編集部序:ラムザイヤー論文とその批判について

 2020年12月、ハーヴァード大学ロースクールのマーク・ラムザイヤー教授による「太平洋戦争における性行為契約Contracting for Sex in the Pacific War」と題する論文が、International Review of Law and Economicsという雑誌に掲載された。この論文はオープンアクセスとなっており、

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0144818820301848?via%3Dihub

で閲覧できる(2021年8月27日最終アクセス)。

 この論文のなかでラムザイヤー教授は、「慰安婦」問題として日韓間のみならず国際的にも大きな関心を集めてきた問題をめぐって、「慰安婦」たちも公娼制度のもとでの娼妓と同じように契約の上で働いていたのであって、性奴隷といったものではなく、日本政府や日本軍に責任はないと、主張した。「慰安婦」をめぐる政府や軍の関与を否定し、性奴隷としての性格を否認するこうした議論は、歴史修正主義のなかでしばしば出されてきたものであり、吉見義明氏による研究などでその虚偽性が露わにされてきたが、ラムザイヤー論文はハーヴァード大学の教授の主張として新たな注目を集め、『産経新聞』などによって積極的に報道された。

 この論文をめぐっては、自説に都合がよい形での史料の恣意的利用など、基本的な学問的手続きを欠くものであるという批判が、すぐに国際的に広く展開されはじめた。そうした動きの一環として、2021年3月14日に、「慰安婦」問題をめぐるオンラインサイトFight for Justiceの主催で、緊急オンラインセミナーが開催された。このセミナーでの発言者の一人が、カナダのトロント大学で教える米山リサ氏であり、当日はラムザイヤー論文の知的背景となったアメリカ合衆国における日本研究のあり方について鋭い指摘を行った。それに触発された本研究所からの依頼に応じていただき、寄稿されたのが、以下の論文である。

 なお、その後、2021年7月5日の『東京新聞』が「こちら特報部」という欄で、「“慰安婦”論文に内外から批判」という記事を載せてラムザイヤー批判を報道したが、これにも触発されて、「世界史の眼」では、この問題に関して吉見義明氏に発言をお願いしたところ、ご快諾いただいたので、氏の論稿も近く掲載する予定である。

(木畑洋一)

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ラムザイヤー論文の<腹話術>と北米・知の生産のポリティクス[i]
米山リサ

 ハーヴァード大学三菱日本法学教授J・マーク・ラムザイヤーの論文 「太平洋戦争期の性行為契約(”Contracting for Sex in the Pacific War”)」は、2020年12月にオンライン掲載された後、多方面からの広く厳しい批判を招くことになった。[ii] 当論文への批判は国境や言語の壁だけでなく、ディシプリンやアカデミズムの内外を隔てる敷居を超え、多くの人々を巻き込み、その抗議の内容は多様性を極めた。一本の論文を契機にこれほど多くのさまざまな批判が結集した背景には何があるのか。①北米における日本に関する知の生産、②歴史認識と社会のあり方をめぐるトランスナショナルな攻防、③北米の政治学に代表される社会科学に共通する知的態度―以上3点に絞って述べてみたい。

 「太平洋戦争期の性行為契約」が問題視されていることを知ったのは、同僚の朝鮮史研究者が署名運動について知らせてくれたのが最初だった。論文を掲載した『International Review of Law and Economics』誌への抗議文には、2021年2月の時点で経済学者エコノミスト、法学者、歴史学者、ゲーム理論家、アジア研究者、学術誌編集者など3000名を超える賛同署名が寄せられた。日本内外の反コリアン差別者、自己憐憫的ナショナリスト、歴史歪曲者たちが当論文に賛辞を送り、著者を擁護する一方で、その後も多分野、多方面からの抗議がブログやツイッター上で相次いだ。

 批判と糾弾がここまで広範で多元的になった理由のひとつは、 当論文の日本軍慰安所制度についての歴史記述が問題視される過程で、実は同著者が他論文でも誤った記述や差別的な見解を繰り返していた事実が明るみに曝されたことにある。看過できない誤謬を含んだ記述や偏った知識などを引用し、一義的にゲーム理論に応用して論文を発表してきたラムザイヤーの過去の業績の詳細が、幾人もの研究者によって明らかにされた。[iii] 

 抗議の矛先は多岐に及ぶが、共通して問題視されているのは、著者の「マイノリティ」観である。ラムザイヤーの一連の論文は、被差別部落、在日コリアン、沖縄の基地問題、福島の原発誘致行政などを日本の「マイノリティ」あるいは「下層階級」の事例として提示し、当該コミュニティを取り巻く経済的困難、階級間移動の欠如、機会の不均等、危険や環境汚染や健康被害などの負担の不公平配分などについて、その原因を政治的主流派や社会構造に求めるのではなく、被害者や「マイノリティ」の側の経済合理的判断にあるとする。地方交付金や行政による福祉や助成、閉ざされた民族コミュニティ内の階層化を利用した暴力的搾取など、被害者や「マイノリティ」であることで生じる(とラムザイヤーが信じる)利権の獲得・保全のために、不公正を訴える人々が自分の属する集団に対する差別や周縁化を自ら招いているとする被害者自己責任論である。

 北米における日本に関する知の生産という本稿の関心にとってとりわけ興味深いのは、米国には激しい「政治対立(polarization)」があるため、人種や民族のポリティクスについての「率直な議論(candid discussion)」は極めて難しい状況にあるが、日本の社会的差別や「マイノリティ」の事例を用いるなら思い通りの議論が許されるだろう、とラムザイヤーが述べたり示唆したりなどしている点だ。[iv] 

 ラムザイヤーが「政治対立」と呼ぶのは、90年代以降、既存の知と社会の変革を求める動きのさらなる広がりに恐れをなし、これを封じ込めようとする苛烈な反動が巻き起こした「文化戦争(culture wars)」のことである。「文化戦争」とはつまるところ、家父長的で異性愛規範主義的ヘテロノーマティヴなアメリカ白人至上社会の構造―19世紀的文明の規範であり、今日まで継続する植民地的支配と人種化された資本主義近代のあり方―をめぐる攻防に他ならない。[v] ラムザイヤーが人種や民族について自由に議論をさせてもらえないと苛立ちを募らせる背景には、知と社会のあり方への異議申し立てを封じ込められない北米の現状がある。要するにラムザイヤーによる日本の法経済論とは、変容するアメリカに身を置く著者自身のフラストレーションと敵意を日本を語ることを通じて表明する、いわばトランスナショナルな<腹話術>なのである。[vi]

 たとえばラムザイヤーの被害者自己責任論には、カリフォルニア州でとくに激しく交わされた積極的(差別)是正措置(affirmative action)の撤廃を求める議論と多くの共通点がある。積極的是正措置とは、大学やアカデミズムに限らず、北米の公共空間一般の構成員の多様化を推進する立場から、人種やジェンダーなどによって特定の人々が歴史的に排除されたり従属化されてきた構造を是正する行政などによる積極的介入を指す。これに対し、積極的是正措置が「逆差別」であるとか、差別を助長するといった理由で、共和党を主とする保守や極右その他の白人優位の現状や個人主義を肯定する立場からの撤廃要求が起こり、バックラッシュは凄まじさを増していった。2006年のトランプ政権成立を可能にした要因、あるいはその対極にあるブラック・ライヴズ・マター(BLM)やアイドル・ノー・モア(Idle No More)に代表される先住民による北米の脱植民地化の訴えの広がりの背景に、この争いがあることは想像に難くないだろう。

 ラムザイヤーはさらに、政治対立によって封じられた議論の例として有名な「モイニハン報告書」(1965年)を挙げる。[vii] 当時民主党政権下の労働省次官補だったパトリック・ダニエル・モイニハンによって作成されたこの有名な報告書は、アフリカ系アメリカ人の貧困の原因がシングル・マザーを長とする黒人家庭にあるとし、家父長的な家庭の建設が貧困の解消に欠かせないとする政策を提言した。報告書は、奴隷制や反黒人差別や白人至上主義などの歴史的諸要因を無視し、被害者だけに責任を転嫁し非難していると批判された。この報告書はアフリカ系アメリカ人のなかでも一人親家庭やレズビアニズムを標的としたことから、レイシズムとナショナリズムが異性愛規範的な家族主義と切り離せないことを示した好例ともみなされている。そのため、今日多くの研究分野に大きな変化を促しているクウィア・オヴ・カラー批評(queer of color critique)の契機ともなった[viii]。他方、ラムザイヤーのように、モイニハンはタブー視されていた問題を指摘したために政治の犠牲となったとして、同情を寄せる保守およびリベラルな論客は後を絶たない。

 被害者への責任転嫁、「マイノリティ」化された集団に対する執拗な差別と偏見、多様性の拒絶、さらには歴史による構造的な周縁化こそが社会的少数者を生む主要因だと捉える歴史認識を否定し、社会的不公平の是正や歴史的損傷のリドレスのための施策を愚弄するシニカルな態度――ラムザイヤーの日本版被害者責任論はこのように多くの点で、北米における積極的差別是正措置の撤廃要求、ひいては「文化戦争」を挑発したバックラッシュと強力につながっている。

 しかし実のところ、ラムザイヤー流の<腹話術>は、北米とりわけ米国における日本に関する知の生産において珍しいわけではない。文化的他者としての日本を肯定的に描くことを通じてアメリカの社会規範を表明し正当化するというパターンは、今日も映画やその他メディアにひろく表れるだけでなく、北米における日本に関する知の政治的無意識といってもよい近代化論もしくは近代化論の系譜上にある日本研究に見出すことができる。

 ルース・ベネディクトに代表される戦時期の国民文化研究から冷戦期にかけて北米のアジア研究を強力に形作った近代化論は、日本の近代が欧米のそれに比べて遅れているか、あるいは伝統や封建残滓によって歪曲されているという前提に立ち、これを例証するというトートロジカルな地域研究の手法を再生産してきた。[ix] 意識されるかされないかに関わりなく、この知のフレームが今も強固でありつづける理由は、日本を対照物とすることで、アジア太平洋戦争後の北米とりわけ米国の道徳的優位を確認し、正当化することを可能にする地理歴史認識を提供してきたためであるのは言うまでもない。しかし近代化論は同時に、日本をアメリカ型近代化の(未熟な)模範国として賞賛する。すなわち資本主義を支える勤勉、通俗道徳、家族主義、国家への忠誠など、善きアメリカの精神的価値や規範が形は多少違っていても日本にも見いだせる、とする言説であり、それは戦後占領によるリハビリを遂げた日本をアメリカにとって望ましい冷戦の同盟国として位置づける効果ももたらしてきた。そこに成立しているのは、米国的資本主義近代の(相当な)成功例として日本を褒め称えることで米国の規範的価値や優位を肯定する、というトランスパシフィックな相互慰撫の関係である。[x] 日本の保守政党は、この言説が承認する従属的だが確かな位置をありがたく押し頂くことで、今日までこの構造を支え続けてきた。

 歴史認識の観点でいうなら、この日米の相互慰撫の関係は、日米がともに近代植民地帝国の軍事侵略者として犯してきた暴力の歴史や記憶を相互に隠し合い、歴史的損傷のリドレスの可能性をそれぞれ抑圧してしまうという深刻な結果を招いてきた。私はかつてこれを「忘却の共犯関係」と呼んだことがある。[xi] 日本軍「慰安婦」問題をめぐるより最近の例では、日韓の外相が「最終的かつ不可逆的」な解決をめざしたとされる2015年の日韓「合意」に対し、アメリカが早々に歓迎の意を表明したことにこの関係が表れていた。アメリカが「合意」を後押しするのは、中国との新たな冷戦を戦うためには同盟国である韓国と日本との良好な関係が不可欠であるからに他ならない。[xii]

 しかしラムザイヤー論文をめぐって極めて多くの、広く多様な抗議の声が、国境を越え、しかも短期間に集結したという事実は、日米の共犯関係が維持してきた知や社会のあり方が、各所ですでに大きく揺らいでいることを示している。また、日本軍「慰安婦」問題が、日本による国家責任の否認に起因する歴史認識の問題であると同時に、性に関する規範、女性蔑視、ブルジョワ階級文化主義、軍事主義、レイシズム、ナショナリズム、冷戦という(新)植民地主義などの諸関係から成るアジア太平洋地域の現況を輻輳的に問うことなしには済まされない問題であることを明らかにしているともいえるだろう。冷戦が生み出したトランスパシフィックな親密さは、日米の「忘却の共犯関係」を支える一方で、国境を越えてこれに対抗する多様な動きを結びつけるトランスパシフィックな関係も同時に生み出してきた。ラムザイヤーの不満と苛立ちは、差別的で植民地的な歴史認識を維持することが困難になってきていることの兆候だといえるかもしれない。

 さまざまに異なる場や位置から輻輳的に発せられ、しかし奥底深く連携した批判の結集が明らかにするのは、もはや日米の共犯関係によって歴史責任を回避し続けることはできないという新たな局面であり、レイシズムや家父長的異性愛規範主義の歴史が堆積させてきた序列化や、排除の構造に対する多様な異議申し立てを封じ込めることはすでに容易ではなくなっている、という希望である。そこに見出せるのは、資本主義近代とあらゆる植民地的編成からの撤退、すなわち来るべき真の変革かもしれない。

***

 「太平洋戦争期の性行為契約」の学術論文としての杜撰さを現時点でおそらく最も徹底的に洗い出しているのは、多くの日本語の著作でも知られる歴史学者テッサ・モーリス-スズキではないだろうか。日本軍「慰安婦」は性を交換するために民間業者と自由な「契約」を結んだ経済合理的主体であった、という著者の議論を裏付ける資料や「契約」の証拠さえ提示されていないという根本的な欠陥は言うまでもなく、数か所に及ぶ引用文献の乱用や偏り、引用頁の誤記載や割愛など、ラムザイヤー論文が学術論文としての体をなしていないことを根気よく、丁寧に解き明かしている。この杜撰な論文を調査や研究の誠実性(integrity)とは何かを議論し学習する好機ととらえ、研究者が目指すべき正当な学術論文の基準や原則プリンシプルが何であり、ラムザイヤー論文がそれらをいかに満たせていないかをQ&A方式で伝えようとするモーリス-スズキのセンスの良さも際立っている。研究者が教員でもあることの意味を考えたい人たちにぜひ読んでもらいたい。[xiii]

 それにしてもなぜ、学術論文の基準を満たしていないにもかかわらず、あるいは誤った記述や研究倫理に反する論述を繰り返してきたにも関わらず、ラムザイヤーの論文はこれまで問題なく掲載を許可されたのか。最後にこの点について簡単に触れておこう。論文の内容自体にはさほど関心のない人々も含め、当然多くの研究者がこの疑問を抱いており、冒頭で触れたエコノミストによる抗議文など、掲載誌の査読の経緯や編集者の意思決定の責任を問う声は少なくなかった。

 故政治学者チャルマーズ・ジョンソン他によるラムザイヤーの共著書『日本の政治市場』(1993年)の書評は、今ようやく明るみに曝された多くの問題が論文の査読者によって見過ごされてきた背景に、普遍主義的な社会科学の知的態度の怠慢と傲慢があることを示唆している。[xiv] 

 一般に米国の政治学や経済学は、北米以外の地域に関する研究を特殊な事例に限られる分析やデータとみなし、普遍的に応用される(と信じられている)ディシプリンに固有な理論を説く論述に比べ劣位に置く傾向がある。これに対しジョンソンたちは、ゲーム理論の大枠である「合理的選択理論(rational choice theory)」を用いたラムザイヤーの共著書を評し、普遍性を標榜する社会科学の最も劣悪な研究例だと厳しく批判した。書評によれば、合理的選択理論はアメリカの経済的個人を基本とし、その個人主義的合理性が(実は文化的に特殊であるにもかかわらず)通文化的に普遍であるとみなす前提を問わない。その結果、地域の歴史や文化を無視し、困難な言語の習得や綿密なフィールド調査の必要性を認めない、あるいはデータの集積は現地アシスタントに頼れば十分だという研究方法を正当化することになる。この手法では深く掘り下げた知識は生まれないのは当然なのだが、こういった研究ではたとえ解明できない矛盾点が生じたとしても、分析モデルの整合性を優先することが重視されてしまう。ラムザイヤーの共著書にいたっては、「理論を破綻させないためには、日本でまだ一度も耳にしたことのない実践慣行を捏造せざるをえない」例であると結論づけ、もっと酷い場合には「事実の改ざんや偏向した言い換え」が生じることさえある、とジョンソンたちは告発している。

 ラムザイヤーの論文の掲載を許してきた書誌の編集者、査読者、専門的読者たちの間で、歴史や文化に関する深い考察を軽視し、資料や証拠の吟味をないがしろにする態度が共有されており、そのために事実に反する記述や論考の杜撰さに気づくことができなかったとは言えないだろうか。

 私がまだ若かった頃にカリフォルニア大学の同僚として知り合ったジョンソンは、知的好奇心あふれる叡智の人であり、CIA白書の作成など愛国者としての仕事を続ける一方で、「普遍的」モデルを優位に置く社会科学が知的探求の怠慢に陥っていることを憂慮していた。ジョンソンの「文化」や「伝統」の捉え方は非歴史的であり、古典的オリエンタリズムの文化決定論やアジア特殊論にも通じる限界が多々あることは否めない。それでも今回、ラムザイヤー論文について考えるうえであらためてジョンソンの論考に触れ、普遍主義の傲慢ともいうべき知的態度の行き着く先を鋭く見抜いていた彼の慧眼に、あらためて新鮮な感銘を受けたことを記しておく。

2021年8月13日 トロントにて。


[i] 本稿は、Fight for Justice緊急オンラインセミナー「もう聞き飽きた!『慰安婦は性奴隷ではない』説」(2021年3月14日)でのコメントと、岩波書店の渕上晧一朗氏が雑誌『世界』のために企画された板垣竜太氏との対談(2021年6月17日)での発言の一部をもとにしている。

[ii] J. Mark Ramseyer, “Contracting for Sex in the Pacific War.” International Review of Law and Economics 65 (2021) 105971.

[iii] 当論文をはじめ、ラムザイヤー氏が過去に発表した論文、抗議声明、署名活動、論考などは以下のサイトで読むことができる。Resources on “Contracting for Sex in the Pacific War” in the International Review of Law and Economics (chwe.net)

[iv] J. Mark. Ramseyer, “A Monitoring Theory of the Underclass: With Examples from Outcastes, Koreans and Okinawans in Japan” (January 2020). 引用は2頁。

[v] 「文化戦争」については、拙稿「多文化主義論」綾部恒夫編『文化人類学20の理論』(弘文堂、2006年)を参照。小山エミは以下の論考でラムザイヤーなど日本の保守に歓迎されているアメリカ人学者の白人至上主義について明言している。「「ラムザイヤー論文騒動」の背景にある白人至上主義」『週刊金曜日』(2021年4月22日)。http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2021/04/22/news-87/2/

[vi] 「トランスナショナルな腹話術」は以下より。Lisa Yoneyama, Cold War Ruins: Transpacific Critique of American Justices and Japanese War Crimes. (Duke University Press, 2016). 

[vii]  “On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japan,” Review of Law and Economics 16, no. 2 (2019); “Social Capital and the Problem of Opportunistic Leadership: The Example of Koreans in Japan.” European Journal of Law & Economics (2021) など。

[viii] 「モイニハン報告書」とクウィア・オヴ・カラー批評の関係については、Roderick A. Ferguson, Aberrations in Black: Toward a Queer of Color Critique. Minneapolis: University of Minnesota Press, 2004.

[ix]  ルース・ベネディクトおよび近代化論と日本研究については、拙著『暴力・戦争・リドレス―多文化主義のポリティクス』(岩波書店、2003年)など。

[x] 日米の相互慰撫のより最近の表象例は、拙稿「日本を語る位相――アメリカ研究とアジア研究のポストナショナル」『日本学報』29(2010年3月)8頁。

[xi] Lisa Yoneyama, “Complicit Amnesia: The Smithsonian ‘Atom Bomb Exhibit’ Controversy in Japan and the United States. Paper presented at American Anthropological Association Annual Meetings, Washington, D.C. (November 1995). 「越境する戦争の記憶―スミソニアン原爆展論争を読む」『世界』614号(1995年10月)。前掲書『暴力・戦争・リドレス』所収。

[xii] 日韓「合意」を多角的、世界史的に批判した論評は、中野敏男他編『「慰安婦」問題と未来への責任―日韓「合意」に抗して』(大月書店、2017年)。

[xiii] Tessa Morris-Suzuki, “The ‘Comfort Women’ Issue, Freedom of Speech, and Academic Integrity: A Study Aid.” The Asia-Pacific Journal vol.19:5, no.12 (March 2021).

[xiv] Chalmers Johnson and E.B. Keehn, “A Disaster in the Making: Rational Choice and Asian Studies,” The National Interest, Summer 1994, No.36 (Summer 1994): 14-22. ジョンソン他が酷評したラムザイヤーの共著書は、Mark Ramseyer and FrancesMcCall Rosenbluth, Japan’s Political Marketplace (Cambridge: Harvard University Press, 1993).

(「世界史の眼」No.20)

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書評 リチャード・J.エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』木畑洋一監訳、原田真見、渡辺愛子、芝崎祐典、浜井祐三子、古泉達矢訳、岩波書店、二〇二一年七月刊行
平田雅博

 本訳書のあちこちにある形容句でいう「世界中で最も有名で広く読まれる」歴史家の仕事を私ももっぱら翻訳を通じて読んできた。中でも『素朴な反逆者たち』『匪賊の社会史』『創られた伝統』は何といっても読んで楽しかったし、世界史関連の『革命の時代』『資本の時代』『帝国の時代』に『産業と帝国』を加えた「長い一九世紀史」の四部作は、書評したり引用したり授業のネタにもしたりしてきた。前から三冊に加えて「短い二〇世紀」を扱った『極端な時代』を含めて「近現代史の四部作」との見方もある。本書にはこれらの著作の出版に至る過程や出版後に寄せられた書評群も紹介されており、ほぼすべて未知だったために興味をそそられた。

 とりわけ上記の五点への書評でしばしば繰り返された批判は、「ポストコロニアル」のサイードに代表的に見られるような、ホブズボームの「ヨーロッパ中心主義」的な傾向を指摘するものである(下巻、二二七頁)。ただ「ヨーロッパ中心主義」という意味を視野がヨーロッパだけに限られ非ヨーロッパはまったく触れていないとするのであれば、間違いである。博士論文の計画時に実地調査した北アフリカ(ただしアフリカには南アフリカを除くサハラ以南のブラック・アフリカに関心がなかったのが「盲点」だった)をはじめ、とりわけラテンアメリカ全般には圧倒的な関心を注ぎ(お返しかどうかブラジルで彼の本は売れた)、インド、日本などのアジアにも射程に入れていたからである。「ヨーロッパ中心主義」を非ヨーロッパを視野に入れつつ、起点や基盤はあくまでヨーロッパにおいた「地球規模の歴史」を構想し叙述した、とか「焦点はヨーロッパ」で「その文脈は世界規模」(ハリソンの評価)とかとする方(下巻、一四二、二〇〇頁など)が正しいと言えよう。

 ところが、本書がいうように二一世紀の初頭まで、ホブズボームによる「地球規模の歴史」での「ヨーロッパ」の歴史記述を真似する人は出なかったものの(下巻、七四頁)、真似するどころかそれを越えようとする「グローバル・ヒストリー」が出現した。その一つは、ベイリ『近代世界の誕生』(C・A・ベイリ著『近代世界の誕生 グローバルな連関と比較一七八〇-一九一四』、上・下、平田雅博・吉田正広・細川道久訳、名古屋大学出版会、二〇一八年。本訳書に言及はないがホブズボームは本書の仏訳版に序文を寄せている)である。これもホブズボームへの辛辣な批判者の一人として本書に登場するフェミニスト史家のキャサリン・ホールによって、このベイリ著は彼の「一九世紀史の偉大な四部作」を「退場させた」と評価された。

 ベイリの専門はインド史だが、読書の幅はホールすら「妬ましいほど」と表現したほど広く、欧米史はもちろん、中国史、日本史、イラン史、オスマン帝国史に及んだ。これらをもとにヨーロッパ中心主義を克服したどころか世界のどこも中心としない「多中心的」な世界史を試みた。同じくヨーロッパ中心主義と批判されることがあり本書にも登場するウォーラーステインもヨーロッパ以外をすべて「周辺」とか「半周辺」として「概念上のごみ箱に放り込む」論者として斥けている。はたしてベイリがホブズボームを「退場させた」かどうかは綿密な検証が必要だが、たとえば、先に触れたサイードがヨーロッパ中心主義との批判内容である、非ヨーロッパの知識人の軽視ないし無視、および非抑圧者、危機に瀕したコミュニティ、被差別者、宗教に基づいた抵抗運動への視点の欠如といったものは、ポストコロニアルに「寛容」の姿勢を取ったベイリがこれらに非ヨーロッパの「歴史なき人びと」「国家なき社会に住む人びと」も加えて、彼の世界史に参加させたと評価されている(ベイリ関係の書誌データは以下を参照されたい。平田雅博『ブリテン帝国史のいま グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで』、晃洋書房、二〇二一年、一一九~一三〇頁)。

 歴史の叙述と国家形成を結合させて誕生したのが「近代歴史学」で、個別のネーションの枠組みに閉じ込めずにヨーロッパ全体を基準に議論するトランスナショナルなアプローチを取ったのが彼の世界史だとしたら(下巻、七四頁)、非ヨーロッパを取り込む「真のグローバル・ヒストリー」の出現がそれに取って代わったために、彼は近代歴史学とグローバル・ヒストリーの中間点に位置するというのが私の見方である。

 ポストコロニアル絡みのもう一つの今日的な観点としての「ポストモダン」から本書を読むとどうか。本書は「社会民主主義者(上巻、vii頁)」エヴァンズが書いた「終生の共産党員」ホブズボームの評伝である。距離がおかれた分か、むしろ労働党への影響力など「現実的な」政治活動をよく捉えている面があり、仮に同じ共産党員(まず思いつかないが)が書けば別物となっていただろう。ところが、文学理論家の冨山太佳夫によると、エヴァンズはポストモダンに対して「恫喝的な排除の姿勢を取る」歴史家であり、ホブズボームは「ポストモダンの弁護路線に頼るのは有罪の者の味方をする弁護士たち」との「悲しむべき暴言」を吐いた歴史家である。かくして本書はポストモダンを「恫喝」する者による、これに「暴言」を吐いた歴史家の評伝となる(富山太佳夫著『英文学への挑戦』岩波書店、二〇〇八年、三七一頁。ホブズボーム著『歴史論』原剛訳、ミネルヴァ書房、二〇〇一年、序文、エヴァンズ著『歴史学の擁護 ポストモダニズムとの対話』今関恒夫、林以知郎監訳、晃洋書房)。

 著者はホブズボームが詩や小説を多読して「文学を通して歴史に取り組むようになった」としながら、彼の意図を汲むかのようにポストモダンへの否定的な態度を本書でも拾っている(下巻、二六二、二九一、三一五頁など)。一方、冨山によると、従来の実証的な歴史学と文学が「調和的な交差」する場が「ポストモダン的な変貌」を遂げた「評伝」である。エヴァンズの当評伝は冨山のいう「評伝」なのか。膨大な未刊行資料を駆使した実証はおそらく当分は余人の追随を許さぬほど見事である。一方、評伝に書かれる人の行動にはすべて実証的な裏付けがあるとは限らず、冨山のいう「資料によっては論証できない動機や目的」を説明する必要もある。

 たとえば、多くの頁が割かれている女性関係に関して、この「ひどく醜い男」に惚れる女性があれほどいたのはなぜだったかの部分(下巻、六六頁)は、さしもの著者でもエビデンスを提示しないままの、推し量りかねる女性の恋心の「説明」である。その他「女性が大好きな」本人の各地の売春宿ヘの出入りや既婚女性との「情事」が手紙や日記で「実証」されているが、最初の妻の浮気から自殺も考え、自宅で「堕胎」の手伝いをしたことヘの悔恨、これまた「既婚」の成人学生との間に「非嫡出子」をもうけたことへの生涯にわたる苦悩等々はどう見ても「実証」しきれていない。ここはもはや「事実立脚性」と「論理整合性」に基づく歴史学ではなく「芸術」の領域だからである(遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会、二〇一〇年)。だが、その深部の心性の説明はなされているので、皮肉なことに恫喝したはずのポストモダンの説明の手法をあるいは取り入れた形になったのかも知れない。

 いわゆる「偉人伝」でも以前ならばタブーだった同性愛を含むセクシュアリティヘの言及は珍しいものでもなくなった。ただ、あまり私生活に触れなかった自伝『わが二〇世紀・面白い時代』には、ケインズやシュンペーターの伝記に「ベッドの下から」のぞき込むような性生活の描写があることを嫌っている箇所もあるので、自分の評伝に書かれてしまうことなど望まなかったはずである。

 ところが著者はエリックの「著作と生活は継ぎ目なく調和しており」、私的な側面も専門家としての側面も「同じ一枚のコインの裏と表」(下巻、五八頁)としていることから、あるいは著作に表れているかもしれないと私が想起したのは『帝国の時代』の「新しい女性」章の中の「性の解放」などだが、書評群の紹介において、著者はホブズボームがたびたび女性やジェンダーヘの視点の不十分さや欠如を指摘されたこと(下巻、一九四~一九五頁)、本書の末尾において「女性の歴史」は氏の知識の「盲点」の一つだったこと(下巻、三一三頁)を指摘して閉じており、生活と著作がいかにして「同じ一枚のコインの裏と表」だったのかはついに不明であった。

 終章はホブズボームの著作群を卓抜にまとめながら、世界中でなぜこれほど読まれたかの理由を説得的に示すが、女性の歴史の他にブラック・アフリカと大衆文化というあと二つの「盲点」を敢えて指摘しているのは、これからの歴史家に、これら三つの盲点を突いてホブズボームを越えてみよ、と示唆しているようにも見えた。

(「世界史の眼」No.20)

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「世界史の眼」No.19(2021年10月)

今号では、大門正克さんに浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』を書評して頂きました。また、小谷汪之さんの「ノモンハンからの世界史―二つの「満蒙」旅行記を通して―」の(下)を掲載しています。

大門正克
書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)

小谷汪之
ノモンハンからの世界史(下)―二つの「満蒙」旅行記を通して―

浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)
大門正克

 歴史研究にジェンダー視点の導入の必要性が指摘されて久しい。だが、グローバル経済史(経済史)では、依然としてジェンダー視点の導入の試みが乏しい。本書は、この点に「問題提起」と「挑戦」を試みた本であり(260頁)、大変に刺激に満ちた研究書である。

 編者のひとりである浅田進史氏が言うように、ジェンダー史とグローバル経済史は「交わることなく並行の関係」にある(6頁)、あるいは本書で姫岡とし子氏が言うように、通史とジェンダー史には「折り合いの悪さ」(251頁)がある。それに対して序章では、論争のなかのグローバル経済史とジェンダーの論点が紹介され、両者を接続することが重要な課題であることが示されている。紹介されている論点は、①ジェンダー史からの「イギリス高賃金経済」論批判、②「ガール・パワー」論をめぐって、③性別分業をめぐってであり、「序章」は本書全体の位置づけ、問題の所在と課題を明快にまとめている。加えて各章では、先行研究と論点の整理に留意したうえでの論証がめざされている。

 その結果、本書は、ジェンダー史を無視するグローバル経済史は居心地が悪いはずだというところまで、グローバル経済史に対して問題提起がかなりできているように思えた。「あとがき」(浅田進史)にある、グローバル経済の現場に接近するほどに、「いかにその支配のあり方がジェンダーと不可分に結びついており、それが全体の支配構造を支えていることがわかるのではないか」(260頁)という言葉が本書の問題関心をよく表現しており、もっとも深く胸に突き刺さった。

 本書の概要を紹介しよう。「序章」(浅田進史)に続き、本書は3つの部で構成されている。第1部「産業革命・グローバル史・ジェンダー」には、第1章「産業革命とジェンダー」(山本千映)、第2章「18―19世紀イギリスの綿製品消費とジェンダー」(竹田泉)、第3章「18世紀フランスにおけるプロト工業化とジェンダー」(仲松優子)、第2部「19世紀グローバル化のなかのジェンダー」には、第4章「ハワイにおける珈琲業の形成」(榎一江)、第5章「市場の表裏とジェンダー」(網中昭世)、第6章「ドイツ植民地に模範的労働者を創造する」(浅田進史)、第3部「グローバル経済の現段階とジェンダーの交差」には、第7章「生産領域のグローバル化のジェンダー分析」(長田華子)、第8章「ポスト新国際分業期におけるフィリピン女性家事労働者」(福島浩治)がそれぞれ配置され、コラムも3本おかれている(「工業化期イギリスの女性投資家」<坂本優一郎>、「家事労働の比較経済史へ向けて」<谷本雅之>、「グローバル経済史とジェンダー史の交差の可能性」<姫岡とし子>)。 

 本書は、2017年6月に開催された、政治経済学・経済史学会春季学術大会春季総合研究会「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」をもとに構成されたものであるが、上記のように研究会の記録にとどまらず、本書全体および各章にわたり、問題提起と課題の所在、論点などがよく整理された触発力の大きな研究書になっている。

 本書は、「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」ことを課題にするとうたっているが、本書を少し読めば、本書の射程はグローバル経済史にとどまらず、経済史一般に対する問題提起であることがすぐにわかる。そのことをもっとも明瞭に示しているのが、プロト工業化論に対してジェンダー視点の欠落を鋭く指摘した第3章の仲松優子論文である。プロト工業化論では、家族が重要な研究対象であったが、「女性労働とこれをめぐる権力関係に対する視野をほとんどもちえておらず」、「議論の基盤に大きな欠陥を抱えていた」(76頁)という指摘は、正鵠を射ているであろう。今後、仲松論文を抜きにしてプロト工業化論を語ることはできないはずである。

 日本経済史研究でもジェンダー視点の接続に対する問題関心は、長い間、希薄であったが、近年いくつかの問題提起が続いている。小島庸平『サラ金の歴史――消費者金融と日本社会』(中公新書、2021年)は、ジェンダーを重要な視点にすえており、「感情労働」などのキーワードを駆使しつつ、サラ金苦と男女の対応の相違や感情労働のあり方を具体的に検討している。消費や労働の研究にジェンダーの視点を導入したものとして、今後の研究の新しい方向性を示している。また私も、高度成長期の企業の社内報に掲載された主婦の文章から「機嫌」と「ぐち」というキーワードに注目し、企業社会における夫の労働と主婦の規範・実践に含まれた非対称のジェンダー関係に注目する必要性を提起した(大門「高度成長期の「労働力の再生産と家族の関係」をいかに分析するか」『歴史と経済』247号、2020年4月)。本書は、これらの研究をより広く位置づける役割もはたしているように思われる。

 本書は、グローバル経済史(経済史)におけるジェンダーへの問題関心を促し、さらにジェンダー視点の必要性を説いたものであり、日本経済史研究を含めて大変に時宜にかなった研究書である。広く共有されることを望みたい。

(「世界史の眼」No.19)

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「世界史の眼」No.18(2021年9月)

今号と次号に分けて、小谷汪之さんの「ノモンハンからの世界史―二つの「満蒙」旅行記を通して―」を連載します。今号は(上)です。また、藤田進さんに、戸田三三冬さんの『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』を書評して頂きました。そのほか、山崎がセバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』を簡単に紹介しています。

小谷汪之
ノモンハンからの世界史(上)―二つの「満蒙」旅行記を通して―

藤田進
書評:戸田三三冬『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』(準備中)

山崎信一
文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー―批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)

戸田三三冬『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』(三元社、2020年)のAmazonによる販売ページは、こちらです。岩波書店によるセバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー―批判的歴史叙述のために』の紹介ページは、こちらです。

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文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)
山崎信一

 セバスティアン・コンラートの手による本書は、さまざまな形で世に出ているようなもののように「グローバル・ヒストリー」を通史的に叙述したものではなく、歴史研究のアプローチ方法、あるいは歴史を見る視点として「グローバル・ヒストリー」を提唱し、その理論化を試みた著作である。いわば方法論としての「グローバル・ヒストリー」を探究する試みとも言えるだろう。著者のコンラートは、ドイツの歴史家で、日本を含む東アジア研究やドイツ植民地主義の研究を主たるフィールドにして研究を続ける一方、グローバル・ヒストリーの研究にも携わってきた。その成果が、2016年に原書が出版された本書となる。著者自身、外国史研究をフィールドの一つとし、また世界各国での生活経験を持ったことも、こうした関心の背景にあるだろう。

 本章は10章よりなっている。以下、各章の内容に関して概観してみる。第1章から第3章までは、本論に対する導入部分をなしている。「第1章 イントロダクション」では、本書の狙い、すなわちプロセスとしてではなく視点としてグローバル・ヒストリーを取り上げる点が説明され、ただしそれが万能ではないという点への留保もされている。また、国民国家を単位とする歴史叙述やヨーロッパ中心主義といった、従来の歴史学の方法論の限界の中から生まれたグローバル・ヒストリーを、「すべての物事の歴史」、「交換と接続の歴史」、「統合に着目した歴史」の三類型に分け、第三の類型に可能性を見出している。「第2章 「グローバル思考」小史」は、いわば世界史/グローバル・ヒストリーのヒストリオグラフィーであり、古代から現代までの世界史理解がどのように変遷してきたのかを、非ヨーロッパ世界におけるものやサバルタン研究などにも目配りしながらまとめている。ここでの重要な論点は、「世界史」における「世界」が書かれる時と場所に応じて形成されるものであるという指摘だろう。「第3章 競合するアプローチ」においては、5つの方法論、「比較史」、「トランス・ナショナル・ヒストリー」、「世界システム論」、「ポストコロニアル・スタディーズ」、「「複数の近代」論」を取り上げ、利点と限界の両面から分析している。これらはいずれもナショナルな視点を超克し、西洋中心主義を超えるという、グローバル・ヒストリーのアプローチとの共通性を持つものであり、競合的というよりは相補的でありうる。

 第4章以降が本論に相当するが、「第4章 アプローチとしてのグローバル・ヒストリー」では、この後の章において詳述されるこのアプローチの全体的な見取り図を提示している。グローバル・ヒストリーのアプローチは、接続とそれによる移転と相互作用を強調するのに加えて、さらに7つの方法論上の特徴(「ミクロな問題をグローバルな文脈に位置付けること」、「所与の空間を前提としない」、「関係性と相互作用への着目」、「内在的発展より空間的関係性の重視」、「歴史事象の同時性の強調」、「ヨーロッパ中心主義への批判」、「ポジショナリティの認識」)があることが示される。また、考察の対象が単なる接続ではなく、それによる統合や構造化された変容にも及び、グローバルなレベルでの因果関係の探究が重視されている。また、グローバル・ヒストリーのアプローチの実践例として、国民とナショナリズムの問題が簡単に分析されている。「第5章 グローバル・ヒストリーと統合の諸形態」では、構造化された統合に関して分析対象としている。統合を強調することにより、グローバル・ヒストリーがグローバリゼーションの歴史となるわけではない点、さまざまな因果関係の関係性に着目することで、構造の強調が個々の主体の営みを過小評価するのではない点、グローバル・ヒストリーの視点が16世紀以降、特に19世紀以降の分析に有用だとしても、そこにアプリオリに限定されるものではない点が議論されている。「第6章 グローバル・ヒストリーにおける空間」では、ナショナルな枠組みを超える戦略として、「大洋などのトランスナショナルな空間」、「人、もの、観念などの「追跡」」、「ネットワーク」、「ミクロストーリア」の4つの空間設定が提示されている。また、いかなるものであれ空間の構築性を理解する必要があり、グローバルな枠組みが特権的なのではなく、空間的尺度のひとつに過ぎないという点が強調されている。「第7章 グローバル・ヒストリーにおける時間」では、空間の尺度と同様、時間の尺度にも多様性や重層性があること、特権的な時間的尺度も存在しないという点を指摘している。全人類史に一貫した時間的枠組みを設定する「ディープ・ヒストリー」や「ビッグ・ヒストリー」に対しては、決定論的である点、自然科学的法則性を重視する点には陥穽があると指摘している。一方で共時性を重視することは新たな視点を開くものであるが、連続性を軽視することもできないとも述べている。著者によれば、空間的にも時間的にも、複数の尺度のバランスが必要だということになる。「第8章 ポジショナリティと中心化アプローチ」が対象とするのは、ポジショナリティ、すなわち歴史を叙述する立ち位置に関してである。ここでは、ヨーロッパ中心主義の脱却を志向することが、さまざまな○○中心主義の増殖をもたらした点が言及される。著者はポジショナリティに自覚的であるべきこと、それ自身が不平等と排除のメカニズムを持つ点も指摘している。幾分哲学的な「第9章 世界制作とグローバル・ヒストリーの諸概念」では、歴史家の「世界制作」としての歴史研究とそのもたらすものを対象としている。ここでは、近代社会科学の諸概念や術語の限界にも言及しながら、一方で非西洋的概念に開かれていることが、これまでの蓄積を無にはしないとも述べている。最終章である「第10章 誰のためのグローバル・ヒストリーか?-グローバル・ヒストリーの政治学」においては、グローバル・ヒストリーのアプローチの持つ限界にも触れている。歴史学が国民国家との密接な関係の中でそれに資する形で発展した一方、グローバル・ヒストリーはグローバリゼーションを支えるイデオロギーではなく、むしろそれを批判する視点を提供するものであると著者は述べている。さらに知のヒエラルキーの問題、英語のヘゲモニーの問題を指摘した上で、グローバル・ヒストリーの5つ限界(「接続性の特権化による過去の特定の論理の消去」、「移動や接続性への執着」、「権力の問題の無視」、「個人の役割の無力化と責任の問題の外部化」、「「グローバル」という術語による歴史の現実の単純化」)を挙げている。また巻末に、翻訳者による「誰のために歴史を書くのか」と題された解説が付されており、本書の背景、クロスリーやハントの議論との比較、本書の的を射た要約が述べられている。

 本書において一種の方法論としてのグローバル・ヒストリーを特徴づけようとする中、著者の非常に抑制的な態度が目につく。さまざまな限界を同時に提示し、また歴史を語る自らの立ち位置にすら批判的である。しかし、グローバル・ヒストリーを「歴史の見方」として、位置付けることは、疑いなく意味を持つだろう。とりわけ、個人史などのミクロヒストリーが、グローバル・ヒストリーとつながるという指摘は示唆的である。それは例えば、シリーズ「日本の中の世界史」(岩波書店、2018-19年)の各巻とも通底するものだろう。最後に、原書刊行から比較的短期間のうちに平易な翻訳を仕上げた訳者にも敬意を表したい。

(「世界史の眼」No.18)

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書評「教養としての歴史問題』

当研究所の木畑洋一さんが、『立命館アジア・日本研究学術年報』第2号(2021年)に、前川一郎編著、倉橋耕平・呉座勇一・辻田真佐憲著『教養としての歴史問題』の書評を執筆しています。

この書評は、こちらからお読みいただけます。書評対象の『教養としての歴史問題』の版元による紹介ページは、こちらです。

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「世界史の眼」No.17(2021年8月)

今号では、昨年末に、19世紀米国の作家・思想家であるヘンリー・ソローの日記を翻訳・刊行された山口晃さんに「世界史のかたわらでのヘンリー・ソローの存在」と題して、ソローとその日記について寄稿して頂きました。

また、連載中の『世界哲学史』シリーズの書評ですが、今号では第8巻と別巻を対象とし、完結します。

山口晃
世界史のかたわらでのヘンリー・ソローの存在

木村英明
グローバルに連結する哲学へ向けて(『世界哲学史第8巻』)

南塚信吾
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留責任編集『世界哲学史別巻―未来をひらく』ちくま新書、2020年

ヘンリー・ソロー、山口晃訳『ヘンリー・ソロー全日記 1851年』(而立書房、2020年)の紹介ページは、こちらです。また、筑摩書房によるシリーズ『世界哲学史』の紹介ページは、こちらです。

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世界史のかたわらでのヘンリー・ソローの存在
山口晃

 ソローという人は刑務所に入っていたのはたった一日で、森で暮らしたのもわずか二年だけだったのですか。生涯の半分は森で暮らし、半分は刑務所に入っていたのかと思っていましたよ。これは私の作り話ではない。彼の生まれた国でも漠然とそのように思っている人がいると聞いたことがある。『森の生活』と「市民的不服従」が彼を代表する作品だからである。そして作品を読むことで現代文明と社会を批判する孤高の人という像ができていく。いまのここに満たされない、それを補ってくれる憧れをともないながら。ソローにとって刑務所の一晩はとびきりの一日であったのだろうか。彼にとって森の生活は、そうでなかった日々とくらべ根本的に大切だったのだろうか。ソローの一日を市民的不服従の一日で、また森の生活の日々で代表することは、ソローの生活に即して考えるときふさわしいことでない、と私は思うようになっている。彼の市民的不服従の劇的な時も、森の生活という異空間・異時間も、当然ながら日常的な日々に支えられていた。あるいはそれらと併存なしにはありえなかった。だが、私たちがこの世界にある、という点から考えるとき、併存でよしとするというところでとどまっていられないように思える。もう一歩踏み込む必要があるのではないか。

 その小道を歩く前に、特別な一日であったとふつう考えられている市民的不服従の日を、まず素描してみよう。氷河期にできたウォールデン湖のかたわらにソロー(一八一七~六二年)が行ったのは、一八四五年早春であった。小屋を作るために背丈のあるマツを伐り、棟上げは隣人・友人に手伝ってもらったとしても、小屋は自ら作り、夏至を過ぎた七月四日にそこへ移る。ほぼ一年後の七月下旬のある夕方、修理に出していた靴を受け取るため、ウォールデン湖からコンコードの村へ歩いていた。通りで地方治安官・収税吏・牢の看守を兼ねていた サム・ステープルズに呼び止められ、ここ数年間の人頭税の支払いを求められた。「もし金に困っているなら、ヘンリー、俺が支払っておこう」とステープルズは言った。また人頭税が不当に高いと思っているなら、町の行政委員に引き下げてくれるよう自分が掛け合ってもいい、と提案してくれた。しかしソローは、自分は考えがあって払ってこなかったのだから、いま払うつもりはない、と答えた。ステープルズはそれでは自分はどうしたらよいかと尋ねると、その職務が好きでないなら、辞職することもできる、とソローは言った。ステープルズはその案を受け入れる気になれなかった。「ヘンリー、もし君が払わないのなら、刑務所に入ってもらわなければならないよ。」「いつでもいいよ、サム。」「じゃあ、来てくれ」と言って刑務所に連れて行った。ソローが人頭税を払ってこなかった理由は、「国の人口の六分の一が奴隷である」こと、そして「私たちの国の軍隊が侵略軍になろうとしている」こと、つまり政府が奴隷制を認め、メキシコと戦争を行なっている(メキシコ戦争は一八四六年から四八年)からであった。

 ソローの家族は奴隷制の問題に関心を抱いていた。母親シンシア、姉ヘレン、妹ソフィア、知人のプルーデンス・ウォードといった女性たちは奴隷制反対の活動をしていた。コンコードを訪れる奴隷制反対の活動家は、その晩、ソローの母親の下宿にとまるのが常であった(ソロー家は父親の営む鉛筆製造業のほか家庭的な下宿屋も営んでいた)。当時ニューイングランドの著名な奴隷制廃止論者で、ソローの母の食卓に座ることのなかった者はひとりもいなかったと言われている。

 ソロー逮捕の噂はたちまち村中に広がった(当時、住民たちは人口二千人ほどの自分たちのコンコードを町よりも村と呼んでいた)。母親はそれを聞くと、刑務所に駆けつけ、噂の真相を確かめると家に戻り、家族に知らせた。サム・ステープルズはその晩しばらく外出していたが、帰宅すると、娘のエレンが、留守中に誰かがドアをノックして、「ソローさんの税を支払うお金がここに入っています」と言いながら包みを手渡した、と報告した。娘の話を聞いたときステープルズはちょうど長靴を脱いで、火のかたわらに腰かけていたので(コンコードは北海道の南部ほどの緯度である)、わざわざ靴をもう一度はき直すつもりはないと言った。ソローはその晩は刑務所で過ごし、翌朝、釈放されればよいと思ったのだ。

 誰が税を払ったのかは、はっきりわかっていない。ソロー家に同居していたおばマリア説が有力である(ソロー家はおばたち、時にはおじ、そして下宿人がいて、つねにいわば大家族であった)。ソローは母親には自分のやり方に口出ししないという約束を取り付けていたかもしれないが、おばマリアはそういった約束に拘束されていないので、介入し、税を払った可能性が高いわけである。それ以来定期的に、おそらくソローが死ぬまで、彼女か他の人が前もって彼の税を払ったため、こうした事件は二度と起こらなかった。

 翌朝、ステープルズは釈放しようとしたとき、ソローが刑務所を出たがらないことを知り、びっくりした。一刻も早く出所したいと望んでいない、これまで出会ったただ一人の収監人だった。実際、ソローは釈放されることに怒っていた、とステープルズは言う。逮捕されれば自分が反対してきた奴隷制度に町の人々の注意を向けることができ、それこそが納税を拒否した目的であった。おばマリアが税を払ったとき、彼女は彼の作戦の肝心な点を台無しにしてしまったので、うれしくなかった。しかしステープルズは「ヘンリー、あんたが出ていかないなら、追い出すつもりだよ。もうここにはいられないんだ」と言い、ようやくソローは折れた。

 この出来事は、その後、町の人々の記憶からすぐに消えてしまうというものではなかった。町の多くの人々がソローのこの行為に関心を持っていたのである。牢に入ろうとした本当の理由わけを知りたかった。そこで一年半後、ソローは町の人々のそうした関心にたいして説明するため原稿を作り、一八四八年一月二十六日、コンコード文化協会で講演した(当時は、講演は冬期が多かった。また、講演というけれど、リーディングで原稿を読むものであった)。題は「政府との関係における個人の権利と義務」だった。ソローはその場で、聴衆が耳を澄まして聞いていることを感じる。それで三週間後、町の他の人々が聞けるように、講演の続きを行なった(以降、ソローはこの講演をどこにおいても行なっていない。このときのコンコードだけであった)。

 のちに市民的不服従として知られるようになるこのエッセイには後半、読者(あるいは聴衆)にとって不思議な、忘れられない一節がある。《私が投獄されたのは、修理に出していた靴を受け取りに靴屋に向かう途中でした。朝、牢から出されると、この用事を済ませることにしました。そして修理してもらった靴を履き、私に案内してもらうのを待ちかねていたハックルベリー摘みの一団に加わりました。馬具がすぐに付いたので、三十分後には二マイル離れた最も高い丘のひとつにあるハックルベリーの草原に私はいました。そこにはステートはどこにも見えませんでした。》ソローはコンコードのどこにハックルベリーが育っているかを誰よりもよく知っていた。そして女性や子供たちからなるハックルベイリー摘みの一団の「隊長」だった。ハックルベリーの最盛期は、もう少し時期的に後らしい。しかしこの記述は、ソローをずっと読んできて私は、修辞ではなく事実であったように思う。ソローは政治的行為の一日に、このように距離を置きながら原稿を閉じてゆく。

 それとこの出来事が含む忘れられない側面について触れておかねばならない。ソローを一晩刑務所に入れたサム・ステープルズは、ソローのもっとも大切な隣人のひとりであった。ソローはステープルズの土地を測量したとき(ソローの職業は測量士であった)、エマソンを巻き込んでじつに劇的な哄笑で終わる素晴らしい一場面を作り出す(引用しようとすると長くなってしまうので、ウォルター・ハーディング『ヘンリー・ソローの日々』をぜひご覧いただきたい)。また死の床にあったソローを見舞い、「これ以上満足した一時間を過ごしたことはありません。これほどの喜びと安らぎを湛えて死んでいく人を一度も見たことはありません」とエマソンに告げたのは、ステープルズだった。そのステープルズとの関係の中でソローの政治的行為を象徴する市民的不服従が生まれた。市民的不服従の底にあったのは、憎しみではなく、礼節、共同の空間の存在であった。

 ソローのこの一晩は、世界史における最初の市民的不服従と考えられている。それについての講演がたまたまなされ、のちにエッセイが掲載され残されたことで、この行為の姿が明確に表現されたことが、後押ししているのであろう。十九世紀中ごろの市民的不服従のこの出来事は二十世紀においてはインドのガンディーの南アフリカでの非暴力の行動、さらに合衆国のキング牧師の公民権運動の支えとなる。世界史におけるこの流れの意義は現在においてますます大切なものである。しかしソローやガンディーが何よりも考えた「この世界」は十分に顧みられてきたであろうか。つまり市民的不服従を行なった一日は、ソローの日々を代表する一日というよりも、そうではない一日をこそ、かれは自分の一日と考えていた、と私は思い始めている。本題に入ろう。

 この十数年、私は毎日ソローの日記を読んでいる。彼は二十歳の時からほぼ欠かさず二十年間ほど日記を書き続けた。二百万語。実に魅力的で楽しい日記だ。日記は部屋で書くこともあったが、野外の月光のもとで、あるいは焚火の明かりで書くこともあった。句読点はあったりなかったり、行変えも不ぞろいである。いくつか引用してみよう。ほとんどがこんな調子である。

《一月二日(一八四一年) 今日、一匹のキツネが自由な無頓着さで、湖を横切っているのを見た。彼が丘の尾根に沿って雪の上を足早に駆けるとき、私は日の光を浴びる彼の進みを距離を置いて追いながら、太陽がこれほど誇らしそうに、まっすぐ丘の斜面に差し、風と森が静かに共感していることはなかったように思えた。私は太陽と大地を、その真の所有者として彼に明け渡した。彼が太陽の輝きのなかを行ったのではなく、太陽の輝きのほうが彼について行くように思えた。彼と太陽の輝きのあいだに眼に見える共感があった。》キツネと太陽の共演に、観客のソローが加わっている。

《十月二十二日(一八五三年) 昨日、晩近く、ソフィアと母をボートに乗せる。片目の釣り人ジョン・グッドウィンが最近自分のボートで集めた流木を手押し車に乗せ、家に運んでいた。とても美しい夕べで、澄んだ琥珀色の日没が東の岸辺全体を明るくしていた。あの男の仕事はとても単純で直接的であり(もっとも、彼はほとんどの人から不道徳的な性格の持ち主とされているのだが)、冬用の薪を手に入れようとする気持ちは実によくわかるので、私には何とも魅力的であった。単純な仕事こそ私たちは愛することができる。それはまったく詩的である。》

 ソローはこのようにたびたび妹や母を自分で作ったボートに乗せ漕いでいた。ソローの好きな隣人のひとりグッドウィンは、母や妹から見ると、好ましい人物ではなかった。それをさりげなく並行して記入する日記は微笑ましい。枚数のことを考えると、ここで切り上げるべきなのだが、この日の日記は長く、次のような印象深い終わり方をしている。

《グッドウィンは変わることのない釣り人だ。この時期には小さなカワカマスの味をよく知っている。…何日間続けて釣りをするか、私などが言うのはおこがましい。しばらくのあいだほぼ毎日、たとえ雨でも彼は魚を釣っていた。外を見ると雨のなか、彼が籠と竿をもちオイルクロスのコートを着てゆっくりと歩いているのを見て私は驚いたことがあった。また先日は流れの真ん中で釣りをしていたが、その翌日は岸辺で釣っていた。そのときは一種の不思議な力に導かれ、私は彼のかたわらを漕いでいた。冬の餌用にヒメハヤを捕まえているのだ、と言った。私が二十ロッド離れると、二ポンド半の重さのあるカワカマスを持ち上げた。先ほど私に見せるのを忘れていたのだ。後で私に話したところによると、翌朝は三ポンドのを捕まえたそうだ。魚のいる池とカワカマスに関する委員を任命する必要があるとすれば、彼にその一人になっていただこう。彼の生はしっかりと大地に足をつけていて、評価するのが難しい。》ソローはこのようなとき、不思議な力に導かれそのほうへ漕いでいってしまうような人だった。ふだん使わない「委員」というような言葉を、このようなときに使い、その選定基準が他の人々のと違っている。

《十一月十八日(一八五七年) フラネリーは私が知っている最も大変な労働をする男だ。日の出前そして日没後も長い時間、彼は疲れを知らず、身体を使っている。そして結果は何とも陽気なのだ。彼はいつも元気だ。…たんに門が動かないだけでも、彼の喜びはその偶然にたいして湧き上がってきて、ふと口に出る言葉の中にそれがあふれているのだ。ただ勤勉であるというだけで、なんと多くを経験することだろうか。彼のふとした意見のなかにはしばしばきらめきがある。そして彼の声は本当に鳥に似ている。》門が動かないと、ふつう人は困ったと思う。大工さんを頼んで直してもらわねば。あるいは自分で直すにしても、いまやっている仕事が中断されるので困ったな、と思ってしまう。ところがフラネリーは直すことに無意識に喜びを感じてしまう。意見のひらめきが鳥の声に似ているとは、なんとも快い感受性。

 ソローの日記からの引用は楽しいのでやめられない。しかし結びへ入ろう。一八五八年十一月一日の日記を読みながら、私は不思議な方向へいざなわれていた。一八五八年十一月というと、ソローはあと三年半でこの世界を去る時期であった。彼にとって人生の晩年になる。秋も深まり、午後は短くなり、人々は家路に急ぐ。ソローはウォールデン街道の柵にもたれ、夕方の郵便が仕分けされるのを待っていた。そのとき彼はある根源的な思いに浸され、なじみのある十一月の夕べが再び巡ってきたことに気づく。そこには存在するというただそれだけの心地よさがあった。「私に求められている積極的な義務はきわめてわずかである、そういった状態である。」そして人間がこの世界にあることの深い意味を、日常生活の言葉で続ける。

《西の低湿地を通る長い鉄道の土手道、コオロギの鳴くのがほとんど聞こえない静かな黄昏、日没後だいぶたったころの地平線にできる雲の暗い層、郵便局へ行きそしてそこからローソクのかたわらの夕食へ足早に急ぐ村人たち、こうしたことすべてを私はかつて見なかったろうか。…本当は、私たちが真に深い教えを学ぶべきであることを、それらは示している。自然は古い綴り字教本のように、何度も何度もめくられるものなのである。私は完全に満足して、ずっとベンチに座っていた。想像される貴重なものや天国と引きかえに、私はこのなじみのある光景を代えようと思わなかった。》

 彼にとって根源的な思いとは、なじみある光景にほかならない。煙突から薪の燃える煙がゆるやかに立ちのぼってゆくのを見ると、ソローはかならずその下の炉辺、家庭の日常生活の営まれている姿を想像した。あの本当にゆるやかな柔らかい煙の広がり方に魅了される人であった。だからこそ薪になる木、枝、切り株、流木を拾い、集めることに喜びを感じたのであった。薪を割るときの身体のぬくもりもそれにつながっていた。基本のところに日常生活がある。ここで十一月一日のこの日記が閉じられていても、私は自分の晩年をも思いながら、この日の引用を自分のノートに書き写したであろう。

 しかし日記は、そこで閉じられず、唐突に次の数行が書き込まれている。《あなたが知っている現実のフレデリックは、ただ本で読むだけの人物の百万倍の価値がある。…そして朝、圧倒的な力でドアが叩かれる。これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。》日記なので、脈絡はない。説明も一切ない。「圧倒的な力でドアが叩かれる」はどうやら、ヨハネ黙示録三章二十節からのようである。「見よ、私は戸口に立って、叩いている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。」なぜここでキリストが?

 またフレデリックはメリーランド出身の元奴隷、奴隷制廃止運動家フレデリック・ダグラスの可能性がある。そしてソローは彼に複数回会ってきた。フレデリックは一八四五年自伝『アメリカ奴隷の生活を語る』を刊行したとき二十七歳で、さらに十年後の一八五五年には『我が拘束、我が自由』を刊行した。ソローの文の中の「ただ本で読むだけ」はそれに触れてのものであろう。

 一八五八年十一月一日の日記の中で圧倒的な力でドアをたたくのはキリストであった。このフレデリックがダグラスであるとすると、ドアを叩くのは黒人である。ニューイングランドのふつうのキリスト教徒にとって、これは考えられないこと、決して受け入れられないことであったろう。一方ソローはキリスト教および教会に対して距離を置き続けるが、キリスト本人に対してはかならずしも常にそうではなかった。聖書ほど読まれることの少ない本は珍しい、とさえ言う。

 十一月一日の日記のドアを叩く者は、キリストであったかもしれない。だが、ソローにとっては黒人フレデリックであったかもしれない。あるいはドアを叩くその響きのなかで、キリストと黒人が瞬間、瞬間入れ替わっていたのかもしれない。

 ソローは政治的行為にかかわったとき、ハックルベリー、スイレン、カイツブリなどそのときによって異なるが、かならず自然のものに触れた。触れずにはいられなかった。しかし一八五八年十一月一日は逆である。素晴らしい黄昏であった。ただ素晴らしいだけではなかった。慎ましい日常的な根源的な経験をしていると実感した。そのとき、ドアが叩かれていることを思った。「これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。」受け入れ、共に食事をする。ソローにとっての政治的行為である。ソロー家には何人もの逃亡奴隷が立ち寄り、受け入れてきたのであるから、これは比喩ではなかった。しかし、なぜこのような静かな深い日常的な黄昏に、ソローはドアが叩かれていることに触れるのか。

 政治的行為の日の場合はハックルベリーやスイレンへの言及はわずか一言あるいは一、二行にすぎないのと逆の形で同じように、十一月一日では、行為への歓喜はわずか数行で終わり、先ほどの慎ましい根源的な日常生活について改めて深い記述へ戻ってゆく。いまの私にはこれ以上、わからない。しかしこれからもここにたたずむであろう。

《なんら新しいものを欲しない。私は年月を経た確かなものを十分の一だけ確保できれば、それ以外のすべての富をはねつけるだろう。ここから立ち去ると言った途方もない愚行を考えていただきたい。ここにはこれまでに私が持った、これから持つであろう、そしてこれまでと同じように友好的な、あらゆる友がいる。私は友人といさかいをおこしたことはなかった。一致が可能な心地よいものであった。私は友人たちとの関係において前へあるいは後ろへ一インチたりとも動こうとしないと思う。…最も短い距離をまわって帰り、家にとどまりなさい。…もちろんここには、あなたが愛しているもの、あなたが期待しているもの、あなたがそうであるもの、こうしたものすべてがある。ここにあなたの許嫁いいなずけが手に入れられるほど近くにいる。ここはあなたが想像することのできる最良のものと最悪のものがすべてある。あなたは他に何が欲しいというのか。》

 ふだんのソローに他ならない。悪しきものも良きものも含めて一つである。つまり一八五八年十一月一日は特別な一日であったが、ふつうの一日であった。世界史の流れのかたわらでこのふつうであり特別の日を、毎日生きる人がいた。それはまぎれもなく私たちの日々と地続きであった。

(「世界史の眼」No.17)

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