世界選手権やワールドカップなど、最近数ヶ月の間に開催されたスポーツの世界大会を皆さんはいくつご存じだろうか。水泳、女子サッカー、陸上競技、バドミントン、バスケットボール、ラグビーなど、なじみのあるスポーツだけでも数多くあったが、評者が惜しくも出場を逃したローンボウルズのような超マイナースポーツまで含めれば、ずいぶん多くの世界大会が開催された。いっぽう、夏と言えば、インターハイや高校野球といった高校生の大会をはじめとする児童・生徒及び学生の大会も数多く行われる。異常な猛暑のなかでの開催がとくに問題視された今夏であったが、裏を返せば、多くの耳目を集めるスポーツイベントが定着しているということでもある。いまやe-スポーツが国際オリンピック委員会のお墨付きを得る時代である。従来型のスポーツに全く関心や接点が無かった人でさえ、スポーツに触れたり見聞きしたりする機会は確実に高まっている。おおぜいの人の行動と感情に影響し、大量のモノがやりとりされ、相当な額のカネが動く…好むと好まざるとにかかわらず、スポーツはわれわれが生きる現代社会のなかで無視しえない存在である。
「ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー」の一書として刊行されたデイビッド・G・マコーム著・中房敏朗/ウエイン・ジュリアン訳『スポーツの世界史』は、その帯で「スポーツはなぜ、かくも巨大なグローバル文化に成長しえたのか」とうたうとおり、スポーツの今日的状況を世界史の観点から解説する。五章立ての内容は、序章「語義と理論」、第1章「運動の必然性とスポーツが生まれる理由」、第2章「近代スポーツの誕生」、第3章「スポーツのグローバル化」、第4章「グローバルスポーツの諸問題」である。
序章では手短に基本的な用語や概念を整理し、本書の構成を紹介する。原著では”chapter 1″であるが、分量及び内容から考えても、これを「序章」とし、原著の”chapter2″以降を「第1章」から始めていく本書の章立ては妥当であろう。
第1章では、「スポーツが生まれる理由」つまり「なぜスポーツがあるのか」という根源的な問いに取り組み、著者なりの見取り図が開陳される。人間には「運動への衝動」が生まれつき備わっており、そこに労働、戦争、宗教、観る楽しみ、地理、エロスといった二次的な影響が加わることで、輪郭と形態が与えられてスポーツが造形された、という。そこには先史時代の壁画から20世紀の映画までさまざまな逸話があふれている。「実証的な裏付けがないとか、本質主義に陥っているとかと批判してみても生産的ではないだろう。これは一つの思考実験であり、私たちもこの実験に参加して楽しめばよい」という訳者の意見(248頁)に評者もおおむね同意するいっぽうで、そうした批判が想定されることにこそ歴史学のなかのスポーツ史の位相が示唆されているようにも思える。いずれにしてもスポーツ史のありかたについて考えをめぐらせる格好の材料にはちがいない。
第2章では、章題どおり「近代スポーツの誕生」について、18世紀終わり頃から20世紀前半にかけての時期に発展した、競馬、クリケット、野球、ゴルフ、テニス、卓球、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボール、バスケットボール、バレーボール、水泳、スキー、アイスホッケー、陸上競技、ボクシング、自動車レースなどが概観される。アマチュアリズムとプロフェッショナリズムそしてスポーツの組織化に関する歴史的経緯についても触れられる。いずれも発祥の地でありかつ盛んに行なわれてきたイギリスとアメリカ合衆国に関する叙述が中心となる。近代スポーツとしての各競技の黎明期について手短に知ることができるのはありがたい。
つづく第3章と第4章では、第2章と同じく19世紀以降現代に至るまでの時期を扱いながらも、スポーツのグローバル化に論点を絞って、その歴史的過程と現代的問題について論じられる。まず第3章では、野球、クリケット、サッカーのグローバルな展開から説き起こして、YMCAが果たした役割、米中国交回復の逸話(いわゆるピンポン外交)、アメリカズカップ(ヨット)、そして世界最大のスポーツイベントである近代オリンピックに話が進む。また第4章では、さらに現在に近い問題がとりあげられる。アマチュアリズムの衰退、スポーツ界で不当ないし不利な状況に置かれた人種/民族/女性の問題、テクノロジーと医学の功罪、ドーピング問題の〈闇〉の深さ、そして商業化である。アメリカ合衆国を中心とする欧米の状況やオリンピックの事例がもっぱら引用されるが、現在に至る国際スポーツの実相をしっかりとらえることができる。
全体を通していえば、古代あるいは先史時代から現代まで世界各地から渉猟された逸話をたんなる蘊蓄の羅列にしない、語りの巧みさと魅力は見逃せない。また、「スポーツは戦争を終わらせないし、スポーツを通じた友好関係が戦争を抑止するという有力な証拠もない。」(9頁)や「現代の世界では、スポーツそのものが宗教と見なしうるのに、伝統的な信仰を持つ多くの人はそのようには考えず、神への冒涜とさえ考えているのは皮肉なこと…」(45頁)といった言からは、スポーツに対する愛着とうらはらに冷静にスポーツを見定めようとするスタンスもうかがえる。
とりわけ読み応えがあるのは、第3、4章で論じられるスポーツのグローバル化とその問題である。上述のように欧米とりわけアメリカ合衆国のスポーツに叙述が偏るきらいはあるが、20世紀以降のグローバルなスポーツ界において同国および同国におけるスポーツが重要な位置を占めること、そこにグローバル・スポーツの光と影があらわに見てとれることはまちがいない。世界史的観点から捉えた20世紀スポーツにかかる見取り図を把握するために、とても有用な章である。
他方で、西洋人が現地人に無理強いするだけでなく現地人が進んでスポーツを受け入れた事例があったことをも強調する(「訳者解説」247頁)とはいえ、西洋=能動的/非西洋=受動的という古典的ステレオタイプの印象につながりかねない叙述はいささか気になる。例えば、「植民地時代以前のアフリカではいったいどんなスポーツがおこなわれていたのかは、ほとんど知られていない。…先住民は徒競走、レスリング、カヌー競漕、跳躍、舞踊などで楽しんでいたようだが、新しい西洋のスポーツがこれらにとって代わった」(143頁)と述べるが、東アフリカの伝統的な生活において独特の身体運動文化があったことや、西洋人が設立した学校や組織において西洋スポーツと現地に根ざす運動や遊戯の混在するさまがみられたことは、原著刊行時までにも学界で知られるところであった[1]。「歴史の本流に焦点を当てて、支流を削ぎ落とした分、全体的な見通しについては見やすくなっている」(「訳者解説」246頁)反面、見えにくくなった部分があることを想定して読むことも大切である。
また原著刊行(2004年)から時間が経ったがゆえに、原文の時制のまま訳されていることから、そのご現在までに事態が大きく展開したテーマについては―もちろん著者や訳者の責任ではないが―ときおりとまどう。例えば、人種、ジェンダー、ドーピングにかかる問題は、この20年ほどの間に、技術・知見・理論の進歩のみならず、さまざまな出来事が起こり、議論が交わされ、状況がずいぶん変わったところもある(あいにく旧態依然の部分も少なくないが)。本書はあくまで21世紀に入ったばかりの時点で世界史的観点からスポーツとその歴史を概観した書であるということをときどき思い出しながら読まねばなるまい。
いっぽう、原著を読みやすい翻訳でもって紹介するために、訳者による細やかな配慮が尽くされ工夫が凝らされていることも強調したい。原著には図版が全く載っていないが、本書には内容に関連する図版が多数盛り込まれ、文字情報だけでは難しいイメージづくりを助ける。やや叙述の長い節には原著に無い小見出しを加えることでトピックの転換を読者に示す。もっぱらアメリカ合衆国そしてイギリスという英米2国に偏った本書の欠点を補うべく、19世紀末以来スポーツのグローバル化を推し進めたフランスの主導的な役割について―それと対照的なイギリスの態度とあわせて―「訳者解説」で補足説明されているのもありがたい。さらに、原著には事実誤認、誤記ないし誤植が少なからず見受けられるが、それらには丁寧に注記が付けられたり修正が施されたりしている。
著者マコームは、「学生、学者、専門職、あるいはその他の人々でも、ほとんど生まれながらにしてスポーツに関心をもっているような人とそうでない人に分けられる」と述べ、日常的な自己紹介の場面においてスポーツ史家である自分に対して「おぉ!」と関心をもってくれるような人に向けて本書を書いたという(i-ii頁)。しかし、評者としては、スポーツやその歴史に全く関心がなくても世界史、グローバル・ヒストリー、世界情勢に関心のある人には、ぜひ本書を手にとってもらいたい。そして、本書に何らかの物足りなさを感じる方、あるいはもっとほりさげて探りたいという方は、訳者の一人が編者として名を連ねる(たまたま)同名の論文集[2]、あるいは長年スポーツ史研究をリードしてきた大家W・ヴァンプルーが著した浩瀚の書[3]を読み進めるのもよいだろう。いっそう立体感をもって〈世界史のなかのスポーツ〉を捉えることができるはずである。
[1] たとえば、John Bale & Joe Sang, Kenyan Running: Movement Culture, Geography and Global Change, London(Frank Cass), 1996, など。
[2] 坂上康博/中房敏朗/石井昌幸/高嶋航編著『スポーツの世界史』、一色出版、2018年。
[3] W・ヴァンプルー(角敦子訳)『スポーツの歴史』原書房、2022年。
(「世界史の眼」No.43)