増谷英樹氏とオーストリア史
古田善文

1. 報告者と増谷さんの関係について

 まず増谷さんと私の関係についてお話しします。最初の出会いは、私が東京外国語大学のドイツ語学科3年生の時でした。その後、増谷さんの指導のもと、私は「オーストリアのファシズム」に関する卒論を執筆し、東京外国語大学大学院修士課程に進むことになりました。大学院在学中に私の指導教官はウィーン大学の交換教員として不在(1981〜83)となり、寂しい思いをしたこともありました。もちろん、このウィーン滞在で集められた数々の資料、特に大量のビラのおかげで、名作(1987)『ビラの中の革命』が生まれたことについて、異論はありません。

 修士終了後、私が他大学の大学院博士課程に進学したこともあり、増谷さんとはしばらく疎遠になっていましたが、2004 年以降、今度は獨協大学ドイツ語学科の同僚として10年間の年月を一緒に過ごさせていただきました。増谷さんは、獨協では特任教授として2004年から2010年まで、その後非常勤講師として2014年まで教鞭を取りました。この獨協時代に、増谷さんは通常授業、院生指導の他、2度のオーストリア史に関する「オープンカレッジ特別講座」の講師を努めています。さらに2007年には「ドイツと日本の移民、難民、外国人労働者」と称したインターナショナル・フォーラムの座長として、この催しの人選、企画、実行に多大な貢献をしています。この時の記録は有志舎から(2009)『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–––日本とドイツ/歴史と現状』というタイトルで出版されており、今でもその時の発表や議論の詳細を確認することが可能です。

 前置きが長くなりましたが、今日私が発題者としてお話ししなければならないのは、増谷さんとオーストリア史についてです。ご存知の通り、増谷さんの研究の土台がウィーン・1848年革命であることに疑いの余地はありません。しかしながら、増谷さんの関心は1848年とウィーンに限定されることなく地域的にも、時空的にも非常に多岐にわたります。この点について最もわかりやすいエピソードは、2004 年の東京外国語大学での最終講義でした。そこで語られたのはウィーン・1848年ではなく、何とブラジルのドイツ系移民社会についてでした(増谷さんは最終講義の直前の2003年末から04年初頭にかけて当時の同僚であった鈴木茂氏と、ブラジル南部ブルーメナウと周辺のドイツ系移民社会のフィールドワークに赴いています)。通常、最終講義の場では、積年の研究成果のまとめが語られることが多いのですが、あえてこれからの新しい研究の方向性を示唆する増谷さんの講義には私も度肝を抜かれました。このエピソードは、増谷さんの関心のあり方を理解するのに大いに役立ちます。常にアンテナを高く張り巡らし、もし興味をそそられるテーマや人間を見つけると、躊躇なくそちらに向かう行動力も増谷さんの特徴と言えるでしょう。実際、この最終講義を境にして、増谷さんの関心は、1848年革命を意識しつつも、新たに移民・難民問題にも向かうことになります。

2. ウィーンの1848年革命とユダヤ

 限られた時間で効率的に説明を施すため次の資料(図1)を提示させていただきます。これは増谷さんの主要研究業績の研究領域と私の推測に基づく増谷さんの関心の動きを大まかにまとめてみたものです。

図1

 この資料を見てまず気づくことは、増谷さんは最初からウィーンを研究の対象にはしていなかったという点です。まず増谷さんが関心を持ったのは、ドイツの大都市、特にベルリンの1848年革命分析でした。そこからウィーンの1848年に研究対象が変化した背景には、(1979)『<共同研究>1848年革命』執筆時に出会った良知力先生の存在が大きかったと推測しています。良知さんと増谷さんの信頼関係は、良知さんのご遺作、(1985)『青きドナウの乱痴気』の「あとがき」と、増谷さんの(1987)『ビラの中の革命』の「あとがき」の中にはっきりと見て取れます。増谷さんの言葉を借りれば、ウィーン滞在前に「僕のできなかったことをやってこいよ」という良知さんの言葉と、良知さんが増谷さんに渡した史料・文献類のカードのコピーは、良知さんの先駆的業績と合わせて、その後の増谷さんのウィーン革命史研究の発展を大きく後押しすることになったのでしょう。

 もちろん、良知さんの存在以外にも、1981年以降の最初のウィーン滞在中に出会った人たちが、その後の増谷史学の形成に大きな役割を果たすことになりました。特にウィーン滞在中に、初めて参加したリンツ会議の場で、増谷さんが「事実上の指導教官」西川正雄さんの紹介によって、自ら「革命史研究の指導教官」と呼ぶヘルバート・シュタイナー氏と知己の関係になったことも、その後のウィーン革命史研究の進展を確固たるものにしたと思われます。最初のウィーン滞在以降、ウィーン・1848年革命史研究が最後まで増谷さんの研究のメインストリームだったことは、この資料からも明らかでしょう。

 では増谷さんの1848年革命分析のカギは何かという問題が浮上します。みなさんもご存知の通り、それは革命の中のユダヤという存在になります。増谷さんは、(1984)『社会史研究』に発表した論文、「革命とアンティゼミティスムス」において、ウィーンのユダヤの居住区と職種によってユダヤの人々を「裕福なユダヤ」、「ユダヤ知識人およびユダヤ学生」、「プロレタリアートのユダヤ」という三つのグループに分類し、革命の中でのそれぞれの役割を緻密に分析します。この論文では、ウィーン市内区の「ブルジョア革命」においては解放の対象であったユダヤ教徒が、市外区の「プロレタリア革命」においては、一転して打倒の対象として考えられていたとする興味深い結論が実証的に導きだされます。さらに革命の見方として次のような重要な指摘もなされます。曰く、革命・反革命のヴェクトルで見た場合、革命の中においてその両方向に向きうる可能性を持っていた民衆の両義性の分析が、これまでは、民衆の革命性を強調するがために触れられて来なかった、という指摘です。

 このように1848年革命の分析の主題にユダヤを据え、さらにそこから1848年革命像の新しい見取り図を提供したという点において、増谷さんの研究は、ウィーン革命におけるスラブ系流入民の役割に着目した良知さんの研究を、さらに一歩進めたと言えるのではないか、と考えます。

このようにユダヤ問題への関心が深かった増谷さんですが、通例、ユダヤ人と呼ばれている集団を自分でどう呼ぶかについては色々と葛藤があったように思います。ちなみに、その変遷の跡を辿ってみましょう。

 まず(1984)『社会史研究』掲載論文の中ではユダヤ人と記述しています。(1987)『ビラの中の革命』でも同じくユダヤ人という呼称が使用されています。これに対して、論文集(1992)『感覚変容のディアレクティク』に掲載された論文では、ユダヤ教徒および改宗したユダヤ教徒をカッコ付きで「ユダヤ系」と形容しています。(1993)『歴史のなかのウィーン』に掲載された論文、これは前に紹介した『社会史研究』掲載論文の改訂版なのですが、ここでは以前使用していたユダヤ人を、ユダヤ教徒とカッコ付きの「ユダヤ人」という2つの言葉に使い分けています。その理由について、増谷さんは、「ドイツ語のJudenという言葉が、本来はユダヤ教徒を意味するにもかかわらず、それを使用する人によって意味している内容が違うからであって、その意味内容を汲んでのことである」と説明しています。同じ『歴史のなかのウィーン』の別の書き下ろし論文では初めてユダヤの人びとという呼び方も登場しており、1冊の本の中に複数の呼び方が混在するという状況が見られます。一方、訳本(1999)『ドイツ戦争責任論争』では、主題がユダヤを「民族」とみなすナチの強制労働政策のためか、カッコ付きの「ユダヤ人」が迷うことなく選択されています。

 さて、こうしたユダヤへのこだわりは2000年代に出版された一般の読者向けのオーストリア・ウィーン通史の中にもはっきりと見て取れます。増谷さんは(2011/2023)『図説 オーストリアの歴史』と、(2016)『図説 ウィーンの歴史』を上梓しています。そのうち後者の『図説 ウィーンの歴史』では、中世のユダヤの人々をめぐる生活実態と中世から近現代に至る反ユダヤ主義の変遷を、本文に巧みに織り込みながら整理しています。そうしたユダヤ関連の記述は本文、178ページ中、実に計20ページほどに及びます。

 ちなみに、この著作の5年前に出された『図説オーストリアの歴史』でもユダヤ関連テーマはコラムとして扱われていますが、そこでのユダヤ関連の記述は全部(135ページ)で7ページほどにすぎません。つまり、歳を重ねるにつれ、増谷さんの終生のテーマであるユダヤへのこだわりはますます強くなっていったのでしょう。

 とは言え、この2冊を読んで疑問に思った箇所も存在します。それは、ユダヤへの並々ならぬこだわりを随所に見せているにもかかわらず、何故、シオニズムについての記述が皆無なのかという問題です。『図説 ウィーンの歴史』で、ユダヤ関連記述が増えたことについては既に指摘しましたが、ユダヤの歴史ひいては世界の歴史のなかで重要な意味を持つと思われるウィーンのジャーナリスト、テオドーア・ヘルツルとそのシオニズム運動の起源に関する記述は、この2冊に登場することはありません。この点はどう説明されるべきなのでしょうか。シオニズムに関心がなかった訳ではないが、オーストリアに残るユダヤの人びとの状況分析と、彼らに向けられた反ユダヤ主義研究に主眼をおいた自分の研究スタンスのため、オーストリアからの国外脱出を目的とするシオニズムをとりあえずは研究対象外とせざるを得なかったのでしょうか。今となっては、残念ながら本人に確認することは叶いません。

 増谷さんの研究の主要領域と問題関心をまとめた先ほどの資料をよくみてみると、ユダヤの次に主要なテーマとなったのは、「国民国家」の相対化に通ずる「人の移動」あるいは「越境者」と呼ばれる人々に関する問題です。これとあわせて重要視されるべきウィーンという都市の構造をめぐる問題については、次の高澤さん、吉田さんのご報告と被ってしまう可能性があると思いますので、ここでは割愛させていただきます。

3. 「ヴァルトハイム問題」とオーストリア現代史について

 資料を見てみなさんもお気づきかとは思いますが、増谷さんのオーストリア史におけるユダヤや「越境者」と並んで重要なテーマとなっているのがオーストリア現代史に関するテーマです。具体的には、ナチ支配下のオーストリアにおける「土着的反セム主義運動」の問題と、その延長線上にある1938年3月のアンシュルス(独墺合邦)以降、アドルフ・アイヒマンによって進められたユダヤの財産収奪および追放モデル、いわゆる「ウィーン・モデル」の研究です。この論文(2002)「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)を今回改めて読ませていただきましたが、その中心的主張、つまりオーストリアの粗暴な「土着的反セム主義運動」(あるいは「民衆的反セム主義運動」、「野放しの反ユダヤ運動」)の存在こそが、ユダヤ追放計画の責任者であったアイヒマンに、合理的で秩序ある「解決法」を模索させた、という指摘はとても重要で興味深いものでした。

 オーストリアの戦争犯罪研究の一環として、さらに増谷さんは、第二次世界大戦中のユダヤおよび外国人労働者、ソ連兵捕虜に対する強制労働の問題にも取り組みます。その成果が、(2004)「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)という論文です。そして2007年の獨協大学インターナショナル・フォーラムにおける基調報告の中で、増谷さんはオーストリアの枠を超えてドイツの強制労働の事例にも踏み込んでいくのです。

 この時期、増谷さんが戦争犯罪研究に向かった動機ですが、私の考えではおそらく次の二つが関係していると思います。一つは、ドイツ・シュレーダー政権が立案し、2000年に連邦議会で可決された強制労働補償基金「記憶・責任・未来」設立の動きです。もう一つは、当時、ハーバード大学歴史学准教授であったダニエル・ゴールドハーゲンが、1996年に『普通のドイツ人とホロコースト:ヒトラーの自発的死刑執行人』を発表したことです。この有名な著作は、反響の大きかったドイツで新たな「歴史家論争」を引き起こすことにもなりました。周知のようにこの著作はドイツにおける「土着的反ユダヤ主義」とホロコーストの関係を大胆に論じたものです。現代史家なら誰でもこのゴールドハーゲンの著作をめぐる論争から大きな刺激を受けたと思いますが、増谷さんも同じで、ゴールドハーゲン論争は当時の東京外国語大学大学院増谷ゼミの検討テーマになったのです。そこで読まれたヴォルフガング・ヴィッパーマンの本は、当時の院生のみなさんと増谷さんによって(1999)『ドイツ戦争責任論争』という名前で訳出されています。

 そもそも、増谷さんが現代オーストリアの「土着的反セム主義運動」とは呼べないまでも、その前提となる「土着的反ユダヤ思想」の存在に気づいたのは、ゴールドハーゲン論争から10年ほど遡る1986年頃のことであり、決して90年代の新たな論争の登場を待っていた訳ではありません。具体的に増谷さんの目をこの問題に向けるきっかけとなったのが、1986年に勃発した「ヴァルトハイム問題」でした。これは、元国連事務総長のクルト・ヴァルトハイムが、1986年のオーストリア大統領選挙に保守派の国民党候補として選挙戦に臨んだ際、彼のナチ時代の「戦犯」としての過去が、アメリカの世界ユダヤ会議から暴露されたことに端を発する一連の騒動のことです。選挙戦への世界ユダヤ会議の介入に猛反発したオーストリア国民は、世界中から寄せられた激しいヴァルトハイム批判にもかかわらず、彼を自国の大統領に選出したのでした。これとの関連でオーストリアにおける現代の「土着的反ユダヤ思想」の存在が指摘され、さらにオーストリアの国民が戦争責任をすべてドイツのナチに押し付けることを可能にする戦後の歴史認識、いわゆる「犠牲者神話」のレトリックも改めて注目を集めることになりました。

 「ヴァルトハイム問題」が報道されると、どの局であったかは失念してしまいましたが、増谷さんは某民放テレビ局の緊急特番で専門家としてコメンテータを務めることになりました。あくまで私見ですが、この時の経験が、増谷さんの「ヴァルトハイム問題」およびオーストリア現代政治に対する関心をその後も継続させたのではないか、と密かに考えています。さらに増谷さんは、この問題についての所感を1989年に雑誌『人民の歴史学』にまとめます( (1993)『歴史のなかのウィーン』に再録)が、この頃から、増谷さんは「ヴァルトハイム問題」とならんで、オーストリアの極右自由党の党首に就任したイェルク・ハイダーにも強い関心を持ち始めます。ハイダーについての論説は『図説 オーストリアの歴史』内のコラム「ハイダー現象」で読むことが可能です。若干補足しておけば、この極右政党は元オーストリア・ナチ党員と支持者を中心にして大戦後に結成された「独立者同盟」をルーツの一つにしています。本年(2025年)1月初旬以降、この自由党が第一党として、歴史上初めてオーストリアの首相ポストを握りそうな現状を、増谷さんならどう分析して見せるでしょうか。

 増谷さんの研究業績をまとめた資料を見て、少々異質な存在に思えるのが(2015)『フリーメイソンの歴史と思想』というタイトルの翻訳書です。最初、私もこの本を訳した増谷さんの真意がどこにあるのかよくわからなかったのですが、今回、この報告に備えてもう一度増谷さんの著作を読み直してみたところすべてが腑に落ちました。同書の「あとがき」に公刊理由がはっきりと書かれています。

 「何度となく訪れているウィーンには、フリーメイソンの知人友人もいるが、僕の頭の中では、フリーメイソンは歴史的存在でしかなかった。しかし1990年代に極右排外主義者のハイダーの自由党が政治的に台頭してきたときに、それを批判し抵抗する運動の中心的存在をフリーメイソンが担っていたことを教えられた。」

 つまり、このフリーメイソン翻訳書はその裏で思いがけずハイダーおよび自由党ともつながっていたのです。

 以上みてきたように、増谷さんのオーストリア史への関わり方は実に多様でした。出発点である1848年革命とユダヤの他にも、ウィーンの都市構造、ウィーンのチェコ系流入民、フリーメイソン、両大戦間期の社会民主党市政「赤いウィーン」と労働者住宅、ナチス支配期のアイヒマンによるユダヤ財産の収奪とユダヤ追放計画、大戦中のナチによる外国人強制労働、「ヴァルトハイム問題」および戦後オーストリア国民の歴史認識と残存する「土着的反ユダヤ思想」、極右自由党を中心とする現代オーストリア政治、などがオーストリア関連の主要テーマとして挙げられます。その他にも、ドイツにおけるゴールドハーゲン論争(あるいは戦争責任論争)から、広くドイツ語圏諸国の移民・難民・外国人問題を紹介した(2021)『移民のヨーロッパ史』まで、増谷さんが研究論文や専門書、あるいは翻訳書で残した成果は実に多岐に渡ります。

 増谷さんは、こうした様々なテーマをその都度都度の関心に沿って、あるいは必要に迫られて研究していたのでしょう。しかし、そうした一見無関係に見える個々のテーマは、増谷さんの中では当然のように深いところで繋がっている問題でもありました。私がそう感じているだけなのかもしれませんが、資料で示した矢印の流れを見る限り、増谷さんの関心の動きとテーマ同士の相互連動性が十分に理解できるのではないでしょうか。

4. 再びユダヤへ〜ウィーンからホーエンエムスへ

 最後に再び1848年革命とユダヤの話題に戻りましょう。新しい関心領域と次々に向かい合いながらも、増谷さんがその生涯で、最後の最後まで意識し続けた最大のテーマは、やはり、オーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究でした。晩年の2020年には『メトロポリタン史学』に60ページに及ぶ「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む –新発見の一八四八年革命史料–」を掲載し、1848年革命とユダヤの研究に対する情熱が依然として衰えていないことを、自ら証明しています。

 増谷さんにとって、この生涯をかけたテーマを研究する目的とは何だったのでしょうか。ご自身の言葉を借りれば、ユダヤ研究の最終目的は、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだすことにある、とされます。2013年に出版された『オルタナティブの歴史学』の座談会記録に残っている増谷さんの発言を使って説明すれば、どうやらそれは次のような意味なのでしょう。増谷さんは座談会の席上次のように述べています。

 一つ、自分の大きな研究方向は、ヨーロッパ自身がもっている極めてキリスト教的な社会のあぶりだしということにある。
 一つ、そして、この問題を最も深いところからあぶりだす上で、ユダヤというものが鍵になる。
 一つ、ユダヤを弾圧し続けていく歴史がキリスト教ヨーロッパの歴史であるわけだが、ヨーロッパというものを考えていくには、そうしたユダヤの側から見ていくことが非常に効果的である。

 この言葉の中にこそ、増谷史学の核心が端的に見て取れるのではないでしょうか。

 いずれにしても、編集者をして「なぜそんなにユダヤにこだわるのですか?」と言わしめるほど、増谷さんのユダヤへのこだわりは最後まで強いものでした。今回、この懇談会の直前に増谷さんのPC 内から未発表原稿「ホーエンエムスのユダヤ」が見つかりました。そこにはウィーンではなく、スイスと国境を接するオーストリア西部のフォアアールベルク州のユダヤの人びとと当地の反ユダヤ主義の歴史が、ホーエンエムスのユダヤ博物館が発行したカタログに依拠しつつまとめられていました。さらに、草稿には増谷さん独自の鋭い分析も併記されていました。ご家族のお話しによると、この3万字を超える草稿は、どうやら2015年の半年間におよぶウィーン滞在後に書かれ始めたようです。これまでに報告者が得た情報を整理してみると、この原稿は2011年に公刊された『図説 オーストリアの歴史』の増補改訂版追加コラム用の原稿として想定されたものだったようです。しかし、2023年に実現した増補改訂版には、増谷さんの体調悪化もあり、残念ながらこのコラムが掲載されることはありませんでした。つまり、体調が万全であれば、増谷史学の根幹をなすオーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究は、考察の舞台をオーストリア東部の大都市ウィーンから西部地方の小都市へと移しつつ、さらなる理論的広がりと厚みを増していたのではないでしょうか。

 増谷さんの分析によれば、ウィーンの宮廷ユダヤとは異なり、ホーエンエムスのユダヤ住民は、その活発な経済活動を通じてアジアや新大陸とも通商関係を持っており、支配者から招請された17世紀初頭以来、当地の市民とは比較的良好な関係にあった、とされます。さらに、増谷さんはウィーンとの比較の中で、反ユダヤ思想の現れ方の違いについても以下を重要な差異として指摘します。

 「ユダヤに対する敵対的思想や運動の現れ方も、当然ながらウィーンおよび東方と異なる傾向を持つ。ウィーンという都市が社会歴史的に多民族都市として、特に東方のスラブ系ないしハンガリー、ルーマニアなどの諸『民族』との関係が強く、19世紀には彼らとの様々な問題を抱えていたことにより、ウィーンの住民の自己意識、他者認識は強く民族意識に支えられ、反ユダヤの発想や運動も明らかに民族主義的な色合いを持っていた。シェーネラーなどの運動が、ドイツ民族主義的傾向を持ち、ユダヤを民族主義的に位置づけ、さらには人種主義的に差別しようとする傾向が強くみられるのはある意味で必然とみられる。それに対し『ホーエンエムスのユダヤ』は住民との融合が進んでいた御蔭で、民族的ないし人種的に位置づけられることはすくなかったと考えられる。」

 つまり、この「ホーエンエムスのユダヤ」研究は、先ほど紹介した増谷さんのユダヤ研究の最終目的、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだす上で、これまでの研究ではあまり考察されることがなかった両者の「融合」の可能性を理解するための重要な素材を提供してくれるのではないでしょうか。こうした新たな研究の方向性が示されたにもかかわらず、道半ばでその可能性が閉ざされたことは本当に残念でなりません。

参考文献

増谷英樹「革命とアンティゼミティスムス ウィーン・一八四八年」『社会史研究』日本エディタースクール出版部1984所収
良知力『青きドナウの乱痴気』平凡社1985
増谷英樹「世紀転換期のウィーン 都市社会構造の変化と文化」『感覚変容のディアレクティク』平凡社1992所収
増谷英樹『歴史のなかのウィーン』日本エディタースクール出版部1993
増谷英樹「大都市の成立 –一九世紀のウィーンと流入民」歴史学研究会編『講座世界史4  資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会1995所収
伊藤定良/増谷英樹編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会1998
ヘルバート・シュタイナー(増谷英樹訳・解説)『1848年ウィーンのマルクス』未来社1998
ヴォルフガング・ヴィッパーマン(訳者代表 増谷英樹)『ドイツ戦争責任論争』未来社1999
増谷英樹「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第4号 2002所収
増谷英樹「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第6号 2004所収
増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–日本とドイツ/歴史と現状』有志舎 2009
増谷英樹/古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社2011(2023増補改訂版)
増谷英樹/富永智津子/清水透『21世紀歴史学の創造6 オルタナティブの歴史学』有志舎 2013
ヘルムート・ラインアルター(増谷英樹/上村敏郎訳・解説)『フリーメイソンの歴史と思想 –「陰謀論」批判の本格的研究』三和書籍2015
増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社2016
増谷英樹「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む–新発見の一八四八年革命史料 –」『メトロポリタン史学』第16号2020所収
クラウス・バーデ編(増谷英樹/穐山洋子/東風谷太一監訳)『移民のヨーロッパ史 ドイツ・オーストリア・スイス』東京外国語大学出版会2021
増谷英樹「ホーエンエムスのユダヤ」2015?未発表草稿
Hanno Loewy (Hrsg.), Heimat Diaspora. Das Jüdische Museum Hohenems, Hohenems 2008

(「世界史の眼」No.60)

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増谷英樹著『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』 『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』を再読する
高澤紀恵

 増谷さんのお仕事を都市史の視点から語る、というのが、今回、私と吉田伸之さんに託された役目です。吉田さんは、2015年に都市史学会で「増谷英樹氏のウィーン研究に学ぶ」という会を企画され、報告をしておられます。都市史については吉田さんがこの後、詳しくお話しになると思います。私からは、増谷さんの二冊のご本、『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』と『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』を再読し、あらためて学んだことを短く話させていただきます。

 まず個人的なことです。私は、最初に大学院の優しい先輩であった増谷直子さんと知り合っておりました。直子さんのパートナーとして英樹さんの存在を知った私が、増谷さんのお仕事といつどのような形で出会ったのか、考えてみました。評判の高かった87年の『ビラのなかの革命』を読んだあたりか、となんとなく思っておりましたが、今回、時系列を整理してみると、おそらくその前、84年に、『社会史研究』第5号に発表された「革命とアンティゼミテスムス ウィーン・1848年」を読んだと思います。説明するまでもありませんが、阿部謹也、川田順造、二宮宏之、良知力が編集同人として1982年に創刊された『社会史研究』は、歴史学の新しい動きを代表する雑誌で当時の大学院生、とりわけ西洋史の院生にとっては毎号、目の離せない雑誌だったからです。先日、川田順造さんが亡くなられ、同人であった方たちは全員、鬼籍に入ってしまわれました。個性的な同人たちは毎号の末尾にあった「不協和音」という欄に文章を書いておられました。「不協和音」というのは言い得て妙で、私たちはこの欄から社会史の捉えがたさや型にはまらぬ広がり、それが故の可能性を感じ取っていたものです。ともあれ、増谷さんの論文が『社会史研究』という媒体に発表された、ということで、私は、都市史という枠組ではなく、むしろ社会史的なアプローチによる48年革命研究として増谷さんのお仕事にまず出会ったように思います。ちなみに『社会史研究』の創刊号には、良知さんは「女が銃をとるまで 1848年女性史断章」を書いておられます。

 今回、この論文が収められた『歴史のなかのウィーン』(日本エディタースクール出版部、1993年)と『ビラのなかの革命』(東京大学出版会、1987年)を読みなおし、都市ウィーンをフィールドとすることは、増谷さんの歴史学にどのような特徴を刻んでいるのかを考えてみました。

 第一に強く感じたことは、増谷さんの都市史は、都市の微細な具体相を凝視しつつ、同時に都市を舞台とした48年革命を通して「近代」そのものを世界史的に思考する、いわば思考の拠点としてのウィーン史である、ということです。この二冊の本で増谷さんは、ウィーンのヨーロッパのなかでの位置とその役割を押さえた上で、19世紀に至るまで市門と城壁に堅固に囲まれた都市の空間構造を詳らかにし、その二重、ないしは三重の空間構造が階層、民族、言語などを異にする社会構造と対応している19世紀ウィーンの姿が明らかにされます。さらに、こうした空間/社会構造の析出が、出来事としての48年革命の分析に接続され、市内区の「ブルジョワ革命」と市外区の「プロレタリア革命」という形で48年革命の複合性が解き明かされていきます。そして、こうした分析に立って、「 ・・・「出来合の近代」の思想は、民衆の近代と対決することによって、その内実を与えられ、そして民衆の近代を抑圧していくことによって、それを実現していくものである」(同、p.248)と「出来合の近代」と「民衆の近代」の対抗という大きな見取図が示されるに至ります。「その否定された諸々の「近代」の中にこそ、現代にまでつながりうる様々な課題を見出す事ができる。」(『ビラのなかの革命』p.253.)という文章は、増谷さんの問題意識を鮮やかに示しているわけですが、一つの都市社会への沈潜と世界史を往還するこのダイナミズムが増谷さんのウィーン研究の大きな特徴であり、魅力であると、あらためて感じた次第です。言説分析からいきなり大きな構図を論じたり、あるいは緻密な実証に終始したりしがちな私達は、今一度、先達の仕事に立ち返る必要があると痛感いたしました。

 第二は、ビラという史料とこれを読む増谷さんの視点についてです。1981年秋から2年間の在外研究に出た増谷さんは、ビラという史料群に出会った時のことを次のように語っておられます。

 「・・こうして当時実際に街中で配られ読まれたビラを読み、その現場に立って考えてみることによって、革命のイメージは一変し、これまで匿名の群れとして動いていた民衆が、一人一人名前と表情とを持った者として現れ、1848年のウィーン革命は彼らのもの以外ではありえなくなってしまった。そうしたビラの中から民衆の革命を掘り起こし、そこから革命の意味をもう一度考え直してみることが本書の課題となった。」(同、p.257)

 この一節は、社会的属性に還元されない固有名詞を持った一人一人の存在へ肉薄した増谷さんのウィーン研究が、ビラという史料との出会いによって生まれたことを余すところなく語っています。増谷さんがビラの中に見出した人びとは、頭で考えるだけでなく、肉体を持った存在、つまり高い家賃に苦しみ、お腹を空かせ、歌い行進する人間たちです。同時に雇い主たちに「おまえ」ではなく「あなた」と呼ぶようにと自らの矜恃にかけて迫る人間たちです。働き、闘う多様な女たちの姿もそこには刻まれています。増谷さんは、民衆の日常生活を描くこうしたビラが民衆自身によって書かれたテクストではないことをしっかりと押さえたうえで、ビラを読み上げ、共有する実践過程が革命期に人びとの共同意識を作り出す側面があることを指摘しておられます。ビラを単に現実の痕跡を留めたテクストとして読むだけでなく、ビラの能動的機能といいますか、受け手たちに働きかけアイデンティテイを創造する機能に着目しておられるわけで、現在読んでも極めて刺激的な史料論がここでは展開されています。

 さらに史料としてのビラから増谷さんが掴み出したのは、経済的な搾取の仕組みとそれに抵抗する人びとの姿だけではありません。ウィーン社会に複雑に張り巡らされた蔑視の構造、つまり市外区の民衆の反セム主義をも見事に炙り出しています。現在まで根深く残り、さまざまに形を変えて再生産される差別や憎悪に照準を当てて両義的な民衆像を浮き上がらせ、そこから48年革命に迫ろうとした増谷さんの視点と方法は、現在も輝きを失ってはいません。むしろ、ガザとウクライナの戦火の行方が定まらず、憎悪を煽ることで様々な価値が無価値化しかねない危うい現在こそ、私達は、増谷さんの残してくれた書物を繰り返し読み、学ばなければならないように思うのです。

 増谷さん、本当にありがとうございました。

(「世界史の眼」No.60)

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増谷英樹氏の「都市史の方法」をめぐって
吉田伸之

1 増谷さんとの出会い

 吉田といいます。日本近世史を学んでおります。歴史学の分野では全くの畑違いである 増谷さんとの出会いは、歴研ぬきに考えられません。私は、1978~79 年度に始めて歴研委 員となり、この内 79 年度に科学運動部の部長を勤めましたが、この委員会で始めて増谷さ んと出会いました。また、1986~88 年度の三年間、歴研の初代事務局長となり(それまで は会務委員長)、その内 87~88 年度は増谷編集長と一緒でした。この時は中村平治さんが 委員長で、86 年度には、小谷汪之さんが勤める編集長の主導の下、歴研本誌の表紙が長年 の無味乾燥な黄色から、歴研カラーの赤紫(ピンク)へと変貌し、内容も大きく刷新され ました。また新たに研究部長を設け、研究活動を強化するなど、歴研委員会にとって大き な節目の時期にご一緒しました。かくして私は、研究者としてのスタートから「歴研風土」 で育てられ、その中で中村平治さんを始め、小谷さん・南塚信吾さんともども、増谷さん は敬愛する兄上的存在であり続け、ずっと弟のような心性でおりました。因みに、妻ゆり 子(日本近世史)は、1991 年度から 2005 年度まで、東京外語大で同僚として増谷さんの お世話になり、こうしたこともあって、いつも身近に感じてきた次第です。

2 増谷さんのウィーン研究に改めて学ぶ

 さて、19 世紀ヨーロッパ史などには全くの門外漢である私ですが、今から 10 年近く前、 2015 年 7 月 11 日に都市史学会の主催で「増谷英樹氏のウィーン研究に学ぶ」というテー マのワークショップを企画しました。この時私は、「1848 年革命と都市ウィーン」という タイトルで書評報告をしました(『都市史研究』1 号、2015 年、所掲の報告記事を参照)。 そこでは、増谷さんの代表作三点『ビラの中の革命 ウィーン1848年』(東京大学出版会、 1987)、『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』(日本エディタースクール出 版部、1993)、「1848年革命とユダヤの人びと」(『21世紀歴史学の創造6 オルタナテ ィブの歴史学』有志舎、2013)を素材とし、日本近世の都市社会史研究の立場から、雑駁なコメントを試みました。

 今回、10 年前の報告レジュメを見ながら、増谷さんの 1848 年革命期ウィーン都市研究 について述べたことの一部を、以下に文章化してみました。

 増谷さんのウィーン研究の特徴として、第一に、一貫してビラや『オーストリア・ユダ ヤ中央機関紙』など一次史料を重視し、史料によって直接語らせる手法をとり、関連史料 の博捜と、多大な労力を要する解読・分析を精緻に積み重ねることに、研究のオリジナリ ティの源泉があることが注目されます。

 第二に、都市ウィーンを、その社会の構造だけでなく、その基盤としてある空間構造と 深く連関させて把握することが挙げられます。これは、『ビラの中の革命』においてすで に顕著に見られる方法です。そこでは 1 章の出だしから「市壁の内と外」を対蹠的に捉え、市内区、市外区(市壁とリーニエの間)、リーニエ(の外部)からなる三重構造として、 ウィーンの社会=空間構造を把握されています。

 第三は、「女のいる」ウィーン革命史の叙述という、ジェンダー視点とその実践に見ら れる先駆性です。この点は特に、[増谷 1987]3 章「女たちの革命」や[増谷 1993]IV章 で顕著に見いだせます。

 第四は、増谷さんのウィーン革命研究における問題意識の核にあり、通奏低音としてあ るユダヤ(人)問題です。ここでは、民衆レベルの革命運動に内包される反セム主義にま で視点が注がれます。こうして示唆されている視点と方法の射程は長く、ホロコーストを も照射しており、その意味は深く重いといわざるを得ません。

 以上を確認した上で、日本近世における都市史研究を念頭に置きながら、氏の一連の ウィーン研究から浮かび上がる論点を二三指摘します。

 一つは、個別都市史・都市論がもつ限界、という点です。増谷さんの研究に接して痛感 させられたことは、江戸のような個別都市を限定して取り上げる研究の隘路、という点で す。研究対象とする当該の都市自体の構造を分析し、その歴史過程を追うことに終始する ことには限界があると自覚させられました。都市の社会=空間構造を限定的、かつ表層的 に観察するだけでは見えない論点が、厖大に存在することへの気づきでもあります。とり わけ江戸のような巨大都市の場合、こうした都市の背景に見え隠れする広大な裾野の全貌 を把握・認識することは容易でありません。かつてハプスブルク王国の首都であったウィ ーンが、1848 年当時、その都市社会内部や周縁部にどのような要素を内包していたか、増 谷さんの研究はこれを精緻に炙り出しています。その多様性の背景には、ハプスブルク家 支配の変動と解体が首都ウィーンの地位を激変させ、さまざまの諸集団、民族、宗教など を内部や周縁に抱え込んだことがあるのでしょう。つまり都市ウィーンの「都市史」にと って、その歴史的背景や問題群の総体を理解することが不可欠なものだということです。 こうした点は、実は江戸でも同様かと思われます。巨大都市江戸を成り立たせる裾野の広 がりを包括的に把握することのないままの「都市史」は無意味であることを、再認識した ということです。

 二つめは、いわゆる比較史の意味について考えさせられたことです。異なる歴史的背景 をもつ都市を比較する場合、表層的で素朴な比較史にとどまらずに、相互の都市社会のど の局面を取り上げ、いかなる方法で比較するかという問題です。

 そのポイントを端的に述べると、ふつうの市民や民衆レベルの生活・労働・文化の地平 に降り立ってその視座を共有し、異質な対象としての都市を相互に比較しあい、そうする ことで自身が取り組む対象=都市の「自画像」を、他者を鑑として細部にわたり捉え返す ことに意味がある、ということかと思います。都市社会の民衆的深部における相互の比較 であり、こうした手法を比較類型把握などと呼んでおります。

 例えば、『ビラの中の革命』から、1848 年革命期のウィーンと、同時期の嘉永初年頃の 江戸とを比較する軸を挙げてみると、以下のようになろうかと思います。(頁は[増谷 1987])

*借家経営。市外区・リーニエの外部における借家所有者(家主)と、ハウスマイスター の存在が注目されます。この家主(家持)は、ウィーン市の行政の末端機構を担い(p51)、 またその下で借家の管理を担うハウスマイスターは「秘密警察の手先」でもあり「ウィーンの隠れた支配構造」(p65cap.)でもあった、と指摘されています。この点は、江戸町方 の町屋敷における家持層の実態、また家持の代理人としての家守に委ねられる町屋敷経営、 あるいは町共同体の自治と末端の支配機制など、それぞれの相互対比が可能となります。

*職人層の結合組織。手工業者の「強制的同職共同組合」ツンフト、あるいは構成員への 強制力をもたないインヌンク、また職人頭層や雇用を媒介・斡旋する職人宿(p77 以降) などの存在は、当該期江戸の職人仲間や手間宿(職人宿)のありようと相互に参照するこ とができそうです。

*権力体への、都市民の賄機能。「概してウィーン市民は皇帝に忠実であった。もともと 彼らの商売は宮廷に依存している面が強かった」(p109)という指摘から、江戸において、 将軍権力が町方における多様な都市機能―燃料としての薪炭、食糧としての魚・野菜、城 郭や殿舎の普請・修復のための、材木を初めとする物資供給や諸職人の動員―に、多くを 依存したこと(せざるを得なかったこと)との類似性が気になるところです。

*遊所。ウィーンにおける売春問題に触れるビラを取り上る中で、「売春行為を公認し、 空間的に制限を加えた方がよいという議論」が紹介されています(p150)。日本近世に固 有のように言われる遊廓の「理念」とも同質のこの醜悪な議論が、1848 年革命期ウィーン に現出していることに驚かされます。

 こうして、相互に直接交流することはほとんどなかった異なる都市―ヨーロッパと極東 日本の都市―を相互に比較することは、上にみたような都市社会の細部や基底における構 造、人々のありようの特質を把握する中で、はじめてその意味が生ずるように思われます。 こうした試みは、日本とフランスの近世期都市を素材に長期にわたり取り組まれ、いくつ かの成果をもたらしてきました(高澤紀恵・アラン=ティレ・吉田伸之編『パリと江戸 伝 統都市の比較史へ』山川出版社、2009 年ほか)。しかし、ウィーンと江戸の比較は、日仏 間の相互比較では視界に入らなかった点、すなわちヨーロッパとアジアのハブとして位置 するハプスブルク帝国の首都として、非ヨーロッパ系を含む多様な諸民族の複合・坩堝で もあるウィーンと、特に幕末維新期における江戸・東京との比較からは、また異なる論点 を見出す可能性を予感させます。

3 若干の補足

 今回、増谷さんによる一連のウィーン研究を久しぶりに再読し、都市史の方法にとって 学ぶべき点として気づいたことを若干追記します。

 第一は、史料の中に「民衆の声」を聴く、という問題です。『ビラの中の革命』でウィ ーン 1848 年革命史研究の素材として用いられた大量のビラ。また、論考「1848 年革命と ユダヤの人びと」で、基礎史料として用いられた『オーストリア・ユダヤ中央機関紙』。 これらの精緻な読解から、増谷さんは、1848 年革命における多様な当時者の肉声や息吹ま でも甦らせています。これら書き手たちは、大半は当時の知識人層なのでしょうが、その 背後に、厖大な都市民衆の存在があることが浮かび上がってきます。日々の生活に追われ、 貧苦にうちひしがれ、自らの状況や思いを文書・記録に記述する術も余裕も無かった人々 の「声」が、これらビラや新聞の記述に数多く記録、反映されているのではないか。そう した思いで再読しました。歴史の闇からこうした民衆の声を断片でもいいから一つでも多く見出すことは、現代を生きる歴史研究者に課された大切な役割なのだ、ということを改 めて確認した次第です。(吉田「「史料のなかの民衆の声」に耳を澄ます」『ALC REPORT』 復刊 3 号、2022 年、参照)

 第二は、都市における社会=空間構造の分節的把握、という方法についてです。2で述 べたように、『ビラの中の革命』はその冒頭で、舞台となる 19 世紀ウィーンの都市空間の 構造から叙述します。こうして、都市の社会と空間構造が、相互に密接なものとして描か れて行きますが、重要なのは、都市の社会=空間をのっぺらぼうなものとしてではなく、 これを構成する多元的な要素、多核的な特質を、分節的な構造の連鎖として把握しようと する方法です。一見茫漠とした対象である巨大都市を、分節的な諸要素へと腑分けし、そ れぞれの特質を把握した上で、全体像へと再構築する。増谷さんの研究にはそうした方向 性が感じ取れ、これに深く共感する次第です。

 第三は、都市と身分的周縁という視点です。ウィーンの都市社会を構成する、なかでも 市外区やリーニエにおける民衆世界を構成する多様な要素へ注意を払う点が重要かと思い ます。都市プロレタリアート、ユダヤにおける「空気人間」、スラブ、女性たち、これら 周縁的存在への増谷さんの眼差しには、日本近世史における「身分的周縁論」を推進する 担い手の研究者たちと同質のものを感じます。こうした巨大都市と身分的周縁という視点 と方法は、解体期身分社会(初期近代)における都市の構造把握、あるいは特質解明にと ってとりわけ重要かと考えます。

おわりに:

 2の冒頭に記した、2015 年 7 月の都市史学会ワークショップの時であったかと思います が、これに参加された増谷さんは、私の拙い書評報告に丁寧にリプライされたあと、「そ のうち、ウィーンを案内してあげる」と話されました。これまでずっと、そうした機会が 訪れることを念じてまいりましたが、果たせませんでした。無念です。増谷さんの、温か く穏やかなお人柄と、他方に窺える、ウィーンの清濁綯い交ぜの民衆世界に対する強いシ ンパシー、さらには正義ならざるものへの怒り。こうしたものに支えられた増谷さんの歴 史学は、とかく日本列島史に閉じこもりがちなこの私に、世界史への扉を優しく開いてく ださった、という思いでおります。都市ウィーン研究については、もちろん全くの門外漢 である私にも、こうして多くの学びのきっかけを与えていただいたことへの心からの敬意 と深い感謝の念とともに、哀惜の思いで一杯です。増谷さん、ありがとうございました。 合掌。

(「世界史の眼」No.60)

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「世界史の眼」No.59(2025年2月)

今号では、小谷汪之さんに、「島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判」をご寄稿頂きました。2回に分けての連載になります。また、南塚信吾さんには、連載してきた「世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―」をご寄稿頂きました。「その7」でひとまず完結となります。

小谷汪之
島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判

南塚信吾
世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―

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「世界史の眼」No.58(2025年1月)

2025年最初の「世界史の眼」をお届けします。今号では、米国の世界史研究者パトリック・マニングさんによる「世界の世論と国連改革」を掲載しています。マニングさんは、Contending Voices: Problems in World Historyと題されたブログに多数の論考を投稿されており、その中から本人の了解の上でここに翻訳掲載しています。また、南塚信吾さんに、連載中の「世界史の中の北前船(その6)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。

パトリック・マニング(南塚信吾 訳)
世界の世論と国連改革

南塚信吾
世界史の中の北前船(その6)―長崎・薩摩・富山―

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世界の世論と国連改革
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 1945年に第二次世界大戦の殺戮が終わった時、世界中に安堵感が広がった。そしてすぐ後に、平和を維持するために、国際連合が結成された。その二つの主要機関は、50か国全員が加わる総会と、15か国から成る安全保障理事会であった。15か国のうち、合衆国、イギリス、フランス、ソ連、国民党中国の5か国が常任理事国であった。5か国は、拒否権が与えられないのなら国連を組織することを拒否した。その拒否権というのは、望むなら安保理のいかなる動議をも拒否するというものであった。結果的に、この要求こそ、これまで75年にわたって由々しき要求であったのである。

 国連は、発足して以来新たに140か国のメンバーを受け容れた。そのほとんどはかつて帝国に支配されていた国である。国連総会は1947年に、イギリスの委任統治領(第一次世界大戦後につくられた制度)に導入された原則に従って、パレスチナの分割を提案した。パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割しようというものである。イスラエルは1948年に国連の参加国となったが、パレスチナの参加は何度も延期された。かくて、パレスチナとイスラエルの紛争は、他の長期の紛争と同じものになった。つまり、アルジェリアとフランス、ベトナムとフランス、ケニアとイギリス、アンゴラ(およびモザンビーク)とポルトガル、ナミビアと南アの間の紛争と同じになった。そして、イギリスとフランスは次第にイスラエル側につき、パレスチナ国家を認める決議には拒否権を行使してきた。

1.世界の世論

 テレビとデジタル・コミュニケーションのおかげで、世界の世論は社会変化を求めて大規模なデモによって自己を表現してきた。これらの大デモは大体は忘れ去られているかもしれない。しかし、それらは多文化主義の考えを打ち立てるのに重要な役割を演じた。この多文化主義の中で、それまでは孤立していたグループが、ジェンダーの平等やエスニックな平等や宗教的平等にと向かったのである。それらはまた帝国や植民地を終わらせることにも役立った。

 以下の例は、ひとびとがネイションや政治的意見の相違を超えて、いかに一緒になって、人間の諸価値について意見を表明してきたかを示している。

1989-1992年

 1989年2月に南アでネルソン・マンデラが牢獄から解放された。かれは、変化求めて、アフリカ中をまわり、それからヨーロッパとアメリカ合衆国へ行って、帰国した。そして彼は1994年に南アの大統領になった(注意しておくと、アメリカ合衆国は、1986-89年の間に、パレスチナ、ナミビア、南アの国家を承認する決議に拒否権を発動していた)。この間、1989年4月には中国で天安門デモが起きたが、その年の6月4日にはデモは中国政府と軍隊によって潰された。しかし、世界的なデモはよみがえって、中国での民主的改革や南アの政変を支援しただけでなく、東欧の体制転換やフランス語圏アフリカの諸国会議やソ連に代わってできた新しい国々をも支援したのであった。

 わたしは大西洋を回るツアーで、これらの民主化デモのいくつかを見る事が出来た。1991年の3か月間に、アメリカ合衆国、アフリカ、ヨーロッパの中の三か国を訪問して、社会運動への参加者にインタヴューをした。このツアーの後、1991年にソ連が崩壊した。しかし、アメリカ合衆国と他の常任理事国は、他の大国を受け容れて安保理のメンバーを拡大する改革を行うことを拒否した。

 わたしは民主主義の表現としてのデモを見た。つまり、人々が学校に行けることや、自分の望む分野で働くことや、その他の事を、政府が規制することへの大衆の反発としてのデモである。わたしはこのことについて、プラハでの労働組合の活動家であるわたしの父と議論をした。かれはそういう変化は、大きなグローバル権力とグローバル企業を持ち込むことになり、もっと経済統制をもたらすだろうと言った。たしかにかれは正しかった。1990年代にG7が世界貿易機関(WTO)を作り、自由貿易をすべての主要経済にたいして公的に拡大した。しかし、わたしもまた正しかった。ヨーロッパやアフリカのいくつかの国では政府はより民主的になり、国民は自分の考えるところを話し、大衆デモを行える経験を勝ち得たのである。

2003-2005年

 この時期、アメリカ合衆国は再び世界のことを指図しようとした。2001年から、アメリカ合衆国はイラクが「大量破壊兵器」WMDつまり核兵器を持っていると主張した。(アメリカ合衆国は国連安保理にイラク侵攻に同意し支援するように圧力をかけて、安保理は決して同意はしなかったとはいえ、アメリカ合衆国の計画に反対はしなかった)。2003年2月15日には6か国において、アメリカ合衆国のイラク侵略計画に反対する数百万のデモが広がった。抗議の広がりは、当初主なメディアが伝えていた以上に大きかった。主要メディアはロンドンとシドニーにのみ焦点を当てていたのだ。アメリカ合衆国は、大衆の意見にも拘わらず、突き進んで、3月20日にイラクに侵入した。戦争が続くにつれデモは下火になったが、戦後のアブグレイブ刑務所での捕虜虐待問題が明るみに出ると、ふたたび拡大した。イラクで多数の犠牲者を出したにも拘わらず、「大量破壊兵器」はまったく発見されなかった。

2011-2022年

 この10年の間に、世界の世論は、いくつかの重要な出来事に対する市民の反応として現れた。例えば、アラブの春である。これはチュニジア、エジプト、シリアその他アラブ諸国における国民的な蜂起で、民主主義を求めるものであった。このアラブの春は、世界中からの支持を集めたのだった。また、2020年5月25日にアフリカ系アメリカ合衆国人のジョージ・フロイドが警察によって殺された事件の後、抗議が全米に、そして世界中に広がった。そしてついには国連人権委員会の世界会議を開催させるまでになった。最後に、2014年には、ロシアがウクライナからクリミアを獲得したことへの非難が世界的な抗議となり、8年後にロシアがウクライナを全面的に侵略するといっそう抗議は広がった。

2023-2024年

 最近の歴史における最大の、そして最も一致したデモは、2023年10月7日にハマースがイスラエルを突如攻撃したあとに始まるガザ戦争への反対のデモである。「武力衝突―場所と事件 データ・プロジェクト」の研究によると、2023年10月7日から2023年11月24日までに、世界中で、親パレスチナの抗議デモが7000件以上あり、親イスラエルの抗議が850近くあった。下は、親パレスチナの抗議デモの分布である。

Data and image by The Armed Conflict Location & Event Data Project

 世界中の人々は、パレスチナ国家の正当性を尊重することを表明した。それは国連参加193か国のうちの140か国の旧植民地の独立にあたるのだとみなした。それは、独立と国民尊重と諸国間の平和への、世界的な呼びかけなのである。

 世界的なデモの高まり具合は、個々の出来事に応じて高くなったり下がったりするであろうが、パレスチナの独立を支持する声は、それが達成されるまで粘り強く続くであろう。

2.世界の新しい動き:国連と来るべき改革

 安保理の5つの常任理事国(特にアメリカ合衆国)に世界の諸問題への過度な影響力を与えさせてきた拒否権が終わりになる可能性は大いにあり得ることである。フランスは2016年以来、拒否権をなくすことに賛成してきている。メキシコもそうである。中国とロシアは、ある地域では拒否権の恩恵を受けているが、他の地域では、拒否権のない方が益することが多いかもしれない。

 実際のところ、国連加盟国の圧倒的多数は、5大国の拒否権を終わらせ、安保理にいくつかの常任国枠を設け、大陸ごとに中心国をそこに任命するという考えを支持している。これは国連憲章を少し修正することを必要とするが、国連総会が力を発揮してそういう変更をすればいいだけのことである。

 アメリカ合衆国とイギリスだけが依然として拒否権を守ろうとしている。昨年アメリカ合衆国はガザ戦争を終わらせようという国連決議に3回も拒否権を行使した。ついで、2024年3月にはパレスチナの国連加盟に拒否権を行使した。こういう立場は、パレスチナを外交的に承認しようという大勢に真っ向から対立するものである。パレスチナを承認した国はすべての国の80%にも達しているのである。ごく最近では、ヨーロッパでもアイルランド、スペイン、ルクセンブルク、アイスランド、スウエーデン、スロヴァキアがパレスチナを承認するようになった。

 戦争がほぼ一年も続いても、アメリカ合衆国政府(両政党も含めて)はイスラエルのガザ戦争に武器を与え支援し続けている。際限のない「交渉」によって、「ジェノサイド」が起きていることを認めず、停戦に向けて真剣な圧力をかけることもしていない。イスラエルは後退する気配も見せていない。イスラエルの首相ベンジャミン・ネタニアフがアメリカ合衆国を訪問した後、直ちにパレスチナとレバノンの指導者が暗殺された。さらに、ガザの病院や学校への攻撃が繰り返され、食糧や水が断たれていることは、イスラエルの戦争継続の決意をただもう再確認させられるだけである。

 指摘しておかねばならないのだが、現在のガザ戦争――イスラエルによって実行されているが、アメリカ合衆国の拒否権によって守られ、アメリカ合衆国の武器を供給されている――は、すでに世界裁判所において審査されているという事である。これは南アが国際司法裁判所に提出して、広い支持を集めている訴えに基礎をおいている。

 私の考えでは、世界の市民(そしてとくにアメリカ合衆国の市民)は、多数が支配し、大多数の意見を踏みにじる大国の拒否権をなくした国連という考え方に慣れるべきだと思う。そして拒否権のない世界においては、アメリカ合衆国は重要な国ではあるが、もはや世界の多数の意見を無視して国連に自国政府の意思を押し付けることはなくなるであろう。拒否権のない国連においては、決定は、大小を問わず、国々の連携関係によって行われるであろう。

 2024年9月22-23日にニューヨークで開催予定の「国連未来サミット」では、国連改革の問題がヤマ場に来るかもしれない。事務総長であるポルトガルのアントニオ・グテーレスは、このサミットの組織者として、安保理改革を強く支持している。もしこの改革がうまくいけば、どういう国々が世界のリーダーとして登場してくるのだろう。(これまでいくつかの国の熟練した外交官が重要なイニシアティヴを発揮してきたが、拒否権によって無視されてきた。)アメリカ合衆国は、もはや単にヨーロッパだけでなく、世界中の国と連携を打ち立てなければならなくなるのではないだろうか。そして、究極的には、アメリカ合衆国は、拒否権で支配するよりも、いくつかの点では敗北を受け入れなければならなくなるのではなかろうか。

(Contending Voices Global Opinions and United Nations Reform by Patrick Manning Sep. 4 2024) 

訳者注)9月に開かれた「国連未来サミット」では、マニングの期待していたような国連改革の動きは起きなかった。しかし、南塚とのメールのやりとりで、フィンランド大統領アレクサンデル・ストゥブが総会で、安保理改革に言及したことは、注目されると、マニングは言っている。

(「世界史の眼」No.58)

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「世界史の眼」No.57(2024年12月)

今号では稲野強さんに、反軍演説で知られる戦前の政治家・斎藤隆夫について扱った「「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―」をご寄稿いただきました。また、南塚信吾さんに、連載中の「世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。

稲野強
「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―

南塚信吾
世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―

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「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―
稲野強

 戦前に活躍した漫画家の岡本一平が、その風采から「鼠の殿様」と綽名した弁護士出身の国会議員がいた。立憲民政党の斎藤隆夫(1870~1949〔明治3~昭和24〕年)である。かれは、鼠どころか、歯に衣着せぬ言論によって軍部の政治介入を舌鋒鋭く批判した「虎」や「狼」であった。その「正論」は、当時、軍拡に燃える軍部や軍部にすり寄る政治家をたじろがせた。

 今日でも、斎藤は「憲政擁護の闘将」(作家・大橋昭夫)として、国会議員の不祥事、体たらく、遵法意識の低さ、世界観の乏しさ、人権意識の低さ、を嘆き、あるいは批判する際にしばしば思い起こされる貴重な存在である。いや、「闘将」どころか、大橋は斎藤を「『立憲主義』の理想を堅持した大正デモクラシーの権化」とまで賛美する。また『北一輝』などの著作で知られる評論家の松本健一は、斉藤隆夫の評伝の副題に「孤高のパトリオット」とつけた。松本は、斎藤を、あるべき政党政治の道を模索することによって軍国主義時代のポピュリズムに抵抗したパトリオットであった、と捉えたのである。一方、丸山眞男も、斎藤を戦前の「親英米派=現状維持派」〔リベラル〕で「有名な聖戦批判演説をした」人物と評価している。

 斉藤は、苦学して弁護士になり、アメリカ・イェール大学留学を経て、兵庫県選出の衆議院議員となった(1912)。かれの経歴を見ると、第一次世界大戦後の1919年1月12日の議会では、当時所属の憲政会を代表して、国民思想に関する質問演説を行ない、民本主義の重要性を説いている。また軍縮の推進者で国際協調派の濱口雄幸首相のもとで内務政務次官に任命され(1929)、次の第二次若槻礼次郎内閣のもとでも法制局長官に就任している(1931)。こうした活動から、斎藤が自由主義者、国際協調主義者、民主主義者とみなされてきたことも当然である。のちに斎藤が、大政翼賛運動(1940)に対して鋭い批判を投げかけたのも、そうした一貫した政治思想の延長線上にあったと言えよう。

 さて、日本は、国際協調路線を歩み始めた1920年代初頭からわずか10年足らずで、中国大陸への野心をむき出しにする軍部の独走を許す状況を生み出し、満州事変(1931)、満州国建国(1932)、国連脱退(1933)へと国際的孤立への道を突き進んだ。

 そうした外交上にも危機的な状況の中で、斎藤は、満州事変以降急速に台頭する軍部の政治介入に真っ向から反対する数々の大演説を帝国議会で行った。それによってかれは日本憲政史上不朽の名を留めることになったのである。かれは多くの名演説を残しているが、その中で特に人口に膾炙しているのは、2・26事件(1936年2月)後における陸軍を中心とする「改革派」を批判した「粛軍に関する質問演説」(いわゆる「粛軍演説」)(1936年5月7日、第69議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」(1938年2月24日、第73議会)〔同法案がナチスの授権案と類似していることを指摘〕、それに「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)(1940年2月3日、第75議会)である。これらの演説は、軍部にひれ伏し、及び腰になっている議員の中にあって、斎藤の存在感を際立たせるものであった。

***

 斎藤は、先に掲げた1940〔昭和15〕年2月3日の「反軍演説」が直接の原因で、同年3月7日に民政党を除名され、本会議でも懲罰動議にかけられ衆議院議員の議席を剥奪された。かれはすでに70歳になっていた。だが、かれは議会での演説の機会を奪われたものの、持ち前の反抗精神を失わなかった。例えば、かれは近衛文麿首相を中心に推進された「新体制運動」〔ファシズム体制の樹立を図る〕批判の書簡を3度も近衛自身に送りつけたのである(同年6月26日、8月9日、9月19日付)。また斎藤の『回顧七十年』によれば、かれは「来年の総選挙〔1942年4月30日〕までには1年2か月ある。次の選挙には、捲土重来必ず最高点をもって当選し、軍部および除名派に一大痛棒を加えねばならぬ。」と、言い放ち、相変わらず意気軒高なところを示していた。

 以下で紹介するのは、斎藤が、そうした折に書き溜めた数十の論考のうちの断片である。その断片を見るだけでも、日本の中国大陸進出に対する斎藤の批判が、余すところなく開陳されていることが分かる。斎藤は、翼賛体制の下で沈黙を強いられ、戦争に引き摺られていく国民の多くが抱く内心忸怩たる思いを代弁する役割を堅守し、自身の生命の危険を顧みることなく、軍部と親軍政治家批判をし続けたのである。 

 さて、件の論考のタイトルは、「天上より見たる世界戦争」(1942年11月)である。これが書かれた時期、すでに日本は中国大陸で軍事的劣勢に立たされており、また太平洋戦争は勃発からほぼ1年経っていた。

 斉藤は、ここで、今日から見ても小気味いいほどの日本の侵略主義・聖戦批判を展開する(以下のカッコ内の頁は、『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』からの引用頁である。また旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた)。

 斉藤は、まず戦争の大義である「聖戦」思想の欺瞞性を暴く。

「天上より今日の世界を見渡して居ると色々の感想が起こる」(169頁)で始まる文章で、斎藤は、

① 戦争の勃発は、「結局は直接に国家を背負って戦争の衝に当る軍部の認識不足と云うことに帰着するのではなかろうか」とし(172頁)、日本の軍部が、敵対国との軍事力の決定的な差を認識していず、いかに世界情勢を見誤ったまま戦争に突き進んだか、を痛烈に批判している。

② 支那事変〔日中戦争〕に関しては、日本が「此の国力を揮って支那〔中国〕を侵略し日本の勢力を植え付けて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱えられて居るものは悉く虚偽仮装の口実に過ぎない」(173頁)、と日本の真の目的がアジア大陸侵略であることを看破する。

③ この戦争を日本は「聖戦と称している」(173頁)が、「聖と言う以上は少なくとも自己を犠牲として他人を救済することを意味するのであるが、凡そ昔から左様な戦争のあるべき訳はない。如何なる場合に於ても戦争は他国を侵略するか其の侵略を防禦するか。是が戦争の本質であって、是れ以外に戦争の本質は絶対にあるべき訳はない」(173頁)。「況んや支那人民は日本に向かって救済などを求めて居ないのみならず、日本の進撃に対して極力抵抗を続けて居る。此の事実を目前に見ながら聖戦などと云うことが口にせらるゝ義理ではない」(174頁)と、斎藤はここで戦争の本質を侵略と見なし、その最大の大義名分である「聖戦思想」を完全に否定し、却って日本に対する中国の「抵抗」の正当化すら容認している。

④ 中国の「抗日政策」に関しては、日本は、「蒋介石の政権を抗日政権と称して彼の抗日政策を非難し、之を戦争の理由として居るが、日本より見れば彼の抗日政策は実に怪しからぬと思われるかしれないが、蒋介石及び支那側から見れば抗日政策は当然のことである。なぜなれば支那は過去数十年の間に於て日本から侵略に侵略を重ねられて領土を取られ償金を取られたことは枚挙すべからざるものがある」(176頁)からだ、と述べる。ここで斎藤は、日清・日露戦争を念頭に置いたうえで被害者である中国が抵抗するのは当然だ、と歴史的経緯に照らしてその正当性を認め、日本の侵略主義を断罪するのである。

⑤ 「〔日本は〕現に日清戦争後の三国干渉にすら憤慨して十年間の臥薪嘗胆、以て復讐戦を決行したではないか。此の意気と勇気があってこそ初めて国家の独立と威信を保つことが出来るのである」(176‐177頁)と述べ、列強の領土的野心を論難する。一見すると彼の主張は、独立自尊の戦いを否定せず、むしろ愛国主義的ですらある。だが、かれは、列強の領土的野心と日本のそれを重ね合わせるのである。「之を思わずして独り蒋介石の抗日政策を否認するのは我が儘勝手の見方であって、世間には通用しない議論である」(177頁)、と。かれは侵略された側の抵抗権を認めることによって、ナショナリズムに捕らわれることなく、客観的な視野に立って世界情勢を見ているのである。

⑥ 「国家競争は正しく斯くの如きものであるから、蒋介石が支那国民に向って排日抗日の精神を打ち込むのは当然のことであって、〔日本が〕これを非難するのは間違って居る」(177頁)。「唯此の戦争を目して聖戦などと称して世上を欺き、何か日本が自国の利益を犠牲に供して仁義の戦争でも始めて居るが如く吹聴する其の偽善が〔自分は〕気に喰わないのである」(177頁)。

 そして、斎藤は日中戦争をこう総括する。

⑦ 「之を要するに大東亜戦争の目的は東亜民族を解放して彼等に独立と自由を与えるにはあらずして、東亜に於ける英米の勢力を駆逐し、之に依って日本が東亜の覇権を握り、東亜民族を隷属せしめて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱道せらるゝものは何れも偽善者の譫言に過ぎない」(185頁)と。

 日本は、日露戦争以来、帝国主義列強からのアジア解放をスローガンにして武力による対外進出を正当化してきた。斎藤は、日本の帝国主義的野心は、列強と何ら変わることなく、日本はアジアの国土を蹂躙し、ただアジアの人々を隷属させるだけだ、と断言するのである。

***

 最近の『朝日新聞』の記事で、論説委員の有田哲文は、「斎藤のような代議士がいたのは戦前日本のデモクラシーが誇っていいことだ。しかし斉藤しかいなかったことは、この国の汚点であろう。」と嘆いている。確かに当時多くの国会議員は軍部と自ら進んで結託し、あるいは軍部になびき、その圧力に屈し、「大政翼賛体制」を支持していた。また国民の大半も、国家の有形無形の暴力に脅え、沈黙を強いられ、体制に順応して行かざるを得なかった。だが、その一方で、表面化されなかったとは言え、国民大衆の民主主義的な運動が、戦時下であっても脈々と続いており、陰から斎藤を励まし、支えていたことは、改めて確認しておく必要がある。

 そのことは、斎藤が、太平洋戦争真っ只中の1942年4月30日に実施された第21回衆議院総選挙〔翼賛選挙〕に非推薦で立候補し、執拗で徹底的な選挙妨害にあいながらも、トップ当選を果たし、議席を回復したことによっても裏付けられていると言えよう。

 戦時体制下において、厳しい思想的・政治的弾圧・監視が日常化している中で、斎藤を支援する民衆がいたことも、また十分「誇っていいこと」である。

〔参考文献〕

草柳大蔵『斎藤隆夫―かく戦えり』文藝春秋、1981
斎藤隆夫『回顧七十年』中公文庫、1987
『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』(復刻版)新人物往来社、1994
松本健一『評伝 斉藤隆夫―孤高のパトリオット』東洋経済新報社、2002
大橋昭夫『斎藤隆夫―立憲政治家の誕生と軌跡』明石書店、2004
松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男回顧談』下、岩波書店、2006
保坂正康『昭和史の教訓』朝日新書、2007
伊藤隆編『斎藤隆夫日記』上・下、中央公論新社、2009
森まゆみ『暗い時代の人々』朝日文庫、2023
有田哲文「日曜に想う」『朝日新聞』朝刊(2024年8月11日付)

(「世界史の眼」No.57)

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「世界史の眼」No.56(2024年11月)

今号では、9月に世界史研究所で行った、ダニエル・ウルフ著(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』(ミネルヴァ書房、2024年)の合評会の記録を掲載しています。また、木畑洋一さんに、「世界史寸評」として、「チャゴス諸島の主権をめぐる英-モーリシャス合意」をご寄稿頂きました。2022年4月に掲載した「世界史寸評」「国連地図のなかのチャゴス諸島」を受け、最新の状況を解説頂いています。

『「歴史」の世界史』合評会記録

木畑洋一
世界史寸評チャゴス諸島の主権をめぐる英-モーリシャス合意

ダニエル・ウルフ著(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』(ミネルヴァ書房、2024年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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『「歴史」の世界史』合評会記録

 世界史研究所では、2024年7月にミネルヴァ書房より刊行された、ダニエル・ウルフ著(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』の合評会を、9月16日に行いました。以下にその記録を掲載します。最初に訳者の南塚信吾、小谷汪之両氏から内容のプレゼンをしてもらい、その後木畑洋一、藤田進、油井大三郎、佐藤育子、小山田紀子、杉本諒の各氏にコメントをして頂きました。最後に内容に関して討論を行なっています。(記録:山崎信一)

1. プレゼン 南塚信吾

 本書は、①「三〇〇〇年間にわたる過程を通じて、過去を取り戻し表象するための組織的アプローチとしての歴史が、いかに現代世界の教育と文化の主要な一側面へとじょじょに発展してきたか」ということ、②「この三〇〇〇年間を通じて、啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、東アジアやイスラーム世界、そして本書で言及されていない他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、いかにしてしだいに取って代わっていったのか」ということを描いている。これはたしかに壮大な仕事である。世界各地の歴史の試みに目を届かせてそれを全体像にまとめようとしている仕事は、評価に値する。しかし、それゆえに問題もありそうである。

 今回の合評会では、本書の第6章と第7章のみを取り上げるが、それはわれわれに直結する歴史の方法を論じているからである。最初に、翻訳に携わった者として、議論の筋の整理をして、そのうえで気が付いた点をあげてみたい。それらはM)で表記する。

第6章 移行―戦間期から現在に至るまでの歴史学

Ⅰ ポストモダンが現れるまでの(あるいはそれに影響される前の)歴史
(A)歴史の新しい方法
 1.アナール「学派」―ウルフはこれを20世紀の歴史学上最も重要な現象と位置づけている。
   ①ブロックとフェーブルの「全体史」
   ②戦後ブローデルの「長期的持続」
   ③70-80年代には小規模な世界へ以降:心性史、日常生活史
    →ミクロ・ヒストリー ラドュリー、ギンスブルク
   ウルフはここから一般化がどのように可能かという疑問を提示している。
 2.歴史と社会科学
   社会学:ウエーバーは比較、理念型、主観的要素に注目
   経済学:数量経済史
   人類学:「構造主義」と「厚い記述」(ローカルで特殊なものへ)
 3.歴史と自然科学 
   歴史の分析哲学が「法則」、「パラダイム」概念を打ち出した。
(B)歴史と政治体制
   ウルフは、歴史は独裁制にせよ民主制にせよ政治体制に奉仕してきたという。
  ・右翼的独裁体制  体制に合致する歴史を要求  
   →戦後の余波 フィッシャー論争、「ドイツ特有の道」論
  ・左翼の独裁も歴史家への制約、統制、調整
  ・民主制のもとでも、歴史家の発言と出版への制約、マルクス主義への迫害があった。 
   ウルフはポピュリズムに歴史は対抗できるかという疑問を提起している。
(C)戦後の新しい分野
 1.インテレクチュアル・ヒストリー  1950年代
   1980年代から「文化史」が登場、言語・テキストの意味を問うようになった。
   1960-70年代に歴史心理学が「集団的振舞い」に注目した。
 2.女性史 1970年代からフェミニズムを受けて拡大し、大学でも地位を得た。
 3.ジェンダー史 1980年代から
   スコット 過去全体を見直すことを主張
  →拡大:マスキュリニティ、ホモセクシュアリティ、植民地とジェンダーなどに拡大。
 4.戦後アフリカ史
   西欧的進歩のナラティヴが導入されたが、それへの批判も生まれた。 
   口承伝統の限界と意味が議論された。問題はあるがその意味は疑い得ない。
   歴史が植民地権力の道具として利用されることになった。
 M)ここの1~4はポストモダンの影響を受けなかったとみているのだろうか。

Ⅱ これ以後は、ポストモダンおよびその影響を受けた歴史学の動き
(D)ポストモダン
  1970年代から登場。リオタール『ポストモダンの条件』などがきっかけ。
  ただし、E.H.Carrは1960年代に地盤を準備していた。 
1.言語論的転回:ポストモダンは歴史の「外」から来た。
  言語論的転回は、歴史とフィクションの間の境界線を侵食。
  西欧が中心だが、アジアにも拡大し、それは西欧とは違う近代を求める動きに繋がった。
2.ポストモダンと歴史
(1)主張 「歴史は知識の一形式」と言われていたのを、「歴史はナラティヴの一形式」と改めた。とくにH.ホワイト
   つまり、歴史の記述とフィクションの間には本質的な相違はない。共に物語を語っているのだとした。
(2)批判  マーウィック、エルトン
(3)ポストモダンの意義
   「正統」の解体、脱中心化。構築性を主張。
   ウルフは、ポストモダンがとくに西欧の歴史観(直線的)を相対化し、不連続、非互換的な見方を提示したと指摘。
(4)ポストモダンの欠点
   都合のいい「他者」を「構築」しているのではないかという批判がある。
   左派からは「階級」を軽視していると批判がある。
(5)結論
   ウルフは、ポストモダンは文書やテキストは「それ自身で語りはしない」こと、歴史は人間による「人工物」であることを確認したのだとする。
   M) このことの論理的帰結はどうなるのだろうか?
(E)ポストコロニアリズム
   サバルタン・スタディーズやオリエンタリズム批判を含む。
(1)意義:ウルフは、ポストコロニアリズムは、自分自身の中の「他者」(理性、進歩、西洋)への批判であって、理論ではないと強調。
サイード、スピヴァク、チャタジー
(2)ポストモダンとの重なり
ウルフは、既存の大ナラティヴを不安定化、転覆、脱中心化、「在地化」する点で、また、テキストやナラティヴの読み返しをする点で、ポストコロニアリズムとポストモダンは重なり合うという。
(3)西洋の歴史観の拒絶;例ガンディー
(4)「従属理論」とも重なり合って広がった。
(F)ポストモダン後の動向
 1.ウルフは、「モラル上非難すべき立場を正当化する」歴史が出てきたとして、例えば「ホロコースト」を否定する歴史を取り上げる。
 2.ウルフは、「歴史はだれのものか」「集団の一員でなければその歴史は書けない」のかという問いが出てきたという。
   例 先住民(ネイティヴ)の歴史、オーストラリア「歴史戦争」
 3.ウルフは、国民的な「記憶の文化」、「共有の記憶」としての歴史の登場に注目。(1)これは過去への客観的な態度ではなく、過去に直接、感情的につながる歴史だとされる。
(2)批判:あらゆる国民が強い国民的記憶を持っているとは限らない。
ウルフは、記憶と歴史との関係は曖昧なのだという。
(3)しかし、ウルフは、現代のオーラル・ヒストリーは昔のものとは違うという。
   それはポストモダンを踏まえた「最上の実物」を提供しうるのだと。
   ただ、生存者がいなくなった時にどうするかという問題があるとウルフは言う。
第6章の終わりに
 ウルフは、少数の歴史家しか歴史を考えない時代が長く続いたが、今やその終わりにあると言う。そして、これは歴史の終焉なのかと問う。

***

第7章 私たちはどこへ行くのか
 ウルフは、ここで現代の歴史の状態をどう見るかを示している。
(A)細分化―多様化・専門化が進んでいる。
  これまでにもこういう時には誰かが「統合」をしてきた。ランケなど
しかし、細分化にも意味がある。:新たな主題、見方、活性化を生むという。
(B)「社会性」の欠如
  ウルフは、現代の歴史は、権力に対して真実を語るということをしない。未来を予測しようとしないという。だが、「パブリック・ヒストリー」はこうした不安をある程度緩和するのだという。
  ただ、ウルフは、「社会性」の欠如を批判したが、考えてみれば、歴史は教育的存在であるか否か、善をなすものであるか否か、これには一致した答えはないのだと言う。
(C)「還元主義」
  現代の歴史は過去の人物の糾弾をしなくなっている。ヒトラーやスターリンなど
  ウルフによると、その理由は「還元主義」である。つまり、歴史は個別的な「事実(これは議論の対象にならない)に還元可能であり、それら「事実」の解釈は修正されるべきでも、問われるべきでもないという考えである。つまり、歴史を日付、年代などに単純化してしまうのである。
(D)インターネットと歴史
  ウルフによれば、SNSは、根拠の乏しい歴史的議論をしている。人々に受けるような議論をしている。
  だがインターネットは歴史に大きな恩恵を与えてもいる。例えば、大きな国際プロジェクトを可能にし、史料にアクセスしやすくし、Big Dataを使えるようにしている。
  M) ウルフはまだ生成AIの問題には直面していない。
(E)統合形態
現代の歴史では、惑星全体の過去をとらえ直す試みが進んでいる。
1.グローバル・ヒストリー
(1)1960-70年代の「世界史」の波を踏まえて、ここ20年程の間に登場。
  ―マクニール、ウオーラーステイン等
  M) 江口朴朗氏らの「世界史」はどういう位置になるのだろうか。
(2)グローバル・ヒストリーはポストコロニアリズムの影響を受けていて、ヨーロッパの「周辺化」を目指し、異なる「近代化」を提起している。
(3)グローバル・ヒストリーの「修正」の動き
  ―サバルタン、P.マニング、ル・ゴフ(時代区分)、コンラート(「接触」批判)
2.ビッグ・ヒストリー  D.クリスチャン
(1)「人新生」(人類が惑星に有害な影響を与える時代)の概念を提起
(2)文字の意義を相対化
(3)昔の「普遍史」が文字どおり宇宙的になる。
(4)「トランスナショナル史」「絡み合った歴史」を生み出し、「比較」を超えようとする。→古代の「シンプローケ」(内在的連関)に通底
(5)ウルフによると、グローバル・ヒストリーは、「過去を見るための少し広い窓」にすぎない。だが、「目下の深刻な政治的不安定と、起こり得る環境的災厄を前にして」「我々が共有しているものを認識する」という目的に役立つかもしれない。
  M) ビッグ・ヒストリーには自然科学、人文科学の相互協力が必要であることを見ているのだろうか。

***

本書のおわりに、ウルフはこう言っている。
(1)啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、しだいに取って代わっていったが、「この過程は、・・・多くの場合、植民地という形での政治的従属を伴い、そうでない場合には、土着の社会改革家やリベラルな政治家が、西洋に比して遅れているとみなした土着の文明を「近代化」する手段として、改良された歴史学を受容しようという願望を伴った」。
(2)「当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での「他者」との関わり合いによって深く影響を受けた。だが、それはそうしたオルタナティヴを受け容れたからというよりも(ほぼすべての場合には受け容れられなかった)、「他者」の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるのか、なぜそれが優位な立場を要求しえるかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである」。
 M)つまり西洋の歴史は、「他者」の歴史に影響は受けたが、他者の歴史を受け容れたわけではなく、むしろ自覚を高めたのだと言っている。非ヨーロッパでの歴史の考え方との関係で、ヨーロッパのそれも修正されつつ発展したというのであろう。
(3)「過去六〇年間に世界中で文字どおりの脱植民地化の過程が進んだとすれば、それに並行して歴史学上の脱植民地化の過程、つまり西洋近代の方法論やモデルからの解放の過程も始まった」。
(4)現在「アカデミックな歴史家たちは、・・・ポストモダン的状況の中に堅固に留め置かれている。すなわち過去についてもまた新たな大ナラティヴに対しても懐疑的であり、実際、ますます小さな区別や限定や反例を通じて、一般化に対して反射的に抵抗することが多い。これは大部分の読者が抱く期待とは対立するもので、大部分の読者はいつも両義的であったり傍観者的であったりする態度には我慢がならなくなっている」。
 M) 歴史学は一般社会の要求とかけ離れているというのである。

では、歴史には未来は無いのか。ウルフは、歴史の未来への希望はあるという。その根拠は、
 ① 歴史分野のグローバリゼーションが進んでいること
  ウルフは、グローバル・ヒストリーは、諸文明を同等に評価すべきと主張しているのだと言う。
 M)これはランケの流れだとウルフは言うが、それよりも、ヘルダーではないか。
 ② 歴史が社会的に幅広い人気を維持していること
  ウルフは、アカデミックな歴史は特権的地位を失ったが、一般大衆の歴史への関心が、今ほどはっきりしている時代はないという。
 この②の人びとの歴史への関心について、ウルフはさらに述べていて、現代世界においては、「ほとんど本能的とも言える過去への興味関心が存在する。」という。われわれは現代のすべての問題を「歴史化」しようとする。つまり、その起源やそこに潜む危険などを理解しようとする。だから、一般向けの歴史書はまったく減少していない。歴史は現代の諸問題の起源について、便利な素材を提供しているのであるとする。
 ただし、これらの議論が魅力を持つのは、読者の側に、基礎的なリテラシーがあると想定してのことであるとウルフは言う。

 最後に、ウルフは、一つの「反事実的」思考を提示して終えている。
 もしヨーロッパが世界に覇権を唱えなかったならば、「司馬遷やその後継者によって実践されたような類いの歴史が」世界的に広がっていたのではないか。

2. プレゼン 小谷汪之

(ハンドアウト)

1 『「歴史」の世界史』の「袖書き」
「本書は、ヨーロッパで発達した歴史の考え方、叙述の方法(『歴史』)が、非ヨーロッパに拡大し、そこでの土着の歴史と遭遇したとき、どのような変化が生まれるのか、この相互の『歴史』の『連動』関係を丹念に追う」。

2 『「歴史」の世界史』からの抜粋

抜粋1(382-384頁) 

西洋の脱中心化―ポストコロニアリズム   

 ポストモダンの事業は、同時代の知的運動であるポストコロニアルの研究と重なり、かつ交錯してきた。両者は同一のものではなく、異なる起源と課題(狙い・意図・アジェンダ)を持つが、しかしどちらにも共通するいくつかの特徴がある。ポストモダンと同じく、ポストコロニアリズムも広範な意味を含む用語であり、インドの「サバルタン・スタディーズ」(これは初期にはむしろE・P・ トムソンの「下からの歴史」に対する南アジアの応答であった)やパレスチナの学者エドワード・サイード(一九三五~二〇〇三年)の「オリエンタリズム」批判を含んでいる。中国学者プラセンジット・ドゥアラ(一九五〇年生)が述べたように、ポストコロニアリズムは一つの理論であるというよりは、むしろ自分自身の中の「他者」に対する批判である。この「他者」は、しばしば広汎な「ポスト啓蒙主義」の諸課題として定義され、理性や、進歩や、西洋の文化的・経済的支配の留め難い増大や、国民国家の安定性という虚偽の観念によって特徴づけられるものである。フランツ・ファノン(一九二五~六一年)やC・L・R・ジェームス(一九〇一~八九年)のようなカリブ海の著述家たちによって一九世紀中頃にすでに先取りされていたポストコロニアリズムは、今やサイード(彼の一九七八年の著書『オリエンタリズム』は一つの重要文献である)や、多数の傑出したインド生まれの著述家たち(彼らの多くは歴史以外の分野に属している)に関連付けられることが多い。後者には例えば文学批評家ホミ・K・バーバ(一九四九年生)やガヤトリ・チャクラバルティ・スピヴァク(一九四二年生)、政治学者パルタ・チャタジー(一九四七年生)、そして心理学者で社会批評家のアシス・ナンディー(一九三七年生)らがいる。
 批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えることPostcolonialism as a critical tool has been deployed most widely in Indian or Middle Eastern studies, and has overlapped with postmodernism in having the common goal of destabilizing, subverting or de-centring existing master-narratives (………) in favour of the local and previously marginalized、またテキストや文書を「織り目に逆らって」読み、それが言っていることと同じくらいにそれが言っていないことを見つけ出すことを、共通の目的としているのである。ポストコロニアリズムは、インドのようなかつての植民地に関する研究の視線を、帝国支配者やインドにおけるその後継者たる政治エリートから、従属的立場にある大衆へと向けさせた。ラナジット・グハ(一九二二年生)によって創設されたインドの歴史学のひとつの「学派」であるサバルタン・スタディーズ・グループは、後者の潮流の傑出した一事例であり、独立以前の歴史叙述に対して批判的であるだけでなく、一九四七年以降の歴史の書き換えに対しても批判的であった。彼らによれば四七年以降の歴史叙述も、単に役割を裏返したまま歴史を書いているのであり、在地の政治的エリートに焦点を当てて、人口の十分の九を除外しているのである。サバルタン研究のアジェンダにおいては、従属的で声を発しない人々、在地や地域のものが、国民的なものよりも優先される。この意味での「サバルタン」はアントニオ・グラムシから取られた用語である(=サバルタンは従属的社会集団と訳されることがある)。この集団に関連のある文学理論家の中でもスピヴァクは(彼女はデリダの翻訳もしていて、ポストモダニストとの結節点にもなっている)、サバルタン的アプローチをフェミニスト的主題にも拡大して用いている。近年では、社会史家のスミット・サルカール(一九三九年生)のような一部の古参サバルタン研究者は、この運動がしだいにラディカルになり、ポストモダンと関連を持ってきたことを嫌っている。しかし他の多くの人たちは、マルクス主義的な分析の範疇に背を向けて、植民地主義の言語を脱構築するというポストモダン的関心へと向かっていっている。ある場合には、彼らは西洋の歴史観そのものを、帝国的支配の道具であり、啓蒙主義の進歩観の産物であり、そしてインドの(そして拡張すればその他の旧植民地の)真の意味での過去観に対して「ヘゲモニーなき支配」を可能にするものであるとして拒絶している。真の意味での過去は、一見不可避的に国家へ向かって歩を進めていくヘーゲル的な物語から解放されねばならないのであるIn some cases, they reject Western historicity itself as a tool of imperial control, born of the Enlightenment’s progressivist agenda, and enabling a ‘dominance without hegemony’ over India’s  (and, by extension, other colonized countries’)  true sense of the past, a sense that must be liberated from the seemingly inevitable Hegelian story of progress to nationhood.

抜粋2(431-432頁)

 このことは、学術誌の論考や学識者の会合でしばしば発せられる一つの問いを引き起こす。すなわち、歴史の未来はどのようなものでありうるかという問いである。本書で描いてきたことは、三千年間にわたる過程を通じて、過去を取りもどし表象するための組織的アプローチとしての歴史が、いかに現代世界の教育と文化の主要な一側面へと徐々に発展してきたかということ、またこの三千年間を通じて、啓蒙主義以降のヨーロッパとその出先における特殊な形の歴史観が、東アジアやイスラーム世界、そして本書で言及されていない他の諸文化においてしっかりと根を張っていた別のタイプの歴史観に、次第に取って代わっていったのかということであった。この過程は、それと並行してヨーロッパが世界の他の地域のより広い文化的機構を「征服」していった過程と明白にリンクしており、多くの場合、植民地という形での政治的従属を伴い、そうでない場合には、土着の社会改革家やリベラルな政治家が、西洋に比して遅れているとみなした土着の文明を「近代化」する手段として、改良された歴史学を受容しようという願望を伴った。「近代的」歴史(あるいは一九世紀的な自信を込めて用いられた語彙を使えば「科学的」歴史)の支配において、二つの鍵となる時期があったが、それが両方とも野心的な帝国的膨張の時代と重なっているのは偶然ではない。それは、一六~一七世紀の最初の波と、一九~二〇世紀初頭の第二波であった。そして当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での「他者」との関わり合いによって深く影響を受けた。だが、それはそうしたオルタナティヴを受け容れたからというよりも(ほぼ全ての場合には受け容れられなかったin nearly every case it did not)、「他者」の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるか、なぜそれが優位な立場を要求し得るかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである――少なくともヨーロッパ人や、アジアや植民地のその信奉者たちの心の中において――。そして最後に当然のことながら、一九世紀において西洋の歴史観が一見したところ世界的に勝利したように見えた瞬間というのは、この物語の「長期持続」の中ではほんの一瞬のことに過ぎないのであり、過去についての知識を歴史が帝国的に支配するのだという主張は、二〇世紀の間に、文字通りの意味での諸帝国がそうであったのと同じように、内的な不一致や反抗や分離や民主化に曝されてしまっていた。

(報告)

 この『「歴史」の世界史』の全体的な点は、南塚さんがコメントされるだろうと思いましたので、私は、一点に限って扱ってみたいと思います。私の疑問の出発点は、『「歴史」の世界史』の袖書きにありました。これは南塚さんの意見をもとに、編集者の岡崎さんが書かれた文章だと思います。ここには、「本書は、ヨーロッパで発達した歴史の考え方、叙述の方法(『歴史』)が、非ヨーロッパに拡大し、そこでの土着の歴史と遭遇したとき、どのような変化が生まれるのか、この相互の『歴史』の『連動』関係を丹念に追う」と記されています。本当にこれが達成されていれば、本書は素晴らしい本になろうと思います。ただ全体を読んだ時、本当にこのように読めるだろうかという点が、私の持った疑問の出発点です。「非ヨーロッパ」の土着の「歴史」とヨーロッパの「歴史」が遭遇した時、お互いにいわばアウフヘーベンし合うような変化が生まれるということが、本当にあっただろうか。この点に私は疑問を感じました。前掲・ハンドアウトの「抜粋1」をご覧頂ければと思います。「西洋の脱中心化――ポストコロニアリズム」という部分です。私自身は、ポストモダンにはあまり関心がありませんが、ポストコロニアリズムには強い関心を持っています。これは私がアジア史研究者であることからくるものだと思います。本書では、ポストコロニアリズムについて、最初にサイードやサバルタン・スタディーズが取りあげられていますが、その次には中国学者プラセンジット・ドゥアラという人の所説が出てきます。彼は「ポストコロニアリズムは一つの理論であるというよりは、むしろ自分自身の中の『他者』に対する批判である」と言っています。これはその通りだと思います。この「他者」は、「『ポスト啓蒙主義』の諸課題として定義され、理性や、進歩や、西洋の文化的・経済的支配の留め難い増大や、国民国家の安定性という虚偽の観念によって特徴づけられる」とされています。こうした虚偽の観念としての「他者」が自分の中に巣食っているというわけです。ポストコロニアリズムの本来の含意は、植民地支配(コロニアリズム)のもとで形作られた自分の中の「他者」を、政治的独立の後にもなお排除できないという点だろうと思います。そう言った意味ではドゥアラの言うことは正しいと思います。

 次に、その後の下線を引いた部分に注目して下さい。本書の著者は、「批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えることを、共通の目的としているのである」としています。ここで、「それ〔西洋近代的なもの〕を在地のもの、以前は周縁化されていたものに代える」ということですが、この点を、具体的に考えた場合、どういったことになるのでしょう。例えば、1996年に、日本で、「新しい歴史教科書をつくる会」というのが藤岡信勝や西尾幹二らによって結成されました。これは、ポストモダンの影響により西洋近代的な思想の自明性が揺らぎ始め、脱中心化されつつあるという状況の中で、それに乗じて新たに動き出したものだと思います。戦後日本においてローカル化され、マージナライズされてきた、戦前的なもの、皇国史観的なものの復活のような面が非常に強いものです。問題はこうしたものを評価できるのだろうかということです。私自身は、こうしたものを評価してしまってはいけないと思います。こうした点は他地域にもあります。インドにおける歴史教科書問題という長く続く抗争もそのような例です。西洋近代思想の自明性が揺らいだ時に、その隙に出てくるこうした動きに対しては、最も注意深く対処しなければいけないと思います。本書の著者が、「既存の大ナラティヴ(……)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代える」という営みを肯定的に評価したいのであれば、その具体的な例として、「新しい歴史教科書をつくる会」などとは異なる、もっと積極的な意味のある例を示して欲しかったと思います。少なくとも私の知る限り、そういった例は今までなかったと思います。

 もう一つの疑問点は「抜粋1」の次の下線の所です。「ある場合には、彼ら〔ポストコロニアリズムの立場に立つ人たち〕は西洋の歴史観そのものを、帝国的支配の道具、であり、啓蒙主義の進歩観の産物であり、そしてインドの(そして拡張すればその他の旧植民地の)真の意味での過去観に対して『ヘゲモニーなき支配』を可能にするものであるとして拒絶している。真の意味での過去は、一見不可避的に国家へ向かって歩を進めていくヘーゲル的な物語から解放されねばならないのである」という部分です。ここにも引っ掛かりました。「インドの真の意味での過去」とは何でしょう。「India’s (……) true sense of the past」ですから、過去に対するインドの本当のsenseということでしょうか。何を言いたいのかが私にはよく分かりません。インドの人が皆同じようなtrue senseを持つとも思えません。なぜここに、trueという言葉が出てくるのかも理解できないところです。そう簡単にtrueと言えるものではないでしょう。ここでも、India’s true sense of the pastが、具体的には何を意味しているのかを書いてくれているとより理解できたと思います。

 前掲・ハンドアウトの「抜粋2」に関しては、本書の最後のところですが、南塚さんも言及されました。最後の下線部を見て頂ければと思います。「そして当然、西洋の歴史観はそれ自体、歴史観の上での『他者』との関わり合いによって深く影響を受けた」と書かれています。これも具体的に、何からどういった深い影響を受けたのかが記述されていないと、本当だろうかという疑問を持たざるをえません。続いて、「だが、それはそうしたオルタナティヴ〔『他者』の歴史観〕を受け容れたからというよりも(ほぼ全ての場合には受け容れられなかった)、『他者』の歴史観に対する理解と批判の結果、何が過去に対する西洋のアプローチの特徴であるか、なぜそれが優位な立場を要求し得るかについて、一定の自覚を抱かせしめたからである――少なくともヨーロッパ人や、アジアや植民地のその信奉者たちの心の中において――」とあります。ここでも具体例が入っていると分かりやすいと思います。それがないと、一体何を念頭に置いているのかが理解しにくいのです。

 抜粋1と抜粋2をあわせて考えると、袖書きにいう非ヨーロッパの土着の「歴史」と西洋の「歴史」が遭遇した時、どのような変化が生まれ、その相互の「歴史」がどのように「連動」したのかという点ですが、本書を通してそこまで本当に理解できるのだろうかいう疑問を感じました。

3. コメント 木畑洋一

(ハンドアウト)

1 第5章までについて
*ヨーロッパの歴史叙述を相対化していこうとする姿勢
*第3章で、「新世界」との遭遇に力点が置かれる
*女性への着目(たとえば、190ff、303ff)
*通常こうした史学史で重視されることがないニーチェの強調(276ff)

2 第6章について
*アナールの影響力の強調…「全体史」をどう見るか
 …二宮宏之『全体を見る眼と歴史学』(1986)など日本での影響力の問題
*歴史と社会科学…ここでマルクス主義について言及しないことの意味
  「下からの歴史」の項目でのみマルクス主義を扱うことは部分的
*独裁体制と権威主義体制のもとでの歴史…この項目を立てていることの意味大
  中国についての記述の評価を久保さんにうかがいたかった!
  フィッシャー論争や歴史家論争はここで扱うべき対象か?
*下からの歴史…家永教科書裁判問題を扱っていること、米国での「左翼の歴史」を紹介していることは大きなメリット
*インテレクチュアル・ヒストリー/心理学…最近の「感情史」への流れ
*女性史/ジェンダー/セクシュアリティ…上述のように本書のメリット(と私は思うものの、フェミニスト歴史家たちはどう評価?)
  井上清の他は神近市子だけなのは、やはり日本の状況の紹介不足?
*戦後アフリカの歴史叙述…この項目も大きなメリット
*言語論的転回とポストモダン…こうした動きの影響力は世界の各地で異なったのでは?少なくとも日本では歴史研究の実践上、大きな影響力があったとは思えないが。
*ポストコロニアリズム…先駆者としてのガンディーの位置づけ
*歴史戦争、修正主義、そして「記憶」と「歴史」との疑わしい関係…この項目に最も大きなスペースをとっていることは、著者のスタンスをよく示し、共感。
 被征服者や周縁の民の語られずにきた歴史をめぐる「認識論的暴力」問題の重要性
  オーラル・ヒストリーについては、ここでの文脈のなかで扱う他に、それ自体、方法論としてより強調されるべきか?

3 第7章について…分かりやすい小見出しにするとすれば
 細分化批判への懐疑 / 社会性欠如という非難をめぐる留保 / 単純な「事実」への還元主義と歴史的人物の顕彰問題 / インターネットの功罪 / 歴史の総合の試みとしての世界史の波 / グローバル・ヒストリーからビッグ・ヒストリーまで

4 第7章最後の結び部分について
*歴史の未来の可能性につながる2点…歴史分野の国際化は首肯できるとして、幅広い人気の方は著者のように無条件に肯定できるか?

(報告)

 私からは、全体を見て気づいた点に簡単に触れさせて頂きます。対象となるのは、第6章と第7章ですが、第5章までのところをざっと読むと、基本的には本書全体の性格になりますが、ヨーロッパの歴史叙述を相対化していこうという姿勢が非常に強くあることが見て取れます。ヨーロッパの側から出た史学史の本として、評価すべきだろうと思います。例えば第3章では、「新世界」との遭遇をめぐる歴史叙述の問題に非常に力点が置かれています。また全体として、女性のファクターが各所で強調されており、これも印象に残った点です。また、どういった人物が取り上げられているのかに関しても、古今東西のさまざまな人物が取り上げられていますが、例えばニーチェの議論が強調されています。この点なども、こうしたテーマの議論の中ではユニークなのではないかと感じました。

 第6章、第7章ですが、第6章の方を節の見出しごとに少し詳しく見ていきます。最初はアナールの影響力から始まっています。まずヨーロッパに着目した時にアナールの影響力を強調する点は、頷ける点です。ただ、どういった点を強調するかは問題になると思います。日本の場合だと、アナールの影響はいろいろあると思われますが、やはり一番重要であったのは、「全体史」に対する問題提起ではなかったかと思います。

 歴史と社会科学のところでは、マルクス主義の位置付けが少し気になります。ここではマルクス主義に言及がなされていません。マルクス主義に関しては、「下からの歴史」の項目で触れられていますが、マルクス主義の世界各地の歴史研究への影響力から見て、この項目の中で位置付けがあって然るべきであろうと思います。

 次に独裁体制と権威主義体制のもとでの歴史という項目が置かれています。こうした形で項目が立てられていることの意味は大きいと思います。ただここでかなり詳しく扱われているのは中国、特に大躍進から文革の時代です。この辺りの議論をどう見るのかは、久保亨さんに伺いたかった点です。またここで、フィッシャー論争やドイツの歴史家論争が扱われているのですが、ここで扱うべき問題なのかは疑問に感じます。むしろ、歴史戦争の文脈で扱うべき問題なのではないかと思います。

 下からの歴史という項目が設けられているのも面白い点です。家永裁判問題が扱われていること、アメリカでの「左翼の歴史」に力点を置いていることは良い点だと思います。

 次がインテレクチュアル・ヒストリーということで、心理学の話が出てきます。この本では扱われませんが、最近の流れとしては感情史があり、それにつながる位置付けも十分可能だろうと思います。

 次に女性史/ジェンダー/セクシュアリティが扱われます。この問題は第5章までの部分でも扱われています。これは本書のメリットだと私は思っていますが、フェミニスト歴史家たちが本書をどう評価するのかという点は、また問題になるのかと思います。日本に関しても扱われています。井上清が扱われている点は納得できますが、その他には神近市子だけが言及されています。著者は基本的に世界各地の歴史学の状況をさまざまな材料をもとに見ていますが、どうしても限界があるのではないかと感じます。日本の状況についても紹介不足があるのではないかと思います。これは日本側からの発信がどうであったかという問題とも関わるかもしれません。ただし例えば、高群逸枝に関しては、英語やドイツ語でも多くの紹介があります。そうしたことを考えれば、もう少し広くカバーできたのではないかという気がしました。

 一方、戦後アフリカの歴史叙述に関しては、詳しく扱われています。こうした形でアフリカの歴史叙述が扱われている点も、私は大きなメリットだと思います。

 ポストモダンに関しては、言語論的転回などが扱われます。ただポストモダンを扱う際には、それがどのように世界各地の歴史研究に影響を与えたのかという点は、もう少し議論があっても良いのではないかという気がします。結局はポストモダンが力を持ったのは、先進国の国内であったのではないかと思いますし、日本でも、一つの歴史議論としてはいろいろに議論されますが、それが歴史研究の実践上どれほど大きな影響力を持ったのかという点は、議論の対象になろうかと思います。他の地域でもこうした点に関する議論ができるだろうと思います。

 ポストコロニアリズムに関しては、ガンディーが先駆者として位置づけられています。どのようにしてその位置付けが可能となるのかは気になった点です。

 最後のところで、歴史戦争、修正主義、そして「記憶」と「歴史」との疑わしい関係として項目を立て、ここに最大の紙幅を割いています。これは著者のスタンスをよく示すもので、共感を覚えて読みました。実際に、被征服者や周縁の民の語られずにきた歴史をめぐる「認識論的な暴力」ということが議論されている点も重要で、なるほどと思わされました。ただ、その流れの中でオーラル・ヒストリーについて出てきます。マルクス主義の扱いに関してもそうなのですが、オーラル・ヒストリーもそれ自体、方法論の問題として強調されることができたのではないかと思います。

 第7章に関しては、小見出しを見ただけではわからないところがあり、自分なりに分かりやすい小見出しを作るとどうなるかを考えてみました。南塚さんからも指摘がありましたが、特に「還元主義」のところは、私にもよく分からないところがありました。これを小見出しとしてある程度わかる形にするならば、「単純な事実への『還元主義』と歴史的人物の顕彰問題」となるでしょうか。こういった形になっていれば、もう少しわかりやすかったかと思います。

 第7章の最後の結びの部分で、これからの方向性に関して述べられています。一つ気になるのは、「歴史の未来の可能性につながる2点」です。2点として挙がっているうち、歴史分野のグローバル化・国際化についてはある程度首肯できますし、本書自体がそうした性質のものだろうと思います。もう一つは歴史が幅広い人気を博しているという点で、著者はその見方をかなり肯定的に捉えていますが、この点には疑問を感じます。私たちが書いた『歴史はなぜ必要なのか』は、副題に「脱歴史時代」と入っていますが、「脱歴史時代」をどのようなものとして見るかという問題でもあります。歴史が人気があるからといって、それが歴史学の未来につながるのだろうかという点です。この点について、本書は無批判的なのではなかろうかと思います。

4. コメント 藤田進

 本書の内容から、そして皆さんの発言を聞いていて思った点は、著者は「世界史」について語ってはいますが一面的ではないかということです。私が「一面的」というのは、「下から」の視点が強調されていながら「下から」は見ていないのではないかと感じるからです。本書では扱われない「民衆」、「人民」、あるいは「階級」という言葉にもとづく歴史の流れ、言ってみれば「人民革命」につながるようなジャンルに著者の目があまり届いていないのではないかということです。

 例えば、本書の索引中にマルクス、レーニン、あるいは第三世界についてならばナセル、冷戦期アジア・アフリカ非同盟中立主義のバンドン会議等々、その時々の「人民の歴史」に大きく関わった人物・事柄の項目がほとんど見当たりません。このことから、「歴史」が一部の歴史家の営みの中にあり、歴史が扱うべき人々の九割部分について語ってこなかったという歴史叙述や歴史学理論・方法上の欠陥を本書も引きずっていると感じました。

 私が無国籍難民のパレスチナ人の歴史を重視する立場にあるせいかもしれませんが、本書における世界史の構想や展開の仕方では、圧倒的に多数の人々の現実やそこに孕まれているさまざまな問題が抜け落ちてしまうのではないかと感じます。

 「今、歴史は人気がある」と言われていますが、一方で歴史書が売れないという現実があります。多くの民衆にとって、「歴史」とは何なのでしょうか。本書で問われているような歴史学の役割や有用性が、人々にはほとんど受け止められていないのは大きな問題だと思います。本書には、第三世界、特にイスラム世界についての言及が多くありますが、具体的な歴史上のタームとしての重要性にとどまっており、それらを深めて行くと世界史的にはどうなるのかというところまでは、歴史的関心・認識が十分届いていないのです。こうした現状のまま歴史の新しい展開を求めても、多くの人々は歴史に目を向けないのではないかと思います。

 一方でポピュリズム的歴史理解の方向に人々が持っていかれています。そうした憂慮すべき現状打開に向けて歴史叙述の手は届いているのでしょうか。

 かつてヨーロッパの抑圧権力側が社会主義を装った「愚者の社会主義」を打ち立てて民衆を反動側に組織するという企てがなされました。人類史の成果たる社会主義が歪曲されるとともにグローバル自由資本主義がまかり通っている今日、そうした世界の現実を批判しうる世界史であらねばならない。私は本書を前にして、そうした思いを新たにしました。

5. コメント 油井大三郎

I 本書の意義・・・ほぼ世界各地の古代から現代までの史学史の網羅的な書で、その博覧強記ぶりには驚く。また、その翻訳作業は極めて労苦の多いものだっただろうと拝察。

II 本書の問題点
1 前近代における叙事詩的な歴史記述と近代以降の実証的な歴史記述を連続的にとらえている印象が強いが、中世の歴史記述には史料批判が欠如(p.100)との指摘もあるように、時代的な変化ももっと掘り下げた方がよい印象をもった。

2 西洋的な歴史記述と非西洋的な歴史記述の関連や比較が本書の魅力の一つだが、比較にあたっても、時代や社会構造の差などが考慮外に置かれている印象が残る、例.P.222に司馬光の『資治通鑑』が「啓蒙絶対君主のために書かれたヨーロッパの多くの歴史に匹敵」との指摘があるが、11世紀の宋時代の歴史書がヨーロッパの絶対君主時代の歴史書と類似していると考えるのであれば、その根拠を明示すべきだったのではないだろうか。

3 西洋帝国主義の植民地支配と西洋流の歴史認識との関係について・・・「東アジアの改革者の側にヨーロッパのやり方を受け容れようとする意志」があった(p.281)と指摘して、被植民地側が西洋文明の「先進性」を認めることで、植民地支配を受け容れたような記述が多くみられる。それは一面事実だっただろうが、同時に植民地支配が暴力的に西洋文明を押し付けた面の記述が少なすぎる印象をうけた。

4 グローバル・ヒストリーに関連して、著者は、非ヨーロッパ諸国の歴史記述の復権をも意図して本書を書いたのであろうから、当然、ケネス・ポメランツ『大分岐』2000年への言及があってしかるべきと考える。何故なら、ポメランツは、西欧の産業革命以前のアジアの豊かさや自立性を強調しているからである。また、グローバル・ヒストリーの台頭におけるポメランツの影響力の大きさからしても、本書にポメランツの言及がないのは疑問となる。

5 ポストモダンとポストコロニアリズムの関係について・・・本書では両者を双子のように関連深いものとして扱っている。しかし、ポストモダンは、1968年の5月革命などを「挫折」と把握した西欧知識人が、反啓蒙・反進歩を主張し、マルクス主義などの「大きな物語」を否定する思想を展開した。それに対して、ポストコロニアリズムは、第三世界出身の知識人が植民地の独立以降も、西洋では植民地支配の思想的残滓があるとして批判したもので、帝国主義や植民地主義という「大きな物語」を問題にする点で、ポストモダンの思想とは大きく異なる面がある。著者のこの点への言及がない点に疑問が残った。

6 以上、本書に関わる疑問点を列記したが、世界各地の古代から現代までの歴史家や歴史書を史学史的に述べた類書はないので、歴史記述や歴史学方法論を全時代的や全地域的に考察する際には、必読の文献となることは間違いない。訳者のご苦労に敬意を表する。

6. コメント 佐藤育子

 私は古代史を専門にしています。第6章、第7章は、私が普段扱っている時代からははるかに後の時代です。個人的な話ですが、読ませて頂きながら、丁度学部から大学院に上がる頃に、「史学史」という授業でいろいろな文献や書物を扱う中で目にした名前に、ここで再び触れることができました。思い出しながら、勉強させて頂きました。

 今までに挙がったさまざまな論点は、私自身まだ消化はできていないのですが、これだけ多くの歴史家が登場する中で、木畑先生が言及された高群逸枝の名前が挙がっていないというのは、日本の事情に関して調べきれていないということかと思いました。高群の『大日本女性史』は、学部のゼミか何かで読んだことがあります。

 少し古代史に関してお話ししたいと思います。私が今回この場にいるのは、本書の21ページに私の名前を南塚先生が言及してくださったからだと思います。先生には、ディブレー・ハッヤーミームについて質問を頂きました。これは、旧約聖書の「歴代誌」のことです。直訳ですと「日々のできごと」という意味になるかと思います。年代記のようなものです。急にヘブライ語が出てきたということで、私に声をかけてくださったものと思っています。

 第1章に関しては、「歴史叙述がどういうきっかけで生まれるのか」に関心を持ちました。古代ギリシアと古代ローマに関するところです。古代ギリシアでは例えば同時代の歴史家とその叙述として、ヘロドトスと紀元前5世紀前半のペルシア戦争、トゥキュディデスと紀元前5世紀後半のペロポネソス戦争が挙げられます。本書でも、ヘロドトスとトゥキュディデスから始まっています。一方の古代ローマに関しては、同時代の歴史、紀元前3世紀以前の同時代の歴史叙述が存在しません。ローマ文学の黄金期である紀元前後は、共和政から帝政に転換する国家再編の時期でした。その時に、自らのオリジン、自分たちはどこから来たのか、自分たちは何者であるのかというのが彼らの知りたいところだったのだと思います。ここで、リウィウスやウェルギリウスといった人々が登場します。「歴史叙述がいつ生まれるか」ということが、古代史の場合、特にギリシアとローマの違いです。

 私が専門にしているフェニキア・カルタゴ史に関しては、彼ら自身によって書かれた文献史料は存在しません。つまり、残っているものは、他者が見た彼らに対する理解であるわけです。本書に言及されるヨセフスとポリュビオスは、最終的にローマの庇護のもとに史料を残しますが、この二人がいなければ、フェニキア人の歴史もカルタゴの歴史もわかりませんでした。特にポリュビオスが扱った第一次ポエニ戦争は完本の形で残っており、このポエニ戦争に関する記述がなければ、ポエニ戦争のことも調べることができません。ヨセフスは、ローマの庇護を受けて、壮大なユダヤ民族の歴史である『ユダヤ古代史』を書き記しました。その中でユダヤ民族の古さを持ち出すために、フェニキアの歴史、特にテュロスの年代記に関しても言及しています。この二人なしには、フェニキアの歴史は文献史料からはアプローチできないわけです。そんなことを考えながら読ませて頂きました。歴史叙述がいつ生まれるかということ、そしてそれはさらに遡れば神話と言っていいのかもしれませんが、日本でも例えば、日本書紀や古事記が生まれたのは、ちょうど国家が成熟していった成り立ちの時であり、そこに自分たちのオリジンを求める動きがあったということです。非常に似ているところがあると思いました。

7. コメント 小山田紀子

 ここでは、私の研究分野の紹介をさせていただくことで、本書のコメントに代えさせていただきたいと思います。昨年、8年間かかって『植民地化・脱植民地化の比較史』という本を藤原書店から出版しました(2023年)。私が専門としているフランスとアルジェリアの植民地関係と、日本と朝鮮半島の関係を比較するというものです。現在、フランス語版の翻訳を進めています。日本語版の装丁が綺麗にできています。表紙の上は朝鮮の1945年の解放の写真、下は1962年のアルジェリア独立時、総督府の前で人々が喜んでいるものです。裏表紙には綺麗なアーモンドの花の咲く山の写真を載せました。これはプロジェクト参加者のアルジェ大学の先生が新年に年賀状としてくださったものです。花が綺麗だったからというわけではなく、部族が大虐殺された、まさにその場所の写真だということです。私が後で調べてそういった事情がわかり、裏に載せました。

 共同研究のメンバーは、日本側が10人、フランス・アルジェリア側が4人で、私が新潟国際情報大学の共同研究として提案して始めたものでした。「植民地責任論」を扱った永原陽子氏の研究に続く具体的な例として進めたものです。南塚先生にも木畑先生にも高く評価して頂きました。中身は、今日のウルフの著書の内容の話と比べれば、入り口の部分ではあります。なかなか具体的な比較はできていないのですが、このような国際学術交流で、日朝関係とフランス・アルジェリア関係を比較するのは初めてだろうと思います。

 この共同研究にもつながるのですが、私は学部の卒論から続くテーマとして、対仏独立戦争におけるフランス軍の住民強制移住政策をずっと研究しています。修士課程では南フランスのエクサンプロヴァンス大学に留学しましたが、ここは植民地研究のメッカです。同じところに何十年も経ってからサバティカルで滞在しました(2018-19年)。現地の人々とも交流して、共同研究を組織することができました。ただこれから皆で議論を進めていく段階です。

 もともとの私の研究から見ると、ウルフによる本書やこの研究会は、方法論的に学ぶ場です。一度個別具体的な研究を世に出した後で、方法論的な検証をするということになります。自分がどの方法論を用いているのかが必ずしもよくわかっていなかったのですが、ウルフの本書によってはっきりしたことがあります。私は井上幸治先生からフランス史を学びました。井上先生は、日本にフランスのアナール学派を紹介するという大きな仕事をされました。先生の指導のもと、私がどのように方法論を用いてきたのかが、今になって本書によってわかったところがあります。アナール学派のマルク・ブロックとフェーブルというストラスブール派の第一世代と、『地中海』のブローデル、ジョルジュ・デュビーの社会史などです。藤原書店の藤原良雄さんは、井上幸治先生のアナール学派の日本への紹介を目的に編集者をされていた方です。ブローデルの『地中海』の最初の訳は、井上先生の編で新評論から出版されました。その後、藤原さんが独立して、藤原書店を立ち上げました。こうしたつながりがあり、私たちの共同研究の成果は、藤原書店から出版できました。

 アナール学派のブローデルは、何巻にもわたる『地中海』が出版されており、百科事典のような感じがします。「長期分析」と「計量分析」、経済とミクロヒストリーを行い、「地域史は必ず世界史に取り込まれてゆく」ということを示しました。「地域史」をまず一次史料を用いて実証研究せねばならないという点が、井上先生の教えでした。南仏のエクサンプロヴァンスに留学しましたが、植民地研究の中心だったこともあり、文書研究やアルジェリアの現地調査も行いました。私のアルジェリア研究は、こうした史料に基づいたミクロヒストリーですが、枠組みとしては、オスマン帝国期から独立までを扱っています。

 日本においてもアルジェリア研究は広がってきていますが、この地域を地中海世界として捉えるのか、私のように植民地政策としてフランス・アルジェリア関係を見るのかさまざまです。植民地化の暴力的な戦争と暴力的な脱植民地化の後、今何を目指して研究を進めるのかという点は、まだ先が見えてこない点です。私自身でいま模索しているテーマは、人の移動と帝国の変貌と国民国家の問い直しを、大局的なグローバルヒストリーからではなく、個別具体的なところで分析した上で提示することにあります。

8. コメント 杉本諒

 私は高校の世界史の教員をしています。常に世界史をどのように教えるかを考えていますので、本書もそう言った関心から読みました。「歴史」というのがどのようにつながってきたのか、そして自分がなぜ「歴史」を教えるのかのヒントを得たいと思ってのことです。正直に言えば、歴史教育、歴史がどのように教えられてきたのかという点に関しては、まったく記述がありません。そこをもう少し扱って欲しかったと思います。また、歴史家のビッグネームの成果の比較やまとめはなされていますが、それがどのように民衆に伝わっているのかといった点は、あまり議論されていないのではないかと思いました。私の問題関心から中心に読んでいますので、著者の問題関心とは異なるのだとは思いますが、「歴史」を総体で見た時に、歴史教育というのもやはり忘れてはいけない点だと思っています。

 歴史教育が何のためにあるのかと言えば、それはネイション形成などに帰するものとなるのだろうとは思います。現在の高校の歴史教育では、グローバルヒストリーを大きく取り入れて教科書が書かれるようになっています。「歴史をなぜ教えるのか」がクローズアップされている状況です。ネイション形成に回収されないような歴史教育を私は志しています。歴史学の問題意識がどのように変化してきて、それが歴史教育にどのような影響を与えてきているのか、この点を深めて欲しいと思いました。現代を扱う本書の第6章、第7章では、歴史学の問題意識の変化が羅列されています。ジェンダー史、ポストコロニアリズム、グローバルヒストリーなどです。ではどういう方向に向かうべきなのか、この点をもっと深めて欲しかったと思います。教員としては、それを受けて、何を目指して生徒たちに教えてゆくかを考えることになります。本書では、現代の歴史学の問題が単に羅列されているだけなのではないかという印象を受けました。

9. 訳者よりのリプライ

南塚

 著者に変わって答える必要はなかろうと思いますが、疑問点は明らかにしておいた方がいいでしょう。まず、ポストコロニアルに関する小谷さんの提起についてです。「批判の道具としてのポストコロニアリズムは、インドや中東の研究において最も広汎に動員されてきており、以下の諸点でポストモダンと重なり合っている。すなわち、両者は、既存の大ナラティヴ(とりわけ植民地権力ないし現地におけるその同盟者によって創造され押しつけられた)を不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したりして、それを在地のもの、以前は周縁化されていたものに代えること、またテキストや文書を「織り目に逆らって」読み、それが言っていることと同じくらいにそれが言っていないことを見つけ出すことを、共通の目的としているのである。」をどう理解するのかという点です。翻訳を進めながら気になっていた点ではあります。私の理解は以下のようなものです。「インドにイギリスの歴史学がやって来て、それを植民地権力や同盟者が取り入れたかもしれないが、それにより、非常にヨーロッパ的なインド史が形成された。インドにおいては封建社会はこうであり、それに代わり市民が出てきて、国民国家がこのように形成された。」といった形で、インド史の大ナラティヴが作られてきていた。それは現地の権力や同盟者が作って来たものということです。こうしたナラティヴを、ポストコロニアリズムが不安定化させたり、転覆したり、脱中心化したり、在地化するということで、その結果、よりインドに固有の価値、インド的な人の繋がりや社会の構成に即して歴史を考えなければならないということになる、ということではないかと思いながら翻訳しました。

小谷

 本書の校閲をしながら、難しいと思ったのは次の点です。ヨーロッパの歴史学を正面から引き受けたのは、「現地における〔ヨーロッパの〕同盟者」ではなく、実際にはマルクス主義的な歴史学者の方だと思います。マルクスの言葉を非常に単純化して、それをそのまま歴史として捉えるという姿勢は、インドのマルクス主義歴史学者にも共通しています。従って、奴隷制、封建制、資本主義といった社会構成体論が、非常に強い影響力を及ぼしました。日本の戦後史学にもそういったところがありますが。「変革の学」であるはずの非ヨーロッパ世界のマルクス主義歴史学がもっとも「ヨーロッパ中心主義」的であるということに、非ヨーロッパ世界の近代思想のイロニーがあると思いました。

 それから、藤田さん、杉本さんの議論を聞いていて思った点でありますが、本書はあくまでも「書かれたものとしての歴史」の世界史です。書かれた、「高級な」歴史以外は本書の対象にはならないわけです。例えば、「生きられた歴史」という概念があります。日々、人々がその中で生きている非文字的な歴史世界というものが必ずあるはずです。大飢饉の記憶といった記憶の集積としての「生きられた歴史」です。こういった「歴史」は、本書では対象外になっています。それに対して、藤田さんや杉本さんが求めているのは、こういう意味での「生きられた歴史」なのではないかと思いました。

10. 議論の論点

○歴史教育について
・歴史教育に関してもう少し扱われて然るべきだろう。アメリカの歴史研究者には教育への意識が強いだろう。
・「『歴史学』と『歴史教育』の対話」には意義があるが、両者の埋めがたい溝も明らか。
・大学での「歴史教育」の視点、博学連携の視点も重要だろう。
・研究をするだけでは歴史家の役割としては部分的。研究者が教育的機能を果たすことへの視点を持つことも重要。

○社会運動について
・歴史研究における社会運動の役割への視点が薄いのでは。歴史のダイナミズムに繋がらないのでは。
・歴史研究者の語る歴史と、生きている人間が意識する歴史との乖離がどう埋められるのかが歴史学の可能性だが、そこには届いていない。
・そういった趣旨の本が書かれていないということだろう。

○古代史・中世史について
・現代に述べられている歴史の方法(フェミニズム、インテレクチュアル・ヒストリー、ポストコロニアル、還元主義など)で、古代史・中世史を考えることもできるのではないか?
・古代におけるギリシア中心史観とそれへの反論が存在。西部ユーラシア主義の存在。
・地中海史、西部ユーラシア史を設定すると、ヨーロッパの源泉としての古代ギリシア・ローマ史は否定されるのでは?
・西洋と非西洋の二元化という点ではオーソドックス。ただ、細かい論点は紹介されている。

○歴史への一般の関心について
・著者が広い関心には基礎的なリテラシーが必要としていることは重要。
・日本でも「歴史」には人気があるが、興味本位のものから。大河ドラマも人気だが、評価は難しい。
・より突き詰めて考えるべき点だろう。

○植民地支配の暴力性について
・植民地支配の道具としてのヨーロッパ的歴史に関しては幾度か言及。
・植民地統治の中における歴史教育も重要だろう。

(「世界史の眼」No.56)

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