「世界史の眼」No.33(2022年12月)

今号では、『真珠の世界史 – 富と野望の五千年』(中公新書)の著者でもある山田篤美さんに、「なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか」と題して論考をご寄稿頂きました。また、南塚信吾さんには、「世界史寸評 ウクライナ戦争への新たな見方」を寄せて頂いています。

山田篤美
なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか

南塚信吾
世界史寸評 ウクライナ戦争への新たな見方

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なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか
山田篤美

はじめに

 古代ローマのプリニウスは、『博物誌』第9巻において「貴重品の中でも第一の地位、最高の位が真珠によって保持されている」(中野定雄他訳)と記し、最後の巻にあたる37巻では「純粋で単純な産物に戻ることにして、もっとも高価な海の産物は真珠であり、地表にあるものでは水晶であり、地中にあるものではアダマス(ダイヤモンド)、スマラグドゥス(エメラルド)、各種の宝石、そして蛍石の器である」(同)と述べている。この後、プリニウスはシナモン、琥珀、乳香、象牙、べっ甲など様々な高価な物に言及し、「あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜わらんことを」(同)と締めくくっている[1]

 一方、10世紀前半のスィーラーフ出身のアブー・ザイド・アルハサンは『中国とインドの諸情報―第二の書』の中で次のように述べている。

 インドと中国の海は、「海中に真珠と竜涎香あり。その岩礁に宝石と黄金の鉱山あり。その海獣の口に歯牙あり。そこに生育する植物に黒檀、蘇芳木、ラタン、沈香木、竜脳香、ニクズク、丁香、白檀、その他のすべての良質の美味な香料類あり……かくの如くに、その海の神の恩恵は余りにも多すぎて、その一つひとつを数えあげることは誰にも不可なり」と譬えられている(家島彦一訳、()の文言を優先して掲載)[2]

 興味深いのは、プリニウスもアブー・ザイド・アルハサンもさまざまな貴重な交易品を列挙する中、真珠を冒頭に置いていることだろう。このように古今東西の一次文献をひもとくと、真珠が重要視されていることを示す文言に出会うことは少なくない。

 それにもかかわらず、真珠は歴史研究の多くの分野で見過ごされてきた。特に次の二つの点で看過されてきた。第一に、ヨーロッパ人やアジア人などほとんどの民族が追い求めた高価で希少な交易品としての真珠の意義である。第二に、真珠のとれる海域の経済的重要性である。天然真珠時代、真珠はどこの海でも採れるわけではなく、むしろ真珠が採れる海域は限られていた[3]。別の海域への真珠貝の移植は早くから試みられたが、真珠貝は生育条件が難しいため、それほど成功しなかった[4]。つまり真珠の採れる一部の海域が真珠の海として存在し続けてきたのである。真珠が希少で高価な品ならば、その真珠を育む海域は富の生まれる場所といえるだろう。それゆえ沿岸部や遠方の政治勢力などがその真珠の海に進出し、海域支配を試みてきたことは想像に難くない。しかし、そうした視点から真珠の海の経済的重要性や地政学的重要性が論じられることはほとんどなかった。こうしたことをふまえ、本稿では真珠看過の理由について考えてみたい。

従来の歴史研究の傾向

 真珠は時代をリードした著名な研究でなぜか見過ごされていることが多い。一例を挙げると、アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』では真珠は交易品として論じられていない[5]。東南アジアの海域は、アコヤ真珠貝やクロチョウガイ、シロチョウガイなど今日の真珠養殖の主要な真珠貝であるピンクターダ属の発祥の海域と見なされている[6]。真珠貝の豊かな海域の交易研究でも真珠や真珠貝は看過されてきたのである。

 古代日本に目を向けると、『魏志倭人伝』には卑弥呼の後を継いだ壱与が中国に白珠五千孔などを献上したことが記されている。「白珠五千孔」はおそらく通糸連となった白い真珠と考えられる。天然真珠時代、真珠5000個はたいそうな量であった。それだけの量を集めるには多くの海人と真珠貝が豊富な海域が必要であるが、真珠が日本のどの海域で採取されたのかという観点から邪馬台国が論じられることはあまりないように思われる[7]

 こうした事例に見られるように、真珠や真珠の海域の重要性は十分認識されてこなかった。インド洋海域史や古代日本史だけでなく、西洋史や東洋史の多くの分野、グローバルヒストリーや近代世界システム論、海人研究などの民俗学の分野でも真珠は取り上げられていない場合が少なくない。

 その一方で、真珠の重要性を認識していた研究者も早くから存在する。日本で家島彦一が、真珠採集とそれをめぐる人間の動きがインド洋海域世界の歴史展開に大きな影響を及ぼした可能性を指摘し[8]、佐々木達夫はペルシア湾岸のジュルファル遺跡の交易港としての繁栄と真珠採取との関連性を議論している[9]。保坂修司は天然真珠時代のペルシア湾の真珠採取の実態を明らかにし[10]、筆者自身も『真珠の世界史』(中公新書)で真珠の重要性を論じてきた。最近では小谷汪之が「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」を発表し、南洋諸島における真珠産業を石川達三の著作などを通して論じている[11]。海外ではエンリケ・オッテのLas perlas del Caribe やR. A. ドンキンのBeyond Price; Pearls and Pearl-Fishingなどをはじめ、重要な研究は少なからず存在する[12]。2019年には近現代のインド洋世界の各海域の真珠史を扱った論文集Pearls, People, and Powerが上梓された[13]。近年、真珠史研究の隆盛の兆しもあるが、大勢として真珠が歴史研究で看過されてきたことは否定できないだろう。

真珠看過の理由

 なぜ真珠は重視されてこなかったのだろうか。それにはさまざまな理由があり、それらが複合的にからんでいるが、筆者自身は以下に述べる理由があると考えている。

 第一に、真珠という物品の特殊性だろう。真珠は高価で小さなモノであり、アジア社会では伝統的に金銀と交換されてきた換金商品であった。隠匿、密輸、過少申告が流通形態の主流を成し、真珠の売買では相対取引となる場合も少なくない。オリエント世界における真珠や宝石の相対取引では、取引税や関税を避けるため、売り手も買い手も一言も発せずに、特定の指を押すことで値段の交渉を行う「サイレント・バーゲニング」という手法もよく使われた[14]。こうした秘密裏の取引決済は、金銀などによる即決の現金決済が一般的で、領収書を残さない。つまり真珠の取引は、売り手も買い手も黙したまま、多くの金銀が密かに動くインフォーマルな取引であった。実証が難しい真珠や宝石の流通は、アーカイヴ・リサーチを重視する歴史研究から概して抜け落ちることになったと考えられる。

 第二の理由は、1970年代から80年代以降、歴史学の大きな潮流となった世界システム論などにおける農業や生活必需品重視の傾向だろう。ウォーラーステインの近代世界システム論などでは、主に農業に基づくヨーロッパ資本主義の発展というテーゼに基づいて、陸地に根差した農業生産や鉱山開発に関心が置かれる一方で、宝石やスパイスなどの「奢侈品」全般は重視されていない。ウォーラーステインは「奢侈品の交易は……大西洋世界の発展といった壮大な事業の背景としては弱すぎるし、そこから『ヨーロッパ世界経済』の生成を説明するのは無理だと思われる」(川北稔訳)と述べ、「長期的にみれば、奢侈品よりは基礎商品ステイプルの方が、経済活動をより強力に推進する」(同)と説明している[15]。このように経済発展の観点から奢侈品は過小評価されるようになった。農業重視は水産業の軽視の裏返しでもあるが、それは漁業が沿岸部の漁民が魚を釣って自分で食べる自営的で局所的な産業と見なされたからではないかと筆者自身は考えている。

 真珠看過の第三の理由は、従来の歴史研究が一国史研究であったことにも関係するだろう。一国史研究だと国民国家の中の陸地における歴史の様相をとらえた叙述となりやすい。そのため国と国の間の海域やその歴史は必然的に捨象されてきた。しかし、水産資源を生み出す海域があれば、国境とはかかわりなく、湾岸部の住民が海の富を享受する共通の漁撈文化を発達させたことは容易に理解できる。真珠史研究は沿岸部のどこか一地点だけというよりも沿岸部における漁撈文化の共通性や海域支配の在り方といった広域俯瞰で考える必要があるが、一国史研究ではその広域俯瞰がなされてこなかった。

 他方、近年の歴史研究では、海域を人間の活動領域の主舞台と見なす海域史研究が盛んになっている[16]。ただ、そうした海域史の領域では海域を移動の場とする海上交易や交易圏に主眼が置かれており、海から富を引き上げる真珠採取などの水産業についてはあまり関心が示されていないように思われる。

日本の真珠養殖業の発展が真珠の特徴を大きく変える

 こうした理由に加え、筆者自身が真珠看過のもうひとつの重要な要因と考えているのが、20世紀初めに日本人が世界で初めて成功させた真珠養殖業の発展が、真珠の価値、大きさ、色、形、生産方法、産地などを大きく変えたという事実が十分認識されていないことである[17]。言い換えると、今日、天然真珠を採取している国はバハレーンを除くとほとんど存在しないため、天然真珠時代の真珠貝の生態、真珠採取の在り方、生体物としての真珠の特徴を多くの歴史研究者が理解できなくなっていることにも要因があると思われる。

 まず養殖真珠の大量生産は、天然真珠の希少性を失わせ、価格を暴落させたため、それによって真珠は20世紀初めまで宝石として扱われてきた高価で希少な品であり、権威や富を示す威信財であったことが一般に忘れられてしまった。真珠史研究をしていると、真珠は宝石ですかという質問を受けることは少なくない。

 次に真珠養殖業は、真珠のサイズを大きくしたため、天然真珠時代の標準の真珠は二級品の小さな真珠と見なされるようになり、重要視されなくなったことが挙げられる。天然のアコヤ真珠は直径3ミリ程度から5ミリ台、6ミリ台が標準であり、直径1~2ミリのアコヤ真珠も「ケシ真珠」として商品価値をもっていた。遺跡の発掘調査などで真珠が出ても、小さな真珠は十分な考察の対象にならず、その後、行方不明になっている場合などもある[18]

 今日では真珠は直径であらわされるが、天然真珠時代、真珠はグレーン(0.05グラム)やカラット(0.2 グラム)などの重量で、しばしば合算されて示された。真珠をグレーンやカラットなどの重量で聞き、その真珠の大きさや価値を理解できる歴史研究者はどれくらいいるだろうか。ちなみに1グレーンの真珠は直径3.32ミリであり、1カラットの真珠は直径5.23ミリである[19]

 さらに、先述したように、かつては一部の海だけが真珠を生み出すことができたが、真珠養殖業における垂下式筏の発明によって、今日ではかつて真珠が採れなかった海域でも真珠が養殖できるようになった。そのため天然真珠時代には真珠の採れる海域は限られていたという事実が十分認識されておらず、真珠の採れる海域の希少性や経済的重要性、ひいては真珠の海が誘発した海域への進出やその支配の実態が見過ごされてしまったといえるだろう。日本人が発明した真珠養殖業があまりに成功したため、それが逆に天然真珠の重要性を曇らせてしまったといえるかもしれない。

 日本人特有の理由としては、日本人は伝統的に真珠や宝石よりも古い茶碗や陶磁器を好んできた歴史がある。こうした点はすでに16世紀のオランダ人リンスホーテンなどが指摘しているところである[20]

おわりに

 以上述べてきた種々な理由によって真珠は歴史研究では忘れられたテーマとなってきた。したがって、真珠を加えて歴史を見るとまた別の様相が見えてくる可能性がある。

 筆者自身は、貴金属とスパイスの観点ばかりから大航海時代が語られることに疑問があり、この時代に真珠を加えたいという思いをもっていた。それが研究動機となり、アコヤ真珠の採れるペルシア湾、マンナール湾(インドとスリランカの間)、南米カリブ海の三つの海域における16世紀史を長年研究してきた。大航海時代に真珠を加えた時、そこから見えてきたのはヨーロッパ人による水産業の重要性であった。南米ではスペイン人が先住民やアフリカ人を潜水労働に使役する奴隷制水産業を発展させており、真珠を介した大西洋奴隷貿易が16世紀前半にすでに形成されていた。マンナール湾岸ではフランシスコ・ザビエルらイエズス会がインドの真珠採り潜水夫を囲い込み、ポルトガル海軍も出動して彼らに真珠採取を行わせた。真珠採取の水産業は自営的で局所的ではなく、世界の諸地域を関連させるグローバルなものであった。宣伝めいた記述となり恐縮であるが、こうした研究成果をまとめた拙著『真珠と大航海時代』(山川出版社)がこの11月に発刊されたので、興味がある方はご覧いただければ嬉しく思う。

 真珠は歴史研究では人々が思う以上に見過ごされてきたテーマだった。したがって、真珠から歴史を見ると、あまり知られていない歴史的事象が浮かび上がることが少なくない。真珠史研究はまだまだテラ・インコグニータといえるだろう。真珠の歴史やその研究に関心を持つ人が増えてくれればと考えている。


[1] プリニウス(中野定雄他訳)『プリニウスの博物誌』(雄山閣出版、1986年)、第1巻415頁、第3巻1542頁。

[2] アブー・ザイド・アルハサン(家島彦一訳)『中国とインドの諸情報―第二の書』(平凡社、2007年)、85頁。

[3] 山田篤美『真珠の世界史』(中央公論新社、2013年)、8∼17頁。

[4] アレクサンダー・フォン・フンボルト(大野英次郎他訳)『新大陸赤道地方紀行』(岩波書店、2001年)、上巻164頁。

[5] アンソニー・リード(平野秀秋他訳)『大航海時代の東南アジア』(法政大学出版局、1997年・2002年)。

[6] 正岡哲治他「アコヤガイ属の系統および適応放散過程の推定」猿渡敏郎編『泳ぐDNA』(東海大学出版会、2007年)、24∼25頁。

[7] 山田『真珠の世界史』、27∼33頁。

[8] 家島彦一『海が創る文明』(朝日新聞社、1993年)、155頁。

[9] 佐々木達夫「ペルシア湾と砂漠を結ぶ港町」歴史学研究会編『港町と海域世界』(青木書店、2005年)、269~296頁。

[10] 保坂修司「真珠の海(1・2)――石油以前のペルシア湾」『イスラム科学研究』第4号(2008年)、1~40頁、第6号(2010年)、1~31頁。

[11] 小谷汪之「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』(上・下)」及び「補遺」『世界史の眼』( 3月 | 2022 | 世界史研究所Reserch Institute for World History (riwh.jp)4月 | 2022 | 世界史研究所 Reserch Institute for World History (riwh.jp) )

[12] Enrique Otte, Las perlas del Caribe (Caracas: Fundación John Boulton, 1977); R. A. Donkin, Beyond Price: Pearls and Pearl-Fishing (Philadelphia: American Philosophical Society, 1998).

[13] Pedro Machado et al. eds., Pearls, People, and Power (Athens: Ohio University Press, 2019).

[14] François Pyrard, The Voyage of Francois Pyrard of Laval, trans. Albert Gray (New York: Cambridge University Press, 2010), vol. 2, pp. 178-179, note 1.

[15] I. ウォーラーステイン(川北稔訳)『近代世界システム(1)』(名古屋大学出版会、2013年)、32頁。

[16] 家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会、2006年)、1~7頁

[17] 日本の真珠養殖業がいかに真珠の特徴を変えたかについては、山田『真珠の世界史』、172∼191頁を参照。

[18] 筆者がある埋蔵文化財センターで体験したエピソードである。

[19] 真珠の重量と大きさについては、G. F. Kunz and Charles Hugh Stevenson, The Book of the Pearl (New York: Dover Publications, 1993), p. 328を参照。

[20] リンスホーテン(岩生成一他訳)『東方案内記』(岩波書店、1968年)、255∼256頁。

(「世界史の眼」No.33)

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世界史寸評
ウクライナ戦争への新たな見方
南塚信吾

 2022年10月22日、セルビア在住の旧友山崎洋氏を世界史研究所に迎えて、セルビアから見た現在のウクライナ戦争について話をしてもらう機会を得た。山崎氏は、ゾルゲの僚友であったヴーケリッチのご子息であり、さすがに情報の入手も一目置くべき所があった。氏との話で、日本のメディアなどでのウクライナ戦争についての言説には強調されない論点がいくつかあったので、それをまとめてみたい。おりから、日本でも寺島隆吉『ウクライナ戦争の正体』1,2(あすなろ社、2022年)や下斗米伸夫『プーチン戦争の論理』(集英社インターナショナル、2022年)などが、それに通底するような議論をしているので、それらを少し交えて整理してみたい。

 山崎氏が開口一番話したのは、日本のマスコミなどでのウクライナ情報がアメリカ一辺倒だということであった。ウクライナのゼレンスキーを英雄視し、プーチンを一方的に悪者扱いしているのは、驚きであるという。セルビアなどではもう少し是々非々の見方をしているというのである。そういう見方からすると、どうなるのか。

 (1) 山崎氏によれば、ウクライナ戦争は表面に現れた事象であり、実質的にはロシアとアメリカの第三次世界大戦だという。2004年の「オレンジ革命」や2014年の「マイダン革命」は、たんにウクライナ国民の民主化要求の表れと見るのではなく、そこへのアメリカの介入を見るべきである。アメリカの目標は冷戦後も残った共産主義体制の打倒である。オースティン米国防長官が、アメリカの目標はロシアの弱体化にあると述べたのは、そのことを意味している。アメリカが実質的に交戦国なのである。NATOのストルテンベルク事務総長は、NATOの加盟国が長年、装備、訓練、指揮に関してウクライナを支援してきたと言明しているではないか。こういうアメリカの対ウクライナ戦争については、キシンジャー、ブレジンスキーの役割を重視すべきである。ほぼこういう議論である。

 これに類する議論は、寺島氏や下斗米氏も行っている。とくに「マイダン革命」が問題になる。寺島氏は、アメリカの一貫した戦略の中で、今回の戦争は起きているのであり、2014年の「マイダン革命」はアメリカの仕掛けたクーデターであったという。のちにオバマ元大統領も認めているとおりである。ヌーランド前国務次官補も、アメリカが40億ドルも投じてきたと発言している。そしてその指令は当時のバイデン副大統領だったと、寺島氏は強調している。下斗米氏はもう少し慎重に多角的に議論しているが、趣旨はこれに通じている。氏はアメリカの対東欧、対ウクライナ政策を歴史的に検討し、アメリカの一貫した狙いを明らかにしている。その中で、ヌーランド発言などを確認したうえで、マイダン革命は、「米国と親NATO勢力が使嗾(しそう)した」、「クーデターまがいのマイダン革命」と位置付けている。100人以上の死者を出した2月の発砲事件についても、「ジョージア系スナイパー部隊」のやったことではないかと示唆している。

 (2) 山崎氏は、「NATOの東方拡大」について、こう指摘する。ロシアは、侵攻に先立ち、アメリカ政府に対し、「NATOの東方拡大の停止」を文書で約することを求めたが、アメリカは拒否した。バイデンが「イエス」と答えれば、戦争はなかったのではないかと。こう簡単ではなかったとは思われるが、「NATOの東方拡大」についての交渉の経過や、そこでの妥協の余地などについては、下斗米氏が詳細に検討して、クリントン政権に始まり、ブッシュJr.政権、オバマ政権が一貫して「東方拡大」を追求してきたことを明らかにしている。そこからは、米政権内部での意見の相違や、米ロの微妙なずれも明らかになっている。とくにジョージ・ケナンなどの批判などを挙げている。とりわけ、「旧ソ連」領の内部にまでNATOを拡大することに、プーチンは強く危惧していたこと、キシンジャーさえも批判していたことが指摘されている。

 (3) 山崎氏は、ウクライナ内部での「ネオ・ナチ」の力に注目している。ウクライナでナチス時代の記章やスローガンが見られるようになるのは、2014年の「マイダン革命」と呼ばれるクーデターの時からだという。「アゾフ大隊」などがそうだ。ネオ・ナチは、運動の暴力的な性格から、數に比して社会に与える影響が大きいというのである。そして、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかったし、ゼレンスキーは和平を公約して当選し、就任後すぐにドンバスへ視察に赴いたが、過激派の武装集団に追い返され、対話はできなかったというように、過激派=ネオ・ナチの役割を強調した。「過激派の武装集団に追い返され」たという点は確認できなかったが、「ネオ・ナチ」については、寺島氏も、ネオ・ナチの「アゾフ大隊」などは2014年から登場したとしている。下斗米氏も、2014年の「マイダン革命」において、「反政府系の右派センターや「自由」など民族急進派、さらにネオ・ナチ勢力」が武力行使をして、政権を倒したとしている。また、就任当初は和平を目指したゼレンスキーがNATO加盟に舵を切ったのも、「民族右派やネオ・ナチの圧力」があったのだという。

 (4) 山崎氏は、東部ドンバスの問題に特に注目していた。いわく、2014年以後のドンバスでは、ロシア語が公用語の地位を奪われ、人口の2割を占めるロシア人は無権利状態に置かれたと感じ、ドンバスのロシア系住民の反乱がおこった。先述のように、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかった。またゼレンスキーは就任後すぐにドンバスへ赴いたが、過激派の武装集団のために、対話はできなかったと。同じような議論は、寺島氏もしている。ドンバスへのウクライナの攻撃というのが実態で、キエフからドンバスへの攻撃は計画的であり、過激派集団によるものであり、その際、ドンバスでウクライナ軍と戦っていたのは軍人ではなく炭鉱労働者であったとしている。下斗米氏は、「マイダン革命」後、新政権が、ロシア語を公共圏から締め出したため、ウクライナ語が強制され、ロシア語話者が多い東部ドンバスの二州では親ロ派による武装反乱がおこったこと、また極右派の政権入りに、東部ロシア語話者地域の住民が猛反発して、一部は武装反乱に及んだことを指摘している。そして、下斗米氏は東部の停戦と安定化のためのミンスク合意に注目している。

 山崎氏が東部ドンバスに注目するのは、ユーゴスラヴィアにおいて難しい問題であった「民族問題」ないしは「マイノリティ問題」に通じるからである。このドンバス問題に限らず、氏は、アメリカにとってかつてのユーゴ紛争は今回のウクライナ戦争の「演習場」だったのだと考えている。以上のような山崎氏の、ユーゴ的な観点からのウクライナ戦争論は、日ごろ欧米や日本での議論に疑問を感じているものには、「してやったり」という感じのものであった。

 おりしも、11月18日に、森喜朗元首相が、「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」と発言し、ロシアのウクライナ侵攻に関する報道に関しても「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」と指摘したと報じられている。これはさっそく批判されているが、今回の山崎氏の話からすれば、的外れではないことになる。山崎氏の発言は欧米一辺倒の見方をただすきっかけになるかもしれない。

 なお、山崎氏との対話との関係で寺島氏や下斗米氏の著書をつまみ食いしてみたが、両書は日本での欧米よりのウクライナ観を相対化するのに必読の書であることを付記しておきたい。

(「世界史の眼」No.33)

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「世界史の眼」No.32(2022年11月)

今号では、一橋大学大学院の倉金順子さんに、「日本における「食べ物の世界史」、の歴史」をご寄稿頂きました。また、南塚信吾さんに、連載中の「「万国史」における東ヨーロッパ」の第二部その1をお寄せ頂いいています。第一部の各論考は、1-(1)はこちら、1-(2)はこちら、1-(3)はこちらに掲載されています。

倉金順子
日本における「食べ物の世界史」、の歴史

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)

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日本における「食べ物の世界史」、の歴史
倉金順子

はじめに

 「食」、それは人間の生活においてさまざまな意味を持ちうる。何よりも生命維持活動に必要不可欠である。また、料理の美味しさは味覚を通じて精神的な満足をもたらす。食事の機会は家族の団欒や社交の場ともなり、非日常と日常、すなわち「ハレ」と「ケ」とを区別する。食品は商品となり、売買されることで経済を支え、物質的な豊かさを生むこともできる。そして、2010年11月ユネスコ無形文化遺産に「フランスの美食術」などが登録されたのを契機に、「食」にナショナルシンボルとしてだけでなく、国際的に認可されたナショナルな文化価値としての意味付けもされる傾向も見られるようになった。2013年12月には日本の「和食」が、2022年7月にはロシアによる侵略を受けているウクライナの「ボルシチ料理の文化」が登録されたのも記憶に新しい。

 したがって、「食」に関する学問分野も、食生活、食文化、特定の食品、料理、外食産業、などといった研究対象も多岐に渡っている。人類学の分野においては、1980年代に人類学者のシドニー・ミンツが『甘さと権力』において、砂糖が外国由来の贅沢品からありふれた必需品へどのように変化したのか、また、特に英国での食文化や食生活にどのように影響したのかを紹介した[1]。ただし、歴史学の分野において研究されるのは、比較的最近のことであったようである。西洋史学者の南直人によると、アナール学派が20世紀になってから一般の人々の生活を研究対象とするようになったものの、当初は「食」に関しては研究するに値するテーマとみなされていなかった。1996年にアナール学派のジーン=ルイス・フランドランとマッシーモ・モンタナーリにより、ヨーロッパを中心とした古代から現代に至るまでの『食の歴史[2]』という論文集が刊行されてから、ようやく研究テーマとして注目されるようになったという[3]

 本稿では以下、「序説」的に、20世紀以降日本で出版されてきた書籍を対象として、「食」、その中でもとりわけ特定の食材および食品に関する歴史について、その変遷と傾向を追ってみたい。

はじまりは嗜好品、そして調味料の歴史

 あくまでインターネット上で関連したものを検索して確認できた中ではあるが、最も古い関連書籍は1975年に出版された古賀守の『ワインの世界史[4]』である。古賀は、他にも『文化史のなかのドイツワイン[5]』(1987年)など、ドイツやヨーロッパのワインについての著作があり、ワインの世界史・地域研究において日本では先駆者的存在である。

 ワインの次に登場したのは、1980年に出版された経済史学者角山栄の『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会[6]』である。角山は同書のあとがきにて、次のように語っている。

 民衆の日常生活のもっとも身近なものをつうじて歴史を見直す、いわゆる「社会史」「生活史」が最近西洋でも日本でも歴史家の関心を集めている。

(中略)こうした作業をつうじてはっきりわかったことは、近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開に、茶が想像した以上に大きな役割を演じたということである[7]

 角山は「日常生活のもっとも身近なもの」である茶について、文化としての側面のみならず、世界市場における商品としての側面にも目を向けた。1980年頃の時点ですでに、「食」とグローバルな経済史との関わりが描かれていたのである。それから5年後には、松崎芳郎による『年表茶の世界史[8]』(1985年)も出版されている。

 このように、1970年代頃以降、ワイン、茶といった世界中で親しまれている嗜好品の歴史に注目が集まりはじめたことが見受けられる。そして1980年代後半になると、リュシアン・ギュイヨの『香辛料の歴史[9]』の翻訳書(1987年)、砂糖に焦点を当てた前述のミンツ『甘さと権力』の翻訳書(1988年)、そしてR. P. マルソーフの『塩の世界史[10]』の翻訳書(1989年)と調味料の歴史が相次ぐ。なお、ミンツ『甘さと権力』や、イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム[11]』の翻訳者である川北稔は、『砂糖の歴史[12]』(1996年)も手掛けている。ミンツ、川北ともに、カリブ海におけるプランテーションの展開、奴隷制度、三角貿易、そしてイギリス産業革命と、砂糖を通じた近代以降のグローバルヒストリーを描こうとしており、そこにはウォーラーステインが提唱した「近代世界システム論」にもどこか通底するものが見えてくる。

 嗜好品の歴史に話を戻すと、ドイツ文学者の臼井隆一郎の『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液[13]』(1992年)、マーク・ペンダーグラストの翻訳書『コーヒーの歴史[14]』(2002年)と、コーヒーもテーマとして取り上げられるようになった。

さまざまな食材・食品の歴史へ

 少し時代が進んで2010年代に近づくと、伊藤章治『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」[15]』 (2008年)を皮切りに、対象となる食材および食品の幅はますます広がる。これまでと同様にワイン、コーヒー、茶の歴史も扱われている[16]が、社会学者武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石[17]』(2010年)や人類学者山本紀夫編著『トウガラシ讃歌[18]』(2010年)と、嗜好品や調味料についてますます取り上げられてきた一方、ダン・コッペルの翻訳書『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命[19]』(2012年)と、ジャガイモに引き続きバナナという特定の食品についても着目されている点が、注目に値する。

 なお、2012年には、原書房から「お菓子の図書館」シリーズ、2013年には「『食』の図書館シリーズ」が開始され、『アイスクリームの歴史物語[20]』や『パンの歴史[21]』をはじめとして、2022年10月現在合計84冊ものバリエーション豊かな「食」の歴史の翻訳本が出版されている。その中には食品だけでなく、『カレーの歴史[22]』(2012年)や『サンドイッチの歴史[23]』(2015年)、『ピザの歴史[24]』(2015年)など、料理の歴史も取り上げられている。また、今年2022年には『昆虫食の歴史[25]』も出版され、ロシアによるウクライナ侵略に象徴されるような今後も起こりうる世界規模の食糧危機に際し、近年注目されはじめている食材にも焦点を当てているのは、時代を反映しているようで大変興味深い。

おわりに

 以上、食材および食品について、過去約50年間の主に和文の関連書籍の出版の歴史をたどってみたが、嗜好品からはじまり、香辛料、特定の食材および食品、そして料理と、その対象の重点化や拡大といった相応の傾向を示すことができたと思う。特に2010年以降出版数の増加が顕著になっていることを最後に強調しておきたい。筆者の考察に基づくならば、これは、ユネスコ無形文化遺産に「食」に関連する項目が次々と登録されるようになった時期と重なっており、多少なりとも影響があったはずである。

 食材・食品の数だけ歴史があり、その多くが一つのナショナル・ヒストリーにとどまらないグローバルなヒストリーを展開していることは明白である。しかしながら、一方で、それぞれの著者の興味・関心を含む現在地を起点として、色眼鏡を通して映った「世界」においての歴史として語られがちではないだろうか。さらに言うならば、それぞれの著者の仮説に到達するまでの歴史を書き上げていく試みとなっているのではないだろうか。ともすると、例えば角山が『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会』を書き上げた上で言及したような、「近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開」を出発点に考えるという前提ありきとなっていないだろうか。食べ物の世界史と向き合う際は、常にそのような点を意識する必要がある。


[1] シドニー・W. ミンツ著、川北稔・和田光弘訳『甘さと権力―砂糖が語る近代史』平凡社、1988年。(Mintz, Sidney W, Sweetness and Power: the Place of Sugar in Modern History, New York: Penguin Books, 1985.)

[2] J―L.フランドラン、M.モンタナーリ編、宮原信、北代美和子監訳『食の歴史 I-III』藤原書店、2006年。(Montanari, Massimo; Flandrin, Jean-Louis, eds. Histoire de l’Alimentation, Fayard, 1996.

[3] 南直人著『食の世界史:ヨーロッパとアジアの視点から』昭和堂、2021年、i-ii頁。

[4] 古賀守著『ワインの世界史』中央公論社、1975年。

[5] 古賀守著『文化史のなかのドイツワイン』鎌倉書房、1987年。

[6] 角山栄著『茶の世界史』中央公論社、1980年。

[7] 角山、前掲書、222-223頁。

[8] 松崎芳郎著『年表茶の世界史』八坂書房、1985年。

[9] リュシアン・ギュイヨ著、池崎一郎・平山弓月・八木尚子訳『香辛料の歴史』白水社、1987年。

[10] R. P. マルソーフ著、市場泰男訳『塩の世界史』平凡社、1989年。

[11] I. ウォーラーステイン著、川北稔訳『近代世界システム――農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立(I-II)』岩波書店、1981年。

[12] 川北稔著『砂糖の歴史』岩波書店、1996年。

[13] 臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』中央公論社、1992年。

[14] マーク・ペンダーグラスト著、樋口幸子訳『コーヒーの歴史』河出書房新社、2002年。

[15] 伊藤章治著『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」』中央公論新社、2008年。

[16] 例えば、以下のような書籍が挙げられる。

山本博著『ワインの世界史』河出書房新社、2010年(その後改題、加筆修正され、『ワインの世界史:自然の恵みと人間の知恵の歩み』日本経済新聞出版社、2018年)。

ジャン=ロベール・ピット著、幸田礼雅訳『ワインの世界史:海を渡ったワインの秘密』原書房、2012年。(Pitte, Jean-Robert, Le désir du vin à la conquête du monde, Fayard, 2009.)

山下範久著『教養としてのワインの世界史』筑摩書房、2018年。

ビアトリクス・ホーネガー著、平田紀之訳『茶の世界史:中国の霊薬から世界の飲み物へ』白水者、2010年。

小澤卓也著『コーヒーのグローバル・ヒストリー:赤いダイヤか、黒い悪魔か』ミネルヴァ書房、2010年。

旦部幸博著『珈琲の世界史』講談社、2017年。

[17] 武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』中央公論新社、2010年。

[18] 山本紀夫編著『トウガラシ参加』八坂書房、2010年。

[19] ダン・コッペル著、黒川由美訳『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命』太田出版、2012年。

[20] ローラ・ワイス著、竹田円訳『アイスクリームの歴史物語』原書房、2012年。

[21] ウィリアム・ルーベル著、堤理華訳『パンの歴史』原書房、2013年。

[22] コリーン・テイラー・セン著、竹田円訳『カレーの歴史』原書房、2013年。

[23] ビー・ウィルソン著、月谷真紀訳『サンドイッチの歴史』原書房、2015年。

[24] キャロル・ヘルストスキー著、田口未和訳『ピザの歴史』原書房、2015年。

[25] ジーナ・ルイーズ・ハンター著、龍和子訳『昆虫食の歴史』原書房、2022年。

(「世界史の眼」No.32)

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)
南塚信吾

II 多様な「万国史」の中で:明治14年まで(1870年代) 

 整備された文部省と明治5年(1872年)に出された学制のもとで「万国史」が積極的に出版された。明治6、7年から明治14年の政変までの時期は、それまでに支配的だったパーレイ的な見方とは違った「万国史」が出て来た。明治14年以後は「文明史」的な「万国史」で一色になるので、明治6年から14年までの時期は、パーレイ的でもなく「文明史」的でもない「万国史」が登場する非常に面白い時期である。

1. 作楽戸痴鶯訳編『万国通史』文部省 明治6-7年(1873-74年)

 まず最初に取り上げたいのは、作楽戸痴鶯訳編の『万国通史』である(これは国会図書館デジタルコレクションにある)。本書はイギリスのヘンリー・ホワイトの『普遍史概説』(Henry White, Outlines of Universal History, Edinburgh, 1853)の翻訳と思われる。なお、ホワイトは、この前にElements of Universal History, Edinburgh, 1848も出していて、岡崎は『万国通史』はこちらの本の訳だとするが、定かではない。ホワイトは、ケンブリッジのトリニティ・カレジでB.A. ハイデルベルクでM.A. とPhDを取っていた。

 作楽戸痴鶯(さくらど ちおう)は、山内徳三郎の筆名である。山内徳三郎(やまのうちとくさぶろう)(1844年-没年未詳)は旧幕臣で、幕府直属の旗本伊奈氏家臣の山内徳右衛門(1802年-1868年)の四男として京都で生まれた。徳三郎の長兄に山内作左衛門(1836年-1886年)、その下の兄に山内六三郎(のちの堤雲)(1838年-1923年)がいる。徳三郎は、長崎に遊学する前、19歳の時(おそらくは慶応元年(1865年))作左衛門について樺太へ旅している。徳三郎は、長崎遊学で医学者のアントニクス・F・ボードウィンに学んだが、その意図は医学の修行というより語学と化学の習得に主体があったようである。徳三郎はのちに医学ではなく、鉱山の調査開発の技師、地質学者としての道を歩むことになる。徳三郎がどのような経緯で『万国通史』の翻訳をするに至ったのかなどについては不明であるが、他の訳に、『西洋英傑伝』全6冊(明治8年)もある。

最後列中央の長身の人物が徳三郎

出典:森望:「幕末志士たちの解剖学講義」 | 解剖学ひろば (anatomy.or.jp)

 『万国通史』の構成は、上古史を除くと、次のようである。

中古史

第一篇 野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る

第二篇 暗世中欧羅巴形勢の事

第三篇 中古時代有名なる各国の事

    東羅馬;日耳曼國;以太里國;西班牙國;欧洲北方國住民;佛國;不列顛島峡

近代史

第一篇 第一章 宗教改革の事

    第二章 宗旨改革同時代他の改革の事

第二篇 第一章 1688年の革命に至るまで大不列顛國の事を記す

   (第二章「革命後のイギリス」と第三章「第一革命までのフランス」が訳されていない。)

第三篇 第一章 日耳曼國の事を記す

    第二章 以太里國及び西班牙半島の事を記す

    第三章 ニーセルランドの事を記す

    第四章 魯西亜國及び北方諸國の事を記す

第四篇 第一章 東方諸国の事を記す

    第二章 亜墨利加の事を記す

    第三章 輓近欧州動乱の事を記す

 英語の原書と突合せたところ、歴史の初めについては、原書では「聖史」として聖書的に「創世」からローマ帝国までが述べられているが、訳者は専ら宗教に関することで「怪奇」なことも多いので、これを省略するとし、東方の諸国の歴史から述べ始めている。また、1688年革命(名誉革命)後のイギリスの歴史と「第一革命までのフランス」の歴史が訳されていない。しかし、この時期の普遍史としては、この『万国通史』は質の高いものであった。史実の記述の正確さのほか、これまでの万国史とは違って、ネイション単位の縦の歴史の並列ではないことが特筆される。

 ヨーロッパ東部で扱われているのは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであるが、各国羅列的には出てこない。時代ごとに他の地域との関係で東部のヨーロッパが扱われている。

◎中古史

 ヨーロッパの東部が出て来るのは、中古史からである。ここでは、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドが出てくる。

≪ハンガリー≫

 まずは、中古史第一篇「野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る」のところで、野蛮の一つとして「アッティラ」と「ハンガリー」が出て来る。曰く、「フンス(フン族)の王にして威武を轟したるアッチラと云う猛将」がハンガリー、魯西亜の過半、北方の日耳曼におよぶ國を領していたが、これに足りずさらに東ローマの領地までも入手した。その後、西羅馬を得ようとして、ハンガリーのペストに「府」を構えたところで「暴死」したとある(中編上 28-31頁)。つぎに中古史第三篇の第二章「日耳曼(ゲルマン)國」のところでは、シャルルマーニュの死後、ドイツにダニューブ川近隣の人民が乱入してきたが、この人民は「ハンスの子孫」と察せられたため「ハンガリー人」と呼ばれたと出て来る(中編中 33頁)。フン族の王アッティラがハンガリーを作ったという説を採っているわけである。

 1400年代になって、ハンガリーとヲーストリアとは婚姻によって、ハンガリー国王の位がヲーストリア人の手に落ちた。ヲーストリア人はその領土を自国のなかに混合しようとしたが、ハンガリー人は頑固にこれを拒否した(中編中 41-42頁)。ハンガリーの国王がハプスブルク家から継続的に出るようになるのはモハーチの戦のあった1526年からであるが、15世紀にも二代ほどあったので、これは間違いではない。

≪ボヘミア≫ 

 同じく「日耳曼國」のところで、1273年にハップスビュルグハプスブルク)のルドルフが、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)となったあと、ボヘーミアを攻めて、その王ヲットカルと戦闘、彼と和して、その地の領有を認め、それゆえルドルフはオーストリア、スチーリア、カリンシア、カルニヲラを領有したことが出て来る(中編中 37-38頁)。つぎに、ロクッセンビュルグ(ルクセンブルク)家のシギスモンドが1410年から1437年まで帝位にあった時のことが書かれる。この時、プラハのヤンハウス(ヤン・フス)と言う者ウイクリッフの主意を主張し初めて「宗旨改革」(宗教改革)の源を日耳曼國中に発した。シギスムンドはコンスタンツ会議にフスを呼び出し、これを処刑した。だが、これはボヘーミア本国に聞え、フス派は「暴烈の戦闘」を起こした。しかしこれはシオギスムンドに抑えられたとある(中編中 44-45頁)。ボヘミアについて詳細が書かれ、ヤン・フスのことが紹介されるのは、本書が初めてであった。

≪ポーランド≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところでは、中世のポーランドの歴史が述べられる。ロシアの一州となったポーランドというスクラボニック(スラヴ人)の国は、ドイツ帝国の一部になったたが、14世紀初めのラジスロース(ラジスラス)四世のときに独立国となり、1333年から1370年のカッシミルゼグレート(カジミエシュ大王)は、領土を広げ、また 国内の状態を改めた。「此の時国民正に奴隷とも云ふべき卑陋の形態に陥りし時に投じ貴族意を恣にし獨立の權を示し殆んどポーランド國をして滅亡せしめん形成あり」。そこでカジミエシュ王は「貴族を威を取挫き」国民が安心できるようにしたというのであった(中編下 18-19頁)。これまでの万国史ではポーランド分割のことしか書かれていなかったが、本書では、ポーランドの歴史の重要な時期がきちんと押さえられている。

◎近代史

 近代史においては東部のヨーロッパについての記述は充実する。とくにハンガリーとポーランドが注目されている。

≪ハンガリーとトルコ≫

 近代史第一篇第一章「宗教改革」のところで、ドイツ、フランスが宗教改革によって混乱している機を狙って、トルコが日耳曼國を襲撃してきた。その中で、1531年、トルコの首長「第二世ソリマン」(スレイマン2世)がロードス島を奪い、さらにフランス国民に扇動されて「ヲンガリー國」に侵入して之を押領し、さらに大軍をもってウインナを包囲した。これに際し日耳曼國内では宗教による対立をしばし押さえ外的に対抗する約が成立、これを聞いて、シュルタン(スルタン)は兵を引いた(下編上 18-19頁)。

≪三十年戦争の発端としてのボヘミア≫

 第三篇第一章日耳曼國の節において、三十年戦争が論じられる。そこで、ボヘミアの位置が、正確に論じられている。宗教対立の中で、「新教徒がプラグユー(プラハ)に於て帝室の執政等に為したる所業」が「三十年の戦争」の発端となった。対して、旧教徒は維也納(ウイーン)の城門に集まった。1619年にフリードリッヒ2世が帝位に着くと、ボヘミアとモラビヤの二国はハプスブルクを捨てた。1620年にウ井センビルグ(ホワイトヒール 白山)にて両軍が戦い、旧教徒軍が勝って、ボヘミアとモラビヤは再びオーストリアに附属することになったという具合である(下編中 3-5頁)。

≪トルコとハンガリー・オーストリア≫ 

 三十年戦争の後、オスマン帝国の第二次ウィーン包囲の歴史が書かれている。1648年のウエストファリア講和の締結後、匈牙利國に於て新教徒が墺太利の管轄に抵抗して、ルイ14世の仏蘭西からの支援も得て、「噴發」した。このとき、匈牙利とポーランドを「蚕食」していた土耳古國人が「墺太利の威權を壓服」しようとして、1683年、ケラーモスタハ(カラ・ムスタファ)が大兵を率いて匈牙利國を横行し、維也納(ウイーン)を取り囲んだ。ヨーロッパ中がパニックになった時、ポーランドの「勇敢不屈」のヂョン・ソバイスキー(ヤン・ソビエスキ)が日耳曼各国からの兵を集めて、土耳古を撤退させた。これに対して、今度は、日耳曼兵が匈牙利國内の土耳古兵を追い出そうとする。しかし、「不幸なる匈牙利國人一般の救助になるを得ず」。なぜならば、「此國の地方によりては、久しき以前より、土耳古國人之を占領したりしかば、此地方の匈牙利國人は、殆ど土耳古國人の風俗に化せられ、其國體を失なひたり」。「然れども土耳古の管轄外の地方に於ては、数多のプロテスタント宗徒ありて、其中一人も回々教に入る者なかりき」。そういう人たちは、テキリー(テケリ)という一貴族の元に土耳古に抵抗せんと兵を起こした。トルコがウイーンに迫ったので、墺太利はそういうハンガリー人と妥協せざるを得ないと考えたが、ソビエスキの勝利が見えると、墺太利の兵はハンガリーを攻めてこれを平定し、1685年にハンガリーの皇帝選挙権を奪い取り、匈牙利をハプスブルク家「累代の領地」と定めた(下編中 22-24頁)。1685年の話は、1699年のカルロヴィッツ条約の事ではないかと思われるが、ほぼ当時の勢力関係を正確にとらえている。

 次に、マリア=テレジアの皇位継承問題が扱われる。墺太利皇帝第二世フレデリッキが1739年に死亡したとき、其子は只一人の女「マリーゼルサ」(マリア=テレジア)だけであった。彼女が帝位に就くのにほとんどの所領(領邦)が反対し、彼女は匈牙利に「走った」。幸い匈牙利はマリア=テレジアを支持した。

「マリーゼルサは今や詮方盡き、外に依頼すべき手段なければ、乃ち匈牙利國に走り、一旦其身の禍を避けたりし・・・」。かくて、「従来久しくハップスボルク家と通交する地方に住居したるスッラオニック(スラヴ)及び洪牙利人をして、彼を援けんと噴發せしむるに至れり。」(下編中 33頁)。

≪ポーランド分割≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところで、ポーランド分割が書かれる。

「是まで波蘭國の歴史は別に詳明の記載なけれども、元来此國は政體確実ならず、始終外國の關渉を受け、貴族は傲慢なりて、人民は其過酷なるに苦しみければ、漸次に國威衰微し獨立國たるの勢いを失なへることは瞭然たるべし」(下編中 67頁)。

 露土戦争(1768-1774年)に際し、ポーランドが分割された。その露土戦争について、こう書いている。18世紀の末、イエズス会にそそのかされてポーランド人のカトリックが、ロシア領になっているかつてのポーランド領に支配を及ぼそうとしたのを機に騒動が起きて、逃亡したポーランド人を追って、ロシアがオスマン領に侵入したことを機に、露土戦争が起きた。これは不明であるが、原書にもそう書いてある。そして、「此戦争の最中、即1772年に当りて魯墺普の三國一致して、此防禦なき波蘭國を割取せんと約し、各その本國に近き地方を分ちたりしが、獨り魯西亜は此時獅子の割賦を得たり。」という(下編中 68頁)。

 次いで、フランス革命に際してまたポーランド分割が行われた。

「佛朗西動亂(仏蘭西革命)の際に、此國再度の分割ありしが、是1792年なり。是時に嘗てコスキスコ(コシューシコ)なる者の指揮に随て此國の人民獨立戦争を起こしたるが、是亦残忍に壓砕せられし後は、此國の成立全く絶へたり。是即1794年なり。蓋斯く滅亡せしめし事をば、當時欧羅巴の人、誰有て咎めざる者なかりし」 (下編中 68頁)。

 だれもポーランド分割を咎める者はいなかったと批判している。それはウイーン会議でも是正されることはなかった。ウイーン会議でポーランド人は「其本國の特許風習を公然と保有することを許准せられしが、一度此國民謀反を企てけれども、1831年にワルソーを取られ、其鎮定に及びける後は、魯國は掠略地として之を所置せり」(下編中 69頁)。

 ロシア領ポーランドだけを詳しく書いているが、この時期の日本において、ポーランド分割は、強い関心事であった。

≪希臘≫

 近代史の終りの方、第四篇第一章東方諸国において、ギリシアが扱われる。

 ギリシアはオスマン帝国の支配下にあった。それは1500年代に土耳古には優れたスルタンが輩出したからで、領土をアジアとヨーロッパに拡大し、ヨーロッパのほうでは、「希臘全國且匈牙利過半も」領土となった(下編下 2頁)。

 そのギリシアの独立の過程が述べられる。「希臘國の都たるヂヤニナ(ヤニナ)國のパソー(パシャ)アリーテブレン(アリ・テベレン)なる者」、独立を企てたが、1822年に大敗した。然れども、騒動はまだ終わらなかった。「蓋希臘國の人民、多くは西教徒なりしを以て、土耳古の管轄を脱せんと希へるを以てなり」。土耳古政府は「麥西(エジプト)國のパソーの兵隊の援を以て」これを押さえんとし、残忍なる戦争を続けたので、「西方欧羅巴人の心を感動せしめ」「西教を奉ぜる人民にて且其昔文明名ありし希臘人の子孫の今モハンメンダン教を奉ぜる所の國に抵抗して、其獨立を謀るを援けんと奮發せり」。英国の艦隊を主とする艦隊が、ナワリーノにおいて勝利し、「パソー」の兵を撤去させた。そして1833年、希臘独立の商議が成って、「希臘はバワリアの公子オゾなるものを奉じて」独立國となった(下編下 8-9頁)。

 これまでの「万国史」以上に詳細な記述になっている。当時の日本においては、ギリシアの独立は強い関心を持って見られていたのである。

◎輓近欧州動乱

 最後に、フランス革命を含め、輓近欧州動乱を論じているところでは、東部ヨーロッパについては、1848年革命期のハンガリーが扱われている。佛朗西の動乱(フランス革命)、1830年の改革、1848年の動乱が述べられて、そのなかには、ソシアリスト、コンミュニストの登場などが出て来る。1848年については、ハンガリーを中心としてこういう記述が出てくる。

「墺地利亜(オーストリア)の所領に於て、此動亂の結果は尚一層不幸に陥れり。夫れ以太里(イタリー)は復容易に壓服せられ、又墺國政府の為す欺詐に由て、逐次に蠢食せられ、遂に其國の獨立を失なへるなりと、兼て痛心せる匈牙利(ハンガリー)國民の鋭意なる首謀者は、此機に投じて、其舊政體を恢復せんと企て、且帝都維也約(ヴィエナ)も一揆を醸もしければ、帝は奔て之が災を避けたり。是に於てクローチアの人民、其首長に從ひ、其の他墺國所轄の内に列したる、半開の人種等と共に、此一揆鎮壓の為に、其兵隊を編成し、乃維也約都を砲撃し遂に此都を降せり。然るに勇敢なる匈牙利國民は、尚抵抗して、未だ少しも畏縮せる色なきを以て、魯國の助勢を依頼し、遂に彼等をも壓服したり。此時其首謀輩は、數多鄰國の土耳古に脱走しけるを以て、魯西亜帝土耳古に之を交付することを要責せしけれども、英國政府の保護あるを頼み、土耳古政府は決然として、之に從うをなささりき」(下編下 53頁)。  

 この事実関係はほぼ正しい。オーストリア、イタリア、ハンガリー、クロアチア、そしてロシアとトルコ(オスマン帝国)の動きを相互に関係させて論じているのは、出色である。とくにクロアチアの動きが描き出されているのは、日本では初めてであろう。

 なおこの19世紀中頃において、ハンガリー以外のヨーロッパ東部は出てきていない。

  ***

 以上見てきたように、作楽戸痴鶯訳編『万国通史』においては、ヨーロッパの東部はこれまでの万国史よりもずっと多く詳しく正確に、しかも時代の動きに組み込まれた形で出て来る。主なものは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであった。ボヘミアがしっかりと登場し、フス派の動きが書かれていたり、ポーランドの歴史が「分割」以外にも書かれていたり、1848年革命について諸民族の複雑な関係が書かれていたり、これまでのパーレイ的な「万国史」を超える記述が出てきている。

 この『万国通史』の特徴をまとめるならば、

  1. 原書の「聖史」を省略して世俗史として歴史を考えていた。
  2. ヨーロッパ史が中心であるとはいえ、さらに各国史的であるとはいえ、明治期最初のしっかりとした世界史でアジアなどもその範囲に入っていた。
  3. パーレイのような諸国の歴史の並列ではなくて、諸国間の関係を押さえ、また時代性を捕まえようとしていた。
  4. ヨーロッパの東部の歴史も西部の歴史の「付属」としてではなく、それ自体として直視していた。

 このような「万国史」はその後どのように受け継がれ発展させられたのであろうか。

(続く)

(「世界史の眼」No.32)

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『歴史はなぜ必要なのか-「脱歴史時代」へのメッセージ』刊行のお知らせ

世界史研究所の研究員が編纂、執筆に関わった書籍、南塚信吾、小谷汪之、木畑洋一編『歴史はなぜ必要なのか-「脱歴史時代」へのメッセージ』(岩波書店、2022年)が刊行されました。身近なできごとを題材に、私たちの暮らしが歴史の中で作り出されてきたことを解き明かそうとする意欲作です。

岩波書店の紹介ページは、こちらです。

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「世界史の眼」No.31(2022年10月)

今号では、小谷汪之さんに、「土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―」をお寄せ頂きました。本論考で、「土方久功と鳥見迅彦」は完結します。(上)はちら、(中)はこちらに掲載されています。また木畑洋一さんに、今年刊行された、『グローバル開発史 もう一つの冷戦』を書評して頂きました。

小谷汪之
土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―

木畑洋一
書評 サラ・ロレンツィーニ(三須拓也・山本健訳)『グローバル開発史 もう一つの冷戦』(名古屋大学出版会、2022年)

サラ・ロレンツィーニ『グローバル開発史 もう一つの冷戦』の出版社による紹介ページは、こちらです。

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書評 サラ・ロレンツィーニ(三須拓也・山本健訳)『グローバル開発史 もう一つの冷戦』(名古屋大学出版会、2022年)
木畑洋一

 第二次世界大戦終結後1990年前後までの世界史は、冷戦の歴史として描かれることが多い。しかし近年では、この時期に同時に進行していた脱植民地化に重点を置く視点も浮上してきている。評者も『二〇世紀の歴史』(岩波書店、2014年)で、帝国主義世界体制の解体過程を軸としてこの時代の世界史を捉えていくという見方を提示した。冷戦史自体についても、脱植民地化との関連を考慮して再検討するという試みが、O・A・ウェスタッド『グローバル冷戦史:第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)、同『冷戦:ワールド・ヒストリー』(岩波書店、2020年、本書については「世界史の眼」No.9, 2020年12月、で紹介した)などによって成されてきている。

 冷戦と脱植民地化の絡み合いには、冷戦下の「熱い戦争」と植民地解放戦争の関連、冷戦イデオロギーと脱植民地化をめぐる諸思想との関連など、さまざまな側面があるが、一つのきわめて重要な要因が、旧植民地諸国を対象とする開発援助の問題である。脱植民地化によって新たに独立した国々が経済的に自立し発展していく(経済的脱植民地化)ためには、外からの支援を必要としたが、そうした支援策としての開発援助に、冷戦の東西両陣営にまたがる「先進国」側はさまざまな思惑を抱きながら取り組んでいった。この問題への関心も近年広がっており、そうした問題意識に発する研究として、日本でも、渡辺昭一編『冷戦変容期の国際開発援助とアジア:1960年代を問う』(ミネルヴァ書房、2017年)や秋田茂『帝国から開発援助へ:戦後アジア国際秩序と工業化』(名古屋大学出版会、2017年)などの成果が生まれている。

 本書評の対象である『グローバル開発史』は、この問題にがっぷりと取り組んだ研究書であり、広い視野で冷戦期の開発援助問題に歴史的分析のメスを入れている。原著の副題「一つの冷戦史 A Cold War History」が訳書の副題では「もう一つの冷戦」と若干のニュアンスを加えたものにされているが、本書が行っているのは、まさに冷戦史の見直しであり、訳書の副題はそれにふさわしいといえよう。

 本書の内容の詳しい説明は、本書巻末の「訳者解説」のなかで要を得た形でなされているので、ここではごく簡単な紹介にとどめておきたい。

 まず第1章では、第二次世界大戦までの植民地支配のもとであらわれてきた植民地開発思想と大戦期における開発への取り組みが概観される。第2章からが冷戦期を扱う本論となり、第2章では1949年に公表されたポイント・フォア・プログラムを軸としてトルーマン政権期の米国における経済開発計画の様相が紹介される。次の第3章で開発援助に対するソ連側の姿勢が論じられた後、第4章の対象は再び西側に戻り、1950年代、米国のアイゼンハウアー政権が開発援助に消極的であったのに対し、60年代に入って登場したケネディ政権が近代化論を掲げつつ、援助に積極姿勢を示したことが強調される。さらに、58年のEEC結成に示されたヨーロッパ統合の動きが、開発援助と密接に関わっていたことが指摘される。このEECの問題は、国際機関に焦点を合わせた第5章でも引き続いて取りあげられるが、ここでは他に、西側の機関として経済協力開発機構(OECD)に作られた開発援助委員会(DAC)が、東側の機関として経済相互援助協議会(コメコン)の技術援助常設委員会が、分析の対象となる。国際機関の検討は第6章にも続き、国連での議論や世界銀行の活動が紹介された後、64年における国連貿易開発会議(UNCTAD)の設立が取りあげられる。次の第7章では70年代の展開が扱われ、社会主義圏の見方が改めて論じられた上で、援助の対象とされていた国々による新国際経済秩序(NIEO)の要求が取りあげられる。70年代には先進国において環境問題が浮上し、経済成長への疑義も出てくるが、その状況下での開発援助をめぐる議論を対象とするのが第8章であり、さらに第9章では世界銀行によるベーシック・ニーズという考え方の提唱や人権思想との関連が扱われる。続く第10章で、開発思想が新自由主義によって攻撃され、経済成長が重視される方向が再び強まった80年代の状況を描いた後、終章で援助をめぐる最近の状況に触れながら、著者は本書を閉じるのである。

 以下、本書について評者が抱いたいくつかの感想を述べてみたい。

 本書の特徴としてまずあげるべき点は、開発援助を行う側の思惑と姿勢について、実に幅広い検討が行われていることである。従来の開発援助研究では西側諸国、とりわけ米国やイギリスについてはかなり周到な分析がなされてきたものの、冷戦におけるもう一方の陣営であるソ連や東欧に関しては、十分な検討が行われてこなかったという感がある。それに対し、本書の著者は、ソ連側を扱うに際しては史料的制約が大きいことを認めつつ、その姿勢を明らかにすることに相当程度成功している。スターリンがこの問題に関心を抱いていなかったこともあって、ソ連の関わりが積極化したのはスターリン死後であったが、その場合も、開発問題は帝国支配の遺産であるという基本的な認識があり、援助の対象となる独立国は基本的に西側陣営に属するという見方が継続したのである。

 帝国支配から開発援助へという流れは、著者がヨーロッパ統合の動きのなかに開発援助問題を位置づける努力を払っていることによって、本書ではっきりと看取することができる。「ヨーロッパ統合は、帝国の共同経営のための事業だった」(79頁)といった大胆な言明も、本書の叙述のなかでは十分に生きている。ヨーロッパ経済共同体(EEC)設立時の議論や、その後のEEC、ECの「第三世界」政策は、近年日本でも本格的な研究の対象となり、黒田友哉『ヨーロッパ統合と脱植民地化、冷戦:第四共和制後期フランスを中心に』(吉田書店、2018年)というすぐれた業績などが出されているが、本書は、その歴史的位置づけが説得的になされているのである。

 著者はまた、中国の対アフリカ援助政策も一定の紙幅をさいて検討している。中国のアフリカへの関わりが最近になって出てきたわけでなく、すでに冷戦期から見られていたことは、タンザン鉄道の事例でこれまでも知られていた点ではあるが、ソ連・東欧の姿勢と並べて論じられることによって、それについてのイメージはきわめて明確になった。

 このように、従来の開発援助研究で周縁部に置かれていた主体についての議論がなされている一方、評者の問題関心から若干の不満を覚えた点がある。それは、イギリスやオーストラリアを軸とするコロンボ・プランの扱い方の軽さである。本書の主題を論じる上でこのプランはきわめて重要な意味をもつにもかかわらず、本書での言及は2箇所のみで、しかもその中身に詳しく立ち入ることはされていない。すでにいろいろ議論がなされている対象であるという理由からかとも考えたものの、この欠落はやはり問題であろう。

 それはさておき、このように開発援助にかかわった多様な国々に眼を配ることによって、本書は冷戦と脱植民地化の間の関係の複雑さに光をあてることに成功している。帝国主義の遺産を否定しながらグローバルな冷戦のイデオロギーとして近代化論を掲げた米国と、帝国支配の時代からの継続的要素を強く残しつつ援助にあたった西欧諸国の様相が大きく異なっていたということや、社会主義国が被援助国側の事情にほとんど関心を払わなかったために東南関係が悪化していったことなど、多くの論点が提起されている。評者としては、60年代中葉に米国の政治家のなかに東欧諸国を巻き込んで南の国々を開発する共同戦略を考える者がいたとか(107、123頁)、70年代に東西南三者間産業協力という構想が社会主義陣営の側に存在し、実際に協力活動や東西両陣営の合弁事業のための国家間協定が増えていったとかいう(155頁)指摘にも、関心を抱いた。

 さらに、開発援助に関わった人々が、開発問題をめぐる国際的な知識共同体とでも呼ぶべきものを作り上げていたという著者の指摘も、刺激的であった。本書では、国際連合や経済協力開発機構(OECD)などの国際機関の役割も重視されるが、そこでは「科学的手法に基づく知識共同体が形成」(239頁)されていたのである。本書には、ラウル・プレビッシュとかW.A.ルイスとかいった、この問題に関わるいわばお馴染みの人々に加えて、ECのクロード・シェイソンやフランスのジャック・フェランディなどといった、少なくとも評者にとっては初耳の人々の活動が紹介されている。重要な人物について訳者が「人物紹介」を作成して巻末に置いているのはきわめて有益であるが、望むらくはシェイソンやフェランディなど名前が全く耳慣れない人々も取りあげていただきたかった。

 最後に、本書全体の問題と感じる点として、開発援助が被援助国側に具体的に何をもたらしたかということの扱いがある。被援助国側について相応の議論は行われていることは事実であるし、途上国側から示された「第三世界主義」は、74年に国連の資源特別総会で採択された「新国際経済秩序」(NIEO)にも関わらせながら確かに強調されている。しかし、援助の実態についての踏み込んだ分析にもう少し接したかったという気持ちが読後感として残ったのである。

(「世界史の眼」No.31)

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「世界史の眼」No.30(2022年9月)

今号では、南塚信吾さんに、「「万国史」における東ヨーロッパ I-(3) 明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その3)」をお寄せ頂きました。本論考で、「「万国史」における東ヨーロッパ」の第一部は完結します。I-(1)はこちら、I-(2)はこちらです。また山崎が、昨年刊行された、『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』を紹介させて頂きました。

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ I-(3) 明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その3)

山崎信一
文献紹介:南塚信吾(編著)、西川正幹(編集協力)『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』(アルファベータブックス、2021年)

南塚信吾(編著)、西川正幹(編集協力)『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』(アルファベータブックス、2021年)の紹介ページは、こちらです。

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