「万国史」における東ヨーロッパ II-(3)
南塚信吾

3. 箕作麟祥『万国新史』 1871年(明治4年)―77年(明治10年)

 これは箕作麟祥(みつくりあきよし)が明治4年から10年までかけて出した大作であった。フランス革命から普仏戦争あたりまでの「現代世界史」を「同時代史」的に描いたものである。各国史の寄せ集めではない。しかもこの本は、これは何らかの本の翻訳ではなくて、いくつもの本を消化して著者がまとめたものであった。明治期に出た「万国史」の中では出色の力作であった。

 箕作が参考にした本は、鱗祥の「凡例」によれば、チャンブル氏の「モデルンヒストリー」、ヒューム氏の「ヒストリーオフイングランド」、ヂュルイ氏の「イストワールドフランス」、ヂュタードレイ氏の「イストワールコンタポレーン」を中心に、「群書」を参照したとある。基本的にはチェンバースの『現代史』(W. & R. Chambers, Modern History, London 1856)の第三部に依拠していた。

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 『萬國新史』の全体構成を見てみると、それは3編に分かたれている。

 上編は、

第一回―第十回 1789年から1814年まで

「仏蘭西大変革の原由」、「仏蘭西大変革記」、「仏蘭西共和政治の記」、

「仏蘭西帝国記」

第十一回 「ウィーン大議会」

第十二回 1815年のワーテルロー大戦

第十三回 英吉利、

第十四回 日耳曼(ゲルマン)(附 墺太利)

第十五回 魯西亜(ロシア)(附 波蘭)

第十六回 米利加連邦

 中編は、

第一回―第二回 「欧州復旧」

第三回―第四回 「人民と神聖会盟と相抗敵するの記」

第五回「欧州各国人民自由進歩の記」

第六回―九回 1830年仏国大変革とその後の欧州各国形勢

第十回「亜細亜に於て英魯の両国相競ふの記」

第十一回「土耳古、埃及(エジプト)戦闘の記」

第十二回―第十七回 「1848年仏国大変革の原因」、1848年仏国大変革及び共和政治、1848年大変革以後の仏国形勢と、1848年欧州各国騒乱の事情

第十八回「哥里米(クリミア)乱原因の記」

 下編は、

第一回 クリミアの乱

第二回「印度叙跛(セポイ)兵の乱」

第三回 以太利独立の戦

第四回 支那戦争の記(附 太平王の乱)

第五回 米利堅(アメリカ)、魯西亜、英国

第八回 墨是哥(メキシコ)及び南亜米利加各国

第九回―第十回 西班牙、日耳曼と墺孛(普)両国の戦

第十一回―第十三回 仏国輓近の大勢と普仏戦争

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 こういう構成からも『萬國新史』の特徴は少し見えてくるが、改めてその特徴を探ってみよう。 

 第一に、『萬國新史』は、フランス革命から普仏戦争の時期までを扱った、当時で言えば「現代世界史」である。ほとんど麟祥の生きていた同時代を扱ったにもかかわらず、世界諸地域の歴史に対する深くて正確な知識と洞察は目を見張るものがある。

 第二に、それは「同時代史」である。ここで「同時代史」というのは、生きているわれわれと同じ時代という意味ではなく、輪切りの同時代という意味である。フランス革命の時代、1848年革命の時代、クリミア戦争の時代、「セポイ」と「太平王」の時代などを区別しつつ「同時代史」を述べている。つまり、この時期の歴史を、ナショナル・ヒストリーで割らないで、ヨーロッパ大陸全体、世界全体の動きとしてとらえている。そのような方式の中で、この「万国史」は、視野をヨーロッパに限らず、アジアやその他非ヨーロッパに対して広く伸ばし、それらにヨーロッパに劣らない位置を与えている。ヨーロッパ、アメリカ、ラテンアメリカ、アジア、一部のアフリカなどをボーダーレスに自由に動いて、歴史を描いている。この時期はまだ日本史、東洋史、西洋史という区分がないので、こういう具合に「自由」に世界史を見ることができたのである。その際、かれは諸国、諸地域の歴史をなんらかの「関係」において捉えつつ、同時代史的・関係史的世界史を描いている。

 第三に、それは、ペルシアから中央アジア、アフガニスタン、インド、そして中国までについて、詳細で正確な「事実」を基礎に論じている。とくに、中央アジアについては、英露の対立関係のなかで、現地の諸勢力の錯綜する関係を見事に描いている。日本では、この箕作の書以後、忘れ去られていくことになる中央アジアの歴史が、今日再度関心を集めているわけである。ちなみに、これ以外では、ラテンアメリカについては詳しく述べる一方、アフリカはエジプトあたりまでで終わっているし、箕作がフランス語も解したにもかかわらず、フランス圏の東南アジアは扱われていないのは、不思議である。おそらく依拠した書物のせいであろう。

 最後に、本書は、当然ながら、当時の麟祥の歴史的制約も受けている。民権主義者としての麟祥は、人民の「自由」こそ強調しているが、人民の願いを受け止めて指導する「賢明なる国王」を目指すべき理想であるという立場のようである。人民の「自由」への動きは各所に押さえながら、人民が「衆愚」にいたることを恐れ、むしろ「賢明なる君主」という視点から歴史を見ているわけである。

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 さて、ヨーロッパの東部については、どういう記述をしているのかとみると、これまでの「万国史」とは全く違う扱いをしていることが分かる。

 1848年革命(騒乱)が詳細に論じられているので、それを素材にしてみよう。それは1846年のポーランド人のガリツィア蜂起を伏線として置くところから始まり、48年革命を同時代的に分析した力作になっている。1846年のクラクフ「共和政治」、その崩壊後も続くポーランド人の「自由」への「恢復の念」、ついでスイスにおける「守旧党」と「改革党」の乱などを前史としたうえで、1848年を論じている。1848年革命の時代の描き方を見てみよう。かれはこれをこういう順番で描いている。フランスについで人民が蜂起したのはオーストリアのウィーンの人民であるとして、1848年3月から10月までのウィーン府民の騒擾とメッテルニヒの追放、オーストリアの管轄下にあったイタリアの人民の動乱(3月―7月)、このイタリア人の動きを聞いて同じくオーストリアの管轄下にあったボヘミアで6月に開かれたスラヴ人種の公会、そして、オーストリアの管轄に不平を懐いていたハンガリー人の3月騒擾から、9月からのオーストリアとの戦争が述べられる。さらにドイツの3月革命から5月開催のフランクフルトの「列国人民代理者」の大議院での議論が述べられた後、6月のワラキア、モルドヴァ(ルーマニア)での騒乱、そしてイタリアの1849年3-8月の対オーストリア戦争、ハンガリーの1848年10 月から1849年8月までの独立戦争をもって終わっている。これは、各地での「人民自由」を求める民衆蜂起や政治変動を相互に「関係」させながら、それらが波及していく(つまり「連動」していく)順に述べられているわけで、この時期の歴史を、国民史で割らないで、大陸全体の動きとしてとらえているのである。当然諸国民の歴史は諸国との「関係」の中で位置付けられている。

 個々の東欧の「人民」の様子を箕作はどのように見ていたのであろうか。 

 チェック人は、かつて不羈自立の国を持っていたが、いまはスラヴ人種として、ガリツィア、イリリア、スチリア、ダルマチアなどと「大連邦」と組むことを謀り、6月2日にプラハで「公会」を開いた。ボヘミアの人民はオーストリアからの独立は望んでおらず、ボヘミアではドイツ人が少ないのにその権力はスラヴ人より大きいという制度を正したいと願っていた。しかし、会の参加者の一部は、オーストリアに叛く事を考えて「人民」を扇動し、6月12日にプラハの「府民」に「乱」を起こさせた。これは、6月14日、ウィーンヂスグラッツの軍に敗れ、これにより「公会」も解散したと述べている。このように、箕作は「オーストロ・スラヴ主義」に注目していたわけである。

 オーストリアに対する反乱として、ハンガリーが出てくる。ハンガリーもボヘミアと同じくかつては独立の国であったが、オーストリアに支配されて人民はその「苛政」に苦しんでいた。フランスの報を聞いて、3月15日にその国民はウィーンに数名を派遣して、「内閣」の設置を求めた。皇帝は人民を抑圧しがたいとみてこれを許し、バチアニを内閣の長とした。多くの国民はこれで満足したが、しかし、コシュットはそうではなかった。ハンガリーはオーストリアからの独立を図る際、トランシルヴァニア、クロアチアのワラツク人種(=ヴラフのこと)とスラヴ人種をその支配下に置こうとしたが、それら「人種」の「意を失ひし」。これを見てオーストリアは、この二つの「人種」を用いてハンガリー人に敵対させ、エルラキク(=イェラチチ)を利用して、攻撃させた。このような記述からは、コシュートらが同じくオーストリアに支配されていて共闘すべきスラヴ人の「意を失った」こと、オーストリアがかれらを利用したことが指摘されていることが分かる。

 ついで、フランスの「大騒乱の余波」は遠くダニューブ河に及び、ルーマニア「人種」も「国を立て」るべく「請願」を起こしたと記述している。そもそも、ルーマニア人はローマのダキア植民の末裔で、スラヴ人の「侵掠」を受けたが、とくにワラキアとモルダヴィアの二州に多数残った。かれらは「土耳古」人に「開明」の道を教えたほどで、二州はトルコ下で独自の政府を認められ、言語・制度も維持された。トルコは、この二州の政権をギリシア人に委任していたが、ロシアは1821年にウラジミレスコというルーマニア人を使って、ギリシアの支配から脱却させた。当時ギリシアがトルコに背いて兵をあげていた(=ギリシア独立戦争という用語はない)ので、トルコは二州の自立を認め、二州では「変革」の機が出てきた。だが、ロシアは二州に「権」をほしいままにしようとして、この変革を「妨阻」し、二州を自己の保護下においた。これに対して、二州においては、若者たちが欧州の自由の説を取り入れ、ビベスコ(大公ビベスク)なるものを先頭に改革を目指したが、そのようなおりに、フランスの48年の報が伝わると、6月、ワラキアの一部に騒乱が起き、それが全国に波及、3月23日にはブカレストでビベスコは憲法の約束をしたと述べられている。「万国史」のなかで初めてルーマニアについて、ほぼ正確な記述が現れたわけであるが、それだけでなく、ハンガリー人やロシアやトルコ(=オスマン)との間で苦労するルーマニア人の位置がよく示されている。フランスに留学していた鱗祥は、当時のフランスの文献の影響も受けて、ルーマニアについても記述しているわけであろう。

 ルーマニアの蜂起ののち同じくラテン系のイタリアの蜂起が述べられ、それについでふたたびハンガリーの乱が述べられる。イタリアの蜂起が押さえられたあと、ハンガリーだけが、人民が独立を求めて皇帝の命に従わず、コシュットに従って、オーストリア軍とたたかった。ハンガリー軍は、ヴィンヂスグラッツとエルラキクに敗れて、1849年1月には政府をデブレツエンに移した。ここでハンガリーの人民は貴賤の別なく兵に応じて、勢いを回復した。そして4月の末にはペシュトを奪回し、ウィーンまでも襲う気配が出てきた。ここにフランツ=ヨーゼフはロシアの援軍を求め、8月12日にウィラゴスの戦いでハンガリー軍を破った。皇帝は敗戦後のハンガリーに徹底した弾圧で臨み、「立憲党」の首魁であったバチャニを、当時最も人民に敬愛されていたにもかかわらず、銃殺した。

 ここに1848年革命は終焉したのである。1848年革命をイタリアとハンガリーの革命の終焉で締めくくるのは、箕作の慧眼である。

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 いろいろと不正確なところはあるが、事実に基づいた東欧の歴史になっていた。そしてすでにヨーロッパの東の部分への歴史的視野は驚くほど広がっていたことが確認できよう。これまでのポーランド、ハンガリー、ギリシアだけでなく、ボヘミアやワラキアなども現れるのである。寺内の『五洲紀事』とは比べ物にならないくらいに、正確な認識になっている。また、歴史をみる基準としては、自由、立憲、独立という価値が柱になっていて、これを賢明なる君主が、「人民」の動向を取り入れつつ、いかに実現できるかというところに置かれていた。だから、かれは「暴徒」「激派」や「ソシアリスト」には批判的である。そして、諸民族の歴史も他の民族の歴史との「関係」で扱われている。国民史の並列ではないのである。しかし、これらの特徴はその後、順調には継承されなかった。

(「世界史の眼」No.38)

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