシャル取材班『戦慄の記録インパール』岩波書店、2018(岩波現代文庫版、2023;NHKスペシャル取材班『ビルマ絶望の戦場』岩波書店、2023.

[2] Christopher Bayly and Tim Harper, Forgotten Armies: The Fall of British Asia        1941-1945, London: Allen Lane, 2004.

[3] ルイ・アレン『ビルマ遠い戦場 ビルまで戦った日本と英国1941-45年』上・中・下、原書房、1995;Robert Lyman, A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain 1941-45,       Oxford: Osprey Publishing, 2021.

[4] 木畑洋一「「帝国の総力戦」としての第一次世界大戦」メトロポリタン史学会編『20世紀の戦争―その歴史的位相』有志舎、2012など。

[5] 笠井亮平『インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか』文春新書、2021.

[6] 溝辺泰雄「第二次世界大戦期のビルマ戦線に出征したローデシア・アフリカ人ライフル部隊(現ジンバブウェ)のアフリカ兵士からの手紙:全文訳」(1)(2)『明治大学国際日本学研究』6-1、7-1、2013-2014.

[7] たとえば、Ashley Jackson, The British Empire and the Second World War, London: Hambledon Continuum, 2006;David Killingray, Fighting for Britain: African Soldiers in the Second World War, Woodbridge: James Currey, 2010.

[8] Waruhiu Itote (General China), ‘Mau Mau’ General, Nairobi: East African Publishing House, 1967, Ch.3

(「世界史の眼」No.47)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 8(2024年1月31日)

国際司法裁判所暫定措置命令

 2024年1月25日、国際司法裁判所は、昨年12月30日に南アフリカがイスラエルのガザ攻撃を「ジェノサイド」だとして訴えた件につき、暫定措置を命じた。裁判所は、南アがイスラエルに対して訴えた訴訟を、同裁判所が裁判する権利はないとするイスラエルの主張を退けたうえで、南アが裁判所に対しイスラエルに命じてほしいと訴えていた9件の措置につき、6件を認めて、イスラエルに対して命令を下した。日本のマスコミなどでは十分に報道されていないので、ここに諸項目をすべて知らせることにする。

1. まず、南アが求めていた9つの措置とは何かを見ておこう。

  1. ガザの内外における軍事行動を停止すること
  2. 軍事行動を現在以上に拡大しないこと
  3. 十分な食糧、水、燃料、避難所、衛生、公衆衛生の入手を認めること
  4. ガザにおけるパレスチナ人の生活の破壊を、心理的ダメージを含めて、防止すること
  5. ジェノサイドの申し立てを裏付ける証拠を破壊しないこと、また事実調査使節のような国際組織がこのような証拠を保存するためにガザにはいることを拒否しないこと
  6. ジェノサイド条約の規則を遵守すること
  7. ジェノサイドに関与した人々を罰するための措置をとること
  8. 事件を複雑化したり長期化させるような行動をとらないこと
  9. 以上の措置を実行する進捗状況を裁判所に定期的に報告すること

2. 以上の南アの要求にたいして、裁判所がイスラエルに命じた措置は6つであった。 

(a) イスラエルは、ジェノサイド条約第二条に規定された行為を防止するために可能なあらゆる措置をとらなければならない。その第二条というのは、以下のとおりである。

 この条約では、集団殺害とは、国民的、人種的、民族的又は宗教的集団を全部又は一部破壊する意図をもつて行われた次の行為のいずれをも意味する。

  • (a) 集団構成員を殺すこと。
  • (b) 集団構成員に対して重大な肉体的又は精神的な危害を加えること。
  • (c) 全部又は一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すること。
  • (d) 集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること。
  • (e) 集団の児童を他の集団に強制的に移すこと。

(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(b) イスラエルはその軍隊が上のいかなる行為も行わないように保証しなければならない。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(c) イスラエルは、「ガザ地区のパレスチナ人にたいしジェノサイドを行わせる直接的・大衆的な扇動」を防止し罰しなければならない。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(d) イスラエルは、ガザの民間人に基礎的なサービスと基本的な人道的援助を与えなければならない。(これにはウガンダの判事が反対した)

(e) イスラエルは、ガザにおける戦争犯罪の証拠を破壊することを防止し、事実調査使節が入ることを認めなければならない。(これにはウガンダの判事が反対した)

(f) イスラエルは、裁判所が求める処置を遵守するために執った措置を判決の一か月以内に報告しなければならない。南アフリカはその報告に反論する機会を与えられるものとする。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

 結局、この中間的判決では、南アが求めていた9つの措置のうち、1、7、8は採用されなかったわけである。また裁判所はこの判決を履行させる強制力は持っていない。したがって、次は国連安保理事会に付託されることになる。なおウガンダの判事は、イスラエルはジェノサイドを犯そうとは「意図」していないのであるから、この事件は国際司法裁判所の検討事項には当てはまらないと主張して6項のすべてに「反対」した。

https://www.aljazeera.com/news/2024/1/26/what-has-the-icj-ordered-israel-to-do-on-gaza-war-and-whats-next

                             (南塚信吾)

――――――――――――

アメリカの世界史研究の第一人者であるパトリック・マニングが自身のサイトに、現在のガザ危機について見解を載せ、各方面からのコメントを求めている。かれはアメリカ政府と、国連およびその後ろの国際世論とを対置させつつ状況を見ており、今回の南アによる国際司法裁判所へのジェノサイド訴訟と裁判所の判決に注目している。アメリカの良心的な立場を示すものとして、下のサイトでかれの意見をぜひご一読願いたい。そして、コメントも。

Who Rules the World Today? – Patrick Manning (patrickmanningworldhistorian.com)

(南塚信吾)

カテゴリー: 「世界史の眼」特集 | コメントする

「世界史の眼」No.46(2024年1月)

2024年最初の「世界史の眼」には、小谷汪之さんに、「奉天からの世界史」の(上)をご寄稿頂きました。今号を含め3回に渡り連載致します。また、世界史寸評として、南塚信吾さんに、「外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考」をお寄せ頂きました。

小谷汪之
奉天からの世界史」(上)

南塚信吾
世界史寸評 外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考

*  *  *

世界史研究所では、引き続き「「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える」と題して、この問題に関する論考を掲載しております。12月には4度にわたり掲載いたしました。

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える4(2023年12月9日)

藤田進
イスラエル軍ガザ攻撃60日目の今

—————

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える5(2023年12月13日)

油井大三郎
米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向

—————

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える6(2023年12月20日)

木畑洋一
イスラエル批判と反ユダヤ主義

—————

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える7(2023年12月23日)

藤田進
戦争の裏に天然ガスあり

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

奉天からの世界史(上)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、本号)
2 内藤湖南と奉天
 (次号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次々号)

はじめに

 奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)は清朝の始祖ヌルハチが1625年に首府とした古都である。1644年3月、反乱を起こした李自成軍が北京を占拠して明朝を滅ぼしたが、5月清軍が李自成軍を破って北京に入城した。その後清朝が北京を首府とすると、奉天は陪都となったが、ヌルハチおよび第二代太宗ホンタイジの墓陵の地として重要な位置を占め続けた。なかでも太宗ホンタイジの墓陵である昭陵(通称、北陵)は近代になってもいろいろな人たちが訪れて、記述を残している。本稿では、19世紀末から20世紀前半の昭陵(北陵)にかんするいくつかの記述を追いながら、奉天という小さな窓から見える世界史を描いてみたいと思う。なお、以下では北陵という通称を用いる。(戦前の文献からの引用では、旧字体を新字体に、適宜片仮名を平仮名に改めた。また、読みやすくするために、句読点を補い、ルビを付した。)

1 奉天におけるキリスト教布教

(1)キリスト教布教の開始

 満洲、特に奉天は19世紀から20世紀前半、キリスト教の布教が進展した地域のようである。奉天における最初の宣教団はフランスのカトリック宣教団で、1838年に布教活動を開始した。次いで、1876年にスコットランド長老教会の宣教師が何度も奉天を訪れ、時には長期に滞在して布教活動を行った。1883年、スコットランド長老教会から派遣されたドュガルド・クリスティー牧師が奉天に入り、布教活動を本格化させた。クリスティーは外科・内科の医療活動を通して布教を進める伝道医師であった。彼の奉天在住は1922年までの約40年に及んだが、『奉天三十年』(Thirty Years in Moukden, being the experiences and recollections of Dugald Christie, London, 1914. 矢内原忠雄訳、岩波新書、1938年)という著書に1912年までの体験を書き残している。

 クリスティーらスコットランド長老教会の宣教師たちは、奉天で教会や病院を建てる土地を入手するのに苦労したが、最終的には奉天城東南の外壁に沿った「小河沿」(「小さな河のほとり」。図1参照)と呼ばれる地域に敷地を購入することができた。この地について、クリスティーは次のように書いている。

 市街の東南、繁華な通りから遠くない所に、小河沿といふ、流れの緩い、殆んど湖水のやうな静かな河がある。夏にはその岸辺は散歩遊楽の人々の好んで訪れる処であり、多くの茶店でしゃべったり茶を啜ったりして、水に浮かぶ葉の広い美しい紅蓮の花を眺め、奉天第一の良き空気を吸ふのである。我々は幸運にもこの流れを瞰下みおろす高台に二つの屋敷を手に入れた。我々の立場より見て、病院の敷地としてこれ以上に良好なる場所は奉天中になかった。其処にあった建物は病室に利用することとし、全然新しく且つ設備の整った診療所を正面に建てた。病院は1887年(明治二十年)、我々の友人たる満洲族の大官兵部尚書によりて正式に開院せられ、奉天の主だちたる官吏多数が列席した。同じ日に基督キリスト教徒の熱烈なる集会が、約百五十名を容れる待合室で開かれた。病院は百名の男と五十名の女に対する収容能力を有した。(『奉天三十年』上巻、14-15頁)

 この小河沿という地は奉天の東南を東北から南西に流れる渾河こんがの支流である万泉河に沿った地域で、奉天の外壁を作るときに流れを妨げないためにその流入部と流出部だけ外壁を木組みにしたものである。当時、奉天随一の遊楽地、歓楽地として賑わっていた。その小河沿の高台に病院を建てることができたのであるから、スコットランド長老教会宣教団にとって「幸運」なことであったのは確かである。

 その頃の北陵について、クリスティーは次のように書いている。

 市の北方数マイル、広々とした草原を行けば、奉天附近の田舎の単調無味を償うて余りある一地劃――樹間深く埋もれた努爾哈赤ヌルハチの子の墓(北陵)がある。外周は純然たる野生の森であって、迂曲せる小径は野花、密林、空地を縫うて、どこに出られるとも思われない。六月の午後、かしわや樺の生き生きとした若緑に反映して白い樹の花や地に尾を曳く風車の花は驚くべき美を放ち、緑と白とを透かして靑空は一層靑に輝き、日光は小暗き影の中に参差たる光を落す。〔中略〕樹の間がくれに墓を繞らす鮮やかな丹塗の塀が輝き、中なる黄色の瓦の屋根が一寸見える。この矩形を成せる外囲の南に、浮彫に刻んだ白色の大理石の拱門アーチが一つ立って居り、その背後に正門があるがこれは閉ざして誰も入れない。〔後略〕

 多年の間、側門も亦固く閉鎖されて、此処に住む満洲族の警吏の外は何人も此の聖域の内部を窺ふことを得なかった。現在では〔1912年のことか? 引用者〕東と西の門が開かれて居り、一方の門から他方の門迄アーチ形を成した松並木の通路が通って居る。〔後略〕

 閉鎖されて居る南門から石を舗いた広い道が内苑に通じて居り、その両側には大きい石彫の動物が並んで居る。

 内苑の門は通過證パスの所持者か、もしくは墓の監視人を知っている者にでなければひらかれない。〔中略〕すべての最奥の処に、一つの大きな円形の草した土盛りがある。これが即ち〔太宗ホンタイジの〕墓であって、その頂に一本の樹が生えて居る。(『奉天三十年』上巻、23-25頁)

(2)日清戦争と奉天

 スコットランド長老教会宣教団の活動はすべりだしは順調だったのだが、その後数度にわたって大きな困難に直面することになった。その第一は日清戦争(1894~95年)であり、次は義和団事件(1900年)、そして第三には日露戦争(1904~05年)であった。

 1894年7月、豊島沖の海戦で日清戦争が始まると、奉天からも左宝貴将軍に率いられた奉天部隊が陸路、朝鮮に向かった。左宝貴軍は他の四つの清軍部隊と共に平壌の防衛に当たることになった。9月15日、日本軍は平壌を守る清軍に対して総攻撃をかけた。一方、清軍側は各部隊の連絡が取れず、個々バラバラに戦うという状態であった。その中で、左宝貴が銃弾を受けて戦死すると、左宝貴軍は算を乱して平壌から撤退した。清朝の他の部隊も撤退し、翌日には日本軍が平壌を占拠した。

 左宝貴軍敗退の報が奉天に届くと、人々は日本軍の奉天攻撃を恐れて、奉天北方や東北方面の山岳部に避難しようとした。スコットランド長老教会宣教団は南方、遼河が遼東湾に入る河口に近い開港場である「牛荘」(本当の牛荘ではなく、実際には営口。イギリスは1858年の天津条約との関係で、営口を「牛荘」と呼び続けた)に避難することになり、10月28日、クリスティーも奉天を退去して、「牛荘」に向かった。「牛荘」には他の宣教団がいくつもあったので、12月、協力して赤十字病院を開設し、戦傷者の治療などに当たった。1895年3月7日、日本軍は「牛荘」を攻撃し、小規模の市街戦の後、これを占拠した。しかし、それによって宣教団の活動が妨害されるということはなかった。1895年4月17日、日清講和条約が調印され、日清戦争は終結した。これにより、7月、クリスティーらは奉天に戻った。奉天は戦火に見舞われることもなく、各キリスト教団の教会や病院はすべて無事であった。

(3)義和団と奉天

 しかし、1900年の義和団事件では、奉天のキリスト教宣教団やキリスト教徒は多大な被害を被った。1900年6月、義和団は北京に入り、清国兵と共に各国公使館を攻撃、日本公使館の職員1名とドイツ公使が殺害された。6月19日、西太后は義和団を支持し、列強と戦うことを決定、21日、列強に対して宣戦布告した。その頃、奉天にも義和団の首領が何人か来て、団員の徴募を始めた。6月20日、「外国人を口穢く悪罵した貼紙が到るところに貼りだされ、すべての忠良なる支那人民は蹶起して彼らを国土より掃蕩せよ、と呼びかけられた。二十四日が建物焼打の日と定められ、それに助勢した者には賞金が約束された」(『奉天三十年』上巻、182頁)。

 こういう騒然たる情勢の中、6月23日、スコットランド長老教会宣教団はクリスティーら3人を残して、奉天を退去し、25日にはクリスティーらも「牛荘」に退避した。30日、クリスティーは奉天に残っていた中国人医師からの次のような電報を受け取った。「本日四時頃教会が焼かれた。病院と住宅とが燃えつつある。牧師の生死、並に殺された信者数不明」。その翌朝には、「男子病院、婦人病院、住宅、聖書協会の建物、教会、礼拝堂、すべて拳匪〔義和団〕のため灰燼に帰した」という電信があった(『奉天三十年』上巻、187頁)。

 その後、「牛荘」も危険になったため、スコットランド長老教会宣教団は日本、上海、本国(スコットランド)などに四散した。クリスティーは日本に逃れ、2カ月ほど滞在した。

 この頃、奉天では、クリスティーは奉天市外の北陵の森の中に潜んでいるという噂が立った。病院で治療を受けたことがある中国人馬商人で、普段はぺてん師のならず者でとおった男が、さまざまな食料品を一杯籠に入れて、密かに北陵の森の中を一日中クリスティーを探しまわった。外国人を助けたことが知られると殺されるのであるから、彼は命の危険を冒してそうしたのである(『奉天三十年』上巻、73-74頁)。当時、北陵を取り囲むうっそうとした森は身を隠したい人が隠れる絶好の場所と考えられていたのであろう。

 他方、8月14日、日・露・英・独など8カ国連合軍が北京に入城し、翌15日、光緒帝は西太后と共に西安に蒙塵(逃亡)した。これにより、清国政府の義和団に対する対応が一変し、9月7日、義和団鎮圧令が出された。奉天でも、清国軍が義和団の弾圧に当たり、10月1日にはロシア軍も奉天に入って、治安が回復された。しかし、この間に奉天のキリスト教会のすべてが破壊され、多くの中国人キリスト教徒が殺害された。特に、フランスのカトリック宣教団は数百人の中国人信徒とともに頑丈な壁で囲われた教会の敷地に立てこもり、武装して抵抗したが、最後には大砲で攻撃されて、全滅した(『奉天三十年』上巻、191-193頁)。クリスティーは11月9日、肌を刺す寒気の中奉天に帰ったが、とても布教活動や医療活動をできる状態ではなかったので、2、3週間後には「牛荘」に戻り、その後一時スコットランドに帰国した。

(4)日露戦争と奉天

 1904年2月、日露戦争が始まり、5月には日本軍が遼東半島に上陸、満洲に戦火が拡がっていった。8月末には遼陽が主戦場となったが、9月4日、ロシア軍が遼陽から北方に退却し、日本軍が遼陽に入った。10月には遼陽と奉天の間の沙河で日露両軍が対峙し、戦局は膠着状態になった。翌1905年2月末、ロシア軍は奉天南方の日本軍に攻撃をかけようとした。それに対して日本軍が先手を打ってロシア軍陣地を攻撃したことから、奉天会戦と呼ばれる戦闘が始まった。3月1日、日本軍は奉天に総攻撃をかけ始めた。ロシア軍は北陵の森を占領していたので、8日には、北陵の森でも激しい戦闘があった。9日、ロシア軍は余力を残しながらも、戦闘態勢の整備のために、北方の鉄嶺さらにはハルビンへと退却することになった。10日、日本軍が奉天に入った。

 これらの満洲における日露両軍の戦闘は人々の生活を大混乱に陥れた。奉天には周辺の村々から戦火に追われた人々が大量に流入し、物価や家賃が数倍に高騰した。しかし、日露戦争にかんして局外中立の立場をとる清国の行政機関が曲がりなりにも機能していたこともあり、義和団事件の時のような極端な治安の乱れはなかった。

 クリスティーは日露戦争が始まった時、中国の天津に行っていて、すぐには奉天に戻れなかったのであるが、日本軍が遼陽を占領した後の1904年9月9日、混乱するロシア軍の間を縫うようにして、奉天に戻った。クリスティーはこの間の奉天の状況を次のように書いている。

 一九〇五年(明治三十八年)の始めの三箇月間に、我々は一万人以上、政府は三万八千人以上の人を助けた。始めから終り迄の間に、奉天に来た避難民は約九万人と推定せられ、この外新民屯その他に逃げた者も何千人とあった。

 これらの群衆に住居を与えるのは容易な問題ではなかった。しかし、冬に一晩露天で寝ることは多数の者に取りて死を意味したから、最も間に合わせの設備でも感謝を以て迎へられた。我々は、要求せられたら家賃を払うことにして、所有者の逃げ去った一二の大きい空屋敷を占領した。焼け跡となった我々の病院の屋敷内には約七百人を収容した。(『奉天三十年』下巻、252頁)

 当時に於ける奉天の衛生状態が良くなかったことは、想像するに難くないであろう。流行病が頻りにあった。小児の多数ゐる我々の収容所では、麻疹、水痘、猩紅熱が絶え間なくあり、更に天然痘の流行があって多くの小児の生命を奪った。チフス患者のためには別の屋敷を宛てたが、その他の病気に対しては隔離は不可能であった。腸チフスの流行は、それの起り得べきあらゆる条件があったに拘わらず、幸にも見ないですんだ。(『奉天三十年』下巻、254頁)

 日露戦争は奉天にまで戦火を及ぼしたが、奉天のキリスト教医療宣教団は、義和団事件の時とは異なり、日露戦争中も戦後も医療活動を継続することができたのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.46)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

世界史寸評
外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考
南塚信吾

 わたしたちの著した『軍事力で平和は守れるのか』(岩波書店、2023年)でも紹介したように、1959年にオスロ平和研究所を創設して「平和学」の祖と言われるヨハン・ガルトゥングは、1958年に、平和を定義して、武力紛争など「直接的暴力」を克服することによって達成される「消極的平和」と、社会構造に生じる貧困や差別などの「構造的暴力」を克服することによって達成される「積極的平和」を分けることができ、とくに後者の平和が重要になってきていると主張した(かれの積極的平和の概念は、安倍元首相の「対米追従」の積極的平和主義と用語は似ているが内容は大いに異なるものであり、ガルトゥング自身、「印象操作」だと批判している)。そのガルトゥングは、2017年に『日本人のための平和論』(ダイヤモンド社)という著書を著している。この書において、ガルトゥングは、日本における平和論が「外から」はどのように見えているのかを示してくれている。同書については、すでに法律家の大久保賢一氏らの紹介がある(ヨハン・ガルトゥング著『日本人のための平和論』を読む (hankaku-j.org))が、歴史学の面からも検討されてよいと考える。

***

 ガルトゥングはまず、日本の安全保障観が「外から」どのように見えているのかを、以下のように指摘している。筆者の観点から少し断定的にまとめてみた。

  1. 日本は外からは完全にアメリカの「従属国」であり、「占領」下にある「植民地のレベル」にあると見られている。日本は「対米追従」をやめて、アメリカから「真に独立」すべきである(『日本人のための平和論』14-16、115-116、122ページ)。 
  2. 米国は日本の憲法第9条も邪魔だと考え始めている。日本国憲法は、もともと米国が統治しやすいように「押し付けた」ものだが、米国は、第9条がなくなれば、いまや変化した米国の世界戦略に日本を有効に使えると考えている(14-15ページ)。一方、「憲法9条があるために、これまで日本では現状を変えるための平和政策が生まれてこなかった。ほとんどの日本人は9条がすべて面倒を見てくれると信じ、代替案が必要などと考えもしなかった」。「いざとなったら憲法9条が守ってくれる。その発想がいまの日本を危うくしているのではないだろうか。」という(223-224ページ)。
  3. 沖縄は「琉球処分」の前に戻って、「自立」すべきである。例えば、日本の中の「特別な地位」を認められるべきである。そして、沖縄の米軍基地は全廃すべきである(40-43ページ)。
  4. すべての米軍基地を日本から撤退させればいい。日本は米軍基地などなくても安全を確保できる。米国は基地と主要兵器を各国の中心から離れた周辺に置いているが、日本ではそうではない。そういう基地がない方が創造的な平和政策が実施しやすくなる(33-35ページ)。
  5. 国を守るためには、外交努力だけでなく武力による防衛も必要である。だが、日本は攻撃的な武器を持たず、徹底して「専守防衛」を維持すべきである。とくに長距離兵器を持たないなどの原則を立てるべきである(44-53、120-121ページ)。これに関連して、原子力発電とも決別すべきである(125-128ページ)。
  6. 尖閣、北方4島などは関係各国の「共同所有・管理」にするのがよい(61-63、116-118ページ)。
  7. 中国の考え方を理解すべきである。向こうから戦争してくることはあり得ない。中国はこれまで一度も日本本土を攻撃したことがない。中国は自分の文明を他より優れていると考えて、傲慢かもしれないが攻撃的ではない。むしろ防御的である。中国はヨーロッパ諸国や米国と違って、軍事力をひっさげて広大な世界に進出したことはない。中国に日本を攻撃する意図があるとは思えない。日本人は、「私たちは彼らを攻撃したことがある。彼らは報復を計画しているに違いない。ゆえに彼らは危険だ」というパラノイアを懐いているのだ(74-80ページ)。 
  8. 北朝鮮とは「和解」のチャンスはある。日本が植民地支配と戦争中に与えた損害にたいして政府が明確な「謝罪」をし「補償」をすれば一歩前進する。「慰安婦問題」については、北朝鮮は韓国ほどヒステリックではない。「拉致問題」は日本が戦争中までに行った強制労働などへの「単純な復讐」なのである。北朝鮮の核保有は「抑止力」のためであり、国力の誇示のためである。経済制裁はまったく「逆効果」である(91-100,245-259ページ)。北朝鮮が望んでいるのは、平和条約締結、国交正常化、核なき朝鮮半島である(119ページ)。
  9. 日本は関係各国と歴史的事実を共同で確定し、「和解」を探るべきである。慰安婦問題、南京事件、真珠湾攻撃、原爆投下問題について、関係国とこれを行うべきである(101-114ページ)。
  10. 「東北アジア共同体」を構想するべきである。そこには中国、北朝鮮もメンバーにはいるべきである。諸国間の緊張・対立はアメリカを利するだけである(118-120ページ)。

 要するに、日本は「対米追従」をやめて、近隣アジア諸国と対話し、独自の外交と防衛の政策を追求すべきであるというのである。

***

ガルトゥングは、以上のような指摘をしたうえで、次に、アメリカの対日政策について、以下のように言う。

  1. 米国が他国に行う軍事介入の目的は、テロとの戦いのためでも、人権や民主主義の擁護のためでもなく、覇権主義の行使であり、経済的利益の確保なのである(28ページ)。
  2. こういう覇権主義を進めるアメリカは頼れる仲間を次第に失いつつある。中南米、ヨーロッパで足場を失いつつある。そして、今や中国の挑戦を受け始めている。そういう時、「この手詰まりを打開するために日本を使おうとしている」のだ(30ページ)。
  3. 米国は日本に対し、ただ米国に守られているだけでなく、米国とともに戦闘に参加させる必要があると考えている。そのためには憲法第9条は邪魔だと考えている(14-16、36.ページ)。
  4. 日本が他国に攻められたとしても、米国が日本を助けに来るとは思えない。そのことは強く疑うべきである(36ページ)。
  5. 「核の傘」などということは信じられない。米国が日本を守るために中国と核戦争に突入するリスクを取るということは信じられないことである(36-37ページ)。
  6. いま多くの日本人は、米国に守ってもらわなければ日本の安全は守れないのではないか、そのためには「集団的自衛権」を行使して米国に協力しなければならないのではないか、日本はテロとの戦いに参加する道義的義務があるのではないか、と思っているように見受けられる。「集団的自衛権」は日本を守るどころか、日本の安全を脅かすものでしかない。それは日本をより危険な状況に陥れる。「集団的自衛権」は、全くのナンセンスであり、プロパガンダである。それは軍事同盟であり、「米国による他国攻撃に参加する権利」なのである(16-18ページ)。
  7. 中国や韓国の人々は、米国と、米国に動かされる日本の「タカ派」を恐れている。日本は、他国からは、それほど「安全な国」だとは見られていない、むしろ「危険な国」と見られていることを自覚しておく必要がある(21-23ページ)。

***

 ガルトゥングが示すこのような「外から」の見方によって、われわれは自分の置かれている場所を見つめなおすことができるのではないだろうか。われわれのかなりの人は、日本は平和憲法を持っている平和な国民なのであり、さらに日米同盟によりアメリカに守られているのだと、思っているかもしれない。ガルトゥングは、「外から」見れば、それは「幻想」だというのだ。

 しかし、われわれはそれを「幻想」と言われると反発する。それは、われわれの思考があまりにもアメリカべったりになっているからではないだろうか。いったい、日本はいつからこのようにアメリカべったりになったのだろうか。

 考えるに、1950年代-70年代においては、日本はアジア諸国や社会主義圏との関係も尊重して、ある程度自分たちの行方を模索していたのではなかろうか。1955年のバンドン会議、56年の対ソ交渉、1972年の日中国交回復などを見ればわかるだろう。十分な検証が必要ではあるが、転機は1979年頃ではなかろうか。「日米同盟」という用語が使われ始めたのは、1979年ごろからである(冨田佳那「「日米同盟」言説の出現」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』2019)。それが既成事実となり、大義になり、日常になる。1980年代の中曽根・レーガン時代はそうであった。そして、今やわれわれの思考はあまりにもアメリカべったりになってしまっている。政治だけでなく、文化もメディアもそうである。歴史学もそうでないといいのだが。ガルトゥングの言う事は、日本はもっと創意工夫をした外交と安全保障の政策を追求すべきだということであろう。なお、「対米従属」がもたらす諸問題については、最近出た内田樹・白井聡『新しい戦前』(朝日新書、2023年)でも論じられている。

(本論での出典は、ヨハン・ガルトゥング著 御立英史訳『日本人のための平和論』ダイヤモンド社、2017年―Johan Galtung (with Miguel Rivas-Micoud), People’s Peace: Positive Peace in East Asia & Japan’s New Role, Tuttle-Mori, 2017)

(「世界史の眼」No.46)

カテゴリー: 世界史寸評 | コメントする

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 7(2023年12月23日)

「これが『自衛権』なのか」

 2023年12月22日の『東京新聞』の「社説」は、「これが『自衛権』なのか」というタイトルで、イスラエル軍の「逸脱した行動」を非難し、「自衛権についての疑問を投げかけている。イスラエル軍がハマースに拘束されていたイスラエル市民3人を銃撃した事件、ガザのカトリック教会でのパレスチナ人女性の射殺した事件、イスラエル警察がトルコ人記者を集団で暴行した事件その他を挙げ、こうした兵士の「蛮行」は、イスラエル高官がハマースを「人間の顔をした動物」と侮辱したことと無関係ではなかろうと指摘するとともに、こうした行動は、イスラエルが今回のガザ攻撃を「自衛権」の行使だとする主張に疑問を抱かせるとしている。私見では、この「社説」は、さらに、今回の攻撃は「自衛権」の行使だという主張はそもそも成り立たないという国連関係者の主張(特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 2(2023年11月21日)参照)にまで行きつかざるをえないと思われる。イスラエル、そしてその背後の欧米の主張は、冷静に、クリティカルに受け止められねばならないであろう。

(南塚信吾)

藤田進
戦争の裏に天然ガスあり

カテゴリー: 「世界史の眼」特集 | コメントする

戦争の裏に天然ガスあり
藤田進

 12月12日、国連総会は、ガザにおける「人道的停戦」を求める決議を、賛成153、反対10、棄権23の圧倒的多数で採択した。日本はこれに賛成した。反対したのはイスラエル、米国、オーストリア、チェコなどで、棄権はイギリス、ドイツなどであった。al-JazeeraはもちろんNHKでさえ、ここに米国の「孤立」が見て取れると指摘している(南塚氏の12月13日記事より)。圧倒的多数で採択された事実には、パレスチナにおけるイスラエルの残虐な蛮行に対しこれ以上見過ごせないとする各国の思いが見て取れる。

 同時に、アメリカとイスラエルは状況が壊滅的になろうとも殺戮を止めないことに関して興味深い報告が発表され注目を集めている。

 ロンドンで発行されているアラビア語紙「アル・クドゥス・アル・アラビー」2023年11月25日付(電子版)[i] は、石油・天然ガス専門情報組織OIL PRICEの11月23日のウェブサイト に掲載された「ガザ沖合の天然ガスによってガザ経済の再建は可能」(Offshore Gas Field Could Help Gaza Recovery)と題するCharles Kennedy報告[ii] を取り上げた。

 Charles Kennedyは「ガザ沖合の天然ガス埋蔵地区(Gaza Marine)の海底に10兆立方マイル以上の天然ガスが埋蔵されており、これは将来のパレスチナ経済の大きな財源である」と指摘している。その上で、「イスラエル政府がGaza Marineを狙っており、天然ガスがイスラエルとハマースの戦争の理由となるとしばしば言われてきた」のにふれ、さらに11月にイスラエルを訪問した米大統領エネルギー安全担当顧問Amos Hochsteinの発言を通じて、ヨーロッパのエネルギー危機で東地中海の天然ガスが熱い視線を浴びている今、イスラエルの天然ガス会社を含めたいくつもの企業がGaza Marineのガス田開発に強い関心を抱いているのに不思議はない、とする米国の反応を伝えている(写真参照)。

 同報告は「ハマース殲滅」を掲げて住民を強制退去させガザ全面支配をめざしているイスラエル軍のジェノサイド攻撃が、抵抗を排除してガザ沖合天然ガス開発事業を本格化させようとする米国・イスラエル・国際資本の意向と結びついていることを浮かび上がらせた。以下ではCharles Kennedy報告・その他関連資料に依拠しながら、天然ガスをめぐるイスラエルとパレスチナ住民の抗争の経緯をたどってみたい。

 ガザ沖合の海底天然ガス開発がはじまったのは、「パレスチナ国家(通称パレスチナ自治政府)」成立6年後の1999年である。1993年オスロ合意が、イスラエルのパレスチナ占領地返還とPLO(パレスチナ民族代表機関)の対イスラエル武力闘争放棄に合意した両者間の平和条約(=「パレスチナ・イスラエル平和条約」)として成立した。オスロ合意に基づいて「ガザとヨルダン川西岸地区」を領土とするパレスチナ自治政府が誕生し、1995年制定のオスロ第二協定(Oslo AccordsⅡ)は「パレスチナの沖合20マイル以内の海域はパレスチナ領」と定めた。

 パレスチナ自治政府は1999年、パレスチナ領内の「ガザ天然ガスエリア」(Gaza Marine)の試掘権をBritish Gas(BG)とアラブ建設企業のConsolidated Contractors Company(CCC)に与え、BGは2000年海底に巨大な天然ガス層を発見した。パレスチナ自治政府はBGと、Gaza Marineのほぼ全域でのガス田開発を認めるとともにパレスチナ諸関連産業の振興をはかることを内容とする25年期限の契約を交わし、BGは2つの天然ガス田の開発に着手した[iii]。豊富な天然ガスの発見に接した自治政府代表のアラファトは2000年9月のテレビ演説で「この資源は経済の堅固な土台をなしわれわれの独立国家を支えてくれることだろう」と喜びを語った[iv]

 しかし、イスラエル政府は当初からパレスチナ自治政府が独自に天然ガス開発に取り組むことに難色を示し、イスラエル海軍を出動させてBGの操業を執拗に妨害した[v]。さらに2002年、BGがガス田から抽出した天然ガスをガザの加工プラントに送るパイプラインの建設を提案しパレスチナ自治政府がこれを承認すると、イスラエルはこれに介入し、「天然ガスを送るパイプラインをイスラエル国内の港につなぎ、天然ガスの余剰部分は市場価格より大幅安値でイスラエルに供与する」[vi],また「“テロの資金になることを防ぐ”ためパレスチナ側に渡るすべての収入をイスラエルが管理する」[vii]要求を自治政府に突きつけた。パレスチナ自治政府はオスロ合意に基づいた確固たる「主権国家」であり、パレスチチナ側が自国領海内で独自にすすめる天然ガス開発事業を妨害したり計画内容の変更を迫ったり、収入の管理にまで手を出すのはパレスチナ自治に対するあからさまな自治権侵害に他ならなかった。

 イスラエル管理下のガザ天然ガス開発が続く一方で、豊富な天然資源による経済的繁栄が約束されるはずのパレスチナ住民達の生活は、オスロ合意以降、以前にも増してあらゆる妨害や抑圧により状況は悪化の一途を辿っていた。その状況を変えることができず自治政府や一部の特権階級が振りかざす腐敗した権力に対する不満が住民達の間に生じるのは当然のことであった。生殺与奪の権を握るイスラエルと自治政府に抗う民意が、2006年1月パレスチナ自治議会選挙で「占領がある限りパレスチナ人の平和はない」としてイスラエルの占領を黙認するオスロ合意に反対し占領軍・入植者に対する武力抵抗を続けてきたイスラム政治組織のハマースを合法的に政権の座につかせたのである。

 イスラエルとカルテット(米・ロシア・EU連合・国連)はハマースがパレスチナ自治政府の政権の座につく事態に動揺し、パレスチナへの経済援助の停止とハマース拠点のガザへの空爆の圧力で民衆を離反させハマース政権の失脚を企てたが失敗した。ハマース政権放逐が困難となった2007年、イスラエルはガザ沖合の天然ガス開発エリア(Gaza Marine)を軍事封鎖した。さらにガザ長期封鎖策を開始した2008年12月、国際法に違反して「Gaza Marineはイスラエル領」と一方的に宣言した。この宣言によって、ガザ天然ガス開発事業に取り組んできたBGは活動を停止し、その後ロイヤル・ダッチ・シェルがBGを買収したものの、Gaza Marineの天然ガス開発事業は好転せずそのまま休眠状態となった。イスラエルはGaza Marineを封鎖して天然ガス生産を凍結する一方で、長期封鎖体制下のガザ住民が外部に依存する電力および電力を起こす火力発電所の燃料の供給を管理しており、たとえば2008年1月22日火曜日のガザ住民は次のような締め付けを被っていた。「人口150万人のガザの必要電力量は240メガワットであるが、通常200メガワットくらいしか配電されない。電力の60%はイスラエルが供給し、エジプトの送電量は8%で、残りの電気はガザの火力発電所で発電するが、発電用燃料はすべてイスラエルが供給する。1月17日、ハマースによるイスラエル南部ミサイル攻撃の報復としてイスラエルはガザへの燃料搬入を禁止した。発電所は燃料切れとなり19日以降ガザ市は停電状態が続き、国際社会はガザ住民生活の危険な状態を憂慮した。」[viii]

 一方イスラエルは2009―10年に天然ガス埋蔵地帯の一角に二つの巨大な海底ガス田を開発し、同国は天然ガス輸出国となったにも関わらず、パレスチナ領内にあるGaza Marineに関しては占拠したままガス田開発凍結状態を解こうとしなかった。

 2019年国連貿易開発会議(UNCTAD)調査報告が発表され、①東地中海のエジプト、パレスチナ、イスラエル、レバノン一帯のLevant Basin Province Assessment Area(地図参照)には1220兆立方フィートの天然ガス埋蔵量―世界の最重要天然ガス埋蔵地のひとつ―がある、②ガザ沖合のGaza Marineには45億9200万ドル相当の天然ガスがある、➂パレスチナのヨルダン川西岸地区とガザに石油と天然ガスの埋蔵地点が確認されており「パレスチナの貧困改善に大いに役立つ」ことが明らかにされた。

 この調査報告でパレスチナ沖の豊富な天然資源がパレスチナ人を貧困から救う切り札であることが明確になった後も、イスラエルは一貫してそれに触れることを許さず、占領下パレスチナで必要とされる燃料、ライフラインは全てイスラエルが管理し、イスラエルの判断で遮断される状況が現在も続いている。

 ところがGaza Marine開発を凍結していたイスラエルが、突如開発に舵を切ると態度をかえた。2023年6月18日、ネタニヤフ首相は「イスラエル、エジプト、アッバース・パレスチナ自治政府はパレスチナの経済発展と治安の安定に向けて協力し、ガザ沖合の天然ガス埋蔵地域(Gaza Marine)の開発事業に共に取り組むことを決定した」ことを明らかにした[ix]

 この発表の前年の2022年、ウクライナ戦争によるノルドストリーム・パイプライン爆破、ロシアに対する経済封鎖と輸出禁止によりヨーロッパを中心に世界的なエネルギー供給危機が起き、急激な天然ガス需要拡大がもちあがった。この緊急事態への対応をめぐって同年6月エジプトのカイロで、米、イスラエル、エジプト、パレスチナ自治政府、湾岸産油国などが出席した7か国首脳会議が開かれ、会議期間中にイスラエルの天然ガスをエジプト経由ヨーロッパ輸出することを決めたイスラエル・エジプト協定が、フォン・ディア・ライエン欧州委員会委員長立会いのもとでむすばれた[x]。ネタニヤフの発表は、前年来のイスラエルを含む中東諸国と欧米の経済協力関係の前進を踏まえてのものだった。

 ネタニヤフ首相がGaza Marine新規開発計画を発表した翌19日、その計画に反対するハマースのスポークスマンが次のメッセージを発した。「天然ガスはパレスチナ人民の財産である。ガザ沖の天然ガスは貧しい人々、青年たち、そしてパレスチナの将来を担って次々やってく者たちのものである。」[xi]

 ガザを違法占領して住民を長期完全封鎖下に置いているイスラエルが、パレスチナ領内のガス田を管理し掘削を許可する権限をもっているのを、アッバースのパレスチナ自治政府は受け入れてイスラエルと一緒になって新規開発計画を協議している(写真参照)。その様子は、海底に自分たちの豊富な天然資源を有しながら近づくことも利用することもできないガザ住民には屈辱的である(写真参照)。

ネタニヤフ イスラエル首相とアッバース パレスチナ自治政大統領の密談(2023/11/20)
https://www.alquds.com/en/posts/101527
「ガザの沖合天然ガス田は我らのもの」とデモする住民  (2022 年 9 月)
Palestinians demand right to natural gas field off Gaza Strip – Middle East Monitor

 冒頭に示した、Charles Kennedy報告が指摘した「イスラエル政府がGaza Marineを狙っており、天然ガスがイスラエルとハマースの戦争の理由となるとしばしば言われてきた」ことを歴史に遡ることにより、イスラエルの蛮行の真意が明確なものとして可視化されたのではないだろうか。利権を巡り行われるあらゆる残虐行為や虐殺が理由付けされて公然とまかり通っている現状は許されて良いはずがない。

 最後に、2023年11月17日、ジュネーブ国連本部でのナダー・アブー・タルブッシパレスチナ国連大使が訴えたメッセージの一部分を下記に示しておきたい。[xii]

 「今年イスラエルの財務大臣がパリでこう発言しました。『パレスチナ人などという人々は存在しない』。9月24日のネタニヤフ首相は国連総会に出て「新しい中東」と書かれた地図を広げた。その地図でパレスチナは消されていた。すべてがイスラエルになっていた。イスラエルが領土拡大や差別を国是としていたとしても、ここでは通用しません。」

 「侮辱と根拠のない重大な非難を浴びせるだけでなく、イスラエルは皆さんがぞっとするようなことを述べました。事実上こう言ったのです。『私はガザのあらゆる人間をひとり残らず殺すことができる。ガザにいる230万人はテロリストか、テロリストの支持者か、人間盾のどれかだ。だから、標的にするのは合法的なのだ』と。イスラエルによれば、ガザのすべての人間がこれらの3つのいずれかに分類されるのです。子ども、ジャーナリスト、医師、国連職員、保育器のなかの未熟児も、それゆえイスラエルは人々を殺したあとで、大胆にもこの会議に出席し、『我々は国際法に準じて行動している』と。この1カ月の犠牲者は11,350人以上になりました。たとえそれが、子ども、ジャーナリスト、国連職員、病める人、高齢者であれ、イスラエルはそれぞれの死を正当化しました。」

 「私たちの民を強制的に移住させ、私たちの土地を占領し、私たちの家を破壊し、その所在地から追い出しました。10月7日以降だけでなく、それ以前の75年間にわたってみてきた事実です。」

 「例え『ガザを消してしまえ』また『パレスチナの人々の上に核爆弾を落とそう』『ヒューマン・アニマルと邪悪な子供を殺せ』」と煽ってもこう考えていませんか?威嚇や脅迫的な言葉を続けることで世界の眼を事実からそらせると、イスラエルは今この瞬間も赤ん坊、子ども、男女、高齢者まで殺しています。幼くても年老いても重病であっても、攻撃対象からは外れません。」

劫火の中で高まる抵抗の民意

 パレスチナの民間調査機関「パレスチナ政策調査研究所」(PSR)が12月13日と11月22-12月2日に、ヨルダン川西岸地区とガザ地区で1231人に対面で行った世論調査の結果を次の様に発表した。
・ハマース支持44%、ファタハ支持17%。
・「パレスチナ自治政府の大統領選が行われた場合はどちらを選ぶか」の質問への回答
現アッバース大統領支持16%、ハマース指導者のハニーヤ支持78%」
(「赤旗」12月5日付より引用)


[i] https://www.alquds.co.uk/(2023/11/25)

[ii] https://oilprice.com/Energy/Natural-Gas/Offshore-Gas-Field-Could-Help-Gaza-Recovery-html

[iii] Betsey Piette, Behind Israel’s ‘end game’ for Gaza: Theft of offshore gas reserves, posted on November 14, 2023  https://www.workers.org/2023/11/74864/ 

[iv] Emad Moussa,Gaza’s gas fields:A symbol of Palestine’s shackled economic potential, https://www.newarab.com/analysis/gazas-gas-fields-how-israel-shackled-palestines-economy

[v] Wikipedia’ Natural gas in the Gaza Strip https://www.workers.org/2023/11/74864  

[vi] Betsey Piette, op.cit.

[vii] Wikipedia, op.cit.

[viii] http://english.aljazeera.net/News/aspx/print.hym

[ix] al-Quds al-Arabi,19,June,2023  https://www.alquds.co.uk

[x] al-Quds al-Arabi,7,January,2023 https://www.alquds.co.uk

[xi] al-Quds al-Arabi,19,June,2023 https://www.alquds.co.uk

[xii] 特定通常兵器使用禁止制限条約(CCCW)第5回締結国会議における発言 https://www.youtube.com/watch?v=_IvuYQNHcts

(「世界史の眼」2023.12 特集号7)

カテゴリー: 「世界史の眼」特集, コラム・論文 | コメントする

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 6(2023年12月20日)

「植民地主義」

 2023年11月7-8日に日本で行われたG7プラスの外相会議で、議事の重要な柱として、パレスチナでの戦争について話が行われた。会議はハマスを非難した後、早期の休戦や人道的救済などについて合意した。その会議後、8日に外人記者クラブでの会見で、アメリカのブリンケン国務長官は、G7会議での合意を説明した後、ガザとパレスチナの戦後の体制について、こういう趣旨の発言をした。

 米国は、ガザからのパレスチナ人の強制退去、ガザをテロの温床にすること、戦後のガザを再占領すること、ガザを封鎖したり包囲すること、ガザを地域的に縮小することは望まない。平和を持続させるためには、危機後のガザの統治の中心にパレスチナ人の声と願いが置かれなければならない(the Palestinian people’s voices and aspirations at the center of post-crisis governance in Gaza)。それは、パレスチア人の率いる政府であり、パレスチナ人政権のもとでガザを西岸と合体することである(Palestinian-led governance and Gaza unified with the West Bank under the Palestinian Authority)。そうして、イスラエル人とパレスチナ人が自分自身の国家を持って共存し(Israelis and Palestinians living side by side in states of their own)、同じような安全と、自由と機会と尊厳をもつようにするべきである、と。(https://www.state.gov/secretary-antony-j-blinken-at-a-press-availability-41/

 これを受けて、ローデシアのジャーナリストTafi Mhakaは、Aljajeeraの12月15日付Opinion「アフリカはパレスチナについての西の植民地ゲーム・プランに反対しなければならない(Africa must challenge the West’s colonial game plan for Palestine)」において、G7東京会議は、ビスマルクが主催した1883-4年の西アフリカ・ベルリン会議のようだと批判した。つまり、パレスチナにせよ西アフリカにせよ、ともに当事者のいないところで、当事者たちの統治形態を議論しているというのである。植民地史上「悪名高い」ベルリン会議は原住民の意向を考慮すると言いながら、会議に原住民を一人も呼ばなかったではないか。かれは、これは「植民地主義」にほかならないという。パレスチナ人の「自決権」などブリンケンは触れもしなかった。

 そのうえで、Tafi Mhakaは、アメリカが提案しているように、ガザをヨルダン川西側と合わせて、「パレスチナ人を代表する政権」の統治下に置くという事は、西岸のアッバス政権の統治下に置くということにほかならず、その方式には反対だという。それは、極めて「人気のない」「無能の」アッバス政権は、アメリカなどの「傀儡政権」にほかならないからだと言う。これは「植民地主義」の手段にほかならないというのである。

 Tafi Mhakaは言う。パレスチナ人には自分が好む政府を選ぶという民主主義的権利があるのだ。G7はハマスを排除した新たな政治体制と政治システムを押し付けるべきではない。パレスチナにおける民主主義というのは西の(そしてイスラエルの)要求と同義語であってはならない。

 ハマスは2006年の議会選挙でアッバスのファタハ党を破ってからガザを統治してきていた。だが、その時以来、西側諸国は、ハマス政府を転覆して、ガザをファタハの支配下に戻そうと共謀してきた。それはブッシュ政府のもとで数回試みられた。こういう不法な計画は失敗したが、今日また、米国とその強力な同盟諸国は、ふたたび、ハマスを排除し、占領されたパレスチナ人の土地をすべて、イスラエルに友好的な傀儡政府の下に置こうとしている。名前だけはパレスチナだが、実際には植民地列強(colonial powers)の言いなりになっている政府の手にパレスチナを委ねることは、持続的な平和と正義をもたらしはしない。

 このように述べた後で、Tafi Mhakaはアフリカ人としてこう述べた。

 「アフリカ人として、われわれは、そのような新植民地主義の傀儡政府がすぐにつぶれて新たな流血を生んだり、あるいは暴力や抑圧や外部からの支援を得て長らく政権にとどまったりしていることを知っている。後者のような政府は、その植民本国の名で統治する領土を、腐敗と人権侵害と極度の貧困と大規模な失業の沼地にしてしまっている。その沼地は、きれいにするには、国民的政府が、数十年とは言わぬまでも長い年月を必要とするのである。」(https://www.aljazeera.com/opinions/2023/12/15/africa-must-challenge-the-wests-colonial-game-plan-for

 上で見たような意見は、アフリカの一ジャーナリストの意見であるが、「ガザ戦争」を別の角度から見る場合の参考になることは間違いがないであろう。

 もちろん、イスラエルのネタニヤフは、上のブリンケン発言とも違って、戦後の「ガザ」について、それのイスラエルによる「管理」を主張しているのであるから、アフリカの人はさらに憤りを懐くであろう。

(南塚信吾)

木畑洋一
イスラエル批判と反ユダヤ主義

カテゴリー: 「世界史の眼」特集 | コメントする

イスラエル批判と反ユダヤ主義
木畑洋一

 本特集「イスラエルのガザ攻撃」を考える4の「米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向」において、油井大三郎氏は、「米国では、イスラエルを批判すると、すぐ「反ユダヤ主義者」のレッテルが貼られ、それ以上の批判が封印される傾向がずっと続いてきたが、近年、シオニズムに反対するユダヤ系知識人の台頭が目立つようになっている」と、指摘した。これは確かに、現在のイスラエルによる暴虐な行動を前にした、米国での目立った変化といえよう。しかし、イスラエル批判が「反ユダヤ主義」と同一視されるような形で激しい社会的攻撃の対象となる事態が、米国で顕著に見られていることにも、また注意しておくべきであろう。その一例が、パレスチナの現状に関する大学内での意見表明をめぐる最近の動きである。

 今月(2023年12月)5日、米国の連邦下院の教育・労働委員会で開かれた公聴会において、証人として出席した、ハーヴァード大、ペンシルヴァニア大、マサチューセッツ工科大の学長に対して、共和党のエリーゼ・ステファニク議員(トランプ派として知られる)が、「ユダヤ人のジェノサイドを呼びかけることは、あなた方の大学では、いじめやハラスメントを禁止する学則違反に該当するか」と、質問した。ここで、「ユダヤ人のジェノサイドを呼びかけること」と表現されている対象は、各大学の学生の間で盛り上がったイスラエル批判の運動のなかで、パレスチナ人によるインティファーダ(反イスラエル蜂起)が鼓吹されたりしていることなどを指していた。それに対して、ペンシルヴァニア大のエリザベス・マギル学長は、「文脈による」と答え、他の学長たちも同じような回答を行った。

 学長たちのこうした発言に対し、「ユダヤ人のジェノサイド」への呼びかけを完全に非難しなかったことは反ユダヤ主義的であるとの批判が生じた。そして、ペンシルヴァニア大学では、多額の寄付をしていた人物が寄付金を引き上げ、ユダヤ系学生が同大学はユダヤ人に対する憎悪、差別の温床と化していると訴えるといった事態が展開することになり、そうした動きを前に、マギル学長が、12月9日に学長を辞任すると表明せざるをえなくなったのである。他の学長たちは職にとどまっているが、こうした「反ユダヤ主義」批判がこれからも米国の大学キャンパスでさらに激化することが予想される。

 この状況をめぐり筆者が考えていることを、以下で簡単に述べてみたい。

 問題は、イスラエル批判、イスラエルの行為に対する非難が、反ユダヤ主義と同一視されるという点である。イスラエルがユダヤ人によって作られたことはいうまでもない。イスラエルにはユダヤ人以外の人々も多く居住しており、ユダヤ人国家と言い切ってしまうことは厳密にはできないものの、とりあえずそう呼んでおこう。そうであるとしても、イスラエル政府、イスラエル軍がパレスチナ人に対して現在行っている(そしてこれまで長年行ってきた)非人道的残虐行為、国際法違反行為を批判することが、ユダヤ人差別や反ユダヤ主義とそのまま重なるわけではない。にもかかわらず、その同一視がまかり通っているのである。

 その要因の一つとして、反ユダヤ主義に関する国際的なある定義を紹介しておこう。それは、2016年に国際ホロコースト記憶連盟(International Holocaust Remembrance Alliance: IHRA)という政府間組織(日本は非加盟)が下した定義である。それは、「反ユダヤ主義はユダヤ人についての一観念であり、それはユダヤ人に対する憎しみと表現できる」と一般的に規定した上で、11の具体的例を挙げている。そこに、ユダヤ人の殺害を求めたり正当化したりすることとならんで、「イスラエル国家の存在を人種主義的営為と主張」したり「現在のイスラエルの政策をナチスの政策と比較」することが挙げられているのである。この定義は法的な力をもつものではないが、米国政府とEU諸国の大半はそれを受け入れる姿勢を示し、2019年には米国のトランプ大統領が、この定義による反ユダヤ主義から学生が守られていない大学に連邦政府が資金を提供することをやめる旨の行政命令に署名した(Masha Gessen, “In the Shadow of the Holocaust“, The New Yorker Daily, Online, 2013.12.9)。この定義に対しては当然批判も起こり、2020年には研究者たちが、イスラエル批判の言辞と反ユダヤ主義的言動とを区別することを例示した「エルサレム宣言」を出したものの、IHRAの定義は国際的な影響力を持ちつづけている。

 IHRAのこの定義については、イスラエルの政策とナチスの政策の比較という論点に着目する必要があろう。ここでいうナチスの政策が、ユダヤ人の大量虐殺を中心とするホロコースト(その犠牲者はユダヤ人だけではなく、シンティ、ロマなども含まれていたが)であることは、いうまでもない。ハマスによる10月7日のイスラエル攻撃への反撃、人質の解放という名目のもとで、女性、子供の大量殺戮を伴いながら進められているイスラエルによるガザでの戦争は、ガザのパレスチナ人の根絶(肉体的抹殺だけでなく、住む土地からの根こそぎの追放をも指す)を狙うもので、まずはユダヤ人の国外追放(マダガスカルなどが追放先として考えられた)を、さらにはその肉体的抹殺をめざしたナチスの政策をまさに思い起こさせるものであるが、この定義はそうした歴史的想起を禁じているのである。本特集の1「ハマースのアル・カッサーム部隊のイスラエル軍事侵攻を検証する」の末尾で、藤田進氏は、ユダヤ系ポーランド人で強制収容所生還者の両親をもつガザ経済史研究者サラ・ロイ氏が、イスラエルによる2009年のガザ空爆直後に、「ホロコーストのむごさを心に刻む者たちが、なぜこんなことをできるのか」と述べたことを、紹介しているが、IHRAの定義は、問題の核心をつくこのような問いを封殺するものでしかない。

 IHRAによる反ユダヤ主義の定義では、ナチスによるホロコーストとイスラエル政府・軍の対パレスチナ人政策との比較可能性が否定されているが、ホロコーストと世界史上の他の虐殺行為が比較可能であるかどうかという問題は、1980年代にドイツで展開された「歴史家論争」以来、しばしば提起されてきた。そのなかで、ホロコーストが規模や残虐さの面で格段に重い意味をもっていたとしても、それは決して他の虐殺との比較を拒むものではないことが、認識されるようになってきている。ホロコーストを念頭に置いて考え出されたジェノサイドという概念が、世界現代史のさまざまなケースについて検討されていることは、その点を示している。前述したステファニク議員の質問がジェノサイドという言葉を用いていること自体も、逆説的ではあるがその証左といえよう。ジェノサイドという概念の適用可能性をも含めて、イスラエル政府・軍のガザにおける現在の行動がどのようなものか考えていくためには、ナチスの政策との比較を含む歴史的な眼が求められるのである。

(「世界史の眼」2023.12 特集号6)

カテゴリー: 「世界史の眼」特集, コラム・論文 | 1件のコメント

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 5(2023年12月13日)

「孤立」

12月12日、国連総会は、ガザにおける「人道的停戦」を求める決議を、賛成153、反対10、棄権23の圧倒的多数で採択した。日本はこれに賛成した。反対したのはイスラエル、米国、オーストリア、チェコなどで、棄権はイギリス、ドイツなどであった。AljajeeraはもちろんNHKでさえ、ここに米国の「孤立」が見て取れると指摘している。参考までに決議への投票状況を下に載せて置く。

(南塚信吾)

In favour: Afghanistan, Albania, Algeria, Andorra, Angola, Antigua and Barbuda, Armenia, Australia, Azerbaijan, Bahamas, Bahrain, Bangladesh, Barbados, Belarus, Belgium, Belize, Bhutan, Bolivia, Bosnia and Herzegovina, Botswana, Brazil, Brunei, Burundi, Cambodia, Canada, Central African Republic, Chad, Chile, China, Colombia, Comoros, Congo, Costa Rica, Cote d’Ivoire, Croatia, Cuba, Cyprus, Democratic People’s Republic of Korea (North Korea), Democratic Republic of the Congo, Denmark, Djibouti, Dominica, Dominican Republic, Ecuador, Egypt, El Salvador, Eritrea, Estonia, Ethiopia, Fiji, Finland, France, Gabon, Gambia, Ghana, Greece, Grenada, Guinea, Guinea-Bissau, Guyana, Honduras, Iceland, India, Indonesia, Iran, Iraq, Ireland, Jamaica, Japan, Jordan, Kazakhstan, Kenya, Kuwait, Kyrgyzstan, Laos, Latvia, Lebanon, Lesotho, Libya, Liechtenstein, Luxembourg, Madagascar, Malaysia, Maldives, Mali, Malta, Mauritania, Mauritius, Mexico, Monaco, Mongolia, Montenegro, Morocco, Mozambique, Myanmar, Namibia, Nepal, New Zealand, Nicaragua, Niger, Nigeria, North Macedonia, Norway, Oman, Pakistan, Peru, Philippines, Poland, Portugal, Qatar, Republic of Korea (South Korea), Republic of Moldova, Russia, Rwanda, Saint Kitts and Nevis, Saint Lucia, Saint Vincent and the Grenadines, Samoa, San Marino, Saudi Arabia, Senegal, Serbia, Seychelles, Sierra Leone, Singapore, Slovenia, Solomon Islands, Somalia, South Africa, Spain, Sri Lanka, Sudan, Suriname, Switzerland, Syria, Tajikistan, Thailand, East Timor, Trinidad and Tobago, Tunisia, Tuvalu, Turkey, Uganda, United Arab Emirates, United Republic of Tanzania, Uzbekistan, Vanuatu, Vietnam, Yemen, Zambia, Zimbabwe

Against: Austria, Czechia, Guatemala, Israel, Liberia, Micronesia, Nauru, Papua New Guinea, Paraguay, United States

Abstain: Argentina, Bulgaria, Cabo Verde, Cameroon, Equatorial Guinea, Georgia, Germany, Hungary, Italy, Lithuania, Malawi, Marshall Islands, Netherlands, Palau, Panama, Romania, Slovakia, South Sudan, Togo, Tonga, Ukraine, United Kingdom, Uruguay

出典:https://www.aljazeera.com/news/liveblog/2023/12/13/israel-hamas-war-live-world-calls-for-ceasefire-as-israel-bombards-gaza?update=2553990

油井大三郎
米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向

カテゴリー: 「世界史の眼」特集 | コメントする