1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(下)
稲野強

(6)日本の出品物の評価

 ウィーン万博で評価された日本の出品物のうち、今に至るまで日本で大きな話題となっているひとつは、本稿で扱う官営富岡製糸場で製造された生糸であった。

 万博で展示された製品のうち、生糸の評判について『墺国博覧会見聞録』は、「生糸は諸国の出品にこれあり、ことに伊太利のもの最もよしといふ、当時の相場は、ほぼ百目に付、七円ばかりなり、我国の生糸も其性質は良からぬにもあらねども、製法よろしからぬ故に其売価は大に下れり、伊太利はいづれも蚕を飼ひ、糸を作る学校をたて、その理合より教ゆる故に年月を経るにしたがひ、次第に精巧になりゆくなり、…」と述べ、日本製生糸にかなり厳しい評価を下し、生糸先進国イタリアの製糸業から多くを学ぶべきことを提案している。

 それでは件の富岡製糸場産の生糸についてはどうだろうか。

 そもそも富岡製糸場は、明治政府の肝いりで創設された機械制工場(器械製糸場)であり、ヨーロッパの機械を導入し、指導者に外国人を招いて出発した。その目的は、産業の近代化を前提として、①各地から募集した工女による新技術の習得②外貨獲得を目指し、良質の生糸を大量生産すること③工女を修業後に地元に戻し、指導者として新技術を伝播させること、④さらに各地に富岡製糸場を模した器械製糸場の設立を促すことであった。このように富岡製糸場は、「伝習」を重視したから「模範工場」「伝習工場」「指南工場」と呼ばれた。

 富岡製糸場の生糸は、官営工場で作られた器械製品の代表として、これまで日本製に対して欧米で貼られた粗製乱造等のレッテルを払拭するためにも、万博で評価がとりわけ重要視されたのである。創業間もない当時まだ日本では珍しい官営工場の製品が万博に出品されるということで、製糸場の力の入れようは想像に難くない。すでに熟練の域に達している工女22人から18人が選ばれて、製造の任にあたった。工場の操業開始が明治5年10月4日で、万博に合わせて日本を出るのが翌1873(明治6)年1月30日であるから、機会をフルに稼働させてもその間わずか3か月余りしかなかったことになる。このような短期間で、どれほど高水準の生糸が当時生産されたのか疑問の余地もあるが、いずれにせよ器械力というよりも、工女の熟練度がものを言ったのは確かであろう。

 さて、ウィーン万博開始後1か月半経った6月16日に万博事務局は、出品物の審査を行い、優秀な作品には「賞」を出した。賞の出し方はパリ万博に倣っていたが、一体どのような手続きで審査が行われたのだろうか。

 その経緯を詳細に語っている日本側の資料は、『墺国博覧会報告書』である。

 それによると、審査を受ける意志のある場合、企業・個人を問わず4月30日までに26項目にわたる詳細なアンケートに回答することが求められた。出品物の審査官は、各国の出品者数に応じて選出された。例えば、オーストリア・ハンガリー二重帝国のうち、オーストリアでは出品者が、7058人、ハンガリーでは3384人で、合計1万442人であったから、審査員は12人というわけだった。出品者の総数は、4万8906人、審査官は300(一説には956)人、出品数は訳7万点だったという。日本の場合は、出品者が個人ではなく、政府だったから、この原則は当てはまらず、審査官は4人と決定された。各グループには審査長1人、副審査長2人が選出された。

 審査官は6月16日に第1回目の会合を開き、8月半ばまで2か月間にわたり出品物を審査し、8月18日にウィーン旧市街の王宮脇にあるスペイン乗馬学校でフランツ・ヨーゼフ1世臨席の下で授賞式が行われた。そこで今、賞の種類、性格などについて『墺国博覧会筆記』の記録に従って見てみよう。

(a)褒賞について

 褒賞は7種類あった。まず「第一等」は「名誉賞(Ehrendiplom)」で、「第二等」は、「進歩(Fortschritt)」「功労(Verdienst)」「雅致(Guter Geschmack)」「妙技(Kunst)」「補助(Mitarbeiter)」賞の5種類で、「第二等」には表にそれぞれの文字(独語)とギリシア・ローマの女神をあしらった図柄を刻み、裏にフランツ・ヨーゼフ1世の肖像を刻んだ銅製メダルが与えられた。「第二等」に該当するのは次のような出品物である。すなわち第1から第24グループおよび第26グループまでのうち、①過去に行われた万博以後の製作面で一層の改良が加えられたもの、または製造方法を改革した、あるいは今まで使われていなかった原料を用いたものなどには「進歩」賞(「進歩牌」)が、②作品が勝れている、優れた材料を使用している、製造物が広く流布している、優れた機械を使用している、値段が非常に安いものなどには「功労」賞が、③形・色が優れ、洗練されたものには「雅致」賞が、④第26グループの優秀作には「妙技」賞が与えられた。さらにまた⑤図画・模型の製作に従事したり、出品者を助けた者には「補助」賞がそれぞれ与えられることになった。

 ところで富岡製糸場の生糸に与えられたのが「第二等」の進歩賞であると、当時から今日まで言われてきた。日本におけるウィーン万博の根本史料の『参同紀要』も『報告書』も『筆記』もすべて、「第一等」「第二等」「第三等」と等級を区別している。だが、実は万博では、そうした等級の区別はしていない(独語の『公式報告書』参照)。等級区分は賞に関して翻訳をした当時の日本人が、賞の性格を多分理解しやすくするために付け加えたためである。  

 さて、ここで検証すべきは、「第二等」の進歩賞がどのように決定されたかである。それを判断するには審査官の講評こそ重要と思われるので、富岡製糸場の生糸を含む「第5グループ、繊維・衣料」における日本製品に関する彼らの見解を見てみよう。

(b)講評について

(あ)「博覧会第五区第四類審査官長『ハイメンダーヘ』」氏による

 彼は、個々の出品物に関する講評に先立ち、日本の生糸とヨーロッパ市場との関係について述べる。すなわち、

 日本の生糸は、不況のヨーロッパ市場で評価も高まったこともあったが、生糸の売れ行きに溺れ、製造法や品質改良を怠った上に、蚕種紙の輸出増大に目を奪われて、生糸の粗製乱造を行い、評価を下げた。その間ヨーロッパの生糸の生産力が回復したために日本の生糸の購買力は低下し輸出も急激に落ち込んだ、と、日本の生糸業のありかたに厳しい見解を示し、日本各地の製糸業について講評する。その中には「前橋、奥州、掛田、飯田、甲州、増田、越前」産生糸などがあり、いずれも詳細に吟味され、ことごとく辛い評価を受ける。

 問題を克服する方法として、彼は、

「・・・製方精しく且最も適する糸は其価も亦貴き理なれば今日本にて第一行ふべき大変革は欧州の製糸方を採用するにあり然るときは日本にて其効験の明著するや亜細亜の他国に過る必せり」と、ヨーロッパ式技術の導入による製法の改革の必要性を説いている。そしてそうした技術導入による近代化の成功例として富岡製糸場を挙げるのである。

「其証は富岡製糸所にてブリユナ氏の始めて日本生糸を以て為したる試験を見て知るべし之を見るに既に日本の糸は『セパンス』『西班牙』或は『ブルース』の最上品と位価を争ふのみならず此国にて用ふる製方を採用せば却て之に優るべしと思はる。・・・」

 ここでやや明らかになってきたのは、西欧の器械技術を導入した富岡製糸場に対する強い期待が「ハイメンダーヘ」の側にもあって、それが逆に「前橋」などに対する厳しい評価となって表れたと推測できる点である。

 図式化を恐れずに言えば、前橋製糸所は、速水堅曹が指導して生産力を挙げたが、設立当初は「民間」(元来前橋藩立、1873年1月より「小野組」の委託経営)の日本初の器械製糸場で、「イタリア式」と呼ばれる製法を用いていた。対照的に富岡製糸場は日本で初めての「官立」の大規模な器械製糸所で、フランス人ポール・ブリューナの指導による「フランス式」と呼ばれる製法を用いていた。そこで講評における優劣の評価の違いに、いわゆる企業間対立があったと考えることもできる。

 その背景には当時の日本政府が「官」による「上からの改革」路線を強力に推し進め、殖産興業政策を実効性のあるものにして行くには、海外における官営富岡製糸場の高い評価こそ、国内向けにも必要だった、という事情があった。

 その点を裏付けるように、『報告書』には富岡製糸場の審査に副総裁佐野の強い意志が反映されていると推測できる記述がある。佐野は、帰国後政府に提出した『墺国博覧会報告書』中の「蚕養部」の総論で、日本の生糸がヨーロッパ市場で信用を失った点を指摘し、国内における富岡製糸場の優秀性を力説しているからである。

「…固より人民の無知不学遠識なく眼前の小利を貪るの罪によると雖も亦政府之を制するの処置未だ其宜しきを盡さざる所あるに由らずんばあらず我政府近来大に養蚕製糸の制規を定め又仏人を雇ふて富岡に大製糸場を創し以人を雇ふて勧工寮内にも一所設けたり両所の製糸未だ欧産の良者に下ると雖も既に内国諸糸に比すれば最美にして維府博覧会の際頗る外邦人の賞鋻〔けん〕を受たり…」

さらにまた彼は、万博における各国の製品と比較してみた結果、日本製品に国際競争力をつけるために、当時の日本の産業の水準では「官」の強い指導の必要性を痛感していた。

「…平民の手に在りて製法却退すると宜く早く之を官有に復し今臣か論する所改良の行を行ひ上に記する十県の製糸場をして速に之に倣はし其他各地製糸場の表準たらしむべし・・・」

 したがって、佐野にとって「官」の指導力と実行力、権威を示し、上述の構想を実施するためにも、富岡製糸場と勧工寮の優秀性はぜひとも「産業の世界的権威である」この万博で証明してもらう必要があったわけである。

(い)「バビエール」氏の鑑定書。

 万博の「第五区第四類の審査官『エルネスト・バビュー』」は、元来中国の出品物を鑑定する役であったが、佐野が日本の出品物も審査してほしいと熱心に依頼したために、それに応じた、と述べている(佐野をはじめとする日本人関係者の審査官に対する「根回し」の努力は、「万博をめぐる人物交流史」のテーマになるだろう)。

 その「バビエール」氏の講評は、どのような基準で授賞が決定されたか、を理解する上で興味深い。

「近来日本の生糸品位次第に下りたれば能く弊害を明示し日本人をして此に注目せしめんとするに在り故に品位の下り方少なき生糸に褒賞を付与して以て訓誠とせり」

 こうしたさほど高くない評価にもかかわらず、授賞したのが宮城県の「銘金花山」だった。それは、福島県の「銘掛田」他に比べて品質の低下が酷くない、との理由であり、そこには今後努力して往時の価値を取り戻すようにという奨励の意味も込められていた。それに対して富岡製糸工場と勧工寮の表彰理由は次の通りである。

「此二製作場は日本製糸法を改正する為大緊要にして何れも同一の目的を以て並び立つ者なれば今暫く其出品の優劣を論ぜずして之に同賞を与へんことを決し欧州製糸方を学ぶ道を進むを感するの意を表せんか為進歩の賞牌を与えへたり」

 以上のことから理解される賞の規準は一定していず、ある場合には、過去の価値が評価され、ある場合には、将来性を期待されたことによっていた。それは富岡製糸場の場合にもあてはまる。すなわち賞の対象になったのは、厳密に言えば、生糸の品質ではなく、ヨーロッパ式製法を導入し、日本の製糸業の近代化に果たしている富岡製糸場の努力であったということである。しかも「バビエール」氏の講評からは、生糸の優劣の比較は日本産の間で行われているのであって、国際的な基準に照らして評価されたのではないと判断できる。

 これまで取り上げた万博の審査員の講評から、進歩賞は「過去に行われた万博以後の製作面で一層の改良が加えられたもの、または製造方法を改革した、あるいは今まで使われていなかった原料を用いたものなど」の理由であり、製造された生糸にではなく、富岡製糸場自体に与えられたことが、改めて確認されるだろう。

(c)「進歩」賞の価値について

 ちなみに、進歩賞は授賞全体の中でどれほどの価値があったのだろうか。それを示す数字によって判断してみよう。

 万博全体で名誉証は、442(内、日本は12、以下同じ)件、メダルは全体で1万5116(123)件で、そのうち進歩賞は、3024(35)件、功労賞は、8800(77)件、雅致賞は、326(1)件、妙技賞は、978(0)件、補助賞は、1988(10)件であり、「表状(Anerkennungsdiplom「表彰資格認定証」)」は1万465件と、総計2万6003(217)件、と膨大な数の賞が出品者に配られたことになる。ちなみに日本に授与された賞は、全体の0.83%で、国別の賞の数でいうと、18位で、進歩賞は全体の1.15%であった。日本が受賞した35件の進歩賞のうち、第5グループでは、富岡製糸場、勧工寮、絹織物の伊達弥助(京都)ら9件であった。

 こうした大量の賞の数から、ユッタ・ペムゼルはやや皮肉を込めてこう言う。

「メダルは非常に気前よく与えられたので、出品者の経済的・財政的損失を少なくとも一部分埋め合わせることになった」と。

 このように見てくると、「トミオカ・シルク」が万博で注目され、好評を博したという点をそのまま事実とするのは、やや無理があるように思われる。審査の講評の点からも、日本で当時あるいはその後喧伝されたほど富岡製糸場製の生糸は高水準ではなかったようだ。もちろんだからといって、万博に参加し、賞を獲得したことに意味がなかったというのではない。操業前の富岡製糸場に対して建設妨害や風評が絶えなかった中で、万博での授賞が、政府主導型産業を奨励する関係者や現場で働く工女たちに自信と名誉を与えたことは想像に難くないからである。幸田露伴が『渋沢栄一伝』(1939)でいみじくも語っているように、操業は「官業といふことの行わるゝ殆ど最初であった。然し是の如き新しい事は、首尾よく功を挙ぐるば可し、若し不成功に終れば、徒に民業を擾り、管財を費やして、公の威を損じ世の笑となるに過ぎぬ」といった不安と不信の世相を背景に出発していたからである。

(7)宣伝効果

 万博で得た「トミオ・カシルク」の評判の大きさに関して、それを日本国内に広めるのに一役買ったと思われる興味深い新聞記事があるので、その経緯と共に紹介しておこう。

 まず、『東京日日新聞』(1873年6月23日付)は、こう言う。

「伊太利国在留租税寮七等出仕渋沢君よりの来翰に、上州富岡製糸場にて、出来の生糸御廻し相成、不取敢当所其筋の者へ一見致させ、各所糸品試験の器械にて品位を調査せしに、彼国最上の生糸と同位にて、更に甲乙これ無し。彼国人も大ひに感心せし趣なり、流石に名誉の産物、殊には当節盛に勧業遊ばされければ、製糸人も勉励熟達して、終に世界第一の名品と称せられん事は期して待つべきなり。」

 次に『東京日日新聞』(1873年9月18日付)はこう言う。

「上州富岡製糸場に於て製する生糸の精良なる、能人の知る処成。既に本年墺国博覧会へ御差送り成て、列品中に陳列せられしを、墺国人這は斯未曽有品なりと、屢賞賛なしたりと、同国博覧会掛りより、横浜エクトリ、ヤンタル社へ、報告ありしとなり。依て按ふに、我四百五号に同所の生糸を伊太利国にへ送られしを、伊太利人試験ありて、同国最上の生糸と同位なりと賞せし由を掲載せしが、夫を思ひ是を見るに、富岡の製糸の世に卓越なる、実に按ふべきなり」。

 前者の記事は、生糸の本場イタリアの試験場で、器械によって検査したところイタリア産の最高品質と同等の評価を受けたというもの、後者の記事は、万博でオーストリア人が絶賛したとのことで、いずれも「トミオカ・シルク」がすでに当時ヨーロッパ人から好評を博した旨が記されている。それでは、これまで見てきた審査官の講評や実際の賞の価値と、これらの新聞記事の評価のズレは、一体どこから来ているのだろうか。どうやら、これらの記事は、ヨーロッパの、しかもイタリアという製糸業先進国の検査結果と万博という2つの権威によって「トミオカ・シルク」の名声を日本国内向けにアピールしたものだということが分かる。しかも前者の記事のニュース源が「渋沢君の来翰」であることに注目したい。

 ここで言う「渋沢君」とは、渋沢栄一の2歳年上の従兄で、1872年に「大蔵省七等出仕」に任官した渋沢喜作のことである。彼は万博当時には「日本の養蚕製糸、及び殖産興業を海外のそれと比較する」ためにイタリアに滞在していた。渋沢栄一は、1869年に大蔵省に入り、周知の通り、財務官僚として富岡製糸場の設立の立案から民間払い下げに到るまで最も深く関わっていた人物だ。一方の喜作は、過激な尊王攘夷派で、戊辰戦争では榎本武揚らと行動を共にし、新政府軍と戦い、函館で敗れたのちに獄にあったが、大赦を得て出獄し、栄一に身柄を引き取られた。失意のうちにあった喜作を大蔵省に推薦したのは栄一であり、喜作のイタリア、フランス視察の件でも栄一の尽力によるところが大きかっただろう。栄一は、喜作との関係を「一身分体」と表現しているが、喜作は終生栄一の片腕として行動した。したがって、この記事は、「官」にある喜作が、「一心同体」の栄一が深く関与している富岡製糸場の発展を宿望した事情を反映していると解釈できる。

 結局は、政府が莫大な資金を投入して設立した「官立」の、しかも操業間もなく、必要な工女の確保も思うに任せなかった未知数の多い富岡製糸場にかける政府の期待と不安が共に大きかったからこそ、日本国内向けに大きく宣伝をすることがぜひ必要だったのだろう。

 したがって、ウィーン万博は富岡製糸場の名を日本全国に、もちろんできれば貿易先の欧米にも広めるための格好の機会となったのである。その点から見れば、これは、ヨーロッパで開催された万博という権威と新聞という有用な宣伝媒体を最大限に利用して、万博のコマーシャル的要素を十分活用した戦略の一例と見なせるだろう。

(8)おわりに

 以上見てきたように、ウィーン万博における富岡製糸場の生糸の評価に関する日本の期待は、不安を抱えていた分だけ、いかに大きいものだったかが理解される。

 富岡製糸場設立の背景には、生糸の大量輸出国である中国国内の幾多の争乱による不振やヨーロッパ諸国内の蚕の伝染病の大量発生などにより、日本の蚕糸類が注目されたことがあった。だが、日本の蚕糸業は、当時輸出品の第一位にありながら、それに甘んじて生糸の粗製乱造等を繰り返したことにより欧米における評価を著しく下げ、その間隙に乗じて外国資本が導入される恐れもあったりした。そのために政府主導の改革を促進することが急務となったのである。そこで登場したのが官営富岡製糸場で、それは、政府の掲げる「殖産興業(官営模範事業)」のスローガンを体現したものであった。富岡製糸場は、フランス人技師を所長に迎え、フランス式技術を導入して短期間でウィーン万博に「トミオカ・シルク」を出品したのである。

 日本は、万博で西洋の高度な工業技術を目の当たりにし、それを貪欲に学ぶ姿勢を貫いた。そして同時に太政官布告や佐野が指摘するように、万博では日本製出品物の優秀な点を高く評価してもらい、貿易の実を上げることを重要な使命としたのである。 

 こうして富岡製糸場製生糸は、日本の近代産業の水準を見極める試金石として万博に送り込まれたが、実際は必ずしも期待していた評価を得たわけでもなかった。だが、それでも結果的に「第二等」進歩賞を得たおかげで、その賞は模範工場という「官」による「上からの改革」の輝かしい成果として日本国内では迎えられ、その栄誉は十分称えられたのである。

 富岡製糸場が得た進歩賞の内実は今日までほぼ不問に付せられていたが、ともかく近代産業社会における後進国日本にとって、万博の権威を最大限生かして宣伝効果を上げたことには成功したと言えよう。その意味でウィーン万博は、世論を誘導するために必要な宣伝とそれを支える権威が資本主義的・自由競争社会にとって必須の要素であることを、早くも明治初年のこの時期にあって如実に示したことになる。

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇渋沢栄一講述『青淵修養百話』坤、同文館、1915

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇今井幹夫『富岡製糸場の歴史と文化』みやま文庫、2006

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg. durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.26)

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「世界史の眼」 お知らせ

 「世界史の眼」No.23とNo.24に掲載された、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」」に対して、小谷汪之さんに補遺をお寄せ頂きました。本論とあわせてお読み下さい。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」・補遺

戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)はこちら、戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)はこちらです。

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『国際関係史から世界史へ』書評掲載のお知らせ

『現代史研究』67号(現代史研究会、2021年12月)に、南塚信吾編著『国際関係史から世界史へ』(ミネルヴァ書房、2020年)への小澤卓也さんによる書評が掲載されています。ぜひご覧ください。

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世界史寸評
国連地図のなかのチャゴス諸島
木畑洋一

 国際連合の機関である国連地理空間情報セクション(The United Nations Geospatial Information Section、かつては国連地図セクションThe United Nations Cartographic Sectionと呼ばれた)が作っている世界地図がある。現在インターネットで見ることができるものは2020年10月のもので、以下のサイトにある。

https://www.un.org/geospatial/content/map-world

 本稿では、この地図が一般に見られる他の世界地図と違っている一つの点を紹介してみたい。それは、インド洋の真ん中にある島嶼の帰属国名である。今手元にある世界地図帳を開いてみると、チャゴス諸島(イ)、ディエゴガルシア島(イ)と書いてある。ディエゴガルシアはチャゴス諸島のなかの一つの島であるから、ディエゴガルシアを含むチャゴス諸島を領有しているのはイギリスであるということが示されているのである。これは、市販されている他のどの世界地図でも同じことである。ところが、上記のサイトを見れば分るように、国連地理空間情報セクションの作成にかかる地図では、この島嶼について、チャゴス諸島(モーリシャス)Chagos Archipelago (Mauri)と記されており、イギリスではなく、モーリシャスに帰属することになっているのである。一体どうしたのだろうか。

 ディエゴガルシアは知る人ぞ知る島であるが、それは米国の軍事基地の所在地としてきわめて重要な島だからである。そこに置かれた基地は、湾岸戦争やアフガニスタン攻撃、イラク戦争など米国が中東地域で行った戦争できわめて大きな役割を演じた。そのため、島の名前を知る人も、島の帰属国は米国であると思いがちである。しかし、実際に領有している国はイギリスであり、米国はイギリスから島を借り受けた上で、そこに基地を建設しているのである。

 イギリスはチャゴス諸島を英領インド洋地域(British Indian Ocean Territory、略称BIOT)と呼んでいるが、BIOTが作られたのは1965年であり、米国に貸与するための協定が結ばれたのは1966年のことであった。その後、米国が基地建設に着手するまでに、チャゴス諸島に住んでいた人々は、島から放逐されて、モーリシャスやセイシェル、さらにイギリスで苦しい生活を送ることを強いられてきた。

 その問題について筆者は関心をもち、その全体的経緯と、60年代の英米交渉とについてそれぞれ論文にまとめたことがある。[1] それらで扱った時期以降も含めて、チャゴス諸島問題を簡略にまとめてみれば、以下のようになる。

 1960年代初頭、冷戦下でインド洋に軍事基地を作ろうと思っていた米国は、インド洋でのイギリス領に眼をつけた。ディエゴガルシアも早くからその候補と考えられたが、問題はイギリス帝国のなかで、チャゴス諸島はモーリシャスの一部とされていたことである。当時は脱植民地化が加速化しており、モーリシャスも独立への道をたどっていたが、チャゴス諸島の帰属をそのままにしてモーリシャスの独立が実現すれば、イギリスにはその島の利用を米国に許す権限がなくなってしまう。そこで英米両国が考えたのが、モーリシャスが独立する前にチャゴス諸島をモーリシャスから切り離し、新たなイギリス領土としてしまうことであった。こうして作られたのがBIOTである。脱植民地化に全く逆行するこの措置をモーリシャスに呑ませるために、米英両国はモーリシャスにお金を支払うことにした。こうしてBIOTを作った上で、イギリスはそれを米国に貸与したのである。

 これに伴って島から放逐された人々は、20世紀が終わる頃からその不当性を司法の場で訴えてきたが、イギリスの司法プロセスのなかで途中までは勝訴した彼らの訴えは、最終的には却下されてしまった。2012年には欧州人権裁判所も彼らの提訴を受理しないという判断を下し、解決の道は行き詰まったと思われた。しかし、モーリシャス政府が、独立時のチャゴス諸島切り離しはモーリシャスの脱植民地化を不完全なものにしたとして、国連に提訴したことにより、新たな局面が生まれることになった。2017年、国連総会はその問題についての判断を国際司法裁判所に求める決議を採択、2019年2月に国際司法裁判所は、①モーリシャスからチャゴス諸島が切り離された後、1968年にモーリシャスが独立を付与されたことは、合法的な脱植民地化であったとはいえない、②イギリスがチャゴス諸島の統治を継続したことから生じた国際法のもとでの諸結果(島から放逐された人々を島に再定住させる計画をモーリシャス政府が遂行しえないという点を含む)に鑑み、イギリスはできる限り速やかにチャゴス諸島の統治を終了させる義務を負う、という見解を公表した。

 その見解を受けて、2019年5月、国連総会は、チャゴス諸島はモーリシャスに帰属すべきであるとしてイギリスによる統治の終結を求める決議を、賛成116か国、反対6か国の大差で可決した。反対に回ったのは、イギリス、米国という当事国の他にオーストラリア、イスラエル、ハンガリー、モルディヴの諸国であり、日本は棄権した56か国のなかに含まれている。その結果、翌20年に上記の国連世界地図におけるチャゴス諸島の所属表記変更が行われたのである。

 これは、チャゴス諸島をめぐる統治の現実が変化したことは意味しない。イギリスは相変わらずBIOTとしてこの島嶼を統治し、米国は重要な基地としての利用を続けている。しかし、国連が脱植民地化という世界現代史の大きな流れにいかに関わっているかということは、ここにはよく示されている。一見短期的・現実的には効力が小さいと思われる国際司法裁判所や国連総会の判断であるが、そこで改めて確認された国際的な規範の力は長期的には強いものになっていくと考えられる。ロシアのウクライナ侵攻をめぐって国連の役割に注目が集まっている現在、国連のこうした面を紹介することの意味はあるであろう。


[1] 木畑洋一「覇権交代の陰で―ディエゴガルシアと英米関係」木畑・後藤春美編『帝国の長い影―20世紀国際秩序の変容』ミネルヴァ書房、2010;Yoichi Kibata, ”Towards ‘a new Okinawa’ in the Indian Ocean: Diego Garcia and Anglo-American relations in the 1960s”, in: Antony Best, ed., Britain’s Retreat from Empire in East Asia, 1905-1980, Abingdon, Oxon: Routledge, 2017.

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「世界史の眼」No.25(2022年4月)

「世界史の眼」4月号では、前号に続き、小谷汪之さんに、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)」を寄稿して頂きました(「(上)」はこちら)。また今号より、藤田進さんによるシリーズ「アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン」を連載します。今号では、第1回「2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察」を掲載します。さらに稲野強さんに、「1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―」をお寄せ頂きました。今号ではその前半を掲載いたします。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)

藤田進
アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン(1)
2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察

稲野強
1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)

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アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン(1)
2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察
藤田進

 2021年7月、バイデン米大統領は「我々は国家を建設するためにアフガニスタンに行ったのではない。自分たちの未来と国の運営方法を決めるのは、アフガン人だけの権利であり責任だ」[1]として、米軍を秋までにアフガニスタンから完全撤退させることを表明した。

 2001年タリバーン政権崩壊後米軍が「タリバーン掃討戦争」を開始した中で02年12月、アメリカが信任するカルダイ・アフガニスタン政府はトルクメニスタン・パキスタン両国と、中央アジアのトルクメニスタン天然ガスを輸送するためのアフガニスタン・パキスタンを経由しインドに至るパイプライン(TAPI Pipeline)を建設することで合意し、TAPI建設計画は05年アメリカが参加を表明したことで具体的に動き出した。米軍は06年頃から「くすぶる反米感情を土台に攻勢を強めはじめたタリバーン」[2]に苦戦を強いられ、タリバーンが支配するアフガニスタン南部がパイプライン通過予定地域のため、このときパイプライン建設計画も行き詰った。09年米兵3万人が増派されたがタリバーン反攻阻止につながらず、巨額の戦費拡大と米国厭戦世論の高まりのなかで11年6月オバマ米大統領は米軍撤退戦略発表を余儀なくされた。タリバーンの反攻が高まっていく中で10年6月、カルザイ・アフガニスタン政府はタリバ―ンとの和解路線を模索し始める一方、同年12月のTAPI国際建設計画協定調印を受けてアフガニスタン政府議会も12年5月同協定を承認し、15年からトルクメニスタンで開始されたTAPIパイプライン建設工事は18年2月からアフガニスタンでもスタートした。タリバーン侵攻とパイプライン建設計画が進展する中で、アメリカは2020年11月から翌21年5月にかけてドイツの仲介でタリバーンとの3度にわたる和平交渉に臨み[3]、その結果冒頭のバイデン表明に至った。

 タリバーンに対する事実上の“敗北宣言”である米軍完全撤退表明によって、20年間にわたりアメリカ主導の「アフガニスタン民主化」のもとで築かれてきたアフガニスタン政府と政府軍はにわかに崩壊の危機に直面した。8月15日、米軍が首都カブールから撤退するなかでタリバーン武装勢力が登場するや、「アフガニスタン民主化」の恩恵を受けてきたカブール住民に「タリバーンの恐怖政治」の悪夢がよみがえり、「タリバーンの支配するアフガニスタン」では人権が守られない、女性は解放されない、世界的な「テロ活動」の温床になる等々の言説が渦巻くなかで多くの人々が国外脱出へと駆り立てられ、アフガニスタンは大混乱となった。

 タリバーンがアフガニスタン政権の座につく直前に、スポークスマンのスヘイル・シャヒーンが「アフガニスタン国家権力掌握後のタリバーンにとってTAPIパイプライン建設計画を支援することは重要取り組み事項の一環である」と発言し、この発言はタリバーン政権再登場によるパイプライン建設計画の挫折を危惧してきた計画関係者を安堵させた。タリバーン新政権は諸外国経済使節団と頻繁に交渉していることが報道されており、「女性と民主主義の仇敵」と非難されてきたかつてのタリバーンとの違いが注目された。

 バイデン米大統領は米軍撤退が完了すると、タリバーン政権に対して「民主化」を要求しそれが実現するまでアフガニスタンを経済封鎖すると決定し、アメリカの経済封鎖宣言によって諸外国の支援金やNGOの寄付金・食料・医薬品支援などすべてのアフガニスタン流入が停止した。「民主化」の内容はアメリカが決めることであり、外国占領体制を打破すべくイスラム統治方式を打ち出すタリバーンにとり「民主化」実現は容易なことではない。経済封鎖が長引くにつれてアフガニスタン国民の生活のひっ迫、食料欠乏状態は悪化の一途をたどり、さらに悪いことに、人々には長期にわたる米軍攻撃や大旱魃による打撃が重くのしかかっている。経済封鎖開始から5か月の2022年初頭の極寒のアフガニスタンでは、国民全体が餓死・凍死の危険にさらされた。

 イスラム諸国政府、国連、全世界の市民からの経済封鎖非難と封鎖解除要求の圧力が強まるなかで2022年2月11日、バイデン米大統領はアメリカ国内で凍結されているアフガニスタン中央銀行の準備金70億ドルの半分の35億ドルだけをアフガニスタンにおける人道支援に使うことを許可したが、その一方で残りの35億ドルの取り扱いについて、アメリカ政府が理不尽な理屈を持ち出したことが次のように伝えられている。「2001年の米同時多発テロの遺族らがタリバーンに対する訴えを米連邦裁判所に起こし、凍結資産からの補償金支払いを求めている。この訴訟での判断に備え、残りの35億ドルの扱いは保留されるという。米政府高官は『(凍結されている)準備金は、基本的には過去20年間で米国やほかの援助国が与えた収益のようなものだ』として、人道支援に充てるのは正当性があると説明した。」[4]

 アメリカが20年をかけてもアフガニスタンで実現できなかった「民主化」要求をタリバーンに、実現できない限り経済封鎖を続けるという条件で突きつけ、さらに経済封鎖で戦争の犠牲になった住民を痛めつけた。また米軍アフガニスタン侵攻によってアフガニスタン住民の生命・生活圏を犠牲にした責任は一切問わないばかりか、アメリカの多発テロの遺族にあてるために凍結しているアフガニスタンの資産を流用した。バイデン米政権のそれらの対応は、アメリカが軍事介入失敗後に非軍事的な方法であらたにアフガニスタン介入へ踏み出していることを示唆している。

[1] 「朝日新聞」2021年8月11日

[2] 「朝日新聞」2021年7月14日

[3] 同上

[4] 2022年2月13日「朝日新聞」ワシントン=高野遼

(「世界史の眼」No.25)

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1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)
稲野強

(1)はじめに

 NHK総合テレビで放映された昨年(2021年)の大河ドラマは、渋沢栄一の生涯を扱った「青天を衝け」だった。物語の後半で、吉沢亮演ずる渋沢が、上州(現、群馬県)富岡製糸場の生糸がウィーン万国博覧会で第2等の進歩賞を獲得したことを報じる新聞記事を居合わせた人々に大声で披露する場面があった。渋沢自身が設立に深く関与していた官営富岡製糸場の生糸が国際的な評価を受けたということだから、彼の喜びは、ひとしおだったろう。それどころか、この授賞の快挙は、それからほぼ140年後の2014年6月に富岡製糸場が「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録される際に、その選考で一役買ったと類推できるほど、現代の人々の記憶に深く刻まれている。

 ところで、この賞の価値をめぐっては、日本の研究者には、第2等賞では世界に通用しない、という否定的なものもあるが、大半は、富岡製糸場の生糸が初めて世界に認識され重要視される端緒になった、あるいは「トミオカ・シルク」の名をヨーロッパ市場に轟かせた、という肯定的なものだ。ただし、賛否両論いずれの場合でも、なぜか当時の世界的水準に照らしての賞の位置づけや賞の出し方、その性格付などに関してはこれまで不問に付されていた。つまり賞の価値が、どれほど実態に即したものかは、問われないまま「トミオカ・シルク」の優秀さが動かしがたい事実として独り歩きしたとも言える。

 では、そもそも賞を価値あるものとしたのは何かと言えば、それは何よりも万博のもつ権威である。現代でも数あるコンテストの価値が、主催者の権威に負うているのと同じである。そしてさらに万博での高い評価は宣伝行為によって、国内外で広められた。富岡製糸場の場合も例外ではない。ことに明治維新後間もない時期に莫大な費用をかけて政府が設立した官営富岡製糸場の成功譚は、やはり莫大な費用を使って参加したウィーン万博の権威によって支えられたからだった。

 そこで本稿は、ウィーン万博での賞の価値や出し方を、権威と宣伝をキーワードに解き明かすことを試みるが、それと同時に万博が19世紀に誕生した意味・背景、ウィーン万博の特徴について概略述べてみたい。日本の万博参加を世界史の中に位置づけるためである。

(2)万博とは何か

 万博は、19世紀半ばにおけるロンドン開催(1851年)に端を発した巨大で先進的な産業見本市であると同時に、物と人の国際交流の場であり、「ナショナリズムの世紀」における国威発揚の場だった。またそれは帝国主義的野心の発露であり、16世紀の大航海時代以来の絶え間ない海洋進出によってヨーロッパ資本主義が世界の隅々まで支配をしているという自負心を公に開陳し、文明と歴史の進歩を誇示する格好の場でもあった。

 一方、近代産業促進の側面から見れば、万博に各国各地域から出品された製品の数々は、いずれも当時の先端技術の粋を集めて競い合うものだから、参加者は、そこから産業水準を学び、発明発見のヒントを得、貿易の実を上げると同時に、否応なく世界の序列化を目の当たりにした。まさに万博は、物質文明によるヨーロッパの優位を執拗に可視化したもので、見る者を圧倒する一大イベントだったわけである。

 片や、建築家や芸術家にとって格好の表現の場だった。例えば建築家はここでは伝統に縛られずに、創造性を駆使して自由な設計に取り組むことができた。封建的・貴族的枠組みを脱却し、経済的裏付けによる自信たっぷりな新興ブルジョワジーの開放的で自立的な進取の気性に富んだ精神がこうした建築家や芸術家の波長に合致していたと言えよう。

 また、万博は一般大衆も観客として様々に参加できる娯楽性を備えた自由で開放された空間だった。そこで人々は、しばしば日常を忘れ、お祭り気分を味わい、幻想・夢の世界に遊ぶことができた。とりわけ創意工夫を凝らした各地域の文化・伝統を重んじた多種多様の「出し物」は、娯楽性に富み、未知の異国に対する興味を増大させ、人々のグローバルな世界観を養うのに大いに貢献したのである。

 このような物質文明を誇示した万博というイベントは、富と権力を備えた「王権神授的な」王室・帝室特有の権威によって、さらにそれを利用した宗主国・植民地を問わずあらゆる階層に存在する中小権力によって支えられていた。こうして万博はヨーロッパ中心主義を体現し、その価値観は、非ヨーロッパ世界にまで浸透することになった。万博で賞を得ることは、とてつもない栄誉であったが、同時にそのようにして構築された権威のシステムに進んで組み込まれ、西洋主義の「先兵」になることを意味した。

(3)ウィーン万博とは

 オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都ウィーンで万国博覧会が開催されたのは、1873年5月のことである。この万博は、ドイツ語圏で最初のものであり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位25年を記念して開催された。それはまた「ヨーロッパきっての名門」ハプスブルク家の威信をかけて、これまでのロンドン・パリでの交互開催にくさびを打ち込む意志の表れでもあった。

 まずウィーン万博の開催の歴史的背景を見てみると、19世紀後半のオーストリアの政治状況が深く絡んでいることが分かる。帝国内部では1848年革命を起点として、諸地域・諸民族による帝国からの分離運動が活発化し、それに対する反動として皇帝権威の復活を基礎とした、いわゆる新絶対主義体制(「バッハ体制」)の下で、中央集権化が図られた。だが、帝国は、外交・軍事的にはクリミア戦争での失態、イタリア、続いてプロイセンとの戦争での手痛い敗北を経て、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立で中東欧に新たな体制の枠組みを構築したものの、凋落傾向に歯止めをかけることができなかった。

 その意味で、万博は帝国内外の混乱状態を鎮静化させ、かつてこの多民族帝国を数百年にわたり保持してきた帝国の威信を取り戻す絶好の機会であった。既にこの時代、ハプスブルク帝国の威信の復活は、もはや幻想だったが、万博は、これまで維持してきた独特の皇帝崇拝ないしは王朝への尊崇の念を人々に喚起させる格好の機会でもあった。もちろん莫大な費用がかかる万博を主宰する政府=権力者の方も、国民大衆の政策に対する不満を祝祭の挙行で反らそうと考えていたし、あるいは万博をこの帝国固有の諸民族の一体化の証とすることを目論んでいただろう。

 また、都市改造の波も万博開催に一役買った。当時、帝国内外の不安定な政治状況下にあったとは言え、商工業の急速な発達にともない19世紀後半にヨーロッパ全体で起こった都市化は、この帝国をも巻き込み、大都市を中心に空前の建築ブームを引き起こした。それは史上「会社設立期(グリュンダーツァイト)」と呼ばれる時期に対応していた。ウィーンにおいてもすでに19世紀前半以来、人口の増加と企業活動の活発化によって市域は市壁に囲まれた従来の中世都市の枠を破って拡大していたから、市壁を取り壊し、そこに様々な建築物を新たに建てる試みがなされ、また都市交通網の整備が図られた。取り壊された跡に王宮を含む旧市街地(内市)を取り囲むリンクシュトラーセと呼ばれる環状道路ができ、その道路に沿って短期間のうちに大学、教会、オペラ座、宮廷劇場、国会議事堂、美術史美術館、新市庁舎や証券取引所が次々に建設された。それらの建築物の数々は、さながら建築様式の見本市の観を呈していたが、こうした都市改造ブームの延長線上に万博があったのである。

(4)万博会場

 万博の会場に選ばれたのは、ウィーン市の郊外、北西から南東に流れるドナウ川本流とドナウ運河に挟まれたプラータ―と呼ばれるかつての広大な宮廷の狩猟場で、当時は市民に開放されていた公園だった。その鬱蒼とした森を切り開いて充てられた約233万631平方メートルの敷地に大規模な会場を作り、市街地と結ぶ鉄道を敷設し、ドナウ川と共に人的・物的輸送手段を確保した。この万博に参加した宗主国は35、植民地や属領を含めると70か国ほどだった。

 万博の主要建築物としては、先端にハプスブルク家の王冠を戴いた高さ90メートル、直径100メートルの「ロートゥンデ」と呼ばれる巨大な鉄製ドームが建てられた。そしてそれを中心にして東西に延びる回廊の両側に16ずつの展示場を持つ産業宮が配置された。その構造は、あたかも世界地図を象徴しているとは言え、「ロートゥンデ」内では主催国オーストリアと隣接するドイツが展示場を占め、ドイツ系オーストリアこそが東西文明の接点であり、ここで東西文明が融合するというオーストリアの自負心が可視された。 

 そのため、オーストリアの西にある諸国は、「ロートゥンデ」の西側に、東にある諸国はその東側にあったから、回廊の最西端には南北アメリカとブラジルの展示場が配され、日本の展示場は中国、シャム(タイ)、トルコのそれと共に最東端に配されることになった。さらにこの会場ではパリの万博の例に倣って、産業宮の周囲に185棟のパビリオンが点在していた。参加各国・地域はパビリオンにおいて自国の伝統文化のイメージを強調できた。万博のショー化、娯楽的要素の拡大・多様化の様は創意工夫を凝らしたパビリオンによって可視化された。中でも中東、アジア、アフリカのパビリオンは、訪れた人々のエキゾチシズムを刺激し、人々は居ながらにして「世界旅行」を楽しむことができた。池に太鼓橋を架けた日本庭園に茶屋、鳥居と神社からなる日本のパビリオンも人気を博したひとつだった。

 展示場は、テーマによって大きく26グループに分かれ、さらに1グループが5から10のセクションに細かく分類されていた。セクションは全体で174あり、産業の情報交換、技術革新の様子がただちに理解されるようになっていた。

 万博の会期は5月から10月末までの半年間で、その間ウィーンでのコレラの発生や株の暴落、いわゆる「証券取引所の危機」で一時的には、万博どころではないという空気が社会全体を覆っていたようだが、それでも前回のパリ万博の1千万人には及ばなかったものの、722万人、当時のウィーンの人口の9倍弱の入場者を受け入れたのである。

 なお、万博開催中の6月3日に奇しくも岩倉使節団一行がウィーンに到着した。一行はすでに1年半にわたって米欧周遊中で、2週間の当地滞在中にしばしば万博会場を訪れている。佐賀藩出身の書記官久米邦武は『米欧回覧実記』の中で、会場があまりにも広く、見るべきものが多過ぎて、「華然タル光輝ニ心ヲ奪ハレ、精緻ナル妙工ニ神ヲ耗ス」と精魂尽きた様子を吐露しながらも、万博の意義についてこう述べる。「之ヲ要スルニ衆邦ノ億兆、其精神ヲ鐘メタル、英華ヲ擢テ、此内ニ陳列シタレハ、物トシテ珍ナラサルハナリ、奇ナラサルハナシ」と。そして周遊中に万博に巡り合った喜びを「幸ニ墺国ニ万国博覧会ヲ開クニ逢ヒ、其場ニ観テ、昨日ノ目撃ヲ再検シ、未見ノ諸工産ヲ実閲シタルハ、此紀行ヲ結フニ、大ヒニ力ヲ得タリ」と表現している。さらに彼は、万博を「太平ノ戦争ニテ、開明ノ世ニ最モ要務ノ事ナレハ、深ク注意スヘキモノナリ」と高く評価する。この「太平ノ戦争」の思いは、帰国後に開催される内国勧業博覧会で結実することになる。使節団一行は6月18日にウィーンを発ち、次の目的地スイスのチューリッヒに向かった。

(5)日本の万博参加

 さて、日本政府に初めてオーストリア・ハンガリー二重帝国政府からウィーン万博(当時の呼び方では、「維納万国博覧会」)への参加の要請があったのは、明治4年2月5日(明治5年まで太陰暦)だった。その後10か月以上熟慮した上で日本政府は12月14日には参加を決定し、大隈重信参議が、「博覧会事務総裁」に任命されたが、実際の万博準備に関する事務の総責任者は「博覧会事務副総裁」の佐野常民だった(後に日本赤十字社総裁)。彼は、大隈と同じ佐賀藩出身であり、1867年のパリ万博に単独で参加した佐賀藩の代表としてすでに万博を経験していた。だが政府としての万博参加は初めての経験だったために、万博の規模、出品物の輸送方法、展示方法を把握し、有効な出品物の選定、決定をどのように行うべきか非常に苦慮したようである。(その様子は、『大日本外交文書』の中の「外国博覧会参加ニ関スル件」や「維納博覧会ニ関スル件」に詳述されている)。

 万博への出品物を各地から収集するために、明治5年1月、太政官は全国に布告を発した。万博に日本が誇る伝統的な物産・工芸品を出品し、日本の産業の水準を世界の人々に認識してもらい、それを交易すれば国益が図られるといった点を強調することで国民に各地の物産を出品するように促したのである。

 また佐野は明治5月25日に博覧会理事官に任命された機会に、太政官布告に沿って万博に参加する目的を5点にまとめ、それを関係者に徹底させることにした。ここでは万博への参加が、諸外国の優れた産業技術・文化を吸収することによって、日本の経済的・文化的発展に役立て、また貿易促進のための研究・調査を行う好機と捉えられている(これは「伝習生」=技術者による技術習得で実を結ぶことになる)。だがそれと同時にそこには国際社会の仲間入りを果たそうとする積極的な姿勢が見られる。それに加えて日本の優れた点を積極的にアピールすること、日本の製品が勝れていることを評価してもらい、それによって貿易の実を挙げることが訴えられている。

 ただし、政府が発した意欲的な布告にもかかわらず、万博の主旨が一般国民に理解できなかったために各地の物産の収集は思うに任せなかった。結局出品物は政府がすべて買い上げることで収集が進められ、11月20日までには予定の収集はすべて終わった。出品物には、伝統的に優れた工芸品を中心に手工業製品や天然資源が選ばれ、幼稚な機械製品は極力排されることになった。興味深いことに、万博顧問格のアレキサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男)の発案で「西洋の」見物人の目を引くために東洋趣味的を強調した巨大な展示物が出品されることになった。そのために用意されたのが名古屋城の天守閣の屋根に輝いていた金の鯱、東京・谷中の五重塔の雛形、直径8尺の大太鼓、2間の提灯、張りぼての実物大の鎌倉の大仏だった。これらの出品物は集積された東京湯島聖堂大成殿で一般公開されたが、これは将来の博物館設立の原型となる記念碑的イベントだった。出品物は、1873(明治6)年1月30日〔明治6年から太陽暦〕に万博関係者が乗るフランスの郵船「ファーズ」号によって横浜港から運び出され、3月21日にアドリア海に面したオーストリアのトリエステ港に着いたのである。

(以下次号)

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg.durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.25)

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木畑洋一「人類史に逆行するウクライナ侵略」掲載のお知らせ

 本研究所研究員の木畑洋一さんの「人類史に逆行するウクライナ侵略」という記事が、『しんぶん赤旗』3月10日号に掲載されました。その記事は以下のurlで見られます。

https://blog.goo.ne.jp/uo4/e/caa0aa3c2cc72604fc33876b7a9987c0

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世界史寸評
東西の狭間に落ち込むセルビア
山崎信一

 昨月来、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが世界を駆け巡っている。メディアを賑わせる難民の大群、破壊される都市の様子など、30年前の旧ユーゴスラヴィア紛争を思い起こさせる。そうした中、世界各地で、ロシアに抗議しウクライナに連帯するデモや集会が開催される中、バルカン半島の小国セルビアでは、3月初頭にロシアを支持する大きなデモが行われ、このことは日本でも報道された。そして、こちらは報道されなかったが、ウクライナとの連帯を呼びかけるデモや集会もまた、日々開かれている。ウクライナの戦争は、セルビア社会内部の分断や亀裂を可視化し、その亀裂を深めるものとして作用しているとも言える。

 戦争に対するセルビア政府の対応も、引き裂かれるセルビア社会を反映してか、必ずしも一貫したものではない。侵攻の後、長時間の国家安全保障会議の後で出された政府声明は、ウクライナの主権と領土保全を支持する一方、ヨーロッパの国としては極めて例外的に、ロシアに対する制裁を一切行わないことを述べている。その後もこうした態度は続き、国連特別総会でのロシア非難の決議には賛成する一方、ロシアに制裁を課すことなく、通商や航空便運航は維持し続けている。

 セルビア人は、親ロシア感情の強い人々だと言われる。2019年1月にプーチン大統領がセルビアを訪問した際には、ロシアとプーチンを支持する集会に予想を超える大群衆が集まった。親ロシア感情の要因として、同じスラヴ人であり同じ東方正教の文化を共有する、伝統的なものであるといった説明が良くなされるが、これは単純すぎる見方だろう。今回の戦争に関して言えば、ロシア人もウクライナ人もともにスラヴ人であり大多数は東方正教徒である。歴史に目を向けても、確かに19世紀から第一次大戦までは、ロシア帝国が当時のセルビア王国の庇護者として振る舞ってはいた。しかしその後、セルビアがユーゴスラヴィアの一部となった後、20世紀の大半の期間においては、両者が緊密な関係にあったと言うのは無理があるだろう。むしろ、セルビア人の間に親ロシア意識が広がったのは、主として21世紀に入ってからのことであると考えられる。親ロシア感情は、実際の文化的・民族的親近感から生じているというよりは、欧米に対する反感の裏返しとして現れたものと考えるべきであろう。ユーゴスラヴィア紛争における「セルビア悪玉論」への反発、コソヴォ紛争におけるNATO軍によるセルビア各地への空爆、2008年にアルバニア人が多数派を占めるコソヴォの独立を西側各国が承認したことなどにより強まった欧米諸国への反感が、親ロシアという形をとって表出したとも考えられるのである。それに際しては、2012年から政権の座にある現ヴチッチ大統領の所属するセルビア進歩党政権により、政府系メディアなどを用いた大規模な親ロシア・キャンペーンが展開されたことも重要だろう。自らの加害を含めて過去を直視するのではなく、欧米の被害者という面を強調し、それを政府への支持に繋げようとしたとも言える。

 セルビアは、EU加盟候補国として加盟交渉を進める一方で、かつて自国領であったコソヴォの独立を認めない立場から、国連安保理で拒否権を持つロシアへの接近を進めてきた。EU圏を最大の貿易相手としながら、エネルギーはロシアに依存している。一帯一路を掲げる中国への接近も図っているが、中国との関係が、どちらかと言えば通商やインフラ投資などのドライな経済的結びつきの側面が強いのに対して、人々の親ロシア意識はかなりエモーショナルなものになっており、政権としてもそれを無視できない。セルビアでは4月初めに大統領選と議会選が予定されている。親ロシア色の強い民族主義野党と親西欧野党のウクライナ戦争をめぐる分裂もあり、現職大統領と現政権の勝利が見込まれているが、問題は、いつまでこのどっち付かずの立場を維持できるかだろう。

 東西両陣営の中間でどっち付かずの国だったと言えば、かつてセルビアもその一部であった、チトー率いる社会主義時代のユーゴスラヴィアの「非同盟外交」が想起されるかもしれない。しかし当時のユーゴスラヴィアが、第三世界の国々の間でリーダーシップを取り、積極的に「非同盟」を掲げたのに対し、残念ながらセルビアは、そうした外交的なイニシアティヴを取る意思も能力も欠いている。戦争が長期化すれば、EUからはロシア制裁への同調を強く求められることになるだろう。一方で、ロシアとの対立を深めることは、国内的にも難しい。現在のセルビアには、ひたすら戦争と対立の終結を願う以上のことはできそうにない。

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世界史寸評・投稿
ウクライナ侵攻と非武装・中立
砂山清(元ジャーナリスト)

 今回のロシアのウクライナ侵攻に関連して、「非武装・中立」ということを改めて考えさせられました。

 私の意見はとても単純です。まず、戦争だけは、どんなことがあっても絶対したくないと考えます。そのための手段は、まず中立宣言をすることです。そして戦争をしないのだから軍隊は無用とすることです。では、他国から理不尽な武力攻撃を受けたらどうするか、もちろん戦争をしないのだから、ぎりぎりの外交でその攻撃をやめさせる努力をする、それでだめなら、降伏するしかないと考えます。戦争だけは絶対したくないですから。

 それで、降伏した後は、どうするか。ここが一番難しいところです。私は、ここでガンジーやマンデラに学んで、傀儡政権に対して非暴力・不服従を貫くのがいいと考えます。これは歴史の中でインドの独立や、南アフリカの人種差別撤廃で現実に実証されていることです。このような「非武装・中立」を貫くためには、日ごろから、軍備に使うお金を援助や親善や文化的交流に使っておくことが必要です。もし、ロシア(あるいは中国?)のような理不尽な国に侵略されても、国際世論が味方になるよう、外交と情報収集にお金を使っておくわけです。

 そもそも軍備による抑止力という考え方は、論理的に矛盾していると考えます。結局戦争になった場合、今回のNATO諸国のように、大国であっても軍備ではウクライナのような国を救えないわけです。またフィンランドやスウェーデンのような国は、中立宣言をしたうえで軍備をしていますが、その軍隊は何のためにあるのか分からない状況にあります。

 「非武装・中立」は幻想だという人が多いと思いますが、現に世界にはコスタリカのように「非武装・中立」を実践している国もあります。しかも米国の裏庭と言われる中米にあってコスタリカはかなりうまくやっているのです。1949年に制定されたコスタリカ憲法は、その第12条において、「恒久制度としての軍隊は廃止する」とうたいました。1982年には、モンヘ大統領によって「中立宣言」が発せられ、1987年には、中米の紛争を平和的に解決したとして、アリアス大統領はノーベル平和賞を授与されたほどです。

 ウクライナも初めから非武装で中立の宣言をしていれば、今度の戦争はなかったと思います。その点でゼレンスキー大統領は完全に読みを誤ったと考えます。そしてこれは日本の将来の安全保障を考える時、「他山の石」になると言えるのではないだろうか。

 実際に戦争が始まってしまった今、状況は困難さを深めてしまいましたが、たとえ今からでもウクライナがロシアの言うことを受け入れ、「非武装・中立」宣言をしてはどうでしょうか。ロシアがキエフを占領、ゼレンスキー大統領を追い出し傀儡政権を作ったとしても、ウクライナ国民のロシアに対する非暴力・不服従運動がある限り(これはあると私は思う)、市街戦がなくともウクライナは「ロシアのもの」にはならないでしょう。そうなれば、プーチンは何のためにウクライナ侵攻を企てたのか、ロシア国民にも説明がつかず、ロシアの厭戦気分は高まるばかりでしょう。                     

(2022年3月4日記)

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