書評:細谷雄一「危機の30年」
酒井啓子

 リベラル国際秩序はもとより、国際秩序そのものが終焉の危機に瀕していることは、国際政治研究者の間のみならず、現実に国際政治の舞台で活躍する政治家の間でも、認めざるを得ない点である。2026年初めにカナダのマーク・カーニー首相が「ルールに基づく国際秩序」は終わったと明言したのがその一例だが、なによりもリベラル国際秩序の推進役であった米国自体が、トランプ政権が成立して以降、国際秩序の破壊者となっている。

 こうした国際秩序が崩壊した現代国際政治をどう読みとくか、という大きな課題は、現在、おそらくほとんどの国際政治研究者にとって、その頭を悩ませている問いであり、タフな「頭の体操」となっていると言えよう。その分、多くの研究書、解説本が近年刊行されている。中西寛氏、飯田敬輔氏ら日本国際政治学会理事長経験者の国際政治学の第一人者が編んだ『漂流するリベラル国際秩序』(2024年、日経BP)や、上智、一橋大学で教鞭をとった国際政治学者、納家政嗣氏が編んだ『自由主義的国際秩序は崩壊するのか』(2021年、勁草書房)などがその代表的な著作である。国際政治、社会科学系の諸学会はいずれも学会を挙げてこの問題に取り組む傾向がみられ、日本政治学会は2026年前期の年報の特集テーマを「リベラル国際秩序の揺らぎ 再考」としている(https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480867520/)。

 本書もまた、そうした問題意識に取り組もうとする意欲作であり、著者はイギリスを中心とした国際政治史を研究する国際政治学者である。メディアのみならず、政府に対するアドバイザー的役割も果たすなど、第一線で活躍している。

 『漂流するリベラル国際秩序』や『自由主義的国際秩序は崩壊するのか』などの先行研究が多くの議論を米中関係や安全保障論に集中させているのに対して、本書は、著者の専門に即して、外交史から議論を起こす。その特徴は、戦間期のヨーロッパ国際政治を描いたE.H.カーの有名な著作『危機の20年』をモデルにし、その視角を援用して現代国際政治を論じている点である。

 世界大の戦争後のユートピア的国際認識とリアリズム的国際認識が二項対立的にせめぎあうなかで、ユートピア観の行き過ぎに対する揺り戻しのような形で世界が剥き出しのリアリズムに傾斜、それが危機的状況を生んだ、というカーの戦間期国際政治分析に倣って、著者が論じるのは、唯一残った自由主義陣営の勝者としての超大国アメリカがリーダーシップを取る国際的平和維持、国際協調、という冷戦後の世界が、トランプ政権のもとでのアメリカの一国主義、プーチンのウクライナへの軍事侵攻といった形でリアリズム政治に転換していった過程である。ポスト冷戦期の1990年代から2010年代末にかけて、「西側諸国においてはユートピアニズムが浸透し、平和と国際協調を楽観的に想定」し、アメリカの優越性を前提とした「民主主義」「新自由主義」「グローバリズム」の時代となるという、「西側諸国」にとっての「光」の時代だったが、そのユートピアニズムこそ、カーが批判した「レッセフェール思想がイギリスを越えて普遍的な原理として拡散していった現実」が、今現在に至って再びグローバルに拡大し、歪みをもたらす根源であった、とする。

 冷戦期から冷戦後にかけての流れを論述するにあたり、どのように欧米ロシアの各国首脳たちや知識人たちの間で国際協調の試みが進められてきたか、その記録を丹念になぞるところが、外交史研究者としての腕の見せどころだろう。その過程で、冷戦末期の自由主義圏で拡大した新自由主義、レッセフェール資本主義が、冷戦の終焉に際して「新自由主義のイデオロギーの勝利」と映り、旧共産圏における敗北主義的な認識を与えたと論じる。そこに、その後の旧ソ連圏と西側諸国の緊張の背景を見る指摘は、興味深い。

 本書の後半は、主としてウクライナ侵攻に至る過程の分析に半分以上が費やされており、特に冷戦後「NATOの東への拡大」という懸念がどのようにロシア側に抱かれたか、それをヨーロッパ側がどのように払拭しようとしたか、あるいは実質的に進めたか、について、政治指導者とその周辺の知識人の言説から分析している。そこでは、「ソ連が解体したことによってウクライナをめぐる問題がソ連という国内問題から、ヨーロッパの秩序全体に直結する国際問題へと変貌」したことが、見て取れる。言語的制約からロシア語、ウクライナ語などの現地語資料が用いられていないのは残念だが、ヨーロッパ、特にドイツ、イギリスの一次資料が幅広く分析材料として用いられている。

 米ロ、EUといった国際政治の主要アクターに焦点を絞った国際政治分析としては、わかりやすく、読みやすい。ただ、中東諸国を中心とした「非西側先進国」を専門とする評者としては、著者のグローバル・ノース中心の「国際政治」分析の視点には疑問に感じる点が少なくない。

 最大の問題は、本書が「ポスト冷戦時代の国際政治の諸問題を俯瞰」し、「これからの世界の行方を展望」するとしながら、ポスト冷戦期あるいは冷戦期の非欧米・非旧ソ連圏の、いわゆるグローバル・サウスでの国際的変動については、全くといっていいほど触れていない点である。国際政治のありかたを大きく変動させたのは、9.11とその後の米国の「対テロ戦争」だと評者は認識しているが、それについての論述は全くと言ってよいほど、ない。著者は、ユートピア的国際協調に赤信号がともったのはロシアのウクライナ侵攻だとしているが、それ以前にイラク戦争で欧米の亀裂が生じ、また「アメリカの戦争」の非合法性が露呈したといった側面について、無視している。アメリカが国連決議なしにイラクに軍事侵攻して政権交代を強要したことは、プーチンのロシアがウクライナに侵攻する以前の、他国に対する国家主権侵害を武力行使によって行った事例であることは、疑いがない。ロシアが「現状変更」型だとすれば、イラクの政権を武力で「変更」したアメリカもまた、「現状変更」型であるはずだ。

 そもそも本書は、国際政治が欧米の大国の政策決定者によって左右される、という古典的国際政治の枠組みで議論を進めているため、グローバル・サウスでの事象についての理解はかなり単純である。たとえば冷戦終結によって、「永劫に続くと思われていた世界における対立の数々が驚くほど短い期間に収束していった」としている。確かに、ソ連のアフガニスタンからの撤退はそうかもしれない。東西対立が融和に向かうのと並行して、ソ連軍がアフガニスタンから撤退したからだ。とはいえ、その後アフガニスタンで内戦が深刻化し、ターリバーン政権の登場につながったことを考えると、「対立の数々が収束」とは到底言えない。また、イラン・イラク戦争の終結は、もともとそれが冷戦の代理戦争ではなかったため、その終結には異なる理由を考慮する必要がある。

 根幹を辿れば、グローバル・サウスの国々にとって冷戦の東西対立は、往々にして植民地支配期の対外関係を反映している。たとえば、湾岸アラブ産油国は英国植民地下で国家として成立した後、英撤退後は英国に代わってグローバル・パワーの役割を継承した米国に庇護を求め、米国を必要とし続けてきた。またアラブ諸国は1950年代以降イスラエルとの対立関係が理由で反米政策をとってきたが、その結果としてソ連の支援を仰ぐ必要があった。冷戦にすべての紛争、対立の原因があったわけではなく、それ以前のロシアを含むヨーロッパの非ヨーロッパに対する帝国主義的支配に根本的原因があったからこそ、冷戦後も非欧米諸国においては紛争が絶えないのである。

 本書には、そうした視点は反映されていない。本書は、「民主主義や新自由主義の思想の拡大は、中国やロシアのような権威主義体制の諸国にとっては安全保障上の脅威と映る」とまとめているが、権威主義体制をとる非欧米諸国すべてが「民主主義」を理由に反米の立場を取っているのではなく、米国による「植民地的支配」こそが「安全保障上の脅威」と認識されている。イランと米国の対立は、その好例であるが、本書の議論の立て方では、イラン戦争の構図は説明できない。

 一方で、単純に冷戦に原因を帰するのではなく、冷戦以前の帝国のありかたを巡る歴史研究が現代の国際政治を把握するために重要であるとの議論は、近年少なからずさかんである。国際政治研究の分野でも、『旧ソ連圏の分離紛争』(名古屋大学出版会、2026年)を上程した松里公孝氏のように、パトロン国家(ロシア)、ホスト国家(ウクライナ)、分離主義主体(ドンバスなど、ウクライナのロシア系住民地域の分離主義者)と、異なるレベルの国家・準国家間関係を分析することで、より精緻な議論を確立しているものもある。それらの研究と比較すると、本書は、特に後半において、ウクライナ問題を結局プーチンの覇権意識、旧ソ連圏に対する領土的拡張主義に原因を帰する短絡的な理解に終わっている点で、物足りなさを禁じ得ない。

 最後に、本書が土台としているE.H.カーの「危機の20年」議論だが、すでにカーを読み直す試みは、最近複数なされている。佐藤史郎・三牧聖子・清水耕介による『E.H.カーを読む』(ナカニシヤ出版、2022年)はその代表的な著作だが、本書で一切触れられていない。本書は、カーの議論の前提に「ユートピアニズムとリアリズムの二項対立」を置きつつ、前者に対するカーの批判的姿勢を強調している。そしてそれに続いて第二次大戦後にはモーゲンソーなどのリアリズム国際政治学者が影響力を持ち、冷戦後に再びユートピアニズムに振れる、という揺れを指摘する。一方で、佐藤・三牧・清水は、カーの議論が必ずしも二項対立ではなく、むしろ「国際連盟を通じた国際秩序変革への希望を捨てて」いない(三牧、「「危機の20年」の国際政治観」(年報政治学Ⅰ)、2008年)ばかりか、ポスト実証主義的な側面もみられる、としている。上述した本書のグローバル・ノース中心視座に関しても、『E.H.カーを読む』の三牧は、カーが導き出した結論として「英米の政治家と知識人がうたいあげる「平和」は、自分たちにとって都合のよい国際秩序を神聖化し、劣位の国に押し付ける、強者のユートピアニズムである」と述べているが、こうしたカーの「読み方」を前提とすれば、ユートピアニズムであれリアリズムであれ、グローバル・ノースのみに焦点を絞る本書のような議論こそが、カーによって批判されるのではないだろうか。

 こうしたカーの多面性に光を当てる議論に対して、本書がどのような応対をするのか、興味がそそられるところである。

(「世界史の眼」No.80)

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