1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)
稲野強

(1)はじめに

 NHK総合テレビで放映された昨年(2021年)の大河ドラマは、渋沢栄一の生涯を扱った「青天を衝け」だった。物語の後半で、吉沢亮演ずる渋沢が、上州(現、群馬県)富岡製糸場の生糸がウィーン万国博覧会で第2等の進歩賞を獲得したことを報じる新聞記事を居合わせた人々に大声で披露する場面があった。渋沢自身が設立に深く関与していた官営富岡製糸場の生糸が国際的な評価を受けたということだから、彼の喜びは、ひとしおだったろう。それどころか、この授賞の快挙は、それからほぼ140年後の2014年6月に富岡製糸場が「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録される際に、その選考で一役買ったと類推できるほど、現代の人々の記憶に深く刻まれている。

 ところで、この賞の価値をめぐっては、日本の研究者には、第2等賞では世界に通用しない、という否定的なものもあるが、大半は、富岡製糸場の生糸が初めて世界に認識され重要視される端緒になった、あるいは「トミオカ・シルク」の名をヨーロッパ市場に轟かせた、という肯定的なものだ。ただし、賛否両論いずれの場合でも、なぜか当時の世界的水準に照らしての賞の位置づけや賞の出し方、その性格付などに関してはこれまで不問に付されていた。つまり賞の価値が、どれほど実態に即したものかは、問われないまま「トミオカ・シルク」の優秀さが動かしがたい事実として独り歩きしたとも言える。

 では、そもそも賞を価値あるものとしたのは何かと言えば、それは何よりも万博のもつ権威である。現代でも数あるコンテストの価値が、主催者の権威に負うているのと同じである。そしてさらに万博での高い評価は宣伝行為によって、国内外で広められた。富岡製糸場の場合も例外ではない。ことに明治維新後間もない時期に莫大な費用をかけて政府が設立した官営富岡製糸場の成功譚は、やはり莫大な費用を使って参加したウィーン万博の権威によって支えられたからだった。

 そこで本稿は、ウィーン万博での賞の価値や出し方を、権威と宣伝をキーワードに解き明かすことを試みるが、それと同時に万博が19世紀に誕生した意味・背景、ウィーン万博の特徴について概略述べてみたい。日本の万博参加を世界史の中に位置づけるためである。

(2)万博とは何か

 万博は、19世紀半ばにおけるロンドン開催(1851年)に端を発した巨大で先進的な産業見本市であると同時に、物と人の国際交流の場であり、「ナショナリズムの世紀」における国威発揚の場だった。またそれは帝国主義的野心の発露であり、16世紀の大航海時代以来の絶え間ない海洋進出によってヨーロッパ資本主義が世界の隅々まで支配をしているという自負心を公に開陳し、文明と歴史の進歩を誇示する格好の場でもあった。

 一方、近代産業促進の側面から見れば、万博に各国各地域から出品された製品の数々は、いずれも当時の先端技術の粋を集めて競い合うものだから、参加者は、そこから産業水準を学び、発明発見のヒントを得、貿易の実を上げると同時に、否応なく世界の序列化を目の当たりにした。まさに万博は、物質文明によるヨーロッパの優位を執拗に可視化したもので、見る者を圧倒する一大イベントだったわけである。

 片や、建築家や芸術家にとって格好の表現の場だった。例えば建築家はここでは伝統に縛られずに、創造性を駆使して自由な設計に取り組むことができた。封建的・貴族的枠組みを脱却し、経済的裏付けによる自信たっぷりな新興ブルジョワジーの開放的で自立的な進取の気性に富んだ精神がこうした建築家や芸術家の波長に合致していたと言えよう。

 また、万博は一般大衆も観客として様々に参加できる娯楽性を備えた自由で開放された空間だった。そこで人々は、しばしば日常を忘れ、お祭り気分を味わい、幻想・夢の世界に遊ぶことができた。とりわけ創意工夫を凝らした各地域の文化・伝統を重んじた多種多様の「出し物」は、娯楽性に富み、未知の異国に対する興味を増大させ、人々のグローバルな世界観を養うのに大いに貢献したのである。

 このような物質文明を誇示した万博というイベントは、富と権力を備えた「王権神授的な」王室・帝室特有の権威によって、さらにそれを利用した宗主国・植民地を問わずあらゆる階層に存在する中小権力によって支えられていた。こうして万博はヨーロッパ中心主義を体現し、その価値観は、非ヨーロッパ世界にまで浸透することになった。万博で賞を得ることは、とてつもない栄誉であったが、同時にそのようにして構築された権威のシステムに進んで組み込まれ、西洋主義の「先兵」になることを意味した。

(3)ウィーン万博とは

 オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都ウィーンで万国博覧会が開催されたのは、1873年5月のことである。この万博は、ドイツ語圏で最初のものであり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位25年を記念して開催された。それはまた「ヨーロッパきっての名門」ハプスブルク家の威信をかけて、これまでのロンドン・パリでの交互開催にくさびを打ち込む意志の表れでもあった。

 まずウィーン万博の開催の歴史的背景を見てみると、19世紀後半のオーストリアの政治状況が深く絡んでいることが分かる。帝国内部では1848年革命を起点として、諸地域・諸民族による帝国からの分離運動が活発化し、それに対する反動として皇帝権威の復活を基礎とした、いわゆる新絶対主義体制(「バッハ体制」)の下で、中央集権化が図られた。だが、帝国は、外交・軍事的にはクリミア戦争での失態、イタリア、続いてプロイセンとの戦争での手痛い敗北を経て、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立で中東欧に新たな体制の枠組みを構築したものの、凋落傾向に歯止めをかけることができなかった。

 その意味で、万博は帝国内外の混乱状態を鎮静化させ、かつてこの多民族帝国を数百年にわたり保持してきた帝国の威信を取り戻す絶好の機会であった。既にこの時代、ハプスブルク帝国の威信の復活は、もはや幻想だったが、万博は、これまで維持してきた独特の皇帝崇拝ないしは王朝への尊崇の念を人々に喚起させる格好の機会でもあった。もちろん莫大な費用がかかる万博を主宰する政府=権力者の方も、国民大衆の政策に対する不満を祝祭の挙行で反らそうと考えていたし、あるいは万博をこの帝国固有の諸民族の一体化の証とすることを目論んでいただろう。

 また、都市改造の波も万博開催に一役買った。当時、帝国内外の不安定な政治状況下にあったとは言え、商工業の急速な発達にともない19世紀後半にヨーロッパ全体で起こった都市化は、この帝国をも巻き込み、大都市を中心に空前の建築ブームを引き起こした。それは史上「会社設立期(グリュンダーツァイト)」と呼ばれる時期に対応していた。ウィーンにおいてもすでに19世紀前半以来、人口の増加と企業活動の活発化によって市域は市壁に囲まれた従来の中世都市の枠を破って拡大していたから、市壁を取り壊し、そこに様々な建築物を新たに建てる試みがなされ、また都市交通網の整備が図られた。取り壊された跡に王宮を含む旧市街地(内市)を取り囲むリンクシュトラーセと呼ばれる環状道路ができ、その道路に沿って短期間のうちに大学、教会、オペラ座、宮廷劇場、国会議事堂、美術史美術館、新市庁舎や証券取引所が次々に建設された。それらの建築物の数々は、さながら建築様式の見本市の観を呈していたが、こうした都市改造ブームの延長線上に万博があったのである。

(4)万博会場

 万博の会場に選ばれたのは、ウィーン市の郊外、北西から南東に流れるドナウ川本流とドナウ運河に挟まれたプラータ―と呼ばれるかつての広大な宮廷の狩猟場で、当時は市民に開放されていた公園だった。その鬱蒼とした森を切り開いて充てられた約233万631平方メートルの敷地に大規模な会場を作り、市街地と結ぶ鉄道を敷設し、ドナウ川と共に人的・物的輸送手段を確保した。この万博に参加した宗主国は35、植民地や属領を含めると70か国ほどだった。

 万博の主要建築物としては、先端にハプスブルク家の王冠を戴いた高さ90メートル、直径100メートルの「ロートゥンデ」と呼ばれる巨大な鉄製ドームが建てられた。そしてそれを中心にして東西に延びる回廊の両側に16ずつの展示場を持つ産業宮が配置された。その構造は、あたかも世界地図を象徴しているとは言え、「ロートゥンデ」内では主催国オーストリアと隣接するドイツが展示場を占め、ドイツ系オーストリアこそが東西文明の接点であり、ここで東西文明が融合するというオーストリアの自負心が可視された。 

 そのため、オーストリアの西にある諸国は、「ロートゥンデ」の西側に、東にある諸国はその東側にあったから、回廊の最西端には南北アメリカとブラジルの展示場が配され、日本の展示場は中国、シャム(タイ)、トルコのそれと共に最東端に配されることになった。さらにこの会場ではパリの万博の例に倣って、産業宮の周囲に185棟のパビリオンが点在していた。参加各国・地域はパビリオンにおいて自国の伝統文化のイメージを強調できた。万博のショー化、娯楽的要素の拡大・多様化の様は創意工夫を凝らしたパビリオンによって可視化された。中でも中東、アジア、アフリカのパビリオンは、訪れた人々のエキゾチシズムを刺激し、人々は居ながらにして「世界旅行」を楽しむことができた。池に太鼓橋を架けた日本庭園に茶屋、鳥居と神社からなる日本のパビリオンも人気を博したひとつだった。

 展示場は、テーマによって大きく26グループに分かれ、さらに1グループが5から10のセクションに細かく分類されていた。セクションは全体で174あり、産業の情報交換、技術革新の様子がただちに理解されるようになっていた。

 万博の会期は5月から10月末までの半年間で、その間ウィーンでのコレラの発生や株の暴落、いわゆる「証券取引所の危機」で一時的には、万博どころではないという空気が社会全体を覆っていたようだが、それでも前回のパリ万博の1千万人には及ばなかったものの、722万人、当時のウィーンの人口の9倍弱の入場者を受け入れたのである。

 なお、万博開催中の6月3日に奇しくも岩倉使節団一行がウィーンに到着した。一行はすでに1年半にわたって米欧周遊中で、2週間の当地滞在中にしばしば万博会場を訪れている。佐賀藩出身の書記官久米邦武は『米欧回覧実記』の中で、会場があまりにも広く、見るべきものが多過ぎて、「華然タル光輝ニ心ヲ奪ハレ、精緻ナル妙工ニ神ヲ耗ス」と精魂尽きた様子を吐露しながらも、万博の意義についてこう述べる。「之ヲ要スルニ衆邦ノ億兆、其精神ヲ鐘メタル、英華ヲ擢テ、此内ニ陳列シタレハ、物トシテ珍ナラサルハナリ、奇ナラサルハナシ」と。そして周遊中に万博に巡り合った喜びを「幸ニ墺国ニ万国博覧会ヲ開クニ逢ヒ、其場ニ観テ、昨日ノ目撃ヲ再検シ、未見ノ諸工産ヲ実閲シタルハ、此紀行ヲ結フニ、大ヒニ力ヲ得タリ」と表現している。さらに彼は、万博を「太平ノ戦争ニテ、開明ノ世ニ最モ要務ノ事ナレハ、深ク注意スヘキモノナリ」と高く評価する。この「太平ノ戦争」の思いは、帰国後に開催される内国勧業博覧会で結実することになる。使節団一行は6月18日にウィーンを発ち、次の目的地スイスのチューリッヒに向かった。

(5)日本の万博参加

 さて、日本政府に初めてオーストリア・ハンガリー二重帝国政府からウィーン万博(当時の呼び方では、「維納万国博覧会」)への参加の要請があったのは、明治4年2月5日(明治5年まで太陰暦)だった。その後10か月以上熟慮した上で日本政府は12月14日には参加を決定し、大隈重信参議が、「博覧会事務総裁」に任命されたが、実際の万博準備に関する事務の総責任者は「博覧会事務副総裁」の佐野常民だった(後に日本赤十字社総裁)。彼は、大隈と同じ佐賀藩出身であり、1867年のパリ万博に単独で参加した佐賀藩の代表としてすでに万博を経験していた。だが政府としての万博参加は初めての経験だったために、万博の規模、出品物の輸送方法、展示方法を把握し、有効な出品物の選定、決定をどのように行うべきか非常に苦慮したようである。(その様子は、『大日本外交文書』の中の「外国博覧会参加ニ関スル件」や「維納博覧会ニ関スル件」に詳述されている)。

 万博への出品物を各地から収集するために、明治5年1月、太政官は全国に布告を発した。万博に日本が誇る伝統的な物産・工芸品を出品し、日本の産業の水準を世界の人々に認識してもらい、それを交易すれば国益が図られるといった点を強調することで国民に各地の物産を出品するように促したのである。

 また佐野は明治5月25日に博覧会理事官に任命された機会に、太政官布告に沿って万博に参加する目的を5点にまとめ、それを関係者に徹底させることにした。ここでは万博への参加が、諸外国の優れた産業技術・文化を吸収することによって、日本の経済的・文化的発展に役立て、また貿易促進のための研究・調査を行う好機と捉えられている(これは「伝習生」=技術者による技術習得で実を結ぶことになる)。だがそれと同時にそこには国際社会の仲間入りを果たそうとする積極的な姿勢が見られる。それに加えて日本の優れた点を積極的にアピールすること、日本の製品が勝れていることを評価してもらい、それによって貿易の実を挙げることが訴えられている。

 ただし、政府が発した意欲的な布告にもかかわらず、万博の主旨が一般国民に理解できなかったために各地の物産の収集は思うに任せなかった。結局出品物は政府がすべて買い上げることで収集が進められ、11月20日までには予定の収集はすべて終わった。出品物には、伝統的に優れた工芸品を中心に手工業製品や天然資源が選ばれ、幼稚な機械製品は極力排されることになった。興味深いことに、万博顧問格のアレキサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男)の発案で「西洋の」見物人の目を引くために東洋趣味的を強調した巨大な展示物が出品されることになった。そのために用意されたのが名古屋城の天守閣の屋根に輝いていた金の鯱、東京・谷中の五重塔の雛形、直径8尺の大太鼓、2間の提灯、張りぼての実物大の鎌倉の大仏だった。これらの出品物は集積された東京湯島聖堂大成殿で一般公開されたが、これは将来の博物館設立の原型となる記念碑的イベントだった。出品物は、1873(明治6)年1月30日〔明治6年から太陽暦〕に万博関係者が乗るフランスの郵船「ファーズ」号によって横浜港から運び出され、3月21日にアドリア海に面したオーストリアのトリエステ港に着いたのである。

(以下次号)

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg.durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.25)

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木畑洋一「人類史に逆行するウクライナ侵略」掲載のお知らせ

 本研究所研究員の木畑洋一さんの「人類史に逆行するウクライナ侵略」という記事が、『しんぶん赤旗』3月10日号に掲載されました。その記事は以下のurlで見られます。

https://blog.goo.ne.jp/uo4/e/caa0aa3c2cc72604fc33876b7a9987c0

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世界史寸評
東西の狭間に落ち込むセルビア
山崎信一

 昨月来、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが世界を駆け巡っている。メディアを賑わせる難民の大群、破壊される都市の様子など、30年前の旧ユーゴスラヴィア紛争を思い起こさせる。そうした中、世界各地で、ロシアに抗議しウクライナに連帯するデモや集会が開催される中、バルカン半島の小国セルビアでは、3月初頭にロシアを支持する大きなデモが行われ、このことは日本でも報道された。そして、こちらは報道されなかったが、ウクライナとの連帯を呼びかけるデモや集会もまた、日々開かれている。ウクライナの戦争は、セルビア社会内部の分断や亀裂を可視化し、その亀裂を深めるものとして作用しているとも言える。

 戦争に対するセルビア政府の対応も、引き裂かれるセルビア社会を反映してか、必ずしも一貫したものではない。侵攻の後、長時間の国家安全保障会議の後で出された政府声明は、ウクライナの主権と領土保全を支持する一方、ヨーロッパの国としては極めて例外的に、ロシアに対する制裁を一切行わないことを述べている。その後もこうした態度は続き、国連特別総会でのロシア非難の決議には賛成する一方、ロシアに制裁を課すことなく、通商や航空便運航は維持し続けている。

 セルビア人は、親ロシア感情の強い人々だと言われる。2019年1月にプーチン大統領がセルビアを訪問した際には、ロシアとプーチンを支持する集会に予想を超える大群衆が集まった。親ロシア感情の要因として、同じスラヴ人であり同じ東方正教の文化を共有する、伝統的なものであるといった説明が良くなされるが、これは単純すぎる見方だろう。今回の戦争に関して言えば、ロシア人もウクライナ人もともにスラヴ人であり大多数は東方正教徒である。歴史に目を向けても、確かに19世紀から第一次大戦までは、ロシア帝国が当時のセルビア王国の庇護者として振る舞ってはいた。しかしその後、セルビアがユーゴスラヴィアの一部となった後、20世紀の大半の期間においては、両者が緊密な関係にあったと言うのは無理があるだろう。むしろ、セルビア人の間に親ロシア意識が広がったのは、主として21世紀に入ってからのことであると考えられる。親ロシア感情は、実際の文化的・民族的親近感から生じているというよりは、欧米に対する反感の裏返しとして現れたものと考えるべきであろう。ユーゴスラヴィア紛争における「セルビア悪玉論」への反発、コソヴォ紛争におけるNATO軍によるセルビア各地への空爆、2008年にアルバニア人が多数派を占めるコソヴォの独立を西側各国が承認したことなどにより強まった欧米諸国への反感が、親ロシアという形をとって表出したとも考えられるのである。それに際しては、2012年から政権の座にある現ヴチッチ大統領の所属するセルビア進歩党政権により、政府系メディアなどを用いた大規模な親ロシア・キャンペーンが展開されたことも重要だろう。自らの加害を含めて過去を直視するのではなく、欧米の被害者という面を強調し、それを政府への支持に繋げようとしたとも言える。

 セルビアは、EU加盟候補国として加盟交渉を進める一方で、かつて自国領であったコソヴォの独立を認めない立場から、国連安保理で拒否権を持つロシアへの接近を進めてきた。EU圏を最大の貿易相手としながら、エネルギーはロシアに依存している。一帯一路を掲げる中国への接近も図っているが、中国との関係が、どちらかと言えば通商やインフラ投資などのドライな経済的結びつきの側面が強いのに対して、人々の親ロシア意識はかなりエモーショナルなものになっており、政権としてもそれを無視できない。セルビアでは4月初めに大統領選と議会選が予定されている。親ロシア色の強い民族主義野党と親西欧野党のウクライナ戦争をめぐる分裂もあり、現職大統領と現政権の勝利が見込まれているが、問題は、いつまでこのどっち付かずの立場を維持できるかだろう。

 東西両陣営の中間でどっち付かずの国だったと言えば、かつてセルビアもその一部であった、チトー率いる社会主義時代のユーゴスラヴィアの「非同盟外交」が想起されるかもしれない。しかし当時のユーゴスラヴィアが、第三世界の国々の間でリーダーシップを取り、積極的に「非同盟」を掲げたのに対し、残念ながらセルビアは、そうした外交的なイニシアティヴを取る意思も能力も欠いている。戦争が長期化すれば、EUからはロシア制裁への同調を強く求められることになるだろう。一方で、ロシアとの対立を深めることは、国内的にも難しい。現在のセルビアには、ひたすら戦争と対立の終結を願う以上のことはできそうにない。

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世界史寸評・投稿
ウクライナ侵攻と非武装・中立
砂山清(元ジャーナリスト)

 今回のロシアのウクライナ侵攻に関連して、「非武装・中立」ということを改めて考えさせられました。

 私の意見はとても単純です。まず、戦争だけは、どんなことがあっても絶対したくないと考えます。そのための手段は、まず中立宣言をすることです。そして戦争をしないのだから軍隊は無用とすることです。では、他国から理不尽な武力攻撃を受けたらどうするか、もちろん戦争をしないのだから、ぎりぎりの外交でその攻撃をやめさせる努力をする、それでだめなら、降伏するしかないと考えます。戦争だけは絶対したくないですから。

 それで、降伏した後は、どうするか。ここが一番難しいところです。私は、ここでガンジーやマンデラに学んで、傀儡政権に対して非暴力・不服従を貫くのがいいと考えます。これは歴史の中でインドの独立や、南アフリカの人種差別撤廃で現実に実証されていることです。このような「非武装・中立」を貫くためには、日ごろから、軍備に使うお金を援助や親善や文化的交流に使っておくことが必要です。もし、ロシア(あるいは中国?)のような理不尽な国に侵略されても、国際世論が味方になるよう、外交と情報収集にお金を使っておくわけです。

 そもそも軍備による抑止力という考え方は、論理的に矛盾していると考えます。結局戦争になった場合、今回のNATO諸国のように、大国であっても軍備ではウクライナのような国を救えないわけです。またフィンランドやスウェーデンのような国は、中立宣言をしたうえで軍備をしていますが、その軍隊は何のためにあるのか分からない状況にあります。

 「非武装・中立」は幻想だという人が多いと思いますが、現に世界にはコスタリカのように「非武装・中立」を実践している国もあります。しかも米国の裏庭と言われる中米にあってコスタリカはかなりうまくやっているのです。1949年に制定されたコスタリカ憲法は、その第12条において、「恒久制度としての軍隊は廃止する」とうたいました。1982年には、モンヘ大統領によって「中立宣言」が発せられ、1987年には、中米の紛争を平和的に解決したとして、アリアス大統領はノーベル平和賞を授与されたほどです。

 ウクライナも初めから非武装で中立の宣言をしていれば、今度の戦争はなかったと思います。その点でゼレンスキー大統領は完全に読みを誤ったと考えます。そしてこれは日本の将来の安全保障を考える時、「他山の石」になると言えるのではないだろうか。

 実際に戦争が始まってしまった今、状況は困難さを深めてしまいましたが、たとえ今からでもウクライナがロシアの言うことを受け入れ、「非武装・中立」宣言をしてはどうでしょうか。ロシアがキエフを占領、ゼレンスキー大統領を追い出し傀儡政権を作ったとしても、ウクライナ国民のロシアに対する非暴力・不服従運動がある限り(これはあると私は思う)、市街戦がなくともウクライナは「ロシアのもの」にはならないでしょう。そうなれば、プーチンは何のためにウクライナ侵攻を企てたのか、ロシア国民にも説明がつかず、ロシアの厭戦気分は高まるばかりでしょう。                     

(2022年3月4日記)

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世界史寸評
ロシア・ウクライナ戦争を考える
南塚信吾

 2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、世界史という観点からみて、いろいろな問題を明らかにしていると思われる。まだメモ書き程度であるが、そのうちのいくつかを考えてみたい。

1. 戦後は「平和」だったのか?

 戦後は平和だったのに、今回は70数年ぶりにそれが破られたと考えている人が多いのではないか。しかし、戦後の大きな戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、スエズ戦争、中東戦争、ユーゴスラヴィア内戦、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などいくつもあった。多くの場合、「途上国」において「北」が戦争をして、「北」自体においては戦争はなかったのである。「冷戦」終結以後に限定しても、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などが続いているわけである。今回はその「北」で戦争がおきて、世界がショックを受けているのである(なお、1956年のハンガリーと1968年のチェコスロヴァキアの場合は軍事介入だが、戦争にはならなかった。また、アフリカやラテンアメリカではもっと多くの「内戦」と言われる戦争があり、ユーゴスラヴィアでも「内戦」があったが、「北」が直接前面に出ることはなかった)。このように、世界的に見て、戦争は地域を移しながら、絶えず続いているのである。なぜ、このような戦争が続いているのか。

2. 戦争理由について

(1) NATOの東方拡大

 今回、NATOの東方拡大への反発がロシアの開戦理由だと考えられている。もともとは米ソ「冷戦」のための同盟であったNATOが、「冷戦」後も残った。それが、旧東欧諸国やバルト三国にも拡大した。それはしだいにロシアへの牽制という意味を持つようになった。NATOの「インフラ」を持つ国ウクライナが隣接するのは、ロシアにとって脅威である。それを取り除きたいと、外交交渉は続けられていたが、成果が出ない。それゆえ武力に頼ったというわけである。しかし、NATOの東方拡大自体は、戦争目的にはならない。それにはマイノリティ問題を使う必要があった。

(2) マイノリティ問題

 国民国家の中のマイノリティが戦争と侵略のために使われた。今回はドネツクとルガンスクのロシア人問題が使われた。しかしこれは世界史上新しい事ではない。世界史的には、ナチスによるズデーテン問題、コソヴォ問題、チェチェン人、イラク・シリア・トルコのクルド人問題の利用など、いくつも上げる事ができる。

3. 新自由主義の拡大

 では、NATOの東方拡大とは何か。その背景にあるものは何か。それは新自由主義の拡大に他ならない。アメリカが主導する新自由主義の世界的支配拡大が、ヨーロッパではNATOの拡大として現れている。1980年代(レーガン、サッチャー、中曽根の時代)から目立って広がり始めた新自由主義は、90年前後には旧ソ連圏を崩壊させる重要な要因となったが、「冷戦」終結後は、東欧諸国、バルト三国、そして、アフガニスタン、イラク、リビアなどを飲み込んでいった(シリアはその間際にあり、アフガニスタンでは揺れ戻しが見られる)。その過程で、上に見たように、いくつもの戦争が次々と起きたのである。新自由主義は、経済面での規制緩和、民営化、市場化、政治的には小さな国家(軍備は別として、福祉の縮小など)や米欧型の「民主主義」など、資本の徹底した自由を支える環境を要求する。このような新自由主義の波が今回はウクライナに迫ったのである。NATOはこういう新自由主義を支える同盟なのである。それに対するロシアの反発が今回の戦争の根本原因である。この点では、ロシアに共感する国は他にも多々あり得る(だからと言って、ロシアの軍事進攻を良しとするものではない)。

4. 大国に接する小国の「リアリズム」

 1956年、ソ連の第20回党大会ののち、ポーランドとハンガリーにおいて、社会主義の改革を求めて暴動と政変が起きた。この時、ポーランドのゴムウカはソ連に改革を認めさせるために、「中立」や「複数政党制」を封印して、ソ連の軍事介入をさせなかった。一方のハンガリーのナジは、「複数政党制」のみならず、「中立」をも表明して、ソ連の軍事介入を招いた。1968年のチェコスロヴァキアにおける「プラハの春」の場合も、ドプチェクらの改革派は、下からの民衆組織の結成を認めて、ソ連などの軍事介入を招いた。大国に接する小国の指導者には、冷静な現実感覚(リアリズム)が求められる。そのよい例は、フィンランドである。ロシア、そしてソ連、またロシアという大国に隣接して、それに屈服するのでもなく、敵対するのでもなく、存在意義を認めさせてきている。ウクライナのゼレンスキーに求められるのはこうした小国のリアリズムではなかったか。一方的にNATOやEUに頼るという政策ははたしてリアリズムであったのだろうか。

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「世界史の眼」No.24(2022年3月)

「世界史の眼」3月号では、小谷汪之さんに、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)」を寄稿して頂きました。「(下)」は4月号に掲載します。また今号より、南塚信吾さんによる、「「万国史」における東ヨーロッパ 」の連載が始まります。今後、随時掲載してまいります。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ I-(1)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その1)

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(1)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その1)
南塚信吾

はじめに

 明治期には、欧米で書かれた世界史を翻訳・紹介した「万国史」がつぎつぎと出版され、それが日本にとって国外の情勢を知る重要な情報源となっていた。「万国史」というべき歴史書は、明治初期から日露戦争前までほとんど毎年と言っていいほどに出版され、合計30篇ほどが出されている[1]。その中で、ヨーロッパの東の部分についても、われわれが驚くほど多くの情報が入っている。

 明治期の「万国史」を見ると、今日「東ヨーロッパ」と考えられている地域の歴史は、西欧と線引きされ区別されることなく扱われている。しかもその扱われかたは、明治期の中でも少しずつ違ってきているようである。時々の日本の実践的問題に即して東ヨーロッパの違った地域に強い関心が向けられてきている。そして、一定の時期から「東ヨーロッパ」というまとまりで考えられるようになるのである。

 では、「万国史」において、ヨーロッパの東部の歴史はどのように扱われ、その扱われ方はどのように変化し、いつから「東ヨーロッパ」としてまとめて考えられるようになったのか。当時の日本の人々の世界史像の中で、「東ヨーロッパ史」はどういう位置を占めていたのだろうか[2]

 考えてみれば、「東ヨーロッパ」の扱われ方だけを限定して検討することにどういう意味があるのだろうかという疑問も出るはずである。それぞれの「万国史」の全体的特徴を論ずべきではないか。もちろんそうである。しかし、今回は、それぞれの「万国史」の全体的特徴を明らかにするためにも、あえて筆者が多少とも専門にしてきた「東ヨーロッパ」に限定して、そこから全体を見直す視点を探りたい。

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

 江戸期に比べ明治期に入って世界への日本の関心は急速に拡大した。「開国」した日本は世界の中のどこへ行くべきか、必死の模索が続いたのである。明治の初期には、世界への関心はどこかに集中して向けられていたというよりも、まさにグローバルに世界各地に向けられていた。そこに「万国史」の必要性があった。

 知られるかぎりで、「万国史」と名のついた最も早い書は、西村茂樹『万国史略』1869年(明治2年)であろう。西村の『万国史略』はスコットランドのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の1866年版の翻訳であるが、序論と古代ギリシア史までしか訳されていない。序論は歴史学の方法などを論じていて、レベルの高い書であったが、本論としてはローマ帝国までしか訳されなかった。したがってここでは本書は取上げない。

 明治政府のもとで文部省が設置されたのは、1871年(明治4年)であった。そして、1872年(明治5年)に学制が発布され、新しい学校制度が発足した。これに合わせるように、明治4年から8年にかけて、文部省を中心にした人々によって「万国史」と言うべき書が出されていた。それは、寺内章明訳編『五洲紀事』、文部省篇『史略』、師範学校編『万国史略』、田中義廉『万国史略』、牧山耕平訳『巴来(パーレイ)万国史』であった。それらは、寺内が抄訳し牧山が完訳したアメリカのグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本を何らかの形で参考にしたものであった。原書はSamuel Griswold Goodrich(Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)である。パーレイの本は、幕末には日本に入っていたようで、1867(慶応3)年に、福澤諭吉が軍艦受け取りの使節として再びアメリカへ出かけた時、パーレイの「万国史」も購入してきているという。明治の初期にはパーレイの本を中心に日本の世界史認識が始まったものと言うことができる。

 では、それらにおいてヨーロッパの東部はどのように紹介されていたのだろうか。

1. 寺内章明訳編『五洲紀事』紀伊国屋源兵衛 明治4年(1871年)

 この本は「万国史」とは称していないが、内容は「万国史」そのものであった。「五洲」というのは、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアの五つの「洲」という意味である。これはグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本[3]などに拠りつつ、「他書」をも参照しながらまとめられたものである。パーレイの本は、なお聖書的な要素を残すとはいえ、気球で地球を回るような世界史で、ヨーロッパに偏ってはいなかった。アジアからオセアニアまでを回りながら、各地、各国の歴史(寺内はまだ「歴史」という言葉を使っていなくて、単に「史」と言っている)を縦に述べて、それを並べたものであった。

 寺内章明の訳した『五洲紀事』は、亜細亜洲や阿非理加(アフリカ)洲については十分なページを割いていたので、その点は注目すべきであるが、パーレイの原著のように徹底して世界地理をなぞるように全洲をめぐっているわけではなく、アメリカとオセアニアは扱っていなかった。その分、欧羅巴は詳しかった。では、そこではヨーロッパの東部はどのように描かれていたのだろうか。

 ヨーロッパ洲は、
  巻三 希臘紀
  巻四 羅馬(法王国、以太利諸国)(附 拿破里(ナプルス)、威内薩(ウエニス)、熱那(ビノア)、撒丁(サルデニア)、多加納(トスカニー)
  巻五 土耳其トルコ紀、西班牙・葡萄牙紀、仏蘭西紀
  巻六 日耳曼・墺太利・普魯士・瑞西紀(附 匈牙利ハンガリー)、魯西亜紀(附 波蘭ポーランド)、嗹馬デンマーク瑞典スウェーデン諾威紀ノルウェー、和蘭・比利時紀、英吉利紀
という構成であった。それぞれが、古い時代(上古)から近年まで国ごとに縦に歴史が述べられる形式をとっていた。ヨーロッパは東西の区別なく、国ごとの構成であった。

 ヨーロッパ東部では、希臘と匈牙利と波蘭がくわしく扱われていた。

 ギリシアについては、古代希臘の歴史にはじまって近代まで書かれていて、その最後に希臘の独立が扱われている。そこでは、土耳古に400年間「奴隷」の如く制馭されていた希臘の「人民」が、1821年から「大義を唱へ兵を挙げ」、英仏露の応援を受けて、1829年に「独立」国となったことが書かれている。ギリシアの独立は注目すべき出来事であったようである(巻三―50)。このギリシア独立の経緯は今日においても通用する記述である。  

 用語に注目すると、すでに「独立」という言葉が使われていたが、この時、ギリシアは独立ではなく、自治国となったのである。『五洲紀事』では「人民」は国民の意味でも、民衆の意味でも使われている。ちなみに、『五洲紀事』は佛国「革命」や「民権」という概念も使っている。

 ハンガリーの歴史は日耳曼・墺太利・普魯士の歴史の「附」として扱われている。そしてまとまった項が設けられていて、そこにはこのように出てくる(巻六の三と六)。

 「人種は許多の野民に成りて元より一ならずと雖も、其の祖先実は匈奴種に出で、上古亜細亜の北辺より漸次(しだい)にアルタイ山を超えて移り住せしものなり。蓋し紀元450年代匈奴の酋長阿的拉(アットラ)汗・・・欧州の内地に縦横し、嘗て東羅馬を脅して其歳貢を要し、更に以太利に入て殆ど西羅馬を陥るに及び、偶々(たまたま)病で路に死し、是より其の種人永く此の地に止まり、匈牙利と号して、常に抄掠を事とし、風俗強悍にして、久しく王国に昇らざりしが、紀元一千年代に至り、士提反(ステフェン)始て王位に即き、爾後数百年間頗る強威の一国と称せられしに、紀元一千五百六十年代、終に墺太利に併せらる。」(巻六の一三)

 ハンガリー人を匈奴の末裔とし、アッティラの子孫が匈牙利国を建てたとしているのは困りものだが、明治期の「万国史」にはしばらくはこういう理解が続くことになる。匈牙利が1560年代に墺太利に併合というのは誤りである。それにオスマン帝国が出てこないことが問題であろう。ちなみに江戸時代には、「翁加里亜(おんかりあ)」と言われていたが、この寺内から「匈奴」に由来するとして「匈牙利」が使われ、明治期をとおして、これが使われることになる。

 用語としては、『五洲紀事』では、すでにraceの訳語として「人種」という概念が使われていることに注目しておきたい。この時期に日本では「人種」はどのような意味で使われていたのか、調べる必要がある。ヨーロッパではThomas Keightley, D. Lardner’s Cabinet Cyclopedia: Outline of History, London, 1830.などは人種から論じ始めていたが、これは邦訳されていない。しかし、いわゆる人種論が出るのは、ダーウィン以降、1870年代である。

 ポーランドは、魯西亜紀の「附」として扱われている。そこではこう書かれている。

 「昔は甚だ富強の一国なりしが、千七百七十二年魯普墺の三国と戦て利あらず。土壌一旦之れが為めに削られ、同く九十五年再兵を其の兵を被り、当時人民皆死力を殫(つく)して、此と相争ひしと雖も、衆寡勢を殊にするを以て、遂に其の自主を立ること能はず。全く其の兼併する所となれり。此より国人皆魯西亜の暴政に軋せられ」た。(巻六の二十)

 ハンガリーに比べて、やや迫力がないが、いわゆるポーランド分割は明治期の日本人の強い関心を引いていたテーマであった。なお、魯西亜との関係で、セルビア人やブルガリア人やルーマニア人などが出て来ることはなかった。ギリシアの時と同じく「人民」の目線を持っていたことに注目しておきたい。「国人」はこの「人民」と同義で使われているようである。

 こういう具合に、ヨーロッパの東部では、ギリシアとハンガリーとポーランドが主に出て来るテーマであった。このような記述がしばらく受け継がれていく。アメリカのパーレイにとっても、日本にとっても、ギリシアは「独立」を獲得した例として、ポーランドは「独立」を失った例として、ハンガリーはヨーロッパを「攪乱」したアジア人として関心があったのであろう。ただ、パーレイの原書ではオーストリアの記述の中で、ボヘミアにも軽く触れられていて、そこは鉱山に富んで豊かな国だとしつつも、その住民の多くは「ユダヤ」で、「ジプシー」もたくさんいると記してあるが、この部分は訳されていなかった。

(続く)


[1] 「万国史」に関する主な研究は、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成―「万国史」教科書の分析を通して」増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年、p.185-203;南塚「近代日本の「万国史」」秋田茂他編『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房、2016年;岡崎勝世「日本における世界史教育の歴史(I-1)―「普遍史型万国史」の時代―」『埼玉大学紀要 教養学部』第51巻(第2号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-2)―「文明史型万国史」の時代 1―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第1号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-3)―「文明史型万国史」の時代 2―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第2号)2017年。

[2] このテーマについては、筆者は2012年1月に千葉実年大学にて講義をしたことがあるが、文章にしていなかった。その後の知見もあり、改めて文章化しておきたい。

[3] Samuel Griswold Goodrich (Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)の1871年版によったと寺内は書いている。

(「世界史の眼」No.24)

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『神川松子・西川末三と測機舎―日本初の生産協同組合の誕生』が「週刊読書人」にて書評されました

「週刊読書人」2022年2月11日号にて、南塚信吾編著『神川松子・西川末三と測機舎―日本初の生産協同組合の誕生』(アルファーベータブックス、2021年11月)が書評されました。ぜひお手に取ってご覧下さい。書籍に関して詳しくは、こちらをご覧下さい。

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「世界史の眼」No.23(2022年2月)

「世界史の眼」23号をお届けします。今号では、岩波書店から刊行の始まった「岩波講座 世界歴史」のシリーズの第1巻『岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か』を取り上げ、世界史研究所で行った 書評「座談会」の記録を掲載します。

岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か 書評「座談会」

『岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か』(岩波書店、2021年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、シリーズ全体の紹介ページは、こちらです。

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岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か 書評「座談会」

2021年11月20日 14時〜16時 於:世界史研究所(渋谷)

参加者:渡邊(進行)、南塚、小谷、藤田、木畑(「講座」編集委員、オブザーバー)、山崎(記録・構成)

はじめに

 2021年10月から『岩波講座 世界歴史』(岩波書店)全24巻が刊行開始になりました。世界史研究所では、2021年10月に出版された『岩波講座 世界歴史』第一巻が、この講座全体の性格を表すものになっているのではないかと考え、11月20日に座談会形式で、その合評会を開きました。ここにその成果を公表し、皆さんが世界史を考えるうえでのご参考に供したいと考えます。

1. 講座全体の編集方針と構成

渡邊:「座談会」を始めたいと思います。最初に、この講座の「本講座の編集方針と構成について」を南塚さんに確認し評価していただき、それに基づいて討論を行います。次に、本講座の出発点に立つ重要な論文である小川幸司さんの「展望」論文「〈私たち〉の世界史へ」に関して、小谷さんと南塚さんに報告をいただき、議論します。その後、「問題群」論文から、「世界史のなかで変動する地域と生活世界(西山暁義)」(報告者:山崎)と「現代歴史学と世界史認識(長谷川貴彦)」(報告者:南塚)を取り上げ、討論します。「焦点」論文からは、「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解(吉岡潤)」(報告者:山崎)、「東アジアの歴史認識対立と対話への道(笠原十九司)」(報告者:小谷)、「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る(勝山元照)」(報告者:藤田)の3論文を取り上げ、「焦点」論文としての価値と評価をまとめて行います。

 まず南塚さんに、新しい「岩波講座 世界歴史」の位置付けに関して、まとめて頂きたいと思います。

南塚:いよいよ2021年から岩波の世界史講座としては第三シリーズが始まります。そこで、過去の講座を踏まえて本講座はどのように位置づけられているのだろうかが気になります。「本講座の編集方針と構成について」によると、こうです。高度経済成長と冷戦のさなか、1969年から出た第一シリーズは、古代・中世・近代・現代に時代区分し、ヨーロッパがモデルとされていました。冷戦終結後、地域紛争、先進国の経済的行き詰まりのなかで1997年から出た第二シリーズは、古代・中世・・・という時代区分を放棄し、地域の通時的記述と時代の特徴を共時的・地域横断的にとらえる記述を併存させたほか、アジア、中東の歴史を充実させていた、ということです。

 では、第三シリーズはどう位置付けられているのでしょうか。1997年からの四半世紀に何が変わったと見ているのでしょうか。「編集方針と構成」によると、それは三つあって、①史料の多様性と歴史像の解釈の問題、新しい史料読解、②グローバル・ヒストリーつまり世界の各地域の構造的なつながりを描く歴史、世界の構造的な把握、③歴史諸概念の構築性であるといいます。

 こういう位置づけの元に、第三シリーズの[編集方針]として、以下の諸点が挙げられています。それは、

a) グローバル・ヒストリーなど世界の構造的把握を重視すること。だから地域から見た歴史も「世界史」としての展望を持つこと。

b) アフリカ、オセアニアへの目配りを厚くすること。

c) ジェンダー、文化、マイノリティへの配慮を重視すること。

d) 日本列島で紡がれてきた歴史を「世界史」とのつながりから捉えなおすこと。

以上です。前の二シリーズとの大きな違いは、「世界史」ということが前面に出ていることだと思います。

 このような[編集方針]は極めて妥当なものと考えます。その上で、先ほど見た③の構築性の指摘などを考えつつ、いくつかの懸念をあげるならばこのようなものがあげられます。

1)ポストモダン、ポストコロニアルなどにどう対応して、世界史にするのだろうか。グローバル・ヒストリーはそれとどうつながるのだろうか。

2)「世界史」を「日本史」と区別して考えているのではないだろうか。

3)相互の連携をあまり考えない独立の論稿の集まりにならないだろうか。

4)高校の生徒、社会人に分かるように表現できるだろうか。

などです。本シリーズはこういう懸念にどうこたえるのでしょうか、興味深いものがあります。

渡邊:南塚さんの当てた焦点を踏まえ、皆さん、いかがでしょうか。

藤田:これらの点は、個々の論文を見ても感じる点です。この第三シリーズをこの方針で進めるという、最初のメッセージになっているのだと思います。これからどのように展開してゆくのでしょうか。紙幅が限られていることもありますが、内容が抽象的で難しさも感じます。これを歴史教育でどう展開し、活かしてゆくのかには、期待と不安、可能性と課題を感じます。

渡邊:この講座の編集委員を務めている木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:誰をターゲットにするか、誰に読んで欲しいかという点に関してですが、歴史教育を意識していることは確かですが、「高校生が読めるように」とまでは考えていません。もちろん高校の教員はターゲットです。「歴史総合」が開始されることもあって、編集委員にも高校の先生に中心的に加わってもらっています。

小谷:「すべての人に大学の授業のような研究の最前線を届けるという「岩波講座」の原点を大切にし」(vi頁)とある中には、高校生までは入らないわけですか。

木畑:次のところに「高等学校をはじめとする歴史教育や市民の皆さんの歴史探究にも参考となるような編集を意識しました」(vi頁)とあるように、高校の歴史教育の受け手である高校生を対象とするわけではありません。それが明示されているわけではないですが。もちろん、これを読める高校生もいると思いますが、全体として対象にしているわけではありません。

渡邊:この点は、読んでいて気になる点です。高校生に読ませるものではなく、高校で歴史教育を担う先生方に読んで欲しいというものだと思うのですが、この点をもう少し強調してあればと思います。学者や大学生だけのためのものではなく、高校の歴史教育に役立つものであるということです。これは重要な点だと思います。

南塚:私たちはこれまで、『歴史的に考えるとはどういうことか』(ミネルヴァ書房)やシリーズ『日本の中の世界史』(岩波書店)などを、高校生にも読んでほしいと考えながら作ってきました。それで、私も「高校生も対象に」と考えたのです。この点、案外難しいですね。

小谷:新講座の位置付けに関する文章ですが、第一巻のような理論的な巻と、各時代・地域別の巻とをすべてまとめて議論しようとしているのですから、無理があるのだろうと思います。グローバル・ヒストリーを重視すると言っても、紀元前5000年にグローバル・ヒストリーを論じることは難しいでしょう。全体をカバーするのは難しいことです。「ポストモダン」と言っても、古代や中世の実証的歴史研究者はほとんど意識していないと思います。史料批判に関しては、史料の構築性がある以上、あり得る点だと思いますが、紀元前の時代の巻で「ポストコロニアル」は論じられないでしょう。この文章自体は、新講座全巻をカバーする総論ではなく、第一巻に適合するものだろうと思います。

2. 「展望」論文

渡邊:それを踏まえての「展望」論文ですが、まず小谷さんお願いします。

小谷:小川論考には、「一、一人ひとりの世界史」と、その後の「二、世界史実践の軌跡をたどる」、「三、日本の世界史実践とその課題」との間に大きな理論的断絶があると思います。まず1で前半部を取り上げ、後半部については2で検討します。

1「一、一人ひとりの世界史」に関して

 小川論考前半部の意図は、歴史学習運動が、歴史研究者の書いたもの(典型的例として、遠山茂樹他『昭和史』。比較的近年の例としては色川大吉らの「五日市憲法草案」)を学ぶというスタイルになりがちなのを否定し、歴史研究者も一般の人々も本質的には同じ「世界史実践」を行っているのだということを主張するということでしょう。歴史研究者の「特権性」の否定とも言えます。ただ、ちょっと無理があるように思います。

(1)「世界に向き合う世界史」とは?

 小川さんは、2011年3月に起こった東日本大震災・福島原発事故の際の消防士たちの「ことば」の中に、「世界に向き合う世界史」実践の例を見ています。

(a)「(原子炉が)爆発しました。世紀末みたいになっていますよ」(4頁)。

(b)(爆発した原子炉への出動について)「これでは特攻隊と同じではないか」(4頁)。

 そして小川さんは次のように言っています。「歴史実践とは、時間軸を意識して他者と自分との関係を考えることであるとすれば、(中略)歴史実践とは『世界史実践』と言い換えることもできよう」(6頁)、「フクシマの原発事故の中で必死に活動を続けた消防士たちがそうであったように、人は自分の置かれている状況や自分の進むべき道を考える際、この世界に生きた『過去』の人々や時代のありようを参照する。(中略)消防士たちも(中略)『世界と向き合う世界史』を実践しているのである」(6頁)。しかし、「世紀末」ということばを「この世の終わり」といった意味で使う非歴史的用法や、ステレオタイプ化した「特攻隊」イメージといったものをとおして、「世界に向き合う世界史」実践ができるのでしょうか?

(2)歴史学(「世界史実践」)の「六層構造」(13-14頁)

 ①【歴史実証】(「問題設定に関わる『事実の探求』」)

 ②【歴史解釈】(「問題設定に関わる仮説を構築」)

 ③【歴史批評】(その歴史解釈の「意味の探求」)

 ④【歴史叙述】(歴史解釈や歴史批評を表現する「叙述の探求」)

 ⑤【歴史対話】(他者の歴史解釈や歴史批評との間の対話)

 ⑥【歴史創造】(「自らが歴史主体として生きることにより、『行為の探求』を行う」)

 小川さんは「世界史実践の六層構造とは、歴史家だけでなく人々の営みにも多かれ少なかれ共通する」と言っています(14頁)。これについては、以下の二つの疑問をもちました。

(a)この「世界史実践の六層構造」と「世界に向き合う世界史」とはどう関係するのでしょうか?例えば、爆発した原子炉への出動を「特攻隊のようなものだ」と捉えた消防士は「世界史実践の六層構造」を実践しているのでしょうか?

(b)このような作業(手続き)を高校歴史教育の場にも求めるのでしょうか?

 小川さんは次のように言っています。「高校の歴史教師である私(小川)自身は、史料を読み解きながら歴史実証・歴史批評の作業を自覚的に授業で示すとともに、生徒の歴史批評を互いに交流するようにし、その授業の内容を一般市民に公開してきた」(64頁)。とすると、小川さんは生徒には「歴史批評」だけを求めているのでしょうか?しかし、「六層構造」のうち、「歴史批評」のみを行うということは可能なのでしょうか?

2「二、世界史実践の軌跡をたどる」、「三、日本の世界史実践とその課題」について

 小川さんはここでも「世界史実践」ということばを使っていますが、端的に言えば学説史ということでしょう。「二、世界史実践の軌跡をたどる」では、歴史記述の淵源をメソポタミヤの「王名表」に求め、古典期ギリシャのヘロドトスやトゥキュディデスなどから、中世のアウグスティヌスなどまで辿っています。その後、キリスト教会的な「普遍史」を批判する歴史記述の登場に言及し、19世紀ヨーロッパのランケやマルクスを取り上げています。20世紀に関しては、主として、フランスのアナール派の歴史家たちを取りあげています。 

 他方、「三、日本の世界史実践とその課題」においては、幕末・維新期の国家的・民族的危機に遭遇して、魏源の『海国図誌』が日本で翻刻されて広く読まれたり、福沢諭吉の『西洋事情』などが歓迎されたことに注意を向けています。それから、リースが(東京)帝国大学の史学科に招聘されたことから、ランケ流の実証史学が広がっていったことが指摘されています。ただ、その次に直ちに鈴木成高や羽仁五郎の名前が出てくるのには、若干の違和感があります。戦後については、大塚久雄に「戦後歴史学」を代表させ、1970年代、80年代以降の歴史学を「現代歴史学」として、「戦後歴史学」から区別しています。その「現代歴史学」の重要な潮流として、具体的には網野善彦、二宮宏之、良知力などのいわゆる「社会史」の業績が取りあげられています。その他の「現代歴史学」の特徴としては、グローバル・ヒストリー、「生命環境」の歴史、歴史の構築性、世界史教育の改革、記憶と歴史をめぐる問題、が挙げられています。

 この「三、日本の世界史実践とその課題」で注目されることは上原専禄他『日本国民の世界史』(岩波書店、1960年)が詳しく論評されていることです。小川さんも書いているように、この本はもともとは高校世界史教科書用に書かれたものなのですが、教科書検定で不合格となったために、一般書として刊行されたのです。したがって、内容的には高校生でも理解できるはずの本です。この本の冒頭に置かれた「世界史を学ぶために」という序論的文章(上原専禄執筆と思われる)には、次のようなきわめて重要な指摘があります。

 今までみてきたように、創造的意味において世界史を学ぶためには、実際上の仕方として、どうすればよいのであろうか。それには、現代の日本国民たるわれわれ自身の現実の問題意識と生活意識に基づいて、世界史像を実際に描きあげる努力を試みるほかない。世界史像を描きあげるというのは、もとより本書のような世界史を書くことだけではない。脳裏に人類生活の歩みとあり方をいきいきと構想することもまた、世界史像の創造的構成と呼ばれてよい。この「世界史」の編者たちは、本書を編述するという仕方で、世界史を学ぼうとした。本書を手がかりとして、初めて世界史を学ぼうとする者は、本書の構成を一つの見本として、自分自身の世界史像を描きあげるように努力すべきである。(『日本国民の世界史』5頁)

 ここに書かれていることは、今日の歴史教育が追い求めている方向と全く同じといってもよいのではないでしょうか。それだけに、『日本国民の世界史』を詳しく検討した小川さんがこの部分に触れていないのはちょっと不思議な感じがします。

渡邊:続いて南塚さんお願いします。

南塚:この論文は、歴史の方法論から論じ、歴史とはなにかという根底から考えて、世界史とは何かを考えようとしているようです。それはよくわかります。しかし、いくつか重要な疑問があります。

 まず、大きな問題を考えてみます。

 一つには、ここで言われる歴史実践がそのまま世界史実践になるのかが、よくわかりません。歴史実践はたとえば郷土史や一国史の実践にとどまってしまうのではないか、世界史実践になる保証はないのではないかという疑問があります。また、小谷さんの言うように、歴史実践の六つの局面は、行論では、その後の議論に無関係ではないかと思われます。どのように生かされているのでしょうか。

 二つには、「世界と向き合う世界史」と「世界のつながりを考える世界史」の区別を強調していますが、後者は分かるとして、前者はどういうことなのか、よくわかりません。これは小谷さんと同じだと思います。また、「過去からの世界史」と「未来への世界史」を区別していますが、このような区別はどういう意味があるのでしょうか。われわれはE.H.カーに倣って、過去と現在と未来を相互に関連するものと考えてきているので、こういう分け方は理解できないところです。

 結局、この論文は「〈私たち〉の世界史へ」というけれど、この著者の「世界」や「世界史」とは何だろうと思わされます。要するに自分の外の生と社会を「世界」と言っているのではないかと思われます。それでいいのでしょうか。

 つぎに、個別的な問題を取り上げてみます。いろいろある中で、主なものをあげてみると、こういう点があります。

 ①ヨーロッパでの世界史実践を考える時、ヴィーコやヘルダー、あるいは啓蒙主義やヴォルテールを抜きでいいのでしょうか。最近はこのあたりの見直しが進んでいるのはないかと思うのです。

 ②ヨーロッパの世界史実践を考える時アナールで終わっているわけですが、アナールは歴史の方法としては重要な問題を提起しているとしても、実際に世界史を書いてはいないわけですし、アナールとは別に実際に世界史を論じたE.H.カーやE.ホブズボウムやマクニールやC.A.ベイリをどう見るのでしょうか。

 ③日本での世界史実践を考える時、上原専禄の見方はもっときちんと考えるべきではないでしょうか。つまり、『世界史像の新形成』(1955年)などにおいて「ヨーロッパ中心」を批判するための基本的な問題をかれは提起しているので、それを無視はできないのではないでしょうか。

 ④この論文での江口朴郎の見方が疑問です。江口が世界史の「構造」を重視していたと見ているけど、それは江口が一番嫌った概念ではないでしょうか。むしろ、「運動」という見方が必要なのではないかと思います。江口の見方をローザ・ルクセンブルクの帝国主義の考えに近いと言っていますが、江口が最も重視していたのは、レーニンであり、彼の『社会民主主義の二つの戦術』のような考え方なのではないでしょうか。

 最後にまとめ的に言うならば、結局この論文は、前半では、世界史実践の教育的方法を説き、後半では、これまでの日本内外での世界史実践の方法を整理しているのですが、前半と後半の有機的な関係がよくわからないし、後半についても、欧米の世界史論の理論的推移をある程度フォローしていても、世界史実践の成果は扱っていないのです。それらが、「私の」世界史ではなかったというのなら、そういう議論をしてほしかった。また、この論文は、高校生は別としても、社会人は理解できるのだろうかという疑問も残りました。

渡邊:シリーズ巻頭の論文として、編集委員内部ではどのような議論があったのでしょうか。木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:「本講座の編集方針と構成について」とは異なり、この「展望」論文を編集委員全体で議論することはありませんでした。第一巻の巻頭にあることを考慮すれば、そうした機会があっても良かったかもしれません。小川さん自身は、経験の豊富な高校の教師であり、彼の今までの教育実践が詰まっていることは確かだと思います。

小谷:小川さんは、遅塚忠躬さん、西川正雄さんの影響を受けているのですね。やはり西洋中心主義的な感じが強くします。

木畑:「六層構造」の議論も、遅塚さんの議論を踏まえてのものです。小川さんは以前からこの議論をしています。ではそれをどう実践するのかですが、勝山さんの論文を見ると、それをどう実践しているのかが見えてきます。教育現場でどう具体的に生かすのかにはそれぞれの違いがあるでしょうが。

3.「問題群」論文

渡邊:勝山論文に関しては、別途検討しましょう。では、次に「問題群」論文に入ります。まず、山崎さんに、西山暁義さんの「世界史のなかで変動する地域と生活世界」を取り上げてもらいます。

山崎:この論文は、主に歴史を論じるにあたっての「地域」を取り上げています。出発点となっているのは、今まで、空間的区分とその歴史性が十分に認識されて来たとは言い難いという点、またナショナル・ヒストリーが依然力を持ち、また根強い「方法論的ナショナリズム」が存在しているという点、その一方で、トランスナショナル・ヒストリー、グローバル・ヒストリーからの「地域」の問い直し、「n地域論」、空間の変容とその相互関係への関心といった新たな動きが見えてきている点だと思われます。そして、「境界」、内部構造の重層性、地域相互の連関の三つの課題を設定し、それぞれに対して具体的な個別研究を挙げながら提示しています。

 議論が多岐にわたっているため、すべてをフォローするのは難しいのですが、地域自体の歴史性、「地域認識」のダイナミズムに目を向けることの重要性は、十分理解できます。ただ、やはり取り上げられる議論の事例は、ヨーロッパのもの(及び一部東アジアのもの)です。例えば「国民への無関心」論が、ヨーロッパ世界の外にどれだけ敷衍できるのか、という点には疑問も持ちました。また、タイトルにある「生活世界」の具体的な形やその変容などは、あまり見えない気がしました。また、近代以降、そして21世紀の生活空間の広域性、多義性(例えば領域を持たないコミュニティの存在)はどのように理解すべきでしょうか。

渡邊:いかがでしょうか。

藤田:地域に非常に多様な形があり、それが可視化できている現在における議論としての面白さが一つあります。しかし同時に、なぜ今、これだけ多様な地域が可視化されているのかということが気になりました。「国民への無関心」のような議論を過去に遡って確認することはできるわけですが、それが今どうなっているのかということです。ユーゴスラヴィアの民族分断や東欧の反動や民族の衝突を前にすると、国民国家に収まらない豊かな地域が、どうして今大きく取り上げられるのだろうと感じます。ここでのさまざまな地域の豊かな提示というのは、すべて、国民国家という枠の中に収まる地域であるような気がします。すると、国民国家という枠を突破する、国民国家とぶつかり合うという局面での地域の展開はどうなのかということに関心が向くのです。現在の地域形成が国民国家や権力との対抗の中でどう進むのかということ、地域が形成されるプロセスがどういうものかということに、私は関心があります。著者は板垣さんの「n地域論」を大きく取り上げています。「本来、帝国主義における支配・抑圧を重層的に把握するための「操作概念」であり」(116頁)としていますが、私は、これは誤解ではないかと思います。板垣さんの「n地域」という理論は、運動論の中での議論として提示されたものだと思います。つまり、「n地域」がどうできるかを捉えるためのものではなく、一つのアイデンティティを持つひとりの人間が、危機的事態の中、新たなアイデンティティをどう作るのかという、状況が流動的な中でのアイデンティティ形成を論じるための概念だと思います。つまり、「n地域論」は、運動を捉えるためのものだと思います。山室信一の「国民帝国」論について、「敗戦と植民地喪失によって崩壊するものとしてだけではなく、その形態ゆえに被支配地域が独立するにあたって国民国家という形態を採らざるを得なかった」(134頁)と言い、それに「n地域論」が当てはまるとしていますが、これも少し違うのではないかと思います。旧帝国の崩壊と、中国、朝鮮、台湾などの国民国家の形成は、旧帝国と繋がっていたような地元の権力者や支配層が国民国家を求めているということであり、それは民衆の意向とは必ずしも重ならないということだと思います。民衆の中には、こうした「n地域」的な民族形成がもっと豊かにあったのではないでしょうか。

 豊かな地域像を提供する論文ですが、一方で権力との対抗における地域の持つ意味に関しては議論から抜け落ちていると思いました。そして、「生活空間」としてどう広がっているのかが見えないという指摘がありましたが、この点がもっとも重要だと思います。寄せ場や路上生活者の存在は、従来の形でアイデンティティを描けない人々が存在することを示しています。そうした人々、国民国家に重ならない人々の生活圏を、改めて「地域」の議論の中でどう捉えるのか、これは重要な問題だと思います。

南塚:国民国家の枠だけでは世界の歴史は語れないのだというそれぞれの論点は理解できますが、世界史として見た場合、どうなのでしょうか。著者は、世界史に一定の動きがあるから、それが地域という実体を変容させてゆくのだと言いたいのでしょうね。でもそれは明示されていないのではないかな。さらに逆に、変容する地域から見た「世界史」はどのようなものなのだろうという疑問も湧きます。こういう点が、「講座 世界歴史」の論文として求められているのではないでしょうか。

渡邊:続いて、南塚さんに、長谷川貴彦さんの「現代歴史学と世界史認識」を取り上げてもらいます。

南塚:この論文は、おもに20世紀に入ってから「現代歴史学」の展開した欧米における歴史学・世界史の「作法」=方法を時代別に整理し紹介しています。

 まず「現代歴史学」に至る前に、19世紀には、①政治史の方法による世界史がランケなどによって構成され、②経済史や社会史による世界史がマルクス主義や近代化論によって構想されたとまとめ、ついで「現代歴史学」においては、世界史をめぐる「作法」は以下のように展開してきたと整理しています。

 ③ポストモダンの言語論的・文化論的転回は、「個別の断片化したミクロでローカルな事象に関心を集中させた」。

 ④ポストコロニアルは文化論的転回を受けて、ヨーロッパ中心主義批判(ヨーロッパの地方化)などの貢献はあったが、基本的にミクロ化を受け継いでいて、「大きな物語」を回避する傾向があった。

 ⑤グローバル・ヒストリーがこのミクロ化を批判して出てきた。これには「トップダウン型」と「ボトムアップ型」があるが、後者のグローバル・ヒストリーでは、ミクロな文化史が統合されてきている。

 ⑥それでも、このグローバル・ヒストリーも進歩主義やヨーロッパ中心主義を乗り越えることはできず、ビッグ・ヒストリーやディープ・ヒストリーにそれを乗り越えることが期待されている。

 このように欧米での世界史の最新の「作法」の変遷をきれいに整理して紹介しているわけです。そして、「終わりに」において、日本については、以上の欧米の歴史の「作法」がタイムラグを持って「受容」されてきているとしています。

 非常に明快な議論なのですが、いくつか疑問を感じます。

 何よりも初めに疑問に思うのは、ポストモダンとポストコロニアルが世界史認識とどういう関係にあるのかという点です。ここが明確になっていないのです。とくに「文化論的転回のなかでの世界史認識を提供してくれている」のがポストコロニアルだとの事ですが、結局はポストコロニアルは「大きな物語」を回避しているとされているのですね。

 次の疑問は、ここで言われている「現代歴史学」には属さないけれど、実際に世界史を書いた人たちは問題にならないのかということです。カー、ホブズボウム、マクニールなどは、「現代歴史学」には属さないけれど、重要な成果をあげている。最近のベイリは、ポストモダンやポストコロニアルを取り込みつつ、グロ-バル・ヒストリーを掲げているけど、ホブズボウムなどを基礎にしているわけです。上の①から⑥まで最新の「作法」が次々と推移してきているように論じられていますが、実際に世界史を構想する際には、①から⑥までの「作法」は重層的に重なっていて、①を捨てて②へ、②を卒業して③へ、などという具合にはいかないのではないかと思います。①や②は乗りこえられて無くなったのではありません。乗り越えられたとするために、かえって①や②が不十分に理解されているのではないでしょうか。ちなみにランケやマルクスらの理解には違和感があって、ランケはたんなる「民族の興亡史」ではありませんし、マルクス自身は「一国的な継起的な諸段階」を構想したのではないのではないでしょうか。

 もう一つの疑問は、日本での「受容」という問題です。過去にもヨーロッパの世界史の「作法」を日本で「受容」してきましたが、近年については、まだであるとされているようです。ここに示された欧米での「現代歴史学」の世界史認識の最新の「作法」を「受容」して、日本でも世界史を構想しなさいと聞えます。しかし、19世紀は別として、戦後は、一方的な「受容」ではなく、日本ないしは東アジア独自の観点からの世界史の構想も試みられてきたのではないでしょうか。上原専禄や江口朴郎等によって提起され、それの継続発展も試みられていると思います。読者としては、日本での世界史実践はどういう世界史認識のもとにどう展開してきて、それは欧米の世界史認識とどのように関係するのかという逆の議論もしてほしかったところです。

 全体として、欧米の先端的議論の礼賛のようにも見えてしまいます。1950-60年代の欧米礼賛が、2000年代に復活しているのではないでしょうか。全体的にポストモダンの風潮の元でのグローバル化のなかで、旧来の世界史の見方が「古臭く」なったように見えて、新奇な理論というか新奇な議論が注目されている。そういう議論が欧米で次々と打ち出されて、それらが「輸入」されて来ているのだと思います。そういう時代なのだろうけど、それをまた「受容」するというのもどうでしょうか。これまで何をやってきたのかというふうにもみえます。

 さて、この論文を『世界史とは何か』を考える本巻の中でどう読むべきなのでしょうか。率直な感想は、これは、小川論文と同じように、自分で世界史を構想し記述した(しようとする)人の話ではないなということです。

小谷:私は、執筆陣にある偏りがあるように思います。小川論文の後半、長谷川論文、粟屋論文、三成論文など、取り上げている文献がかなり重なります。つまり学説史に関しては、ある考えを共有しているような印象があります。方法論的にはそうでないかもしれませんが。

南塚:第一巻として「世界史とは何か」を我々に投げかけているのですが、この後講座が続く中で、どのような指導性を発揮するものなのだろう、という疑問を持ちました。

渡邊:こうしたシリーズにおいては、第一巻の意味は非常に大きいと思います。

小谷:第二シリーズでは、第三シリーズの第一巻のような内容は、別巻に出ています。そうした形の方が良かったのかもしれません。

渡邊:今回、第一巻としたのは、執筆陣の共通理解とする意図があったということでしょうか。それはともかくとして、「問題群」論文をまとめていかがでしょうか。

小谷:長谷川論文は、「問題群」論文に入るべきものではないように感じます。小川論文の後半部の延長上にあるように思われるからです。また、大塚久雄の「横倒しの世界史」という亡霊のようなものが出て来るのには、驚かされました。

南塚:私もこの部分の理解には疑問を持ちました。

4. 「焦点」論文

渡邊:次に「焦点」論文に移ります。まず、吉岡潤さんの「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解」を、山崎さんにお願いします。

山崎:この論文は、体制転換後ポーランドにおける、数々の「歴史論争」の展開を題材に、ヨーロッパにおける歴史認識の分断の様を明らかにしたものです。社会主義体制の解体後に、新たなナショナル・ヒストリーの構築と、「ヨーロッパ・スタンダード」からのそれへの批判が同時並行で進む中、社会主義時代におけるものを含めた三つの「規格」を設定して、それぞれの主張、力学の遷移を分析の対象にしています。三つの「規格」とは、すなわち、「ソ連規格」(社会主義期の公式の歴史叙述)、「民族の規格」(抑圧されていたナショナル・ヒストリーが再構築されたもの)、「EU規格」(普遍的価値、善隣関係の強調)の三つになります。80年の戒厳令をめぐる第一次「過去をめぐる戦争」(90年代)により、「ソ連規格」が排除され、円卓会議をめぐる第二次「過去をめぐる戦争」(00年代初頭)により、「EU規格」と「民族の規格」が対立、後者が大きな力を持つに至ります。そしてその後「法と公正」政権下に、「民族の規格」が力を持ち続けているということになります。そして、こうした過去の政治資源化は、ヨーロッパで広く見られるものであると指摘されています。

 歴史認識をめぐるこうした変化は、社会主義体制下に置かれていた東欧諸国ではある程度普遍的に見られるものだと思います。ただ、ここでいう「規格」間の力関係は、過去のあり方(特に第二次大戦中)や体制転換後の政治過程を反映して、多様でもあると思われます。また、歴史認識をめぐる問題は、多くの地域で、歴史教育の問題と絡めて取り上げられることが多いと思いますが、本稿では歴史教育に関しては、記述の対象となっていません。故になおのこと、歴史教育との関係には関心を惹かれました。また、近隣諸国との「歴史家対話」なども契機たりうるものだと思いますが、ポーランドの場合、そうした試みが歴史認識に何らかの変化をもたらしたのかも知りたい点です。そもそも人々の歴史意識は、どのように形成されるものでしょうか?公教育、家庭教育、各種メディア・・・。インターネット・コミュニケーションの発達した現在、歴史意識が共有される回路も多様化していますが、このことは問題に影響を与えうるものでしょうか。論文の最後に、「道義上の動機」に留まらず、「現実政治上の動機」から、「和解」への道を開くべきであると述べられているのですが、では、具体的にどのような戦略が成り立つのか、考えてゆかなければならない点だと思います。

小谷:ポーランドに即してみれば、いささか図式的には感じられますが、分かり易いものだと思います。

南塚:ドイツ・ポーランド間の歴史教科書問題なども出てくるのかと思いました。

渡邊:次に進みましょう。「焦点」論文から取り上げる二本目は、笠原十九司さんの「東アジアの歴史認識対立と対話への道」です。小谷さん、お願いします。

小谷:笠原論考に書かれていることに、私はまったく異論はありません。以下の二点は笠原論考にかかわる個人的感想です。一つは、サンフランシスコ平和条約に関わる朝鮮人(・韓国人)・台湾人に対する「戦後補償」あるいは「救済政策」の欠如の問題です。これがすべての問題の根底にあると思います。すなわち、朝鮮人・台湾人BC級戦犯、従軍慰安婦・徴用工、朝鮮人・台湾人被爆者などの問題です。これらの点には触れるべきではないかと思います。

 もう一つは、東アジアにおける現実政治と歴史研究の間の乖離の問題です。日本における歴史研究において、グローバル・ヒストリーやトランスナショナル・ヒストリーといったことが喧伝される中で、東アジアの現実政治の場ではナショナル・ヒストリーが圧倒的な力を持っています。この両者の乖離について少しでも理論的に考察する努力が求められているのではないかと思います。「国境の越え方」を考える前に、国境が厳然と存在するという状況の中で何ができるのかを考えることが求められているのではないでしょうか。例えば、「国境論」(「固有の領土」批判を含めて)は有効性を持つのではないかと思います。

藤田:シベリアに取り残された朝鮮出身者や、サハリンに残された日本人として扱われていた朝鮮の人々、北朝鮮への帰国者と同行した日本女性で朝鮮籍を取りながら日本国籍の回復が認められずに無国籍状態となった人々の問題があります。そうした点を盛り込むことができれば、まさに世界史となるのだと思います。

小谷:中国残留孤児と異なり、北朝鮮残留孤児の問題は完全に盲点になっていますね。

南塚:東ヨーロッパも東アジアも、国にとどまらずもっと広く議論を進めても良かったかもしれません。

渡邊:次に、勝山元照さんの「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る」について、藤田さんお願いします。

藤田: 2006年、世界史未履修問題の発覚、「高校生にとり世界史は暗記地獄」の現実が問題化したのをきっかけにはじまった世界史教育改革の取り組みは、2018年新高等学校学習指導要綱(新指導要領)によって、現行の高校地理歴史科は2022年度から日本史と世界史を一体化した「歴史総合」と「地理総合」(各二単位)必修、「世界史探求」・「日本史探求」・「地理探求」(各三単位)から選択履修の新制度への変更に決着しました。新しい高校歴史教育の方向性には、小川幸司さんら世界史現場教師の[知識詰め込み型]学習の克服・モノトーンな学習形態の是正という反省とあらたな授業構想が反映しており、勝山元照さんは新制度を「生徒の市民としての自己形成に資する『自分の頭で考え、自分の言葉で表現する』歴史学習の実現にある」(307頁)として評価し、神戸大学付属高校における「歴史総合」授業の取り組みや自らの授業プランを紹介しています。

 神戸大付属高校の「歴史総合」授業は「主題的単元学習」とよばれ、「二つの世界大戦」など6つの単元を設定して単元ごとに、課題の設定→歴史的展開→主題学習(生徒自身による考察と同一意見の生徒の班ごとにさらに検討を重ねて班の意見を発表し他の班と質疑討論する)の形で進行し、段階ごとに学習テーマが提示されています。グローバル(世界)・リージョナル(東アジア)・ナショナル(日本)・ローカル(神戸)の四層の視点からなる「歴史総合」の工夫もされており、諸事項を学習した生徒たち自身の歴史解釈を試みさせようとする「歴史総合」の授業は、受講生から「共に学びあえる」「面白い」「深い」との評価を得た点では成功でありました。しかし「二つの世界大戦」の単元における諸事項や主題学習における「戦争を回避できた時点」のテーマ設定を見る限り、この授業は戦争と民衆の関連を問う歴史より国際政治学的考察が勝っている感が否めません。ここには「これまでの歴史教育が戦争の原因・経過・結果ばかり教えてきたことを反省し、回避する選択肢はあったのか、暴力に抵抗する方法はあったのかなどといったことについても考えてみたほうがよい」(65頁)との小川さんの反省が反映しています。しかし小川さんの反省には戦争関連の様々な民衆資料が乏しかった頃の困難さが影響しており、民衆資料が多様で豊富になっている上に、世界中の人びとが境界を超えて移動し、働き、交流しているなかで戦争が民衆を様々な形で苦しめると同時に民衆の抵抗も国家・民族を超えて多様な形で発展している今日においては、戦争と民衆の関係を真正面から問うことなしには現代史は不可能でしょう。

 勝山さんが自己の「歴史総合」プランにおいて、「現代のグローバル化の下で、孤独や不安を抱える生徒が増加しているが、生徒の内面世界と歴史学習との間には、ある種の隔たりが存在しており、この隔たりを克服し「自分ごと」の歴史に転換することは、歴史アマチュアとしての市民的形成にとって極めて重要である。生徒の知的好奇心のみに依拠せず、生活意識・社会意識と結びついた「歴史との対話」をどう実現するか」(317頁)と述べているのが注目されます。「歴史総合」科目の充実は現場教師の「世界の中の日本」についての認識の深化に掛かっているのです。

渡邊:第一巻全体を見ても、今までの議論を振り返っても、歴史教育の比重が非常に大きいのがわかります。個々の論点を深める「焦点」論文には、7つの論文がありますが、具体的に取り上げたのは3論文です。ジェンダー史や感染症の歴史学などを取り上げているその他の論文に関してはいかがでしょうか。

南塚:ジェンダー史に関しては、ポストモダンの中でどのように研究が進んで来たのかを明らかにしています。ジェンダーの視点が世界史の展開をどう理解するのか、ジェンダーの視点から世界史をどう構成するのか、といった点がきちんと整理されていると思います。ただ、ジェンダー論を基礎にすると、どういった世界史を描けるのか、世界史をどう変更させていくのかという点も、投げかけてもらえていればいいのだがと感じました。サバルタンに関しても勉強になりました。これはポストモダンの中で考えようという方向のものですね。これも、サバルタンの視点から世界の歴史を見るとどうなるのかが欲しいなと思います。

小谷:それならいいのですが、今のサバルタン研究はそういったものにはなっていないと思います。本来のサバルタン研究は、インドのマルクス主義歴史研究者たちの始めた民衆史です。途中から、アメリカのポストモダニスト、特にスピヴァクが関与してから性格が変化し、民衆への関心を失ってしまったと思います。

藤田:現在のコロナ禍の中で、非正規のシングルマザーたちが、失業、貧困から路頭に迷う。これは、ジェンダーの問題とサバルタンの問題を両方内包しています。タリバンの女性差別にも問題がありますが、タリバン自体がサバルタンの立場に置かれているのでもあります。加害者の中にも、ジェンダーの問題、サバルタンの問題がつながっているのです。そのように読み取ることが重要になっているのだと思います。

南塚:ジェンダーの問題、サバルタンの問題、まさに世界史の構造の問題だと思います。環境の問題に関しては、おそらくもう少しスケールの大きな議論が求められていたのではないかと思います。専門に埋没している感が否めません。飯島さんの感染症の論文に関しては、世界史という趣旨に合っていると思います。

渡邊:コラムに関してはどうでしょう。

木畑:コラムも吉嶺さん、川島さんなど高校の教員に数多く執筆してもらっています。

5. まとめ

渡邊:それでは、第一巻の総まとめを南塚さんにお願いします。

南塚:本巻の多くの論文がポストモダンを強く意識しています。このラインで、全体史としてどのような「世界史」が書けるのか、それを示してほしかったと思います。ポストモダンで世界史の部分的なものは書けます。しかし全体像にはなりにくい。それを克服しようというのがグローバル・ヒストリーなのでしょうか。この辺りの議論は長谷川論文で試みられているようですが、いま一つピント来ません。そのところは、本巻としてはどうなのでしょうか。

 例えば、ジェンダーについての章は、ポストモダンのもとでいかに研究が進んだかを示しています。ジェンダー視線の世界史的展開、ジェンダー視線から世界史を構成する場合の鍵となる論点が示されていて教えられました。しかし、全体史には行き着きません。ジェンダー視線からの世界史の見方をもう少し具体的に示せたら大いに参考になったはずです。同じことが、サバルタンの章にも言えるように思います。それに比べると、パンデミックの章は、大変示唆の多いものであったと思います。

 思うに、グローバリゼションと冷戦崩壊の後、世界的に見て、旧来の価値基準が壊れ、よるべき知的柱が消えてしまいました。混迷の時代です。そこへ、ポストモダン以下の思考様式が広がりました。そして、欧米を中心に、新しい歴史論、新奇な議論がつぎつぎと現れました。本書の論稿の多くはそれらを取り入れようということですが、欧米礼賛の復活でなければいいのですが。

 本巻は、1990年代以降、「世界史」の盛り上がりがあるとみているようです。というのなら、日本での「世界史」の取り組み(研究も教育も)はどう進んでいるのか、それは諸外国の動きとどうつながっているとみるべきなのかを、一方的に欧米の目から日本を見るというのではなくて、教えてほしかった。シリーズ『日本の中の世界史』(岩波書店)などのわれわれの動きは、どこに位置づけられるのでしょうか。われわれは、大塚久雄、上原専禄、江口朴郎、カー、ホブズボウム、ベイリなどのラインで世界史を考えてきているはずなので、「現代歴史学」から外れていることはたしかですね。

 最後に、本巻も、これまでの「岩波講座」と同じように、相互の連携のない独立論文の集積なのかと考えてしまいました。本巻のタイトルは、「世界史とは何か」なのだけれど、この巻は読者になにを訴えたかったのでしょうか。

小谷:確かにこの第一巻全体として、何を言いたかったのかは、わからないところがあります。

渡邊:袖の文章に、「専門家だけではない一般市民の歴史実践という観点から分析する」とあります。そうした分析ができているでしょうか。

小谷:その点が小川さんのもっとも言いたいことなのだと思います。歴史家だけが歴史を認識しているのではなく、一般市民も歴史実践をしているのだということです。この巻では、個別の問題を扱っていないのですから、具体的に分析しているわけではないですが。

南塚:一般市民の歴史実践が、世界史実践になるというのは、少し飛躍があるように感じます。ローカルな歴史実践、日本を単位にする歴史実践、世界単位の歴史実践には、どこか違うところがあるように感じるのですがね。

藤田:新宿で炊き出しをしている人々が、アフガニスタンの中村哲さんの姿と重なります。

南塚:それが世界史認識に繋がるのかもしれません。なお、世界史実践というとどうも歴史教育を念頭に置いて言われているようですね。今後の巻にも歴史教育の論文がありますね。

木畑:歴史教育を前面に押し出しているわけではありませんが、意識はしています。第一巻と第十一巻がペアになっています。この2冊が、「仕掛け」に関して扱っているものになります。第十一巻にも歴史教育の話がありますし、感染症に関しても第十一巻でも扱っています。

小谷:感染症に関しては、学習指導要領に取り上げられているのですね。

木畑:「歴史総合」の指導要領で感染症が扱われています。それが出されたのはこのコロナ禍が始まるより前の話です。

渡邊:最後に木畑さん、いかがでしょうか。

木畑:第一巻の位置付けに関してですが、全体として、小川さんの言う歴史実践を意識しています。笠原さんの論文もそうですが、歴史対話や歴史教育に一つの柱があります。さらに最近のさまざまな議論をもとに幾つかの柱を打ち出しています。それがシリーズ全体の趣旨に適っているか、またそこから世界史が読み取れるか、この点はなかなか難しさもあるかもしれません。ただ、狙いとしては、こうしたものであったと理解しています。

小谷:歴史学研究の最新潮流を追う人たちと歴史教育に取り組んでいる人たちとの間には、かなりの乖離があると思います。

木畑:実際に、教科書には新しい動向はなかなか盛り込めません。ただ最後、勝山さんの提起している「戦争を回避する選択肢はあったのか」などは、ここから油井大三郎さんの『避けられた戦争』が生まれてもいるわけです。

渡邊:この先の巻にも興味深い点があります。世界史研究所として、各巻の内容にも注目して行きたいと思います。

 以上で「座談会」を終えたいと思います。皆さん、ありがとうございました。

(「世界史の眼」No.23)

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